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生者の行進 下

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writer:赤猫もよよ


邁進する生者達 Ⅱ 


 邂逅と別離、そして生誕の夜が明け、生者たちは一様に私の住む湖畔へと集っていた。
 即ち、裁定の時である。
 一晩の時を経て、生者達の感情は上下の方向に伸びているようであった。
 時を経たことで昂っていた感情を鎮静させていたものもいれば、当初は困惑の為に大人しくあったが、時を経たがために状況を解し、その心を火照らせる者もいた。いずれにせよ、生者達はみな私の裁きを待っている。
「聖者様、どうか貴方のお言葉をお聞かせ下さい」
 代表者のルカリオが前に出で、私の眼前に跪いた。皮切りに、生者達の視線が私に集う。口より零れ出る裁定が如何様な物か、皆が固唾を呑んで見守っていた。
 心臓が早鐘を打つ。いま私は一歩を踏み出そうとしていて、しかしその先は奈落であるかもしれない。かつて聞いたように、行く先を奈落だと知らぬまま行進していく生者達と、何一つ変わらないのかもしれない。
 それでも、もはや聖者には戻れない。私は、生者として行くと決めたのだから。
 
「竜を、裁くことは出来ません」
「生きようとした者を責めることを、私は善いと致しません」

 音の根に遅れ、世界の時が止まったように、沈黙が広く拡散する。
 静まり返った森の中に、梢の揺れる音だけが響き、永劫にも思えるほどの時間が経過する。
「……竜の行いは、罪ではないと仰るのですか」
 ルカリオの、か細く震える声が沈黙を破った。
 他の生者達は、ルカリオのその言葉に漸く状況を解したらしい。ざわめきが一つ生まれ、起点より方々に伝播してゆく。その言葉の殆どは、私が下した裁定に対する困惑と非理解、或いは論議であった。
「竜と言えど、彼は生者です。生者が生きようとして起こした行動を、どうして責められましょう」
「生きようとするならば、他者を傷付けることは許されるというのですか?」
「それが、生きようとする故の行動であるならば」
「それが聖者のお言葉ですか。皆を導き、十全にして完全たる貴方様が、他者を傷付ける行為を許容するというのですか!」
 次第に勢いを強めるルカリオの言葉に、私は静かに首を振った。
「違います。私はもう聖者ではない。その冠は父に還しました。ここに立ち、言葉を話すのは、貴方と同じ一人の生者でしかない」
「そのお言葉は、聖者として発せられるものではないと?」
「はい。私の自由意思に依るところの言葉です。だから貴方達は、私の言葉に頷くも良く、否定しても良い。私の言葉の是非は、貴方達自身で自由に決めなさい」
 自由。その言葉は、生者達にとって困難な響きを伴っているようだった。
 今までの彼らは皆、一様に使命という枠組みの中での行動を強いられていた。聖者の揺らす揺り籠の中で育まれる幼年期は、安寧と平穏に満ちた安らかな世界であり、とても居心地のよいものであったに違いない。
「貴方達はもう、十分に育った。自己を確立し、番を成し、子をはぐくみ、自分というものを十分に解している。己の足で立って進む時節が間もなく訪れようとしている。己の意志で選択し、生きるといい」
「ならば、貴方が与えた使命はどうなるというのですか! 自分達は聖者としての貴方を信じて使命に邁進し、まだ道半ばなのです! 貴方の説いた使命はどうなるのですか! 貴方の口で生きるべき道を、使命を説いておきながら自由に生きろだのと、そんな勝手な話はないでしょう!」
 ルカリオは大地を踏み鳴らし、吠えた。彼の眼には、聖者への大いなる失望が浮かんでいる。
「使命を成すも成さないも自由、ということです。今まで私は、貴方達生者が使命を成すことだけを正しいとしてきました。貴方達は使命の為に生まれ、使命を成して死んでいくものだと」
 しかし、と言葉を接ぐ。
「私は、自分の意志で生きて行こうとする生者を見ました。翼を駆り空の果てを望んだもの、友花を探し遠くへ旅立とうとするもの、そして自らの意志を持って思想を深めようとするもの。その全てに、高潔さと愛おしさを垣間見ました」
「だが、彼らとて聖者様に使命を説かれたからこそ行動したのでしょう!」
「確かに始まりはそうです。しかし彼らは私の手を離れ、自分の意志で与えられた使命の達成を願い、行進した。生者の命は、自らの意志が介入することによって美しく輝くと知ったのです」
 空を征く旅人の鳥影が、脳裏に過り出る。彼らのように、自分の意志で行こうとする者への愛が、私の感情の全てだった。
「……っ、自らの意志があれば、よいのですね」
 絞り出すような声を放ち、苦々しい顔で私を見据えるルカリオは、両の拳を固く握り締めた。
「自分は、貴方様の考えに賛同することは出来ません」
 ルカリオは拳をはじけ飛びそうなほどに強く握り締め、歯を食いしばった。彼なりの葛藤が、内側で逆巻いているようであった。
 しかしそれも、僅かな時間の事であった。意は決まったというように私を鋭く睨みつけると、手甲の鋼棘を鋭敏化させ、私の首元に突き付けた。
「貴方はもはや聖者ではない。であるなら、自分の意志である怒りの為に対立する貴方を傷付け、そこの竜を許せぬと殺すことも、自由であるのでしょう」
