空蝉
トンデモ展開
□ これまでのあらすじ □
第一章 暴走の果て | スイクン強姦される |
第二章 悔恨 | エンテイ必死の介抱 |
第三章 凍てつく湖 | スイクン寂しがる |
第四章 破綻 | エンテイ自爆 |
第五章 悲劇の序章 | (スイクン視点)人間の女『アキ』を拾う |
第六章 異変 | (スイクン視点)アキといちゃいちゃ |
第七章 略奪者 | (スイクン視点)森の仲間皆殺し |
第八章 呼べど届かず | (スイクン視点)大爆発 |
第九章 倒錯 | (ライコウ乱入)唐突な官能展開 |
第十章 怨嗟の森 | (エンテイ視点)キュウコン『白糸』に囚われる |
第十一章 幸せごっこ | (エンテイ視点)ロコンのマシンガントーク |
第十二章 君恋し | (エンテイ視点)内臓崩壊 |
草陰に隠れるようにしながら
このようなことを望む筋合いはないと判ってはいるが、最後の最後で取り残されたような気がして、どうしようもない寂しさに襲われた。別れのその時まで連れ添っていたい、側に居たいという思いが止められず、焔の言葉に逆らって、彼の後をつけ始めたのだった。
ひたひたと。
ふと微かな違和感を覚えて、白糸は首を上げ周囲の気配を伺った。
明るく眩しく、緑に輝く枝葉。彼女が思い描いたそのままの美しい光景が、音もなく静かに横たわっている。
目に映るのは、いつもと変わらぬその虚像。何も変わったことは無い……筈、なのに。
───水の気……?
白糸は、ふっと身震いした。
じわじわと冷たく濡れた気の流れがある。微かにではない、確かに、感じる。
───なに……
いままで無かった何か。ある筈のない異物。それが、ものすごい勢いでひたひたと広がり迫ってくるのが判る。
気味悪ささえ伴うこの異様な気配に、白糸は怯えたように周囲を見回した。
無意識のうちに、毛が逆立ってくる。神経がぴりぴりと張り詰めてくる。
息苦しさに似た、圧迫感。
「なに……これは……」
恐る恐る踏み出す足に、ひしゃんと確かに水の感触がまとわりついてきて、彼女は小さく悲鳴を上げた。
恐い。
一体どうしたのだろう、なにか判らないものがここにある。
じくじくと冷たい水がどこからともなく滲み出している。湧いて集まってくる。
───こわい……これはなに?
「あなた……焔さま……っ」
震える声で夫の名を呼ぶ。
自分が作り出した、自分の意のままである筈のこの空間に、なにか得体の知れないモノが巣くっている。侵略しようとしている───恐怖。
「ほむら……焔さまぁっ!」
静かすぎる森に、悲鳴のようなその声だけが高く響き渡る。
返す声もない冷たい沈黙の中、白糸は狼狽えたように視線を彷徨わせた。
「水が……焔さま、ああっ」
気配だけであった水が、今はもう目に見える形で顕れている。
白糸の爪先を撫でながら、ざわりと水が行きすぎる。その流れはゆっくりと増大し、足を掬うほどの勢いを帯びてなお滔々と流れゆく。
「いや……ああ、焔さまっ」
見る間に激流と化した水が、森を河に変え、まるで生き物が這うかのように次から次へと流れ落ちていく。
白糸が高い叫びを上げて身を翻す。一瞬その場に揺らめいた赤い炎は、その主の体を包み込んでそのままふわりと消えた。
白い獣の失せた後には、ただ延々と流れ続ける水の呻きだけが響き渡っていた。
置かれた時から一度も動いたことがないであろう、三つの石が目の前にある。
初めてここを跨ぎ越したあの時に、今日ここまでの道のりが描かれたのだとエンテイは遠くに思う。
自分でも不思議なほど、心は落ち着いていた。完全に、腹をくくってしまったからかもしれない。
ふう、と一息ついて、エンテイは石に脚をかけた。そして一気に、三つもろとも蹴り飛ばす。
次の瞬間、まるで爆発のような轟音とともに、結界の内から熱風が吹き出した。
「……っ」
あまりの熱気に、思わず目を瞑る。そうしておいて、今更炎に戦く自分自身にエンテイは苦笑した。
元はといえば我が身から出た炎だが、他人事のようにその凄まじさを見上げている。吹き上げる熱風に煽られるように、周囲の木々たちが自然発火して燃え始める。結界の内であった場所でもたちまち炎が渦巻き木々を舐め、あっという間に森中に燃え広がってゆく。
