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生者の行進 中

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writer:赤猫もよよ


ビューティフル・グライダー Ⅰ 




 秋風の頭角が山峰の彼方より垣間見え、夏の終わりを予感させる日。
 三百と五十二の種、そしてそこより枝葉の広がる多くの生命たちは、私を筆頭にして皆一堂に森の際へと集っていた。
 すなわち、フラエッテの出立の日であり、生者達は世界初の旅人の誕生を今か今かと心待ちにしているのであった。
 崖の縁に立ち、超然と牙を剥く荒涼とした広陵を眺めるフラエッテに、私は歩み寄った。
「気は変わりませんか」
「変わりません。ずっと、今日という日を夢見ていました」
 フラエッテが振り返り、私も習って視線を向ける。
 そこには、いくらかの翼持つ生者がいた。フラエッテの熱に浮かされた探求心の演説に心動かされ、その翼を遠くまで羽伸ばそうと夢見る者たちであり、フラエッテと同じ旅人志望だった。
「あの日、聖者様のお言葉のお陰で、多くの同胞を見つけることが出来たのです。胸裏に僅か残っていた孤独ゆえの恐怖すらも、彼らのお陰で今はないのですから」
「そう、ですか」
 私の心中は未だ複雑だった。同胞が増えれば増えるほど、確かに孤独ゆえの苦しみは和らぐだろう。しかし森を出でる旅人が増えるということはまた、非業の死を遂げる種が増えていくことに他ならないのである。
 私は空を仰ぎ、いくらかの小柄な鳥影たちに問うた。
「なぜ、フラエッテと共に征こうと決めたのですか」
 鳥影たちは私の問いに、しばし顔を見合わせて翼を羽ばたかせた。しばらくして、代表と思わしきハトーボーの少年が舞い降りてくる。くりくりとした眼が私を見据えた。
「はい、せーじゃさま。ぼくたちは知りたいと思って、だからそとへ行こうと思うのです」
「知りたい?」
「そう、知りたいのです!」
 ハトーボーはその小柄な翼を広げ、勇ましさの発露だろうかぐんと胸を反った。
「ぼくらは翼を持ちます。だからいつも、森の外をながめていました。それで、あの空はどこまで続いているのだろうとずうっと気になっていたのです!」
 ぽうと鳴き、くるりと身をひるがえし、彼は青空へと飛び込んだ。
「そして! ぼくらに与えられた翼はどこまでゆけるのか! それも知りたいのです!」
 空の果てがどうなっているのか、彼らに与えられた翼はどこまで行けるのか。それはやはり私には解しないことであり、ただその探求が危険を伴うことであることを道理として理解していた。
 しかし、もう。
 その、喉元に突き刺さる尖骨のような葛藤は、既に舐り尽くして味すらしないものである。私は未だにまとわりつくそれを懸命に振り払い、信ずる友の言葉をささやかに浮かべた。
「……正しさだけが、正しさではない」
 だが、その理屈の正しさは、おそらく誰にも分らないことだ。
 故にこれは賭けである。旅征く彼らが何を思い、何を見、何を知り、そして何を考えながら死んでいくのか。それが好奇の充足に満ちた幸福なものであるのか、それとも嘆きと苦難に満ち満ちたものであるのか。やがて灰になる彼らは何を得、何を失うのか。
 何一つ分からないまま、私は彼らの背を押し、暗黒の中へと旅立たせる。
 それは恐らく、聖者としての罪なのだろう。
 いずれあの日背を押さねば、背を押されなければと嘆き嘆かれる日が来るのかもしれない。私への糾弾が、私の身を焼く罪科の弾として突き刺さる日も、そう遠くはないのかもしれない。
 けれど、たとえそうであったとしても。
「フラエッテ、ハトーボー。それから、彼女らとともに征く翼持つ者たちよ」
 呟きにて、静寂が伝播する。森の生者たちは皆、聖者としての私の言葉を待つ。
 息を吸い、吐く。
 そして私は、聖者としてのそれではなく、私に巣食う不完全性の極致にあるもの――感情を浮かべる。
「どうか、貴方たちのなり方で、幸せになりなさい」
 彼女らが、彼女らの思うように、自由に生きていくことが、私にはとても愛おしく。
「……はい!」
 世界で初めて、花が綻ぶように満面の笑みを見せる旅人達の顔が、私にとってただ一つの救いだった。
 
 
 

君に花束の夢を見る [#7CXWYBC] 


