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働くクリムガン!!

/働くクリムガン!!

働くクリムガン!! 作:群々


 目覚ましがベルを鳴らす。クリムガンは目を開く。朝の目覚めはスッキリだ。
 ベッドから身を起こしながら、とカーテンの隙間から漏れる日差しを感じる。そんなことをしていると、目覚ましの音が一段と大きくなる。時計の上側に対になって取り付けられたベルがけたたましく金切り声をあげるのを、クリムガンは慌てて止めようとする。街の露天で投げ売りされていたその時計は、クリムガンの手には小さすぎて、爪の先端を慎重に伸ばさなければスイッチをオフにすることができないけれど、そんなことクリムガンは気にしていなかった。
 狭い部屋に敷き詰められたベッド、木材を組み合わせて作ったテーブルや机に椅子。細い隙間をクリムガン持ち前の器用さで潜り抜ける。慌ただしそうに小走りで部屋を駆け回りながら、洗面台で顔を洗い、コップに注いだ水道水を飲み、それから水筒にめいっぱいの水を溜め込んだ。準備が済むと、細長いラックに吊り下げられた黒いショルダーバッグを肩にかけ、大事そうに脇に挟み込んだ。少しのポケを詰め込んだ袋が中には入っていた。
 部屋を出る前に、クリムガンはお気に入りの目覚まし時計をもう一度手に取った。
「じゃあ、いってきます」
 小さな声で囁いて、目覚ましを小卓の上に置き直した。
 もちろん、目覚ましは黙っている。


✳︎

 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 街を行き交うポケモンたちの群れの中を、クリムガンは駆ける。四方八方から押し寄せてくる姿も大きさもさまざまなポケモンたちの間を糸を縫うように。狭い洞穴暮らしの感覚が染みついたクリムガンにとって造作のないことだ。足元を歩くピチューやパモを踏みつけないように気をつけ、横から急に現れたサイドンと肩がぶつかって弾き飛ばされそうになるのをギリギリのところで避ける。
 とある古書店の前にさしかかり、クリムガンの足が止まった。木造の古い建物で、ちょっとした強風が吹けば全てが飛んでいってしまいそうに弱々しい造りのそのお店は、クリムガンにとってとびっきりお気に入りのところだった。朝早い時間から店が開いているのもいいし、店先に造作なく置かれたカゴの中には天に赤く太い線が引かれた「ゾッキ本」がいっぱい詰まっているところも好きなのだ。
「ううっ……」
 けど、ちょっとだけなら……クリムガンはどんなに慌ただしい時でもつい、そこにどんな本があるのかをチラッと確かめてしまうのがクセになっていた。もしここで確かめなければ出会えない本があるかもしれない、なんていうもっともらしい理屈をつけて、クリムガンは腰を屈めてカゴに敷き詰められた本にとりあえず目を通す。
 店主のアバゴーラは仏頂面で、分厚い書物をカウンター代わりの机に広げて熱心に読み耽っている。小さな丸眼鏡を時折クイと持ち上げ、器用な鰭つきで薄い紙をめくっている。流れてくるラジオの音は雑音に紛れてよく聞こえなかった。アバゴーラが不意に顔をもたげた。目が合ったクリムガンは照れくさそうに会釈のようなものをした。アバゴーラは訝しげな顔つきをしながらも、軽く頷いたような動作をする。
 イキリンコたちのかしましい合唱が街中に轟いた。この街では彼ら彼女らが時を告げる役目をしているのだ。クリムガンは突然肩を叩かれたかのようにビクリ、とする。寄り道したせいで思っていたより時間が経ってしまったみたいだった。大急ぎで路地の中に駆け込んだ。近道はよく知っている。レンガでできた建物、木でできた建物、それ以外のもっと粗末な建物と建物の間の入り組んだその構造をクリムガンはすっかり理解していた。わざわざ狭い路地を歩くポケモンなんていないから、通りの人混みよりもずっとクリムガンには走りやすい。
 建物の間から垣間見える鉄骨を複雑に組み合わせた高い塔——何のために建てているのかは一部の偉いポケモンしか知らないのだそうだ——を目印にしながら、カクレオン商店のある角を折れると、斜向かいにある虫ポケモンたちの糸を取り揃えているハハコモリの手芸店がある。その脇にある細い路地に入り込んで、路地の途中がイベルタル路のように別れているところを左に曲がり、それから突き当たりをしばらく右へ進んでいく。
 あみだくじのような路地を抜けると、ガブリアス通りと呼ばれている場所に出た。この通りの本当の名前をクリムガンは知らない。この街でも屈指の大金持ちのガブリアスがここに住んでいるからガブリアス通り、ということしか知らない。街の近くにある宝石がいっぱいある鉱山をガブリアスは我が物にして巨万の富を得た、という話を、クリムガンは何度か耳にしたことがあるだけだ。
 厳しい赤土色の塀の向こう側には、緑色の芝生が敷き詰められた広い庭園があり、一角には大きなプールも見えた(それだけで、クリムガンが住む部屋の何倍もあった)。その奥にはレシラムのように真っ白な豪邸が佇んでいた。横に長く広がったその建物は、なんだか枝に留まって背を低く屈めて獲物を睨みつけるウォーグルのように、クリムガンを威嚇しているみたいなのだった。
「よう」
 門番をしているワルビアルが馴れ馴れしく声をかけてきた。クリムガンがここを通るとき、いつもワルビアルは門の前にいた。朝ここを通るときもそうだし、夜ここを引き返すときもそうだった。鉄製の門扉の前で仁王立ちをして腕を組み、鼻歌を歌いながら通りを歩くポケモンたちを眺めている。
 クリムガンは無視しようとするが、そうすると向こうが勝手に後をつけてくる。
「そんな硬くなんなって、『相棒』っ!」
 ワルビアルはいきなりクリムガンと肩を組んだ。上体を引き寄せられて、クリムガンは危うくバランスを崩しそうになった。歩道をすれ違ったサーナイトが訝しげな目でこちらを見ているのがチラリと見えたが、ワルビアルは周囲の目など全然気にしない。
「今日も仕事かあ? 朝早くからご苦労さんなこった……まっ、お互いに頑張ろっていこうじゃねえかよ……そんな恐縮せずにさ……いやはや、働くポケモンってのは辛い立場だよなっ」
 お前もそう思うだろ? とワルビアルが長い口吻からそう囁く。吐息が耳元にかかって、ちょっとこそばゆい。


