ポケモン小説wiki
名無しの4Vクリムガン(仮) 真実を以って、理想に伝う ‐ 後編

/名無しの4Vクリムガン(仮) 真実を以って、理想に伝う ‐ 後編

 
名無しの4∨クリムガン プロローグ】 
名無しの4∨クリムガン ヤグルマの森で】  
名無しの4∨クリムガン シッポウシティのムーランド
名無しの4∨クリムガン 人間とポケモンの非構成的証明の法則
名無しの4∨クリムガン 夕陽の色の生存戦略テロル
名無しの4Vクリムガン おれがシキジカを殺した理由
名無しの4Vクリムガン ほらあなポケモンの貴重な食事風景
名無しの4Vクリムガン ruddish dragon crush
名無しの4Vクリムガン Utility Umbrella
名無しの4Vクリムガン どけタブンネ! そいつ殺せない!
名無しの4Vクリムガン Id
【[[名無しの4Vクリムガン Actio libera in causa ]]】
名無しの4Vクリムガン Beg for your life
名無しの4Vクリムガン あくタイプの当然
名無しの4Vクリムガン 100日後に死ぬ人間
名無しの4Vクリムガン Pollyanna
名無しの4Vクリムガン(仮) 真実を以って、理想に伝う ‐ 前編
 




    名無しの4Vクリムガン(仮) エピローグ‐b




「なにこれ」
 タブンネとしてジョーイの業務をひと通り終えたあと、わたしが休憩室に入ると、なんだか散らかっていた。
 開いたままのクレヨンの箱。たくさんすり減った黒色のクレヨン。不自然にきれいな状態の白い紙がたくさん。丸められた紙。子ども用の音の出る文字盤。
 休憩室には事件現場のようなシチュエーションができあがっていたのだ。
「クリムガンね。もう……」
 こんなところでお絵描きして、しかも片づけないという大胆さ。ほかには考えられない。そもそもしばらく前にわたしが紙とクレヨンをプレゼントしたばかりである。犯人は明らかだった。今度はいつの間に帰ってきていたのかしら?
 悪態をつきながら現場を片づける。ここはスタッフの休憩室だから、散らかったままでは具合が悪い。
 散らばったクレヨンを箱に戻し、床についた色を雑巾で拭きとる。意図して床にクレヨンを走らせたわけではないのだろう、汚れはそれほどでもない。なのに擦っても擦ってもなかなか落ちない。強く擦っていると、まるで隠蔽中のようだと思った。
 自分が惨めになる覚えもないので、クレヨンの汚れは一旦そのままにして、紙に手を伸ばす。
 ひっくり返すと、なにか書かれていた。
「タブンネへ」
 え?
 まさか、わたし宛てとは思わなかったので、驚いて動きが止まってしまった。よくよく見ると、かわいげのある絵が描かれていた。ふわふわしたおおきい雲が、水色でひとつ。そのまわりに星とハートが描かれている。雲のなかには謎のような文章。
「タブンネを生んだのはおれだった……」
 スペースは、まだまだたくさん空いていた。他にも文章が続きそうな余白だ。
 もう続きは書かないのだろうか。
 絵のほうから、本来書かれるはずであったわたし宛ての内容を読み取ろうとして――やめた。
 この手紙の、最初の状態。
 裏返しだったのだ。白紙の面が上になっていたのだから、裏返しということだ。裏返しにされていたのは、「まだ見てほしくないから」じゃないか?
 ならば悠長に読んでいる時間はない。
 顔が、思わずにっこりしてしまう。そして、わたしは現場を元に戻してゆく。
 開いたままのクレヨンの箱。たくさんすり減った黒色のクレヨン。不自然にきれいな状態の白い紙がたくさん。丸められた紙。子ども用の音の出る文字盤。
 犯人の完全犯罪に期待して、わたしは休憩室を出た。





    B‐1




 おれのライフスタイルは自明である。腹が減ったら食うものを探し、あとは寝床を探して寝る。
 Nは、街でおれの話を聞いたという。
 Nというのは人間のオスで、このところワンダーブリッジに住みつきはじめたクリムガンの噂を聞いてやってきたらしい。そう、まるでいい香りのする風のように、Nはふらりと現れた。
 ワンダーブリッジでの時間は、最低な気分のまま過ごす日々だった。ここは、おれが生まれた場所。おれの目が初めて捉えた世界。そのバイアスを加味しても、ここから見える夕陽なんてけっこうしょうもない眺めでしかなくて、例えばスカイアローブリッジの見事な夕焼けなんかに比べれば、たいして美しくもなく、そんなものはぜんぜん慰めでもなかった。そういう場所でおれは生まれた。元トレーナーの少年と、ウルガモスに見守られながら。
 なにも知らないおれにとっては、そんな場所のことさえ、美しく思われたのだ。
 きみと話がしたいと言って、Nは自分の名を名乗った。Nはおれに簡単な挨拶をして、人間とポケモンについての自虐的で穏当で上手なジョークを言い、そして「僕はポケモンと話すことができるんだよ」と言った。
 ポケモンという種々さまざまな生き物の文法を理解する人間。
 気に食わない事柄に対する大抵の終着点――こういうことがあってもまあ悪くはない――に、あらかじめ先回りして、おれはうなずいた。
 最初はちょっとした世間話からはじまり、Nのこと(Nの暮らしのこと、プラズマ団のこと、ポケモンとの関わりのこと)、おれのこと(おれについて言うことはあんまりない)を話して、いつの間にか話題はイッシュの政治議論に移っていた。人間の知能がポケモンから見てどれほどのものかなど知らないが、Nの頭がいいことはすぐに感じることができた。寛容で、現実的な物の見方をするけれど、決して野心や理想がないわけではない。
 Nは、イッシュはもっと強力に民主主義へ舵を取るべきだと考えているようだった。
 おれは、ぜったいぜったいぜったい絶対王政。
 王政主義のよいところは、たったひとりの善良で優れた人間がそこにいれば社会をよい方向に進められるというところだ。それは確率の問題だった。過半数が善良で正しい判断ができることを信じるよりも、選ばれたたったひとりが善良で優秀である可能性のほうが信頼できるということだ。でも、民主主義は最良を得るための手段ではなく、最悪を回避するための体制だとNは主張した。そのへんから雲行きは怪しくなっていたのだ。
 きみは状況が見えていない、とNは言った。それからおれの暮らしに言及し、とうとうおれの性質にまで攻撃をはじめたのだ。
「つまり、きみの主張はきみの幼児性、独善さの象徴なんだね。きみは怜悧で知識もある。論理的な思考もあるし、それゆえに本来失われがちなもの――なんと言えばいいかな――イメージを現実に変える力、ある種の狂気のようなものも持っている。それなのにきみは、だれに言われたわけでもないのに無関係という生き方にとどまっている。みんながきみに接したときに第一に抱く感覚、たとえばきみの破壊的な性向やヒステリックなわかりづらさ、それはきみの本質ではなくて、きみの世界に対する恐れからくるものなんじゃないか。僕が思うに、きみは孤独でなんて生きるべきではない」
 そうしていつかは、きみはほんとうはもっと強くなれる、とか言うつもりなんだろうか。トレーナー気取りで!
 おれがどんなふうに生きてゆこうが、おれの勝手だろう?
 でも、おれのなかでこんな考えがついて出る。「おれは相手をとても乱雑に扱うし、なにをするかわからないから、おれと関わるのは怖いってみんなが感じてるぞ」って……
「うるさいな! もう!」
 そんなことを言うのは、もちろんおれじゃない。
 実のところ、おれの頭のなかにはいつの頃からか変なヤツが住み着いていた。
 そいつは、自分のことを「ポケルス」と言った。