 秋天の半ばの湖畔に、静寂を吸った白雲が膨張する。
 私の忙しなさに変わりはない。只管に森を広げ、新たな生者に使命を説き、繁殖の義務によって数の増えた生者達の腹を満たすために世界をなおも肥沃にさせていく。
 ただ一つ変わったのは、時折青々しく広がる晴天を見上げるようになったことである。
 この青天のいずこかに、旅立った彼らが翼をはためかせ、風に乗り続けているのだと想祈するたびに、その鳥影に美しさを見出しては気分が満たされるのだ。
「聖者様」
 湖畔に佇む私に、岸より柔らかな声が降りかかる。それは聞き覚えのある音調で、しかし記憶している声帯より僅かに深みを帯びているように覚えた。
 私は夢想に蕩けつつあった意識を引き戻し、声の方を眺める。
「聖者様、わたしです。お久しゅうございます」
 そこに佇んでいたのは、長い円錐台形の何度眺めても見慣れぬ胴体と、至って見知った丸鳥の頭部を持つ生者だった。少し前までは吹けば飛びそうなほどに矮小な似姿を持っていた筈のネイティが、今では中々に存在感のある姿となっていた。
「ネイティオ。久しぶりですね」
「はい。最近はどうにも、動くのが億劫になりまして」
 姿は変われども、彼に抱く印象は何一つとして変わりがなかった。穏やかで緩やかで、真面目だが己の芯を頑なに持ち、自身の使命に向けて邁進する、生者の鑑のような存在である。
「調子はどうですか。眼の酔いは、あれから少しは和らぎましたか」
「ええ。ルカリオくんが甲斐甲斐しく世話をしてくれたおかげで、少し落ち着きました」
「何よりです」
 かねてより優れた叡智を持ち、日々の大半を思考と世界の観察と理解とに費やしていた彼が、より遠方を見渡すために肉体を発展させようとするのはある意味理に適った話である。
 だが、私でも流石に、彼がもう一つの特異性を発露させたのには驚いた。
 視野を広げ、思考を発展させ、此の世のありとあらゆるものを観察したいと願った果てに、彼の双眸は過去や未来を視通すというとんでもない結論へと辿り着いてしまったのだ。
 当然、彼の稀代な智叡をもってしても、進化したての頃は酷く混乱していた。
 現在の視界に重なるように未来や過去の映像が流れ込んでくるのだというのだから、いかにも頭が痛くなりそうな話だ。変わらず正義のために邁進するルカリオの介助がなければどうなっていたか、とは本人の言である。
「それならば、今日は一体どうしたのですか。またなにか、思想を展開したいことでも?」
「ええと、そんなものです」
 ネイティオはその透き通るように黒い眼差しで、私の姿をじっと見つめた。
「どうしましたか?」
「いえ。ただ聖者様、最近はなんだか晴れやかなお顔をしていらっしゃるので、何かいいことでもあったのかなあと思いまして」
「そう……ですか?」
晴れやかな顔をしているという自覚はないが、彼に言われるのならばそうなのかもしれない。
彼はいつだって正しさを追求して観察をする。そうと確信を――少なくとも己の中では――得た時にしか、確証めいた言葉を吐こうとはしないのだ。
「ですが、ええ、そうですね。気分は安らいでいます。君を筆頭に、生者達が何物にも阻まれることなく健やかに成長を遂げていくのを見ることは、私にとってとても幸せなことなのですよ」
「勿体のないお言葉です」
 そう答えながらも、彼はどこか浮かない表情を浮かべていた。
「浮かない顔をしていますね。世辞のように聞こえましたか」
「いえ、そのような事は。ないの、ですが……」
 言語は途切れ途切れで覚束なく、微妙に落ち着きがない。私と言葉を交わしながらも、心の中では何か別の事柄を思索しているのではないか、という様子である。
「どうしたのですか。何か気になることでも?」
「聖者様は、わたしたち生者が、何者にも阻まれることなく育っていくことがよいとされるのですね」
「そう言いました」
「では、生者を阻むことでしか生きられない生者がいたならば、それは裁されるべきものでしょうか」
 ネイティオの問いに、私は眉根を深く顰めた。
 何かを阻むことでしか生きられない生者。そんな横柄な存在のことなど、今までの思索の葉脈のいずこにも刻まれてなどいなかった。
「それは、今まで生まれた生者か、或いは君の視た未来に存在する、特定の生者の話ですか」
「……いえ、個人的な興味というか。もしかしたら、未来には存在するかもしれませんが」
 曖昧ですみません、とネイティオは言葉を区切り、私が口を開くのを待った。
 私は脳裏の海をはためかせ、思索する。
 正しいか正しくないかでいえば、それは道理に反した正しくない存在だろう。他者の存在を阻害し、言い換えるならば踏み台として扱うことで己の使命に向けて跳躍するのだから、外から見ればそんな勝手な話はない。
 その者に踏み台にされた生者が、本来成し得るはずの使命への到達を不可能にしてしまうなら、なおのこと糾弾されるべき存在だろう。
 だが。
「一つ、確認なのですが。君の想定する、未来に出ずるだろう生者とは、他者を阻害することでしか生きられないのですよね」
「はい。阻害することを良しとする、というよりは……仰る通り、そうでしか生きることが出来ない者のことです」
「……」
 私は手酷く頭を悩ませた。
 彼の持ち込んでくる論題は、いつでも私の思考をはるかに超越したものだ。
 まるで私という存在そのものの器量を図られているようで、どうにも浮足立ってしまう。
 しばしの考えの後、私は恐る恐ると声を出した。
「恐らく、その問いに模範の解はないでしょうが。私が思うに、阻害する者もまた生者であり、生きようとしたのでしょう。それを悪しきと裁くことは、私には出来かねます」
「……」
 懸命に絞り出した言葉に、ネイティオは得心いったようなそうでないような、至極曖昧な表情を浮かべた。その面立ちが、どこか切なげな愁嘆を浮かべているようにも思え、私は瞬いた。
「突拍子ないような、貴方の意にそぐわぬような答えでしたか」
「……興味深い答えでした。心より、そう思います」
 私を純と見つめる眼差しに、嘘はない。しかし同時に、霧霞に巻かれたように不鮮明極まりない感情を、ネイティオは瞳の内に秘めているようだった。
「君はどう思うのです。酷く悩ましげですが、なにか思うことが?」
「貴方様と逆の立場です。しかし、これを貴方様に伝えるのは、気が引けるのが本音です」
彼はさも畏れ多さを示すかのように、おずおずと身を縮めた。
「気が引ける理由を聞いても?」
「……わたしの持つ考えが、理屈でなく感情の先行したものであるからです。言い換えるなら、“そうであってほしい”と言いたいために、わたしはわたしの立場を取らざるを得ない。それが、酷く恥ずべき事であると感じるのです」
「感情もまた貴方の一部でしょう。果たしてそれが恥ずべきか、私には分かりかねますが……」
「わたしは恥ずべきと思うのです。……ですので、今はどうかご容赦を」
 ネイティオはまるで許しを請うように、恭しく首を垂れた。糾弾を恐れる稚児のように身を小さく固める彼に向けて、これ以上の追及は余りに残酷というものだろうか。
「分かりました。ですが、貴方の決心がついたならば、いつか聞かせて下さいね。君の口より吐き出される、清んだ思考の宝石を、私は好ましく思っていますから」
「はい。……またいつか、お会いできたなら、その時は必ず」
ネイティオは、笑む私の顔から目を逸らすように振り返る。
そのまま湖畔より去ろうと二三歩足を進め、しかしふと足を止め、私の方に顔を向けた。
「ゼルネアス様。わたしは、貴方の歩みの果てが幸せなものであってほしいと願っています」
「……ネイティオ?」
 太陽を白雲が覆い隠し、世界に薄く影が差す。輪郭をぼやかせた彼は、遠くを見るようなまなざしで、すぐ傍の私を見つめた。
「どうか、この先何があっても、折れることなく貴方の道を歩んで下さい。わたしは、今頂いた貴方様の答えに、花束を抱えるような夢を見たいのです」
 彼はひとつ儚げに微笑んで、それから言うことは終わったとでもいうように踵を返した。
「ネイティオ、貴方は……」
 私の問いに声もなく、そのまま、緩慢な足取りで森の中へと消えていくネイティオ。
 それはまるで、今この瞬間との別れを惜しむために踏みしめるような、どこか名残惜しささえ感じさせるものだった。



 


