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翡翠式間狂言

/翡翠式間狂言

※示唆的な暴力描写、性的描写(あるかもしれないしないかもしれない)有


翡翠式間狂言 作:群々


 1

 雪見の出湯に怪しの者がいるという報知が頻りに来るものだから、ウォーグルもやむなく様子を見に行くことにしたのである。
 人の子らでは既に古のしきたりが色褪せて久しかったものの、ヒスイの地——もはやそう呼ぶべきかどうかは彼自身にも判然としなくなっていたが——に生くるポケモンどもにとっては、彼は未だに頼るべき凍土の英傑には違いなかった。塒にしているキッサキ神殿の屋上に憩うていても、凍土中より彼らの懇願が精神に流れ込んでくるからたまらない。
 ったく、俺の果たすべき役目はとうに終わったってのに。愚痴の一つ吐かれてくるが、そのくせ彼らを無視することもしなかった。義理に篤いのはウォーグルという種の本能故か、とすれば困った本能だと閉嘴しつつも、神殿の屋根の縁を強靭な趾でしかと掴みながら、白銀に覆われた凍土の一帯を見栄切って見回すと、ひとしきり鬨を挙げ、飛び立った。俄かに凍土のポケモンどもはもう事態は解決したばかりに動揺した心が凪いだようであった。
「おいっ、そこに止まれ!」
 エイチ湖畔の上空に差し掛かると、居丈高な誰何とともにパタパタと自己の行く手を塞ぐものがある。といっても、賢しい一羽のワシボンに過ぎない。ここいらに屯している小童どものなかでも、此奴はとりわけ血気盛んで、キッサキ神殿にいますウォーグルをいつか簒奪せんと本気で野心を抱いているようであるので、その姿を認めるやいなや決闘を挑まずにはいられないのであった。
 ウォーグルは律儀にワシボンの前に留まった。ワシボンは小翼を懸命に忙しくはためかせながらも、自分の命令によって英傑たる大鷲を引き留め得たことに無上の誇らしさを感じ、一杯に胸を張ろうとするものの、それでは空中でバランスを崩してしまいそうになるから、ほんの少しだけ首を後方に反らすだけで満足していた。
「貴様ー、どこへ、何をしに行くつもりだっ?」
 声の凄みだけは一丁前に詰問する。ウォーグルは悠然とその場で羽ばたきながら、ワシボンの少年を見つめる。小さな体躯は上空の急な気流に煽られてたびたびよろめき、ふにゃふにゃとした八の字を描くようにはためている。けれども、相手と対峙するその眼差しには既に未来に冠たる猛禽の威容が宿っているのを認めるにやぶさかではなかった。
「凍土の秘湯へ向かうところだ。不審なものが居座っているというから、どんな相手か見にいかないといけなくてな」
 ウォーグルは至極真面目に答えてやる。
「ふん!」
 ワシボンは、聞くまでもなくその答えを唾棄した。ウォーグルがどこへ行って、何をしようなど、この小童にはおよそ関係のないことのようであった。
「だったら、まず僕を倒してから行けえっ!」
 横に首を振りこそすれ、そのまま素通りすることはしなかった。凍土の守護たるウォーグルは今日もまたそのワシボンとの決闘に臨むのである。
「『じゃきぼーじゃくのぼーくん』め、覚悟しろおっ!」
 それっ、くらえーくらえー……ワシボンは威勢はよくウォーグルの胸元に飛び込んで、しきりに嘴を羽毛の奥にまで突っ込ませてつつく。ワシボンとしては、その一撃一撃が彼の言う「邪智暴虐の暴君」に対する着実な攻撃になっていると考えているらしかった。実際にはその短い嘴はウォーグルの胸毛をこそばゆくくすぐるばかりでちっとも筋肉まで届いていないのであるが、ウォーグルはそのことは嘴に出さず、じっと相手の攻撃を受け止めた。
 俄かに翼を俊敏にはためかせて突風を起こすと、コロコロとしたワシボンの身はその風に敢えなく煽られて、張り付いていたウォーグルの胸から矢庭に吹き飛ばされてしまった。宙でいよいよ均衡を取れなくなって、あれよと真っ逆さまに落ちようとするその子鷲を、ウォーグルの背中が優しく受け止めた。
「ちくしょーっ」
 命の助かったのを有り難がるでもなく、ワシボンはウォーグルの背中の上で悪態を吐いた。
「俺に勝つんだったら、もうちょっと翼を上げてから来な」
「へらずぐちをっ!」
 減らず口などと、どこでそういう生意気な言い回しを覚えてきたのか、ワシボンは悔し紛れに翼の先端を振るってウォーグルの後頭をポカポカ打つ。それにしてもさしたる痛痒を感じさせないが、あまり空中で暴れられても困るので、ウォーグルは不意に勢いをつけ、雄大な翼を枝のようにしならせて急降下の体勢を取ると、ワシボンは慌てて短い翼を伸ばして憎き暴君の頸にしがみついた。
「おう、坊主!」
 首元に抱きついたまま憤然と黙り込んでいるワシボンに呼びかけた。
「このまま一緒に付いていくか?」
「そんな甘い言葉には騙されないぞ、『ぼーくん』めっ!」
 気高いワシボンの子はキッパリと言い放つ。けれど、ウォーグルの首に付きまとったまま離れようともしなかった。何かを言い放とうとする代わりに、言葉が中途半端になってくちゅん、と立て続けに嚔が出た。唾がウォーグルの鬣にかかり、ねっとりと絡みついた。それが僅かながら報いた一矢であるかのように、ワシボンは嚔のあとでかえって誇らしげに、ふん! と鼻息を荒くした。
「これはれっきとした無垢な子どもに対する『ぼーりょく』なんだからな」
「わーってるよ」
「でも僕は『がしんしょーたん』の思いでこれを耐えてやるんだ。後で貴様を打倒するときには罪状の一つに数えておいてやる!」
「そうだな」
「貴様が泣いて命乞いしたって『おんしゃ』はしないんだからなー!……」
 エイチの湖を過ぎると、眼下には一面の氷原が開けていた。遠くには心形岩山の異形やクレベース氷山の輪郭までもが、冷えた空気のなかで明瞭に浮かんでいた。川沿いに、寿村からの入植者たちによる掘立小屋が点在しているのが見えた。昔は調査団の粗末な天幕一つあるきりだったのが、次第に人の子らが数を増やし、今ではいっぱしの集落となりおおせているのである。かつて神殿の麓にあったシンジュ団の共同体をもはや凌駕せんとする勢いで集落は拡大しているようであった。上空からだと胡麻のようにしか見えぬ人間らが、地面に映る只ならぬ物影で気づいたのか、ウォーグルの飛行をいかにも物珍しげに手庇して見つめ、剰え感嘆の声さえ聞こえてくる。
 ヒスイの伝承の次第に廃れつつあるいま、ウォーグルがかつて神に時めかれた英傑の末裔だと知る者も少なくなったのであろう。それについてウォーグルは特段嘆きもしなかったし、正義の人のような義憤に駆られたりもしなかった。元来の鷹揚な性格ゆえか、畢竟神とやらの思し召しであるからには致し方なしと割り切っていた。他の地にいる末裔どもが夜明け以来どうしているか、暫く消息も聞かなかったし、彼自身にしても大してそれを気に揉むということは特段しなかったのである。
 これもかつて自分を大鷲に進化するまで養ってくれた緑髪の少女の賜物だろうか。千里眼を持つという摩訶不思議な少女の腹蔵はウォーグルの念力をもってしても到頭最後まで読むことは適わなかった。手持ち無沙汰になればすぐ神殿の屋根の縁を歩き出し、ウォーグルの心肝をしばしば寒からしめたのも懐かしい。細い丸太橋を渡るように、両手をピンと伸ばして均衡を取りながら、体幹をブルブルと小刻みに震わすたび、三つ編みにした豊かな長髪がたわわに揺れ、髪にまとわりついた霜が煌めきながら舞い落ちるその輝きを、長い時が経ったいまでもありありと眼前に思い浮かべることができた。
 そんな少女に振り回されて、ウォーグルは日毎突拍子もなく滝上の心形岩山のてっぺんやら眼光鋭いガブリアスの牛耳る雪崩坂やら、凍土に訪ねぬところはない程には彼方此方に飛んで行かされたものだった。しかも、そこは少女にとって目的地ではちっともなく、かといって通過点でも休憩地点でもなく、ようやっと辿り着いて息をつく間もなく、次の場所へ名指す始末なのであった。かといって、何の考えもなしに飛んでいるとも思わせず、彼女には何らかの彼女の理屈があるのだと感じさせたのは顧みても不思議としか言えなかった。彼女の顔を覗き見れば、あたかも世界の全てを天冠山の頂点から俯瞰し、あるいはやぶれの世界の深淵より仰ぎ見ているかのような得も言われぬ少女の眼差しを浴びて、覚えず動悸が打ったものだった。バクフーンが宙に漂う霊魂を目で追うように、彼女の瞳もまた決して目に見えぬものを見えるように見ているような感があった。無論、それが何かであるなど、はっきりと口にしてくれる彼女ではなかったが。
 だが、これも全て過去の話となった。シンオウさまを奉じていた人々はみな時の流れ空間の変容とともに散り散りになっていった。緑髪の少女も、畏まった挨拶とてなしにある日忽然とウォーグルの前から姿を消してしまった。彼女らしいと言えばらしいと、さりとて根に抱くわけでもなかったけれど、やがて風の噂より天冠山の西側に広がる森林でその姿が見掛けられたらしいと耳にした時には、何故にか、寂寥の念のようなものを覚えたのは確かである。ウォーグルは無骨な雄である。故に、繊細な感性だとか明晰な精神などとは無論縁もないはずであった。そんな彼をしてかくも思念せしめたのは、敢えて言えばヒスイという地は蜃気楼のように掻き消され、俺には与りの知らぬ新しい世界が開闢したのだ、という前々から委細承知していたはずの事柄が実感をもって迫ってきた、ということであったろうか。
 少女が凍土を去ったのを悟った日、ウォーグルは凍土の北方に広がる海へ飛んでいた。なぜそうしたのか、鷲自身にも説明することはできなかった。海面を埋め尽くすクレベースどもの上に佇んで、ただ際限なく広がっているかに思える灰白色の空間に身を委ねていると、そこからはキッサキの神殿も点にしか過ぎず、やがてヒスイという土地の感覚さえ希薄に思われてきた。ウォーグルは嘴を力無く開いたまま、漂い動くクレベースどもの緩慢な動きを見つめ、囁くような波の音を聞いた。世界はウォーグルにとってあまりにも広大であり、自然は言語に絶する怪物のように大口を開いているかのようであった。所詮はちっぽけな存在に過ぎぬ鷲を其奴は一飲みに平らげようとしているのだと感じ、俺は其奴の喉元を過ぎ、狭い食道に揉まれ、ゆっくりと胃袋に収まってゆっくりと消化され、やがて血肉となっていくのだということをウォーグルは想像し実感し、そして経験のない眩暈に襲われたものであった。
「隙ありい!」
 背後からしがみついたワシボンが出しぬけに頸をつついてきて、ウォーグルの意識は現生に戻された。いつも良いようにあしらわれている返報(しかえし)にか、飛行中で無防備にならざるを得ないウォーグルの頸筋をしつこく嘴で攻め立ててくるものだから、流石にチクチクとして気が散り、ヒスイについての思念も雲散霧消してしまうのであった。この小童は、自分らが生きている土地がかつて何と呼ばれていたかなど知る由もないし、知る必要も最早ないのだろう、とウォーグルは思った。目を合わせるたびに、この子が蛮勇にも決闘など挑んでくるのは、彼が古代の英雄に付き従った10のポケモンの眷属であったからでは断じてなく、ただワシボンという種の本能が要請するものに従って下剋上をしているに過ぎないのであった。いまはただ我武者羅に攻めるばかりだから取るに足りぬが、いずれ此奴が悔しさを糧にウォーグルに進化した時が、おそらくは俺の最期だろう、という確信を既に抱いていた。幸なるかな、か。
 だが、それはまだ先の話であろう。さしあたって、ウォーグルは合図もなく急降下して聞き分けの悪い餓鬼であるワシボンをその身から振り払うと、いきなり鞠のように虚空に放り出されてあたふたとしているその小鷲を、颯爽と捕捉した。
「な、なにをするぅ!」
 ワシボンが必死に身を捩らせて抵抗するのを、殺さぬ程度にわきまえながらもしかと趾で握りしめると、流石にしゅんと大人しくなる。
「ちくしょうっ……」
