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一幕「憂悶の海に漂う」

/一幕「憂悶の海に漂う」

Writer:赤猫もよよ
まとめはこちら→花葬の街、憂悶の海



 ――憂悶の海に漂う。


 快晴。

 やはり口に含んだ水は温く、遠方には灰燼の原と化した森林地帯が広がっていた。叩くと割れてしまいそうに透き通った碧落に風が駆け抜ける度に、雪原の白に似た灰の礫が舞い上がる。煌々と光を湛える太陽を浴びて、それは砕いた金剛石のように光の粒子をまき散らしていた。
 暑くもなく、寒くもなく、柔らかい風のみが吹き抜ける。青年が身体を委ねる草原は薄碧に萌え、風の手に薙がれ波音に似たさざめきを残す。自身の鼓動さえも環境音に呑み込まれてしまい、まるで自分がそこに存在していないかのような錯覚さえ覚えてしまう。その寂寞感が、何ともいえず心地よい。
 しかし、雑踏のない、ただ静寂と草が戦ぐ音ばかりが支配するこの大地に居られるのも、残すところ数日になってしまった。猫鼬の青年は別段目が良いという訳でもない。しかしそれでも灰燼と化した原が目認出来るという事は、もう間近まで迫っているという事に他ならなかった。歩くような速さで迫ってくる灰の原が、この丘や後方の「土葬の街」を呑みこむまでに。

 
「あんちゃん」

 依頼主の飄々とした声――良くも悪くも商人らしい――が風の中より聞こえて、猫鼬の青年はゆっくりと振り返った。

「待たせたな。街境を越える手続きに手間取ってよ」

 ししっ、と水を啜るような笑い声を立て、依頼主の砂獣は剛健に言葉を吐いた。
 懐からいくつかの小銭が入った袋を取り出すと、愛玩動物に餌をやるような要領でぽいと放り投げる。

「あんちゃんが手伝ってくれたお陰で、予定より早く事が進んだ。助かった」

「与えられた仕事をこなしただけだ」

 人懐っこく笑う砂獣バンギラスに対し、さして感情を歪めることもなく、ザングースの青年は淡々と言葉を放った。
 意図的な太みを帯びた若い声が、碧海をざわりと揺らす。

「それで十分さ。ほら、こいつも取っとけ。ボーナス給だ」

 先程と同じ要領で放り投げられた真っ赤な林檎は、小銭の詰まった袋より仄かに重い。金色の実が詰まったその球体は、見るものを魅了するような妖艶な輝きがあった。
 
「これは」

「どうせロクなもん食べてないんだろ。金溜めんのはいいけどよ、食うもの食わねえとおっ死んじまうぜ」

「これは売り物だろう。いいのか」

「なあに、店長は俺だ。……アァ、お礼がしてえんなら無事に生き延びて、向こうの街でまたご贔屓に!」

 ひらひらと手を振りながら去っていくバンギラスは、恐らくこの後「水葬の街」へ向かうのだろう。そこへ行けば、遠方よりゆっくりと迫り来る白い灰燼の原――通称「憂悶の海」に呑まれるまでに、また少しの猶予が出来る。彼も、そして青年もそのようにして生き延びてきたし、これからもそうやって生きていくのだ。

 そもそも、「憂悶の海」とは何か。一般的には、自然界にはほぼありえない色――灰色に染まった大地や海の事を表す。
 万が一触れてしまえば、微生物から植物から動物から――兎角、ありとあらゆる生命が死に至る、恐ろしい何か。接近は死を表すため、詳しい事は何一つ分かっていない。自然現象だとする説もあれば、神の裁きだと抜かす宗教もあるが、結局実際を知っている者は誰もいないのだ。共通認識としての“触れば死に至る”という事以外は。

 林檎を古びた鞄に仕舞い、青年も丘を去ろうと踵を返す。眼下に広がる「土葬の街」も今では随分と人口が減り、残されているのは動けない老人や見捨てられた子供たち、そして街境を越える金のない貧困層の獣たち。後は、“破壊こそ美徳”とカルト染みた教示を掲げる、所謂「イベルタル教」と呼ばれる宗教徒。青年には良く分からないが、巻き込まれるのが良いのならばそれでいいのではないかと思っている。無論、関わり合いにはなりたくないが。
 そんなことを思いながら街に降りると、人影がまばらな街の入り口には、人味のない不気味な声がいくつも響いていた。

