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ぬくめどり

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※本作は、♂同士の同性愛表現を含みます。お楽しみください。



 今はバシャーモであるぼくがまだアチャモだった時から、ジュナイパーのおっちゃんはジュナイパーだった。フェルムバトルっていう、普通の戦いとは少し違うやり方の対戦方法で、おっちゃんはだいたいいつも相手のポケモンをやっつけていた。でも無敗というほどでもない。おっちゃんのスタイルは主に「待ち」だったから、対戦相手のポケモンが間違いのない丁寧な戦術で迫ってくると、おっちゃんはそのまま押し切られて負けてしまうんだ。でも、勝つ時のおっちゃんの立ち振る舞いときたら、それはもう見事だった。
 だから、今のおっちゃんの毎日の稽古は、おっちゃんの寂しさの輪郭みたいだった。おっちゃんはそれを毎日、繰り返している。
 ばす、と矢羽が木に命中。格闘の中に織り交ぜられる射撃の技。
 矢羽を放つ。おっちゃんが。
 おっちゃんの毎日の稽古は、おっちゃんの寂しさの輪郭みたいだ。
 それって、上手いこと言おうとした感じか?
 おっちゃんが言った。
 ぼくは慌てて、意味なんかないよ、って言う。
 なぜって、すべてがさ、そうじゃん。
 そうだな、とおっちゃんは頷いて、ばす、ばす、と矢を放つ。それからおっちゃんはジャンプして、一瞬のうちに大量の矢をまた撃った。そのどれもがあまりにも同じ場所に命中するものだから、なんだかおっちゃんが矢の飛んでゆく先に誘われているみたいだ。
 あ、浮いた、とぼくは思う。
 完全な停滞があった。おっちゃんは空を飛びながらでだって見事な射撃を可能としているのだ。
 別に、なんだっていいんだよ。おっちゃんにとって、フェルムバトルがなんであったって。今はおっちゃんは一匹(ひとり)で、フェルムバトルなんて誰もやらなくなったから、それが今は寂しさで、でも意味なんてないよね。ないけど、ただぼくは、おっちゃんのきれいな茶色の翼から照射されるそれがおっちゃんの一部みたいで、おっちゃんが矢を放つ時にそれはおっちゃんの延長にあって、おっちゃんがスタジアムに立つ時にそこで起こることのすべてがおっちゃんの表現下として現れてるって思う――
 なぜって、おっちゃんはフェルムバトルがとてもとても上手だったから。


 スピーディーに攻守が移り変わり、あらゆる距離で技が飛び交って、そのどれもが力強いのがフェルムバトルだった。だから、はじめはちゃんとわからなかった。でもちゃんとわかるようになったんだよ。おっちゃんが、空中から距離を詰めて相手をキャッチし、宙返りしながら後ろに投げ飛ばして、矢羽で撃ち抜く……その相手が地面に落下する前にまた掴んで投げ、今度は格闘技で地面に叩きつける……その一連の動作をとる時の、おっちゃんのかっこよさが。
 ずっと宙に浮かんだまま相手をやっつけるおっちゃんへの歓声の中に、ぼくもいた。あのころ、フェルムバトルは街のあちこちでやっていて(流行ってたんだ、昔は)、ぼくはおっちゃんの試合を観たいがために必死だった。いつどこで誰の試合が行われるかのスケジュールなんて、野生のアチャモに知るすべはなかったから、だったらもうとにかく街じゅうを走り回ってフェルムバトルをチェックするしかなかったし、そうやっておっちゃんの戦う姿をたくさん見た。すべての試合とはいえないまでも、街の広場や草原での対戦は野生のぼくでも観られるチャンスだったから、絶対に逃したくないと思ったな。
「ぼく、おっちゃんの矢になりたいな。だって愛されてるじゃん。いっぱい触ってもらえるしさ。いつもそばに持っていて、こんなふうに信頼されてさあ。なんだかニコイチって感じだろ? おっちゃんの矢はおっちゃんの完全な制御下にあるんだよ。おっちゃんが撃ちたいところにそれが飛んで、それが当たる時にいつもおっちゃんがいる。ぼく、おっちゃんのアンダー・コントロールになりたいよ。それに、それにさ……フェルムバトルをやってる時のおっちゃんはすっごくかっこいいんだ。矢を撃つ時、攻撃を避ける時、ぼくといる時、いつもおっちゃんがかっこよく見えるとかだったら、それはさ、すごくいいなって思って。バトルに勝った時、おっちゃんはすごくはしゃぐだろ。ぼく見てたんだから。嬉しくってガッツポーズするんだけど、それがすぐに恥ずかしくなって、照れながら小さいガッツポーズをこっそりやり直すんだよね。ぼくが何をしてあげてもあんなにおっちゃんは喜んでくれないのに。ぼくもおっちゃんのために戦えるよ。そうしたらおっちゃんは喜んでくれる? ぼくに触れること、ぼくと一緒にいること、ぼくの達成が、すべておっちゃんの喜びで、ぼくはおっちゃんに放たれるために生きている……とかだったら、もうさ、ぼく、おっちゃんの矢になりたいんだよ」
「え、アホかおまえ?」
 

 ぼくとおっちゃんが初めて出会ったのは、冬の夜のことだった。といっても、ぼくはもうおっちゃんのバトルを街で何度も見ていたから、ぼくの側ではこのジュナイパーはぼくが大ファンのあのジュナイパーだと一方的に認識していて、初めてだと思っていたのはおっちゃんだけなんだけど。
 後ろから、がし、と頭と背中を掴まれたと思ったら、ぼくの体は宙に浮いて、街を離れて森の方へと運ばれた。
 ぼくは、怖かった。もちろん野生のアチャモが一匹で歩いていれば、同じ野生のポケモンから見て格好の餌食だし、この土地にはぼくが恐怖する野生のポケモンがありふれていて、たとえばこの場所で暮らしてゆくのなら、きっとそれらに打ち勝てるよう強くならなければいけないんだと思いながらも、戦うことがあまり好きじゃないぼくは、もうずいぶん長いことアチャモをやっていた。だからこういうことも起こりうるんだって理解しながらも、人間の街は野生にとって何もかもが目新しくって、暗くなる前に巣に戻るのを忘れてしまったのだ。怖いものは、やっぱり怖かった。その時、ぼくは恐怖にいちばん近い方へ向かって運ばれているのだと思って、震えた。
 だけど、森の木の太い枝に降り立つと、おっちゃんはぼくに言った。
「わりーな。このところ、夜は冷えるからよ。ひと晩だけ我慢してくれや」
 これ以上ぼくを怖がらせないようにと、一生懸命に気さくな感じだった。おっちゃんはぼくを足の間に挟んだまま、枝の上でうずくまる。
「足が冷たくって、かなわねえんよ。羽が生えてないところはさ」
 もちろん最初は怖かったし、びっくりもしたんだけど、首を捻って相手を見上げてみたら、もっとびっくりした。おっちゃんのことがすぐにわかったから。ぼくがいつも、その姿を見るために街じゅうを走り回っている、()()ジュナイパーじゃないか!
 おっちゃんはため息をついた。
「やっぱりほのおタイプはあったけえなあ」
 そう言って心地よさげに目を閉じて俯くおっちゃんの顔は、ぼくにはもう恐怖でもびっくりでもなくて、ただただ安心感に関する何かだった。


 いや、安心感じゃねえから!
 ゴーストタイプ(タイプ、というものでポケモンは分類されるらしい)的には、存在に驚かれることが重要であるらしくて、安心を覚えられるのは尊厳を傷つけられるようだ。それで、昔話から、おっちゃんの驚かし講釈が始まってしまう。
 今のぼくたちが住んでいる家は、日がな傾いている。
 家自体は不明な工法によって川の真ん中に建っている二階建ての小屋で、どう見ても打ち捨てられていたので勝手に住んでいる。そしてやはり不明な理由によって小屋は傾いており、それはちょうどお昼過ぎの太陽に頭のてっぺんを向けるような感じ。だから、部屋に通じる廊下もやはり傾いていて、その傾きに沿ってくだって歩くと、きゅう、と軋む音が大きくなる。この家はあらゆる箇所が軋んでばかりで、それはもちろんこの家自体がなんらかの奇跡によってぎりぎりのところで命を繋いでいるからに他ならないからだと知っているものの、そこらじゅうの扉や床はもちろん外壁まで鳴っているのを聞くと、なんだか軋みというのはこの家の悲鳴みたいだとかなんとか、すっかり滅入ってしまう。
 そしておっちゃんは言うのだ。
「つまりな、軋みっていうのは、驚かし的観点からいえば、当然ありきたりな手法のひとつなわけだ。効果としては驚かすことよりも最終的なインパクトのポイントを高めるための仕掛けだよな。まあ初歩だよ。だから、軋みはむしろ悲鳴そのものよりは、悲鳴に向かわせる運動の一種だよな。びっくりした時、わあ、って悲鳴をあげるだろ。でもオレがおまえに向かって、わあ、って言う、その『わあ』は悲鳴じゃないだろ?」
 たしかにそれは安心感に関する何かだった。
 だから、安心感じゃねーっつの!
 おっちゃんの物知りは役に立つね、とぼくが言ったら、ゆらゆらと笑う顔。おっちゃんには、何かあらゆる恐怖を中和する特別な力がある。
 本当はぼくの炎の方がずっと生活の役に立つんだけど、思っただけで言わない。