 しかしながら、そんな捨て台詞を残すから一丁前な小童である。
「後ろで暴れられちゃたまらないからな、ちょっと我慢してくれよ」
「どうかな!」
「どうだか」
「なにをーっ!」
 わちゃわちゃと趾の中で暴れるのを苦笑しつつあしらって、ウォーグルは先を急いだ。氷河の段丘を臨みつつ飛べば、氷山の戦場のある山まではすぐであった。
 氷山の王がその姿をお隠しになってから、やはり長い時が経ったものである。あの小高い山一つ分はあるであろう巨躯で、いったいどこに姿を消したものだろうと、流石のウォーグルも驚き呆れるほどなのであるが、自己の役目の終えたことを聡くも知るや、ご聖断というものはいかにも恬淡として、あの緑髪の少女と同じようにある日を境に尽く姿形も失せてしまったのは驚心した。爾来、人はもとより流れる水のように早く循環するポケモンたちのあいだでも急速に王の記憶は薄れ、英雄たちの逸話もいつしか朧げな夢のようにしか思い出されなくなっていった。ただ、ウォーグルのみが、しぶとくもか、単に消え去る時期を逸しただけなのか、凍土に生き続けていた。
 俺はこの新しくなりゆく土地でどのように生きていけばいいのだろう? そう自問しては緘黙するを繰り返している。かつての英傑としての大義は有名無実となったのであるし、謂わばウォーグルは古い慣習から自由になったのではあるが、そこでもう隘路に迷い込んでしまう。かつて共にあった少女よろしく他所の土地へ渡ろうとも思ったが、いざ行動に移す段になって俺は随分この場所に愛着を持っていたのだと気付かされ、その事実の存外さに呆気に取られさえした。一面を白銀の内に覆われた大地、そこを囲繞する山脈から成る純白の凍土、そしてそこに生くるポケモンども、敷衍すればウォーグルを取り巻くこの小さくも大いなる世界に対する得も言われぬ情愛が己が胸中に満ち満ちていることを否定することなどできそうになかった。
 これは英傑の子孫である寿ぐべき美徳か、時代遅れの唾棄すべき宿痾であるのか。いずれとも答えかねたまま、ウォーグルは今や護る人間とてなく荒れ果てつつあるキッサキの神殿から変わりゆくかつてのシンオウさまの土地を打ち眺めているばかりなのだった。
 そして、今日もまた昨日、一昨日、それから蝋燭のように連なった過去の日々と同様のことを考え、同様のところでまたもや思考は中断した。考えども考えども、精神を覆う霧は晴れず、次第に心の奥底に蟠っている叛骨の神のごとき暗い感情が、溶けた氷土から露出する古代の化石のように剥き出しになってくるのだ。ウォーグルは自身の死について考え、それが極めて慈悲もなく、残酷な有り様であるに違いないと想像して、かえって心の安らぎを覚えるのだった。例えば、今は自分の趾にあっさりと服従しているこのワシボンも、やがては立派なウォーグルに進化して、老いさらばえた俺を殺し、俺の喉元を喰らい、ありとあらゆる内臓を引き摺り出して、後は自然の成すがままに晒し者にしておくであろうことを、まるで予言者ででもあるかのように想像し、寧ろそうであってほしいと懇願さえしていることには驚かされた。
「いつか絶対にお前を『打破』してやるからなっ! 首を洗って待ってろーっ……」
 まるでウォーグルの思考を読んでいたかのように、ワシボンがそう気障に呟いたことに、思わずドキリとさせられた。
 引幕のように山脈が横に退いていくと、出湯から立つ湯気が高く昇っているのが見え始める。凍土のポケモンどもなら誰もが知っている秘湯であり、万人は万人にとり敵であるという陰惨な法則に束縛された彼らにあって聖域と呼ぶべき空間。平素は生きるために互いの命を奪い合い歪み合っていても、この場所に限っては敵愾心を打ち棄て、思い思い極楽に安らうべきであると、法を定めるでもなく合意された場所。
 ウォーグルが敢えてこの場所を訪ねるのはいつ振りのことだったろう。一つ、鮮明に記憶していることがある。やはりあの少女に関わるものである。その時も突拍子なく、出湯に飛ぶように命じられたウォーグルは彼女をその場所に連れて行ったのであるが、意表を突かれたことには、少女は出湯に降りるやいなやいきなり三つ編みを解いたかと思うと、藍染の制服をはらりと脱ぎ捨てて雪の中で一糸も纏わぬ姿になったのである。初めて見る熟視する少女の肌は絹のように白く、真珠のように艶やかであった。まだ十分に膨らみきっていない乳房はいみじくも咲きかけの蕾のようであったし、その中央部にそそり立つ乳首はほんのりと桃色を帯びて、真っ白の雪と湯気に覆われた凍土の背景と、地面のすれすれまで垂れ下がった豊かな髪の緑色とも相まって、いっそうのこと眼底に強い印象を与えるのであった。
 益荒男たるウォーグルも流石に目を点にしてその少女の熟れぬ肉体に狼狽し、猟銃で撃たれでもしたかのように卒倒しかけたのを、少女は不思議そうな顔で見つめているのがまた不思議であった。
 ——あなたはいま幸せ? それとも不幸せ? さてどっち?
 ねえ、ウォーグル? あの時、不意に投げかけられた問いは、時を経巡って今また出湯に舞い降りようとするウォーグルの頭蓋にこだましていた。もっとも、そう問いかけた少女にとってはそれこそいつも口に出していることの延長に過ぎず、さしたる意味もなかったのかもしれないが。それから間も無くして少女はしれっと凍土を去ったのもまた確かなことであった。少女の発した一字一句から、露わな肉体の仔細に至るまでを未だありありと記憶しているウォーグルにしてみれば、それが意味することについてどうしても気にかかるのだ。もし叶うのであれば、いまもどこかで生きているのであろう彼女に、改めてその真意を尋ねたいと思う。
 出湯から立ち上る湯気が、ウォーグルが飛ぶ辺りまで漂っていた。視界はまっさらになり、熱を帯びた煙は思いの外、目に沁みる。趾に捕らえたワシボンは煙に覆われたどさくさに逃げ出そうとでもいうのか、やたらと身じろぐのをきつく戒めながら、ウォーグルはその場に滞空して、問題の出湯を偵察する。気を集中させると、額の薄紫色をした冠羽から目のような形をした青白い紋様が浮かび上がる。すると、五感では知覚できぬものが、あたかも水がさらさらと喉から胃腸を過ぎるように、明瞭に脳裏に認識されてくるのである。
 確かに、出湯には一匹、何某かがいる。それは平素入り浸るワンリキーやベロリンガではなく、時折傷ついた体を癒しに来るルカリオでもなかった。異質な存在である。が、そのくせ全く知らぬでもない気配でもあるのは妙だった。訝しんで、今一つ湯気を湛える出湯の方を凝視していると、薄らとした影が微かに見えた。
「『ぼーくん』がっ、いい加減降ろせー! 降ろせってば! ふんっ! このっ、このーっ!」
 出湯に潜んでいる怪しの物のことなど此奴にはどうでもいいらしいワシボンは盛んに騒ぎ立てた。その声はやたらと凍土の冷えた空気に通って、遠く天冠山の方まで響いて、山びことして返ってくる。ワシボンの騒ぎ声に反応したか、影が揺らめいた。ぴちゃ、と立つ水音がまるで間近で聞いているようにウォーグルには観想できた。そいつはいま声がした辺りをじっと見つめている。ウォーグルはその視線を感じ、首元がムズムズとする。湯煙を介して暫時見合っていたが、相手は逃げ出すでも、威嚇するでもない。
 あるいは、俺と同じことでも考えているのか。
「ちょっと気張ってろよ、坊主」
「な、なにをするー!」
 今一度、ワシボンの幼気な身を趾でがしと掴んで落とさぬように気をつけながら、ウォーグルは直下、出湯へ急降下した。翼で風を切って、瞬く間に地上のすれすれに達すると、雪の深いところを見てワシボンを落とした。小鷲がぎゃあぎゃあとウォーグルを罵りながらコロコロと雪に転がってくるのを後目に、そのまま湯煙へと突っ込んだ。暖かな煙が目に染み、瞳が潤んで視界が揺らいだ。群青の海に浮かぶ火噴き島の噴煙はこのようなものであったかと思い出されるほどの勢いであった。
 かつて天冠の山上で冠のように裂け目が開いていたころ、ヒスイの各地に現れたものだった時空の歪みのことを、ふとウォーグルは思い返した。実に白煙は霧よりも分厚く、濃く、周囲の空間を、時間さえも包み込み、覆い隠し、紛らわし、前も後ろも判然としなくなるほどであったので、もしかしたら歪みと同様に神の御業なのかもしれないと感じ、そうであるならばこの向こうには、かつて共にあった緑髪の少女がおり、シンオウ様を信仰する人々がおり、ヒスイの各地を司った同胞たちがいるのかもしれないとウォーグルは思いさえした。所詮、そんなことは烏滸な空想に過ぎぬとわかっているはずであるのに、ばさと斬り捨てることもできないのは、一体何故であろう。けれど、そんな自己を嘲る気にもならなかった。
 俄かに白煙から一箇の影が浮かび上がった。まるで一体の案山子に直立したそれは、みるみるうちに視界を占有した。今だ。ウォーグルは大嘴を開けて低く獰猛な鳴き声を上げた。同時に集中させた精神の力を一挙に解き放つと、その声は岩のように重みを持ち、剣のように刃を持って影に向かい突進した。刹那、大地が鳴動し、火噴き島の火口が爆発したかのように湯が勢いよく噴き上がった。それは、雨の如く地上に降り注ぎ、積もった雪をじゅわりと溶かした。突風が起こり、出湯を取り巻いていた白煙はまとめて吹き飛ばされ、霧が晴れたかのように雪見の出湯の全景が須臾にして立ち現れた。
「ご無沙汰だな」
 ウォーグルは力強く翼を羽ばたかせながら、そう話しかけてきた其奴と面前していた。その全身を凝と点検しながら、嘴から出すべき言葉を探していた。
「もー! なんだってんだよー!」
 小童のワシボンが憤激しながらウォーグルの元へようやっと来た。深雪に時折趾を取られては顔を真っ白にしながらも、肩を精々怒らせて如何にも堂々たる威厳を湛えたつもりでウォーグルの脇に立った。そして、顰め面をしながらウォーグルと、その向かいにいる何某かとを交互に見遣った。両者はしかと見つめ合ったまま微動だにせず、ただ上空を吹き回る風の寒々しい音ばかりが聞こえるのであった。
「おい! 貴様あ!」
 しかしながらはち切れんばかりの蛮勇心を持ち合わせたワシボンは一向に動じずに叫んだので、ウォーグルは夢から醒めたかのようにハッとして趾元の小鷲を見下ろした。小癪にもワシボンはふんぞり返って、出湯に佇むその何某かを凄みを利かせた気になって睨め付けていた。
「この『ごーがんぶそん』な『ぼーくん』をどーしても倒したいっていうんなら、まず僕を倒していくんだな! なぜならっ此奴は……」
 僕が打破するからだあっ! さっきから叫び通しだったワシボンの声は既にカラカラになっていて、墨の掠れた文字のようだった。
「はははっ!……」
 笑い声が沈黙を破った。ウォーグルに相対する其奴は上体を微かに曲げながら全身をカタカタと震わせながら笑っている。その表情は唐傘のような頭の羽根に隠れて伺うことはできなかったが、嘴元から込み上げてくる声の調子で、どことなく小憎たらしく思われる其奴の揶揄うような顔つきを容易に想像することができたのである。
「とうとうお前にも弟子ができたんだなあ!」
「違うっての」
「なんだ貴様あっ!」
 ワシボンが腹蔵からありったけの声を出した。
「僕がこの『ぼーくん』の弟子だと?! しつれーせんばんなやつ! このっ……!」
 嘴から放つのが憚られるような侮蔑語をワシボンは矢継ぎ早に繰り出しながら、出し抜けに突進し、電光石火かと驚かれるほどの俊敏さで相手の懐に潜り込むと、勢い趾で思い切り下腹の肉を握りしめてしまったのでたまらずに、
「ぴ……ぴ゛い゛い゛い゛い゛い゛っ!」
 雪見の出湯に甲高い悲鳴が劈くように響き渡った。
「ははははははっ!」
 その滑稽さにウォーグルも思わず腹を抱えて雪原に笑い転げ、ヒクヒクと腹部の筋が痙攣するのを止めることができなかった。悲鳴と哄笑が混じり合って、渦を巻いて天高く舞い上り、天冠の山を突き抜け、その先にある銀河にまでよもや届くのではないかと思われるほどであった——


