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挿話 -花の式日-

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花の式日 連作短篇集

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作者からのお願い:読む前に必ず花の式日を読んでね。

作:朱烏


目次





王の器 



「おはようございます、我が愛しの王」
 昇ったばかりの陽が、城の窓枠から差し込んでくる。簡素な玉座に座っている蕾王(バドレツクス)は、まだ夢の中にいた。
 僕――ネイティオは王の頬を翼の先でそっと撫でた。
「ム……」
 王の目が開かれる。菱形の麗しい瞳は濡れそぼち、艶々としていた。
「おはよう……である」
 まだ夢を貪りたそうだが、二度寝をねだる王ではない。真面目――だと思う。正直、少しくらいは「まだ寝かせておいてほしいである」と甘えてくれてもいいのではないか。
 まあ、ただの僕の願望にしか過ぎないのだけれど。甘やかしまくったら王と言えど堕落するのではないか――そういう姿を一度見てみたい、という暗い欲望だ。
 王は体を完全に目覚めさせるために大きく伸びをして、悠然とした所作で玉座を降りる。行き先は食堂だった。
「本日は春野菜の盛り合わせです」
 王に随行しながらメニューの説明をするが、一年中変わり映えしない献立をわざわざ言う必要はない。
 春なら春野菜、夏なら夏野菜、秋なら秋野菜の盛り合わせだ。冬は――晩秋に収穫した野菜を雪の中に埋めて保存しておき、それを食べる。
 もっとも、王の豊穣の力があれば、たとえどんな季節でも、どんな野菜でも食べることができる。種を畑に蒔けば、一日と経たずに芋や実が出来上がるのだ。
 だが、力をみだりに使わないのが王の方針だった。民が地道に耕し、堆肥を混ぜ込み、汗を流して世話をした畑こそが強いのだと王は信じている。力は、自然の猛威が民を困窮させたときにこそ解放するべきなのだ、と。
 異論はなかった。王におんぶに抱っこでは、民が堕落する。堕落は王への忠誠が疎かになることへ繋がり、信仰が薄れ、王の力は弱まる。そして王の弱体化を嗅ぎつけた異邦の民が攻め込んできて、この平和な国は滅びる。
 僕の視る未来は、たった一つに確定されたものではない。幾つもの分岐点が生じていて、そのいずれかの未来に行き着くことは解る。
 そのうちの一つが、前述した滅亡への筋書きだ。今のところ、そのルートを辿る確率は限りなく低い。向こう二十年は安泰とみた。
 が、それは現在直面している問題を完全に解決できればの話、だ。
「王、本日は――」
「解っている」
 王は黒い人参を頬張っていた。本来であれば、レイスポス――呼び名は時期によってブリザポスに変化することもある――の餌だが、どうも今年に至っては豊作が過ぎて腐らせてしまうほどに余っているらしく、こうして王や僕の皿に並ぶ。
 ちなみに用意したのは僕だ。意外と馬鹿にできない味なのだ。
「身支度が終わったらすぐに発つ。レイスポスを待機させておいてほしいである」
「御意に」
 蕾王(らいおう)自らの出征。我が王の手を煩わせるのは本意ではないが、今回ばかりは致し方なかった。


 西方に、暴れまくって手がつけられない輩がいるとの報告があったのは先月のことだ。こちらの領地を侵しさえしなければ様子見を続ける予定だったが、先日ついに領地内に侵入ってきた。
 しかしながら、徒党を組んだ破落戸や盗賊団の類ではない。たったの一匹だった。聞けば、どこの国の者でもない、はぐれ者だという。尖兵を十ほど行かせれば容易く鎮められるだろう。未来を視るまでもなかった。
 ――はずだったのだが、尖兵たちはことごとく跳ね返されて、ボロボロになって帰還した。まるで歯が立たなかったと兵たちは異口同音だった。
 王はそわそわしていた。大事になる前にヨが出向いたほうがいいのでは、と仰ったのを、王がお考えになっているほど深刻な事態ではありませんと制した。
 これ以上の失態を犯すわけにはいかないので、兵の数を五倍に増やした。未来視によると、討伐の成功確率は九割程度だった。一対五十の割りには微妙な数字だが、さすがにこちらの戦力だって王のために矜持(プライド)を見せてくれるだろうと、信じて送り出した。
 結果は同じだった。催眠術やら吹き飛ばしやらサイコキネシスやらで、みんな一様にぶっ飛ばされて帰ってきた。
 王は傷ついた兵たちを癒やしながら、斯様(かよう)な狼藉は許してはおけぬと憤る。王は滅多なことでは怒りを露わにしないが、愛する民が虐められたとなれば命に代えてでも成敗するという気概だった。
 こればかりは戦力を見誤った僕にも責任の一端はあるため、王を宥めすかして誤魔化すのはちょっと厳しい。
「……今日はもう遅いですから、明日、討伐に行きましょう」
「うむ」


 と、ここまでが事の次第だ。
 レイスポスを厩舎から出し、城の前に待機させる。キズナのタヅナも準備した。レイスポスは久々に暴れられるのではないかという期待に、少し興奮しているように見えた。
「待たせたである」
 身支度を整えた王はさらに見目麗しく、瞳には勇ましさを宿していた。僕は、そのしなやかで毅然とした佇まいに圧倒される。
「往こうぞ、レイスポス! ネイティオ!」
 僕の翼からタヅナを取って、王はひらりと愛馬に跨がった。
 レイスポスが後肢で立ち上がって(いなな)くと、そのまま驀進して門から飛び出した。僕も飛び立ち、王と馬の後を追う。


