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渓谷のフラストレーション・上

/渓谷のフラストレーション・上

 第三回仮面小説大会非エロ部門参加作品


※警告します。
災害で人間が死亡する描写があります。
・鬱な展開が多い作品です。例えばポケモン、人間の残酷な死理不尽な暴力的虐待吐き気を催す邪悪などがあります。精神安定に自信のない方は落ち着いているときに読んでください。万一この作品を読んだことで何らかの精神的障害を負ったとしても当方は責任を持てません。
・本作品は仮面小説大会非官能部門投稿作品ですが、詳しく描写しない程度の失禁などの場面がある微エロ作品となっています。また、大会終了後『下』のページに強姦などの官能場面を含んだ終章へのリンクを追加しましたのでご注意ください。
・本作品はフィクションです。実在する人物、団体、事件等とは一切関係ありません。専門知識の必要な部分の多くに架空の法則を使っていることをご理解ください。また、主人公を含めた各キャラクターの発言や行動はそれぞれの立場に基づいたものであり、作者個人の主義主張とは必ずしも一致しません。 



序章 ~深い夜の森から~ 


「ここがいいわ」
 常闇の森の中。
 苔むした巨木にぽっかりと空いたうろの中を覗き込んで安堵の表情を浮かべた母ちゃんは、俺をうろの中へと咥え入れた。
「このうろの中にいれば、地震が来ても樹が守ってくれそうね。あなたはここに隠れていなさい」
「……母ちゃんは?」
 俺の問いに母ちゃんは答えず、悲しげに、しかしどこまでも優しげに微笑んだ。
「揺れが収まったら、独りでこの森を離れなさい。出来るわね?」
 その微笑みに、母ちゃんの覚悟を知って。
 俺は、必死で母ちゃんを止めようと叫んだ。
「行かないで母ちゃん! もうあんな村の人間たちなんか放っておこうよ! どうせ何を言ったって誰も母ちゃんの言うことなんて聞いちゃくれないよ! また石を投げられるかもしれない。もっと酷いことをされるかも。これまでだってずっとそんな目に会わされて来たじゃないか! もういいでしょ、母ちゃんはやれるだけのことをちゃんとやったよ。だから一緒に逃げよう、母ちゃん!!」
 けれど、母ちゃんはかぶりを振って。
「ごめんなさい。あなたにもいつか解る時が来るわ。これが……」
 その刹那、差し込んだ月光に映し出された母ちゃんの笑顔を、俺は一生忘れることはないだろう。
「これが、私たちアブソルの(さが)なのよ」
 そう言い残し、母ちゃんは白い肢体を翻して闇の中へと走り去った。
「母ちゃん! 何でだよぉ…………母ちゃーーーーん!!」
 声が涸れるほどに叫んでみても、もう応えてくれる者はいない。
 代わりに、遥か遠くから人間の男たちの殺気立った怒声が響いて来る。
「また出やがったのか!」
「この村が壊滅するだなどと恐ろしいことばかりを言いやがって! 俺たちの不安を煽ってどうするつもりなんだ!」
「さっさと消え失せろ! この災いを呼ぶ白い悪魔め!!」

 ★

 やがて、天地を揺るがす鳴動が訪れ、荒れ狂う地脈がかき鳴らす破壊の轟音が。
 母ちゃんと男たちの悲鳴を飲み込み、叩き潰した。

渓谷/ケイコク 


 ★

 ☆

 ★

 山頂を越えた朝の日差しが、渓谷の狭間を駆け降りる。
 モノクロだった谷間の闇が照らし出され、巌の灰色、草木の緑、たくさんの色を溢れさせて川のせせらぎと一緒に流れ落ちて行く。
 そんな光景を南側の尾根から突き出した見晴らし岩の上で見下ろしながら、俺はいつものように吹き渡る風に体毛を撫でられていた。
 場所はホウエン地方、煙突山西壁。
 背後の山壁を南東に向かって回り込めばフエンタウン。谷底を走る渓流に沿った舗装されていない狭い道路を西に下れば115番道路北部の丘陵地に出る。流星の滝の水源の谷、と言った方が他地方の人には判り易いかもしれない。
 そして……。
 北側の、さながらサメハダーの歯の如くギザギザと切り立った険しい尾根。
 そこを越えたずっと向こうの森の中に、俺が小さかったころ母ちゃんと暮らしていた村があった……らしい。
 村の名前なんか覚えていない。なかったのかもしれない。
 とにかくそのちっぽけな村は、あの日発生した地震と地滑りで住民ごと全滅した。俺の大切な母ちゃんも、一緒に。
 馬鹿な村だ。災いを予見した母ちゃんが何度も何度も退避を勧告したのにそれを無視したばかりか、母ちゃんの警告を『滅びを謳っている』などと決めつけて俺たちを殺そうとまでしやがった。母ちゃんも母ちゃんだ。あんな分からず屋どものために命を落とすことなんてなかったんだ! あいつら、自分たちが死んだことも全部母ちゃんのせいにしているかもしれない……。
 よそう。あんなクソ村のことなんか思い出したくもない。
 あの地震の後、俺は山中を闇雲に彷徨っているうちにどこをどう通ったのかいつの間にやらあの険しい尾根を乗り越え、渓流に落ちて流れ着いた河原でこの谷間の村に住む人たちに救われた。
 サワヤタウン――渓流を挟んで色とりどりの屋根が立ち並ぶこの美しい村が、今の俺にとっての故郷だ。
 その名の通り、爽やかな風の吹く村*1……と言ってあげたいところなのだが、いや実際谷を吹き抜ける風は確かに爽やかなのだけれども、本当のところを言えばササヤタウンとでも名付けた方が似合いそうな、例の村と比べても大差ないであろうささやかな集落だ。
 もとい。
 それも最早『だった』と評するべきだろう。今やこのささやかな村は急激に増していく賑わいの中にあるのだから。
 その理由は、俺のすぐ背後を振り返って見れば分かることなのだが……
 ――っと。
 風にかざしていた漆黒の角先に緊張を感じた。昼過ぎ当たり、といったところか。
 どうやら物思いに耽っている場合ではなくなったようだ。
 今日の〝工事〟が始まる前に、みんなに伝えに走らなければ。
 サワヤタウンを包みだしている活気を、守るために。

 ★

「おぅアブソル、おはよう。谷の巡回御苦労さん」
 俺は村では名前は付けられておらず普通に『アブソル』で通っている。この谷には俺以外にアブソルはいないし、村の人口も多くないので特に不都合はない。
「おはよう。急いでみんなに知らせて、今日の昼過ぎに来るって!」
「また地震か? 分かった。昼過ぎだな。連絡を回しておく」
「工夫さんたちへの連絡は俺がやっとくよ。みんなまだ宿舎にいるよね?」
「たぶんな。まかせたぞ!」
 見廻りのおっちゃんの暖かい声に送られて、俺はサワヤタウンの外周沿いに野道を蹴った。さして広くもない村だ。目指していた真新しい建物には俺の太い四肢を駆使すればあっと言う間だった。
「おはよう、アブソル。……また地震かい?」
 迎えに出た工夫さんは、俺の顔色を見ただけで用件を察してくれた。話が早い。
「当たりだ。昼頃に来そうなんだよ。気を付けてくれ」
「分かった。いつもありがとな。ところでアブソル、カマラさんの店へはこれからかい?」
「あ、そうだな。もうみんなには伝えたし、そろそろ飯時だな」
「だったら丁度いい。監督が昨夜あそこに泊まって行っているんだ。まだ店にいるようならついでに伝えといてくれないか?」
「マーシーさんが? 何だあのおっさん、また飲み過ぎで帰れなくなったのかい?」
「ん、まぁそんなところ、かな。へへ」
 ? 何だろうこの工夫さん、妙な含み笑いをしてやがるが……
「ま、いいさ、伝えとくよ。じゃぁ今日も気を付けて頑張ってくれよ!」
 そうだ。彼らには気を付けて頑張ってくれなければ困る。
 今のサワヤタウンは、まさしく彼らに支えられていると言っても過言ではないのだから。
 工夫宿舎を出て、サワヤタウンの中心へと向かう。刻と共に目覚め始めた村の息吹があちこちから感じ取れる。
「あー、あぶそるだ。おはよー!」
「あぶそるー、どこいくのー?」
「おーガキども! 今日は早いなお前ら」
 無邪気な声をかけて来たのは村の子供たち二人組だ。4歳になる坊やがソアタで3歳のお嬢ちゃんがチネという。過疎地であるサワヤタウンには幼い子供はこの子たちしかいない。当然遊ぶ友達も少ないためよく俺と一緒に遊びたがる。
「カマラさんの店に飯食いに行くんだよ。あとついでのお使いもな。一緒に来るか?」
「いくー」
「いくーいくー」
「よっしゃ、んじゃついて来い!」
 どうせ目指す店はもうすぐそこだ。足手まといになっても気にする程のことにはなるまい。
 元気な足音二つを引き連れて、俺は家並みの間を走って行った。

 ★
 
 赤茶色の屋根に彩られたカマラさんの店は、サワヤタウン唯一つの居酒屋だ。
 正午にはランチもやっているが、勿論こんな早朝ではまだ店は開いていない。それでも俺が来ればカマラさんはいつも朝飯を出してくれるのだが。
「お~い、カマラさ~ん! 朝飯頼むよ~!」
「あぶそるー、かまらおねえちゃん、おへんじしないよー?」
「店の戸も開かないしなぁ。マーシーさんが来ているって話だし、いないって事はないと思うんだが……」
 呼んでも返事がないなんて初めてだったが、戸が閉まっているのは珍しいことではない。いつもはこういう時は勝手口に回るように呼びかけられるものだ。
「しゃあない。裏に回るか」
「わーい、まわるー!」
「たんけーん! たんけーん!」
 子供たちと一緒に店を回り込む。
 幸いにして勝手口に鍵はかかっておらず、俺の足でも容易に開けられた。
 薄暗い廊下の奥に半開きになった寝室の襖。中から人の動く気配がする。
 何だ、まだ寝てたのか。
「カマラさ~ん、早く起きて朝飯作ってよ。もう腹の虫がさざめきそうでタイプ的にヤバイ…………」

