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三幕「果ての土塊」

/三幕「果ての土塊」

Writer:赤猫もよよ
まとめはこちら→花葬の街、憂悶の海




 
 ――最果てにて、君は。
 
 覚醒。
 温い夜風が窓枠を擦り、外れかけたそれががたがたと軽い音を立てる。淡白な色の月光が、簡素に片付いた部屋に冷やかな影を落としていた。
 地鳴りにも似た憂悶の海の音は、嫌が応にも青年の目を覚ます。昼間よりも明らかに大きくなった遠吠えを半起きの耳で聞きながら、ねばっこい眠気を覚ます為に首を振った。寝てる時に蹴とばしたのか、辛うじて片足に覆い被さっている薄手の毛布はじとりと湿り気を帯びている。良く覚えていないが、きっとなにか悪い夢を見たのだろう。誰かを殺す夢、或いは誰かに殺される夢。ここ数年、夢を見ると決まってそうだったのだ、恐らく今だって。
 ベッドから抜け出すと、軽い眩暈を感じた。眠った筈なのに少しも疲れが取れていない。気分は最悪だ。気付けに鞄から林檎を取り出し、齧る。商人から貰った純粋な好意の味は、青年のささくれ立った喉と体と心をほんの少しだけ潤した。
 手早く毛布を畳み、布団を整える。憂悶の海に呑まれる為、その行為に意味はないが、数週間連れ添った部屋へ向ける、青年の手一杯の敬意の表れだったのかもしれない。
 片手に収まる荷物袋を背負い上げ、静謐の色に凍りついた部屋を後にする。蝶番の錆びたドアの、捻じれたような音がぎいと響く。一様に閉じられた二階とは対照的に、一階へ通じる階段の向こうからは金色の光と騒ぐ音が聞こえていた。人生最後の夜を酒と陽気とと騒音に塗れて過ごす彼らのことは、正直少しだけ羨ましくもあったが、しかし混じろうという気は一切なかった。殆ど抜け殻に近い自分が、なぜその選択肢を見失ったかは青年にも良く分からない。ただ、そんな彼らが、どことなく寂しく感じられたのは事実だ。
 厄介を避ける為に、青年は通路の突き当たりの窓から身を乗り出した。屋根伝いに暫く歩き、頃合いを見て地面に飛び降りる。冷えて固められた土の道は踵に優しくない。
 既にゴーストタウンと化した街を歩くのは、今回で三度目になる。この街に長居し過ぎた所為だ。本来ならばリミットの一週間前には街を去る予定なのだが、即席で開いた何でも屋が予想以上に繁盛してしまい、抜け出すに抜け出せなくなってしまったのだ。だがしかし、お陰で当分の路銀は確保できたので、この結果はまんざらではなかった。
 角を曲がり、富裕街に差し掛かる。ロクに整備もされていない道が、徐々に白煉瓦の敷き詰められた清潔な通りに変わっていく。サイドに立ち並ぶ、土葬の街名物のゴシック様式の住宅達は、その殆どが時を止められたかのように寡黙に佇んでいる。視界に映る窓は大体が割られていた。土葬の街に残ると決めた者が、暇つぶしにでも家内を荒らしまわったのだろう。貧民街の治安の悪さを思えば、さして違和感がある行動でもない。
 しばらく歩いていくと、一際大きな建造物が目に入った。夜盗の侵入を防ぐ為に設置された重厚な門だが、今はその役目を果たしていない。大口を開けた扉の先に、豪勢な建物が姿を覗かせている。

「ハリーはお前か」

 青年は門前で足を止めると、夜の暗澹の中に佇む獣に声を掛ける。背中から吹き零れる炎に照らされて、藍色の背部とクリーム色の腹部、ツートンカラーの毛並がちりちりと輝いた。バクフーン、と呼ばれるその炎獣は、剣呑な緋色の瞳を二三瞬かせる。

「依頼主、ましてやこの街の統括主に“お前”とはな。流石、噂に聞くだけはある」
 
 ふはは、と剛健に笑うバクフーンに、研ぎ澄ませていた警戒心が微かに氷解する。地を鳴らすように響く低音は他人を押し込めるような強い圧の掛かったものではなく、全てを包み込むかのような優しさを孕んでいた。
 
「そりゃどうも。こんな夜更けにお呼び出しが掛かって、何でも屋さんはご立腹なんだよ」
「そういうな。きちんと報酬は弾むし、お前とて夜に呼び出した理由が分からない訳ではあるまい」
「勘弁してくれ。またヤバい仕事とっつかまされんのかよ……」