 2

「で、今回はどこへ行ってたんだよ?」
「まあ言うなれば『ジュ・スュイ・パルトゥ』ってところかな」
「あ?」
「……まあ、至るところへ、さ」
「だから至るところって、それを聞いてんだろうが」
「君にだってあらかたわかることだよ。平原へ行った。湿地へ行った。海岸へ行った。山麓へ行った。そして凍土へ来た」
「そりゃそうだけど、よう」
「とはいえどこへ行っても、僕を放っておいてくれないんだ。今どき、僕のようなナリをした種族は珍しいから」
「ま、別に悪いことじゃねえんじゃねえの」
「そうかな」
「そんなもんだろ」
 湯浴みするジュナイパーと一頻り言葉を交わすと、しばしの沈黙を挟む。こうしたやりとりも、此奴がここへ来るたび幾度となく繰り返されてきた。
 出湯から盛んに噴き上がって群雲を成す蒸気が景観を朦朧とさせていた。こうしていると、時も空間も俄かに存在が希薄となり、そこにある万物もまた儚いものに思われてくる。
「君も入らないか。いい湯だぞ」
「羽根が濡れたら飛べなくなっちまうよ」
「乾かせばいいだろう」
「羽が凍っちまうっての」
「ううむ、つれないな」
 少しばかり揶揄ったようにジュナイパーが言うのは、いったい何のつもりだろうか。訝しんでいると、二匹の間に割り込むように、仰向けに湯に浸かるワシボンが漂ってくる。小さな翼でぴちゃぴちゃと音を立てながら、自分の存在に配慮せよとばかりその場で仰々しく旋回などしているのは、子どもらしい振る舞いである。
「おいこら、誰が連れて帰ると思ってんだ」
「連れて来たのは貴様の勝手じゃないかー!」
 豊かな毛並みを既にしてしっとりと湯に濡らしながら駄々をこねるように四肢を蠢かしている。顔を取り囲む白い鬣はすでにたっぷりの湯分を吸って縮んでいた。ワシボンの周囲に立った波が出湯の縁に到達して勢いよく打ち上がり、ウォーグルの冷えた爪を温める。
「だきすべき『じゃちぼーぎゃくのぼーくん』め! 僕がいつか絶対成敗してやるんだからな!」
「そうだそうだ、『ぼーくん』め!」
「ちゃっかりお前も乗ってくんじゃねえっての!」
 ジュナイパーはやけに通る高笑いで応じた。
「無礼講だろ。何やかや、君と会うのも久しかったから。ええと、いつ振りだったかな?」
 そう訊かれると、ウォーグルとてはっきりと覚えているわけではなかった。最後に会ったという事実があるのは無論確かだ。ただ、いつとても変哲のないこの凍土である。それに、この問いかけ自体、文面通りの興味をもって発せられたものではないことをウォーグルはもちろんのこと、ジュナイパー自身だってわかっているに違いない。
 抑も此のジュナイパーのことを初めてお目にかかったのも、今や遠い昔のことと思われる。天冠の山脈に突如として時空の歪みが現れた晩に、氷上の戦場にも驚嘆すべき雷が落ちて人々が俄かに騒がしくなった。シンジュ団とコウゴウ団どもの長らく続いた抗争が、頭領が若人に代替わりしてからようやっと静まったばかりの頃おいであった。他所では王や女王が神狂いにかかったとの噂が氷土にまで聞こえてきてはいたが、王のいます氷山はかえって鎮まりかえっていたおかげで、状況はとんと見当もつかなかった。神殿の高みより、緑髪の少女とともに情勢を打ち眺めるばかりであったが、やがてこの地にもギンガ団なる連中がやって来た。もし氷山の王が暴れ出すと災難であるから、先んじて鎮めておきたいと言うのであった。クレベースと対峙するその大役を担ったのはかの、他の時代よりヒスイに送られたと囁かれた怪しの人であった。その噂の是非はウォーグルの想像の到底及ぶことではなかったのだが、差し当たりその人間は問題ではないのである。
 その人間の傍に常に随伴していたポケモンがジュナイパーなのであった。とはいえ、その存在はウォーグルにとって、さして強く記憶に残るものではなかった。年端も行かぬくせ、見事に野生のポケモンを飼い慣らし使いこなす人間の一際眩かったことも確かではあるが、それを抜きにしても往時のジュナイパーと来れば地味で陰気な奴という印象を免れ得ない雄であった。第一、甚く寡黙であり、自己の信用を置く能わざる者に対しては一貫して無愛想を決め込んでいる節があった。人間がキッサキ神殿で少女の無茶な試練を乗り越え、しばしウォーグルの翼を借りることを許されたとき、ウォーグルは初めてこのジュナイパーとまともに接したのである。何を話したかは一寸も覚えていない。覚えていないということは、よほど型通りの無味乾燥なやりとりに終始したのであったか。
 それからその人間がギンガ団に一員とした各所で調査に勤しむたびにウォーグルも同行し、峻厳な山岳を移動したり、上空よりオヤブンどもの偵察をしたりしたものである。ところによりポケモンたちが入れ替わるなかでも、ジュナイパーだけは常に人間の側に控えていた。それでも彼と言葉を交わすことは稀であった。
 やがて天冠の山脈を覆っていた時空の裂け目が閉じ、ヒスイの夜明けと人の呼ぶものが出来して新時代やらが胎動し初めてから、かつて共に冒険した者どもは一人、一匹、また一人、一匹とウォーグルの世界より離れていった。彼もまた過去のことを穏やかに忘れつつあった。その時である。存在すら忘れかけていた梟が凍土へやって来たのは。
「お前が再び現れたときも、この出湯だったろ」
「そうだったかな?」
 出湯に半身を浸して寛いでいるジュナイパーは惚けたように、雲と雪に覆われて何一つ見渡せぬ空を見上げたて、ほう、と白い息を吐く。さっきワシボンめにこっぴどく痛めつけられた腹の辺りを翼で頻りに気にしながら。
「んだろが」
「昔のことさ、細かいことなんて綺麗さっぱり忘れてしまったよ」
 嘘を吐け、とウォーグルは思う。なぜならば、往時のことをウォーグル自身が明瞭に覚えているからには、このジュナイパーが忘れてしまったなどと信じることは断じてできなかったからである。
 あの日も、出湯におかしな奴がいると凍土が騒がしかったのでやむなくキッサキ神殿からここまで飛んできたのだった。その時のお前は出湯の側でうつ伏せに倒れていたんだ、とウォーグルは思い返した。その体躯を眺めれば、道中で凶暴な輩に襲われたものか、傷は見るだにおぞましいほどだった。白雪に赤い血が雄渾な線を引いていたのを、ウォーグルはありありと思い出すことができる。
「あの時のお前の姿を思い出すと、いまこうしてケロッとしているのが不思議なくらいだな」
 というのが、今も揺らがぬウォーグルの素直な印象であった。
「……あるいはそうだったのかもしれないな」
「実際、そうなんだっての!」
「礼を言うよ、改めて」
「改めても何もないんだっての! あん時は手間かけさせやがって」
 少なくともその頃の此奴はこうも余裕ぶった態度は取らなかった。取れようはずもなかった。むしろ真逆であり、極めて繊細で、弱々しく、壊れやすい硝子のような精神の持ち主であって、自我を取り巻く外界の事物一切に極めて無防備で無力で、一言で言えば素樸な奴であったのだ。
 傷は相当深かった。放っておけば、じき死んだだろう。かつての探検の折りには多少の縁があったとはいえ、今となっては他者も同然であったのだから、ウォーグルに彼を救ってやる義理があるわけではなかった。弱肉強食を規範とするヒスイの土地である。此奴のように、卵から孵った時からずっと人の元で育てられ、人の飯を喰らってのうのうと生きてきたような甘ったれが、どのような経緯があってここまで彷徨って来ることになったのかは定かではないが、一匹放り出されて生き延びていけるような場所ではおよそなかった。
「だから俺はお前を殺そうとしたよ」
 噛み締めるようにウォーグルはあの瞬間を回顧した。それもまた一つの道理であった。
「その方がお前にとっちゃずっと楽だったかもしれねえし」
 実際、その時に殺してやった方が良かったろう。強靭な爪で喉を抉られれば一瞬だけ痛いだろうが。そして、長い時を経てウォーグルは確信せざるを得なかったのだが、奴が死ぬことができたのはあれが正真正銘最後の機会であったかもしれないのだ。
「そうした方が正しかったのかもしれねえ、と今でも俺は考えることさえあるぜ」
「君に殺されるなら、僕だって本望だったかも」
 ウォーグルの方を見上げてそう言う目つきは何とも言えないものだった。俺のことを懐かしんでいるのか、愛しんでいるのか、あるいは俺の真面目な感情を古代の異物を観察するように珍奇がってでもいるか、それともそのいずれですらもなく、見えるものをただ無感情に見ているだけなのか。
——寂しい。
 そうだとしても、翼に抱いた瀕死のジュナイパーの嘴から漏れたそんな言葉が、あの時漏れたのだ。
——寂しい。
 そうだ。寂しい、寂しい、とお前は、そうなんだ、二度繰り返して言ったんだからな、とウォーグルは心の内で言う。そう話したところで、どうせお前は覚えていないと虚勢を張るだろうが、俺はどっこいちゃんと覚えているんだからな。その言葉を漏らしさえしなければ、あるいは漏らしたとしてもあまりにもか細いせいで風がかき消してくれさえすれば、これ以上苦しむことはなかったろうに。
 それにしても、俺もそんな弱音に哀れを覚えてしまうとは。コンゴウの民もシンジュの民もこの地を去り、自分を知る者のことごとくが凍土の地から消え去ったことに心ならず自分自身も寂しさを覚えていたからであろうか、とかくジュナイパーが嘴にした言葉を耳にして、ウォーグルは此奴を無下に殺してやることができなくなってしまったのである。あまつさえ、決して小柄ではない奴の身体を辛うじて掴み、キッサキ神殿の塒まで連れてきてしまったのには自己の行為のくせに当惑したものである。死人のように脱力した体はクレベースのように重たかったのを、ウォーグルは趾の感触で覚えている。
「たーーーっ! うるさーい!」
 ワシボンが目を剥きながら、嘴を開くやいなやしゃにむにまたぞろ不満を垂れた。
「僕のわかんないことをしゃべるなーっ! おもしろくなーい! つまんなーい! もう、うるさい! うるさーいっ……」
 二匹は不意に顔を見合わせた。見ると、ジュナイパーの目はすっかり点になっていて、平素の気取った風が失せていた。文字通りの間抜けヅラをしていたのでウォーグルの頬が緩んだ。
「おかしな顔をしてたぞ、いま」
「悪かったな」
 この程度のことでもムキになって顔を上気させてくれるのだから、此奴にもまだあの素樸な心は多少なりとも残っているのだな、と安堵もされる。
 ワシボンはといえば、瞼を閉じて笛のような寝息を立てながらいつの間にか眠りこけていた。器用に湯面に顔と腹を浮かべながら、自分が王になる夢でも見ているのだろうか。
「ませたガキだな」
 ジュナイパーはワシボンを呆れつつ見遣った。
「僕は苦手だ」
「俺は毎日こんなのの相手してやってるんだぞ」
「甲斐甲斐しいことだ」
「お前も少しは触れ合ったらどうだよ」
「御免被りたいな」
「けどよ、悪いもんでもないぜ? 少なくとも、退屈はしねえ」
「……」
 ジュナイパーは嘴ごもって顎の辺りまで湯に体を沈めると、子供のように湯面にぶくぶくと泡を立たせてその場凌ぎをする。奴の翼の届くところに、言葉にしがたい形状をした長型の石板と、心臓を思わせる形をした笛が寄り添うように置かれていることに、ウォーグルは気づく。
 それはヒスイの異常を治めたかの人間が所持していたものであった。そして、ヒスイの夜明けの後、傷ついた彼を介抱してやった時に懐よりぽろりと零れてきたものであった。思わず、此奴の内臓が露出したものと身構えたが、すぐにそれとわかった。とはいえ、それを何に使うものかはよく知らないのだった。石板のような物体については、調査の先々でその人間がよく手に持ってまじまじと眺めている姿を見受けられたが、さほどに珍しいものなのだろうか、それにしては、大して高級な素材とも見えなかった。
 笛についてはなおさら奇妙であった。ウォーグルの心許ない記憶でも、確か人が使っていた笛はカミナギと呼ばれる縦笛であったはずであるが、それとは似ても似つかぬ。それに見ているだけで、言葉に尽くしがたい何某かがイダイトウの尾の如く笛にまとわりついている気がして、触れるのも憚られるほどであった。
——あっ。
 ジュナイパーが無意識にそれらを拾おうとした震えた翼先の動きを、ウォーグルはしかと覚えていた。余計に動かれては参ると止めようと伸ばした翼をジュナイパーは激しく振り払って、何としてもそれを掴み取ろうと無茶苦茶に翼を動かすのは、気の触れたかのようで、何かに操られているようで、そのように翼先を動かすことが宿命と定められているかのような動きであり、本能から悍ましさを感じずにはいなかった。ようやっと石板と笛とを翼にすると、驚くべき手際の良さでそれらを懐に仕舞い込み、そのままふっと気を失ってしまったのにも魂消た。此奴は知らぬ間に言語に絶するような狂気に囚われたのだということを、その振る舞いでウォーグルは悟り、やがて知ることになった。
「……まだその笛持ってたのかよ」
 そう言われて梟は何気ない風を装いながら其奴らに目を向ける。
「無用と言えば無用なんだ。でも、無駄に持ち続ければ持ち続けたで無駄に愛着が出ちゃっていけない」
「だったら思い切って捨てちまえばいいんじゃねえのか」
 ウォーグルは諭すように言う。
「案外何でもないかもしれねえじゃねえか。それに……お前だってさっぱりするかもしれねえ」
「どうだろうな」
「どうだろうな、じゃねえんだっての」
「いつかは捨てる時がくるかもしれない。それまでだって別に遅くはないだろう?」
 こういうことになると、途端にわかったようなわからないようなことを言ってのらりくらりとしだすのも一向昔と変わらないのだった。
 それらの道具が何を象徴しているのかは明らかであった。それが当世において忘れられつつあるもの一切の象徴であり、此奴自身が未だ断ち切れないでいる過去そのものに他ならぬことをウォーグルは知っていた。奴の過去に対する執着心は老人が幼年に抱くような憧憬で片付けられるものでは到底なく、神に叛逆せんと無謀な反抗を企てようとする絶望者の怨念に近しいのだった。そしてその怨念の源は、此奴が伴侶のようにくっついて離れなかったあの人間との記憶と、人間との出会いも別れも可能にした創世神の恐るべき御業から生じているに違いないこともウォーグルは大悟していた。
「変な野郎だよ」
 ウォーグルは苦々しく嘴にした。
「お前は本当に、変な野郎だ」
「どういたしまして」
「褒めてねえっての!」
 ただ、そのくせ過去から逃れたがっているってことも俺はよく知っているんだからな、とウォーグルは心中で呟いた。奴はまだあれを懐に隠し持っているはずだった。イチョウ商会の行商人からもらったなぞと嘯いているあのマキリを。古のヒスイ人が掘った見事な渦巻き紋様が鞘や柄に施されているそれを、ジュナイパーが肌身離さず持ち歩いていることを知ったのは、塒で奴の体を横たえさせた時のことである。消え失せそうな寝息を立てる梟がまだ怪しいものを持っていないかと、念のためその羽毛を弄ったら見つけたのである。
 何か嫌な予感を覚えたのでこっそりと抜き取って置いたのは幸いであった。その晩、ウォーグルがしばし目を離した隙に、突如としてジュナイパーが姿を消したからである。驚くべきことに、満身創痍のくせ、まだろくに傷も癒えていない弱々しい肉体を引きずりながらキッサキ神殿を抜け出そうと試みたのであった。生憎、神殿の入口は人間が立ち去って以来門扉は固く閉ざされていたので、扉の前で立ち尽くす此奴の姿を見つけることは容易であったが、そこで足組(あぐま)ったまま瞿瞿(くく)として狼狽している梟の姿を見た。ウォーグルに追いつかれたということにではなく、取り出そうとしたものがあるはずの場所にないということに激しく困惑し、激震に見舞われたように全身を震わせながら半狂乱になっているのを見た。
