キャラバン小楽隊
水のミドリ掌編集3つめ。飛ぶ成分多め。ジュナイパー多め。
あとがき書きました。
たいそう大きな研究所の屋外プールで、ホー博士はぽんとモンスターボールを投げた。空中で分解すると中から赤い光が弾け、いったいどこに隠れていたんだと問い詰めたくなるほどでかいポケモンが飛び出してきた。
ばっしゃーーーん!!
そのポケモン――ホエルオーは、ふちいっぱいに水の貯められたプールに潜水した。押し出された25mプールの水は、プールのへりを悠々と乗り越え、磯に打ち付ける荒波みたいな飛沫をあげ、すぐそばで記録をとっていた助手の男を飲み込んだ。
「おい君」
離れたところでビーチベッドにちょこんと座っていた背の低いホー博士は、足元をずんずん流れてゆく水には目もくれず、わしゃわしゃに蓄えた髭をさすりながらびしょぬれで抗議の目を向ける助手に言った。
「おい君、なにを濡れラッタになっとる。早く測らんかね」
「何をです」助手は濡れた茶色の髪にため息をつく。「何を測ればいいんです」
「なにって」博士の喋り方は野良のポチエナに餌をやっているようだった。「そのために君を呼んだんだがね」
「分かってますよ、ったく」
悪態をつきながらも、助手は持っているメジャーをプールに突っ込んだ。プールのへりから水面までの高さを計測すると、それは1.6メートルほどだった。
「博士、あふれた水は、えーと……およそ46万リットルですね」
「うむ! でかしたぞ!」
博士はホーホーみたいに目を丸くして、ベッドからぴょんと降りた。プールサイドにできた水たまりを跳ねながら、水面に浮かんできたホエルオーにすり寄る。このときばかりは堅物のホー博士も躍り上がった。なんせ、長年の研究結果が今まさに実を結ぼうとしているのだ。
が、助手はそのすごさがあまりわからないらしい。怪訝な顔で博士の顔を覗きこむだけだ。
「それが、どうしたんです?」
「こいつの密度は1グラム毎リットル以下であることが証明されたんじゃ!」
「だから、それが何なんですか?」
「まだわからんのかね。いいか、いちから説明するぞ。わしはホエルオーを楕円柱に近似し、計算で密度を求めてみることにしたのじゃ。測定すると横幅7.00メートル、高さ6.10メートル*1、尾鰭を除いた奥行き14.0メートルで、理論上の体積は46万8千リットル。もしこれが正しければ、体重400キログラムのこいつの密度は0.85グラム毎リットルということになる。それがいま証明されたのじゃ!」
「……つまり?」
「空気の標準的な密度は1.29グラム毎リットルだろう。こいつはそれより軽い。つまり、ホエルオーは宙に浮けるということじゃ!」
「へぇ、なるほど……はいぃ!?」助手はあきれたように言った。「だって、ホエルオーの体重は平均398.0キログラム*2もあるんですよ? そんなでかいポケモンがぽんぽん浮かんでちゃたまったもんじゃありません。現に、ホエルオーは街中に漂っていないじゃないですか!」
「ほーえー」とホエルオーも地響きみたいな鳴き声を上げた。「そうだそうだ」と言っているようだった。
「何かの計算違いでしょう。こんなことを発表したら、世間の笑いものになりますよ」
「そんなことはない。わしの学説に間違いはないのじゃ! そうだろ、ホエルオー」
自分の胸を張るように小さな手でホエルオーの広い眉間をべちべち叩く博士を横目に、助手は濡れた髪をかきむしった。
「あーもう、博士はこの国を救う人だって信じていたからついてきたのに、最近のあなたのやろうとしていることはさっぱり理にかなっていない! こんなことが続くようなら、私も助手を辞めさせてもらいますからね!」
「理にかなってないとはなんじゃ、理論と実験に基づく論理的結論だろう! 事実上ホエルオーは浮けるのじゃ。ほれ、やってみい。尻に力を入れて、鰭を動かすんじゃ!」
「ほえー……」
ホエルオーは、実際のところ浮けっこないと思っていた。そもそも、海で暮らしていたときは浮かぶなんて考えるまでもなく浮かんでいたのだ。水に。
10数年前に研究のためにとホー博士に捕まって、新たな住みかとなったプールはあまりに窮屈だ。淡水は刺激が少ないし、水をすぐにはじき出してしまうので満足に尾鰭も動かせない。あの頃みたいに海流にひげをたなびかせ、心ゆくまでその冷たさを味わってみたい。たまには外に出て、むかし海面から眺めた鮮やかな森を見るのもいいな、とも思った。
それに、博士は一度こうと決めつけたら梃子でも動かない。不満を漏らすように小さく「……ほえ」ともうひと鳴きした。しぶしぶ言われた通りやってみる。衰え気味の筋肉に喝を入れ、浮かび上がるよう勢いよく水を弾きだした。
さばあ。
浮いた。まさか浮けるとは思っていなかったホエルオーは、慌てて身体を水中に戻そうと鰭を動かした。けれども勝手に慣れていない空中では思うようにいかず、もんどりうってぐるりぐるりと地球儀みたいに回ってしまうだけだった。
「どうじゃ、わしの言った通りだろう」
泡を吹いて倒れた助手の横で、ホー博士は満足そうに笑っていた。
数週間もすると空を飛ぶことに慣れ、ホエルオーは小さな街の好きな所へ空を泳いでいけるようになった。海に潜る時のように頭を重くしてやれば地上に近づくし、浮こうと鼻から潮を吹き上げれば街並みが米粒みたいに小さくなる、気流を鰭でとらえ、悠々と空を飛んだ。
街の人やポケモンたちの様子はみな一様だった。空を泳ぐホエルオーを指差し、指のないものは目を見開き、目のないものはあんぐりと口を開けた。携帯電話のカメラがひっきりなしにシャッター音を響かせていた。
これには、ホエルオーの上に乗ったホー博士も上機嫌だった。広い背中に軽い素材でできた椅子を取り付け、ワイングラスを片手にふんぞり返って街を見下ろしていた。
「おい、あのテレビ局に降りるんじゃ」
一躍時の人となったホー博士は、ホエルオーをタクシー代わりにして公共放送の収録に向かうようになった。その様子がテレビで放映されて、博士の名は国中にとどろいていた。
「博士! 博士のおかげで我が国は救われます! たった今、今年度の国民栄誉賞の授与がホー博士に決定しました!!」
「記者会見のあと、14時から学会でのゲストスピーチが、17時から大統領を交えてのパーティが……」
「ホエルオーの側面に掲載する広告についてはですね……」
テレビ局の屋上に降り立った博士は、瞬く間に記者陣(と、マネージャーに転身した助手)に取り囲まれた。本人も全く嫌なそぶりは見せず、
「ほー、そうじゃろ! そうじゃろ!」
と上機嫌だ。
15分押しで始まった全国放送の記者会見で、ホー博士は高らかに言った。
「ホエルオーを人工降雨器として利用すれば、いまこの国で進行する大
次の日ホエルオーは長い距離を飛ばなければならなくなった。浮かべなくなるギリギリまで腹に水をたらふく貯め込んで、全ての鰭で力の限り身体を漕ぐ。明日は筋肉痛になりそうだ、とホエルオーは思った。最近は毎日博士を乗せて飛んでいたから、そろそろ休暇を貰ってもいい頃だろう。
なんて考えていると、小さな街の城壁が見えてきて、あっという間にそれを飛び越えてしまった。ホエルオーの目の前に現れたそこは、一面に広がる黄褐色の世界。街の中ではちらほらと見ることのできた緑色の植物や動物の気配がどこにもない。
地平線までも埋め尽くす砂漠は、気の遠くなるまでずっと続いているようだった。それを見て、ホエルオーは危うく墜落してしまうところだった。
――10年前に見た景色とずいぶん違うじゃないか!
博士の研究所に閉じ込められていた間に、世の中はみるみるうちに変わっていった。人口の爆発、森林の伐採、生物資源の濫用。異常気象は加速し、むかしは水と緑で囲まれていたこの国も、今では見渡す限りの砂漠になってしまった。
海は。ホエルオーは思った。海は、どうなっているんだろうか。自分の生まれ故郷である海は、いまもその美しさを保っているんだろうか。
「こらホエルオー、どこへ行くんじゃ! そっちは雨を降らせる場所ではないぞ!」
背中で喚くホー博士を無視して、鰭を翻した。生命の回帰本能だろうか、生まれた海の方角に向かって、ホエルオーは一直線に進んでいく。
しばらくして見えてきたのは、砂漠の砂を洗い上げたような真っ白い絨毯だった。なだらかな斜面になっているそこは、丘との境目に波模様があって、かつて海だったことを直感させた。
白い絨毯の正体は塩だった。あんなに広大で優しかった遠浅の海は、すっかり干上がって果てしない塩田になっていた。
ホエルオーの身体の割に小さすぎる目から、どばっ、と涙があふれた。
ほ~え~。
ほ~え~~。
ほ~え~~~~~~。
ばざあぁぁぁっ!
