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依存関係 -2-悔恨

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空蝉

ちょっと残酷な表現があるかもしれません。ご注意下さい






 意識の浮上に伴って、纏わりつくように不快感が増してくる。

 ───頭が……痛い

 まるで頭の真ん中に心臓があるかのように、鼓動が何倍にも増強されて耳の裏側で鳴り響いている。
「……」
 エンテイは、頭痛の不快感に顔をしかめながら、そろりと眼を開いた。
 真っ黒く焼け焦げた森の残骸。その最も強く焼けただれた中心らしき所に倒れていた自分の状況を確認する。

 ───どこだ、ここは。

 ひどく記憶が曖昧だった。
 この惨状は、まさか自分がしでかしたものか。

「……───スイクン……」
 無意識のうちに、声に出して呼んでいた。それが引き金となって、エンテイの記憶を覆っていた靄が晴れわたり、これまでの経緯が怒濤のように押し寄せてくる。
 周囲の状況と、自分の記憶が合致したその瞬間、エンテイの頭からさぁっと血の気が引いた。

「スイクン!そうだ、私は───」
 手に負えない炎を鎮めてもらうために此処に来た。
 『一度限りだ』───そう言って、全力で力をぶつけ合った。しかし、自分は身の内の猛る炎を制御しきれなくて。

「スイクン!スイクン……どこだ!」
 あれからどうなった?
 この惨状は記憶に無い。自分はあの後暴走してしまったのか?
 一緒に居たスイクンはどうなった? 無事なのか……?
 焦燥と不安が次々とエンテイの胸に沸き上がる。

 ───もし……もしもスイクンを傷つけてしまっていたら……

 けれど、現実はエンテイが危惧していたよりもずっと残酷だった。

「……───」
 声にならなかった。
 『それ』を何と呼べば良いか、判らなかった。
 黒と赤の混じり合った、その塊───それは焼け焦げた墨色と、にじみ出る血の赤を纏っていた。
 どこかまでが皮でどこからが肉なのか、もう判らないほどに爛れた皮膚。
 大量に吐かれたのだろう吐血の跡が、地面に黒々とした染みを残している。

「……スイ…ク…」
 震える脚で、それに近寄る。
 嘘であって欲しいと願いながら、けれど紛れもなくこれが自分のもたらした結果だというどうしようもない確信も持っている。
 腹の底から沸き上がってくる吐き気にも似た恐怖と自責の渦。
「ぅああああぁ───っ!」
 崩れそうな感情の激流をどうする事も出来ず、エンテイは咆哮を上げていた。
「スイクン……!」

 ぐったりとして動かないその身体に触れる。
 こんな酷い死体は見たことがない。
 しかもそれが、よりによって自分の大切な相手だなんて。そして手を下したのが、他の誰でもない自分自身だなんて。

 半分焼け落ちた瞼の隙間から、白く濁ってしまった瞳が覗いている。
 凛とした輝きを帯びて、まっすぐに、けれど慈しみを満たして見つめてくれた美しい宝玉のような瞳を思い出して、エンテイは耐えきれず泣き叫ぶような咆哮を何度も上げた。
「スイクン……スイクン───……!」
 血塗れの顔に頬ずりする。
 そしてひどく傷ついてしまったその肌を丹念に舐めてやる。
 これほどまでに悲惨な口づけがあるだろうか。ずっと触れたいと願っていた愛しい者の口吻に今初めて触れた。それが、自ら殺めてしまったその血糊を清めるためだとは。

「ああ、こんなにも……こんなにも慕わしいのに───……!」
 激しく慟哭しながら、エンテイは何度もスイクンの口元を舐めていた。


 そのとき。
「───!?」
 一瞬感じた微かな違和感。
 それに驚いて上げてしまった顔を、またスイクンの口元へ寄せる。
 注意深く、空気の流れに全神経を研ぎ澄ませる。

 ───まさか……

 願わずにはいられないその期待に、鼓動が跳ね上がる。
 どうか錯覚でないようにと祈りながら、そっとスイクンの鼻先に舌で触れる。そして確かに感じたのは、ごく微かな呼気の流れ。

 ───まだ……息がある!

