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名無しの4Vクリムガン Id

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 この世界にはバールなんてものは存在しない。
 考えてみれば簡単なことだ。バールとは、鉄製の釘抜きの巨大なやつを想像すればいい。おおかたの場合、鉄の部分は赤く変色し、錆びている。先の部分はチョロネコの尻尾のように曲がっていて、二股に分かれている。手に持つ部分は硬い樫の木のような材質でできている。
 なにをするための道具かは知らない。でも、テレビに登場する場合には「バールのようなもの」と呼称されている。用途としては、やっぱり鈍器として、つまりは人間を撲殺するための道具としての場合が多い。人間の頭よりも硬い物質でできているから、鈍器としては金属バットと同じか、それ以上に具合がいいのだろう。
 ともあれ、ここで問題となるのは、社会的な認識としてバールは「バールのようなもの」として呼称されるということだった。たとえ「バールのようなもの」が、真実バールであってもだ。
 だから、この世界には「バール」なんてものは存在しない。「バールのようなもの」だけが存在する。
 証明終了だ。
 おれが気づいたのは、偶然ポケモンセンターで流れていたニュースで見たからだ。おれは自分の無意識に従って情報を取捨選択するから、たとえばどうしてそう呼称するようになったのかという歴史的経緯、あるいは言語学的な見地などには、さほど興味がなかった。ただ、人間には人間の方便があって、それはおそらく無意識にとても強い結びつきがあるように思えた。バールそのものを凶器として見られることを防ぐ意味あいがあるのだろう。得体のしれない恐怖が、バールという言葉に染みつくことを厭う気持ちがあったのかもしれない。
 そんなふうに、人間の無意識と結びつけて考えてゆくとおもしろい。
 バールのようなものに興味が湧いたのも、そういった理由からだ。
 おれがポケモンセンターを探索すると、ちゃんとバールのようなものが存在した。それで、おれはだれにも見られていないのに頷いた。
 手触りよし。重さよし。においもいい具合に凶器な感じ。
 認識。認証。認容。
 ポケモンセンターも人間の無意識の世界と繋がっている。
 このとき、おれが微笑んだのは、おそらく捕食の対象である好奇心のためだ。率直な好奇心は、具体的行動に短絡する。
 すすきを剣に見立てるように、おれは今、バールのようなものを装備している。二本装備で二刀流だ。ブンブン振り回してもたいして危険はない。人間のいない空間でのことだから、間違っても人間の頭にバールのようなものがぶち当たることはないといえた。行くあてもなくふらふらと歩き回っているが、まわりに人間がいないことぐらいはすぐにわかる。無意識が教えてくれる。無意識さまの言うとおりに行動していれば、間違いはない。
 人間を探しているのかといわれれば、それも違うとおれは答えるだろう。おれは人間を探しているわけではない。
 おれが探しているのは、先程のバールのようなものとの類比でいえば――()()()()()ルな()()()
 ここで、人間のことを考えてみよう。
 人間は社会的生物であるから、社会という集団のなかでしか生きてゆけないとされている。孤独を愛する人間もなかにはいるだろうが、そういう人間も結局、「孤独な人間」というカテゴリーに属していて、そういうふうに多数派から認識されるのだから、完全に孤独な人間はいない。
 例外は、多数派の認識から外れた人間たち。つまり、消息不明の人間。だれにも覚られず、こっそりと存在がかき消えてしまった人間たちだ。そういう人間は、社会という枠組みから逸脱してしまっている以上、社会的生物でなくなる。
 人間が社会的生物であるという前提を是認するならば、社会から逸脱した人間たちは、人間であって人間ではない存在ということになる。
 いわば、人間のようなもの。
 人間のようなものは、たとえ本当に人間であっても、人間のようなものとしてしか認識されない。
 だれにとってか?
 ポケモンにとって。
 たとえば、人間からクリムガンと呼ばれているおれにとって。