——ああ、そんな、そんな! そんな! そんな、そんなそんなそんなそんなそんなそんな……
 ウォーグルに羽交締めされてさえも、ジュナイパーはウォーグルのことなど少しも気にかけず、ただマキリが手元にないということがあたかも宇宙の終わりででもあるかのように恐慌を来していたのであった。神がかった叫喚は奴が気絶するまで続いた。闇雲に抵抗する梟を必死に抑えつけながら、ウォーグルは畏れと同時に言いようのない憐れみを抱かずにはいなかった。創造神の罰としてギラティナが落とされたというあの深淵よりも深く、救いがたい何かが、あの叫びに含まれているとしか聞こえなかった。
 そしてその金切り声は未だウォーグルの聴覚に刺青の如く刻み込まれているのであった。凍土に吹き荒ぶ天籟にも、まだその余韻が混じっているような気さえした。
「心とはいかなるものを言ふならん墨絵に書きし松風の音」
 突拍子もなくジュナイパーがそう嘴遊んだ。
「何だよ、いきなり」
「今は昔、とある破戒僧の言葉が嘴をついて出たまでさ」
「はかいそう?」
「いけないことをする、はしたないお坊さんってことだよ」
「で、さっき言ってたのは何だって?」
「心とはいかなるものを言ふならん墨絵に書きし松風の音」
「じゃなくて、意味教えろって言ってんだっての」
「心といふものは、いかにと判じ申すに、かげ形もなきもの也」
「だから? つまり?」
「……見えるようで見えない。聞こえるようで聞こえない、けれど見えるような気がするし、聞こえるような気もする」
「えっと、それで?……」
「結局のところ振り出しに戻るというわけ。心というのは一体どういうものなんだろうなあ、ってさ」
「ふうん」
 ウォーグルはその言葉を一頻り吟味した。
「心そのものはともかく、俺はあんたの心、わかるぜ」
 ジュナイパーが存外顔貌を紅くしているのは決して逆上せているばかりではなかった。モクローの頃はさぞこのような表情をしていたのであろう、唖然として固まった顔つきはいっそ滑稽だった。とはいえ意趣返しにと、唐突な戯言に出し抜けな返事をしたわけではない。ウォーグルはジュナイパーの心がわかる。少なくとも、あの不可思議な少女のそばにずっといた身であるからには、彼女以上に心のわからぬ者などいない、という意味においてウォーグルはジュナイパーの心がわかると確信できたからそう言ったのである。
「そんなに驚くことでもねえだろがよ」
 手羽先で梟の頭を小突いてみると、ハッとしてジュナイパーは湯面に細波を立てた。
「むしろ、お前の心がわからないとでも思ってんのか? お前のためにどれだけ尽くしたのか、お前は素知らぬ振りをしているが、知らないとは絶対に言わせないからな。それでも、お前の心がわからないって? ったく、舐めんなっての!」
 奴がキッサキの神殿の屋上で伏せっていた間も、自分のことについては一言たりとも嘴にしようとはしなかった、とウォーグルは思い返す。瞼を閉じて眠っているであろう時は常に何かにうなされていた。丸い目を見開いて覚醒していてもその瞳は虚であり、ウォーグルがその顔を真正面から見据えたとて、そこに灯る光は蒼天で煌めく星々よりも仄かであった。
 だが、そんな梟であってもここであっさりと死なれてしまっては心地が悪かった。一度助けてしまったからには、自分の救おうとした命が儚くなってしまうのはウォーグルとしては絶対に嫌なのであった。衰弱しきったジュナイパーを何とか生き永らえさせようと、自分でも驚くほどの気概でもって夙夜看病してやったのであったのは自分ながら殊勝な行いであった。食わなければ死ぬくせに自分からは何も食おうとしないので、無理に嘴伝いに餌付けをしてやった。嫌がる素ぶりでも見せれば無理に舌を捩じ込んで嚥下させた。嘴先より垂れる銀糸を翼で拭うたび、雛一匹も育てたことがない俺が、こうして大の雄一匹と嘴を交わしていることは何とも不思議な因果と思われた。夜のいっそう凍てつく頃など、毛布がわりに奴の上に重なってやりもした。羽毛の奥にある肉の感触を通じて、奴の消え入りそうな生命の冷たさを感じ取っては、畜生、鳥なんだからもっと温かくなりやがれ、何糞、と念じたのだった。
 ジュナイパーは何も言わなかった。ウォーグルの率直な物言いに不意を突かれたのか、またぞろ嘴を湯に沈めて、ぶくぶくと泡を立てている。陸続と噴き上がるあぶくがコイルのようにくっついてレアコイルとなり、ジバコイルになるかと思えば瞬時に弾けた。
 相変わらず、不器用な奴であった。今でこそ誰にも触れ難い物怪のような力を持ってしまったが、自己の感情を表出することにかけては極めて意気地のない雄なのであった。他者のことには滔々と立板(プレート)に水のようなのに、いざその言葉を自己自身に向けるやいなや、急に訥々とし出すのである。そのくせ、奴の心理はけして難渋というのではなかった。ただ単に竹のように真っ直ぐではなく、松のように捻れているだけの話に過ぎなかった。
 奴を塒に引き取ってしばらく、凍土中より再び自分を呼ぶポケモンどもの騒ぐのを聞いた。凍土にまたしても見知らぬ者が来ていると。しかも鬼神の形相にて凍土を我が物顔で闊歩していると誰もかもが恐懼していた。奇怪なる気配に心を澄ませば、其奴は氷塊を越えると段丘を上り、エイチ湖のほとりを渡ってキッサキの神殿へ近づいて来ているとわかった。
 意を決して神殿の表に舞い降りて、その気配の到着するのを待てば、やがて暗がりの中より甲殻のかち合う音を立てながら、其奴が姿を現した。
——なんだ、貴様か。
 挨拶もなしに、ダイケンキが鮮血を湛えた瞳で見据えると、氷水を全身に浴びせられたかのように、ウォーグルは肌膚が俄かに引き締まる感触を覚えた。巨躯のルカリオやガブリアスが放つ眼光などまるで話もならぬようなその目には、敵意というものすらなく、悪意や憎悪すら感じらなかったが、それ故に底知れぬ恐怖を喚起させた。
 名も知らぬ遠い異国の地よりやって来た博士と共にこの地へと流れつき、やがてあの人間に連れ立ってヒスイの諸地方を旅して回ったポケモンどもの一体であるダイケンキの顔つきに宿るのは、侮蔑とも諦念とも無関心と言っても足りない何ものかであった。ジュナイパーと同様、此奴ともヒスイの夜明け以来疎遠になってはいたが、最後の記憶に残っている奴の姿とはまるで別物であった。
——まだ生きていたのか! もう誰にも必要とされなくなったというのに。
 漆黒に朱色を加飾した重々しげな貝の甲冑をもたげながら、ダイケンキは言い放つ。ウォーグルは趾で雪の降り積もる地面を掴んでいた。そうでもしなければ、意味もわからぬ力に気圧されてしまいそうであった。
——何しに来たんだよ。
 痺れそうな舌を何とか回して、ダイケンキに訊ねた。
——首を斬り損ねた相手がいてな
 とだけダイケンキは言った。
——いるのだろう?
 わかっているぞ。冷ややかな視線がウォーグルの身体をちくと刺す。
——何の話をしてんだか俺にはわかんねえな
——話さずともわかることだろう? いやしくも英傑の末裔ならば
 いやしくも、という言葉に揶揄するような調子が混じった。由縁はわからないながらも、ダイケンキの度し難い感情を推し量るには充分であった。
 ヒスイに夜明けをもたらしたあの人間は、創造神に合間見えんとてポケモンたちとともに天冠の頂上を司るシンオウ神殿——朽ち果てていまは槍の柱と呼ばれているが——へ向かった。それが、かの人間の消息の最後であった。その日、ヒスイの空に再びあの裂け目が現れたことを除いては、何が起こったのかを知るものは、まさにその場所にいた者どものみであった。
 ウォーグルはその時も直前まで人間に同行していたのである。だが、笠雲の切り通しへ続く岩の門にさしかかると、人間は意を決してウォーグルたちに告げたことには、彼と常に付き従っていた三体のポケモン——そのうち二匹と何の因果かこの凍土で再び巡り合っていた——のみをここから先へ連れて行く、というのであった。強い覚悟を秘めた人間の凄まじい様子を目にして、誰もが従うことしかできなかった。ウォーグルは、アヤシシ、ガチグマ、オオニューラと共に門の奥の暗がりへ姿を消す人間と、三匹のポケモンの背中をただ見守っていた。裂け目が再び現出したのは、それから暫くしてのことであった。
——俺の前にあれを差し出せば、命は取らないでやる。さもなくば、だ。
 ダイケンキは前脚に差した足刀をおもむろに取り出し、その刃先をウォーグルに向けた。剣先が赤いもので染まっているのが見えた。まだ固まっていない新鮮な血が、そこから垂れ落ちて雪上に旭日を作り出した。
——よくわかんねえけど、お前、堕ちたもんだな。
 言い知れようのない怒りが鬣を炎のように揺らめかせるのをウォーグルは感じていた。
——最低な野郎になっちまったんだな、本当に。
——ヒスイに生を受けたくせに、今更何を言う?
 不敵にも笑いながらダイケンキはけらけらと白い髭をそびやかした。
——恨むならこの土地を恨むことだ。それが受け入れられないなら、死ぬだけだ。
 此奴もまたジュナイパーと同様、ヒスイに呪われたポケモンであることに変わりなかった。心ならずもヒスイの土を踏み、悠久に及ぶヒスイの歴史から迸った血飛沫を、天冠山が纏う瘴気をまともに浴びてしまった者であった。それを心では解っていたとしても、ダイケンキが秘める真意はウォーグルにはやはり底なしに思われた。
——いたとしても決してお前の届かない場所にいるぞ。
 ジュナイパーならば、今もまだ神殿の屋上で伏せっているはずであった。初めの晩に階下まで降りた力は一体何であったのかと疑われるほどに、まともに立ち上がることさえできない有り様であったので、そこに伏せっている限りは安全なはずであった。
——俺を殺したら、ますます彼奴に手が届かなくなるけど、いいのか?
 とウォーグルは嘯いた。
——神殿の入り口は封印されちまった。力だけじゃ開けられねえよ。俺にだって、もうわからねえんだから。だからといって、お前みたいな野郎に翼を貸すつもりはねえけどさ!
——そうか
 大したことではないとばかりダイケンキが矢庭に笑い出したので、何が可笑しいと凄みを利かせれば、いかにも涼しい表情で受け止めるのが腹立たしい。
——そんなことせずとも、俺と奴は邪な絆で繋がっているのだ。どれだけ離れようが、いずれ近寄らずにはいられない……
 はて、とその言を訝しがっていると、卒爾として上空より物の気配が感じられたので見上げると、神殿の縁に立っている梟の影を認めたので、ウォーグルは肝が冷えた。影はそのまま飛び上がれば、ふうわりと翼を力強く奮いながら舞い降りてきた。
——馬鹿野郎っ!
 平然を装ってダイケンキの前にぬけぬけと姿を見せたジュナイパーに向かって激憤した。
——みすみす殺されに来やがって、お前も、お前も大概な野郎だ!
——言っただろう。これが邪な絆という奴だ。
 ダイケンキは憐れみさえ示しながら言葉を挟んだ。
——此奴は根本的には俺と同じような存在に過ぎぬ。異国からヒスイに流れ来て、洗礼を受けた者同士であるからには、どちらかが死ぬまで、その穢れた宿命は終わらないのだ。
——何をワケわかんねえことを……
——いいんだ。
 いいんだ、もう。ウォーグルを制したジュナイパーは、覚束ぬ足取りでダイケンキの真ん前まで来ると、そのまま崩れ落ちるように座し、全てを諦めたかのように俯いた。嗚呼、これが奴の最期なんだなと、ウォーグルならずともその場にいたものは誰もが思ったはずである。
——済まなかった。いずれにせよ僕は死ぬんだ。
 済まなかった、済まなかった、と言い聞かせるようにジュナイパーはその言を繰り返した。それが所詮虚勢を張っているに過ぎないとウォーグルにはすぐわかった。介抱した時、か細い声で「寂しい」と呟くのを聞いてしまったからには、言葉とは裏腹に奴はまだ生きたがっている、少なくともこのような形で生命を断ち切られたくはないと恨んでいる。そのくせ、格好ばかり付けたがる。
 ダイケンキが前脚でジュナイパーの首を乱暴に雪上に抑え付けると、空いた手に握った足刀を慇懃にも頸に当てがって、弱々しく鳴く梟の声に聴きいるかのように目を瞑る。憎き相手をこれから斬首するというのに、そこに一抹の名残惜しさが感じられるのがかえって不気味であった。殺してもなお殺したりないという風情であった。
——ビッパのように小賢しい鼠であったことよ。
 と、せせら笑う様も卑賤である。ウォーグルは隙をついて、海獣に向けて念力を撃ち放った。矢庭に粉雪が吹雪き、木々が海藻のように揺れ、根本から折れるものもあった。轟音が止み、雪煙に目を凝らせば黒く濃い影がやんわりと立ち上ってきた。ダイケンキは先ほどと全く変わらず、そこに立っていた。ジュナイパーを邪鬼の如く踏みつけながら、厳しい表情で眼光を赤く光らせれば、流石のウォーグルも心臓を直に握られたかのような寒気を覚えるや否や、自己の身体からドス黒い飛沫が噴き出した。足刀の一閃が放った撒菱が肉体を深く切り裂いていた。一旦の時を置いて、叫びださんばかりの痛覚が肉体を苛み、視野が茫洋とし、世界は忽ち揺らいだ。貴様、と悪態を吐く代わりに嘴から出たのは血反吐であった。急激に重くなった体を伏してなおダイケンキを睨みつけるが、返ってくるのは冷めた憐憫ばかりだった。起き上がりたくても地に磔にされたかのように羽根は微塵も動いてはくれなかった。踏みしめていたジュナイパーを捨て置き、ダイケンキは嘲笑いながらこちらへにじり寄ってきた。
——大人しくしていろ。お前も一緒に締めてやるから。
 ちょうど鶏肉をたらふく食いたかったところだ、などとダイケンキは嘯いてウォーグルの首根っこを掴むと、俵のように放り投げ、ウォーグルはジュナイパーと首を並べる姿勢になった。足払いで無理やり顔同士を寄せ付けられるとぐったりしている梟の疲れ切った表情が嫌でも目に入った。
——おい。
 呼びかけてみても、苦しげに息を吸いては吐くばかりで何も答えやしなかった。何度呼びかけても、力無く閉じた瞼を開こうとはしなかった。抵抗することもせずに死を受け入れようとする雄の顔はいかにも見るに忍びなかった。
 足刀の刃がほんの少し首筋に触れると、総毛立った羽根を割く乾いた音がした。ウォーグルはどうしてか涙が溢れそうになった。これまでちっとも深刻に死を考えてこなかったし、根拠もなく強がっていたのに、いざそれが眼前に迫ると臆病にも返す言葉を失ってしまうのは情けなかったが如何しようもなかった。
——ったく、しょうがねえ、ヤツだよ、本当、お前って。
 うっかり涙ぐまないように気をつけながらウォーグルは言葉を区切って言ったのだ。
——俺まで、余計なこと、巻き込み、やがって。けど、しょうが、ねえから、一緒に、死んでやるよ。けどな、最期くらい、正々堂々と、してくれよ、ヒスイの雄が、恥ずかしいぞ……!
「そういう君こそ、思えばあの時、ずいぶんへちゃむくれになっていたじゃないか」
「うっせ」
 先ほどの意趣返しか、ジュナイパーも昔のことを蒸し返してウォーグルを揶揄おうとする。しかし、ダイケンキに仲良く殺されそうになった互いの顔を思い出して、出湯の二羽は非道く赤面し、閉口してしまった。
「だーーーーっ!……」
 湯に浮かぶワシボンが寝ぼけざまに奇声を挙げた。それが静まると、沈黙はいっそうのこと凍土全土を満たすかのように広がっていった。
 気まぐれな創造神はいましばらく彼らを生かすことを選んだのであった。それはか弱い梟を救ってやろうという慈悲ではなく、巻き添えを食った鷲への憐憫でもなく、暴虐たる海獣に天誅を喰らわせようという正義ですらなかった。創造神はまさに天冠山の聳える如く超然と振る舞っていただけだった。結果として、ウォーグルとジュナイパーは長い時を経て、純白の凍土の雪見の出湯にてまたしても巡り合っているのである。