 二度目の冬が訪れる。
 最初の死白の冬を超えた生者達には、もはやそれは障害ではなかった。彼らはかつての冬の壮絶より学び、自分の身や身罷った子供の身を守るべく知恵を振り絞っている。彼らもまた経験を積み、少しずつ成長しているのだと感慨深い。
 世界の殆どは眠りに就き、動く者の居ない静寂が一面に蔓延っていた。これを好機と、私達のような世界の機構達は、世界をよりよく拡張しようと己の力を振るう。遠方ではグラードンが大地を踏み鳴らし、上層ではレックウザが天空を深く掘り上げていた。
『君の片割れのイベルタルくん、考え疲れて塞ぎ込んじゃってるってね。ぼくねーギラティナさまから聞いて知ってるよー』
『でもでも、しんどーって感じてもやることやってんでしょ。えらいよー。ボクだったらー、もうやだーって気持ちで投げ出しちゃうもの!』
 そして、ふよふよと私の視界の隅を飛び回る小さな青と赤もまた、機構の一部である。それは識神アグノムと情神エムリットと呼ばれていた。
知恵と感情という不可視の概念を取り扱う彼らは、元来この世界の上に降り立つ必要は薄い。その筈なのに、どういう訳か私の目の前にいて、私の長角を突くりまわしている。
「あの……アグノム様にエムリット様、なぜ私の許に」
『『観光!』』
 二柱は声を揃えて叫んだ。つまり遊びに来たということである。私は内心で頭を抱えた。
「ええと……。私は今、重要な作業の途中なのですが」
 森の外へと出て行ったフラエッテ達のためにも、少しでも早く森を広げなければならない。万が一彼らが傷つき、翼を翻して森に戻ってこようと考えた時に、森が遠くにあるよりは近い方がいいだろう。そうでなくても、次の祝誕の春はすぐそこまで迫っているのだから。
『ごめんね、ゼルネアス。本当は僕ひとりで来ようと思ったんだけど、二人がどうしてもって駄々捏ねるから……』
「い、いえ」
 頭が上がらない、と言いたげに申し訳なさそうな口振りをするのは、私などでは頭が上がらない存在の一柱こと、憶神ユクシーだった。すべての生物はアグノムに知恵の指針を、エムリットに感情の標を、ユクシーに記憶の器を賜って生まれたが故に、彼らは比類なく偉大な存在なのである。
『ほらアグノムにエムリット。ゼルネアスはいまお仕事中だ、ふたりであっちで遊んでなさい』
『えー、ユクシーも遊ぼうよう。あっちに『雪』がたくさん積もってたよー』
『白くてふわふわで『素敵』よ! ねーユクシーってばー』
『僕は仕事に来たの。おわったら遊んだげるから、あっち行ってなさい』
『『はあーい』』
 ぶうぶうと子供のように口を尖らせつつ、風に吹かれるように飛んで行く二柱。どうにも手を焼きそうな性分だが、流石ユクシーは手練れている。それとなくあしらう手管はまさしく保護者のようなふるまいである。
『はあぁ……。うーん、手を焼くなあ』
「楽しそうですね、お二柱とも」
『わんぱくなんだから、もう。神さまの自覚とか絶対なさそう』
 雪というのは既に見慣れたものだ。私にとっては足元が覚束なくなるという点で忌々しく、死白の冬の象徴であるという点でもあまり好ましいものではないそれに対して、新鮮極まりない彼らの反応は少し羨ましくなる。
「それと、ありがとうございます、ユクシー様。私では強く出られませんので……」
『君の邪魔をさせるわけにはいかないからね。そも、僕の仕事は君とも関与しているわけだし』
「私と?」
『うん。僕はこの星に根付く……いまは生者って呼ばれてるんだったね。彼らに、本能的な畏れを植え付けにきたんだよ。生者は君の管轄下にあるから、一応小耳に挟んどこうかなって』
 平坦な語気で流れ出すユクシーの言葉に、私は眉をひそめた。
「本能的な畏れ、ですか」
『春になれば竜が生まれる。竜という存在の、それそのものへの畏怖を、僕は生者の記憶に刷り込みに来たんだよ』
「竜……」
 私は曖昧に呟いた。一度も聞き覚えのない言葉のはずなのだが、なぜかはっきりとその存在を理解している。その奇妙さゆえの呟きだった。
『ああ、うん。午睡中の君にこっそり植え付けておいたんだよ、その方が話が早いからね』
「いつの間に……」
『はははっ』
 困惑する私の顔を眺め、ユクシーは悪戯っぽく舌を出した。その面影は純とした幼子のそれで、三柱の根底が似通ったものであることを理解させるのに十分だった。
 ともあれ。私は午睡の最中に埋め込まれたという「竜」とやらの記憶を手繰り寄せた。そしてその瞬間、背筋に慄然とした感情が走るのを理解する。
 一言で形容するならば、それは強者の具象化ともいうべきものである。今までの生者の誰よりも強靭な骨格を持ち、肉身は何物も通さぬ強固な鱗で覆われている。頭脳は当然のように明晰で、植生を噛み千切るための剣呑な牙と空を駆るための翼とを持ち合わせ、季節が百辺巡ってもなお潰えぬ寿命を以って世界を闊歩する姿が、ありありと脳裏に浮かびあがる。
 私は多くを兼ね備える彼らの姿に、酷く危ういものを感じざるを得なかった。均衡と安寧に満ち、生者達が各々の方角を向いて歩こうとする今の世界が、その優れたる竜達の手によって容易く頽れてしまうのではないかという、まるで根拠のない不安が胸裏を過る。
 黙する私に、ユクシーは同調の頷きを見せた。
『優れたるものを畏れるのは道理だよ。そうでなければいけない。優れたるものにすべてが従順となれば、世界から多様性は消え失せてしまうだろう。一つの指標に従う右向け右の世界は良くないと、パパは僕を遣わした』
 ユクシーの腕によって、優れたる竜達はそれ故に畏怖され、あまねくものは竜を遠ざけようとする。
 それは生者の本能としてそうなるのであり、故に竜達が優秀さの為に祭り上げられることはない。
 だが、私の胸の内に過る不安は、果たしてユクシーの語るところのそれだけであろうか。均衡と安寧に満ちた平穏な世界に、何か巨大な一石が投じられようとしているような、漫然とした恐怖が飲み下せずにいた。
『なおも不安かい?』
「……正直なところを申し上げるならば。ですが、その不安の正体が釈然としない。この不安は、貴方様のお言葉より外れた場所のもののように感じるのです」
『僕が今言ったように、竜が全ての先導となり、全てを統括する一様の世界になってしまうことを危惧しているのではなく、何か別の不安があるというのかい?』
 私は頷き、ユクシーはくるりと首を捻った。しばしの思索のあと、表情を濁らせる。
『ううん、分かんないなあ。ごめんね』
「いえ……」
 形さえ掴めぬ不安に惑わされていても仕方がない。私は気を取り直し、目前に差し迫った春に向けて森を広げることにした。
『じゃあ、伝え終わったから僕は行くよ。エムリット達が待ちかねてるみたいだし』
 傍目をやれば、湖畔の際で積もる雪を固めて遊ぶ赤青の二柱が見えた。私達の視線に気付くと、下げた触腕を無邪気にひらひらと振り乱した。早くこちらへ来いと、ユクシーに向けて手招きのつもりだろうか。
『はいはい、今行くって! ……じゃあね、ゼルネアス。君がどんな風にこれからを生きるのか、みんなで見守っているよ』
 触腕で私の頬を撫で、ユクシーは風に吹かれるような足取りで湖畔の際へと抜けていった。
「私が、どのように……」
 私は今、どのように生きているのだろう。聖者という機構として彼らに使命を説きつつ、しかし一方で、彼らが彼ららしく生きてゆくことに愛おしさという感情熱を抑えられずにいて、それが日に日に膨れ上がっていくことを解している。
 自分の感情のままに赴くことは、言い換えればひどく身勝手だ。いつかそれが、聖者としてあるまじき姿として糾弾される日が来て、私の聖者としての生活に幕が下ろされる時が来るのだろうか。
 もしも、いつかそうなるならば。
 聖者としての看板を剥がれ、ただの生者になってしまった私は、何を使命として生きればよいのだろうか。
 