 そこは、おそらくだれかが住んでいた場所なのだろう。
 人間のようなものが住んでいた場所なのかもしれない。あるいは、名も知れぬポケモンが住んでいたのかもしれない。どうでもいいことだ。今はだれにも使われなくなっていて、野ざらしのまま放っておかれたようだ。リバースマウンテンにあった家のようなものは朽ち果ててしまっていて、いくつかの長い木の柱が残骸として横たえられているのみだ。
 その横には古井戸があった。内壁が岩でできているから、かろうじて形は保っている。しかし外の世界と繋がっている部分は生い茂った草に隠れていて見えなかった。
 そこに、足を踏み入れた人間がいた。
 人間は、井戸のなかに落ちた。
 落ちて、人間のようなものになった。
 そんなところだろう。
 おれには最初、「おおーい」という声が聞こえた。どうやら人間の男の声のようだった。精力に溢れた男の声。若い声ではなさそうだったが、人生の斜陽に入る前のようだ。
 おれはゆっくりと呼吸して、相手方に認識されないよう気配を殺した。野生のポケモンならば当然、この手の技術は習得している。もちろん物理的に認識を遮断するわけではないから、井戸の真上の太陽をおれの頭が覆ってしまったら、光を遮ることになってしまう。だから慎重に、呼吸も止めて、こっそりと覗いてみた。
 その男は引き締まった体躯をしていた。体重は八十キロはあると見えた。上半身は剥き出しの裸で、褐色に染まった背筋が見えた。
 ひと言でいえば、どこにでもいるような人間の男だった。
 おれは人間とあまり関係を持ちたくない。人間のことが嫌いなわけではないが、関係を構築することで自分のなかに重力が生じる。それに、人間というのは建前で生きているところがあるから、たとえポケモンであっても目の前で認識された瞬間に、その人間の本質を覗きこむことはできなくなってしまう。
 おれは、人間の無意識の行動に対して、純粋に好奇心を抱いている。
 だから、おれは気配を絶って、ときどき人家に侵入することがある。いちばんの狙い目は一人暮らしをしているところ。そういったところでは社会と遮断された空間で、人間が人間のようなものに変容する瞬間が見られる。
 たとえば、ある家では大きなテントを設置して寝床を確保してからでないと眠れない人間がいた。朝になるとその人間は何事もなかったかのようにテントをしまって、元気に仕事に出かけていって、他人とも普通に話をしていた。
 また、ある家では家じゅうの壁という壁が真っ赤に塗りたくられていて、血のにおいが充満していた。すなわち、その家の住人は飼っていたポケモンが死ぬと、まるで残しものをリサイクルするように血を抜いて、その血を壁に塗りつけていたのだ。ポケモンの血という点に自前の宗教臭がしないでもないが、よくよく観察するとどうやら生理的に落ち着くというのが理由の大部分らしい。普通なら思わず顔をしかめてしまいそうな悪臭だったが、その住人はたとえようもない安らぎを得ているようだった。アロマの香りにでも感じるのだろうか。彼女は(驚くべきことではないかもしれないがメスの人間だった)外に出れば普通の人間と変わらずに仕事をしていた。ただじっと座っている姿は、もしかすると外の世界にこそ嫌悪感を抱いており、必死に耐えている姿なのかもしれなかったが、いずれにしろおれには知りようもないことだった。おれが知りたいのはただ、外面上に現れる奇形な行為だけである。仕事中の彼女はただの人間に過ぎなくて、興味が沸かなかった。今でも彼女は犯罪を犯すこともなく、普通に生活しているはずである。
 ある男は、家の中では裸になって、絶えずブリッジの格好で移動していた。謎めいた行動だった。もちろん、彼も家の外では服を着て二足歩行をしていた。
 このように多かれ少なかれ、人間は独りになるとわずかばかり社会という枠組みから外れた行動をするらしい。これはべつに必ずしも反社会的行動に限られない。ただ人目があれば、あえてすることはないという意味で、抑圧された行動というふうにはいえるかもしれない。無意識から直接的に導かれる行為だ。仮に、その行動の意味を問うてもだれも答えられないだろう。
 そもそも、おれには意味を問う気持ちはない。人間の秘密を握って脅そうとか、そういう二次的な使い方を考えたこともない。おれにとってはあくまで無意識を窃視することが至上の命題だった。
 無関係という距離感のなかで、だれにも知られることなく相手を観察する。それでおれの好奇心は満たされるわけだ。それを、ある種のアナロジーとして「恋」と言い換えてもよいかもしれない。おれは恋することで心を満たしている。
 今回もそうだ。
 おれは、井戸のなかの男に興味を抱いたが、助けようという気はなかった。持っていたバールのようなものをそこらに投げ捨てて、思わず見入ってしまうほどの好奇心が湧き、男の生命の危機などたいしたことのないように思えた。有り体な言い方をすれば、好奇心に支配されてまわりのことはまったく見えなくなっていたのだ。
 いや、正確には薄々わかってはいたけれど、実感が沸かなかったし、やっぱりおれにとっては無関係な事柄であったし、無関係なままでいたかったというのが本当のところだろう。
 男には見たところ外傷がないし、しばらくは死ぬこともなさそうだったので、おれはひとまずポケモンセンターに帰ることにした。