膚で感じるものと、目に映るものが、ここにきてようやく一致したような奇妙な安堵感を覚えながら、エンテイはまさしく火炎地獄と化した森の中を、もう慣れてしまったその場所へと進んで行った。
結界が綻んだせいか、炎の勢いが幾分収まったかに見える中心部で、エンテイは焼かれる男と相まみえた。
気の遠くなるような時間を炎の責め苦の中でもがき続けてきた男に、意思や自我などもう残ってはいないのだろう。恐怖と空虚、彼からはもはやそんなものしか感じられなかった。
『おお……怖いよう、熱いよう……』
怯えながらもへらへらと笑っている。魂すらぼろぼろに擦り切れ、あるべき原型を留めていないに違いない。エンテイは憐れみにも似た感情で男を見つめた。
「長かったな……」
ぽつりと呟いたエンテイの言葉に、男はおう、おうと返事とも呻きともつかない声を返した。
「これでもう、終わりだ」
残り少ない時を感じながら、エンテイは最後の気力を集中させる。
高ぶる気を鎮める。体内の、そして空間の炎のすべてに意識を重ねる。
───鎮まれ、鎮まれ私の炎。
生命の火と同じ起源を持つエンテイの炎。未だかつて途絶えたことのない、溢れんばかりの力と輝きを持つそれを閉じていく。大地と自身との間を繋ぐ、炎の道を断ち切っていく。
「……っあ」
炎が弱まったと思った途端、熱気と入れ替わるように、ふっと冷たい気の固まりが体内に入ってきたような気がした。いつも熱く燃えていた身体の芯から、恐怖を感じるほどリアルに体温が奪われていくのが判る。ぞくりとした悪寒。炎が消えるというのはこういうことなのかと、初めての筈なのにやけにはっきりとした死の実感があった。
凍えるような寒さが急激に襲い来る。そのどうしようもない本能的な恐怖に、思わず炎を求めたくなる。
決意が揺らぎそうになるになるのを感じて、エンテイはきつく目を閉じた。
───力を貸してくれ、スイクン……!
震えて崩れかかった脚を踏みしめ、遠い天を仰ぐ。
もう、後戻りは出来ない。行く先は一つだ。
───これですべてが終わる。
「水よ……水よ、湧き立て!」
エンテイの渾身の咆哮に、水が応えた。
低い鳴動を感じた次の瞬間、激しく飛沫を上げて捲き立つ水の壁を見た。
渦巻く水の激流。
何もかもを押し流す破壊の力が、一直線に目の前の男に向かって迸る。
『おおおおぉぉ……』
男の目が、驚くように見開かれた。そのとき。
「あるじさまぁっ!」
女の悲鳴と同時に、水の塊が何か大きな壁のようなものに激突して空高く吹き上がった。
「白糸……!」
男を庇うように、濁流の前に立ちはだかった女狐。
見えない力で水を弾きながら、驚愕と恐怖に満ちた女の目が、荒ぶる水の中心に居るエンテイを呆然と見つめる。
「あなた……何故」
ただそれを問うだけで精一杯だった。
水を操る炎の獣。ありえないその光景に、何故という言葉だけが彼女の中で渦巻いていた。
「白糸」
明らかに怯えてしまっている彼女に、エンテイは何と言葉をかければ良いのか判らなかった。まるで化け物を見るかのようなその目。そんなふうに見られたことなどついぞなかった。
思えばこの場所で彼女と対峙したのは初めてだったなと、エンテイはこんな時にふと場違いな感慨を覚えた。
この森を護ろうとする者と、この森を破壊しようとする者───まさかこんな形で妻と相対するとは思わなかった。
「許せ、白糸……」
大きな決断を秘めたその声は、しかしいつもの彼のように穏やかに低く響いた。
白糸は泣きそうな目をして、ふるふると首を振っていた。信じられない、そんな筈はないと、彼女の心が叫んでいるのが聞こえてきそうだ。
こんな異常な光景を目の当たりにしてなお、彼女は信じたがっているのだと思うと、エンテイの胸に息苦しくなるような呵責の念が押し寄せてきた。それでも、もう前に進むしかなかった。為すしかなかった。
───我が子よ……お前を、お前の母を手にかけるこの父を
「許してくれ───」
腹にズシンと響くような衝撃音とともに、再び水が湧き立った。
「やめて……やめて焔さまッ!」
悲痛な叫びすら、水の轟音に霞んで消える。
「グオオオオォォ───ッ!」
地を割るような咆哮とともに、激流が突き進む。
自ら愛した者を屠るために。
「シライトオォ!」
慟哭の絶叫は水音の中に消えた。