「受容こそが美しい。無抵抗こそが美しい。神の裁きを甘んじて受け入れ、憂悶の海を御身に受け入れるのです」

「受容こそが美しい。無抵抗こそが美しい。神の裁きを甘んじて受け入れ、憂悶の海を御身に受け入れるのです」

「受容こそが美しい。無抵抗こそが美しい。神の裁きを甘んじて受け入れ、憂悶の海を御身に受け入れるのです」

 切って貼ったかのような声に、青年はうんざりしていた。受け入れる――とのたまう癖に、憂悶の海が間近に迫ると彼らは移動することを、青年は知っている。教えを広める為――と言えば聞こえは良いのだろうが、ウジ虫のようにどこの街にでも湧いてくるのは、流石に気分が悪い。
 関与しないよう目を背けながら通り過ぎると、いつの間にか門を越えていた。終末期の街ゆえに門守はもうおらず、無警戒に開け放されているから通行は容易だ。煤けた赤茶色の土壁が目立つこの街は、かつては豊富な土壌と豊かな鉱山資源があったらしく、まだ繁盛していた頃の名残りがそこかしこに見える。赤く錆びついた煌びやかな色の看板が、何ともいえない哀愁を漂わせていた。
 そんな終わった街で、まだ唯一機能している場所がある。湿っぽい裏路地をいくつも曲がり、酷い匂いを漂わせる屑籠をいくつも蹴っ飛ばした先に、青年が贔屓にしている大衆酒場「赤の妖精亭」はあった。

 錆びっぽい扉を力づくでこじ開けると、昼間だというのに退廃的な酒の香りがぷんと漂ってくる。酒に溺れ、腐りかけの丸木テーブルに突っ伏している男たちの虚ろな視線が、一度に青年に注がれた。最初は酷く不快だったものだが、彼らは別に悪い輩でもなんでもなく、寧ろどこの誰とも知れぬ小汚い青年を受け入れてくれた有難い存在なのだ。もっとも、同族の雰囲気を感じ取っていただけかもしれないが。

「おお、ヒヨスじゃないか。お前も呑むか?」

「いらん」

「おじさん寂しいぞぉ……」

 酒飲み特有の上ずった声を零すローブシンを尻目に、猫鼬の青年――ヒヨスはカウンターへと向かう。普段なら一仕事終えた後、この店で軽食を嗜むのが常なのだが、今日は違う。街境を超える為にも、規定以上の出費はご法度なのだった。

「あら。今日は早いわね」

「夜から仕事だ。少し寝る」

「そう」

 店の奥から現れたフラージェスの女店主は、多くを語ることを良しとしない。溜めた金を使えば街境を超えることも可能なのだが、どうもその様子はないようだ。多分このまま「憂悶の海」に呑まれるのだろう。構えた店を捨てる商売人などいない、とは彼女の弁だった。

「じゃあこれ、部屋の鍵」

 ひび割れた木製の鍵は大分垢に塗れて黒ずんでいた。仄かに異臭もする。「憂悶の海」に絶望した獣がいくつか命を絶ったと言われているその部屋の鍵は、カガリが泊まると言い出すまでは長らく封印されていたらしく、未だに禍々しい邪気のようなものが漂っているように思えた。

「別にいいのよ。他の部屋に移っても」

 やはり抵抗があるのか眉根を顰めた青年に、女店主はさらりと述べた。


「……金を払わなくていいなら」

「じゃあ無理ね」

 そんなことだろう、と青年は息を吐き、二階の部屋へと向かった。アザレア硬貨一枚という破格の値段で泊まれる以上、嫌ではあるがえり好みなどしていられないのだ。
 どうせ借りる人などいないだろう、と予想し部屋を片付けないまま出て行った朝のことを思い出す。青年は自身が粗雑な性格であることを理解しているから、正直ドアを開けるのは億劫なのだ。そこだけ砂嵐が訪れたかのように、ありとあらゆるものが散らばっているに違いない――と、予想したのだが。

「……片付けてくれたのか」

 思わず一人ごちた。千切れかけていた藁編みの布団は綺麗に繕われ、土埃や泥がこびりついていた床は綺麗に磨き上げられている。壁を四角く切り取っただけの窓の向こうに碧落が望め、「憂悶の海」よりも健康的な白色の雲が揺蕩っていた。少し心が和らいだような気がして、それと同時に自身の汚れた身体で清潔な空間に足を踏み入れることに、若干の抵抗を感じた。

「湯でも頼むか」

「そういうと思って」

 振り返らずとも、店主がにこりと微笑んだのが感じ取れた。青年は肩を落とす。本当に商売上手だ。

「はいこれ。比較的綺麗な布と、そこそこの温度のお湯が入った桶」

 ついでに、と手渡されたものが一番大きかった。青年の半身がすぽりと嵌ってしまうほどの巨大な桶。恐らくは、青年が湯浴みを希望することを見越して――そのために掃除したのだろう――あらかじめ置いておいたものに違いない。商魂逞しいというか、もはや呆れてしまうぐらいだ。