 3

「あの人は僕を選んだ。でも、それが奴にとっては僕が想像する以上に屈辱的なことだったのかもしれない」
 あのダイケンキのことについてジュナイパーはそう推測し、芯まで温まった身体全体を膨らませてとっておきの白い息を吐く。
「僕がモクローから成長してジュナイパーになった後で、まだミジュマルだった奴はあの人の旅に加わったんだが。奴が僕に向ける眼差しは次第にオヤブンのようになり、鋭く不気味な眼光を放つようになっていったんだ」
 凍土に吹く風が俄かに強くなり出した。ジュナイパーの吐息は忽ち突風に揉みくちゃになって掻き消され、出湯から沸き立つ煙も流れ行く雲のように彼方かへと去っていった。
「その挙句、翡翠中を巻き込んで兄弟喧嘩の洒落込んで、か。はた迷惑な話だな」
「君にも何かと迷惑をかけた」
「ああ。力ばかり強くて餓鬼みてえな馬鹿ばかりのせいでな」
 しかしながら、翡翠の極寒と瘴気によってあらぬ姿に進化させられながらも、あくまでも翡翠の地にとってはどこまでも余所者に過ぎず、従って英傑に列せられることもない彼らにできる唯一の存在理由は、自分を旅立ちの共に選んだ一人の銀河団員に対して忠義を尽くすことしか考えられなかったに相違ない。始まりの海岸で出会った時から、天冠山の頂上で「全てのポケモンに出会え」と命じた神のもとに会いに行ったあの日まで、彼らはかの人間の影となり盾となろうとしたのであるが、その結果として残されたものは一体何であったか。神の思し召しとは果たしていかなるものであったのか。あの晩に遭遇したダイケンキの静かな佇まいの陰には、運命という残酷でそれでいて月並なものに対する言いしれようのない憤りが潜んでいたのだと、今のウォーグルならば理解できた。
 だが、その時は全てを観念し、霹靂のように訪れた死の不条理さえも受け入れようとして、ウォーグルは目を瞑ったのだ。けれども、感覚に出来したのは首筋に走る言葉にし難い痛みではなく、嘴にやはり嘴のような硬いものが触れ合う感触であった。それは間も無く、柔らかさと生温い熱を持った何かに変わり、ウォーグルの嘴をこじ開け、その内側に忍び行ってきたのである。かの人が決死の覚悟にてヒスイの異常を収めた後、祝賀するコトブキの村で見た宙に高く上がった花火の音が、それが放つ鮮やかで色とりどりの火花よりもしばらく遅れて聞こえてくるように、その艶かしい感触から程なくして訳もわからず全身が燃え上がるような、あまりにも獣的な情欲が高まってきたのをウォーグルの肉体ははっきりと覚えていた。死の淵にあって確かだったのは、目に見えるものでは一切なく、死後を思わせる暗闇を緞帳にしながらカチカチと石を打ち合わせるように鳴る彼らの嘴の重なり合う音であった。
 どれほどの時が経った後か、最早そんな時の感覚さえどうでもいいと思われた頃になって、ウォーグルは目を見開いて梟の面構えを見つめた。梟もまた目を見開いており、奴も奴とて自分から何をしでかしたのか皆目わからぬといった風情で丸い目をよりまん丸くしながらこちらを見つめ返していた。何空惚けてやがると呆れるそばから、嘴内をかき回された感触が改めて喚び起こされ、全身がやたらと火照ってくるなどした。死の間際まで体験したからには、まだ生きている、生きていた、ということが宇宙の不思議そのものであるかのように感じられてきたのをウォーグルは今だってよく覚えていたのだ。だがあの刹那に限れば、何が起きたのかだ誰も何もわかってなどいなかった。ダイケンキの姿はいつの間にか消え失せていた。かつてヒスイの地で見られた神の気まぐれとも言うべき時空の歪みが突如として現出し、忽然として消失するような仕方であの海獣も何処かへか去っていた。刀の一振りが雪を抉り、削り出してできた乱脈な線が自分らの横たわるすぐそばを走る跡があった。
「流石に僕もその時は気が動転していたのだろうと思うよ」
 などと、いかにも何でもないことのように、後世の歴史家然としてジュナイパーは振り返るのだが、どうしてかあの日死を免れ、しかし爾来生きることすらも免れるようになってしまったかのような梟がウォーグルと嘴を交わしてしまった感情の根っこに、二つの相反する衝動、つまりは生への欲求と安寧な死への渇望があったことを忘れてしまったはずがなかった。いま、飄々と嘯いているジュナイパーの瞳の奥まで覗き込んだならば、そこに、ほんの微かにあの人間の残影を認めることができるはずであり、畢竟ジュナイパーという梟を現世に宙吊りにしているのは、かの人の存在であり不在に他ならなかったろう、とウォーグルは確信できた。
「いや、気が動転してたどころじゃねえっての」
 その言葉の通り、ウォーグルがジュナイパーの顔を見つめ、カタカタと硬く乾いた音を立てて震える嘴を見つめた時、笠のような頭部の羽根の隙間より覗く目は引き絞られた弓のように緊張し、胡麻のように小さく縮こまった瞳孔が震えていた。いまだ自己が生き延び得たことを理解せず、まだその首にあの刀が振り下ろされるのではないかと怯え切っている様子であったのだ。
——おい!
 そう呼び掛けても梟は恐慌を来したまま反応しなかったが、構わずにウォーグルは話した。
——安心しろよ。俺たちはどうやら生き延びたらしい……
 生き延びた、という言葉にジュナイパーはむしろ動揺したように神経質に震え上がったのをウォーグルは覚えていた。本能的に、生理的に相手を拒絶する身振りのように、心よりも先に肉体が過敏に反応し、今にも叫び出すか笑い出すかしそうなほどに全身をガタガタと震わせたのだ。嘴からは頻りに上る紫煙のような煙が上がり、まるで悪事を働いた子がこの後待ち受けている折檻に恐れ慄いているかのようで、その時の梟の姿からすれば、風来坊然としたいまの姿など想像だにつかなかった。
「あの時のお前は間違いなく気が狂ってたよ。なんつうか、頭がぱっぱらぱあになってたんだ」
 とウォーグルは言い、いや、もしかしたらいまだに——そう、嘴に出しそうになってギリギリのところで止した。そんなことを言ったところで誰も救うことはできないし、流れゆく翡翠の時を止めることも最早出来はしないと思ったからである。
「まあ、そうだったかもしれないな」
 ジュナイパーは少し湯に上せでもしたか、ふらふらと首を前後に倒し倒し答えた。物陰でワンリキーたちがチラチラと彼らの様子を気にしているのをウォーグルは見る。大方、このどこから流れてきたものやらわからぬ部外者に萎縮しているのであろうと、申し訳ない気持ちにもなるが、ジュナイパーはとんと気付かぬ様子で、大嘴を開けて欠伸などする。
「湯の中で二匹も寝られちゃ困る。小さな餓鬼はともかく、お前みたいな大きな餓鬼は勘弁願いたいぜ」
「……少し気が抜けていただけだ」
「どうだか」
 実際、ここにやって来るとき、ジュナイパーは大抵疲れ切っているのだった。肉体的な疲れもそうだが、それと同じくらい精神もやられている。どうせ、またどこかで奴は死のうとしたが死ねず、その思いとは裏腹に切実に生きたいと願いもし、自己矛盾に陥っていることを自覚過ぎるほど自覚して閉口しているのだろう。初めて来たときから、その心理だけは変わったことがないとウォーグルは断言できた。
 それにしても、そろそろ脚元に温いものが欲しいな、とウォーグルはの片隅で思い始める。雪上に曝け出された爪がそろそろ悴みそうだった。
「お前も爪先くらいは浸かったらどうだ」
 などと梟が言うので、
「じゃあ、そうさせてもらうかな」
 そのくせ、ウォーグルは湯にではなく、ジュナイパーの肩に飛び乗った。たちまち、ぴいいいいいいいっ! と女々しげな悲鳴が出湯にこだましすと、物陰のワンリキーどもはパラスどもを散らしたようにその場を逃げ出し、湯に浮かんでいたワシボンもバランスを崩してひっくり返り、慌てて翼をバタつかせた。
「俺は湯に浸かったらどうだ、と言ったんだ!」
 ぷりぷりとしてジュナイパーが不平を垂れるのが、いかにも面白かったので、意地悪くそこに留まった。止まり木代わりにした肩は案外がっちりとしていて、爪で軽く掴んでみれば確かな肉体の手応えがあった。
「いきなり熱い湯になんか触れたら、火傷しそうだったんでな」
 筋が通っていそうで自分でもよくわからない言い訳を弄しながら、ウォーグルはぬくぬくと梟の後頭に腹を擦り付けると、そのまん丸い顔がずっぽりと大鷲の鼠色をした羽毛の中に埋もれていく。
 何度も湯の上で寝返りを打った後で、やっとバランスを取り直したワシボンが、わちゃわちゃと騒いでいる二匹に気づくと、何をしているかはどうでもいいが、兎も角もこの自分が置いてけぼりになっていることが腹立たしくて堪らず、赤子のように自分の存在を見せつけるべく、
「貴様ぁーっ! このーぉ!」
 と小癪な趾を伸ばし、ジュナイパーの顔面目掛けて飛び膝蹴りを喰らわす。梟の嘴から余計にらしからぬ声の出たことは仕方のないことであった。
——ったく。お前は生きたいのか、死にたいのか、一体どっちなんだよ?
  生き延びた、という言葉に激しい拒絶を示したジュナイパーにウォーグルは奴にそう問いかけたのだった。返事はなかった。ウォーグルは目を見開いたままの奴の顔をまじまじと観察し、絶え間なく輪郭の揺れ動く瞳孔を穴が空いてしまいそうなほどに見つめたが、この梟は一言も嘴に出そうとはしなかった。沈黙が長引くにつれ、ダイケンキにやられた傷の痛みがじんわりと感じられてきた。慣れ切っているはずの凍土の雪の冷たさが傷口に滲みて、ハリーセンの針をいくつも刺されるように痛むのだ。
——処置なしだな、ったく。
 困り果てて、所在なさげに周囲に気を向けたとき、それがずっと自分らのそばに佇んでいることに気がついたのだった。それはあたかも遥か以前からこの場所に据えられていたのだと言わんばかりに鎮座していた。不覚だった。だが、顔と思しきあたりに並んだ点を俄かに赤く、青く、黄色くそれぞれ鈍い光を点らせながら、レジギガスと呼ばれていた巨像はずっ、ずっ、とその体躯に似合わぬ微かな音を立てながらにじり寄って来ると、起重機が重荷を積むように巨大な両腕で二匹を抱き抱えた。ウォーグルとジュナイパーはレジギガスに運ばれるがままになった。気の遠くなるほど緩慢な速度でレジギガスは進んだので、途切れそうで途切れない意識のなかで、吹雪を撒き散らし続ける夜空や、ドータクンの青銅の響き以外には何一つとて聞こえない神殿の天井を、これ以上見入ることはないだろうほどにウォーグルは目にした。不意に首が横に傾いて、神殿の床に目線が投げ出されると、いつからあったのだろうか、サーナイトかエルレイドかもわからなくなった散相が見えた。
 その巨体が屋上に差し掛かるころには、出口からは仄かな光が射していた。といっても、瞼は共に重く閉じられていたので、眼窩裏が俄かに血のように真っ赤に染まるのを感じて、光の気配を察したに過ぎなかった。レジギガスは出口の少し前で立ち止まり、石盤のようにのっぺりとした胴を心もち前傾させて、ウォーグルとジュナイパーの身体を、まるで陶磁器を取り扱うかのように慎重に神殿の床に下ろしたのだった。ウォーグルは疲れ切って目を開けることもできず、遥か古代には大陸を引いて歩いたとも言うこの異様な怪物にせめてもの例を言うことだにできなかったが、其奴がしばらくの間、その場に臥せっているのを、心配してか思いやってか、見守るように佇んでいた気配は確かに覚えている。やがて静かで重々しい足音がし、ゆっくりと遠ざかり、小さくなっていった。その音が聞こえるか聞こえなくなるかの合間に、ウォーグルは意識を失っていた。
