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LH11

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てるてる
ルイス・ホーカー .11


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 おぼつかない足取りで戸口をくぐっていった客を、サンダースのイヴはテーブルに布巾がけをしながら見送った。
そのまま視線を上へ転じれば、十二時過ぎを示した壁掛け時計が目に入る。
 ドクロッグの経営するこの酒場は方針として、閉店時間をあまり細かく決めていない。
深夜になり、客がいなくなり次第閉店するということになっていたので、今日のように未明まで家に帰れない時もあった。
 外では相変わらず砂が壁を叩く音がする、時折風向きが変わるのか、入り口辺りに吹き込んだ砂の浅い波模様がそのたびに崩れるのが見えた。
辟易してため息をついたイヴは布巾を背中に乗せ、掃除のために床に置いていた酒瓶の口を咥えてカウンターの裏に回る。

「まったくなんだろうねえ、あいつは」

 布巾と酒瓶をそれぞれ始末していると、上のほうから老女のさも迷惑そうな声が聞こえてきた。

「まったくだよ、信じられるかい。おれは信じられんよ」

 カウンターに陣取った老人ふたりは嫌悪感を露わに、しかし愉快そうに会話に花を咲かせていた。
口の広いグラスの底に残った酒を舐め取りながらそう言った男は、酒、とぶっきらぼうにカウンターの向こうに立っていたドクロッグを呼びつける。
眉間にしわを寄せつつも頷いたドクロッグは、棚からウイスキーの入った瓶を取り出し空のグラスに注いだ。

「少々飲み過ぎじゃないのかい」

 ふん、と鼻を鳴らした男は、グラスに口を付ける。
大儀そうに顔を上げ、丸椅子の上に立ち上がると、ドクロッグの鼻先に自身の鼻を突きつける。

「放っておいてくれないかね。おれはちゃんと酒代を払ってるんだ。お前さんはそれと相応の酒を出してくれりゃ良いんだよ」

 カウンターに掴まり立ってわめき散らすのにドクロッグが眉根を寄せるのを見て、男のとなりに座っていた女は男の尻尾を引っ張って無理矢理座らせる。

「すみませんねえ、このひと昔っから酒癖が悪くてねえ」

 不機嫌そうに顔を顰めて席に座った男を窘める女の言に、イヴは食器を洗いながら内心に頷いた。
 酒を飲んだオオタチが良いことをしたという話を、少なくともイヴは聞いたことがなかった。
手当たり次第に周りの者にのべつ幕なしに愚痴を吐き出し、少しでも自分の気分を損ねようとする者がいれば、こじつけてまでその者を怒鳴る。
いまのところイヴはやり玉に上げられたことはなかったが、目の前で大声を出されるとさすがにすくみ上がってしまう。
 ドクロッグは女のグラスに酒を注ぐと、迷惑げに横目にオオタチを見た。

「だったら飲み過ぎないように気を掛けてくれないと。この爺さん、放っておけば店ごと飲んじまう」

「これが飲まずになんかいられるか」

 ふたりを睨み付けたオオタチは、会話を中断させるようにそう吐き捨てる。

「昼間からあんなもん見せさせられて、まだ吐き気がするわい。そうだろ?」

 同意を求める声に、ドクロッグは首を振ったが、老女は、ああ、と顔を顰めた。

「たしかにねえ、あれは気持ちわるかったわね」

「昔っからあのホーカーってガキはろくでもねえと思ってたが、今日のことではっきりしたよ。まさか男と抱き合
うなんてな」

 オオタチの言葉にイヴは無意識に身体が強張るのを感じた。
イヴの体格でも不自由がないようにと流し場のまえに設けられた踏み台の上で、イヴが表情に影を落とすのを、とっさに振り返ったドクロッグは見つけた。

「別に良いんじゃないかい。趣味なんてひとそれぞれだろ」

 不自然に取り繕おうとするドクロッグの言葉は、イヴの中で浮つく。
今日一日でその話題は何度もイヴの耳に入っていた。
昼間の、ちょうどサンダースのルイスが店から出て行った直後に、彼が同じ博物館員と車の中で抱き合っていたというものだ。
ふたりの老人から広がった話は、今ではほとんど町中に到達している。
おかげで酒場にやってくる客は開口一番にそれを話題として持ち上げてくるのだった。
幾度となく聞かされた中傷めいたルイスの話題に、正直イヴは辟易していた。
それは単に初恋の相手を汚されたからというよりも、誰もルイスの快不快について頓着していないのが原因だった。
悪口は言っても、庇おうとする者はいない。
一見して平穏な町に内在する暗部を垣間見た気が、イヴにはした。

