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生者の行進 上

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Writer:赤猫もよよ


 

聖者の夜明け Ⅰ 

 

 生まれたての暁光が湖畔に至る。
 鏡晶に似た水面に眩いばかりの焔が注がれ、中空に攪拌されて森の清浄な空気を輝かせる。
 響くのは鈴の実を転がすような音調。生者の時間の訪れを鳴くのは鬼雀。
 その響鳴を皮切りにして、波が引くように生者の眠りが去ってゆく。水面に波紋が広がるように、植生の中に無数にうねる生者たちの、目覚めの吐息が芽吹きはじめる。
 その不調和ゆえに調和のとれた音階に、私は湖畔の中で耳をそばだてる。ひとつふたつと重なる聴き慣れた息吹の中に、今日もまた一つ、見知らぬ生者の息吹が紛れ込んでいた。
 即ち、生誕である。
 私は湖畔より出で、息吹の元に向かった。植生の合間を縫うように駆ける。踏みしめる大地の茶に刻まれる足跡から、色彩に満ちた名もなき花が芽吹いては、私の後を追う行列を形作った。
 
 その、まだ名もなき新たな命は、やはりまだ名のない鮮やかな青花の上に佇んでいた。
 呆けたように柔らかい口を開け、花の種にも似た黒い双眸は、目の前に現れた私という存在をじっと見据えている。その瞳の上に浮かぶのは興味と関心の色であり、それは現存するどの生者達が生まれた時ともまるで変わらない。
「おはようございます」
 私は念を押すように、目の前の花上の生者に朝を告げた。
 それでようやく合点がいったのか、花上の生者は口をぴたと閉ざし、それから目を泳がせ、暫く口をもごもごとうねらせ、しばらくして恐る恐る口を開いた。
「自分は、生まれたのですね」
 おおよそ感情と呼べるものはなく、花上の生者はただ淡々と語句を並べた。
 私は花上の生者の言葉に同意し、粛々と言葉を紡ぐ。
「この星にて、七番目に命の冠を戴したのが貴方です。故に貴方に名前を授けねばなりません」
 私は花上の生者の姿を眺めた。その身は白く華奢で、花の上に鎮座できるほどに軽く小さい。双眸の上、頭を一周するようにして、黄色の帯のような膨らみが被さっていた。
「その座する花は、貴方が好ましいと思ったのですね」
 私の問いに、花上の生者は小さく頷いた。
「目覚めて、自分は初めてこの、ただ一輪だけ咲く蒼い花を見ました。そのとき、この小さな胸の内に、何か暖かなものが訪れたのです」
「そうですか」
 私は目を細める。この、花を愛おしむ小さな生者に与えるべき名前は、もう決まっていた。
「名を授けます。貴方はこれより、フラベベと名乗りなさい。この名を持って、まだ夜明けに過ぎないこの黎明の森の中で、己を確立させるのが貴方の使命となるでしょう」
 フラベベ――即ち、花の稚児。
 愛おしき花を一輪抱いて、これより森の中で生きていくこの生者を定義するのに、これ以上の言葉はないだろう。
「フラベベ。それが自分の……」
 フラベベの頬に、生まれて初めての感情が射した。その照り返しを受けて、私も同じように目を細める。
「花と共に生きなさい、フラベベ。果実を食み、水を飲み、生きるのです。私はそれだけを願って貴方の背を押しましょう。――さあ、お行きなさい。そして、正しく生きるのです」
 私は小さく息を吐いた。呼応するように、柔らかな朝の陽ざしが立ち込める森の中に、ざわりと風が吹き抜ける。フラベベはこれより生涯を共にする蒼い花と共に、その優しいそよ風に吹かれて旅を始めるのだ。
「お待ちください。旅往く前に、一つだけ貴方様にお伺いしたいことがあります」
 風にふわりと浮かび上がりながら、フラベベは私に視線を向けた。
「その青い花より青く、その青い花のように愛おしく優しい貴方の名を、どうかお聞かせ願えませんか」
 フラベベの懇願を、私は良しとした。そよ風にうねる木々の葉擦れに乗せて、私は名乗りを上げる。
「聖者――ゼルネアスさま」
 創造神より直々に与えられたその名前を私は口ずさみ、フラベベはそれを受けて満足げに風に揺蕩った。
 
 花の稚児を見送った後、私はその場でしばし体を休めることにした。私の身体を包むように広がる花の絨毯に、しかしフラベベの愛おしんだ青い花はどこにも存在していない。
 世界の黎明故に、普通は咲かぬ色の花が咲いてしまったのだろうか。
 なんにせよそれは些末事だった。聖者の施策には何一つ関係がない。私は双眸を瞑り、今一度森の音に耳を澄ます。
 聞こえるのは森の歌。風を抱いて葉擦れが起こり、森という名の揺りかごを揺らす子守唄。
 世界はまだ若い。見渡す限り、生まれたばかりの命達を包むように森が広がり、その外には何一つとして存在していない。
 私の名はゼルネアス。
 この、生まれたての青々しい世界に、揺りかごとして森を敷く者。
 そこに創造される命に名を与え、その生の善さを祈るのが、敬愛する創造神より授けられた聖者(わたし)の使命である。



邁進する生者達 Ⅰ 


 溌溂の夏が来て、森の生命は百と二の種を迎えた。
 私の役目は不変である。生命と大地の縁を繋ぐこと、その新たな命が誇りに満ちた営みを辿るように繰り糸を巧みに手繰り寄せることであり、それはわたしを除いて成し得ない責務であった。
 責務の一方、私は世界の糸車を回す。変遷の旗印をはためかせ、うら若き世界を紡いでゆく。即ちそれは生者達の住まいであり、私の寵愛に満ちた領域である森は、幼子の歩みのような速度で膨張しつつあった。
 一辺倒だった植生には生者の体躯に合わせて高低が生まれた。次いで生者の糧となる果実が膨らみ、生者の潜む藪が走り、私の座する純水の湖畔から始まるのは河川であり、湖沼であり、そして地底を伝って沸くのは泉水である。
 森が広がれば、生者はこぞってそこに殺到する。己の自己性を生存領域に見出した者達が、嗚呼我こそは順応せりと鬨を上げる。水鰐の子や蓮の坊が陸地に近い河川の浅層に潜み、沼魚が湖沼を闊歩し、雫蜘蛛や鯉の王が河川の深層を泳ぐのだ。
 今や陸地ばかりでなく、陸地と水表、或いは水中のみを住まいとする生者の姿さえあるのだから、その多様を愉快と言わずして何になるだろうか。
 暁光ばかりの中空にも変貌が訪う。寝息に朝は厭わしいと伝えられ、私は糸車にて夜の帳を紡いだ。
 生者の微睡と共にその薄墨色の衣を被せ、荒涼として寂しい、その憂悶に満ちた空気を彼らは吸う。見上げた夜訪、幾星霜のかなたより、天上の星々の霜が降りる。
 天上から零れ出た私より生れ出たのが生者である。彼らは夜を見上げては、胸中に潜む郷愁の弦鳴を誘われる。
 奇しくも、生者が寝息を立てる夜にこそ、世界を我が物顔に闊歩する生者達が存在する。夜梟や影坊主などを筆頭に、私は彼らを夜を征くものと呼び、彼らはそれを自己の定義の襷として肩に掛けた。
 かくして森は多様に満ち、木霊す森の音は色彩に溢れた。私の広げる森の環境を素直に受け入れる生者もいれば、夜を征く者を筆頭に、特殊な適応を行う者もいる。生者は私の言葉を行路の杖として、己の身と思考とをもってその存在を確立させていく。