 鋼の切っ先を宛がわれ、私の喉元より血が滴り落ちる。私はこの時初めて、痛みというものを理解した。
 それは灼けるように冷たく、酷く悍ましいものだった。命として忌避すべき感覚であり、しかし私はこれを許容しなくてはならない。私は自分の意志を持って、結果的にこのような痛みを生者に与えるのを善しとするのだから。
 私はルカリオの瞳を見た。この地に生まれついた時から常に真摯で、常に凛々として真っ直ぐであった青年の瞳は、深い怒りと迷い、そして只ならぬ恐怖の色に染まり切っている。
 彼だけではない。今この地に集う生者達はみな、一様に怯え切っていた。皆が皆、自由という名の暗闇の荒野に怯え、どこにも足を踏み出せないでいるのだ。さながら、揺りかごを取り上げられた赤子が、狂乱に顔を歪めるように。
「このまま行けば、自分は自由を盾に、そして正義を刃にして貴方様の首を撥ね落とすでしょう。どうか、お言葉を翻して頂きたい。お前達はただ、与えられた使命のままに邁進すればよいのだと言って下さい!」
 突き付けられる鋼は小刻みに震えている。ルカリオは警告のように懇願をした。
「自由など、自分達の手には余るものです……!」
「ルカリオ」
 私は首を前に傾け、ルカリオに寄った。刃の先が私の喉元を浅く穿ち込み、赤黒い血が一層滴り落ちるようになる。
「本来ならば、私は生きるために精一杯の抵抗をするでしょう。しかし私は、貴方達を自由の荒野に放り出してしまう負い目がある。お前が生きるために刃を振るうならば、喜んでこの首を差し出しましょう」
 ただし、と接ぐ。
「今一度だけ、お前の心内に問います。お前にとって、善く生きるとはどのような事ですか。対立する私の命を奪うことも自由でしょう。許せぬと刃を振るうことも自由であるでしょう。ですが、本当にそれがお前にとって、善く生きるということなのですか」
「……っ、自分はっ」
「お前はフラエッテや、旅征く翼持つ者達を覚えていますか。彼らは皆清々しさを心に抱いていた。自由の地表へ羽ばたいてゆく姿には、確かな希望の感情を浮かべていた。……お前は、自由のもとに私を殺して、そのような顔が出来ますか」
 自由とは解放ではなく、不定形の使命に束縛されるものであると、創造神はそう言った。私は父ではなく、それ故にその意を十分に解することは出来ないが、ただ一つだけ確信したことがある。
 私達が何故感情を持ち合わせて生まれたのか。それはきっと、不定形の使命感に輪郭を与えるものが感情であるからだ。
 自由の荒野に立たされ、何でも出来る状態の私達は、何かを成さねばならないという不定形の使命感に束縛されていく。その何かを見出すためのきっかけとなるのが、感情という生まれついたものなのだろう。
 花を愛おしいと思うものがいた。空の果てを知りたいと思うものが居た。その為に、彼らは旅立っていった。感情に突き動かされて邁進していくのが、生者達の善い姿で、私はその姿を愛していたのだ。
「ルカリオ。お前の怒りも感情です。けれど、お前が怒りのままに刃を振り下ろすなら、今後一生怒りを背負って生きていくことになる。その覚悟がお前にあるのなら、私を怒りのままに殺しなさい」
 言葉を終え、森に暫しの静寂が木霊する。
 凍てつく空気の中で、私とルカリオだけが向かい合っていた。
「……そんなこと、出来るわけがないでしょう」
 沈黙が長く続き、それからルカリオは力なく刃を下ろす。
「自分は、生まれて初めて貴方様に説かれた、正義という言葉に胸が高鳴ったのを覚えています。正義のために生きようと思ったのです」
 力なく、ルカリオはその場に崩れ落ちる。
「この原初の感情を、自分の自分たる根拠となる感情を――怒りが、超越していい筈がない!」
 今だ震える拳が大地に叩き込まれ、涙雫が土に吸い込まれてゆく。
「では、お前の正義とはなんですか」
 私は身体を屈ませ、崩れ落ちるルカリオに添った。
「他者を助けることです。弱きがあれば手を差し伸べ、強きがあれば理解し、みなとともに生きてゆくことです。貴方様の言うように、生きるために誰かを傷付けることは、自分の思想に相反するものなのです」
 一つ一つ、心の内から絞り出すようにして言葉の糸を編んでいくルカリオの姿に、私は静かに笑んだ。
「であれば、そのようにしましょう。私が私の思想を持って生きて行くように、お前もお前の信じる正義のために生きて行くといい。私もお前と同じ生者であるのだから、違うことに遠慮はいりませんよ」
「……自分は、本当は、貴方の背を追っていたかった。貴方の歩く道を、一緒に辿っていきたかった」
 ルカリオが怯懦する、その気持ちは痛いほど理解できるものだった。私とて父に課せられた使命のままに、聖者として歩き続けて居られればどんなに安らげたことだろう。
 だが、しかし。
 世界は常に有限である。永劫にも思える絆さえも、或いは誰かに抱く愛さえも、いつか来たる別離を抱えて歩くものだ。
「子はいつか親と離れねばなりません。子は親ではないのです。だから、歩く道はいずれ離れてゆかねばならず、親は子が自分の足で歩いてゆけるよう促してやらねばならない」
 私は体を起こし、聖者の仮面を外す。顔を上げ、取り囲む多種多様の生者達に告げる。
「生者達よ。どうか、お前たちの思うように邁進なさい。どうあろうとも、自らの善いとする感情に突き動かされてゆくお前達を、私は愛しています」