 
 死白の冬が終わる。
 
 雪解けと共に竜が目覚め、世界は少しずつ混沌を増していく。




綻びゆく世界の中で 


 三度目の春が訪れる。
 雪解けを迎え、草花の肥沃が少しずつ取り戻されてくる時節。いつもならば穏やかな空気が森を包むのだが、今日という日は酷く剣呑な雰囲気が漂っている。
 湖畔に佇む私に飛び込んできた知らせは、まさしく青天の霹靂というべきものだった。
 何かの間違いではないか。その可能性が限りなく薄いと知っていても、そう思いたくなるほどに衝撃な報せ。
 四足を急いて駆り、森の外れへと向かう。そこには多くの生者達がごった返し、何かを取り囲んでいた。
「聖者様……!」
 駆け付けた私の姿を見て、生者の一人が声を上げる。何かを取り囲むような生者の群れが一斉に割れ、私を囲いの中に通すべく隙間が作られる。
 隙間を通り抜けた私の視界に飛び込んできたのは、この世界に生を受けて以来見たことのない、酷く凄惨な光景だった。
 そこには死体があった。しかしそれは死白の冬に呑まれた者ではなく、自然に牙を剥かれたようなものでもない。道理の伴う死ではないことは、誰の目にも鮮明だった。
 死体は鳥だった。
 それは私にとって途方もなく見覚えのある姿で、それ故に私は眼前の光景を現実のものとして捉えられずにいた。
 何かの間違いであれ、何かの嘘であれと心臓が早鐘を打ち、しかし鼻腔に漂う悍ましい血の香りと、赤黒い血に染まった緑色の頭部を視認する視覚とが、それが夢ではない事を嫌というほど物語っている。
「ネイティオ……!」
 それはネイティオだった。私が幾度となく対話を交わし、その言葉の内の深い叡智に愛おしさを抱いた者。私にとって何より安らぐのは、彼の紡ぐたどたどしくも聞き惚れるような叡智の言葉を受けている時に他ならなかった。
 しかし、既に彼は言葉を紡ぐことすら能わなくなっていた。その柔らかな喉笛は噛み千切られて風穴が空き、透き通るような黒を湛えていた筈の瞳は見開かれたまま濁り切っている。円筒形の身体の概ねは無惨に欠け、夥しい量の血を失った肉体は、既に岩石のように冷たく、硬く強張り切っていた。
「最初に、彼を見つけた者は」
 私が生者達に視線を投げると、集団は波打つようにざわめいた。動揺に揺れる生者達の中から、震える手がひとつ挙がる。
「わ、わたし、です。朝目覚めて、血の匂いがしたので、だれかが怪我をしているのではないかと思って……」
 薄桃の頬を蒼白に染め、震えながら私の前に現れたのは、かつて私がタブンネと名を授けた生者だった。ひとの痛みと傷とを嫌い、全てに対する施しと癒しを使命として生を闊歩する生者の一人である。そんな彼女にとって、無惨に引き千切られた死体は想像し難いほどの苦痛を催すものだったのだろう。動揺に揺れる生者の中でも、最も憔悴しているようにさえ見えた。
「せ、聖者様っ、どうかお許しください……! 必死に、必死に癒したのです! でもわたしが見つけた時には、もう殆ど息がなくて……!」
 彼女は癒し手としての矜持の為に、ネイティオを救えなかったことに自責の念を抱いているようだった。しかし、彼女が自身を責めるのは、まったくもって見当違いの思考である。私は諫めるように首を振った。
「貴方に落ち度はありません。貴方が傍についていたからこそ、ネイティオは独り孤独に怯えることなく、死出の旅路へと足を向けることが出来たのです。貴方は死出の恐怖さえ癒す者となった。どうか、誇ることはあれど、自身を責めることはないように」
「ああ、ああっ……」
 タブンネはその場に崩れ落ち、堰を切って泣き始めた。悲痛な哀哭が森の中に木霊する。
 私とて同様の気持ちだった。誰よりも優れた叡智を持つ彼が、寿命を待たずして死にゆくことが許されていい筈がない。加えてその死が自然によるものではなく、誰か別の生者の手によって引き起こされた、ただ只管の苦痛ばかりを伴うものであることが、なにより耐え難いものだった。
「一体、誰がこのようなことを」
 疑問が脳裏に木霊する。
 これまで私が出会った生者達は、その性格にいくらかの差異有れど、他者を能動的に傷つけることを良しとしない者ばかりであった。森を闊歩する私を見るや否や、我先にと駆け寄ってくる愛おしい彼らが、己の手を血に染めるなどあるものだろうか。
 そこまで考え、私は一つの事柄を思い出す。
 それは先冬私の記憶の中に刻まれたばかりのものであり、まだ相対したことのない未知なる存在であった。
「聖者様!」
 その存在について思い至った矢先、人混みを割くようにして剣呑な声が飛ぶ。見やれば、険しい顔の生者達が、薄紫の小さな獣を引き連れてこちらへと歩いてくる。
「見つけました。こいつがネイティオくんを殺した下手人です」
 険しい顔の生者の一人――ルカリオは、生者達に囲まれて震える薄紫の獣を指し示した。
 それは四つ足の獣で、半ばまで毛を被った頭部に双眸は存在しない。大きく開かれた口の黒々しく広がる奥からは血に塗れた牙が覗き、体には青紫の細鱗を纏っている。
「お前は、竜ですね」
 その姿には覚えがあった。翼こそ持たないが、それは竜の幼生であるという確信があった。
 薄紫の竜は、私の冷淡な声に震えるばかりである。盲目であろうとも、周囲から向けられる悪感情を察することは出来るのか、針の筵に座らされたような怯えようである。
 その姿に、憤怒に似た熱が喉元までせり上がる。それを制するように、私は聖者の仮面を被った。
「ネイティオを傷付けたのは何故ですか」
 私の問いに、竜は初めて顔を上げた。気圧されて声も出ないのか、大口が震えて掠れ音が漏れるばかりである。
「私は聖者として、お前に使命を授けねばならなかった。しかしお前は、私の訪れる前に自律的な行動を起こした。それを、何ゆえに行ったのかと聞いているのです」
 竜を問い詰めながら、私は先冬抱いた名状し難い嫌な予感が、明確な輪郭を持ち始めているような感覚に苛まれていた。
「答えなさい。何故お前はネイティオを殺したのだ」
 回答を促しながらも、私は眼前の竜が言葉を紡ぐことを恐れていた。
 竜は身体的にも精神的にも優位な存在として生まれつく。それゆえに、私達のような機構が誘導する必要なく物事を考え、意志を持ち、また意志を遂行するための身体能力を持ち合わせるのだとしたら。
 そして、その意志の如何によって、私が積み上げてきた生者の約定とも言うべき不文律が破られてしまうのだとすれば。
 それは冬に抱いた名伏し難き不安の実態であり、それは実体を伴うものだった。
「腹が減っていたからです。だから、満たすために喰いました」
 竜は怯えながらも、しかしそれが当然であるかのように言葉を紡いだ。
 私は戦慄する。危惧していたことが現実と化してしまったことを察し、胃の腑に冷めた恐怖が逆巻く。
 竜は気付いてしまった。生者達が知らぬまま――否、知らないようにと私が目を背けさせてきた事実に。
 生者は生者を喰い、糧とすることが出来る。
 そしてそれは、有限の果実を探し喰うより遙かに簡単に、己の腹を満たすことが出来るのだと。
「この世に生まれてすぐ、ぼくは強烈な飢えを感じました。しかしぼくは世界を知らず、また視認することも出来ません。何をすればこの飢えが満たされ、苦痛が和らぐのかも定かではない。そこに、なにか動くものが通りがかりました」
 それがネイティオであることは、この場の生者達や私にとって想像に難くなかった。彼の動きはいつでも緩慢で、飢えた幼竜であろうと容易に肉身を捉えられる。ネイティオの死体が無惨に食い散らかされているのは、それほどまでに竜が飢えていたからなのだ。
「その動くものはとても暖かく、とてもかぐわしい。ぼくは牙を立てました。それは動くこともなく、ぼくの牙が食い込んでいくのを、静かに許容しているように思えました。だから、ぼくは――」
「もうやめてくれ!」
 つらつらと流れる竜の言葉を遮るように、傍のルカリオが声を荒げる。生者達は一様にルカリオに視線を集めた。
「聖者様! こいつはネイティオさんを殺したのです! あの賢く聡明で、誰に向けても優しさを絶やさなかった賢人が、こんなやつの牙に掛かって殺された! こいつは、聖者様のお言葉も待てないような罪人なのです!」
 心に根源的な正義を持ち、弱者を助くことを使命として説かれたルカリオにとって、竜の自分勝手な釈明は腹に据えかねるものだろう。今まで見たこともないような憤怒を顔に滾らせ、彼はがなり立てる。
「聖者様! どうかこいつを裁いてください! 皆、十全にして規範たる貴方様のお言葉を待っているのです!」
 ルカリオの言葉で、生者達の視線が私に集中する。生者達は困惑するものもいれば、怒りに震える者、悲しみに虚を浮かべる者もいて、しかし彼らは皆私の言葉を待ち望んでいるようだった。
 彼らは私の言葉に戸惑いを氷解させ、怒りを発散させ、悲しみを浄化させようとしている。そうするために、私がどのような言葉を吐くべきなのかは、既にルカリオの言によって示唆されていた。
 生者達は皆、竜が裁かれることを望んでいた。私の口によって、竜の在り方が否定されることを望んでいたのだ。
「私は……」
 果たして、本当に裁くべきなのだろうか。竜の行いを悪としてここで裁き、全てを終わらせることは正しいだろうか。
 竜が享楽のために他者を傷付けるならば、それは微塵の葛藤もなく裁かれるべき悪である。しかし竜は、そのような下賤な目的のために他者を傷付けた訳ではないだろう。
「竜よ。……貴方は、腹が減っていたのですね」
