空蝉
今回ちょっと短め。
湖の上に緑の小島が浮かんでいる。
その小島の、豊かに葉を茂らせた木の根元は浅く水を被っていて、時折軽やかな水音を立てて動いている。
夏の強い日差しの下、水の中に沈んだ部分にはまるで毛のようにびっしりと苔が生えて、もとの色が判らないぐらいに緑一色で覆っている。
巨大な亀の形をした、緑色のかたまり。
あれから、満月が二度巡ってきた。その間、ドダイトスはスイクンを背負ったまま時の流れに身を任せている。
毎日のように森と湖の生き物たちがやってくるので退屈はしない。自分では見えない背中の上の様子も、その者たちが教えてくれた。聞けばどうやらスイクンの身体にまで苔が生えてしまって、甲羅と木の根とスイクンとの境目がもう判らないぐらいにひとかたまりになってしまっているらしい。
傷の様子が判らないのは気になるが、水と草の力を併せ持つ苔が覆ってくれるのは願ってもないことだった。
最近スイクンの鼓動や呼吸に強さが増している気がする。ひょっとするともうすぐ意識を取り戻すかもしれない。
「目覚めれば、それはそれでまた辛いだろうが……」
親友に裏切られ殺されかけて、その心に負った傷は一体いかばかりか。ドダイトスにはそれが気がかりだった。
───からだが いたい……
背も腹も、前脚も後脚も、どこもかしこも痛みを訴えている。
身体は石のように固まっていてまったく動かない。瞼を上げることすらできない。
───私は一体どうなってしまった?
いや、最初からただの石ころだったのかもしれない。思い出せない。自分は何者だったのだろう。
そうやってぼんやりと思考を巡らしていると、鼻先と思われるところに暖かく湿った柔らかな感触を感じた。
丁寧に、顔を舐められている。優しい動き。くすぐったくて、心地良かった。
───よせ、エンテイ……
無意識に、その名を呼んでいた。
ひどく懐かしくて、心に響く名だった。そして、胸に微かな痛みを覚える名だった。
───エンテイ……それはだれだ?
舐める感触は口吻から頬や額にも広がり、そして首筋に降りてくる。
舐められたところに熱を感じる。舌が熱いせいなのか、自分の身体が熱を帯びていくせいなのか、どちらか判らなかった。ただぼんやりと、触れる場所が熱い。けれど不快な熱さではなかった。
懸命に、癒そうとしてくれているのだと判った。痛みが引いていき、そのかわりに精気が染み渡っていくような、不思議な快感を覚えた。
感触の良い、毛足の長い柔らかな体毛が首筋に触れる。豊かなたてがみとともに頬擦りされているらしい。
気持ちよさに恍惚としていると、不意に肌の上に水の雫が落ちるのを感じた。
『……すまない……』
低く呟く声。嗚咽にも聞こえる。
ぱたぱたと落ちて肌を濡らしていく暖かな雫。
───……泣いているのか?
問おうとしても声が出ない。
振り向いて目を合わせたいのに、ぴくりとも身体が動かない。
ままならない身体がひどくもどかしい。
『私にはもうお前を慕う資格すらないが……スイクン───』
彼の言葉が何を意味しているのか、判らなかった。
ただ、理由も判らず胸が痛んだ。
───スイクン……そうだ、それは私の名……
ゆっくりと、意識が浮き上がっていく。夢の世界から、現実の世界へ。
「……気付いたのか、スイクン」
横たわった身体の下から声が聞こえたような気がした。
スイクンは目を開けようと、やっとの思いで瞼を僅かばかり上げたが、視界には何も映らなかった。眼球にはまだ酷い濁りが混じっている。
喉を震わせて声を発する事も出来ない。
「まだ動けまい。もうしばらくそうしていると良い」
ゆっくりと響く低い声。その声には覚えがあった。
『ドダイトスか……』
音を伴わないもう一つの声で尋ねた。その声は聞ける者と聞けない者がいるが、このドダイトスは前者だった。
「ああ」
短い返事。けれどそれだけでスイクンには現状を大方把握することが出来た。
あの狂気の炎の中で意識が途切れたその先の事も。
『───……エンテイは?』
真っ先に尋ねたのは、その狂った張本人の事。ドダイトスはふと苦い顔をした。
「……帰らせた」
最小限の結果を伝える。
ややあって、スイクンは『そうか』とだけ告げた。
