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渓谷のフラストレーション・下

/渓谷のフラストレーション・下

 第三回仮面小説大会非エロ部門参加作品


※引き続き警告します。
災害で人間が死亡する描写があります。
・鬱な展開が多い作品です。例えばポケモン、人間の残酷な死理不尽な暴力的虐待吐き気を催す邪悪などがあります。精神安定に自信のない方は落ち着いているときに読んでください。万一この作品を読んだことで何らかの精神的障害を負ったとしても当方は責任を持てません。
・本作品は仮面小説大会非官能部門投稿作品でしたが、大会終了後、強姦などの官能場面のある『終章』へのリンクを追加しました。またそれ以外にも、詳しく描写しない程度の失禁などの場面があります。
・本作品はフィクションです。実在する人物、団体、事件等とは一切関係ありません。専門知識の必要な部分の多くに架空の法則を使っていることをご理解ください。また、主人公を含めた各キャラクターの発言や行動はそれぞれの立場に基づいたものであり、作者個人の主義主張とは必ずしも一致しません。 


ここまでの話はこちらへ


断崖/ダンガイ 


 ★

 結局、今回の地震でサワヤタウン近辺に立てられていた煙突山スカイラインの柱の大半が倒壊した。
 少なくとも十数本が失われ、正確にどれほどの被害が出たのかはその日のうちには把握出来なかったそうだ。
 だが、次の日になるのを待っていられるような悠長な人間は、サワヤタウンには誰一人としていなかった。
 倒壊家屋、重軽傷者多数。そして死者1名。
 スカイライン建設が始まって以来これまでずっとゼロに抑えていた数字が、ラスター工法が耐震性能があやふやなまま強行され始めた途端最初の地震でこの有り様だ。1以上あれば十分過ぎる。ましてや犠牲になったのが僅か4歳の、誰からも可愛がられていたソアタだったのだ。到底黙ってなどいられるはずもなかった。
 同日午後6時、燃え盛る怒りに身を包んだサワヤの大人たちが揃って工夫団宿舎の戸を叩いた。
 もちろん俺も一緒だ。ギアルたちに付けられた傷の痛みも、瓦礫を踏み抜いた足の裏の痛みも、愛する村を傷つけられソアタを失った痛みに比べればどれほどのものか。
 数人の委員たちが俺たちを止めようと立ちはだかろうとしたが、その時既に現場から降りて来ていた工夫団たちが彼らを押さえ付けて通してくれた。工夫団も監督であるマーシーさんを軟禁され、地震への対応をさせて貰えなかったために負傷者を何人も出してしまった。俺たちと気持ちは同じだったのだ。
 こうして工夫団の代表数名を仲間に加えた俺たちは、宿舎の奥に設けられた新技術推進委員会事務室の扉を蹴破った。

 ★

「何かね? アポイントメントも取らずに失礼な」
 扉の向こうでは、一体いつどうやってこんなところに持ち込んだのやら知れぬ華美な装飾を施された黒檀の机の後ろで本皮の椅子に座って踏ん反り返ったニヒトが、説明会の日と同様きっちりとした頭髪に櫛を当てていた。
「何かねじゃねぇ! 事故のことを聞いてねぇのか!?」
 まるで何事も起こっていないかのように平然としているその態度に苛立った俺が喰いつくと、奴は相変わらずの冷ややかな笑みを浮かべて答えた。
「えぇ、連絡を受けておりますよ。うちの委員が一人、貴方に外に連れ出された途端に地震が起こり、転倒して膝に多量の出血を伴う擦過傷を負わされたとか。更に彼のギアルの他、私のキリキザンも重度の心因症を負い現在治療中です。他にも地震の際、工事現場に滞在していた委員が避難を要求したのに工夫団に拒否されて放置されたとも聞いております。それらについての謝罪と賠償についていらしたと言うのでしたら……」
「のっけからわけの分からん濡れ衣ばかり着せてんじゃねぇぇぇぇっ!!」
 身勝手極まるニヒトの言いぐさを、俺は怒声を張り上げて断ち切った。
「なぁにが連れ出しただ! 俺が地震予知について連絡しようとしたのを奴とお前のポケモンたちが邪魔をして、その揚げ句地震で勝手にやられただけじゃねぇか! つーかお前らの唾付けときゃ直るような擦り傷とかトラウマとか知ったことか! お前らが工夫団への連絡を妨害したせいで現場で地震への対応が出来ず、ラスター工法の柱が崩れてサワヤタウンに落ちて子供が死んだんだぞ!! 他にも重傷者が何人もいる! 工夫団にだって怪我人が出たんだ。謝罪だの賠償だの、要求してんのはこっちの方なんだよ!!」
 一気にまくし立てた俺に続き、住民の誰よりも深い怒りと悲しみを滾らせる男が進み出る。
「死んだのは、俺の息子だ」
 他でもない、ソアタの親父さんだ。濃い髭に隠れた顔を憔悴に歪ませ、射殺しそうな視線でニヒトを睨みつけている。
「柱に家ごと潰されたんだ。何の罪もない息子がだ! 女房も重体でいまだに眼を覚まさない。眼を覚ました時、息子のことを何と言って説明してやればいいんだ……っ!!」
 血が滲むような声を上げて、親父さんは机を叩きつける。
 そんな親父さんに対し、ニヒトは眉一つ動かさず平然と言い放った。
「何かと思えば馬鹿馬鹿しい。地震で家が壊れただけのことでしょう。私どもが賠償をする筋じゃない」
 一瞬、誰かの息を飲む声が聞こえ。
 次の刹那、たちまち怒号の渦が巻き上がった。
「な、何言ってんだ!? お前らの工事の柱が落ちたって言ってるじゃないか!」
「あんた、それが子供を失った親に対する態度かよ!? あの子はまだ4歳だったんだぞ!!」
 口々に責め立てる住民たちからの非難さえ、ニヒトにはまるで馬耳東風でしかなかった。
「小さな子供なんて些細なことであっさり死にますよ。無理に工事と結び付けて賠償金をたかるのはやめてもらえませんかね」
「だからどこからそんな台詞が出て来るんだ!? 貴様、ふざけるのもいい加減に……っ!」
「死んだのが働き手でなくて良かったですな。まだ5つにもなっていなかったというのなら、たいして金もかかってはいなかったでしょう。こんなところで無駄にヒステリーを起こしている暇があるなら、さっさと奥さんと励んで産み直せばいいじゃありませんか。ねぇ?」

 ――――っ!!

 堪忍袋の尾が根こそぎ弾け飛ぶ音が脳裏に響く。
 こっ……こいつ、生命を何だと思っていやがるんだ!?
 信じられない。これ程の侮辱を、ここまでの暴言を、よくも、よくもソアタに、あんないたいけな子供の死に……っ!!
 許せない。
 こいつがソアタと、サワヤのみんなと同じ人間であることなど、俺は絶対に認めない!!
「てめぇはあぁぁぁぁぁぁっ!!」
 咆哮を上げて机を飛び越え、ニヒトを椅子ごと押し倒す。
 頭を庇った姿勢で倒れ込んだニヒトの上に、真っ先にのしかかったのは親父さんだった。
 止めるものなどいるはずもない。
 親父さんの分が済んだら次は自分の番だと誰もが拳を握り締める中、怒りに満ちた剛腕が振り上げられる。
「この野郎――!!」
 だが、その刹那。
 ニヒトの懐から、赤い閃光が。
「――!?」
 鋭い衝撃音と共に、繰り出されかけていた腕が一瞬動きを止め、
 次の瞬間、親父さんの身体は吹き飛ばされ、背後の壁に叩きつけられた。
「お、親父さん!?」
「くかかかかっ! もう一度食らえ、騙し討ちぃっ!!」 
 奇っ怪な笑い声を上げるその影は、倒れた親父さんに再度飛びかかろうとする。
 咄嗟に俺は奴の進路に飛び込んだ。
 くそっ、猫騙しで怯ませて騙し討ちとは洒落たことを! だが、悪技で来ると分かっているのなら、そんな攻撃俺が余裕で受け止めてやる――
「ぐは、あ…………っ!?」
 ち、違う!?、何だ、この一撃!?
 重い。一発であばらが何本かへし折れた。内蔵が引っ繰り返るほどの衝撃に血反吐を撒き散らしながら、俺は親父さんのすぐ横の壁へと叩きつけられる。
 見れば俺の脇に突き立っていたのは、奴のダブついた皮膚に包まれた膝頭。
「ゴフッ! と、飛び膝蹴り、だとぉ!? てめぇ…………っ!」
「バ~カ。騙して討つから騙し討ちでいいんだよ。くくぅ~っくっくっ!」
 喉の奥を震わせて奴が哄笑した。
 ダブダブの黄色い皮膚からはみ出したヒョロリと細い痩身。薄気味悪い三白眼と嫌らしく笑う口。頭上に揺れる歪に膨らんだ赤黒い鶏冠。
 先のキリキザン同様、見たことのないポケモンだった。だが、噂に聞いた容姿と一致する。
「ズルズキン、って奴かよ……クソったれ!」
 悪・格闘タイプ! 先のキリキザン同様こっちの悪技はろくに通用せず、その上格闘技を完全に使いこなす悪タイプの天敵!
 くそ、キリキザンやギアルどもだけでもやっかいだっていうのにこんな奴までいるなんて。これじゃ俺は手も足も出せないじゃないか!
「アブソルくん! 大丈夫!?」
 カマラさんが俺の側に来て手当を始めた。親父さんの方にも何人かが集まって介抱している。
「まったく、事故が起こるとすぐこういう風に暴れて目立ちたがるおかしな輩が出て来る。困ったものだ」
 勢いを削がれたみんなの前で、ずれた眼鏡をかけ直して髪形を整えながらニヒトが嘲笑った。
「文句があるなら事故が起きる前から言っていればいいものを、有事にしか何も言わないのが出鱈目を言っている証拠ですな、皆さん」
 さっきまでしていた話など、いや最初からの話すらもなかったかのように一方的な理屈で決めつけられて、カッとなった住民たちが反論する。
「で、出鱈目はそっちじゃないか!? 事故が起きる前からどころか、説明会の時からずっと指摘してきたことが起こったんだろうが!!」
「そんな事実はありません。皆さんはラスター工法の安全性を十分納得の上で受け入れられたのですよ」
「勝手なことを言うな! あんたたちが無理矢理押し付けただけだろう!」
「百歩譲って俺たちがあの時認めたんだとしても、実際に事故が起こったことでこの地方の地震には耐えられないということが明確になったんだぞ。その明らかになった事実を元に意見を変えて何が悪いって言うんだ!? 人死にまで出しておいてどこが安全なものか!!」
 口々に詰め寄る住民に文脈も事実認識も論法も全てが目茶苦茶だった言い分をことごとく指摘されながら、尚もニヒトは太々しい態度で見下していた。
「ほう。それでは納期が遅れ、村に損害が出てもよろしいと?」
「損害はもう出てるんだよ! 工事の遅延による損害も含めて、事故を起こしたお前らが補償すんのが当然の責任だろうが!!」
「サワヤの人たちの言う通りだ! 道路公団から補償金が出るからって、自分たちが免責されるなどと甘ったれるな!!」
「やれやれ、結局そういう話ですか」
 住民たちだけでなく工夫団からも厳しい言葉をぶつけられるに至り、さすがのニヒトも辟易とした顔で肩を竦める。
「結構。ところでラスター工法がご不満でしたら、どんな方法ならよろしいので?」
「……え?」
 突然質問を返されて、みんなの顔に戸惑いが浮かんだ。
「どうしました? お金を出すのは考えなくもないですが、対案がないというのではどうしようもありませんなぁ。文句だけつけて知恵を出さないというのは虫のいいことで」
 意地悪く嘲笑うニヒトの前で、みんな困惑してざわざわと顔を見合わせる。いきなり知恵を出せ、と言われても、専門知識のないものが意見なんか出来るはずもないのだ。
 最初に手を上げたのが、工夫団の一人だったのも当然だろう。
「従来の工事で耐震用に使われている頑丈(スターディ)工法では駄目なのか?」
「論外ですな。頑丈(スターディ)工法には震動による騒音が発生するという構造上防ぎようもない欠陥が問題視されています。ビルなどにならともかく、このスカイラインのような高架線には不適格です。皆さんが夜眠れなくなるほどの騒音に耐えてもと構わないいうのなら考慮しなくもありませんが」
 あっさり却下され、意見した人だけでなくみんなの中に落胆が広がって行く。我慢出来ず、俺は痛む身体を持ち上げてみんなに尋ねた。
「なぁ、誰か他に何か知らないのか? 例えば草とか虫の力で地震を押さえ込むとか、飛行や浮遊特性の力で地震を防ぐとか……」
「聞いたことがあるわ」
 はっと顔を上げて答えたのは、カマラさんだった。
「確か宿り木(ミストルティン)工法と言うのではなかったかしら? 草の力で地震を押さえ付けるっていう。他にも地震に反応して基礎部分を浮遊させて被害を防ぐ浮遊(レビテート)工法というのも研究されているはずよ」
「そ、それだ! そんな方法があるんだったら……」
 期待を込めて俺はニヒトの方を見る。だが。
「どちらも論外です。宿り木(ミストルティン)工法は対腐食性に課題があり、年に数回もの大規模メンテナンスが必要な代物です。浮遊(レビテート)工法もシステムの複雑さに比例して安定性に欠け、とても実用に耐えるものではありません」
 当たり前のように却下したニヒトの態度を見て、ようやく俺は気が付いた。こんな奴の身勝手に付き合う道理なんか、初めっからなかったのだ。
「てめぇさっきから論外論外ばっか言いやがって、ハナッからこっちの対案なんか飲む気ねぇだろ! こっちにしてみりゃ地震に弱いラスター工法こそ論外なんだぞ!? 自分たちの案の欠点は無視して、こっちの案の欠点だけはあげつらうなんてそれこそ虫のいい話じゃねぇか!! 眼ぇ背けてんじゃねぇよ話聞けよ! ってかそもそも、どうして事故の被害者側である俺たちがお前らのために対案を考えなきゃいけないんだ!? 対案が思いつかなきゃ言いなりになれとでも言うつもりかよ!? それじゃ知識のない奴はされたい放題ってことじゃねぇか!!」
「当たり前ですよ。勝手なことを言う前に、もっと勉強すればいいだけです」
「勝手なことばかり言っているのはどっちだ! 対案なんざ事故を起こしたお前らが考えろ! 煙突山スカイラインへの信用を台なしにしておいて、一体どうやって工事を進める気なのか説明してみろっつってんだよ!!」
 今度こそ完璧に論破した、と俺は思った。
 ここまで言えばどうあっても責任を取る回答をせざるを得ないはずだ。やっとソアタの死に報いる答えをこいつから引き出すことが出来る、と。
 けれど、ニヒトはまだ笑っていた。
 相変わらずの、否、更に黒さを増した嫌らしい笑みで。
「ふむふむ。なるほど、私たちの対案を示せばいいのですね。分かりました。では」
 クソったれ! 今度はどんなろくでもないことを言いやがる気だ……!?

