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名無しの4∨クリムガン シッポウシティのムーランド

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名無しの4∨クリムガン プロローグ】 
名無しの4∨クリムガン ヤグルマの森で】 
名無しの4∨クリムガン 人間とポケモンの非構成的証明の法則】 
名無しの4∨クリムガン 夕陽の色の生存戦略テロル




 もう少し、おれの話を続けよう。
 おれは、人間の手を離れたポケモンだ。人間の決めた分類にしたがっていうならば、「クリムガン」という種族であるらしく、これは一般に「鋭いキバや爪で獲物を捕獲する獰猛なもの」であるらしい。
 失礼な話だ。人間だって、出身地別に「おおむねケチである」とか「一般に女たらしである」なんて分類されたら腹を立てるだろうに。
 クリムガンという種族のポケモンは、「リュウラセンの塔」という場所のあたりに生息しているようだ。おれはそこへ行ったことがないし、将来的にも行く見込みがあるかどうか怪しい。おれが探している場所――美しい夕陽を眺められる大きな橋。おれがタマゴから孵ったのがそこなのだ――を見つけられたなら、こんなふうにふらふらと各地を歩き回るつもりもなかった。リュウラセンの塔はおれの探している場所ではないだろうし、どうやらクリムガンというポケモンは「獰猛である」らしいので、いまさらおれが木の実なんかを手土産に提げて彼らの住み処にのこのこと現れても、「やあやあよく来たね」なんて同族にこころよく受け入れてもらえるとも思えないからだ。
 つまり、どこかの見知らぬトレーナーがおれをゲットしたりしない限りは、おれは野生のポケモンであり続けるつもりだということだ。
 そのための心得というのも、少しばかり身につけた。まず、人間に不都合なことはしないこと。野生のポケモンに睨まれるようなこともしないこと。それから、寝床はあたたかいところを探すこと。このみっつの条件を満たすことができれば、野生で生きていくのもたいして苦ではない。
 野生であろうとなかろうと、ポケモンだろうと人間だろうと、みなそれぞれに分を弁えて生きている。でなくては、面倒を被るのは自分だからだ。現におれがそうだ。野生だからといって、好き勝手に生きられるわけじゃない。野生には野生なりのルールがあるのだ。
 しかし。
 おれとは違って、人間のもとにいるポケモンであっても、ルール違反を肯定することがあるらしい。珍しいことかもしれないけれど、おれとしては「なるほど」と思うところもあった。ポケモンだって、思考し、思想する生き物なのだ。それぞれに信念があり、正義がある。
 けれど意外だったのは、そのポケモンは、とくにルールを遵守しなくてはならない種類の人間のもとにいたということだ。そういう人間と暮らしていて、よくもそんな精神が育ったものだと思ったのだ。
 持って回った言い方はよそう。
 そのポケモンのトレーナーは、ジムリーダーだったのだ。
 シッポウシティジムリーダー、アロエ。彼女の相棒であるところのムーランドは、こんなふうに考えていた。
 ――人間が人間を殺すのは、善いことなのかもしれない。