✳︎

 ガブリアス通りを抜けた先の広場に面して、ワナイダーが切り盛りする小さな運び屋がある。クリムガンはそこで毎日働いているのだった。「ワナイダー運輸 東第12地区臨時営業所」というのが正式な名前なのだ。
「来たか」
 クリムガンの気配を察すると、店長のワナイダーは掠れ声でつぶやいた。薄暗い作業場で、卓上に山積みになった荷物を手先から出した蜘蛛の糸で一つ一つ丁寧に梱包しているところだった。いつも渋い顔で淡々と作業に従事しているから、一見して不機嫌なようにも見える。あちこちから送られてきた荷物を店長のワナイダーが一つ一つ丹念に手先から繰り出した蜘蛛の糸で梱包し、クリムガンは街中を駆け回ってそれを送り先へ届けるのだ。
クリムガンは軽く会釈をしながら、自分の持ち場に向かい、ショルダーバッグをラックにかけ、黒い帽子を頭にちょこんと載せた。これが、ワナイダー運送の配達員の正装である。
 ワナイダーは傍らにある筆を取り、タライに溜めたオクタン墨に毛先を浸し、糸で包んだ荷物に流暢に宛名を書き記す。丁寧でとても読みやすい文字で、誰が誰にこの荷物を送ったのかが一目瞭然だった。クリムガンは荷物の一つを手に取って、そこに書かれた文字をじっくりと見つめた。ワナイダーが書く文字は、金釘流の自分にはとてもではないが書きようのない、均整の取れた、伸び伸びとして、立体感があるのが好きだった。それはただの荷物であるのに、まるで古い碑文を読んでいるかのようにワクワクするのだ。
「……もさっとするなよ」
 ワナイダーは気怠げに振り返り、クリムガンの全身を隈なく点検する。
「今日もしっかり働いてもらわぬとな」
 店長は言葉少なに空いた手脚を伸ばしてクリムガンの肩を叩いた。無愛想な外見と言い草とは裏腹に、ワナイダーが幼いタマンチュラたちを養っている父親でもあることもクリムガンは知っていた。実際、オフィスと住宅を兼ねたこの建物の2階から子どもたちが駆けずり回っているのだろう、騒がしい音が聞こえていた。
 粘度を抑えたしなやかで丈夫な糸に包まれた荷物群を、まずは街区ごとに分別することから始める。作業場とオフィス奥の配送スペースを慌ただしく行き来しながら、それぞれの地区に振り分けられたカゴ付きの台車の中に荷物を整理する。その間にもワナイダーが新しい荷物を次々と梱包するので、ひっきりひまなしにクリムガンは営業所の中を動き回っていた。
 小一時間をかけて、東第12地区臨時営業所が担当する全てのエリアの分別を終えた。だが、一息つく暇もない。今度はこれを全部宛先へと配達しなければならない。もちろん、これもクリムガンの仕事である。
 ワナイダーは窓を覗き込んで広場の真ん中に置かれた日時計で今の時刻を確かめ、おもむろに扉に「OPEN」と記された木札をぶら下げる。受付も兼ねている作業台の前に戻り、これから配達物を持ってくるかもしれない客を待つために頬杖をつくと、余った手で引き出しから読み古したあやとりについての本をパラパラとめくりはじめる。
 クリムガンはカウンターの裏に設えられた鏡台で黒帽の微かなズレを直した。真っ赤な顔に黒々とした帽子の組み合わせは、うまく言葉にはできないけれど、なんだかいいなと気に入っている。それから、荷物をまとめた台車を押しながらワナイダーに向かい、
「じゃあ、いってきます」
 と言った。
「……気をつけろよ」
 ワナイダーは静かに頷いた。