「撤退しましょう」

「…………何?」
 反射的に聞き返したのは、意味ではなく意図を探りかねたからだった。
「言葉の通りです。煙突山スカイラインは建設中止。ここまでの基礎工事の撤去費用と事故で壊れた家の修理代は我が社から出すことを検討しましょう。ただし、それ以外の補償は一切致しかねます。もちろん――」
 寒気がするほどの冷淡な笑みが、ニヒトの顔に広がる。
「道路公団から出ていた補助金も、全額返納ということになるでしょうが」
「…………!!」
 周囲に戦慄のざわめきが広がる。
 ふん、それがお前の切り札か。
 経済問題を盾にすれば反抗出来ないとでも思っているんだろうが、お生憎様だ。こっちはもう犠牲者が出ているんだ。お前らの思惑になんか誰が従うもんか。
「上等だ。道路なんざ改めて他の会社に作って貰えばいいさ。とっとと荷物をまとめて……」
「ま、待ってくれ……!!」
 背後からの声が、俺を制止する。
 振り返った俺の目に写ったのは、説明会の時同様に狼狽し戦意の全てを失ったサワヤの人々の姿だった。
「何だよお前ら! こいつらを追い出すことになるぐらい覚悟してこなかったのか!? ここまでされてまだ言いなりになる気かよ!」
 声を荒げて呼びかけても、沈んでしまった機運は盛り上がる気配を見せない。カマラさんですら、うつむいて俺の方を見ようともしてくれない。
「他の会社と言っても、当てがあるわけでもなし……」
「そうだ……それにいったん補助金を返さなければならなくなったらそれだけで我々はみんな借金だらけになる。その上でユークリニア社ほどの好条件で工事を請け負ってくれる会社を探すとなると……」
「……今何て言った」
 住民の一人が言った言葉を聞きとがめ、俺は喰いついた。
「好条件だと!? 地震で崩れるような道路を作られ、子供を殺されるのが好条件か!! まともな道路を作る会社の当てがないなら頑張って探せよ。金がないなら借金の分まで頑張って作れよ! こいつらに任せておいたらまた事故が起こるぞ。また誰かが怪我したり死んだりするかも知れないんだぞ! 金と命とどっちが大事なんだよ!!」
 しんと沈黙して項垂れている住民たちから、ぽつり、と言葉が漏れた。
「事故さえ……地震さえこの先ずっと起こらなければとりあえず道路は作ってもらえるんだ。だったらいっそこのまま……」
「ふざけんな!! そんなこと本気で言っているのか!!」
 怒りよりも、苛立ちよりも、俺は悲しかった。
 ソアタの死という現実を目の当たりにしてさえ目覚めようとしない、そんなみんなの心がまるで理解出来なかった。
「他のことは頑張りゃ何とかなるだろうが天災だけはどう頑張ったって止められやしねぇ! 俺だって地震を予知することは出来ても地震そのものを起こさなくすることは出来ねぇんだ! だったら地震が起こっても簡単には壊れねぇ道路を作ってもらうしかねぇだろうが!! 第一、道路が完成した後でその道路を走っているお客さんが事故に遭われたらどうするんだよ!? 地震で壊れる道だと分かったら客なんか誰も通らなくなるぜ! そんな通るものもない瓦礫の道がサワヤタウンに必要なのかよ!!」
 はっと何人かが顔を上げる。
 いい反応だ。もう少し説得すればまた攻勢に転じることが、
「ほらご覧なさい。こういう輩がくせ者なのです」
「……何?」
 不意に俺を指さしたニヒトの声に、俺を含めたみんなが一斉に振り返った。
「いいですか皆さん。今日の地震は当方の科学技術の粋を集めた地震予測装置でさえ予測出来なかったものでした。超能力だか何だか知りませんが、それを予知したなどというこのアブソルはうさん臭いと思いませんか?」
「おいこら、何自分たちの無能をひけらかしてやがる! うさん臭いのはお前らの楽観論だろうが! 何でずっと地震を予知して来た俺の方がくせ者呼ばわりされることになるんだよ!?」
 そうだ、と俺に同意する声が住民の中からも僅かに上がる。しかしニヒトはその声を、鼻先で笑い飛ばした。
「我々のラスター工法は安全です。事故など今後も決して起こりません。それをこのうさん臭いアブソルが先刻のように『煙突山スカイラインは地震で崩れる』などといいふらせば、事故が起きなくても他所の人たちは無駄に恐れて訪れなくなるでしょう。そうなったら風評でこの村に大変な被害が出ることになりますなぁ。それでもいいのですか?」
「またそんなことを! 死亡事故を起こしておいて安全もクソもあるか! 危険だと分かっている場所が避けられることを指して風評とかどこの世界の言葉だよ!? 地震で被害が出るのは事実であって俺の言い分とか関係ないだろ!!」
「ほらほら、また風説を広めようとしている! 皆さんどうかよくお考えください。地震さえ起こらない限り事故も起こりません。何も問題はありません。ラスター工法は安全です。そうでなければ、皆さん破滅しますよ?」
「安全でなくて破滅するからやめろと言っているんだろうが!! 災いは起こるもんだ。事故は起こるんもんなんだよ! どうしてそんなことが理解出来ないんだ!!」

「黙れえぇぇっ!!」
 怒号が、飛んだ。
 サワヤタウンの住民の、怒号が。
「黙れ……アブソル!!」
 …………!!
 そん……な……

「お前に、何が分かる」
 声を上げたサワヤの男が、俺を厳しい目で睨みつける。
 周囲のみんなも、揃って同じ目で俺の方を、ニヒトではなく俺の方を、睨みつけていた。
「この絶峡の渓谷で貧困に苦しみながら生きてきた俺たちサワヤの人間の気持ちなんか、その気になれば野性に帰って獲物を狩って暮らして行けるお前にはどんなに説明したって理解なんかしてもらえんだろうよ! 俺たちにはスカイラインがどうしても必要なんだ。ラスター工法の安全性を認めなければそれを作ってもらえないというのなら、認めるしか、ないんだ」
 なんで。
 何でそんなことを言うんだよ。同じサワヤの仲間だと、思っていたのに。思ってもらえてると思っていたのに。
 それを言うのなら、お前らだって俺の気持ちが理解出来るって言うのかよ!? 母ちゃんの警告を聞かずに滅びたあの村と、同じになって欲しくなくて、俺は……。
 絶望の余り、もう言葉が出なかった。
 すぐ目の前にいるはずのみんなとの距離が、やけに遠く感じた。
 深い渓谷のように巨大な溝が、間に横たわっているとしか思えなかった。
 と、不意に腹に衝撃を感じ、俺は再び壁へと叩きつけられた。
 いつのまにか近くによっていたズルズキンが、俺の横っ腹を蹴り飛ばしたのだ。
「やめて!」
 悲痛な声を上げて俺に駆け寄ろうとしたカマラさんを、周囲にいた住民たちが押さえ付ける。
「くかか! くかかか!!」
 耳障りな嘲笑を上げながら、ズルズキンは何度も俺を蹴りつけた。
「た……たす、け……ぎゃぁっ!!」
 助けを求め、伸ばした前脚も踏み躙られる。
「くかーかかかかかかっ!!」
 誰も、一歩も動こうとしなかった。
「これが皆さんの意志というものです。ご理解されたら、皆さんに不幸を呼ぶ予知はもうおやめなさいな。ねぇ〝災いポケモン〟さん。あはははは……」
 ズルズキンの足の下でニヒトの勝ち誇った高笑いを聞きながら、俺は惨めに床に沈んだ。
「さて、工事撤退の話でしたかな」
 みんなの方を向き直り、ニヒトは不敵な笑いを浮かべる。
「え……そんな、もうその話は……」
「そう言われましても、事実このような騒ぎを起こされてしまうと、確かな答えを皆さま方からいただかねばこちらとしても立場がありませんのでねぇ。私どもは皆さんの命をかけて工事を推進しているのです。どうか誠意ある謝意を示してもらいたいものですな」
 てめぇ、抗議しに来た相手に謝意を示せとかふざけんな! 命をかけてとかぬかしやがったが、かかっているのはお前らじゃなくってサワヤの住民と工夫団の命だろ……あれ、『皆さんの命』って、今こいつ堂々とそう言いやがったのかおい!?
 ろくでもなさ過ぎるボケの数々に突っ込んでやりたかったが、ズルズキンの足の下では成すすべもなかった。
「抗議は取り下げる。どうかラスター工法で工事を続けて欲しい」
 さっき俺を罵った男が頭を下げたが、ニヒトはそれを侮蔑の笑みで嘲った。
「あなたたちだけに言われましてもねぇ。この騒ぎの中心となった人に、きちんと頭を下げて取り下げてもらわないと」
 みんなの眼が一斉に俺の方を見る。
 何だよお前ら。俺に何をさせる気だ。
 俺は謝りなどしない。するものか。
 無理にでもさせる気なら、残された力の限りを尽くして罵ってやる……!
「いやいや、違いますよ皆さん。元々四つん這いのポケモンに頭を下げられたところでたいして意味はありませんのでね」
 元の格好が意味を左右するレベルで話をしてるのかよ。もうただの嫌がらせじゃねぇか。……おい、ちょっと待て。じゃあ一体誰に、
「ほら、そちらの方ですよ。彼に謝罪していただけるのなら工事を続行しましょう」
 ニヒトの指が、俺のすぐ隣を指差す。
 さっきズルズキンの騙し討ちで壁に叩きつけられた後、みんなに介抱されてそこに横たえられていた、
「ソアタの親父さんに……だと……!?」
 な、何てクソ外道だ!! 事故を起こした責任者の分際で、よりにもよって犠牲になった子の遺族を謝罪させろだと!? どこまでソアタの死を貶める気か!!
 最早膨れ上がった怒りが全身の傷から噴き上がりそうだ。この身体が動くものなら、今度こそあの喉笛を食いちぎってやるのに!!
 指差された親父さんもさっきのダメージで動けない様子だったが、やはり怒りを込めた眼で決死の抵抗を示している。当然だろう。こんなことを受け入れられるほうが異常だ。
「どうしました? 謝罪の意志はないのですかな」
 ニヒトのその言葉に、押されるように。
 住民の一人が、親父さんに向かって歩きだした。
 それにつられてもう一人、また一人、次々と親父さんを取り囲んで行く。
 おい。やめろ。馬鹿な真似はやめてくれ。
 そんなことをしたが最後、俺たちは、サワヤタウンは、完全に奴らの奴隷に成り下がってしまう……!
 しかし、住民たちは親父さんを引き起こすと、ニヒトに向かって座らせ、更に頭を押さえ付けて下げさせた。
「何をやっているのです? なんにも聞こえませんし、それに、誤る時は頭は床につくまで下げるものですよ。違いますか?」
 そう言って愉快そうに邪悪な笑みを浮かべるニヒトに、誰も言い返さない。誰も何も言わない。
 だから、そのコトッ、という小さな音もやけによく響いて聞こえた。
 親父さんの頭が、床に押し付けられた音だった。
「よろしい。後は言葉だけです。さあ、あなたの誠意を示してくださいな。あっはっはははは……」
 なんなんだ、ここは。
 地獄か。
 幼い子供を失った父親が、その死に責任があるはずの相手に対して謝罪をすることを仲間たちから寄ってたかって強要されている。
 こんな酷いことが、酷過ぎることが、許されるのか? 許されていいのか?
「う……ぅあぁ……」
 呻き声が漏れる。
 親父さんの声だ。
「ぅ……ぅゆ……ゆ、る、し……」
 そんな。
 やめてくれ。
 親父さんまで、心を折らないでくれ。
 それじゃあ余りにもソアタが報われないじゃないか!!
 やめろ。
 やめろ。
「こ……うじ……つ、づ、け……」
「……もう、やめろ! やめてくれえぇぇぇぇぇぇぇ~っ!!」
 踏み躙る足の下から、力を振り絞り絶叫を上げて。
 親父さんの声を遮るのが、俺に出来る精一杯だった。
「……この人は、ちゃんと言ったわ」
 親父さんのすぐ傍らにいた人が立ち上がり、ニヒトに向かって言った。カマラさんだった。
「抗議の取り下げを認め、謝罪しました。もういいでしょう?」
「はぁ? 私にはよく聞こえませんでしたが――」
「私は聞きました! まさか、約束を反故にする気ですの!?」
 下劣極まるニヒトに対し憤然と反旗を振りかざしたカマラさんの凜とした態度に、他の住民たちも次々と声を上げる。
「俺も聞いたぞ!」
「そうだ! 俺もだ!」
「聞かなかった振りなんてさせねぇぞ!」
 今度こそ全員で襲いかかりそうな住民たちの剣幕に、さしものニヒトも笑みを引きつらせてたじろいだ。
「はいはい、分かりました。約束通り工事は継続致します。ご安心ください。ラスター工法は今回程度の事故による遅延など簡単に取り戻せます。納期に影響はございませんのでご心配なく。それでは」
 逃げるように事務室を出て行こうとするニヒトを見て、ズルズキンはようやく俺から足を放しペッと唾液を顔に吐き捨てて去って行った。

 最後に、みんなで一泡吹かせてやった。
 だけどそんなこと、ほんの慰めにしかならない。
 弾劾のために来たはずの場が、被害者に対するリンチの場と化した。そしてこれからも〝地震で壊れるほどに安全な工事〟は続く。その事実に変わりはないのだ。
 絶望と悔しさを噛み締めながら、俺は意識を闇に落とした。
 あぁ、これは全部夢なのだ。
 絶対そうだ。そうでもなけりゃ、こんな酷過ぎる話がありえるわけない。
 眼を覚ましていつもの場所に行けば、藍色屋根の家と桜色屋根の家はちゃんとそこにあって、ソアタがチネちゃんと一緒に元気に迎えてくれるんだ。
 きっと、そうに違いない。