「スイクン! スイクン!」
 今にも消えそうな命に、必死で呼びかける。

 ───どうしたらいい……

 大切な者を喪っていなかった喜びも束の間、今ここで自分に出来ことが何も見つからなくて、エンテイは絶望的な心持ちで立ち尽くした。
 このままでは確実にスイクンは死んでしまう。
「水……そうだ、水を」

 いつだったか、スイクンに聞いたことがある。この森の湖には、癒しの力があるのだと。
 エンテイは傷付いたスイクンの身体に負担をかけないよう気遣いながら、その腹の下に潜り込み、自分の背に担ぎ上げた。
 その湖がどこに在るのか知らない。けれど探し出す決意で走り出した。
 水の気配など今まで気に留めたこともないのに、今必死でそれを追っている。水の匂い、水の音、水面の煌めき、その道しるべを、五感を駆使して探っている。

「スイクン……教えてくれ。お前の湖の在処を」
 森の奥深く分け入り突き進んだ。鬱蒼とした木々の迷路を本能のまま駈け抜け、風の中に僅かに混じる水の匂いを追うように緩やかな丘をいくつも越えた。

 焦りの中で、様々な感情が次々と浮かんできてはエンテイを苛む。けれど今はそれに潰されている場合ではない。
 ひたすらに祈りながら、森を駈ける。


 ───どうか……生命の水をこの背の者へ───








 急に、視界が開けた。
 空を映して青く深く輝く水面の眩しさに、エンテイは思わず眼を眇めた。
 幻かと疑ってしまうほど美しく静かな湖面。その周囲には緑と花々が色鮮やかに輝いている。微かに聞こえてくるのは、どこか遠くで遊ぶ鳥たちの声か。
「……」
 エンテイは呆然と眼を見張ってその湖水を見つめていた。
 こんな美しい光景は初めて見たかもしれない。
 すべてが完成された一幅の絵のようだ。
「ここが……お前の湖か?」
 この侵しがたい清らかな水がスイクンの身の内に脈々と流れ生命を司っているのかと思うと、その懐の深い豊かさにただただ感嘆するばかりだ。

 エンテイはスイクンを背負ったまま、そっと水に脚を踏み入れてみた。
 その水は驚くほど冷たい。
「……」
 躊躇いを振り切るように一呼吸置き、ゆっくりと深みへと進み入る。
 身を切るような冷たさに耐えながらようやく肩の浸る所まで来たところで、スイクンを背からそっと降ろしてみた。
 ゆらゆらと揺れる水の中に、傷だらけの身体が沈む。
 どこまでも見通せそうなほど澄んでいた水が、スイクンの身から滲む血や汚れでじわりと濁っていく。
 エンテイは居たたまれない思いでそれを見守った。

「湖水よ、どうか……スイクンを癒してくれ」
 祈ることしかできない自分の無力さが歯痒い。
 スイクンの身体からはまだ血が流れ続けている。水は濁っていく一方で、痛々しいその傷に何ら働きかけてくれる様子がない。
 そうしているうちに、濁った水の中にスイクンの姿を見失いそうになり、エンテイは慌てて水中にたゆたう身体を捕まえた。

 この湖ではないのかもしれないという疑念も湧いたが、本能がそれを否定した。
 この場所に間違いはない。命の湖はここに違いない。
「時を待つしかないのか……」
 どうやら劇的な変化は望めないらしい。
 落胆する傍ら、それだけの深手を負わせてしまったのだという事実が改めて重く心にのしかかる。
 エンテイは腹を決めて、再びスイクンを肩に担いだ。
 スイクンの身体が少しでも水に触れるよう、エンテイ自身もほぼ全身を水に沈め、意識のない相手の呼吸を妨げないように顔だけをたてがみの上に載せてやる。
 そして、濁った水から逃れるように、水の澄んだ所へと泳いで行く。

 炎に属する者にとって、水の中に深く身を浸しているこの状況は、まるで生きた心地がしない。
 今すぐにでも逃げ出したい気持ちになるのを、エンテイは必死で堪えた。
 背にかかる重みと、触れ合う微かな暖かさだけが、エンテイの意志を支えて此処に留めている。
「スイクン……」
 今はもう、それ以外のことは考えられなかった。








 夕焼けの光は樹海の底に位置するこの湖には届かなかった。
 エンテイはスイクンを背負って水面を漂いながら、異様なまでに赤く染まった空をただ見上げていた。その色彩は上空を覆う煙によるものであり、焼け死んでしまった森の最後の悲鳴でもあったことをエンテイが知らなかったのは、ある意味で幸いだったのかもしれない。