「満喫しているようだな」
 夜と朝との狭間、風の凪いだ湖畔にて。佇む私の上空より、灰を塗したような声が響く。
 首を傾げれば、陽を背負うようにして飛ぶ緋色の鳥がいる。創造神が私と共に生を与え、対の使命を授って星を飛ぶ者。
「イベルタル」
「久しいな、ゼルネアス。うら青き我が同胞よ」
 私は彼の名を呼び、彼は私の名を呼んだ。天上の指間より零れ出て以来、この邂逅は久しいものであった。
「空から君の生む森を眺めていた。もう数えきれないほどの生者が闊歩しているのだな」
 イベルタルは感慨深そうに言葉を並べ、湖畔の岩に身体を留めた。
「百と二だよ、友よ。彼らは森の糧を用い、草木を食み、果実を抱き、水を酌んでは日に日に成長していく。なんと愛おしいことか」
 耳を澄ませば、色とりどりの生者の息吹が聴覚を擽り、私は胸を躍らせた。
「君も耳を澄ませ、目を見張るといい。ああ――生者達の息吹の、なんと愛おしいことか」
「いや、我は遠慮しておこう」
 私の誘いに、イベルタルは惜しむような面持ちで首を横に振った。
「我が使命は生者に死の安寧を与えること。君が愛おしいとする者たちの息吹を知っては、采配が鈍ってしまうだろう」
 イベルタルは私と対の存在であり、授かった使命もまた対である。
 私が生者に名を与え、その生を見守るのが使命であるとするならば、イベルタルは死すべき生者に死の安寧を与え、顛末の先を見守るのが務めである、
 そして、そんな彼が命芽吹く森に訪れるということは、ただ一つだけを意味していた。
「イベルタルよ、君は生者に死を与えに来たのだね」
 私は瞳に僅かな寂寞を浮かべ、即座に溶かした。森に住まう百と二の生者達のいくらかが、その身を土に還す日が来るのだ。それは世界に必要なことであり、それだけだった。
「うむ。この森を含む世界の全てに、死の種子を撒いた。それは無作為に不規則に――少なくとも彼らの中ではそう見えるように――芽生え、命の終焉をもたらすだろう。それは現在、そして未来をも問わずである」
「そうか」
「広がっていく森の速度より、生者の繁栄の方が早い。ともすれば生命で溢れかねない。君がいずれ、生者に繁殖の責務を与えようとするならばなおのこと。故に、だとも」
 彼は、ほんの僅かに憂いを見せた私を気遣うように、石を積み上げるように淡々と語句を並べた。
 彼の言う通り、世界は有限である。糸車を回して世界を紡ぐ速度にも限界というものは存在し、創造神により与えられた土壌にも区切りが存在する。地平線の果ては遥か彼方であり、しかしそこに存在するのは無限ではなく有限の端でしかない。
「致し方のないことだ。生あるものはいずれ死ぬのが道理だと、私達は解している」
 解している。私は凪いだ湖面に視線を落とした。水鏡の中に映る生命の青鹿――私の、極めて均整な姿がある。そこには、何一つとして揺らぎがない。
「だが彼らは――生者達はそれを解しておらず、また解することもないだろう。死生の道理に至るのは、創造神の啓示を受けた、即ち私達のようなもののみと決まっているからだ」
「道理だな」
 イベルタルの頷きを背に、私は湖面を歩み、陸地へと進んだ。
 私の推進を受け、湖面は上下に揺らぐ。水鏡の中に映る青鹿から水紋が広がり、やがて陸地に辿り着き、陸と湖面の間際を濡らした。
「無知ゆえに、彼らは動揺するだろう。或いは悲嘆に暮れるかもしれない。……憐れなことだ」
「だがそれは、どうしようもないことだろう」
 イベルタルの切って捨てるような言葉に、私は振り返った。彼の、生まれたての青空に似た色の双眸が、淡白な表情のまま私をじっと射竦める。
「我は彼らの死出の道を固め、そして彼らの死後の安寧の為に無数の繭を編もう。それは我にしか出来ぬことだ」
 さて、君の役目は何だろう――と、弟妹を諭すような口ぶりを見せ、彼はその赤黒く巨大な翼をはためかせた。羽ばたきに応じて、湖面に波がささくれ立つ。私は目を瞬かせた。
「私の役目は、生者に名を与え、生者の歩む道を善いものとすることだ」
「そうだとも」
 私は揺らぐ湖畔に立ち、波を鎮めた。刹那の沈黙とともに、鏡面がりんと凪ぐ。
「我らは機構だ。我らの生は役目を果たすためにあり、それ以外の為にはない。いくら我々が感情を持って生立したとしても、感情への極度の傾倒は、きっと毒だ。感情熱に浮かされて、舵取りを誤ることは許されないだろう」
 至極最もな言説だったが、ここまで清廉に精錬された剣を突き付けられると、かえって逆を張りたくなるのが心情である。私は口を僅かに尖らせ、返しの言に刃を混ぜた。
「では、私達の感情はなんのためにあるのだ。君の言うように感情が毒であるならば、それは私達には必要のないものではないか」
「極度の傾倒は毒だ、と我は言ったのだよ。言葉を不必要に大きく解釈するんじゃない」
「……」
 ごもっともである。私は大きな敗北感を覚え、二の句を告げずに沈黙した。
「でも、君の問いはとても興味深いよ。何故我々が感情を埋め込まれたかについては、一考の余地がある。なるほど、流石君だ。いや見事」
「君は世辞が下手だな」
 言い負かされたことで私が傷ついているとでも思ったのか、彼はえらく口下手な世辞を並べた。私よりほんの少し先に創造神の腕より生れただけだというに、彼は先達風を吹かせるのが大変上手く、たまに腹立たしいことさえあった。
「前半は世辞ではないよ。何故我々が感情を持つのかは、実際論議すべき題だろう」
「そうなのか?」
「うむ。でも今の我には分からない。だからまた、思いついたら君に会いに行くよ」
 君も考えておいてくれ、と言い残し、彼は大仰に翼を揺らして天頂へと昇って行った。

聖者の行進 



 豊穣の秋が来て、森の生命は百と四十の種数を迎えた。
 私の役目は不変である。しかし、意識の上で生命と大地の縁を結び、新たな生者を迎えることを消極的にしていた。森の膨張と世界の紡築に専念し、今存在する生者達が、いずれ来るだろう凍て刺すような冬を耐え忍ぶことが出来るよう、森を豊かにするのが、他の何を差し置いても私の急務となっていた。
 果実を豊かに実らせ、草木を肥沃とさせる。木々には樹液を与え、その豊穣を生者達に分け与えた。
 私の生の発露に照らされ、木々はその葉を朱々と染め上げる。世界に穢れのない赤が生まれ、世界は色彩の概念を見出しつつあった。
 植生を照らす傍ら、既存の生者達に様々なことを説いて回った。
「世界は四の季にて循環します。即ち祝誕の春、溌溂の夏、豊穣の秋、そして死白の冬」
 佇む私を囲い、生者達は私の言葉にじっと耳を傾けていた。彼らは皆、私のことを聖者と呼び慕っていた。
「いずれ、そう遠くない先に、木々も大地も水さえも凍てつく死白の先駆けが来ます。貴方達は今、豊穣の秋の内に、生きるだけの糧を蓄えねばなりません」
 私の言葉を受け、集団はざわついた。一様に顔を見合わせ、死白がいかに恐ろしい響きであるのかを論議していた。
 その中で、一つの手が上がる。私はそちらに視線を向けた。
「糧を蓄えねば、我々はどうなりますか」
 瞬き一つない黒目は大きく開き、体は小さく緑色の小鳥だった。その生者にネイティと名を授けたのは、溌溂の夏の先触れの事だったと記憶している。
 かの生者は聡明だった。無秩序な引力にも似た超常的な力を身に宿し、飛ぶことすらままならない軽羽の代わりに、矮小で貧弱な身体に詰まった多くの叡智を杖として立つようにと私が道を示したのを、律儀に固く守り続けていた。
「熱を失い、木々や大地や水と共に凍てつく身の、その先にはなにが起こるのでしょうか」
 この森で、最たる叡智を持つネイティの問いかけに、生者達は再びざわめき立った。
「熱を失えば、貴方達の身体は死に至ります。それは凍てつくような冬の息吹だけでなく、飢えや渇き、或いは身体の欠損においても生じることでしょう」
 私の言の葉を受け、ネイティは、ほんの僅かに眉根を歪めた。その様子に、ざわめき立つ他の生者達も不穏を察したのか、森の全てに一斉に静寂の霜が降る。
「死に至るとは、どのようなものを我々にもたらすのでしょうか」
 彼の恐る恐るの問いに、いいえ、と私は言う。
「何ももたらすことはありません。死とは、貴方達より見れば、即ち喪失に他なりません」
「不益なものですか」
「貴方達にとっては、概ねそうでしょう。死とは、貴方達の自意識の恒久的な途絶とも言い換えられます」
 私の冷淡な返しの葉を受け、生者達は今日一番のざわめきを見せた。動揺の波紋が生者から生者へと伝播し、攪拌されていく。
 生者達は今初めて、己の身が不滅でないという事実を知り、恐怖にその身を竦ませていた。
 死と、それに追随する恐怖と寒さとに震える彼らの、嗚呼なんと憐れなことか。節理が許すならば、私は眼前の彼ら全てに長寿の機構を与えたい。私の腕中で眠る限り、飢えも震えも感じることなく、その全てを十全に満たし生き続けることが出来るだろう。
「聞きなさい、生者達よ。この豊穣の秋に十全を蓄え、叡智を絞り、耐えるのです。死白の冬は恐ろしいものですが、神は乗り越えられぬ試練をあなた方に課すことはないのです」
 しかし、それは創造神の意向に背く行為である。
 私は聖者の役目として、ただ彼らを見守ることしか許されてはいないのだ。