「ひとそれぞれだって?」 

 オウム返しに言って、大口を開けて笑うオオタチ、カウンターの向こうでため息をつくイヴには気付かない。

「昼間っから男を相手に発情するほどお盛んなやつを、ひとそれぞれだなんて言葉で片付けて欲しくないね」

 そう言えば、と前触れなしに声を上げたのは女だった。

「ホーカーに押し倒されてた奴の名前ってたしかロイターとか言うんだっけ?」

 質問にはオオタチが答えた。

「ああそうだよ、ロイターだ。外国人のくせしてチーチ館長の下で働いてるやつさ」

「館長のかい? なんだか気に入らないね」

「おれもだ。そいつの憎たらしいところはな、ホーカーみたいに当て擦る隙をまったく見せないところだ、いつも
他人行儀な態度で自分だけ要領よく過ごしていやがった」

 だけど、と一旦言葉を句切ると、グラスの酒をすすり上げる。

「しょせんは余所者だ。弱みを見せたからには、いつかおれがこの手でホーカー共々町から放り出してやる」

 やかましく笑いあう老人たち、イヴは自身の背中が静電気で逆立つのがわかった。
これ以上町の暗部を見せつけられるのは我慢ならない。
やめて、と言いたかったが実際に言葉として出ることはなかった。
仕方なくイヴはまごつくだけの唇を噛んで物置の方へと駆けた。
扉の開け閉めされる乾いた音に混じって老人たちの呼び声が混じっているのを聞いたが、返事をする気にはなれなかった。

「どうしたんだろうねえ、あの子」

 突然走り出したイヴが消えていった扉を訝しげに覗き込むふたり。
老女が鼻を鳴らすと、オオタチは肩をすくめて見せた。

「さあ、最近の若者はよくわからん――そういえばあの子たしかダウニーんとこの娘だっけなあ。身体の具合、聞いときゃ良かった」

 イヴの母親は半月ほどまえに突然倒れた。
夏風邪をこじらせただけで大したことはなかったが、もともと高齢で身体が弱っていたところにであったので、そのまま寝込んでしまったのだ。
 老女は釈然としないふうに首を捻る。
あからさまなその様子に、なんだ、とぶっきらぼうに訪ねたのはオオタチだ。

「どうかしたか?」

 僅かに老女は視線を逸らす。

「いや……その、ダウニーさんに子供なんて居たかしらって」

「婆さん呆けたのか。都会の学校に行ってそのまま働きに出てたのが、親の病気で帰ってきただけだよ」

「なんだ、居たのかい。いやね、わたしの言った、“子供なんて居たかしら”、ってのは、親が病気になったくらいで引っ越してくるような子供なんて居たかしら、って意味よ。ええ、そういう意味で言ったの」

 オオタチの皮肉混じりの言に、口先をとがらせた女は、すぐにそれとわかるような言い訳をする。
 にやりと笑ったオオタチはグラスに口をつけると、さげすみ笑いをそのままに女を見返す。

「おれはてっきり婆さんが呆けたか、ド忘れでもしたのかと思ったよ」

「ド忘れは爺さん、あんたの領分でしょうが。にしても、いままで都会に行ったきり姿を表さなかったからには、どんな薄情者かと身構えちゃったけど、病気で倒れたと知るや否や駆けつけてくる辺り、案外良い子よね」

「実際ここも不便だからな、そこに生みの親が居るのはわかってても、やっぱり帰って来づらかったんだろうな。親を置いていった後ろめたさもあっただろうしな」

 オオタチは言った。

「が、実際に帰ってきた、そして親の面倒の側ら仕事もしてる、しかも今の仕事を辞めて。大したもんだ」

「ほんと、大したもんだよ。ホーカーなんかとは大違いよ」

 得意満面のオオタチに、女は否定しなかった。
なんの抵抗もなくルイスを対比の材料に使用する、目に余る行為にも関わらずそこに悪意が感じられないことに、ドクロッグは顔を顰めた。
 ルイスは町に嫌われている、そのことを改めて確認させられたようだった。
いや、とドクロッグは声に出さずに呟くと、自身の認識を改める。
 ルイスだけではない、町にとっての部外者そのものを町は嫌っているのだ。
 それはこの町の歴史に原因があった。
もともとこの地には町と呼べるほどの規模ではないものの、一カ所に建物が寄り集まるような形で形成された小さな村があった。
山と山に挟まれたその村はほとんど自給自足といった生活を築いていて、外部との繋がりはほとんど無かった。
にもかかわらず、近くの山から鉱脈が発見されて以来、貴重な鉱石を求めて大勢の部外者がやってきて、やってきた部外者たちは鉱石が枯渇したことを知るや否や町から去った。
もとからそこに住んでいた者にしてみれば、それは侵略にも等しい行為に見えただろう。
余所からやってきた者たちは、作業員確保のため村を町に仕立て上げ、効率良く鉱石を搾取するために山を穴だらけにした上、赤土の害を残していった。
当然町に残って定住した部外者への風当たりは厳しいものだった。
しかしそれも、(くながい)によって縁が繋がったり、差別意識そのものの風化によってなくなっていった。
沈静化した問題、だがそれも表面だけのもので、各々の記憶には十分に残っている。
もともとそこに住んでいた者には危機感として、余所からやってきて定着した者には自身の味わった苦痛へ一矢(いっし)報いたいという欲求として。
 今なお繰り広げられる、自分たちとは違う者――部外者――を嫌う気質は、そこから来ているのだろう。
 喉もとの毒袋を撫でつけながらドクロッグはそう考える。
そのとき、別の話題でまたルイスらを種に馬鹿笑いをしだしたふたりを見て、いまこの場にイヴがいなかったことを感謝した。