「世界に多様でありなさい。生きるべくして生まれた、遍くこの地の生者たちよ」





夜明け過ぎの暗黒を征く Ⅱ 



 斯くして、私の聖者としての役目も、裁定の場も終わりが訪れる。
 生者達は口々に困惑を、或いは決意を並べながら、彼らの行きたい場所へと去ってゆく。一人二人と去り、やがて群衆は消え失せ、後ろ髪を引かれるようにしながらも、ルカリオも去ってゆく。
 場に残されたのは私とモノズ、そしてもう一人の姿だけであった。
「聖者……いえ、ゼルネアス様」
 私を呼び止めるその姿には、見覚えがあった。昨日、ネイティオの亡骸を目の前にして泣き崩れていた桃色の生者、タブンネだ。昨日の錯乱よりいくらか落ち着いてはいるが、表情は未だ不安定に歪んでいる。
「わたしは、今でもあなたの決断が信じられません。でもそれは、わたしがまだあなたを聖者として見ているからなのでしょう。何故なら、わたしの憧れは貴方という聖者の姿で、そうなりたいと思って今まで生きてきたのです」
 彼女は私の姿を焼き付けるように強く見つめ、それから目を背けた。
「けれどそれは難しいことだった。何故なら、わたしはとても弱いのです。あなたのように凛々しく生きてゆくことは出来ない。ルカリオくんのように頑なな正義も、フラエッテちゃんのように眩ゆい勇気も持ち合わせない。不器用の癖に理想だけは美しい、こんなわたしが、なにかを成せるとは思えないのです」
「……」
 私は押し黙り、続きを促した。彼女は堰が外れたのか、まくしたてるように言葉を並べる。
「わたしは怖いのです。誰かに傷付けられて、満足いく結果を出せないまま死んでしまうことが。或いは、わたしの行こうとする道がそもそも正しいものではなくて、いつの間にか奈落の底に転がり落ちているのではないかと思うだけで、足がすくんで進めなくなるのです」
 それは弱者の理論であり、聞き覚えのある言説でもあった。かつて片割れであるイベルタルが苦悶のままに語った、私達の手では救うことさえままならないような生者達の在り方であり、イベルタルの苦しみの種でもある。
「貴方様は、世界に多様を望まれた。そのために、生きようとする存在のすべてを肯定するのでしょう。しかし、弱く愚かで過ちを犯す、わたしのような矮小を……癒し手を名乗っておきながら、ネイティオさんの命を救えなかったようなわたしさえも、肯定されるというのですか」
 ネイティオの死は、世界にとって多くの動揺をもたらした。
 それは生者が他の生者によって襲われ、死んでしまう脆弱な存在であるということを世界に知らしめただけではない。自身が他人を襲うことが可能であるという気付き、或いはいつ隣の生者が自分を襲うか分からないという疑心の精神でもある。
 それとまるで同じように、ネイティオの死はタブンネに激烈な無力感を植え付けたのだ。癒しを使命としておきながら、命を救うことは出来ず、理想は掬えぬままに両の掌から零れ落ちていくことが、タブンネの中に深い傷として刻み込まれてしまった。
「私の愛は生きるものに抱かれます。そこに生き方の強弱はありません。お前が生きてゆくならば、私はそれを肯定しよう」
「……しかし、わたしの生き方は肯定されるほど美しいものではない。どうしようもなく救いがたいものです。死した後、永遠に生を悔やみ続けるような、不足に満ちたものであるでしょう」
 眼前の、早すぎるような絶望に沈むタブンネの姿は、やはりイベルタルの言にあったような死後の生者達によく似ていた。
 それは、最初の死白の冬の前に敗れ去った七十余の種族の事だった。
 イベルタルの言葉によれば、彼らは一様に、もう一度生があれば上手く生きていけるのにと、自らの辿ってきた生を悔やむような言い草を見せていたという。タブンネは、いずれ自分がそのように生を悔いる姿に変わり果ててしまうことを恐れているのだ。
「聖者のように凛々しくもなれず、誰を癒すことも出来ない。何一つ成せはしなかったわたしは、どのようにして生きて行けばよいのでしょうか。邁進せよと貴方は言うが、どこへ行けばいいのですか。行く先が奈落でない道のりも、分からないというのに」
 タブンネは、聖者に与えられた使命を成すことが出来なかった。故に彼女は、与えられた使命とは違う道を歩かねばならないと考えているのだろう。使命のままに邁進したところで行く先は後悔の奈落でしかないと、彼女は本能的に理解している。
「それは、私にも分からない事です。どこへ行けばいいか、私にも分からないのです。生者としてある今、私もお前と同じような暗闇の中に立たされています」
 さりとて、私が彼女に道を示すことは出来ない。私はもう聖者ではなく、タブンネと同じように暗闇を歩かねばならない生者の身なのだから。せいぜいが、どこを目指して歩こうかと共に悩むぐらいであるだろう。
「それでも歩かなければならない。私達は生きているのです。何処へ向かうべきか分からずとも、生者である限りは歩くのです。立ち止まり、蹲って泣き続けるのは、歩き疲れた後でも出来ることでしょう」
 タブンネに説き伏せるような言葉は、その実私の胸の内に言い聞かせるようなものでもあった。行く先が正しいか否かさえ分からないまま、夜明け過ぎの暗黒を征くことは恐ろしいのだ。
「この胸を満たす恐ろしさは、どうにもならぬことですか」
「どうにもならぬことです」
「それでも行かねばならないのですか」
「それでも、行かねばならないのです」
 理不尽だということは承知していた。それでも、私は私の見出したことを曲げるわけにはいかない。
 頑なともいえる態度に、タブンネは瞳の内に一縷浮かべていた僅かな希望を塗り潰した。彼女の顔に浮かぶのは、寄る辺を無くした雛鳥のような、深くほの暗い絶望の色である。
「わたしは、貴方のように強くはなれません。誰かに導いてもらわないといけなかった。……私達に恐ろしい自由を宛がった貴方は、とても残酷なひとです」
「タブンネ、貴方は――」
「さようなら、ゼルネアス様。貴方が善い道を歩かれますように。為せぬ弱き身からですが、お祈りしております」
 タブンネは私の瞳を見詰めることなく、冷たく言い放ち、足早に踵を返してゆく。
 タブンネは手を差し伸べて欲しかったのだろう。故に、見失った道を示してくれる誰かを探し、そしてその役割を私が担うべきだとした。それは彼女にとって私が聖者であるからだろうし、皆を自由という暗闇の中に歩かせるきっかけとなったのが私の言葉であるからだ。安らかな揺りかごをひっくり返し、無理やり歩かせようとする私を責める意志もあったのかもしれない。
 私が聖者の役割を下りたことで、世界の形は変わってしまった。聖者という規範なく、どこへなりと自由に歩いて行ける世界とは、人によってはどうしようもないほどの絶望に満ちている。
 誰かに導いてもらえなくては歩けないような弱き者達を、私はどのようにすべきだったのだろう。眩き決断の端にある、どうしようもなく黒々しい影を、どうすれば救えていたのだろうか。
 私は、決断を間違えたとは思わない。決断の為に傷つく誰かを案じて、決断を撤回するようなことは出来ない。
 それでも、タブンネや死して人生を悔いる生者達のような弱き者達に対して、何か手を差し伸べる術はあるのではないかと思わずにはいられないのだ。
「ゼルネアスさん、だいじょうぶですか」
 足元より、案じるようなか細い声が聞こえる。それはモノズの声だった。盲目ながらに、私とタブンネのやり取りに思うところがあったのだろうか。
「私は大丈夫ですよ、モノズ。彼女の怒りと失望は当然のことです。私はあの子を裏切ってしまったのですから」
「でも、あなたの決断で、ぼくの命は救われたのです。だから、ぼくはとても貴方に感謝していますよ」
「……ええ、ありがとう」
 私は父ではない。ゆえに全てを救うことは出来ない。
 だから、決断の輝かしさに隠れて泥を被るもの達を、仕方ないと断じて逃げることも出来る。
 だが、私は全ての生きる者を愛すると決めたのだ。強く使命に邁進しようとする者もそうでない者も、そう在れない者も、全て。
 自由という名の暗闇の荒野に、恐れながらも足を踏み入れて行く者、或いはそれすらも恐ろしく身を竦ませる者。その全てを愛するために、私は彼らに何をしてあげられるだろう。
 全てを救えないのに、全てを愛するなど、果たして私に出来るだろうか。
 
 空を仰ぐ。林冠より染み出る清々しい青空に、私はかつて見送った旅人たちの事を思い出す。
 私が自由を以って生者の背中を押すより先に、彼らは自らの足で自由の荒野へと旅立っていったのだ。
「……あの子達は」
 元気でいるだろうか。それとも、もう居ないのだろうか。飛び立った自由の果てに、彼らは何を見たのだろう。
 尋ねてみたい、と思った。
 一足先に自由を知った彼らに聞けば、私が暗闇の荒野を行く生者達になにをしてあげられるかが分かるかもしれない。彼らのすべてを愛するために、私はどのようにして生きてゆけばよいのか、見出せるかもしれない。
 それは希望で、使命であることを望んでいた。
 私という生者が命を懸けて為すべき、遠く尊き行進路であると信じたかったのだ。