「演説、至極結構。君の声掛けのお陰で、生者はその熱を保とうと躍起になっているようだ」
 薄暮の湖畔を囲む紅葉に炙られて、緋鳥はいっそう赤を増していた。死白の冬に向けて色々な仕込みを続ける最中らしく、彼の言葉尻にはいくらかの疲労の色が垣間見える。かくいう私も、彼と同等程度には気が重い。
「イベルタルよ。創造神は何故、生者を有限のものとして位置づけたのだろう」
 私が暁光と共に目覚め、夜頂と共に眠りにつくまでの間、いくつもの生者達と言葉を交わす。彼らは皆、己の生誕に誇りを抱き、己を己として確立するために日々を生き抜いている。
 そんな彼らの、そのいくらかは、死白の冬を乗り越えられずに死に至るだろう。その無慈悲な征伐に、果たして何の意味があるというのか。父は何故、このような試練を我々に与えたのか。
「道理として死があるのは知っている。それは成されねばならないことであるとも」
「君は、我に創造神の言葉を語れというのかな」
「深く考えないでくれ。君の推測で構わないよ」
「難しいことを言うなあ」
 イベルタルは双眸を二三と瞬かせ、しばし唸った。それからしばらく湖畔の上空を旋回していたが、やがて岸辺にある一本の枯れ木の上に脚を留める。
「思うに、だが。創造神が――父が望むのは、完全性に満ちた箱庭ではないのかもしれない。我が父は完全性の化身であるが故に、ただ一つ、不完全性だけは成し得ることが出来ぬ。そのような不完全性の行きつく先を、我が父は観測したいのかもしれない」
「父上が不完全性に憧憬を抱いている、とでも言うのか。故に、生者の生きる土壌を我々に整えさせようと?」
 私は顔を上げ、イベルタルを問い詰めた。
 その千本の白腕を持って遍く全てを形創った、かの創造神が、欠如に満ちた不完全性に夢を見るなど、そのような事が果たしてあるのだろうか。十全は、十全であるというだけでただ只管に正しく、均衡に満ちた美しいものであるというのに。
「深く考えないでくれ。我の思考も君の言も、全て憶測だ。第一、推測で構わないと言ったのは君の方ではないか」
語気の強くなった私に、イベルタルの諫言が飛ぶ。
私は水鏡に身を沈め、視線のなかに水面を映した。
「父の考えは、私には分からない。死が喪失であるのなら、それは無い方が正しいのではないか」
「おや、我の存在そのものを否定するのか。うら青き片割れよ、我はなんだか悲しいぞ」
「いや、そういうつもりでは」
「ふふ、冗談だとも。解しているさ」
 イベルタルは茶化すような口振りをし、私は彼に向けて如何ともし難い感情を得た。同じ腕より生み出されたとは思えぬほど、彼と私とは似通わぬ性格をしている。
「ときにゼルネアスよ。父より生れし我々もまた、不完全な獣のひとつである。故に我々は感情を持ち、思慮をする。世界を回す機構としての役目故、遙かに永くはあるが寿命も持つ。我々とて、いつか死に至るだろう」
 緋色の賢者は一つ翼を瞬かせ、過ぎゆく薄暮の空へと身を滑らせる。鳥影が湖畔に落ちて、空の映える水鏡の中に黒を注ぐ。
「君は誰よりも間近で、生者達の生き死にを見つめるだろう。そしていずれ、君は生者の為の聖者として、歩む進路の果てへと辿り着く。我々のような世界機構は、皆そのように作られている」
 世界機構。それは即ち我々である。一つは宇宙を、一つは海を、一つは空を、一つは大地を。私が先駆けとして生者の揺りかごとなるように、他の彼らもまた、別の役目を担わされていた。
「果てとは?」
「答え、とでも言い換えよう。君が抱く生者への慈愛、それに伴う不完全な存在への意義の疑問について、君はいずれどこかで一縷の光を見出さねばならない」
 彼は一つ羽ばたき、中空より射す遠方の陽光を眺めた。
「君に問われてからずっと考えていたよ、ゼルネアス。我々が感情より始まる思慮の杖を突き、懐疑の沼を歩く権利を与えられたのも、全ては思索の為なのではないかとね」
私は感情を以って、いずれ来る生者たちの死を痛ましく思い、それ故に死の存在を何故と問う。彼が言うには、逆説的である。不完全な存在として感情を持ち生まれたのは、感情から発せられる疑問に対し、思索をし答えを見出さねばならないからであると。
 片割れは二度啼いて、それから遙か大空へと羽ばたいた。
「我は翼を持ち、ゆえに四つ足の君より先を眺めることが出来る。君がまだ、清んだ考えを持たぬというのなら、共に思索をするべきではないか」
「思索……それは、どのような事柄だろう」
「まさしく君が言ったことだよ、我が青き盟友よ。何故生者は不完全に生まれつき、生きるのかを。死は何故訪れるのかを。それは君の務めであり、我の務めであるのだよ」
「簡単に言う」
「ははは。嫌というほど時間はある。緩く考えたまえ。我もそうしよう」
 苦々しい表情を浮かべた私を大きく笑う声。
 呼応するように風が吹き、三度梢が揺れる頃には、彼の姿はもうそこには存在しなかった。
 
 斯くして朝が訪れる。
 私は脳の片隅で思慮を続けながら、水鏡の中より歩き出る。
 神は乗り越えられぬ試練を課さない、と。
 それは生者達に向けての言説であり、その延長線上に位置する私達にも、或いは同じことが言えるのかもしれない。
 しかし、本当に。
 私の、道の見えない思索の果てに、本当に答えはあるのだろうか。


小さな賢者、無知なる聖者 



 過ぎ去っていく深秋の尾が空を切り、巻き起こる冷風に梢が揺れる。
 紅葉の燃焼は次第に終わり、枯落する灰葉の絨毯が大地の嵩を増す。いまや森の膨張音さえ聞こえるほどに、森の中は静寂ばかりを謡っていた。
 死白の冬の全てを眠りに満ちて過ごそうと思い至った生者達は、既に土中や洞や木中に身体を埋めており、森を歩けば方々から甘い寝息が漂ってくる。
 対して今なお活動を続ける生者達も、やがて来るだろう死白の香を感じとったのだろう。胸中を満たす曖昧な憂いの予感の為か、その概ねが静けさに浸っている。
「あっ、居た! おうい、せいじゃさまー!」
 の、筈なのだが。今日は珍しく、静かな森に快活な声音が響く。
 振り返れば、それは垂れた房が目を引く小人のような生者であった。名をリオルと授けたのは、ほんの数日ほど前のことだったと記憶している。
「せいじゃさま、おはようございます!」
 彼はひょこひょこと私の足元に駆け寄り、恭しく首を垂れた。与えられた生を満喫しているかのように、その双眸は空よりも遠く澄み切って輝いていた。静寂に沈んでゆく世界の中で、彼は眩い光源のようである。
「おはよう、リオル。元気そうですね」
「はい! 今日も正義のためにがんばろうとおもいます!」
 生まれながらに激烈ともいえる正義心を持ち合わせていたリオルに、私は使命として正義への邁進を授けた。彼もそれを大層気に入ったようで、日々正義とは何ぞやと模索しながら日常を漫遊しているのだった。
「あの、せいじゃさま。実は、せいじゃさまとお話がしたいという子がいて……あ、いた」
 リオルは周囲を見渡し、ある木の根元を指さした。木の幹の裏から、今は懐かしき新緑の葉に似た、緑色の丸っこい身体が覗いている。
「おうい、ネイティくん。恥ずかしがってないで、ちゃんとお話ししなよ」
 ネイティ、と名指しされた緑色の丸は、一旦身体をびくつかせた後、観念したように幹の裏から出でた。
「大丈夫だよ、せいじゃさまは噛まないし。お話ししたかったんでしょ!」
「ええ、わたしは噛みませんよ」
 リオルの強引ともいえる斡旋に観念したか、或いは私が噛まないと断言したことに安堵したか、ネイティはよたよたと私の許へと歩み寄った。恐らくは、私に言葉を賜りたいのだろう。見上げる黒々しい眼は、どこか期待に輝くようであった。
 暁光と共に森を歩けば、不安に満ちた眼差しの生者達が私の言葉を求めて現れることがあった。
 私は生者達の頂点であり、私が父の差配を支持するように、彼らは皆、己の頂点に立つ――少なくとも彼らにはそう見えている――私の言葉を心待ちにしている。彼らにとって私の言葉は十全で、彼らのすべては私の言葉の全てを正しいことだとする。
 ゆえに、私に説かれようとする者達が後を絶たないでいた。
「聖者さま。わたしです、夏の初めに名を授けられた、ネイティと申します」
 ネイティはふわりと浮き上がって私の視線の中に入り込んだ。
「君は……ああ、あの時の」
「お久しゅうございます。秋の先駆に言葉を賜ったきり、ご挨拶に伺えずじまいで」
 彼はその小さな首を垂れ、それから私を恭しく見上げた。
「あの日、貴方様よりお言葉を授かって以来、ひとつ考えてきた事があります。どうか、お聞きいただければと……」
「聞く? ……それは、私が?」
 私は彼の言葉を一瞬飲み込めず、僅かに小首を傾げた。生者達は皆、私から言葉を与えられることを期待して私の目通りを乞う。
だが、眼前の彼はその真逆のことを願った。それは私にとって衝撃を伴う言葉であった。
「叡智を持って歩く貴方様にこそ、私の考えを話したいと思ったのです。不躾、だったでしょうか」
 彼は恐縮し、その黒目を波打たせた。私は頭を振り、それを否定する。
「いいえ、少し驚いたのです。貴方を含め、生者達は皆、私から言葉を乞うのが常であると考えていましたから」
 もう一つ胸中で付け加えるなら、私は眼前の彼に対して得も言われぬ感情の揺らぎを覚えていた。私がこの森に足跡を刻み始めて以来、ついぞ味わったことのない感情である。花が咲きほころぶようなこの温かみを、果たしてなんと呼ぶべきだろう。
「いいでしょう。存分にお話しなさい。例え貴方の言葉が正しさに寄ったものでなくとも、私はそれを善しとするでしょう」
「有難うございます」
 私の許しを得て、彼はその口から緩やかに言葉を並べ始めた。
「――故に、わたしはずっと、死が我々の喪失であるというお言葉に疑問を抱いていました。例えば、睡気に身を委ねて意識を溶暗させ、それから目が覚めるまでの間も、わたしの自意識は途絶されています。しかし、体はそこに残り続けています」
 その口振りはたどたどしく、さながら赤子が歩むような不安定さであった。しかし、無際限に繁茂する雑多な思考を懸命に剪定し、明瞭な言の葉として整えようと弁舌の鉈刃を振るう彼の姿は、見ていて心地の良いものがある。
「貴方様のおっしゃる通り、死によってもたらされる自意識の途絶が恒久的なものであったとして、しかしそこにわたしの姿は残り続けるものですから……ええと、つまり」
 遂に言葉の紡糸をもつれさせ、彼は思考がこんがらがったのか口を閉ざした。私は微かな笑みを口端に浮かべ、助け舟に花を咲かせる。
「つまり、死とは眠りの延長線上である。眠りはそこに身が残るので喪失とは呼べず、従ってその延長線上に存在する死もまた、喪失ということは出来ないのだと、君はそう言いたいのでしょう?」
「はい、仰る通りです」
 彼は私に敬愛の視線を向け、私は眼前に存在するのが思索する賢者の卵であることをようやく理解した。
 だがしかし、道理を踏まえた観点より、その仮説は間違いである。しかし興味深い。彼の抱く仮説の鈍刃を精錬したい気分になったが、しかしそれは私には成し得ぬことだった。
 私はいくらかの思考を浮かべ、それから口を開いた。
「是非、死白の冬を超えて春を迎えなさい。そして、死に伏した他の生者達の姿を眺めるといいでしょう。死と眠りの相違点を如何に見るか、貴方の視点より解しなさい」
 少しばかり饒舌が過ぎた私の言の葉を、彼は一言一句取りこぼさぬよう懸命に取り込もうとしていた。その様子は、さながら果実の汁を口端から溢さぬよう必死に頬張る稚児のようである。
「さあ、もう行きなさい。今の貴方の為すべきことは思索ではなく、冬を生き延びることです。そして春にもう一度、貴方の見出した答えを私に説きなさい」
「はい……お言葉、有難うございました」
 まだ思索し足りぬとばかりに口をぱくつかせていたネイティは、私の言葉にいよいよ観念したのか首を垂れ、吹き抜ける冬風と共にどこかへと飛び去って行く。
 かの賢者の卵の姿に、私は叡智の黄金の始まりを見出すとともに、強烈な不安が襲う。
 彼がこの死白の冬を乗り越えたなら、彼は打ちひしがれた同胞の亡骸を見て、死のその現実を理解するだろう。
 そして、何故、と問われるだろう。何故神はこのように残酷な宿命を我々に担わせるのか、と。何のために我々は死ぬのかと。
 ――だがしかし、それは何一つとして、私には説くことの出来ない事柄なのだった。




