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依存関係 -5-悲劇の序章

/依存関係 -5-悲劇の序章

空蝉

束の間の平和。スイクンが天然。






 森が、ざわざわと騒いでいる。
 それは風に揺らされた梢の声だけではなく、そこに棲む者たちがひそひそと囁き合い、鳴き交わし合う声も入り交じっていて、それでも特定の言葉が聞こえてくる訳でもなく、ただざわざわと灰色の雑音のように、漠然と周囲に漂っている。
 姿無きモノたちの気配の満ちる森。
 好奇心に満ちた数多くの視線。

 その中を、丈の低い草木の陰に紛れながら、一人の人間の女が這うように進んでいる。
 女の纏う簡素な衣服は所々鉤裂きのような綻びがあり、僅かに血が滲んでいる。そして何より、片足を負傷しているのか、長い木の枝を杖のようにしてすがりながら、身を引きずるようにして歩いている。
 時折立ち止まっては、怯えるように周囲を見回し、そしてまた先を急ぐように這い進み始める。




 日も随分傾いてきた。
 ひそひそと囁く森の声が、だんだん大きくなってくるように感じて、女はまた不安げに辺りを見回した。
 今居る場所は、大きな枝垂れの木々が茂る小川のほとり。足が動きさえすれば、石伝いに容易く飛び越えられるような小川だ。
 女はしばらく向こう岸へ渡れそうな場所を探していたが、余程足の具合が悪いのか、渡るのを諦めて川伝いに上流方向へ歩き出した。

 落差もない緩やかな流れ。その水は清く澄みきっている。
 女はふと気付いたように水面に近づき、杖にすがりながら跪いて、その水を一すくい口に含んだ。
「……」
 神妙な顔つきで咀嚼し、飲み下す。
 やんわりと、生命力に働きかけてくるような水の力を感じて、女の眼に微かな光が宿る。
「まさか……この先に───」
 小さな呟きに反応するかのように、森がまたざわめいた。




 ぴくりとたてがみを震わせて、スイクンは顔を上げた。
 湖に、何か異物が入ったのを感じる。異物───間違いなく、血の気配。
「やれやれ……やっかいな物でなければ良いがな」
 ひとりごちて、スイクンは山の斜面を駆け下りた。


 知り尽くした森の中の小径を抜け、母胎とも言うべき湖のほとりに辿り着く。
 ざわざわと、森が、湖が騒いでいる。
 いつにないざわめきの理由はすぐに判った。
「人間……?」
 延ばした指先を湖水に浸した格好のまま、女が倒れていた。
 まだ若い。小柄な体格と肩で切り揃えた髪が幼さを感じさせるが、おそらくは成人している女性だ。

 片手に持ったままの長い枝と、肩から下げた小さな鞄。あまりにも軽いその装備が彼女の持ち物のすべてだった。
 このような軽い出で立ちの人間を、これまでスイクンは何度か見たことがある。たいていは死体だった。還るつもりのない片道だけの旅として、この森に入ってきた人間だ。
 まさかこの女もまた自殺志願者なのか───そう思うと、気が滅入りそうになる。
 女はまだ生きている。もし自殺目的で来たのなら、目の前で死なれる可能性も無くはないのだ。それだけは勘弁して欲しいというのがスイクンの本音だった。無意味な血を見るのは決して好きではない。

 スイクンは女の身体を鼻先で探ってみた。身の内に巡る「血」と「水」と「気」の流れを追い、意識を探る。
 足以外の外傷はごく浅いものだと判った。そして足についても、骨に異常があるような重傷でもなさそうだ。
 何より「気」の流れがしっかりとしている。ひょっとしたら自殺目的ではないかもしれない。
 まだ女が眼を覚ましそうにないのを確認して、スイクンはもう一度森へ分け入って行った。


 秋の浅いこの時期、まだあまり森の恵みは豊かではない。
 それでも森を知り尽くしたスイクンのこと、いくつか実のなる木を見つけて、一番体に良さそうなものを選んで口にくわえた。それほど大きな口でもないので、二個くわえるのがやっとであったが。
 死ぬつもりがないのであれば、傷ついて倒れた者に必要なのは休養と栄養だ。きっとこれはポケモンも人間も同じに違いないと思って、スイクンは女のために木の実を運んだ。
 喰えば身体を癒してくれる、そんな木の実だ。身体が癒されれば、心にも活力が戻る筈。
 あの倒れた女に何らの感情も持たないが、とにかく早く元気になってここから自発的に去ってもらえればそれで良い。