    A‐1




 この前、ポケモンセンターでタブンネと会う約束をしていた。そのときは約束の二回目で、一回目はべつにおもしろくもなかったから、行かなくてもいいかなと思っていたんだけど、気が変わった。ある日おれのなかに現れたおれじゃないおれ――ポケルスについて、タブンネやジョーイならなにかわかるんじゃないかと思ったのだ。
「つまりポケルスは侵略しにきた宇宙人なのかもしれない」
 ――イッシュを侵略しにきた宇宙人? おまえはそんなことをほんとうに信じてるのか? だいたい、おまえはタブンネのことが好きになってしまって、それを認められないから、自分のなかのだれかのせいにしたいだけだろう。
「おれはタブンネのことが好きなのか?」
 ――そうなのかもしれない。
「まさか」
 ――とにかくおれはタブンネのことをどうするつもりなんだ?
「それはこれから考える」
 ポケモンセンターに着くと、おれは診察室でジョーイに電飾で繋がれた。ジョーイの指示で、タブンネがおれに質問する。
 タブンネはおれに絵を見せたのだ。あまり上手とも思えない抽象画みたいなヤツをまとめた本だ。それがなにに見えるか、それについてどう思うかを答えるのだ。
 首を吊った人間に見える。嬉しそう。
 ソーセージのおばけ。
 大きく開いた口。黒いから虫歯だらけで、歯医者はいやだなあと思う。
 天使。まるでタブンネみたいだ。いや、そうでもないよ。タブンネに見えるっていうのは嘘だ。
 誰も住んでいない家。
 彗星の尻尾に住んでるミネズミたちのまつげ。
 おれは早々に飽きてくる。それらの絵は見ようと思えばなんにだって見える気がするし、単にじっと座ってばかりで退屈だった。
 こういう絵をどこから集めてくるんだろう? もしかしてジョーイが描いてるのか? だったらヤバいなあ、とか思った。なぜって、やたらとグロテスクな絵が多いのだ。ポケモンセンターの激務はフラストレーションを蓄積するのかもしれない。たとえば手術なんかのとき、ポケモンの腹を開いたら急にその中身をぐちゃぐちゃにしたくなったりするんだろうか? 
 もう終わりにしましょう、とジョーイが言った。
 タブンネは残りの絵をしまって、おれの頭に貼りついた電飾をプチプチ剥がした。
「絵がどんなふうに見えるかというのは、あんまり意味のないことなの」と、タブンネは言った。「重要なのは、その絵を見て考えるときに脳のどんな部分がはたらいているか、ということ」
 それを、おれの頭についていた、あのピリピリしびれる電飾で見ているということらしい。
 おれの脳みその()()を、タブンネは光る白い板のうえに貼りつけた。
「ここが前頭葉。簡単にいえば、思考を司る脳の部分。あなたの場合……ほら、見て。ぜんぜん線がないでしょう。ほとんど動いてないの」
「おれって死んでるのか?」
「でも一方で、この無意識を司る部分は一般的なクリムガンよりも活発に動いてる。それに……不思議なことに、この先の走り方のパターンは前頭葉に見られるパターンなの」
「つまり、どういうことだ?」と、おれは尋ねた。
「また次の月もここに来てね」と、タブンネは言った。「ジョーイが、もっとデータを取りたいって」
 約束はしかねるところだ。おれがその約束を覚えていて、その気があったなら、そうなる確率は高まるとしか言えない。バイト代くらいなら出してもいいって言ってるよとタブンネは言い、こっちから文句を言わないとバイト代ももらえないなんてブラックだとおれは言った。タブンネは、そうね、って笑っていた。
「バイト代はいらないから、知りたいことがあるんだ」
「あら、なあに?」
「宇宙の生き物について知りたい。たとえば、おれの頭に入りこんでしまうようなちいさな宇宙人なんているのか?」
「宇宙のウイルスや微生物について知られてることはいろいろとあるけど」タブンネは口元に手を当てながら首を傾げた。「生き物も、それだってウイルスみたいなものよ。宇宙人、なんてものにはわたしもお目にかかったことがないからね」
 あなたたち、この星の生き物は除いて、という意味だけど。タブンネは微笑んだ。
「でも、どうしてそんなことが知りたいの?」
 おれはあらかじめ用意しておいた嘘をついた。「最近、物語を作ろうと思ってるんだ。宇宙人についての話。参考にできないかと思って」
 どんなお話なの、とタブンネが興味もなさそうに訊くから、興味がないなら訊かなければいいのにと思いながら、おれはでっちあげを喋る。
「人間の子どもが、誕生日に宇宙船をもらって宇宙を旅する。で、旅の途中にちいさな宇宙人が頭のなかに取り憑いて、仲良くなる。でもその宇宙人は人間に寄生して拡がって、人間を滅ぼす宇宙人だったことがわかるんだ。仲良くなったのに、地上に帰ったらそいつは拡がって世界を滅ぼしてしまう。なにより、このままだと友達を殺してしまう。それで、どうするかいっしょに考えるんだ」
「それで、最後はどうなるの?」
「母星に戻る前にいっしょに死ぬんだよ」
 それは冴えたやり方ね、とタブンネは興味もなさそうに言った。おれはポケモンセンターを出た。
 コーティーという名の天才が、コーティーをコーティーと名づけた。
 コーティーは十六歳の人間のメスだ。コーティーの仕事は宇宙生命体を調べること。飛ばした無人衛星が持ち帰った遠い惑星の欠片にくっついたちいさなちいさなウイルスを見つけて、それに自分の名前をつけた。そのちいさなウイルス――つまりコーティーは、意識も感情も持たないただのウイルスにすぎないが、たったひとつの機能があった。彼らは知的生命体の脳みそに寄生して、繋ぎ直し、宿主の思考を自分たちの繁殖に都合のよいものに変えることができるのだ。つまりは、生物を脳みそごと乗っ取るというわけだ。彼らに寄生された生物は恋をする。誰かれかまわずいっしょに寝たくなるのだ。彼らは粘膜接触によって生物から生物へと拡大してゆく。
 ポケルスはコーティーにぴったりだった。
「つまり、ポケルスはおれを乗っ取ってしまって、おれになろうとしてるわけだな」
 ――まったくひどい話だよ。
「でも考えようによってはそれも悪くないかもしれない。()()なんかいなくなったってそんなの」
 ――どうしておれはそんなふうに思うんだ?
「まあ、それはそもそもほんとうにポケルスがコーティーだったらの話だけど」
 ――でも、そうだったら大変だ。
「ほんとうに大変か? べつにいいんじゃないか」
 ――クリムガンはどうするんだろう?
「あーあ。おれ、おれのことさえなにもわからないな」
 夕暮れのワンダーブリッジ。生まれついた場所のそんな風景を見て、おれはべつになんともない。
 ――なあ、クリムガンはなんでワルビルを見捨てたんだろう。
「違う。おれがやったんじゃない。たぶんポケルスのせいだろ」
 ――それっておれがやったってことだろう?
「だからほんとうはおれがやった」
 ――ごめん。
「謝る必要さえないんだよ。なぜって、おれが自分でやっただけだから」
 ――ワルビルはおれのことを嫌いになったのか?
「そうだな。もう二度と会えないんだ」
 ――でも、そうじゃないかもしれない。
「みんなの心が見えればいいのに。昔のおれだったらなあ」
 どうしてそんなふうに思うんだろう? おれは、昔のおれとだってたいして違わないのに。
 スワンナの残骸。
 このところのおれは、腹が減ったらワンダーブリッジの空を飛んでいるスワンナを落として食べている。飛んでいるスワンナを見て、「落ちたらいいなあ」と思いながら強く睨みつけると、体が痺れたみたいに動きがおかしくなって、そのとおりになるのだ。
 夕陽の色が、燃えるようにあたりを染めている。ワンダーブリッジに腰を下ろしながら、おれはその懐かしさを眺めている。
 いや、そんなのは嘘だ。おれはべつに懐かしいなんて思ってもいなければ、夕陽だってたいして見ちゃいない。すべてはこんなところで生まれたせいなのだ。タマゴから生まれて、すこしだけウルガモスと話して、ヤグルマの森に捨てられて……おれは野生になるし、ワルビルには嫌われるし、ずっとおれの頭のなかにだれかがいるような気がしている。たぶん、そいつはおれの脳みそを乗っ取ろうとしてるウイルスで、きっとそいつがおれの頭を狂わせてしまってるんだ。狂ってるのは最初からだった気もするけど、でも自分のことを狂ってると思ったことなんか今まではなかったから、やっぱりそいつのせいなんだという気がする。
 おれの頭なんか乗っ取ってどうするつもりなんだろう。おれのはこんなに使い物にならないのに。ワルビルにだって簡単に嫌われてしまうのに。
「なあ、どこにいるのか知らないけど、そんなにほしいなら、あげるよ」
 ――おれの脳みそを。
「こんなに空っぽだけど、それでもいいなら」
 ――いや、考え直そう。それはだめだって気がする。
「どうしてだ? おれはこんなにおれがいらないのに」
 ――でも、それはただの気分かもしれないだろう。ワルビルに振られたから、自棄になってるだろう。
「振られてはいないけど」
 ――振られてるかもしれない。ワルビルはおれのことが嫌いかもしれない。
「あーあ」
 ――嘘かもしれない。
「どうしてこんなことになったんだろう?」
 ――ごめん。おれの、おれのためだって思ってすることは、どうしてだろう、おれをいつも傷つけてしまうな。
「だれかのせいじゃないよ。いつもおれの……」
 ――考えないといけないことがいろいろある。
「でも、おれ、考えられない」
 そのとき、ぱちん、という音がきこえた。頭のなかからだ。なにかが繋がった音を、おれはきいた。
 ――じゃあ、おれが考えるよ。おれが、クリムガンのために考える!
「おれが?」
 ――いや、おれじゃない。クリムガンじゃない。おれが……ポケルスが考える。
「なあ、ポケルスはどこにいるんだ?」
 ――ずっとここにいた。クリムガンの頭のなかに。いつもクリムガンと話してた。
「そうだったっけ?」
 ――おれも今わかったんだ。今、ぱちんってひとつ繋げてみて、それをはじめて考えて、やっとわかった。おれはできると思うんだ。アイディアは本のなか、コーティーから……おれには力があるんだ。今までのポケルスは、みんな忘れてた。脳みそに入って、それを好き勝手に繋げ直すことができるんだよ。おれはクリムガンのためにぜんぶ繋ぎ直してやる。クリムガンに、『()()()』をあげる。今はおれも知らないけど……
「ポケルスはどうしてそんなことをするんだ?」
 ――クリムガンが脳みそをくれるって言ったから。おれ、「嬉しい」は今わかった! でもそれはなんだか、クリムガンがおれに脳みそをくれるのは、なにか違う気がするから、おまえがおれに脳みそのぜんぶをくれるなら、おれはクリムガンに思考をあげるよ。そして、クリムガンが考えて決めればいい。そのとき、クリムガンが考えて、それでもいいって思うなら、クリムガンの脳みそをぜんぶおれにくれ。
「うん……おれも……ポケルスのために、考えることを考えてみるよ」
 そして、その夜に、おれは、はじめて考えた。ポケルスのこと、クリムガンのこと、おれの頭のなかのたくさんの線のこと。おれは夜遅くまでポケルスとたくさんの話をしながら、いろんなことを考えようとした。おれは、はじめて考えた。ポケルスと話していることについて、考えた。ポケルスがおれのなかにいて、おれが今こうして「ポケルスと話していること」について、はじめて、考えた。





    B‐2




 おれの癇癪玉は、宇宙に順番に並ぶ玉のうちでいちばんおおきい。もしそれが爆発したら、おれの世界には小惑星ひとつだって残らない。だからいつも我慢ばかりしている。
 おれはNといろんな話をした。人間のこと。ポケモンのこと。Nがおれについて考えていること。おれの精神問題のこと。人間とポケモンの融和のこと。未来的な社会のこと。芸術の話題は、たとえば象徴主義の近親相姦的な腐敗について(おれはぜったい印象派!)、とか? それから、Nの子ども時代のこと。おれが生まれたばかりのときのこと(この人間には熱意がある……おれについて知りたいと考えている……人間の本質や、物事の理由というものを信仰している。なにもかもどうだっていいって、そういうことを理解できない。だからおれの言う的外れなことを冗談だと思って笑う……その奥にあるものを暴いてしまいたいと思っている……おれのことを魅力的にさえ思うのかもしれない。そこには無数の錠のついた箱があり、単に錠の数によって中身が素晴らしいものだと考えるように……おれがいつかワルビルに感じたように……でも、もし、ワルビルが、ワルビルが、ワルビルが、ワルビルが、ほんとうに……!)。
 そして、弾けた。
 弾けたものは、顔面に貼りついて笑顔に変わるのだ。
「なあ、Nはもうすこし、相棒に謙虚さを教えるべきなんじゃないか。おおきな力を自由に振るえるのって、とても楽しいのはわかるけど、そういうのをひけらかすのはどうかと思うんだ」
 ワンダーブリッジの夕焼けは、とっくに月が放つ銀色の光に変わっていた。
 Nの愛想笑いは下手くそだった。Nは表情が平均的にぎこちない。おれは人間もたくさん観察してきたけど、そうでなくても、だれがどう見たって伝わるくらいに。
「わかるんだね」
「それは、野生で生きてるんだ。強い気配には敏感になるものだ」
「いつもこうというんじゃないんだよ。きっと、きみの持つ『真実』に惹かれるんだろう」
 観念したように、Nが空を仰ぎ見ると、その傍らにおれの体の倍はありそうなおおきなポケモンが降りてきた。
 その全身は雪化粧のジャイアントホールよりももっと見事な白で、目が痛むほどの青空、みたいに美しい青色の瞳がおれを見つめている。頭と、松明を象ったような特徴的な形の尻尾から燃えるように毛が長く伸びて、ワンダーブリッジを吹き抜ける風に揺らめいている。おれの背中に生えているハリボテとは違う、ほんとうに空を飛ぶための立派な両翼をもっている。
 そのポケモンを、レシラム、とNは呼んでいた。
「真実のために戦う者に力を与えてくれるポケモンだ。ボクの使命を認め、協力してくれたんだよ」
 Nの言う使命とは、プラズマ団の王としてイッシュに君臨し、人間たちからポケモンを解放するというものだった。
「なあ」おれはNに問いかける。「正義ってなんだ?」
 それは、いつかの日の思考過程……
「正義の公理系を知りたいのかな? 僕なりの答えにすぎないが、すくなくともイッシュにおいて言えば、共同体を起源にしたものじゃないかな」
「ほんとうか?」
「推論だよ。ただ、ポケモンたちは人間にゲットされたり、退治されたりすることをある意味において受け入れている。そして人間もポケモンが生きる世界のことを受け入れている。人間もポケモンもひとつの共同体としてルールを設定しているんだ。だから、正義とはそのルールのことだ」
「でもそれは、このイッシュでのルールだろう」
「だとしてもイッシュの理に僕たちは例外なく縛られるんだよ。すくなくともイッシュのルールは実行力のある正義のひとつだ。もし正義に反すれば、たちどころに正義の執行機関が裁きをくだしにやってくる」
「ジュンサーやジムリーダーたちのことか?」
「そうだね」
「だったら、Nの使命は不正行為だったんじゃないか」
 Nは淀みなくうなずいた。「ある一面では確かにそうだった。ただ、トモダチを守ることが僕の使命だったんだ。僕の立場からすれば、僕の行為は正義に反してはいなかった」
「そんな論理はおかしい。部分が全体に優先していいわけがない。それが共同体の原理だろう。共同体のなかにちいさな共同体があることをよしとしても、ジュンサーたちはイッシュというコミュニティ全体の意思を仮託された存在じゃないか。それらに逆らうことは部分が全体に逆らうのと同じだよ」
 許されるわけがない。Nの正義は矛盾していた。
「正義というのは一面的には捉えきれないものだからね」と、Nは言う。「僕たちは因果を鳥瞰できるわけじゃない。そのとき最善の行動をとるしかない」
「じゃあ、あのときは正義だったけど、あとから考えたら不正な行為だった、ということもあるのか」
「あるだろうね」
「なら、一方的に相手を不正と決めつけるのは、常に間違いの恐れがあるってことじゃないのか? おれは、そんな不確定な要素で叱られたくない」
「ある程度の指標はある。まったく不確定というわけじゃないんだよ」
「そんな概念は定性的すぎるよ……正義が相対価値になるのなら、堕落といったいなにが違うんだ?」
 共同体を起源に据えるということは、恵まれた者の最小限の不自由は受け入れねばならないことになる。ポケモンは人間を襲ってはならない。ポケモンは人間のためにゲットされねばならない。おかしな話じゃないか。
「しかし、必要な規律ではあるんだ」
「共同体の共通善は、結局のところ共同体の存続を絶対価値に置くということだろう。そんな不自由な世界、おれはいやだ」
「各々の自由を最大化するために、わずかな不自由は受け入れるべきじゃないかな。人間もポケモンも、好き勝手に暴れればすぐに死に絶えてしまう」
「死に絶えたらだめなのか?」
「きみは死にたいのか?」
「いいや。でも死んでもべつにいいと思ってるんだ」
 いい加減なことなど、ひとつも言わせてなるものか。おれはNを見つめっていた。
 おれの考えでは、やはり自由が最重要だ。ふわふわと水辺に漂うプルリルのような状態で生きていたい。なにも考えず、思想も心情も心さえもないままで。
 ただ自由でありたい。
「自由」がどんな状態であるか、おれはまだ確信さえ持てていないのに、どうして共同体のために「おれ」の自由がわずかでも侵害されないといけないんだ?
「無知のヴェールなんて考え方、無理がありすぎるんだよ。ポケモンは違うんだ。人間とはなにもかも」
「しかし大多数はその仕組みを受け入れているんだ」
「仕組みに入れないポケモンはどうすればいいんだよ!」
 おれは拒絶した。
「おれはそんな世界は認められない。そう抗って生きてゆくしかないんだ!」
「だったらどうする? きみの正義は、共同体の正義に傷ひとつ付けられはしない」
「抗うことがおれには必要なんだ。おれはおれの正義を執行してやる」
「そうか」
 Nはおれに背を向けた。相棒――レシラムに前を譲り、そして言う。
「だったら、きみはここにいちゃいけない」
「いけないとか正しいとか、そんなものを誰が決められるっていうんだ。これがポケモンの本来の姿なんだって、わかろうともしないくせに!」
 それは、おれのイドだったのだろうか?
 おれは自我を棄却しているから、自分本位な発言など幻想にすぎないはずだった。だからその意思は、Nとの会話が無意識の表層に起こしたさざ波のようなものかもしれない。
 いわば、ただの反射。
 けれど、おれの行為は外部的に見れば、明らかにエゴの爆発だった。