 

夜明け過ぎの暗黒を征く Ⅰ 


 
 死白の冬が訪れる。
 体皮を凍て刺す極寒の冷気は刃のように鋭く尖り、枯れ落ちずに耐えていた焦茶の葉片さえも無慈悲に刈り取られていく。
 木々は細黒い幹と枝を残すばかりになり、そこには芳醇な果実も可憐な花々もなく、生者達の息吹さえも存在しない孤独の時代の幕が上がる。
 立ち塞ぐように広がる曇天を眺め、白染めの息を吐く。
 そこより降り積もる雪白の層は深く、静かに胎動を続ける森さえも食い潰してしまいそうなほどの重みに満ちていた。
 さりとて、私の役目は不変である。
 春を迎え、一時の瞑目より目を覚ます生者達の為、ただひたすらに世界を開墾し続けるだけだ。
「黎明の世に大地を据えて少し。やれ、少しは休めると思うたのだがなあ」
 寝起きの巨獣は号と吠える。森の外部、ただ無辺ばかりが広がる虚空の中に、寒々しく荒涼とした大地が広げられていく。
「のう、ゼルネアスの若君よ。貴殿は少しばかり働きすぎではないか? 吾輩が懸命に押し広げた原初の平野が、いやはやもう此処まで森に満ちているとは思うまいて」
「貴方が悠然とし過ぎているのです。大地の柱獣殿よ。貴方の片割れのカイオーガ様もそうですが、貴殿らふたりは些か暢気過ぎるきらいがある」
「むう。貴殿、昔より弁舌が振るうようになったなあ」
 ぐうの音も出ない、という表情で口をむにゃむにゃさせるのが、大地の柱獣ことグラードンである。私が生者の揺りかごとしての役目を賜るより遙か前、創造神の命を受けて陸を生んだのが彼だ。片割れの海神カイオーガが虚空に海を広げるのと合わせ、生者が息づく為の環境を作った方々であり、いわば世界の立役者と言えるだろう偉大な一柱なのだが。
「ううむ。噂には耳にしていたが、死白の冬とはこうも冷えるものか。尻が冷たくてやる気が出んぞう」
「何を言うのですか。生者の眠る冬こそ、私達のような機構が活きねばならない時代でしょうに」
 私の諫言に、いやはやと彼は鼻を撫ぜた。
「やる気があって結構結構。して、生者達の歩みは順調かね」
 三歩の歩幅で陸地を両断し、両の爪先で山脈の形を整えながら問う彼の言葉に、私はそれまでの饒舌が嘘のように押し黙った。振り向いた彼の眠たげな瞳が、私の思案を射抜く。
「おや、歩みに惑いがあるのかね。それはいけないな」
「彼らではなく、私に迷いがあります。お恥ずかしいこと、ですが」
 彼は山脈の口に息を吹きかけ、赤黒い溶岩を中に流し込んだ。二、三度自分の腰を叩き、それから私の方へと歩み寄ってくる。
「迷いなく歩めるのは我が父上のみだろう。迷いは恥ではない。かく言う吾輩にも今、消し得ぬ悩みというものがあってだな」
「悠然を往く貴方様にも、お悩みが」
「うむ。今まさに、尻が冷えて困っていて……はは、そのような顔をするな。冗談だとも、うむうむ」
ごほん、と咳払いを一つ浮かべると、荒涼の大地に原初の風が吹き抜けた。森に積もる雪片のいくらかが、風に流されて森の外部へと漂っていくさまを、私は目で追いかけながら言葉を紡いだ。
「私は聖者の役目を担い、この地表へと降り立ちました。森という生命の揺りかごを揺らし、彼らの生を導いてやらねばなりません。その為に私はいます」
 しかし、それにはまだ若すぎる、と私は思いつつあった。生者を導くには、私は余りにも無知であると。
「死白の冬が終われば、彼らは春を迎えて目覚めます。その時、彼らは欠如を知り、別れを味わうことになるのでしょう。再会を夢見て眠る彼らの、その挨拶は虚しくも空を切る。そのように世界は出来ています」
 世界は神の創造のままに行路をゆく。彼の想像する筋書きは美しく、緻密で、掌上で筋書きをなぞる下層の演者には、しかしそれを筋書きと解せないほどに自然である。
「私は父ではない。故に何も判らぬのです。死を目前とした生者達より問われるだろうこと――何故我々は死ぬのかと、そう問われたとしても、なにも分からないのです」
 理由を知らず、しかし死が何者であるかだけを私は知っている。それは完全な喪失であり、心身の破滅であり、此の世よりの排斥である。
「私は彼らにどう諭せばよいのでしょう。死は生者への裁罰とでも断じればよいのか。しかし、それは何ゆえの罪なのでしょう。彼らはただ生きただけです。――或いは、生あることすらも、罪であるというのでしょうか」
 行き場のない、誰に向けるでもない苛立ちの発露が、私の舌を雄弁にさせる。
 そう。私は苛立っているのだ。愛おしい彼ら生者達が、その死をもって欠如することに。それすらも世界の理として当然の事象であり、私にはその意が理解できないことに。
「若君よ。君はひとつ思い違いをしているな」
 グラードンは山脈を撫で下ろすように爪痕を刻み、陸地から海へと一本の筋を作った。彼が涎を一滴垂らすと、そこにふつふつと大河の源が湧き上がる。
「思い違い、ですか」
「ん。君は確かに生者に此の世の道理を教え込む立場だが、別に十を十と説く必要はない。理由なぞ、知らんもんは知らんとでもいえばいいじゃあないか」
 どうどうと滑る、雄大な大河のうねり具合に満足がいったのか、彼はその流れを見ながら得意げな笑みを浮かべる。
「ですが、それでは、彼らを納得させることは出来ません。疑問には正しい言葉をもって答えねば、彼らの歩む道は正道を大きく外れてしまう」
「外れてしまうことの何がいかんのだ」
「は、」
 言を失う。呆気にとられた私の顔をまじまじと眺め、グラードンは赤ら顔を楽し気に揺らした。
「さて若君よ。果たして何故、父上殿はこの世界を作られたのだろう。何故その差配を不完全な我々に任されたのだろう。一点の曇りもない、完全な立方の世界を作られるならば、父上自らが手を下せばいいだろうになあ」
「それは……」
 目を泳がせる。森の外、立方の隅にある荒涼とした無味の大地に視線を沈める。
しばらくの沈黙の後、結局私は答えることが出来なかった。それはかねてより抱いていた、私自身の疑問とまるで同じだったのだ。
「分からぬか? 実は吾輩もわからんし、分かったとしても伝えはせん。吾輩は君の片割れほど聡くもなく、優しくはないのだ。うはははっ」
 彼は大仰に笑い、尻を摩りながら陸地の彼方へと歩き去ってゆこうとする。
「のう、若君よ。ひとつ君にいいことを教えてやろう」
 グラードンはずんぐりと振り返る。その広大な身体を眺めながら、私は首を傾げた。
「いいこと、とは」
「世界には山があり、谷がある。平坦な道などどこにもありはせん」
 随分と突拍子もない言葉だった。私は困惑に呻く。
「それは……どういう」
 戸惑う私を見て、グラードンは満足げに頷いた。
「歩き給えよ、若君。険しき山の上からの眺めは、これまた格別であるのでな」
「は、はあ……」
 ではなあ、と手を振り、グラードンは大地の彼方へと闊歩していく。取り残された私と言えば、今一つ彼が何を言いたかったのかさえ分からず、土煙に巻かれたように苦々しく立ち竦んでいる。
 余りにも。無辺の暗闇の中を恐る恐ると歩くように、私の足取りは余りにも不確かが過ぎる。グラードンの言葉も、不完全として私をこの世界に降り立たせた父の意も、何一つとして分からず、故に彼らに何一つとして諭すことは出来ない。
 世界に起こる事象の、それそのものを理解していたとしても、果たしてそれがどのような意思をもって起こされるものなのかを私は解しない。
 なにゆえに、私は生者達の揺りかごを揺らす役目を担わされたのだろう。
 何一つとして、何一つとして彼らに知を授けることは出来ないというのに、訳知り顔で彼らに使命を授ける姿の、嗚呼なんと滑稽なことか。
「父よ。何故、この役目を私に担わせたのですか」
 喉奥の苦悶がひとつ、静寂にりんと反響する。
 私にできることは、ただ、黙々と森を広げることだけしかないというのに。