圧倒的な水の力の前に、防ごうとしたささやかな壁は根こそぎ砕かれた。
迫り来る水の魔物を見上げ、白糸は絶望的に目を伏せた。
『もういい……白糸』
ふわりと白糸を抱きしめた腕。
驚き振り返った白糸の眼に、在りし日の主人の姿が映る。
白糸の大好きだった優しい眼で、白糸だけを見てくれている。
「あるじ……さま……?」
その瞬間、この森の中心で長い長い間燃え続けてきた業火が、破滅的な音を立てながら、無理矢理押し潰されるようにして掻き消えた。
エンテイの目の前で、白糸と男の姿は一瞬のうちに水に飲まれて消えた。
水飛沫の合間に微かに見えたのは、あの焼かれていた男が必死に彼女を庇い抱きかかえている姿だった。
最後の最期になって彼に何があったのか、果たしてそれだけの意思のようなものが残っていたのかどうかは判らないが、長い時の末にやっと、愛しい主に抱いてもらえた彼女は幸せそうに見えた。
「ああ……」
エンテイの視界が急速に暗くなる。
すべて終わらせた。すべて見届けた。
濁流の中、森が崩れ始める。怨嗟の森が。哀しみに満ちた悔恨の森が。
ほっと安堵の笑みが漏れる。もうこれでいい。すべて終わった。自分のこの命も───
「姐さまああぁぁ───!」
消えそうな意識が、高い悲鳴を捉えた。
もう投げやりのようにぼんやりとした視界に、小さな亜麻色の毛玉が映る。それがロコンだと認識したのとほぼ同時に、彼女は濁流の中に真っ直ぐ飛び込んでいった。
「ロコ……」
「姐様、ねえさま! 置いて行かないで、連れて行って!」
泣き叫びながら、白糸と男が押し流された後を追っていく。
その姿もまた荒れ狂う水に翻弄されているのを見て、エンテイは小さく舌打ちした。
「世話の焼ける……」
そうして自らも水の渦の中に飛び込んだ。
エンテイは決して泳ぎが得意ではないし、泳ぎ切るだけの力ももう残ってはいない。それでももがくように水を掻いて、何とか小さなロコンの姿を追い求めた。
どちらが上か下かも判らないぐらいに振り乱される中、不意に一筋のはっきりとした強い流れを見つけた。周囲のただ荒ぶるだけの水とは明らかに異なる、どこか遠くへ押し運んでいく水の道。
嫌な予感がして、エンテイはその流れの中を先へ急いだ。
何かの意思すら感じられる躊躇ない流れ。歪んだ空間を駆け抜けていくその行き着く先は、おそらく死者の国なのだろうと勘付いていた。
自分はどうせ行く道だから良いが、ロコンはそうではない。彼女は、この先へ行ってはいけない。
必死に探す視界の先に、小さなかたまり。
───見つけた……!
流れをかいくぐりながら、ロコンに迫る。溺れて気を失ってしまったのか、小さなその身体はただ為す術もなく水に揉まれている。
エンテイの口がロコンの後脚をようやく捉えた。
離してしまわないようきつく噛んで、エンテイは激流の中、身を翻した。
一直線に押し流す流れに逆らって泳ぐ。もがく。
どこにこんな力が残っていたのか自分でも信じられないほど、水に真っ向から立ち向かう。
それでも、命の消えかけた一匹の力に比べて、水の力はあまりにも大きすぎた。抗うエンテイを嘲笑うかのように、水の道は有無を言わさず彼らをその先へと連れて行く。
とうとう、エンテイの力が尽きた。
水を掻く脚の動きが滞る。もうどこへ向かえばいいのか判らない。
ロコンを銜えたまま、エンテイの意識が暗く閉じていく。
───ああ、今一度……水よ、従ってくれ
そう願ったのを最後に、エンテイの動きが止まった。
二匹をぐるぐると包み込む水の泡。淀みなく突き進む激流の中で、突然その泡が生き物のようにうねり、水面から飛び出した。
薄暗い虚像の大木を中心に、水の道が真っ二つに別れる。二つの急流が、運命を分けていく。
一方の流れは、二匹を抱いた泡とともに元来た森の方へ。
もう一方は、白糸と男を連れて暗く深い闇へと落ちる滝の方へ───
意識の浮上とともに、片足に激しい痛みを感じて、ロコンははっと目を覚ました。
「痛……」
何か強い物に脚が挟まれていて動かない。どうなっているのかと頭を上げてみると、目の前にエンテイの寝顔があって、その口がロコンの後脚を噛んでいた。
エンテイの口元も噛まれた脚も血塗れだった。噛まれた部位の先は、よく見るとおかしな方向に曲がっていた。強く噛まれたせいで骨が砕けてしまったらしい。