    シッポウシティのムーランド




 大きく切り取られた窓ガラスから、柔らかな陽光が入りこんでいる。まるで光の帯のようだ。幻想びいきなイッシュの人間なら、妖精が舞っているとでも表現するのだろう。
 おれは、微少な埃が光を適度に反射する現象――いわゆるチンダル現象が、妖精のように誤認されることはありうるだろうと規定する。まあ、それは見方の違いだ。
 ポケモンセンター。
 午後になれば人がたくさん訪れる場所も、午前十時三十ニ分を四十ニ秒ほど経過したころにあっては、まだ喧騒とは程遠い。
 おれは、シッポウシティにいた。
 喫茶店の多いこの街は、表を歩けば誰もが優雅に紅茶をたしなみつつ、そしてそのうちの半分ほどは、無粋なことにもう片方の手に新聞を握っていた。
 無粋、と言ったのはおれではない。ムーランドだ。
 そのムーランドいわく、この場合の無粋というのは、二重の意味がある。
 ひとつは、紅茶をたしなむ時間に、無骨な灰色の紙を目の前でちらつかせるという行為に対して。これは趣味の違いであるからとやかく言うまい。
 もうひとつは、知人が目の前にありながら、人間が司る最良のコミュニケーション・ツール、いわゆる会話を選択しないことに対してだった。ひとりで喫茶店に来ているのならともかくとして、誰かと連れ立って来ているのなら、新聞に気を取られて相手を無視するのは礼を失していることではないか。新聞が読みたいのなら、ひとりのときに気の済むまで読めばいいのだ。
 そんなことを言っていたムーランドも、人間の真似事をして、よく新聞を眺めていたものだ。というのも、おれはしばらくの間この街に滞在していて、ムーランドに出会うと、彼はいつも新聞を読んでいたのだ。
 おれがシッポウシティに滞在していたことに、深い理由はない。ちょっとばかりポケモン・バトルになれておこうと思って、ポケモンセンターを拠点として腕を磨いていたのだ。
 おれは前に一度、野生のポケモンに襲われてかなり無茶なバトルを演じ、相手をなんとか巻いて、びっこを引いて街まで逃げ込んだまではよかったが、そのままぶっ倒れてしまったことがあった。気がつくとそこはポケモンセンターで、おれの体には傷ひとつ残っていなかった。親切な誰かが、運び込んでくれたか、ジョーイに知らせてくれたかしたのだろう。
 それ以来、おれはポケモンセンターによく世話になっている。ポケモンセンターというのは便利なもので、食い物も寝床も用意してくれるし、満身創痍のポケモンがやってきたなら、それが野生であっても治療してくれる。もっとも、ポケモンというのは危機的なダメージを負うと、体力が戻るまで体を小さくして身を隠す習性があるので、たいていのポケモンはそのようにして難を逃れている。自分から治療を受けにポケモンセンターへやってくる野生ポケモンなど、滅多にいないらしい。
 おれは、このことをかなり疑問に思っている。使えるものは使っておけばいいじゃないか。こんなに便利なのに。思わず居ついてしまいそうになるくらいだ、野生のポケモンなりのプライドとかがあるのかもしれないが、おれにはそんな趣味はない。
 そういうわけで、シッポウシティのポケモンセンターにいるジョーイと、お供のタブンネとはすっかり顔なじみになっていた。おれはこんななりをしているものだから、最初は驚かれて身構えられたりもしたけれど、そのうち、おれがのしのしとポケモンセンターへ入ってくると、なにも言わずに治療室まで案内してくれるようになった。
 そんなことをしているうちに、おれは、頻繁にポケモンセンターを訪れるムーランドがいることに気づいたのだ。
「あいつ、いつもなにしてるんだ」
 ある日、おれはタブンネにきいてみた。
「見たまんま。新聞読んでるんじゃないかな?」
 今日もムーランドは、地面に折り畳んだ新聞を置いて、覗き込むようにして記事を読んでいる。ポケモンセンターにあるフレンドリィショップで売られているもので、おそらくトレーナーに買い与えられているのだろう。
「別に」と、おれは言った。「とんちをやりたいわけじゃない。なんでポケモンがあんなこと」
 タブンネは目をぱちぱちさせた。それから、「あ、そういうことね」と手を合わせた。
「あのムーランドのトレーナー。アロエさんっていってね。この街のジムリーダーなの」
 ほら、とタブンネが向ける視線の先に、恰幅のいい女性のトレーナーがいた。カフェスペースに席をとって、なにか分厚い本を読んでいる。彼女の顔は、街の中でもときどき見かけることがあった。チラシとか、本の表紙とかで。
「それで?」と、おれは先を促した。「トレーナーがジムリーダーだと、どうしてポケモンが新聞を読むんだ?」
「アロエさん、考古学者なの」
 なるほど。
 主人を見ているうちに、自分もむずかしいことを考えることが好きになってしまったわけだ。
「ポケモンが文字を読みたがるなんて、変わってるな」
 言うまでもなく、おれは文字なんてさっぱりだ。たいていのポケモンはそうだろう。
 おれたちの視線に気づいたのか、ムーランドがこっちを見た。タブンネはにっこりした。
「そうね、変わってるかも。ポケモンセンターに通う野生ポケモンくらいにね」