 死白の冬が終わり、春の最初の夜が明ける。

 森の生命は半数が死に絶え、瞑目より覚めたのは七十にも満たぬ種数だけであった。
 
 
 

君に若葉の夢を見る 




 春は夜明けと共に訪れて、祝誕の鈴を鳴らして回る。
 皮切りに、生者の寝覚めが伝播した。一足先に再誕を迎えた色彩豊かな木花の香が、寝ぼけ眼の生者達の鼻先を擽り、彼らはその身を包む温い大気に死白の終端を知る。
 起床せよ、と告げて回る私の声は冬の間に膨張した森の全てを跳ねまわり、かくして生者は目覚めを迎えた。
 春を迎えた彼らの反応は、三者三様であった。死白の冬を乗り越えた事を素直に喜ぶ者、拡大し膨張し、その姿を大人びさせた森の様相に目を輝かせる者、友と呼んだ仲の生者が凍て死に、麗らかな暁光の中に寂寞の意を浮かべる者。
 そして、今、湖畔に佇む私の眼前に現れたのが、春の訪れと共に新たな叡智を得た知者である。
「友がいました。彼もまた、知者の一人だったと感じます」
 春の若芽に溶明する、若緑色の毛を持つ小鳥――ネイティは、その見開かれた黒目を澄んだ泉水に落とした。
「今はもう、どこにもいません。彼は、ケーシィは……死んだのですね」
 感情の鈍い黒目の内には、並々ならぬ哀憐の意志が波打っていた。その俯きの中で、今はもうない友との語らいを想起しているのだろうか、眼差しは遠い。
「彼は死にました。死白を終え、森の半数の種は死に絶えたのです。もうどこにもいません」
 私はそれだけを告げる。彼は、そうですか、とだけ呟いた。
 死の、その理由を問われる覚悟はあった。至極当然のその質問が来るだろうという覚悟だけがあり、しかし私はそれに対する答えを未だに持ち合わせていなかった。
 幾星霜を思考の時間に費やしても、まるで答えに辿り着くまでの道筋そのものが欠落しているように、叡智には至らない。無知のままに言葉を吐かざるを得ないだろうことが、途方もない苦痛となっていた。
「聖者様、ひとつ、わたしの考えを聞いてくださいますか」
「……私に、問うのではなく?」
 ネイティは頷いた。
「きっと、貴方様は並外れた叡智を持ち、わたしなどでは比類出来ぬほどに聡明で、この死白のことさえも知り尽くしているのでしょう」
 彼の、わたしを見つめる眼は澄み切っていた。私は何も言えず、押し黙った。
「ですが、わたしは自分の眼で物を見たいのです。今まで貴方様の施した糧により腹を満たし、生き凌いできた身故、どの口がと思われるかもしれませんが――ですがせめて、知者のはしくれとして、思慮の杖だけは自前のものでいたいのです」
 健気に嘴を揺らす彼はどこまでも叡智のひとであった。私のことを全能と錯視しながらも、しかしそれを寄る辺とせず、彼は彼自身の杖識をもって世界の道理を解き明かそうとしている。
「聞きましょう」
 私は粛々とそう告げた。ネイティは目を輝かせ、言葉を並べ始めた。
「聖者様。貴方はかつて、死が喪失であると仰いました。そしてわたしはそれに疑問を抱きました。午睡と死とを重ね合わせ、その類似性を根拠としました」
「覚えています。貴方は、死してなおそこに姿が残り続けるなら、それを喪失とは言わないと考えていましたね」
 しかし、実態は否である。死して血が通わなくなれば、命は大地の肥沃に溶暗し、やがてその面影なく喪失していくのだ。午睡とは違う類のものであると、彼はもう既に解しているだろう。
「はい。しかしそれは違いました。死ねばそこから居なくなります。故に喪失であると、そう解釈することも可能でしょうし、それが正しいのかもしれません」
 ――ですが、と彼は続ける。
「やはり、私は死がその存在の全てを喪失させるものとは思えないのです」
 私は口を僅かに開けた。それは疑問の現れであった。
「それは、どうして?」
「だって、わたしは彼のことを覚えていますから。彼の枯葉に似た黄金色の細身も、細やかな叡智を湛えた両の糸目も、彼の思想も、感情も、そしてわたしが彼の内に見たあらゆる感情さえも、すべてを事細かに覚えていて、それはわたしの思想を形成するための建材となって、わたしの中へと取り込まれているのです」
 ネイティは黒目を二三と瞬かせた。口を僅かに開いたまま微動だにしない私の姿を見て、不安に駆られたのか眉根を歪めた。
「すみません、突拍子もなかったでしょうか」
「……いえ。大変、興味深いと感じました」
 彼は、つまり、記憶のことを述べているのだ。例え誰かが死に至ったとしても、その存在を誰かが覚えている限りは完全な喪失に至ることはないのだと、そう。
「わたしはケーシィのことを覚えています。そしていつかわたしが死ぬとき、ケーシィを内在したわたしのことを誰かが覚えているならば、それはわたしとケーシィの二人分がその人の内側に存在することになるのでしょう。それが連綿と続くならば、理論上、この森の中に存在していたすべての命は、決して喪失することなく受け継がれていくのではないかと、そう思うのです」
「……命は、蓄積すると?」
 ネイティは、喉奥に詰まっていた淀みを吐き出すように深く息をし、憑き物が落ちたような微笑みを見せた。
「はい。わたしは、そうあって欲しいと思うのです」
 その言葉の是非を問うことは私にはできない。
 だが、もしも、理論でなく。
 飽くまで私の不完全の要因である感情という尺度に当て嵌めて、眼前のネイティの言葉を図るのならば――。

 私は瞑目する。
 刹那。
 裏に広がる黒曜の宙の中に、死白に溶けて消えていった七十余の種の顔を浮かべる。
 私が覚えている限り、彼らが真の喪失に至らぬというのであれば、それは私にとって、途方もなく幸福なことであるのだろう。
 しかし。
「……そうであれば、よいですね」
 私は道理を知る。ゆえに、彼の思考の果ての結論がいかに見事であろうと、それが正しき道理から外れた解釈であることだけを知っている。
 死は喪失である。死はただその現象的消失そのものを持って、存在を定義する道理である。
 だから、眼前のちいさな賢者は間違っているのだろう。
 しかし私は、彼の見出した袋小路の解答を、どうしてか否定することは出来なかった。
「ネイティ」
「はい?」
「君は素敵ですね。私も、君に倣わねばならないと感じます」
 彼は自分なりの歩調で思索をし、そしてそれを発露した。それが的を得た回答か否かはともかく、私は彼のその態度に敬服し、また倣うべきだと感じている。
 そんな私の心中など、彼には当然覗き見ることが出来ない。ネイティは、唐突な称賛に度肝を抜かれたのか、足取りをふわつかせ地面に転がり落ちていた。
「何をしているのです」
「いっ、いえ! ああえと、ああ貴方様からそんなお言葉を頂けるとはおも思わず! 勿体ないお言葉でしてッ!」
「ふふ、そんなことはありませんよ」
 彼がこんなに取り乱すところを見るのは初めてだった。いつだってすまし顔の彼がらしくもなく取り乱しているという、極めて貴重なその様子がなんだか愉快で、思わず破顔してしまう。
「よければ、これからも君の言葉を聞かせて下さい。私は、君の話す言葉の全てを、愛おしいと思っていますから」
「は、はい……っ!」
 彼は焚き付けられてやる気になっているのか、そののっぺりとした顔を赤々と紅潮させていた。

聖者の罪、旅人の希望 [#5hucdDe] 