「はい。腹が減っていて、満たしたいと思いました」
 竜はただ、生きようとしただけなのだ。その事実が、私を裁定に至らせまいと立ち塞がる枷となる。
 瞑目する。聖者として立つならば、私は竜を裁かねばならないだろう。竜は私の言葉を待たずに動き、他の生者の命を阻害した。それを罪として見ることは十分に可能で、裁くべきであるとするのは道理だ。
 一方で、私は私の感情として、ただ生きようとした者を裁くことは正しくないとも考えていた。何一つ、ただの一つの揺らぎも狂いもなく、彼はただ生きようとしただけであり、果たしてそれを誰が責められようか。
 聖者としての私と、生者としての私がせめぎ合っていた。それは葛藤と呼ばれる感情であり、解に辿り着くまでにいくらかの時間を求めるものであることを、私は知っていた。
「裁定に至るまでに、今暫くの時間を求めます」
 私は目を開き、生者に向けて口を開く。彼らの間でざわめきが揺れた。
「今ここで、早急に裁を決することは、誰の為にもならぬと判断しました。裁を迷いながら発したとなれば、私はそれをいずれ悔いることになってしまう。世界にとっても不本意な決断となる。それは貴方達生者の為にもならない」
 ここで竜を裁くか否かは、重要な決断となるだろう。
 私は感覚的に理解していた。仮に竜を許すのならば、それは間接的に他者への傷害を許容することになる。他者を傷付けることで飢えを満たせると気付いた生者達は、生きるために他者を傷付けることを厭わなくなるだろう。
 それは聖者として、多くの生者の命を肯定し見守る身ならば、見過ごすことは出来ないはずだ。
 だが、許さないとしたならば、私は私の意志を持って竜の生への意欲を否定することになる。
 無垢なる竜の意志ゆえの結果がネイティオの死である。それを唾棄すべき邪悪として排斥したならば、生者達が己の意志を持って生きていこうとする姿を愛する資格を失うだろう。らしく生きる姿を愛おしいとしながら、らしく生きる姿を否定し裁くなど、あまりに愚鈍な自己矛盾が生じてしまうからだ。
 私は今、岐路に立たされていることを理解した。聖者として罪を裁くのか、生者として罪さえも愛おしいものと内包するのか、どちらかの道を選ぶならばもう片方を切り捨てなければいけない。それは容易に決められることではなかったのだ。
「今日の夜が明けるころに、もう一度この場にて竜への裁定を下します。それまで、竜の身は私が預かりましょう」
 私のその言葉に、生者達は三者三様の反応を見せる。怒りに今にも拳を振り下ろさんとしていた生者は拍子抜けと言わんばかりに肩と拳とを落とし、悲しみに暮れる生者は変わらず悲嘆に暮れ続ける。困惑に満ちた生者は、急ぎ決断が下されないことに胸を撫で下ろす者もいれば、決断が先延ばしにされたことで一層の困惑を見せる者もいた。
 思い思いの感情を浮かべながら、生者達は次第に去っていく。取り残されたのは私とその眼前で震える竜、拳を固く握りしめたまま立ち竦むルカリオとなおも泣き崩れるタブンネの姿である。
「聖者様、自分には分かりません。何故、その竜とやらを裁くか否かを迷う必要があるのですか」
 ルカリオは強い語気で私に問う。裁かれるべきだと強く論じていた彼にとって、今の状況は不本意であるらしい。
「貴方は自分に正義であれと仰いました。正義とは悪を断つものでありましょう。貴方様のお言葉を待たず、正しく生きていたネイティオさんを殺したその竜が、悪でなくて何だというのですか」
「悪であるかどうかと、生を許されるか否かは別の問いでしょう。悪であるなら死なねばならないとする考えは早計です」
「そいつは善きひとを殺した悪だ。ゆえに、己の死を持って罪を償うべきでしょう!」
「死んだところで潰えた命は戻りませんよ、ルカリオ。殺したから殺していいという考えを持つのは余りに危険だ。その考えは、いつか自分に引き金を引くこととなる」
「ですが……! ……っ、自分に道を示した愛おしき聖者様が、正しい決断を下されることを祈っています……!」
 ルカリオは私を忸怩たる感情の許に眺め、竜を鋭く睨みつけて去っていく。
 傍らに残されたのは、震える竜と泣き崩れるタブンネの姿である。私がタブンネに寄ると、彼女は泣き腫れた眼で私を見上げた。
「聖者様、わたしはネイティオの惨たらしい姿が恐ろしいのです。彼の受けた痛みや苦しみ、そして死にゆくことへの恐怖を考えるだけで、胸の内が絞り尽くされたように痛むのです」
 ネイティオの亡骸は、凄惨ばかりを呼び起こすような形をしていた。彼の強く見開かれた黒々しい瞳が最期に捉えたものの事を考えるだけで、胸裏に焼けるような痛みを伴う凍みが広がってゆく。
「ですが、それだけではありません。……恐ろしいのです。いずれ、第二第三のネイティオが現れるのではないかと。竜かそれ以外かは分かりませんが、誰かが同じように傷つけて、誰かが同じように傷つけられて、惨たらしい苦痛を抱くのではないかと」
 タブンネの持つ恐怖と、私の抱く危惧は同じものであった。生者達が他者を傷付けることを知った今、それが連鎖的に広がっていく可能性は無視できるものではない。痛めつけられ、苦しみながら死んでいくネイティオのような存在が再度生まれることは、私にとっても恐ろしいものだ。
「わたしは聖者様に、遍く全てを癒すようにと使命と名とを授かりました。そのように生きようと今まで尽力して参りました。聖者様も遍く全てを癒すことを善いと考えて、わたしに使命を与えたのですよね」
「その通りです、タブンネ。貴方は人を労り、癒すことの出来る心根の持ち主だ。そして私は、それを善いとして貴方に使命を与えたのです」
 タブンネは私の言葉に、ほんの僅かに血色を暖かなものにさせた。
「そのお言葉が聴けて良かった。わたしは、そんな貴方様が、次の苦痛を生むような裁定を下されるとは考えません。聖者様より使命を授かったものとして、貴方様の英断を信じています」
 震える唇で刻まれたタブンネの言葉は、私の心中に深く刻み込まれるものだった。
 生者達はみな、自身の存在に根ざす使命を与えた聖者のことを信頼している。私が正しき道を歩き、正しい決断を下す者だと信じ切っている。彼らのその、無垢で純粋で強烈ともいえる感情を、果たして裏切ってしまうことは正しいだろうか。
 深く、深く首を垂れた後、タブンネは森の奥深くへと去っていった。
 残されたのは、ネイティオの骸と竜である。竜は不安げに私のことを見詰めていた。
「貴方は私と共に来なさい、竜よ。もう分かっただろうが、お前を嫌い憎むものは多くいる。ここに居ては殺されてしまうだろう」
 私の言葉に竜は強張ったように頷き、それから静かに口を開いた。
「ぼくは生まれるべきでなかったのでしょうか、聖者様。ぼくはただ生きようとしただけなのに、まるでそれが罪であるかのように糾弾されている。それはつまり、ぼくが竜で、生あることがそもそも罪であったからなのでしょうか」
「……それは」
 それはかつて、私がグラードンに投げた問いと同じものであった。生と死の起こりうる理由を模索しようとしていた私は、結局何一つとして道理を解することは出来なかった。他者の――ネイティオの死生に対する考えを聴いて、そうあればよいと彼の考えを愛したきり、手の付けられることのなかった論題である。
「それは、私には分からないことです」
「しかし、私は生あるものを愛おしいと思い、そこから連なる彼らの生き方を愛おしいと思います。だから、貴方のその問いに対しては、否定をしたい」
 生あるものを愛おしいと思うのは、私の感情であった。生あることを罪であるとはしたくないというのも、私の感情である。
「……では、ぼくは生きていていいのでしょうか」
「……」
 探るように差し出された言葉に、私は先ほどまでの語気を消沈させた。
 わからない。聖者として裁くことと、生者として愛することと、私はどちらの立場を取ればよいのだろう。どちらの立場をとることが正しく、或いは正しくないのか、結局私には何一つとして正しきを解することが出来ないのだ。
「……すみません。聖者様がお悩みで、ゆえに時間を取られることは聞いていました。だから、不用意に問い詰めることは貴方を追い詰めることになってしまう。それは良くないことです」
「いいえ、貴方が不安であるのも、致し方のないことでしょう」
 生まれてすぐに秤に乗せられ、己の存在の是非を計られるなど、耐え難い恐怖に違いないというのに、目の前の竜はどこまでも気丈であった。或いは自身の行為が悪しきことであるという自覚を持たぬための鈍感であるのかもしれないが。
「……そういえば、貴方に名を授けていませんでしたね」
「ぼくにも名前を与えるのですか。ぼくは……罪を犯した、のでは」
「それでも、貴方がこの大地に降り立った以上は生者ですから。与えてはならないという道理はありません」
 私は眼前の竜を眺めた。小柄で双眸も持たぬ、紫紺の竜。それに相応しい名前というのは、思いつくようで思いつかないものだ。
 強いて特徴を上げるのであれば、その口は生まれたてだというのによく回る。よく物を言う頭だ、とまで考えたところで、一つの天啓に至る。
「決めました。お前は今日より、モノズと名乗るといいでしょう。よく物を語る頭ですから」
「……賜りました。モノズ、好い音だと感じます。生きている限り、この名をお借りしましょう」
 モノズはそこで漸く、大口を引きつらせて不器用な笑みを浮かべた。感情を発露させる彼の姿は、やはり今まで見てきたものと何一つ変わらぬ生者のそれであったのだ。