 そういう訳で、ぼくはとにかく寒がりのおっちゃんに何かしてあげたくって、鉤爪の冷たいところに身を擦り寄せた。おっちゃんは明らかにこれから寝ようとしていて、でもぼくの方はおっちゃんの足の間で自分も眠れるなんて気が少しもしなかったから、ひたすらにおっちゃんのことを考えていた。おっちゃんの見事な翼や羽毛のふさふさとした柔らかさのことももちろんそうだけど、たとえば、おっちゃんが今、なぜこんなところにいるのか、とか。フェルムバトルは人間とポケモンが一緒になってやるものだから、おっちゃんにも人間の相棒だかなんだかがいるはずで、だったら自分の家で寝ればいいはずだった。というかそもそも、夜行性であるはずのジュナイパーが夜に寝ようとしている時点で、やっぱりおっちゃんの観点では人間の暮らしがタイムゾーンであって、外での生活がまるで染みついていないのだった。なのにどうして野生のアチャモを捕まえて、わざわざ寒い冬の夜に木の上でなんて寝ようとするのかという、おっちゃんの思考の経路についてを、考えた。
 それでやっぱり、おっちゃんはふだん人間の家で暮らしているはずだからか、においがあまりなかった。土や泥のにおい。血や体液のにおい。野生であれば持っているはずの体臭がないのだ。おおむね清潔な体。人間と暮らすポケモンはみんなそうなのかもしれない。そして様々な汚れに包まれていないぶん、おっちゃん本来のにおいだけが鮮烈なのだった。
 なにって、それはおっちゃんの総排泄腔(だいじなところ)。ぼくはいつの間にかこんなところに来てしまって、眠るあなたと一夜を過ごすなんてことができるとは思ってもみなかったのに、今ぼくのそばにあなたが在るっていうそれだけのことが、もう夢中なんだ。そして総排泄腔からぷんと匂う最も生物的なオスのフェロモン、そのにおいが、もはやボディーイメージを失い形のない影になっておっちゃんの鉤爪を暖めるぼくの頭の中を走りこみ、それを別の形に繋ぎ直す。ぼくは驚いた。
 ぼくは、ぼくたちが生きているんだってことにびっくりしてしまう。
 なぜって、あなたがぼくをここまで連れてきたんだから。
 ねえ、あなたのジュナイパー然としたその美しい翼!
「ドコ嗅いでんだよ、エロガキめ」
 片方の目だけを薄っすらと開いて、おっちゃんは穏やかに言った。実際のところ、ぼくは進化もしていないアチャモだけど、それほど幼い訳でもない。だから、尊敬の対象であるあなたのこんな場所に押しこめられて、その体とにおいに包まれていたら、むらむらときたりもする。
「オレのココが気になるか?」
 おっちゃんが囁いた。ぼくはさっきまでの安心感も忘れて、失礼をはたらいたことと、おっちゃんの眠りを妨げたことの後ろめたさで、何も言えなかった。
「でも、おまえとヤりまくるには、若すぎるな。もうちょっとデカくなったら遊んでやる……」
 ふあ、とあくびの気配。その後はもう、とても静かな呼吸の音。ぼくは縮こまっていた。おっちゃんの鉤爪を暖める熱源を大人しく演じた。だけど駄目だとも言われなかったので、おっちゃんのエッチなにおいをたくさん嗅いだ。それでその夜、ぼくは決意したのだ。強くなろうと。ぼくは進化して、大きな体を持つのだと。それでおっちゃんに愛してもらえるのなら。


 完璧な静動。
 おっちゃんにあってぼくにないもの。無軌道な性格のぼくには決して手が届かなくて、理解できないもの。
 だから、おっちゃんのバトルを見るのが好きなのかな。
 だからぼくはいいけど、別にどうでもいいけど、でも今もこうしておっちゃんが孤独にバトルの訓練をするのは、なんだかちょっとかわいそうな感じだ。だって、もう誰もフェルムバトルなんかやらないもんね。
 このフェルム地方に特有のフェルムバトルが注目されはじめたころは、場所さえあればみんなやっていた。ずいぶん熱中していたみたいだった。チームをつくってトーナメント、みたいな大きな試合も当時はあった。
 最後の二週間くらい前に、おっちゃんは試合で脚を怪我していた。だから、世界じゅうからプレイヤーを集めたとても大きな、最後の大会で、おっちゃんは戦えなかった。そして大会が終わり、おっちゃんの怪我が治った時にはもう、フェルムバトルの光景は街じゅうから消えてしまっていた。
 人間は、そもそもが飽きっぽい連中なのだ。フェルムバトルは、この世界に現れると同時にものすごい速度で広がり、それと同じくらいの速度で忘れられてしまった。おっちゃんの主人(トレーナーというらしい)も、フェルムバトルのことなんて忘れてしまったみたいに、街での仕事で忙しくしているらしい。
 おっちゃんは今もやっている。いくら練習して上手くなったとしても、もうあんまり意味がないのにね。まあ、ぼくのことじゃないから、どうでもいいけど。
 ねえおっちゃんぼくは最低かな、って訊かない代わりに言う。
「ねえ、もうみんなフェルムバトルとかやめてるよ」
「あー。なんか、そう……みたいだな」
 おっちゃんはわざとらしく顔をしかめてみせて、それから笑って木を見つめて、矢を放った。おっちゃんの見つめる先には標的があった。首元から下がる弦に矢羽をつがえ、引いて放つ。おっちゃんの矢はいつもどおりに真っ直ぐな軌道で、おっちゃんの狙いどおりに命中する。おっちゃんは翼の薙ぎ払いや蹴りを繰り出したり、防御や回避の構えを取ったり、いろんなシミュレーションの動きの最後に、瞬時に弓の構えで静止する。冷たい風が吹いている。矢が放たれる。命中する。
 そんなことばかり、いつまでも続けていた。
 おっちゃんはいつもどおりの調子だ。いつもどおりで百発百中。だから矢羽が何十本も木の幹のただ一点に突き刺さっていて、既に刺さっていた矢が新しい矢で弾き飛んで散らばっていたりもした。おっちゃんは、いくら撃っても疲れることなんかないように見えた。だから撃ち続けていた。曇り空の下で、そろそろ昼になる頃にぼくがおっちゃんのところに走っていって、おしまい、ごはんにしようよと言うまで、ずっと。
 するとおっちゃんは溶けてしまうみたいに、急に疲労をあらわにした。その場にへたりこんで、眠るように前かがみになった。
 ぼくは隣に座ってた。
「すごいね」と、ぼくは言った。
「だろ?」と、おっちゃんはぼくを横目で確認した。
「違うよ。おっちゃんの、バトルに対する情熱が。でもさあ……でもやっぱりさ、残念だよね」
「なにがだ?」
「せっかくなのにって。みんなもうやってないから、今さら練習したって、試合とかできないよね、って」
 おっちゃんが主人の元を離れたのはそのせいだって思う。みんながフェルムバトルをやらなくなったから。もちろんぼくの勝手な想像だ。
「それは別にいいんだよ」
「そう?」
 なんで? ぼくがそう訊くと、おっちゃんはぼくを見つめた。
 針山になった木。曇り空。おっちゃんの表情。
 子供みたいに、それが崩れた。
「オレはな、空を飛びたいんだよ」
 おっちゃん、空ならいつでも飛べるじゃん、って、ぼく言わなかった。そんなの、わざわざ言うにはちょっとしょうもなすぎる。