力いっぱい声を張り上げて、腹に蓄えた淡水を、背中の間欠泉から一気に噴出した。なんじゃ、よさんかこの馬鹿め、と騒ぐホー博士を濡れラッタにしながら、ホエルオーは泣いた。泣き続けた。
しばらく泣き腫らして、自分の鳴き声が木霊みたいに響いていることに気付いた。後ろを振り返ると、自分と同じホエルオーが2頭、自分と同じように潮を噴き上げながら泣いていた。きっと空を飛んでいるホー博士のホエルオーを見て、彼らも同じことができると思ってついてきたに違いない。
それだけではなかった。アズマオウやキングドラなど、空に浮かべるはずのない川や海に住む多くのポケモンたちが、後から後から空を泳いでくるのだ。見よう見まねで鰭を動かしているのだろう。みな海が無くなったことを嘆いて、目から口から大量の水分をぶちまけていた。
すぐに泣き声の大合唱となった。辺り一帯に大粒の雨を降らせた。
それはどんどん窪地に溜まっていき、とうとう大きな水たまりができた。だが、本来の海の姿には遠く及ばない。海が昔の面影を取り戻しかけて、彼らはいっそう泣きじゃくった。
そうこうしているうち、腹の底に貯めてきた水を出し尽くしたホー博士のホエルオーは、身体がもうすっかり軽くなっていることに気付いた。このままじゃ地上に戻れなくなる。
それでもよかった。美しい海が、森が、自然がない地上になんて、戻れなくなったって構わないと思った。
ホエルオーを先頭に、空に漂っていた水ポケモンたちは、気流に乗った気球みたいにだんだんと上昇していった。みな、体じゅうの水分を流しきってしまったのだ。
「どうしたホエルオー! もういい、今すぐ街に戻るんじゃ! おい、言うことを聞かんか! ……ほ?」
起きた奇跡に一番に気付いたのは、下を向いてホエルオーをべちべち叩くホー博士だった。何もないはずの砂漠の真ん中に、うっすらと緑がかった何かが見える。
それは、植物の芽だった。みんなの流した涙が砂漠に零れ落ち、そこにあった種を芽吹かせたのだ。
発芽した芽は瞬く間に成長した。あっという間に大草原が広がった。
植物は大地に広く根を張り、地下深くの水脈から水を吸い上げた。土が潤い海に水が染み出してきて、大海原が蘇った。
できた海は蒸発して、分厚い雲を作り上げた。この国で2年ぶりとなる、天然の雨だった。
雨はホエルオーたちの上から降り注いだ。重量を取り戻した彼らはゆっくりと降下していき、緑の生い茂る地上に戻ることができた。
一面の黄褐色だった大地は鮮やかな色を取り戻した。みんなの海を強く想う気持ちが、奇跡を起こしたのかもしれなかった。
ホエルオーは嬉しくなって、間欠泉から思い切り噴水した。それを見たまわりのポケモンたちも、競うように水の祝砲を打ち上げる。分厚い雲が途切れた大空には、大地に負けないくらいカラフルな虹がかかっていた。
こうして国は平穏を取り戻した。しかし、全てが元通りというわけでもない。天変地異の爪痕は、時間をかけて治癒していくほかになかった。
それからもうひとつ。街に戻ったホエルオーたちは、英雄として盛大に祝福された。街の中央の広場では、ホー博士の講釈はそっちのけで夜通し祝宴が催された。彼らは空中で華麗にダンスを披露してみせたり、みんなを背中に乗せてぐるりと遊覧したりした。国を救った多くの水ポケモンたちは、時が経った今でもその力を使いこなしている。モンスターボールから繰り出された彼らが宙に浮かんでいられるのは、こういう謂われがあったからだ。
「冷たあっ!?」
「「
からりとした秋晴れ、お昼時の公園に、若い男女の悲鳴が木霊した。通行人は何事かとベンチの方を見やる。そこにはやかんで水を沸かしたように湯気が吹き上げていた。
彼女に触れた短い手がぐずぐずと溶けてみぞれ状になり、ミンツはとっさに腕を離した。彼女の湧き上がったような体も触れたところが黒く固まってしまっている。
良い雰囲気になったところでキスしようと、
「……ごめんなさい、今日のところは帰りますね。凍傷になるといけないので」
「うん……送っていくよ」「ごめんね、ひとりで大丈夫?」
「……ミンツさんもお体、気を付けてください」
アパートのドアに吸い込まれていく流動質な彼女の後姿を、これ以上ない皮肉に2つの顔を引きつらせながらミンツは見送るしかなかった。
「――てなことがあったんですよ、先輩!」「これで3回目なんですよ、笑っちゃうでしょ?」
「ほーん、そりゃ大変だったねぇ」
週末、会社のお昼休みに社員食堂で後輩のバイバニラであるミンツのノロケ話を聞き流しながら、はづきは弁当の卵焼きをつっついていた。恋人を想うことなく自分のために毎朝作っているそれは、お母さんの出汁の味を見事に再現している。
「もーこれじゃ、満足にデートもできませんよ。いつもすぐああなっちゃって」「ま、ボクらが急ぎ過ぎたのが問題なんだけど」
「仕方ないでしょ、バイバニラとマグカルゴじゃ相性悪すぎなんだよ」
「「な、そういう言い方はないじゃないですか!?」」
2つの顔が同時に叫んだ。排冷管から吐き出される冷気にはづきは顔をしかめる。
ミンツは2つ年下ですぐ隣の大学に通うマグカルゴに気があるようで(出会いも電車の中でひと目惚れだったそうだ)、何度かデートに誘うことに成功しているようだった。だが、そこから先がどうもうまくいかない。
元来炎タイプも氷タイプも、ある程度なら自分の体温を調節して周りを燃やしたり凍らせたりすることなく日常生活を送ることができる。が、炎の身体とアイスボディではいかんせんどうしようもないらしい。1万度とマイナス100℃では温度差カップルにもほどがある。人間のはづきにはなんとなくしかわからないが、ちんちんに暖められた熱燗に氷を入れるところを想像して、ああ台無しだな、と思った。
「で、どうすんのよ? これじゃマグマな彼女も煮え切らないままじゃない。そもそも煉花ちゃんは、あなたのこと良いと思っているの?」
「それは、その……」「聞いちゃいます、それ?」
歯切れの悪い返しに、はづきは身を乗り出した。そう言う話が聞きたいんだよ、と言わんばかりだ。
「デートに誘えば応じてくれるんですけど……」「……楽しそうじゃないよね、いつも」
「そりゃ、そうだろうねぇ。恋人なのに手すら握ってもらえないんだもの」
「ううっ……」「返す言葉もないです。煉花に手はないけどね」
別れるのも時間の問題だろうな、とはづきは思った。ま、それはそれで面白いから別にいいんだけど、なにかもっとうまい話がありそうだ。
はあぁぁ~っ、と冷めた溜息をついて、ミンツは注文した社食のトンカツ定食を凍らせた。
「どうしたらいいんでしょうか……」「火だるまになった気分ですよ、もう」
「じゃあねぇ……先輩が助け舟出したるよ。あたしの母さんはキノガッサの薬剤師でね、いろんな薬を扱っているんだ。そのうちのひとつを特別に分けてやろう」
「おおっ!? 本当ですか!」「やば、カッコよくて惚れちゃいそ……」
「はっははは。その言葉は煉花ちゃんにとっておきな。デートの前、こいつを服用しておくだけだ。1包み1回分、水に溶かして飲め。いとしの彼女にもだぞ」
目の前に置かれた白い薬包紙に包まれた粉末を、ミンツの顔が交互に覗きこむ。
「なんですか、これ……見るからにヤバそうですけど」「キノガッサの胞子じゃないですか? 吸い込んだら眠くなりません?」
ぎくっ。
「しっ失礼な。胞子なんかじゃない。嫌なら返してもらうからな」
「や、ごめんなさい」「ありがたく使わせてもらいます」
「どうせ明日にでもデートに誘うんだろ。さっそく使ってみなよ、びっくりするから」
さっと顔を赤くしたミンツを置いてデスクにもどる。いやはや、可愛い後輩を持つと応援したくなるものだ、とはづきは思った。
週明け、ひとり寂しく弁当を食べるはづきに、ミンツが駆け寄ってきた。
「おう、デートはどうだった」
「……感謝してます」「いやホント、ありがとうございます」
……こりゃ驚いた。いつも飄々としている甘いマスクの方の顔までお礼を言うから、さぞ素敵な週末だったんだろうな、とはづきは心のうちでにんまりした。
「……で?」
「びっくりしました。触れても煉花の身体が全然熱く感じなくて」「逆に熱い夜になったよね」
「やかましいわ」
「彼女の肌に触れたとき、感動して爆発するかと思いました」「水蒸気爆発ってやつ?」
「あーはいはいリア充*3ね」
「これだけ強い効用なら副作用で眠くなると思ったんですけど、逆に目が冴えて眠れなくて」「彼女も寝かせてくれなかったけど」
「………………ほーん」
舌で卵焼きを押し潰す。あーもー味がしない。こんなことなら、砕いた悩みのタネなんてあげずに本当にキノコの胞子を盛っておけばよかった。はづきは粘りつくような視線を送り、食べ終えた弁当容器をさっさと片付けていく。
「んじゃ、頑張ってね。応援してるから」
自分のデスクに戻ろうとするはづきの細い腕を、ひんやりした冷気が捕らえた。
「いやあの、薬をもっとですね……」「欲しいのですが」
悩みのタネの粉末は劇薬だ。浮遊持ちのポケモンに飲ませたら日常生活ができなくなったりする。そんなことで、そこらのドラッグストアには並べられていないし、薬剤師の資格を持たないものの譲渡は禁止されている。はづきのやっていることはほとんど黒に近いグレーなのだ。
「じゃあ、今晩一杯付き合ってくれるな? もちろん全部ミンツ持ちで」
「後輩にたかるんですか?」「お金は彼女とのデートに使いたいのに……」
「とっておきの秘薬をタダでくれてやるってんだから気前のいい話だろ?」
そんなぁ、いくら何でも、と口々に不平を言うミンツを後目に、はづきは今晩の飲み屋をどこにしようか、と早くも浮かれ気分だ。今日はうまい肴もあるし、酒が進みそうだ。
ま、酒じゃなくてあたしもそろそろ彼氏作るかな。
ミンツが嬉しそうにぶら下げてきた耐熱耐冷の弁当容器に入っている、少し形がいびつながらも可愛らしい卵焼きを見て、はづきはそう思った。
今ではめっきり聞かなくなったが、合わせ鏡という都市伝説がある。2枚の大きな鏡を向かい合わせに設置し、その間に自分が立つ。すると私の虚像を映した鏡が背後の鏡の中に映り込み、その鏡の中に鏡に映った私の像が映る、といった具合に、鏡の中に無限の自分が増殖する。
ここからは都市伝説によりまちまちだが、私の住んでいる地域ではこうだった。鏡はどこか異次元に繋がっていて、深夜2時に見つめていると、ゴーストポケモンがかしゃりかしゃりと1歩1歩鏡のふちをまたいでこちらの世界にやって来て、夜更かしする子供を向こう側に連れ去ってしまう、と。
もちろん成人した今となっては笑い話だ。そもそもゴーストポケモンには足のないものも多い。小学校に通う頃はそれでも信じていて、夜遅くまでパソコンとにらみ合っている父親を連れて行かないで、なんて布団でガタガタ震えていたものだ。