「なあ、あんたら」

 重たく吐息の混じったドクロッグの言を、老人たちは動きを止めて見返す。

「どうしたんだよ」

 さも迷惑げに語尾を荒げたのはオオタチだった。
対して老女のほうは不思議そうに首を傾げている。
やはり罪悪感の感じられないふたりの顔つきを改めて確認して、ドクロッグはやりきれない思いで首を振る。

「いい加減にしたらどうだ」

「いい加減に? なにをどういい加減にしろって言うんだよ」

 声を荒げるオオタチに、ドクロッグは構わず続けた。

「そうやってひとの悪口を言ってなにが楽しいっていうんだ、それも寄って集って。いい加減にあんたらも大人になったらどうだ」

 言い切った自分の声は我ながらに冷ややかなものだった。
同時に、普段よりも無意識に声を大きくしていたのは、扉の向こうにいるであろうイヴにも届くことを望んでいたからであろう。
少なくとも自分はルイスの味方である、ということを伝えたかったのかもしれない。

「大人に?」

「そうだ。このままじゃルイスたちがかわいそうだろ、そう思わないのか」

「思わないね」

 にべもなく吐き捨てたオオタチは、横目にちらと女を捉える。
視線に気付いた老女はすぐに頷き、オオタチに同意する意思を見せた。

「そうねえ、わたしも爺さんに賛成かしら」

 思わず女を振り返ったドクロッグは、なんで、と言いかけて咄嗟に口ごもる。
なにか言いたげな視線を送るドクロッグに、女は、なんでこんな表情をされるのかわからない、といった様子の顔をした。

「そもそも、わたしたちがかわいそうだなんて思う理由がないんだから」

 平然と言ってのけられたそれに、ドクロッグは次の言葉を見失った。
言葉を見つけられないでいるドクロッグを見て取ったオオタチは、ふん、とドクロッグを鼻で笑う。

「その通り、おれたちはなんにも咎められるようなことはしてない。悪行を働いてるならまだしも。そんなことより、それは楽しく酒を飲みに来た客に対するバーテンの言い草か? おれたちも、年寄りだからって舐められたもんだ」

 鋭い目がドクロッグを真っ向から刺す。
それでもドクロッグがなにも言えなかったのは、先ほどのように単に言葉に窮しただけではなく、ある種の諦観(ていかん)に至ったせいだった。
 自分たちの行いがルイスを追い詰めているということを、彼らは実感していないのだ。
この町に住む者にとって、異端者の拒絶は、普段の日常として違和感のない代物だった。
これが仮にも、少しでも自分たちの振る舞いが不穏当だと認識していれば説得することも出来ただろうか。
 とドクロッグは思い、いや、と心にのみ呟いて自分の考えを改める。
そんな考えがあるのなら、誰もルイスを拒絶したりはしないだろう。
ないからこそ、部外者への拒否感がこの町に覆い被さっているのだ。
拒絶に付帯するのは経験から来る中身のない拒否感だけ、中身がないものだから、理由のない排斥(はいせき)を罪悪感のないまま
に行えるのだろう。
 自分たちの悪に気付いていない者に言う言葉などあるわけがない、ドクロッグはなにも言わずに――言えずに、ふたりを見下ろした。
どこか避難の色の混じった視線を受けて、いらいらと顔を顰めたオオタチは掴み掛かるような勢いでドクロッグの眉間に指を突きつけた。

「おれたちは客だ、なのになんだその目つきは。まるでホーカーみてえだ」

 多少のけぞりはしたものの、やはり無言のまま反応を示さないドクロッグに、男は舌打ちをしながら突きつけた指をそのままに老女を振り返る。

「帰るぞ。ここに居たって酒がまずくなるだけだ」

 女がなにか言いかけたが、それよりも先にオオタチは乱暴に回転椅子から飛び降りていた。
踏みしめるように歩く後ろ姿は苛立ちを隠しきれていない。
 黙止を決め込んだまま出口へと向かうオオタチを見送っていたドクロッグに、同情めいたため息を吐いたのは女だった。

「今日のあんたはなんだかホーカーに感化されたみたいだったわ、気をつけなさいよ」

 それだけ言うと、女もまた出口へ向かう。
置いて行かれないよう早足で歩いていたせいで、観音扉に片手を掛けたところでいきなり立ち止まったオオタチにぶつかりそうになった。
当惑げにオオタチを見上げる老女に、オオタチは道を空け、老女を先に外に行かせた。

「おまえさんもこの町に居たかったら、嫌われないように心がけることだな」

 ふたりきりになった店内にオオタチが低くそう言った。
それはこれ以上自分たちの機嫌を悪くするようなことをすれば、ドクロッグも排斥の対象にするという意味を含んでいる。
脅しつけるように投げかけられる視線に思わずドクロッグは後じさるが、今の自分の立場を思い出し、額に浮いた汗を拭うと同じようにオオタチを睨み返す。

「あんたらのやっていることは、自分たちの都合の良いわがままだけで罪のない者を吊し上げにしていることと変わらない。自分たちに必要ないからと言って粛清(しゅくせい)しようとするのは少々利己的過ぎるんじゃないのかい」