「エンテイ……離して」
四苦八苦してエンテイの大きな上顎を持ち上げようとするが、小さな彼女の腕だけでは、力を込めたままの歯を開かせることは出来なかった。
ぴくりとも動かない大きな体。堅く噛み締めたまま凝り固まってしまった口元。
ロコンの脳裏にふと嫌な感覚が入り込む。ぞわりとした嫌悪感をもたらすそれが錯覚だと信じたくて、ロコンは改めてエンテイの口にそっと触れてみた。
「……っ」
ぞっとするほどの膚の冷たさ。怖れに思わず体がすくんだ。
ぐっしょりと濡れたままのたてがみは、水を散らす程の熱を彼が持っていないことを示していた。
「嘘……エンテイ、起きて」
前脚でエンテイの頬をこするが、何の反応も返って来ない。どくどくと心臓の音が早まっていくのが自分でも判って、それがさらに動揺を助長する。
脚の痛みも忘れて、必死にエンテイに呼びかける。
「エンテイ、エンテイ! お願い、眼を開けて」
エンテイはあの時、白糸の後を追おうとした自分を助けてくれたのだとロコンは察していた。
彼がもう長くはない事は判っていたが、自分のせいで彼が命を落とすのは耐えられなかった。
「エンテイ……どうしよう、あたし───」
恐怖と後悔で胸が押し潰されそうなほどに苦しい。身体の痛みは自分が生きている証だ。彼が生かそうとしてくれた証だ。
心のどこかで判っていた、あの時、白糸を追ったとしてもどうにもならないということを。
自分は無意味に死のうとしていた。そんな愚かな自分を、彼は命がけで助けてくれたのだ。
「ごめんなさい……───」
ざわざわと森が騒ぐ。
今まで沈黙していた筈の森全体で、梢が揺れ、幹がしなり、激しく鳴き立て始める。
ロコンは随分長くこの森に住み着いていたが、こんなふうに木々のざわめきを聞くのは初めてだった。
「なに……」
目に映る木々が歪んで見える。視界に映る様々なものが二重三重にぶれて見える。ロコンは目がおかしくなったのかと、前脚で瞼をこすった。
目の前にあった筈の大木が霞むように消えて、まだほっそりとした若木の群生がそこに枝を張る。
青々とした草木の匂い、土の蒸す匂いがどこからか流れ込んでくる。
虫の声、鳥の羽ばたく音。風に混じるさまざまな音。
怨念が作り出した、歪んだ空間の中に封じられていた白糸の森が、虚像ではないまさしく生きている森へと置き換わっていく。
「これは……」
見上げる森の上空に、ふと大きな力を感じて、ロコンは思わず身を縮めた。
畏怖すら感じる、何か強大な存在感がそこに在る。
「なに……」
まるで神が降臨したかのようにロコンは思った。恐ろしくて息苦しくて、ただひたすら身を小さくしてそれが通り過ぎるのを祈った。
しかしそんな祈りに反して、その神のような何者かは、崩壊しつつある空間のひずみをたぐり寄せては未知なる力を発し、綻んでいた繋ぎ目を現の空間へと重ねて、黙々と修復作業を続けている。
恐る恐る見上げると、青い空の中に半ば透き通った淡い色の巨体が見えた。肩と思われる部分にある大きな宝玉のようなものが、空の光を弾いてきらきらと輝いている。
その美しさに呆然とみとれていると、その神のような者がふと視線を地上に降ろした。
「ひっ」
目が合ってしまい、恐怖に竦む。
───おねがい、見ないで。あっちへ行って
小さく固まって震える。息を殺したいのに、どうやって呼吸していたのかも判らないほど息が上がる。
怯えた視界に、神のようなも者の手が迫り来るのが見えた。
「……!」
悲鳴を上げることもできなかった。
小さなロコンを包んだ、大きな大きな力。
気付けば、エンテイの口から解き放たれて地面の上に降ろされるところだった。
「あ……ああ」
頭が空回りして、言葉を忘れてしまったかのように、意味を持たない声が漏れる。
神のような者の手は、ロコンを離れて傍らに倒れるエンテイへと向かった。
『水の気か……お前にとっては毒にしかならんな。貰い受けてやろう』
空気の震えが、『彼』の呟きを伝えた。
そして透き通ったその手がエンテイの体を掬うように通り過ぎ、上空へと戻っていく。
地上に残されたエンテイの体から、水の気配が薄くなっているのに気付いて、ロコンは信じられない思いで空を仰いだ。