 ぼくの強さは、おっちゃんのフェルムバトルの強さとはまったく違う。普通に戦えば、ぼくたちはどうしたって「タイプ相性」という属性に阻まれる。
 たとえば、ぼくはほのおタイプだから、森にいる大概のポケモンに対して有利だった。おっちゃんに稽古をつけてもらって、少し技の訓練をして、あとは相手さえ選べばそれだけで面白いように戦いに勝つことができた。森のきのみで食いつなぐのでなく、積極的に狩りをするようになった。ぼくはぼくが生きてゆくだけでなく、おっちゃんの分まで獲物を捕らえなければならないから、より多く、より大きな獲物を仕留める必要があった。そうしていたら、進化するのはあっという間だった。
 狩りの途中でぼくがワカシャモに進化して、おっちゃんが待つ家に戻った時、おっちゃんは嬉しそうに言った。もう今までみたいには寝られねえな、って。でもぼくはどうでもよかった。小さなアチャモの体ではなきなかったことができる。たとえば、この両腕でおっちゃんを抱きしめて眠ったりとか。これからのぼくは、おっちゃんの鉤爪どころか全身を暖めてあげられる。そうしたら、あなたはこれまで以上にぼくを愛してくれるだろうか?
 おっちゃんはいくつかの技の練習を教えることはできても、命の奪い合い、本当の闘争についてはぜんぜん埒外だから、それからの訓練はぜんぶ自力でやるしかなかった。獲物の見つけ方。身の隠し方。呼吸の溶かし方。それらの技法は、フェルムバトルとはまったく違う次元にあった。そしてそもそも、タイプ相性によって、ぼくはおっちゃんと対等には決して戦えない。タイプ相性を無視する独自のフェルムバトルは、人間が一緒でなくては行えない。
 だから、どれだけ強くなったとしても、ぼくたちがぼくたちであり続ける以上、おっちゃんに空を飛ばせてあげるなんて、ぼくには絶対にできない。


 でも、おっちゃん、空ならいつでも飛べるじゃんって、今も、ぼく言わなかった。
 今日は曇り空。飛ぶのに最適な日っていう訳じゃない。最悪の日でもないけど。あした晴れたらいいよね。雨だったらいやだけど。それにおっちゃんが単純な意味で空を飛びたいって言ってる訳じゃないというのはなんとなくわかる。文脈、文脈、ちょっとうざいからいつもぼくは言わない。そうやって押し黙ってしまうので、本当のことは何もわからないままだ。
 やらねえか、おまえも……
 フェルムバトル? 訊き返すと、おっちゃんは頷いた。
「だめだよ。人間がいないとできない」
「なんでだ?」
「フィールドが用意できないじゃん、壁とかさ……あとタイプ相性も」
「じゃあ弱点の技は使わずに」
「それ、ほとんどの技が使えなくなるんだけど」
「じゃあ、だめだな」
 おっちゃんは笑った。
 それから、そこに立ってろよと言った。
 おっちゃんが少し離れて、ぼくに向かって矢を構える。ぼくが避けるってわかってるから、おっちゃんも手加減なしに命中させるつもりで撃ってくる。飛んでくる矢羽を、ぼくは当然避ける。ぼくの速さは、いつの間にかおっちゃんよりずいぶん先を行くようになっていた。そういう意味で、ぼくの強さとおっちゃんの強さはまったく違うのだ。
 ぼく、ぼくさ、フェルムバトルはやんないよ、って文句を言いながら避け続けた。お返しの炎を適当な感じで放つと、おっちゃんはふうわりと空に逃げ、空に静止したまま、言葉と一緒にまた撃ってくる。
「なあ、おまえ」
「なに?」
「おまえ、死にたいと思ったこと、あるか?」
「は? ないよ」
 ひゅっ、と胸に飛んでくる矢を掴んで止める。
「じゃあ、新しい技を覚えたいと思ったことは?」
「ときどきね」
「ポケモンコンテストに出たいって思ったことは?」
「ない!」
「空を飛びたいと思ったことは?」
「ない」
「誰かと交尾したいと思ったことはあるか?」
「おっちゃんとなら、いつでも!」
「フェルムバトルをやりたいと思ったことは?」
「流行ってたころはね」
「じゃあ、人間の店から物を盗んで逃げたことってあるか?」
「昔はね、たまに」
「ははっ、悪いやつ。じゃあ朝起きたら腕が痺れてて死体みたいになることは?」
「ないね」
「静かな湖畔のそばに小さな丸太の家を建てて暮らしたいと思ったことは?」
「今も似たようなものじゃん」
「どうかな。そうだ、今はフェルムバトルやりたくなってきたか?」
「ぜんぜん!」
 びいん、と弦が弾かれて、ひゅっ、と矢が飛んでくる。
 ぼくは避けた。ばすっ、と矢が地面に刺さる。
 びいん、ひゅっ。
 ばすっ。
 びいん、ひゅっ、ひゅっ、ひゅっ。
 ばすっ、ばすっ、ばすっ。
「じゃあどうしておまえはこうしてオレの練習に付き合ってくれるんだ?」
「好きなんだ。おっちゃんがフェルムバトルやってるのを見るのさ」
「それ、オレのファンってことかあ?」
「そうだよ。ぼく、アチャモだった時からおっちゃんのファンだよ。この世界で最後のさ」
「サインとかいるか?」
「いらないし、どこに書くの」
「尻とかにでっかくサインしてやろうか」
「嫌だよ。もうどこにも行けなくなっちゃう」
「行けばいいじゃねえか、どこでも」
「サインなら、森の木とかに刻んでおいてよ。そしたら狩りの時に毎日見るから」
「なんだそれ、気持ちわるっ」
「うるさいな、なんでもいいだろ」
 それを言うなら、おっちゃんの方こそ少しは狩りの仕方を覚えてほしい。ぼくだけで二匹分の食い扶持を狩るのは……まあ正直ぜんぜん楽勝なんだけど、フェアじゃないじゃんって思う。でもぼくは一度もそれをおっちゃんに言ったことがない。ぼくは最低だから、狩りの仕方もわからない、人間の世界以外で生きてゆくことなんか絶対にできない、か弱いおっちゃんが好きだ。血や泥のにおいなんかとはまったく別個のところにいるおっちゃんが好きだ。
 なんだってしてあげたいよ。狩りなんていくらでもするよ。空でもなんでも飛ばせてあげたいと思う。フェルムバトルで舞うように戦っている時、おっちゃんは空を飛んでいたんだ、とぼくは思う。
 