 ドクロッグが言うと、オオタチはまるで言質を取ったと言わんばかりに口元を歪める。

「それが答えか」

 それきりオオタチはなにも言わなかった。
 赤く陰鬱に立ちこめる夜の中に消えていく後ろ姿を見送り、ドクロッグは疲れたように壁を背に当ててため息を吐いた。
自分以外に誰もいない店内を、思い出したように砂の音が再び流れる中、前触れなしに扉の開く音を耳にした。
 身体を閉まろうとする扉のストッパーにして、壁と扉の隙間からイヴが顔を覗かせている。
うつむき加減のそれは、申し訳ない思いを含んでいることは明らかで、振り向いたドクロッグと視線が合うや否や再び物置の中に引っ込んでしまった。

「どうやらおれは正義の味方には向いてないらしい、喉がからからだ」

 苦笑混じりにその様子を見ていたドクロッグは、扉の向こうに語りかけるように大げさに言うと、ふと目に入った老人たちの飲み残しの酒を手に取り、すする。

「おまえさんも一杯どうだい?」

 問いかけてから扉が開くまで、かなりの間があった。
先と同じように隙間から顔を覗かせたイヴは意を決したようにその場から飛び出すと、ドクロッグに向かって深く頭を下げた。

「すいません。ぜんぶわたしの責任です」

 勢い込むように言われたドクロッグは、イヴがなにに対して謝っているのかわからなかった。
 それはイヴ自身もそうだった。
老人たちがドクロッグを責め立て、その末に出て行ったことにイヴは関与していない。
しかし、イヴはどうしても謝らないといけないと思わずにいられなかった。
それは恐らくルイスに対してだろう、と漠然とした意識にイヴはふとそう感じた。
 老人たちの話を聞きたくないあまり物置に逃げ込んだイヴは、所狭しと物の積まれた物置にそこで逃げ場を失い、嫌でも店内の会話を聞くはめになった。
老人たちの言葉は聞くに堪えないものばかりだった。
中でも一番イヴの怒りを誘ったのは、散々ルイスをこき下ろしたのに対して、イヴのこととなるといきなり態度を変えたことだ。
会話を聞いた直後、イヴは怒りに身が震えそうになった。
それを無理矢理にかみ殺してみれば、あとに残ったのは釈然としない疑問と深い悔しさだった。
 どうして誰もルイスに味方しようとしないのか。
本来なら咎められても不思議ではない自分の行動が、なぜ肯定されるのか、そしてそのまま関係のないルイスへの揶揄へと移っていくのか。
 肯定される者と否定される者。
老人たちの交わしていた会話は、まるでイヴとルイスの住む世界を強引に違いを植え付け、それをイヴにまざまざと見せつけるためのもののようであった。
それぞれの世界を分断する奈落は、ルイスに心を寄せるという、たったそれだけの権利をも剥奪する。
 関係のない第三者の介入によって踏みにじられた権利、悔しいという感情はそのまま罪悪感へと変化する。
イヴが謝ってどうにかなる種類のものではないことを、彼女自身よくわかっていた。
しかしそれでも知らず知らずのうちに自分もルイスを否定する側に荷担していたことに、気付いていながら無関係を装うことは出来なかった。
 すいません、ともう一度小声で謝るイヴに、ドクロッグは持て余したように苦笑いを浮かべる。
「ま、まあ、おまえさんのせいじゃないさ。おれが勝手にしゃべって、客を怒らせただけだよ。まあ、飲み代を踏み倒されたのは痛いけどな」
 つとめて明るい調子で言ったドクロッグは、棚から新しいグラスを取り出すとイヴのまえに差し出す。

「大丈夫。あんなこと言ってたって、どうせ口だけに決まってる。だいたいこの町に酒場は少ないんだ。なにくわぬ顔してまた来るだろうさ。だから気にすることないさ」

 しゃがみ込み、あらかじめ水で割ってあるウイスキーをそのグラスに注いだドクロッグは、元気づけるようにイヴの肩を軽く叩いた。
ドクロッグにしてみれば、イヴがそのようなことを考えていると予想もしておらず、ドクロッグは単にイヴは客が帰ってしまったことに責任を感じているとしか思っていなかった。

「……どうして」

 顔を上げたイヴは散々迷ったあと、ささやくようにそう呟いた。
 なにが、と聞き返したドクロッグは、イヴが目があった途端に面伏せてしまったのを目撃して、ようやくイヴがなにを思っているかを悟った。
ああ、と呻くようにして立ち上がったドクロッグは、苦々しく顔を顰めた。

「ホーカーさんは嫌われる必要があるんですか。住む世界は同じなのに、縁が有るか無いかってだけで虐めるだなんて、そんなの、勝手すぎます」

 グラスに注がれた酒に映った自分の影を見下ろしながらイヴは、心中の思いを打ち明けていく。
 一介のバーテンダーでしかないドクロッグに愚痴をこぼしても仕方ないことはわかっていたが、それでも誰かに聞いてもらいたいという欲求のほうが上回った。
聞いてもらった相手がなにか解決の糸口を示唆してくれるかもしれないという期待があったのかもしれない。

「余所から来た、ってことなら、わたしだって似たようなものなのに。なのに、どうして彼だけそんな目に遭うの……」

 その時、水面に映ったドクロッグが僅かに視線を逸らしたのをイヴは見逃さなかった。

「知ってるんですか?」

 顔を上げ、真っ向からドクロッグを見上げるイヴに、ドクロッグはあやふやに言葉を濁しながらカウンターの隅に後じさる。
追いかけるようにイヴは客席側から回ると、ドクロッグに一番近い回転椅子によじ登り、カウンターを支えにして背伸びする。