「……どいつもこいつも、僕を揶揄う」
 ようやくしかめ面が緩んでから、ジュナイパーはそう溢した。
「それだけ揶揄い甲斐があるってことよ」
 奴の肩を揺すぶるようにウォーグルは身体を弾ませた。ウォーグルの腹の羽毛がジュナイパーの顔をすっぽりと包み込むと、思わず困惑したような、あっ、という腑抜けた声を梟はあげる。
「……何の慰めにもなっていないじゃないか」
「少なくとも、お前はお前が思ってるよりは独りじゃないとも言えないか」
「だが、いずれは独りにしてしまうだろうさ」
 大小二羽の鷲どもにいいようにやられた腹いせか、声はだいぶ不貞腐れている。
「んだよ、お前、寂しいのか」
 そう言うと、ジュナイパーは黙ってしまう。弱いところを突かれると、だんまりを決め込んでしまうのも、もう見知った此奴の性根であった。お前にしては珍しく本音を嘴にしてくれるかと思ったんだがな、とウォーグルは残念がったが、あの日創造神が何をしでかしたか詳らかではないが、とにかくあの天冠山の頂上に上った日以来、主である人間と離れ離れになったうえ、長らく兄弟と信じていたダイケンキに憎悪されるようになった梟にとって、寂しい、と感じることは言うまでもないことであろうし、そんなことはウォーグルは誰よりもよく理解していると信じた。
——寂しい。
 なぜならば、生き延びたジュナイパーがまたしても、初め介抱した時に耳にしたのと同じ弱音を吐いたからだった。ウォーグルの傷は一晩横になった程度で十分に癒えていた。滋養として周囲からきのみやらを集めてくることができるようになっていたが、ジュナイパーは相変わらず歩くだに難渋する有り様だった。ダイケンキが現れた晩に、不要にも勇敢に屋上から舞い降りてきた気概は一体何であったのかと怪訝に思われるほどの弱りようであった。ウォーグルは集めたきのみをまた嘴伝いに流し込んでやらなければならず、奴が鳥のくせ寒さに凍えているようであれば、自分の翼でその身を風雪から守ってやらねばならなかった。
 寂しい、とジュナイパーがまたしても漏らしたのは、ウォーグルの翼の中に包まれた晩であった。くぐもり声で、神殿に吹く風の音に掻き消されそうであったが、確かに寂しい、とウォーグルは聞いた。
——何が、寂しいんだよ。
 答えが返ってくる代わり、ジュナイパーの弱々しい身体が大鷲の身にもたれかかったのだが、枯木が寒岩に寄り添うように軽々しく寒々しかったので、一瞬、奴が幻のように消え去ってしまったのではないかと勘違いしてしまった。寂しい、寂しい、と念仏のようにジュナイパーは言い、壊れた絡繰のように全身をカタカタと震わせた。ウォーグルはそれにどうにか応えようとしたが、ジュナイパーの寂しい、という呟きは、彼に向けられてはいないことにすぐ気がついた。それはもとより自分を殺めようとしたダイケンキにでもなく、そうした運命をまるで物語の語り部のように強いている創造神にも向けられていなかった。力尽きて川を流されていくバスラオの死骸のように、行き場を失った言葉は、無意味に張り詰めた凍土の空気に漂っているだけだった。
 ウォーグルはしっかりと奴の身体を翼で覆い、包み込むことしかできなかった。豊かな羽毛に纏われたはずのジュナイパーの肉体は、氷柱を抱いているかのように冷たく、まるでユキメノコの呪いにかけられたかのように自らも凍ってしまいそうだったが、ウォーグルは奴を抱き締めることを止めはしなかった。せめて俺の目の届くうちは生きて貰わねえと癪で癪で溜まらねえ、何が起きたかは知らねえけど、せっかく生き永らえた命なんだってのに!
 その時、不思議なことに霊気というより言葉に変え難い何かがジュナイパーの身体よりウォーグルの羽毛を潜り込み、肌膚に染み込んで臓器や血管に流れ込んできた。夜な夜な現れるゴースやゴーストどもがそのようにして感情を交えると言われるように、ジュナイパーの思念を受け取ったウォーグルの脳裏には、天より落ちた雷撃が放つ火花のように、その幻影が浮かび上がってきたのであった。
 それは覚えず恍惚としてしまうような甘美な幻影であった。モクローやフクスローであったころにはまだ頭か額に置かれていたであろうかの人間の手が、やがて進化し成熟したジュナイパーの豊かな毛並みに触れ、その手が羽毛に埋もれた肉体にまで伸びていくさまをウォーグルは観想し、やがてほっそりとした白い指の不器用ながらも繊細な動作が、梟に何度も熱く深いため息を漏らさせ、成熟した者に特有のあの悦びを享受させる——淫らな奴の姿を思いがけずウォーグルは垣間見てしまった。少女が眼前で衣服を脱ぎ去って、あられもない裸身を曝け出した時のように、不意を突かれたため困惑し、動揺し、顔が勝手に熱くなった。
 ああ、こんな時に何てもんを見せやがる!……逆上して捲し立てるも、その声は虚しく凍土の空気に溶けていった。
——寂、しい。
 ジュナイパーは、そんな彼の心を逆撫でするかのように、また嘴ごもりつつ言ったのだった。虚ろな意識のなかで、今し方ウォーグルが見させられた過去の幸福を愛しんででもいるのだろうか、その身の震えは心なしか主人からの愛撫を思い返しているようでもあった。白い息を嘴から鼻孔から噴き出しながら、ウォーグルはどんな顔をすればいいものやらわからず、まるで自分がその場から疎外されているような気がし、次第に妙な苛立ちに囚われるようになった。このような状況に至って、慚愧の念もなしに、のうのうと甘ったるい思い出に浸って現状から目を背けている此奴の女々しさに腹が立ったとでも言うべきだったろうか。それに、ダイケンキの刃が振り下ろされるか振り下ろされないかの間際に、此奴がウォーグルの嘴を貪ったのは、死の瞬間にかつての主人の幻影をそこに見たからだったのか、などという考えが思い浮かび、何故だか腹立たしくなったのだった。別にこんな奴に好かれようが好かれまいが、ウォーグルにとってはさしたる問題ではなかったはずにも拘らず、何故だか腹の虫が承知しなかった。承知することは出来なかった。
 そして、またしても何事かを呟こうとしたジュナイパーの嘴をウォーグルは自らの嘴で塞いだのだった。無骨に生きてきた故、こういう時の手管など知る由もなかったが、昂った情感の赴くままに、がむしゃらに奴の喉を突き刺さんばかりに舌を突き出し、口腔に粘着する唾液の一切を拭い取ろうとした。ジュナイパーの奴が、苦しげに何かを訴えようとしても聞き入れなかった。このまま息絶えてしまってもいいと、昂った感情に任せて思った。
 ジュナイパーは唖然として、まん丸い目を剥き出しにしてウォーグルを見返したが、先だって同じことをしたくせに、自分のされていることの意味が分からぬような態度をするのが、余計にウォーグルを刺激した。途端に、これまではろくに考えもしなかった強烈な欲望が、大鷲の心臓を激しく鼓動させ、息を絶え絶えにさせ、剰え股座を熱くさせていた。激情のままにジュナイパーを組み敷くと、仄かに黒く煤けた股を開かせ、ぺぺのような孔がねっとりと涎を垂らしながら開くのを見た。
——俺は何が何だかさっぱりわからん! けどな! こんな時にもう会えもしねえ奴のことなんざ、くよくよと考えやがって! 馬鹿じゃねえのか!
 ウォーグルは衝動に操られるままに吠え立てた。自分の言っていることが、途中からわからなかった。誰かに言わされているかのようで、どこか他人事のようにも思えた。
——ろくでもねえ野郎が! お前みたいな腐った根性で翡翠を生きていけるだなんて思うなよ! いつまでもメソメソしやがってからに! お前は生きてんだ! だったら生きやがれ! でなけりゃ、死んじまえ! でなけりゃ、俺がぶっ殺してやるからな! 畜生!……
 ゴワゴワとした羽毛が擦れ合う音がした。嘴が竹刀のように打ち合う音がした。ウォーグルは無我夢中だった。こんなに身体は冷えているくせに、孔の方はほかほかと湯気を立てるようだったのが何故だか余計にウォーグルを発奮させた。ジュナイパーの肉体に自分の肉体を擦り付け、打ちつけ、互いの欲望を吐き切るまでずっとそれを続けた。奴は悲鳴すら立てず、ウォーグルのし始めた行為に呆気に取られるまま、弱々しく息を漏らすだけだった。
——恨むんなら、俺じゃなくて、翡翠という土地を恨んでくれよ。
 目を見開いて、唾を吐き出すようにそれを放ち終えたあとで、息を切らしながら、ウォーグルは言いくるめるように、納得するように話しかけた。
——俺にも、なんでこんなことをしちまったか、わからねえんだから、本当に、わからねえんだ。多分、俺もこの翡翠って土地が持ってる何かに呪われちまってるんだろう。きっと、そうなんだ、きっと……
 それがジュナイパーの耳に届いているかどうか、もしかしたらどうでもよかったのかもしれない。かつて英雄に付き従ったやんごとなきポケモンの末裔であろうが、所詮はポケモンであり、それ以前にあらゆる感情と欲望を剥き出しにした一介の生物に過ぎないのだということを、これ以上までにウォーグルは自覚したことはなかった。額を硫黄のように青白く光らせながら、ウォーグルは視線を微かに胸を上下させているジュナイパーに向け、それから天冠山に向けた。ウォーグルにはとても言葉にはできない感情が込み上げて、眩暈がしそうであった。その山の頂上、今は槍の柱とだけ呼ばれている神殿の跡地に、創世神が佇んで翡翠全土を見つめている姿をウォーグルは想像した。ここまでの顛末すら神は照覧していたかもしれず、それもただ黙って、あるいは微笑ましくその様子を傍観していたのかもしれないと思うと、全身の力がみるみると抜けていった。
「動揺すると物狂いのようなこともしでかす」
 あの時、思いがけず肉体を交えたことに話が及ぶと、昔の話さと、何でもないことのようにジュナイパーはさっぱりと言い切った。
「畢竟、僕らも獣というわけさ」
 などと、もっともらしい締めくくりをするのにも、どこか達観と諦念が込もっているようで、ウォーグルはもどかしいと思った。
「……ところで、そろそろ離れてくれないか」
「何だよ、嫌か?」
「肩が重いし、痛い。それに……」
「それに?」
 ジュナイパーはワシボンが少し離れたところに浮かんでいるのを確かめてから、首を後ろにくいと倒し、ウォーグルの方へ見上げた。
「頸のあたりで疼いている」
「あ……悪い、悪い」
 そんな話もすれば、生き物ゆえ昂るのも致し方ないと思いつつ、随分と直情的であさましいことである。
「ま、寂しいんなら、素直に言ってくれてもいいんだぜ?」
 照れ隠しにそんな軽口を叩いてみれば、思いの外、梟は心を乱されたようであった。
「……感情というのはいつだって不可解なもんさ」
 まるで、どこぞの神に操られているように、さ。ジュナイパーはそんなことを言って、何事かを考え込んでいた。