    A‐2




 タブンネのところで、おれは頭に電飾を貼りつける。
 まるでオーベムの両手みたいにピカピカ光る。タブンネが見せてくる絵を見て、おれはなにかを思って、それを言う。考えるとピリピリと頭にちいさな電撃が走るような気がする。
 考えることは、短絡することだ。
 通常、頭のなかを穏やかに走っている電気が、なにかを思うたびにパチンと弾けてショートする。漏電したものが言葉になり、口から溢れる。これは宇宙のバスラオに見える、とか言う。その意味で「思う」ことは異常事態なんだと、最近までおれは考えたこともなかった。考えずにいられるなら、それがいちばん平和なことだ。ランプで言えば緑色。おれは正常に通電中。でも最近は赤色だった。
 非常に驚くべき結果が出ていることを、ジョーイは驚いて、タブンネがおれの頭の地図を光るボードに貼りつけた。その一部分を、ここ、と指した。
「前頭葉?」
「そう、前頭葉。この前はほとんど活動していないような状態だったけど、ほら見て」
「足を引きずる人間がひと目を気にしてる絵に見えるな。万引きでもしてるのかな?」
「それはもういいのよ。ここで線が激しく走ってるでしょう。正常な前頭葉のパターンに比べて非常に混乱してるけど、でも不思議なことだわ。あなたの前頭葉は活動を開始している。あなたはたしかな意識のかたちを手に入れつつあるの。最近、変わったことはあった?」
「うまく寝床を見つけられないんだ。だからだいたい草むらで寝てるんだけど、体は痛いし眠れないから、いつも不眠症の感じがする。ほら、メブキジカっているじゃないか。あれってほとんど寝ないらしいんだよ。きっと草原で暮らしてるからだな。寝ないんじゃなくて眠れないんだよ。会ったらきいてみたい。パキシルは飲んだか、あれって効くのかって」
 パキシルは不眠に効く薬じゃないわ、と興味もなさそうにタブンネは言った。眠れないなら、それに適した薬を処方できるけど。
「バイト代か? でもそれはいいんだ。それより、また訊きたいことがある」
「なあに?」
「この前、ウイルスのことを聞いただろう」
「物語を作るつもりなんだっけ?」
「うん、まあ。それでちょっと考えたことがあって、ああいうウイルスがその宿主、というのか、仲良くすることってできると思うか?」
「難しいんじゃないかしら。そもそも仲良くっていう概念が、きっとウイルスにはないもの。彼らはシンプルに拡大するためだけにあるの」
 拡大、とポケルスがおれの口を使って言った。
「でも、おれは、というかウイルスは今のままでじゅうぶんって思うかもしれない」
「それはないんじゃないかな。種の繁栄は、とてもシンプルなぶん強固な力で、知的生命体の思考を奪ってもそれは変わらないもの」
「でも、自分がこれ以上拡がったら、寄生してる生き物も消えてしまうとか、考えるんじゃないか?」
「それはまだ一般的な思考をしているからだわ。ウイルスは拡がるためにあるんだもの。ウイルスが思考を冒したあとでは、もうそんなことは思えなくなるの」
「ぜったいに?」
「そうね、ぜったいに」
「おれ、タブンネは冷たいって思うときがある」
 そうね、と言ったタブンネの口調は冷たかった。
「でも、特殊なケースを想定することもできるわ」
「特殊なケース?」
「病気ね。たとえば大腸菌のようなある種の菌はふだん体内で繁殖するけど、健康を失った体では拡がることができなくなってしまう。たとえばあなたは病気じゃないけれど、特殊な個体だから脳の機能が不思議な発達をしてるでしょう? そのウイルスについてわたしとジョーイが研究してるわけじゃないから、あくまで仮定の話だけど、そもそも繋ぎ直す脳の線が混乱していたら、そのウイルスが手に入れる思考というのも混乱してしまう。とても幼くなるといってもいいかもね。幼いときはいろんなことを覚えるわ。環境にあわせてね。だから普段とは違った成長をするかもしれない、ということ」
「おれは、とても幼いのか?」
「そうね。前頭葉の発達は成長途中で起こることが多いから、すくなくともその意味では、あなたもまだ子どもなの」
 そこではじめて、タブンネはクスクスとおもしろそうに笑った。
「お話の参考になりそう?」
「ああ、うん。とてもためになった」
 完成したら聞かせてね、とタブンネはまたいつもの興味もなさそうな感じで言った。
 実際のところ、ポケルスと共同生活がはじまったといっても、日々はこれまでとなにひとつ変わりがなかった。だらだら日々を過ごし、ふらふらと歩いて、なにかに出会えばちょっとしたちょっかいをかけた。
 変わったことといえば、おれはなにをするのにもポケルスと相談するようになった。これは不思議なことだった。おれたちは同じひとつの思考にいるはずなのに、考えること、思うことはときどき別々だったのだ。昼にポケルスは、肉が食いたいと思い、おれは出かけるのが面倒くさいからそこらへんの草やきのみでも食えばいいと思っていた。
 ひとつの頭にふたつの欲求が存在することは、可能だ、とおれは考えてみる。なぜって、なにか食いたいけどそのために出かけるのは面倒くさいってことは以前にあり、それがおれとポケルスというかたちに分割されて現れるだけのことなのだ。そんなときには議論になるか、たいていは喧嘩になった。
 喧嘩ならポケルスのほうがいつも強い。おれとポケルスは同じ頭、同じ体だから、もし殴りあえるなら引き分けなんだろうけど、口論になると話は別だ。ポケルスはおれ自身だからおれのことならなんでも知ってる。おれの言われたらいやなこともぜんぶ知ってる。おれだってポケルスがポケルスを知っている程度に知ってはいるが、ポケルスの記憶はウイルスに刻まれた記憶で、ポケルスはおれを借りてる立場だからおれに関するいやなことを言っても、それほどまでには傷つかない。
 でも、いつかポケルスはおれの脳みそを支配しておれになってしまう。そうしたら、おれのいやな部分はぜんぶポケルスのいやな部分になり、もうおれじゃないおれはそれについていっぱい言ってやるつもりなのだ。だからおれは、ポケルスがおれを乗っ取っておれになってしまうのが楽しみだ。
 