 肌寒さを感じて、女はうっすらと眼を開けた。
「……う、っ」
 不自然な格好で眠ってしまっていたせいか、体中がみしみしときしんで痛みを訴えている。凝り固まってしまった身体のうち、辛うじて言うことを聞いてくれたのが手首から先の部分で、ゆるく動かしてみるとひやりとした水の感触を掌全体に感じた。
「水……? ああ、そうか……」
 溜息混じりに呟く。
 小川を遡りながら歩き、夕闇が降りる頃、ようやく女は目指す場所───この湖畔に辿り着いたのだった。

 これまでの森のざわめきが嘘のように鎮まり返り、目の前には鏡のごとく凪いだ湖面が広がっていた。
 黒々と闇を纏い始める木々に抱かれて天空を映す広大な鏡。鳥肌が立ちそうなほどに、幻想的で美しい姿だった。
 ふらふらと吸い寄せられるように湖に近づき、水を飲もうとしたところまでは覚えている。きっとその時に、緊張の糸が切れたかして気を失ってしまったのだろう。

 女は少しずつ身体をほぐしながら、寝返りを打とうとしたが、その瞬間、雷に打たれたような痛みを感じて声なき悲鳴を上げた。
「……いた……」
 右足首に酷い痛みがある。身体を折り曲げて、痛みをやりすごす。
 詰めていた息をゆっくりと吐き出し、女は肩で宥めるような息を数度ついた。苦痛のために滲んだ嫌な汗が、夜の冷気に触れて冷やされていくのを感じた。


 この怪我は、誤って崖から転落した時のもの。過酷な訓練の甲斐あって、この程度で済んだのだろうと女は思う。
 脱落した者を「仲間」が助けに来る事はないと判っていたから、もしここで死なずに済んだなら、もしかしたら「逃げる」ことが出来るかもしれない───そんな事を考えながら、目もくらむような高さを転がり落ちたのだった。
 逃げたくて、逃げるのが怖くて、でも逃げたくて。まさに今日、死と紙一重の危機に揉まれた末に、ようやくそのチャンスが訪れた。
 けれど、自由への切符を手にして傷ついた身体を引きずりながら目指して来てしまったのは、そもそも「任務」のために探し求めていたその場所。さっさと遁走すれば良いものを、どうしようもなく身体に染みついてしまった習性なのかと、自嘲したくなる。
 もし「情報」が確かであれば、ここには───


 はっとして女は背後の森を振り返った。
 そこに音もなく佇んでいたのは、幻あるいは伝説などと呼ばれている稀有のポケモン。
「……」
 女はあまりの事に呆然と眼を見開いた。
 ここは彼の者の住まう場所。そう知っていてなお、それが突如現実のものとして目の前に現れると、これは夢ではなかろうかと疑ってしまう。

 ゆらゆらと揺れる藤色のたてがみの何と美しい事か。




 一方、スイクンもまた驚きで足を止めてしまっていた。
 女は酷く疲れ果てているようだったから、まだ当分は眼を覚ますまいと思っていた。眠っている手元に木の実を置いて立ち去るつもりでいたのだが、まさかもう起き出していたとは。
 鉢合わせてしまった気まずさに、スイクンは溜息をついた。あまり人間に自分の姿を見られたくはなかったが、こうなっては仕方ない。
 驚かせないよう気遣いながら、スイクンはゆっくりと女に近づいた。

 少し手前で立ち止まり、相手の様子を伺う。怯えているような様子はなく、まだ呆然とした顔でスイクンを見上げている。
 夢か幻だと思ってくれるのならそれが良い。木の実だけを残して自分は消えれば良い。スイクンはそう思ってそのまま女の側まで近付いた。

「……スイクン……?」
 女が小さく呼んだ。目の前の相手をただ確認しただけなのかもしれないが。
 けれどこんなふうに、人間の声で面と向かって名を呼ばれた事などついぞなかったので、スイクンはびくりとしてその場に固まってしまった。
 不思議なものを見るように女を見つめる。
 ポケモン同志の会話で使う声とも違う、一部のポケモンだけが使いこなせる声なき声とも違う、何とも心揺さぶる人の声の妙なる響き。