 4

「で、結局のところ、だけどさ」
 すっかり温まったジュナイパーの火照った顔を見つめながらウォーグルは問うた。
「お前は生きたいのか、死にたいのか、一体どっちなんだよ?」
「僕にそれを」
「ん?」
 ジュナイパーは肩を怒らせ、羽毛を思い切りぶわっと膨らませた。しばらく沈黙を挟んで、それから言葉を継いだ。
「僕にそれを決めることができるだろうか?」
「どういうことだっての」
 そうして梟は大きく息を吸って、朗々たる声で囀った。

 いや疑いは人間にあり
 天に偽り なきものを

「ってことさ」
「なんだそのわかったような、わかんねえような……」
 その生意気な頭を翼で引っ叩いてやろうかとウォーグルは身構えたが、ジュナイパーは一向動じなかった。ハッとするや否や、上腕に入れた力が穴の空いたフワンテのように窄んでいく。こう言う時にジュナイパーの放つアウラは翡翠各地に散らばった粗野なオヤブンどもの放つ威圧感などまるでお話にならぬほどのものであった。
 先述の話からまた長い時が経ち、再び梟が純白の凍土に姿を見せた時には、あの枯葉を掃き集めたような見すぼらしく卑しげな姿は消え失せていたのだった。またしても凍土の同胞たちから呼ばれて奴の様子を伺いに飛んでいくと、ジュナイパーは出湯までの道を肩をそびやかしながら歩きつつ、こんな歌を歌っていた。

 みぃずのぉ〜に〜お〜いがぁ〜!
 まぁぶし〜い〜と〜りぃに〜!
 あめ〜に〜つ〜か〜れ〜たぁ〜!
 ひぃと〜が〜いき〜か〜う〜!

 何事かとウォーグルは梟の脇に陣取って奴の様子を伺っていたが、一向に気にする様子もなく歌い続けた。

 あめあがり〜のまち〜にぃ〜!
 か〜ぜぇがふ〜い〜にぃ〜っ! おこ〜る〜!……

 まるで奴の頸にも背中にも尾羽にも目がついていて、それらが一斉にウォーグルを見つめているような気がした。飛びかかろうと何度思っても、ジュナイパーが漂わせる物々しい雰囲気が、それを許さないのだった。少しでもこちらが襲いかかる素振りでも見せようものなら、奴は平然とこちらを振り返ってくると、ウォーグルには確信できた。荒削りだが透き通った奴の囀りは、エイチ湖から豪雪谷にまで轟き、鬼氷坂のルカリオや雪崩坂のガブリアスも耳を欹てたに違いなく、あたかも凍土全体が此奴の登場に気圧されているのではないかと思われた。

 ながれるぅ〜ひとなみ〜を〜!
 ぼぉくわぁ〜みてるぅ〜!
 ぼっく〜わぁ〜みてる〜うぅ〜!……

 歌い終えると同時にジュナイパーは出湯に辿り着くと、羽毛に纏いついた雪を身震いして払い、趾を湯面にちょんちょんと浸けてから、慎重な動作で腰まで浸かった、そして、いきなり背後を振り返って、
——ご無沙汰していたよ。元気だった?
 などと、如何にも鷹揚に話しかけてくるので、ウォーグルは呆れ果てて返すべき言葉を見失ってしまったものであった。一方で、嘴を交わし合ってしまい、交合さえしてしまった後で、なんとか癒えた身体を引きずりながら、ウォーグルが止めるのも聞かずに立ち去ってから、やけに奴のことが気がかりで仕方なかったウォーグルにとって、どのような形であれこの梟が生きてやって来たのには安堵した。勝手ながら、自分の罪が赦されたような気持ちでいた。
「だーっ! 退屈! た、い、く、つ!」
 ウォーグルとジュナイパーの話が興に乗ってくると、何事も自分が中心にいないと気が済まぬワシボンが、頬を膨らませながら嘴を挟み出す。
「このへちゃむくれ! もっとおもしろい話をしやがれっ! このっ、このっ!」
 そう言って、ジュナイパーの胸元に嘴を突っ込んで頻りに突こうとするので、二羽は顔を見合わせ、苦笑する。ワシボンの嘴はジュナイパーの肉体へはとても及ばず、傍目からはただ顔を埋めてぬくぬくとしているようにしか見えなかった。
「ああ、済まない、済まないな」
 などと、ぽんぽんとワシボンの背中を優しく叩いて宥める姿に、ウォーグルは吹き出す。
「……何だ」
「いや、何となく似つかわしいじゃねえかと思って」
「餓鬼は好きじゃない」
 少しばかり早嘴になってジュナイパーは言い返す。
「昔から何度も言ってるだろう」
「だからだよ」
「……ふぅ!」
 大袈裟なため息を吐くと、ジュナイパーはワシボンの頸を掴んで持ち上げる。何だ貴様は! と露骨に反抗的な顔をして趾をバタバタとさせる。
「指導がなっていない」
「俺を責められても困るぜ」
「なんだとー! 僕に何て嘴を聞く! 離せ! は、な、せぇ!……」
 ジュナイパーは首を振りながら、小鷲の身をそっと湯面に戻してやると、ワシボンは不満そうにしながらも、全身をパタパタとさせながら船のように出湯に漂っていく。嘴ではどうのこうの言うとはいえ、湯にはすっかり満足しているのがいかにも子どもらしい。
 彼らのやりとりを見つめながら、ウォーグルは、僕にそれを決めることができるだろうか? と、今しがたジュナイパーが言ったことについて考えていた。あたかも、奴の生き死には誰かの気紛れによって左右されているので、決して自らの意志で行動することなどできず、全てはあらかじめ決められた選択の中から選ぶことしかできない、とでも言いたげだった。ジュナイパーは長すぎる旅路のなかでいつしかそれを悟り、初めは気が狂うほどに抗ったのであろうが、やがてはそれを受け入れ、身に受けた傷すら優しく自己の一部として受け入れるかのように、その運命を愛おしげに抱きかかえていた。ウォーグルは、奴がかの人間とともに初めて純白の凍土を訪れた時から長い時が経ち、孤独になった奴がダイケンキに追われるようにこの土地へ流れ着き互いに奇妙な晩を過ごした時からも長い時が経ち、さらに長い時が経って奴が朗々と不思議な歌謡をものしながら再びここに現れた時からも長い時が経っていることを思った。確かにその気が遠くなるほど長い間、此奴は生きることも死ぬこともできないでいた。それを決めるのは、世に生くる者どもではなく、その上位から密かに自分らを統括している存在であると、覚悟しているようでもあった。
 ウォーグルがさっきからもの思わしげな表情をしているのに気づき、ジュナイパーは揶揄うような眼差しを向けた。
「んだよ」
「沈思黙考とはお前にしては珍しい」
「お前のせいだろが。そんなに頭の回転がいいわけじゃねえんだから……」
 梟は素知らぬ振りをして、傍に置かれた笛をいきなり取り出すと、しゃにむに音を鳴らし出す。形こそ異様なものに買われども、かつて人間が自分を呼び出す時に奏でた音色と同じだとウォーグルは思った。ジュナイパーは興に乗じて今度は歌い出した。

 お〜しょ〜がぁつぅといえ〜ばぁ〜!
 こ〜た〜つぅ〜を〜ぅ〜かこ〜ん〜でえぇ〜!
 お〜ぞぉ〜にぃ〜を〜たぁべぇな〜あぁ〜が〜ら〜あ〜っ!
 か〜るた〜を〜し〜て〜た〜っ! も〜ぅおぅ〜のぅ〜おぅ〜をぅ〜でぁ〜す〜うぅ〜!……'

「……また妙な歌を歌う」
「関東地方で流行りの今様さ」
 と嘴では言うものの、本当か、出まかせなのかわからなかった。ただ、此奴の歌う歌はどれもこれも耳に新しいのは確かであった。かつてシンジュ団の集落より夜な夜な聞こえてきた民謡とは調子も詞も異なっていて、何かが梟の歌う背後で何かが鳴り響いているように感じられた。ウォーグルにはそれがどういったものなのか想像するべくもないが、強いて言うならば、この感情を代弁するようなうねるような調べを持った何かであり、囃子に使う笛や太鼓では到底鳴らし得ない音であるとウォーグルは思った。ジュナイパーが声を振り絞り、感情を少しも抑えることもなく歌うのに耳を傾けると、

 こ〜と〜し〜は〜ひ〜と〜りぼ〜っちぃでえ〜っ!
 と〜し〜を〜む〜か〜え〜たぁ〜ん〜ですぅ〜!
 じょ〜や〜の〜か〜ね〜が〜さびぃ〜いぃ〜しぃ〜すぅ〜ぎぃ〜!
 みみをおさえ〜て〜まぁあ〜あぁぁぁぁぁ〜しぃ〜たぁ〜!