 ★

 だけど。
 眼を覚ました俺を迎えたのは、容赦のない現実だった。

 ★

 村を襲った悲劇の爪痕は、数日を経た今もそのままだった。
 瓦礫が片付けられていないばかりか、ソアタの葬式すら出す目処も立たないのだ。あの子の亡骸は、お袋さんの入院している診療所の安置室に保管されている。面影すら判らないほどに潰された、惨たらしい姿のままでだ!
 親父さんは役所の一室に軟禁されているらしい。いつ推進委員会どもとトラブルを起こすか判らないからだという。まるで犯罪者扱いだ。
 チネちゃんとそのお袋さんは村のどこか別の家に世話になることになったらしい。
 俺が行き先を知らないのは、誰にも教えてもらえないからだ。
 あれ以来誰ともまともに話をしていない。みんな俺の顔を見ただけで逃げるように去ってしまう。
 カマラさんの店も、ずっと店の戸はおろか裏口にまで鍵がかけられて入れない。行く度に呼びかけてみるが返事もない。一体彼女はどこへ行ったのだろうか?
 マーシーさんに関しては、宿舎での一件の後工夫団たちが処分の撤回を求めたが、大体予想の通り聞き入れられなかったようだ。いまだにどこかに軟禁され続けているらしい。酷い目にあっていないことを祈るばかりだ。
 そして尾根の上では、当たり前のようにスカイラインの建設工事が再開されていた。
 大量に倒壊したラスター合金の黒い柱はあっと言う間に新しい物が持ち込まれ、もう既に事故時の工程を越えて進行している。この点に関してはニヒトは全く嘘を言っていなかったわけだ。
 だがまたグラードンが身を揺すれば、再びあの柱は倒壊しサワヤタウンへと降り注ぐ。工事が進行した分だけ事故が起こった時の被害もより深刻な物になることだろう。尾根に沿って並んだ道路の柱は、今にもサワヤタウンを飲み込もうとする巨大な顎のようにも見えた。
 誰もがそうと分かっていても何の対策も打つことが出来ない。事故を想定した話をすることすら委員会に目をつけられることが怖くて出来ないというのだから。みんなただ脅えながら生きて行くしかないのだ。こんな状況では、もしまた地震を予知してもこれまでのようにみんなに聞いてもらえないかもしれない。くそっ、災いが迫ると分かっていながらただ黙って被害を受け入れろっていうのか!?
 これでは『ウソツキ少年』どころか、昔話に出てくる『予言を信じてもらえないお姫様』*1のようだ。必ず的中する予知能力を神から与えられながら、その能力で神の悪行までも見抜いてしまったお姫様は、神の怒りに触れて予言を誰にも信じてもらえなくなる呪いをかけられてしまった。国が戦乱に巻き込まれることも、敵国が使う計略も、敗戦し家族が皆殺しにされ国が踏み躙られることも、そして彼女自身が敵兵に凌辱され、奴隷に身を落とされた揚げ句、敵国の陰謀に巻き込まれて殺されてしまうことも、すべて予知してその度にそうならないよう必死に訴えた。だが誰も彼女の言葉を聞き入れず、迫り来る予言の通りの運命に翻弄されていくしかなかったのだという。それは一体どれほどの絶望だったことだろう。そんな想いを、いずれ俺は味わうことになるのかよ!!
 爽やかだったはずの風さえ淀んで感じられる。一体どうしたら俺はサワヤタウンを守れるのだろう。
「……アブ公」
 背後から呼び止められ、俺は歩みを止めた。
 俺をそんな呼び名で呼ぶのは、このサワヤではただ一人。
「マーシーさん!?」
 振り返った俺の目に、少し伸びた栗色の髪が写った。
 何をされたのだろうか、がっしりしていた体躯が縮んで見える。けれどもそのやつれた顔に、いつもの優しい笑みを湛えて彼はそこに立っていた。
「謹慎が解けたんだな! よかった、心配してたんだぞ」
「あぁ……条件付き、だけどな」
「条件?」
 マーシーさんはそれには答えず、じっと南の尾根を見上げて呟くように言った。
「俺がしくじったせいで酷い目に会わせたな。すまない。アブ公」
「マーシーさんのせいなもんか。悪いのはあの推進委員会どもさ。あんな奴らのためにソアタが……」
「ソアタには、さっき会って来たよ。可哀想になあ……」
「そうか……そうだな……」
 マーシーさんの表情に、深い悲しみと無力感が刻まれる。
「俺が代わりに死ねば、よかったんだよ」
「よせよ、そんなこと言うの。誰がマーシーさんのことを責めるんだよ」
 むしろ代わりに死ぬべきだったのは俺の方だ。何度そう思ったことか。
「誰がって、本社が、さ」
「あぁ、そうなんだ……って、何だとぉ!?」
 危うくスルーしかけたところで言われた言葉の意味を理解して仰天した俺に、マーシーさんは尾根を見つめたまま肩を竦めた。
「『住民にクレームの余地を与えるぐらいなら、工夫団が代わりに死ね。それがお前たちの責任だ』そう通達を受けたんだよ」
「そ、そんないくら何でも理不尽な!? 工事の危険性を訴えたマーシーさんを謹慎させて事故を招いたのは推進委員会たちで、奴らに権限を与えたのはその本社の連中じゃないのか!? その責任があるくせに、安全な場所で踏ん反り返りながら現場にいる工夫団に死ねって言ったっていうのかよ!? 一体どういう会社なんだユークリニア社っていうのは!?」
 憤りに声を荒げた俺に、マーシーさんは色褪せた栗色の頭を下げる。
「本当にすまん、アブ公」
「だから、謝るべきはマーシーさんじゃなくて!」
「俺に力がないばかりに、お前にもっと辛い思いをさせなければならない……」
「…………え?」
 握られた彼の拳が、小刻みに震えている。
「『住民のクレームの原因となる予知を行っている害ポケモンを排除しろ』それが、俺の謹慎を解く条件だ」
 害、ポケモン。
 俺が、そうだっていうのか?
「出来なければ工夫団との契約を解除した上、2度と仕事が受注出来なくなるように手を回すとさ。俺には工夫のみんなの生活を守る責任がある。だから……」
 おもむろに、彼は顔を上げた。
 悔し涙が、その瞳に光っていた。
 口の端を引きちぎるように苦しげに、マーシーさんは俺に告げた。

「サワヤタウンを出てくれ、アブ公」

 ズルズキンの飛び膝蹴りより遥かに激しい衝撃を、その言葉は俺に与えた。
 何てことを言わせるんだ、あいつら。
 俺のことを命綱だと評してくれたマーシーさんに、自らその命綱を断ち切れと命じるだなんて。
「アブソル、儂だ」
 突然ローブシンの声がした。マーシーさんが携えていたモンスターボールの中からだった。
「もしお前が出て行かないのなら、儂らが腕ずくで排除することになる。儂らも工夫団の一員じゃからな。出来れば何も言わず、このまま身を引いてくれんか……?」
「ごめんね、アブソル」
 バルビートの声が、それに続いた。
「僕らもこんなことしたくないのに……ごめんね……」
 俺だって嫌だった。
 こいつらと戦うのも、マーシーさんや工夫団を破滅させるのも。
「…………分かった。俺が出て行くよ」
 静かに、平静を装って、俺は頷いた。
 ガクリ、とマーシーさんが膝をつく。
 数滴の雫が、道に落ちて弾けた。
「すまない……申し訳ない。全部俺のせいだ。こんな酷い工事だと分かっていれば引き受けなかったのに……」
「人の悪意がもたらす災いまでは俺にも見抜けない。仕方ねぇさ」
「情けない……あいつを、カマラを幸せにしてやりたかったのに。あいつの人生を支えられる男になれると思ったのに。俺なんかにもうそんな資格ないよな……」
「そんなこと言うなよ。今はどんなに辛くても、彼女と一緒にきっと幸せになってくれ。俺がいなくなってもみんなが幸せにしていると信じることが、今の俺にとっての唯一の救いなんだからな」
「アブ公……」
 しっかりと首を上げ、微笑んで見せる。
 マーシーさんたちの苦しみを、少しでも和らげてあげるために。
「カマラさんによろしく。他のみんなにも伝えてくれ。それでも俺は、みんなのことが大好きだった、って」
 最後にそれだけ言って、俺は振り返る事なく村の出口の方へと駆け出した。
 笑顔を取り繕うのも、もう限界だったから。

 ★

 あと少しで村の出口、というところで、近くの民家から声が響いた。
 絶対に他の人間と聞き違えるはずのない人の、それは泣き声だった。
「うわーん、あぶそるー、そあたー、どこいっちゃたのー!?」
 あぁ、チネちゃん。この家に来ていたのか。
 喜びのあまり声をかけようとしたその時、脅えた声が彼女にかけられるのを俺は聞いた。
「駄目だよ、チネ。お願い、アブソルのことは呼んじゃ駄目なんだ」
「やだー! あぶそるー! あぶそるー! どこー!?」
「ごめん。アブソルと仲良くすると、あたしたちがここを追い出されてしまうんだよ。あんたを守るためには仕方がないんだ。分かっておくれ。分かっておくれ。チネ……」
 お袋さん、委員どもに脅迫されているのか!? 何て酷いことを! あいつら、チネちゃんまでも人質に!!
「そんなのわかんないよー! あぶそるがまもってくれるんだもん!そあたがそういってたもん! あぶそるー!」
 可哀想に。ソアタが死んでしまったことなど、幼い彼女には理解出来ないのだろう。ましてや俺がこれからいなくならならなければならない理由なんて、大人でも理解も納得も出来ないものをこの子にどう説明するっていうんだ。
「泣かないで。そうだ、あのおじさんに教えてもらったおまじないをしよう」
 あのおじさん?
 何を、教えてもらったって?
 訝しく思って窓から部屋の中を覗き込むと、泣きじゃくるチネちゃんの前でお袋さんは天井に向けて上げた両手を大きく振りながら、見るからに無理のある作り笑いを浮かべて言った。
「ほら、あ~んぜん、あ~んぜん」
 チネちゃんもすぐに真似をして踊りだす。グズグズに顔を崩したまま、一生懸命に手を振って。
「あ、あーんぜん、あーんぜん」
「あ~んぜん、あ~んぜん」
「あーんぜん、あーんぜん。あ、あはは」
 最後、チネちゃんは笑っていたのではない。ただ空虚に『あはは』と唄ったのだ。
 彼女にそれを教えた『おじさん』とやらが笑っていたのだろう。彼女はそれを真似ただけだ。
 誰が教えたのかも容易に想像が付いた。
 ニヒトの野郎……こんなおまじないがてめぇらのいう『科学の粋』とでも言う気かよ! どこまでもふざけやがって!!
 今すぐ飛び出して行って、チネちゃんの涙を拭ってやりたかった。お袋さんだって辛そうだった。きっと喜んでくれるだろう。
 だけど、一時の安心を与えたところで、今の俺に何が出来る?
 俺と仲良くしているというだけで、あの親子は迫害を受けるという。
 マーシーさんと約束した以上、俺はサワヤを去らなければならない。幼い子供を守りながらこの山谷で誰の助けも借りずに生きて行くことが出来るか?
 いっそ今すぐ工夫団宿舎に乗り込んで推進委員会どもを叩きのめして横暴な振る舞いをやめさせてしまえればいいのに。だが、あいつらにはあのキリキザンとズルズキンがいる。よしんばあいつらを倒したところで、スカイライン建設を人質に取られている限り委員会自体を追い出すことは出来ない。そんなことをすればどの道サワヤは破滅する。その事実を奴らが盾にしている現状では、何をしようが奴らに言うことを聞かせることは出来ないだろう。戦えば戦うほど、みんなに迷惑がかかるだけだ。
 このまま尻尾を巻いて逃げる以外、俺にはもう道はない。
 すべてを諦め、窓から後ずさった瞬間、俺はへまをやらかした。
 落ちていた枯れ枝を踏み折って、パキッと音を立ててしまったのだ。
「あー! あぶそるいたー!! あぶそるー!」
「アブソル……聞いていたのかい!? 待っとくれ、あたしは……」
 呼びかけられる声を身を引きちぎられる思いで振り切って、俺は村の外へと出て行った。
「あぶそるー! あぶそるー! いっちゃやだぁーー!!」
 幼い少女の悲痛な叫びが何度も俺を追ってきて、やがて途切れて消えた。
 ごめん。チネちゃん。もう遊んであげられない。
 お袋さん、呼び止めようとしてくれて嬉しかった。でもごめん。迷惑はかけられないよ。
 ソアタもごめんな。お前を嘘付きにしちまった。
 ずっと、守ってやりたかったのに。

 いつかきっと。
 いつかきっと、戻ってきてやるからな……。

 ★

 さて、これからどうしたもんだろう……?。
 俺は途方に暮れていた。飛び出したはいいが、なんら当てがあるわけでもなかったのだ。
 とりあえず、腹が減っていた。
 そういえばもう昼下がりだって言うのに、今日はろくにものを食べていない。っていうか事故後カマラさんに会えなくなったので、ずっと診療所で出してもらった簡素な味のポケモンフーズしか口にしていなかった。
 近くに木の実でも成っていれば早いんだが見つからないものは仕方がない。まずはとにかく水でも飲もう。
 渓流に降りようと、崖下を覗き込み。

「な…………っ!?」
 数瞬、俺は愕然とした。
 川の水が少ない……いや、涸れている!?
 何だ、これは。
 一体、何が起こっている……?

 …………!!

 き、来た。
 予知、だ。
 何てこった。
 まさかこんなことになっていたなんて……
 クソったれ! てめぇのことに気を取られて気付くのが遅過ぎだ!
 ここまで事態が進行していては、今から手を打ってもどうにもならない。もう手遅れだ。
 サワヤタウンは。
 あの美しい村は、俺の愛する故郷は、跡形もなく壊滅する!!
 タイムリミットは恐らく明日の夜明け。
 それまでに、一刻も早く住民を全員避難させなければ……!!
 あぁ、だけど。
 どうやって知らせたらいい。
 俺はもう、サワヤには戻れないのに。
 戻ったところで、俺の警告なんか誰も聞いてはくれないのに。

 ――知らせることないじゃねぇか。あんな薄情な連中。

 俺の心の中で、悪魔が誘惑をかけてくる。

 ――これまで散々助けてもらっておきながら、ニヒトみたいなクソ野郎どものいいなりになって俺をないがしろにした奴らだぞ。不吉な予知なんかいらないって言ったのは奴らの方じゃねぇか。

 違う! 弱みに付け込んだニヒトたちに恫喝されてそう言わされただけだ。誰もそんなこと心から思っているわけじゃない。分かってるだろ!!

 ――結局みんな命より金の方が大事だってことさ。どっちにせよ命がいらねぇって言ってる奴らを助けに行く必要なんかねぇ。母ちゃんの警告を聞かなかった村の奴らと同じだよ。『もうあんな村の人間たちなんか放っておけ』そう自分で言っただろ俺は?

 あぁ。言ったともさ。
 よく覚えてるよ。その時母ちゃんが、俺に何と言ったかもな。
『あなたにもいつか解る時が来るわ。これが……』
 ニヒトに逆らえない状況で、それでもささやかな怒りの声を上げてくれたカマラさんたちを。
 工夫団のために不本意な選択をし、己の無力に泣きながら俺に詫びていたマーシーさんを。
 最後まで俺を慕って追いかけてくれたチネちゃんを。
 誰一人として、見捨てるわけには行かない。
 俺がみんなを守るって信じて死んでいったソアタのためにも、だ!
 理屈なんてクソ食らえだ。方法を考えている暇もない。
 今は一刻も早く、サワヤタウンにこの危機を伝えに行く。
 それしかないんだ。 
 きっと、これが俺たちアブソルの(さが)なのだから!