 人には口外出来ないような仕事の交渉は、大体交流が噂にならないような夜更けに行われる。過去の、口にするのも悍ましいような仕事の記憶が蘇って、ヒヨスは微かに眉根を顰めた。

「案ずるな。殺す仕事じゃあない。ただし――」
「殺されるような仕事ではある、って奴だろ」
「うむ」

 一片の悪びれもなかった。結局自分は金で買われるだけの弾丸でしかないのだ、と再認識しつつ、ヒヨスは強くなっていく目の前の依頼主への嫌悪を唾と共に呑み込んだ。苛立ちは毒になる事はあっても、薬になる事はないのだ。

「で、なにさせんだ」
「息子が居なくなった。探してほしい」
「詳しく言え」
「イベルタル教の奴らに攫われた。奴ら、相当私の事が憎いらしい」

 会話を続けるうちに、ヒヨスの中で一つの光景が浮かび上がってきた。
 記憶が正しければ確か、今日の昼のことだった筈だ。多くの宗教徒に囲まれる牡のマグマラシを、火の玉を放つことで助けたのは。あの時は身寄りのない孤児か何かが襲われているのだと思っていたが、あの火鼠がこのバクフーン――ハリーの息子である可能性は高い。まだ帰ってきていないということは、再び捕らえられてしまったのだろう。

「受けてくれたら、お前の所持金の三倍は出そう」

 その依頼を受けることに抵抗がなかった訳ではない。
 が、憂悶の海が迫ってきている今、自分がこの依頼を断れば他に誰が受けるというのだろうか。ほんの少しの後ろめたさが、ヒヨスの正常な思考力を鈍らせた。

「場所。あと、そいつの名前」
「町はずれの教会。リコデムス。……朗報を期待している」

 そこで言葉を区切ると、ハリーはもう話すことは無いと言わんばかりに踵を返した。仮にも実の息子が攫われたというのに、鉄錆びに覆われたようなその態度が気にかかるが、余計な詮索は無用の長物だと理解しているので何も言わない。請負人は課せられた依頼を無事にこなし、依頼主は働きに見合っただけの報酬を支払う。所詮、その程度の希薄な繋がりでしかないのだ。