 ……わぁお。

「あー、かまらおねえちゃんみーつけた!」
「まーしーおじちゃんもいたー!」
「きゃっ!? ち、チネちゃん!? ソアタ君まで!? やだ……」
「こ、こらアブ公!? 子供たちに何見せてるんだ、あっちに連れてってくれよ!!」
 おいおい、いきなりンなこと言われても俺に一体どうしろと!?
 しかし確かにこんな有り様純真無垢なガキどもに見せていいもんじゃない。とりあえず慌てて子供たちの前に立ち塞がって視界を遮ると、押し出すようにして廊下から食堂へと連れ出して行った。
「ねーあぶそるー、かまらおねーちゃんとまーしーおじちゃんは、どうしてはだかでおねんねしてたのー?」
「知らん知らん、俺ポケモンだから人間の事情なんか分かんねーもん!」
「ねーあぶそるー、あぶそるのおかおはどうしてまとまみたいにまっかっかなのー?」
「さーなぁ。見晴らし台で朝焼けに焼かれたからじゃねーの?」
 とかなんとか二人の厳しい追求をあしらいながら、俺はそれこそ焼けそうに火照っていた頬を静めるのに苦慮していた。
 うっは~、見ちまった見ちまった色々モロ見しちまった。オトナってあーゆーことするもんなんだな。
 まさかカマラさんとマーシーさんがあんな関係になってたとは。あの工夫さんの含み笑いはこういうことだったのか。
 俺にはまだああいう経験もお相手の心当たりもないけど、いつかどこかの雌とああなったりしちゃうのかねぇ。あぁこっ恥ずかしい。

 ★

「そうか、今日も昼から地震か。最近多いな」
 先刻モロ見してしまったマッシヴな体格を作業着で包んで現れたマーシーさんは、骨太な顎を引き締めて俺の予報を聞いた。
「分かった。急いで対策しておくよ」
「今後は寝室にも対策しておけよ。ったく開けっ放しで不用心な……」
「それを言うなって。恥ずかしいなぁもう」
「見ちまったこっちの方が恥ずかしいっつーの!」
 俺の突っ込みに、短く切り揃えた栗色の髪をポリポリと掻いて照れ笑いするマーシーさん。齢の頃は40代前半、力強い眉が印象的なナイスガイだ。
 今回の〝工事〟のため最近サワヤタウンに来た人だが、俺がサワヤに住み出したのも大差ない頃だし、すっかり馴染んでしまっているのであまり他所の人って気がしない。
「ごめんなさいね、アブソル君。お待たせ、出来立てのポロックよ」
 香ばしい四角いお菓子が山と盛られたお皿を抱えてカマラさんがやって来た。艶々しい長い黒髪とツンと尖った眼、もう30過ぎのはずだが『おねえちゃん』と子供たちが評した通りの若々しい美貌の持ち主で、こんな田舎で居酒屋の女将をやらせておくのはもったいないと工夫団の男どもが口を揃えて言う程である。
 俺にしてみればこんな料理の達人に他の事をやらせる方が余程もったいないと思うのだが。今日も彼女のポロックは絶品だ。舌の上から内臓まで染みとおるような深い味わいが、朝から走り詰めだった俺の疲れをみるみる癒してくれる。
「あなたたちの分も用意したわ。どうぞおあがり」
「ありがとー!」
「いっただきま~す!」
 子供たちの健康的な咀嚼音を傍らに聞きながら、今日も俺は充実した朝餉の一時を満喫したのだった。

 ★

「じゃ、そろそろ仕事に行ってくるわ」
「あ、待って。作業着が乱れてるわ」
 朝食を終えて席を立とうとしたマーシーさんの襟にカマラさんが細い指を優しくかける。
「わー、ぱぱとままみたいー」
「なかよしー」
 とっても素直な子供たちのコメントに赤面する二人。夫婦みたいなことならさっきもやってたけどな、と冷やかしてやろうかと思ったが、これ以上からかって仕事に差し支えられでもしたら本当に困るので自粛した。ソアタたちから何のことかと聞かれでもしたら俺が赤面するハメになるしな。
「ありがとう。それじゃ、頑張ってくるよ」
 店の戸を開け、道を南へと歩き出したマーシーさんの大きな背中に俺は声を送った。
「くれぐれも地震には気を付けてくれよ! あの道路には、俺たちの未来がかかっているんだからな!!」

 ★

 マーシーさんの向かう先、谷の南側にそびえる山壁。
 今朝早く俺がいた見晴らし岩がら西へと下る尾根伝いに、作りかけの柱がまるでニドキングの背中に逆立つ刺のように間隔を置いて連なっている。柱の列は見晴らし岩を越えたところで向こう側へ、つまり南東のフエンへと進路を変えて蛇行しながらつながって行く。
 柱の正体、それは高架道路の支柱だ。麓の都会カナズミシティと観光名所であるフエンタウンとを直接結ぶ広大な道路『煙突山スカイライン』計画。サワヤの谷の南壁は、その中継地なのだ。
 単なる通過点ではない。重要な中継地としてパーキングエリアが設置され、そこでは村から店を出すことも決まっている。道路公団からの莫大な受け入れ補助金、工事による人の出入りの活性化、そして完成の暁には観光客の増加も見込め、人の移動も物の輸送も容易になる……と、サワヤタウンにとってはどこをどう取っても良いことづくめの計画なのである。
 そしてこの一帯の道路を建設しているのがマーシーさんが指揮する工夫団なのだ。俺たちが彼らに期待をかける所以である。
 この計画について、問題視する声もないわけではない。
 カナズミの方からは特に「環境への影響は大丈夫なのか」「景観を損なってしまうのではないか」という意見が度々聞こえてきたりもしている。
 ここに住む俺たちのことを心配して言ってくれているというのは理解しているしありがたいのだが、しかし自然というのはそもそも移ろい行くもの。人が作ったものが原因だからという理由だけでその変化を批判するべきなのだろうか? と、この道路を村中みんなが歓迎しているサワヤに住む俺としては思ってしまうのだ。
 景観にしたところで、巨大なハガネールが横たわっているのだと思えばそう悪い見栄えにもならないだろう。俺のお気に入りの見晴らし岩はいずれ工事が進行すれば無くなってしまう予定だが、代わりにPAに大きな展望台を作ってもらうようマーシーさんと約束済みだ。そこから見る谷の光景はきっと素晴らしいものになるだろう。実に楽しみだ。
 一方、俺にもこの道路について心配していることがある。
 今日も昼過ぎに起こる予知を受けた、地震への対応だ。もともとこのホウエン地方は地震多発地帯。まして活火山である煙突山山系とくれば尚更である。せっかく作った道路が地震であっさりと倒壊などとなっては目も当てられない。
 これについては、何やらどこか海の向こうで開発された新技術が導入される予定らしい、とマーシーさんは言っていた。是非ともそいつに期待したいところだ。

 ★

「つーことで、今日の遊びの時間はお昼までだ。昼になったら家に帰って、お袋さんと一緒に地震に備えるんだぞ」
「わかったー」
「じゃあおひるまであそぼ。なにしてあそぶ?」
「おままごとがいいー」
「じゃあ、かまらおねえちゃんとまーしーおじちゃんのまねっこでおままごとしよー」
「わーい、まねっこまねっこー」
 あはは、そうかそうか真似っこ……って、
「ちょっ!? 待っ――――!?」
「はーい、えりがみだれてますよー」
「ありがとー」
「あれ? あぶそるー、どうしてずっこけてんの?」
「……何でもねぇよ!」
 あー、今日もいい天気だねえ。

 ★

 そして、午後1時過ぎ。
「そら来たぞ! 机の下にもぐれ!!」
「きゃーー!」
 子供たちを送り届け、念のためにと上がらせてもらっていたチネちゃんの家で、俺たちは予知していた地震を迎えた。
 一番留意しなければならないのは大切で儚い小さな命。決まってるだろう。
「ちゃんと隠れてりゃ大丈夫だぞ。サワヤのお家はしっかり建てられてっからちょっとやそっと揺れたぐらいじゃビクともしないからな」
「あー、おさらおちたー」
「ほらほら、頭を出さない! ああ言うのが頭に当たると痛いから隠れてるんだぞ」
 もう慣れっこになっているのか、怖がるよりむしろはしゃぎながら忙しなく机の下で動き回ろうとするチネちゃん。天下無敵の3歳女児を懸命に押さえ付けているうちに、ようやく揺れが収まって来た。
「ふー、終了終了。お袋さーん、そっち大丈夫ですかー?」
「ええ。いつも済まないねぇ」
「おーい、ソアタ! 地震終わったぞー! 平気だったかー!」
 窓から顔を出し、隣の藍色の屋根の家に呼びかける。ちなみにチネちゃんの家の屋根の色は桜色だ。
 すぐにその家の窓から、母親に担がれたソアタが手を振って答えた。
「へいきだよ。もう4さいだもん! ぼく、ひとりでつくえにかくれられんだよ!」
「そーかそーか、よく頑張ったな! 偉いぞぉ」
 ほっと一安心し、俺は南の尾根を振り仰いだ。
 昼下がりの太陽を背負って黒々とそびえる工事現場のシルエットは、ここから見る限り大きな変化は見られない。
「大丈夫だよな、マーシーさんたちも……ケガとかしてないといいけど」

 ★

 夕方。谷一面を照らし終えた太陽が彼方の地平に沈みかけた頃。
 俺たちは工夫団を向かえるため、尾根へと続く坂の入り口で待っていた。
 やがて坂道を降りて来た人影の群。その一人一人の表情が、みんな一様に――
 ……一点の曇りもなく晴れやかなのを確認して、ようやく心配の種がすっかり消え去った。
 今日の災いは、すべて防ぎ切ったのだ。
 影の一人が、こちらに向けて手を上げる。帽子から僅かに覗く短い栗色。
「マーシーさん! お疲れさま、地震は大丈夫だったんだね?」
「あぁ。アブ公、お前が予知してくれたお陰で、今日も事故を未然に防げたよ」
 嬉しそうに笑みを湛えながら、マーシーさんは俺の額を撫でた。
「基礎の工事は今日で完了だ。予定を一週間も前倒し出来た。こんなにも順調に工事が進められたのもお前の災害予知の能力があったればこそだ。もし予知がなく、事前に備えられなかったらどれだけの被害が出ていたことか想像もつかん。作業も遅延を余儀無くされていただろう。本当にありがとうな、アブ公」
 ごっつい指でクシャクシャと撫でられて堪らず照れ笑いを浮かべた俺の左頬を、今度はソアタの小さなお手々がなでなでと触れた。
「あぶそるありがとね。えらいえらい」
 更には右頬にもチネちゃんが、
「ごほうびあげるねっ」
 とおませな唇を捧げてくれた。
 あぁ、幸せだ。
 このサワヤタウンでは、みんなが俺の予知を信じて、災いを避ける努力をしてくれる。
 だから俺も心置きなく素直な気持ちで、そんな信頼に応えたるために全力を尽くせる。
 決して母ちゃんのように、理不尽な無理解に苦しみながら報われない叫びを上げ続けることになんか、ならないんだ。