思い出してふと時計を見ると、時刻はちょうど深夜2時。くせっ気のある茶髪をドライヤーで乾かすと、風呂上がりで秋の夜長に冷え込んできた身体が心地いい。デスクワークの気分転換に風呂へ入ったが、湯船で良いアイデアが思いつき、勢いで雑務なんてすぐに終わらせられそうだ。鏡の中には鼻歌気分で寝間着姿の私が映っている。終わったらそのまま布団に直行できるように、ドライヤーのスイッチを切って歯ブラシを口の中に放り込んだ。
いざ動かそうとしたその手が不意に止まる。
かしゃり。かしゃり。
……いや、まさかな。第一うちの洗面所は合わせ鏡になっていない。祖母の部屋に三面鏡があるが、今は使われていないはずだった。
そんなはずはないと分かっていても、一端意識してしまうとどうも気になる。家族は寝てしまったし、いったい何の音なんだ。
さっきまでの浮ついた気分は掻き消え、洗面所は物音ひとつしない。シェードに埃の溜まった蛍光灯が無機質な光を投げかけている。
歯ブラシを戻し忍び足で洗面所を出て、リビングに繋がる扉を少し押し開く。目と耳で音の発生源を探る。
彷徨う目線が、誰もいないはずのソファに留まった。むこう向きの背もたれの上にわずかに黒紫の影のようなものがはみ出している。それがひょこり、と動くたび、冷蔵庫の唸るような駆動音にかしゃり、と音が重なっている。
胸がざわついた。寒いはずなのに、洗い流した肌に汗が噴きだしてくる。
……まさか。本当に出てきていたとは。
私はゆっくりと近づいて、上から小さい影の玉を覗きこんだ。
「……ミノリ、何やってるの?」
ミノリ、と呼んだゲンガーがこちらを振り向いた。
大丈夫、この仔は私のポケモンだ。いつもこうやって、勝手にボールから飛び出す癖がある。部屋の温度が下がった気がしたのは彼女のせいだ。鏡の奥に連れ去ったりはしない。
「……ケケ」
私を一瞥して、ミノリは持っていた細い筒に目を戻した。彼女の手の中には私がむかし旅行先で買った万華鏡があった。かしゃり、と規則的に響いていた音は、彼女が万華鏡を転がしていたせいだった。
「いったいどこから引っ張り出してきたのよ」
「……」
ミノリは去年の春、私のもとに唐突に現れた。どこから来たのか、何が目的なのか尋ねたが、無口を貫き通して教えてくれなかった。野生に返そうと思ったが、生まれたばかりに捨てられたのか最終進化形にもかかわらず身長は60センチ程度しかなく、それは酷なことのように思われた。
警察に引き取ってもらおうかとも考えたものの、ゴーストポケモンは好きな方で、小さいゲンガーなんて珍しいなぁ、なんて思いながら試しにボールを投げるとあっさり捕まった。以来私のパートナーだ。
かしゃり。ミノリは再び万華鏡を傾ける。様々な表情を示す鏡の奥の世界を選り好んでいるようだ。そういえば、万華鏡も合わせ鏡だ。ミノリはお気に入りの異次元へ旅立って、向こうの世界の誰かを引きずりこもうとしているのかもしれない。
その赤い目は貪欲な獣のようにぎらついて見えて、私は思わずつばを飲み込んだ。
「……まさか、ね。ミノリにそんな力があるなら見てみたいよ」
恐怖を紛らわそうと、私は軽口を叩いた。
そうなのだ。ミノリはポケモンかどうか疑わしくなるくらい大人しく、ポケモンらしい技を放ったところをほとんど見たことない。借りてきた猫、もとい交換したゴーストみたいなのだ。
まあ、音の原因はわかったし、風呂で思いついたアイデアが消えないうちにさっさと作業を始めてしまおう。私はミノリの隣にそっと腰かけ、ノートパソコンに向かい合った。
立ち上げっぱなしだった文書作成ソフトに文字を打ち込んでいく。大学生というものはなんだかんだ課題に追われるもので、2年になったころからパソコンを相手するとき背が丸まるようになってしまった。
10分も経たないうちに、ふくらはぎに温かい感触があった。
「……なに、ミノリ」
「ンケケ……」
キーボードを叩く私の膝に、ミノリがよじ登ってきた。まったくもう、作業中は邪魔しないでって言っているのに、甘えたくなると彼女は時と場所を選ばない。
私の膝の上に陣取るミノリの背中の棘が柔らかく私の腹をくすぐる。もう少し成長したら棘は固くなってこんなこともできなくなるんだな、と思うとつい許してしまう。
作業中だった文書を保存して、別のファイルを開いた。手を休めて、彼女の頭をさすってやる。すくすくと成長する彼女の身体は、ゴーストタイプと思えないほど温かい。大きく横に裂けた口を少し釣り上げて、気持ちよさそうに目をつぶった。
しばらくそうしていると、彼女がパソコンの画面を見入っていることに気付いた。赤い目が爛々と輝いて、画面の奥にある1点を見つめている。
「ミノリ、どうしたの。……なんか怖いよ?」
がたん。
突然、部屋の電気とパソコンの光が消えた。
代わりにミノリの身体がすっと透き通るように輝いた。彼女が部屋の光をすべて吸い込んでしまったようだった。
これは、彼女の技だ。部屋が暗くなったのはナイトヘッドだろう。バトルはやったことないから分からないけれど、彼女の身体が光るその技は――ミラータイプ。目の前の相手の姿を反射して相手と同じ性質を得る技だ。
今のミノリの前にあるのは、暗くなって私の姿を反射したパソコンの画面。それをコピーしようと彼女も鏡になるとしたら。
――まずい。合わせ鏡だ。
暗転したパソコンの画面には、硬直した私が、じわじわと輝くミノリが、何重にも重なった薄い影となって映し出されていた。
向こうの世界と繋がった。
パソコンの暗い画面のずっと奥に、私たちのものではない白っぽい影が映った。初めは霧のようにもやもやしていたが、テーブルクロスに垂らした脂染みのようにじんわりと影が広がるにつれ、どんどん鮮明になってくる。
「ミノリ、もう辞めよう? 今日は遅いから寝た方がいいんじゃない、ね?」
掠れる声で言っても彼女は聞く耳を持たず、その赤い眼は妖しい輝きを放っている。
――向こうの世界の誰かを引きずりこもうとしているのかもしれない。
考えなければよかった、言わなければよかった。ミノリはきっと、私に馬鹿にされたことを恨んでいるに違いない。だからこうして、私に怖い思いをさせて自分の力を見せつけているんだ。
「お願いミノリ、ごめんって。だから辞めよう? ねぇ、辞めてよ……!!」
かしゃり。かしゃり。またあの音だ。白いもやがだんだんと大きくなるにつれて、音も大きくなっていく。共鳴するように、私の心臓も早鐘を打つ。
「だめ、ミノリ、ごめん、やめて、ごめんなさいっ……!! ――!!」
影がはっきりした輪郭を現した。それは――
顔だった。
それもひとつじゃない。いや、顔の輪郭はひとつなのだけれど、それが男の人の顔、女の人の顔、高校生や壮年のサラリーマン風の顔へと次々に切り替わって、人魂みたいにぼうっと浮かんでいた。
私の知らない人の顔が、笑ったり和んだり、ときに驚いたり涙を流しながら、私の方を見ている。その眼は、その眼は1点を見つめることなく、せわしなく空中を泳いでいた。左から右へ小刻みに振動する眼球は、今にも画面の奥から飛び出してきそうだった。
「…………ッ!!」
声にならない声を上げる。ミノリをぎゅっと抱きしめる。
それを見て、私は、私は――
ただただ嬉しかった。
ねぇ、見えていますか? 私はあなたが見えていますよ。
パソコンの画面を通して、打ち込まれた文章を通して、あなたがあなたのパソコンや携帯電話の明るい液晶に照らされて、今小さく「ひっ」と喘いだところを、私はしっかりと見ていましたよ。
あなたはどうですか、見えていますか。画面の奥に、小説の裏に、してやったりの顔の私と、その膝に乗って一緒に笑うゲンガーの
もし見えていたとしたら、幸いです。物書きとしてこれ以上楽しいことはありません。
ああ、なんて気持ちのいい夜!
窓の外には千切れた雲が並びまん丸の月が出ていて、今日は夜更かしするのに最適な一日だった。ミノリが私の膝からぴょんと降りて、だぼだぼのパジャマを引っ張る。もうおねむの時間だ。そういえば、彼女が初めて私の前に現れたのも去年の4月の月の出ている晩だったっけ。それから1年と半年たったこの日まで、彼女はずっと私の隣にいてくれる。
今日の執筆はこのくらいにしますか。私はボールを取り出して、ミノリを大切に仕舞った。
暗くなったパソコンの液晶は、鏡のように私の顔を映し出していた。
2015/10/05
「ねぇ見た見た見た? 今そこを通ってったドレディアのお嬢さん、めっちゃカワイくなかった!? ほらほらもうちょっと右に行けって……いた! あぁ横顔だけでも可憐だなぁ。瑞々しいおててにしなやかな腰、なんといってもあの豪勢な髪飾り! アー俺の胞子受け取ってくれないかなぁ」
「……」
「やっぱああいう仔が理想のお嫁さんだよなぁ! なんというかこう、華がある! あ、いや頭の花じゃなくてね? 雰囲気がさ、もう優しそうじゃん」
「……」
「仔供だってかわいいだろうよ。なんてったっけ、見たことあったと思うけど……」
「……チュリネ」
「そうそれ! 記憶にないけど」
「嘘つけ、この森にたくさん棲んでいるぞ。オレが仔供の時からさんざん見てるからな」
「そうだっけ? まぁいいやとにかくお嫁さんだよ。あのほら、なんて言うんだっけ? シルヴプレ、俺と結婚してください! って……ねぇ聞いてる? っていうかもしかして引いてる??」
「気づくの遅すぎだろ。何ならお前が初めてオレに話しかけて来た時からドン引いてるけどな」
「ええー? またまたぁ。そんなこと言ってずっと一緒にいるくせにぃ! いいからあの仔をもっと冷静に見つめてみろって、めっさ可愛くない?」
「言うほど可愛くないだろ」
「じゃあどんな仔が好みなんだよー」
「例えば……あの仔とか」
「えええぇ!? ほっほほほホイーガ! タイヤじゃん! ダンゴムシじゃん! なんかあのー、なんというか見た目からしてアレじゃん! ってか毒タイプて! 俺は無理だねー、喰らったらひとたまりもないや」
「うるさいなぁ、オレの好みなんだからいいだろ。でもなんだ、お前は苦手なのか、あの仔がオレの彼女になったら付き合いが難しくなりそうだ。もしかしたらお前ともお別れかもな」
「おいおい悪かったごめんって! 俺とあんたの仲だろう、俺のことを第一に考えてくれよ!?」
「まぁ……お前がいないとオレも寂しいからな。ものたりないというか……」
「ひゅ~~~ッ!」
「キモいって」
「いいじゃねぇの、進化して俺、浮かれてんだ」
「見ればわかる。しかしお前、よく喋るようになったな。この距離だと頭の中がぐらんぐらんするぞ。昔はずっとオレの背中におぶさってついて来るだけだったのにさ」