 夜更けの道を暫く歩くと、町はずれの教会が見えてきた。清潔な白色に塗り固められた外壁がアーチ窓から洩れ出す光に照らされて、仄かな暖かみを持った柑橘色に染め上げられている。見上げた位置――教会外部の額部分に嵌め込まれている――ステンドグラスには、イベルタル教の唯一神イベルタルを象っているのだろう、鮮血と黒色の怪鳥が描かれている。
 その建物をぐるりと取り囲む白い門の入り口に、何匹かのポケモンが立っている。ドンカラス、アブソル、ゾロアーク――いずれも、夜目が利く悪タイプの連中ばかりだ。イベルタル教、とは名ばかりで、実態はチンピラグループの隠れ蓑でした、などと言われても納得がいく。
 白い毛皮は夜でも目立つ。敵の所在を確認すると、ヒヨスは見つからないように草むらに潜んだ。幸いにも奴らは話に夢中で、直ぐ傍の草むらに自分が潜んでいることなど一切気付いていない。奇襲のチャンスだ。
 しかし、踏み出しかけた足は、本能の葛藤によって止められる。話に夢中で周囲を警戒しない門番――その光景には、どこか拭い去れない違和感があった。彼らが余程の阿呆ならともかく、皆が皆一斉に背を向けるなど、そんなことがあり得るのだろうか。この隙だらけの空間こそが、そもそも自分を誘き寄せる為の疑似餌なのではないだろうか。
 想像すればするほどドツボに嵌っていくようで、気分が悪い。戦闘において臆病なのはむしろ称賛されるべきことなのだが、度を超えると今のように面倒な思考を掻き回す羽目になる。余計な事を考えるよりも動く方が性に合っているし、策など力でぶち破ればいい。
 そう言い聞かせてもなお苦言を呈したがる自分の本能に軽く舌打ちをして、青年は古い鞄を地面に下す。鞄の中からいくつか使えそうなものを物色して取り出しておく。一対三だろうが、先手で二匹を封じてしまえば一対一と変わりない。少しでも有利な状況を生み出す為に、道具は欠かせなかった。
 いくつか物色したヒヨスが選んだのは、先端に痺れ薬が塗られた鉄針と下膨れした形状の緑色木の実――セシナの実と呼ばれるもの――を乾燥させたものだった。水分が抜かれかさかさになった表皮を爪でなぞると、蜜に乳を混ぜたような甘い色の光が微かに洩れる。
 空中に放り投げられた木の実が激しい閃光を起こす。それとほぼ同時に、ヒヨスは草むらから飛び出した。
 一度夜に慣れた目に、やはり閃光は優しくない。刹那の発光が終わった後も、予期せぬ出来事に門番たちは驚愕を隠せていなかった。まともに光を浴びてしまったゾロアークなどは、瞳神経を圧迫する焼けついた痛みにのた打ち回っているほどだ。
 光の呪縛からいち早く逃れたドンカラスの羽刃を躱し、半ばカウンター気味に左の爪を振り上げる。ざり、と肉を抉る音。いくつかの黒羽が引きちぎられ、はらりと闇に舞って溶けた。
 揚力を崩されよろけるドンカラスの腹部を蹴っ飛ばすと並行して、アブソルの角から放たれた風刃を振るった爪で揉み消した。ザングース持ち前の怪力は、生ぬるい鎌鼬程度なら、素の状態でも掻き消すことなど容易な事だ。
 ひょうと虚空を薙ぐと、先程手の内に仕込んでおいた鉄の針が二三放たれる。凛と空気を裂いて飛ぶ針が、接近戦を仕掛けようとしていたアブソルの横腹を掠めた。暴発した銃弾の様に駆ける銀毛が微かに横にぶれ、鈍色に輝く頭部の鎌――“辻斬り”はヒヨスの頬毛を撫でるだけに終わる。有り余った加速力を往なせる訳でもなく、アブソルはそのまま地面に倒れ込んだ。僅かに足先が痙攣しているのは、先程の痺れ薬が効いてきた為だろう。
 僅か数十秒の攻防を終えた後、ヒヨスはまだそこにいるもう一匹を睨みつける。まともに凝視すれば眼神経が焼き切れてしまう程強烈な閃光だが、ゾロアークはもう感覚を掴んだらしい。緩やかに立ち上がる身体は震え、切れ長の狐目は赤く爛れていたが、全身から迸る殺気ははっきりとした色を孕んでいた。伸びてしまった二匹と比べ、少しは手練れているようだ。
「……通り魔にしては、やけに用意周到じゃねえか」
「臆病だからな、俺は。あと通り魔じゃねえ、俺は誘拐犯だ」
「ああ、確かにそんな面してるな……ッ!」
 蹴り上げた石礫が黒い波に砕かれる。周囲展開型の悪の波動のようだ。どす黒い奔流に、石は削り粒一つ残っていない。
「不意打ちのつもりか」
 ゾロアークが不敵に笑む。
「――ンなもん、無意味だ」
 嘲笑。同時に、ゾロアークの右手から放たれた波動がヒヨスの足元を穿つ。大砲を撃ち込まれたような音が発生し、衝撃で地面が波打ったような気さえした。空中を一直線に飛んできた筈なのに、まるで弾道が見えない。上手く夜の帳に包ませているのだろう、とヒヨスは察知した。
「おれはそこじゃねえぞ」
 意図的に狙いを逸らされた訳ではなさそうだった。どうやら相手の金色の目はまだ、完治していないらしい。もしも治っていたならば、自分は今頃切り裂かれた胴体と面会していただろう。微かな恐怖と戦いの緊張が、場の空気をぴんと張り詰めさせる。