 ★

 踵を返し、サワヤへの道を戻ろうとした、その途端だった。
 強烈な闘気の塊が、突然頭上から襲ってきた。
「っ!?」
 素早く岩陰に身を伏せる。手前の岩盤に命中して巻き起こった土煙の向こうに、気合玉を放った主の姿が見えた。
「ひゃはははは! どの道始末するつもりだったけど、村に戻ろうって言うんなら好都合だ! 排除命令に逆らったあんたを堂々と嬲り物にしてやるよ!!」
「キリキザンの婆さんか。バルチャイに髑髏は借りてきたのかい……ってうわぁっ!!」
 悲鳴を上げて岩陰から飛び出した瞬間、俺のいた場所に回り込んで飛んだ気合玉が叩き込まれる。
「誰がおむつを欠かせない寝たきり婆さんだい!」
 そこまで言ってねぇ。
「ふん。下らない挑発をしたって無駄さ。もうしっかり爪研ぎを済ませてあるんだ。外しゃしないよ。ひゃっはー!!」
 くそ! マジで気合玉が確実に追尾してきやがる!
 木々や岩を盾にして隠れても迂回して飛んでくるからすぐに逃げなけりゃいけないし、逃げ回ってもこのままじゃいつか追い詰められちまう。どうすりゃいいんだ。時間もないってのに……!
「待て! 急いでみんなに伝えなきゃならない事があるんだ。ここを通してくれ!」
「知ったことじゃないね! あんたのせいであたいは散々恥をかいたんだ。たっぷりと礼をさせてもらうよ!!」
「だからなんで俺のせいになってるんだよ!? 地震が来るっていっているのに信じないで攻撃した揚げ句、勝手に地震にビビってチビっただけじゃねぇか! 恨み事を言いたいのはこっちなんだぞ!?」
「やかましい! 乙女の痴態を覗いておいてよく言うよ! あんたが地震なんて予知するからあんな目にあったんだ!!」
「八つ当たりすんなあぁっ!! 乙女とかおこがましいことぬかすなら、失禁より前にそのろくでもない性格こそ恥らいやがれ!!」
 お、いいこと思いついた。
「おい! また予知があったんだ! 地震が来るぞ!」
「はっ! 脅して隙をついて切り抜けようってのかい。その手に乗るもんか!!」
 大正解。だけど、本当に乗らずにいられるかな?
「嘘じゃねぇ! 俺はそれをサワヤに伝えるために戻ろうとしてたんだ! くそっ駄目だ、もう間に合わない! 来るぞ! 伏せろおぉぉぉぉっ!!」
「きゃあぁぁぁぁ~っ!」
 ……ちっ、失敗か。
 隠れていた木陰から出るのを諦めて待機すると、飛び出そうとしていたコースに気合玉が正確に炸裂した。
「ふん! そら見ろ、やっぱり引っ掛けじゃないか。悪技なんかあたいにゃ通じないって言っただろう? あんたみたいな奴が考えそうなことは、うちのズルズキンがとっくにお見通しだったんだよ!!」
 ……ズルズキンが!? あぁ、なるほど。
「つまり、あんたあの野郎にお漏らしの件でからかわれたわけか。引っ掛けが慣れっこになるぐらい散々に。さてはさっきの寝たきり云々もその時の話だな。そいつぁ気の毒に……」
「わざとらしい同情面してんじゃないよ!」
「お前のさっきの黄色い悲鳴ほどわざとらしくはねぇだろ? 騙す気だったらこの前みたいに黒板を引っ掻いたみたいな声で泣いとけよ……うおっと!!」
 またすごい勢いで気合玉がぶっ飛んで来やがった。悪技が通じないって言っているわりに挑発にはすぐ引っ掛かるのはなんでなんだか。まぁいい。挑発しながら誘導しているうちに奴の死角から向こう側に抜けられる位置に移動出来た。逆上して無駄打ちしている間に出し抜いてやる!
 もう一度だけ、相手に俺の位置が見えるように動き、気合玉が放たれた瞬間を見計らって一気に向こう側へ――
「……!? ぐあっ!」
 突然左後脚に喰いつかれ、俺はその場に転倒した。
「ギギギギギギギギ!」
 ギアルだった。2枚の銀色の歯車が、左後脚を両側からトラバサミの如く挟んで回転し締め付けている。
「伏兵!? しまった……!!」
「ひゃははははは! 挑発で誘導していたつもりだったんだろうけど、生憎誘い込んだのはこっちの方さ! だから言ってるだろ。あんたみたいな奴の考えることはお見通しだってね!!」
 まずい……これじゃもう逃げようがない!
「放すんじゃないよ。いま仕留めてやるからね……ひゃっはー!!」
 確実にとどめを差さんとばかりに、キリキザンは俺の背後にその痩身を現すと、これまで以上に強烈な気合玉を打ち放った。
 空気に戦慄を疾らせて、気合玉が俺へと迫る。
「くっ……クソったれぇっ!!」
 渾身の力を込めて後脚を大地に叩きつけた。
 一瞬、歯車の拘束が緩む。
 その刹那を突いて俺は身を捻り、尻尾を唸らせてギアルどもをまとめて弾き飛ばした。
 迫りくる気合玉の目の前へと向けて。
「ギッ!?」
「ひゃっ、し、しまったぁっ!? ギアル、おどき!!」
 キリキザンが叫ぶが時既に遅く、ギアルは気合玉に飲み込まれた。
 炸裂音とともに鋼の歯車が砕けて飛び散る。
 それを煙幕にし、俺は傷ついた左後脚を引きずって村へと急いだ。
「ひぎぃぃぃっ! どこ行きやがったんだいあんちくしょうめ!!」
 背後から悔しそうなキリキザンの声が聞こえてきたが、付き合ってなどいられるものか。

 ★

 キリキザンを出し抜き、涸れた渓流沿いの道を登ってサワヤタウンへ。慣れた道だ。脚が傷付いていようと大した苦にはならない。
 やがて家並みの色彩が見える場所に差しかかった時、光る粒子が空から舞い落ちて来た。
 煌めく光は俺の回りで渦を巻き、銀色の風となって襲いかかる。
「うあああああっ!!」
 脚の傷のために躱すこともままならない。銀に輝く粒子の一つ一つが身体に食い込み肉を蝕む。
 くそっ、委員会の新手か!? 銀色の風とは、あいつら虫ポケまで連れていたのかよ!? 悪に鋼に格闘に虫と、悪ポケの俺が苦手なポケモン揃い踏みじゃねぇか!
 忌ま忌ましく舌打ちしながら空を見上げ、そして相手の姿を確認した俺は文字通り仰天した。
 そこに黄緑色の翅を広げて立ち塞がっていたのは、友人である見廻りのおっちゃんの持ちポケ、ドクケイルの婆さんだったのだ。
「ば、婆さん!? あんたどうして……」
「すまないねぇ。あたしらには、こうするしかないんだよ」
 複眼を悲しげに光らせながら、婆さんは再び銀色の風を放とうと鱗粉を撒き散らす。
 慌てて俺は立ち上がり、必死に婆さんに声をかけた。
「待って、話を聞いてくれ! 予知があったんだ。谷川の水が……」
「くう~っくっくっくっ! そ~ら、やっぱりだったな」
 耳障りな声が、俺の声を遮った。
 声のした方を向き直れば、相変わらず嫌らしい笑みを浮かべたあのズルズキンが、サワヤへの道を塞いで立っていた。
 その背後に、2体の影を従えて。
「谷川の水が減ったのを言い訳にして、アブソルが工事にケチをつけに戻ってくるかもしれねぇ……うちの教授の言われた通りになったぜ。どうするよおまえら」
 問われた後ろの2匹、工夫団のローブシンとバルビートは、何も言わぬままに俯いている。
 クソったれ! ニヒトの野郎、異変の兆候に気付きながらやることは俺に対するネガキャンかよ! 谷川の状況が見えてんならその原因もちゃんと調べやがれ!!
「ケチなんかじゃねぇ、本当に危ねぇんだ! とにかく話を……」
「聞く耳を持つなよ? 下手なことをすれば、お前らの大事な人間がどうなるか分かっているよな? くっくっく」
 くっくくっくウゼぇよ! どこの曹長さんだてめぇ!
 にしてもどこまでクソ汚ねぇ奴らなんだ。スカイラインばかりかおっちゃんや工夫団の人たち自身を本当に人質にしちまうなんて。 婆さんやローブシンたちとなんて戦えねぇよ!ったく、状況は刻一刻を争うって言うのに!!
「悪いのう、アブソル。そういうことじゃ」
 ローブシンが豪腕で2本の柱を抱え上げアームハンマーを形作る。
「戻ってこなければ良かったんですよ。予知があっても僕らのことなんか見捨てるべきだったんです。そうすればこんなことにはならなかったのに……」
 バルビートが尻先にシグナルビームの燐光を漲らせる。
「どうか、もう何も言わず逃げておくれ。あたしらに言えるのはそれだけだよ」
 ドクケイル婆さんが銀色の風を翅にまとわせる。
「ひゃはははは! 悪いけど、逃げ道なんかありゃしないよ!」
 背後から磨いた爪先に気合を込めたキリキザンが追いついてきた。
「散々あたいのことをコケにした揚げ句ギアルまでやりやがって! 今度こそ覚悟おし!!」
 そして正面では、膝頭を立てて構えたズルズキンがまたあの高笑いを響かせている。
「さぁ、宴の始まりだぜぇ。血祭りの宴の、な。くう~っくっくっくっ!」
 おいおいおいおい。
 なんぞ、これ。
 5対1ってだけでも絶体絶命なのに、委員会の2匹はこっちの悪技がろくすっぽ効かない上に格闘技持ち。
 倒して進むわけには行かない村の仲間たちは格闘ポケモン1匹と虫ポケモン2匹で、全員が俺の苦手な一致技持ち。
 ついでに俺は左後脚に手負いの身、と来た。
 詰んでるじゃねぇか、完璧。
 災いが迫って来ているって言うのに、どんだけ状況最悪なんよ。
 もう諦めるしかなくね?
 くそ、まだだ……諦めなどするものか!
 何とかして、みんなに危機を知らせるチャンスを作らなければ……!!

 ★

「くかーっ!! ちょこまかと逃げ回りやがって!!」
「あんたら本気でやってんのかい! さっさと仕留めないと人質をぶち殺すよ!!」
 5匹がかりの猛攻から、俺は死力を尽くして逃げ回り続けた。
 しかしそのために、村への道からはどんどん遠く引き離されて行く。
 気が付けば、谷川を望む断崖まで追い詰められてしまっていた。
 カラリ、と崩れた足元の石コロが、かん高いこだまを渓谷に響かせながら落ちて行く。
 あぁ、これだ。
 ここで叫べば、俺の声もこだまとなってサワヤタウンまで届くかもしれない。
 そうでなくても、ローブシンたちが知らせてくれれば……
 だけど。
「行き止まりだなぁ、災い野郎。くう~っくっくっくっ!」
「年貢の納め時だねぇ。ここまでの貸し、利息付きで返してもらうよ! ひゃはははは!!」
 こんな状況の中では、とてもじゃないがそう詳しいことまで説明出来るわけもない。
 だから考えて、考え抜いて、俺は言葉を選んだ。
 少ない言葉で、今すぐ伝えるべき事実だけを。
「やれ。まずはお前らからだ」
 ズルズキンの指示を受け、向かって来るローブシンたちを見据えながら、俺は心の鉢巻きを締めて気合を込めた。

 制止を求めるなんて無駄なことは諦めろ。
 苦痛に上げる声があるなら警告を叫べ!
 今は、ただそれだけに賭けるんだ!!

「みんな!!」
 アームハンマーが、俺の胴を打ち据える。
「今晩中に、この谷から!!」
 シグナルビームが、銀色の風が、俺の全身に浴びせかけられる。
「逃げて、くれ。でないとっ……!!」
「死ねぇぇぇぇっ! くかぁーかかかかっ!!」
 飛び膝蹴りは、顔面に炸裂した。
 バキッ、と、何かが砕ける音を聞きながら、それでも俺は踏みとどまった。
 呻きを、悲鳴を、伝えるべき警告へと変えて。
「……が、サワヤを、襲う……みんな、死んじま、うっ! だ、か、ら……」
「とどめだ! ひゃっはーっ!!」
 最後に、気合玉が飛来し。
 ボロボロになった俺の身体を、断崖の彼方へと突き落とした。

山隙/サンゲキ 


 ★

 僅かしか流れていない水を紅に染めて、俺は谷川の底を駆け降りていた。
 なぜだろうか、懐かしい気分がする。そうか、この谷に初めて来た時も俺は川のせせらぎと共に流れ落ちていたんだ。あの時の方が水に運ばれて楽だったなぁ……
 あれ、ところで俺、何でこんなところを走っているんだっけ?
 あぁ、そうか。
 崖から落とされて、逃げてる最中なんだった。
 追いかけてくる気配はない。あれだけ派手にやられて落ちたんだ。死んだと思われているかもしれない。
 ……つーか、よく死んでないな、俺。
 大威力の苦手技5連発食らって、崖下に落とされて岩に叩きつけられて、それでもまだ生きて走っているって言うんだから、我ながら丈夫どころか奇跡すら通り越して不条理とさえ言える不死身ぶりだわ。アブソルだぞ俺。耐久考えたらありえないだろ。
 そういえば、もう一つ重大な事実がある。
 予知があったせいですっかり忘れていたが、俺は腹が空いていたのだ。
 疲れたなぁ。何か食いてぇなぁ。休みてぇなぁ。
 あ、オレンの実の匂いがする。
 オレンと言えば、カマラさんに最後に食わせてもらったのもオレンサラダだっけ。あれはうまかったなぁ。
 食いてぇよぉ、オレン。どこにあるんだろう。
 あぁ、見つけた。
 すぐ近くの岩の上に、たわわに実ったオレンの木の枝が垂れ下がっている。
 早速岩によじ登って一枝拝借。実の一つをもぎ取ると、皮を剥ぐのももどかしいとばかりに丸かじりした。
 新鮮な深い味わいと共に、失われていた活力が身体を駆け巡り、
 そして、俺はようやく悟った。
 あれだけ痛め付けられながら、自分がここまで走ってこれた理由を。
 それはつまり、岩に落ちて頭を打ったショックで、痛覚が麻痺していたからだったのだと、身をもって――

「ウギャアアアアアアアアアアァァァァッ!!」

 痛い! 痛い! 痛い! 痛いぃ!!
 虫技に身体中を蝕まれた苦痛。
 格闘技に五体全てを打ち砕かれた苦痛。
 谷底の岩に全身を叩きつけられた苦痛。
 それら全てがそれを受けた時そのままの衝撃となって一度に襲いかかり、俺の魂までをも責め苛む。
 クソったれ!! 悲鳴を上げる代わりに警告するだなんて、そんな無茶どこの無責任野郎が考えやがった!? 無理だ! 無理! こんな痛みに耐えて警告するなんて絶対無理だ! いや、現にやっちまったかも知れないけどもう一度やれと言われたら断固拒否する! つーか大後悔! 馬鹿をやった! やるんじゃなかった!!
 助けてくれ!
 助けてくれ!
 この痛みを消してくれるのなら、それが死神の誘いでもかまいやしない!
 どうか、早く楽にしてくれえぇっ!!

 ★

 死すら渇望するほどに苦しみ抜いた末に我にかえってみれば、折ったオレンの枝にしがみついて無我夢中で実を貪っている俺がいた。
 どうやら腹の虫がさざめく苦痛は、他の全ての苦痛に勝るものがあるらしい。生きるということは恐ろしいことだと文字通り痛感した。

 ★

 一体、どれほどの間意識を失っていたのか――?
 一日以上経っていないことだけは、いまだに放たれる角からの予知が教えてくれた。
 空はとっくに夜の帳に包まれ、既に日が落ちてかなりの時間が過ぎているようだ。
 もし俺が今からサワヤタウンに戻ったとしても、もう住民全員に警告を伝えて脱出させるだけの時間は、恐らく残っていない。
 果たして、先刻命懸けで放った警告は誰かの耳に届いてくれただろうか……?
 もし届いていなかったら。
 届いていたとしても、あの推進委員会どもの保身のためにデマ扱いとかにされて逃げるのを止められていたら。
 嫌な想像ばかりが頭をよぎる。
 見上げれば、険しい山壁の遥か上方に煙突山スカイラインの柱の列が並ぶ南の尾根。
 そして目の前には、谷川沿いに東西へと走る一本の細い道。
 西に降りれば麓の丘陵地へ。
 東に登ればサワヤタウンへ。

 ――行くべき道は一つだ。判っているよな?

 また悪魔の誘惑が、耳に囁きかけてくる。

 ――もういいだろ? 俺は伝えるべきことをちゃんと伝えた。予知をした者としての義務はきっちり果たしたんだ。それを聞いてどうするかはサワヤの奴らが決めることだ。俺には関係ない。助けられた義理なんぞこれまで地震から救ってやったきたことでとっくに果たしている。誰も文句なんか言う奴はいねぇよ。つーかもう叩き出された身なんだろうが。あそこまで痛い目に合わされてまだ奴らの面倒を見る気なら、さすがに馬鹿だぞ。いくら俺でも付き合い切れねぇぞ!