「教えてください」

 ずい、っと顔を近づける。
小柄なイヴに顎先を喉に突きつけられそうな勢いで迫られたドクロッグは、気まずげに首をうしろに反らした。
教えようか教えまいか、迷うようにイヴに視線を投じる表情は真摯(しんし)そのものだった。

「あいつも単に余所者ってだけなら、まだ扱われ方もましだったろうにな」

「それって……」

 言いさしたイヴに、ドクロッグはなにに対してか頷く。

「あいつは親の顔を知らない。つまりはあいつは浮浪児だったんだ」

 ドクロッグの言葉に、イヴは強く胸を衝かれる思いがした。
無意識に首もとのむく毛を強く握りしめる。
 これが、そうなのだろうか。
自分とルイスを隔て、ルイスが表情に暗い影を落とす要因となるもの。
そして町に内在する暗部の片鱗。
 イヴはルイスの時折見せたあの暗澹とした様子を思い出し、それが彼にどれだけの重荷を背負わせているかを察して背筋に寒気が走る。
同時に、そんな些細なことでルイスに背を向ける老人たちをひどく嫌悪したい気持ちになった。
過去に不名誉を負った者に背中を向け、自分たちばかり円の内側に愛想を振りまく、他者を排斥しなければ成り立たないような共同体。
その中に自分も含まれていると思うと腹が立つ。
「まさか、たったそれだけのことでみんな寄って集って彼をのけ者にするの?」
 イヴが言うと、ドクロッグはため息を落とす。

「やっぱり異物感があるんだろう。おれじゃはっきりしたことは言えんが、人にはもともと、自分とは違う者を敬遠するタチがあるらしい――この町はそれが特に強いんだよ。こんな山に挟まれたせまい町じゃ、自然とお互いに顔を合わせる機会が多くなる、だから、自分以外の者の動向が目について仕方がないんだろうな。あいつも、少し周りを拒絶していたしな」

「でも、彼、なんにも悪いことしてないじゃないですか。なのに、どうして」

「それは……」

 返答に窮するドクロッグを見て、そこでやっとイヴは自分が詰問口調になっていたことに気付いた。
 イヴ自身、無意識ながら自分がルイスと同じ世界を共有していないことに焦燥のようなものを覚えていた。
イヴはルイスが好きだ。
昼間に抱いた感情は、すべてを知ってしまっても変質をきたすことなく、そのまま今に至っている。
しかし、その思いはあくまでイヴのものであり、対岸に存在するルイスにそのまま伝わる保証はない。
ルイスにとってイヴは、老人たちと同じ自分を排斥する敵に映っているかもしれないのだ。
互いに反目する両岸、そこに、自分は違う、と対岸へ主張したとしても、そもそもそれは主張としての意味を持たない。
世界が違うという現実を突きつけられてしまった以上、結局イヴはルイスに近づくことが出来ないのだ。










 半ば崩れ落ちるように席に座ったイヴは、力なく耳を垂らしたままドクロッグを見上げる。

「すいませんマスター。マスターはちっとも悪くないのに、変に責めちゃって」

「……ああ、ああ別に良いんだ。気にせんでくれ」

 答えながら軽く手を振ったドクロッグは、落ち着かない様子で床に置きっぱなしであったグラスを拾い上げてイヴのまえに差し出す。
 平静を装ってはいるものの、ドクロッグは内心に不安を募らせていた。
ルイスのことを話してからイヴの様子がおかしい。
単に問いかけに対して答えただけのドクロッグに特別な非があるわけではないが、それでせっかく実ろうとしていた関係が破綻してしまったのであれば責任を感じずにはいられない。
 ドクロッグの懸念をよそに、イヴは黙ったまま差し出されたグラスを見下ろしていた。
一文字に口を引き結んで、うつむき加減に片手で顔を覆う様子はルイスを思わせる。

「彼、笑ってましたよ……」

 ぽつり、と前触れなしに呟いたのにドクロッグは我に返った。
慌てて意識をイヴへと向けるが、イヴはグラスの中を覗き込んだまま別段誰かに話しかけた風ではなかった。

「それにちゃんと悲しんだりもしてた。みんなあんなこと言ってるけど、彼だってわたしたちとなんの変わりもな
いじゃない」

 なみなみと注がれたグラスを覗き込んだままのイヴに、ドクロッグはとりあえず相づちを打つ。

「嬉しい悲しいの心があるのは町のみんなだって同じ。お互い違いなんてこれっぽっちもないのに、みんな彼を助けない。自分とは違うって背中を向けちゃう。なんだか見えないなにかが間に挟まってるみたいだよね」

 ああ、と曖昧に頷きながらドクロッグは、その述懐になんとなく罪悪感めいたものを感じ取った。
それは好きになった相手の置かれた状況を知らなかったことに対してか、ウイスキーの表面に浮かんだイヴの表情から判別するのは出来なかった。