 それからそのムーランドとは、ポケモンセンターで顔を合わせると、顎を頷かせて挨拶するくらいの知り合いになった。ジムリーダーというのもいろいろ大変なようで、おれがポケモンセンターへやってくると、しょっちゅうアロエとムーランドに出会った。おれは向こうを「変わり者」だと思っているが、向こうも向こうでおれのことを「変わり者」だと思っているだろうから、お互い顔を覚えるのも早かった。
 とうとう、おれは変わり者のムーランドに興味を抑えきれなくなった。あんなに熱心に読んでいるのだから、新聞というのもなにがし面白いものなのだろう。今日もアロエはカフェスペースにいて、ムーランドは新聞に夢中だ。
「なあ」おれは、ムーランドに近づいていって、声をかけた。「なにを読んでるんだ?」 
「うん?」
 ムーランドは、新聞から顔をあげた。おれを見て、怪訝そうな顔になる。いきなり話しかけるには不躾すぎたかもしれない。顔見知りといったって、親しいわけではないのだから。
 一方ムーランドは、おれが思ったほど警戒しているわけでもなかったようで、鼻から長く息を吐きながら、ゆっくりと首を回した。おれはおかしかった。ポケモンでも、人間みたいに首や肩が凝ったりするのだろうか。
「失礼。いつも、そうやって新聞を読んでるだろう。今日は面白いことが書いてあったか?」
「そうだな」と、ムーランドは言った。「たいした記事じゃないが」
 ムーランドが前足で新聞をおれに寄せる。見せてもらっても、おれにはなにが書いてあるのかわからない。新聞を見て、それからムーランドを見て、首を横に振った。ムーランドは記事を読みあげてくれた。 
 記事は、どこにでもあるような残酷物語。大きな見出しで、人間の子どもが親を殺した記事が、一面に載っていた。
 それだけだった。
 別に、さして面白いとは思えなかった。ムーランドも言っていたように、たいした記事じゃない。
 どんなに異常なことだとはいえ、イッシュに人類が億単位で暮らしている以上、殺人事件なんて珍しくもないだろう。テロも戦争もなくなってはいないのだし、いまさら、人間が人間を殺した程度で記事になるなんて、「あら平和な国ですこと」と評価されてもおかしくない。
 逆に言えば、その程度のことに、なぜムーランドは興味を持つのか、気になった。
「どういうことなんだ?」
 おれは、素直にきいてみた。するとムーランドは、目を細めて含み笑い。
「もしかすると、これは人間にとって善いことなのかもしれん」
「人殺しが? それとも、親殺しが?」
「人殺しが、だろうか」
 おれは、しばし考えた。おれは、知識はほとんどないけれど、考える能力は、ある方だと思う。
 殺人が一般的に悪いことは、まあほとんどの人間が頷くところだろう。親殺しが、普通の殺人より倫理的に重い意味を持つということも、たぶん半分ぐらいはうなずける。昔は、尊属殺人なんてのもあったというくらいだ。
 ただ、ムーランドが言うには、人殺しがメインテーマらしい。親殺しかどうかは、今回の事件記事がたまたまそうだっただけで、ムーランドは殺人自体を祝福しているのだ。
 しかし、その結論は一般論とは矛盾する。
 情報が足りない。
「ヒントが欲しい、という顔をしているな」
 ムーランドの声に、意識を思考から現実に戻す。「さしつかえがないなら」と、おれは言った。
「胎児の夢」
 ゆっくりと、なにか重要なものを託すように、ムーランドは神妙に言った。
「胎児の夢?」
「そう。胎児の夢」
 ムーランドが宙空を見つめる。視線の先に、この世ならざるなにかが見えているような、ぼんやりとした眼差し。
 面白い、とおれは思った。
「降参だ」
「おや。早いね」
「降参が全面降伏とは限らない」
 ひょっとすると、前提からして間違っているのかもしれない。
 おれは、彼がどうして記事に興味を持ったのかを知りたいと思った。だから、それを彼の問題だと設定した。彼も、おれがそう考えたのを察して、ヒントを出そうと提示した。
 しかしよく考えると、問題だと設定したのはおれの方だ。これが本当に問題といえるほどにフェアなものなのかは、不可知だった。
「ずいぶんとまあ、理詰めな考え方だ」ムーランドは少し笑った。「解けるたぐいのものではないと言いたいのかな?」
「まあ、そうだ」
 まあ、そうなんだが……悔しいだろ?
「そう拗ねなさんな」
「別に拗ねちゃいない」
「機嫌をなおして。きちんと説明するから」