「……で、いくらだ」

「どうせ、今日で泊まるのも最後でしょう。タダでいいわ。その代わりに――」

「代わりに?」

 フラージェスの店主は、艶やかに笑う。

「この店のこと、忘れないでね」

 その笑みは、誰かに似ていた。
 

 洗ってあげましょうか、というからかい半分の要求をどうにか断り、ヒヨスはほどほどの温度の湯に身を漬けた。もう数週間以上洗っていなかった為か、足の指先をお湯に浸しただけで微妙に黒く濁っていく。完全に半身を漬けきった頃には、もうそれがお湯なのか泥水なのか分からなくなっていたほどだ。
 毛皮の隙間に吸い込まれていく暖かみによって、全身に張り詰めていた緊張感がするりとほぐれていった。濁った息を吐いて湯気交じりの綺麗な空気を吸うと、早朝からの荷物運びで疲労しきっていた身体が鉛を帯びたように重くなっていく。
 一瞬意識が飛び、危うく溺れてしまいそうだ。この気持ちよさは何時までも味わっていたいものだが、そろそろ温くなってきたし、このままでは本気で寝てしまいかねない。青年は名残惜しげに湯から這い出ると、乾いた布で水気を取り、次いで身体を震わせ水気を払った。
 そしてそのまま、朦朧とした足取りで布団に潜り込む。久しぶりに天日干しでもしたのだろうか、藁編みの布団は穀物が焼けるような良い匂いを醸し出していた。

「やめ……ッ! 離してくださいッ!」

 窓の外から不吉な騒音が飛び込んできて、睡魔に身体を委ねつつあった青年は飛び起きるように体を起こした。瞬間的に寝てしまったためか、妙に頭が気怠い。近くで物音が起きると飛び起きてしまうという、いつもなら重宝している癖が、いまでは快眠の枷となっていることに微妙な苛立ちを覚える。
 
 窓の外を覗くと、「赤の妖精亭」が面した路地に、火鼠の仔獣がいた。捨てられた子供にしてはやけに小奇麗な成りをしているが、恐らく特記すべきはそこではないだろう。先程見た宗教徒に似た種族の獣どもが、その火鼠を取り囲んでいるという点だ。
 火鼠の皮は耐火性、防寒性に優れている。成熟した成獣の毛皮よりも、まだ未発達で外気による影響が大きい幼獣のものの方が、より質が良い。つまるところ、高価で売れるのだ。
 恐らくあの子供も、生きたまま皮を剥がれ殺されるに違いない。血の通わない死体のものより直前まで血が通っていた物の方が質が良いというのは、誰にだって理解できることだ。
 
 青年は一瞬ばかり逡巡して、鞄の中に入っていた萎びた木の実を取り出した。クラボの実――と呼ばれるそれは、神経麻痺や筋肉の痙攣を取り除くなど、神経毒に対する解毒作用があることで知られているが、使い道はそれだけではない。
 青年は息を吐くと、左手に握りしめた木の実をゆっくりと握り潰した。吹き出した嫌な色の汁が毛の生えた腕を伝う――刹那、火を放たれた油の如く、液体に朱色の炎が這い始めた。一瞬の内に燃え上がり、腕が炎に包まれる。
 窓の傍に屈みこみ、様子を窺う。宗教徒達は今にも幼い火鼠に飛びかかろうとしていて、もはや一刻の猶予もない。青年は吐いた息を飲みこみ、炎が纏った手を振りかぶり――投擲の仕草。
 先程までは存在していなかった火球が、腕に這っていた炎が消滅すると同時に手先から放たれる。投げられた剛球は不幸な宗教徒の背中をぶち抜き、着弾した部分から朱色の爆熱がどうと広がった。喉が焼けそうなほどの熱波に数瞬遅れ、耳を劈くような爆音が辺りに響き渡る。

「があアアアアッ!!!!」

 熱波と暴風に吹き飛ばされ、爆音で揉みくちゃになった宗教徒達とは対照的に、火鼠はきょとんとした面持ちで今しがた起こったばかりの現象に呆気にとられていた。
 が、少しの空白の後、どこかへ走り出す。他に追手が居ない限り、恐らくは逃げ切れるだろう。

 窓からの襲撃は流石に予測出来なかったらしく、宗教徒達は襲撃犯の正体を掴めていない様子だった。
 つまり、因縁を吹っかけられる可能性もない。“しぜんのめぐみ”という技を好んで使おうとするポケモンはそうそういないが、不用意に技を見せびらかしでもしない限り大丈夫だろう。
 久しぶりに技を使って、どっと疲れが増してきた。青年は半ば倒れ込むように布団に転がり込むと、直ぐにすやすやと寝息を立て始める。


 開け放された窓の外には雲が揺蕩い、その奥の空の下には、すぐそこまで迫った「憂悶の海」が大口を開けて街を呑みこもうとしていた。


あとがき
もよよです。花葬の街、憂悶の海にお目を通して頂き、大変嬉しい所存でございます。
不定期更新ゆえ完結するかどうかも定かではありませんが、何卒よろしくお願い致します。
※読み方は「かそうのまち、ゆうもんのうみ」です。妙に略しづらいので頑張って覚えて下さると嬉しいです。略称を考えて下さるともっと嬉しいです。


二幕「石穿ちの火種」


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Last-modified: 2014-05-21 (水) 22:49:09
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