 吸った息を体内で捏ね繰り回す。酸素が体内に充満し、循環して、身体を賦活する生命力として働くようになるまでに、そう時間はかからない。“気”の概念――これは元々格闘ポケモンの専売特許なのだが、全般的に適応性の高いノーマルタイプのポケモンであれば真似るのは不可能ではない。それは、インファイトと呼ばれる構えの予備動作でもあった。
 手足に、爪先に、真っ直ぐな力が漲る。再び穿たれた波動の矢を軽く跳んで躱し、群青の闇に染まった土を蹴る。一呼吸の内に相手の懐に潜り込み、側腹に左手の甲をぶち当てる。ごぶ、とゾロアークの口から僅かに漏れた唾液を裂くように、引き絞った右手の拳をゾロアークの頭蓋めがけて突き立てた。
 しかし、拳圧は空を切る。身長差が幸いしてか、ザングースの拳が届くより前に身体を逸らすことに成功したようだ。
 牽制がてらに振り抜かれた黒狐の赤い爪が、ヒヨスの横っ腹をがむしゃらに叩く。ごぎん、と骨がずれるような嫌な音が体内に響いた。攻撃に特化したザングースの身体――さらにインファイトで防御を捨てている――は、例えかすり傷であっても深刻なダメージを負ってしまうのだ。
 瀬戸際で腹部を撫で回す吐き気に耐え、ヒヨスは一旦後ろに跳んだ。少し動く度に崩れ落ちそうな痛みを覚えるが、インファイトの構えは解かれない。むしろ、その痛みこそが精神を活性化させていた。
「辛そうだな」
「……別に」
「吐きたいなら吐けばいい。身体に毒溜めると後が辛いぞ」
「生憎、毒は溜まらない身体なんでね」
 円月輪状に放たれた悪の波動を爪で弾く。跳弾のとばっちりを受けた木々がなぎ倒される音がした。遠距離においては、明らかに向こうの方が格上だろう。かといって、動きが鈍った体のまま懐に飛び込むなど愚の骨頂である。今の自分は砂糖菓子より遥かに脆いことを、先程の一撃で痛感したばかりだ。
「どうした! 避けてばかりか!」
「どうだろうな」
 相変わらず反応速度は化け物染みていた――が、察知してから回避するまでの一連の動作に、微かな陰りが見え始める。インファイトの構えによって強化された、痛みへの耐性が切れ始めようとしているようだった。
 鉄の味がした。口の中に広がる温い水を吐き出すと、夜露に湿った土が赤黒く固まる。荒縄で全身を締め付けられるような疼痛に、ヒヨスは地面に身体を落とす。
「血は溜まってたようだな」
 静かな笑みをひたりと這わせ、金色の目をしたゾロアークは再び手に収束させた影刃を投げつけた。空と地を水平に滑空し、鋭利な刃がヒヨスの首筋目掛けて直進する。狙いは正確だった。目が治りつつあるようだ。
 浅い一呼吸の内に眼前まで迫っていた切っ先を避けるべく、ヒヨスは半ば無理やりに地面を蹴り転がった。身体に破られるような激痛が走る。肉体が悲鳴を上げていた。インファイトの構えによって抑えられていた痛みが、堰を切って溢れ出していた。
 起き上がろうとした瞬間、後足が雷に打たれるような痛みを覚える。いつの間にか二三本の闇が突き刺さっていた。放たれたところは記憶していないが、この痛みは紛れもなく本物だった。
 雪の上にインクを垂らすように、赤黒い血液が白い毛皮を急速に染めていく。夜が更けていくようだった。息を吐く度に身体が沈む。追い打ちをかけるように何本もの刃が四肢に突き立てられた。
「こう見えてもよお、俺は良い奴なんだぜ。自分がやられたくない事を他人にやるのは嫌だし、願わくば避けたい」
 闇の中から、金色の瞳がこちらに迫ってくるのが見えた。
「喉掻っ捌かれるとすげー痛いらしい。浅く斬れば、その分だけ絶命にかかる時間は遅くなる」
 乱暴に耳を掴まれ、そのまま頭を持ち上げられる。霞んだ眼では見えなかったが、喉元に宛がわれた冷たい感触は恐らく、現在四肢に突き刺さっているものと同じに違いない。
「……何が言いたい」
「答えろ。あのガキは一体なんなんだ。何故俺たちは、奴を攫わなければならなかったんだ」
「んなこと、おれが知るか……がっ」
 鈍い打撃がヒヨスの腹に突き刺さる。
 熱さを孕んだ圧力がヒヨスの内部を掻き乱し、苦みと酸味が入り混じったような液体が喉の奥からこみ上げた。
「二度はない。答えろ」
「……おれは、頼まれただけだ。ガキを連れ戻せば金が貰える、そういう契約になっていた。そのガキについては何も知らない。顔も見たこと……ない」
「本当だな」
「嘘を言える状況じゃ……ないだろ」
 我慢に限界が訪れたのか、ザングースは言葉を止めるとその場に胃液を吐き出し始めた。
 少し強く殴りすぎてしまったか、とゾロアークは眉を顰め、周りに待機している仲間たち――無傷のアブソルとドンカラス――に目配せをする。閃光とほぼ同時に展開した幻覚によってザングースは二匹を倒したと勘違いしていたようだが、そんな現実はどこにも存在していなかったのだ。
「気絶させてから連れて行け。……いや、まず、ドクダミ様に報告するのが先か」
「いいえ、その必要はありませんわ」
 滴を垂らしたように澄んだ声が、夜更け過ぎの教会を静かに震わせる。振り向いたゾロアークが、静かに傅く。
 視線の先に、白百合が咲いていた。