「どうも人間は、手を動かすことに対しては勤勉だけど、思考することに関しては怠惰だ」
 それは、誰からもらった言葉なのだろう。
 ムーランドの言葉は、柔らかな物腰にくるまれているせいか、そんなに辛らつには感じなかったが、わりと痛いところを突いているように思えた。
 しかし、反論のひとつぐらいは言ってやろう。
「ずいぶんと、ひどい言い草だな」
「しかし、事実だ」
「考えている人間もいるだろう」
「そうだろうか? この国は、正義がない国だ。それも当然といえば当然のことだろう。人間の正義は社会契約論が基礎になっているわけだが、この国の場合は、よそから輸入してきたものだから、変になってくるのだ」
「人間は、概念の輸入には慣れてると思うが」
「そうだな。しかし、それは概念の変質を許すということになる。宗教にしたって、本場と比べれば別物だよ」
「それはそうかもしれないな」
「この国における正義は……」ムーランドは、そこで言葉を選ぶように、少し声を詰まらせた。
「とどのつまり、『しきたりどおりにしなさい』という程度の意味でしかないのだ」
 それは、言いすぎではないだろうか。
 野生のポケモンであるおれだって、たとえば人間を殺してはいけないことぐらいは、法律を検討するまでもなく理解できる。それが正義に沿うことも。
「きみが言う正義は、共同体主義や社会契約論以前の正義に思えるなぁ」
「ポケモンらしい考えだろう」
「そう。とても純朴だ。わたし自身としては、そんなに悪くない選択だといえる。正義の根源を、契約ではなく個人単位で見ているからね」
 ますますわかりにくい。
 いきなり正義論に飛んだかと思えば、今度はおれの正義を分析しようとしているのだろうか?
「分析できるものじゃない。先にも言ったとおり、この国の正義は思考停止で成り立っている。直感主義にかなり近いところにある、危うい概念だ」
「そうなのか?」
「たとえば、そうだな……簡単な命題だ」
 冷たい方程式、とムーランドは言った。
 宇宙船にひとりの密航者がいる。密航者を殺さなければ、宇宙船は目的地に辿りつかない。宇宙船を操縦できるのは自分だけで、目的地には病の治療薬を待っている人がたくさんいるという例題。
 もちろんこの場合、ひとりの人間と大勢の人間のどちらを助けるか、という問いが設定されているわけだ。
「どちらが、お望みの結末かな」
「問題自体が気持ち悪いな」
「しかし、その決断が迫られる立場にいる人間もいる。この国は……そうではなかった。歴史的に見ても、大過があればそれは人ならざるものの――ポケモンの責任だったのだ。正義の根源とは、責任をとるべき人間が責任をとることにある。人間の責任でない以上、正義に反する人間はいない。つまり、頂点に立つ人間は、いつだって責任をとってこなかった」
「ハラキリというのがあるらしいじゃないか。あれなんて、究極の責任の取り方だ」
「もちろん」と、ムーランドは言った。
「人間がしたことに対しては、責任が設定されていた。だが、人間がどうしようもないことに対しては、目をつむり、思考を停止させきた。冷たい方程式にしても、多くの人間は『しかたない』としてひとりを殺すか。『しかたない』として大勢を見捨てるかだ」
 人間なら、そうするのだろう。それはいい。では、ポケモンの考え方は違うのだろうか。
「ニュアンスが伝わりにくかったかな。わたしが言いたいのは、人間はそういう立場に立ちたくはないし、永久に決断しないでおきたい種族だということだよ」
「それは、悪いことなのか?」
「いいや。悪いことじゃない。人間の正義は、人間の無意識の中にしまわれているのだ。宝石箱のように、大事に。だから、怖くもあり、好奇心もあるというところだろうか」
 妙な話だ。
 イッシュらしい、幻想的な話。
 社会に密接な正義という概念すらも、彼にとっては宝石のように眺めて遊ぶ道具に過ぎないのだ。話半分に聞いておかないと、こっちが疲れてしまいそうだった。
「それで」おれは話を切り替えることにした。「正義の話はわかった。それが、この事件とどう関わってくるんだ?」
 ムーランドは、ぶるぶると体を震わせた。長い体毛が波打って、ふわりと着地する。
「人間式に考えると、正義は常に身近なところにしか存在しない。手を広げられる範囲でしかない。逆に言えば、ほんの少しでも手に余るようなら、もはや正義の領域ではなく、ポケモンや――それこそ神の仕業ということになる。人を殺すのも、同じように言えるかもしれない」
「人を殺すのは、究極的に個人的な所業だろう?」
「本当に、そうだろうか」
 ムーランドは、じっとおれを見つめる。
 わずかに冷たく、それでいて理知的な光をたたえた視線。その視線が、おれをなめまわすように見ていた。
 がんばれ、とおれは自分に向けて言った。
 ここがふんばりどころだ。
 彼はおれを試しているのだ。見た目どおりの、いかにも馬鹿で力ずくなポケモンだと思われるのは、気に入らない。
「くはははっ」