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 王が馬に跨がり大地を駆ける姿は、ただただ美しい。王が出征すると耳にした民は、馬の蹄が地面を蹴る音が聞こえると一斉に住居から出てきて声を上げる。
「御武運を!」
「蕾王の世よ、永久(とこしえ)なれ!」
 民の住処の間を縫い、畑を飛び越え、森を抜ける。まるで翡翠色の彗星が黒紫色の尾を引きながら地を切るよう。
 空から王を追うが、己の最高速をもってしてもついていくのがやっとだ。
 やがて民の影もまだらになり、ほとんど領地の端まで来た。馬の足が止まる。葉をつけない樹がわずかばかり植わっているだけの、ほとんど何もない吹き曝しの土地。僕も王の側に降り立つ。
 果たして、件のはぐれ者は尖兵隊から報告のあった場所にいた。歯抜けの櫛のようにぽつぽつと生えている樹のうち、最も背の高い樹のてっぺんの枝に腰掛けている。
 はぐれ者は遥か高みから馬に跨がる王、そして僕を見下ろしていた。
 あの高さであれば、王と僕がこちらにやって来るのは早い段階で判っていたはずなのに、追い返そうとしてこなかったのは何ゆえか。
 王は、はぐれ者を見上げている。極彩色の鳥擬きが、青い目を瞬きすらせずにこちらに向けていた。
 敵意は間違いなく感じ取れる。だがこちらから仕掛けない限りは、向こうから攻撃してくることはなさそうだ。
「何の用だ」
 不遜で、傲岸で、刺々しい声だった。空気を震わせて相手の鼓膜に振動を伝えるそれではなく、エスパータイプがよく用いるテレパシーだった。
「送り込んだ斥候たちがことごとく返り討ちにあったと聞いて、ヨが直々にやって来たである」
 兵を送る判断を誤ったのは紛れもなく僕ではあるが、王はすべての責を自らに帰すような発言をした。
「ふうん。あれ、お前のところの兵士だったのか。弱すぎてまるで手応えがなかった。あんな雑魚どもに兵をやらせてるぐらいじゃあ、お前の国も相当に傾いていると見受ける。ご愁傷様だ」
 安い挑発だ。真に受ける必要はない。が――
「……王?」
 横目でちらりと王を見ると、顔を真っ赤にしてぷるぷると震えている。
「王、落ち着い……」
「ヨの臣民たちを侮辱するな! 甚だ遺憾である! 降りてこい! その心根、叩き直してくれる!」
 僕はやれやれとため息をつくが、王が民を心から愛するがゆえに呈した怒りを取り鎮めるわけにはいかず、ひとまずは成り行きを見守ることにした。
「……まあいい。俺とやるんだろ? 掛かってきな」
 鳥擬きはふわりと木のてっぺんから降りて、地上近くで停空した。
 王は馬から降りて、はぐれ者に向き直る。
「馬に乗って戦わないのですか?」
「大勢相手ならいざ知らず、相手は一匹である。レイスポスには申し訳ないが、ヨの活躍を見届けてほしいである」
 レイスポスは不満げだが、僕が持ってきた黒い人参をやると多少は機嫌を直した。
 王の命令通り、僕とレイスポスは戦線から退き、はぐれ者との一騎打ちを王の後方から眺めることにする。
 万が一王が劣勢になった場合に加勢できるように態勢は整えておくが、戦闘に関しては素人同然の僕が支援に回ったところで王の長い足を引っ張るのは目に見えているので、ただ王の無事を祈るのみだ。
 心配はしていない。この国が周辺の国々と大きな戦争を起こさずに繁栄していけるのは、文字通り、ひとえに蕾王を頂いているからだ。
 大昔、王がこの地に降り注いだ赤い災厄を大いなる力により振り払ったという伝説は至るところに口伝されていて、臣民たちもその伝説を布教することには余念がない(布教というよりはむしろ王の偉大さを自慢しているだけなのだが)。
 だから、王が(おわ)す限りは、この国は安泰なのだ。兵力が寂しいことなど、些末な問題だ。
(むしろ王のことを一切を知らない素振りを見せるこの鳥擬きこそ、稀有だ)
 王に仕えてから二十年経つが、王に楯突く輩は初めて見た。王の偉容を見れば、今までの狼藉に対して反省する態度の一つや二つを見せてくれるのではないかと期待したのだが、まるで怯む様子はない。
 もしや、あのはぐれ者は王の威光の及ばぬ遥か遠いところからやって来たのだろうか。
「往くぞ!」
 王が構える。両腕から放ったのは、エナジーボールだ。
 緑色の光輝を纏う球は不規則な弾道を描いてはぐれ者に向かっていく。
「……ちっ」
 舌打ちが聞こえた、ような気がする。そして、極彩色の翼で、王の技を弾いた。
 王の瞳がわずかに見開く。効果が今一つの技を、三割ほどの出力で撃ち出した。つまるところ小手調べだが、完全に掻き消されるとは思わなかったようだ。
(僕も同感……まさか一切のダメージも与えられないとはね)
 王は強い。弱い出力の技でも、レベルの低い相手ならば大抵は一撃で吹っ飛ぶ。それを、この鳥擬きは片翼で吹き払った。
「……舐めてんのか」
 鳥擬きの声が一層低く鳴り響いた。
「本気で来いよボケ!」
 王に試されたことが心底気に食わなかったらしい。閉じた両翼から一気に解き放たれたエアスラッシュは、僕の目には到底追い切れない速度で王を襲う。
「王!」
 炸裂。
「うぐっ……!」
 王の体に無数の傷が走る。草属性である王にエアスラッシュは効果抜群だ。しかも、技の練度は想像を絶するほど高かった。生半可な受け方をしたら、王とて耐えきれなかったかもしれない。
「なぜ避けない」
 不機嫌そうなテレパシーが伝わってくる。
「……ヨが避けたら、臣下と愛馬が傷つく」
 王の後方に陣取ったことを後悔した。それはレイスポスも同様らしく、主の思わぬピンチに動揺の色を隠せない。
「……へえ」
 はぐれ者は呆れとも感嘆ともつかぬ、妙な嘆息を漏らす。瞳が、どこか遠くを見つめるような、曇った色をしていた。
「お前はその足手まといの鳥と馬のせいで負けるわけだ」
「ヨは負けぬ。そして臣下と愛馬は足手まといではない。訂正しろ」
 王は毅然とした態度で鳥擬きを睨みつける。あれだけ傷ついて王はなおも僕らを気にかける。
 王は――自分の痛みや傷の一切を顧みずに臣下や臣民を慮る、慈愛に満ちた御方だ。この窮地でも揺らがないその態度こそ、僕が王に仕える最大の理由だ。
(おい、鳥。加勢しないとマズいんじゃないか)
(……いや、大丈夫だ。負けないと言っている王を援護するのは、王に対する侮辱だ。それよりあの鳥擬きの攻撃が当たらない位置まで避けよう)
 レイスポスと密談するうちに、事態が進んでいく。
「つべこべ言わずに俺に勝てばいいだろうが」
 鳥擬きがまた先ほどと同じ構えをとった。
(待ってまだ避けきれないから!)
 空気を切り裂く音――まるで晴天をつんざく雷鳴だ。王にとどめを刺しかねない威力。
「少しイタズラが過ぎるであるな」
 ぎゅあ、と聞いたことのない音とともに、空間が捻じ曲がった。王とはぐれ者を、不透明な霧がドーム状に包み込んでいる。
(サイコキネシス……なのか!? この桁外れな出力……恐ろしい御方だ)
 巻き込まれないように馬をさらに向こう側へと追い立てる。
「何が起きているんだ」
 馬の言葉に僕は返答しなかった。王の念力が空間の粒子の一つ一つを歪めたために、空気の屈折率がぐちゃぐちゃに跳ね回っている。あのサイコキネシスの効力が及んでいる空間の様子を、外部から正確に観測するすべはない。
 一つ言えることがあるとすれば、鳥擬きは無事では済まないということだ。
(いたずらに他者を殺めるような御方ではないけど……)
 はぐれ者の胴体が捻じ切れてしまっても不思議ではないぐらいの力だ。僕が千年生きたとしても到達できない領域。
 ぱちん、と霧が晴れて、空が色を取り戻した。
「……もし王に逆らったら、物理的に首が飛びそうだね」
「笑っている場合か?」
 空気が重苦しいのでちょっとした冗句(ジヨーク)を飛ばしたが、馬は青ざめたままだった。
 鳥擬きは地面に伏せっていた。動く気配はない。王はくずおれているそれを見下ろしている。
 何か悲しいものを見たような顔。王が僕に目配せをする。
「……此奴(こやつ)を連れて帰るである」
「……死んでませんよね?」
 ヨが誰かを殺めるなどするはずがないだろう、と王は物言わぬ菱形の瞳でこちらを非難してくるが、あんなサイコキネシスを浴びたら並のポケモンなら命を落とす。まだ息のあるこの鳥擬きがおかしいだけだ。
 僕は王のサイコキネシスとは似ても似つかぬ弱々しい念力で鳥擬きの体を浮かべ、馬の上に乗せた。王も馬に跨がるため、はぐれ者は馬の尻のほうに寄せたが、どうにも収まりが悪い。
 霊馬も王以外の者が乗ることに難色を示したが、今の王にはっきりと逆らう勇気は持ち合わせていないようだった。
「さて、戻るである」
 帰路は終始粛々としていた。集落へ着くや否や、民が四方八方から寄ってきて、
「流石我らが王、いとも簡単に脅威を討ち果たした!」
「武においても豊穣の王に勝る者はなし!」
 と銘々に凱歌を奏でるが、当の王は切り傷だらけの己の体を癒やすことなく、馬の上で憮然とした表情を崩さずに前を見やるのみだった。
 民衆が王の後ろをがやがやとついてくるが、
「しばしの間、臣下とこの者以外の城への立ち入りを禁ずる」
 と低い声で一喝した。
 戦を制したあとは城で宴を開くものだと思っていた民衆たちは一様に困惑の色を浮かべ、しかし王の命に背くわけにもいかず、城へ向かう王を立ち尽くして見送るほかなかった。
(機嫌が悪い、というより……落ち込んでいるのか)
 王は濁った霧の中で、何を視たのだろうか。


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 鳥擬きは丸二日間目を覚まさなかった。王が自らはぐれ者の世話をすると言い出して聞かず、ほとほと困り果ててしまった。いつこの鳥擬きが覚醒し、王の寝首を掻こうとするかわかったものではないのに、いったい何を考えているのか流石の僕でも理解しかねた。
 王が夜中に眠る間は、僕が寝台に寝かされている鳥擬きを監視した。しかし、これが滅法辛いのだ。僕は一日のおよそ半分を眠って過ごすが、眠るにも昼間の明るさでは寝つけない。従って、眠気が拭えぬままに夜間の監視をする羽目になる。
「いい加減目を覚ますなりしたらどうだい」
 寝不足の苛立ちをぶつけるように、眠っている鳥擬きに向かって呟く。一昨日はあれだけ殺気をまとっていたのに、目を閉じているとまるで別人だ。憑き物が落ちたかのような、安らかな表情だ。
(シンボラーってどこに口があるんだっけ?)
 どうでもいいことを考えながら、眠気に抗う。いきなり起き出してこちらを攻撃してくる可能性もあるので、気も張らなければいけない。
(王はなぜこのはぐれ者をを連れて帰ろうとしたのだろう)
 捨て置いたって誰も構いやしないのだ。暴れまくって誰彼構わず傷つけるような奴を、わざわざ世話をするのは物好きの所業だ。よほど王の琴線に触れるものがあったのだろうか。
(きっと僕じゃ及びもつかぬような……深謀遠慮が働いたの……だろう)
 ああ、眠い。