✳︎

 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 たどり着いたのは、建物というよりは巨大な土の塊みたいなところだった。巨大なスナバァが佇んでいるように見えるそれは、元々アイアントたちの一団が作り出したアリ塚で、そこにいつしか流れ者のポケモンたちが勝手に住み着くようになったのだとかいう。街に立ち並ぶ建物と比べても遜色のない高さをしているアリ塚の外側には、無数のタネばくだんを浴びせられたかのように小さな穴が空いていて、そこには小さな鳥ポケモンたちが群れをなして宿っていた。
 これだけ大きくなってしまうと、そう簡単に取り壊しようもないし、住人たちは住人たちでいざこの場所が危険に見舞われたとなると途端に結束をし始めるため、街の者たちでさえ誰も手がつけられない。結局は、触らぬルギアだとかホウオウだとかに祟りなしという理屈で、そのままにされている。街が発展し、拡大する前にできてしまったものだから仕方がない。よしんば何かの拍子で崩壊したとしても、街の管轄外の建物でもあるから自己責任だとか自業自得と指弾されてもやむを得ない……と、街の側では考えてるんだろう、とワナイダーはよく愚痴っぽく話している。
 ともかく、そんなアイアントのアリ塚がこの辺りにはいくつも立ち並んでいるのである。そして「ワナイダー運輸 東第12地区臨時営業所」が担当しているのはもっぱらこのような巨大なアリ塚ばかりなのだった。その配達全てをクリムガンは受け持っていた。クリムガンは腕をぐるぐると回して、早速配送に取り掛かる。
 塚の中は細く入り組んだ複雑な道になっていて、普通の建物のように階段があるわけでもなく、アイアントたちが作った通路を、住人たちがさらに好き放題に無秩序に掘り進めたせいで、なかにいると方角も高低の感覚もわからなくなってしまうほどだったが、クリムガンにとってはうってつけの道で、背中を屈めながら大小の荷物を抱えてすいすいと駆けずり回ることができたし、この迷宮のようなアリ塚の通路の構造を足の裏で隅々まで記憶することができた。ついでに言えば、アリ塚に住み着いている連中は例外なく警戒心が強い者ばかりなので、ある程度住人たちに顔の知れた方が仕事がしやすいという事情もあって、クリムガンは何かと重宝されているのだった。
「すみません……お届けものですっ」
 ミルホッグの大家族に大きな荷物を届け、サダイジャの老人には手のひらに収まるくらいの荷物を手渡しどこか物憂げなモトトカゲの青年に小包を差し出す。そういう作業をひたすら繰り返す。
「なんだよアンタはっ!」
 と怒鳴ってくるのはいつも穴の奥で大事そうにタマゴを温めているハブネークだった。クリムガンが荷物を届けに来ると、決まって敵意を剥き出しにしながらこちらに牙を向けてくる。春に来ても、冬に来たとしても、そうなのだった。
「タマゴを狙ってるんだろ! 腹を空かした卑しいトカゲがっ! とっとと失せなっ! 大事な子どもたち、一匹たりとも渡さないんだからねっ!
「すすす、すみませんっ! でもっ」
 クリムガンはぺこぺこと頭を下げながら説明する。えっと! まずそのっ荷物を届けに来たんです。タマゴを狙うつもりは毛頭なくてっ! だから、あの、この荷物をっ!……
「うるさいっ! 帰れっ! 私の目の前から消えろっ! この赤んぼが!」
「すすすす、すみませんでしたあっ!」
 追い立てられるようにクリムガンは穴から這い出した。肝心の荷物を抱えたまま戻ってきてしまったことに気がついて、仕方なく、入り口のそばにそっと荷物を置いていった。なんだかんだ、荷物そのものは受け取ってくれているようだから大丈夫だ、と心に言い聞かせた。
 下から上の階層まで配達を終えると、今度は外側へ。外側に穴を開けて巣を作っている鳥ポケモンたちに一通り届けものを渡す。恐る恐る、外壁に作られた申し訳程度の狭い幅しかない通路をクラブ歩きに伝って、群れを成して暮らしているヤヤコマだとかスバメだとかオニツバメ一羽一羽に声をかけて、手のひらサイズの配達物を一つずつ渡していった(こんなサイズでもワナイダーは器用に読みやすい文字を書いているので、クリムガンはすごいなあと思う)
 ふう。これでここは最後だな。
 アリ塚のてっぺん、アーチ状になっているところまで脇に荷物を挟みながらなんとかよじ登ると、そこにヨルノズクの巣があった。周囲を見渡せるこの場所に巣を作って、アリ塚の夜の見張りをしているというヨルノズクはいまは寝ぼけ眼で佇んでいた。巣のなかには、小さなホーホーたちが穏やかな寝息を立てている。巣の脇にはこの辺から拾ってきた適当な木片を組み合わせた即席の看板があり、不器用な文字で「置き配希望」と書いてあった。聖なる夜にプレゼントを届けに来るデリバードのように、クリムガンは荷物をそっと巣のそばに置いていった。
 入り組んだ狭苦しい通路を潜り抜けて、地上まで戻ってくる。一息だけつく。今日はあと10ほどこのようなアリ塚を巡らないといけないのだ。そしてそれは、「ワナイダー運輸 東第12地区臨時営業所」の特殊配達員をしているクリムガンにしかできないことなのだった。
 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 その日もクリムガンはよく働いた。
 

✳︎

 全ての荷物を届け終えて、オフィスへ戻ってくるころにはすっかり日が暮れていた。
「お疲れさん」
 ワナイダーはクリムガンを労い、まるでタマンチュラみたいな形になった鞠のようなものを手渡す。日給のポケを支払うときも、ワナイダーはいつもこうして蜘蛛の糸で包むのだった。
「……すまん、ちょっとだけ待ってくれないか」
 黒帽をラックに戻し、帰り支度をしているクリムガンにワナイダーは声をかけた。淡々とした口調が少しだけ早口になっていた。
「一個だけ配達するのを忘れてしまった」
 バツが悪そうにワナイダーはため息を吐いた。しかもよりにもよって、こんなものを残してしまうとは。
「すまない。帰るついでに、これを届けにいってくれないか」
 ワナイダーが指差した先にある大きめの荷物を抱えると、ずっしりとした重みがあった。気を抜くと腰をやられてしまいそうだった。
「すぐそこのガブリアスの屋敷だ」
 クリムガンはわかりましたと頷いた。天井からはタマンチュラたちの騒ぎ声が聞こえていた。