 至近距離から大きな紅い眼でじっと見つめられて、流石に居心地の悪さを感じたのか、女は僅かに怯えた表情を浮かべてスイクンを見上げた。
「スイクン……」

 ───ああ、まただ。

 ざわりと毛が逆立つような、あるいは四肢を絡めとるような。けれどそれは決して不快なものではなく、むしろ快いとすら感じる響き。
 一部のポケモンには自ら好んで人間に寄り添おうとする者がおり、スイクンはこれまでその心情が理解できなかったのだが、今初めて人間と向き合ってみて、人間に対して「魅入られる」という現象が生じるのなら、そんなこともあるのかもしれない───そう漠然と感じた。

 まだ自分自身でこの女に好意のようなものを抱いたわけではないものの、純粋に興味が芽生えた。
 スイクンは女の目の前に、くわえていた木の実を置いてみる。
 女は目を丸くして、地面の木の実とスイクンとを何度も見比べた。
「……くれるの?」
 おそるおそる見上げてくる。スイクンは促すように頷き、一歩身を引いて腰を下ろした。
 女はまだ戸惑っているのか、困ったような顔をして首を傾げている。きっと腹を空かせているのだろうに、食料を前にして何故躊躇っているのか、スイクンにはよく判らなかった。

『人間』
 突然頭の中に響いたスイクンの『声』に女はびくんと震え上がり、弾かれるようにスイクンを見上げた。
「え……っ! 今の……」
『私の声が聞こえるのか』
 驚きに目を見開いたまま、それでもスイクンの問いに答えるように、女は首をただ何度も縦に振る。
 何か言いたげに口を開こうとするが、スイクンの視線に射られて言葉にならないようだ。
『それは喰えるものだ。それとも腹の具合がすぐれないのか』

 スイクンは、なかなか木の実に手を出そうとしない女を気遣ってそう言ったのだが、まさか自分が間近でじろじろと凝視しているせいで女が萎縮してしまっているなどとは、まったく思いもよらなかった。
 ただ、喰わないことが不思議で仕方ないのだ。

「あ、あの……ありがとう」
 女はスイクンに気圧されるように、しどろもどろにそう言って、木の実に手を伸ばした。
 少し堅い表皮を爪で剥いていくと、柔らかく甘い香りの果肉が現れた。
 スイクンの鋭すぎる視線に堪えながら、小さく一口囓る。
「あの、美味しいです……」
 辛うじてそう感想を伝えると、スイクンは満足したように小さく頷く。そしてまたじっと見つめてくる。視線が「喰え、喰え」と言っているかのようで、女は居たたまれない気持ちになった。

「スイクンも……どうぞ」
 女は地面に残ったもう一つの木の実をスイクンの方へ寄せて言った。
『?』
 突然何を言い出すのか、スイクンには理解できなかった。旨いのなら全部喰えばいい。やはり腹の具合が悪いのかとも思う。
「私ばかり食べているのは、恥ずかしいから……一緒に」

 スイクンは何か聞き間違えたかと思った。
 喰うのが恥ずかしい? この女は一体何を言っているのか。
 これまでの短からぬ記憶の中で、喰うという行為を恥じる生き物に出会ったことなどなかった。野生なのだから当然の事だが、喰う事はもっとも優先されるべき本能の筈だった。
『……』
 あまりに理解不能な相手に、スイクンは困惑すると同時に興味が徐々に膨らんでいくのを感じた。人間とはこうも不思議な生き物なのかと。

 女は困ったような顔をしてスイクンを見上げている。
「食べませんか?」
 スイクンはどう答えようかと迷う。水そのものに同調して生きている自分には、生命維持のための食料は特段必要ない。せいぜい体力を回復したい時に口にするぐらいだ。
『私がそれを喰えば、お前の取り分が減る。それでもいいのか』
 再確認のために言ったのだが、女はそれを一緒に喰うことの同意と捉えたのか、初めて嬉しそうな顔を見せた。
 やはり不思議だとスイクンは思う。

「剥いてあげますね」
 女はもう一つの木の実も器用に皮を剥き、掌に乗せてスイクンの口元に差し出した。
 甘い香りがスイクンを誘う。
 そう言えばこの実は久しぶりだな、と思いながら、スイクンは綺麗に剥かれたそれを一口で食べた。皮を剥いたものを口にしたのは初めてだったが、いつもよりもずっと柔らかく香り高く感じた。
 スイクンが喰ったのを確認して、ようやく女は安心したように自分の木の実を囓り始めた。
「美味しい。ありがとう、スイクン」
 まっすぐに見上げて、女が言う。
 この女が自殺志願者かもしれないというスイクンの疑念は完全に消えていた。ならば何のために来たのかとの引っかかりが残ったが、とりあえず今は気にしないことにした。
 もう少し、この不思議な人間のことを知りたいと思った。