 湯を漂っていたワシボンが、歌うジュナイパーをちらちらと睨め付けた。「ちょーぜん」としてそんなものなど気にもならない振りをするくせ、気持ち良さげに珍奇な歌を歌う梟の姿が気になるのか、幾度も横目をするのは子どもらしかった。

 い〜え〜さえとびぃ〜でぇ〜なぁ〜けぇ〜ればぁ〜!
 い〜まごろぉ〜み〜んなぁ〜そろ〜ってぇ〜え〜!
 お〜めでと〜うぅがい〜え〜た〜あぁ〜の〜にぃ〜!
 ど〜こぉ〜でぇ〜ま〜ちぃ〜がえ〜たの〜おぉ〜かぁ〜っ!

 またしても笛を握りしめ、久方ぶりの飯のように咥えると、一気に肺から空気を送り込んで妙な音を鳴らす。その音は、まるで疱瘡にかかった人間が苦しみ悶え、救いを求めて掠れた声で絶叫しつつ、伸ばした腕を緊張させて小刻みに震わせている様を連想させた。

 だ〜けど〜す〜べ〜てを〜か〜けた〜っ!
 い〜ま〜は〜た〜だ〜や〜ってみよ〜おうっ!
 は〜るがぁ〜お〜とず〜れる〜ぅ〜ま〜でえ〜っ!
 い〜ま〜はと〜くない〜っ! ん〜ん〜う〜うぅ〜はぁ〜ずう〜っ!……はるよこ〜いっ!

 歌詞が進むにつれてますますがなり立てるようにジュナイパーは歌い、その声が凍土の稜線から山彦として繰り返し出湯まで返ってきた。

 はるよこ〜いっ!……
 はるよこ〜いっ!……
 はるよこ〜いっ!……
 はるよこ〜いっ!……

 ウォーグルは四方からこだましてくるその歌声にじっと耳を傾けていた。勢い任せに、がむしゃらに歌っているように聴こえるその声は、一方で普段の奴が嘴にしない、決して言葉にし得ぬものをその音に乗せているようにも思えた。梟は気が済むまで嘴を大きく開いて歌い、叫び続けた。
「ふうっ!」
 満足げに梟は雲のような息を吐いた。出湯はしんと静まり返って、凍土に吹く風の音がいつもより明瞭に聞き取れた。
「まあ、なかなか、悪くない歌なんじゃねえの」
「関東の今様は洗練されているからな」
 ジュナイパーは嗄れ声で言った。凍土の冷たい空気はどこよりもよく音が澄んで通るからか、やけに上機嫌である。
「関東だか今様だか、そんなことは知らねえけど……」
「そうだ、言い忘れていたんだけど」
 急に話題を変えたジュナイパーは、こうもよしなきごとを話していると、つい大事なことを言いそびれそうになって参る、などとそう呟く。
「彼女からの言葉を預かってたんだっけ。いつかまたここへ来る時があれば、伝えてくれとな」
 不意にそんな話を持ち出されてウォーグルは驚いた。
「聞きたいか。まあ、さしたる言葉でもないから聞きたくなければそれでいいけれども……」
「別に断る理由もねえよ」
「そうか」
 梟は凝りを解すようにゆっくりと肩を時計回りに、反時計回りに回した後で、ほう、と息を吐く。
「『あなたはいま幸せ? それとも不幸せ? さてどっち?』……だ、そうだ」
 ウォーグルははっとして、おもむろに湯から立ち上がるジュナイパーを見た。
「……変わらねえな、あの人も」
「簡単なようで、難しいことを聞く女性だ。初めて会った頃とちっとも変わらない。僕も同意だよ」
「ずっと、何のつもりで俺にそんなことを聞くのか、知りたかった」
「何、難しく考える必要なんてないじゃないか」
 ジュナイパーは目元を緩ませ、可笑しくてたまらないという顔つきでウォーグルを見つめる。
「あなたはいま幸せ? それとも不幸せ? さてどっち? ねえ、ウォーグル?」
「馬鹿にしてんのか」
「まあ、そのうち答えられる時が来るんじゃないだろうか」
「どういうことだっての」
 その問いには答えずに、梟はゆったりとした動作で湯から上がると、全身をふうわりと膨らませて水気を弾き飛ばした。そのまま、すたすたと歩いていこうとしたものだから、思わずウォーグルは呼び止めた。
「どうした」
「んだよ、もう行っちまうのか?」
 梟は首を軽く擡げながら考え込む素振りをした。
「久々じゃねえか。出湯に浸かるのもいいが、たまには神殿にも来ねえか。まあ、別に変わったことといってもねえけど……」
「いや、大丈夫だよ」
「なんで」
 きっぱりと言い切るジュナイパーの真っ直ぐとした目線にウォーグルは粛然とする。
「なんでって……」
 一期は夢よ、だからさ。
 その瞬間、全ては白い靄に包まれた。幼子が手慰みにくしゃくしゃにした紙のように空間は歪み、時は爆音を上げながら先へ先へ疾走した。


 5

 ——かっと眼を開けば一羽のウォーグルが訝しげな目で此方を睨みながら、頻りに威嚇をしている。
「何奴だお前は!」
 そう誰何されても名乗る名も思い浮かばなかった。黙っていると、侮辱されたと見てウォーグルはいっそう表情を険しくした。
「さては、お前は『簒奪者』か?」
「簒奪者?」
「俺から長の座を奪いにやって来たんだな! けど、そうはいかないんだからな!」
 血気盛んなウォーグルは力強く爪を握りしめて見せる。お前なんか、これで、こうなんだぞ、と示さんばかりに。確かに、岩を掴めば砕けてしまいそうな力であった。
 湯に上せた頭でジュナイパーはぼんやりとこれまでの成り行きを思い返した。長らくの旅にも飽いて、久方ぶりに純白の凍土へ足を運んだのであった。そこで、旧知の仲であるウォーグルと、其奴が連れていた小賢しいワシボンと会い、湯浴みのついでに昔語りをしたものだった——ところまで考えが至り、改めて目の前で居丈高に振る舞うウォーグルを見遣る。さて、一体何がどうだったことやら。凝り固まった思考をじっくりと解きほぐしていくと、どうも湯の心地よさについうたた寝をしてしまったものらしい。先ほどまで、確かに僕は彼と、そして……
「ということは、君は」
 ああ、何とか思い出した。自分はさっきまで彼と話していた。いや、何度も話していた。話そうと思えばいくらでも話すことはできた。けれど、いつか終わりは来るのだった。それが惜しさに、どうやら幻影を見ていたらしい。
「あの時のワシボンか、ふむ、大きくなったものだな」
「貴様は何を言っている?」
 ウォーグルは警戒心を隠さずに、ジュナイパーを睨み続けた。
「不審な奴が出湯にいると聞いたから来たが、やはり貴様は『簒奪者』か!」
「いやいや、そんな怪しい者では……」
「駄目だ! 『簒奪者』め!」
 ジュナイパーは苦笑しながら、宥めるように腕を差し出す。
「わかった、何もしないさ。用が済んだらすぐ出ていくつもりだから……」
「凍土の秩序を乱す奴はこの俺が許さないんだからな! あの方の名にかけて!」
 間髪を入れずに雄叫びを挙げ、ウォーグルがジュナイパーに襲い掛かろうとした瞬間、物陰からがさごそと音がした。ぴたりと動きを止めて、ウォーグルがそこを見遣れば、俄かに木陰からおっとりとした表情で此方をじっと見てくる奴がいる。ウォーグルと目を合わせた其奴はにっこりと微笑みながら人差し指を鼻にあてる。
「あっ……!」
 気づいた頃にはもう遅く、ウォーグルは空中で均衡を崩し、そのまま地べたに倒れ伏してしまった。やかましい寝息が出湯に響き渡った。
 木陰からひょっこりと顔を出して此方をじっと見つめているバクフーンは口元に両手を当てて艶美に笑みを浮かべている。ジュナイパーはため息をつかざるを得なかった。撒いたと思っていたのだが、一体何をどう嗅ぎつけてきたことやら。未だ此奴から逃げることは敵わないのだった。


 6

——おいこら、しっかり掴まれっての、坊主。
——何が「ぼーず」だ!
——はい、はい。
——僕が進化した「あかつき」には、絶対に貴様にみじめな死を与えてやるんだからな!
——おうよ。
——今から首を洗って覚悟してろおー!……
——まあ、とりあえずそれまで死なずにいることだな。
——小賢しいことを言うなあ!
——痛え、痛え。あんまり突くと、墜っこちる。俺も、お前も、お陀仏になっちまう。とりあえず、雄ならじっとするとこはじっとしてな。
——ふん!……
——やればできるじゃねえか、坊主。
——そうやって、僕を「あめとむち」で「かいじゅー」しようとしたって無駄なんだからな!
——おうよ。
——貴様、僕の話をまじめに聞いてないな?
——心配すんな。ちゃんと聴こえてる。
——どうだか!
——いずれにせよ、まだ先の話だ。お互い、気楽に行こうじゃねえか、坊主。ほら、そろそろエイチ湖に着く……


 『翡翠式間狂言』 



あとがき

だいぶ押してしまいましたが、やっと完結した……はず。
ヒスイジュナイパーの過去話と、それに巻き込まれる旧友のヒスイウォーグルの話でした。
過去作に目を通した方ならおわかりかもしれませんが、百代の用心棒ライ麦畑で踊れの関連作になりますので、それを読んでいないとわかりづらいところがあるかもしれません。
本当はウォーグルをメインとした話に仕立てるつもりだったのですが、このジュナイパーを出してしまうと、そっちに話のメインが持って行かれてしまう……ということに中盤から気づきました。そちらについては、またそのうち書きたいなあ、と思います(最近は出力が悪くて、書きたいと思うことに執筆ペースがついていかないのが困りものです)

とにもかくにも一つ書き終えたので、ぼちぼち次へ行こうか。


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  • とっても面白かったです!
    ジュナイパーと同じくゲーム中から生き延びていたウォーグルが登場し、ジュナイパーくんの過去が少し明らかになってきてワクワクしました。しかしこの男、行く先々でモテてるなあ……彼にまとわりついてる死の気配から、ほっとけない感じが出てしまうのでしょうか。実際死神みたいな存在のヒスイバクフーンに物理的にまとわりつかれてるし。パートナーのことばかりに心を囚われるあまり、自分の生死すらどうでもいいという顔をしているのに、命の危険を感じると本能が顔を出して性的に襲ってくる梟、スケベすぎる。思わず脇腹を小突いてやりたくなるけど本気では憎めないこの感じ、本当にいいキャラをしていると思います。実際脇腹を小突いたらいい声で鳴いてくれるし。

    ウォーグルとワサビの関係性の解釈も楽しく読ませていただきました。雪原のヌシとしての役割を生真面目にこなすがゆえ、適当に風来坊をしているジュナイパーに抱くいらだち。LA主人公と違い、かつてのパートナーだったワサビは雪原を離れてはいますが、元気に生きています。彼女を追うことも彼にはできたはずですが、きっと真面目な彼にはその選択肢は選び得なかったのでしょう。ヌシとしての仕事、下々のポケモンたちを治めることという現実の力に忙殺されているウォーグルにとって、過去に囚われ自由に振る舞い夢に生きているジュナイパーが眩しく映ったのかもしれないな、と思うなどしました。

    そしてなによりラストシーン。軽妙な会話劇が終わり、夢から覚めるまでのスピード感のある筆致が見事でした。あのときのワシボンが長になって、その座の簒奪を恐れている……これだけで、何があったのかがわかる。わかってしまう。

    ウォーグルも、おそらくはワサビも大いなる時の流れの中に埋没していったのでしょう。しかし、それまでの間に、ウォーグルの心に残るしこりは取り除かれたのであってほしいと思います。
    「あなたはいま幸せ? それとも不幸せ? さてどっち?」
    この問いに、ウォーグルが答えを出せたことを願ってやみません。 -- さかなさかな 2024-04-21 (日) 13:47:26

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Last-modified: 2024-02-01 (木) 14:20:00
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