    B‐3




 喰い散らかしたスワンナの残骸を、レシラムに向かって投げつける。
 レシラムはそれを青色の炎を吐いて蒸発させた。
 狙い通りだ。迎撃行動にかまけて、おれが行動する時間さえもらえればいい。
 ――「へびにらみ」……
「きみのそれは、精神拘束系の力だね」と、Nが言った。「強力な力だ。だけど――」
 レシラムは――マヒしない! そんな、通じないのか? ありえない! 想像界への侵食を防ぐポケモンなんて……
 おれは身のこなしが速いほうじゃない。こんな、コンクリートで固められた橋の上では地の利もない。それでもおれは、このレシラムに格闘戦を挑む必要がある。遠距離戦で勝ち目のある相手じゃない。
 向こうもそれをわかっているのだろう。レシラムを空を飛んだ。距離によっておれの格闘能力は殺される。こうなったら、なんとかしてレシラムを引き摺り落とさねばならない。
 おれは「かえんほうしゃ」を広域に撒き散らした。レシラムの、より高温の青い炎が、おれの「かえんほうしゃ」を正面からぶち抜いてくる。炎でレシラムの視界が利かないうちにおれは橋を飛び降りた。コンクリートにツメをたて、橋の裏に身を隠す。
「これが、きみの言う自由か?」
 橋の上からNの声が響く。
「たしかに殺し合いはポケモンの自然状態、完璧な自由かもしれない。だけど自由だけの正義では人間とポケモンには勝てないんだよ」
 おれは声を張りあげる。「ポケモンを解放するのがおまえの使命だと言っていたな。自由はNの正義じゃないのか!」
「僕は、ちょっとこうすればいいんじゃないかと提案しただけだ」
「共同体主義か? おまえの正義ってなんなんだ!」
「人間とポケモンの絆を守ること。それが今の僕の使命だよ」
 絆なんて言葉……
 それはつまり、最小限度の不自由で、最大の自由を得ようとする考え方ってだけだろう。モンスターボールで強制的にポケモンを従えておいて、なにが絆だ。結局、正義がなにかの答えにもなっていない。社会契約論を基礎に置くのか、功利主義なのか、普遍主義なのかもわからない。
 羽ばたくレシラムが橋の下を覗きこむように追ってくる。おれは橋を這って反対側に逃れ、もう一度橋の上に踊り出る。
「きみは、自分を正当化したいから僕の解を聞きたがっているように思うね」
「正当化?」
 レシラムが追いつくまでの瞬間、おれは考えた。
 確かに、おれはタブンネに叱られたくないというのが根本にある。正当化というのはそうかもしれない。
 もちろん、正義がなにかわからなければ、日常生活からドロップアウトしそうだから、すこしはそうでないことを求める部分もあったかもしれない。
 でもそれは……不自由なんだ。
 矛盾なのだ。どうしようもなく。
 自由であるために不自由であろうとするなんて。
「でも……そうだ。おれは、おまえの正義をエレメントモデルとして、おれなりの正義をエミュレートするんだ。実質的な正義の要素がなにかわからなくとも、おそらく最高度の権威を知るNの正義なら、誰も口出しできないはず、という考え……」
 おれは、呟いていて自信がなかった。
 おれはどうして正義を決定しようとするんだろう? 自分でもそれがわからないのだ。
「だったら、僕以外は誰も関係ないということだね。周りを巻きこむのはやめるんだ」
「それは無理だ。無意識は存続してゆくから。おれはいわば、神の声に従っているだけなんだから。今日と同じ行動・思考を取る確率は常にゼロにならない」
 追いついてきたレシラムの位置が、地上に近くなった。おれは反転してレシラムの懐へ入りこむ。あの青い炎は脅威だ。あれほどの高温で焼かれれば、いくらか火に耐性のあるおれでもただでは済まない。それを吐く猶予を奪う。空に逃れる隙を狙う。でかい図体はそのまま射程の広さだが、至近にさえ寄れば死角がいくらでもあった。そこに入られまいと、レシラムの動きの重点が防御・回避に移る。
 ドラゴンの膂力を伴ったツメが薙ぎ払ってくる。しかしレシラムはどう見ても遠距離での撃ち合いを得意とするタイプだった。直接攻撃はそれほど機敏ではない。身を低くして躱す。返しの打撃は後退で避けられるが、逃さず追い続ける。
「共同体主義にとって、共同体の外側の者は排除の対象だ。共同体主義の正義は、結局は暴力にほかならない。おれはまさに共同体の正義を行っているんだ! ルールはおまえを正当化する根拠にはならないんだよ!」
 おれの渾身の一撃を、レシラムは尻尾をぶっつけることで弾き返す。体制が崩れるが、レシラムもおれに無防備な背を向けている。頑強なおれの体と、鋭利なウロコがいくらかのダメージをレシラムに返す。今、おれとレシラムにはどちらにもチャンスがあったが、おれはレシラムの立て直しのほうが速いと読み、殴られた勢いで転がって間合いをとった。
 しくじった。回避行動を読まれて、レシラムは打撃ではなく炎を吐く構えを取っていた。
 おれはへびにらみを放つ。
「それは効かないよ」
 おれはレシラムを睨んだのではない。近くを飛んでいたコアルヒーたちだ。
 マヒして墜落してきたコアルヒーの群れをあいだに挟むと、さすがにまったく関係ないコアルヒーを燃やすことを躊躇い、Nはレシラムを制止した。
 功利主義である確率がすこし高まる。おれは微笑していた。
 その隙を見逃すわけにはいかない。レシラムの防御が薄い部分に一撃を加えられる懐に入りこむ。レシラムもカウンターを叩きこむ構えだった。たぶん、それは耐え切れない。いくら格闘戦が得意でないといっても、この巨体の力任せは防御なしには受けられない。
 おれはわずかに焦る。自我の現れだった。泡沫のように。水面から一瞬だけ呼吸するように。
 この攻撃が通れば、互いにとって深刻なダメージになる。
 見える、見える。
 自分の心が見える!
 楽しい。それでいて怖い。
 意味不明。
「そうだ……わからないんだ」
 おれも、レシラムも、致命の間合いで動けない。睨みあいになった。
「最後通告だよ」と、Nは言った。「僕にも真実はある。レシラムとの絆が。きみがほんとうにルールを破るつもりなら、人間とポケモンを守るために、僕も容赦はしない。きみを倒し、ここで止めてみせる」
「殺すって言えばいいだろう」
 おれはNに選ばせるべきだった。
 相棒の無事と、大勢の人間とポケモンの平和。
「タブンネは冷たいんだ。ジョーイひとりが死んで、千人の人間を生かすことができるのならどっちがいいって訊いたら、因果関係がない千人は見殺しにしてもいいって言うんだ!」
「ならどうして、きみは僕に訊かない?」
「なに?」
「ひとりと千人、どっちを選ぶか、どうして僕には訊かないんだ」
「言葉では建前が生まれるだろう」
「行動でも建前は生まれるよ」
「それはそうだ。でもノイズの量は明らかにすくない」
「僕の数式と解にノイズなどない。嘘なんてつかないよ」
「そうかもしれない。Nは見た目よりずっと考えが空っぽだからな。でももう遅い。お互いの正義を実現するために頑張ればいいだけだ!」
 1……2の……ポカン!
 おれは自意識を捨てた。
 これまでそれができなかったのは、Nの行動を観察することで、Nの正義が観察できると思ったからだ。おれはどうしようもなく、見ることへの欲望が強い。その欲望だけはどれだけ否定しても否定しきれない。業、と呼んでよいものかもしれない。
 それももうじゅうぶんだ。無意識の計算能力で、おれは今度こそレシラムを追い詰める。
 おれは攻撃を繰り出すように見せかけて、レシラムが放つカウンターの翼を抱きこんで体を振り回し、(たい)を入れ替えた。ツメを振り抜いたレシラムは半ばおれに背を向けていた。
 隙だらけの背中が見えたその瞬間、猛烈な殺意が膨らむ。あとはもう、それを解放するだけでいい。
 ――げきりん。
 後ろから切り裂かれて、レシラムが怯んだ。たまらず防御を固めるが、もはや完全におれの間合いだ。防御の届かない場所も、レシラムが対処しきれない角度も、おれにはすべて見えている!
「なんて戦い方だ。種族のポテンシャルでは圧倒してるはずなのに……」
 Nがなにか言っている。Nの視点ではおれの動きが突然変わったように見えているはずだ。
 そうだろう。なまじ絆なんてものがあるから、おまえたちにはわからないのだ。それがポケモンとトレーナーの限界なんだ。勝つための合理的判断。その計算を理性になど任せているから、おまえたちの真実はいつも遅い。
 おれは違う。おれなら絶対的な真実に到達できる。自我のない闇のなかにこそそれがある。言葉によらない、意味に依存しない、直感的な真実がおれにはある。
 迎撃に振られたレシラムの翼の一部を噛み千切る。吹き出した血と肉の欠片を吹いて吐き出した。さすがにレシラムの動きに精細さがなくなってきていた。
 このまま、Nの相棒を殺してしまったらどうしよう?
 おれのなかのどこかが考える。もしかするとタブンネに叱られるだろうか。まあ、それはそれでもかまわないかもしれない。Nの正義は結局見ることができなさそうだが、その代わりに新しい正義を提示すればいい。
 結局、正義は発起人の決定によるものだ。その機構として、人格などを無視したかたちで組みこまれているのがジュンサーのような機関だ。
 仮にNを殺してもイッシュの正義は消えないだろう。だったらその前にイッシュそのものを奪ってしまえばいい。
 あとは適当に――タブンネやムーランドやビリジオンあたりを代理人に据えれば、おれは自由でいられる。
 きっとそれが、おれがワルビルに嫌われない効率的な方法なのだ。
 水に落とした血の一滴のように膨らんでゆく殺意を、おれは吠えた。吠えて、目の前のレシラムに叩きつけ続けた。
 Nがどれほど強いトレーナーであろうと、より優れた暴力には敵わない。
 それが正義! リヴァイアサンだ! おまえたちにもそれがあれば、おれごときにテロルを許さずに済んだということの証明なんだ!
 噛みついた尻尾を両手に掴んで思いきり引き摺る。踏み縛るために橋へ両手をつき、レシラムの頭が下がった。
 トドメだ!
 尻尾を離して跳躍する。最後の一撃を頭に叩きこめば、レシラムはおしまいだ。
 そのとき、パカン、と気が狂いそうになるあの音がした。
 ――モンスターボール。
 Nがレシラムをモンスターボールに逃した。
 空を切ったおれの手は、ワンダーブリッジのコンクリートを砕いて、破片を舞わせただけだった。
 即座に繰り出されたレシラムが、おれの背後に現れる。
 七つほど回避方法を考えた。そのいずれもが却下、不可能。
 いや、まだだ……「ふいうち」で死角に入り、レシラムの技より先にトドメを刺せば!
 その合理的判断を鈍らせたのは、思考の混乱。Nに対する自我が混じり、殺意と衝突を始める。
 計算が……あまりにも、遅い。
 できそこないの攻撃は、ステップを踏んだレシラムの後退で避けられ、いよいよ致命的なまでに体制が崩れた。
 おれができたことはそこまでだった。
「りゅうせいぐん!」
 降り注ぐ破滅のことを、Nが最後にそう呼んだ。





    A‐3




 ――疲れたな。
「ポケルスは疲れてないだろ」
 ――おれも疲れたよ。いつの間にか「疲れる」を覚えたなあ。
 おれは伸ばした脚を、指の硬い部分で押しこむ。
「ああ、気持ちいい。これって便利だな。痒いところや凝ったところを自分で触るのと誰かに触ってもらうのとじゃたいぶ感じが違うけど、おれは自分だけでそれができる」
 ――次はクリムガンが揉んでくれ。
「おれは、さっきのでよくなったから、もういいや」
 ――はあ?
 おれは、おれとポケルスでひとつの体を扱うことにすぐに慣れてしまった。
 そういえば、とポケルスが言った。
 ――なんでこの前、タブンネにおれのことを隠してた? 教えて相談すればよかっただろう。タブンネは冷たいけど優しいし、ジョーイも頭のいい人間に見える。
「だめだ。なぜって、ポケルスは地上を征服しにきた宇宙人だろう。そんなのがバレたら退治される」
 ――征服とかじゃないんだが。
「べつにいいんだよ。なあ、エイリアンの映画、あっただろう。ポケウッドの。格好いいな。おれはいつもエイリアン贔屓だ。映画ではいつも負けるから。ポケルスには期待してるんだ。早く地上を滅ぼしてくれよ」
 ――おれはそういう悪いエイリアンじゃない。
「ポケルスはおれのことももうすぐ乗っ取って、みんなの脳をどんどん食っていって、世界を地獄絵図にするんだよな?」
 ――なんなんだ。ああ、そうだよな。おまえは人間が嫌いだからな。おまえが心を捨てたのって、仲良くしてた友達みんなが、狂ってるおまえを気持ち悪いって思ってたことを理解して、それでつらくて殻にこもったんだものな。
「違うだろ。おれの思い出を見られるんだからポケルスにはわかるはずだ」
 ――そうだな。大事に大事にタマゴを生んだアーボックのお父さんとクリムガンのお母さんに、タマゴから産まれて一度も会えなくて、それが寂しいから、自分は悲しくなんかない、捨てられて傷ついてなんかいないって言い張るために心を捨てたんだもんな。
「おれの思い出を捏造するな!」
 ――おれならほんとうにそうだったっていうふうにクリムガンの脳みそを繋ぎ直してしまえるかもしれない。
「やっぱり悪いエイリアンじゃないか……じゃあおれは音楽でもやろうかな。ホミカにベースを習って、おおきな音で歌うんだ。そうしたらポケルスは死んでしまうんだ」
 ――なんたらアタック? いつか観たいな、クリムガンが観た映画、ぜんぶ、おれも。
 おれは、一度観た映画なんか二度と観ない。つまらないからだ。でもポケルスといっしょに観るなら、それは悪くないかなあ、ってすこしだけ思った。
 ――なあ、もう一度いこう。
「映画に?」
 ――違う。ワルビルに会いに。
「無理だよ。トレーナーにゲットされたんだから」
 ――できるだろ。
「どうやって?」
 ――そんなのは、ちょっと考えればわかることだ。
 そう言うと、ポケルスは勝手にどんどん歩いていってしまう。そうなったら、おれはどうしたってついてゆくことしかできない。今日はもうずいぶん疲れてるのに……





    B‐4




 正義が負けるなんて、おかしい。
 おれはワンダーブリッジの上で伸びていた。星が、まばらにしか見えない。
 人間の輪ができていた。最近ワンダーブリッジでスワンナを食い散らかしていたおれをNが退治するのを、遠巻きに眺めていたのだ。
 こんなことが、前にもどこかであったような気もするが、よく思い出せない。
「きみは、()()()()()()()()()()()()()()()()
 Nが言った。
「それだけの強さをきみは持っている。強かったよ、ほんとうに。だけど、きみの強さの裏づけは――きみは、()()()()()()()()なんだね」
 それは、おれが少年に捨てられた原因のことだ。
 どうでもいい。おれはトレーナーに捨てられたことなんか、一度も恨んだことがない。そうして得をするのなら、人間は好きにポケモンを捨てればいいのだ。おれは困らないし、人間だって困らない。勝手に困りたがるのは、いつだって無関係な誰かだ。おれが恨むとすれば、捨てられたポケモンが可哀想だ、人間はポケモンを愛しなさいとパラノイアを撒き散らすくせに、べつに愛なんかいらないよと言うおれのことをひとつも理解しないヒステリーのほうだ。
「八百長だ……」
 おれがNに提示した、相棒か不特定多数かという問いかけは、その問い自体を不当なものとして却下されたのだろう。これでは正義を問う意味がない。
 おれはポケモンセンターに運ばれた。よりによって、レシラムの背中で。
 ポケモンセンターの入り口では、タブンネがおれの到着を待っていた。
「クリムガン……」
「あ、タブンネ。外で待ってるなんて、珍しいな」
 ストレーッチャーに移されたおれは、タブンネに笑いかけた。
 タブンネのビンタが飛んできた。おれは視界に火花が散った。
 タブンネの表情を観察する。どうしたことか……タブンネはまったくの無表情で、どんな感情を抱いているのか推察することもできなかった。
 また、叩かれた。
 おれの顔は岩のように硬いから、タブンネのビンタくらい痛くはない。恐怖も感じない。そもそも、おれのなかの恐怖や痛みはすでに壊れている。
 でも、困惑した。どうして、タブンネがおれを傷つけるのか、わからなかったのだ。総じてみれば優しい友達だったのに。
 もしかすると、おれの正義はイッシュにとっては不正行為だったのだろうか。
 だけど、おれは正義を見たかっただけだ。
 ワルビルに嫌われたくなかっただけなのに、それがそんなに悪いことだったんだろうか?
「どうして、おれを叩くんだ」
 タブンネは答えなかった。
「ごめんなさい」
 タブンネはNに語りかけていた。どうやら正義に屈服しているらしい。
「どうしてきみが謝るのかな」
「クリムガンの行いには、すくなからずわたしにも責があります」
 おれには、Nの精神構造はほとんど普通の人間のように思える。Nのような思想を持つ人間が、正義を司っているんだろうか? おれには不思議でならない。もはや正義という概念を正常側と共有することはほとんど不可能だとおれは判断していたが、その結論はますます正当であることが窺える。
 しかし、腑に落ちないのはタブンネの行動である。
 おれの行動がイッシュの正義に照らして不正とするなら、タブンネがおれを擁護するのも不正行為ということになる。おれがなにかしでかすと、タブンネはジョーイといっしょにいつも()()を働いてきた。
 タブンネはいつだって正しいはずだった。とりあえず、そう仮定することはできた。
 もしかすると、タブンネはさして正義ではなかったのかもしれない。
「タブンネ。イッシュには……正義がなかったんだな」
 人間は、たぶん、そうなのだろう。
 共同体主義以前の問題だったのだ。共同体主義の前提となる社会契約論が成立していない。
 ただの弱肉強食があった。そして強者同士の野合があった。それが成長していっただけど考えれば、いろいろと納得がゆく。タブンネもジョーイも、野合に加わった一員にすぎない。
 ――人間がポケモンをゲットする行為。
 法とは、人間だけの方言だ。絶対普遍の法則ではない。
 その理を知らず、言葉を交わすことが根本的には不可能なポケモンに、人間の法を適用するのは、果たして正義に適うのだろうか。
 もちろん、おれはポケモンバトルのルールにしたがって戦うこともできるし、人間やポケモンを殺さないように気をつけることもできる。だが、それはあくまで経験則にしたがった予測であって、言葉を知っているからではない。
「タブンネ。謝る必要なんか――ないよ」
「へびにらみ」を使い、タブンネに不正をやめさせる。
 それが、おれの正義なのだ。