 春は続く。
 生き残った七十弱の生者と、新たに生まれた五十程度の種の為に広げられた森は、いっそうの快適さを彼らに享受させていた。
 生き残った生者のいくらかは、生まれて初めて味わった死白の冬の恐ろしさをありありと感じ取ったのか、或いは蓄え過ぎた養分のやりどころを求めてか、或いはそれ以外の為か、その姿を逞しく変遷させた。
 私はそれを、進化と定義した。
 態変でもなく変身でもなく、進化とした理由はひとつ、姿を変えた生者達にとって、それは己の確立という、生者すべての使命の到達点に向けての進展であるからだ。
 空と共に生きるために翼を生やしたマメパトが、その空の遠くを知るために強靭な翼と体躯とを乞うことも、水と共に揺蕩うことを望んだブイゼルが、より深水への進水を夢見て身体を強くすることも、それは全て己の使命の為の躍進である。
 だが無論、進化のみが使命の為の躍進という訳ではない。進化は一つの術である。身体を進化させずとも、現存する生者のその全てが、生誕の時とは比較できぬほどにその存在を洗練させていた。
「これより貴方達に、生殖の義務とそのための知恵を与えます。貴方達は、生誕と共に授かった自己確立の使命と共に、己の種の繁栄も使命となさい」
 私は生者達のその姿に、頃合いを悟る。目覚めたての森を闊歩し、生者達のひとつひとつに新たな義務の発現を説いて回り、識神アグノムより賜った繁栄のための知恵の種を彼らの脳裏に埋め込んだ。
 この時の為に、生者達は二体一対の生誕をしていた。私は彼らの片割れに雄の概念を与え、もう片方に雌の概念を与えた。
 これは困難な作業であった。
 生命であるより先に世界を回すための機構としての役割を期待され、それ故に永劫長寿の概念を埋め込まれた私やイベルタルにとって、雌雄の概念は理解の彼岸に存在する為である。
 ただ、死白の冬を終え、現存する生者達がみないくらかの喪失を味わったことでか、種の枯渇の恐ろしさと、生存する自身に課せられた責務の大きさを理解しない者が居なかったのは幸いだった。
繁栄に躍起になる種もいれば消極的な種もあり、早速と励む種もいれば溌溂の夏や肥沃の秋まで待つことを選んだ種もいた。選択の多様性を垣間見、私の心中は、先の春に撒いた生者の若苗が多様の方向に伸びつつあるという実感に潤っていた。
「ゼルネアス様」
 曙の緋が雲に滲む、寝覚め前の湖畔にて。
日課の瞑想の最中、私の耳に飛び込んできたのは、春を迎えてその姿を進化させたフラベベだった。私が改めてフラエッテという名前を授けて以来、彼女はしばしば湖畔へと足を運んでいた。
 私は声に覚め、湖畔を歩き出でて彼女の傍へと向かった。この森の中ではやはり見覚えのない、ただ一輪の蒼い花と共に、彼女は波打つ水際に佇んでいる。
「貴方様の言を受け、日の登るほうへと森の際まで往きました。ですが、やはり、この子と同じものはどこにも」
 フラエッテは手に持つ蒼花の弁を優しく撫ぜ、それから目を伏せた。
 彼女の使命は花と共に生きることである。彼女が生誕と共に見惚れ、春から春へと巡る中で常々愛で続けた蒼い花のことを思い続け、ここまで旅路を歩んでいた。
 しかし、蒼花は一輪しか存在せず、彼女は蒼花の同胞を探すために膨張を続ける森の中を放浪し続けていた。それこそ、森の果てまでである。
「森の果てを見たのですか」
 私の問いに、フラエッテは頷き、その円らな双眸に僅かな恐怖を浮かべた。
「はい。森の際より外を見下ろした時、息づくことがとても難しい場所であると本能が告げました」
 森は私の寵愛の届く領域であり、その余波として草原があり、その果てにはまだ寵愛の届かぬ大地と海――先冬、グラードンとカイオーガが拡張したもの――とが広がっている。
 寵愛が届かぬゆえにその大地は荒涼とし、海は波浪に逆巻いている。
 生者が息づくには、余りに苦しみに満ちた環境であるということを、私は道理として解していた。
「不思議な感覚でした。草原の先、広大な大地が広がるはずなのに、その先にはまるで無辺の暗黒が広がり続けているようでした。胸のざわつきが自分を満たし続け、いてもたってもいられなくなりました」
 木蔦を編み上げるように、彼女は慎重極まりない手つきで言葉を並べた。私は頷く。
「それは正しい感情です、フラエッテ。あの場所はまだ私の寵愛の届かない領域です。もし、足を踏み入れたならば、貴方がたの心中には孤立孤独の憔悴と無知ゆえの恐怖が襲うでしょう」
 それは本能の軛である。偶然迷い込んでしまった生者が、私の寵愛の届かぬ地で枯死することのないようにと、創造神が気を利かせて生者達の中へと埋め込んだ道理だった。
「憔悴、恐怖……」
 私の言葉を受け、フラエッテは不思議そうに首を傾げた。
「どうしましたか」
「憔悴、恐怖という諸感情は、自分が冬に感じたものと、同じものでしょうか」
「そうでしょう。生者達は皆、死を忌避するように生まれついています」
「そう、ですか」
 フラエッテはやはり不思議そうに首を傾げた。得心いかぬ、という様子である。
「フラエッテ?」
「……いえ、ええ、やはり違うのです、ゼルネアス様。あの荒涼たる大地を眺めた時、私の感じた胸のざわつきは、恐怖や憔悴とは違うような気がするのです」
 彼女は天啓を得たかのように空を仰いだ。
「この感情は憔悴でなく憧憬で、或いは恐怖でなく渇望でした。その先は無辺の暗黒であるはずなのに、私はどうしてか、その未踏破を美しいものだと感じたのです」
 彼女はなおも空を仰ぎ、遠方の荒涼たる無味の大地に思いを馳せた。東雲に垂れ込める雲が攪拌し、隙間から広がる朝焼けが湖畔を赤く染め上げ、フラエッテの頬を紅潮させていた。
 私は、なぜ彼女がここへ訪れたのかを理解した。それは私にとっては推奨すべきでない事柄で、しかしいくら言葉を紡ごうとも、眼前の彼女が止まることはないだろうとも理解していた。
「行きたいのですか。私の寵愛の届かぬ地へ」
 嘆息を一つ。フラエッテは静かに頷く。
「行きたいのです。この感情は疾走し続け、胸裏の草原を駆け巡っているのです。あの暗黒の先に、あの荒涼たる大地の果てに何があるのかを知りたくてたまらないのです」
 勇み立ち身を震わせるフラエッテに、それは無謀だと水を差すことは正しいだろうか。
 いや、正しいのだろう。なぜなら、そうすれば死は避けられ、そうしなければ死は避けられない。
「……なりません、行けば死にます」
 頑なに首を振る。私は道理として解している。私の寵愛の届かない、未だやせ細った大地にて息づくことは途方もなく困難であり、死なず居るのは至難を極めるだろうと。
「では、貴方様は、死ぬことよりも、使命を果たせず生きることの方がよいというのですか」
 少しだけ咎めるように歪んだフラエッテの双眸。私は視線を逸らした。
「生きていれば、いつか使命を果たす機会は訪れましょう」
「それは何時のことでしょうか。自分の、さして長くもない寿命の間に、確かに訪れることでしょうか」
 逸らした視線の中に、フラエッテは泣きそうな顔で躍り出る。
「生きるとは何ですか、聖者様。花と共に生きることが自分の使命でしょう。であれば、使命を果たせず、ただ忸怩たる思いで無下に季節を過ごすことは、生きることに値するのですか」
 どうか――と目を配せ、彼女は傍らの蒼花を撫でた。
「あの大地のどこかには、この蒼花と同じものが咲く場所があるのでしょう。自分の定めがこの蒼花と共に生きることならば、自分が行き、それを見つけるのは定められた道理でありましょう!」
「……」
 道理を石塁として、正当性の城塞を築こうとしていた私の心に、もう一方の正当性の刃が突き刺さる。
それを己の使命の為だと言われてしまえば、私にはもう何も言えない。私が自己確立を使命として命じたのだ。どうして己の身ひとつで決断を下し、独り立ち歩こうとする彼女を止められよう。
 それがいかに無謀な旅路であろうと、最早、せめてものそよ風をもって彼女の背を押す以外に何も出来はしないのだった。
「どうかゼルネアス様、貴方様の寵愛に背き、暗黒の旅路を征くことをお許しください。そしてどうか、自分の旅路の平穏をお祈りください。ただそれだけ賜れば、それで充分なのです」
 私は首を垂れるフラエッテの姿に、知者ネイティのような特異性を見た。彼が叡智をもって世界の道理を懐疑するならば、フラエッテはその憧憬と渇望を持って到達を希求する。
それは、少なくとも私の中には持ちえぬ特異性で――それ故に私は、彼らを愛おしいとする感情を止められないでいる。
 ゆえに、私は。
「……許しましょう。ただし、一つだけ条件があります」
 しばしの葛藤、その後。
私は拭い去れぬ後悔に二三瞬いて、緩く森の方へと首を傾げた。
「せめて、ともに征くひとを見つけなさい。異種であっても構いません。貴方の好奇の照射を受けて、誰かが貴方のような好奇を手にするかもしれません。どうかその好奇の熱を、皆に伝播させてほしいのです」
 数が多ければ、ただ一人虚しく死んでいく可能性は減る。全てが曖昧な憶測に支配される中、それだけが鮮明に解せることで、とてもよいことだった。
「仰せのままにいたしましょう、ゼルネアス様。夏の終わり、発つ前までに、自分の好奇を説いて回ることをここに誓います」
 そんな私の心中も知らず、フラエッテは粛々と首を垂れた。その言葉の中が安堵の感情に満ちていることを感じ取る。
 私に承諾されたことでの安堵と、孤独の旅路に誰かが加わるかもしれないという期待と安らぎとで、彼女の心は陽が溶け込んだように暖かく輝いていた。
 それは、死出の旅路と知りながら、無謀にも往く旅人の背を押さざるを得なくなった私の心とはまるで逆の陽気である。