炎影より進みゆく君へ 



 春の最中の麗らかな日、私は湖畔を出でて遠方へと旅立った。
 生者たちは皆自分のことで手いっぱいの様子で、声を掛けるのは躊躇われた。ゆえにかつての旅人たちと違い、私の出立を知るものは誰もいない。それは少し物寂しくもあったが、言葉のすべてが生者に捉えられる生活を送ってきた身としては、静かな方が気楽でいいというのが本音だった。
「歩けども歩けども草の匂い。本当に広いんですねえ、世界って」
 私の旅を知るものは誰もいない、と言ったが、それは少しばかり語弊があった。厳密に言えば、今森に住む生者達は誰一人として私の現状を知らないのであり、旅に同行する唯一の生者だけが、私がここに居ることを知っているのだ。
「……モノズ、本当に良かったのですか」
「ん、なにがですか?」
「何がって……ですから、私についてきたことです」
 人知れず行こうと決めていた私を目ざとく見つけ、足に文字通り絡みつくことで頑なな同行の意志を示したのがモノズである。私としても彼を同行させるのは不本意であったのだが、彼は生まれたての癖にイヤに弁舌が回る。
「ですから、言ったじゃありませんか。ぼくは生者としては貴方の先輩なんですから、心配はご無用だと」
「……詭弁ですよ、それ。確かに私が生者になったのは、お前が生まれたあとの出来事によってですけども」
 まだ身体が未成熟である、という理由を盾に同行を断ろうとした私に、モノズは屁理屈を並べ立てた。曰く、貴方が聖者の役目を下りて唯の生者と成ったのは自分が生まれた以降の事であり、つまるところぼくの方が早く生者になったのだから、ぼくが貴方に心配される謂れはない、のであるらしい。
 その発言の是非はいずれ問うべきとして、確かにモノズを一人森の中に置いてゆくのは心苦しいというのが事実ではあった。モノズが大層恨まれているだろう、という事もあったし、いずれ巻き起こるだろう生存のための競争において、幼子であるモノズが打ち勝てるような気はしない。見捨ててゆけば死んでしまうだろう彼を、おいてゆくなど出来なかったのだ。
「まあ、そんなことはよいではありませんか。それよりほら、草原の匂いに目を凝らしましょう」
 清涼な風が一陣吹き抜けて、均整に生え揃った濃緑の草原を撫でてゆく。緩くなびく草葉の囁くような声音が、気分をいっそう爽やかに冴えわたらせてゆくようで心地がいい。草原は遥か遠方まで続き、どこまでも駆けてゆけそうに広がっている。
 森の外の世界は雄大だった。緩く流れて行く白雲は陽光を受けて真白に輝き、山峰から下る大河が大地に潤いを注いでいる。終わりの見えない草原にふたり佇むことに寂しさを抱く日もあれど、しかし雄大な大地の雄大さに胸を高鳴らせる日の方が多い。かつて私は聖者としてその恐ろしさを見るばかり、大地そのものの美しさを見失っていたのかもしれない。
「ゼルネアス様、遅いです。ほらはやく、はやく」
 なだらかな丘陵を上る私を、モノズは急かすようにして上の方から囃し立てた。
「先に行っていても構いませんよ、モノズ。私はこれ以上早く歩けません」
「そういうことなら! てっぺんでお待ちしています!」
 脱兎のように駆けてゆく、元気に満ち溢れた若人の背を見送り、私は熱の籠った息を吐いた。
 森の外へ出てからというもの、どうにも体が重い。それは私が元々森を見守る者として生まれたが故か、或いは聖者という機構としての役割を返納したがために、寿命が生者相応にまで落ち込んでしまったのかもしれなかった。
 いずれ来る命の終わりというものが、少しずつ輪郭を帯びて私に迫ろうとしている。それは憔悴となって私の足を悪戯に早めようとする。旅人たちを求めて森を出たというのに、使命を果たすことが叶わないまま命が潰えてしまうかもしれないと考えただけで、心臓の音が嫌な波打ち方をする。
 私は振り返り、最早遠くなってしまった森を見据える。森に残った生者達は、果たして元気でいるだろうか。彼らはきっと、私がここに居ることも、いつか居なくなることも知らないで生きてゆくのだろう。それはほんの少しばかり、寂しいことだった。
 胸に郷愁を抱きながら足を進め、私はようやく丘陵の頂へと辿り着いた。暇に暇を重ねたらしいモノズが、草原に寝転がってすやすやと寝息を立てている。私はその傍に添い、腰を下ろした。
 今まで歩いてきた草原は、私の森の膨張の余波ともいえるものである。森程の糧を生まずとも、草の根を食むことである程度の飢えは満たせ、大河より分岐して流れる小川のせせらぎは渇きを満たしてくれる。少しの命であるならば、生きてゆくことは可能であるだろうし、現に私とモノズは生きてゆくことが出来た。
 しかし、聖者としての経験故に、私は草原がいずれ果てると知っていた。丘陵より見下ろす先にあるのは疎らに広がる草原と荒野の入り混じった地帯で、それは草原の広がりが終わりゆくことの紛れもない示唆であった。視線の先にある山岳を超えれば、もう緑を眺めることは叶わなくなるだろう。
 旅路は一層苛酷になる。衰えてゆく私の足取りは、果たしてどこまで行けるのだろうか。その疑問に答えてくれる人はおらず、私は旅人達との再会を願って歩き続けるしかない。それが叶わぬ願いであるかもしれないというのに、行くしかないのだ。
「……ん、ゼルネアス、さま?」
「起きましたか、モノズ」
「はい。すみません、お日様が温かくてつい……」
 モノズは体を起こそうとして、足を縺れさせたのかまた転ぶ。大口を開けての欠伸は、なんとも暢気なものだ。
「ゼルネアス様も、少し休まれてはいかがですか。なんだかひどく疲れた顔をしていらっしゃる」
「……ええ、そうしましょうか」
 考えれば考えるほど、不安ばかりが胸の内に渦巻いていくようだ。凝り固まった思考の結晶が頭に伸し掛かり、酷く重苦しい。
 私は身体をその場に横たえ、瞼を閉じた。聖者の頃は思考の整理の為にしか行われていなかった睡眠行為が、今では必須であるということが少しばかりもどかしい。
 自分で思うよりも疲弊していたようだ。瞼を閉じるや否や、体は鉛のように重くなり、微睡の泥濘へと沈んでゆく。
 
 




 夢を見た。
 今はもう遠くなってしまった森の中で、私は聖者として多くの生者に囲まれている。
 それは世界がまだ生まれたての頃で、争いもなければ痛みもない、すべてが安寧に満ちた時代の事だった。懸念と言えるものは何一つなく、私はただ聖者として皆を導き続けていた。
 しかし、それも私が去ることで終わりを告げられる。
 私が去った後、安寧に満ちていた筈の森の中には争いの火種が広がった。森に秩序を正す者はなく、強者が弱者を一方的に蹂躙する、痛みと苦痛に満ちた世界が広がっている。
 強者は弱者を本能のままに支配し、弱者は強者を呪い、憎悪する。全ての命が全てに刃を向け、また向けられるような世界だ。
 そうして物言わぬ屍となった者達が、一様に私に叫ぶのだ。なぜこんな世界を許した、なぜこんな世界をもたらした――と。
 骸の憎悪の手が無数に伸びて、私の柔肌を引き裂こうとする。私は抵抗も叶わず、無惨に身体は引きちぎられる。焼けるような痛みと、赤に染まっていく視界の中で、森に満ちるのが怨嗟と苦悶の声でしかないことを知り、しかしもう何もできない。
 ――何故ならば、私は森を見捨てて、独りよがりの旅路を選んだのだから。






 目が覚めれば、丘陵には夕焼けが広がっていた。曇天によって覆い隠された空に星はなく、ただ只管の暗黒が支配する。
「……私は」
 心臓が張り裂けそうなほどに脈を打ち、呼吸の度に鈍い痛みが身体を駆け巡る。全身が嫌な汗にまみれ、悪寒に身を震わせた。
 夢のことは鮮明に思い出せた。それが私の中に潜む罪悪によって映し出された、現実ではない虚像であることも理解している。怯えていたのは、それがあり得ると自分の中で自覚しているからだろう。
 私は自嘲する。聖者を捨てる道を選んだのも、旅路を征こうとするのも、すべては自分の意志と感情が選んだ事だというのに、未だに後悔や不安の念を捨てきれずにいるらしい。
 幾ら悔いたところで、過去を取り戻すことは出来ないというのに。
「あ、起きた。だいじょうぶですか。なんだかとってもお辛そうでした」
「……モノズ」
 悔いるような暇があるなら、前に進めと言う話である。私は不安げに添うモノズに気丈な顔を見せて、立ち上がる。
「ええ。私は、大丈夫ですよ」
 大丈夫だ。大丈夫であらねばならない。立って進み、旅人たちに出会うまでは、歩き続けねばならない。立ち止まって足を折れば、後から追いかけてくる後悔と不安とが、私の身体を絡め取ってしまうだろうから。
「行きましょう、モノズ。日が暮れきる前に、少しでも先へ」
 丘陵の下は既に黒々しい。炎影が唸るような夕陽が沈んでゆき、いずれは遠方を見通すことすら叶わない夜が来る。
 それでも、進まねばならないのだ。
 生きているのだから。