✳︎

「おっ、どうした?」
 門の前では今朝と変わらずワルビアルがニコニコしながら鼻歌を歌っている。
「妙にかしこまってんじゃねえか」
「えっと、ガブリアスさんに荷物を持ってきました」
「荷物? へえ……」
 実に興味深いと言いたげにワルビアルは顎下を爪でひとさすりした。
「わーった。通れよ」
 そう言って、鉄製の門の片側を開けた。ギイ、と軋むような音がした。門からはガブリアスの屋敷へと続く整えられた小道が続いていた。
「別に俺が受け取って持ってってもいいっちゃいいんだけどよ。ちょっとでも持ち場を離れるとうるせえからさ……」
 ま、ちょっくら行ってきてみろや。ワルビアルはクリムガンの肩を叩いた。クリムガンは門を抜けると、別に何がいるわけでもないとわかっているのに、恐る恐る辺りを見回しながら先へ進んだ。屋敷の一室からは煌々と灯りが灯っているのが遠くから確かめられた。
「おい!」
 いきなり怒鳴りかかられたので、クリムガンは飛び跳ねそうになった。気持ちを落ち着かせて、声のする方を見ると屈強なオノノクスが屋敷の玄関前に立っていた。糸巻きにされた荷物を両手に抱えたクリムガンを見ると、訝しげに顔をしかめ、口元から生えた斧を威嚇するようにもたげた。
「なんだ、テメエは」
 凄みの効いた視線で睨まれたので、へびにらみされたように身がすくみそうになるのを必死に我慢しながら、クリムガンは用件を伝える。え、えっと……お届けものです。
「ああ?」
 言われていることがよくわからないというように、オノノクスはクリムガンを睨みつけた。鍛え上げられた鈍色の胸筋がピクピクと動いた。胸元には、ギャラドスを象った刺青が刻み込まれていて、胸の動きに合わせて開いた口がもぞもぞと動いて、こちらを挑発しているようだった。
「ガブリアスさんへ、お届け物を、持って、きました」
「けっ」
 オノノクスはクリムガンから荷物をぶん取ると、そこに書かれた宛名をまじまじと確かめた。しばらくすると、荷物を抱えたまま怒らせた肩を揺らしながら屋敷の奥へ行ってしまった。クリムガンはその場に留まったままワタワタしていると、オノノクスが戻ってくる。
「ついてこい」
 オノノクスは冷ややかに言った。
「礼をしてやるとよ、運のいいヤツめ」
 まるでろくでもなく最低だとでも言うかのように告げると、そのまま身を翻してオノノクスは勝手に先へ行ってしまう。しばらくその背中を呆然と眺めていたクリムガンだったが、オノノクスが振り返り大きな舌打ちを打ったと同時に、我に返ってその後を追いかけた。