大いなる慈悲───ロコンは呆然としながら、そんなものを感じ取っていた。
「たすけて……このひとを助けて、お願い」
頭が働く前に、ロコンの口から言葉が飛び出していた。
自分が何を言っているのかも判らないまま、ロコンは神のような者に懇願していた。
「死んじゃいそうなの、あたしにはどうすることもできないの。おねがい……お願い、助けてください!」
縋るような思いで、泣きながら叫ぶ。
「あたしの命を取ってもいいから……!」
『我らは
しかし、ロコンの願いに対して告げられたその言葉は否定だった。
『生きるも運命 死ぬるも運命……それを変えることは許されぬ』
半ば判っていた答えだったが、ロコンは苦しげに口を噛んだ。
今この大きな力に縋らなくては、エンテイは助からない。そんなどうしようもない焦りがロコンを苛む。
「じゃあエンテイはここで死ぬの? それが彼の運命なの? 教えて、それだけでも」
詰め寄るようなロコンの勢いに、神のような者はふと動きを止めた。
首をゆるりと降ろして、間近で小さなロコンと倒れたエンテイを見下ろす。ロコンは怖れる心を叱咤して、その動きを見据えた。
『ふ……そうか』
しばらくエンテイを見つめていた彼は、何かに気付いたのか、笑みのような気配を浮かべた。そして上空へと顔を上げ、空気の流れを探る。
『なるほど お前が……』
ふふっと今度は明らかに笑いながら、神のような者は両腕を前方にかざした。
そこから眩しく迸る光に、ロコンは思わず眼を瞑った。
何か大きな力が彼の手の上で生み出されている。眼を閉じていても判るその威圧感に、ロコンは改めて恐怖した。
『このエンテイは 我が
ロコンには、彼が何を言っているのか判らなかった。
ただ、大いなる力が地上に収束してそこに何かが召喚されたことを、驚きをもって見つめているだけだ。
「とも……誰?」
呆然と呟いたロコンの言葉に、神のような者は愉快そうに告げた。
『わがとも───水の君よ』
光の収束したその場所で、ざあっと水の幕が弾けた。細かく砕けた水滴が霧のように飛び散り、日の光を反射して一瞬の虹を見せる。
きらきらと光りながら舞い落ちる水のヴェール。その中心に、ひとつの青い宝石が佇んでいた。
「……誰……」
藤色のたてがみを靡かせた、大きな青い獣。初めて見るその美しい姿に、ロコンは息を飲んだ。
───眩しい……
目が眩むような光の洪水に、スイクンは暫し目を眇めてじっと立ち尽くしていた。
何が起こったのか判らず、注意深く光が収まるのを待つ。
やがて真っ白な幕が切れたようにさあっと開けた視界には、直前まで居た筈の岩山ではなく、緑深い森の光景が広がっていた。
「ここは……」
呆然と辺りを見回す視線の先に、スイクンはそれを見つけた。確かめるまでもなく、すぐさまその大きな身体に駆け寄る。
「エンテイ!? エンテイ! 何故こんな……───」
言いながらエンテイの体をさすり、首を擦り寄せる。
「エンテイっ!」
呼ぶ声が徐々に焦りを帯びてくる。エンテイはぐったりとしたまま動かない。
「ああ……」
途方に暮れたように天を仰いだその眼に、上空に佇む巨体が映った。
「───パルキア……」
『借りは返したぞ───スイクン』
それだけを告げて、神のようなその者の姿が空色に溶けて消える。
呆然と見上げていた視線を地上に戻して、スイクンはエンテイに頬を寄せた。
「ああ……会わせてくれたのか」
炎の消えた火山を見上げて、エンテイの身に異変を感じた。
エンテイを探さなければ───焦る気持ちのまま駆け出そうとしたその瞬間、何か大きな力に包まれ、気付くと此処に居たのだった。
神の気まぐれなのか何なのか判らないが、エンテイの危機に際してパルキアがスイクンを此処へ呼び寄せてくれたことは確からしい。スイクンはパルキアの告げた言葉に覚えがなかったが、今はただ、その気まぐれに感謝するしかなかった。
「エンテイ、エンテイ……」
愛しげに顔を寄せ、労るようにそっと頬を舐める。
冷たい頬だった。
いつだったか、エンテイの涙を舐め取った時の、その頬の熱さを思い出して、スイクンは急に胸が苦しくなるような痛みを感じた。
「エンテイ……どうしてこんな───やっと、会えたのに」
震える声で微かに呟き、力無く開かれたエンテイの口元に口付けた。