「どうしてお互い拒絶するんでしょうね。共感することの出来る心も持っていれば、言葉も交わすことも出来る。片方が笑顔になれば、もう片方はその人が嬉しがってるってわかることができるのに。悲しがってる時もそう。ちゃんと慰めてあげることも出来るし、一緒に悲しむことだって出来る。これだけなら拒絶する理由はなにもないのに。不思議よね、心は同じ場所にあるのに、肝心の意識は全然別のところにある。どうしてなの……」

 質問にドクロッグは答えられなかった。
逡巡する素振りをしてみせてはいるものの、肝心の返答できるくらいにまとまった言葉を思いつくことは出来なかった。
 イヴの言ったことはまさしくその通りだったからだ。
体系として見れば互いに違いは無い、しかしそこに個人の意識が介入すれば途端に安定した関係は瓦解してしまう。
異端を排斥して成り立つ安定、それは誰かを犠牲にしてまで成り立たせるような事物かと問われればそうとしか答えようがなく、そう答えればイヴを傷つけてしまうことは明らかだ。
 こめかみを押さえ考え込む――少なくともイヴはそれが見せかけであることを知らない――ドクロッグを、イヴは黙って見守る。
妙に浮ついた沈黙がふたりのあいだを埋める。
 しばらくしてイヴは顔を上げた。

「……あれは、そういうことだったのね……」

 乏しい照明のせいか、呟くように言ったせいか、イヴの表情は悲しげに見える。

「どうかしたかい」

「その……」

 ドクロッグが問い返すと、イヴは言葉を濁して視線を逡巡するように忙しなく動かす。
言おうか言うまいか、明らかに迷う様子の彼女をドクロッグは口を閉ざし、真剣な態度で受け止める。
 風が窓を叩く音が白々しいほど大きく感じ始めたころ、ひとつ深呼吸をするとイヴは口を開いた。

「彼、ここに座ってるとき、酷く落ち込んでましたよね」

 昼間にルイスの座っていた席を示す。
 すでにそこにルイス本人はいないのだが、イヴははっきりとそこに座っていた面影を思い出すことが出来た。

「最初わたし、どうして彼がそんなことするのかわからなかった。そのあとお客さんたちの話を聞いて、てっきり周りから嫌われてるから、そういうふうに落ち込んでたのばかり思ってた。でも、こうやってマスターの話を聞いてて何となくわかったような気がするの」

 単に嫌われることに打ち沈んでいたのではない、とイブは思う。
あの暗澹(あんたん)とした様子は、どこまでも不明瞭な疎外の原因に対してのものだったのだろう。
町の者ではないから、暗い過去があるから、という理由らしい理由を盾に頑迷なまでにルイスをはね除ける町の価値観。
価値観とはそれ自体、いわゆる意識の集合体であり、複雑に入り組んだ内部に密集した個々の概念が一体となったもののことである。
総体の枠組みに収まった以上、それぞれの意識は全体でひとつの価値観として束ねられるが、それは単にマクロ的な視点での話であり、細部まで同じ主張を有しているとは限らない。
現に、町という巨大な総体の中にいるにも関わらずイヴやドクロッグは、周囲が良しとする部外者の排斥に賛同していない。
同じように、町人たちの中にも積極的ではない者がいるはずである。
中には単純にルイスを標的にする者もいるかもしれないが、全部が全部そうという訳ではないだろう。
 イヴには、町人たちのルイスへの揶揄が、実際にはただの当て擦りにしか思えないのだ。
(……なにかがあるに違いない)
なにか、それらしい理由を持ってきてまで人ひとりを追い詰めさせる、根底に横たわったなにかが。

「本当にみんな彼だけを責めてるの? 正直なところ、わたしは信じられない」

 それが一体何であるか、イヴは知らない。
ドクロッグだけが頼りだった。

「マスターは彼が余所者だから、って言ったけど、だったら……だったら逆にどうして彼だけなの?」

 急な質問にたじろぐドクロッグ。
 外部からやってきたのはなにもルイスだけではない。
郵便所の職員や、外界とを繋ぐ電話線の点検のため時折やってくる作業員、それ以外にも最近になって外部から町へ引っ越してきた者だって大勢いる。
彼らに対する扱いがルイスのように酷いものであれば、釈然としないながらもイヴは納得できたはずだ。
しかしそうではなかった。
むしろそういった町の体裁に組み込まれていない者に対して町の住民たちは温厚そのもので、良き同胞として進んで救済の手を差し伸べるのだった。
 なぜルイスだけ、と改めてイヴは思う。
もしかしたらルイスもまた、同じように思っていたのだろうか。
 ドクロッグから返事祖が返ってくるまで、しばらく時間を要した。

「理由はチーチ館長が知ってる」

 渋った顔つきも相まって、深いため息ののちに発せられたそれは重苦しささえ伴っていた。
それは、と聞き返そうとしたイヴの表情を察してか、ドクロッグは曖昧に首を振る。

「確実かどうかはおれは知らない。だけどな、長いことこうやってカウンターの前の顔ぶれを眺めてると、嫌でもいろんなことがわかっちまう。あいつを育てた館長なら、なにか知ってるだろう」