 目を覚ます。ハッと息を呑んだ。はぐれ者が寝台から姿を消している。
(マズいマズいマズいマズい!)
 一目散に王の部屋へ向かう。絶対に王の部屋にいるという確信がある。
(王よ、どうかご無事で!)
 失態などという言葉では済まされない。王に何かあったら、僕は冗談ではなく首を括らねばならない。
 王の部屋の扉はわずかに開いていた。淡い光が漏れている。そして、テレパシーも流れてくる。扉に側頭部を預けると、テレパシーはより明瞭に意識に流れ込んできた。
「なぜ俺を殺さなかった」
「……その必要があったであるか?」
 王とはぐれ者の会話は物騒だった。それにしても、鳥擬きの傲然たる態度は聞いていてハラハラする。
「あるだろう。護衛をひとりもつけず、こうして夜半に俺と対峙することを許してしまっている脇の甘さ。あの鳥は俺の監視役か? あんな間抜け面で居眠りする奴にお前の臣下が務まっているとはとても思えん」
 間抜け面と言われて無性に腹が立ったが、役目をまったく果たせていなかったのは事実なのでぐうの音も出ない。
「ヨが勝手にオヌシの世話をすると言い出したのを見かねたネイティオが、夜の番を代わると言ったのだ。ヨが無理をさせたゆえの居眠りを責める道理はないである。ヨの落ち度だ」
「お前はその落ち度とやらで寝首を掻かれたかもしれないんだぞ。もっと危機感を持ったらどうだ」
 僕は鳥擬きがその手段を選ばなかったことに心の底から安堵した。少なからず騎士道精神というものを備えているらしい。
「だいたい、俺を根城に連れてくるなどどういう料簡(りようけん)だ? 俺を配下にでもするつもりか」
「そうであると言ったら?」
 戦慄が走る。随分と挑発的な物言いだ。もしはぐれ者の怒りのツボに触れでもしたら、今度こそ王の身が危ない。
 しかし、鳥擬きは意外な言葉を返した。
「お前の王たる器が真であるなら、喜んで仕えてやる」
 僕はさらに耳をそばだてる。テレパシーだから耳を近づけたって何も変わらないのだが、とにかく体の芯をほんの少しでもふたりの会話に近づけたかった。
「だが、俺が仕えるに値しないと判断したら、今度こそお前の首を頂く」
「勝手にするがよい」
 凄まじい会話の応酬に、思わず漏らしそうになった。鳥擬きはあれだけこてんぱんにやられたのに、王に対する不遜な態度を崩さないその胆力の源はいったいどこから来るのだろう。王も王でまともに取り合う必要がないにも関わらず、なぜ事を大きくしようとするのか。
 程なくして鳥擬きが出ていこうとする気配がしたので、急いで近くにあった調度品の陰に隠れる。
 鳥擬きの姿が廊下の先に消えるまで息を潜め、物音がしなくなってから王の部屋に滑り込んだ。
「王! ご無事ですか!」
「ム……ネイティオ。もしや今のやりとりを聞いていたであるか?」
 王は恥ずかしそうに顔を伏せた。可愛い――などと感じ入る場合ではない。
「王、あんな啖呵を切られては困りますよ! 王が死んでしまったら皆悲しみます!」
「案ずるな。そのようなことは起こらないである」
 王はともかく、何を考えているか解らないあの鳥擬きを信用することなどできない。
「しかしあのシンボラー、王に喧嘩を売るとはいったい何様のつもりなのか」
「……そう責めるな。あの者の国は」
 滅びたのだ。
 王は、そう口にした。
「滅……びた?」
 うむ、と王は虚空を見つめながら頷いた。
「仔細は知らぬが、恐らくは戦だ。あやつは死力を尽くして戦ったであるが、力及ばず……。そして王はシンボラーを顧みることなく遁走した。ボロボロになって、失意のままこの地に流れ着き、自棄になって暴れていたらしいである」
 王は玉座に深くもたれかかり、ため息をついた。
「なぜ、そのようなことが解るのです?」
「あの者の『過去』と対話したである。……言ってなかったであるか? その気になれば、ヨはオヌシのように過去と未来を見通せるである!」
 ふふん、と王は鼻を鳴らしながら、まあ普段は面倒だからそんなことはしないであるが、と小声で聞き捨てならないことを言った。
 ――シンボラーの世話をすると言い出したのは、きっとその境遇に同情したからに違いない。
 シンボラーという種族は国に仕え、守護することに喜びや生きがいを見出す。国を喪った怒りと悲しみとやるせなさは、きっと筆舌に尽くしがたいものがあるだろう。ましてや、王に捨てられたとあっては。
 蕾王に微妙な執着心を覗かせていたのもそのせいかもしれない。
「オヌシには気苦労をかけたであるな。もう寝るとよい」
 ヨも眠いである、と王は大欠伸(あくび)をして、ころん、と一瞬で眠りに落ちてしまった。
「僕も、寝ないと……」
 張り詰めていた気が一気に緩んで、力が抜けた。玉座の肘掛けに、くずおれるようにしてもたれかかり、深い眠りに落ちていった。


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 朝起きると、玉座はすでにもぬけの殻で、シンボラーも寝床にはいなかった。朝餉(あさげ)の準備のために食堂へ行くと、ふたりは入り口で話し込んでいた。
 しかたなく外に出る。お腹が空いたので、厩舎から黒い人参を失敬した。レイスポスは山を降りているのか、姿は見えない。
 明けたばかりの空はまだ白んでいる。なんだか、厭な予感がする。未来視を信奉する僕にとって、ただの心理的な不安がもたらす不確かな『予感』というものは速やかに棄却すべきものだが、こういう時に限って未来視は不調だ。
 ――この不安こそが未来視を危うくしている原因そのものなのか。人参を囓る。味がしない。
「ネイティオ、早急に臣民たちを城の前に集めてほしいである」
 振り返ると、我が愛しの王がいた。そしてその後ろには極彩色の鳥擬きもいる。
「早くしろポンコツ」
「は……?」
 鳥擬きに喧嘩を売られた。僕を虐める気か? 泣くことも辞さないぞ。
「シンボラー、粗暴な言葉遣いは感心しないである。すまぬ、ネイティオ。よろしく頼んだである」
 ふい、とそっぽを向いたシンボラーを置いて、王は神殿に戻ってしまった。
「……あのさあ、王の御前でそういう態度やめてくれない?」
「お前が俺を苛つかせる愚図なのが悪い。王が命令を発して一分が経過したが、なぜお前は未だここに留まっている? 馬鹿なのか?」
「うっ……!」
 温和と評判の僕も、ここまで言われると腹が立つ。
「君! 馬鹿とか愚図とか間抜けとか、言われっぱなしで黙っていられるほど僕は利口じゃないからね!」
「ほう……?」
 シンボラーが、にたりと嗤った。こんなに表情が豊かなポケモンだったのか?目が邪悪な形に歪んでいる。
 具合が悪い。悪い予感ばかりするのに、未来視が一切働かない。汗が、羽毛の隙間からぶわっと噴き出した。


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 澄み渡る晴れ空の下、神殿前の広場は異様な雰囲気に包まれていた。
 群衆は、王が登壇しているというのにざわついたままだ。何しろ、王の左隣には――王が先日討ったはずの一つ目のはぐれ者が睨みを利かせているからだ。右隣にいる臣下の僕は、もはや存在感が皆無に等しい。
 王が咳払いをし、右手を挙げたことでようやく場は静粛となる。
「今日からシンボラーがヨの配下に加わる」
 民衆がどよめいた。無理もない。僕も吐きそうだ。
 王よ、ご乱心遊ばされましたか! 何処の誰とも知れぬはぐれ者を臣下にするなど! 我々に仇なした厄介者ですぞ! ――方々から不平不満が湧き起こる。
「鎮まるである」
 王が取りなそうとしても、なかなか民衆は納得しない。僕も民衆に同調していたので、王に助け船を出すつもりはない。未来は未だに僕の目に映らなかった。
「オホン! 皆、静粛に!」
 王が珍しく声を張ったので、民衆もやむなく口を閉じる。
「オヌシらの気持ちはよく理解している。ヨの身勝手な決断を憂慮することも、そしてこの者が信用に足るかどうかという懸念を抱くのも、もっともである」
 訥々(とつとつ)と民衆を諭すような宣り言が、鈴の音のように揺らいでいく。民を前に物語る時の王の声音は、霊妙な響きが重奏するような、不思議な魔力がある。それが王のカリスマ性を高める一助となっているのだが、当の本人は無自覚だ。
「しかし、ヨはこの者――シンボラーの真髄に触れるにつけ、この国の安定に是が非でも力を貸してほしいと切願するに至った。そして、シンボラーはヨのため、延いては臣民のために忠義を尽くすことを約束してくれた」
 民衆が再びどよめいた。頭痛が止まらない。
 シンボラーは自らを訝しむ声に対してどこ吹く風といった様子で、まるで怯む気配がない。心臓にびっしりと毛が生えているのは間違いないが、やはりこれを配下にするのは正気の沙汰ではない。
「シンボラーより挨拶がある」
 バド王の号令で、鳥擬きはずい、と前に出る。民衆から一斉に生唾を呑み込む音がした。時が止まったかと思うほどの静寂が広場を包み込む。
「本日より蕾王へ仕えることとなった。蕾王の治世を盤石なものとするため、そしてこの地の安寧と繁栄に寄与するため、私の持つすべてを注ぐ所存だ。以後、何卒よしなに願い申し上げ(そうろう)
 恭しく頭を下げたシンボラー。民衆に三度目のどよめきが起こる。
(意外とまともだった)
 まだ厭な汗は止まらないが、民衆に向かって宣戦布告してもおかしくはないと思っていたので、丁寧な言葉遣いで抱負を述べる姿にはいい意味で裏切られた。
(とにかくシンボラーのボロが出ないうちに式典を終わらせ――)
「ところで先ほど王の公告に対し文句を言った奴は誰だ? 潜在的反乱分子は速やかに粛せ――」
「わ――――――――――――!!」
 シンボラーに覆い被さる。エスパー・飛行属性のポケモン二匹がもみくちゃになって転がった。
「何をする黄緑野郎!」
「いいから黙れ!」
 式典は騒然となり、あまつさえ「いいぞ、もっとやれ」と喧嘩を煽る輩まで登場する始末だった。
「と、とにかく皆もシンボラーと仲良くしてほしいである! 解散!」
 流石の王も焦ったのか、無理矢理に着任式を終了させた。
 後にこの騒ぎは、僕とシンボラーの与り知らぬところで、過去に例を見ないてんやわんやのぐだぐだな儀典であったと記録されることになる。