 ★

 温泉街として有名なフエンタウンほどではないが、ここサワヤタウンも煙突山の一角。それなりに立派な天然温泉が沸いている。
 仕事の疲れを落としに来た工夫さんたちに混じり、俺も毛並みを湯船に踊らせながら一日走り回った四肢を癒していた。
「♪まっるいやっつっほっそいやっつとがったやっつっけぶかいやっつっせつっめいっむずかっしーやっつっ」
 とよく響く声で歌っているのはチネちゃんで、ソアタと一緒にはだかんぼで風呂場中を所狭しと走り回っている。タオル一枚纏わぬ産まれたまんまの姿を恥じらう素振りも見せずにさらけ出した文字通りの赤裸々な様子は、人間というよりもまるでピィかププリンの仔供のようだ。
 要するに、ポケモンである俺の目から見てもすこぶる萌える。
「♪どぉしてこんなにもみんな~ ちがっているのぉ~」
 天真爛漫な姿と歌声に心まで洗われるような癒しを噛み締めていた時、背後から工夫たちの声が聞こえて来た。
「基礎組みも終わったし、いよいよ例の新工法とやらの出番だなぁ」
「組み上げがすごく簡単で早く工事が仕上がるらしいですよね。その新工法って」
「そうなると、俺たちのここでの仕事ももうすぐ終わりかぁ……」
 そんな会話を聞きながら、ミジュマルみたいな格好で湯の中をプカプカ漂っていると、ぱしゃり、と誰かにぶつかった。
「よっ、アブ公」
 マーシーさんの大きな背中が、そこにあった。
「おっと、悪い悪い」
「何、気にするな。こっちはお前に散々助けられてるんだしなぁ」
「そ、それよりさぁ、今みんなが話してるのを聞いたんだけどよ」
「?」
「ほら、例の新工法とか」
「あぁ、『ラスター工法』の事か」
 ふぅ、と溜め息を吐き、マーシーさんは裸の肩を竦める。
「実は、俺も詳しいことはよく知らんのだ」
 思わず、耳を疑った。
「ハァ!? げ、現場監督が知らないっていったいどうなってんだよ!?」
「監督と言っても、会社から渡された図面と予定表の通りに忠実に組み立てられるようみんなを指揮するだけの仕事だからな。細かいことは教えてもらえないこともある。だから今回も、イッシュ地方では既に実用化されている、安価で施行が容易な新工法だということしか知らされていないんだよ」
「そうなのか……」
「来週にもその新技術を推進する委員の人が来て、本格始動前にサワヤタウンのみんなにも説明してくれるそうだ」
「その説明会、俺も出ていいか? ずっと谷に残るもんだからな。どんなものが作られるのか知っておきたい」
「勿論だ。工事の恩人でありサワヤの重要な一員であるお前には是非一所に聞いて欲しいと俺も思っていた」
「あ~、それと、だ。話は少し変わるんだが、そのラスター工法とやらが施行されたら工事はすぐ終わっちまうんだってな」
「あぁ、そうだな」
「もしそうなったらさ、マーシーさんたちとももうすぐお別れってことになっちまうんだよな……」
「…………」
 固く黙り込んだマーシーさんの顔に浮かんだ複雑な表情を見て、俺は続けようとした質問を飲み込んだ。
 つまり、カマラさんとのことはどうするつもりなのか、ということをだ。
 今朝見たような関係だ。まさか工事が終わったらそれっ切り、なんてのは誠実なマーシーさんの人柄からすると考えにくい。結婚して一緒に連れて行くというのが一番ありそうな話しだ。だけどもしそうなったら俺はこの谷で親しくなった人と二人も一度にお別れしなければならないということになる。もうカマラさんの作ってくれるご飯が食べられないなんて俺には考えられない。二人の幸せを考えたら堪えなければならないことだというのは分かっちゃいるが……
 それとも結婚した後もカマラさんだけは谷に残って店を続けてくれるのだろうか。ここの工夫さんたちも既婚者はみんな奥さんを故郷に残して出張しているわけだし、道路が出来ればサワヤタウンもこれまでのような外界から隔絶された田舎ではなくなるんだからすぐに帰ってこれるし。
 いっそマーシーさんが工夫を引退して、二人で店をやってくれるってんなら俺としちゃ一番嬉しいんだけどな……とか勝手なことを色々考えていると、おもむろにマーシーさんが口を開いた。
「今から別れる時のことで悩んでも仕方がないだろう。その日まではお互い仲良くやろうや。それじゃ駄目か?」
 ……まぁ、それもそうか。
 今のところ何もかも順調に進んでるんだ。何もわざわざネガティブな思考に捕らわれることもないよな。カマラさんとのことも、二人とも大人なんだしいずれお互いに一番いい結論を出すだろう。俺はそれがどんな結論だろうと受け入れてあげる覚悟だけ決めていればいい。そもそも口を出していいことじゃないしな。
 笑顔だけをマーシーさんに向けて答え、俺はずっと駆け回っていた子供たちに向かって明るく叫んだ。
「お前ら、工事が終わったらみんなでフエンタウンに遊びに行くぞぉ~! ここよりずぅっとでっかい風呂やうまい名物料理がたくさんあるって話しだから楽しみにしてろよ!」
「わーい、たのしみー!」
「たのしみー!」
 意味が分かっているのかそうでないのか、とにかく楽しそうにはしゃぐソアタとチネちゃん。
 今はそれでいい。ただ明るい未来だけを夢見て笑っていてくれ。
 その未来を邪魔する災いは、全部俺たちが防いでやるんだからな。

絶峡/ゼッキョウ 


 ★

 その日の朝も、俺はいつものように見晴らし岩の上にいた。
 蒼天に雲は少なく、吹き抜ける風は相変わらず爽やかで、角をかざしても何の災いの気配も感じない。
 そんな平穏そのものの朝の空気は、しかし突如として耳に届いた聞き馴れないノイズによって掻き乱された。
 振り返れば、工事現場の柱の脇を通る資材搬入路を麓から上ってくる黒い影が見える。
 土煙を蹴立てて迫りくるそれは、一台の自動車だった。
 いかにも馬力がありそうな、やたらでかくてごついタイヤのオフロード車。真っ黒な車体は軍用車かと思わせるほどの威圧感を漂わせており、フロントグリルを覆うメッキが朝日を反射して巨獣の牙のようにギラギラと輝いている。
 ひとことで言って、偉そうな車だった。
「あれに乗ってんだよな。マーシーさんが言っていた新技術の委員とやらが。いよいよラスター工法ってのが始まるのか……」
 この時点で、なにがしかの予知があったわけではない。
 ただ、予感と呼べるほどではないにしろ、何だか嫌な感じをその車から受けていたのも確かだった。

 ★

「えー、サワヤタウンの皆様、お初にお目にかかります。私、今回煙突山スカイラインの建設を務めさせて戴いておりますユークリニア社新技術推進委員会顧問、タマムシ大学名誉教授のニヒトと申します」
 偉そうな車に乗ってきたのは、車同様に風体も態度も実に偉そうな、濃紺のスーツに身を包んだ6人の男たちだった。
 中でもこのニヒトという50~60代ぐらいのおっさん、服装も髪形も艶が光って眩しいほどきちんとしているのはいいのだが、黒縁メガネの奥の眼が妙にニヤニヤと笑っていやがる。媚びているって風でもない。まるで、見ている者すべてを馬鹿にし見下しているかのような笑い方なのだ。話口調も丁寧なようでいて、その実慇懃無礼な尊大さが滲み出ている感じがする。
 まぁ、印象だけで相手を悪く思うのは良くない。単に物知りな学者さんっていうのは偉そうに見えるってだけのことなのだろう。そもそも彼らは、サワヤタウンに利益をもたらしてくれる道路がどんな技術で作られることになるのかを説明しに来てくださったんだ。失礼なことなんか考えず、とにかくまずは話を聞こう。
「それではこれより、煙突山スカイラインにおいて本日より試行が開始されます、私どもが推進致しております新技術『ラスター工法』についてご説明差し上げます――」