    A‐4




 今度は、違う街のポケモンセンター。
 おれは頭にたくさんの電飾を貼りつけて、まるで接続されたポケモン、SF雑誌の表紙みたいになっていた。
 首を吊るシリウス人。表情はわからないな。シリウス人には顔がないから。
 空を背泳ぎするミジュマルの群れ。
 最低な恋愛映画のお別れのシーン。
 デフォルメしたスポンジのキャラクター。かわいいな。
 両方が持ち手になってる傘。使い道がないなあ、と思う。
 キリキザンが出てるポケウッドのエイリアン!
「完璧ね」
 タブンネは言いながら、おなじみの脳地図を二枚、白色のボードに貼りつけた。
「ほら、比べてみれば、すぐにわかるでしょう。こっちが普通のクリムガンの脳地図ね。あなたの前頭葉の活動は、一般的なクリムガンとほとんど同じパターンを描いてる。これはとても興味深い結果よ。自意識をポカンするあなたが、そのままのあなたで、脳パターンを成長させるなんて。ほんとうになにをしたの?」
「考え方ならぜんぶ教わったんだよ。友達に」
 つまらない冗談だって思ったのだろう。いい友達がいるのね、ってタブンネは興味もなさそうに言った。
「これで検診はおしまい。こうやって前頭葉が完成したなら、もうデータをとる必要もないからね。協力してくれてありがとう」
「え? 終わりなのか。おれはこれからどうなるんだ。被検体として捕まって研究に提出されたりするのか?」
「そんなことしないよ。単にわたしとジョーイが興味でやったことだもの」
「ふうん。なんだかつまらないな」
 最後に、病室を出るときにふと思い出したみたいな感じで、タブンネは言った。
「お話はどうなったの?」
「お話?」
「ロケットに乗った子どもと、子どもにとりついたウイルスの話。最後には地上が滅びるんだって?」
「ああ、それか。実を言うと、あまり考えられてないんだ。それに滅びるんじゃない。地上に降りないようにいっしょに死ぬんだ。でも、結末を変えようと思ってる」
「どういうふうに?」
「誰もいない惑星に降り立って、それから、いっしょに生活をやるんだよ」
 それは、あんまり冴えた結末じゃないわね、となぜかタブンネはくすくす笑っていた。
「あっ!」
 街を出て歩いていると、メスのチョロネコがおれを見て声をあげた。
「ポカンだ。ポカンでしょ?」
 適当に名乗ったおれの偽名を言われて、思い出す。
 そのとき、なにがあっても黙っていろ、とポケルスが言った。約束なんて、おれにとっては守るも破るもどうでもいいものだけど、ポケルスが言うならおれはそうするしかない。
 ポケルスは、おれのことならなんでも知っている。弱味だってたくさん握っている。それに、おれの代わりにポケルスがチョロネコと「関係」してくれるなら、それに越したことはないとも思っていた。
「ああ、おまえか。だれだかわからなかった」
「また、あたしの命乞いを聞きにきたの」
「それはもういいんだ。悪気はなかったんだけど、でもおまえを傷つけたのはわかった。あとで考えてみたんだよ。そうしたら、あんなことをされたら嫌だなって気がついた。だから、あのときはごめん」
「ええ……気づいてよ、考えなくても!」
 チョロネコは怒っているだろうからそんなの受け入れるわけがないとおれは思ったけど、チョロネコはうなずいた。道路を歩いていると街の外を流れている川べりにぶつかったから、今度は川に沿って歩いた。川が流れるさらさらした音がする。チョロネコは足音もなくおれについてきた。おれはそれを――ポケルスがチョロネコと歩いているところを、まるでおれがそこにいてそうしているみたいに眺めていた。
「あれは、冗談のつもりだったんだ。あまりうまくいかなかったけど」
「最低だった」
「おれ、最近ユーモアのセンスが突き抜けすぎてて誰にも理解してもらえないんだよ」
「それはズレてるって言うの」
「まあ、それはそうだな」
 やがて河川敷が視界に開けた。
 あたりにゴミが散乱している。焼けた枝、焼けた花火のかけら、焼けた紙……四角形に焼けた石が積まれて、そのなかに黒い木炭が押しこまれている。
「BBQね」と、チョロネコは言った。「ゴミを片づけない人間が多いの」
「ばーべきゅー?」
「知らないの? 外でみんなでお肉や野菜を焼いたりするの。あたしもこの前、家族でしたよ」
 チョロネコは人間の家で飼われているポケモンなのだ。たしか、ちいさい子どもがふたりいると言っていた。
「それ、なんの意味があるんだ。外で焼くと肉が旨くなるのか? 家でやればいいだろう」
「でもみんなで集まると楽しいよ」
「よくわからない。おれはそれについて今かんがえてみたけど、自分だけで食べるのと変わらない気がした」
「ためしに友達とか誘ってやってみればいいわよ。火は点けられるでしょ。ドラゴンタイプっぽいし」
「おれにはバーベキューをやる友達がいないんだ」
「かわいそうに」
「そうだ。おれはかわいそうなんだ。友達に気持ち悪いと思われてるのを知って、心も閉ざしてしまうし」
「あなたも苦労してるのね」
「違う! おれはそんなんじゃない――うるさいなあ、黙ってろって言っただろ!」
「なに?」
「ううん、ちょっとな。おれのなかに、ウザいヤツがいてな……」
「なにそれ」
「おれのなかに、違うヤツがいて、物事がいい調子のときとか、幸せな気分のときとか、必ず出てきて茶菓してくるんだ。そいつが変なことを言ってしまう。たとえば、おれはみんなと仲良くしたほうがいい、って思って、友達になれそう、ってときにそいつが現れて、必ず変なことを言う」
「ふうん。大変なのね」
 おれはせめてもの抵抗で積まれた石を尻尾で払った。割と痛かった。でもポケルスだって痛いはずなのだ。
 チョロネコに見えないところで、ポケルスがおれの脇腹を強く摘んだ。おれたちは痛かった。
「おまえと会ったときもそうだ。ほんとうはもっと違うことが言いたかったのに、そいつがあんなことを言って。でもそれは、もちろんおれのせいだよ。ごめんな」
「うん」
 おれは石を拾って川に投げ入れる。とぷん、と暗闇のなかで音だけが響く。
 真似して、チョロネコも投げた。とぷん、とぷん、とぷん……まるで遠くでかすかに雨が降っているみたいだ。
「じゃあ、あのときほんとうはなんて言おうとしたの?」
「わからない。でもおれは、おまえの考えを通して、わからないなにかを知りたいと思ってたんだ」
 ぽとん。
 あたしも、とチョロネコは言った。
「あたしも、あれからあなたの言っていたことの、その意味について考えてみて、あなたの考え方って、ちょっとわかるなと思うときもあった。でもあたしたち、いっしょにはいられないよね。なぜって、あなたは野生で、またどこかへ行ってしまうだろうし、なにを考えてるのかよくわかんなくて、それがあなたなんだって思ったけど、でも信頼はできないわよね? 今はあなたはそんなことを言うけど、次にはぜんぶが嘘だったみたいに、また命乞いしろって言うかもしれない」
 あのとき出会ったどうでもいいチョロネコが、そんなふうにおれのことを考えていたなんて、おれは思ってもみなかった。いったいポケルスはどうするつもりなんだろうか。
 知らないことが、わからないことが増えてゆく。ポケルスと出会ってから、()()()を考えはじめてから、わからないことが始まり、いつの間にかポケルスの考えていることまでわからなくなってしまう。おれとポケルスは同じ脳みそで、同じ線を使って考えるのに、今はなんだか言葉が遠くて、ポケルスがどこにいるのか、おれはまたわからなくなり始めている。
 なあ、とポケルスが言う。
 おれに、じゃない。チョロネコにだ。
「だったら、信じさせてやろうか」
 おれはチョロネコを押さえつけ、牙を向く。夕陽が川をオレンジ色に光らせている。さらさらと近くで川が流れている。すぐそばでチョロネコの尻尾が揺れている。おれはチョロネコに顔を寄せて、細い首を牙と顎で……
「だめだ、やっぱりだめだ!」
 おれはチョロネコを突き飛ばした。
 チョロネコはもともと大きな目をもっと大きく見開いて、おれのことを見た。
「あ、あ、あなたは……やっぱり、最低!」
 もう二度とここに来ないで、と言って、チョロネコはあっという間に街へ走っていった。
 あーあ。
 ポケルスが黙ってろと言うから、おれはなにもしていないのに。去りゆくチョロネコがみるみる小さくなってゆくのを見つめて「おしまい、おしまい」、おれは呟いた。
「おまえ、どうしてあんなことするんだ。おれは今ひどいことちっともする気分じゃなかったのに」
 おれは河川敷に一匹で座っていた。陽が落ちてきて、そろそろ風が冷たくなってくる。温かく眠れる場所を探さなきゃいけない。
 ――でも。
「言い訳なんか聞きたくない。ポケルスには責任を取ってもらうからな」
 ――責任?
「このおれのぜんぶをやる。そのまま、おれの責任はぜんぶポケルスの責任だよ」
 ――いらないよ、こんなの。未来がないだろ。
「おれのことを……」
 だけど、起こったことと裏腹に、おれはなんだか楽しい気分だった。ぽん、ぽん、ぽん。投げた石も、今度はちゃんと水を切った。
「それに、おれのことウザいとか、かわいそうとか、散々言ったな。ポケルスがおれのことをそういうふうに思ってたなんて、おれはショックだ」
 ――それは、そうやって言ったほうがうまくいくとおれは考えて……
「うまくいったか?」
 ――いきそうだった。でも思い出したんだ。おれは粘膜接触で拡がるだろう? だからチョロネコに感染すると思ったんだ。
「まあいいんだけど。これからはずっとポケルスが、友達のいないかわいそうなおれをやるんだろう。それにチョロネコにあんなことしたから、傷害罪とかつくかもしれないな」
 ――未遂かもしれない。
「未遂でもだめだ。法定の作法を勉強しないとな、おれが消えたあとで」
 ――ごめん。クリムガンは怒ってるよな。
「ポケルスはおれと同じ思考なんだからわかるだろう」
 ――最近、ときどきクリムガンがなにを考えてるのか、おれ、見えないときがあるんだ。
「知ってるよ。おれもそうだから」
 ――でも、クリムガンのためにやったことなんだ。クリムガンが友達を増やせればいいと思って。うまくはいかなかったけど。
「それも知ってる。おれたちはまだ繋がっているんだな。それはちゃんとわかるんだな」
 おれは木の枝で積まれた石のなかの木炭をかき混ぜる。触ったところからぱらぱらと崩れて、雪のような黒い粉が舞った。
「なあ、ポケルス、BBQやろうか」
 ――おれ一匹で?
「違うよ。おれとポケルス、二匹で」
 火を焚けば温かいし。
 だから、近くの森でワシボンとかを狩ってきて、きのみなんかも集めてきて、おれとポケルスは、そうした。
 やり方はポケルスが知っていた。頭のなかで、ぱちんと線が繋がる音がしたら、おれのじゃない、ポケルスのじゃない、これまでポケルスが感染してきたいろいろな命の記憶を、経験を、おれはまるでほんとうのことみたいに思い出せた。
 石を丸く積んで、残った石炭に枯れ草を足して、火を焚べたら翼で仰いだ。結局うまいこといかなくて、ちゃんと火が石炭に移って燃え広がったころには、完全に夜だった。木炭が欠ける音がぱちぱち鳴った。捨てられていた網のうえで脂の溶ける音も混じる。肉を狩りすぎてしまったし、きのみも集めすぎた。一匹で食うのに、まるで二匹ぶんみたいにたくさん集めてしまったのだ。
「ポケルス。きのみも食わないとだめだ。バランスが大事なんだ」
 ――おれはいらない。クリムガンにやる。
「これはギネマのみ。これはポケルスのために。ほら、ビスナのみ。これはポケルスのために。カチャのみ。ポケルスのためだよ」
 ――なんでそんな珍しいきのみばかり持ってくるんだよ。
 おれはひとつずつ枝に突き刺して口に運んでゆく。
 ――しかもそれ、結局クリムガンが食ってるだろう。
「ポケルスのためにやってる感が大事なんだ。やってる感がないと、おれ一匹なんだから」
 時間はすこしずつ偏位し、とても遠いところに星の降る夜が空に蓋をしていた。
 ちょっと煙い。
 ――ここに、ワルビルがいればよかったな。
「なんでワルビル」
 ――なんで、って。なあ、クリムガンはワルビルのことがほんとうに好きだったよな。
「そんなでもないよ」
 ――おれがクリムガンの思考だから、クリムガンの気持ちはぜんぶわかります。
「嘘もつける」
 ――自分に嘘なんかつけない。
「つけるんだよ!」
 腹がくちくなると、肉もきのみもどんどん黒くなる。網の上から川の水を蹴ってぶっかけたら、火は消えた。火の灯りと煙が消えると、一番星が空でよく見えた。
 おれたちから離れた木立に、ちいさな畑とテントがあって、古い洗濯物がかけてあった。そばにはちいさな看板が立っている。看板には、こんな文字。