 朝、どこかから短絡した焦げくさいにおいで目が覚めた。家の中にもうもうと煙が立ちこめている。
「あ、おはよ。うん、これのことだよな。これはな……へへ、ほら昨日、メブキジカを焼いて食っただろ? 今朝は干した残りをあったかくしようと思ってバーナーで焼いてたんだけど、失敗しちまった! 朝メシ、なくなっちまった……ごめん!」
「まあ、別にいいけど……」
 目覚ましの水浴びついでに、バスラオを捕まえた。ぼくたちの傾いた家は川の中に建っていて、一階が少し沈んでいるせいで、冬はかなり寒いが水にはまったく困らない。おまけにこうしてよく水棲のポケモンが入りこんでくる。ぼくの得意技は炎だから、仕留めた獲物はだいたい焼けていてこんがりと香ばしい。
 二階では、おっちゃんがばさばさ羽ばたいて部屋から煙を追い出していた。それを横目に採れたての新鮮なバスラオをがつがつ食べていたら、おっちゃんがじっとぼく見る。
「なあ、ちょっとちょうだい」
「えー」
「腹減ったんだよ」
「それは元はといえばおっちゃんのせいなんだよ。反省してる?」
「してるよ! ほらごめんねのポーズ! とにかくそれ、食わして」
 ぼくがいないと一日だって飢えずにいられないおっちゃんを放ってはおけなくて、結局かじりかけのバスラオを差し出した。
「いただきまーす! へへ、うんまい」
 そうやって、顔を寄せ合って一匹のバスラオをかじりあった。おっちゃんのくちばしはぼくより小さくて、ひと口が少ないぶん何度もかじりつくから、深い緑の色をしたくちばしが脂でてろりと光っていた。それがなんともおいしそうに見えたから、バスラオを平らげてすぐ、ぼくはおっちゃんのくちばしにかぶりついた。
「んあっ、ん、ん、ちょっ、いきなり……」
「反省してるなら、今日はぼくの言うとおりにしてくれるよね?」
「い、いいけど……別におまえ、今日じゃなくたっていつでもヤりたがってるだろ」
「でもおっちゃんは変態すぎる。エッチが長すぎだよ。それはもう、マジで反省してよね」
「どの口が……」
 口答えはキッスをするとすぐに止む。ぼくたちにとってくちばしはとびきりの性感帯で、そこを擦り寄せあって舌を擦りあわせているだけでもとても気持ちよくなってしまう。ぼくはアチャモの頃から漠然と交尾への憧れはあったけど、そのやり方なんてちっとも知らなかったから、こういうこともぜんぶおっちゃんに教えられた。
 おっちゃんと初めてエッチができたのは、ぼくがバシャーモに進化したすぐ後だった。ピジョンやポッポの群れに突っこんで思うままに暴れ散らし、後から飛んで駆けつけてきた大きなピジョットに苦戦しながら、なんとか仕留めた時、ぼくはバシャーモに進化したのだ。ついにこの時がきた、と思った。仕留めた獲物を担ぎながら家に帰るのは一瞬だった。ワカシャモの比ではないスピードで、いくらでも走ることができた。進化したぼくを見て、おっちゃんは目を輝かせた。でっかくなっちまってと、ぼくの胸に翼を這わせた。その時点で、いつも見上げていたおっちゃんの顔が、ぼくの目線より下にあった。その時、不意にこれまでその複雑さによって高度に足らしめられ、ある意味で神秘めいてさえいた何かが、ばらばらに分解されて単なる要素の集合にしか見えなくなったのだ。ぼくはその場でおっちゃんを押し倒した。
 おっちゃんへの気持ちをめちゃくちゃに込めて抱きしめながら、交尾のやり方を教わった。つまり、どこをどうすればいいんだってことを。でも、ぼくにもおちんちんがあればもっとよかったって思う。ぼくらの生殖器は総排泄腔、穴と穴では本当に最低限の精液のやりとりしかできない。本当の本当にひとつに繋がることがぼくらにはできない。
 最初のうちはそれでもよかった。おっちゃんの舌に、ぼくの穴が射精するまでずっと舐められる、それだってじゅうぶんな喜びだった。同じことをぼくがおっちゃんにしてあげて、いかせるのもぼくは楽しかった。でもそれだけでは物足りないのはおっちゃんの方だ。というより、おっちゃんは最初からその次のステップのことを考えていたと思う。
 したがって、ぼくたちのエッチというのは主に双頭ディルドだった。おっちゃんは自分の家を出てくる時にいろんな物をリュックサックに詰めて持ってきていた。双頭ディルドもその荷物の中にあったのだ。なんでそんなものを持ってきたのか、どうやってそんなものを手に入れたのか、あまりにも不明だけど、ぼくは知らない。理由なんかどうだっていい。おっちゃんがぼくとそうしたいと思うならそれでいいのだ。
「あっ、あっ、あっ! ああぁあっ!」
 でこぼことしたピンク色の棒で互いの穴を連結させる。尾羽を高く上げ、四つん這いになって、お尻をパンパンぶっつけあう。ぎゅうっと締まる総排泄腔の中を、互いに引っ張りあい、押しこみあい、ずるずると性感帯を擦りあげる。
 ぼくたちのオーガズムは、深い。射精に至るだけなら十秒とかからないけれど、本当の本気でエッチする時、快感そのものを目的とするならば、ぼくらの絶頂はそう簡単には終わらない。濡れほぐし、敏感になった総排泄腔をディルドでこじ開けてほじり倒すと、もう気持ちいいこと以外がなんだかよくわからなくなってしまって、一回や二回の射精で終われる気がちっともしないのだ。空間識失調症(バーディゴ)――空を飛ぶ者に特有の前後不覚感。その中で、ディルドの快感とおっちゃんの喘ぎ声だけがひどく具体的だ。そうしたらもう、いつまででもおっちゃんをいかせ続けて、そのよがり声を出させてやるという気持ちがいくらでも湧いてくる。犯しながら犯される。責めながらもダメージを与えられる。ぼくたちのエッチはそんなふうなのだ。
「いっ、くう……! またいぐぅ! すげえの、くる――ッ!!」
 もうどちらのなんだかよくわからない体液でびちゃびちゃに汚れている尻を、止めようもなく打ちつける。総排泄腔なんてただでさえ早漏だから、いきながら責められなんかしたら何度だって絶頂できる。いくらなんでもおかしいと思う。物を入れるようにはできていない場所のくせして、おかしな棒でほじるとこれほど気持ちよくなれるなんて、そんなふうにできているぼくらの体はどうかしているとしか思えない。そんなんじゃあぼくたちがぼくたちの体を貪りあうのに夢中になったって、当然じゃないか? 射精する時の、ごく僅かな瞬時の快感。そこに至るまでのじわじわと昇り詰めてゆく心地よさが、そのまま何倍にも増して、ずっと、ずうううっと続いてゆく感じ。これと同じものをおっちゃんもいま味わっているんだって、そう思うともう、自分だって何度達しているかわからないほどの快感の中で、おっちゃんをいかせ続けるのを止めようがない。
 ばちゅっ、ばちゅっ、ばちゅんっ!
「ひっ、ぎ――ッ! いぐうぅぅう!! い゛っでるううぅぅ!!」
 知るもんか、そんなの。今からいくとか、今いっている最中とか、そんなこと聞いてない。
 おっちゃんが気持ちいいなら、いつまでもこうしてあげる。いっぱい、愛してるんだから。
「ふあっ、あ゛ッ! あ゛ッんっ! んんっ、んんん゛~~!」
 真ん中でぐんにゃりとまがるディルドを軸に、向かいあっておっちゃんを抱きしめる。脚を開ききってディルドをお互いの中で行き来させながらキッスすると、おっちゃんは簡単に気持ちよくなってしまうのだ。
 だからこんなふうにしていると、本当におちんちんがあればよかったと思う。ちゃんとちんぽ突っこんでおっちゃんに中出ししてあげたい。別に逆でもいいし。ぼくたちはオス同士なのに、メスとメスのエッチしかできないんだって、その落胆と安心が、いつの時もある。
 キッスしながらおっちゃんを揺さぶってよがらせていると、くちばしから漏れる喘ぎはひんひんとすすり泣くように変わった。フェルムバトルであんなに強くてきれいなおっちゃんが、エッチの最中では弱虫な子どもみたいに泣いてしまうことが、ときどき許せなくなりそうになる。ぼくは、そんな顔してほしくないのに、いつも泣かせるのはぼくのせいだった。
「や、めて……も、あたま、へんたいに、なる」
 それでも、ぼくはおっちゃんとエッチをする。
 変態になったって、別に死ぬわけじゃないじゃん。
 ぼくはおっちゃんのきれいなところが好きなんだから、本当はみんなよりずっとずっと変態だとしても嫌いになんかならないよ。
 そのことはおっちゃんもちゃんとよくわかっているだろうから、ぼくらはいつもその後の用意なんかしないでエッチする。それにしてもぼくには想像できないな。おっちゃんのことを好きでない自分のことなんて。おっちゃんは、ぼくのことを好きなんだろうか。好き、だと思う。そうでなければこんな交尾なんかさせてくれないだろう。やり方だっておっちゃんが教えてくれたんだから。
 そんな、自分を告発する考えから逃れたい。ぼくは本当におっちゃんのすべてがほしい。
 でも手に入ってしまったら、ぼくはおっちゃんに飽きるかもしれないな……誰だって、誰かの物だからほしいと思うのだ。もういくつも持っているくせに、新しい物集めに必死で奔走しなければならない……そうしてフェルムバトルは捨てられたんだから、かえってよかったのだ。少なくとも得られなければこの世界で永遠におっちゃんに恋していられることだろう。
「ああ゛ッ! ふか、いぃい!」
 おっちゃんを仰向けに転がして、尻の上にのしかかる。
「ねえおっちゃん、過酷すぎるよ。頭の中でいつも、強欲がうるさいんだ」
「おれっ、おれは……おまえと……おまえの――!」
「よかった。でもぜんぜんだよ。ごめんね。ぼくの、おっちゃんのためにすることって、いつも間違えてるよね」
 ぼくたちには、無理だよね。
 ぼくたち、ここでこんなふうに生きてゆけるって思ってたけど、多分そうもいかないんだと思う。
 ぼくたちが生き続けるためには奇跡が必要だった。いつ崩壊するともしれない傾いた家。おっちゃんが家から持ち出してきた主人の財布の中身。どれくらい続くのかも知れないぼくのおっちゃんへの愛情。
 ぼくたちはここで、少しずつ失われている。
(でも、それはもうすでにうざいくらい話しあったことだし、これからもいくらでも話すことになるんだから、今はそんな話はやめようね)
「いく、いく!」
「待ってよおっちゃん、いっしょにいこう」
「むりっ、もうくるっ! い゛ッ……く――ッ!!」
「好きだよ、おっちゃん、大好き」
 とろとろにとろけたおっちゃんの発情顔。
 どうか、そんなものばかりがぼくたちのせめてもの気休めになりますように。
 そのことを、ぼくはこの家でずっと祈ってる。