深い交わりを求めるように、エンテイの歯の間に舌を潜らせる。
淫らな夢で見たエンテイとの熱い口付けが脳裏に甦った。けれど今、エンテイは応えてくれない。
「エンテイっ」
愛撫のように口吻の周りを舐める。その舌の上に、確かな血の味を感じた。
エンテイの口に残る、エンテイのものではない誰かの血。
「これは……」
スイクンは不審を感じ、顔を上げて周囲を見回した。そしてようやく、傍らに小さく蹲る毛玉の存在に気付いた。
「あ……あの」
スイクンと眼が合った途端、ロコンは萎縮したように身を竦めた。パルキアと対峙した時と同じぐらいの重圧を、このスイクンから感じていた。
スイクンは何も言わずロコンに詰め寄り、後脚の大きな怪我に顔を寄せた。
「これはエンテイにやられた傷か」
スイクンの全身から感じる威厳とは異なり、その声は穏やかに耳に響いた。どこかエンテイに似ている声音に勇気づけられ、ロコンは頷いた。
「でもエンテイは悪くないの。あたしを水の濁流から助けようとしてくれて……。あたしのせいで、こんな───」
「それだけでエンテイがここまで力を失ったわけではなかろう? 何故こんな……」
遣る瀬ない思いのまま口にしようとした言葉を、スイクンは飲み込んだ。一体何が彼をこんなにボロボロにしたのか───本当はもっと理由を聞きたかったが、今はそんな問答をしている余裕などない。一刻も早くエンテイに炎を与えなければ、このまま本当に冷たい屍となってしまう。
「ともかくこの体を暖めなければ……」
そう言ってスイクンはエンテイの腹の下に潜り、背に担ぎ上げた。
「……」
その体の思いがけない軽さに、スイクンは絶句した。それと同時に、もう手遅れなのではないかという恐ろしい焦燥が心にのしかかる。
恐怖に竦みそうになる四肢。それを何とか踏みしめて、スイクンは駆け出そうとした。
「待って! あたしが……あたしが暖める!」
スイクンの背に、ロコンが叫んだ。
振り返ると、後脚を引きずり、血の筋を落としながら、ロコンが必死に追いすがってくる。スイクンは戸惑いの混じった目で彼女を見降ろした。
「しかしその体では……」
「いいの! あたしは大丈夫だから。早く、早くあたしもそこに載せて」
有無を言わさぬ勢いに飲まれ、スイクンはロコンを銜えて背に載せた。
何とか這いながらエンテイのたてがみにしがみついたロコンは、そこで炎の力を高め始めた。
やがて背にカッと熱い火熱が覆うのを感じて、スイクンは走り出した。
森を縫い、川を飛び越え、斜面を駆け下りる。
炎の塊を背負った青い獣。まるで火の玉のようなそれが一直線に疾駆する。エンテイの故郷の山を目指して。
途中、見晴らしの良い崖の上で、スイクンは遠吠えのような咆哮を上げた。
高く低く空気を震わせる声が、遠く空の彼方まで響き渡る。
誰かを呼んでいるのかとロコンは思ったが、炎を維持するのに精一杯で、問うだけの気力も残ってはいなかった。
今、スイクンが駆けるのは、木の疎らな丈の低い草原。
日を遮るものなどない筈のその場所で、直走る火の塊を不意に大きな影が覆った。
「ああ、なんてザマだ」
上方で響いた声にロコンは驚き、弾かれたように仰ぎ見ると、空を隠すほどの大きな翼の向こうから、鋭い双眸が見下ろしていた。
「きゃ……」
「たのむ、リザードン。火山までエンテイを」
「ああ」
短いやりとりの間も、スイクンは足を緩めない。
風のように走るその速さに、リザードンもぴったり付いて飛んでいた。
「そこのちっこいの、しっかり掴まっとけよ」
「え……」
言うや否や、巨体が上から迫ってくる。太い大きな脚が、獲物を捕らえるかのように突き出される。鷲掴もうとする鋭い爪がロコンの目の前にきらめく。
「きゃああぁぁぁッ!」
急激な浮遊感とともに、ロコンが叫んでいた。
背の負荷が突然無くなり、バランスを崩したスイクンが草の上をものすごい勢いで転がる。すぐさま体勢を立て直して空を見上げると、両腕両脚で器用にエンテイを抱え直したリザードンが、激しく火の粉を振りまきながら飛び去っていくのが見えた。
軽くなった体で、スイクンは火竜の後を追うように駆け出す。
自身の疲労など、構ってはいられなかった。
風になれ───そう念じながら、スイクンは草原を疾駆した。