「手を洗ってね」
 ポケモンセンターに帰ると、おれがタブンネに言われるのは決まってこの言葉だった。
 手を洗うことで外界の穢れから解放されると思っているのだろうか。あるいは、そういった穢れからできる限り遠ざかっていたいと、タブンネは考えているのかもしれない。
 おれは、ひとまず手を洗った。
 タブンネが、野生のポケモンに食わせるポケモンフーズを出してくれる。おれは応接セットのあたりの床に器を置き、タブンネはソファーのほうに座った。タブンネとの距離感は、人間五人分というところだろうか。その距離感は経験に基づいて形成されていったもので、おれもタブンネもある程度の傷を負って、ようやく見いだされた距離感だ。居心地は悪くない。わずかながら空虚な感覚があるものの。
 しゃくしゃくした咀嚼音。ポケモンフーズをかじる。そしておれはふっと尋ねてみた。
「人間って、飲まず食わずでどれくらい生きられるんだ?」
「人間にとっては水が重要ね」と、タブンネは答えた。「水がなければ一週間ほどで死んでしまうわ。水があれば、場合によっては一ヶ月ほどは生きられるの。でも、どうしてそんなことを気にするの?」
「ただなんとなく」
「そう」
 沈黙。また咀嚼の音だけが鳴る。こういった揺らぎのない音を聞きながら、タブンネの微笑んだ顔を見るのも悪くない。
「なあ、タブンネ」と、おれは再び言った。「たとえば、道端で死にかけている人間がいて、その人間を助けなかったら殺人になるのか?」
「必ずしもそういうわけじゃないわね。不作為――つまり、行為をしないことに責任を問うと、処罰対象が広がりすぎてしまうでしょう。だから、なんらかの限定を加えなければならない、とされてるわね」
「限定って?」
「あなたにわかりやすいのは、先行行為とかかな。たとえば、なんらかの過失行為で怪我を負わせた人間を放っておいて死なせた場合。まあ、ほとんどの場合は過失致死となるか、特別法で処罰されるから、殺人になるのはよっぽどの場合でしょうね」
「じゃあ、無関係の人間が死にかけの人間を放っておいてもいいんだな」
「法律的には問題ないところでも、倫理的にはよくないわね」
「どうして助けないといけないんだ?」と、おれは尋ねた。
「同族だからでしょう」
「じゃあ片方が人間で、片方がポケモンだったら?」
 しばらく考えたあとで、タブンネは言った。「その場合でも、助けたほうがいいんじゃないかな」
「どうして?」
「どうしてだろう。たぶん、見殺しにすることが嫌だからだと思う。善いとか悪いとかじゃなくて、死んでゆくのをただ黙認するのは、あまり気持ちのいいものじゃないから」
「それはタブンネが優しいからだろ」
「優しいというより、そういう趣味なのかもね」
 そう言って、タブンネは自分が働くポケモンセンターのぐるりを見回した。
「そういう趣味の人間は多いのか?」
「一般的には、無関係でいたいって思う人間も、かなりの数はいると思う。だれかを助けるのは少なからず労力を伴うし、ほかのだれかがしてくれるなら、あえて自分がするまでもない。面倒くさいと思ってしまうのも、よくあることよ」
「ふうん。そうなのか」
「でも」と、タブンネは続けた。「そういう不利益がゼロの場合、大多数はだれかを助けようとすると思う。統計を取ったわけじゃない。そういう特殊事例に統計がどれほど機能するかもわからない。でも、わたしはそういう善意はだれにでもあると思ってるの」
「自分が不利益を受けないなら、助けてもいいってヤツは多いんだな」
「うん。でも、それもわたしの信念というだけなんだけどね」
 タブンネは自省的な笑みを浮かべた。
 おれも釣られて笑った。いや、それはおれのいつもの微笑だったんだが。