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「シンボラー、そういうのをヨは求めていないである……」
 王は玉座に深く腰掛け、眉間を両の手で押さえながら浮遊するシンボラーを見上げた。
「……………………………………失礼いたしました」
 この鳥擬き、めちゃくちゃ不満そうな顔をしているが。王よ、お願いですから目を覚ましてください。こんな奴を臣下になどしたら国が滅んでしまいます。
「ですが、僭越ながら私見を述べさせていただきます。ああいう小さな火種を放置すると、いずれ大きな災禍を招きますよ」
「……オヌシの境遇を軽視するわけではないが、ヨにはヨのやり方がある。民を上から押さえつけるのは、民から自由や意思を奪い取ることと同義。豊穣の王たるヨは、与えることを良しとし、奪うことを良しとしないである。大切なのは臣民たちと信頼関係を築くことだ」
 王とシンボラーの間に、長い長い沈黙が流れた。シンボラーは、バド王の価値を見定めている。自分が仕えるに値する主なのかを熟思している。
「……王の理念、理解いたしました」
「それは何よりである!」
 カムカムと笑う王。僕はほっと胸を撫で下ろす。これで安泰とは言わないが、少しはこのじゃじゃ馬も大人しくしてくれるだろう。昨日からずっと痛かった胃が、少しばかり回復してきたようだ。
「というわけでネイティオ。シンボラーの教育係を任せるである」 
「………………は?」
 前言撤回。心臓まで痛くなってきた。ストレス性の心臓病で死ぬ未来が視える。
「ヨは少し出掛ける。留守を頼んだである」
「ちょっ……王! 困りますよ!」
 王は無視を決め込んで、そそくさと部屋を出ていってしまった。王の部屋には新旧二匹の臣下が取り残される。一つ目がぎょろりと僕の顔を覗き込んだ。
「何が困るんだ? 有能な俺が臣下となることで相対的にお前の無能さが白日の下に曝されることがか?」
 言葉が攻撃的すぎる。逃げようとすると、肩をとんでもない強さで掴まれた。
「おい」
「ひっ」
 そのひらひらした翼のどこにそんな力があるのだろうか。
「侍従なんて俺一匹で十分だが、とりあえずは先輩であるお前の顔を立ててやる。よろしくな、ポンコツ」
「ええ……」
 もはや堂に入ってさえいる凄まじい見下し具合に、生まれて初めて心の底から泣きたいと思った。僕はこれから先、このシンボラーと二匹で王の世話をしなければいけないのか。
「さて、着任式も終わったことだし、哨戒(しようかい)に行ってくる。お前も来い」
「しょ、哨戒? 何のために? この国はずっと平和だし。そもそも僕が教育係なんだから僕の指示に……」
「ああっ!? その嘴、二度と開かないように上下で縫いつけてやろうか!?」
「ごめんなさい今すぐお供させていただきます」
 えげつない舌打ちの音が部屋中に響き渡った。もう逃げられない。王宮の和やかな日々は今日をもって終了した。
(面倒なことになった……一日でも早くこいつをどうにかしないと)
 こうして、王の御前ではふたりで取り繕い、裏では互いに突っつき合う最低な侍従コンビが爆誕することになった。

 シンボラーが平和ボケしたこの国の色に染まるのは、もう少し先のお話だ。




神馬(じんめ)の審判 



 そいつが私の前に現れたのは何十年も前のことだったが、当時の光景は昨日のことのように鮮明に思い出される。
「ほう」
 その緑色は私を見るや否や、そう呟いた。見定めるような目だった。
 癇に障った。しかし、それができるだけの実力もあるのだろう、と同時に悟る。
 青い菱形の瞳は凜として、巨大な深緑の蕾冠を被っているそいつの佇まいは、そこらの有象無象とは一線を画していた。
 私を飼い馴らそうと向かってきた人間は、大昔は少なからずいた。分を弁えない振る舞いは腹立たしかったが、そのような輩と格闘することは、決して嫌いではなかった。もし私を御することのできる者が現れたなら、それはそれで悪くない。――むしろ望んでいたのかもしれない。
 が、時を経て、勇敢な人間は消えた。獣も同様だった。右も左も軟弱かつ貧相で、もはや私を御そうとする発想そのものが失せ去ってしまったようだった。
「嘆かわしい」
 それならば、彼奴(きやつ)らは屈服し、この高原を私に明け渡したということでよかろう。文句があるならば、掛かってくればよい。
 私は心の赴くままに高原を駆け、畑を荒らした。人間は私のされるがままで、一様に困った顔をするだけだった。ときどき畑に出来の悪い罠が仕掛けられていることもあったが、容易く壊しながら、彼奴らのおつむの貧困さに呆れ果てるばかりだった。
 揃いも揃って! どいつもこいつも! 翠黛(すいたい)に向かって(いなな)くも、返ってくるのはぼんやりとした山びこばかり。己がどれだけ生き長らえるのか知らないが、このようなつまらない日常が死ぬまで続くのだとしたら――地獄だ。
 ゆえに。
(……心底待ち望んでいた)
 枯れた大地だった。実りは少なく、私が荒らさずとも、もともと荒れていたような土地だ。それが、ここのところ、あちこちに緑が芽吹くようになった。貧相だった人間も獣も、心なしか肉がついてきたように思う。
 きっと、この緑色の仕業なのだろう。
 風が吹く。私と緑色が対峙し、人間と獣が私たちを取り囲んでいる。
 私は後ろ脚で立ち上がり、嘶いた。
「私を御してみろ!」
 翠緑の蕾冠を頂く牡鹿が、瞠目する。
 凍てつく空気が張り詰めた。


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 王として君臨するために生まれてきたような生き物だった。一挙手一投足が、人々と獣を引きつけた。私が(あるじ)に恭順するのは宿命だったのかもしれぬと言うと、
「神は神として生まれるが、ヨはただの獣として生まれた。王となったのは幾多の巡り合わせの結果に過ぎぬである」
 と答えた。
 主を乗せ、大地を駆ける。爽快な気分だ。これに勝るものは、この世にはない。
 民は「王の世よ万年(よろずとせ)まで」と祈りを捧げる。私は合わせる手を持たないが、同じことを願っている。山の上から見下ろす景色が、隅々まで永遠に主の威光が照らすように。


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 と、ここまでは私と主の関係を可能な限り脚色して美しく仕上げたが、実際のところはもっと泥臭い。ぽっと出の鹿に御されたのははっきり言って死ぬほど悔しかった。夜に神殿に突入して暴れ回ったり、畑を荒らし回って主の手を焼きまくったりと、やりたい放題だった。
「暴れ足りないなら、ヨがどこまでも付き合ってやろう」
 主は眉一つひそめずに、粘り強く私と向き合った。ここまでされても腹を立てることなく私を宥めようとする態度が不思議でしかたがなかった。
 楯突くのもいい加減疲れてきて、大人しく背に乗せてやったところ、あまりにも大袈裟に喜ぶものだから、主が世を治めている間ぐらいは愛馬として側にいてやろう、と柄にもない誓いを立ててしまうのだった。
 そして月日は過ぎ去り、時季は現時へと移り変わる。