「昔は昔、今は今だろー? 俺も大きくなったし、お前もそろそろ背負ってる負担大きいんじゃねぇの?」
「そう思っているならオレの背中から降りてくれ!」
「無理だって分かってんだろ。お前の上から離れたら俺、それこそ死んじまうもん」
「そうと分かっているならホント感謝しろよ! 重いし栄養勝手に盗っていくし、今までロクなことがなかったんだ。これからオレのためにしっかり働いてもらうからな!? ……お、そろそろっぽい。なんだか意識が
「ん、おけ。ま、安心して俺に任せておけってことよ。まずはあのホイーガちゃんにアタックしてみっからさ」
「頼んだぞ、新しい“俺”」
森の中。パラセクトの大きな茸の笠をかぶった赤銅色の甲虫の目が、ゆっくりと白く濁っていった。
あ、コレ鬱だ。
私が自分の精神状態について正しく認知できたのは、オフィスの給湯室で同期のユリコに指摘されたのがきっかけだった。自分でも驚いたことに、言われるまでは私の心が病んでいることに気づきさえしていなかったのだ。
「
「影?」
ユリコの意図がつかめず困惑した表情をつくると、彼女はぎょっとしたように目を覗きこんできた。明るい茶髪のショートボブと、見ているこっちがハッとするような大きい瞳。ナチュラルな朱の口紅は、白を基調とした介護系会社の制服とよく合っている。雑誌モデルみたいに美人だ。そのうえ明るいし気は利くし頭もいいしで、私なんかと比べものにならないくらい。
「うわ、相当やつれてる。和恵、自分で思っているよりかなりひどいわよ。なんだか負のオーラを纏っているというか、精気が無くなったというか……。ふとした時に顔に暗い影が落ちるのよ。今みたいにね」
「疲れているだけだよ、今週残業多かったから」
そこでようやくかなりの無理をしてきたことに気付いた。心配してくれるユリコの視線から逃れるようにさっと目線を落とすと、自分の影が目に入った。開放的な窓から差し込む南国の高い太陽に照らし出された私の影法師は、いつもと変わらず足元に縮こまっているように見える。ユリコのポケモンであるキュワワーのヴェラちゃんが、サイフォンから立ち上がる湯気に揺られてふんわりと漂っていた。
私とユリコ、課長の分のカップを並べながら、ユリコは冗談めかして言った。
「もしかしたら、
「な、なに言ってるの……」
メレメレ島はハウオリシティの北部郊外に佇む老人ホーム。そこが新卒で採用された私の職場だった。入居するご老人も気候柄しまキングのハラさんのような豪快な方が多いから、そういった霊ポケモンはもともと内向的な私に寄りついて来るのかもしれない。
「それに知っているかしら? 課長から聞いたのだけれど、老人ホームにはそういった噂がつきものらしいわ。元気だったお年寄りが急に亡くなったり、黒い人影が魂をさらっていくのを見た、なんて話もあるようだし。和恵も気を付けたほうがいいわ。今のあなた、影が薄くてなんだか連れ去りやすそうだもの。もうすでに片足だけあの世に踏み入れているんじゃないかしら」
「やめてってば!」
冗談よ、と小さく笑って、ユリコはさっと化粧ポーチを渡してきた。どういうことかと困惑していると、それで死相を誤魔化しなさい、とのこと。
化粧室の鏡を覗いてみると、確かにやつれているようにも見える。ぼさぼさの黒髪は不衛生でないよう短く切りそろえたくらいで色っ気もない。睡眠時間が十分に取れていないからか、目の下のクマがこびりついて消えなくなってしまっていた。最近は化粧もないがしろになっていた気がしないでもない。ユリコの貸してくれたファンデーションで皺を撫でつけておいた。
書類をコピーし課長のデスクまで届けると、ひと足先に戻ったユリコとダフ課長が立ち話をしていた。
「ちょっと教えればすぐ分かっちゃうんだから、うん、やっぱりユリコちゃんは優秀なんだねぇ。なんだっけ、カロス地方のミアレ大学に留学していたんだっけ、よく知らないけど」
「はぁ……まぁ……」
もうすぐ50を迎えるらしい骨ばった手足は、デスカーンのようにひょろひょろと嫌らしく動く。その割に脂肪のついた腹と頬、太陽光線を防ぐすべを失った浅黒い頭皮が、てらてらと輝いていた。
「課長、頼まれた書類、刷っておきました……」
それまでコーヒーを片手にご機嫌でまくしたてていたダフ課長が、露骨に口許を歪めて貴重な本数の頭をぽりぽりと掻いた。あぁ、ありがとね、とそっけない返事をして、そういえばこの間のプレゼンね、と切り出した。
そこから続いた長話を、私はあまり覚えていない。つきまとう自己嫌悪で息がつまるのをどうにか堪えていたからだ。ここでついに確信した、これが鬱なのだと。
「まァ和恵クンも、もうちょっとがんばってみてもいいんじゃないのかな、うん。ほら、若い頃やったんでしょ、島めぐり。あの時はパートナーのポケモンとならどこにだって行けるって張り切っていたんでしょう、うん。よく知らないけど。じゃ、わたしはランチに行ってくるから、あとはヨロシクね」
エレベーターへ颯爽と去っていく課長を後目に、ユリコがまた心配して顔を覗きこんでくる。
「和恵、大丈夫? ダフ課長、面倒見のいい人だけれどああいうところが玉にキズよね。少し休んだら?」
「うん……そうしたほうがいいみたい。でもごめん、今日はもう帰っていいかな」
「もちろんよ、家でゆっくり養生しなさい。課長には私から言っておくから」
「ありがとう……」
「こういう日もあるわよ。こんなときは自分のパートナーとゆっくり過ごすのが一番ね」
同性の私でもドキッとするようなウィンクを残して、ユリコは残った朝の仕事を片付けるべく自分のデスクに戻っていった。
重たい体を引きずってアパートに戻り、シャワーを浴びる気力もなくベッドに倒れ込んだ。放り出したバッグに手を突っ込み、金属質の球体をなんとか探し当てる。
「グラス、出ておいで」
モンスターボールをひとつ膨らませてそっと投げる。島めぐりに挫折して、旅の初めにバーネット博士から貰ったこの仔を除いてみんな野生に返してしまった。
仕事が忙かったから、なんて言い訳をして最近はほとんどグラスに構ってあげられなかった。よくよく見れば、茶色い羽毛はところどころ埃がまとわりついている。天然芝のにおいがする新緑のフードも、お洒落なオレンジの眼鏡をかけたようなジト目の周りも、なんだか淡く色褪せて見えた。どっちもこの仔のチャームポイントで、ニックネームの由来にもなっているのに。
自分のことに手いっぱいで、いつも身近に寄り添ってくれている彼のことを忘れかけていた。なんだか鏡を見ているみたいだった。今の私も、きっとこんなみすぼらしい姿をしているんだろう。
「ごめんねぇ、こんな主人で」
「……」
ベッドにへなりと座ったままブラッシングする私をそっと包み込むように、グラスは両方の羽で抱き込んでくる。力の抜けた私の頭を、くちばしで優しく羽づくろいしてくれた。
こげ茶の羽のカーテンに囲まれたほの暗い空間。感じるのは首筋を撫でる羽毛の温かさと、落ち着いたグラスの呼吸だけ。どうしてだろう、今になってふがいなさで涙が出た。泣きながらグラスにドライヤー掛けをしておやつの豆を一緒に食べて、気づけば彼の胸に泣き崩れるようにして眠っていた。
自分が鬱だと気付かされてしまえば、毎日なんとなく感じていた違和感にも納得がいった。周りの視線が気になって集中できない。ちょっとしたミスで気分が塞ぎこんでしまうこともあった。初めは単に課長から叱られて落ち込んでいるだけだと思って、なおいっそう仕事に打ち込もうとした。けれど何ひとつうまくいかず、さらに怒られる。悪循環だった。常に倦怠感や無気力感に付き纏われ、体重もここ2ヶ月で5キロは落ちたような気がする。任された仕事はなんとかこなすものの、入社当初に抱いていた向上心なんてものはどこかに消えてなくなっていた。
精神科に通院しながら働く毎日が始まった。症状を打ち明けるとユリコは親身になってくれて、会社にいる間だけキュワワーのヴェラちゃんを貸してくれた。新人プレゼンでユリコが発案し即採用された『
たぶん、鬱になった原因のひとつにはユリコもあるんだろう。新設の企画サービス課に配属された新人は私たちふたりだけで、だからダフ課長から何かと比較される。ユリコは会社の他の課の男性社員たちが噂するくらい容姿端麗・才色兼備だから、私がひがんでしまうのも仕方ない、と思う。
週明け、2か月ぶりに袖を通した看護服姿のユリコが私の隣で囁いた。
「今日はいやな課長の相手はしなくていいのだから、おじいちゃんおばあちゃんたちと楽しくおしゃべりすれば、気分も晴れるかもしれないわよ」
「……そうだといいんだけど」
「元気ないわよー。ま、気張っても仕方ないし、楽にしなさいな」
企画サービス課はデスクワークがもっぱらで、こうして介護を担当するのは数か月に1度だけ、現場がどのようなものなのかを再確認する趣向が強い。入居しているご老人たちの
いつものオフィスから離れただけで――同じ建物の1階に下りただけだけど――だいぶ気は楽になったみたいだった。
正午を回ると元気なお年寄りはみんなレクリエーションルームに集まっていた。メレメレ島の守り神にアローラ相撲を捧げるとかで、足腰に自信のあるおじいちゃんがふたり、ダフ課長の音頭のもと危なっかしい取っ組み合いをしている。
ひと回りもふた回りも若返ったような活気、周りから飛んでくる熱い声援。島めぐりの初日に偶然立ち寄ったリリィタウンのお祭り、それを思い出すようだった。お年寄りと一緒になって遊んでいると、夏の短い思い出のように時間があっという間に過ぎ去っていった。そうして時間が経ち私の気持ちにもだいぶ余裕が戻り始めたころ。
ふと私が視線を窓の外に移すと、視界の端でなにかが蠢いた。ぼうっとしていれば気づかないような黒いもやのような塊が、裏庭の菜園を横切り途中でふっと浮かび上がり、見えなくなった。
「……ユリコ見た、今の」
「え? なに?」
朗らかに笑うおじいちゃんに花輪のつくり方を教えていたユリコは振り返って、楽しそうに微笑み返してくれた。レクリエーションルームにはいつもと変わらない穏やかな午後の空気が漂っている。人間よりも鋭いとされるポケモンのヴェラちゃんも、おばあちゃんの頭へ無邪気に花輪をかけてあげていた。
きっと気づいていたのは私だけ。見間違いなんかじゃない、確かに黒い霧が窓の外を浮かび上がっていったんだ。
ぞ、と嫌な予感がした。ユリコの言っていた怪しげな噂の話、あれは私を元気づけようとしてくれたただの冗談だと思っていたけれど、ここにきてなぜだか真実味を帯びてきた。
不安がぶり返してきて年甲斐もなく泣きそうになって、思わずユリコの袖を引っ張る。おじいちゃんの相手をヴェラちゃんに任せて「どうしたの」と彼女は私の顔を覗きこんできた。この前アローラ全土で話題になったクラゲ型の怪物、それに遭遇したような凄まじい形相を私はしていたんだと思う。