 次の日、男はまだ生きていた。
 地獄の底から響くような、獣のような唸り声が聞こえてくる。
 男は壁を殴りつけている。井戸の壁面は男の血で染まっているかもしれないが、角度の問題でよくわからない。もしかすると、夜が更けるうちには自力で脱出していることもあるかもしれないとは思っていたが、そうはならなかったらしい。男が這い上がれるのなら、それでもいいとは思っていた。檻のポケモンをひと晩放置して、逃げてもいいけど、逃げなかったらまだ楽しめる、というような、そんな恋にも似た心境――いや、恋そのものだ。
 これ以上ないほどに悪趣味かもしれない。でもおれの気持ちは純粋だった。
 おれの主観はどうあれ、現実的に見て、石がレンガのようにきれいに組まれた井戸は、足を引っかけるところもなく、身体性能が愚鈍な人間ではどうしようもないらしい。
 口で小さく息をする。ため息が漏れないように、静かに息を吐く。
 男はひと通り怒りを撒き散らしたあと、今度はすすり泣きをはじめた。なぜ自分がこんなところに落ちなきゃいけないんだ……といったことを口にする。ブツブツ呟くような声で聞き取りにくいが、それも当然のことだろう。彼の言葉はだれかに聞かせるためのものではなく、抑圧されない感情が社会というフィルターを通すことなく発露しているのだ。いわば、無意識がダイレクトに表に出ているのだ。
 おれは四十五パーセントほどの微笑みになった。なんて愛らしくて、なんてかわいらしいんだろう。
 おれのなかに生じたのは、男の命を擬似的に支配していることに対する優越感だったのかもしれない。ただ、おれは男に早く死んでほしいと願っているわけではない。ギロチンで処刑されるのを待ち焦がれるように、他社の苦痛を悦楽に変えているわけでもない。おれは単純に、人間のようなものの無意識的な行為が好きなのだ。
 好きで……好きすぎて……大好きで……ぎゅっと抱きしめたいけど……抱きしめてしまうと壊れてしまうから……そっと……そっと……そっと見守る。見守って……見守り続けて……そして対象が結果として死んでしまっても、それはそれでしかたない。なぜって、おれと対象はいつだって無関係なのだから。
 対象はおれを知覚すらしていないのだし、知覚されていないのなら、存在していないのと同じなのだから。




「手を洗ってね」
「はーい」
 土と草のにおいがとれるまで、ハンドソープでよく洗った。
 応接セットに、タブンネと移動する。
「タブンネはおれが死んだら悲しいか?」
「当たり前じゃない」
「ふうん」
「どうしてそんなことを訊くの?」
「よくわからないよ」
「よくわからないのに訊いたの? 変なの」
「そうだな。おれもそう思うよ」
 しゃくしゃく。ポケモンフーズが口の中でダンスする。
 今ごろ、男は植えているだろうか。
 水は、井戸の底にわずかに残っていたかもしれない。そうでなければ、落下の衝撃で死ぬだろう。汚水でなければ、ある程度は生きられるだろう。そこに冷酷な感情は絶無だ。おれの意識の外側が好き勝手に計算をしているだけだ。
 おれの自我は、無数の意思をインテグレートして構成されている。おれ以外の生物もおそらくそうだと思うが、おれの場合は統一された自我というものが存在しづらい。中心核が存在しない星のようなもの。ふわふわ漂う浮島のようなもの。
 どうしてそうなったのか、だれにもわからない。
 口に運ぶポケモンフーズのダンスは、作業じみていた。だれがそのようすを眺めているのだろう。
「楽しいな、タブンネ」と、おれは言った。
「なにが?」と、タブンネは言った。
「いっしょに食事するのが」
「うん。そうだね」