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 実りがさらに増える秋、天高く馬肥ゆると言うが、確かに余計な肉がついた気がしないでもない。
 収穫祭の半月前になると、しばらく忙しくなるので暇を与えると主から言われた。言われずともそうするつもりだった。
 収穫祭は――人間とかかずらうのは煩わしいことこの上ないが、人参が山のように振る舞われるので、楽しみにしている行事だった。五年前までは。
 賢明な読者諸君はすでに前章で事の次第をあらかた把握していることと思うが、改めて経緯(いきさつ)を記す。
 五年前、異邦の民が持ち込んだ酒は、これまでこの地で不味い気つけ薬としか看做されていなかった酒精(アルコホル)という概念を根底から覆した。甘みと酸味が舌の上で調和し、酩酊作用が飲んだ者の意識を高原に浮かぶ雲のような高さまで引き上げる。よろしくないことに、それを最も気に入ってしまったのが我が主だった。
 あのけばけばしい色合いの侍従は危機察知能力に優れていたため、立ち所に主から酒をすべて取り上げた。主は相当駄々をこねたらしく、落とし所として侍従が提案したのは、収穫祭のみ樽一つ分を供し、それ以外の何でもない日は晩に一杯だけ飲んでもよいということだった。
 主は酒乱に無自覚的であったが、さらに譲歩を引き出そうと粘ったところ侍従が烈火のごとく怒りだして手が付けられなくなったため、泣く泣くその妥協案に賛意を示した。「酒乱さえなければ」と侍従はぼやいたが、まさしくその通りだった。
 私が収穫祭の参加を控えるようになったのは、結局のところ酒に飲まれて狂態を晒す主に辟易したからである。あれに御されている自分はいったい何なのだ、と悲しい気持ちになってしまうのは厭だった。主に背中を跨がらせることは疑いなく正当であると信じるために、見たくないものは見ないようにしたのだ。
 だというのに、侍従は毎度毎度「今年こそは参加しろ」と迫ってくる。お前の命令を聞く謂れはないと追い返すのが、収穫祭前の恒例だった。
 そのようなわけで、収穫祭当日、私は人間も獣も消えた集落で、畑にわずかばかり取り残されていた人参にありついていた。
 夜、山の頂上は松明の灯りで煌々と光り輝き、耳を澄ますと太鼓の音が飛び込んでくる。あの偉そうな侍従も主に酒を流し込まれているに違いない。いい気味だ、と心の中で毒づき、畑の上で寝転がる。
 翌朝、畑を荒らしたことを人間どもにどやされる前に立ち去ろうとしたとき、山から降りてくる空気に妙なものを感じた。
 人間も獣も、不安な顔つきでやってくる。慌ただしく駆ける者もいる。宮殿で何かあったのか。我が主がついに威厳を失墜させる不祥事をしでかしたのだろうか。
(ふん、しかたのない主だ)
 もしそうであるなら、侍従二匹も主の味方をしないだろう。私も易々と主を乗せるわけにはいかない。私の背に乗れるのは、品格と貫禄を具備する者だけだ。
 が、事情が推量と異なることに気がついたのは、一週間ほど経ったあとだった。
草木が、森が、萎んでいく。豊かな緑色の景色が褪せていく。
(我が主の豊穣の力が弱っている? まさか、病に臥せったとでもいうのか?)
 気づけば、私の体は宮殿に向けて走り出していた。風すら置き去りにする、自分自身でも驚くほどの速度だった。
 道草を食っている場合ではなかったのだ。私を唯一従わせることのできる稀有な存在が、万が一私を置いていこうとしているのなら、許すわけにはいかない。
 主の統治する領地は広大で、見渡せる地平はことごとく豊穣の力の恩恵に与っているはずだった。それが今や、瑞々しさを失って、酷い様相を呈している。
 山の麓の門を飛び越え、切り通しを駆け抜ける。刺々しい岩肌を曝す山は、訪ね来る者を拒むようだった。
 道中は誰ともすれ違わなかった。風切りの音だけが寂しく鳴いていた。収穫祭が先日まで行われていたとは露とも感じさせないほど、静謐に包まれている。
 城に着くと、ようやく見知った顔に出会えた。一つ目の侍従だ。
「いったいどこをほっつき歩いていた、暴れ馬。お前の主が一大事だというのに」
 どこまでも癪に障るやつだった。主を見舞う気持ちは一気に失せて、本心とは異なる投げやりな言葉を投げかけたために、不本意な口喧嘩をする羽目になった。極彩色の鳥擬きは激昂して、あろうことか私を駄馬だと罵った。なぜこうも血気盛んなやつが我が主の側近を務められているのか、甚だ疑問だった。
「うるさいである。何事か」
(無事だったか!)
 姿を見せた我が主は、驚くべき変貌を遂げていた。顔つきはどこか弱気で、覇気がない。病気ではなさそうだが、頭上の空白が際立っている。
「……なんだその貧相な頭は。嘆かわしい」
 そう、言うほかないだろう。心配していた、とは口が裂けても言えない。下らない事情で下らない姿を私の前に晒しているのだろう。
 呆れもあったが、それ以上に私は茫然としていた。喪ってはいけないものを喪った気分だった。


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 神殿を辞去したあと、鬱屈とした気分で辺境を彷徨っていた。むしゃくしゃして、鎧鴉や青鴉どもが喧しく鳴いている大きな止まり木を、両脚で力の限り蹴り上げた。鴉どもは悲鳴を上げて散り散りになる。
「……ふんっ」
 気は晴れなかった。心の底に沈殿している(あくた)を、取り除くことができない。
(馬鹿な主め!)
 何度も何度も、主を心の中で罵った。主は反論してこなかった。申し訳ない、と冠を失った主は頭を下げるのみだった。
(許せるわけがない!)
 勝手に、私を駆る資格を手放した。ふざけるな。私の期待を裏切ったのか!
 申し訳ない、と同じ言葉が返ってくる。
(私がどれだけ……!)
 どれだけ――。その言葉の先は。
 もう、夜だった。月が冷たく冴え返る。目から、水が滲み出てくる。
(私は……)
 今さらながら気づく。私は、主を好いていたのだ。だらしなさもあるが、人間や獣の上に立ち、気丈に導いていく強さと優しさを持つ主が私を駆ってくれることを、この上ない喜びとしていたのだ。
 何もかもがショックだった。主がもう駄目になったことも、それに動揺が収まらない私自身に対しても。
 弱った主に体調が同調しているのか、寝ても覚めても気分が優れなかった。食べ物はろくに喉を通らず、水も飲めない。相当に喪心していた。

 太陽が昇り、沈んで、月がその跡を追う。天体たちが飽くことなく延々と続ける追いかけっこを、私は地上から淀んだ目で見つめていた。当て()[なく彷徨い歩いて、いつの間にか私の四本の脚が踏みしめていた土地は、主の治めていた領域から大いに外れていた。
 秋が終わる。遥か遠くに見える山の上が白く染まり始めていた。主は凍えていないだろうか。今すぐにでも山の頂上にひとっ飛びで行って、主の顔を見たい。だが、主を心配する気持ちと、私を御せないやつなど私の主に相応しくないという相反した気持ちが渦を巻いている。
(……どうせ私に主を癒やすことなどできまい)
 それができるように生まれてきたのなら、初めからそうしていた。私はそのように生まれてこなかった。主を慕う侍従や人間なら、あるいは。
 私は不貞腐れていた。腹も減って、喉も渇くのに、何かを口にしたいという欲求が欠片も湧いてこなかった。
 脚を折りたたんで、腹を草原につける。もう考えることも疲れてしまった。意識が深い闇に沈み込む。夢を見よう。凜とした主を背に乗せる夢を。


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 一面の緑だった。花の黄と赤が混じる、春と見紛う景色だった。
(これは夢か……?)
 立ち上がる。土が温かく湿っている。草木をさらに芽吹かせようとするにおいがした。主のにおいそのものだった。
 知らぬ間に、私の脚は山に向かって走り出していた。土が蹄を柔らかく反発する。飲まず食わずで痩せ細った体から、信じられないほどの活力が(みなぎ)ってくる。
 脚が引きちぎれそうになるほど、走って走って走りまくった。畑を飛び越え、人間の頭を飛び越え、家を飛び越えた。
 山の斜面をがむしゃらに駆け上り、いっそ青空すら飛び越えていけそうな気分だった。
 瞬く間に、城の門へ辿り着いた。息が上がっている。
 門の向こう側、城の前に、主がいた。両側に侍従二匹を控えさせている。
(力が戻っている)
 見ずとも解ることだった。国の外まで力が及んでいたのだから。
 主の容貌は一変していた。頭上にかつてあった翠緑の蕾冠は、高原に息づく青々とした命の蠢きを趣向しているように感じられる見事な代物だった。しかし、眼前の主の頭上に燦然と輝くのは、赫々と燃ゆる情熱的な色味の王冠だった。
 どうやってこしらえたのかは知る由もない。不安と弱気に染まっていた顔貌(かんばせ)は引き締まり、国を統べし者が持つべき迫力を兼ね備えていた。
「待っていたぞ、レイスポス」
 あれからそれほど日は経っていないはずなのに、懐かしさを覚える声。体の奥が歓びに打ち震えている。
「ふん、勘違いするな。お前はすでに私の主ではない。もう一度従わせたくば、手続きを踏め」
「承知している」
 お互いの間にある、ぴんと張り詰めた空気。主は一歩前に出た。侍従の一匹が、翼に青く細長い布切れのようなものを携えていた。
 しかし、主はそれを受け取らなかった。貢ぎ物を使わずに私を御すつもりらしい。いい心掛けだ。
 私も一歩歩み寄る。冷たい一陣の風が逆巻いた。
「いざ!」
 刮目した主が、どう、と私の背に飛び乗った。
「ぶるるる!」
 咆哮のごとき嘶き。闘いの銅鑼が鳴る。
 私は主を振り落とさんと、思いっきり暴れ回った。右に左に体を激しく揺すり、主の込める力が緩むタイミングを狙って後肢で立ち上がる。そして意表を突く、後ろ脚を蹴っての逆蜻蛉(さかとんぼ)
「うおおお?」
 呻きながらも主は耐えている。何度か試したがここまでは問題ないようだ。私はさらなる試練を課すため、岩壁に向かって猛然と突っ込み、ほとんど直角にそり立つ岩肌を走り登る。
「ぐううっ!」
 技術ではなく、主はほとんど根性だけで私を御そうとしている。主は己の両脚でがっちりと私の胴を挟み込み、私の速度と重力の挟撃にぎりぎりのところで持ち堪えていた。――ならば。
 岩肌を駆け下り、広場を突進した。このままでは岩壁に激突する。私もろとも、主も無事では済まない。だが、私の背から飛び降りれば、大怪我は免れる。
「王!」
 侍従どもの声が聞こえた。私は速度を緩めない。さあ、どうする、主よ!
「……やはり素晴らしい馬であるな、レイスポスは」
 私の胴を掴む脚に、さらに力が込められる。腕は私の首をぎゅっと抱え込むようにしていた。
 岩壁に激突する寸前に、両前肢を左寄りにつき、急停止する。胴体が慣性で右に流れる。後ろ脚を岩壁を蹴っていなし、衝撃を最小限に抑えた。
 ――審判は終わった。ついぞ主を振り落とすことは叶わなかった。息を切らして、心地よい敗北感に身を委ねる。
「……腹が減ってはいまいか、レイスポスよ」
 背中に跨がる主は、勝ち誇ることも、居丈高になることもなく、痩せ細っていた私を案じた。
「……ああ。人参が食べたい」
 私の降参だった。そして、ようやく安堵する。
「よくぞ帰ってきたであるな」
「……ふん。せいぜい私に見放されぬよう励むことだな」
 たてがみを()く主の手の感触に、私は目を瞑った。