 やがて訪れた夜の闇は深く、そしてひどく静かだった。
 しかし生き物の気配はある。視線を感じる。森の住民たちがじっと息を殺して自分たちを見つめているのが判る。

 ───この湖の主の身を案じているのか……

 夜半を過ぎて、ようやく姿を見せた半月は湖に柔らかな光を投げかけてくれた。
 ゆらゆらと頼りない月明かりの下で足元を見ると、微かにさざめく湖面とは対照的に、湖の内側には黒々とこごる暗闇が広がっていた。

 水底から感じるどろりとした泥にも似た気配。
 気を緩めた途端絡め取って引きずり込もうとする、重苦しく邪念に満ちた意志。

 エンテイはぞくりとした悪寒を覚えて、小さく身震いした。
 外から見る湖の姿と、その奥底とは異なる世界であるらしい。
 引き込まれないように気を取り直しながら、エンテイは浅瀬へと移動した。


 そんなふうにして夜と昼とを何度か繰り返した。
 時折岸辺に上がっては、スイクンの鼓動を確かめたり身体を舐めてやったりしながら、ともすれば不安と疲労で折れそうになる心を宥めようとしたが、一向に変化の兆しを見せない傷にかえって絶望と焦燥ばかりが募ってしまい、やがてエンテイは岸に上がることすら怖れるようになってしまった。

 スイクンは未だ眠り続けている。








 夢を見ている。

 視界のすべてが炎に覆われている。
 今まで自分でも見たことのない、眩しいほどの光彩を伴う灼熱の炎だ。
 目の前にスイクンの背中がある。
 ひどく苦しそうにもがいている。

 ───炎に焼かれているのか、スイクン……!

 熱さを拒んでスイクンが激しく頭を振る。その抵抗を封じるように、しなやかな首筋に噛み付いたのはエンテイ自身の牙だ。
 悲鳴。そしてさらに激しく吹き上がる炎。

 ───やめろ、やめてくれ!

 エンテイは声の限りに叫ぶが、自身の凶行は止まらない。
 身体の深いところで相手と繋がる感覚。
 スイクンが何かを叫び、それと同時に大量の血を吐き出す。
 ぐったりと力尽きた身体を苛むように押し潰す激しい動きに視界がぶれる。

 ───やめろおぉぉ───……っ!




 がくりと水中に頭が没して、エンテイは慌ててずぶ濡れの顔を上げた。

 ───またあの夢……

 深く溜息をついて、エンテイは疲れたように眼を閉じた。
 時折こうして水の上で意識が途切れがちになる。そうすると決まっていつも同じ夢を見た。
 暴走した挙げ句に、スイクンを犯して焼き尽くす夢───あれが意識を失っていた間に起こった事実なのかと思うと、あまりのおぞましさに気が狂いそうになる。

 もう幾日も水の中に身を沈めていて、眼を開いているのも億劫なほど疲れ果てているのに、うつらうつらとした途端にその恐ろしい夢が待ち構えていて、エンテイは一時も眠ることが出来ずにいた。
 身体の疲労と、悪夢がもたらす精神的な疲労が極限にまで高まっていた。

 眼を閉じているのに、眼が回っているような感覚がある。どちらが天か地か……考えようとした矢先に、また顔が水の中に落ちた。首を上げようとしたが、今回はどうしたことか水面がどちらにあるのか判らない。完全に平衡感覚を失っていた。
 息が出来ない。

 ───まずいな……

 うっすらと開いた視界の先に、スイクンが見えた。いつの間にか、背から落ちてしまっていたのだ。
 スイクンは湖の奥底の深く暗いところへ吸い込まれるように落ちて行く。
 追おうとしても身体が動かない。けれど自分自身もまた、同じように深みへと引きずり込まれようとしているのに気付き、エンテイはふっと身体の力を抜いた。

 ───ああ、もうこれでいい……同じ所へ堕ちることが出来るのなら。

 朦朧とした意識で、支離滅裂な考えが浮かんでは消える。

 ───このまま二人で湖底の死の国にまで堕ちて行き、どれが誰の身体なのか区別もつかない程どろどろに溶け合って泥の一部になってしまえばいい……

 どうしようもない死への誘惑がエンテイを絡め取る。
 炎を纏う身でありながら、水に沈んで死ぬという心細さと情けなさ。
 同じ苦痛をスイクンもまた味わったに違いない。