 唐突に、ムーランドは声をたてて笑った。
「なんだ?」
「いやね。きみ、ずいぶんとかわいらしい顔をしていたものだから。つい」
 おれは呆れてしまった。おれなりに真面目に考えていたつもりだというのに。
「むふふ。すまなかった。茶化してるつもりはないんだ」
「それで、こう言いたいのか? 殺人が個人から離れているから、つまり神の仕業になっているから、悪いことではなくなっていると」
「惜しい」ムーランドはいたずらっぽい笑みになった。「その言い分だと、確かに悪いことではなくなっているかもしれない。だが、善いことでもない」
「ああ、そうか」
「もうひとつヒントをやろう。人間の歴史において、殺人という行為はだんだんと個人の領域を離れていると言えないか? たとえば、大昔は剣や槍で殺すしかなかったが、そのうちポケモンが戦争をするようになり、銃や爆弾ができ、それからレシプロ機、戦闘機、戦車……最後には小さなボタン一個に成り果ててしまった。間接的に人間を殺すのが主流になっていったのだ」
 痴話喧嘩では、今でも包丁が大活躍だ。
「わたしは歴史の話をしている」
「歴史……」
 そう言われても、時間と場所に規定される歴史のことは、おれにはわからない。どうも会話の主導権は、ムーランドに握られっぱなしのようだ。
 悔しくもある。しかし、そういう会話が心地よくもあった。なにより、ムーランドの言葉に対する力の入れ具合が、妙に耳触りがよかったのだ。トレーナーが学者だと、そんな話し方になるのだろうか。
 おれを洗脳しようとしているのかもしれない。
 ムーランドは鷹揚に笑ってみせた。
「とりあえず、まとめよう。殺人は、少しずつ人間の手を離れていった。これが歴史の流れだ。そして、人間の考え方では個人の領域を離れてしまうとそれは罪でなくなるわけだから、人間はだんだん人間を殺すことの罪から逃れていったのだ」
 ムーランドの言葉は、ずいぶんと抽象的だった。あまりにも抽象的すぎて、現実離れしている。
 今の時代でも、当然、殺人罪はある。人間を殺せば罪になる。
 しかし、彼が言いたいのはそういうことではなく、人間という種に対して言及しているらしい。
 少しわかった。
 ムーランドがあの新聞について述べたのは、個人であるところの子どもが親を殺したということではなく、誰でもない少年Aが被害者Vを殺したことを指しているのだ。
 なるほど。
 何度か頷いてはみるものの、だからといってどうして殺人が善いのかは。やっぱりわからなかった。
 人間の手を離れた「殺人」が悪いことでないのは、論理的には理解できる。しかし、それを善いことであると評価する論理が思いつかない。
 おれはムーランドにたずねた。
「『善い』っていうのは、どういう概念なんだ?」
「『少なくとも悪いことではない』というような、消極的な概念ではない。もっと積極的に、なんとはなしに救われた気分になれるような、そんな感じだ」
「もしかして、裏のメシ屋の炒飯がうまいとか、そういうレベルか」
「いいや。きみにも、第三者にも伝達しうる概念として考えている。そうだな。真面目に言うと、自由であることだろうか」
「自由であるためには、人間を殺してもいい?」
「そう」ムーランドは顎を引いて頷いた。「人間を殺す程度、自由のためならしかたない」
 ポケモンならば、そうだろう。しかし、今は人間の規格で話をしているのだ。どこの革命家だという感じである。
「まあ、そこまで極端な話でもない。わかりやすく言えば、正当防衛だよ。自分の自由を守るためなら、人間を殺す場合もある。そのとき、正当防衛はわたしにとっては正義に適う行為だろう?」
「正当防衛が正義というわけだな」
「そうだ。もう、答えを言ったも同然だな」
 そんなことをムーランドは言うが、やっぱりよくわからなかった。
 殺人が正当防衛で、正義に適うという主張は、わからなくもない。
 しかし、そもそも新聞には、ただ単に子どもが親を殺したとしか書いていない。少なくとも、ムーランドが読み上げた話ではそうだ。
 もしかすると、彼の情報網で、そこらの事情を知っていたというオチなのか。ジムリーダーのトレーナーを持つのだから、ありうるのかもしれない。
「ひとつ聞きたいんだが、あんたは新聞の少年が親を殺したときの状況を知ってるのか?」
「状況?」
「たとえば、その子が親に虐待されていて、正当防衛で殺したとか、そんな話なのか」
「いいや。まったく知らん」
「じゃあ、その子でないと成立しないような話か?」
「むう。それは……」
 ムーランドは、少し言いよどむ。「そうかもしれない」
「というか、推理で答えがでるような類の話なのか?」
「推理では無理だ。しかし、答えはすでに持っているかもしれない」
 にやにやと、不敵に笑う。
 おれは、だんだん面倒くさくなってきた。
「降参か?」と、ムーランドは言った。
「ああ。ギブ・アップだ。おれが悪かった」
「そうか。では、これを見てもらおう」