夕焼けの赤が空を色鮮やかに染める頃、ようやくスイクンは火山の麓まで辿り着いた。
見上げる山の頂に、やはり火の気は無い。中腹にあるエンテイの定位置であった岩棚に目を遣ると、エンテイのものとは異なる赤い炎が間欠的に吹き上がっていた。
肩で息をつきながら駆け上がった岩棚では、倒れたエンテイをリザードンの炎が包んでいて、その傍らに疲れ果てたロコンが眠っていた。
「スイクン……」
スイクンを見遣るリザードンの表情に、焦燥と疲労が浮かんでいる。エンテイの状態は一向に好転してはいないらしい。
それはそうだろう、とスイクンは思う。エンテイの炎の根源である火山が消えているのだ。エンテイと火山とを結ぶ断ち切れない絆。呼び合う炎が無ければエンテイを目覚めさせることはできない。───自分と湖との間にある絆と同じように。
せめてどちらか一方の欠片さえ残っていれば、その共鳴で炎は甦るだろうに、とスイクンは歯噛みする。
炎の欠片さえ───
はっとしてスイクンは火山の頂を仰ぎ見た。
火山の炎の呼ぶ声で、エンテイの炎が眼を覚ます。
エンテイの炎の呼ぶ声で、火山の炎が眼を覚ます。
熱く燃えるエンテイの炎、その欠片は。
「ここに……私の中にあるじゃないか」
異変に気付いてライコウもすぐに駆けつけてきた。
久し振りに、三匹が揃った。以前こうして一同に顔を合わせたのはいつだったろう。あれから随分───皆、変わってしまったとスイクンは思う。
以前のように、ただ友情だけが存在するのではない複雑な関係。それでも、友を案じ、救いたいという気持ちに変わりはない。それはライコウとて同じだった。
「ライコウ、お前の力で私の水を封じてくれ」
スイクンはエンテイの炎を呼び戻す手立てを告げた後、ライコウにそう請うた。
これからスイクンは、エンテイの炎を携え、『エンテイとして』火山の炎を呼びに行くのだ。完全にエンテイに成りきるためには、スイクンの持つ本来の力が妨げになりかねない。
「本当にいいのか」
しかしライコウは、スイクンの決断に躊躇を示した。
「お前にとって最終的に身を護ってくれるのはやっぱり水の力だろう? 封じるのは拙くないか」
「いや、いい。失敗しては元も子もないからな」
「しかし……」
「頼む、ライコウ」
スイクンの声は、潔いほどはっきりと彼の決意を示していた。
たとえどんなに危険な行為であっても、エンテイを呼び戻すために、あらゆる干渉を除きたい。そうまでしてひたむきに為そうとする彼の覚悟を、ライコウも認めざるを得なかった。
「判った……目を閉じていろ」
溜息混じりにライコウが告げる。
言われたとおりに目を閉じたスイクンに、ライコウは額を合わせた。
「……無茶すんなよ」
くどいように言うライコウの言葉に、スイクンはふっと苦笑した。何だかんだと言っても、ライコウは自分たちを心配してくれているのだと、その言葉から伝わってくる。
「ああ、判ってる」
スイクンが応えた直後、ぴりっとした軽い刺激が体を通り抜けた。
そっと眼を開けると、心配そうな眼が見つめていた。
「どうだ」
「ああ……そうだな、すごく渇きが激しいように思う」
「そりゃそうだろう。急げよ、こうしてる間に消耗するぞ」
急かすライコウにスイクンは頷き、倒れたままのエンテイに近付いた。
リザードンが火の勢いを控えてスイクンに場を譲る。
「エンテイ……」
たてがみに顔を寄せる。ふわりとあたたかな毛並みの中に鼻先を潜らせ、懐かしい匂いを思いきり胸に吸い込む。
ずっとこの匂いを求めていた。こうして首を絡めて、寄り添いたいと願っていた。
けれど今感じるこの温もりは、エンテイのものではないのだ。そう思うと切なかった。
「エンテイ」
離れがたい、そんな気弱な想いに封をして、スイクンはゆっくりと顔を上げた。
最後の名残に、彼のたてがみを一筋、舌に絡めて抜き取った。そして、同じように自らのたてがみの毛を噛み切って、エンテイの毛並みの中に忍ばせた。
女々しいことだと判ってはいたが、自分の欠片を彼に植え付けておきたかった。もし自分が還らなくとも、彼にそれを持っていて欲しかった。自分の生きた証、想いの証を、たとえ髪の一筋でも残しておきたかった。
最後に小さく頬擦りをして、スイクンはエンテイから身を離し、これから赴く山頂へと目を向けた。