 ───これはきっと報いなのだな……

 最後の力をふりしぼってスイクンに延ばした脚先には、何も触れることが出来なかった。

 ───スイク……ン……

 森の生き物たちが突然の異変に気付いて鳴き騒ぎ始める。けれど完全に水に没したエンテイには、その声はもう届かなかった。




 その時、湖面に大波が立った。
 まるで巨岩でも投げ込まれたかのように、湖の表にも内側にも激しい震動が何度も反射し行き来する。
 水の中のあらゆるものが、為すすべもなく水流に揉まれて流される。
「……!?」
 強烈な浮上感。荒々しく揺さぶるようなその感覚に、消えかけたエンテイの意識が引きずり戻される。

 ざあっと激しい水音を立てて、巨大な生物が水面に浮かび上がった。堅い嘴のようなその口に、エンテイのたてがみをしっかりとくわえている。
 水の上に半身を浮かばせたドダイトスは、そのままゆらりと泳いで岸辺にたどり着き、草の上にエンテイを解放した。
「……」
 倒れたまま激しく咳き込むエンテイに、ドダイトスは何も言わず背を向ける。
 エンテイは苦しさに滲む視界のまま、去ろうとするその背を見上げた。
 水へと向かい始める山のような背の上に、鈍く光るものがちらりと見える。それは甲羅を覆う樹の根元に引っかかるようにして倒れているスイクンの額の水晶だった。
「……待っ……」
 喘鳴の合間、声にならない声で、エンテイが呼び止めた。
 ドダイトスは立ち止まらず、そのまま水の中へ進んでいく。
 エンテイはふらつく脚で立ち上がった。しかし追っていくだけの力は残っていない。

 大きな波を生みながら、巨体が水中に沈んでいく。甲羅の上に深く浅く被る波が、眠るスイクンを優しく揺らす。
 森と湖に棲む小さな生き物達が、小島のような大きな背の周りに群れ集まってきた。そして傷ついたスイクンの身体をいたわるようにつつき始める。
 ドダイトスは、ゆっくりとエンテイを振り返った。
「……ここから立ち去れ」
 抑揚の無い声で無情に告げる。それはエンテイにとっては予期していた通りの言葉だった。
 ここで立ち去るわけにはいかない。まだ自分はスイクンに何一つ贖っていないのだ。

 動こうとしないエンテイに、ドダイトスは苛立ちを見せた。
「ここで貴様に為せることなど何一つ無い。去れ。さもなくば再びここに沈めて湖底の亡者どもの仲間にしてくれる」
 美しく輝く湖の奥底───泥のように死を誘うその『モノたち』の恐怖を思い出し、エンテイは歯を噛み締めた。そして、ドダイトスの頼もしく大きな背の上で、浅瀬に揺れる水草のように心地よさげにたゆたっているスイクンを遠くに見つめる。

 たとえ出来ることが何も無くとも、見守っていたい。自分に癒しの力が無いことは承知している。ただ、側に居るだけでいい。
 けれど、森の住民はそんな願いすら許さなかった。
「はっきりと言わねば判らぬか。貴様のしでかした事を、我らが知らぬと思うのか。そもそもすべての原因は、貴様が至らぬ所為ではないか。こんなところで役に立たぬ身を晒されては至極目障りだ!」
 エンテイがはっとして眼を見開く。
 ドダイトスは小さく舌打ちしてエンテイに背を向けた。
「済まぬ……少し言葉が過ぎたようだ。しかしこれが我らの真意でもある。事を荒立てない内に立ち去ってくれ」
 エンテイは何も言葉を発することが出来なかった。
 ドダイトスの言った事のすべてが深く胸に刺さり、息苦しいほどの悔恨と惨めさがひしひしと押し寄せてくる。

 もう、どうすることもできなかった。
 エンテイが悄然として見つめる先で、ドダイトスの背に姿を現した鮮やかな黄緑色のポケモンが、首飾りのような赤い花弁を振るわせ、そこからえも言われぬ芳香を立ち上らせた。胸の奥から毒が消えていくような清々しい心地になる香りだ。疲労困憊で立っていることも覚束なかったエンテイは、その香りに触れた途端身体がふわりと軽くなったような驚きを感じた。
 離れているエンテイにすらそれほどの恩恵をもたらしたメガニウムの香りは、眠るスイクンをまるで包みこむかのように取り巻いて、惜しげもなく癒しの力を与えている。
 スイクンの身体が、微かに光を帯びるのを、エンテイは呆然と見つめていた。