「なんかね、黒いもやの塊がね、ふわって」
私の指差す庭の奥をユリコが目で追ったけど、そこに広がるのは小さな菜園だけ。なだめるようにユリコが背中をさすってくれて、私はようやく落ち着けたみたいだった。
「もしかしたらポケモンかしらね。楽しげな雰囲気に引かれたのかも」
私も聞いたことがある。霊タイプのポケモンはふつう人を驚かせて楽しんでいるだけで無害だけど、彼らの一部はあの世とこの世を行き来していて、魂のやり取りを任されているのだとか。シンオウ地方には”送りの泉”と呼ばれる場所があって、毎晩そこは全国から集められた魂で溢れている、と。
「……ごめん、私どうしても気になるの」
「あ、ちょっと!?」
焦るユリコを残して、私はエレベーター脇の階段を駆け上がった。バルコニーの真上は203号室と204号室、203は空室だけど204にはマハオさんという90歳のおじいちゃんが入居している。今日は朝から熱があるとかで、レクリエーションに参加していなかったんだ。
霊ポケモンが連れ去るならいい標的だ。幸か不幸か私の悪い予感は的中、204号室の引き戸を開けると窓の外には案の定暗いもやが浮かんでいた。
目を凝らせば、もやの塊から不定形の手のようなものがぬっと出てきたようにも思える。それが寝込んでいるマハオさんに掴みかかって――
「――っ、グラスお願いッ!!」
それが魂を抜き出しているんだと直感した途端、私の中にある暗い気持ちがぶわっと吹き飛んだ。看護服のポケットから咄嗟に取り出したモンスターボール、投げるとまばゆい光が飛び散り中からグラスが躍り出た。
くるる、と低く喉を鳴らして、彼は目を光らせた。進化して霊タイプも併せ持つようになったグラスだ、鋭くにらむ視線の先には、きっと魂を引っ張る正体がくっきりと映っているんだろう。
逃がすわけにはいかない。10年前、グラスと廻った島めぐりの感覚が蘇ってくる。キャプテンに認められた証をいくつか集めたところで頓挫してしまったけれど、パートナーを信頼して共に闘ったあの高揚感が、忘れかけていた記憶の底から湧き上がってくる。
「頼んだよグラス、久々だけど私とあなたなら決められるよね! アイツが逃げる前に――”影縫い”ッ!!」
自分の中から鬱屈した気持ちが完全に抜け出していくのがわかる。同時に、かろうじてもやとして見えていた霊体がすっと消えていく。犯人が霊界に引っ込もうとしているのか、私の霊感が薄れていっているのかは分からないけれど、時間がないことだけは明らかだった。外したらもう後のない1発勝負だ、全力で集中しろ。
ばさっ、と無言で羽を翻し、フードの弦を引っ張りしならせるグラス。抜いた茶色の矢羽に霊界の力を纏わせて、狙いを定めるように虚空を睨んでいた。
「今っ!」
霊体が完全に消え切る瞬間、私の掛け声にあわせてグラスが矢を放った。飛んでいった羽は黒いもやに直接当たることはなく、からめとるように囲い込んで曲線を描き、部屋に差し込んだそいつの影を突き刺して白い床に縫いつけたようだった。
「マハオさんの魂、返しなさい! グラス、”あの技”お願い!!」
眼鏡をかけたような両目が鋭く光る。それと同時に、グラスの矢じりで逃げられなくなった霊体が、私の目にもくっきりと映るようになった。
「……さすが、島めぐりした子は違うわね。嫉妬しちゃうわ」
私のあとを追いかけて階段を上ってきたらしいユリコが、まるでお化けでも見たような表情でドアにもたれかかりながら息を切らしていた。
「……それでは、プレゼンを始めさせていただきます……」
前回はもっとハキハキできていたのに、気を抜けば舌がもつれてどもってしまいそうだった。他の部署からも偉い人が大勢聞きに来ていて、一斉に視線を向けられてくらくらしそう。
隣を見やると、すでに発表を終えたユリコが強いまなざしでエールを送ってくれていた。『プレゼンは分かりやすさが命! はっきりした声で頑張って!』と言ってくれているみたいだ。
ただ、今回その”分かりやすさ”だけには自信があった。なんていったって写ってしまっているんだもの。
「まずは、こちらの写真を見ていただきたいのですが……」
エンターキーを押してスライドを展開させただけで、会議室が小さくどよめき立った。ふんぞり返って見ていたダフ課長も、わずかに残った数本がすべて抜け落ちてしまうのではと心配になるくらい驚いた表情をしている。それもそのはず、私のプレゼンを採用しないわけにはいかない、グラフや表よりわかりやすい決定的な証拠が、でかでかと映し出されているのだから。
今まさにマハオさんの魂を抜き出してあの世へと持ち去ろうとするヨノワール。グラスの”影縫い”でこの世に縫い付けられた零体が、続く”見破る”で人間の目にも映るようになっていた。健康な老人が突然息を引き取ってしまう怪現象の元凶――慌てふためく手掴みポケモンの姿が、くっきりと押さえられている。
「――以上で、私のプレゼンを終わりにします。ありがとうございました」
パソコンをたたんで、ざわつく会場を颯爽と後にする。『介護現場にジュナイパー等の警護ポケモンの登用』という私の奇抜な企画案は、ユリコの初プレゼン同様そのまま即採用されるだろう。まさか、自分のパートナーと同じ職場で働けることになるとは思わなかったけれど。
発表を終えるとちょうど昼休憩に入り、建物の外に出て伸びをする。1年中常夏のアローラは今日もからりとした快晴だけど、昨日より太陽がまぶしく輝いているみたいだった。息を切らして追いかけてきたユリコが、真昼の花火のような笑顔で祝福してくれた。もちろんヴェラちゃんも一緒だ。
「うまくやったわね和恵! 顔色もずいぶんよくなったんじゃない?」
「うん、何だかそんな気がするの。そうだ、お昼にランチでも行かない? 最近この近くにもマラサダショップができたんだよ!」
「もちろんよ! そうだ、それなら快気祝いにおごらせてもらえないかしら」
新店舗はしぶサダを扱っているだろうか。渋みの強い大人な味は、冷静な性格のグラスが大好きだったはずだから。
船乗りの嫁は待たされる。
付き合っていた当初から言われてきましたけれど、まさかここまでだとは思っておりませんでした。
旦那は、乗船日が来るたび、
「ちょっくら行ってくる」
なんて、近くのコンビニまでお酒のツマミを買ってくるみたいな感じでふらっと、3か月ほど会えなくなります。そのあとハネムーンな休暇が1ヶ月間続く、といったサイクルになっておりました。
旦那の「ちょっくら」を3回聞いただけで1年が終わっていたのですから、新婚のわたしには心底堪えた――というわけでもなく。まぁ結婚する前はもっとひどく、旦那に加えわたしも世界周遊フェリーの客室乗務員として海の上におりましたから、ふたりの休暇がことごとく噛みあわず会えたのは年に4日。
4日ですよ!?
こんな恋仲、"陸の人"からしたら「えーそんなの付き合ってるうちに入らないよー!」なんでしょうけど、船酔いで感覚が鈍っていたのでしょうかね、どれだけ待たされる結婚生活でも確かにわたしたちは愛し合っていましたとも(海の上ではほかに出会いがなかったとも言う)。
だからこうして、10年も旦那の帰りを待ち続けているんですけれどね。
旦那は船乗りと聞いて、大概の方はマグロ漁船のようなロマンあふれる船を思い浮かべられるようで。
――いえいえ違います、貨物船ですよ。ホドモエの。
こう答えると、皆さんカニや新鮮な野菜の詰められたコンテナを想像なさるようで。
――主な貨物は清涼飲料なんです。冷凍設備のない貨物船ですよ。ホドモエの。
ここまでくると、大抵の方は黙ってしまわれます。イッシュの貨物の玄関口ホドモエから冷凍コンテナを取ったら何が残るのかと。まぁ、わたしも結婚前はそのくらいのものでした。
しいて言えば、旦那が最後に乗った船には船体の中央に大きなクレーンがついておりましたね。街のイメージカラーであるえんじ色のクレーンは、リザードンが雄々しげに天を見上げているようでした。それも今は海の底。
そんな昔話を考えていました折りに、アローラ地方へ島めぐりに行っていた息子からペリッパー空輸で小包が届きました。
実に半年ぶり、軽い感動すら覚えながらカッターで段ボールを切り開いておりました。
変なペナントは出てくるわ腐りかけのパイナップルは出てくるわ(常夏のアローラよりは涼しいですがこっちも今は8月です!)。写真にうつる息子はわたし譲りの明るい緑髪をかなり短めに切りまとめ、あんなに白かった肌も小麦色に焼いてすっかりリージョンフォームで満喫していましたとも。
そんなふうに、息子まで出ていって唯一の家族になった
「ぶるり~」
あらかたはしゃぎ終わって整理をしていると、忍辱が何かを手渡してくれます。2mを超えた浮遊体のひらひらの触手に握られていたのは、ひとつのモンスターボール。
添えられた手紙には、
『元気してるー? 島めぐりが楽しすぎて、ババァに連絡するのすっかり忘れてたよ。ちょっと行き詰まったから、観光がてらいろいろお土産買ってみた。いらないものは捨てちゃっていいから。それじゃ、アローラ! P.S.釣りしたら面白いポケモン釣り上げた! 寂しくないかなって思って、同封しておいたよ。コイツは逃がさないでね』
なんて、息子の字で書いてありまして。
――ば、ババァ!?
子は親元を離れれば勝手に成長するといえど、まさかここまでだとは思っておりませんでした。
……あれ、この言い回しは冒頭でも書きましたかね。
ともかくボールを投げました。とくに何も考えず、屋内で。
どかんっ!
……デカすぎませんか?
わたしはお口あんぐり、ですよ。
目の前には錆びたイカリがぶらりぶらり。
朽ちたハンドルの取っ手は抜け落ち、4本しか残っておりません。全体に絡みついた緑の海藻からは水か滴っておりました。……これは海水? 埋め込み方位磁針が船の揺れのように傾いて、まるで巨大な顔が笑ったり怒ったりするように見えるのです。
「きゅりりらら……」
金属をゆっくり擦り合わせたような、けれども不快感のない低音。
このポケモンの鳴き声でしょうか?
忍辱を部屋の中でも出せるようわざわざ旦那が天井を高く改装したのに。浮いているせいもあり、わたしの身長のゆうに3倍近くもあります。
……なんだこのバケモノは。世界を何周もしたわたしでさえ、見たことのないポケモンでした。
急いで調べると、この海の藻と鉄屑でできたポケモンはダダリンと言うらしいのです。
とりあえずボールに仕舞って。
あたりに散乱するのは、天井だったもの。瓦礫を拾い上げて、おもわずため息が漏れていましたよ。
――修理代どうしましょう?