 ★

「この時D点とE点に加わるモーメントエネルギーに対し、TA理論におけるRAM効果が発生しましてEフィールドと呼ばれる永性力場を構築することになります。その結果D点、E点、G点それぞれがOM結合状態を維持することになるわけですが、このEフィールドは対極性コードNを遥かに超える……」
 いやあの、これって俺がポケモンだから分かんねぇってレベルじゃねぇよな絶対。サワヤのみんなはおろか工夫さんたちさえキョトンとしながら聞いてるし。こんな素人相手の説明会で、専門用語を羅列して通じるとでも思っているのだろうか?
 正直ニヒト教授の話だけを聞いているとチンプンカンプンになるところだったが、他の推進委員会の人たちが分かりやすい図解の書かれたフリップで説明してくれたので大体の概要は何とか把握できた、んじゃないかなと思う。
 俺の乏しい認識力で理解したものなので間違いとかがあったら申し訳がないが、簡潔に言えばラスター工法とは、ある特殊な性質を持つ合金を構造材に使用した建築法のようだ。
 その性質とは『接触した同じ合金を固定する』というもの。
 溶けてくっついたりするのではなく、引き付け合う磁力のように何だかの力場が発生してくっつき合ってしまうらしい。
 そしてその力場による結び付きには、構造材それ自体の強度をも上回る鉄壁の堅牢性が発生する、のだとか。
 マーシーさんたちが先日までに作っていた基礎の中にその合金を芯として組み入れ、その上に同じ合金で出来た台を結合させて道路を作る。そうすると従来の工法で使われる筋交いなどの補強剤の役目をその力場が努めるため材料数が少なくて済む。その分費用も安く押さえられるし工事にかかる時間も短縮できる。その上強度でも上回るという、まさに夢の新工法、なのだそうだ。肝心要のその合金も、製造元であるイッシュ地方のネジ山にある工場で大量生産が開始されており、驚異的な安価で輸入しているのだとか。
「即ち、全てはこの『ラスター合金』に宿る鋼のエネルギー特性によるものだということです!」
 トランクから取り出した、異様な光沢(ラスター)を放つ黒い鉄隗を掲げてニヒト教授は誇らしげに語った。
 なるほど、確かにあの鉄隗からは凄まじいばかりの鋼の力を感じる。例えるならコイルとかギアルの気配に似た様な感じだ。なるほど、『同じ合金同士くっつき合う性質』ってわけね。
「鋼の力は素晴らしい。材質そのものの強靭極まる剛性に加え、外部からのありとあらゆる影響に対し高い耐性を持っています。耐荷重、耐震動、そして耐腐食! 全てにおいて優秀な数値が記録されているのです。その素晴らしい能力は既にイッシュ地方では実用化され、同地方の北東部を走るバトルサブウェイスーパーマルチ路線のトンネル構造材として目覚ましい活躍を見せています。また、近年着工予定のWi-fi路線もラスター工法が採用される予定です」
 おー、わりと分かりやすい話になって来た。ちょっと誇張も入った鋼賛美ぶりで信仰に近いものすら感じるが。とは言えこの煙突山にもエアームドとかたまに飛んで来るし、確かに奴らの頑丈さは半端じゃないからな。
 ……けど、あれ、待てよ?
「さて、ここまでで何か質問のある方はおられますでしょうか?」
「ちょっといいか?」
 前肢を振り上げて声を上げた俺に、ニヒト教授は一瞬不快げに眉を潜めた。
 馬鹿なポケモン風情に話を理解できる知能なんてあるのか――そんな声が表情に浮かんで見えたのは俺の気のせいだろうか。
 とか思っているうちに、すぐにその顔は元のニヤケ顔に取り繕われて、
「おやおや、まさかポケモン君から質問がくるとはびっくりしましたなぁ。はてさて、一体何を聞きたいのかな?」
 と、まるでソアタぐらいの子供に話しかけるような口調で俺に問い返してきた。この野郎、やっぱそういう風に思ってやがったんだな。まぁいいさ。そっちがその気なら、こっちも言葉遣いに気を使わなくて済むってもんだ。
「さっき先生『耐震動』って言ったよな。けど、ラスター工法は鋼の特性を使ってるんだろう?」
「そうですが、それが何か?」
「何か……って、いや、だからさ、鋼っつたら地面の力には弱いもんじゃねぇのか? 本当に地震に耐えられるのか気になるんだけど」
 話の噛み合わなさに戸惑いながら質問すると、急にニヒト教授は腹を抱えて大笑いしだした。
「はっはっは、いや失敬、そういうことでしたか。良い質問です」
 小さな咳払いの後、また取り澄ました笑みを伴った説明が始まる。
「まず、先程私が言った『耐震動』の震動とは、上の道路を走る車などの起こす震動に耐えられる、という意味でして、必ずしも地震への対応を保証するものではございません」
「何だって!? それじゃ……」
「ですがですが、ご心配なく! 既にイッシュ地方での実績によって地震への耐性は立証されています。先刻ご紹介しましたバトルサブウェイなどにおきましても地震による被害は一切発生しておりません。ラスター工法は地震に対しても安全です。分かりましたかな」
「……あぁ、安心したよ」
 ほっと胸を撫で下ろし、俺は座り直した。あの教授は気に食わないが、実績があるというのならまぁ問題はないのだろう。
「よろしいでしょうか?」
 俺の次に手を上げたのは、マーシーさんだった。
「どうぞ」
「ユークリニア社さんからの依頼で工事進行を引き受けております、工夫団監督のマーシーです。先程のこのアブソル君の質問に関連して伺いたいのですが、ラスター工法が従来工法と比べてどれだけの耐震性があるのか、出来れば試験時の数値データで確認したいのですが」
 マーシーさんに『アブソル君』なんて呼ばれるとくすぐったいな。普段通りに『アブ公』って呼べばいいものを。
 けど、確かに地震への耐性を数字で確認出来るというのならそれに越したことはない。予知をする俺としても、いい目安になってくれるだろう――
「試験は行っておりませんが安全です」

 …………は?
 こいつ、今なんつった?
 そう思ったのは俺だけじゃなかったようで、マーシーさんを含めた工夫たちも、サワヤタウンの大人たちもみんな呆然とした表情で壇上のニヤけた顔を凝視していた。
「試験を、行って……?」
「おりません」
 再度確認したマーシーさんに、ニヒト教授は嫌な笑みを崩すこともなくさらりと同じ言葉を返す。
「それは……どういう意味ですか? 試験のデータをここに用意していないのではなく、耐震性能試験自体を行っていない、と?」
「ですから、そのように申し上げておりますよ。はい」
「で、では、先程言われたイッシュ地方のサブウェイの震災時の記録はどうなっているんです? スーパーマルチ路線は試験用の路線でもあるはず、データを取っていないわけが……」
「スーパーマルチ路線が完成してから現在に至るまで、同路線周辺で地震が起こった記録はありません。ですから安全だということです」
 ちょ、ちょっと待てい!? 何を言ってやがるんだこのおっさん!?
 だったらさっきの俺の質問への回答なんて何の保証にもなってないってことじゃないか。『ですから』って、一体何を根拠に安全ってことになるんだよ!?
「つまり、そんな起こりもしない地震など問題視する意味はないということが、イッシュ地方での実績によって立証されているのです。地震が起こらない以上事故も起こりませんし、耐震性能も必要ではありません。ラスター工法は安全です。分かりましたね?」
 ふっ…………
「ふっざけるなあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
 異口同音の怒声が、俺を含む傍聴席の全員の口から轟いた。
 全員、だった。どんな馬鹿なことを言われているのか、誰の耳にも明らかだったのだ。
「地震のないイッシュ地方での実績なんか全然参考にならないだろう!? あんた、ここがどこだか分かっているのか!?」
「ホウエン地方だぞ、煙突山なんだぞ!? 足元にいつ目覚めるか分からない地獣(グラードン)が眠っている地震頻発地帯なんだぞ!?」
「三神竜のいずれもが地震を操れず、地震の技が古代遺跡に封印されているようなイッシュとじゃ地脈の数も勢いもわけが違う! こんなところに、それも活火山の裾野に耐震性のあやふやなものをぶっ建てて、事故が起こったらどう責任を取る気なんだ!!」
「皆さんの言われる通りです」
 怒号の飛び交う中、一人マーシーさんだけが冷静な口調で推進委員会たちに言葉の槍を突き付けた。
「現に基礎工事中にも何度も地震は発生しています。報告書を会社に提出したはずですが、読まれていないのですか?」
「もちろん見ましたとも。しかし、被害の報告はありませんでしたので問題ないと判断しております」
「それはこのアブソル君が予知してくれたおかげで、毎回事故防止策を取ることが出来ていたからです!」
 これだけの怒号に囲まれても相変わらず危機感のないヘラヘラ笑いを続けている男たちに、遂にマーシーさんも苛立ちを堪え切れない声で訴える。
「しかし、根幹となるラスター工法そのものの耐震性能に問題があるとなればいくら防止策を施しても足りません! 直ちに本社に連絡し、計画の再検討をお願いします!!」
「……それで、よろしいので?」
 冷笑が、怒気を跳ね返した。
「…………え?」
 低い、よく通るニヤついた声に、俺たちはみんな冷水を浴びせかけられたかの如く静まり返った。
「なるほど、皆さんの意見はよく分かりました。そのように思われるというのであれば致し方ありません。本社と相談してじっくりと時間をかけて解決策を練らなければならないでしょう。そうなるとどんな結論が出るにしてもかなりの期間を要します。皆さんも大変でしょうなぁ。開通の時期を見越して、村おこしの準備を始めておられた方も多いのでは?」
「ま……待って……」
 どうしたのだろう。サワヤの誰かが狼狽した声を上げている。
 振り返った俺は愕然とした。
 ついさっきニヒトたちの地震に対する杜撰すぎる対応に怒りの声を上げたはずの大人たちがみんな、顔を青ざめさせ、唇を噛み締めてうなだれている。
 何で? 何でみんなそんな顔をするんだ? 奴らはサワヤのための道路を地震に対応していない技術で作ろうとしていたんだぞ? なのにどうしてみんなでもっと怒りの声を上げないんだ? わけが分からないよ!
「……補償は?」
 澄んだ鈴のような声と共に、メブキジカの脚のように細くしなやかな腕が上げられた。
「サワヤタウンで飲食店を営んでいるカマラと申します。たった今教授が言われた通り、このサワヤタウンにはスカイラインの完成に備えて準備を進めていた人が私も含めて大勢います。住民の大半がと言ってもいいかも知れません。国から入った補助金に加え、中には借金までして大量の投資をしている人も少なくありませんわ。もし再検討のためスカイラインの完成が遅れ、そのために準備をして来た私たちに金銭的な被害が及んだ場合、それらに対する補償はしていただけるのかしら?」
 そうだ、その通りだと言う声がカマラさんの背中を押す。
 再び盛り上がりかけた気勢を受けて、ニヒト教授は、
「それはもちろん」
 全く変わらぬニヤケ顔で、平然として答えた。
「一切の補償は致しかねますとも」
「な……」
「なん……だとっ……!?」
「だって、私どもが進めようとしているプランを、皆さんのご都合で反対されるんですよ? どうしてこちらからの補償などという話になるのか理解出来ませんなぁ」
 余りにも身勝手な発言に、カマラさんの温和そうな眉も吊り上がる。
「今、私たちの都合とおっしゃいましたが、そちらのラスター工法の耐震性能に問題があったから……」
「私どもは問題など認識しておりません。ラスター工法は地震に対しても安全です。ちゃんとそう申し上げました。それを鋼の耐性がどうだ、試験の数値がどうだなどと言い掛かりを付けるものがいるから、計画の再検討などという話が出て来て皆さんが被害を受けるのではないですかな?」
「…………」
 深く溜め息を吐いて、カマラさんはへたり込むように椅子に着いた。
「いい加減にしろっ……」
「一体どこまでふざけたことを……」
 そう叫ぶ声は、しかしまばらだった。
 叫んだ声も最早勢いに欠けていた。
「まぁまぁ皆さん、話は簡単なのです。もう一度言います。ラスター工法は安全です。それを皆さんが納得さえしていただけるのなら、誰も損をしなくて済むのです。分りましたね?」
 今度はもう、誰ひとり口を開かなかった。
 なんで? なんでだよ?
 こんな口先だけの安全で工事を押し通されて、地震が起こったら一体どうするつもりなんだよ!?
「……このことは、本社に報告しますよ。補償金のことも含めて」
 悔しさが滲み出ている声で吐き捨てたマーシーさんを、二ヒトたちのせせら笑いが迎える。
「どうぞご勝手に。しかし、建設作業は予定通りに進めてください。貴方の責任ですからね、マーシー監督」
「せ、責任って、こっちの警告を蔑ろにしといて責任はマーシーさんに押し付ける気かよ!? 身勝手なことばかり言うな!」
 食ってかかろうとした俺を、マーシーさんが押し止どめた。
「よせ、アブ公。もう何を言っても無駄だ」
「だ、だってよぉ……」
「聞け!」
 鋭い声を上げてマーシーさんは俺の耳に囁いた。
「これ以上耐震について抗議を続けたら、地震を予知する能力を持つお前を奴らは邪魔者と判断するかもしれない。お前ら(アブソル)にはよくある話だろう?」
 はっと俺は顔を上げた。母ちゃんを追い払おうとして滅びた村の奴らの姿が脳裏に蘇る。
 このままじゃ、俺も母ちゃんみたいに追われることになるって言うのか!? 馬鹿な……
「本社から計画の変更と補償金について回答があるまで、今は例え地震が起こっても事故が起こらないように工事を続けて行くしかない。お前は俺たちの命綱なんだ。頼む。ここは堪えてくれ……」
「くっ…………」
 沸き上がる怒りを決死で飲み込み、俺は小さく頷いた。
「どうやら、皆さんご理解いただけたようですね」
 ……何がご理解だ、クソったれ。
 内心で毒づいた俺やみんなに睨まれながら、最後まで二ヒトはヘラヘラ笑い続けていた。
「そろそろお時間となりましたことですし、ここらで説明会を閉幕とさせていただきます」
 拍手が響く。
 二ヒトの後ろに立つ、5人の推進委員会の鳴らす拍手が。
 サワヤの住民も工夫たちも誰もそれには加わらず、ただじっと拳を握り締めていた。