✳︎

 クリムガンの落ち着きのない足音と、オノノクスの鎧のような鱗が淡々と鳴らす音が不協和音のように廊下に響いていた。廊下の一角には筋骨隆々としたゼクロムを象った大きな彫刻が置いてあって、そのそばを通りがかるとギロリと睨まれているような圧迫感があって、ドキドキとした。
 廊下の先には大きな扉があった。そこで待ってろ。一歩たりとも動くんじゃねえぞ、と乱暴に命令すると、オノノクスは両開きの扉を開いて部屋の中に入っていった。クリムガンは言われた通り、ふぶきで氷漬けにされたようにその場で棒立ちになっていた。やがて、部屋の入り口からオノノクスの牙が覗いた。照明の光に照らされて、牙の端がギラリと輝いた。
「入れ」
 早くしろよ。クリムガンはどぎまぎしながら、恐る恐る部屋に近づく。その様子をオノノクスはイライラしながら睨んでいる。部屋までは数歩くらいの距離しかないはずなのに、とんでもなく長い道に感じられた。
 ガブリアスはカウチソファの真ん中に陣取ってリラックスした姿勢で仰向けになっていた。薄青色のアロハを身にまとい、肌けた衣服から大きく盛り上がった胸と地割れのようになった腹筋をこれでもかと見せつける姿態で、やってきたクリムガンを頭のてっぺんから爪先までねっとりと眺め回した。
「お勤めご苦労さん」
 ガブリアスはニヤリと笑った。クリムガンはぎこちなく笑い返した。
「クリムガンか。どこに住んでんだ?」
 えっと……えっと……クリムガンは家のある街区を伝えた。短い発音なのに舌が全然回らなかった。
「ふうん」
 ガブリアスはそうとだけ言った。
「まあ、ここ座れよ」
 困惑してその場に立ち尽くしていると、オノノクスが脇を小突いてくるので渋々、ガブリアスの隣に空いた隙間に座った。ガブリアスはいきなり太く逞しい腕をクリムガンの首に回して、鼻先から暑い息を吐きかけてきた。
「何が欲しい? 欲しいもんなら何でもやるぜ?……」
 朱色に染まったガッチリとした胸がクリムガンの頬に密着した。ロズレイドイメージの香水のドギツイ香りが鼻にツンときた。
 ガブリアスの反対側には鮮やかな赤色の肌をしたコライドンが腕を頭の後ろに組みながらうたた寝をしている。胸元から大きく迫り出したタイヤのような胸袋がツヤツヤと黒光りしていて、ガブリアスの胸と挟まれる格好になっていた。ワケもわからず、クリムガンはドキドキしていた。
「んだよ、恥ずかしがっちまってよ……」
 クリムガンの目は部屋のあちこちをキョロキョロと移った。テーブルのうえには、何かの肉だとか、スターの実とかサンの実とか本でしか見たことのないきのみが皿の上に山盛りになっていた。カビゴンの腹のように大きなベッドには、フライゴンとチルタリスが互いに尾を絡ませながら、あっけらかんな姿勢のままスヤスヤと寝息を立てていた。モスノウの翅のように白く輝いたシーツはしわくちゃになって、ところどころ裂けてモコモコとした綿が露出していた。壁に貼られたポスターをチラリと見ると、すぐに目を逸らした。
 …………!
 何かが腰かけるクリムガンの下に潜り込んで、しきりにお尻の辺りを揉んでいることに気がつき、クリムガンは目をパチクリとさせた。さっきまで眠っていたコライドンが、妖しい眼差しでこちらを見つめていた。額から生えた飾り羽根を勢いよくそびやかせてニヤニヤとしながら、ゆったりとした手つきでクリムガンの体を触る。ブルブルとした震えが腰から全身へ伝わった。
「お前もコイツのこと気に入ったのかあ?」
 ガブリアスは面白がって言った。身を乗り出す格好をしたので、ゴツゴツとした肉体が余計にクリムガンにひっついた。くっきりと窪んだ鳩尾に滴る水滴がクリムガンの額に移った。生温い感触がしたそれは、ヌメラのよいにクリムガンの頭の上を這うように流れ、やがて鼻腔の回りに引っ付いた。思わずそれを吸ってしまうと、鼻の奥がひどくムズムズしてきた。
「ていうかお前ら、似た色してるじゃねえかよ。もしかして兄弟?」
「ああ、そうだよ」
 コライドンは躊躇うことなく言うと、な? と言いながら目を半開きにして蛇ポケモンのような舌を出した。爪先がクリムガンの尾のさらに奥を弄ろうとしたので、クリムガンは思わず腰を上げたのを、コライドンはキツく尾を掴んで引き止めた。クリムガンは気まずそうにその場で直立し、どうにも動くことができなくなった。ガブリアスたちは胸とお腹をピクピクと震わせながら笑いこけた。
「いきなりそんなセクハラすっから。硬くなっちまったぜコイツ?」
「いままでで一番オモシレー反応だし、いいじゃねえかよ」
「欲しいなら素直に言えよ? まあ最初は俺の番だがな」
「ホント、テメエは何でもイケるんだな、感心するよ」
「伊達にガブリアスやってねえんだよ、こちとら」
「けど、俺は兄貴の方がずっと好きだけどな」
 オノノクスが媚びるように、牙が当たらないように口先を伸ばしてガブリアスの胸に接吻する。ぢゅっ、と啜るような音が、デデンネの断末魔みたいに聞こえた。クリムガンは何かを言おうとしたが、うまくそれを言うことができなかった。
 ——ドタドタドタ! ドタドタドタ!
 気がつけば、頭の中をグルグルさせながら部屋を飛び出していた。どういう原理で体がこんなにも動いたものか、自分でも理解できなかった。まるで、誰かに操られているみたいだった。
 ガブリアスたちの下卑た高笑いが後ろからずっと聞こえていた。けれど、ブンブンと首を横に振ってそれを振り払うようにしながら、廊下を突っ切り、玄関の扉を抜け、細長い小道を必死になってズタズタと駆け戻っていった。