 男は神に祈っていた。
 知っている神話のポケモンの名前を羅列して、助けてくれるように懇願している。
 しかし、人間であるならまだしも、人間のようなものの声を聞いてくれる稀有な神様が近くにいるとも思えない。もしクリムガンが呼んでくれば、たとえば街の人間あたりなら助けようとするのかもしれない。多神教の神は全知全能ではないのだから、知覚されない人間のことまで気にかける余裕はないのだろう。
 神。怨み。神。呪い。
 どこかで計算しているかのように、きっちりとフィフティ・フィフティに分けられた言葉が、男の口からこぼれだしていた。まるで蛇口の壊れた水道管のようだ。でも考えてもみてほしい。いくらこの場所がリバースマウンテンとはいえ、人間がだれひとりとして近くに来ないというのも、かなりの異常事態なのだ。普通だったら(多数派だったらという言葉を使ったほうがいいかもしれない)、街の人間が行方不明になれば、形だけでも探しにくるはずである。社会との関係が強ければ、当然その数も多いはずだ。井戸の場所は、最寄りのサザナミタウンからはさほど離れていない。それなのにだれも探しにこないということは、男がもともと人間ではなく、人間のようなものだったことを示唆している。その気になれば、おれが男の情報を街から入手することもできるかもしれない。でも、わざわざそんなことまでする必要はない。推測すれば、男はたぶん孤独で、一人暮らしをしていて、だれとも関わらず、あまり会話もしない……そんな生活を送ってきたのだろう。
 そして、男を助けにくる者はいないということになる。
 おれのどこかがそこまで考えて、ひとまずふふふと笑った。持ってきたブリーのみの包みを開けて、昼飯にする。イッシュ地方ではとても珍しいきのみだということで、タブンネがおすそわけしてくれたのだ。おいしい!
 そして、ふと井戸のほうに視線をやる。
 もし、このブリーのみをころりんと投げ入れてみたら、どういう反応をするのだろう。それは甘い誘惑だ。「もしそうすれば」というのは、好奇心にとっては抑えきれない衝動だ。それは学問的に緻密な研究を重ねるよりも本能に根ざしていて、回避することはほとんど不可能に近い。胸のあたりをかきむしりたくなるほどの恋焦がれ。
 おれは胸をぎゅうっと抑えて我慢した。
 静かに呼吸。荒い息を整える。
 衝動は波のように引いては押し寄せてきたが、わずかずつ収まっていった。これは無関係を貫きたいという意志のほうが強かった結果である。
 昼飯を食ったあと、おれは首の骨をぱきぱき鳴らして、肩をぐるぐる回し、それからスナイパーのように定位置についた。
 井戸の底にいる男は、数日前とはすっかりようすが変わっていた。髪の毛はまるで何年も洗っていないかのようにぼさぼさになって、狭い空間のなかで何度も脱出を試みたのだろうと見えた。ヒゲが伸び放題なのはよくあることだ。不精をしている男がテラリと光る剃刀である日ヒゲを剃っていたのを見て、驚き興奮したおれは、しばらくその男のもとへ通った。それでだいたい、日にちょっとずつ伸びるということを発見したのだ。
 井戸の男の場合、いちばん変わっていたのは、普段ならほとんど変わりそうもない顔つきだった。まるで別人のように、目はぎょろりと天頂を見つめていて、おれとは目があっていないはずなのに、臓腑のあたりが鷲掴みにされる感覚を与えてくれた。頬の筋肉はなぜか緩んでいて、引きつった笑いにも似た表情をしていた。
 笑っているのは、絶望しているからではないし、楽観しているからでもない。これも推測になるが、おそらくは笑わざるを得ないのだ。それだけが、男に残された最後の表情だったのだ。悲しんだり、怒ったり、恐れたり、男はじゅうぶんに目まぐるしく表情を変えていたが、いずれも状況を打開しなかった。だから男はもう笑うしかなかったのだ。これがもう少し進むとどうなるのだろう。最後には無表情になるのだろうか。それとも、井戸の側面にこびりついたコケのように、ニヤけた笑いのまま死んでゆくのだろうか。
 興味は尽きない。
 おれは少し休憩するために、這いつくばった姿勢のまま後退した。体は土まみれになってしまうがしかたない。今度は汚れないようにビニール・シートでも持ってきたほうがいいかもしれない。いや、そうすると好奇心の強い人間やポケモンに見つかってしまうかもしれない。ここは自分だけの居場所にしておきた。おれは汚れることを選ぶ。タブンネにはあまりいい顔をされないが、たいしたことではない。至福の時を、できる限り長く引き伸ばしておきたい。そのほうがおれにとって大事だ。
 それにしても、男の顔は短期間でずいぶん憔悴しているようだった。体力的には、まだ問題ないはずだと想像していた。男の体は筋肉が盛り上がっていて、エネルギーをたくわえている。水は井戸の底に残っている。ザバザバいう音がおれにも聞こえてくるほどだし、ただ溺れるほど多いわけでもない。絶妙な分量というべきだろうか。
 もし、男がじゅうぶんに慎重に使えば、たとえば排泄物である程度を汚すことになっても、上澄みのきれいな部分だけを飲んで生き延びることができるだろう。
 今になって思えば水に濡れて体温が低下することも器具すべき事柄であったが、どうやら水は男の足元くらいまでで、体が冷えるほどでもないようだ。ただ、夏とはいえ山の夜はずいぶん鋭い寒さが襲う。ポケモンならまだしも、人間であれば凍死もありえた。男がしきりに動いているのも、もしかすると寒さを感じているせいかもしれない。井戸のなかで何度も登ろうとした結果か、男の着ているものは濡れて、ほとんど肌が透けてしまいそうなほどだった。濡れたままでいるのはよくない。それをおれは身に沁みて知っている。だけど助言をすることもなく、結局そのまま見続けた。
 男の体力が急速に低下した理由は、すぐに明らかになった。男は、いきなり胃のなかのものを吐きだしたのだ。
 あまりに、突然のこと。まったく予想のできなかった身体動作。
 前ぶりのない行動は、おれにとってはお手の物であるが、そんなおれであっても少しは驚いて、「わ」と声がこぼれたほどだ。
 心臓が、跳ねた。気づかれたかもしれない!
 ドキドキ。ドキドキ。
 恋をしている気分。
 ドキドキ。ドキドキ。
 でも、男は気づかなかった。さすがに吐いている最中に周りの物音に気づくのは難しかったみたいだ。
 ほっとした。しかし、これでわかったことだが、どうも人間というのは心理的な弱さが身体的な不調につながるらしい。
 過度のストレス。死の恐怖。わずかな時間でいに穴が空くほどの――
 これほどのレアな現象は、滅多に見られない。おれのドキドキは止まらなかった。
 楽しい!
 見ていて飽きない。男が苦痛に喘いでいることに、おれはまったく罪悪感というものを覚えない。人間は人間に過ぎないし、ポケモンはポケモンだ。両者は無関係なのだ。タブンネは助けるほうが倫理的に良いとか、趣味として助けるとか言ってたけど、おれはそんな趣味はもっていない。
 人間はポケモンにとって――いや、おれにとって、勝手に生きて勝手に死ねばいい……そんな存在だ。
 ただ、その目まぐるしく変わる行動に、万華鏡を見ているような楽しさがあって、画面の向こう側の世界が、見ていてとても楽しいのだ。無上の満足感があるのだ。
 男の苦痛や、死や、不幸に共感しているわけではない。男の苦痛や、死や、不幸が伝播しないことを確信して、おれは微笑むわけでもない。
 無関係に、見ているだけ。ただ見ているだけ。見るのが楽しいから、見ているだけ。
 おれは、男をひとつの人格として捉えていなかった。だから罪悪感なんて沸かなくとも当然だ。
 ――まだ、死なないかな。
 ちょっと頭を捻りつつ、おれは今日のところはポケモンセンターに帰ることにした。