 ★

「クソったれ!! 何でこうなるんだよ!?」
 あのいまいましい説明会から、数日が過ぎていた。
 南の尾根に並ぶ柱にはその一本一本に漆黒の芯が埋め込まれ、怪しい光沢を谷に向けて放っている。
 ラスター工法は、着実に進行していた。このサワヤタウンで、地震に対する耐性の証明されていない道路が建設されようとしているのだ。
「なのに村の奴らと来たら、ろくすっぽ抗議の一つもしやしねぇ! 計画変更要求の署名を集めて本社に送るって話もうやむやの内に立ち消えになっちまってるみたいだし! マーシーさんたちも黙って推進委員会どもの言いなりになってばっかりで何やってんだよ!? おまけに……」
「また、何かあったの?」
 管を巻き続けていた俺を宥めてくれていたカマラさんが、心配そうに問いかける。
「今朝見廻りのおっちゃんに言われたんだよ。『頼むから不吉な予言はしてくれるなよ』って……」
 俺が最も言われたくない言葉だった。
 かつて母を死の道連れにした村人たちと同じことを、遂に俺もサワヤの村人たちから言われてしまったのだ。
「やっぱり怖いのでしょうね。もし次の地震が起きて、道路工事に何か有ったらって思うと……」
「だからって俺の警告を忌避してどうなるんだよ!? 山火事のシキジカじゃあるまいし! 実際に不安を呼んでいるあの工事をなんとかしないと意味はないだろうに!!」
「シキジカ?」
「あぁ。シキジカってポケモンは、山火事が起こると巣の中に引きこもっちまって誰かが連れ出そうとしても決して逃げようとしないんだってよ。巣の中はどこよりも絶対安全に決まっているから、そこに身を隠してじっとしていれば悪いことなんて勝手に過ぎ去っていくって思い込んでいるのさ。だけど草で編まれた巣の防壁なんて炎の前では何の役にも立たない。さっさと逃げ出せば助かるものを、むざむざと火と煙に巻かれて丸焼けになっておしまいだ!*2 知識も判断力もシキジカより遥かにあるはずの人間が、どうして迫ってくる災いから眼を背けることで安全を保てると思い込むのか全く理解出来ないよ!!」
「そうね。でも……」
 カマラさんは悲しげに眼を伏せ、かぶりを振った。
「説明会の時も言ったけれど、今はスカイラインを人質に取られてしまっているようなものですもの。あの道路がどうしても必要な私たちには、補償も望めない状況ではどうすることも出来ないのよ」
 サワヤタウンが抱えている問題は、本当に深刻なものだった。経済的な問題もあるが、それ以上に重大だったのが人口過疎の問題だ。今のサワヤタウンには、とにかく若い人間がいない。村を出て行った人や、亡くなった人もいるからだが、現在村民では十代、二十代の人間が皆無。工夫団には二十代の若者が何人かいるがそれらはみんな男性。子供を生む女性となると壊滅的な有り様で、何とカマラさんはこのサワヤタウンで2番目に若い女性だったりするのである。ぶっちぎりのトップの名前を上げる必要があるだろうか? 多くの人が出入りしていく道路の完成は、まさしくサワヤタウンにとっては必須にして急務だったのだ。だけど。
「俺だってあの道路が大切なものだってことは分かっているさ! 誰も必要じゃないから危機を訴えているわけじゃない!」
「アブソル君……」
「逆だろう!? あの道路が必要な俺たちこそが率先して、ラスター工法の杜撰さを批判しなければいけないんじゃないのか!? 何で勇気を出して戦おうとしない!? もっと幸せになるための努力をしてくれよ!!」
 喉笛を振り絞って出したその訴えを聞いたカマラさんは憂いに満ちた瞳で俺を見つめ、ほっそりとした指先で俺の前肢をそっと撫でた。
「アブソル君の脚、大きいよね」
「カマラ、さん……?」
「ここへ来たばかりのころならともかく、今ならもうあの険しい北壁へも東の頂上へも軽く跳び越えて行ってしまえるんでしょうね……」
 ひとしきり撫でた後、彼女は窓の外の景色を遠い眼で見渡した。
「でも私たちには無理。北と東と南を高い岩壁に囲まれ、残る西側も険しい岩地に遮られたこんな絶峡に閉じ込められて生きて来た私たちにとって、あの道路は悲願そのものだわ」
「だからっ……!」
「だからこそ、一つの敗北も許されないのよ」
 強い口調で、カマラさんは言い切った。
「この谷の中に守るべきものをたくさん抱えてしまっている私たちには、確実に勝てる戦いしか許されないわ。だから今は、勝機が見つかるまで苛立ちを堪え続けるしかないのよ。分かって」
 そうかも、しれない。
 俺が簡単に『何で戦わないんだ!?』なんて言えるのも、サワヤの人間たちほど直接的にはあの道路を必要としていないから、完成が遅れることぐらい平気な立場だからこそ言える無責任な意見だと言われれば、確かにそうなのかもしれない。だけど…………
「だけど、でも、もし地震で事故が起こったら……誰かが被害にあってからじゃ遅いのに……」
 不安と悔しさで視界が涙に滲む。
 噛み締めた奥歯が、ギリギリと音を立てる。
 と同時に、もう一つ俺の身体が音を立てた。
 効果抜群のさざめきだった。
 ばつの悪さに顔を背けた俺に、カマラさんはクスクスと笑いかけた。
「お腹が空いていては苛立ってしまうのも仕方ないわね。待ってて。すぐに何か作るわ」

 ★

 角をピンと立てて切り揃えられたオレンの実に濃厚な甘味のドレッシングをかけたオレンサラダは、俺の苛立ちをひとまず治めるのに大変役に立ったことは明記しておく。
 ほんとつくづく思うんだが、どうしてこんなにも料理の巧い器量よしが三十路過ぎるまで独身やってるんだろうなぁ? 以前聞いたらカマラさんは『縁がなかったのよ』って笑って言っていたけど、釣り合いの取れる年頃の男性がいなかったってことなんだろうな。今はマーシーさんと出会えたわけだし気にすることでもないか。