ビューティフル・グライダー Ⅱ 



 やがて春が終わり、夏が来て、半ばに佇む時節。
 少しずつ荒涼に染まってゆく大地は、歩むには辛いものがある。植生は少しずつか細いものになり、吹き抜ける風も砂埃に淀んだものである。太陽の光は強く照り、大地は灼熱に晒され、翻って夜は寒気と静寂とが世界を支配する。
「……暑くありませんか、モノズ」
「はい、だいじょうぶです」
 今日も歩いた。血眼になって飢えを凌ぐ術を探し、雨後の泥水を啜り、少しでも外気を凌げる寝場を探して彷徨った。
 春の頃に比べて身体は鉛のように重くなり、足取りは少しずつ衰えていった。いずれ動かなくなるだろう日のことが脳裏に過り、そのたびに恐怖で心臓が波打つ。まだ何も、何一つとして見出すことは出来ていないというのに、終わりだけが確かな輪郭を持って迫ってくるという事実が、私の身を酷く竦ませる。
 かつての旅人たちも、今の私のような不安を抱き続けていたのだろうか。今よりもっと植生の乏しかった時代に、彼らはどのようにして足元から迫りくる絶望を撥ね退けていたのだろう。
 早く彼らに会いたい。会って話がしたい。それだけが、今の私のすべてだった。
 
「……あのう」
 ある日。空から降る声に、私は灼熱に茹りかけていた思考を引き戻す。モノズは歩き疲れて私の背でへたれていた。彼の声でないとするなら、この声は一体だれのものだろう。
「あ、うえです。うえ。空のほうです」
 照りつける陽光の眩しさに目を細ませつつ、促されるままに空を仰ぐ。
 太陽を背負うようにして、鳥影がひとつ浮かんでいた。その輪郭は、どこか見覚えのあるような――
「……マメパト」
「はい! マメパトで……あれ、なんであなた、ボクの名前知ってんですか? どこかで会いましたっけ?」
 ぽうと一つ鳴き、くるくると軽快な軌道を描いて地面に降り立つ剽軽な姿に、彼の面影を見る。かつて空を征く旅人たちの中で、一番に胸を逸らして空への希望を説いた、かの少年ハトーボーによく似ていた。
 途端に、枯れ果てていた筈の胸の内が、温かいもので満たされてゆく。旅人たちは生きていて、命を繋いでいたのだと。私の寵愛を遠く離れた不毛の地であっても、確かに逞しく生き抜いていたのだ。
「わ、わ。どうしたんですか。泣かないでくださいよう、砂が目に入ったんですかあ」
「……いいえ。何でもないのです。君に会えてよかった」
「は、はあ……?」
 マメパトは徐に困惑を浮かべ、私の身体をじろじろと眺め回した。
「えっと、なんでボクのこと知ってんですか。ていうかアナタだれですか」
「す、すみません。私はゼルネアスと言います。背中で寝ているのはモノズ。どちらも、貴方と同じ生者です」
「……え。今アナタ、ゼルネアスって言いました!?」
「え、ええ」
 私の呼称を聞いた途端、マメパトはばさばさと小さな翼を羽ばたかせた。わあい、とかやったーとか、良く分からないが全身が歓喜に満ち溢れているようだった。
「あの、どうしてそんなに喜んでいるのですか」
「や。だってお父さんが会いたいって言ってたから。あっそうだゼルネアス、お父さんに会いに行きましょうよう」
 マメパトはばさばさと翼を動かし、私の角の上に器用に止まった。ご丁寧に、羽で進行方向を指し示している。
「ハトーボーは息災ですか」
「うーん、もうすぐ死んじゃうって言ってました」
「え」
 軽い調子で放たれた言葉は存外に重い。私は歩き出した足を即座に止める羽目になった。
「死ぬ……彼は死んでしまうんですか」
「はい。だからその前に、ゼルネアスっていうひと……せーじゃさま? に会いたいって」
「そうですか……」
 旅征くときはあれほど快活で、生の方向に振り切れたような元気の漲り方をしていた彼でさえ、定められた寿命からは逃れることが叶わない。当然の道理ではあるが、どこかやりきれないものがある。
 せめて、目通りが叶えばよいのだが。彼の人生に残されたものを、私が拾い上げてやれるのならば。
 
 マメパトの曖昧な指示に従って歩を進め、落陽の間際になって漸く目的の地へと辿り着く。
「つきました! ボクはここで生まれて、ここで育ったのです!」
 そこは小さな湖沼だった。山岳より流れる地下水が湧き出しているのか、水は冷たく透き通っている。水気があるためか、周辺の荒野と違い、ある程度の植生が茂りを見せていた。森の余波を受けないやせ細った土地にしては、奇跡の仕上がりだろう。
「どうです! 立派でしょう!」
 そこは森の中とは比べ物にならないほど矮小で、しかし楽園だった。この地を見つけた時の旅人たちの喜びようが、ありありと眼の中に浮かんでくるようだ。
 長く苦しい荒野の旅の最中、寄る辺なく絶望のままに乾いた夜を飛ぶ鳥達が、この地を見つけた時に何を思ったのだろう。
 喜び勇んだ旅路が恐ろしいものだと知って、無辺の後悔を浮かべ、しかしもう戻ることすら出来ない。懸命に翼を羽ばたかせ、風に乗るしかないのだと、旅路の正しさを一心に祈るしかできない旅人たちが、この地を見た時に思うことは――
「すごいでしょう! すごいでしょう! 父さんはここをせーじゃさまのお慈悲だと言っていました! つらくてくるしい旅をしてきたボク達のために、せーじゃさまが用意してくださったのだと」
 ああ。ハトーボー、お前はどこまでも優しい翼だ。遠く離れた地でありながらも、なおも私の姿を忘れずにいてくれた。
「マメパト。私をハトーボーのところへ案内を。そのあと、モノズを休ませてやってください」
「はあい」
 だから、私は彼に言わねばならない。君の言葉は間違っていると。
 この小さな楽園は、私の慈悲によって与えられたものではないのだと。
 この地を見つけ出したのはお前達で、それは誰でもない、お前達の旅路の功績であるのだと。
 
 
 