 死白の湖中に似た、冷え切った心を抱えながら、私は去ってゆくフラエッテの姿を見送る。


 彼女は生きるための正しい道を歩まず、私は感情のままに言葉を持って彼女の背中を押した。
 さて、それが罪でなくて何になるというのか。
 己の罪状に呆然と立ち尽くしたまま、夜はまだ明けないでいる。


炎影にて去りゆく君へ [#7cOPNXS] 



 忸怩たる感情を灌げぬまま、二度目の夏の溌溂を征く。
 生者の膨張は益々加速し、種数は三百の大台に乗った。繁栄に積極的だった生者達の奮闘により、森に息づく命の数は爆発的な増加を見せている。あれほど奮起して広げた筈の森が、もう既に少しずつ窮屈なものになり始めているのだから恐ろしい。
 私の心内には、常に微弱な恐怖が渦巻いていた。種数が増え、繁殖と共に命の母数が増えていくたびに、ネイティやフラエッテのような特異性を持つものがいつ何時現れるかもしれないと考えるだけで、心が掻き乱され揺さぶられる。私という存在から離れていくことへの愛おしさと恐ろしさは表裏一体で、私は彼らに対してどのように接すべきか考えあぐねていた。
「やれ、君はいつも暗い顔をしているな」
 昼天の湖畔に沈む私の上に、大層眠そうな友人の声が降り注いだ。
「イベルタル」
「久しいな、我が同胞にして世界一のお悩み鹿よ」
 ばしゃん、と湖畔に飛沫が上がり、少し遅れて私はイベルタルが着水したことを理解する。しかし、その行為は何ゆえかを理解できなかった。
「君は……ええ、何をしているのだ」
 水底まで沈み、やがてぷかぷかと浮かび上がってきた彼は、なんともぼやけたような顔立ちをしていた。吹けばこてんと死にそうなほどに、その面持ちの影は薄い。
「ううむ、とても眠い。眠くてたまらん。いやはや、死白の冬とは恐るべし」
「眠っていないのか」
「あんまり。だってあまりに沢山の死者が来るのだもの、我はそれはもうてんやわんやでなあ。仕方がないのでちょっとギラティナ君に助力を頼み、春の終わりにようやく落ち着いたぐらいだ」
「ちょっと?」
「ううん、だいぶだな」
「君はもう……」
 呆れてものも言えないとはこの事である。何故前もって入念な準備を行わなかったのか――と言いたげに睨みつける私の視線を撥ね退け、彼は仰向けになって湖畔に浮揚した。
「お小言ならギラティナ君にもうイヤというほど貰った。よって今の我にはなあんにも響かない。故に無駄だぞ、わが友よ」
 それにだ、と彼は二三瞳を瞬かせる。
「創造神は分業を知らぬが、我輩はギラティナ君に助力という分業を頼んだ。これは即ち、我輩が創造神の道理を凌駕したということではないかね」
なにをいけしゃあしゃあと。私は頭痛を覚え、湖の水面を打ち鳴らしてイベルタルを揺らした。
そんなわけがあるか、というやつである。
「詭弁だ」
「詭弁だよなあ」
 そう解答されることを想定していたのか、イベルタルはくくと食えない笑みを浮かべた。
「しかしまあ、これも多様性と見るべきではないかね。創造神(ちちうえ)は彼一人ですべてをやり、我輩はギラティナ君に泣きつくことで手伝ってもらい成し遂げる。いずれにしても、成し遂げたという結果は同じものだ。だから問題は何もない」
「詭弁だぞ。ギラティナ君が迷惑をこうむるという問題があるじゃないか」
「ははは」
 彼は笑って誤魔化そうとした。その軽薄な態度に、追及は疲労を生むばかりだと悟り、私は深いため息をついて話を区切った。
「時にイベルタル。以前、君は我らの父が不完全性に夢を見てこの世界を作ったという仮論を立てていたね」
「うむ? ああ、そうだったなあ。なんだいゼルネアス、討論なら今の我は滅法弱い、相手には不向きだと思うのだが」
 ふわあ、と大口を開けて欠伸をするイベルタルは、今にも寝ついてしまいそうだった。
「いや、少し考えたことがある。聞いてくれるだけでいいが、相槌はいびき以外がいい」
「注文の多い友だなあ」
 好きにしたまえ、と大口をむにゃつかせる彼を見て、入眠は秒読みだと悟る。
 私は責務の傍らで煮詰めてきた思考の原石を、やや急きつつ口から吐き出した。
「やはり、父のことが分からないのだ。不完全性に夢を見てこの世界を作ったとして、それに一体何の利点があるのだろう」
 不完全なものは、それゆえに全能の父の下位である。例えば幾千、幾億の不完全が集って世界を組み上げたとして、父にとってそれは童の作り上げた稚拙な絵図にしか見えない。有象無象の私達では、到底至ることの出来ない座標に父は存在するのだ。
「ううん、それは我にはわからんなあ。……それで、続きは?」
「ふたりほど、個人的に対話をする生者がいる。片方は知恵を、片方は好奇を持って、きっと私をも凌駕しうる存在なのだろう」
「ほほう、それはそれは」
 父より与えられた道理を根拠として振りかざし、高所より偽りの功徳を説く小狡い聖者は、その実何一つとして世界の意味を知らずいる。
そんな私より、彼らの方がよっぽど麗しいに決まっているのだ。
「で、その生者がどうしたのだ」
「……しかし、自らの意志で模索し、自らの意志で歩もうとする彼らは誤っている。死の意味について模索するネイティの下した結論は、道理より外れたものであり、好奇を持って森の外へ出ようとするフラエッテに待っているのは、孤独と飢餓とひたすらの苦痛なのだ」
 ぐう、とイベルタルは唸った。ついに寝こけたかと思えば、思索の唸りであったようだ。
「私は、彼らがどうしても不憫で仕方ない。それと同時に、私達を含めた全ての存在が父のように完全であれば、過ちを犯すことも、それに不憫を感じることもないと思うのだ」
 イベルタルは渋々と身を起こす。双眸の中の空が、私を見透かすような視線を投げかけた。
「なのだ、と君は言うが、何故そう断言出来る? 君は一度死に、死の結論と意味を見たのか? 或いは森の外に出て、孤独と飢餓と苦痛に喘いだ経験があるのか? 完全な世界であれば過ちは生じないと、どうして断言できるのだ」
「それは……だが、道理としてそうなっているだろう」
 そんな経験はない。だが、道理としてそうであると、私の思考と記憶の源流に刷り込まれている。
「では、道理は正しいものか?」
 彼の語気は妙に強く、何故か苛立っているようにも思える。少しばかり癪が立った。
「正しいから道理なのだろう」
「それが正しいという道理はあるのか?」
「……正しくないという道理は?」
「……」
 どうやら、行きつく先は水掛け論のようだった。
 夏の降り注ぐ灼熱と不毛じみた闘争の相性は最悪で、思考はどうにも茹りつつある。
 そのせいか語気が強くなる。険悪の予感を垣間見た私達は、互いに湖畔の水を掛けあうことで手打ちとし、岸辺の木陰で大人しく夕を待つことにした。