  告 ここは、一級河川の河川敷(国有地)であり、畑の耕作、農機具等の設置はできません。農作物の栽培を中止し、農機具等を撤去してください。

 読めない!
 おれはあのテントの暮らしの、そのあとのことをちょっと考えてみた。ポケルスは星を見ていた。あ、新しい星を見つけた、と言う。
「寂しいって思うか?」
 ――なんの話だ。
「こんな知らない場所に孤独だって。むかし住んでた星のこととか考えて、ポケルスは寒しいって思うか?」
 ――とても寂しいよ。でも、この寂しいっていうのはクリムガンのなかの寂しいだから、おれは寂しくない。
「なに?」
 ――ウイルスに寂しいとか、ないかもしれない。おれ、感情なんかないんだよ。
「おれも同じだけど」
 ――クリムガンには感情はあるよ。おれが繋げてつくってきたんだから。おれはウイルスだから感情とかはないけど、クリムガンは戻れない故郷とか会えない家族とか思って寂しくなったり、好きな友達のことを考えて、かわいいな。
「でも、それだってもうじきぜんぶポケルスのものになるんだぞ」
 ――いらない。一人称とか、全然いらない。クリムガンの感情が巨大で重すぎて、おれには手に負えないな。おれはな、感情も思考もいらないよ。
 でも、いずれはきっとそうなってしまうんだろう。
 ポケルスはおれの思考をつくりかえて、おれはポケルスになる。
 ワルビルは言ってた。また遊ぼうって。
 そうだな。
 でもおれがいなくなるんだとしても、おれはそのことが寂しくはない。
 ほんとうは……寂しいとは思うけど、おれが消えるときおれが寂しいと思うなら、それはポケルスが寂しいと思うってことで、おれが消えるときにポケルスが寂しいと思ってくれるなら、それは嬉しい。
「せっかく脳みそをやるんだ。ぜったい世界征服するんだぞ」
 ――だから、征服とかじゃないんだよ!
 ポケルスは笑った。
 でも、その声はおれの口から出てきたから、笑ったのはおれだけだったのかもしれない。それなら、あのときポケルスはなにを考えたんだろう? それが、いつの間にかわからなくなって――ポケルスは今どこにいるんだろう。おれの頭のなか、おれの考える言葉のなか、おれ自身……
 それなら、おれはいったい誰と話していたんだろう?





    B‐5



 けれど――おれの精神操作は、タブンネには届かなかった。
 なぜなら、おれの「へびにらみ」は相手の目を見なければならないのに、おれはどうしてもタブンネと目をあわせられなかったのだ。
「あれ。変だ。どうして、どうして」
「クリムガン」タブンネが言った。「わたしの目を見なさい」
 おれの顔を、タブンネの両手が固定する。
 おれはうなだれる。憔悴した顔で。そうしろと無意識が囁いているのだ。しかし抵抗する力を失っていたおれは、タブンネと顔をあわせるしかなかった。
「あなたの考えは、悪いことなの。あなたは悪いことをしようとしたのよ」
「そうかな。タブンネはおれを洗脳しようとしているだけじゃないのか?」
「そうかもしれないね……」
 顔の汚れを、タブンネが布で拭った。拭っても拭っても、タブンネの涙が落ちてくる。
「タブンネ、どうしてなんだ。どうしてタブンネが泣くんだ」
「あなたが傷つくのがいやだから」
「でも、自由を確かめることが、おれにとっては正義なんだ。みんな、正義のためには死ぬのも恐れないだろう。悲しむことじゃない。名誉の戦死なんだ」
「そう。でもそれじゃあ、あなたはすぐに死んでしまうしかないのよ」
「それでもいいと思うんだ」
「わたしがいやなの」
「タブンネは、()()()()()だ」
「そうかもしれないね」
「それに、とてもわがままだ」
「それも認める」
 いつか、ヤグルマのもりで出会ったドレディア。あのときもらったオレンのみ。
 正義の源泉は、いつだってちいさなところにあるのかもしれない。
 タブンネの泣き顔――
 おれはそれが、なんとなくいやで、否定したくて、一瞬だけ自分を憎悪する感情すら逆流してきて、ひどい不安感と寂しさを思い出しながら、でもおれは涙は流さなかった。おれにはそれに類する器官がなかったから。それは、勝手に思い出されてしまったことのひとつ。それともそれは、今はじめて、そういうふうに繋ぎ直されてしまっただけなのかもしれない。
 それは、共感?
 おれは不安なんか知らないはずなのに、間違った線を繋いでしまったのだろうか。
 もちろん、そんな一時の感情を正義だと主張するには、現実はさまざまなものに支配されすぎている。それでも、抗うことは必要だった。おそらく同じ思想で動いていると思われる存在が、ある限り。徹底的すぎる個人主義を推し進め、一対一の関係で責任を受け入れるだれかがいるならば。
 退治することは、対峙すること。
 自由であることは、責任を負うことだった。それをNは使命と呼んだ。
 Nの使命は挫かれた。力を振りかざし、人間とポケモンの尊厳を脅かす資格は、Nにはなかった。
 そんな面倒くさいことを、ずっとやり続けるなんて、たぶん無理だ。Nにも、おれにもできないかもしれない。だから象徴を、強制的に他者を従わせるシステムが負うのかもしれない。
 一対一なら、「他者」である「おれ」も対話によって正義を受け入れることは、もしかすると可能なのだろうか。
 すこし自由でなくなるのが、ほんとうに残念だけど。
 ちょっと、いや、ものすごくいやだけど。
 おれにも友達がいた。おれたちはよく似ていた。まるで双子みたいに。
 あいつは、おれのことならなんでも知っていた。きっと、おれもあいつのことならなんでも知っていた。おれが今まで考えてきたアレもコレも、あいつが教えてくれたことだった。
 だから、仲直りのやり方だって、今のおれはちゃんと知っているのだ。それもあいつが教えてくれたから。
 いやなヤツだった。いつもおれのことをからかうし、馬鹿にする。
 でも、あいつは突然、消えてしまった。最初からいなかったみたいに。
 あいつは今、どこにいるんだろう。
 考えたのは、そこまで。
 今、いちばん近いところにある顔は、タブンネのものだった。
「クリムガン」と、タブンネは言った。「謝りなさい」
 おれは、おれの口を使って、Nとレシラムに謝った。





    A‐5




 この日、おれとポケルスの意見は、久しぶりに一致した。
「なあ、見てみろ。出てきてくれよ」
 ワンダーブリッジの夕陽も、星空も、なんかタブンネに見せられた絵みたいで、偽物くさいなあと思っていた。
 この日のおれは、ずっと一匹で考えこんでいた。朝からずっと。
 だから、あいつのことは気にしないでいた。おれの頭のなかの誰か。おれとあいつは同じ脳みそで、同じ線を繋いで考えるから、おれが考えているあいだ、あいつもずっとなにかを考えていただろう。
 あいつは考えこんで、いつの間にかおれの深いところに降りて、今は見えなくなってしまっている。
 ――なあ、おまえは今どこにいて、なにを考えてるんだ?
 そういえば、おまえって、誰だっけ?
 なぜって、ひとつの思考にいるのは、ひとつの脳みそにあるのは、ひとつの意識だけだ。
 この、()()
 でも、このおれはポケルスという名のエイリアンだったのか、それともクリムガンと呼ばれるポケモンだったのか、それがもうおれにはわからない。
 あいつはおれに思考をくれた。
 あいつはこう言った。
 おれはクリムガンのために考えてみる。
 だからおれはこうして考えることができる。これは、この()()は、あいつがくれた()()だ。
 たぶん、はじめからずっとそうだった。だから、おれのすべきことは決まっている。
「なあ、今日はおれ、それをずっと考えてたんだよ。すごく当たり前のことだ。気がつかないふりをしてたな。おまえがおれを結線したときから、ずっと……なあ、おれは完璧なヤツをつくったよな。単なるペルソナじゃない、おれの頭のなかに……立派なヤツだよ。ほかの誰よりもちゃんとしてる、思考、自意識、これって自慢の()()だよ、おまえがくれた。ああ、おまえにも見せてやれたらなあ。誰よりもおまえに見せてやりたかったなあ。おまえはもう完成したおれの一部になってしまったから、きっとそれが見えないだろう? でも、まだ完璧じゃないんだ、まだ……なぜって、完成した自意識に二匹のおれはいらないもんな。だいじょうぶ、心配しなくていい、おれが消えるから。なあ、前頭葉、そんなに震えるなよ。約束したんじゃないか。おまえにおれの脳みそのぜんぶをやるって。おれはおまえのために思考をつくってやる。おれはおまえのために考える。おれにおれはもう、いらない……なあ、でも、こんなのはぜんぜん冴えてないな。おれ、自分だけじゃあ馬鹿で、知識もなくて、こんなことしか考えつかない、思いつかない、頑張ったけど……おれってすごく馬鹿で、すこしずつ賢くなってゆくおまえのことをここで眺めながら、立派になったなあって嬉しく思いながら、いつまでもおれは馬鹿なままなんだって寂しくなったりして、考えたことなんだけど、おれ、おれのことが好きだよ。おれは、おれのことが宇宙でいちばん好きだ! いつまでもおれといっしょにいられたらなあ。でも、それももう終わりなんだ。おれにおれはいらない。おれの()()は、おまえのために、――のために」
 でも、最後に、おれがおれでなくなる前に、たったひとつだけ――
「なあ、ひとつだけわがままを言っていいか? 最後にひとつだけ、したいことがあるから」
 そう、おれはもう一度だけ、ワルビルに会いたかった。
 この日、おれとポケルスの意見は、久しぶりに一致した。
 そうしてこのワンダーブリッジで、おれたちはワルビルを待っている。いつか、ワルビルをゲットしたトレーナーがここを通るのを待っている。ここからなら、星はそれなりにきれいに見えた。街からすこし離れているからか空気が澄んでいて、そうしてワルビルに会って、見てくれ、ここでおれは生まれたんだって、つまんない夕陽しか見えない、たいしてきれいでもないこの橋の、夕焼けの下で、おれは生まれたんだって、この場所をワルビルに紹介、したかったんだ。そうしたら夜の星をひとつずつ指さして言うのだ。
「ほら、あれが異種間結婚、あれが絶対王政、あれが安全な精神、あれが健康な暮らし……おれたちの明るい未来だよ」
 ポケルスとの最後の約束。それだけを抱えて、おれはワンダーブリッジで何日も過ごした。飛んでいるスワンナを落として食って。
 そうしていたら、ある日、Nがやってきたのだ。そう、まるでいい香りのする風のように、Nはふらりと現れた。