なんて思われた方、大丈夫です。心配には及びません。
実はわたしも、再び海に出るのです! 実に15,6年ぶり。
やっぱり海の人なんですね。
普段はわたし、近場のレストランで料理人として厨房に立っておりまして。
今じゃ立派に貨物船の船長を務める旦那の旧友Aさんに頼み込みました。久しぶりに自分の船乗りスキルを猛アピールし、なんとか
ホドモエを発ち、カントーのクチバやカロスのヒヨク(世界イチ綺麗な景色を堪能できるモノレールで有名な町です。お立ち寄りになった際にはぜひ!)に寄港し、最終目的地は息子のいるアローラ地方を目指し約3ヶ月。長旅です。
とまあ、それだけの賃金が入れば天井の穴なんてすぐに直せます。
船乗りって案外儲かるのですよ、奥様!
ともかく、新しく家族になったダダリンと仲を深めておかなければ。万が一バトルになったとき言うことを聞いてくれないと困ってしまいますからね。
忍辱と一緒に部屋の掃除をして、巨大なイカリを撫でたり磨いたりしておりました。
もちろん外の公園で、でございます。
それになんだか、旦那の面影を感じるのです。
おかしいですよね。こんな無機物で、どこをとっても似つかないというのに。
さて乗船。
――お、おぉぉ……。
十数年ぶりの大型船の揺れに、感動すら覚えておりました。
調理仕事がひと段落着くと甲板に出て、旦那の好きだった俳優のハチクさんよろしく潮風に当たっちゃったりします。
貨物船を追い海面に何度も橋をかけるママンボウの群れ。
親鳥に必死についていくような、コアルヒーたちのパラグライダー。
愛されている船はそうなんだと、旦那は申しておりました。
ところで、いま船乗りの間で人気急上昇中のポケモンはなんだと思いますか?
答えは……。
ライチュウです。アローラ地方の。
そうなんです。水タイプじゃないんですねぇ。引っ張りダコの理由は想像に
と、それは気持ちの話ですが、現実的な良いトコロもありまして。
航海中、船はまれに野生のポケモンに襲われることがあります。海のポケモンはほとんどが水タイプ、たまに併せ持つのは毒タイプ。ホドモエ付近なら忍辱とおなじブルンゲルが危険ですね。
そういった輩に効果抜群な技を持つライチュウは、船乗りにぴったりのパートナーなのですよ。
航海中は、甲板で見張りに当たる旦那の後輩でBくんのパートナーのレントン君(素敵なニックネームです。アニメ好きの旦那によれば、空飛ぶサーフボードを乗りこなすロボットアニメの主人公なんだとか)と戯れておりました。もちろん忍辱も一緒にです。
とまあ、悠長に過ごしていられるのも8月のうちだけでして。
積乱雲が目立つようになったと思えば海は大
当然甲板には立っていられませんので船内に退避です。けれど、引っ込んだは引っ込んだで大変なことには変わりなく。
大嵐の中でも腹は減る。食堂は……阿鼻叫喚でございました。
揺れる、揺れる、揺れる。
吐く、吐く、吐く、吐く、吐く。
わたしはクルーの中でも1,2を争う船酔い耐性の持ち主でしたので、終始ほかの船員の介抱に当たっておりました。ちなみに浮いているおかげかレントン君も元気いっぱいで、グロッキーなBくんの隣でポフレを頬張っています。なんとも逞しい。
それよりひどいのが調理場でして。
せまい足場をぎっこんばったん、振り回されながら料理をしなければなりません。フリッターの油が飛び跳ね床はぐちゃぐちゃ、棚の鍵をかけ忘れようものなら食器類が我が物顔でせまい調理場を狂喜乱舞します。
そんな中、事件が起こりますよ。
あまりの揺れに耐えかねた天袋の蝶番が、勝手に弾け跳んでゆきます。飛び出そうとする中身を、咄嗟に手で押さえておりました。直後、それ以上に大きい揺り返しが来まして。
アイタ! 腰骨の辺りにかなりの痛みを感じました。振り返ると、シンクのへりに腰を思い切り強打していました。
それだけで済めばよかったのですが。
観音開きに開けられた天袋から、食器たちが(下船日を迎えたクルーのように)飛び立っていきます。霊タイプもビックリのポルターガイストをわたしは見ました。
そのときたまたま腹ぺこライチュウが次のおやつはまだかと様子を見に来てくれていまして。機転を利かせてサイコキネシスで飛び出す皿を受け止めてくれました。船乗りのゲン担ぎ恐るべし。
皆さん陸の人は地震の揺れに怯えるそうですが、わたしたちは毎日波の揺れと戦っているのであります。
と、てんやわんやの嵐を過ごしていると。
A船長から呼ばれました。
実は船に乗せてくれたAさんに、ずうずうしくも頼みごとをしておりました。
というのも、旦那が10年前海難事故で沈んだポイントをひと目見ておきたかったのです。
1分だけでもいい。
旦那の沈んだ海を眺めて、心に区切りをつけるつもりでおりました。
慌ただしさにすっかり忘れておりました。貨物船はゆっくりと減速を始め、もうすぐわたしの目的地に到着です。
濡れてもいい服に急いで着替え、甲板に出ます。
恨めしいかな、カイオーガでも現れたのではというほどひどい嵐。
海に投げ出されてもいいように、ボールから忍辱を呼び出しておきます。
ついでにダダリンにも、この海を見ておいてもらいましょう。
――ここが、旦那のいる海。
……なーんて感慨もなにもありませんでしたよまったく!
立っているのも必死で、ほとんど泣き顔で甲板のヘリにしがみついたままだったのですから。
AさんBくんをはじめ、事情を理解してくれているクルーたちにも申し訳ない限りでございます。
そんなわたしに見かねたのか、忍辱がレースの腕でわたしを巻き取って広い頭に乗せてくれました。
励ましてくれるのかと思いきや、
「ぶるり~るるっ!」
――え、ちょっと、どこに行きなさるんですか!?
思いっきり海へダイブ!
あわてて大きく息を吸いこみました。
みんなの息を呑む声が、はるか遠くから聞こえてくるようです。
わたしの呼びかけにも答えずに、嵐で荒れ狂う海の中できょろきょろとあたりを見回す忍辱。
つられて目を向けると、そこにはかなり懐かしい姿がありまして。
精悍なブルンゲルへと進化していた旦那のポケモンの
そうでした、忍辱もわたしと同じ間だけダンナさんの帰りを待っていたのです。そりゃ、体を絡みつかせてダンスしたくもなるでしょうよ。
――でもちょっと待て、わたしを巻き込まないでくれ!
ピンクとマリンブルーの体をゆらゆら揺らしながら、暗い暗い海の底へと沈んでゆくではありませんか。わたしはその渦に囚われたまま、どうすることもできませんでした。
わたしは夢を見ました。皆さまいいですか? これから書くことは、ただの夢の話ですよ?
忍辱と頭労に連れられ竜宮城、ではなく。
ぼんやりと開けた目に映ったのは、ほとんど光の届かない海底に横たわった、ユーレイの出そうな沈没船でした。
船体にはリザードンのような色合いのクレーンが設けられておりまして。
――あれ?
見たことがあります。というか、覚えています。塗装は剥げ甲板に穴は開いているものの、それは紛れもなくあのとき旦那が乗っていた船。
どうしてこんなところに、なんて酸素の薄くなった脳ミソで考えておりますと。
忍辱か頭労かが怪しい光を放ったのでしょうか、オンボロ船が淡い光に包まれておりました。
大昔のフィルム映画を巻き戻しているかのようでした。
甲板に開いた穴は魔法のように塞がってゆき、剥がれ落ちた塗装は進水式の日の輝きを取り戻します。
おぼろげな光に包まれて、船は息を吹き返しました。
ぎぃ。
2体のブルンゲルに抱擁されながら呆然と眺めていると、脳に直接響いてくるようなちいさな音。
よくよく目を凝らします。
船内からドアを開けて出てきたのは……旦那でした。
甲板の手すりにもたれながら、ぼー……っと遠くを眺めております。中毒か、というほど好きだったサイコソーダを片手に(おれはコレを運んでいるんだ、としょっちゅう自慢されたものです)、よく焼けたガタイのいい体は、太陽の熱視線を浴びて健康的に輝いております。隣にはまだプルリルの頭労が、青いフリルの体を漂わせて楽しそうに談笑しているようでした。
あたりの海には心なしかママンボウの群れが飛び跳ね、コアルヒーの高く響く鳴き声まで聞こえてくるようでして。
穏やかないつかの海が、そこにありました。
旦那がなにかに気づきました。遠くのほうの海を指差して、それが上を向いて。
目が合いました。
「なんだ、そんなところにいたのか」
それは確かに、時間も空間も離された、わたしに向けられておりました。
夢の中で聞いた、10年ぶりの旦那の声。なにも変わっておりません、懐かしい声。
深海の水のゆらぎが、コアルヒーの高い鳴き声が、プラネタリウムのようにわたしを包み込んで遠く反響しています。
息をつませて、見つめあいながら。
「○○、こっちに来るのは、まだ早いよ」
――まって、話したいことがたくさんあるの! 息子が生まれたのよ、最近ますますあなたに似てませてきて――
時間切れ、でしょうか。
旦那は笑ったまま、淡い光に包まれて、映像が白く飛ぶように、消えてゆきます。
フィルムが焼き切れてしまいます。
消えてしまう直前、笑う旦那がまた指をさしました。
振り返って見上げると、はるか遠く海面から超スピードで近づいてくる、鈍く光るもの。
それは見たことのある、モズクの絡みついたイカリでした。
カンダタの蜘蛛の糸みたいに真っすぐ一直線にわたしへと向かって落ちてきて――って、ここは地獄か!
「ぐえ。」
ぎゅるり、わたしの周りを大きく1回転。
みぞおちの辺りにアンカーを巻き付けられたかと思うと、一気に引き上げられました。
ものすごい速さで沈没船が遠のいていきます。
泡が水面に弾けて消えるように、船は見えなくなっておりました。
夢からサルベージされたわたし。
いつのまに嵐が過ぎ去ったのか、波は穏やかで空にはビックリするくらいの晴天がどこまでも続いておりました。
波に揺られて、浮き輪みたいにダダリンのイカリにつかまって。
甲板から心配そうにのぞき込んでいた貨物船のクルーたちと目が合いました。レントン君に至っては、心配で好きなポフレも喉を通らなかった模様。手に握りしめたまま、今にも泣きそうな顔をしておりましたよ。
Bくんの話では、
「30分以上水中に潜って帰ってこなかったから、さすがに諦めて動こうとしないダダリンを説得していたところなんだよ」
とのこと。
……未亡人を海のど真ん中に置いて帰るなんて、ちょっと男としてどうなんでしょうかねぇ皆さん。
ちなみに、濡れたわたしの緑髪は、ダダリンそっくりのモズクに見えたらしいそうです。
……はてさて、わたしが見たものは夢だったのか現実だったのか。
何食わぬ顔で浮かぶ忍辱とダダリンに、ちょっと訊いてみました。
――あんたたち、やっぱり何かしたの?