 
「お父さん! ただいま戻りました」
 水場の岸、よく生い茂った樹木の中に、ハトーボーの巣はあった。木枝と草藁を編んで作られた簡素なものだ。かつて彼が森に住む生者であった時、様々なところに興味本位で巣を作っては私に叱咤されていたことを思い出す。挙句の果てに私の角の上に巣を作ろうとするのだから、快活とは恐ろしいものがあるという話だ。
 マメパトの呼びかけにやや遅れ、巣の中からふにゃふにゃとした声が響く。
「……ああ、息子よ。父さんはもうすぐ死んでしまうぞう。お腹がとっても空いたぞう」
 死を間際にしたものとは思えないほど、発声はしっかりしている。私は訝しんだ。もしかして、嘘なのではないか?
「父さん! お客様です! ゼルネアスが来ました! だからしゃんとしてください!」
「えっ本当か! ……うわあ本当だあ! ちょっと待っててくださいね!」
 巣の中からひょっこりと顔を出し、私の顔を見るや否や、急激に声に張りが戻る。かつて旅立った時と姿かたちはまるで変わらず、素振りは大層子供っぽい。子を成したというのに、あまり大人になっていないというのが正直な所感だった。
 わたわたと羽毛を直し、ハトーボーは巣の上から転げ落ちるようにして大地にへばりついた。
 沈黙。
「……ハトーボー、なんですよね」
 やっぱり、死を間際にした姿には見えない。寧ろ驚くほどに快活で活発で、元気そうだった。
「はい! そういうあなたは聖者様! 覚えていますよ、覚えています!」
 ぽう、と一声鳴いて胸を張る姿は愛らしい。生来の剽軽さは子に濃厚に引き継がれたようだった。
「ええと、今はもう聖者ではないのですよ。……お互いに、積もる話があるようです」
「そのようですね! ええ、そのようです!」
 私はそばに控えていたマメパトに目配せをした。マメパトは飛び上がり、私の背にへばりついていたモノズを引っ張り上げる。
「では、ボクはモノズくんと遊んできます!」
「ありがとう。脳が茹りかけているようなので、冷たい水を飲ませてあげてください」
「心得ました!」
 マメパトは思いのほか気の利く性分だった。ある種父より聡明ではないかと思わざるを得ない。
 マメパトに掴み上げられたモノズが水場の中に叩き落される姿を見送り、やはり父も子も大概だと思いながら一息つく。苛酷な旅路を強いられてきたモノズが、この地でどうにか少しでも気を緩めることが出来るとよいのだが……。
「愚息がご迷惑をお掛けしませんでしたか?」
「いいえ。彼は私をこの地まで導いてくれました。彼と出会わなければ、私もモノズも死んでいたかもしれません」
「そうですか。それならばよいのですが! ……ええと、ところで。どうしてあなた様がここに? あと、もう自分は聖者ではないというのは?」
 歓喜から疑問へ、ころころとよく表情の変わる男だ。良くも悪くも自分の感情に実直なのだろう。
「そうですね。少し長い話になりますが……」
 私はこれまでの経緯をハトーボーに伝えた。
 世界に竜が生まれたこと、私は私の感情のために、竜の生き方を肯定したこと。それによって聖者の冠を返還し、今は皆と同じようなひとりの生者でしかないこと。一人の生者として下した決断で、多くの生者を自由に巻き込んでしまったこと。
 自由という暗闇をゆく生者のために何をしてやれるかを知るために、今まで旅を続けてきたこと。
 全てを余すところなく伝えるうちに、気づけば荒野には夜が訪れていた。
「……そうですか。それで、ぼく達のところへ」
「はい。貴方達を訪ねれば、自由というものの仔細が聴けるのではないかと思ったのです。……ところで、貴方と共に旅立った他の生者達は、どこに?」
 かつて森の外へ旅をしようとした者達は、ハトーボーの他にもいた筈だ。空を飛ぶ鳥たちに混じり、青い花を抱えたフラエッテの姿があったことは印象に色濃く残っている。
 私の問いに、ハトーボーは一瞬言葉を詰まらせた。それから、視線を地に伏せる。
「……旅人の半分は、この地に辿り着くことが出来ませんでした。ぼくを含めた残りの半分のうち、ピジョンは冬を超えられずに亡くなり、オオスバメは熱射で死にました。ムクバードは、他の憩いの場を見つけてくると太陽の方へ向かったきり……」
 言葉を歪ませるハトーボーを、私は制した。
「すみません。辛いことを思い出させてしまいましたね」
「いえ。ぼくが覚えていなければ、みんなは誰からも忘れられてしまいますから。あ、これネイティくんの受け売りです。覚えてます?」
「……ええ。決して、忘れることは出来ませんよ。君と同じような理由です」
「ああ、そうでしたか……」
 互いの憂いに、失ってきたものの大きさを理解する。多くの命を見送って、私達はいまこの場にいるのだ。
「暗い顔をしていても仕方ないですね。まあでも、ぼくの見てきた自由の旅路というのは、あんまり明るいものでもないのですが」
「そうでしょうね。私もここまで旅をして、それを実感しました。誰にも定められず、いつ潰えるかも分からぬ旅路を征くというのは、とても恐ろしいものです」
 私が陥ったような恐怖や不安と、旅人たちもきっと戦ってきたのだろう。加えてハトーボーは、自分の仲間さえも消えてゆく中で、自身が導かなければならない子と共に今まで生きてきたのだ。晒される不安と恐怖とは、私の比ではなかったはずだ。
「……それで、あのう。ぼくは貴方にひとつ、謝らなくてはならないことがあります」
「私の角の上に巣を作ろうとしたことですか?」
「違います! ……あれはなんというか、若気の至りでありましてえ」
 突然恥ずかしい過去を突かれて、ハトーボーは居心地悪そうに顔をむにゃつかせる。
「ふふ、冗談ですよ。……それで、私に謝らねばならない事とは?」
「はい。えっと、森から飛び立つ時のぼくの言葉、覚えてますか?」
 私は頷いた。
 森を飛び立つとき、彼は威勢よく生者達に向けて啖呵を切った。それは彼が空を征く理由であり、授かった使命に依るものだ。
「空がどこまで続いているかを知りたいと、君はそう言いましたね。……あの時の君の顔、覚えていますよ」
 あの希望に満ち満ちた表情は、私の記憶の中に色濃く焼き付いている。あの希望に満ちた表情があったからこそ、私は感情を大きく発露させることができたのだ。
「はい。……でもそれは、出来ない事だった。ぼくがいるこの地より先も空は続いているのに、ぼくはもう飛ぶのが怖いのです」
「……ハトーボー、きみは」
「この地より外を出れば、また恐ろしい気候や飢えや渇きに襲われる。今度は死んでしまうかもしれない。ぼくはそれが、何よりも恐ろしくなってしまったのです。だから、貴方の授けた使命のようには、もう生きられない」
 ハトーボーは水場へと目をやった。岸辺では、水かけ遊びに疲れたらしいモノズとハトーボーが寄り添うようにして眠っている。
「ぼくはあの子を育てなくてはいけない。ぼくが死んだあと、独りでも生きて行けるように。……それを理由にして、ぼくはもう空を飛ばないでいるのです。それは、貴方にとって良くないことでしょう」
「……それは」
 かつてタブンネが恐れたような、使命を成し得ぬまま死んでいくだろう命が、私の目の前に存在していた。
 それは挫折と、伴う懺悔だった。自由のためにと己の翼で羽ばたきながら、しかし道先の暗闇の為にもうどこにも行けずにいる。そのような自分の姿を、ハトーボーは強く悔いているようだった。
「どうか叱ってください。お前はダメなやつだと。ぼくは貴方に顔向けできない。旅の途中で死んでいったぼくの仲間たちにも。だって、ぼくは何も出来なかった。使命を達成することも出来なくて……あれほど自由を望んでいたのに、きっと空の果てを見つけ出せると……ぼくは……っ」
 ハトーボーは蹲り、嗚咽を漏らし始めた。
 今までずっと押し殺してきただろう苦しみの感情が、一度に溢れ出しているようだった。
 私は彼をどうしてやるべきだろう。私は聖者ではないから、少なくとも裁ける道理はない。感情も、彼の望むように叱ってやることが良いとは思えない。いいや、それどころか寧ろ、私は――
「ハトーボー。顔を上げて。……私は、君を誇りに思います」
 ――私は、やはり彼を愛おしいと思っているのだ。
「君は確かに責められるべきかもしれない。責めてやった方が、君の心は軽くなるのかもしれない。けれど、私は君をそうしない」
「どうして、ですか。だって、ぼくが今までやってきたことは……!」
「ええ。君の進んだ道は、確かに使命の達成に至らなかった。それでも、頑張ってきたのでしょう。暗闇の荒野の中に懸命に翼を羽ばたかせて、友の死を見て、いつ死ぬかも分からないという不安に苛まれながら、懸命に自由の中を飛んできた。苦しみの中を一人生き抜こうとしてきたお前を、果たして誰が責められるでしょう」
「ですが……ぼくは……!」
 私はハトーボーの叫びを制するように、ゆっくりと首を横に振った。
「がんばりましたね。ハトーボー」
「……っ、ああ、ぼくは、ぼくは……っ!」
 ごめんなさい、ごめんなさいとうわ言のように呟きながら、ハトーボーは大粒の涙を溢し始めた。
 私は泣き暮れる彼に寄り添った。まるで小さな子供のように身を震わせて、彼は今まで溜め込むしかなかった苦しみの雫を私の身体に染み込ませる。
 私は、ようやく何をすべきかを理解した。そしてそれは、至って簡単なことだったのだ。
「……ゼルネアスさん?」
 泣きじゃくるハトーボーと、それに寄り添う私。
 いつの間にか目を覚ましたらしいモノズとマメパトが、ハトーボーの泣き声に何事かと歩み寄ってきた。
「起こしてしまいましたか、ふたりとも。……丁度よかった。今から、少し大切な話をします」
 目を丸く――片方は盲目だが――する二人に、私は静かに笑んだ。
「……よく聞いてください。今から伝える言葉は、私という生者の集大成となるでしょうから」