 問題が新聞なら、答えが載っているのも新聞だった。
 ムーランドは、新聞をひっくり返し、別の記事をおれに見せた。
「これは?」
「見てのとおり、新聞だよ」
 だから、おれはとんちをしたいわけではないのだ。
「ここだ」
 ムーランドは前足で、あるひとつの記事を指した。
 いや――記事と呼べるほどたいしたものではない。細長い三センチ×十五センチぐらいの枠に囲まれた、小さなコラムだった。
 ムーランドが読みあげる。





 ――胎生環境と悪の控除について

 人が人を育てるという行為、教育するという行為に共通して言えることは、時間との戦いであるということです。人は長ずるにしたがって脳の柔らかさが失われ、筋肉の柔らかさが失われ、神経は劣化します。一言で言えば老化という現象によって、さまざまな教育を施すことが困難になっていくのは、皆様の経験からしても明らかであると思います。
 幼い頃は成長という言葉で修飾されているため気づきにくいのですが、老化という現象は不可逆的で例外はありません。人はどの時点においても老いていっているのです。
 では、生存時間の最も最初期である胎児の時期はどうでしょう。
 このとき、人の可能性は無限に限りなく近接していると言えます。つまり、この時期における教育こそが最も効率的であり、生まれてからでは二度と手に入らない黄金時代であるのです。
 我々が提唱する技術「胎生環境控除措置」は、この人間の黄金時代において適切な教師をつけようというものです。
 ところで胎児は、実をいうとまんじりと眠っているわけではなく、ある種の教育を日々受けているのです。胎児は生まれてくる日を夢見ながら、生まれたあとにどう生きればよいかの大綱的な教えを、そのDNAに刻まれた記憶から解凍し、読み取っているわけです。
 たとえば、シキジカが生まれたあとすぐに立ち上がるのは、胎児の夢の教育の賜物であるといえます。同じく、バスラオが生まれてすぐに泳げるのも胎児の夢のおかげです。もちろん人間も例外ではありません。
 人間に限らず、高等な生物はDNAによる教育を受けていると言えるのです。
 しかし、このDNAによる教育は必ずしも人間にとって、とりわけ人間が作り出してきた正義や倫理といった観念にとって、当を得ていない場合がありうるのです。
 むしろ、人間にとって悪と呼ばれる概念を助長することが多いのです。
 なぜなら、先に述べた教師役であるところの胎児の夢は、総じて悪夢であるからです。これは当たり前のことなのです。胎児は成長するに従って、数千倍に濃縮された生命の歴史を一息のうちに眺めていきます。すなわち、胎児の夢は、生命の歴史なのです。
 では、生命の歴史はどんなものだったか。
 言うまでもなく、生命の歴史は戦いの歴史といえるでしょう。殺戮、略奪、裏切り、食うか食われるか、そんな闘争と逃走と穢れに満ちた歴史こそが、生命の断ち切れない業というもの。人間が生まれてからも、その歴史は変わることなく続きます。むしろ、高等になった分だけ、虐げる方法は巧妙を極め、人を蹴落とし、嫉妬し、不快極まる負の感情を、その小さな脳みその中にぐつぐつと沸騰させているのです。
 仮に、人の歴史に表題をつけるとするならば「呪われた歴史」あるいは「血塗られた歴史」あたりが妥当でしょう。
 このように、人は最も大事な教育期間に、人間と生命の呪われた部分を、拒否することもできないまま見せられ続けるわけです。そのとき、胎児の未発達な心のなかには、呪われた因子が永久に刻みこまれるわけです。皆様も経験がおありでしょうが、幼児期の記憶はなかなか忘れないように、胎児の記憶は死ぬまで消し去ることができないわけです。
 そこで我々は考えました。この胎生環境を適切に整えて、胎児が悪夢を見ないで済むのならどうなるだろう、と。
 技術的な事柄については紙面が足りないので省略しますが、それは我々にとって決して不可能なことではありませんでした。もちろん、怒りや闘争心がまったくなければ、生きていくことは困難です。しかし、千倍に濃縮した悪夢より、善き夢と悪夢とを適切に見せることが、人間として生きるうえでの最高の教育になりうるのではないでしょうか。
 昨今では、子どもが親を殺すというような凄惨な事件も増加しておりますが、我々の技術によって適切な教育を施せば、そのような事件はひとつもなくなるものと信じております。