「手を洗ってね。それから、体も拭かないと」
「タブンネは、きれいなおれが好きだからな」
「汚い子よりはきれいな子のほうが好きよ」
 体を清め、飯を食って、おれはタブンネに近づいた。
「なあ、タブンネ」
「ん? どうしたの?」
 タブンネはジョーイのとなりで、なにやらやっていた。まあどうせおれにはわからないことだし、タブンネの仕事にはそれほど興味がない。
 タブンネはおれに視線を合わせた。おれは笑った。
「仕事、忙しいか?」
「うん、まあ、いつもどおりね」
「あのな、おれ、今日はタブンネといっしょに寝たいと思うんだ」
「珍しいね」と、タブンネは言った。
「珍しいか?」と、おれは言った。
「うん。あなたの寝顔がどんなだったか、忘れそうになるくらい」
 タブンネはにっこりして、ジョーイになにかを伝えた。
 おれはすっと手を伸ばした。タブンネは、その行動の意味を()()()()手を伸ばし返す。
 おれはタブンネの手をとった。
 仮眠室のベッドに、タブンネがもぐりこんだ。おれは床で丸くなる。
 清潔な、ポケモンセンターのにおい。そばにはタブンネ。
 おれのなかのだれかが考える。あの男はどうやって寝ているんだろう?
 興奮と恐怖で寝ていないことも考えられるが、さすがに限界はあるだろう。男が井戸に落ちてから、少なくとも一週間は経過していた。その間まったく寝ていないこともあるまい。おれが観察しているときに男が寝入っているようすはなかったが、寝ているようすも一度くらいは見ていたほうがいいかもしれない。それなりに楽しいかも?
 いや、どうなんだろう。おれが見ていて楽しいのは外形上わかりやすい行為であって、眠っているときはほとんど動きがないに等しいから、楽しくないかもしれない。
 でも、一度くらいは見ておこう。
「なあ、タブンネ」と、おれは顔も上げずに言った。
「なあに」と、タブンネはさほど眠くもなさそうな声で言った。
 それからおれは、おやすみと言って、会話のない世界に逃げこんだ。