「ぶる~ん」
「きゅりきゅらら……」
……はぐらかされちゃいました。
と、わたしを夢から連れ戻してくれたダダリンのイカリ、その片方の爪の先がキラリと鋭く輝きました。
手に取ってよくよく見ると、それはサイコソーダの瓶のボトルキャップ――銀の王冠。
しかもそれ、見覚えがあります。
赤と青の外字体に炭酸の弾けるイラストはちょうど、旦那が務めていた10年前のモデルだったのだ!
……ちょっと出来過ぎてやしませんか?
思わず吹き出してしまいましたよ。振りむけば、何も考えていないような顔でぷかぷか浮かぶ2匹の姿が。
もしあれが本当だったとしたら、何を思ってこの子たちがあんな夢を見せてくれたのか。
霊タイプって、本当に不思議なものです。
後日談。といってもそれから数時間後の話ですが。
今度はわたしが息子宛てにペリッパー速達便を送りました。ハンコのいらない手紙類なら、電話1本で海の上でも駆けつけてくれるのです。
「今からアローラに移住するから、とりあえず近場のモーテル押さえておいてね、このガキんちょ」
要約すれば、まぁそういうことです。
けっきょく我が家の天井の穴はあいたまま、親戚に引き渡すことになりました。今や国際電話でライフラインの契約を変更できるのですから便利ですね。さらば青春。古いか。
さてさて、身ひとつ新天地での生活が始まります。
……おっと、そうでした。忘れちゃいけませんね。この子たちがいましたよ。10年来の付き合いになる忍辱と、旦那の面影を残すダダリン。
この子たちが、わたしと旦那の切れた赤い糸をたぐり寄せてくれたのでしょうか。
そういえば、ニックネームもちゃんと考えておりませんでした。
甲板の上。髪を吹き抜ける潮風と、どんどん強まっていく太陽光。
手を開けば、きらり、銀の王冠がまぶしく輝きます。
それが旦那の姿と重なって。
……名前、思いつきました。わたしのセンスなので自信はないですが。
これからよろしくね、舵輪の"ダーリン"。
はわわゎゎゎ……。
なんてこった! 図書館裏で見つけた雑誌が、まさかあんなモノだったなんてっ!
ホクホクの新知識を蓄え上機嫌の帰り道、わたしの目に映ったのは植え込みの陰にひっそりと捨て置かれた雑誌の山。10冊ほどだろうか、捨てるには明らかに不適切な場所だし、ひもで縛りもしていない。マナーのなっていない人間もいたものだ。幸いゴミ捨て場は近いので、わたしがサイコキネシスで運んでおいておこう。これも人間の分けてくれた素晴らしい知識のお礼といったところだ。
ひょいと持ち上げると、いちばん上の雑誌が落ちてしまった。おっとと、力加減を間違えたかな。拾おうとかがみこんだわたしの目の前で、ぱさり、雑誌が途中のページで開かれた。
……ばさばさばさ。残りの9冊も落としてしまった。
「は、はわわゎゎゎッ!!」
思いっきり叫んでいた。それから、すぐに隠れた。だれに見られているってわけでもないのに。
え……えっ? に、人間と、ポケモンの、えっ? どろどろで……えっえっえっ?
ヒドイデに狙われたサニーゴみたいに、植え込みの陰で口を両手で押さえて息を止めていた。しっぽの先まで硬直していた。ど……どうしよう。い、いやいや、どうすることもないか。もともと捨ててあったものなんだし。いやでも、代わりに捨てると受け持ったわたしが放棄するのは、わたしが捨てたと同義ではないか。うん。でも、わたしはこういうの今日がはじめてだから、1冊だけにしておこう。そう、わたしは何も間違ってはいない。これを持ち帰って、持ち帰って――
気が付けばエイチ湖の岩屋の中にいた。頭の中でまとまらない理由をこねくり回しているうちに、体はハイスピードで帰路をたどっていたようで。
問題のそれは今、わたしの目の前にある。机として利用している洞窟の平岩にそっと置かれたそれは、どうしてか輝くようにさえ見えた。
……いやいや、わたしはぶんぶん首を振った。こんなもの、持ち帰ってどうするというのだ、まったく。あんなものを見てしまって、気が動転しているだけだ。いつもの瞑想をするように深呼吸を繰り返す、繰り返す。すー……はぁー……すー……はぁぁーーーっ!!
……ダメだ気になる。どうやって心を落ち着けようにも脳裏に焼き付いて離れない、何とも知らず見てしまったあの粘液まみれのミミロップ。あのあと彼女がどうなったのかを、私は知りたい。
そう、これは知識欲。"けもなー"と呼ばれる属種のニンゲンが私たちポケモンについてどう思っているのか、それを薄い本という形でどのように表現しているのかを、ちょっと知ってみたいだけ――
いつもの薄目をさらに薄くして、初めてポケモンに触る人間の幼子みたいにおっかなびっくり、わたしはざらついたページを付けていた折り目のところまで一気にめくった。
こ……こここれは何と――! 私の知らない知識がこんなにもあふれていようとは――ッ!
……っダメダメダメ! わたしとしたことが、なんと浅ましい! 一瞬でもソウイウ衝動に駆られてしまった自分を猛烈に恥じた。こんなもの、アグノムたちに見られでもしたら――
「呼んだユクシー?」
「はわ!」
「え、どしたのビクっちゃって、ユクらしくないよー?」
「はわわ!」
びくん! としっぽの先までストレートに硬直したわたしを見て、岩屋の入り口から覗いたアグノムとエムリットが怪訝な顔をした。
「な、ななななんでこっこここにっ!!!?」
「え、や、なんでって、みんなでご飯の約束だったじゃないか」
「そうよー、記憶の神サマが忘れちゃってた?」
……そうだった、しくじった! というかもうそんな時間! ――も、そうだけど、エムリット、彼女だけに知られてはダメだ! なんたってシンオウ中を気ままに飛び回っているし、感情の赴くままに喋り散らすんだ。彼女にコトが知れたらその伝達速度は――音速。
全く別のところに意識をもっていかれたわたしを見て、アグノムは何かに気付いたようで。
「お、ところでそれは本だね? いったい何を読んで――」
「はぁうわあぁぁ!」
「!?」
なりふり構わず、わたしは念力で雑誌をビリビリに引き裂いていた。
久しぶりに眼を開くほどの念力を使った気がする。こんなしょうもないことで。――ああ、本当にしょうもない。涙が出てきそうだ。心配してくれるアグノムとエムリットをよそに、わたしはため息を繰り返すばかりだった。
そのあとの食事会は言わずもがな、何にも喉を通らなかった。
背丈はちょうどわたしと同じくらい。翼はわたしと同じ薄茶色で褐色の斑点がある。それに隠れる胴体もわたしと同じようなクリーム色のもふもふで、首元にはわたしのものと同じようなオレンジの飾り葉があしらわれている。極めつけに頭部にはわたしと同じ新緑のフードが被せられていて。
おまえのために何日も徹夜して作ったんだぞ、とツツミが
「も…………もふぅ!?」
だから、まだモクローだった頃の甲高いさえずりみたいな鳴き声を漏らしてしまった。もはやプチパニックだ。フードの紐を引っ張って顔を隠さなかっただけマシと言ったところかもしれないけど。
「なはは、何だか進化する前より不意打ちに弱くなったんじゃないか、シャペロ?」
そのくせ当の本ポケはいつも通りニヒルな笑みを湛えたまま。白で塗り潰したようなジト目は心持ち細められていた。新芽のようなクルマユの触角をぴょこんと揺らし、羽織る葉っぱの外套をさわさわと擦り合わせた。表情の変化に乏しいくせに、わたしをおちょくるときだけツツミは実に楽しそうにする。
「ツツミ、な、なにこれ……?」
「進化祝いだ。遠慮なく受け取ってくれ」
「え、ええぇ……どうしろって言うのよこれ……」
ツツミが自慢げにわたしの横へ並べてくる等身大そっくり人形を、もういちどまじまじと見る。素材はなんだろう、胴の部分は細い毛の生えた植物の枝が緻密に編み込まれている。きっと綿だ。翼はそれよりもきめ細やかな繊維、たぶんツツミが吐き出した絹糸を茶色に染色して編み上げている。さらに視線を上げると、人形の目と合った。初めて見たときからかなり気になっていたのだけれど、わたしはこんな顔をしていなかったはず。オシロイ花の染料で塗りつぶしたような白い半目。不機嫌そうな上三角の口はツツミのそれそっくりで。いつの間にか人形の頭へよじ登っていたご本ポケと、一見どちらが本物のクルマユなのか分からなくなるほどだった。
「……なんだか顔に違和感があるんだけど」
「それは私の顔面に対する痛烈なクレームか? 傷ついてしまうぞ、おまえ程なよなよしていないがこれでも雌だからな」
「そうじゃなくて、わたしの体にツツミの顔がすげられていると、なんというか、奇妙というか……」
「私は服は編めても壊滅的に絵心がないからな、おまえの顔はちと複雑すぎた」
「えぇ……」
「そう自信を無くすなシャペロ、おまえの顔が可愛くないと言っているわけではない。それとコイツにはな、見てくれよりも力を入れた"機能"があるんだ」
「機能?」
わたしたちの住みかのある棉の森は、晩秋になってようやく葉を枯れ落とし白い綿花を鈴なりにその枝へと実らせた。エルフーンたちがせっせと綿を収穫して回っている。その西の草原にひとつ外れて根を下ろす棉の大木、その根本にわたしたちは来ていた。ニタリと笑うツツミが人形の頭から飛び降りて、巨木の大枝へ向かって口から糸を飛ばす。木の根元からそれを巻き上げてしゅるしゅると昇っていった。同じ要領でわたしそっくりの人形を吊り上げると、幹に寄りかからせるよう糸で枝に固定する。
「そこで見ておきな」
ぽかんと眺めていたわたしの元へぴょんと降りてきたツツミの口からは、しなやかな糸が続いていて。それはあの人形の首元、オレンジの飾り場に括り付けられていた。
「それッ!!」
突風が吹いた。タイミングを合わせてツツミが糸を引く。かたかたかた、と連動して人形の翼が広がり、体が傾いて、枝から滑り落ちた。
飛んだ。
絹糸で縫い合わされた翼を伸ばし、風を切っていた。風向きが揺らぐたび人形の体が左右に傾く。それでも墜落することなく、わたしのそっくりさんは空を飛んでいた。
唖然とするわたしに、ツツミが得意げに話しかけてくる。
「どうだ驚いたか? 成功させるのに何日かかったか……。人形でも飛べるんだ、生身のおまえが飛べないはずないと思わんか?」
「で、でもわたし……!」
「でもも
ツツミにせかされるまま、わたしは棉の木の枝に立たされていた。目の前には風に乗る、もうひとりのわたし。こう見ると、同じジュナイパーならわたしだって飛べてもおかしくないような気がする。
そうなのだ。ツツミの言う通り、わたしは進化してからすっかり飛ぶのが怖くなってしまっていた。