✳︎

「おう、おつかれさん」
 やっと門を潜り抜けたクリムガンをワルビアルは引き止め、労った。片手に握られた銀色に光るアルミと言われる缶を差し出した。
「まあ、何も言うなって。こんなこともあろうかと思ってな……」
 ワルビアルも同じ銀色の缶を片手に握っていた。いつも腰掛けている鉄骨を長く伸びた口で指し示し、来いよ、と言う。クリムガンも大人しくワルビアルについていき、隣に腰掛ける。
「じゃっ、一杯やっかあ」
 乾杯! と持っている缶をクリムガンのそれと突き合わせると、閑静なガブリアス通りにコツン、と音が響いた。クリムガンは缶とワルビアルを交互に見つめながら、その音が空気を渡って薄らいでいくのに耳を傾けていた。ワルビアルはそんなクリムガンを尻目に缶の中のビールを頭をもたげてぐいと飲む。ゴクゴクと動く喉の音は心臓の鼓動のようだった。
 くううっ! ワルビアルは満足そうに唸った。
「いいからいいから、美味えんだぞ、コレ」
 クリムガンは口を大きく開いて、その中にビールをちょっとだけ流し込んだ。苦く辛い味わいがピリと舌を刺し、喉をじんじんと焼く。全身が少しずつ火照ってきて、もう頭がクラクラしてきた。ワルビアルはもう一本飲み終えたのか、手持ち無沙汰にカラカラと缶を揺らしながら虚空を見つめていた。
「今日もくたびれたなあ」
 ワルビアルは独りごつように言った。自分の言ったことに自分で強く同意するかのように、上半身全体で頷いた。だよな。そうだよな、うん。
「お前もそう思うだろ?」
 クリムガンはハッとして、また少しビールを口の中へ流し込み、舌の上で弾ける炭酸を堪えようとキッと口を閉じていた。この味をなんと例えればいいのかわからなかった。
 ワルビアルはいきなり立ち上がると、手にしていたビールの缶を爪で握りつぶし、大きく振りかぶってそれを思いっきり石畳に投げつけた。カアン! 弾けるような音に、思わずクリムガンは翼をそびやかせた。
「畜生!……ったく」
 ワルビアルはその場で地団駄を踏みながら、宙空をぶちのめそうとするかのように何度も拳を振り回した。空を切る音がビュンビュンとした。太い尻尾が苛立ったように何度もピシャリと地面を打った。
「とっととこんなとこからおさらばしてえよなあ! 俺もデケえ家住んでさ、好きなもん食って好きなことして好きなヤツと交わって、マジで一生楽して暮らしてえよ!」
 その叫びは自分たち以外誰もいなくなった通りの空気を劈いた。クリムガンは胸をドキドキさせながらその言葉が体の内側に突き刺さるままにさせておく。ふう! とため息をついたワルビアルは、肩を落としながらクリムガンの隣に座り直した。
「悪いな」
 肩を落としながら、ワルビアルは謝った。クリムガンはあたふたした。どうすればいいかもわからないでいるうちに、いつも自分がやられているように、ワルビアルの肩を組んでギュッと頬を寄せていた。
「へへっ、ありがとなっ」
 照れくさそうにワルビアルは言い、クリムガンの頸に腕を回す。互いに肩を組み合う姿勢になって、何となく気恥ずかしげに二匹はぎこちなく笑う。
「一日中ここに突っ立って、二本買うのがやっとなんだ」
 空いた方の手でビールの缶を揺らしながら、ワルビアルは言った。
「……せめてもっといいトコで働きてえなあ」
 クリムガンは頷く代わりに残っていたビールを一気に口へ流し込んだ。ホエルオーが辺り一帯の小さな水ポケモンたちを一網打尽にするかのように、黄色く泡だった蒸留酒をクリムガンは咽せないよう慎重にゴク、ゴクと飲んだ。ワルビアルはその飲み方を頬杖しながら眺め、力の抜けた息を吐く。
「なあ、お前はさ」
 振り返ろうとしたクリムガンに向かって、飲んだままでいいぜ、とワルビアルは片手を突き出して制止した。まあ別に、大した話でもねえし。
「何のために働いてるんだ?」
 最後の一滴が舌の上に滴り落ちた。クリムガンは酔いが回り始めていて、頭がクラクラしていた。顔も火照ってきたのだが、元々の顔が赤いせいで傍目からは素面に見えた。何のために働いているんだろうな、とワルビアルは自分の言葉を繰り返し、クリムガンの頭の中ではその言葉が山びこのように何度も響いているのだった。
「ともかく、こんなところでせこせこ働くだけで終わりたくねえよなあ」
 お前もそう思うだろ、相棒? ワルビアルの腕がクリムガンの頸を回って肩を優しく掴んだ。二匹は黙り、仄暗くなったガブリアス通りの石畳を見つめていた。