 ★

 その日の夜。
 今夜も俺はガキどもを連れて銭湯に来ていた。
 進展しない事態への苛立ちを、湯の温もりと香りの中に流し出す。
 人心地ついて周囲を見渡すと、湯気の向こうに栗色の頭が見えた。
「風呂になんか浸かっている場合なのかよ、マーシーさん」
「アブ公、か」
 不機嫌な声で話しかけたことを、俺は即座に後悔した。
 振り返ったマーシーさんの顔には、俺以上の不機嫌が刻み込まれていたからだ。
「風呂にでも入らなけりゃやってられるかよ……っ!」
「……悪かったよ。委員会の連中と何かあったのか?」
「あったのはユークリニア本社とだよ。今日、本社から俺の報告への返答があったんだ」
 ふぅ、と深く溜め息をつくその様子から、芳しくない返事であったことは容易に想像出来た。
「端的に言えば、『推進委員会の判断に従うのが俺の責任』って説教食らって終わりさ。こっちの話なんか聞いてももらえなかったよ……」
「馬鹿な……地震が起こっていることも、ラスター工法が耐震試験を行っていないことも伝えたんだろう!? 事故が起こったら責任取れるのかよ!!」
「言ったよ。そうしたら『ラスター工法は安全であり事故など起こり得ない。起こらない事故の責任など考慮する必要はない』んだそうだ」
 数瞬、開いた口が塞がらなかった。
「何だよ、それ……ユークリニア社っていうのは馬鹿しかいないのか!? 道路が崩れて作り直しにでもなったりしたら大損になるって考えないのかよ!!」
「考えないんだろうな。賠償は道路公団がしてくれるんだから」
「……え?」
 首を傾げた俺の横で、雨避けから滴った雫がピチャリと波紋を立てた。
「そういうことになっているんだよ。道路が損壊してもその原因が天災なら、震災基準に合格している限り修理費用は全額道路公団が保障する。そしてラスター工法はイッシュ地方で耐震性が認められている……」
「ちっ、道理で強気になっているわけだ。何が起こっても自分たちの懐を痛めなくて済むんだからな。こっちは万一のことが起こったら大損害だっていうのに! ったく、ろくでもない物を作ってくれたもんだぜ!!」
「そうだな。ろくでもないものだな。そんなものを、俺は作らされているんだな……」
 湯船の中から上げた掌で顔を覆うマーシーさん。その背中が嗚咽に震えている。
「そんな……泣かないでくれよ。マーシーさんが悪いわけじゃ……」
 慰めの言葉も効かず、涙声が浴場に響く。
「みんなを幸せに出来ると思って頑張って来たのにな……みんなに会わせる顔がない……カマラにも会わせる顔がないよ……あいつをいつまでも笑顔でいさせてやれると思って俺は……」
「マーシーさん……」
 かける言葉に困ったまま、うつむいて黙るしかなかった俺に、
「こらぁー!」
 突然、激しい糾弾の言葉がかけられた。
「あぶそるー、まーしーおじちゃんをいじめちゃだめだろー」
「だめなのー」
 すっぽんぽんの豪快な裸身ですっくと立ちはだかったソアタとチネちゃんが、さながらソフビ刀かピコピコハンマーを思わせる激しさをもって俺を叱りつけたのだった。うわぁ。
「苛められてないよ。二人でゲームして、俺が負けただけ」
「そ、そうそう」
 マーシーさんの出してくれた助け舟に、俺は必死で飛び乗った。
「だったらよろしい!」
「わー、ちねもげーむするー」
「だ、駄目駄目、大人のゲームだからな」
「そうだぞ。もう少し大きくなってからな」
 どうにかふたりで力を合わせて難を逃れたが、チネちゃんはともかくソアタはまだ頬を膨らませている。
「さいきんのおとなってへんだもん。みんなすぐおこったりけんかばっかりしてさ」
 そういう君も随分とおかんむりだね。
「ここのところ地震が続いているからな。みんな怖くて、誰かに八つ当たりをせずにはいられないんだよ。分かってやってくれよ」
 マーシーさんが子供にも分かりやすい言葉で宥めてあげると、ソアタは小さな腕を胸の前で組んできっぱりと断言した。
「へんだよ。こわがることなんかないのにね」
「なぜだい?」
「だって、じしんがおこってもあぶそるがまもってくれるもん!」
「まもってくれるも~ん!」
 自信満々にソアタが胸を反らせるのと同時に、チネちゃんが湯船に飛び込んで俺に抱き着きつるぷにのお腹を押し付けて来た。どうしろと。
「マーシーさぁん……俺、この子たちの安心の根拠にされちゃったよぉ」
「頼りにされて羨ましい限りだな、ははは。いいじゃないか。子供たちの根拠なら。でも、この子たちを守らなければならない大人には確かな安心こそが必要なんだよな」
 すっかり気を取り直したのだろう。漢の顔を引き締めて、マーシーさんが湯船の中から立ち上がる。
「もう一度、推進委員会たちとしっかり話し合って来るよ。俺の責任、なんだからな」
「頑張れよ。カマラさんも言っていたぜ。守るべき者を持つ俺たちには、一つの敗北も許されないってな!」
「がんばれおじちゃーん!」
 激励の言葉に無言で手を振って応えて風呂場から上がるマーシーさんの逞しい背中を、俺はソアタたちとともに見送った。

 ★

 翌朝。
 角を貫く強烈な悪寒に、俺は跳ね起きた。
 辺りは、まだ夜明け前だった。
 地震が来る。
 午前中、10時頃までには確実に……!!
 すぐさま巣穴を飛び出し、サワヤタウンへの道をひた走る。
 急いでみんなに伝えなくちゃ。
 特にマーシーさんたちに工夫団には大急ぎで、だ。ラスター工法が始まって以来初めての地震予知になる。何事も起こらなければいいが……

 ★

「おはよう、アブソル。やけに早いが、まさか……」
 今日も入り口で最初に会ったのは見廻りのおっちゃんで、俺の様子を見てたちまち顔を曇らせた。
「悪いがそのまさかだ。おっちゃんの恐れていた不吉な予言が来ちまったよ!」
「そ、そう刺々しく言わんでくれ。それより、いつ頃来そうなんだい?」
「10時頃には来る。急がないと行けない。みんなに知らせてくれ。特に子供たちには、ずっと家にいてお袋さんの言うことをしっかり聞いておくようにって!」
「分かった。工夫団への連絡は任せたぞ!」
「おう。あ、あとガキどもにもう一つ。地震が治まったら遊ぼうなって伝えといてくれよ!」
 それだけ伝えると、俺はまっしぐらに工夫団宿舎に向かって駆け抜けた。