御目通(おめどお) 



「王様は、とても偉大な御方なんだよ」
 母の口癖だった。父も畑の土をいじりながら、
「王様のお陰で今年も豊作だ」
 と笑いながらわたしに言う。
 わたしは、王様の姿をきちんと見たことがない。馬に乗って走るのを二回見たことがあるだけだ。しかし、馬はとても速く、一瞬で遠ざかってしまうので、どんなひとが馬の上に乗っていたのか、まるで判らなかった。ただ、巨大な緑色の冠を被ったひとということだけは、遠目でも認識できた。
 王様がやって来る以前のこの国は、野菜も育たなければ果物も実らない、ひどく痩せた土地だったという。今はもういない祖父母はいつもお腹を空かせていたと、母は言っていた。王の力が、皆を飢え知らずにしたと父は言った。
 まだ子供のわたしには、両親が語る物語は昔話かお伽噺(ときばなし)の類にしか聞こえなかったが、それでも王様は素晴らしい御方なのだろうと思う。わたしは昼寝よりも遊ぶことよりも、ご飯を食べることが好きだ。お腹を好きなときに膨らませることができるのは王様のお陰なのだということは、十二分に理解している。
 だから、いつしか胸にはささやかな願いが秘められていた。もし王様にお目見えすることが叶うなら、お礼を言いたい。


「王様への捧げ物を、お城に届けてほしいの。お願いできるかしら」
 唐突だった。母は、籠いっぱいの野菜を手に持っていた。
 おつかいを頼まれることはときどきあった。隣の集落に野菜を届けて、その代わりに果物をもらってくるのだ。
 しかし、王様のところへ行くように言われたのは初めてだった。城は山の一番高いところにあって、わたしたちが住む集落を見下ろすようにそびえ立っている。わたしは一度も行ったことがない。
 そもそも、そんな気軽に行ってよい場所なのだろうか。おつかい、というよりも謁見だ。色々とややこしい手続きやら申し立てやらを予め済ませておくとか、そういうイメージがあったのに。
「そんなの必要ないわよ。ギャロップに乗れば半日もせずに帰ってこれるわ」
 母はどうもいい加減だ。不安が拭えないが、王様へのお目見えが急に叶うことになったのは予想外の吉報だ。
 ギャロップに跨がり、野菜を入れた籠も乗せる。太陽の眩しい青空の下、母に見送られながら城に向けて出発した。ギャロップが高く嘶いて、わたしはふわふわしたたてがみを撫でる。
 ギャロップは白くてパステルカラーのたてがみをもつ大人しい馬だが、王様の馬はその真逆で、漆黒の体に紫色のたてがみをもつ暴れん坊だった。王様がこの国に来る前から高原を我が物顔で走り回っていたその馬は、うまく御せた者がこの地を良く治めるだろうという謂れが成るくらいには、皆ほとほと手を焼いていた。ところが、王様はその馬を簡単に手懐けてしまったという。
 わたしたちは城を目指して高原を駆け抜ける。山のふもとに辿り着くと、堂々たる石造りの門があり、そして男の人が気怠げに立ち尽くしていた。
「謁見?」
「え? あ、はい」
 ぶっきらぼうな男だった。わたしが返事をすると一瞥もせずに門を解錠し、「通ってよーし」と観音開きの門扉を開け放った。眠たそうな様子を隠そうともしない。
 こういうのは怪しい人を通さないために身元の確認をするものではないのだろうか、と疑問に思うも、のんびり屋の多いこの国で細かいことを気にしてもしかたがないと自己解決して、わたしはギャロップとともに山道を登り始めた。
 道は中腹まで整備されてはいたものの、いささか急峻だった。しかしギャロップの足腰は流石の強靱さで、急勾配をものともせずに登っていく。
 高度が上がるにつれ、高原を見渡せるようになる。地平の向こうまで、ずっと緑が続いている。昔は実りのない白茶けた土地だったと聞いていたが、面影はどこにもない。いっそ恐ろしいとすら感じる王様の御業(みわざ)だ。
 足場がだんだんと悪くなって、切り通しに入り込んだ。光が(かげ)ってきた矢先、洞窟の入り口がぽっかりと口を開けていた。気味の悪さは否めないが、他に道はなく、城に行くためにはここを通るしかないのだろうと観念する。
 洞窟の中は、防寒着を着てこなかったことを後悔する寒さだった。母はこんな道を通らなければいけないことに一切言及しなかった。
「早く抜けちゃおう、ギャロップ」
 ギャロップがぶるぶると嘶いてわたしに同意する。森閑とした洞窟だったが、物陰に潜むポケモンたちの視線をひしひしと感じた。
 小さな岩の裏に、ユキワラシと思われる(かさ)がちらりと見えた。他にも、バニプッチやダルマッカを見かけたが、皆一様に大人しくわたしが通りすがるのを見ていた。冬になれば高原でよく見かける氷ポケモンたちだったが、気温の上がる季節はここが唯一やり過ごせる場所なのだろう。
 小さな氷ポケモンたちに見送られて洞窟を出ると、切り通しも同時に開けていた。城の全容が露わになる。
「おっきい……」
 王を祀るための建造物は、呼称がまったく統一されていない。皆、神殿とも城とも宮殿とも呼ぶので、果たしてどれが正しいのかと思案したことはあったが、眼前にそびえ立つ厳かな意匠が施された雪のように白い建築は、いずれの呼び名も相応しいように思われた。
 呆けていると、上空から羽ばたく音が聞こえてくる。見上げると、一匹のポケモンがわたしの前に降りてきた。
 カラフルで、不思議な形をしていて、丸い体から翼が生えているが、(くちばし)もなければ足もない。鳥と呼ぶにはあまりにも奇怪な風体だった。
「何用か、人の子よ」
 わたしは驚愕して、ギャロップの上から滑り落ちそうになった。まさかポケモンに人間の言葉で話しかけられるとは思わなかったのだ。
「何用かと訊いている」
「え、ええと……母に言われて、王様に野菜を届けに参りました」
 そのポケモンは一つ目でわたしの顔を睨みつけてくる。眼がわたしの鼻に触れるくらいに迫ってきて、わたしはついにひっくり返った。
 すぐに立ち上がったものの、服が土で汚れてしまった。土を払い落としながら、野菜の籠だけはギャロップの上に乗ったままであることにほっとする。捧げ物を地面に落として汚してしまったら大変だ。
「ふん……まあいい。ついてきなさい」
 そのポケモンはわたしに謝りもせずにくるりと後ろを向いて、城のほうへ飛んでいく。わたしは不安がるギャロップと一緒に恐る恐るついていくが、王様もこのポケモンのように怖いひとなのかもしれないと思うと、途端に引き返したい気持ちに駆られた。もしかしたら、捧げ物を受け取ってもらえずに追い返されてしまうのではないか――とどぎまぎする。
 わたしの背丈より遥かに大きい門が開く。その奥に城が屹立していて、さらに奥には巨大な一本の樹が根を下ろしていた。
 鳥のようで鳥ではないポケモンは、わたしとギャロップの歩調をまるで気にすることなく、ずんずんと奥へ飛んでいく。
「あ、あの!」
「ギャロップも中に入れて構わん」
 連れてきたギャロップをどうすればよいか悩み出す直前だった。先読みが鋭い。エスパータイプなのかもしれない。
「くれぐれも粗相のないようにせよ」
 扉がひとりでに開く。緊張した面持ちで、わたしはギャロップと一緒に玉座の間へと入った。
 部屋は、思ったほど広くはない。採光が限られているせいか、薄暗い。調度品もほとんどなく、外側の絢爛さとは裏腹に、質素な造りの部屋だった。
 ゆえに、真ん中に陣取る、巨大な冠を被った王様の存在感が際立つ。
(あれが……王様)
 玉座に座っていたのは、人間ではなかった。小さい体から長い脚がすらりと伸びていて、緑色の大きな冠と思しきものは、そもそも頭部の一部のように見えた。顔は少しバイウールーに似ていた。吸い込まれそうなほど青い菱形の瞳は、わたしの考えていることをすべて見通してしまいそうで、思わず目を伏せた。
 王様は玉座からふわりと降りたが、床から浮いたままだった。音もなくわたしの前まで来ると、
「よく来たである。山を登ってくるのは大変だったであろう」
 と、人間の言葉でわたしに語りかけてきた。王様が眼前にいるという事実で心臓が裏返りそうになり、労いの言葉はまるで耳に入ってこない。
 わたしが口を噤んでいると、王様はまた言葉を紡ぎ始めた。
「して、この子は随分と怯えているように見えるが……シンボラー、オヌシ何かしたであるか?」
「へぇっ!? ま、まさか、私はただこの子を王の御前まで丁寧に導いただけで、こ、怖がらせるようなことなど何も……」
 このシンボラーと呼ばれたポケモンは王様の家来を務めているのだとようやく理解した。王様はわたしのほうを向き、「人の子よ、ヨの臣下がオヌシに無礼を働かなかったであるか?」と尋ねてきた。
 シンボラーのほうを見ると、一つ目が明後日の方向を向いた。表情はまったく読み取れないが、もし人間であったら、もの凄くばつの悪そうな顔をしているに違いなかった。なんだかおかしくて、わたしは思わず笑ってしまい、
「いいえ、とても親切にしていただきました」と答えた。
「……そうであるか。それならよいのだが」
 だんだんと緊張がほぐれてきた。
「さて、その籠はもしやヨへの献上品であるか」
 そういえば、とわたしはギャロップに乗せていた籠を手に取った。王様への捧げ物です、とたっぷりの野菜が詰め込まれた籠を差し出す。
「おい人の子、頭が高――」
「よさぬかシンボラー。人の子よ、有り難き品、しかと受け取った。至極感謝である」
 王様が深々と大きな頭を下げたので、わたしも慌てて頭を下げた。
「ヨも返礼品を渡さねばなるまいな。シンボラー」
「はっ、御意に」
 シンボラーが凄まじい速度で玉座の間から出ていった。怖いポケモンだが、忠臣であることは疑いようがなかった。
「あの」
「ム?」
 余計なことを話しかけるのは失礼にあたるのではという考えが一瞬頭をもたげた。だが、せっかく王様にお目見えできたというのに、捧げ物だけを渡して退くのは不本意だ。息を目一杯吸う。
「王様のお陰で、わたしも、母も、父も、村の皆も、お腹いっぱいご飯を食べることができます。ありがとうございます!」
 ひたすらに深く頭を下げた。ギャロップも見よう見まねで頭を下げる。どれくらいの時間、そうしていただろうか。ややあって、
「顔を上げよ、人の子よ」
 と声が響いた。この城の空気ごと掬い取るような透き通った声音だった。
 王様は、目を大きく開いて、わたしを真っ直ぐ見つめていた。
「民を飢えから遠ざけるのは豊穣の王たるヨの務めである。オヌシらがヨを頂く限り、ヨは全身全霊をもってオヌシらの期待に応えようぞ」
 わたしは、跪いた。ギャロップも、頭を床につくぐらいに下げた。
 王様に気圧(けお)されたわけでも、エスパー技による強制力が働いたわけでもなかった。ただ、そうするのが自然で、そうあるべきだと、思ってしまった。
 この国に生まれついたわたしは幸福だと、無条件に信じられる。わたしは初めて、信仰というものがどういうものかを理解した。