 あまりにも、自身とは異質な力。

 潮時を、感じた。

 エンテイは、静かに湖に背を向けた。








 帰途は、あまりにも寒かった。
 豊かな体毛からぽたぽたと絶え間なく雫がしたたり落ちる。何度身を振るってみても、身体の中から水が湧き出てくるように常にじわじわとした不快感が纏わりついている。まるで水の呪いか何かのようだ。

 ───寒い……

 身体の芯から冷え切っていた。そして同じように、心もまた凍り付くような寒さに打ちひしがれていた。
 惰性のように運んでいた脚が、徐々に滞りがちになる。それでも進むしかない。この森からは既に追い出された身だ。

 脚を引きずりながら歩くエンテイの眼前に、不意に大きな倒木が見えた。立派な木だったのだろう、その樹冠が暗く覆っていた筈の空間が、今は上空の笠を失ってぽっかりと広く開けた明るい広場になっている。
 エンテイは乾いた土を求めるように、ふらふらとその広場へ吸い寄せられていった。
 今はただ本能的に、暖かな日差しを浴びて、この濡れて冷え切った身体を乾かしたかった。
 炎の出し方を忘れてしまったかのように、身の内に欠片の火種も起こすことができない。あまりにも長く水に浸かっていたせいなのかもしれないし、燃える気力を失ってしまったせいかもしれない。

 もう何も考えたくなかった。
 陽の光が一番眩しく集まる場所を選んで、エンテイは鉛のように重い身体を横たえた。
 ただどうしようもなく、疲れていた。嘆き悲しむことにすら、もう疲れ果てていた。
 眠るというより、気を失うという状態で、エンテイは意識を手放した。

 ここ最近、背後霊のように纏わりついていたあの悪夢も、今回は襲ってこなかった。
 何故か、暗闇ばかりの夢を見ていた。
 足元には、水。ひたひたと、水音を立てながら歩き続ける夢だ。
 その先に何があるのか判らないが、そちらへ行かなければならないような気がして、エンテイは歩き続ける。
 遠くへ行く道なのだと、おぼろげに感じた。




「───おい、くたばりぞこないが。本当にあっちへ行っちまう気か」
 大きな羽音とともに、巨大な翼竜が降り立った。
 その姿形はリザードンそのものだったが、極めて大きな体つきをしていて、翼の長さなど通常の個体より数倍ほどもある巨躯の持ち主だ。
 リザードンは倒れ伏したエンテイに近寄り、前触れもなく炎の息を吹きかけた。
「起きろ。こんな所で昼寝なんぞ馬鹿かお前は」
 エンテイに浴びせた炎がまるで溶けるように力無く消えていくのを苦々しげに見つめながら、リザードンは立派な太い脚でエンテイを強く揺さぶった。

 軽口を叩きながら、リザードンは内心焦りを感じていた。
 嫌な予感は的中していたようだ。
 水に身を浸しすぎたエンテイは炎を失い、今死の淵にいる。

「眼を覚ませエンテイ。此処に居ちゃいけない。起きてくれ頼むから」
 リザードンは躊躇いつつも炎の力を高め始めた。エンテイが散々に大火事を起こしたばかりのところに、同じく火に属する者が力を振るうのは後ろめたいが、もはや背に腹は代えられない。今ここに必要なのは、エンテイの命に流し込むための強烈な炎なのだ。
 体内の炎を失ったエンテイが自分で新たな火を起こせない以上、外から移してやるしかない。
 でなければ、本当に死に至る。

「エンテイ死ぬなよ」
 リザードンの全身から炎が吹き上がる。
 灼熱の爆風が周囲の木々を薙ぎ倒して渦を巻く。それと同時に、天と地とを結ぶかのような火柱が上がった。
 そしてリザードンはその炎を翼の内に集めてエンテイを覆った。
 超高熱の炎がエンテイを包み、身体の芯にまで浸みついてしまった水の欠片を霧に変えていく。やがて、濡れそぼっていた体毛がようやく乾いた色に変わり始めた。