 男はまるで寝ているようだった。
 死んでしまったか?
 と思ったが、大きく息をしている。
 じゃあ寝てるのか?
 そういうわけでもないらしい。ときどき思いついたように壁を殴りつけようとして、しかし途中で失速して、結果として壁を撫でるような動作をしている。
 男のようすは諦観に支配されているように見えた。おれが何時間もかけてじっと観察していても、男はさしたる動きを見せなかった。もはや、なにをする気力もないらしい。
 限界が近づいているのかもしれない。肉体よりも早く、精神が死にかけている。これといってドキドキしないが、しかし楽しくないわけでもない。そういう無感動に支配された行為も、それなりに趣があるような気がする。おれは納得して、うんうん頷いた。
 今日は長丁場になりそうだ。ポケモンセンターに帰るのもやめて、しばらく観察を続けよう。
 ずっと同じ姿勢のまま、おれは男の観察を続けた。陽は天頂近くを指し、井戸の中の水は陽光を反射してテラテラと光っていた。おれがいる地上波うだるような暑さだが、井戸のほうはどうなのだろう。水が蒸発しないところを見ると、あまり暑くはないのか。
 男は陽を浴びて、わずかに身じろぎした。まるで光線で焼ききれてしまうのを恐れているみたいに、手をかざして小さくうめき声をあげている。わずかな刺激でも、今の弱りきった男にとっては槍のような痛みを感じるのかもしれない。
 夜になると、急に肌寒さを感じた。おれは休憩するために、例によって腹ばいの姿勢で後退し、ごろんと仰向けになる。
 いつの間にやら、夜空は満天の星空で、おれはアッと息を呑んだ。
 これもきれいだ。あれもきれいだ。
 星をひとつずつ数えてゆく。ずっと近くを見つめていたから、遠くを眺めると目に心地いい。
 それから十分ぐらい休憩したあと、再び定位置につく。
 男は寝ていた。どうやら井戸のなかも完全に真っ平らというわけではなくて、端のほうに出っ張っている部分があるらしい。そこに腰掛けるようにして、それでも臀部がわずかに水に浸かってはいたが、膝を抱えてなんとか安楽の格好を確保できている。体を横にすると水に全身が浸されるから、ぎりぎり妥協できる姿勢だったのだろう。男はその姿勢でも二度と起きださないと思えるほど深い眠りに落ちていた。
 タブンネも、今ごろは寝ているかな?
 おれの一部が考える。
 帰ろうか?
 おれは、エントランスでおれが帰ってくるのをいつでも迎えてくれる。
 ズキン――
 心のどこかにダメージがあったように感じた。たぶん気のせいだろう。おれにとっては、タブンネも井戸の男も、ただの画面の向こう側の存在のはずだから。




 朝になると、男は石を手にとっていた。
 井戸の底に沈んでいた石と、それよりもさらに小さな石を取って、なにやらしている。どうも、細い石のほうで指に傷をつけて、血で石のうえに文字を書いているらしい。
 おれはいっそ感心すら、した。人間というのは、どこまで「自分」を残したがる存在なんだろう! その爆発的エネルギーは超新星の誕生に匹敵する。
 ドキドキ。おれの心臓がロックなビートを刻む。どんなことを書いているんだろう? 知りたい! でもおれは字が読めない!
 やきもきしたが、おれの希望のうちのいくらかがすぐに叶った。男は石を、井戸の外へと放り投げてきたのだ。おれはずぐさま石に飛びついた。
 字はどう見てもかすれていたが、人間ならなんとか読めなくもないのかもしれない。血で書かれてあるから、おそらく雨でも降ればすぐにわからなくなるだろう。そういう冷静な判断能力も、男には失われているのかもしれない。あるいは、単純になにかを残したい気持ちが発露した結果なのだろう。爆発に理由をつけるほうが間違っている。
 おれは、男の遺書をそこらに放り投げて、男の観察を続けることにした。