 そうだな。馬鹿だよな。

 馬鹿なんだ。俺は。

 意を決し、振らつく足を東へと向けて、坂を登り始める。
 もうみんな脱出しているのならばそれでよし。
 もしまだ残っている住民がいたならば、抱えられるだけかっさらってでも安全な場所に連れて行くために。
 そのために命を落とすことになろうと、今度こそ覚悟の上だ。
 最後までやり遂げなかった後悔を抱えて生きながらえるぐらいなら、その方がましだからな。

 ――勝手にしやがれ。

 少しだけ、足取りが軽くなった気がした。
 
 義務だの義理だの、んなもんは関係ねぇんだよ。
 どんなに拒絶されても、傷付けられても。
 例え殺されることになったとしても。
 それでも俺は、みんなを愛している。
 サワヤに戻る理由なんざ、それだけで十分だ。
 俺たちの(さが)って、こういうことだったんだよな。母ちゃん。

 ★

 曲がりくねった山道を、東へ、東へと駆け登る。
 サワヤタウンへと。俺のただ一つのの故郷へと、わき目も振らず一筋に。
 真夜中の渓谷は虫の声一つせず、砂利道を刻む俺の足音だけが静寂を切り裂いて行く。
 ――否。
 虫の声ではない、風の音でもない、別の何かが。
 低い、震えるような唸り声が、俺のリズムを掻き乱した。
 見上げれば、曲がり角の向こうを眩い光の帯が煌々と照らし出している。
 あれは、まさか!?
 いや……まさかもクソもあるか!
 あれはどう見ても間違いなく自動車のヘッドライト。
 この狭い道で、こちらにヘッドライトを向けて停まっているということは、取りも直さずその車はサワヤタウンから来たということに他ならない。
 谷間の狭い村であるサワヤタウンに自動車なんて、工事現場の重機を除けば……
 曲がり角の岩から顔を出し、光の向こうの黒い影に目をこらす。
 当然のことながら、やはりそこで道幅一杯を塞いでアイドリング音を立てていたのは、ユークリニア社新技術推進委員会がこの谷に来た時に乗っていたあのクソ偉そうなオフロードカーだった。
 どういうことだ? どうしてあの車がここに……?
 怪訝な思いで伺って見れば、車の脇、崖側に生えた木々の下に蠢いている複数の影がいた。
 委員会の連中だろうか。こんなところで何をしているのだろう?
 逡巡している暇はない。とにかく近付いて話をしなければ。
「おーい、お前ら、ここで何、を……」
 岩陰から飛び出し、ヘッドライトの光線をくぐって相手の姿を確認した俺は、
「!?」
 一瞬、言葉を失った。
 暗がりに屈み込んでいた6人の男たち。
 ギョッとした面でこちらを振り向いたその面々は、もちろんこの車の持ち主である濃紺スーツの委員たちだった。ニヒト教授の整った頭もそこに並んでいた。
 そこは問題ない。問題は彼らが取り囲んでいる、もう一つの人影だ。
 その豊かな黒髪。
 鋭利に切れ上がった双眸。
 見まがう余地もなくそれは、カマラさん、だった。
 一体、どうして。
 どうしてその胸元がはだけて、男たちの一人の手が。
 別の男が掴んでいる彼女の華奢な脚には、膝の当たりに白い布地が引っ掛かっていて。
「……何を、」
 蘇った言の葉は、怒声となって牙を震わせた。
「なにをやってやがるてめぇらあぁぁぁぁぁぁっ!!」
 咄嗟に飛びかかろうとした俺の目前を、モンスターボールの閃光が遮った。
「くくぅ~っくっくっくっ! こりゃ驚いたぜ。てっきり昼間崖から落ちてくたばったと思っていたんだがよ」
 相も変わらず虫酢が走るような笑い声を上げるズルズキンの背後で、ボールをかまえたニヒトが冷笑する。
「やれやれ、失態ですねぇ。今度こそ仕留めなさい」
 その様子を見ていた他の男たちもカマラさんから手を放して立ち上がり、道を塞ぐようにずらりと並ぶ。俺がズルズキンに嬲り殺しにされるのを見物しようという腹積もりらしい。
「どういうことだ!? 何でお前らがこんなところでこんなことをしている!? 質問に答えろっ!!」
 俺の問いに答えたのは、ズルズキンの哄笑だった。
「どうもこうもねぇだろ。お前の予知を信じてやったんだぜぇ。くっくっくっ」
「俺の予知を、信じた!? お前らがか!?」
「そうよ。今晩中にサワヤタウンを逃げだせって言っていただろう。だからうちの教授に知らせてやったんだよ。感謝しろや」
「そういうことですよ。聞けば住民みんなが死んでしまうほどの地震が起こるそうじゃないですか。そんな危険な村に留まるほど私どもは愚かではありませんよ」
 ……俺の想像を遥かに越えた救い難い愚か者だお前らは!!
 余程罵ってやろうかと思ったが、その前に確かめなければならないことがある。ぐっと激情を堪えて、俺は尋ねた。
「それで、サワヤタウンのみんなはどうした?」
「連れて来たじゃないですか。ほら、そこに」
 ドス黒さ5割増のニヤケ顔を浮かべながら、ニヒトは背後で胸元を押さえて俯いているカマラさんを指差した。周囲の男たちが一斉に下卑た笑い声を上げる。
 だから彼女を連れて来てここで何していやがった!! と叫びかけ、しかしまた俺は堪えた。何をやっていたのかなど聞くまでもなかった。どうせ問いただしたところで、カマラさんを貶める言葉を返されるだけだ。
「彼女だけ、かよ。他のみんなはどうしたんだ!? 俺の予知は伝えてくれたんだろうな!?」
 下卑た冷笑が、一際強まった。
「どうして私たちが得た情報をわざわざ伝えないといけないんですか? そんな義務もなければ義理もない」
「置き去りに、したってのか……!? サワヤが滅びるという予知を知った上で、そこに住む人たちを見捨てて自分たちだけ逃げ出したっていうのか!?」
「知ったことですか。あなたの声が聞こえたっていう人や、昼間私のポケモンたちと一緒にいた村や工夫団のポケモンたちから伝えられたという人も何人かいましたが、デマに煽られて無用な混乱をしないようにとよく言い含めておきましたからねぇ。皆さんまだあの村で奮えているんじゃないですか? あっはっはっは……」
「だまれえぇぇぇぇっ!!」
 沸き上がった怒気が、激流のように身体中を駆け巡る。
 四肢の筋肉が膨れ上がり、角は長く鋭角な太刀へと姿を変える。
 混乱しないように、だと?
 批判しないように、の間違いだろう。クソが!!
「これ以上そのクソ汚い口で、俺の愛するサワヤを穢す言葉を喋るな! 消えろ……、今すぐお前ら全員、この谷から消え失せろ!!」
 これ程の怒りに身を焦がしながら。
 けれど極限の忍耐をもって、俺は彼らを慮る言葉を放った。
 最後通告、のつもりだった。
 誰一人、それを理解したものはいなかったが。
「おぉ怖い怖い。こんな恐ろしい災いポケモンを放置しておいたら、いつ我々にも災いが及ぶか分かりませんなぁ。そろそろ始末を付けておしまいなさい」
 芝居がかった口調で脅える振りをしてみせて、ニヒトはズルズキンに命令を下す。
「くくくくくっ、モチコース!」
 ……お前絶対カレー好きだろ。
「ねぇ教授、あたいは出してくれないのかい? あいつだけ楽しむなんて狡いだろ」
 とニヒトの懐から、痺れを切らしたキリキザンの甘え声が漏れ聞こえる。
「相手は満身創痍です。一匹で事足りるでしょう」
「戦力の小出しは兵法の愚作だよ」
「駄目です」
 黒縁メガネの奥がツッ、と鋭く光る。
「ギアルがどうやって倒されたのかお忘れですか?」
「!」
 ちっ。いくら馬鹿でもその手が読めないほど馬鹿じゃなかったか。
「貴方たちはどちらも格闘技に弱い。気合玉と飛び膝蹴りの同士討ちなどということになりでもしたら目も当てられませんよ。今回は見物していてくださいな」
「そうだぜぇ。それに、こいつが言っていた災いとやらもまだきてねぇ。外に出て来た途端その災いが起こったら、またこの間みたいな聖水プレイになっちまうんじゃないのかい? ま、姐御が見せたいって言うんなら俺としちゃ大歓迎だけどよ。くぅ~っくっくっくっ!」
 ニヒトとズルズキンの忠告に、今にも飛び出さんとしていたキリキザンの気配が奥に引きこもる。
「この野郎、後で覚えときな……。ふん、まぁ仕方ないさ。んじゃその代わりと言っちゃなんだけどねぇ、そいつは殺さないで四肢をへし折ってケムッソみたいな格好にしちゃくれないかい? そんでそいつの目の前で、あの女がみんなの相手をするのを見せつけてやるのさ!」
「ほほぅ。それはなかなかに一興ですねぇ」
「さぞ面白い声を上げて悔しがってくれそうですなぁ」
「はは、そいつは実に楽しめそうだ」
 キリキザンの非道極まる提案に、男どもは揃って同意してゲラゲラと笑い合う。もうこいつらの妄言にいちいち怒声を上げる時間が惜しい。悠長な話し合いはここまでだ。手っ取り早く追い散らそう。
 まったく、人もポケモンもどいつもこいつもクソばかり。一体どうしたらここまで下劣な奴らが一堂に会せるんだか。
「駄目……!!」
 男たちの後ろから、カマラさんの悲痛な声が上がる。
「アブソル君、逃げて! 私は大丈夫だから! 放っておいていいから!!」
 汚らわしい男たちの中で、彼女の清らかな声だけが清々しく胸に響く。もちろん放ってなんかおけるわけがない。一刻も早く助け出さなければ。
「悪ぃな。お前を逃がしたら俺がこっちの姐御に叱られちまう。たっぷり付き合ってもらうぜ。くくぅ~っくっくっくっ!」
 全然悪びれてなさそうな声で哄笑し、ズルズキンはギョロリと三白眼を光らせて身構えた。
「ンな趣味はねぇよ。こっちは急いでんだ。不意打ちの一撃でさっさと――」
 いい終えるより早く、俺は。
「――終わらせてやる!!」
 額にかざした漆黒の太刀を、一直線に振り下ろす!
 だが、
「くかーかかかっ! バ~カ!」
 その斬撃は、ズルズキンが軽く上体を反らしただけで躱されてしまった。
「頭に血を上らせやがって! 大体予告して打つような不意打ちなんざ不意打ちになるわけが、」
「なくもねーさ」
「――くかっ!?」
 その耳障りな笑い声も、これで聞き納めだ。

 振り下ろした斬撃を、翻す。 
 さながら宙を舞う(スバメ)の如く鮮やかに。
 翼を得て、鉤爪を構えた切っ先は、獲物の回避を許す事なく正確に追尾し、追いつき、捕らえて、そして。
 ダブついた表皮に包まれたズルズキンの喉笛へと、貪欲に喰らいついた。

 呆然と立ち竦んだ委員どもの間抜け面の上で。
 ボールのように跳ね飛んだそれがぼふっ、と木に当たって間の抜けた音を立てる。
 噴水のように真紅の飛沫を吹き上げながらどぅっと地に倒れたズルズキンの首のない亡骸を見下ろして、俺はせせら笑った。
「お前の不意を突いて打ったんだ。燕返しでも不意打ちでいいんだよな? バ~カ! くう~っくくくっ!」
 ……うげ、いけね。笑い声までうっかり真似しちまった。 

 ★

 男たちの誰が我に返るよりも、赤い光が俺の前に立ち塞がる方が先だった。
「ちっ、あっさりやられちまいやがって。ざまぁないねぇこの役立たずのフニャフニャ皮被り野郎! ひゃはははは!」
 ……なぜだろう。一瞬ズルズキンに同情したくなった。
「き、気を付けなさい!」
 急激に余裕を失った声でニヒトがキリキザンに注意を促した。
 ズレかけたメガネに隠れて震える瞳は、斃れたズルズキンの血まみれの断面を凝視している。
「分厚い鱗皮を幾重にも折り畳んで鎧っていたこいつの首が、その皮ごとこうも容易く一刀両断にされるなど尋常ではない! このアブソルは、確実に何かを隠し持っています!!」
「はぁ? 苦手な飛行技が急所に入ったってだけの話じゃないのかい?*2 気にすることもないさ。あたいにゃ通じやしないよ」
 ズルズキンの凄惨な最期――それでも、原形すら留めぬまでに小さな体を踏み躙られた哀れなソアタの死に様に比べればどれほどのものか!――にたじろいで後ずさる男たちを尻目に、キリキザンだけは怯むこともなく平然と俺と対峙する。
「ぶち殺されたくなかったらすっこんでろクソ婆ぁ。今度は小便どころかハラワタを全部ぶちまける羽目になるぜ。もうお前らにかける情けもなければ時間もねぇ!」
 今の俺に可能な限り誠実に懇切丁寧な説得を試みたのだが、狭量な彼女には通じなかったようだ。それどころかこの態度を挑発とでも受け取ったらしく、爪も研がずに血走った目で睨みつけてやがる。もっと厳しい言葉で説得しとくんだったか。
「いい度胸だね小僧。あんたの不意打ちや燕返しなんて、あたいの鋼の身体には通じないってのが解らないのかい?」
 キリキザンの嘲弄を、俺は鼻先で吹き飛ばした。
「関係ねぇよ。今の俺には、タイプ相性なんざ屁でもないからな」
「は? そりゃまたどうして?」
「正義の、心さ」
 至って大真面目な俺の言葉に、キリキザンは赤い頭部をカクン、と傾げる。
「…………はぁ?」
「だから、正義の心*3だよ。お前ら委員会がこのサワヤにやらかした悪巧み……イカサマ、騙し討ち、駄目押し、追い打ち、袋叩き! それらを許せねえ俺の正義の心が、この肉体の能力を極限まで高まらせているのさ!!」
 明かされた真実に余程感銘を受けたのだろう、陶酔したような表情で呆然と固まっていたキリキザンだったが、不意に身を折り曲げ、尖った肩を苦しげに奮わせて、
「あ……ひゃ……あひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!!」
 馬鹿笑いを始めやがった。
「せ、正義! 言うに事欠いてあんたよく臆面もなく! 正義の心で能力が高まるなんて、それじゃあんたはイッシュのお伽話に出てくる三獣士*4かっつーの! つかあんたも悪ポケモンだろ! 悪ポケモンの癖に正義の心って何、超ウケるーっ! ひゃははははっ!!」
 ……さっき上げた悪技に、挑発といちゃもんも追加しとこう。
 余程ツボに嵌まったらしく腹を抱えて笑い転げているキリキザンに釣られたのか、委員たちからも失笑の声が漏れる。つくづく馬鹿な奴らだ。自分たちに都合のいい情報しか目に入らない。ついさっきはニヒトも気にしていたはずのズルズキンの首のことなんかもうすっかり忘れ去っているようだ。
「信じねぇのは勝手だが、やるんだったら覚悟しな。今の俺の刃には、断てないものなど何一つねぇぜ」
「はっ! これ以上笑わせないでおくれ! 正義の心を燃やすほどサワヤタウンが好きだってんなら、散々玩具にして嬲った後で、災いで滅んだあの村に捨ててきてやるよ! 屍と瓦礫の山に囲まれながら思い知るがいいさ。あんたみたいな甘ちゃんには、何一つ守れやしないんだってね!! ひゃっはー!!」
 奇声とともに気合玉が放たれる。
 最初の戦い同様、爪を研ぎ切っていない気合玉など躱すのは容易いことだった。が、横っ跳びに躱したその場所へ、キリキザンが爪を振り上げて飛び込んで来た。
「ひゃはははっ!! 正義の心なんて夢物語は、あたいのメタルクローで切り刻んでやるよ!!」
 気合玉は間合いを詰めるための囮。接近戦での力比べで俺の正義を打ち負かそうってわけか。
「ありがたい。近付く手間が省けたぜ」
 襲いかかってくるメタルクローを、八相に構えた刃で迎え撃ちながら俺は呟いた。
 けれど口にした言葉とは裏腹に、心は悲しかった。
 結局キリキザンは、俺の警告を信じてはくれなかったのだから。