 今夜、星を見にいこう。
 って、おっちゃんが言ったから、家の屋根の上で星を見た。星を見るって言ったらもっとなんていうか星を見るに値する場所にいくとかじゃないんだって言ったら、じゃあ星を見るのに値する場所ってどこなんだよ、っておっちゃんが言う。目下のところそういう場所はちょっと思いつかない。だから屋根の上に座って星を見ていた。そもそもエッチの後で疲れてるし、遠いところまでなんてたいして行きたくもなかった。
 キャロル、とおっちゃんが言う。
「人工衛星だぜ。小さなロケット。子どものころの友だちだった」
 友だち? ロケットっていえば人間が造る機械だ。
「喋るんだよ。丸いやつで、真ん中にランプがついてる。赤とか黄色とかに光って、その点滅の具合で気持ちがわかる」
「ふうん。それで、そいつは今はどこにいるの?」
「決まってるだろ」
 宇宙。
 もちろん、本当に空を飛ぶことのできるようなロケットなんかじゃない。おっちゃんの主人が子どもの時に作ったお手製の小さなロケットだ。宙に浮くような機能なんか具えていないし、大気圏を超えるような強度だってない。投げたらそれで壊れてしまうようなロケットだった。
 だから、おっちゃんは自分の中にそのロケットを飛ばすことにした。内宇宙ってやつ? むか~しむかしに生まれた、()()()()についての物語。つまりはまあ頭の中の空想の宇宙というところだろう。幼い、空っぽの子どもの頭の中は宇宙にちょうどよかった。ぼくたちが思うほど宇宙には何もないらしいけど、在る時はぼくたちの想像を超えるような突拍子もないものがあったりもするのだ。
 宇宙人を探しにいったんだと思う、とおっちゃんは言った。
「おっちゃん、そういうのに興味あったんだ」
「子どものころだよ。モクローだった時。でも家でテレビを観るのが好きだったから、テレビに出てくる怪獣みたいな、不思議なものを見つけてみたかったんだよ」
「かわいいね」
「思考停止みたいなこと言うな。子どものころのオレについてもっと深く味わってくれ」
「ぼく、物事にそういう楽しみ方しないんだ。かっこいいとか、楽しいとか、悲しいとかだけ」
「浅いなあ」
「でも溺れずに済むよ」
「は? え、それってどういう意味?」
「いや、とくに深い意味はないんだけど……考えすぎて行き詰まっちゃうこともないから、悪いことばかりじゃない、みたいなそういう」
「そういう、なんだよ?」
「やつ……」
「なんだそれ。浅いなあ」
 でも、きっと見つからなかったんだな、とおっちゃんは言う。
 宇宙人。それどころか、不思議なものはおっちゃんの中にはきっと何も見つからなかった。怪獣なんて、そもそもポケモン自体が怪獣みたいなものじゃないか。そんな時に光って飛ばすビームは永遠におっちゃんのもとに届かなかった。まあ、しかたないことだなっておっちゃんは言う。そもそもワープ航法でおっちゃんの中を飛んでいったロケットから飛んでくるビームは、こちら側に届くまでとても時間がかかる。気の遠くなる時間が。
 ワープ航法。ぼくの知らないそれを、おっちゃんはこんなふうに説明した。ここに一枚の紙とそこに置かれた二つの点があるとして、それを最短で結びには点と点の間に直線を引けばいい。少なくとも二次元下においてはそうである。次元をひとつ上げれば、もっと簡単に点と点を結ぶことができる。つまり、紙を折るのだ。紙を折って点と点を重ねれば、点はあまりに単純に最も近い距離で結ばれる。三次元に対しての四次元も似たようなこと。だからおっちゃんは、自分自身を四次元的で形で折り畳んだ。その中にある宇宙を広げるために。
 そろそろ開いてもいい頃合いだと思うんだよ、とおっちゃんは言った。内宇宙のことも、その頃合いのこともぼくにはわからない。だから、ただ、頷いた。頷いてしまったので、おっちゃんは言う。
「開いてくれよ」
「おっちゃんを?」
「もちろん」
「どうやって?」
「簡単だろ。折りたたんだ紙を開くのとおんなじだよ」
「いや、わかんない」
「まあやってみろって」
 いつもそうだけど、おっちゃんが言うならそれはそうだということでぼくにはどうしようもないので、ぼくはおっちゃんのいろんな部分に触れて折り目を探した。折り目を見つけることができればきっと開けるだろうと思ったのだ。
 ぼくはおっちゃんに触れた。ひとつなぎのおっちゃんの体を、部位によって分割し、ひとつずつ触れてそうではないことを確かめて、また次に触れた。
「ぐふふ、くすぐってえ。おい、おまえ、くすぐったいったら」
「おっちゃんがやれって言ったんじゃん!」
「あはは、ばか、ばか、何もそんなとこ触んなくても、あはははっ」
「なんか楽しくなってきた……」
「ヘンタイ!」
 でも、やがてそれを見つけた。
 折り目を見つけてしまえば開くのは簡単だった。
「お、雪だ」
 小さな雪の塊が現れた。触ると冷たい。あまりに小さいから触るとその部分からすぐに溶けて失くなってしまう。
「そうだ、思い出した。ロケットを打ち上げたのは冬の日だった。雪がたくさん降ってたんだ」
 折るということは、外側にあるものが内側に折り畳まれるということだ。だから、古い雪がおっちゃんの中に残っていたということなんだろう。星空のもとに突然現れた白い雪はなんだかちょっと傾いたぼくらの家の隅に残る埃みたいだった。おっちゃんを完全に開いても、ロケットは出てこないのだ。きっとどこかで事故があって燃え尽きたりしたのかもな、とおっちゃんは推理を披露した。あるいは、本当に宇宙人でも見つけて彼らの技術によって遠い場所にワープしちまったのかもな。
 こうして開かれたおっちゃんは、これまでのおっちゃんと見た目には何も変わらない。
「おっちゃん、どんな気分?」
「なんか、すっげえ退屈だな。今まではオレの中にいろんなものがある気がしたんだよ。そりゃそうだよな。折ってあったから、構造としてはずっと複雑だったんだよ。でも今は……」
「今は?」
「なんか、すっげえ単純になっちまった気分」
「ふうん」
 悔いがないように生きようって思うんだよ、とおっちゃんは言った。それはとてもよいことだ。
「オレがこれをせずに死んだらきっと後悔するもの、ベストスリー!」
「いきなりだね」
「三位! おまえに好きって言うこと。なあ、オレ、おまえのこと好きだぜ」
「へへ、うん。知ってるよ」
「二位! 三段重ねのアイス」
「単純!」
「を、ぜんぶ同じ味で食うこと」
「意味、ある? ていうかぼく、アイス以下なんだ」
「一位! 星を見にいくこと。今度はちゃんと星を見るに値する場所でな」
 だから星を見にいこう、とおっちゃんはまた言った。近くに山があるから、そこならきっと星がよく見えるからって。
 じゃあせっかくだからお菓子とか持ってこうよ、とぼくが言うと、浅いなあっておっちゃんは笑った。