 ★

「止まれ! 何をしに来た」
 工夫団宿舎の門の前まで来た俺は、横柄な声に呼び止められた。
 紺色のスーツを着たその男は、説明会の時ニヒトの後ろに並んでいた新技術推進委員の一人だった。
「予知があったんだ。もうすぐ地震が……」
 伝えようとした警告を、嘲り声が遮った。
「予知だと? ハッ! そんなこと言って工事に言い掛かりをつけて邪魔をするつもりなんだろう!」
「な、何を言っているんだ!? とんでもない、俺はずっと地震を予知して工事を手助けして来たんだぞ!? 説明会の時マーシーさんも言っていただろう。聞いていなかったのか!?」
「下請けの現場監督の言葉などいちいち聞いていられるか。馬鹿馬鹿しい」
 まるで取り付く島のない男の対応に俺は唖然とした。これでは本当に話にもならない。こんな奴らを相手にしていたのではマーシーさんのあの憔悴ぶりも納得だ。
「と、とにかくもうすぐ地震が起こるんだ。急いで現場に行って対策してもらわなければいけない。早くマーシーさんを呼んで来てくれ!」
「マーシー監督は謹慎中だ」
 …………!?
「謹慎……だと!? 何で、何でだよ!?」
「奴は工事に対し反抗的な態度を我々に示したのだ。当然の罰だ!」
 苛立ちが怒りとなって、全身を奮わせた。こいつ、何様のつもりなんだ!?
「何が工事に対してだ!! 要するにお前らに逆らったからってことだろうが……くそっ! だったら他の工夫の誰かでもいい! 今すぐ呼んで来いよ!」
「工夫は既に現場に向かっている。もう作業を開始した頃だ」
「もう!? 随分早くなってねぇか!?」
「お前らみたいな輩が危機を煽り立てて無用な騒ぎが広まる前に施行を完了せねばならんのだ。仕方なかろう」
「……ちっ!!」
 こんな分からず屋と話しをしていても埒が開かない。踵を返して、俺は南の尾根を目指して駆け出した。
「どこへ行く!」
「決まってるだろ! 直接現場に行って工夫のみんなに地震対策をしてもらうんだよ!」
「貴様、やはり工事の邪魔をする気だな! ええい、奴を止めろ!」
 委員の指示を受け、モンスタボールの赤い閃光が俺の前に飛び出す。直径30cmほどの銀色の歯車が2枚、宙に浮いて現れた。
 ギアルだ。工事の作業現場でも何度か見かけたことがある鋼のポケモンだった。
 うざったい鋼ポケモンに行く手を塞がれ、俺は声を荒げて背後の男に怒鳴りつけた。
「てめぇ、耳は付いてねぇのかよ!? 地震が起こるっていってんだろう! 事故が起こって怪我人が出たらどうすんだよ!?」
「我らが推進するラスター工法は地震などではビクともせぬわ。『ウソツキ少年』*3の童話のようにありもしない危機を騒ぎ立てる悪戯者は、二度といい加減な口を叩けないよう徹底的にこらしめてやる!!」
「嘘なんか吐いてねぇ!!」
「ウソツキ少年は誰もがそう言うものだ!」
「そりゃそうだ……って、ちょっと待て! その童話の少年も嘘なんか吐いていなかったんじゃなかったっけか!? 結局少年の言った通りに災いが来て、少年を嘘吐き呼ばわりした村人が酷い目にあったってオチだっただろ! 警告を信じない奴を戒める話だぞあれは。何か色々間違ってるだろあんた!!」
「ええい、問答無用だ! ギアル、電磁波で奴を拘束しろ!!」
 クソったれ! 童話みたいに、サワヤタウンに災いを起こさせてたまるか……っ!!
 内心で毒突きながら、俺はギアルの方を向き直りもせず言い放った。
「来るならさっさと来やがれ。そのおんぼろの歯車で、この俺を捕らえられるものならな!」
「ふん、観念したか。やれ、ギアル!」
「ギギギッ!!」
 しかしギアルは男の命令に従わず、歯車の回転を上げて俺に飛びかかった。
「な、なにっ!? どうしたギアル!? 電磁波だ、電磁波を使えと言っているだろう!?」
 何事が起こったのかも理解出来ない委員がうろたえた声で指示を繰り返すが、ギアルは構いもせず無秩序な突撃しかけてきた。トレーナーと息の噛み合わないそんな攻撃など相手にもならない。余裕で躱し、俺はギアルの背後へと擦り抜ける。
「い、いかん! 早く電磁波で捕らえろ! 電磁波だと言っておるのが分からんのか!?」
「勝手にやってろバ~カ!」
 怒号を上げる男を尻目に、俺は尾根への連絡道を駆け上がった。
 だが、その俺の前に、
「何やってんだい。見ちゃいられないねぇ」
 新たな人影が、立ち塞がった。
「き、来てくれたか! そいつを捕らえろ! 工事を妨害する気だ!!」
「あんたがあたいに命令すんじゃないよ。あたいが聞くのはニヒト教授の命令だけさ。ま、言われるまでもなくそいつを通す気はないけどねぇ。ひゃははははっ!」
 人影かと思ったそいつは、見たことのないポケモンだった。
 スラッとした胴体の両脇から突き出している肋骨のように湾曲した銀色の刃。怒り肩の下にぶら下がる鋭く尖った肘と爪。そして血色のヘルメットを被ったような頭部の真ん中にそそり立つ黄金色に輝くど派手な角。その全てが鋼の力を帯びた光沢をギラリと放っている。
「見かけない面だが、あんたも鋼ポケモンか? さすが鋼の力を使った工法を推進している委員会だけに連れてんのも鋼ポケばっかりなんだな」
「別にばっかりってわけでもないけどね。確かにあたいは鋼だよ。キリキザンっていうのさ。覚えときな」
 シャキッ、シャキッと背筋に響く音を立てて爪を研ぎながら、キリキザンは坂道を降りて近付いて来る。
「工事を邪魔しに行くわけじゃねぇ。地震の危機を伝えに行くだけだ……だと言っても、あの教授の手持ちなら聞くわきゃねぇな……」
「いいや。話だけなら聞いてあげてもいいさ。あんたのその真っ白な身体が真っ赤になるまでいたぶった後でねぇ。もちろん誰にも伝えちゃあげないけどね。ひゃははっ!」
 どうやら分からず屋の上にサディストらしい。鋼ポケの癖に、まるで悪ポケか毒ポケみたいな口をきく雌だ。
「……どうでもいいけどさ」
 これ以上相手にするつもりはない。ギアルと同じ手で捌こう。
「さっきから爪を磨いてんのは、錆が気になる年頃だからってわけかい? 婆さん」
 ピタリ、と爪を止めてキリキザンがこちらを睨みつける。
「まさかあたいにまで挑発をかけて来るとはねぇ。ギアルと同じ用に行くと思ってんなら……」
 研ぐのをやめた爪が、左の脇に構えられる。その爪先の間に、強烈なエネルギーが凝縮し漲っていく。やばい、これはまさか……!?
「大間違いだよ!!」
 気合一閃、キリキザンはその闘気の塊を解き放った。
 くそっ、気合玉か! こんな技を持っていやがったとは。だが見るからにタイプ不一致な不安定さだし弾速も遅い。これなら躱すのは容易いことだ。紙一重で躱して、隙だらけになった奴の脇を一気に走り抜けて尾根へと向かってやる!
 バリバリと閃光を散らしてにじり寄る気合玉の陰に隠れるようにギリギリまで引き付け、僅かな動きだけで躱……
 !?
 ……そうとして、咄嗟に俺は大きく横っ跳びに撥ねた。
 グイッと俺の目前で軌道を変えた気合玉が、背後を通り過ぎて山肌に炸裂し飛礫を撒き散らす。
「なっ……何だ今の軌道は!? 俺を追いかけるようにひん曲がりやがった!? まさか、気合玉だと思っていたが波導弾だったのか!?」
「ひゃはは、さすがにそれはないよ。よく磨いたこの爪で気合を込めて打ったってだけの話さ。ほら、もう一発喰らいな! ひゃっはー!!」
 再度飛んで来た気合玉はやはり俺を狙って湾曲してきた。これが爪研ぎの成果なら、挑発して途中でやめさせたのは正解だったか。避けづらくなったとは言え、この程度の変化なら何とか避けられる。今度こそギリギリで躱し、
 ――次の瞬間、俺はキリキザンの不意を打って一気に間合いを詰め、漆黒の角を刃と変えて切り付けた。
 あんなやっかいな飛び道具を持っている以上、戦闘を避けて逃げても後ろから狙い撃ちされちまう。だったらひとまず倒して切り抜けるまでだ。いくら鋼の肉体と言ったって、この漆黒の太刀から繰り出す不意打ちの破壊力を持ってすれば……
 ガキィッ!!
「……ひゃはっ!」
「な……っ!?」
 俺の一撃を、キリキザンは躱そうともせずに頭で受け止めた。
 全力で打ち込んだはずの漆黒の剣撃は、血色のヘルメットに傷一つ付ける事なく弾き返されたのだ。
 驚愕する俺の顔に、鋭利に尖らせたメタルクローが引き裂かんと迫る!
「つ……っ!!」
 痛みとともに血玉が頬の上を転がる。
 間一髪、皮膚だけを切らせて俺は奴から飛び退さり身構えた。
「ってぇな……切っ先がいびつになってんじゃねぇか? ちゃんと研いどけよ!」
「さっきそれをやめさせたのはどこのどいつだい!」
 そうだった。てへ。
「にしても、てめぇ……」
 今の手応え、鋼の硬度だけで受けたんじゃない。
 インパクトの瞬間、奴の血色の表皮が俺の不意打ちに対しまるで読み切ったかのように逆立って受け止めたのを感じた。あの反応は技ではなく天性の耐性によるもの。しかもおそらく……
「まるで、みたいだとは思ったが、マジなのかよ……クソッたれ!」
「どうやら気が付いたようだね」
 ニヤリ、とキリキザンが笑う。俺もよくやる種類の嘲り笑いだった。
「そうだよ。あたいらキリキザンのタイプは鋼だけじゃない。あんたと同じ、悪タイプも持っているのさ。悪タイプしか持っていないアブソルの技なんかあたいには通用しやしないよ。ひゃははははは!!」
 得意げに高笑いするキリキザンの前で、俺は歯噛みするしかなかった。
 くそっ……もうそろそろ予知された時間だって言うのに、こんな奴一体どうやって突破すればいいんだ!?
「ギギギギギッ!」
「追い詰めたぞ。今度こそ観念しろ」
 脇からギアルと委員の男の声が飛んできた。
 気が付けば後ろは岩壁。飛来したギアルに退路を塞がれ、確かに俺は追い詰められていた。
「何だい、まるで自分の手柄みたいにさ。ま、いいさ。混ぜてやるよ。ひゃはははは!」
 おぞましい笑い声を上げながら、キリキザンはギアルとともに包囲の輪を狭めてくる。
 気が付けばかなり日が高い。一体どれだけ時間を無駄にしちまったんだろうか。
「どけよ……もう時間がねぇんだよ! これ以上邪魔すんな!!」
「おのれまだそんな世迷事を! やれ、ギアル! そいつを黙らせろ!!」
「ギギッ!!」
 逃げ場を失った俺にギアルが飛びかかり、首を挟みつけて鋼鉄の歯車を回転させた。
「ぐわああああああっ! や、やめろーーっ!!」
「ひゃはははは、いい声を上げてくれるじゃないか! 今度はあたいの番だよ。どこから切り刻んでやろうかねぇ!」
 憎しみを込めて睨みつけた俺を愉快そうに見下ろし、キリキザンはメタルクローを振り上げる。
「さぁ、素敵な声を聞かせとくれ! ひゃっはー!!」

 だが、そのメタルクローが、俺の身体に届くことはなかった。
 午前10時。

 足元が、小刻みに震え出す。
 視界が、徐々に揺れ始める。
「ギギギッ!?」
 ギアルが俺を放り出して地面の上を転がる。
「な、何だってんだい!? 聞いてないよこんなの……ひぃぃっ!!」
 キリキザンは悲鳴を上げながら頭を抱えてうずくまる。聞いてろよお前ら。
「うわあぁぁぁっ!? た、助けてくれぇっ!! この世の終わりだぁっ!!」
 委員の男は無様な悲鳴を上げて、ギアルとキリキザンには目もくれず工夫団宿舎へ駆け戻ろうとする。おい、少なくともギアルはお前の手持ちだろう! せめてボールに戻してやれよ!!
 ゴゴゴゴゴゴゴゴ!!
 煙突山が低い唸り声を上げ、世界の全てが激しく俺たちを揺さぶった。
「ギーーーーッ!?」
「ひぎゃあーーーーっ!?」
 ギアルは引っ繰り返ってビクビクと痙攣を始め、キリキザンに至っては足の内側を異臭の放つ液体で濡らしながら失神してしまった。一方逃げ出した男は激震に足元を掬われ岩場の上で盛大にすっ転んでいた。揺れてる最中に走って逃げるからだ、馬鹿が!!
 はっと気が付き、俺は尾根の上を見上げた。
 そうだ、工事は、ラスター工法の柱はどうなった!?
 岩壁の向こうに天を突いてそびえ立つ真っ黒の柱。
 それがこの揺れの中でも微動だにもしていないのを見て、ホッと安堵の溜め息を漏らし、
 しかし次の瞬間、俺は感じた。
 まさにその時、柱を包む鋼の力場の結束が、地面から伝わった波導に引き裂かれてバラバラに千切れ飛ぶのを。

「だっ……」

 ラスター工法にとって構造財そのものであった力場を失った柱は、更なる横揺れを受けて大きく傾ぎ。

「駄目だ……」

 脆くも、まるで積み木の柱が倒れるようにあっさりと、谷の中へ、サワヤタウンへと向けて、瓦礫をぶちまけながら真っ逆さまに崩れ落ちていく。

「止まれ! 来るな! そっちに落ちるなあぁぁぁぁぁぁっ!!」

 せめて、せめて空き地か道路に。
 何もない場所に、誰もいない所に。

 だが。

 そんな俺の願いは、すべて空しかった。

 谷に落ちた瓦礫はサワヤタウンの一角を直撃し、数軒の民家を破壊して新たな瓦礫に変えた。
 瞬間、虚空に黒々と巻き上がった粉塵の中に舞い散る民家の屋根の色彩が、妙に鮮やかに浮かび上がって見えた。
 その屋根の色は、

「うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 ――藍色と、桜色、だった。
 
 ★

「ソアタあぁぁぁぁぁぁっ!! チネちゃあぁぁぁぁぁぁんっ!!」
 絶叫を上げながら、揺れの収まった坂道を全速力で駆け降りる。
 一歩一歩近づく毎に、被災した場所の状況が明らかになっていく。
 落ちた瓦礫によって破壊されたサワヤタウンの家屋は、被害が微細に見える物を除けば5~6軒程度。うち完全に大破しているのは確認出来るだけで3軒。その内1軒は納屋で、もう2軒というのが……
 最悪、だった。
 よりにもよって、慣れ親しんだ藍色の屋根の家と桜色の屋根の家が。俺にとっても、サワヤタウンにとっても一番大切な宝物たちが住んでいる家が!!
 あいつら、まさかあの家の中にいたりしないよな。
 そうだよ、きっと二人でどこかに遊びに出掛けて……

『ずっと家にいてお袋さんの言うことをしっかり聞いておくようにって!』

 馬鹿か、俺は。
 いないわけねぇだろうが。
 あの子たちが俺からの警告を聞かないわけなんて……っ!!
 クソったれ!! 馬鹿野郎、俺の馬鹿野郎!! あんなことさえ伝えさせなければ……!!
 足が痛むのも構わずに散らばる瓦礫を踏み越えて、無惨な姿に変わり果てた家の側までようやく辿り着いた。
 酷い……! どちらの家も完全に屋根が落ちて、跡形もなくぺしゃんこに潰されてしまっている!! これでは生きている望みなんて、とても……
 絶望に圧し潰されそうになる心を賢明に堪え、立ち籠もる粉塵にむせ返りながら、俺は力の限り瓦礫に向かって吼えた。
「ソアタ! チネちゃん! お袋さん!どこにいる!? 返事をしてくれぇぇぇぇっ!!」
 どちらの家も親父さんは仕事で出かけて留守のはずだが、お袋さんは二人とも家にいただろう。頼む、頼む! みんな無事でいてくれ……っ!!