聖者の夜明け Ⅱ 


 ネイティオの亡骸は湖畔に埋めた。
 冷たく静寂が支配する土中は、思索を常とする彼にとって心地よい空間であるだろう。どうか懸念ひとつなく安らかな死出の旅路を迎え、柔らかな安寧の繭の中に包まれてゆくことを祈るばかりである。
 土を埋める手を止めれば、いつしか世界は夜を迎えていた。玻璃を渡したように静かな湖面に、遠き星々の霜が映える。
 木洞で細々と寝息を立てるモノズを見守りながら、私は下すべき裁定について悩み続けていた。
 生者としての意志と聖者としての意志は、どちらかを選べばどちらかを捨てねばならないものである。そして仮にどちらを捨てたとして、私の胸中には潰えぬ罪悪と痛みとが残り続けるだろう。悪は裁かれるべきと、痛みを増やしたくないと願う生者達を裏切るのか、全ての命を愛おしいものとしたい私の感情を裏切るのか、決断は結局苦しみに集約されるものだ。
「私は……」
 迷い路に独り佇む私を見かね、その大きな翼で飛びつける友はもういない。イベルタルは苦しみを恐れて死出の繭室に籠り、私の声は届きようもない。そも、苦痛の中を歩む決断をしたのは私であるのだから、これは私の中で解決せねばならない事柄だ。
 だが、もし仮に、今ここに彼が居るのならば、私に語ることは一つではないだろうか。つまり、正しさだけが正しいわけではない、という、彼の信念と懇願から来る感情の結実としての言説である。私にとってその言葉は、重要な意味を秘めているものだ。
 結局、私は父のようにはなれないのだろう。いくら思索を重ねども、何もかもを理解することが出来なかった私に、父の持つような正しさを羽織ることは出来ない。だから、正しさを追い求めて物事を考えるのは、きっと何も意味を成さないのだ。
『ゼルネアスくん』
 思索に耽る私に、ふと聴き心地のよい、鈴の音を揺らすような声が届く。
 私は視線を上げた。無辺の闇が広がる黒々しい宵界の中に、見上げるほどに大きな銀灰色の身体と金色の頭飾りが揺れ動いた。
「ギラティナ様……!?」
 私は驚愕のあまり、夜を割くほどに頓狂な声を上げた。深き叡智を湛えた緋色の瞳が、二三瞬く。
『こんばんは。キミの片割れのイベルタルとはよく会うけれど、キミと実際に顔を合わせるのは初めてかな。会えて光栄だよ』
 奇妙な感覚だった。
 ギラティナの巨躯はしっかりと地に足が付いている筈なのに、見れば見るほど存在自体が奇妙な浮遊感に包まれているようだった。この世界や、或いは私達のような生者たちとは、どこか隔絶した位置に座する存在のように思えて仕方ない。暖かく包み込むような声音はこの身を蕩かせたくなるほどに柔和で、しかし底冷えするような無機質を兼ね備えているようでもあった。
「どうして、このような場所に」
『イベルタルのお使いさ。ゼルネアスくんの様子を見に行ってほしい、ってね。自分はもう顔を合わせられないから、だってさ』
 ギラティナは困ったように微笑み、私は頬を凍り付かせた。天上に逆巻く星霜の王を顎で使うとは、片割れはほんとうに恐れというものを知らぬのだろうか。
「片割れがご無礼を。……聞けば、以前はイベルタルの責務を手伝って頂いたこともあるとか」
『いやあ、うん。あれは結構楽しかったなあ。僕は腕が六つもあるというのに、どうしてかイベルタルが繭を編むほうが早いんだよ。不思議だよねえ』
 平伏する私とは対照的に、ギラティナは談笑に花を咲かせ、温厚に顔を綻ばせるばかりである。
 百億年を立腹に使われても無理はないほどに、余りにも慇懃無礼な使いの依頼だというのに、まるで立腹するそぶりを見せないのが却って底知れない。対話は出来ても理解の出来ない存在のようで、どこか得体の知れない畏ろしささえある。
『しかし、うん。どうやら君は、なんだかすごく大変な悩みを抱えているようだ。それ、解決するかい?』
「……いえ、まだ煩悶の途中です」
『そうかあ。それは大変だなあ』
 ギラティナは他人事のような語気で目を細める。まあ、実際に他人事ではあるのだが。
『でも僕には、もう君の答えは出ているように思うけどね。君が悩んでいるように感じるのは、あと一押し、そちらに傾き切るきっかけが足りないからではないかな』
「きっかけ、ですか」
 ギラティナは首をもたげ、私の瞳を覗き込んだ。
 ギラティナの緋黒の眼が吸い込まれそうに深く感じ、幽世に引き込まれるような浮遊感を伴った戦慄が背筋の熱を奪っていく。
『あのさ、ネイティオくんと話してみたいとか思わない?』
「……は?」
 その大口から発せられた言葉の意が分からず、私は首を傾げた。
 ネイティオは既に死んでいる。先刻私が亡骸を葬ったばかりである。彼の肉身は最早、物言わぬ冷たいものに成り果てている。
「……死したものと対話など、不可能でしょう。それが此の世の道理です」
『うん、その通りだね。……けれど、それは今までの道理だ』
「今までの……?」
 ギラティナは二三瞬き、それから不敵な笑みを浮かべた。くるりと宙を泳ぐように身を翻し、黒曜の翼を夜天に広げる。
『父さんと相談したんだ。この世界もだいぶ成熟してくるだろうから、生者の枠組みをもう少し増やしてみないかって。君が頭を悩ませるそこの竜もそうだし、それにもう一つ』
 黒曜の翼を夜天に空かせば、半透明の薄黒の中に星が映える。
 不規則に瞬く輝粒のそれらは、まるで胎動をしているかのような錯覚をもたらすものだった。
『一つ考えているのは、死したる生者という枠組みだ。所謂霊的な――どちらかと言えば、僕の居る方に近い存在を、この世界に置いてみようかなって思っているのさ』
「死したる生者、ですか」
 それは矛盾を伴っているように見えた。生きているが故に生者であると定義される筈なのに、死したる生者とはいかなるものか。
「今一つ理解できませんが……死にながら、生きてもいるということですか」
『大まかには。その辺りの組み立てはもう少し考えてくれるだろうけど、結構前向きに話が進んでいるんだよ』
 私の知らない間にも、天上では様々な事柄が取り沙汰されているらしい。いまひとつ実感が沸かず、返事は気の抜けたものとなる。
「……ところで、それとネイティオが、どのような関係を持つのでしょうか」
『うん。端的に言えば、彼にその第一号になってほしいんだよ』
「……は?」
 ネイティオが死したる生者の第一号になる、とは。
 当惑する私を尻目に、ギラティナの口からは流れるように言葉が続く。
『彼は、この世界で初めて非自然的な死を迎えた、とっても特異な存在だ。潜在的な寿命はまだ残されていて、僕なら動かすことが出来る』
『加えて言うならば、彼はとても優秀な生者だったのだろう? もう一度、死したるものとしての生を与えることで活動を可能にすれば、世界にとってよりよい貢献がもたらされる』
『ね。それは君にとっても、いいことだと思うんだよ』
「……」
 類は友を呼ぶというべきか、星霜の王はどこぞの片割れに似て酷く舌が回る。聞き手の当惑を一切鑑みずに言葉を続ける様子は、大柄ではあるが幼子を思わせるような無邪気に満ちていた。
『それに、ほら。君の悩める事柄も、ネイティオくんなら説き解すことが出来るかもしれない。直接的に君の利益になることだ』
「私の、悩みを……」
 その言葉で締めくくられる王の誘いは、大変魅力的なものだった。
 確かに、かの叡智に長けた賢者であるならば、悩める私に対して光明を与えてくれるかもしれない。それが叶わずとも、私と同じ場所から共に悩み抜いてくれる筈だ。そうして私は彼のように、悩みに対する答えを導き出せる日が訪れるのだろう。
 しかし、正直なことを言えば、ギラティナの提示した利点は私にとって副次的なものに過ぎなかった。その誘いの、私にとっての魅力的な部分はただ一つしかない。
「どうして、それを私に話すのですか」
『キミの森の中で勝手なふるまいは出来ないからね。やるにしろやらないにしろ、筋を通すべきだと考えたのが八割』
「……残りの二割は」
『勝手なことをするとアルセウスに怒られるからね。僕はそれがとても怖いんだ。だから君の許可が欲しい』
 ギラティナは大仰に首を竦めた。その所作に、どこか芝居めいたようなものを感じる。父の折檻を思い出してかその表情は怯えのようなものを浮かべているが、それすらもわざとらしさが先行するものである。私は訝しんだ。
「……何を企んでいるんですか」
『企みは今言ったことが全てだし、君を騙そうという意図はないよ。僕は君の決定を待つだけさ』
 それに、と付け加え、ギラティナは浮薄とも飄々ともつかぬ微笑を浮かべた。
『会いたいんだろう、ネイティオくんに』
「……!」
 その誘いの、私にとってなにより魅力的な部分を言い当てられ、私は動揺に心臓を昂らせた。