「たぶん唯一、技術的関心によってのみ、この家は建っているんだよ」
「どういうこと?」
「こんなところに家を建てることができるのか、そんなことが今の自分たちにできるのか、ひとつやってみようと人間の誰かが挑発的に言い、それでやった。そして、建ったんだ。それはひとつの技術的達成だけど、でも、それだけだった。それを継続できるだけの技術的リソースはなかったんだね」
 家の四方を取り囲む川を流れていたカメールが、そんなふうに話した。
「今日この家を見られてラッキーだった。じきに壊れるよ。こんな家、明日には崩れ落ちてるかもしれない」
「そうだね」
 奇跡によって成り立っている捨てられたこの家も、激しい雨が降れば、やがて川が氾濫してこの家も推し潰れてしまうだろう。
 そんなことより、カメールたちだ。
 おい、あれ見ろよとおっちゃんが目をやる川上に、ゼニガメやカメールの群れが流れていたのだ。
 もちろん、みんな日がな流されている。仰向けになって昼下がりの光を浴びながら心地よさそうに流れていたり、つがいらしき二匹がお互いを触れ回りながら泳いでいたり、時にはなにやら遠いところで考えごとをしたまま流されていることもある。
 でも、そこにいたカメールたちはあまりにも数が多かった。ぼくたちはベランダへそれを見にいったのだ。
 カメールたちは、ざっと三十以上もいた。それが横に並び縦に並び乱雑な形でまとまり、みな一様に仰向けになって流れている。泳ぐのとは違って、川の速度そのままだった。そんなにたくさんのカメールが一度に流れているところを見たのは、はじめてだったから驚いた。なんだかちょっと異様な光景だった。
 だからその流れがぼくたちの家の前までやってきた時、その先頭あたりの一匹をつかまえて話を聞こうかどうかと思っていたら、おっちゃんの方が先に声をかけた。
「なあ、なにしてんだ?」
 近くまでやってきてはじめてわかったが、流れるカメールの周りには、たくさんの花びらや、あるいは同じ種類のものらしい花束などが一緒になって流れている。声をかけられたカメールが半回転し、白い花びらの絨毯を裂きながら、つい、とこちらへ泳いできた。
「やあやあ」
「うっす」流れるカメールの集団を指して、おっちゃんが言った。「あれはなんだ?」
「ああ、あれはね、葬式なんだ」
 そうしき? ぼくとおっちゃんは顔を見合わせた。
「だれかが死んだ時、僕たちはその亡骸をああやって流すんだよ。人間なら土に埋めるんだよね」
 魂が戻ってきて復活を遂げるため、埋めて残しておくらしい。もっとも、おっちゃんもよく知らないそうだけど。
「僕たちは魂とかいうのを信じてはいないからね。信じてるのは、仕組みだよ。正しく動く仕組みが僕たちの神様だ。死んだものは、つまり体の仕組みが機能していないってことでしょ。そこには何もないんだよ。空っぽだ。とっておいてもしょうがないだろう。だから流すのさ」
「あのカメールたち、みんな死んじゃったの……」
「ううん。一匹だけ。ああすることで、誰が死んだのかわからなくするんだよ。特に群れの強いリーダーが死んだ時にはね。他のポケモンたちに狙われやすくなるから」
「うん」
「でも、死んだポケモンは空っぽだけど、残されたものには、その影がはっきりと染みついてる。それが、みんなを笑わせたり、悲しくさせたり時々は仕組みをおかしくするのさ。だから一緒に流れることには意味がある。死んだ者を弔うことを、僕たちは『影を流す』って言う」
 それはなにか、ぼくには理解できない、ぐにゃぐにゃの発音の言葉だった。
 おっちゃんが訊いた。「じゃあ、あれは仲良しだった仲間なんだな?」
「うん。家族や友だち、みんなで流れるんだよ」
 花びらや花束が、一匹のカメールを中心に添えられているようだから、たぶんあの真ん中あたりにいるのが、今まさに葬られている者なんだろう。ここから見ると、そのカメールはまるでまだ生きているみたいだった。それとも、周りのみんながもう死んでいるように見えるのかも知れない。死んだものは単なる残骸になってしまうという考えの割に、ずいぶん大層な葬儀じゃないだろうか。そう簡単に割り切れるものでもないんだろうな、きっと。あるいはどこかの地点で他の種族との文化的接触が起こったのかもしれない。
 よくよく観察していると、周囲のカメールたちは、時折、もぞもぞと動いているようだった。特に身体の小さい子どものゼニガメたちは、その動きが大きく、ばしゃばしゃと波を立てたり回転する者までいる。
「あれ、子どもたちだよね」
「うん。まだこういう場に慣れていないんだよ。中には、泳ぎが上達してきた子は嬉しくって、どんどん泳いでいってしまうのもいるね」
 おっちゃんが目を細めて眺めていた。そして、どの種族でも、子どもは似たようなもんだな、って。
「でも、いい経験だよ。死んでみるっていうのはね。はじめは我慢できないし退屈かもしれないけど、でも幼い頃に一度は体験してみるべきだ」
「かもしれないね」と、ぼくは言った。
 笑って、そのままカメールは水の中に消えた。流れてみんなのところに混ざり、そして仰向けに浮かび上がり、その後はただ死んでしまった。
 おっちゃんは、とうに家の向こう側へ過ぎ去ったカメールたちに手を振っている。死者に手を振るのもどうなんだろう。
「カメールとかカメックスとかって、やっぱりなんか変だよなあ。オレ、好きだな」
「うん。ぼくも好き」