 地上へ出る硬い扉が開かれると同時に、薄青色をした月光が洪水のようにこちら側に溢れだした。
 静寂という名の霜が降りた街は時間が静止したかのように閑散としており、夜風が中空をかき乱す音と梢の揺れる音色が重なって聞こえるばかり。今にも割れそうな群青色の夜空には白砂を零したような星の粒が広がっていた。
 どこか大きな建物の、庭の隅のようだった。ここが土葬の街だとするならば、恐らくは町はずれに佇む「イベルタル教」の教会に違いない。しかしなぜそのような場所に牢獄があるのかは、あえて追求しないことにする。
「ほら、さっさと済ませろ」
 手頃な草むらの前に少年を突き飛ばすと、ゾロアークは粗暴に手を振った。
「一瞬でも変な行動をしたら、“おしおき”だからな」
「……分かってるよ」
 言われなくとも、今の少年には変な行動をする余裕もない。限界間際まで水を溜められた器は今にもはちきれんばかりで、我慢のし過ぎか胃の中に痛い物が広がりつつあるような気もした。金色の腹毛に埋もれた小さなソレを引っ張り出して、くっと力を込める。
「……っ、はぁ……ふぅ…………」
 下腹部に何かが押し寄せる感覚。
 初めは緩やかだった水流が勢いを増すにつれて、ぱたぱたと乾いた音が土っ気の混じった水音に変わっていく。
 余りの量に草むらだけでは吸収できなかったのか、つうと足元に黒々しい水が流れてきた。しかしそれを避けることもせず、少年は吹き抜ける夜風の仄かな肌寒さと奇妙な背徳感、開放感に身を委ねている。
 身体中が全て流れ出していくような、蕩けるような、不可解な初めての感覚に、恍惚とした表情さえ浮かべていた。
「……よっぽどガマンしてたんだな、お前。なんか悪かったな、閉じ込めて」
 放尿時間の余りの長さに少し引きながら、ゾロアークはそう述べ、不意に身を震わせる。
「あー……なんかオレもしたくなってきちまった。おい、お前そこに居ろよ」
 流石に少年がいた場は憚られたのか、少しずれた位置に移動した後、ゾロアークはぶるりと身を震わせた。少し遅れて、風の音混じりに小さな水音が響いてくる。やや外れ気味の、軽快な鼻歌も聞こえてきた。その歌には、少年も聞き覚えがあった。
「鉱山歌だ」
「あン? おまえ、知ってんのか」
 ゾロアークの問いは声だけで、身体はまだ草むらの方を向いていた。少年はこくりと頷いて、続きの音階を紡いでみせる。
「うまいもんだな」
「うん。ウチのお父さん、鉱山の管理主だったもん。よく鉱山で働いてる人たちと歌ってた」
「……そうか。お前、ハリーさんとこの息子なのか」
 噛み締めるような声には、微妙な陰りが差していた。赤い隈取に縁取られた鋭眼が細められる。
「もしかして、おじさんも働いてたの?」
「ああ、まあな。色々あって辞めちまったけど」
 事を済ませ、ゾロアークはリコの方を向いた。
 用を足している際に千切った葉っぱの存在には、どうやら気付かれていないらしい。
 手首の毛に埋めて隠してしまえば、一先ずは安心だろう。
「さ、行くぞ。お前を出してやりてえのはやまやまだが、これも仕事なんだ」
 先程より若干軽めにリコの背中を小突くと、ゾロアークはリコに先導するよう促す。急かすように小さな背中を叩くその手は、先程より少しだけ優しい。
「……ねえ、お仕事ってなに」
 しかし、沼の中を歩くように緩やかに進みだした小さな足は数歩もしない内に立ち止まり、ぐるりと踵を返す。仄かに怒りを含んだ、問うようなマグマラシの紅い瞳がゾロアークの揺れない顔を映した。
「あん?」
「ぼくを攫うことが、お仕事なの? なんで?」
「……さあな。ドクダミ様がやれっつーから、攫った。それ以上は知らん」
「やれって言われればやるの? だって、誘拐って悪い事だよ。そんな事しちゃダメだよ」
 怒るでも喚くでもなく、しかし畳み掛けるようにリコデムスは言った。
 まるで定文化された正義を突き付けられているようで、ゾロアークはなんだか奇妙な気持ちになった。こちらを睨みつける善の塊に向かって、静かに笑ってみせる。
「ああ、そうだな。誘拐は悪い事だ。オレもそう思う」
「なら、どうして?」
「分からん。なんつーか、大人になるとなあ……いろいろ忘れちまうんだよ。止まり方も逆らい方も、全部な」
「でも、悪い事はしちゃ駄目だよ」
「……いつか分かるさ」
 これ以上何も言うまい、とゾロアークは思った。いつか彼が黒く染まってしまうまでは、白いままでいて欲しい。
 無垢な少年の頭を緩く撫でる。炎タイプの膨れ上がるような温かさが、闇を吸った自分の手を溶かしていくようだった。
 