✳︎

 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 すっかり日の暮れた通りに沿って街灯の光が点々と灯っていた。仕事を終えたポケモンたちがそそくさと帰路を急いでいた。みんな影みたいだった。クリムガンもそうした影の中に一つだと思って、夜の街を駆ける。石畳に音が鳴る。
 行きつけの古本屋はまだ開いていた。そっと店の中を覗き込むと、奥のカウンターに店主のアバゴーラが今朝と変わらぬ仏頂面で佇んでいる。手元に置かれた本は朝に見たのとは違っている。クリムガンはドキドキしながら、別に万引きをするわけでもないのに、抜き足差し足で店に入った。
 やけた紙のにおいがふんわりと鼻先に漂ってくる。おやつに惹き寄せられたワンパチのようにクリムガンは鼻腔を微かにヒクヒクとさせた。土の臭いよりも、花の香りよりも、古本屋でしか味わうことのできないこのにおいが、クリムガンは大好きだった。
 天井近くまである高い本棚と本棚の間を慎重な足取りで進む。見上げれば、棚にはたくさんの本が詰まっていた。分厚い本に薄い本、真新しい本に古びた本、背表紙に書かれたさまざまな言葉に目移りしそうだった。……楽しそうな本、難しそうな本の内容を想像するだけでも楽しかった。
 狭いお店の中には何匹かのポケモンがいた。クリムガンが入った通路では、セグレイブが立ち読みをしていた。カーキ色のハンチング帽を頭に載せ、棚から取った本のページを鬼のような形相で睨みつけている。クリムガンは後ろを通り抜けたいと思うけれども、セグレイブの背中から生えた巨剣が邪魔をする。声をかけようにも、氷に覆われた顔の表情は文字通り冷ややかで、寒さが苦手なクリムガンはそれだけで体が動かなくなってしまいそうだ。
「ああ」
 クリムガンに気がついたセグレイブはあたふたとして、申し訳なさそうに俯いた。
「すまない」
 身を少し捩らせて辛うじて隙間を作ってくれた。クリムガンは頭を下げて礼を言い、サッとそこを潜り抜けた。
 目当ての棚へやってくると、クリムガンはその本がまだあるかどうかを探した。あった。良かった。背伸びをして、最上段にあったその本を取り出す。『星の王子さま』。
 3000ポケする本だった。クリムガンは背表紙をめくって、何度も本の値段を確かめた。まるで同じ動作を何100回と繰り返せばそこに書かれた数字が変わっているとでもいうかのように。もちろん、その本が3000ポケであることには何の変わりもないのだった。
 バッグから小袋を取り出して、中のポケを数える。今日貰ったお給料でようやっと3000ポケになる。けれど、これを払ってしまったら、しばらくは安いオボンの実で糊口を凌がなくてはいけないだろう。それにしたって、満月の頃に払わないといけない部屋の賃貸を払えるかどうかはわからなかった。クリムガンは本の装丁を見つめながら、グルグルと結論の出ない考えを巡らせた。
 いつもだったら考えに考えあぐねて、結局表に出た安い本だけを買って帰っていくのが決まりだったが、さっきワルビアルと飲んだビールのおかげで気分がぽうっとしていた。なんだか、うまくやれそうな気がしてきた。
 カウンターに本を持っていくと、同じタイミングでやはりカウンターに近づいてくる者があった。お互いに顔を見合わせる。今しがた道を空けてくれたセグレイブだった。二匹は目を合わせ、互いに恥じらうような困惑するような表情を見せたが、クリムガンがさりげなくお先にどうぞ、と合図をする。
「す、すまない」
 と、焦りを取り繕うような口調でセグレイブは言うのだった。
 アバゴーラは険しげに目を細めながら、セグレイブから渡された本の見返しを一冊ずつ確かめた。鰭で背表紙を持ち上げてひっくり返し、そこに鉛筆で記された値段をそろばんで弾く。本の背表紙には『純粋……判』『資……論』『ユリ……ズ』と掠れた文字で書かれていた。
 アバゴーラが値段を告げた。セグレイブはその通りのポケを支払った。
「このところ、ポケモンが本を読むなんてめっきり無くなっちまった」
 本を薄茶けた紙に包みながらアバゴーラは独り言のように言った。
「あのガブリアスみたいなヤツばかりだ、どうなっちまうのかね、この世界は」
 そのガブリアスのところへさっき行ってきたんです、とここで言い出すほどの勇気はクリムガンにはなかった。セグレイブは、ははは、と苦笑する。
「あんたと……そこにいるクリムガンくらいのもんだな。あとは大半が冷やかし……俺としちゃ、いまのご時世お布施をしてくれるだけありがたいがな」
 ブロック状に包装された古本を受けると、それを大事そうに小脇に抱えた。
「人世時代の文化や言語を研究しているんです」
 自分の言葉に自信がないかのように、セグレイブは頭を掻いた。
「その、かつてポケモンと共に存在した人間というものが、どんなことを考えていたのかを知りたいと思っています」
「結構なこった」
 アバゴーラは気障に笑った。だからまた来ます、と会釈をしてセグレイブが振り返ると、勢いよく回転した背中の巨剣がクリムガンの顔面を打った。
「す、すまない!」
 セグレイブは狼狽して、ぺこぺこと何度も頭を下げた。大丈夫です、とクリムガンもぺこぺこと頭を下げる。頭はダイヤモンドよりも硬いって言われてますから……。
「本当はこの背中の剣だって取ってしまいたいと思ってるんだ。私にとっては無用の長物だしね……」
 じゃあごきげんよう、とハンチング帽を軽く掲げてお辞儀をし、セグレイブはお店を出て行った。
「1000ポケにまけといてやる」
 本を受け取りしな、アバゴーラは言った。クリムガンは目を丸くした。
「あんた、いつもうちに来るたびこの本を眺めてたろ。今日でちょうど100回目だ。これでも細かいことを覚えるのは得意でな。そんだけ物欲しげに見るもんだから、その本もあんたに付いていきたがるようになっちまったんだ」
 細けえことは気にすんな。1000ポケでいい。アバゴーラがそう言うので、クリムガンは1000ポケだけ払って、その本を買う。


✳︎

 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 買った本を胸に抱きしめながら、クリムガンは帰路を急ぐのだった。石畳に淡々と足音が響く。切れかかった街灯の明かりが神経質に小刻みな点滅を繰り返し、クリムガンの影を細切れにする。すっかりポケモンたちが引き払った暗い大通りでは、楽しげに歌を口ずさむゲンガーとしかすれ違わなかった。ゲンガーはまるで舞台の上にでもいるかのように意気軒昂としていた。

 ソルガレオが死んで
 ルナアーラが目覚める
 そうすりゃ夜は俺たちのもの
 俺たちの天下だ
 生者どもが夢みる夢は
 俺たちにとっちゃ全部ご馳走
 クレセリアの甘〜い夢も美味しいが
 ダークライの悪夢だってちょっと苦いがクセになる
 夜は俺たちのもの
 俺たちの天下なんだ……

 街灯の下にはジュプトルとニャローテの二匹組がたむろしていた。ニャローテはその場にしゃがみこんで退屈そうな面持ちで、胸元についた桃色の蕾を所在なげにいじくっている。ポールに背をもたれたジュプトルは少しだけ首をもたげ、どこか自信に満ちた様子で通りを眺めていた。
 二匹の目線がそばを通りがかったクリムガンに注がれる。目を合わせていなくても、こそばゆい感覚が頬の辺りにじわじわと立ち起こってくる。耐えきれずにチラリと目をやると、ジュプトルが口元をニッコリとさせながら、何かを待っているようにソワソワと体を揺り動かしていた。ニャローテは相変わらず無関心そうな表情でコチラを見ている。
 クリムガンは正面に向き直して、そのまま先を急いだ。ドタドタドタ。ドタドタドタ。頬へのくすぐったい感触は俄かに消えた。距離を取ってから向き直すと、彼らはもうクリムガンへの関心を失っていた。通りすがったオンバーンに向かって、彼らはしきりに声をかけている。