 ぼくたちは流されている。
 見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流される。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され、辿り着いたと思ったらひと息つく間もなく別の流れに浚われる。それを運命とか呼ぶ巨大な手のせいにしたってぜんぜんいいんだけど、そうしたところで別に心が救われる訳ではない。ぼくは救いについて、それが導くところについて、これといって考えを持たない。
 人間たちは、いったい教会でどんな話をするんだろう。どんな物語を聞くんだろう。
 そもそも人間たちの信仰はそこまで即物的じゃない、とおっちゃんは言った。なぜって、毎日が幸せな人々の宗教ではなく、むしろ不幸のどん底にある人々の宗教だからだ。自分自身の利益のために祈る。そのために献金だってする。だけど自分の願いが聞き届けられはしなくとも、それによって「神がいない」と考えることはなく、「もっと祈れば、もっと献金すれば、きっと願いが叶う」とも考えない。人間が祈ろうが祈るまいが、献金しようがしまいが、願いが叶う時は叶うし、叶わない時は叶わない。
 自分には報いがない、神は自分を忘れてしまっている――そうした人々に向けて、「あなた方は決して神に忘れられてはいない」と福音を説くのが教会なのだそうだ。
 結局、それが最先端ってことだよね。
「ぼくたちは流されています。見えない力によって押し流され、また見えない力から逃れようとして流されます。知らずしてあっちへ流されこっちへ流され、辿り着いたと思ったらひと息つく間もなく別のの流れに浚われるのです。でも、だからといって未来を恐れることも現状を憂いることも過去を悲しむ必要も何ひとつつないんですよ。それは大いなる力があなたを運んだ結果なのです。あなたは選ばれてそこにいるんです――」
 やっぱりそんなのぜんぜん慰めにはならない。
 だったら今のところ、ぼくたちは流されてなんかいない。
 ちょうど外に出たタイミングということもあり、ぼくらはそのまま川で洗濯をしている。洗濯といっても毎日着る服があるでもなし、おっちゃんが寝るのに使うシュラフやタオルケット、掃除に使ったりしたタオルくらいのもの。洗濯機(ってなに?)はないから、手で水洗いする。
 じゃぶじゃぶとおっちゃんが不器用な翼で水を浚う音を聴いていると、気づけば夕暮れだった。
 おっちゃんの主人は、夕暮れどきに洗濯物をすることについて否定的だったらしい。夕暮れに服を洗い始めれば夜に干すことになる、というのがその理由だった。多くの人間は、夜に干した衣類を見事に選び当て、どちらかといえば不快だと感じるらしいけど、それってほんとかな、とおっちゃんは言う。そしておっちゃんの主人もそのひとりだったと。おっちゃんの主人は夜のベランダに衣類が吊られることを決して許さなかった。あいつ、太陽光線が生活の中で衣類に取り憑いた邪気かなんかを浄化でもするって信じてたんじゃないか、とおっちゃんが言うので、そのおかげでおっちゃんは守られていたんだ、とぼくは言った。人間は、微生物の焼き払われたふかふかのタオルで風呂上がりの体を包み、ありとあらゆる悪しきものから守られたパジャマと毛布で安心して眠る。当然、ぼくたちは守られていない。嬉しいことに、それでもまだぼくたちにとって眠りは安らぎに通ずる何かだった。
 夕陽はまんまるだった。丸くて赤くて、半分だったのだ。夕陽を見ると、太陽が燃えているんだってことを思い出す。おっちゃんから聞いたその話を、ぼくはいつも忘れている。一日の中で太陽が炎の塊でいられる時間はとても短い。あとは調光――巨大な手がつまみのざらざらの切れ込みに触れて回す、明るさに関する一単位だった。
 濡れて冷たくなった手で、後ろから近づいておっちゃんの頬に触れると、う、ああ、と静かにつぶやいたきりで、おっちゃんは夕陽に染まって赤い川の流れをじっと見つめていた。
 なあ、としばらくあとで言う。
「なに?」
「オレらは、一緒に流れてくれる仲間はいないよな」
「そうかもね」
「それって、寂しいよな」
「まあ、そう……」
「オレが死んだら、おまえは一緒に流れてくれるか」
 おっちゃんがそんなことを言う理由がわからない。
 おっちゃんには、選ぶ権利がある。
 もう一度、今度は両手で、その顔に触れる。
「うわ、つめてえ」
「あたりまえだよ。逆にね、ぼくが死ぬとわかったら、ぜったいぜったい、死ぬ前にぼくのいちばん大切な、いちばんのおっちゃんを箱に閉じこめて一緒に流すんだから、覚悟しておいて」
 洗い終えたタオルケットを絞って水気を抜くと、ぼたぼたっ、とたくさんの水滴が垂れ落ちる。
「思ったんだけどよ、オレたちに子どもとかいればよかったよな」
「子ども?」
「そう。交尾しまくって、タマゴとか産んで、育ててさ。それなら死んだ時も一緒に流れてくれると思うし、オレたちが死んでも残るだろ。それに、かわいかったよな、あのゼニガメの子ども。かわいくなかったか?」
「まあ、そう……どうかな」
 そんな勝手な理由で残されてしまった子どもはたまったものじゃないだろうなあ、とぼくは思う。物干し竿にかけたタオルケットの向こうに街が見える。フェルム旧市街。広告塔のヴィジョンにはうがい薬のコマーシャル。お願いします、どうか進歩を、感じてください。
 まあ、そう。
「なあ」
 ごめんな、って。
 そうやっておっちゃんが言うのが、ぼくは聞こえなかった。
 それが、わかんないこと。泣きそうになってひとりぼっちで、そこで、ここで、あたりそこらじゅうあちこちで泣いている、そんなみんなを救ってあげたいって思ってもそんなことはできる訳もないし、電線とかってぼくも好きだよ。それが、街にはあってここにはないことがとても残念で、それだけでもうホームシックになっちゃったみたいな感じで。てめえで選んだのにそんなふうに感傷したら、ガードレールに繋がれて主人を待ってるパルスワンとか、フレンドリィショップの前の濡れた傘立てとか、お年寄りとジュンサーが言い争う錆びついた青いベンチとか、そういうすべてのものを包括するひとつなぎの表面の汚れとかが愛おしくてたまらなくなって、そう感じたいがためにおっちゃんはこうして今失ってるんじゃないかと思うほど、なんだかばからしくて笑いがでる。それらが、みんな木みたいになってこの場所で自生したらいいのになあ。それらを、絵みたいに切り取って街が立ち現れては消えてゆく、なにか巨大な手のようなものが街のミニチュアを積んでは取り払ってゆく児戯のように、高層ビルやショッピングモールや家々や、家々の間に奇妙に収まった三角形のアパートメントや学校やグラウンドや、子どもたちや大人たち、人間たちやポケモンたち、満員電車や歩道橋や横断歩道、その表面の造形が……
 なぜって、愛しいものはたぶん、みんな巨大な手によって創られるんだ。
 あなたの、すべすべした傷ひとつない綺麗な翼、あんまりに無意味だから時々うんざりしてしまう。
(ねえ、嘘だよ。びっくりした?)
 もう、いっぱい愛してる。
 だから、そんなふうに泣かないで。
 泣かないで、泣かないで、泣かないで、ねえ……
 おっちゃん、泣かないでよ。
 ぼくたちは知らない。憂鬱や、悲しさや、寂しさ――ぼくたちを狂気に連れてゆく何者かのことを。そういったものすべてを捨てるために、逃げてきてしまったから、睡眠薬も抗鬱剤のことも知らないままぼくたちは、しかたなく今日も生活している。
(ねえ、いつまでもこんなベランダになんかいないで、たまにはあったかい飲み物でも買いにいこうよ。とびきり甘いやつを。コンビニエンスなストアにね。まだそれくらいのお金はあるんでしょ……ほら、たまには歩くのも悪くないって。そんなうんざりしたふりしなくたって、どうせすぐみんなだめになるんだから、だるいとかそんなさ……ね、おっちゃん。アイディアひとつ、教えてあげるよ。ぼくも今日から亡霊になる。話の続きなら、歩きながら聞かせてあげるから、ほら、歩いて……)
「ね、おっちゃん」
「なんだよ?」
「また稽古つけてよ、久しぶりに」
「稽古って。おまえもうオレよりぜんぜん強いだろ」
「じゃなくて、フェルムバトルの。また流行るよ。フェルムバトル、絶対にさ」
 おっちゃんはそれには答えず、急に羽ばたいて街に向かって飛んでゆく。ぼくも地面を蹴って追いかける。
 おっちゃん、やっぱり空なら飛べるじゃんって、今度も、ぼく言わなかった。
 ぼくたちは、別の世界に逃げてしまいたいとずっと思っていたのに、夜になる度にここじゃないどこかなら暮らしていけるなんて計画の話ばかりしていたのに、結局いつも最後には話し疲れてそのまま眠ってしまうんだ。
 もう、いいよね?
 つまりね、ぼくたちはこの場所で、奇跡みたいに一緒に暮らしていたんだよ。
 そのことはそれだけでこのまま永遠に生きてゆけるような驚きだったから、永遠に生きてゆこうって思ったけど、それはやっぱり嘘だと思うから、近いうちにぼくたちは死ぬと思う。
 だから、もしも死んだら、川に流れたその先で辿り着いた世界で、そこで、こんな呼吸の音、こんな声を出して暮らすんだよ。
「空を、飛んで、いる、みたいだ!」
 それってさ。
 いったい、どんな類の祈りなんだっけ?