 眠っているのかと思いきや、嫌に息が浅い。
 全身に開いた赤黒い傷の束がヒヨスを弱らせているのは明白だが、しかし自分に何かが出来る訳でもなく、リコデムスは小さな頭を抱えた。少年の無知な目でも、このまま放置すればヒヨスが危険なことになる――というかもうなっている気もするが――のは容易に想像できる。
「ヒヨスさん、起きてください。ほら、葉っぱ持ってきましたよ」
 突っついても抓ってもひっくり返しても反応がないことに、リコは若干の焦りを覚え始める。
「……どうしよう」
 葉っぱを持ってこい、とは言われたものの、そもそもそれが何の為に使われるのかリコには見当がつかない。
 待ってみても何も起こらない、という事はつまり、彼が“葉っぱ”と呼ぶものと自分が“葉っぱ”と考えるものに差異が生じている可能性もある。
「でもそれって、ヒヨスさんの説明不足が原因なんじゃ」
 生じた不安を不満に変えつつ、リコはひとりごちる。返事はない。気絶しているだけならいつかは意識を取り戻すだろうが、それまで待っていられる猶予などない。窓の外から覗く憂悶の海の唸り声は益々猛っているし、その前にイベルタル教の面々に“何か”される――という可能性もない訳ではない。その“何か”の具体的な内容については、リコには想像できなかったが。
「もう。起きてくださいって……ば?」
 葉っぱをヒヨスの手に握らせると、手の内から紅い光が漏れだした。それは手周りの毛の緋色よりも微かに黒ずみ、冷たい色の石床に迸って消える。血液を煮込んで固めたような毒々しさと、赤錆が這った鉄製品を思わせる重苦しさの両方があった。
 眩い光の筈なのに何故か根源的な恐怖に似たざわめきを覚え、リコは暫くの間光が迸った床を見つめていた。息をするのも儘成らない程きつく喉が締め付けられ、呑み込んだ筈の唾が嫌な味の液体になって口の中に広がる。
「悪ぃ。迷惑かけたな」
 顔を上げると、剣呑な瞳のザングースが複雑な表情をしていた。良く見ると全身に走っていた筈の傷も、先程リコが握り締めさせた葉っぱも、跡形もなく消え去っている。治した――というよりも、最初から存在しなかったように思えてしまう。
「……傷、だいじょうぶなんですか?」
 絞り出した声は震えていたが、牢屋の反響に呑まれて分からなくなっていた。ヒヨスは器に入った水を一滴ずつ垂らすような、人によっては無表情と違えてしまいそうな笑みを静かに見せると、軽く頷いてみせた。
「で、見たんだな」
「え?」
「赤い光」
 薄い笑顔の中に、静かな威圧感があった。リコは小さく頷くと、目を二三度瞬かせる。
「……なんなんですか、あれ」
「さあな。俺も知らん」
 忘れた方がいい、とだけ言ってヒヨスは立ち上がった。牢の隅に放り出されていた鞄を拾い上げる。
「ここを出るぞ。お前を父親の元へ連れていく」


あとがき
もよよです。次話で序章が終わる――筈だったんですけど……ねえ……。
バトルは不慣れだったんで苦労しました。インファイトの構え、しぜんのめぐみの効果など色々と原作からかけ離れているような気もしますが、そういうものだと割り切って頂けると嬉しいです。


四幕「白色境界」


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Last-modified: 2014-07-10 (木) 15:41:22
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