 彼の存在を以って世界がより良い方向に進んでいくだろうことや、私の悩みを説き解す存在であることは、私にとって二の次の要素でしかない。もう一度彼に会い、話が出来るという事実自体が、私を誘いに傾かせるのだ。
「それは……そう、ですが」
 一も二もなく誘いを受け入れるべきだとする私を瀬戸際で押し留めるのは、私の中に内在するひとつの引っかかりである。
 確かに、私にとってその誘いは、途方もなく魅力的なものだ。彼の亡骸を見た時、内に湧き上がってきた鮮烈な痛みと苦しみがなかったようにされるというならば、喜んで歓迎するだろう。
 けれど、ネイティオにとってはどうだろう。彼は果たして、もう一度の生を望むような男なのだろうか。
 彼の存在を想起する。真っ先に思い至るのは、一つ目の冬を終えて春に差し掛かろうとする、今は少しだけ遠い時節の事だった。
「……ギラティナ様、少し聞いてくださいますか」
『うん、いいよ』
 モノズの眠る洞の傍で佇んでいた私は、立ち上がり、湖畔の外周を緩やかに歩み始めた。私に追随して飛ぶギラティナの銀灰色が、湖畔に溶ける星々の海の上を踊るように滑ってゆく。
 私は半周ほど歩き、立ち止まった。記憶を頼りに辿るならば、ちょうどこの辺りで、緑色の小鳥が私を見上げていたのだ。
「かつてネイティオには、ケーシィというひとりの友がいました。彼らはほぼ同時に生を受け、同じような使命を私から賜った」
『けれど、ケーシィくんは冬に呑まれて消えてしまったんだよね』
 私は頷いた。死白の冬に呑まれて死んでいった者達を繭に包む手伝いを、イベルタルはギラティナに任せたというから、かの生者のことを知っていても不思議ではなかった。
「私はかつてネイティに、死がただ喪失の現象を伴う事柄である、ということを説きました。だから、ケーシィの死をそのように解するだろうと考えていたのです」
 だが、実際は違った。ネイティは死が喪失であるという点に着目し、疑問を広げた。死しても誰かの記憶に残るならば、それは喪失ではないのだと考えたのだ。
「ネイティは、命は蓄積するといいました。死してもなお、自身の存在が誰かに認識されていて、その記憶が誰かに受け継がれていくならば、完全なる死と喪失は行われないと言いました」
 ネイティがケーシィの事を覚え続けていたのかは定かではない。だが彼ならきっと、最期の時までケーシィのことを覚え続けていただろう。
 そして、死にゆく自分のことも、きっと誰かが覚えていて、だから自分は完全には死なないのだと考えたのではないだろうか。
 これは憶測であり、或いはそうあって欲しいという希望でしかない。けれど、彼ならきっとそうするだろうという確信に至らしめるだけの語気が、あのネイティの言には確かに存在していたのだ。
「私はネイティオの事を覚えている。そして、これからも覚え続けていきます。ネイティオはきっとそれを望むでしょう。彼の説く、生の蓄積説を肯定するためには、ネイティオは死んだままで、私がそれを覚えてゆかねばなりません」
『ネイティオの思想を肯定するために、ネイティオの死はあらねばならない、と言うのだね』
 私は頷いた。
「私は生者を愛しています。ネイティオの事も愛しています。だから、私が愛する彼の思想を叶えるためには、貴方の誘いを断らなくてはならない。だから……」
 言葉を発しながら、私は胸の内が搾り取られるような痛みに苛まれてゆくのを感じた。
 そう言い切ることは、ネイティオにとって本望であるだろう。しかしそれは同時に、彼に会う機を二度と逃してしまうだろう、ということでもある。
 それはとても寂しい。
 それはとても、寂しいことだった。
「お断り、させて頂ければと思います」
 喉の奥に詰まったまま動かない言葉を、無理やりに吐き出す。ギラティナは、私を労わるような声音で念を押した。
『そうか。それが、君の決断だね』
「はい。それが、私の決断です」
 しかし、ここで翻る訳にはいかない。私は、ネイティオの事を愛しているからだ。
 愛する君の、思索を重んじるという使命の為に生み出されたその思想を、私は愛しているからだ。愛しているから、その証明の為に、君との再会の可能性を捨てて行くのだ。
『そうか。うん、君がそう言うならば、僕は君の考えを尊重しよう。……ネイティオくんの考えも、ね』
「では」
『このことは、また持ち越すとしよう。少なくともネイティオくんは、このまま死出の旅を征くことになる。本人にもそう伝えておくよ』
「本人にも? ネイティオと会ったのですか」
『ああ、えっと……』
 私の問いに、ギラティナは露骨に身じろぎをした。しばらく視線を泳がせていたが、彼は観念したように眉を下げた。
『えっとねえ、ごめん。実はいくつか隠し事がありました』
「……隠し事、ですか」
 呆れたように睨みつけると、ギラティナは翼をばたばたとさせて慌てふためいた。
『あ、いや、君にかけた誘いに関しては嘘じゃないよ。あれは本当だし、君が断ったのも本当』
「ではなにが」
 彼はばつが悪そうに首を竦めた。
『イベルタルくんじゃないんだ、実は。ネイティオくんから頼まれたんだよ。ちゃんと言葉を告げる前にゼルネアスくんの前から居なくなってしまったことを気にしてるみたいで、様子を見てきてほしいって』
「……そう、でしたか」
 彼が言うのは恐らく、ネイティオと私とが最後に邂逅した秋天の日の事だろう。あの日、珍しくネイティオは自分の意見を発しようとせず、曖昧なまま会話を途切れさせて去っていった。彼にとってはそれが心残りだったのだろう。
「彼に会うことがあれば伝えておいてください。私は君の言葉を愛していたし、これからも君を愛し続けます――と」
『うん、確かに』
 この言葉が、静かな死出の旅路を征く彼にとって、せめてもの魂の慰めとなればよいのだが。
 しばしの祈りを彼にささげた後、私はギラティナを鋭く見上げた。ギラティナはたじろぐ。
「……。それで、隠し事は一つではないのでしょう」
『う、うん。えっと、実は僕、ギラティナじゃないんだ。彼は今自分の役目とイベルタル君の手伝いでてんやわんや、とってもこっちに顔を出せるような状況ではないからね』
「……え?」
 ギラティナでなければ、果たして眼前のギラティナは一体何なのだろうか。その銀灰の身体も黒曜の翼も緋色の爪も、どこからどう見ても、私の知るギラティナに他ならないように見えるのだが。
「ギラティナ様でなければ、貴方は一体誰なのですか」
『父さんだよ』
「……は?」
 そう言うや否や、ギラティナは足元の星空が映る湖に飛び込んだ。巨躯の質量が水面に突き刺さったというのに、湖面は鏡面のように起伏なく輝き続けるだけである。
 暫くの後、白色の頭角が水面よりひょっこりと顔を出す。それは紛れもなく、遠影の記憶の彼方に久しい創造神の白磁であり、私の父アルセウスの姿であった。
『やあ』
 父は水面より首から上だけを出したまま、顔面に微笑の模倣を張り付けた。響き渡る声は深く慈悲を伴う低いもので、世界の淀みを晴れ渡らせるのに十分なほど、音は澄み切っている。
 湖中より歩き出でたその姿は寸分の狂いなく荘厳の白を切り出したように端正で、夜半の暗闇の中でも潰えぬ薄白い輝きが、私の視界を広く満たす。
 全てが道理のままに動くこの星の中で唯一、何ものにも囚われないまま高次に座する神格が、私の前に御身を表していた。
『久しぶりだね、ゼルネアス。少し背が伸びたかな』
「父上、何故ここに……」
 思いがけぬ再会に、私は胸を詰まらせる。次ぐ言葉が出ないままに、私は彼の足元へと駆け寄った。
『ずっと見ていたよ。君は僕の授けた使命の通り、ほんとうに、良く働いてくれたね』
「勿体のないお言葉です」
『けれど、聖者としての君は、もうここで終わりになると僕は判断した。だから君に会いに来たのだね』
「……え?」
 父から発せられた声の意が分からず、当惑に顔を上げる。父は有無を言わさぬ眼光で私を眺めた。
「それは、どういう」
『ネイティオくんの考え方を重用するならば、君の悩みには答えが出るよ。さあ、目を閉じて。よく考えてごらん』
 問いに対する答えはない。慈愛の声に促されるままに、私は瞑目をした。
 ネイティオは、死したるものはその記憶を持って命あるものの糧になるとした。そしてその考え方を、私は信じようとしている。
 今、私にとっての死したるものはネイティオだ。それはつまり、ネイティオの記憶が、彼の姿や発した言葉が、私の糧になるべくして存在しているという理屈となる。
 はたして、彼は何を言ったのか。
 ――やはり、思いだされるのは、秋天の冴え渡るあの日の出来事である。
 