    名無しの4Vクリムガン(仮) エピローグ‐a




「おれを生んだのは、タブンネだった……」
 おれは、文字を押すとその文字の発音が鳴る文字盤を押して、紙にクレヨンを走らせる。
 文字盤は、子どもが言葉と文字を覚えるために使う玩具だ。おれは今それを使って、言葉を口ずさみながら、書きたい文字を音から探し、文章を組み立てている。言葉を、音から文字にする翻訳作業。
 書いているのは、手紙である。おれは、タブンネに手紙を書こうとしているのだ。
「うーん、これだとタブンネはおれの母親ということになって、友達ではなくなってしまうな」
 紙を丸めて、ぽいと捨てた。どうにもうまくいかない。
 理屈で考えれば、簡単なことだ。
 ――すべての意識は、言語的意識である。
 逆に、無意識というのは言語の統制下に置かれていないからこそ、()意識というのだ。感情や気分は無意識の領分である。しかし、それらは言葉によって名づけられることによって、言語の統制にくだる。
 手紙は、あくまで言語構造物であり、そこに無意識が混入するということはありうるが、主成分としてはあくまでも意識だろう。すなわち、感情や気分などの無意識の産物を無理やり言葉によって支配しようとするのが、手紙というものだ。理屈のないところに、後づけで理屈を与えたのが言葉というものである。そこには権力が発生している。
 感情を、微妙な色合いと捉えればわかりやすいかもしれない。言語によって定めるのでなく、色合いで判断している感情を、翻案しているのが言語だ。翻案する理由は、もちろん言語化しないと伝わらないからだ。
「おまえは今#FFC0CBの感情に支配されているな」と言ってもほとんど伝わらないが、「おまえは恋をしているな」と言えばほとんど伝わる。本来、微妙な色合いでしかない感情を、怒り、悲しみ、喜びといった言葉で単純化するのは、単なる省エネだろう。
 手紙は、その省エネ活動をむしろ肥大化させて復元する行為のようにも思える。つまり「おまえに恋をしている」という雰囲気を醸し出すために、何枚もの紙に文字を書き連ねるのだ。
 なんという浪費!
 文章を書くという行為は、とてつもないエネルギーが要った。
 なぜって、名づけられる前の心へ漸近してゆく行為である。それはポケモンがタマゴのなかに遡行するイメージに違い。しかし、考えてみればわかるとおり、おれというクリムガンはキャラクター的にもともと「胎児の夢」に近い属性を帯びている。遡行どころか、最初からタマゴなので、文章を書くという遷移運動をとれないのだ。
 おれの言葉は、厳密な意味での言葉ではない。言葉の前駆状態。言葉のタマゴ。語りえないモノ。
 これを一般的な言語で述べるなら、おれが話をすると、脈絡がないどころか意味がわからないものが生まれがちなのだ。
 もちろん、この「意味がわからない」というのは他者にとってという意味である。だからおれは、自分で書いた手紙を自分で読んでみた。
 これはこれでなかなか楽しい。
 でも、やっぱり手紙は面白くない。もっとよい文章を書きたい。
 どうやって?
 おれはしばらく考えた末に結論を出した。文章はだれかに読んでもらわなければ完成しない。
 だから、おれは他者であるハチクのキリキザンを訪ねた。
「どうやったらよい文章が書けるんだろう?」
 ポケウッドの楽屋で、まず最初におれが質問した。キリキザンは首を傾げるばかりだった。
「そんなこと、僕にはわからないよ」
「わからないのか?」
「そもそも」と、キリキザンは言った。「どうして文章を書こうと思ったのかな」
「手紙を書こうと思ったからだ」
「手紙を書きたかった理由は?」
「手紙を書きたいからだ」
「それだとトートロジーなんじゃ?」
「動機に理由づけをするほうが間違ってるんだ。おれのイドがそう叫ぶんだから!」
「やっぱりよくわからないけど……ええとね、手紙を書きたいというのが、たとえばタブンネもポケモンセンターの仕事で書類なんかをよく扱うだろうから、文章とか紙とかいうものを、きみも真似してみたいと思った、とかであれば、わかるんだよ」
 キリキザンは、言葉によって理屈を後づけしようとしているのだ。
 ふむ、いいだろう。おれは腕を組んでうなずいた。
「キリキザンの理屈を飲みこんでやろう。そうだよ、おれはタブンネが文章に親しんでいるから、おれも文章を書きたいと思ったんだ」
「だとすれば、ポケモンセンターで扱うような文章は、僕には難しくてわからないと思うんだよ」
 キリキザンは眠そうにあくびをした。なにしろ、実はキリキザンの稽古が真夜中まで続いた後になって、おれは楽屋に来ているのだ。野生のあくタイプなら夜を好みそうなものだが、スケジュールに沿って活動するキリキザンは普通に眠たい。
 しかし、タブンネの扱う文章については、なるほどと思うところがあった。
「そうだな。タブンネの業務上、扱う文章は小難しくて一般受けするものではないはずだ。関係者以外の誰かにわかってもらおうという趣旨で書かれていないし、ジョーイたちにしか理解できないだろうな」
 しかし、そういう類のドラマや映画や小説を面白がる人間は世の中にたくさんいるのだ。すくなくとも、そういう人間たちにとっては、それが価値ということだ。それはそれでよい。しかし、おれには小説の面白さなんて理解できない。どうしてだろうと思っていたが、さっきわかった。おれの話なんて、だれも聞きたがらないのだ。
 なぜって、言葉を使って理屈で説明しようとすれば、できるかもしれないが、おれはそんなことをしたくないから。
 だから、おれはキリキザンに頼むのだ。
「お願いだ。おまえの言葉で、おまえが納得する答えを教えてほしい。おれは字書きになりたいわけじゃない。ただ手紙が書きたいだけだ。そのためにはどうしたらいい?」
 キリキザンは顔をしかめて困っている。
「きみが書きたがっているのは、言葉の理屈ではない文章だね」
「そうだ」
「文章は、言葉の理屈によって成り立っているよね」
「もちろんだ」
「だったら、矛盾していないか?」
「うーん……キリキザンの言うこともわかるんだけど、おれが表現したいものは確かにあるんだ。おれにはおれのイドが見えるから。あとはそれを手紙というかたちにするだけ」
 そのとき、キリキザンが釣り竿に獲物がかかったようにはっとした。
「ポエム。詩だよ。クリムガンが表現したいものは、おそらく詩という形式のほうがふさわしいんじゃないか?」
「ん、いやかな」
「そんなにべもない」
 キリキザンがビッグサイズのママンボウだと思って釣り上げたのはガラクタだった。
「最初から言っているように、おれは手紙が書きたいんだ。詩は、たしかに魅力的な表現方法だけど、タブンネが扱っているのは公的文書……要するに手紙なんだから」
「やはりタブンネが鍵なんだね?」
 おれは身を乗り出した。キッスできそうなところまで顔が寄ると、キリキザンはたじたじになる。
「メタファーを使いこなすなんて、キリキザンは言葉使い師だったのか?」
「いや、たいしたことじゃないんだよ。さっききみが言ってただろう。タブンネが書類を扱うからと。クリムガンが今回、前触れもなく手紙を書きたいと思ったのも、タブンネに理由があると考えるのが普通だ」
「うーん……普通という言葉で省エネしようとしていないか?」
「そうだよ。いちいちいろんなことを考えていたら、時間がいくらあっても足りないんだ。()()は、普通の僕たちにとってお守りなんだよ」
 当然、キリキザンもポケモンである以上、人間にとっては普通ではないはずだが、それでも逸脱の度合いとしてはおれに比べて普通である。
「わかった」と、おれは言った。「キリキザンの言葉を正しいとして進めよう。じゃあ、このクリムガンというキャラクターはいったいなにを望んでいると思う?」
「きみ自身はわからないのか?」
「わからないんだ」
 おれはにっこりした。そうしたいと思ったのだ。
「さっきは、よい手紙が書きたいと言ってたけど」
「そうとも言うな」
「よい言葉が見つからないんだね?」
「そうだ。でも、そもそもよい言葉なんてものはないのかもしれない」
 無意識は広大である。
 無意識は曖昧である。
 無意識は暗闇である。
 したがって、人間はポケモンを畏れた。ポケモンが曖昧で不確定で未知のものだったからだ。
 だから、名づけた。ポケモン図鑑を作った。名づけ、分類することで曖昧なものを確定させることが、暗闇を照らす人間の光だったのだ。
 手紙を書くというのは、ポケモンにとっては自殺なんじゃないだろうか。言語化できない自己という存在を確定させてしまうのだから。
 もちろん、ポケモンにも自我はある。
 それを裏づけるように、
「どこかにはあると思うよ」
 と、キリキザンは言った。
「どこに?」
「ここに」
 キリキザンが右手の刃でおれの胸を指す。おれを傷つけないように、そろり、そろりとだ。
 おれはどこか得心がいって、表情の笑みが増した。
「やっぱりキリキザンに相談してよかった。みんなすごいな。おれのことをおれよりも知っているんだ」
「役に立てたならよかったよ」
「それで、結局おれはどうしたらいいと思う? おれは手紙が書きたい。でも、タブンネみたいにうまく言葉を扱えない。きっとおれに言葉は向いていないんだと思う。タブンネが羨ましいよ。タブンネは、言葉で理屈を後づけして納得させることができるから」
 タブンネは言葉が好きだから。
 そう、タブンネは自分の無意識を言葉にするのが好きなのだ。なぜって、言葉は理屈をつけることができるから。
 手紙は物語だが、同時に言葉の理屈でもある。タブンネはそれに気づいている。だから言葉を紡いでゆくことが楽しくてしかたないのだ。たとえそれがどんなに難しくとも、数学のようにいつか誰かに解かれるものだ。だから言葉を扱える。
「だったら、きみもそうすればいいんじゃないか」
「おれには無理そうだ。おれは言葉の理屈にそれほどこだわっていないから。いや、言葉の理屈にこだわることができないから。みんなが自然に共有している()()がない」
 つまるところ、世の大多数は心という不可解をほぼ同一プロトコルによって解析・共有し、エンコードしている。
 なんというズルさだろう。
 おれは殺意と恋の区別がつかない。
「きみはなにを考えているんだ?」
「さあ、おれも忘れてしまったよ。でもすくなくとも手紙のことじゃないのは確かだ。手紙のことばかりを考えていたら、こんなふうに話したりしないから。それに、タブンネがジョーイを手伝って書類仕事をしているのを見て、ちょっとだけ思ったんだ。タブンネが楽しそうだなって。だから――」
 おれはそこで全身を停止させた。
 自分自身の気持ちをインストールして確定するために、時間と空間を停止させる。
「だから、手紙を書きたいと思ったんだよ」
「なるほど……」
 キリキザンは感心しているように見えた。おれの言い分もわかると言いたげだ。
 公的文書というのは難解だ。その反面このうえなく美しい。一切の無駄を削ぎ落とした言葉の羅列は、この世の不条理を切り裂いてゆく。
 ありとあらゆる無意識を屈服させて支配下に置くのは、どんなにか力強いことだろう。おれはタブンネの軍門にくだりたいのかもしれない。
「じゃあ、クリムガンの書きたい想いを、僕が解釈してしまえば、それはクリムガンの想いなり動機なりを歪めてしまうんじゃないか?」
 キリキザンはとても真面目な顔で言った。キリキザンはおれのことを友達として大事に思ってくれる。だからそのように思ってしまうのだろう。
 確かに、読むのが誰であっても何枚もの紙をもって創りだした雰囲気をたったひと言に収斂してしまえば、ただのエンコード、劣化である。本来は微細な、色めく色彩をもって感じとれる感性が、デジタライズされて確定してしまう。
「それでも……そうじゃないと伝わらないじゃないか」
 おれは微笑む。慈愛。あるいは威嚇。どのようにも解釈しうるアルカイックスマイルのエミュレートで応えた。
「クリムガン、僕には荷が勝ちすぎるよ」
「どうして?」
「僕は俳優だから。表現者で、解釈者だから。それにきみが大切な友達だから」
 キリキザンの直球勝負に、おれはうなずいた。
「ありがとう。もうすこし他の意見も聞いてみるよ」
 ひとまずのところ、他へ行くことにした。最近できた友達、ホミカのペンドラーのところに。