 キン!
 音を立てて二つの刃が交錯した次の刹那、銀色の光が、宙を舞っていた。

「ひぎゃああああああっ!?」
 メタルクローを受け止めた俺の刃は、その激突の衝撃だけで相手の爪を斬り飛ばしたのだ。
「あたいの爪! あたいの鋼の爪が! そ、そんな馬鹿なぁっ!?」
「馬鹿はてめぇだクソ婆ぁ! 警告したはずだぜ、俺の刃に断てないものはない、ってな!!」
 昔話の〝予言を信じてもらえないお姫様〟は、国が滅びた夜神殿に隠れていたところを敵兵に捕らえられ、その場で辱めを受けた。
 見つかった時、彼女は敵兵に訴えただろう。
『神殿で狼藉を働けば神罰が下る』と。
 当時の人々にとっては当たり前の常識だったその警告を、しかし敵兵は信じなかったのだ。
 その結果、凱旋の帰路でその兵士は神罰を受け、海の藻くずと消え果てた。
 恐れを知らぬ非道を働く者には、必ずや罰が下る。お前もその兵士と同じだキリキザン!!
「思い知るがいい!! これがサワヤタウンからの、怒りを込めたしっぺ返し*5だ!!」
「ひ、ひいいぃっ!!」
 悲鳴を上げながらも胸元の刃を構えて負けん気を見せるキリキザンへと向けて、俺は渾身の力をもって太刀を振り抜き、相手の胴をその身を守る刃ごと逆袈裟に斬り裂いた。
「がはああああああああああぁぁっ!!」
 断末魔とともに血飛沫と刃の破片を撒き散らしながら、キリキザンの痩身が吹っ飛んで行く。*6
 後方に並んでいた推進委員会の列へと向かって。
「う、うわあ、こっちに来るっ!!」
「逃げろっ!!」
 泡を食って避けようとした男たちだったが、中の一人が間に合わずキリキザンの屍に押し倒されて転倒した。
「まだ、やる気か……?」
 白い身体をズルズキンとキリキザンの返り血で怒りの炎の色に染め上げて俺は奴らを睨みつけ、ついでにニヤッと笑ってやった。
「ま、まるで死に神……いや、悪魔だ!」
「殺される……!?」
「わあぁっ! 助けてくれぇっ!!」
 完全に恐慌状態に陥った男たちは、倒れた仲間もカマラさんも放り出して我先にと車に転がり込んだ。
「うわあぁぁぁぁぁぁ! い、行かないで、行くなっ! 私も連れて行けえぇぇぇぇっ!!」
 キリキザンの下でもがく声は見向きもされず、ドアは閉ざされ車体が揺れてオフロードカーが俺の横を走り去る。
 一瞥だけで彼らを見送った後、俺は東の頂の向こうの夜空を見上げた。
 もっと早くこうしてりゃよかった。
 サワヤのみんなの事情を考慮して手をこまねいてなどいないで、邪魔な推進委員のポケモンなり人間なりを見せしめにぶち殺してでも力尽くで言うことを聞かせるべきだったんだ。そうすればみんなを救えていた。いっそ初めからそうしてりゃソアタだって死なずに済んだしれない。
 だが悔やんでも何もかも後の祭りだ。もう山の向こうがほのかに白み始めている。
 今から村に走っても、もう間に合わない。
 もう、誰も救えない。
 もう、誰にも救えない。
 ならばせめて、ここにいるカマラさんだけでも救わなければ。
 キリキザンの屍とその下で呻く男の脇を抜けて、奥にいるカマラさんの元へと歩いて行く。
 その途中、男の顔が目に入った。
 何か違和感を感じて立ち止まり目を瞬かせた俺だったが、足元に転がっているものに気付き、思わず吹き出した。
「前に押し倒した時、妙に必死になって頭を庇っていたのはそういうわけか。技術だけじゃなく髪形も偽物とは、とことん何にも無い(ニヒト)*7野郎だったんだなあんた」
 剥き出しになった簾頭に怒筋を浮かべて歯軋りしているニヒトにそれ以上構わず、俺は再び歩きだした。こんな奴に構っている暇なんかない。
 キリキザンの体重はせいぜい80kg程度。*8ソアタを潰した瓦礫の重量に比べれば軽いもんだ。しばらくそこでそうしていればいい。

 ★

「カマラさん、大丈夫?」
 ようやくたどり着いた時、彼女は服装の乱れこそとっくに直してはいたが、男たちにあんなことをされたショックが残っているのかまだ座り込んだままでいた。
「アブソル君……酷い姿よ、あなたこそ大丈夫なの?」
 そんな状況でもまず俺のことを心配してくれる彼女の優しさが心に染みる。元々全身傷だらけのところを正義の心で無理矢理奮い立たせていた上に盛大に返り血を浴びまくったのだ。かなり凄惨な有り様になっているのは自分でも分かっちゃいたが、カマラさんを助けるまでもうひと頑張りしなくては。
「俺は平気さ。それより立てる? 急がないと……」
 言いかけた言葉は、途中で遮られた。
「私は、大丈夫」
 カマラさんの手が、俺に向かって差し出されて、
 否、突き付けられていて。
 その手をそのままにして、彼女はおもむろに立ち上がった。
「大丈夫だったのよ。初めから」
 なぜだろう。目の焦点が合わない。
 目の前に突き付けられた手に携えられているものを、認識出来ない。
 それが、銃口をこちらに向けた拳銃だなんて、理解出来ない。
 理解したくない。
 わけが解らない。
 こんなこと、あるわけない。
「だから、放っておいてって言ったのに」

 ★

「まったく、君は私たちが彼女を無理矢理サワヤから連れ出してここで強姦しようとしていたとでも思っていたのかね? とんでもない濡れ衣だ!! そんな勘違いで私のポケモンたちを殺すなんて申し訳ないと思ってくださいな。あぁくそっ、この役立たずめの肘の刺が岩に食い込んで抜けやしない……」
 キリキザンの下から這い出そうと悪戦苦闘しているハゲ野郎が、俺に向かって罵って来る。何やら勝手なことも言っているが、そいつらに関してはお門違いだ。俺を始末するだの嬲りものにするだのと言っておいて濡れ衣も勘違いもない。
「いいですかな? その女は先の地震による事故の後、自分から私たちのところにいらっしゃって、サワヤタウンから連れ出してくれと懇願したんですよ。ご自身の肉体を条件にね。私たちは正当な報酬を受け取っていただけですよ」
「嘘だ!」
 このニヒトめ! 案の定カマラさんを貶めて自分たちの暴挙を正当化しようと!!
「あの人の言っていることは本当よ、アブソルくん」
 …………!?
「何を……何を言っているんだカマラさん!? そうか、分かったぞ。何か脅迫でもされているんだな! そうでもなきゃこんなこと!!」
「違うのよ」
 カマラさんは静かに首を振った。
「私は本当に彼らにカナズミシティに連れて行ってもらおうとしていたの。さっき一緒に車に乗らなかったのは、あなたにこれ以上邪魔をさせないため。一緒に車に乗って逃げたら、あなたは車を破壊してでも私を連れ出そうとしたでしょう?」
「そうだけど、だってそれはっ……」
「お願い」
 俺の言葉を強い口調で遮り、彼女は手に構えた銃を更に鋭く突き付ける。
「もう私についてこないで。このままこの人と一緒に行かせてちょうだい」
「そんな……何があったんだよカマラさん……」
 状況が余りにも信じられなず、俺は尋ねずにはいられなかった。
「あんなことをされてまで、サワヤを見捨てて自分だけ逃げだそうだなんて……そ、そうだ、マーシーさんは? 恋人のマーシーさんまで裏切ってきたってのか!? そんなの信じられねぇよ!!」
「彼は……違うの」
 マーシーさんの名前を出すと、彼女の顔に悲しみの影が射した。
「違うって……一体何が?」
「恋人じゃ、なかったの。私にとってあの人は……ただの客だったのよ」
「嘘だっ! 嘘だぁっ!!」
 錯乱した頭を振って、俺は叫んだ。
「恋人じゃないんだったら、あの時寝床で何をやっていたって言うんだよ!? ただの客相手にあんなことするわけが、」
「客だから、じゃないですか。何を言っているんです?」
 背後から、ニヒトの声が割り込んだ。
「なっ…………」
 多分、俺は相当な間抜け面をしていたのだろうと思う。
 そしてそのざまが余程面白かったのだろう。奴は喜々として追い打ちをかけてきた。
「まさか、ご存じでなかったと? 意味が分からないほどお子様でもありますまいに。つまり彼女はそういう女性なのですよ。村が外部の人間と商売をする際、条件を有利にするために相手に差し出していた……」
「やめろーーーーっ!!」
 俺は絶叫した。
 聞きたくなかった。
 知りたくなかった。
 カマラさんが、サワヤタウンが、そんなことをしていたなんて。
「聞いての通りよ。私は元々、汚れた女なの。村の男たちなんて、誰も触れようとさえしないぐらいにね」
 悲しげに告げられた言葉が、ニヒトの台詞を決定的に裏付けた。あの過疎の村の中でカマラさんほどの器量よしが三十路過ぎまで独身でいるだなんて、何か事情がなければ考えられなかったのだ。
「どうせ汚れているのだもの。生き残るためならどんな汚い手段だって躊躇いはしないわ。もうあんな牢獄のような村には戻らない。地震で滅びるのなら勝手に滅びればいい!! 私はこれから都会に降りて、お金持ちの男をその人に紹介してもらって贅沢に楽しく暮らしてやるのよ。貴方も言ったじゃない。幸せになるための努力をしてって。ならお願い、そこをどいて。私が幸せになる努力の邪魔をしないで!!」
 そんなのおかしいよ。カマラさん。
 幸せになるための努力だって!?
 そんなことが、カマラさんにとっての幸せだっていうのかよ!
 あぁ、でももしその問いを口にして、その通りだと言われたら。
 俺にはもう、彼女にかける言葉も、彼女を救う手段も、何も……

 ボロボロの身体を支えていた、正義の心が萎えて行く。
 ふらり、身体が揺れて、言われるがままに道を開けようとして。
 でも。
「どかない」
 ギリギリのところで、俺は踏みとどまった。
「……! どきなさい!!」
 激しい声と共に、銃声が轟いた。
 硝煙を上げて飛んだ弾丸は、しかし打つ瞬間彼女の手がぶれたために俺には当たらず、足元に着弾して小石を跳ね飛ばす。
「どかないよ」
 一歩たりとも退かず、俺は散々遮られてきた言うべき言葉を、ようやく告げた。
「だってこの先に逃げても、災いからは逃れられないんだからな!!」

 決めたんだ。
 どんなに拒絶されても、傷付けられても。
 例え殺されることになったとしても。
 それでも俺は、一人でも救うって。

「……!? どういう事? まさか、災いが起こるのはサワヤタウンだけじゃなくて……」
 あぁ。
 やっと、話を聞いてくれる。
「俺は昼間もついさっきもちゃんと言ったんだよ! 『この〝谷〟から逃げろ』って! 災いはこの谷全部に起こるんだ。さっき逃げた奴らも多分麓まで間に合わねぇよ!!」
 揃って驚愕の顔になったカマラさんとニヒトは、一斉に振り向いて車が走り去った闇の先を見つめた。もしさっき一緒に車に乗っていたら、二人とも助かるチャンスを失っていたのだ。
「ったく、こんな朝になる前にさっさと降りていれば助かったものを。一体なんでこんなところで!!」
 ニヒトの方を睨んで吐き捨てると、奴は焦って弁解した。
「し、仕方ないでしょう! サワヤタウンからこれだけ離れれば大丈夫だと思っていたのですから! 大体あんな狭い車内で、麓に着くまで耐えろとでも言うのですか!!」
「耐えろと言うに決まってんだろ馬鹿野郎! 要するにカマラさんの色香にスケベ心を我慢出来なかったってことだろうが! 何を偉そうに反論してやがる!!」
「そ、そんなことより、それじゃあ私たちはどうすればいいの!? まさか、もう間に合わないなんてことは……」
 徐々に明るさを増して行く東の空を振り返り、カマラさんが青ざめた声を上げる。
「まだ間に合うよ」
 たった一つの〝行くべき道〟を俺は角で指し示した。
「あの崖をよじ登って、南の尾根の工事現場まで行くんだ。谷さえ出られれば助かる!!」
 その俺の言葉を聞いた途端、なぜかニヒトが笑い声を上げた。
「あっはっは。何かと思えば、異種返しのおつもりですかな? 工事現場などに向かえば、地震でラスター工法の柱が崩れて私どもは生き埋めになってしまうではないですか。大方それが狙いでそんなことを言うのでしょう。誰がその手に……」
「だから!!」
 ニヒトの戯言を、俺は遮った。
 随分と突っ込みどころ満載の台詞を言われた気がするが、今はとにかく後回しだ。

「地震じゃないんだよ、今回の災いは!!」

「な、何ですと……!?」
 滲んだ脂汗で禿げた額を光らせてニヒトが呻く。
「馬鹿な、キリキザンは確かに貴方が地震が来ると言っていたと……」
「だから俺の話をちゃんと聞けってんだよ! 俺は地震だなんて一言も……」