「…………うわぁぁん……」

 微かな、声が。
 潰れた桜色の屋根の向こうから、向こう側から、耳に届いた。
「チネちゃん!?」
 生きて、いた……!?
 瓦礫を蹴散らし、声の聞こえてくる方へ回り込む。
 そこはチネちゃんの家の庭で、倒れた物干し竿と、散乱した洗濯物と、そして。
 いた……!!
 崩れた日除けの下に半身を挟まれている人影。
 チネちゃんのお袋さんと、そしてその腕の中で泣いている、
「チネちゃん……よかった! 無事だったか!!」
「あぶそる! あぶそるー! ごわがっだよぉー!!」
 悲痛な、しかし元気そうな声を上げてチネちゃんは泣いていた。
 見たところ、目立った怪我もなさそうだ。よかった。本当によかった。
 だが、お袋さんは倒れたままで死んだように動かない。
「お袋さん! お袋さん! 助けにきたぞ、しっかりしてくれ!」
 肩を揺すりながら耳元に呼びかけると、うぅ、と呻きながら彼女はうっすらと眼を開けた。
「あぁ……アブソル、来てくれたんだね……」
「あぁ! チネちゃんも無事だ! よく頑張ってくれた!」
 それを聞くと、お袋さんはホッとした笑みを浮かべた。
「机の下から窓をみたら、あれが落ちてくるのが、見えたんだよ……咄嗟に、一緒にいたこの子を抱えて、庭へ飛び出して……」
 改めて、彼女の下半身の上に被さっている日除けを見る。一歩遅れていたら、軽い日除けとは言えまだ幼いチネちゃんは無事じゃ済まなかっただろう。もっと間に合わなかったら、今頃瓦礫の下敷きだ。まさに火事場の馬鹿力。我が子を守ろうとする母親の願いが呼び起こした奇跡というべきか。
「アブソル……」
 そのお袋さんの手が、ギュッと俺の足をつかんだ。
「あんたが……うちのチネへの伝言、していなけりゃ……」
 ――!!
 分かってる。
 俺の、せいだ。
 家でじっとしてろなんて言わなけりゃ、こんな目に会わすことなんて。
 罪悪感に捻り潰されそうになった俺の心を、お袋さんの震える声が貫いた。
「あたしの……言うことを聞けって、言ってくれてなけりゃ……守れなかったよ……ありが、と……」
 ……!?
 胸に溢れ返ったもので喉がつかえて何も言えなくなった俺に微笑みかけると、お袋さんはガックリと腕を落として動かなくなった。
「お、お袋さん!? お袋さあぁぁぁぁん!!」
「アブソル!? そこにいるのはアブソルか!? 返事をしろ!!」
 通りから瓦礫越しに俺を呼ぶ声が聞こえ、俺はすかさず声を返した。
「見廻りのおっちゃん!? こっちだ! 早く庭の方へ!」
「おじちゃあぁぁん!」
「おぉチネ嬢、無事だったか! よかったよかった!」
「早く来てくれおっちゃん! チネちゃんのお袋さんが……」
 現れた見廻りのおっちゃんは、お袋さんの様子を確かめると、ホッと胸を撫で降ろした。
「大丈夫、気を失っているだけだ。とにかく運び出そう」
 日除けの下に角を突っ込んで梃子にしてえいっと力を込める。持ち上がった日除けの下におっちゃんは丸太のような腕を突っ込んで、お袋さんの身体を抱いて手早く引きずり出した。
「おっちゃん、ソアタの家は? ソアタとお袋さんはどうなっている?」
「あっちには今うちの婆さんが向かってる。工事現場からもポケモンが何匹か降りてくるのが見えた。大丈夫、チネ嬢が助かったんだ。ソアタ坊だってきっと無事でいるとも!」
 そうだ、きっと無事でいる。無事でいてくれ……っ!!
「二人をお願い。俺、様子を見てくる!!」
 いても立ってもいられず、俺はチネちゃんたちをおっちゃんに託し、藍色の屋根の残骸へと走った。

 ★

 ソアタの家に向かって見ると、瓦礫は既に大きく切り開かれていた。
 その傍らで黄緑色の翅が揺れている。おっちゃんの言っていた〝うちの婆さん〟であるところのドクケイルさんだ。
「婆さん!」
「アブソルかい。うちの宿六は隣に向かってるよ」
「あぁ、今チネちゃんとお袋さんを託して来たところだよ。二人は無事だ。こっちはどうなっている!?」
「そうかい……」 
 そう言うと、ドクケイル婆さんは翅を退かして見せてくれた。そこに毛布に包まれて横たわっていたのは、
「ソアタのお袋さん!?」
「潰れちまった台所の机の下にいたのを、工夫団のローブシンとバルビートが見つけて助け出してくれたのさ。今念力での応急処置を済ませた。まだ意識は戻らないけど、ひとまず命に別状はないよ」
 疲労の色を見せる顔を赤紫色の脚で拭いながら、婆さんはそう俺に伝えてくれた。
「そうか……後はソアタだ! ソアタはどこにいる!?」
「まだ見つかっとらんよ。今ローブシンたちが懸命に捜索しているところじゃ。早く行って手伝ってやっとくれ」
「分かった!」
 見えて来た希望を掴むべく、俺は瓦礫の奥へと向かう。
 この絶望的な状況の中で、4人中3人までもが助かったんだ! 一人だけ、ソアタだけ助からないなんて絶対ない! 絶対あるもんか! ソアタ、今迎えに行ってやるからな!!

 ★

 ほどなくして、工夫団のポケモンたちの姿が瓦礫の中に見えた。ローブシンが崩れた天上を持ち上げて愛用のコンクリート柱で支え、その下をバルビートが尻先の光で照らしながら探っている。
「ローブシン! バルビート!」
「アブソル、か。ドクケイルの婆さんから話は聞いた。予言はあったんだとのう。こっちに来れんかったのはやはり……」
 柱を支えたまま、悔しげな表情でローブシンは俺に尋ねた。
「あぁ。推進委員会の連中に邪魔されたんだ。すまん! 俺が奴らを撒けていれば……」
「謝らなきゃならんのは儂らのほうじゃい。監督を処分され、委員会の横暴を止められんかった。おかげで工夫団にも怪我人が出てしもうたよ」
「そっちは大丈夫なのか!?」
「分からん。工夫団の人間たちは口を揃えて、まずサワヤタウンの救助を優先するように言ったんじゃ。見るからに重傷を負っているもんですらの。現場にいた委員だけが自分を安全な場所に避難させろと喚いておったが、そいつは怪我一つしとらんかったから無視して来たわ」
 皺だらけの頬を吊り上げて見せたローブシンに俺も微笑みを返し、すぐに真剣な顔に戻して問いかける。
「それで、ソアタはまだ見つかっていないのか!? チネちゃんとお袋さんは無事だった。ソアタのお袋さんもお前たちが助け出てくれたんだってな。さっき婆さんが応急処置を済ませて、命には別状ないって言っていたよ。後はソアタだけなんだ。早く助け出してやらないと!」
「…………」
 ローブシンは不意に表情を沈めて口を閉ざし、奥を探っているバルビートの方を伺い見る。
 バルビートは振り向きもせず、赤い襟に包まれた頭を小さく横に振った。
「そうか、よし、俺も手伝う! どこから掘ればいいか言ってくれ!!」
 しかしバルビートは、俺の方を振り向くと、もう一度その黒い顔を振った。
 その瞳に、悲しみの滴を揺蕩わせて。
「え…………」

 その手が。
 何かを、握り締めている。
 靴下、だった。
 見覚えのある、紛れも無くソアタ愛用の、それは小さな靴下だった。
 そしてその靴下には、中身が入っていた。
 靴下の中に入っていて然るべき中身が。
 そして、
 それだけしか、入っていなかった。

 バルビートが照らし出した壁の奥。
 元は居間だったその場所は、工事現場から落ちた瓦礫の直撃を受けて完全に潰されていた。
 黒い鉄塊と崩れた天井の下敷きになって、テーブルの天板がひしゃげているのが見える。
 そしてその下が、赤く。
 赤く、赤く滲んで。

『ぼく、ひとりでつくえにかくれられんだよ!』

 ちゃんと言われた通りに出来たんだよな。偉いぞ。
 ほら、頭を撫でてやるよ。出て来いよ。返事しろよ!
 あんよがちょん切れちまったぐらいなんだよ! 男の子だろ!
 地震は治まったんだぞ! 遊ぼうって伝言は聞かなかったのかよ!!
 なぁ!!

『だって、じしんがおこってもあぶそるがまもってくれるもん!』

 ごめんな。
 俺、守ってやれなかった。
 ごめんな、ソアタ。

 ★

 カマラさんの言った通りだった。
 俺たちには、一つの敗北も許されなかった。
 推進委員会共に煩がられた揚げ句、肝心な時にマーシーさん共々現場とのつながりを断たれ事故を防げなくなるぐらいなら、もっと慎重に振る舞うべきだったのだ。
 そして、俺の言ったことも当たってしまった。
 事故が起こってからでは、被害が出てからではもう遅い。
 何もかも、もう取り返しはつかないのだ。

渓谷のフラストレーション・下に続く 


*1 サワヤを漢字で書くと『沢谷』つまり渓谷の村。
*2 実際に家畜の馬や牛などが厩舎が火事になった時に起こす行動が元ネタ。
*3 いわゆる『オオカミ少年』。

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Last-modified: 2011-09-18 (日) 00:00:00
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