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「ふん、少しは礼儀を覚えたようだな」
 包みをぐいとわたしに押しつけたシンボラーは、「王は忙しい御身であられるのだ、長居するな」とわたしたちを広場へ放り出した。
 後方から「シンボラー! 臣民にそういう乱暴はするなと言っておろう!」と叱る声が聞こえたかと思うと、「今日の職務に一切手をつけていない王こそどういうおつもりですか! 今のご自分に民にかかずらう暇が一秒でもあるとお思いで!?」と反論が飛ぶ。喧騒を背に、
「……帰ろっか、ギャロップ」
 と、ギャロップのたてがみを撫でる。怖かったとひんひん鳴くギャロップを宥めながら門をくぐると、
「やあ、バド王には謁見できたかい?」
 と死角からテレパシーが飛んできて、わたしとギャロップは()け反った。門の支柱の陰に、黄緑色の鳥ポケモンが潜んでいた。
「あ、あなたも王様の家来?」
「そうだよ。もうひとりの家来と王の身の回りの世話をしているんだ」
 この国は、王もその臣下もすべてポケモンなのだ。わたしはお伽噺(とぎばなし)の国の住人なのだと、遅まきながら思い至った。
「シンボラーが脅かしてごめんね。悪いやつじゃないんだ。仕事に熱心すぎて、多少度が過ぎるだけで」
 威風堂々とした雰囲気の王様や尊大なシンボラーと比べると、このポケモンは随分と気安い。
「また遊びに来なよ。バド王は寂しがりだから、人が来るとすごく喜ぶんだよ。あんまり笑わないからわかりづらいけど」
 このポケモン自身も、テレパシーのトーンが楽しげな割りには表情が一切変わらない。真面目なのか冗談で言っているのか、まったく区別がつかなかった。
「ねっ」
 秋波(ウインク)。不意打ちだった。


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 山を下りる。中腹から見下ろす景色は、一面が冴えた緑だ。返礼品がずっしりと重い。城の背に生える神樹の葉で包み、蔦でしっかりと結ばれたそれの中身は、帰ってから開けるようにと言われた。
 また、来ようと思う。遊びに来た、なんて言ったら一つ目の家来に怒鳴られるので、王様の喜びそうな捧げ物を持って――。



王宮の懊悩 



 ある日を境に、シンボラーがヨに接する際の態度が急変した。
 極めて硬派であり、ネイティオとは正反対の性格をしているシンボラーがヨを撫でたいと言ったとき、ヨの心にはさまざまな思いが駆け巡った。
 それはあまりにも一瞬であった。最終的にはシンボラーに対して歓迎の態度を示したが、心模様は嵐のように吹き荒れた。
 ネイティオが何かを吹き込んだのかもしれないが、取り立てて責める謂れもない。ヨを支え、時には諫言や叱咤を与え、ヨのために忙しく動き回るシンボラーは、ヨとの物理的、そして心理的な距離感というものに、こちらが軽々しく口を挟むのは憚られるぐらいの拘泥(こだわり)を持っていた。
 節度、とも言い換えられるだろう。時折頭に血が上って抑えが利かなくなることを除けば、シンボラーは模範的な臣下で、民衆の見本だった。
 ネイティオはというと、俗気というものをまるで(そそ)げておらず、ヨの世話係というのは有名無実、仕事のほとんどをサボり、シンボラーに怒鳴られているのが常だ。
 ――話を戻そう。シンボラーが何かにつけて、たとえ民衆の前であってもヨに触れたがるのが、果たして良いことなのか。王には、備えるべき威厳や風格というものがある。ヨは民衆の信仰により成り立つ存在であるがゆえに、そういったものを疎かにはできない。
 だが。しかし。
「ムゥ……」
「王よ、何かお悩みでも?」
 玉座の上で思索に耽っていると、当の本人がふわりと近寄ってきた。
「いや、なんでもないである」
「そうですか。お困りごとがあればいつでも私にご相談くださいね」
 シンボラーの一つ目がしぱしぱと瞬く。
 ――撫でさせてくれませんか、という無言の申し立て。いつもであれば嬉々として頬を差し出すが、どうしたものか。
(ム……)
 答えは出ない。臣民が見ていない場所であれば問題ないのかもしれないが、そもそも臣下を含む臣民に対してベタベタと馴れ馴れしく接すること自体が好ましくないのではないか。
 ――考えすぎだろうか。品位とは何をもって品位と看做(みな)されるのか。
 黙考するうちに、少しだけ眠気がやって来て、一瞬頭が前に揺れた。その時、ヨの頬にシンボラーの翼の先が触れた。
「し、シンボラー、みだりにヨを撫でるのはあまり良くないである……!」
 ハッとする。よろしくない言葉を口走ったような気がする。
「シンボラー……」
 見上げると、シンボラーは翼を引っ込めて、わなわなと震えていた。――まずい。
「申し訳……ありません……出過ぎた真似を……」
「待っ……」
 ヨが呼び止める前に、シンボラーは遁走するように部屋を出ていった。
(……完全にやってしまったである)
 怯えるような目。どう控えめに見ても、ヨの言葉に相当なショックを受けてしまったことは明白だった。
 触るな、と言ったようなものだ。シンボラーの反応は当然だった。本当はそのようなことを言うつもりなどまるでなかったというのに。
「王よ、民が王のおやつに是非と、果物を持ってきてくれまし……って、どうしたんです? そんなにうなだれて」
 入れ違いにやって来たのはネイティオだった。タイミングがこの上なく悪い。
「ヨは……やはり王の器とは程遠いである……」
「そんなことはありませんよ、王。何か悲しいことでもあったのですか?」
 ネイティオがヨの頬に触れようとする。
「ネイティオ……今ヨを撫でるとシンボラーに殺されかねないからやめたほうがいいである……」
「ええ……そういえばさっきもの凄い勢いで外に出ていきましたけど、何かあったんですか?」
「……今はヨをそっとしておいてくれると嬉しいである」
 すれ違いの内容は、仔細に語るにはあまりにも恥ずかしい。シンボラーの名誉というものもある。
 シンボラーが戻ってきたら謝って、ヨが常々考えていたことを素直に伝えよう。