「無論君の言うように、道理は正しさという尺度において尊いものだろう。けれど果たして、正しさだけが正しいものだろうか」
 荒々しく降る夕立の音に紛れ、イベルタルはそう呟く。
「君は道理から外れ、己の思考を持って道を征く彼らのことを愛おしく思い、それ故に、道理から外れた己の道を征くことで生じる破滅を予期して嘆く。それを止められないどころか、道理を外れ征くものを愛してしまう、己の無力さにもまた嘆いている」
「……」
 視線を投げる湖畔は驟雨に穿たれ、水面は茨の這うようにささくれ立っている。
 全くもって、彼の解する通りの感情があった。
 私は彼らを、生者全てを愛している。出来ることならば、誰一人として傷つくことなく、ただ幸福だけを享受して永劫の生を歩んで欲しいと考えていた。
 しかしそうするように導くには、私は力不足が過ぎた。ネイティに死の意味を説くことも出来ず、フラエッテの好奇を抑えるだけの説法も持たない。私には、何一つとして己の理想を叶えるだけの力が存在しないのだ。
 私はやるせなく、降りしきる雨の隙間に視線を溶かす。
「もしも、今ここに居るのが私でなく父――創造神アルセウスで、その腕を持って完全な世界を構築できたなら、私の理想とする世界はここにあっただろう」
「だが、君は父上ではない。我の隣にいるのは、我の片割れにして生命の揺りかごを揺らす者だ」
 私は頷いた。ゼルネアス。それが私の名である。
 その名そのものを証明として、私は父ではなく、また父のようにもなれない不完全な存在だった。
「ゼルネアス。父の背中を追おうとすることを咎められるほど、我は偉くもない。けれど、君のそれはそうなりたいという願望でなく、そうでなければ生者達を救えないという強迫概念ではないか。父の背が呪いとなって君を蝕んでいるようにしか見えない」
「……そんな風に見えているのか」
「見えているとも! 現に君は今日この頃、ずっと暗い顔ばかりし続けているじゃあないか。我にはそれがとても悲しいことにしか思えないよ」
 夕立の降り続く空模様のように、友の空色の双眸に陰りが差していた。その瞳に写っている私の顔は、笑ってしまいそうになるほどに酷く疲弊している。
「君は君でしかなく、君にしかなれない。そしてそれは、君の愛する生者達も同じことだろう」
「生者達にも?」
「君がいくら救おうと躍起になっても、彼らは多分救われようとしない。彼らは彼ら自身の意志を持って、自らの足取りを以って使命へと行進する。例え征く先が奈落であっても、だ」
「奈落だと解しているなら、道を正してあげるべきだろう」
「でもそれは、君には出来ないのだろう? いや、きっと父にしか出来ないことだろうね。君にも、我にも出来ないことだ」
 彼は淡々と言葉を並べた。その他人事じみた様子が、酷く腹立たしい。
「……なら、君は彼らが堕ちていくのを黙って見ていろと言うのか?」
 私は声を低めた。
 遠くの曇天に細い雷光が走り、夕立の中に雷鳴が轟く。
「そうだ」
 騒々しい天地の中で、イベルタルの短い呟きだけが、明確な輪郭を持って冷たく響いた。
「そうなのだよ、ゼルネアス。我らの使命を思い出せ」
 次ぐ言葉は遠雷に紛れるように薄細く、どこか悲哀を感じさせるような語気だった。
「君は誕生を迎えた生者達に名を与え、使命を与え、その揺りかごを揺らす。我は彼らの死出の旅路を舗装し、安寧の繭に包んで永劫の眠りを与える。我々が手を加えていいのは、本来なら生者の始まりと終わりの二点だけなのだ」
 我々はつまり、道中での干渉の権利を持たないということだった。
 生者達が何処へ向かおうとするとしても――例え道の先にあるのが袋小路であり、泥濘の湖沼であり、或いは無辺の暗闇の或る奈落であったとしても――その顛末をただ見つめることしか出来ないのだと、イベルタルはそう言っている。
「死白の冬を乗り越えられず、“あちら側”に来た彼らと、我は話をしたよ」
 彼は私と同じような顔をし、瞳を瞑った。
「彼らは皆口々に、もっと備えておけばよかったと後悔を並べていた。もう一度やり直させてくれたら、次はきっともう少し上手に生きてみせると、揃ってね」
「……そんなことが」
 死白の冬に紛れた七十余の種のことは、鮮明に思い出せた。どれも皆、生きることに対して真摯に向き合っていて、それ故に己の不足ゆえの顛末に嘆き、苦しむのだろう。
「だけど、それは出来ぬ相談だ。我にはそんな力はない。父とは違い、不完全故にだ」
 イベルタルの横顔には無力さが浮かんでいた。私達は互いに片割れで、彼もまた、苦しんだのだろう。
 死した者たちの嘆きを受け、己にもう少しだけ自由にできるほどの力があれば――と、私の知らぬ何処かで煩悶を浮かべていたのだろう。
「君が苦しむように、我も苦しんだ。ただ見守ることしか出来ない我が、どうしてこの役目を担わされたのかと」
「私と全く似ているな」
「似ているとも。元来我と君は、薄皮一枚の違いしかないのだから」
 互いに顔を見合わせる。
 眼に映る互いの疲弊の具合に私は力なく笑い、彼は振り絞るように嗤った。
「だから我は、全てを諦観しようと決めた。彼らの過ちも、嘆きも、正すほどの力は我には無い。だからもう、どうしようもないのだと。繭に包まれ、最後まで悲嘆に暮れながら眠りゆく彼らの姿を、嘆きと過ちに満ちた愚かなだけのものとして受け入れようと決めたのだ。受け入れ、傍観し、ただ何もしないことが我の役目の真実であると」
「イベルタル……」
 砂を噛むような寂寥と、己の裁量への歯噛みと、死者への愛ゆえの絶望と。逆巻くいくらかの感情の泥濁が、綯い交ぜになってイベルタルの喉奥から溢れ出した。
「……だが、せめて。これはきっと道理から外れていると解していても、正しさだけが正しいとされる世界だけは否定したいのだ」
 イベルタルは苦悶を浮かべ、喉奥に詰まっていた泥塊を吐き出そうと呻きを上げる。
 それは私が初めて見る、私の片割れが感情熱に浮かされる姿だった。
「だってそうだろう。正しさだけが善いとされるなら、死したる彼らは――過ちを犯し我のふもとへ辿り着いた彼らは、まるで救われないじゃないか」
 彼は平静を取り戻そうと呼気を漏らす。喉から鳴る悲痛な鳥啼が梢を揺らした。
 夕立はいつしか止んでいた。雲間からは憤怒に燃えるような緋の光が沁み出し、緑に濁る湖の中へと溶け消えていく。
 暫くは静寂だけがあった。冷え切った身体と、感情の昂騰とに打ち震える大鳥に、私は紡ぐ言葉もなくただ寄り添っていた。
 彼は死者たちの嘆きを知った。そうして死の訪れが、生者のうちの過ちによるものだと理解した。
 しかしイベルタルに、過ちを正すだけの力はない。彼が出来ることは、せめてもの死後の安寧を祈るだけなのだ。だからこそ、正しさから外れて自分の元へと辿り着いた彼らを慰めようと、正しさだけが正しいことではないと己に言い聞かせてきたのだろう。
 そうしなければ、過ちにて死した彼らは、何一つ救われないのだから。
「ゼルネアス、私達は無力だ。生と死を解そうなどとほざいておきながら、私達には何も分からない。何一つ、彼らの役には立てなどしない」
 彼は身を震わせ、その双眸から涙を流す。
 彼は苦しんでいた。それは私にとって驚くべきことで、それはとても悲しいことだった。
「ああ、苦しい、苦しい。何故我々は感情を持つのだろう。何も感じることのない、言葉通りの機構として世界の歯車となれたのなら、きっとここまで苦しい思いをすることはなかっただろうに――」
 ――感情など、持たねばよかったな。
 彼はそう付け加えたのを最後に、口を閉ざした。
「イベルタル……」
 その横顔の悲痛が、私の胸裏を波打たせる。彼に掛けられるべき言葉を、私は見失っていた。
 だが、黙するわけにもいかない。黙すればそれは肯定となるが、私は彼の言をそうとは思わないからだ。
「……父は、乗り越えられぬ試練を与えない。私達が感情を持ち生きるのは、ただの機構に成り得なかったのは、何か理由があってのことだと思うのだ」
 疲弊した空色の眼差しだけが、こちらへと向けられる。
「君は昔、感情への極度の傾倒は毒であると言ったね。でも現に、私達は感情に浮かされ、愛の為に迷い路の茨の上を歩かされている。全てが父の采配の通りだとするならば、私達が苦しむ事さえも父には織り込み済みなのだろう」
 かつて天上にて目通りをした、偉大なる父の遠き背中。最早記憶より薄れ消えつつあるその姿が、とても立派なものであったことだけは鮮明に思い出せる。
「君は正しさだけが正しいものではない、と言った。私はその言葉をとても興味深いと思う。私達は感情を持つために、父のような正しい存在とはかけ離れた、いわば不完全な存在であるのだから」
 かつてグラードンに問われたこと――世界を何故不完全な我々に委ねたのか――という問いに対して、今なら一つの解が導き出せるような気がした。私は熱に浮かされたように言葉を続ける。
「イベルタル。君はかつて、父は不完全性に夢を見ていると言ったね。あれは正しいのではないかと私は思う。もう少し細密に言うならば、父はきっと、感情の熱に動かされて采配を鈍らせる私達のことも、そうして展開されていく不安定な世界のことにも、夢を見ているのだろう」
 だから、と私は接いだ。
「感情を持つことがいかに苦しくとも、私はそれを捨てるわけにはいかない。父は世界を不完全な私に委ねた。父が不完全な私を望む限り、私は感情を――そこから伸びる、私という人格を肯定しなくてはならない」
 私は明確な決意を持って、喉奥から言葉を吐き出した。
 イベルタルは口を閉ざしたまま、まくしたてるような私の言葉に耳を傾けていたが、やがて小さく口を開いた。
「我は、君のようにはなれないな」
 凪に落とされた雫のように、その言葉はか細くも際立つものだった。
 それは思想の訣別である。私の中にあるものに意味を見出そうと暗闇を歩く決意をした私と、暗闇を恐れその場に羽ばたき続ける決断をした彼。片割れとして生まれて初めて、明確に道が分かたれた瞬間であった。
「我は、誰にも苦しい思いをしてほしくない。無論君にもだ。……それは間違った考えか?」
「間違ってはいない。けれど、苦痛の茨の中に咲く花もあるだろうということだ。君は茨を恐れて花を見ず、私は花を夢見て無謀にも茨の中に足を踏み入れる。それが苦しさを生む結果になろうとも、私はそうしたいと思ったから、そうするのだ」
 イベルタルは酷く悲しそうな顔を浮かべ、流れてゆく私の言葉を遠方へと見送った。
「……ゼルネアス。歩んでいく君が、幸せになることを祈っているよ」

 最早距離は分かたれていた。
 そうして去ってゆく赤黒い鳥影は、静かに、燃えるような夕空の中に消えてゆく。
 



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Last-modified: 2019-12-15 (日) 01:25:43
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