「……っ」
 ぴくりと身体を震わせて、エンテイが薄く眼を開く。
 久々の炎の暖かさに包まれ、どこか心地よさそうにぼんやりとした顔をしている。
「惚けている場合か。この馬鹿」
 容赦なく吐きかけられる炎の息に、エンテイははっと正気を取り戻して眼を見開いた。そして目の前に仁王立ちしているリザードンを見上げる。
 自分の身を取り巻いている炎がリザードンのものだと認識したエンテイは、どうにか記憶を繋げて現状を悟った。
「ああ……お前が助けてくれたのか。済まなかった。恩に着る」
 エンテイの口からあまりにも素直に謝罪の言葉が出たので、リザードンは怒鳴りつける機会を逃して脱力の溜息をついた。もっとも、その裏側にある感情は安堵であったのだけれども。

「……無茶ばかりする。身の程知らずめ。いくら何でもあんな所に何日も居たら火が消えることぐらい、どんな馬鹿でも判るだろうが」
 罵る言葉に心配の情が滲んでいるのが、エンテイには嬉しくそして同時に心苦しくもあった。
 一体自分はどれだけ周囲の者に迷惑をかけるのか。
 あのときドダイトスが口走った言葉───『そもそもすべての原因は、貴様が至らぬ所為ではないか』───まったくそのとおりだとエンテイは思う。自分はあまりにも未熟だと痛切に感じる。

 黙り込んでしまったエンテイを、リザードンは口を堅く結んで見つめていた。エンテイがあれほどの無謀な行動をとったことに理由がない訳がない。エンテイの一本気な気質を知っているリザードンは、憐れみにも似た気持ちで小さく息を吐いた。
「エンテイ、とにかく此処を出よう。此処はまだ水の中だ」
 そう言ってエンテイに背を向ける。
「どういうことだ?」
「上から見りゃ判る。乗れ。重すぎるだろうが乗せて飛んでやるから」
 リザードンは促すように背を屈める。エンテイは戸惑いながらも、リザードンの口調に急ぐ気配を感じてその背によじ登った。
「しっかりくっついていろよ」
 言われなくてもそうしていた。振り落とされる危惧からというよりも、そうすることの心地よさから、未だ高熱を発し続ける熱い背に腹をすりつけていた。

 幾分長い助走をつけてリザードンが飛び立つ。高く突き出た大樹の梢を何本かへし折りながら、上空の風を捉えて旋回する。
 果てしなく続く緑の大地。よく見ると、樹海全体が青く澄んだ気塊に包まれている。
「水の気だ。上から見るとよく判るだろう? 森が水の恵みに満たされていて、まるで一つの大きな湖みたいになってる。お前が寝こけてた場所もその中だ。あんなところで日向ぼっこしてたって、尚更水に取り憑かれるばかりだ」

 リザードンの言うとおり、今飛び立ったその場所は、樹海にぽっかりと開いた穴のようになって日の光を浴びてはいるが、はっきりと青いヴェールに包まれているのが見えた。水の中───確かにそう形容するほか無い。
「あんな所に私を助けるために降りてくれたのか……済まなかったな」
 冷静に考えれば、炎の加護で生きている者にとっては、鳥肌が立ちそうなほど恐ろしげな森かもしれない。
「ああ……俺達には、生きてはいけない場所だ」
 小さく呟いたリザードンの言葉が、やけに重く響いた。


 ゆるりと大きく旋回した先、樹冠の海の合間に、日の光を反射してきらきらと輝く眩しい水面が垣間見えた。
 愛しい者を護り、そして愛しい者が護る湖。絵のように調和した美しい情景ととともに、貪欲に生命の火を喰おうとする暗闇をも内包する湖。
 きっと水面を漂っているのだろうその者の姿は、ここからは見えない。

 エンテイに名残を惜しませてやるかのように数度旋回したリザードンは、いよいよ西に首を向けた。
 乾いた炎の大地へ。懐かしい火山の咆哮轟く、険しい山並みへ。

「生きていける場所が……違いすぎる───」

 エンテイの呟きは、誰にも届かなかった。





エンテイの扱いが散々でごめんなさい。でも大好きなポケモンです。つづきます……

依存関係 -3-凍てつく湖

空蝉


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Last-modified: 2010-08-29 (日) 00:00:00
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