皮膚の感覚は戻っていないが、スイクンには自分が今水の中に半身を浸していて、その水が自らの生命を司る根源の湖のものであることもすでに感じとっていた。森の外れのあの場所からここまで、瀕死の自分を運んだのはエンテイだろう。そしてここで彼なりの癒しを施したに違いない。
あの夢のように。
「勝手な事をした。済まない」
スイクンの心の動きを察知してか、ドダイトスは言いにくそうに呟いた。
身を預けているドダイトスの背から、思い惑っている気配を感じる。
『エンテイの事で気を悪くしただろう……皆にも悪いことをした』
スイクンがそう告げると、もともと無口なドダイトスにしても長すぎるほどの沈黙があった。
「……貴方が謝る事ではない」
ドダイトスにとってはそう言う他無かった。エンテイに対する認識は、スイクンと自分との間で大きすぎる乖離があるらしいと敏感に察していたから、自分のありのままの思いを告げることは出来なかった。告げたところでスイクンが傷付くだけだということも知っていた。
「今は何も考えず休め。この背に飽いてしまうまで、好きなだけ乗っていれば良い。私は構わない」
ぶっきらぼうだが、深い慈しみのある言葉。それがドダイトスにとって精一杯の優しさなのだろう。
心身ともに弱っている今のスイクンにとって、何よりもありがたいものだった。
気を緩めると途端に意識が揺らいでくる。
スイクンはその流れに抗わず、深い眠りに再び降りていった。
凪いだ湖の上は微かに風が通るばかりで、今はただ静まりかえっていた。
秋の終わりに初めて降った今年の雪は、冬の間中頻繁に森に舞い降りてきて、樹海を白く染め上げた。
今年は例年になく森が凍てつく。その原因は、湖にあった。
完全に氷結してしまった湖面に、緑がかった水晶の穂が先端を覗かせている。スイクンが自分ごと湖を凍らせてしまったのだ。
スイクンの意識が完全に目覚めた頃から、このようなことが度々起こっていた。悪夢にうなされ、発作的に力を爆発させ、その度に湖が洪水に見舞われたり全面凍結してしまったりする。
あまりの低温で動きが鈍ってきたドダイトスは、後ろ髪を引かれつつスイクンを残して立ち去った。他の湖の生き物たちも、安全な場所へとあらかた移動してしまった。
今、この湖にはスイクンだけがいた。
身体はまだほとんど癒えておらず、水面を漂うことしか出来ない。こうして氷に閉ざされても自分ではどうすることも出来ない。
意識はあるのに何も出来ない。意識が無いと何をしてしまうか判らない。
自分で自分をまったくコントロール出来ない現実に、スイクンは打ちのめされていた。
心の柱が崩れてしまいそうなぐらいに、孤独に苛まれた。
せっかく生き返ったのに、それすら放棄したくなるほどの絶望感。何のために命を繋いだのか、もう判らなくなってしまった。
───どうして……
氷の中で、涙が零れる。その暖かな涙も凍てついた氷を溶かすことなく、それすらまた氷の一部となる。
そんな地獄のような苦悩の中で、エンテイを恨む事も多くなってしまっていた。そしてエンテイを恨んでしまう自分自身に、また嫌悪が襲うのだった。
エンテイがたどたどしく癒しを施してくれたあの夢をもう一度見たかったが、都合良くそれが訪れてくれることも無かった。
意識が曖昧だった頃には、あれは確かに現実だったと確信していたのに、この頃はそれが不確かになってきている。
狂った炎に犯された、それだけが現実のような気さえしてくる。
果てしない孤独と自己嫌悪の中で、ただ無性に、エンテイに会いたかった。
会えばきっと、このどうしようもなく心にこびりついた不安はすぐに消えてくれるだろう。そして今までどおりの友情と信頼関係を取り戻すことが出来るに違いない。
叶うなら、あの夢で見たように、エンテイに癒してもらいたい。そして同じように、エンテイを癒してやりたい。
互いの全身をくまなく舐め合って、柔らかなたてがみに顔を埋めて何も考えず安らぎに満ちた眠りを貪りたい。
それが『恋しい』という感情であることを、スイクンは知らなかった。
じれったいです。それにしても、スイクンの『鼻』ってどこなのでしょう。見あたりませんが
なお泥沼つづきます……
依存関係 -4-破綻
空蝉
today2,yesterday0,total2064