───さよなら……
その言葉を心の中で告げて、スイクンは駆け出した。
抉れて大きく陥没した火口。その中は、周囲の強風が嘘のように凪いでいて、静かな沈黙が支配していた。
陥没の中心部に立ち、スイクンは神経を研ぎ澄ます。地中奥深くに眠っている筈の、炎の気配を探す。
山頂では、やはり心配になってついてきてしまったライコウが、火口の中の様子を見下ろしていた。
「どうだ、スイクン」
呼びかけるライコウに、視線だけで「黙っていろ」と返す。その意図が判ったのか、ライコウも口を閉ざした。
深く。深くに───スイクンの意識が、炎の気を追って地中へと沈んでいく。微かな温もりのあるところへ降りていく。
───おいで
エンテイの声で呼びかける。鎮まって眠る火の種に。
───眼を覚ませ。『私』は此処にいる
小さく、微かに、炎が揺れた。
「来た……」
ゆらりと目覚めた小さな炎が、染み渡るように、響き渡るように、大地の奥へと突き抜けていく。
そして遠く深いところから、震える波となって地表へと響き返してくる。
微かな地鳴りが足元に届く。地中深く籠もった何かの声が聞こえる。
「さあ、来い! 大地の炎!」
咆哮とともに、スイクンの全身から炎が吹き上がった。
ライコウは言葉を失ってスイクンのその姿を見つめていた。
激しく燃え上がる猛々しい炎。水色の体に纏うその赤い炎は、凄絶なまでに美しかった。まるですべてを焼き尽くとうとするかのような───そう感じた瞬間、ライコウの胸にぞっとした何かが襲った。
「まさか……スイクン」
地鳴りがさらに激しく大きく響き始める。
立つ脚にも突き上げるような震動が伝わってくる。
「スイクン! そこから離れろ! もうヤバい!」
焦りのまま、ライコウが叫ぶ。
しかしスイクンは動かなかった。
「駄目だ、炎が途中で止まっている。何故上がってこない……」
苛立ちのように呟く。
炎はもう動き始めたのに、大地の深くからの道は開けた筈なのに、まだ姿を現さない。
一度完全に冷えてしまった岩石が、肝心の出口のところで炎の道を塞いでしまっているのだ。
「此処に来い、荒ぶる炎! エンテイ……眼を覚ませ!」
火山を鼓舞するかのように、スイクンの炎が吹き上がる。
まだ火山は通じていないのに、まるでもうそこにマグマが吹き出しているかのような、尋常でない炎が火口を満たしている。
「スイクン! 止せ!」
ライコウの怒声は、激しい地響きに掻き消された。
立っていられない程の震動が突き上げる。岩が動く。火口が割れる。
「スイクン───ッ!」
陥没した火口が大きく雪崩れた。垣間見えたのは、赤い炎の塊。
スイクンが、一瞬だけライコウに眼を向けた。
視線がライコウに「行け」と告げた。
それが、ライコウが見たスイクンの最後の姿だった。
耳を裂くような爆発音とともに、岩が、炎が吹き飛んだ。
堰を切ったかのように空高くまで吹き上がった、赤く巨大な炎の柱。
一瞬にして、空が赤く染まった。
「スイクン! スイクンッ!」
溢れ来る溶岩の中、なおもスイクンを呼び続けるライコウを、大きな足が掴んで引き上げた。
「離せ! スイクンが───」
リザードンに抱えられたまま、ライコウが叫ぶ。
リザードンは急速に滑降しながら静かに首を振った。
「もう……間に合わん」
上空から見ていたリザードンの眼にははっきりと映った。
マグマが、一瞬にしてスイクンを飲み込んだその瞬間が。
「……っ、スイクン───!」
───熱い……
最後に見たのは、赤
エンテイの炎と同じ、美しい色だった
身を包んだ熱さも、一瞬で感じなくなった
肉も骨も、感覚から切り離されてどこかへ消えた
魂だけで、感じていた
エンテイの炎に包まれる、この熱さ、この快感
自分の心が溶けだして、エンテイの炎と混ざり合う───この悦び
───ああ……私が、お前になっていく
溢れ来る、どうしようもないほどの、愛おしさ
今、消えゆくこの瞬間、はっきりとわかる
───エンテイ、私は……
おまえを 愛していた ───
次回完結予定……_| ̄|○
依存関係 -14 結- 暁光射す
空蝉
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