生者の行進 




 山道は静寂に満ちている。暗がりの中に仄かな月明かりが落ちる音さえ、耳に姦しいほどだった。
 足取りは重い。
 吐く息は白く、一呼吸の度に命の熱が潰えていくような感覚に陥る。
 不規則に土を踏む音が静寂に吸い込まれてゆくたびに、私のそばにはもう誰もないことを理解して、孤独に足を折りそうになる。
 しかし、進まなくてはならない。
 上ってゆく度に息が切れ、目が霞み、足が震え、肺に鈍い痛みが迸るとしても。
 足が震え、角が削げ落ち、血の通わぬ身体が腐り果ててゆくとしても。
 私という命がまだ在って、熱を放っている限りは、昇り続けなくてはいけないのだ。
 それは使命ではない。私の使命はもう終わった。私という生者が見出すべきものは、既に若い二人に託している。彼らは思い思いの育ち方をして、きっといつか私という命の声を届けてくれるはずだ。
 今ここに居る私を突き動かすのは、使命ではない。そうしたいという感情だけが、鉛のように重い足を突き動かしている。
「……っ」
 足元の道が崩れ、剥き出しの砂利の上に叩きつけられた。
 脆くなっていく身体に強い衝撃が走り、体内に残り少なくなった血が吐き出される。心臓が早鐘を打ち、視界がぐらりと揺れる。酷い眠気の優しい手が、私の身体を沈めようと襲い来る。それを振り払って、起き上がる。
 視界が先程より暗い。もう月明かりさえも見えない程に、私の身体は弱り切っていた。
 それでも進む。進まなくてはならない。私は知りたいのだ。かつて花の生者が私に伝えたような、好奇の熱を以って。
 フラエッテの花の旅路が、どのようなものであったのかを。









 深夜。私の言葉を胸に刻んだ若者二人が、こんこんと眠りに就く夜のこと。
「本当に、行かれるのですか」
 ハトーボーの不安げな表情に、私は目的地の山脈を見据えた後、しっかりと頷いた。
「……行けば、きっと死んでしまいます。いいえ、そんなに痩せ細った身体では、きっと道半ばで倒れてしまうでしょう」
「それでも、私は知りたいのです。フラエッテの旅がどのように終わったのか、彼女は青い花を見つけることが出来たのかを」
 ハトーボーが言うには、フラエッテも生きてこの地へ辿り着いたという。しかしこの場にも、辿ってきた道のりの中にも、彼女が望むような青い花の姿は見つからなかったのだ。
「……確かに、フラエッテは山を越えようと旅を続けました。でも、山は危険です。きっともう、彼女の命もありません。ゼルネアスさんが行ったところで、きっと無駄足になってしまうでしょう」
 フラエッテはさらに旅を続けた。あの山の向こうなら、きっとどこかに青い花の咲く大地があるのだと願って。
 私は、まだフラエッテの生を見届けていない。それを成し得るまで、私の命は終わらない。
「それでも、確定していない以上、向かわない理由にはなりません。私はそうしたいと思うのです」
「ですが……」
 私の意志は頑なだった。それを悟ったのか、ハトーボーは力なく項垂れる。
「……分かりました。どうか、ご無事で」
「ありがとう。ハトーボー、若い二人を頼みます」
「はい。彼らが健やかに生きてゆけるように、ぼくはこの命を懸けて励みましょう……!」
 ぽうと鳴き、今にも泣き出しそうなその表情をきっと締めるハトーボー。
 私はひとつ笑み返し、それから踵を返して歩き出す。
 目指すは山脈の向こう。フラエッテという生者の旅路を辿るべく、私は最期の行進をする。








 生者が何故生きるのか。生者に死が訪れるのは何故か。
 かつて片割れと共に、私の生の議題にしようとしたそれを、結局何一つとして解することは出来なかった。
 聖者としての役目と、義務と、感情に振り回され、私は何時でも迷い続けてきた。
 ずっと苦しかった。迷い続ける人生だった。どこへも行けないまま、道を説くことは苦しかった。
 けれどもうそれもない。淀んでゆく身体に反して、思考は冴えわたっている。
 今自分がどこにいて、何をすべきなのか。何もかもが一つに収束されて、私の旅征くべき道を静かに照らしていた。
 土を踏む度に、山を登るたびに、眩い星天が近づいてゆく。記憶の中にある多くの見知った顔の元に、私は向かっていた。
 吐く息はもう白くない。気温は下がっている筈なのに、ひとつとして寒くはない。足取りは不思議に軽く、空に吸い込まれてゆくような浮遊感が、私の歩幅を早くさせる。
「満喫しているようだな」
 夜と朝との狭間、風の凪いだ山肌にて。歩む私の上空より、灰を塗したような声が響く。
 首を傾げれば、夜を背負うようにして飛ぶ緋色の鳥がいる。創造神が私と共に生を与え、今はもう遠くを飛ぶ者。
「イベルタル」
「久しいな、ゼルネアス。うら青き我が同胞よ。……会いたかった、ずっと」
 彼は優しく微笑むと、私の横に並んで山を登り始める。
「どうしてここに」
「そりゃあ、我の使命だからさ。立ち直るのにずいぶん時間が掛かってしまったけど、君の頑張りを見ていたら、籠っている訳にもいかないだろう」
 最後に別れを告げた時より、彼の血色は幾分か明るくなっていた。なにかひとつ、吹っ切れるようなことがあったらしい。
「君が元気そうでよかったよ、イベルタル」
「ああ、おかげさまでね。君は……ええと、気づいてるかな」
「まあ。……でも、もう少し待ってほしい」
「しょうがないなあ。他ならぬ君の頼みだから、特別だよ」
 彼は嬉しそうにくつくつと笑う。恩着せがましくしているが、私が頼まずとも、彼は目を瞑っていただろう。彼は優しい。
 積もる話はいくらでもあった。片割れであれど、進んだ道は違っていたのだから。
「……それで、旅は楽しかったかい。道中ずっと苦しそうだったけど」
「まあ、それを選んだからね。でも……そうだな、きっと楽しかったんだろう」
「そうか。ならよかった」
 私は花が綻ぶように笑みながら、前を見据えた。
 山の頂が、もうすぐそこまで見え始めている。黒々しく渦巻いていた夜が、仄かな明るみを帯び始めていた。
 もうすぐ夜が明ける。新しい朝が世界に至り、私の命はそれを見ることが叶わないだろう。
「なあ、ゼルネアス。君は我を許すかい。苦痛から逃げて、何もしようとしなかった我を」
 朝に傾きつつある白んだ空を、彼は落ち着きなく見つめた。
 私は笑んだ。答えなど、とうに決まっていた。
 