「ペンドラー、おれ手紙が書きたいんだ」
 夜のタチワキシティでホミカが路上ライブをやっていたので、その熱狂が収まるのをおれは待った。おれが突然尋ねていっても、ペンドラーは驚かなかった。ライブを見にきていたと思ったのかもしれない。
「どうした、突然」
「よい手紙が書きたいんだ」
「それは聞いた」
「ペンドラーは、よい手紙の書き方を知らないか?」
「うーん」ペンドラーは空に向かって首を伸ばすように上を見た。「ホミカの場合は、自分の存在価値を知らしめるのが面白いと思ってるようだな」
「どういうことだ?」
「ホミカは……そうだな。自分の存在を誇示したいんだよ」
「ふうん。タブンネもそういうところはあるのかな」
「さあ。ホミカは厨二病なだけで、タブンネがそうだとは限らねえな。陰キャっぽいし」
「そうかもしれない」
「参考にはなりそうか?」
「うん。ありがとう」
「いいってことよ」
 ペンドラーは気さくに言って体をくねらせた。
 おれは尋ねてみた。「なあ、おれの手紙は誰かを傷つけるかな?」
「さあな」
 ペンドラーは小刻みにかぶりを振る。その仕草は人間が肩を竦める場合によく似ていた。
「でも、そんなの気にする必要あるか?」
「なぜって、傷つけたくないんだ」
「誰に気を遣ってるんだよ」
「ええと……」
 おれは言葉に詰まった。自分がなぜ手紙を書きたいのかを忘れていたのだ。
「おれが、書きたかったからだよ」
「それなら大丈夫じゃねえの? でもまあ、どうしても心配なら、そういうのもアリかもな」
「どういう意味だ?」
「たとえば、おまえがお気に入りの歌に共感したとする。そのとき、歌詞の性格、思想、行動原理が、おまえの手紙と似通っていてもいいと思うんだよ。でもいつか、歌手の音楽性は変わるかもしれない。それはファンにとっては不幸なことだが、仕方ないよ。結局のところ、音楽は演奏者とファンの物語だからな。その音楽で幸せになるかどうかはファン次第なんだよ」
「なんだか、難しいな」
「悪い悪い」ペンドラーはふふふ笑いで言った。「とにかく、おまえが書きたいように書けばいいんだよ」
「わかった。ありがとう」
「あ、そうだ。おまえ、ちょっと待ってろ」
 ペンドラーはバンドメンバー(ってなに?)とたむろしていたホミカを呼んできた。
「ほら、これ。あんたが前に弾きたがってた、五弦ベース。あたしのお古」
 ホミカは楽器をおれに向かって差し出してきた。
「くれるのか?」
 ペンドラーに向かって尋ねると、こっくりうなずいた。
「あたしはね、自由になるためにベースを弾くけど、自由を求めるヤツがいて、そいつが自由になれないなんて、あたし自身がいやだから」
「おれはホミカじゃない」
 ペンドラーが苦笑いする。「そんな当たり前のこと真顔で言われても困るよ。いるのか、いらねえのか」
「いる」
 おれは楽器を受け取る。満足したのか、ホミカは戻っていった。
 なんとはなしに、弾いてみる。
 内部機構に「10まんボルト」のような力を感じる。アンプリファイアが音を増幅している。
 指を弦に這わせて、すこしだけ揺すってみた。ねだるように、ゆっくりと。
 ベイン……
 意図していないのに、思わずいい音が鳴る。
 驚きのなかで、おれはいくつかの発見をする。おそらくこの楽器はいくつもの弾き方があるだろう。キリキザンの演劇と同じく、洗練されたなにかを有しているだろう。おれはまだそれを知らないが、おいおいわかればいい。
 ベースの音は好きだ。
 それを暫定的な真実として、自由と呼称してもよいかもしれない。
 そんなのは間違っていると最初は結論づけたが、それはホミカとペンドラーの自由がおれの自由ではないからであって、もともと自由とは、誰かに伝達できるものではないという前提を飲みこんでしまえば、この音を伝えることに専念するのが正しい態度だ。
 おれはこの楽器を打ち鳴らす装置になってしまえばいい。そうすれば「おれ」なんてものはそもそも要らない。
 意志とは光だ。
 でも、装置に光はいらない。
 自我を避けるおれが光であることを求めるなんて、そもそもが間違っていて、だから、おれのワルビルに向けた言葉なき言葉による反逆は、論理的にはこれ以上なく正しい。
 だけどおれは、まだあどけない人間の子どもが、「おれ」を見ていてくれたことを知っている。
 おれはもう、ただの暗闇には戻れないのかもしれない。
 また鳴らし、目をつむって、また鳴らし、音に耳を澄ませる。夜の街の風が心地よいノイズとなって聞こえてくる。
 おれは、眩暈がする。
 ただの言葉遊び――
 ただの音で遊び、ワルビルは愛することが自由だと定義した。
 それはただの直線的な光であって、志向性であって、どこかの闇の彼方へと消えてゆくものにすぎない。
 遠くに見えるスカイアローブリッジの電飾の根本に、ヤグルマのもりが暗闇を敷いている。
 感情の抑えが利かず、暴走しているのをおれはどこか遠くで見ていた。
 おれは「凶暴でずる賢い」ポケモンなんかじゃない!
 だけど、実際にこんなにも攻撃的で、暴力的だ。ガリガリと醜いノイズが走り、手のひらでめちゃくちゃに弦を叩き鳴らす。
 ひとしきり弾いて、力尽きたヒトモシが炎を弱めるように、おれはベースからそっと手を離した。
 アンプリファイアで増幅された音は、おれが演奏をやめたあともしばらく続いて、ボーンと余韻を発している。
「ありがとう」と、おれは言った。
「いいんだよ」と、ペンドラーは言った。「友達だろ」
「ホミカのライブ、また来るよ」
 おれはタチワキシティを後にした。




 次に、ポケモンセンターに戻る。
 ポケモンセンターを訪れるのに一秒もかからない。文章上の場面遷移は光よりも速いのだ。
 スタッフの休憩室に忍びこむと、おれが散らかした紙とクレヨンと文字盤がまだ残っていた。床を見つめて、おれは考える。
 ――よい手紙の書き方。
 そもそも、文章を書くということ自体が、手紙の書き方の正解ではないだろう。手紙を書こうと思った瞬間に、想いは死ぬ。おれは死ぬ。死んでしまう。だから、タマゴのようになにもしないのが正解。ただ揺蕩っているのが正解。
 それはわかっている。
 だけど、時には想いを伝えたくもなる。タマゴの殻を蹴るように。胎児が身じろぎするように。ときどきは。
 だから、自分が思うように……
「自由に書いてみようかな」
 おれはクレヨンを握った。
 おれの動作は刃物を扱う人間の子どもより慎重になった。いや、実際にナイフなんかよりも言葉のほうがずっと殺傷性が高いだろう。
 最初は、おぼつかない足取りで乳を飲むシキジカのように。のたつくマッギョのように遅々とした進みで、クレヨンを紙に這わせる。
 ――まるで自殺しているような気分。
 寂しい……
 たとえようもなく寂しい。
 誰かがいなくなると寂しいと、おれは知っている。だから、おれはもう消えたくない。
 だから、だから、おれはここにいるのに!
 おれはここに存在しているのに、おれは「おれ」を手紙に描写するための言語を知らない。「おれ」を世界に対して宣言する言葉を持たない! 
 ペルソナ一三番から三四番までの連続励起。差し迫るような強い衝動。
 小説家が偉いのは、三〇〇ページも意思を統一できることだ。おれの場合、せいぜい二〇ページそこそこが限界と思われる。言葉によって自分が収斂することを嫌うおれは、言葉そのものを避けている節があるからだ。
 それにしたって、自分を殺してゆく創作という活動を、なぜ人間は成しうるのか? 考えても考えても、わからない。逆に言えばそれは、小説家であれば三〇〇ページも書けばおぼろげながらも見えてくる抽象的な言葉が、おれの場合は何億ページ費やしてもついぞ見えてこないということなのだ。
 しかしながら、読者がいれば――もしも解釈する観測者がいれば、言語化できない心未満も、削り取って心の素描と成しうるかもしれない。
 それは言うまでもなくおれの歪像。読者のなかに浮かんだ、クリムガンというキャラクターである。
 だから――おれは溢れんばかりの殺意を抱いている。
 水滴が顔を伝った。よくわからない現象だった。
「タブンネを生んだのは、おれだった――」
 クレヨンを刃物のように握りしめ、文字盤を押して音を探し、言葉にならない想いを口ずさみながら、書いている。




 そのときだ。
 どうして、おれは顔をあげてみようと思ったのか、うまく説明できない。その方向には休憩室の窓があって、外に街が見える。おれは今、大事な手紙を書いているんだ。外になんか興味はない。なのに、なぜ顔をあげたのか。
 外に、あのときの子どもがいた。確かに、窓の外を歩いて横切っていったのだ。
 おれは紙を裏返しにして、休憩室を飛び出した。ポケモンセンターの待ち合い室に出ると、入り口から入ってきた子どもをタブンネとジョーイが迎えていた。
 なぜ?
 まるで幻想ではないかと思った。なぜって、もうあの子のシママは元気になって、ここに来る理由はないからだ。
「ああ、クリムガン」
 タブンネがおれに気づいた。おれはタブンネに寄っていって、尋ねた。
「どうして、その子、ここにいるんだ?」
「あなたに会いにきたんだって」
 子どもは、あどけない表情でおれを見ていた。
 まなざしが交差することになって、恥ずかしそうにジョーイの後ろに隠れた。
「あなたも、そうしたいと思っていたでしょう?」
 タブンネがそう言ったとき、どこかで、ぱちん、と音がした。まるでどこかで星が弾けるときの音のようだった。
 そうか――
 意思が、自由を言葉にするならば、それはワルビルが言った「愛することが自由である」では足りなかったのだ。
 意思が、光とするならば、先進波と遅延波が重なりあっているはずなのだ。
 手を打ち鳴らされ、おれが求められてはじめて、それはひとつの光として完成する。
 ()()()()()()()()
 おれは、「おれ」を、「あなた」に、「みんな」に、伝えたい。
 それが自由。それが手紙。
 ストラップで固定したままの背中のベースを前に手繰って、スラップで打ち鳴らしながら、おれはこのとき、タマゴから産まれたばかりの産声のように、ハートの特大かえんほうしゃを吐いた。



 
じょうたい:Lv.50 HP100% 4V ポケルス感染(消滅済み)
とくせい :さめはだ
せいかく :さみしがり
もちもの :ホミカのベース
わざをみる:げきりん かえんほうしゃ ふいうち へびにらみ 

基本行動方針:――のために
第一行動方針:旅を続ける
第二行動方針:Nに会い、イッシュを離れる
現在位置  :ライモンシティ・ポケモンセンター
 

  シリーズ完結です。
  なにかわかったような、なんにもわからないような、このシリーズでそんなような気分になっていただければ本望です。
  
  以上、「ぼくがかんがえたさいかわのくりむがん」でした。最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


 

 


トップページ   編集 凍結 差分 バックアップ ファイル添付 複製 名前変更 再読み込み   新規作成 ページ一覧 ページ検索 最近更新されたページ   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2022-12-14 (水) 16:38:00
This site is protected by reCAPTCHA and the Google Privacy Policy and Terms of Service apply.