『また予知があったんだ! 地震が来るぞ!』
『嘘じゃねぇ! 俺はそれをサワヤに伝えるために戻ろうとしてたんだ!』

 ……ごめん。俺言ってたわ。
 ったく、引っ掛けだと見抜いておきながら、何余計なところだけ信じてやがったんだよクソ婆ぁっ!!
「……こいつらが悪い!!」
「ちょっとなんですか今の間は!?」
「ふたりとも落ち着いて! それでアブソル君、地震じゃないなら一体何が起こるって言うの……!?」
 凍りついた表情で俺を見つめるカマラさんの問いに、俺は額を前足で抑えた。
 困った。この現象を何というのだったか。
 クソったれ!! 昼間は言えたはずだったのに、あのズルズキンの飛び膝蹴りに妨害された上、その後頭まで打っちまったもんでド忘れしちまってやがる! そうでさえなければとっくにその名前を言って尾根に避難していただろうに!!
 説明なんかするまでもなく一刻も早く逃げて欲しいのに、得体の知れない災いへの恐怖に二人とも身が竦んじまっている。ちゃんと何が起こるのかを解らせてあげないと。
 仕方がない。一から説明しよう。
「谷川の水が涸れてんのは、水源が塞き止められちまっているからだ。地脈に異質なものが交ざって、そいつが水の進行を阻んでいるのを感じる。恐らく先の地震で崩れ落ちた道路の構造財の欠片だ。ラスター合金のパワーとやらでそいつらが引き合って、周辺の岩石を挟むように寄せ集めて堰を築いちまったんだろうな。だが……」
 感じた。
 今が、災いの刻だ。
「だが、どんどん溜まって行く水の重量を、やがて堰は支え切れなくなり決壊する。溜まりに溜まった莫大な量の水が溢れ出せば、元々地震と火山灰のせいで脆い周囲の岩や土砂を巻き込んで、凄まじい速度と質量を持ってこの渓谷を流れ落ちてくる……!!」
「つまり……」
 カマラさんの手から拳銃が滑り落ち、ガチャッと音を立てて地面に転がった。
「土石流、なの……!?」
 それだ。やっと思い出した。
「そうだよ! そして今し方、堰が切れた気配を感じた。サワヤタウンはもう終わりだ! いずれここにも押し寄せる。だから、早く尾根へ逃げてくれカマラさん!!」
 叫んだ俺の声に弾き出されるように、カマラさんは踵を返して尾根へと向かう崖の方へと駆け出した。
 後に続こうと駆け出そうとした途端、突然俺は後ろ足を掴まれた。
「わ、私も助けたまえ……」
 ニヒトだった。
 キリキザンの屍の下からようやく抜け出せたらしい。土石流が来ると知って慌てて無理に引っこ抜いたらしく、挟まれていた足が変な方向に捩れている。
「アブソル君!?」
 様子に気付いたカマラさんが振り返って引き返そうとするのを、俺はすかさず制止した。
「カマラさんは先に行って! 今はとにかく生き残ることだけを考えて! 生きていなければ幸せになんてなれないだろ!! 俺なら大丈夫、こんな崖ひとっ跳びで登れるから!!」
 数瞬、俺とニヒトを見比べて逡巡していたカマラさんだったが、すぐにはっきりと頷くと、崖に生える木々の間を登り始めた。女性といえどさすがは渓谷育ち。見えなくなるのはあっと言う間だった。
「さぁ、私も早く上へ!」
「……その前に、何か言うべきことがあるんじゃねぇのか?」
 足を掴んだまま高圧的に急かすニヒトに、俺は微動だにしないまま冷然と問いかけた。
「な、何だねその態度は! 君はあの女の話を聞いていなかったのか!? 私が連れて行かなければ、彼女にカナズミでの居場所などない! 君は彼女が生き残りさえすれば、路頭に迷っても構わないというのかね!?」
「カマラさんの話ならよく聞いていたさ。お前が用意する彼女の居場所というのがどういうところなのかもな」
「仕方ないでしょう。あんな女、苦界以外のどこに生きる道があるっていうんです?」
 本っ当に彼女のことを貶める言葉でしか語れない奴だ! 不快感に堪えながら、俺は言い返した。
「俺の知っているカマラさんは居酒屋の女将さんだ。お前、彼女の作った料理を食ったことがあるのか? 他所に行ったって立派に料理屋で働いて食って行けるだろうぜ。お前の汚れた手なんか、カマラさんには必要じゃない!」
 それを聞いたニヒトの顔にドス黒い笑みが広がる。元から丸分かりだったが、鬘が取れると黒さがますます剥き出しになるようだ。
「はっ! そんな店など、我々が圧力をかければ働けなくなりますよ。そうされたくないなら私を助けなさい!」
 …………!?
 背筋をゾッとした感触が駆け抜け、俺は見開き切った眼で背後の相手を凝視した。
「何を……言っているんだ? お前、どこまで……」
「あははははっ! 何とでも言いなさい。あの女を助けたかったらさっさとわぎゃああああああっ!?」
 途中で奴の声が悲鳴に変わったのは、足にしがみついていた手を俺が手首からぶった切ったからだ。
「どこまで馬鹿なんだよ、お前」
 まったく、ここまで馬鹿だと呆れる余り怖毛が奮って、その振動ではらわたが煮え繰り返ってへそで茶が湧く。
「ここでお前を〝助けなかったら〟何をするんだって!? 脅迫にも何にもなってねぇぞ。相手と状況を見てものを言えよ馬鹿!」
「あ……あぅ……いや……」
 先をなくして鮮血を噴出させる手首を押さえながら錯乱した顔で首を振るニヒト。どうやら今頃馬鹿を言っていたことに気が付いたらしい。もちろん俺が助けなかったら死ぬだけなのだ。圧力なんて加えようもない。
「大方カマラさんがお前から離れようとしたらそう脅迫して縛り付けるつもりだったんだろう。生かしておく限り彼女の害になることしかしないと白状したようなもんだ。決まりだな。ここで死ね」
「い……いや……嫌だあぁぁぁぁっ!!」
 自身の血に塗れ悶えながら、もう笑顔を取り繕うことも出来なくなったニヒトが泣き叫ぶ。片足を捻り、片手を失ったその姿は、半分ではあるがキリキザンが俺をそうするように言っていたケムッソみたいな無様な姿そのものだった。
「死にたくない! 助けてくれ、死ぬのは嫌だあぁっ!!」

 ――なるほど、確かにこりゃ面白い声を上げてくれるもんだな。

 思わず嘲笑を上げかけて、慌ててそれを振り払った。いくら憎んでも憎み切れない相手だとはいえ、苦しみにのた打ち回る姿を見て喜悦に浸ろうとした自分の心がとても不快で不可解だった。だからそんな自分を否定するために、俺は奴を罵った。
「ガタガタうるせぇよ! そんなに死にたくなかったら、安全、安全ってヘラヘラ笑いながら唱えてろよ。そうすりゃ助かるんだろう!?」
「ふ、ふざけたことを言わないでくれ! この人殺しのけだものめ!!」
「そりゃ全面的にこっちの台詞だ! 耐震性能のないハリボテの工事をみんなをお金で脅してごり押しした揚げ句事故を起こしてソアタを死に追いやり、しかもその死すら冒涜して親父さんを傷つけて! その上俺を害ポケ扱いしてサワヤから追い出させて災いの予知を伝えさせなくして、あまつさえ自分たちだけ逃げ出してみんなを見殺しにした人殺しめ! お前らこそ死ぬべきだ! お前らだけが死ねば良かったんだ……お前らだけが死ぬんだったら良かったのに!!」
 しかし災いが悪党とそうでない者を区別することは決してない。悔しいが、それはどうしようもない現実だった。
「そ、そんなの私のせいじゃない!」
「何……だと!?」
「地震も土石流も天災でしょう! 折れた柱が家に落ちたり、構造材が水を塞き止めたりするなんて想定外の事故じゃないですか! こちらだって天災の被災者ですよ!? 何でもかんでも私どものせいにしないでくれ!!」
「天災だからどうだっていうんだ! 少なくとも地震に関してはそれが起こるからラスター工法は危険だと散々警告してきただろうが! 被災者面が通用するとでも思ってんのか!? 大体お前、さっきはっきりと『地震でラスター工法の柱が崩れる』って認めてたよな! そう想定していたからこそ、通りやすいはずの尾根の資材搬入路を避けてこの谷川沿いの道を逃げて来たんだろうが! 想定外が聞いて呆れるぜ!! 土石流にしたって、川の水が枯れてることには気付いていたんだろうが。だったら調査して対処することも出来たはずだ。それを怠ったのはてめぇの落ち度だ馬鹿野郎!!」
「好きでやったわけじゃない、全部会社の命令だったんだ! 私は新技術推進委員だ。社命のままに新技術を粛々と推進するのが私の仕事だ。そうしなければ粛正されてしまう。一体どうすればよかったと言うんですかぁ!!」
「お前のタマムシ大名誉教授っていう肩書きは飾りなのか!? 技術者として会社に意見する権利も機会もお前にはあったはずだ。結局お前はやるべきでないことをたくさんやっておいて、やらなきゃいけなかったことを一つもやらなかったんだ! そのせいでソアタが死んだ。みんなも死んじまう。誰も死にたくなんかなかっただろうに! 何もかも全部お前の責任だ!!」
 ったく、脅迫と命乞いの次は自己弁護の連続かよ。もういい加減うんざりだ。カマラさんを一人で先に行かせてまでここに残ったのは、そんな言葉を聞くためじゃないのに。
 苛立った吐息を空しく吐き出したその時、雷鳴のような瀑音が東の山肌を震わせた。
「時間切れだな。一言謝って欲しかったんだぞ俺は。見せかけだけでも頭を下げてくれさえすれば、首根っこを咥え上げて尾根まで運んでやったものを……」
 その言葉を聞いた途端、ニヒトは涙と鼻水でグチャグチャになった醜い顔を緩ませた。
「あぁ、悪かぎゃあっ……!?」
 助かりたい一心のおためごかしであることが100%明らかな奴の謝罪の台詞を、俺は後ろ足の一撃で吹っ飛ばした。
「時間切れだって言っただろ!! 本当に申し訳ないと思っているのならみんなと一緒にあの世に逝け!」
 そのまま振り返ることもせず、とどめの言葉を吐き捨てる。
「ただ死んだぐらいで許されると思うな! お前らみたいな汚らしいクソ野郎は、クソに相応しい地獄のどん底まで流され堕ちて行ってしまえ!!」
 我ながら反吐が出るような台詞だとは思ったが、それでも叫ばずにはいられなかった。
 咎なくして死んで行く人たちのため、彼らにその運命をもたらした奴らに妥当な罰が下されることを願うより他に、俺にはもう何ひとつ出来やしないのだから。
 引っ繰り返ったニヒトをその場に置き去りにして跳び上がり、近くの木の梢へと登る。
 そこから更に高い場所にある梢を目指して宙に舞った、その刹那。

 衝撃を伴った暗黒が、世界を埋め尽くした。

 流され落ちてしまえ、と俺は今し方言った。
 実際は、流されるなんてそんな生易しいものでは済まなかった。
 荒れ狂った巨大な水の竜が、巌の爪牙を振るって行く手にあるものを一つ残らず、一切の情け容赦もなく引き裂き、打ち砕き、叩き潰し、破壊の限りを尽くして踏み躙って行く。
 背後で上がった絶望的な悲鳴は、一瞬で途絶えた。
 振り向いて確かめることはしなかった。そんな余裕はどこにもなかった。
 激流の中に見え隠れする僅かな足場を必死で見つけだし、跳んで、跳んで、ひたすら跳んで尾根を目指して行った。
 途中、うねり落ちる波の間に見覚えのある色をした屋根の破片を視界に捉えた気がしたが、やはり振り返らず跳び続けた。
 もし振り返ったら、もっと見たくないものを見つけてしまうかもしれなかったから。

 薄れゆく宵闇の中、微かに煌めいたのは明けの明星か、跳ね上がった水飛沫か、それとも。

 ★

 山頂を越えた朝の日差しが、渓谷の狭間を駆け降りる。
 しかし照らし出された世界は、もう俺の知るサワヤの谷ではなくなっていた。
 木々は残らず根こそぎへし折られ、そこら中に土砂や岩が散乱し、流れ落ちる濁流は朝日の中で血の川のように赤黒く見える。
 まさしく山肌に穿たれた傷痕そのものだった。美しかった谷間の色彩は見る影も無かった。
 見上げれば、サワヤタウンがあったはずのその場所も、土石流の爪牙によって見るも無惨に抉り取られていた。
 無事な建物は一件もないのが遠目にも分かる。僅かに残った柱の破片が、かつてそこが村だったことを示していた。後はもう、廃墟と呼ぶことすら出来ない瓦礫と岩と泥で埋められた谷。そこに生き残りがいる可能性なんて、そんな奇跡を想像することさえ徒労であると即座に理解出来るほどに絶望的な、絶対的な破壊の跡がそこにあった。
 みんな、あそこにいたはずだ。
 みんな、死んでしまったのだ。

 ――痛快だ。
 ああ、痛快だね。
 ざまあみろだ。俺の警告に従わず、あんな奴らの言いなりになったりなどするから、みんなこうなったんだ。当然の結果さ。
 従わない者を意のままに処断する、どころか。
 従わない者ならば意に拠らずとも処断してしまえる、と言うのは、これはもはや神の領域ではないだろうか?
 だとすれば、俺は今この瞬間、神にも等しい存在としてここにあるのだ。
 そうさ。
 そうとも。

 誰が望んだりなどするもんか。こんな結末。
 助けたかったのに。
 だから、警告してきたのに。

『本当にありがとうな、アブ公』
 マーシーさんの大きな手が、俺の頭を撫でつける。
『あぶそるー、あそぼー』
 チネちゃんが可愛らしい声を上げて駆けてくる。
『アブソル、いつも御苦労さん』
『ほらアブソル、これ持ってけよ。世話になってる礼だ』
『ずっとこのサワヤにいてくれよ、アブソル』
 在りし日のサワヤのみんなの暖かい声が、脳裏に浮かんでは消えて行く。
 幸せだったサワヤでの日々。
 もう全て失われてしまったなんて、信じられない。信じたくない。
 谷に向かってみんなを呼んで耳をすませば、どこからか返事が聞こえるかもしれない。そんな衝動に駆られた。
 けれど俺は静かに、その思いをしまいこんだ。
 いつまでも悲しみに暮れている暇はない。
 みんなの死を無駄にしないためにも、いつかどこかで災害の啓示を受けた時、二度と卑劣な奴らに警告を妨げられることのない手段を考えて行かなければならないんだ。
 ここから生まれる何かがあると、そう信じて――
「あばよ、みんな」
 そう呟いて、変わり果てた故郷に尻尾を向けた。
「そんなに安穏とした夢だけ見ていたいんだったら、いつまでもこの渓谷で眠り続けていればいい……」
 どうか、安らかに。
 呪いの言葉で悲しみを押し殺しながらも、心の底では、心の底から、深く深く祈りを捧げて、そして俺は歩き出した。
 山隙へと続く、尾根伝いの道を。

 ★

 兎にも角にも、一人は救えたのだ。
 この惨劇の中、ただその事実だけが救いだった。
「この辺り、だよな。あの場所から崖を登ったんなら……」
 眼を凝らし、匂いを探って、カマラさんの足跡を捜し求める。
 見つからない。
 まだ、見つからない。
「カマラさん!? カマラさ~ん!? 俺だよ、アブソルだよ! どこにいるんだ!?」
 救ったんだ。
 俺は、救ったんだ。
 そのはずだよな。俺はカマラさんだけは救ったんだよな!?
 発狂しそうなほどの焦燥感に心臓を鷲掴みにされる思いを抱いて、俺は尾根を下りながらカマラさんを捜し続けた。
「くそっ、どこだよ、無事でいてくれよカマラさん……!?」
 何度も立ち止まり、崖下を覗き込み、呼びかけることを繰り返して、繰り返して、
 何十度目だっただろうか。
「カマラ、さ……!?」
 見つけた。

 渓谷の遥か底で、崖に寄りかかるように一本の大木が倒れていて。
 その幹の中ほどに、カマラさんは両腕を開いた姿で仰向けに横たわっていた。
 着衣のほとんどがズタズタになって千切れ飛んでいて。
 剥き出しになった素肌は、元から白かったものを更に青白く褪せさせていた。
 間に合わなかったんだ。
 尾根に辿り着く前に土石流が圧し寄せ、ここまで攫われてきてしまったんだ!!
 何てことだ……くそっ! クソったれ! 俺はつくづく大馬鹿野郎だ!!
 何でカマラさんを一人で避難させたりした!? ニヒトに足を掴まれた時、即座にその手首を斬り飛ばして一緒に崖を登っていれば彼女を守れたはずだ!
 ズルズキンとキリキザンを倒して委員共を追い散らした時、俺はもっと早く手段を選ばずにみんなを助けていればよかったと後悔したはずだった。それなのに俺ときたら、あんなクソ野郎でも悔い改められるなど信じて、無駄な期待をかけたために救うべき人を守ることをむざむざとおろそかに――!!
 いや、まだだ! きっとまだ彼女は助かる!
 あんなところに引っ掛かって止まらなかったら、見つけだすことも適わなかっただろう。この奇跡は、きっと偶然なんかじゃない。彼女の生きたいという強い意志が引き寄せたものに違いない! だったら助かる奇跡が起こったっていい! どんなご都合展開だろうとかまわない! どうかそうであってくれ!!
「カマラさあぁぁぁぁぁぁぁぁん!!」
 激流に曝されて荒れ果てた崖を転がるように滑り降りて、俺は彼女のもとへと駆け寄った。
 湿ってささくれ立っている幹をよじ登り、間近でその裸身をあらためる。
「…………!!」
 胸の双丘のすぐ下から、木の枝が断面を覗かせていた。
 折れた枝の根元に、彼女は貫かれてしまっていたのだ。
「うあぁぁぁ……」
 大量に出血したであろうにその跡も洗い流され、最早流れ出る血も残っていないかのようだった。
 どこからどう見ても絶望的な、そんな姿でカマラさんは、
「アブソルくん……ぶじだったのね……」
 返事を、してくれた。
 彼女は、まだ生きていた。