「許すよ。だって私は、全てを愛すると決めたのだから」

 生まれたての暁光が世界に至る。
 私はイベルタルより少し先に、山頂へと足を踏み入れた。







「集大成、ですか」
「はい。だから、よく聞いてくださいね」
 恐る恐る問うモノズに、私は肯定の意を返した。
 静けさが増す。モノズとマメパト、それからハトーボーの三者は、私をじっと見つめていた。
 かつてこれより多くの生者に囲まれていた筈なのに、今日ほどの緊張を味わったのは初めてだった。心臓が高鳴り、口が渇く。今までの自分に向き合い、一つの決断を下すというのは、こんなに大変なことだったのか。
「私は今まで、多くの生者を見てきました。叡智を持って歩く者、旅征こうと勇気を持つ者、空の果てを知りたいと息巻く者、正義を胸に信念を貫こうとした者、傷ついたものを癒そうとして、それを成し得なかった者。その他にも多くの生者達が生き、また死んでゆくのを見ました」
「私は、彼らが自由にあればいいと思いました。各々の意志を持って生きてゆくことが、私にとって愛おしいことだったから」
「けれど、それは苦しいことでもありました。自由とは、先の見えない暗闇の荒野に、自分だけを頼りに歩んでいくことだったのです。決して聞こえが良いだけのものではなく、辛さが伴うことでありました」
「私は彼らに辛さを与えてしまった。自由の恐ろしさに動けなくなるものもいれば、自由に傷つけられるものもいずれ出てくるでしょう。けれどもう、私は決断を下してしまった。いかに辛くとも、生者たちは自由の元に行進を強いられる」
「自由に足がすくんでしまったものを、自由ゆえに道を誤ってしまうものを、或いは自由さえ与えられずに死んでゆくものを、私は救わねばならなかった。そうしなければならない責任があり、その術を求めて旅に出た」
 私は息を吐いた。あれほど高鳴っていた筈の心臓が、今では落ち着き払っている。
「旅の果てに、私はかつての旅人に出会った。旅人は、己が自由の元に空を求めて旅だったのに、空の果てを知らずに命を終えることを悔いていた。与えられた使命も、自分の意志のもとの行動さえ叶わなかったと、泣いていたのです」
「でも、私は。愛おしいと思いました。道の先が奈落であっても、使命が成し遂げられなかったとしても、成し遂げようと頑張ったその姿は、私にとって愛おしいものだった」
「いいえ、それだけではない。生きているという事が、そもそも私にとって愛おしいものだった。生きている者の全てを愛するのが、私という生者の使命だったのです」
 使命を成し遂げた者も。半ばでひざを折る者も。自由という暗闇に恐れおののく者も。不安に屈してしまう者も。
 その全てが、生きている限り、私にとって愛おしいものだった。
「……この事を知るのは、貴方達しかいません。だから、どうか届けてほしいのです。私の声を、生きることが不安な人達へ」
「私は貴方達を愛していますよ、と。使命を貫き通しても、そうでなくても。心折れてしまっても、自分を許せなくても。私は貴方を愛するから――だから、恐れずとも大丈夫だと。全ての行進路の果てを、私は愛するのだと」
 私はそこで言葉を切り、モノズとマメパトの二人を見つめた。
「私の命はまもなく終わる。……どうか、貴方達に、私という命の声になってほしいのです」







「……君の愛は、生きる者の全てに作用すると」
「ああ。生きている限り、私はその全てを愛そうと思うんだ」
 山頂は次第に朝を迎え、雲間から染み出す陽光が私達を紅く照らしていた。
 陽光に炙られた私の身体が、淡い光を放つ。消滅光が、少しずつ私の身体を崩れさせてゆく。
 私は陽の方を向いたまま、背後のイベルタルに向けて叫ぶ。
「イベルタル! 君も生きている! たとえ機構であり、無力さに泣くような命でしかないとしても――!」
 私の身体は既に輪郭を持たなくなり、燃えるような朝日の中に溶けてゆく。死出の時が、いよいよ近づいている。
「――君を愛するよ。私の言葉を受けて、君がこれからどうするかは知らないけれど、どうあろうと私は君を愛するさ」
 だから、と言葉を接ぐ。
 私は山頂の端まで歩き、振り返った。
 
 
「さあ、私のための夜は明けた。次は君だ。行進するといい、イベルタル!」



「君の願うように、生きて行け――!」















花が綻ぶような世界で 


 山肌を吹き上げる優しい風が、瓦解してゆく私の肉体を柔らかく包み、攪拌した。
 分離された魂は昇ってゆく。気流に巻き上げられ、私は世界より乖離してゆく。
 私の身体は塵になって、世界へと広がってゆく。私の身体は世界の全てと同一化し、世界の全てに私は成るだろう。
 私は天空より下を眺めた。緑と青とに包まれた世界には、いくつもの生者が行進を続けている。
 野に咲く花のように色とりどりの、不揃いで不完全の命を抱えて、死出の時へ向けて歩いてゆく花葬の行列を、私は愛おしんだ。
 
 時には傷つくかもしれない。迷うかもしれない。
 もう歩きたくないと、涙を流すかもしれない。
 争いに傷付けられるかもしれない。誰かを傷付けるかもしれない。
 傷付けた者を憎み、傷つけてしまった自分を悔いるかもしれない。
 それでも構わない。私はその全てを愛そう。ただ、生きている限り、私の愛は無償に降り注ぐものだ。
 だからどうか生きてほしい。苦しくとも、生きづらくとも、最期まで。



 風がもう一度吹き抜ける。
 世界が離れてゆく中で、私は確かにそれを見たのだ。
 
 
 














 
 ――世界の遠くに沿って咲く、青く名も無き花の群。
 
 





 完


あとがき

なんでこんなに長くなったんですか? なんでだろう……。もよよです。
トンでもなく長く重く回りくどい文章でしたが、お読みいただき有り難うございました。読者の皆様には本当に感謝しかありません。
有難いことにこの作品を気に入って下さった方が多いようで、第十一回仮面小説大会非官能部門において同率優勝の評価を頂きました。正直なところ、もう少し綺麗にコンパクトにまとめられたんじゃないかなあと僕的にはちょっぴり後悔するところの多い作品なのですが、得られたものも多かったかなあと今では思っています。
ゼルネアスというポケモンは設定が壮大すぎるせいで、伝説系の中でもかなり取り上げるのが難しいポケモンだと思います。どうせなら挑んでみようと思ったのですが案の定テーマが壮大すぎて話を立てるのがめちゃくちゃ大変でした。紆余曲折と試行錯誤の果てに「自由」「使命」「無償の愛」「善く生きる」あたりがテーマになったような気がします。結局壮大じゃねえか。
裏話としては、ゼルネアスさんが聖者として大成するエンド、森のみんなに捕食されるエンド、森から追放されて朽ち果てて自らを呪いながら死ぬエンドあたりが候補にありました。が、本編のエンディングが一番(個人的には)しっくりきています。これでよかったんじゃないかな。

お読みいただき有り難うございました。

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Last-modified: 2020-03-06 (金) 00:10:18
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