 女は「アキ」と名乗った。
 アキという季節、ちょうど今時分だそうだが、その季節が好きだから自分でつけたのだと言った。
 スイクンはただ、そんなものかとだけ思った。彼女のことを「人間」と呼ぼうが「アキ」と呼ぼうが、スイクンにとってそれほど大差ない。それでも、「アキ」と呼んでやると嬉しそうな顔をするので、その方が良いのだろうとは思った。


『全部喰ったら種を出せ』
 木の実を食べ終わる頃を見計らって、スイクンが言った。
 スイクンが持ってきた木の実には、真ん中に親指の先ほどの種が一つ入っている。アキは手の中に食べ残した種を持ったままスイクンを窺った。
 スイクンは前足でその場に小さな穴を二つ掘り、その一つに自分の口から種を吐きだして埋め戻した。
「種を埋めるの?」
 アキも同じようにもう一つの穴に自分の種を落として、土を被せる。
『喰った者の礼儀だ。いずれ芽が出て実をつけるようになる』
 何でもない事のようにスイクンが言う。アキは自分が手を置いた土の下に眠る種を思って、ふと小さく微笑った。
「……素敵ね」
 その声に僅かな揺れを感じて、スイクンはアキを見下ろしたが、アキは俯いたままで、その表情は伺えなかった。








 片足を痛めているアキを背に乗せ、スイクンは手近な塒に入った。
 人間の大人十数人が腕を広げてやっと抱えられるほどの巨木の根元。そこには樹皮からわずかの「生きた」部分を残して、幹の中央部のほとんどが大きな空洞を為していて、体の大きなスイクンでもゆったりとくつろげるだけの広さがあった。
「すごい……」
 こんなに大きな木の洞を見るのは初めてだったらしく、アキは呆然と呟いて周囲を見回した。しかし暗所に弱い人間の視力では、この闇深い森の底の様子を窺うことはほとんど不可能だった。

『寒いならそのまま背に乗っていればいい』
 そう言ってスイクンは苔の上に身を沈める。
 スイクンがこれまで遠目に見た人間は、夜になると布で小さな塒を張って、綿袋のようなものに潜り込んで眠っていたから、きっと寒さには弱いのだろうと思う。自分のたてがみが暖を取るのに充分な量と質であるのを知っているから、アキにそれを使わせてやっても良いとスイクンは思った。
 以前、自分が瀕死の重傷を負った時に、ドダイトスの背を心地良く心安らかに感じた記憶があったから、スイクンをそんな気にさせたのかも知れない。

 しかし、アキはするりとスイクンの背から滑り降りて、その横に並ぶように寝そべった。
「重いでしょ」
 スイクンを見上げてアキは苦笑する。
 スイクンは何も言わずアキを見つめた。重くないと言えば嘘になるが、苦ではなかった。寒くないのなら離れていても良い。そんなこと判ってはいるが、何か腑に落ちない物足りなさを感じた。

 そんなスイクンの戸惑いを余所に、アキは肩から下げた鞄から小さく折り畳んだ薄い布を取り出すと、横たわった自分自身の上にふわりと広げた。
「これね、結構暖かいの」

 アキが被った薄布に、スイクンは不思議そうに顔を寄せる。
『花の匂いがする。お前は草に属する者か?』
 至極真面目に尋ねてくるスイクンに、アキは一瞬絶句した。
 そして突然ころころと笑い出す。
「やだ、スイクン。私はポケモンじゃないわよ」
 スイクンは何故アキが笑っているのか判らなかったが、馬鹿にされたような気がしてむっと口をつぐんだ。
「この香りは、香油よ。少し前にね……人に頼まれて、花をいっぱい集めて、香油を作ったことがあるの。こんなに両手一杯の花を集めても、たった一滴しか採れない貴重な精油……皆眼の色を変えて欲しがったわ」
 そのときにこっそり取り置いていたものの最後の一滴を、薄布に染ませて来たのだという。

 スイクンは何故花の香りを人間が欲しがるのか、いまいち理解できなかった。
『それだけしか採れないというのは、花たちが自らの目的を果たすためにそれ以上必要ないからだろう。第一花の香りは花のためにある。何故それを人間が纏おうとするのだ? 花でない者から花の匂いがしたら不自然ではないか?』
 素直な疑問を投げかけてくるスイクンに、アキはしばらく黙り込んだ。
「そうね……確かにそうかもしれない。スイクンは自然体なのね。人間とは大違い」
 語尾はほとんど独り言のようだった。人間というものをあまり知らないスイクンは、何と答えれば良いのか判らない。