だいたいひと月ほど前だっただろうか。さらなる進化を求めていたわたしとツツミは、今日と同じ場所で野試合をしていた。辛くも収めた勝利の余韻に浸っている間もなく、気づけばツツミがいやに小さく見える。「なんだか喉が渇いちまったな」なんてわざとらしいツツミに連れられて湖を覗きこめば、そこには憧れていたジュナイパーの姿が。その日は興奮が続いて寝付けなかった。
おまえが進化したら背中に乗って空が飛びたい、と前々からツツミに頼まれていたのもあって、わたしは早速実行した。ところが、ツツミを背に乗せていざ木の枝から脚を蹴りだしても、翼は空を掴まずそのまま地に落ちた。何が何だかわからないうちに全身に激痛が走っていた。
怖かった。彼女を庇って半身を強打したあの痛み。ようやくおとといになってしっかりと羽先まで動かせるようになったんだ。あのときみたいに落ちて怪我するのはもう――
「目を開けろシャペロ! 人形でさえちゃんと前を向いているぞ!」
飛んでくるツツミの喝。苦い思い出から呼び戻されて薄目を開けると、精巧に作られた風切り羽までぴんと帆を張って、目の前の人形は悠然と飛んでいる。湧き上がった感情は、羨望とか、対抗心とか、そうではなかった。わたしに怪我させておいて、なにがプレゼントだ。こんなもの。木の下に目をやると、口に糸を咥えていつになくやる気の満ちた白目でわたしを睨む彼女が。ツツミはいつもこうやってわたしをからかって遊んでくる。なんでそうやっていつもいつもいつも――
煮え切らないわたしに痺れを切らしたのか、ツツミは糸を啜りつつ大枝までよじ登ってきた。人形を木に括り付け、呆れた目でわたしを見上げてくる。
「まったく、1度失敗したからってなんだ。なはは、臆病もここまでくると最早――」
「なんでよ!!」
いつものツツミのからかい文句。慣れているはずなのに、弾かれるようにわたしは叫んでいた。大声にツツミは触角をぴくん、と跳ね上げ、きゅっと葉のコートを引き寄せた。
「なんでツツミはそうやってわたしに意地悪ばかりするの!? 自分が空を見たいからってまたわたしに飛ばせようとして、もうこりごりなの! 飛べないならそれでいいじゃない、わたしは飛べなくても満足して――」
「飛べなくていい、だって?」
ナーバスに喚き散らすわたしに、ツツミの吊り上がった白い目が、ぐ、と迫った。いつになく真剣なまなざしに、わたしは喉の奥を詰まらせていた。
「ふざけるな! 私はおまえが、おまえみたいな奴が心底妬ましい。能あるジュナイパーは矢羽を隠すだって? 私に言わせりゃ、そんなのただの臆病者だね。自分の能力を卑下してちょこまか地面を走り回るなんて、まるで雛鳥じゃないか! 私は裁縫と糸仕掛けが得意だからこんなカラクリ作って遊んでるがな、本当は私自身が空を飛びたいし海の中を泳いでみたい。土を掘ったり超能力を駆使してみたい! ……おまえは飛べるし矢も射てる。おまけに影まで操れるんだろ? それはどんな感じなんだ、おまえには世界がどんなふうに見えているんだ? 葉に籠もって地面を這いずり回ることしかできない私にも教えてくれよ……!」
ガラにもなくまくしたてるから、最後の方は声が掠れちゃっていた。涙目になったツツミはどうにか呼吸を整えて、自分に向かって言うように「クソっ」と吐き捨てた。
……そっか、わたし、ツツミのこと何にも分かっていなかったんだな。
模擬戦をかなり繰り返していたのに、要領の悪いわたしが先に進化してからというもの彼女は一向にその兆しを見せなかった。わたしが進化しても「よかったね」のひと言もくれず、飄々と軽口を叩いて流していたけれど、やっぱり心の中では気にしていたに違いない。奇妙な人形はわたしをからかうための小道具なんかじゃなく、素直になれない彼女なりのおめでとうの言葉だったんだろう。考えに考えてひねり出ししてくれた彼女のプレゼント。それなら。
小さく睨むツツミの触角、わたしはそれを2本まとめて嘴で挟む。
「な、おい、ちょっと待っ――」
「待たないよ。しっかり捕まっててよね」
慌てふためくツツミを、わたしの背中に放り投げる。もふっ、と草団子が着地した感覚があってすぐ、私は枝を蹴りだした。タイミングを計ったかのように上昇気流が吹き抜ける。ツツミの作ってくれたわたしの凧、あれがどうやって飛んでいたか、鮮明に思い出していた。体を傾け、ピンと張った翼で空に舞う。
「くるぅええええ!??!?」
「……わたしよりよっぽどパニックじゃない」
背中で素っ頓狂な声を上げたツツミの、ぐるぐると目を回している顔が手に取るようにわかる。わたしたちの棲んでいる森が、ずんずんと小さくなっていく。
「くそ、くそッ、おまえなんて嫌いだ、草笛で眠らせてやる……!」
「そんなことしたらこの高さからフリーフォールだよ」
「むむむ……!」
背中に抱えたツツミが縮こまって、わたしの背中をぎゅっと掴んだ。フードの中につむじ風が吹き込んできて、ごうごうと耳鳴りがする。飛ぶ前に閉めておいてよかった、いつものまま飛び立てば、ひとたまりもなく引きちぎれていただろうから。
久しぶりの感覚。全身の羽毛が空気になびき、風と一体になっているかのよう。気持ちいい、やっぱり飛べなくていいなんて嘘だ。
私には聞こえていない
「知っているか? 私どもクルマユはな、クルミルから進化するといくら経験を積んでも新しい技を全く覚えなくなるんだ」
首元にかかる小さく暖かな息。ツツミが震えているのは、きっと怖いからじゃないだろう。わたしは彼女の独白を黙って聞いていた。
「自分の非力さを痛感したさ。どんなに精を出しても報われない努力なんて、考えただけで反吐が出るだろう? しかもおまえみたいに私がもう1段階進化するには、誰かを信頼し懐かなきゃいけんらしい。服を羽織って閉じこもるのが趣味の私が、他者に心を開くなんてできると思うか? ついさっきまで、成長することなんて私はすっかり諦めていたんだ。……今は『能力があるのに使わない奴はバカだ』と言っていた自分が心底恥ずかしい。進化を諦めていた私がその代表みたいなものじゃないか」
上昇気流を捕まえ、さらに高度を上げていく。風はどんどん冷たくなっていくけれど、不思議と体は熱かった。視界が綿のような白に覆われる。その白に隠すようにして、背中の羽毛が湿った気がした。それはわたしが雲の中をかすめたからではなく。
「卑屈で退屈な私でも、誰かに懐いてもいいのだろうか?」
「っ、もちろん! ありがとうツツミ、最高のプレゼントだよ」
背中を掴む葉っぱの手の力が再度ぎゅ、と強まった気がした。
眼下には、弾けた棉が大小の塊になって風に乗って漂っていた。螺旋を描くようにその間を飛んで、わたしたちは次第に高度を落としていく。棉の木の大枝をしっかりと脚で掴み、背中のツツミを枝に下ろす。翼をひろげて、彼女を抱き留めた。
「もうこんな妙ちきりんな人形はいらないな」
ツツミが棘の抜けた声で呟いて、幹に括り付けておいた糸を抜いた。風が吹く。わたしと彼女がひとつになったそれが、綿の中を大空へと舞い上がっていった。
長編の連載なぞ私にはできませんので、これがその代わりみたいなものですが。掌編なので思いつけば勝ち、みたいなところはありますが、むかし書いた作品を読み返してみると、ポケモン小説に対するスタンスも私の中でけっこう変わってきたような気がします。ひとつ気付かされたことは、キャラの種族は冒頭でさっさと明かしたほうがいいってことですかね。うん進歩進歩。
『空を飛ぶホエルオー』は設定勝ち。思いついた時点である程度は面白くなると思っていました。あとはいかに星新一のショートショート風にするか頑張った気がします。しかし軽すぎるよホエルオーさん。
珍しくタイトルから考えた『氷のぬくもり』。マグマの鎧or炎の体×アイスボディで良いカップリングを考えたのですが、なんと同じタマゴグループのやつらいないんですね。びっくりしちゃいました。まぁそれ抜きにもバイバニラにマグカルゴが乗っかっていると可愛いかな、と思ったのです。それと近年では"揚げアイス"なるものが流行っているそうで、ふたりの相性は悪くないんだとか。
ちょっとホラー目に仕立てた『鏡の向こう側』は元ネタがありまして、確か綿矢りさ氏の短編(題名失念しました)から着想を得たような。こう、怖い話を客観的に読んでいて、いきなり自分に指をさされる恐怖感、みたいなのを感じていただければ。
『葛藤する』は純粋な"何のポケモンでしょう?"ゲームでした。1500字くらいにまとめられて個人的にはけっこうお気に入り。会話の掛け合いで徐々にストーリーの輪郭を明らかにしていくのは書いていて面白いです。ラストの1行で「そういうことか」程度に思ってもらえれば大満足。
サンムーンが発売されてモクローを選び、立派なジュナイパーに進化した記念に書いた『フクロ縫い』。暗い過去を持つ女の子が、ポケモンの力を借りて前を向くというストーリーが私の中でもはやテンプレ化してきている。これ以上物語を深くすると掌編のサイズでは収まり切りませんね。霊タイプは好きなのでどんどん作品に出しちゃいます、あと出ていないのヤミラミミカルゲくらいでしょうかね?
WEBエッセイ風にまとめた『海のモズク』は書くのに大変苦労しまして。船の上での生活なぞ知る由もなく、"小説家になろう"にて掲載されていた航海士の奥様の日記を参考にさせていただいたのですが……。見返すと表現とか結構被ってますねコレ。指摘されたり私が心苦しくなったら消すか書き直します。しかしダダリンは超絶イケメンゴーストそれは譲れない。
Twitterにて素敵な押絵トランスさんから頂きました『ユクシーがただただ可愛いだけの掌編』です絶え間ない感謝。Twitterに載せたものにほんの少し加筆しました。世の中にはUMA好きがけっこういらっしゃってわたしゃ幸せ者だよ……。それとカゲフミさんの正しい知識の使い方にも多大なる影響を受けております。とっても面白いのでこちらも併せてどうぞ。あ、それと私が書いたこれもよければ。
ジュナイパーと組み合わせたら可愛いポケモンは誰だって? そうですクルマユです。ってことで書きました『翼をひろげて』。2日くらいで書き上げたので荒いですがご愛敬。クルマユのコロコロと変わる表情を楽しんでいただければ。偏屈な性格はきっと朱烏さんのヒビワレ注意報のヨットさんに引っ張られた感。かわいい。
感想お待ちしています。
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