 だいたい、わかった。
「な、反吐が出そうだろう」
 涼しそうな顔で毒を吐くムーランド。恐ろしい。しかし、言いたいことはわからなくもない。おれも生理的な嫌悪感は沸いたし、なにかとても神聖な部分を穢されたような感覚を受けた。そういう感覚的な事柄で科学を否定するのは、野生のポケモンのスタンスとしては間違っていない。
 だから、おれは適当にお茶をにごした。
「そんな技術があるなんて知らなかった」
「きみは野生なのだから、知らなくて当然だ」
 なんだそれは。
 やはりアンフェアだ。
「加害者の少年は、その……『胎生環境控除措置』とかいうのを施された子なのか?」
「おそらくな。被害者の苗字が珍しい。殺された町区の名前も、ほかの新聞に載っていた」
「そうか」
 奇妙な沈黙がおりた。
 なんとなく、疲れたような気分になった。しかし、ムーランドの考えにも一定の理解はできる。
 正当防衛と、いえなくもない。
「人間が作り出した、たかだか五千年程度の技術が、四十億年の生命の歴史、二十万年の人間の歴史に敵うわけがないのだ」
 いかにも考古学者のポケモンらしい、それは一方的な勝利宣言である。
 おれは少し納得ができない。
 これではまるで、科学がすべて悪者のようだ。たとえば、人間が作り出したモンスターボールはポケモンの自由を奪う側面があるかもしれない。しかし、おれは人間が作り出したポケモンセンターに何度も助けられている。
 幻想だけが一方的に善いという考え方は、どこか偏りがあって、受け入れがたかった。少年Aは得体の知れない解放感にむせび泣いたかもしれないが、現実的には血塗られていて、刑務所だか少年院だかに缶詰にされるのだろう。幻想的にはどうであれ、少年Aは親を失い、自由を失った、そしておそらく、自分に対する誠実さも。
 少年の選択は愚かだった――おれはそう思う。共同体に属していながら、そのルールを守れなかった。正義に反したのだ。
 しかし、今回ばかりは分が悪い。なにしろムーランドが言うように、四十億対五千ではそもそも話にならない。なにか意趣返ししてやろうと思ったが、思いつかなかった。
 だから、正直に言うことにした。
「今の話で、ひとつ腑に落ちないことがある」
「なにかな?」
「その説明だとな。どうしてこの事件について調べようと思ったのか、説明になっていない」
「ああ、そんなことか。とくに理由はないが、あの新聞には、加害者の発言としてこう書いてあったんだ」
 ムーランドは、カフェスペースの主人を仰ぎ見て、それから微笑を浮かべた。
 ――暗い海を泳ぐ、胎児のように。


「自分には殺せたんだ――とね」







【名無しのクリムガン】

じょうたい:Lv.13 健康 4V
とくせい :?
せいかく :?
もちもの :なし
わざをみる:??? ??? ??? ???

基本行動方針:きれいな夕陽が見たい
第一行動方針:レベルを上げる
第二行動方針:自分が生まれた橋を探す
現在位置  :シッポウシティ・ポケモンセンター

 すこしSFチックな話。
 このシリーズでは「ポケモンの人間観」というものをひとつのファクターとして書きたいのですが、ポケモンを使ってただの哲学を書いているようなことにならないよう、気をつけないといけませんね。


 


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Last-modified: 2015-05-22 (金) 20:02:54
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