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 陽が落ちて、城には松明の灯りがついた。
「戻ってこないであるな……」
 夕餉の時間になっても、シンボラーは姿を見せなかった。普段のシンボラーであれば、断りもなく夕方までに帰らないというのは絶対にありえない。
(そこまで傷つけてしまったであるか……)
 玉座の上で膝を抱え込む。夕ご飯の支度ができましたよ、とヨを呼びに来るシンボラーの声が、懐かしく思えるくらい遥か昔のことに感じてしまう。
 空気を読まないことに定評があるネイティオも、流石に不穏な空気を感じ取ったのか、ヨの様子を見に来る始末だ。
「シンボラーはまだ帰ってきませんか」
「うむ……」
「困ったものですねえ。夕餉の支度という大切な仕事を放り出すとは」
 仕事をサボることに関して右に出る者はいないネイティオに言われては、シンボラーも形無しだ。
「ヨの落ち度である。シンボラーのことを悪く言わないでほしいである」
「それは失礼しました」
 ネイティオは飄々としていて、あまりシンボラーのことを心配しているようには見えない。もともと折り合いの悪いふたりであるし、シンボラーがいなくなって清々したとでも思っているのだろうか。
「シンボラーなら、たぶん城の近くにいますよ」
 ヨの憂慮とは裏腹に、ネイティオは事もなげに言った。
「シンボラーの居場所を知っているであるか?」
「いえ。ただ、もし僕が王と喧嘩して、王が僕に「もう顔も見たくないである!」と言い放ったとしても、僕は平気で城内を歩き回り、王の部屋にもずかずかと入っていくでしょう」
 それは想像に容易い。
「でもシンボラーは僕と違って繊細ですからね。本当は城の中に入って、王に会って話し合いたいのに、踏ん切りがつかなくて城の周りをうろうろしている……あの子はそんなタイプのポケモンですよ」
 だから、城の近くの物陰とかで、こっそりと様子を窺っているのでは、とネイティオは言う。
「……意外と相方をよく見ているであるな」
「見ていて飽きないですからねえ。ずっと一緒にいると疲れますけど」
 そう言うや否や、ネイティオは部屋を辞してしまった。


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 城の外に出ると、風が少し冷たかった。シンボラーは寒さが苦手であるから、なおさら早く中に迎え入れねば、と思う。
「シンボラー、いたら返事をしてほしいである」
 石城の前の広場には、誰も見当たらなかった。祭壇の裏や、門の前なども探してみたが、あの目立つ極彩色の姿はない。
 ネイティオのいう物陰というのは、たとえばどういうものを指しているのだろうと、ぐるりとあたりを見渡す。
 レイスポスの寝ている厩舎。木の陰。――いや、木の上か?
「ムゥ……」
 石城を見やる。この城は、山頂の岩場の窪みにはめ込むように建てられている。ゆえに、城の左右の側壁と岩壁の間には微妙な隙間がある。身を隠すなら絶好の場所である。
 城の向かって右側に回り、岩場と壁の隙間を覗く。
「……シンボラー、ここにいたであるか」
「……王」
 ネイティオの言ったとおり、確かに遠くまで探しに出る必要はなかった。シンボラーは側壁に体を縮こまらせながら、もたれかかっていた。暗がりになっているため、注視しなければ誰かがいることには気がつかない。
 昼間はどこかへ行っていたとしても、夕方には帰ってきていたのだろう。しかしヨと顔を合わせるのが気まずくて、城の中へ入るに入れず、ここでじっとしていたのだ。
 シンボラーの目は、暗がりでもはっきりと判るくらいに充血していた。泣き腫らして、もう涙も涸れてしまったらしい。
「シンボラー、ヨはオヌシに謝らねばならぬ」
「……その必要はありません。私が軽薄でした。立場を弁えず、浮かれすぎていたようです」
「それは違う、シンボラーよ」
 シンボラーの青い瞳に、ヨの顔がかすかに映り込んだ。わずかな月明かりが差し込んできて、ヨとシンボラーを照らしている。
「昼間、オヌシが悩み事はないかとヨに尋ねたが、実のところ、あったのだ」
 シンボラーの目がゆっくりと見開く。
「シンボラーが以前よりもヨと触れ合おうとしてくれているのは、本当に嬉しいである。何かと気疲れが絶えぬ身……それはオヌシに至っても同じであろうが……オヌシと触れ合える時間は何物にも代えがたい癒しであり、これからも王としての務めを精一杯全うしようという前向きな気持ちにさせてくれるである」
 訥々と、気持ちを伝える。一寸の狂いもなく、ヨの気持ちをシンボラーが正確に理解できるように。
「だが、オヌシも知っての通り、ヨは民の信仰の力により成り立つ存在。例えば民の前でオヌシと触れ合うことで、ヨが民にとって過度に気安い存在となり、それがヨへの信仰心を減じてしまわないか、とても心配なのである。信仰を失い、ヨの力が弱まれば、この国の平和は維持できなくなる。ヨがやって来る前の、実りのない荒れ果てた地に戻ってしまうような恐ろしいことだけは、どうしても避けなければならないのだ」
 だが、ヨの言葉が足りぬばかりに、オヌシの心を傷つけてしまった。どうか許してほしい。
 目を閉じ、胸に手を当て、頭を垂れる。
「……王よ、どうかお顔をお上げくださいませ。苦しいお気持ちのほど、ご拝察いたします。私の気が回らぬゆえ、余計なご心労を重ねさせてしまいました」
「いや、ヨが早く伝えればよかっただけの話である。オヌシを傷つけてしまったことを詫びさせてほしい」
「お詫びしなければいけないのは私のほうですよ」
「いや、ヨが」
「いえ、私が」
 どちらが謝るかと言うことに関しては互いに譲り合えなかった。結局、一緒に双方へ同時に謝るということで妥結する。
「申し訳ありませんでした」
「済まなかった」
 両方とも、顔を見つめ合って、ふふ、と笑う。仲直りはこれにて完了した。
「しかし……よくぞ戻ってきたであるな。愛想を尽かされて、ヨは見捨てられたのではないかと思ったである」
 今ならば、と内心を吐露してみると、シンボラーからは真顔で、
「私がそんなことするはずがないでしょう」
 という答えが返ってくる。
 シンボラーはかつて仕えていた王に捨てられるという仕打ちを受けた。いかなる理由があろうと、シンボラーにとって王に拒絶されるというのは言語に絶するストレスであり、トラウマになっているのは想像に難くない。
 それでもこうして帰ってきてくれたのだ。ヨへの忠誠心や臣下としての義務感がそうさせたのだろう。臣下の殊勝な心掛けを無下にするのは、王の名折れというもの。
 シンボラーの気持ちにどう報いるかということについては、これからじっくり考えることにしよう。
「そういえば」とシンボラーは声を上げる。
「実際に王の気安さが民の恐れ敬う気持ちを失わせる可能性がある、ということについては、私はあまり気にしなくとも問題ないのではと思っております。王のご想像以上に、民は王を慕っていますから。しかしそれでも気になるというのでしたら、当面の触れ合いは王の晩酌の時間、つまり誰も見ていない頃合いにて、というのはどうでしょう」
 それならば王の心配するような事態は起こらないでしょう、と付け加える。
「……晩酌を許してくれるであるか?」
 実を言うと、かつての失態でシンボラーからは禁酒令を言い渡されていた。民が献上してきた酒や、周辺国との交易により手に入った珍しい酒を嗜むのが密かな楽しみだったヨにとって、あまりにも辛い宣告だった。
「まあ……一晩に盃半分程度でしたら悪酔いはしないでしょうし」
 不承不承ながら、といった感はあるが、禁酒令を解除されたことにヨの心は驚きと喜びでいっぱいだった。
「その代わり、ちゃんと王を撫でさせてもらいますからね」
「それは大歓迎である!」
「さて、もう時間も遅いですし夕餉にしましょう」
「うむ!」
 心のつっかえは消え去った。明日もまた、いつもと同じ、愛すべき平和な一日が始まる。




 終わり




23/05/20 『王の器』更新
24/01/15 『神馬の審判』『御目通り』『王宮の懊悩』更新




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Last-modified: 2024-01-15 (月) 21:51:08
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