「なにか、ってなにを?」

「だからわからないと言ったろう。そもそもわかってたら最初から言ってるさ」

 苦笑混じりに肩を竦めたドクロッグ。
軽口めいたその言葉は明らかにこの場の雰囲気に不適当で、上辺だけといった印象をイヴは受けた。

「それともなにかい、おれが知ってて言わないとでも言うのかい? そいつはちょっと酷いんじゃないのかい」

 睨め付けるように細められたイヴの視線に構わず、ドクロッグは取って付けたような笑みを浮かべて続ける。
ことさらのように身振りを加えたそれは、明らかに話題の主旨を別の位置へスライドさせようという意思が含まれていた。
 イヴは特にそれを咎める気にはなれなかった。
それはドクロッグとルイスの関係を思えば当然のことだった。
カウンターの向こうから長いことルイスを見守ってきたドクロッグにしてみれば、今まで口を閉ざしてきたルイスの意思を無視するようなこの行為を勧めること自体に抵抗があるのだろう。
 しかし、だからといってこれ以上話が横道にそれるのを、イヴは許すつもりはなかった。
一介の傍観者を演じることで静観に徹することは、それ自体は悪ではない。
むしろそれを望んだのがルイスなら、そういう行動は当然のことだ。
だが、こうやって周囲から黙視されることを本当にルイスが望んでいたのなら、どうしてあの暗澹たる表情をルイスは見せたのだろうか。
本当に誰にも悟られたくなかったのであれば、外面だけでも――少なくとも露見しないよう笑みを浮かべるはずだ。
だが彼はそれをしなかった。
それはルイスが周囲からの黙視を望んでいなかったと言うことに他ならない。
誰かに気付いてほしかったのだ。
(けど……それは間違いだった)
 ルイスの作戦に対して、あまりにも町は正直すぎた。
町に自分を認めて貰おうとするルイスの望みは、町に対して敵意を持っている、という大義名分のもとに打ち消され、ルイスと町との間に敵対関係を築いてしまった顛末(てんまつ)、不可逆的なところにまで達してしまったのだろう、そういうことではないのだろうか、と直感的にイヴは悟った。
 そして、そのことに気付いたのは少なくとも自分を除いてドクロッグだけだろうということも。
だからこそ、このドクロッグのふざけた態度は我慢ならなかった。

「茶化さないで」

 事の内情を知っていながら、なぜ今まで放置してきたのか。
咎めたい気分で一杯のイヴが放った言葉は、鋭い棘を伴って、ドクロッグに突き刺さった。
 どうなの、とさらに詰問口調で問いかけてくるイヴの冷ややかな眼差しに、ドクロッグは背筋に冷たいものを感じた。
 普段内気でおとなしいこの娘が、一度良心に反することに遭遇すれば最後、痛烈なまでに冷徹な態度を取ることをドクロッグはよくわかっていた。
いつもの無邪気な様子はそこにない。
ギャップが大きいだけにそれは一層目立つ。
 どこかルイスを彷彿させるイヴに、ドクロッグは背を向ける。

「直接聞きに行くと良い。なんなら二、三日ゆっくり考えてみるのはどうだ。おいそれと判断できるようなことじゃないからな」

 場当たり的に棚の瓶をいじりながら続ける。

「……実はな、明日からちょっと店を閉めようと思ってるんだ」

 え、と首もとのむく毛に手を押し当てたイヴは、恐縮したように面伏せようとする。
それをドクロッグは苦笑――ただしその笑みは少々浮ついていた――しながらイヴの肩を軽く叩く。

「そんなんじゃないさ、ただ、ちょっと小麦粉を買いに行こうと思ってな。前に買ったやつは全部腐らせちまっただろう。連絡先がわかれば取り寄せようもあるんだが、あいにくエデングループとか言う新しいほうの番号は控えてないんだよ」

「小麦?」

 呟くイヴ。
壁際に追いやられて積み上げられた麻袋のことが念頭によぎる。

「だから市街のほうまで行って買いに行こうと思ってな。ようはついで、だよ、ついで。だから別にお前さんの都合に合わせたわけじゃないさ」

「でも……それだったら、わたしが代わりに行くべきじゃ。それだったら店を休むこともありませんし」

「休みたいんだよ。しばらく酒場が一つ減れば、年寄りどももおれのありがたみがわかるってもんだろうから」

 ドクロッグの言葉に、はあ、といかにも気のない返事をしたイヴは、どこを見やるでもなく、手を押し当てたままのむく毛を撫でつける。
 直接聞きに行けば良い、というドクロッグの意見は正しい。
ルイスにとってもっとも身近な立場であるだろう館長なら、当然ルイスについて知っているだろうし、イヴにとっても、本人に直接聞き出す必要がない分、余計な負担を感じることはない。
だが、本当にそれで良いのかという疑問もある。
自分の知らないあいだに、プライベートな部分に立ち入られるのは誰にとっても不快なことだ、ルイスも例外ではないだろう。
それに、たとえ本人にバレずに事実を聞けたとしても、その後もそうやって隠し通せる自信が、彼女にはなかった。
 もしも発覚してしまったら。
という危惧がどうしてもぬぐえない。
もしも発覚したら、その時点でイヴはルイスに二度と近づくことが出来なくなってしまう。
 ルイスを知ることでルイスに近づきたいという欲求と、ルイスを知ってしまうことで逆にルイスとの間に亀裂を築いてしまうかもしれないという不安。
 エスパーでない以上、奥へ行けば行くほど未来は薄墨を引いたように見えなくなっていく。
互いに相反するふたつの願望、間隙(かんげき)に落ち込んだイヴは、その葛藤の示す成り行きが不明瞭なことにため息をついた。