「たった一滴のために、山ほどの花を毟り取るの。花だけじゃない。自分の快楽のために、誰からでも何でも毟り取る。一欠片でも多く奪った方が勝ちなんだって皆思ってる」
『……アキ?』
「人間なんて……恐ろしい生き物よね」
 嫌悪感さえ漂わせるアキの声に、スイクンは違和感を覚えて半身を起こした。すぐ横に寝ているアキを上から覗き込む。
 アキは薄布を頭から被って丸くなっていた。
「ごめんね、変な事言っちゃった。でもね、私は花が好き。この花の香りが好きよ。せめて眠りにつく時ぐらいは、好きな香りに包まれて安らぎたいじゃない? ……それも結局、自分勝手なんだけどね。花はそんな事望んじゃいないのに」
 それきりアキは薄布の中で声をひそめてしまった。

 眠ってしまった訳ではないことは気配で判る。しかしスイクンにはそれ以上アキに働きかける術はない。
 スイクンは小さく溜息をついて、再び身体を伏せた。
 やはり不思議な女だと思う。そして、ただ不思議なだけではなくて、何処か暗いものを背負っているようにも感じる。

 ───アキの足が治ったら、早々に森の外へ出してやるか。

 スイクンはゆっくりと眼を閉じた。
 その途端に嗅覚が研ぎ澄まされて、花の香りを強く意識してしまった。

 ───せめて眠りにつく時ぐらいは好きな香りに包まれたい───アキの言葉を反芻する。




 『ああ……お前の匂いだ。懐かしい……』

 ふと、遠い日の己の言葉が甦った。
 火の粉舞う火山の懐で、ほんの僅か、彼の匂いを感じたあの瞬間。
 彼の豊かなたてがみに顔を寄せ、それが嗅覚に届いた時の胸が満たされるような悦び。
 あの時確かに、彼の匂いを求めていた。その匂いに包まれながら、眠りにつきたいと願っていた。


 きっとそれは、今も───


 息苦しさを感じてスイクンは瞼を開いた。

 ───何を考えている。あれはもう、過去の事だ。

 願ってももう届かない。共に在りたいと求めていた『友』はもういない。
 あの懐かしい匂いを感じることももう無いだろう。

 ───判っている。自分が拒絶したのだから。もう諦めた筈だ。


 スイクンは無理矢理眼を閉じた。
 得られる事のない望みを追い払うように、今はただ、目の前の花の香りを追うことに意識を振り向けた。

 人間の欲望のなれの果てだという、花なき花の香り。
 こんな不自然なものがあるせいで、自分の感覚と記憶とが混乱してしまったのだとスイクンは言い逃れのような事を思う。
 そして、もしもこの花の香りに安らぎと満足を覚えることが出来たなら、今なお記憶に焼き付いて離れないあの匂いへの恋しさを断ち切れるだろうかなどと、詮無い事をつらつらと考える。

 考えているうちに、いつの間にか寝入っていた。
 花の香りの中、懐かしい夢を見た。
 エンテイ、そしてもう一匹のかけがえのない友と共に、幸せだった頃の夢だった。





次はまた泥沼復活です。気合い入れないと書けないぐらい。ええもう誰得というか……


依存関係 -6-異変

空蝉



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最新の15件を表示しています。 コメントページを参照

  • 何とびっくり!
    人間が出て来るとは思いませんでした
    三人の活躍と続きに期待
    ――散香 ? 2010-10-02 (土) 21:26:40
  • はじめまして!
    スペードといいます。
    この話は深いですね…
    最初から読ませて頂きましたが、凄く感動しました!続き、期待してます!
    ――スペード ? 2010-10-02 (土) 23:07:23
  • >散華様
    その反応、素で嬉しいです。人をびっくりさせるのは快感なので(笑)いつもコメントありがとうございます!励みになります。

    >スペード様
    はじめまして!ようこそいらっしゃいました。こんな鬱々な話なのに、深いと感じていただいた事、作者本人よりも感受性が強くていらっしゃるのではないかと驚きつつ、でも嬉しいです。期待を裏切らないようがんばりたいと思います。またおつきあいいただけたら幸いです。
    ――空蝉 2010-10-03 (日) 20:08:30
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Last-modified: 2010-10-02 (土) 00:00:00
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