 
    おまけ




 雪が降っていた。
 くらいの感覚センスの雨だった。最初は。
 買い物をして、コンビニを出たらぱらぱら降っていたのだ。軽い雪だったからどうということもないと思ったし、多少濡れてもぼくの炎で乾かせるから、気にせず帰っていたら、突如として痛いくらいの勢いの大雨になった。あっという間に、そこらじゅうのすべてが水の溜まり、あるいは海だった。
 だから、そのコインランドリーは、海の上にぽつんと浮かんでいたのだ。
 白い光が、冬の黒い小さな海に瞬いていた。
 実際、そこはちょっとした窪地になっているんだろうか、コインランドリーは周囲を大きい水たまりに囲まれていて少し遠い場所から見ると、水の上に建っているように見える。明かりによって水面に同じ形の建物が浮かび、雨の粒が落ちて、ゆらゆらと……少し歪む。
 あそこで雨宿りしようと、ぼくたちは海の中に、浅瀬をかきわけて進んでいった。
「はああ、さみーさみー。中の毛までぐっちゃり……」
「だね。ごめん、ぼくがコンビニなんて誘ったから、降られちゃって」
「いいよ、そんなのは」
 コインランドリーの中は外よりも幾分か暖かかった。おっちゃんは心底疲れたというふうに長椅子にどすんと腰かける。ぼくは手首から炎を出して、自分とおっちゃんとを暖めた。
 夜の街にあって、コインランドリーはとても明るくそれなりに広かった。洗濯機と呼ばれる、その名の通り衣服を洗う四角い機械が横に三台、乾燥機と呼ばれる似たような形の機械がやっぱり横に三台、入って正面に並んでいて、今はそのうち乾燥機のひとつががらがらと音を立てて稼働している。入り口側は全面がガラス張りになっていて、外からでも中の様子が覗けるようになっていた。
 その間には木製の長椅子がふたつ。そのうちのひとつのいちばん端っこには、このあたりでは見慣れないポケモンが座っていた。ゴツゴツした頭が真っ赤で、つるりとした体は青い、派手な見た目だ。ぼくたちよりも背は低そうだけど、決して小さくはない図体で、ごうごうごう、と天変地異でも起こったかのような大きな音を立てて、回る洗濯機を、見守っている。
 ぼくはコインランドリーに飛びこんだ時には、そのポケモンのようすを少しの間観察していたけど、すぐに前を向き直して、そのあとはずっとガラス面に打ちつける風雨を見つめている。
 雨が止むまで、待つしかやることがない。その退屈に耐えかねてか、おっちゃんは赤と青のポケモンに寄っていって、何やら話しかけていた。
「よう、こんちは」と、おっちゃんが言った。
「こんばんは」と、意外にも軽やかに、そのポケモンはジグザグの口を開いた。
「こんなところで何をしてるんだ?」
「コインランドリーにいるヤツっていうのは洗濯をするヤツだと思う」
「まあ、な。でも珍しいだろ。ポケモンだけで、こんなに夜遅くに洗濯なんてさ。見たところドラゴンタイプだな? やっぱり夜行性なのか、ドラゴンって」
「朝は起きて夜は寝るのがいい、ってタブンネが言うから、いつもはそうする確率が高い。でも寝たい時に寝ることもある。それにおれは洗濯してないよ」
「ん? さっき洗濯してるって言わなかったか?」
「それは一般論だ」
「ふむ。じゃあここで何してるんだ?」
「洗濯物を見張ってる。下着泥棒が出るっていうから」
「へえ、偉いな。それって自警団みたいなやつか?」
「おれは自警団とかはやらない。そういうのは合理的じゃない」
「合理的? 自警団を、合理的とか合理的じゃないとか考えたことはなかったな」
「考えた方がいいと思う」
「そうか?」
「合理的な判断は身を助けるんだ」
「むむ……ドラゴンタイプってのはみんな偉そうなヤツらだと思ってたが、立派だな……」
「ドラゴンタイプだからとか、そういうのは差別だろう」
「差別は合理的だろ?」
「そうだな」
「ずいぶんしっかりしてるな。野生じゃないのか?」
「野生でも、1009回も一人称をやっていたら慣れてしまうんだよ」
「一人称? それって、数えるようなもんなのか?」
「おれは数えない。タブンネが勝手に数えてたんだ」
「タブンネって誰だよ?」
「タブンネはタブンネだ」
「それはそうだな」
 おっちゃんは、そのドラゴンの隣に腰かけた。ドラゴンはおっちゃんの方をちらりと見る。
「タブンネとかワルビルっていうのは、友だちか?」
「そうだ。ポケモンセンターにいる」
「うーん、聞いたことあるな。イッシュ地方だっけか。なあ、おまえ知ってるか? タブンネ」
「え、ううん」
 おっちゃんが急にぼくに話しかけてくる。タブンネというのはフェルム地方では見かけないポケモンだと思うし、ポケモンセンターのことなんて余計に知らない。
「んー、なんだっけな……ジョーイと一緒に仕事をしてるんだったか?」
「そうだ」と、ドラゴンの方が頷く。
「で、そのタブンネはどこに行ったんだ?」
「タブンネはここにはいないよ。今ごろそれなりに楽しくやってると思う」
「なんだ、ひとりで遊びにいっちゃったのか? 待つのとか苦手だもんな、街にいるポケモンってみんな」
「まあ、そうだな。違うけど」
「残されちまって、かわいそうにな」
「ぜんぜんかわいそうじゃない」
「慣れてるってことか?」
「違う。おれの今夜の行為すべてが合理的な契約にもとづくことなんだ」
「ごーりてきなけーやく?」
「そうだ。最初はここにシャンデラがいた。シャンデラのトレーナーもいた。そうしたら、トレーナーの方が、忘れ物がどうとか言って、急いでどこかに行ってしまった」
「ふうん。それで?」
「でも、トレーナーがここに家の鍵を置いていってしまった。それでシャンデラがおれに、お金をあげるから洗濯物を見ててほしいって言って、急いで追いかけていった。だからトレーナーかシャンデラが戻るまで、おれがここで洗濯物を見張ることにしたんだ」
「自警団の結成だな」
「依頼されてるから自警団じゃない」
「じゃあ他警団だ」
「そんな言葉はない。勝手につくるな」
「ええ、あるよな。なあ?」
 またいきなり話を振ってくる。「え、わかんない」
「なんだよ、わかんない訳ないだろ、あるのに。で、それが契約ってことか?」
「そうだ。どのみち雨が止むまでここにいるつもりだったし、おれは金なんていらないけど、でも金があれば何かおいしいものが手に入るっていうことくらいは知ってるから」
「たしかにそれは合理的かも。な?」
「うん」
「でもタブンネはどうして一緒じゃないんだ? ひとりでどっか行っちまうより、一緒に待ってた方が楽しいのに」
「タブンネは……おれとあまりうまくやれなかったんだよ」
「ふうん。まあドラゴンって好き嫌いがいっぱいだもんなあ」
「それはみんながそうだ。でもおれは違う。嫌いなものもあまりないけど、好きもそんなにない」
「アンニュイなんだな」
「それ、使い方あってるか? 適当言わないでくれ」
「あってるよ。なあ?」
「たぶん」
「ほら、こいつもこう言ってるし」
「いや、さっきからなんなんだ、そいつは」
「こいつはバシャーモだ」
「そうじゃない。今おれの中でそいつはほとんどゼロに近いというか、そいつは、こう……『どう?』って言われて、そう、としか言わないだろう」
「こいつ、オレの番なんだよ。めちゃくちゃかわいいんだぜ」
「そういうのって、やばいな」
「やばい?」
「見識が狭いという感じだ」
「でも真実だ。こんど結婚するんだぜ」
「え、知らない」
「知らないって言ってるぞ、そいつ」
「それこそ見識が狭いんだよ。まあ、まだ若いからな。本当のことなんて何もわからないんだよ」
「じゃあ、そいつは、トリのおよめさんだな」
「なんだそれ?」
「いぬのおまわりさんみたいなものだ」
「ああ、なあ」
 そうそうこいつはいぬのおまわりさんなんだよ、いやトリのおよめさんであっていぬのおまわりさんではないよな、確かにこいつは勝手におまわりさんやってるから自警団だな、自警団は合理的じゃない、オレの嫁は合理的じゃないってか? あんたの嫁は合理的じゃないな、なあなあおまえ合理的じゃないってよ――みたいなことをおっちゃんとドラゴンが話しているので、ぼくは、ああ、そうなの……と適当な返事をしてコインランドリーをふらふら歩き回っていた。
 コインランドリーの隅っこには洗濯機械たちとガラス面に挟まれる形でゲームの筐体があった。
 それはランドリー内の強烈な白い明かりの中で、誰か旧い友だちを待つように控えめに光りながら、音を立てずに、画面に文字を浮かび上がらせながらじっと待っていた。ぼくはなんとなく筐体のボタンに触れてみた。画面に未来風の格好をした人間のメスが現れて、こんなことを喋っている。げーむをぷれーするにはこいんをいれてください。でーたかーどをもっているばあいはさきにかーどをそーにゅーしてください。
 おっちゃんはドラゴンに訊いた。「おまえ、こういうのやるか?」
「やらない。つまらないから」
「じゃあ今の子は何して遊ぶんだ?」
「かくれんぼ!」
 ドラゴンは立ち上がって言って、言ってみたらなんだか本当に隠れたくなってうずうずしている感じ。
 おっちゃんが言う。
「じゃあ、タブンネを追いかけろよ。一緒じゃなきゃ、きっとかくれんぼもできないだろ」
「でもおれには仕事があるんだ」
「たしかになあ。あ、じゃあこういうのはどうだ。オレたちがあの洗濯物を見ててやるよ。どうせ雨降りの間は待ってなきゃいけないんだ。だからその間に見ててやろう。これって合理的な判断じゃないか?」
 ドラゴンはじっと口を閉じ、しばらく考えるように動きを止めた後で言った。
「それはいいな。じゃあ――」
 それから、ずっと握りしめていたこぶしを開き、そこにあったコインをぼくたちに差し出した。
「これで頼む。仕事をやってもらうから。三枚のうち一枚はおれのだ。おれも仕事をしたから」
 おっちゃんはかぶりを振る。「いや、もらえねえって。なあ?」
「うん」
「ほら、こいつも言ってるだろ?」
「そいつの言ってることはだめだ。そいつは合理的じゃない」
「あ、だめだぞ。そういうこと言うとこいつ泣くんだから」
「別に泣かないよ」
「そいつ、泣き虫なんだな」
「そうだよ、オレの自慢なんだ」
「羨ましい。計算もせず感情だけで生きてるんだな」
「そうだ。こいつは感情だけで生きてるんだよ」
「かわいそうに」
「かわいそうに」
「なんなのもう」
 ぼくはドラゴンの手をコインごとぎゅっと握らせた。
「ほら、いいんだよ。きみ、子どもなんだからもらえるものはもらっておきなよ」
「子ども……おれは子どもじゃない。確かにおれはこれ以上ちっともおおきくならないけど。おおきくなれないけど」
「あ、いや、そういうことじゃなくてね」
「そうだよな。おまえたちから見たらおれなんか小さな子どもなんだよな……」
 ドラゴンは、どこでもないどこかをじっと見つめている。慌ててぼくが、ごめん、ごめんね、とか言っていると、無理やりぼくの手にコインを二枚、押しこんだ。
 それから、ぐわ、と牙を剥いて恐ろしい顔つきで言った。
「じゃあ、おまえがこのコイン二枚で、おれを大人にしろ!」
 そのままくるりと背を向けて、雨の中へ走っていってしまった。ヒイラギの葉のような翼を背中でバタバタさせて、でも空なんかちっとも飛べそうにはない感じで、水浸しの地面を飛沫をあげながら、夜の街の中を走っていった。
 おっちゃんは、ぼくの見つめる手の中の二枚のコインを見て、はははと笑った。ぼくはそのうちの一枚をおっちゃんに渡した。
 ぼくたちは二匹で自警団だったから。
 そうなろうと思えば、ぼくたちだってこんなに合理的になれる……

 


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Last-modified: 2023-12-03 (日) 00:00:11
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