「……しばらく考えさせてください」

 肩を落としたイヴに、どうした、と声をかけてきたドクロッグにそれだけを言うと、椅子から飛び降り、姿勢を正して頭を下げる。
時間が必要だ、それだけが漠然と認識できた。
 戸口へ歩き出したイヴ。
今さらのように、どこか昼間の熱気を蓄えたままの夜風が戸口のスイングドアを揺らす。
油の切れた蝶番の鳴き声を止めるようにスイングドアに片手を添えたイヴは立ち止まり、お休み、とドクロッグに一声かけてから夜の町に踏み出した。

「……お疲れさん。まあ元気出せ。心配ばかりしてたら、本当のことになっちまうぞ」

 ドクロッグの大声が店先のイヴに届いた。
 そうかもしれない、とイヴは心の中で返事をすると、まっすぐに家路に向かった。
吹きすさぶ赤土の渦がひとけのない道ばたにわだかまる。
寝静まった家々の窓からはすでに明かりが漏れることはない。
そこかしこに暗闇を抱えてうずくまる夜の気配の中、うつむき加減になったイヴの足音だけが風切り音に混じって彼女についていく。
 どうしたらいいのか、考え込みながら歩を進めるイヴは、ぼんやりとしか景色を見ていなかった。
通い慣れた道筋、辺りが暗くなったからといって何かが変わるわけではない、そう思っていたからだ。
そのため、何度か角を曲がり、自宅に到着して他の家と同様に明かりのない窓を見たとき、ふと心に引っかかるものを感じて足を止める。
何気なく後ろを振り返るが、そこには深夜の色彩のない町並みが広がっているだけでなにも不審な所はない。

「なに……?」

 違和感の所在を確かめるように呟いて、それでもはっきりしてこない原因に首を捻りながら自宅に向き直ろうとしたその時、はっと目を見開いて反射的に色彩を欠いた町に視線を縫い付けた。
 イヴの家は、町の西側の端にある酒場から見てちょうど正反対の位置にあった。
この間を短時間で行き来するとなると、必ず町の中心――博物館を横切ることになる。
イヴの知る限り、閉館した後も博物館はいつも正面玄関に限り明かりを点けていた。
下向きに掲げられた電灯に浮かんだ博物館の偉容はどこか神秘的に感じられ、毎回ではないものの度々足を止めて博物館を見上げていた。
 しかし、今夜イヴはその明かりを見た覚えがなかった。
考え事をしていたせいなのかもしれなかったし、そもそもその光景に慣れてしまって意識にも上らなくなってしまったのかもしれない。
 そうだとしても、照明の有無を丸ごと失念してしまうことなどあるのだろうか。
町に向かって夜目を利かすように目を眇めるイヴ。
イヴのいる位置からは博物館は見えない、したがって今さら博物館の照明が点いていたか消えていたかなどわかるはずがない。
だが、明かりのない町並みを眺めているうちに、やはり博物館には明かりがなかった、と思うようになっていった。
同時にそれは、イヴに、何かあったのだろうか、という危惧を抱かせる。
 その危惧に至ったのは単に照明に有無が関係しているわけではない。
長年住み慣れた町からいきなり街灯がひとつ消えてしまったような、些細なことであるにも関わらず不安を抱かずにはいられない、そういう種類の胸騒ぎを感じ始めていたからだ。
 何か取り返しが付かないことが起ころうとしている、漠然とした不安感が形作ったそれは、なぜだかルイスに関係するもののような気がした。
 ふと確かめに行きたい衝動に駆られたが、先ほどの酒場での会話を思い出し、両足を踏み換えるのみに留めた。
時間が必要だ、と無理矢理に自分に納得させると、なるべく博物館のほうを意識しないようにしながら自宅の戸を開けてくぐり、不安を断ち切るように素早く戸を閉めた。
 赤土が扉を引っかく音だけが響く玄関を早足で通り過ぎると、母親の様子だけ確認してから、逃げ込むように自室のベッドに突っ伏した。

「……どうしたらいいの……」

 ため息混じりにイヴの放った問いかけは、答える者がいないまま浮かび上がった。



次へ


なかがき

 これで中核となる人物はすべて書ききりました。
キャラクターの紹介だけでこんなに時間をかけてしまったのは、今さらですが失敗でしたと思っております。
心象描写を含んでいたとはいえ、さすがにやり過ぎでした。
本来ならもっと早くに気付くべきことをいままでほったらかしにしてしまい、大変申し訳ありませんでした。
 しかし、見直してみると登場人物がやたらに多いですね。
次回の更新までにキャラ紹介のページの新設を考える必要がありそうです。
 次回と言えば、次から主な舞台がモヘガン港へと移るため、それに伴い章のタイトルが「人類の遺産」から「闘争前夜のスパイ」に変わります。
今までコレと言ってなんの動きも見せないでいた敵側ですが、果たしてどんな策略を手の内に隠し持っているのか、溜め込んできた伏線がこれでやっと明らかに出来るので、多少書きやすくはなってくれる……かなあ……。

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Last-modified: 2010-10-24 (日) 00:00:00
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