 





「では、生者を阻むことでしか生きられない生者がいたならば、それは裁されるべきものでしょうか」
 そんなネイティオの問いに、私は深く困惑をしたのを覚えている。いつものように彼が問う難題の中でも、それは特に印象の色濃い困難さを伴った発言だった。
 ネイティオはその瞳を持って未来を見通す。故に、この世界に竜が生まれることさえも知っていただろう。
 彼の言を今なら理解できる。生者を阻むことでしか生きられない生者とは竜のことだと。生きるために、他者の肉を食らい満たすしか術を知らない者の在りや無しやを、彼は問うていたのだと。
 そして、私はこう答える。
「恐らく、その問いに模範の解はないでしょうが。私が思うに、阻害する者もまた生者であり、生きようとしたのでしょう。それを悪しきと裁くことは、私には出来かねます」
 私は、裁かれるべきではないとした。なぜならそれは、生きようとしたがための行いであるからだ。使命への行進のために、生きようとするその姿を裁くことは無しであると言ってのけたのだ。
 笑ってしまうような話である。いま私の中に巣食うものは、悩むまでもなく、私の中では既に答えの出ていた議論であったのだ。
 ネイティオは私の意見とは真逆の立場とだけ表明しながらも、自身の立場を気が引けるものとした。
 いつか再会したら、その理由を説くと約束をして――結局それは果たされなかったが――私の言葉に対して、背を押すようにこう言うのだった。
 
「この先何があっても、折れることなく貴方の道を歩んで下さい。わたしは、今頂いた貴方様の答えに、花束のような夢を見たいのです」







『ゼルネアス』
 父の声に引き上げられるようにして、私は短くも尊い瞑目より覚めた。
『答は見つかったかな』
 私は頷く。最早、揺れる理由など一つとして存在しなかった。
「決まりました。私は……竜を、裁かずにいようと思います。生きようとする彼の意志を、私は尊重しなくてはならない」
『それによって、世界に争いが満ちるとしてもかい』
 生者を生者が喰ったという事実を肯定するならば、いずれ世界にはそのような争いが生まれ出るだろう。強き者が栄え、弱き者が潰えてゆく、安寧とは程遠き混沌に満ちた世界が広がってゆくのに、それほどの時間は必要ない。
 それでも。
「私は、生きようとする生者達を愛しています。その愛を曲げることは出来ません」
 私は首を垂れ、父の前へと膝を折った。
「私のこの選択は、多くの生者達の混乱を生むでしょう。私は私の愛を――感情を持って、彼らを路頭に迷わせてしまう。それがいかに罪深く、聖者の肩書にあるまじき行為であるかを、私は理解しています」
 そしてそれは、聖者の使命を授けてくれた父に対しての背信であることも、十分に分かっていた。偉大なる父の背を追い、正しさを追い求めて煩悶し続けてきたのも今や昔のことで、私は私の感情の為に父の言葉から背いた道を歩こうとするのだ。
「どうか、聖者の冠を私より取り去って頂けないでしょうか。貴方様に背いた私に、この役割の冠は重すぎる」
 父よ、そしてどうか、私を厳しく突き放して欲しい。偉大にして悠然たる父と共に征けない私の、あなたに向ける未練ともいうべき愛を、どうか断ち切って欲しい。私が一人で歩いても、寂しさに足を止めることのないように。
 私の中に渦巻く根源的な感情を読み取ったのか、父は極めて截然とした語気で、私に淡々と語りかける。
『君が望むなら、君の望むようにしよう。君を聖者の任より解く。機構としての力も寿命も失い、今より君はただの生者と成る。森の進展は、後任が決まるまで僕が引き継ごう』
「……ありがとう、ございます。父上……いえ、創造神様」
 私は頭を上げた。生まれて以来圧し掛かっていた重く、厚いものが取り払われる。
 その清々しさに遅れて、強烈な心もとなさが胸元を貫き、鈍い痛みが迸る。足元から突風が這い上がってくるようだった。歩く為の支えとなっていた杖のすべてが取り払われ、自立せねばならないという事実がなにより恐ろしく、私の足を縺れさせようとする。
『道は既に分かたれた。もう、僕と君とが会うことはない。君を導くものはもうおらず、己の足で歩いてゆかねばならない』
「……」
 それは、今ある生者達よりも苛酷な道のりだった。生者として生まれたばかりの私に使命を説き、導いてくれる聖者は存在しないのだから。ただ、暗闇の荒野を心細く歩き続けてゆくしか、私には道がない。
『震えているね』
「恐ろしいのです。寄る辺なく夜を征くことが、眺める道の全てが未知であることが。何処へ往けばいいのかすら、何を成せばいいのかすら分からないでいる」
 いつか見た懸念が、思いのほか早く現実となった。聖者としての使命を授かって生まれた私にとって、聖者でない時間など一度たりとて存在しなかった。生者としての私は、まだ生まれたての青鹿に過ぎないのだ。
「私はどこへ行けばいいのでしょう」
『それを決めるのは君自身だ』
 父の言葉にもはや優しさはなく、ただその言葉が重厚な響きを持って私を私足らしめる。その冷淡にも思える突き放し方に、私は父の愛の残滓を垣間見た。
『君は自由だ。しかし、自由とは解放ではない。君は自由で、何かを成すことが出来る故に、何かを成さねばならないという不定形の使命感に束縛されてゆくだろう。そしてそれは、導いてくれる聖者という存在を喪った、全ての生者にも同じことだ』
 語る創造神の背から、生まれたての暁光が湖畔に至りつつあった。
 淡く優しく、しかし冷たく広がる二度目の原初の日の光が、世界の形を塗り替えて行く。
『さあ、間もなく世が明けてゆくよ。聖者の歩む夜は終わり、次に広がるのは自由に満ちた暗闇の荒野だろう』
 陽光に炙られた創造神の姿が、次第に明るみに溶けてゆく。白磁の砕けるように細化してゆく骨身が、黎明の風に吹かれて湖畔の内へと吸い込まれてゆく。
 今、乖離の時が来た。もう二度と、父に目通りを叶うことが許されぬ時が来たのだ。
 私は消えてゆく父に向けて、生まれて初めての大声を上げた。呼び止められた父の眼差しが、私を優しく撫でる。
「っ、お父様……! 私の選んだ道は、果たして正しかったのでしょうか!」
 御身を持って正しさと知る、唯一にして絶対の正者に、私の歩みゆく行進路の正しさを聞く。そうでもしないと、私は不安で立っていられなくなりそうだった。
 かつて私は父の背中を追い、正しいようにあろうとした。しかしそれは最早遠くの事である。私は私であるがために、父のようにはなれない。しかしそれでも、そうであったとしても、私は父への憧憬を止められずにいたのだ。
 私の泣きすさび、縋りつくような声に、しかし父は柔和に笑み返す。
『ゼルネアス。正しさだけが、正しいのではないのだろう?』
 それだけを告げて、父の姿は湖畔より去っていった。
 そうして、父の背は消えて行く。
 残されたのは、燃えるように広がってゆく朝日の眩しさに、腫れた目を細ませる私の姿だけであった。



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Last-modified: 2019-12-15 (日) 01:31:49
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