「カマラさん! カマラさんしっかり! 今、今助けるから!!」
 気休め以外の何物でもないことを、俺は叫んだ。どうやって助ければいいのか、どうやってここから動かせばいいのかさえ見当もつかなかったのに。
「むりよ……こんなになっているのに、もういたみもかんじないんですもの。きっとわたし、もうしんでしまっているんだわ……」
「そんなことない! カマラさんはまだ生きているんだ! 希望を持ってくれ!!」
 彼女の言う通りかもしれない。その身体を見れば見るほど、何の生気も感じない。今はもう彼女の魂だけが口を動かして言葉を綴っていると言われれば納得せざるを得なかった。
「もういいの……それよりサワヤタウンは、やっぱり……?」
「…………」
 咄嗟に俺は答えられなかったが、沈黙だけで彼女は察してくれたようだ。
「そう……ニヒトも、しんだのね……?」
「あぁ。ごめん、カマラさん。どうせあいつを死なせるなら、一緒に逃げてあげるべきだった! 本当に、ごめん……」
「あやまらないで……みんなをみすててひとりでにげだそうとしたおんなにははりつけがふさわしいばつよ……」
 自嘲を込めて呟かれたその言葉に、俺は理不尽な怒りを覚えずにはいられなかった。
「なんで! なんでカマラさんが罰なんか受けなきゃいけないんだ!? みんなを見捨てて逃げたのはニヒトたちじゃないか! カマラさんはただ生きようとしただけだろう!?」
「ありがとう……でも、わたしはアブソルくんみたいに、たたかわなかったから……」
 もう目も利かないのだろう。虚ろに空を見上げて、彼女は呟く。
「アブソルくん……ゆうべいったこと、すこしだけうそがあるの……」
「え?」
「わたしがむらのためにそういうことをしていたのはほんとうよ。みじめだった……うりものとしてあつかわれ、けっこんもできずにおいさらばえるのかとおもうと……そこにあらわれたのが、マーシーさんだった……」
 ふっと、カマラさんは凍てついた頬を幸せそうに微笑ませた。
「さいしょはたしかに、きゃくとしてかれをむかえたわ……でも、かれはわたしにきぼうをくれた。わたしのために……わたしがもういやなことをしなくてもいいようにあのスカイラインをつくるんだって、そういってくれたのよ……わたしも、かれといて、しあわせだったわ……」
 あぁ、マーシーさんもカマラさんも、やっぱり俺が信じていた通りの人たちだった。経緯はどうあれ、二人は紛れも無く本当の恋人同士だったのだ。
「あのどうろのおかげでむらにおかねがはいって、おみせにくるひとたちのかおもみんなやさしくなっていった。もうずっとこのしあわせがつづくんだって、そうおもってた……だけど、あのスカイラインは……」

『カマラにも会わせる顔がないよ……あいつをいつまでも笑顔でいさせてやれると思って俺は……』

『カマラを幸せにしてやりたかったのに。あいつの人生を支えられる男になれると思ったのに』

 マーシーさんは度々男泣きしながらそう言っていた。
 思えば彼は、カマラさんをそんな苦界から救い出したかったと言っていたのだろう。そのために築こうとしたスカイラインが地震で崩れるハリボテだったことは、俺が想像していた以上に二人に絶望を与えていたのだ。
 笑顔のままの彼女の頬に、一筋の涙が流れた。
「こわかったの……スカイラインがじしんでくずれて、わたしのしあわせがゆめときえてしまうことが……そんなはかないゆめにすがるより、たしかなしあわせが、わたしはほしかったの……だから、わたしはかれのあいをひていした……そのあげくがこのざまよ。ほんとうにばかだったわ、わたし。どのみちしあわせになれないのなら、あなたたちのやさしいおねえさんのまま……かれのうでのなかでいっしょにしねたほうが……ずっと……」
 そんな……っ!
 どの道幸せになれなかったなんて、そんなのないよ。そんなのないだろうカマラさん!?
 そう叫ぼうとした。しかし、やっぱり言葉にはならなかった。
 だって俺、何にも知らなかった。
 彼女がサワヤタウンの中で、そんな想いを抱いて生きてきただなんて。
 きっと彼女だけじゃない。口に出せない報われない想い(フラストレーション)を抱きながらこの渓谷で生きてきた人たちは他にも大勢いたのだろう。だからどんな犠牲を払ってでも、スカイラインの夢にすがるしかなかったんだ。
 なのに、なのに俺ときたら、何も知りもしないで、分かったような顔をして……

『何で勇気を出して戦おうとしない!? もっと幸せになるための努力をしてくれよ!!』

『金が無いなら借金の分まで頑張って作れよ!』

『他のことは頑張りゃ何とかなるだろうが天災だけはどう頑張ったって止められやしねぇ!』

 そんな軽々しい言葉を言い放って、どうあろうとその言葉を受け入れることの出来なかった人たちを、どれほど余計に苦しめてしまったことだろう。
 あぁ、だけど、一体どうしたらよかったっていうんだ。
 それでも俺は、みんなに生きて欲しかったのに。
 みんなを助けたかったのに。
 みんなを愛したかったのに。
 ただ、それだけだったのに。
 もう、分からない。何もかも分からない。
 今逝こうとしているカマラさんを、送る言葉も思いつかない。
 どんな言葉なら、彼女の魂を慰めることが出来るのか見当もつかない。
 誰か、教えてくれ。
 教えてくれ。
 助けてくれ!
 俺にはもう、本当に何にもわからねぇんだ!!
 
「ごめんね……」
 最期まで、彼女は笑っていた。
 彼女自身が望んだ、俺の知っているカマラさんの笑顔のままで。 
「あさごはんの、じかんだよね。もうつくってあげられないね……」

 結局俺は何も言えなかった。
 静寂という名のモニュメントとして完成し風景の中へと溶け込んで行く彼女を、ただ黙って泣きながら見送ること以外、俺には何一つ出来なかった。

 ★

『ほらごらん。あたいの言った通りだったじゃないか』
 嘲り声が、深い闇の底から響いた。
『あんたみたいな甘ちゃんには、何一つ守れやしないんだよ。よく解っただろう? ひゃはははははははは…………』

 漆黒の角が、不意の予感に震えた。
 いや、本当はもう、さっきからずっと感じてはいたのだ。
 だけど、それが分かったからといって何の意味があるっていうんだ!?
 俺には、誰も助けることが出来なかったのに。
 誰も助けられなかった、俺なんかに、何の意味が。

 激震が訪れる。
 崩れて倒れた支柱は、バラバラの瓦礫となって崖を滑り落ち、俺の上へと降り注ぐ。
 躱そうと思う気にもなれなかった。
 何だかもう、何もかもどうでもよかった。
 そして――
 落ちてきた瓦礫はとっくに罅だらけだった俺の正義の心を直撃し、一欠片も残さず打ち砕いた。

 ★

 ☆

 ★

「それでは、我が社の繁栄を祝して……乾杯!!」
 号令とともに、泡立つジョッキが掲げられ、打ち合わされる。
 大都会の夜景を見下ろす高層ビルの最上階。きらびやかなシャンデリアが吊るされた広大なホールでは、真っ黒な服を着た数人の男たちが豪華絢爛なディナーパーティーを楽しんでいた。
 テーブルの上には豪勢な料理の数々が色とりどりの花を咲かせ、特に中央の巨大な皿の上には、何の肉だろうか、こんがりと丸焼きにされた肉塊が香ばしい香りを放っている。
「そういえば、イッシュ地方のバトルサブウェイの件はどうなりましたかな?」
 極上の料理に舌鼓を打ちながら、男の一人が話しを切り出した。
「あぁ、14番道路で地震が起こって*9、スーパーマルチ路線が大規模崩落を起こした件ですな。……あ、そこのソース取って」
「我々も一生懸命事故とラスター工法は無関係であることをマスコミを使って訴えたのですが、ホドモエ鉱山の社長が噛みついてきましてなぁ」
「聞いておりますぞ。あの若造、『ラスター工法など人が通る場所に使って良い技術ではない』などと暴言を吐いたそうで」
「まったく、列車に無駄金を積んでまで搭載していた地震警報システム*10のおかげで犠牲者は出なかったのですから、いちいち目くじらを立てることもないでしょうに」
「もっとも、実際ラスター工法の施行など我々が通る場所にするものではありませんけどなぁ。がはははは」
「しかし厄介ですなぁ。件の若社長はネジ山の権利の多くを握っている。ラスター合金の原料の採掘を止められるのは必至でしょうし、製造工場もどうなってしまうやら……」
「なに大丈夫。手を回して奴を社長の座から引きずり落とし、我々の息のかかったものを就任させるまでです。……ふむ、美味い美味い」
「それで問題のスーパーマルチ路線ですが、全路線を解体した後、新設されるイッシュ地方西部行きのwi-fi路線共々宿り木(ミストルティン)工法で作り直す案が上がっているそうで」
「あれほど宿り木(ミストルティン)工法は対腐食性に問題があると指摘されていますのに、まだあんなものを推進しようとする輩がいるのには呆れますな」
「まさかとは思いますが、握り潰して来た宿り木(ミストルティン)工法の地面からのエネルギー供給による回復性能の情報が漏れたのでは……」
「ははは、もしそうだとしてもデータはすべてこちらにあるのです。専門家を通してデマとして処分するのは容易いことですよ」
「少なくともこちらの地方への影響は何としても防ぎませんとなぁ。我が社のラスター工法事業を衰退させるわけには参りません」
「心配することはありませんよ。専門家がちょっと難しい言葉を使ってもっともらしく結論を付ければ、大衆の多くは信じてくれますからな。……ほう、こちらもいけますぞ」
「さぁさぁ、景気の悪い話はこれぐらいに致しましょう。そんなことより先に倒壊したスカイラインへの公団からの補償金、滞りなく下りることになりましたな」
「被害額を大目に見積もっていただきましたので、予想以上の儲けになりましたよ。地震さまさまですな」
「いやまったく。余計な補償を訴えてくるような周辺住民や工夫団たちも全滅させてくれましたし」
「人のいない更地になった跡地も我々の好きに出来ますしな。……ささ、こちらもどうぞ」
「本当に大丈夫なのですかね? あまり派手にやると煩く言ってくる者も出てくるのでは……」
「問題ありませんよ。事故に関しては現場の責任にすればよし、もし耐震性の欺瞞について問われたら技術推進委員会の独断ということにすればよし。何でしたら現地に生息するポケモンの仕業に見せかけたっていい。例えばアブソルなどはなぜか災害の起こりやすい場所にはよく現れますからなぁ。彼らの仕業にするというのは、災害事故の責任を問われた企業や政治家にとっては昔からの常套手段でしょう?……おほっ、これはたまりませんなぁ」
「補償金に関しても、公団の資金が不足したら税金を上げればいいだけです。地方管理局も増税のいい口実に出来ると喜んでいますよ」
「もちろん我々が払わなければならないような税ではなく、数多くいる庶民から気楽に取れる税を上げていただきませんとなぁ。災害復興のためということであれば皆さん進んで増税に賛同していただけますよ。それに反対する者は、反社会的な悪として庶民から排除されるだけです」
「ありがたいことですなぁ。庶民が愚かなおかげで我々は今日もこうして美味い飯にありつけるわけですから」
「同感ですな。ありがたいありがたい」

 ★

 ――もし。
 これが勧善懲悪の物語であったなら、今すぐにもあのアブソルが燦然と現れて彼らを血祭りにあげることだろう。もしくはどこかの闇の暗殺者が颯爽と忍び寄り、この社会に巣くった寄生虫どもに天誅を食らわしてくれることだろう。
 しかし、そんな者たちが現れることは決してない。
 少なくとも、あのアブソルが彼らに復讐しに現れることは絶対にありえないと言える。死んだからでもなければここまでこれないからでもなく、もっと根源的な理由でここには現れ得ないのだ。なぜならば……

 ★

「聞けば我々と同じラスター工法推進大手のユークリニア社さんも、ホウエンの方でご盛況のようで」
「我々トミ・アクツ社も負けていられませんなぁ。この『摺鉢山スカイライン』計画でもっとしっかり儲けませんと」
「いやまったくまったく。あはははははははは…………」

 ★

 ――お分かりであろうか。
 彼らのような輩は、どこにでもいるのだ。
 退治などいくらしても足りることはない。彼らに搾取される人々ひとりひとりが自ら反旗を翻して立ち上がらないのなら、いつまでも権力者たちだけが肥え太り続けることだろう。
 それでも、しがらみや心の弱さから立ち上がりたくても立ち上がれない人は多い。そんな人たちから見れば、敵いもしないのに権力者に立ち向かうアブソルの姿は目障りに映るのかもしれない。危機を訴える警告さえも、煩いとしか思えないのかもしれない。
 だとしても、どうかアブソルを傷つける側にだけは回らないで欲しい。
 立ち上がれない人たちのためにこそ、アブソルたちは決死の思いで立ち上がり、警告を発し続けているのだから。
 そしてせめて、祈りを捧げて欲しい。
 いまだ挫けずに警告し続けているであろう、数多くのアブソルたちのために。
 そして心折れてしまったあの優しいアブソルが、いつか安らぎの地に還り着けるように。

 ★

「ふぅ、食った食った。さすがにこれ以上は入りませんなぁ。お~い、これもう下げてくれ」
 満腹になった腹を抱えて給仕を呼んだ男は、まだたっぷりと皿の上に残っている肉の上に歯を磨き終えた楊枝を投げ捨ててこう言った。
「ごちそうさん」

 ★

 ☆

 ★

終章~深い夜の森へ~に続く 


*1 ギリシャ神話のトロイアの姫カサンドラのこと。
*2 レベル、個体値が互角でランク無補正の場合、攻撃特化アブソルの燕返しではHP振りのズルズキンの急所を突いたとしても一撃では倒せない。
*3 アブソルの隠し特性。執筆時点では未公開だったが解析により判明していた。その後PDW夢島『ごつごつ山』にて解禁。
*4 コバルオン、テラキオン、ビリジオンのこと。
*5 4分の1でもタイプ一致後攻しっぺ返しの威力は、半減の不一致燕返しを上回る。
*6 実際にはレベル、個体値がが互角の場合、攻撃特化アブソルの6段階上昇後攻しっぺ返しでもHP振りキリキザンは急所を突かない限り一撃では倒せない。(急所を突けば倒せる)
*7 独語。nicht=無。
*8 「失敬な! 70kgだよ! いくらあたいと会うまでキリキザンを知らなかったからって、乙女の体重を間違うとはなにごとだい!」
*9 豊饒の社の近くなので、ランドロスがお仕置きしたものと思われる。
*10 カナワタウンの列車説明より。

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Last-modified: 2011-09-18 (日) 00:00:00
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