✳︎

 ——ドタドタドタ。ドタドタドタ。
 やっと部屋に帰ってくる。クリムガンはショルダーバッグをラックにかけると、ベッドに腰掛けて買ってきた本のページをめくった。


  ぼくが6つのとき、よんだ本にすばらしい絵があった。
  『ぜんぶほんとのはなし』という名まえの、しぜんのままの森について書かれた本で、
  そこに、ボアという大きなヘビがケモノをまるのみしようとするところがえがかれていたんだ。
  だいたいこういう絵だった。……


 それは王子と呼ばれる男の子のお話だった。小さな星に住んでいた王子くんは、ある時自分の星を飛び出して、宇宙にあるあちこちの星を巡り、そこでヘンテコな大人たちとであっていた。全ての星を治めていると言い張る王様や、ひたすら星を所有するためにその数を5億以上も計算し続けている人……


  おとなのひとって、やっぱりただのへんてこりんだ、とだけ、その子は心のなかでおもいつつ、たびはつづく。


 ちょうどページの半分あたりまで読んだところだったけれど、続きは明日のために取っておくことにした。クリムガンは本を愛おしそうに抱きしめてから、お守りのように枕の下に置いた。
「今日もよく働いたなあ」
 目覚まし時計をセットしながらクリムガンは話した。
「えっと……今日もワナイダーさんが作った荷物をたくさんアリ塚に住んでるポケモンたちのもとへ運んで……そしたらガブリアスの大きなお家にも行くことになって、そこではガブリアスのほかにいろんなドラゴンたちがなんだか楽しそうにしていてさ……帰り際門番のワルビアルにビールって飲み物をもらったんだ。辛くて、苦くて、変な味だったけれど、不味いってワケじゃ全然なくて、なんだか不思議な気分になったんだよ……ワルビアルのヤツがちょっと落ち込んだから励ましてやったんだ……なんだか意外だった」
 クリムガンはしばらく口ごもった。ええと、ええと。
「色んなことがあったけど、本も買えて、いい一日だったよ」
 そうクリムガンは目覚まし時計に言い、少し考えてからまた言葉を付け加えた。
「……いろんなポケモンがいるんだ。そして何だかみんなへんてこりんなんだな」
 おやすみなさい、とクリムガンは言うとそのままベッドに横むきに体を沈めてスヤスヤと眠りに落ちた。
「……」
 目覚まし時計は黙り続けていた。



後書き

走れモトトカゲ以降、急にリアルの仕事が忙しくなったうえに、なんか調子が狂ったかな……というくらい筆が鈍って悲鳴を上げてましたが新作です。たぶん不条理にお尻を掘られたモトトカゲくんの呪いなんだと思います。そのうちお祓いにでも行こうかと思っています。誰かいい神社教えてほしい。

タイトル通り、クリムガンくんが働くお話です。ただ書き終わったあとで全体を見通してみると、働くことを通じてクリムガンくんに見えたこの世界の景色、とでも言うべきものかもしれません。実際、これまでよりも想像しなければいけない部分が多くて、そういう書き方をこれまでしてこなかったのだな、と書いてる時何度も愕然としました。
改めて、想像力、空想力、妄想力の重要性を痛感させられます。例えばミドリさんの遅感性未来予知交感性比翼連理みたいに、この光景、世界が作者には「見えている」のでは? と思わせる説得性。

実を言うと今作にはタネ本があります。山川直人『働く人間』というマンガがそれです。
たまたま、某所で手に取ってパラパラとめくっていたら、つげ義春リスペクトな展開のみならず、キャラクターとかコマ割りに独自の詩情やペーソスが漂っていて良かったのです。
『働く人間』という話は、人間の労働はすべて動物たちが肩代わりし、人間たちは夜な夜な豪奢と快楽に明け暮れている……そん世界観で、動物たちに混じって働く貧しい人間の一日を描いたものなのですが、この人間役をクリムガンにやらせたら可愛いのでは? と思ったのが出発点。(とか言いながら執筆は大苦戦するわけですが……)(ついでに言えば、作品の雰囲気に添いたかったので、露骨な描写は控えました。ちょっと困るとつい性に頼りがちになるのはよくない)

5000字くらいでサクッとと思っていたんですけど、書いてるうちにここはちゃんと考えて、想像して書かないといけないな、ということが多々あり文量は少しずつ膨れていきました。まあ、この設定って筋通るかなあ、って頭が「?」になってる箇所も少なからずあったんですが、ふと思いつきでワナイダーのことを書いていたら、なんかコイツもかわいく思えてきたのは不思議な収穫です。

どうってことでもないんですが、本作には同時公開したキモチいいかんぜんちょうあくならびに僕ら、砂の箱庭でに登場したポケモンたちがまた別の形で登場したりしています。意識したわけではないですが、同じポケモンが違う役柄を演じている……と想像してみるのも、なんだか悪くないなと、これはただの個人的な感想です。
さて、3つ違う時期に書いたクリムガンものを並べて、自分としては思うところがいっぱいでてくるのですが(執筆のペースとかね……)、良かったら読み比べでもしてくれれば書き手としては嬉しいです。以上。


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Last-modified: 2023-07-25 (火) 01:07:46
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