 ――もう男は動かない。




 
 もう死んだのかもしれない。一種のやりとげた達成感と、気だるい疲労に満足しながら、おれは立ちあがった。
 そのときだ。
 かすれるような声が、男の口から漏れた気がした。
 気のせいか?
 おれは注意深く、井戸のなかの音に集中した。
 何度も同じ言葉を口にしているようだ。
 ドキドキ。ドキドキ。
 最期の言葉はどんなだろう?
 さあ、早く!




「お母さん。助けて」
 男は言った。おれにもはっきりと聞こえた。
 その途端、おれはコジョフーのねこだましを至近で浴びたように後ずさった。ほとんど反射的に飛び退いたといってもいい。
 おれの顔には混乱が浮かんでいた。微笑度も七十八パーセントダウンだ。
 どうして――
 こんな、大の男が母に助けを求めるのだろう。こんな、肉体的に完成した逞しい男が、どうして[[rb:お > 丶]][[rb:母 > 丶]][[rb:さ > 丶]][[rb:ん > 丶]]に助けを乞うのだろう。いっそ、笑えるくらい情けないことじゃないか。
 おれの一部がそんな声をあげる。
 いや、おれの多数派は、そんな思考を紡ぐことすらできずに黙っていた。心のなかは嵐の目のように、痛いほどの沈黙に覆われていた。
 一瞬で、罪悪感が押し寄せる。
 無関係でいたいという気持ちが、必死になって防波堤を作ろうとしていた。
 おれは――
 ギザギザの口を引き結ぶ。
 あたりをきょろきょろと見回して――
 ――なぜか、近くに捨てられていたバールのようなものを見つけた。
 二本、ある。
 おれはほとんど無意識にバールのようなものを井戸の中に投げ入れた。
 どうしてそうしたのか、おれのなかのすべてのペルソナは理解できない。なぜって、その行為は明らかにおれを逸脱していたから。
「だれかいるのか」
 男は残された力を振り絞って、声をあげる。
 おれは答えない。今のおれの心境を、できるだけ言語化するなら、「今さら」という言葉に[[rb:収斂 > しゅうれん]]された。今さら、男を助けだしてどうしようというのだろう?
 おれは今すぐポケモンセンターに帰って眠りたい気分だった。目を塞いで、なにも見たくない。なにも見ずに帰りたい。
 タブンネに、手を洗ってねってやさしく言われて――それから、いっしょに寝るんだ。
 こんな不快感は久しぶりだった。いつ以来のことだろう。思い出せない。
 ガツン、ガツン、下のほうから音が響くのが聞こえる。放心しているおれにもしっかりと届く音だ。
 男は力強くバールを握りしめて、二本のバールを石のあいだに突き入れて、井戸を登りはじめたのだ。
 おれはそのまま結果を待った。
 五分だろうか。あるいは二十分ぐらいはかかっただろうか。男はついに井戸の縁に手をかけることに成功した。
 おれは茂みに潜んで、姿を見られないはずだった。男の顔を見つめる。精悍な顔つき。上裸で、髪もヒゲもにおいもひどい有様だったが、おれは自分が感動に満たされていることを自覚できた。
 男は、一匹の野獣のように――勝利の雄叫びをあげた。



【名無しのクリムガン】

じょうたい:Lv.47 HP100% こんらん 4V
とくせい :?
せいかく :?
もちもの :なし
わざをみる:げきりん かえんほうしゃ ふいうち へびにらみ 

基本行動方針:???
第一行動方針:自分の心の有り様を掴みたい
第二行動方針:観察を終えてこの場を去る
現在位置  :リバースマウンテン
 

 このポケモン、スーパーエゴの彼方。クリムガンかわいいよ。

 



 

 

 
 


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Last-modified: 2022-02-15 (火) 23:09:45
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