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ヒビワレ注意報

/ヒビワレ注意報

writer:朱烏




ヒビワレ注意報





 ゾルダは、古代から太陽をつかさどると言われているポケモン――メラルバであった。ぶっきらぼうで愛想が悪く、常に無表情。ゾルダの第一印象は、口が裂けても良いとは言えない。だが、彼をよく知る者の中にそのことを悪く言う者は一匹たりともいないし、また彼そのものについても同様に悪口は聞こえてこない。根は優しく、弱い者いじめは大嫌い。そして、元来の兄貴気質からくる、ほかのポケモンに対する面倒見のよさは、間違いなくこの辺りに棲むポケモンたちを慕わせる要因になっていた。
 ゾルダは、自分がまわりから好かれているなどと露ほども思ったことはない。嫌われる要素はいくらでも見つかるが、好かれる要素はほとんどないだろうというのが、ゾルダの自分に対する評価であった。鈍感にも程があるが、自己を過小評価しているという意識が彼にはまるでない。恐ろしいまでに自分に無頓着、しかしそれがかえってまわりのポケモンたちを惹きつけた。
 ゾルダはとある広大な森の中に住んでいた。人間の世界から隔絶され、朝も昼も夜も時間通りにやってくる、雄大な自然に囲まれた世界である。そこにゾルダは適当に棲みかをつくって暮らしていた。今、ちょうど太陽が空のてっぺんに差し掛かったところであり、ゾルダは木の根のそばに掘ってある穴の中から顔を出した。
「……眠いな」
 ゾルダはそう呟くと、あくびをしながら穴から這い出て、ゆっくりと歩きはじめた。彼は夜の寝床とは別に、昼寝をする場所も確保している。彼の棲む森は木が鬱蒼と生い茂っていることで知られているが、どういうわけかところどころに拓けた場所がある。ゾルダはそれを森の目と呼んでいたが、そこの地面は草木の生い茂る部分に比べいくぶんか乾いている。ゾルダはそのちょうどいい土の乾き具合がお気に入りで、昼間、真上から強く降り注ぐ太陽の熱線を浴びながら眠るのが日課になっていた。
 ゾルダは自分の眠る位置を決めると、いそいそと土や草を整えはじめた。邪魔な草を取り除いたり、自分のおなかにフィットするように土を削ったりするあたり、彼の眠りに対する執着心やこだわりが垣間見える。
「……よし」
 ゾルダはそのまま腰を据えると、ものの一分もしないうちに寝息を立てはじめた。見た者が驚愕するほどの早業である。
 そしてそのようすを樹木の陰から窺がう何匹かの怪しいポケモン。このようなことをするのに慣れているのか、ゾルダのいるところからはまず見つからないような、巧妙な場所に隠れていた。何を話しこんでいるのかは分からないが、良からぬことを企んでいるように思われる。
「……いっち、にーの、さん! で行くぞ」
「了解」
「これ、成功すんの?」
「……いいか、兄貴はこう言った。自分を信じる者に道は開かれる、と」
「卑怯な真似はするな、とも言ってたけどな。つーか、そのゾルダさん相手に闇討ちっておかしくねぇか?」
「細かいことは気にしない! 記念すべき第一勝目を、僕たちの手でつかみ取るんだ!」
「はぁ……まあいいか」
 一団の意思は統一されたようで、彼らは臨戦態勢に移る。具体的に言えば、彼らはゾルダに飛びかかろうとしていた。……幾度となく通った道に、懲りずにまた同じ(わだち)を作ろうとするのは実に愚かしい。
「いっち、にーの、さあん!!」
 一団は一斉に飛びかかり、ゾルダへの圧倒的勝利を手中に収めようとした。しかし、闇討ちを実行すれば自分たちかゾルダを倒せると信じてやまない彼らに対して、現実は残酷だった。
「……ニトロチャージ」
 ゾルダは瞠目(どうもく)したかと思うと、一瞬にして炎をまとい、そのまま一方向から飛んでくる彼らに突進した。その速さは飛びかかってくる一団の比ではない。……一対三にもかかわらず、勝敗は目に見えていた。
「うげぇ!」
「ぐえぁ!」
「うぼぉ!」
 三者三様のうめき声とともに、ゾルダのまわりにはホイーガ、バルビート、カブルモが散らかった。見事に蹴散らされ、うわの空になっている彼らに、ゾルダはため息をつく。眠りを邪魔されたことに対する苛立ちはさほどなかったが、毎度飽きずに繰りかえされるちょっかいにはほとほと呆れていた。
「お前ら馬鹿だろう? あえて正面から仕掛けずに闇討ちを選んだのは結構だが、まとめて一方向から攻撃してどうするんだ?」
 ゾルダは彼らのやり方にいろいろと注文をつけたかった。一匹一匹が役割を分担して攻撃しろ、同時にかかってくるのなら多方向から攻めろ、それ以前に技を使え、むやみに突っこんでくるのは、タマゴから産まれたばかりの赤子でもできる、殺気を隠せ、などなど、挙げだしたらきりがない。しかし彼は口を開こうとしてやめた。ゾルダは長々と相手に説教するのが嫌いである。
「兄貴、強いよ……」
 ホイーガ――名をコペルという――は消え入るような声で、独り言を呟いた。ゾルダに言わせれば皆戦い方を知らないだけなのであるが、やはり彼はわざわざ言うようなことはしなかった。
「それよりも、何か用なのか?」
「……今日も手解きをお願いします。セサミもビーツも一緒に」
「今日はそいつらも一緒なんだな……面倒くさい」
 そう言いつつも、ゾルダはバトルの準備を始めた。準備と言っても、ただ伸びをしたり炎を吐いたりしてみたりして、少しばかり眠気でなまった体に喝を入れるだけである。ゾルダは、ここではバトルを行うための広さが足りないと判断して、さらに広い森の目を目指して歩きはじめた。コペルを先頭として、カブルモのセサミ、バルビートのビーツもゾルダの後を追った。いつもと何ら変わらぬ、昼下がりの光景である。



    



 すっかり日も落ち、鳥たちの声も止む。森の目の中から、丸く切り取られた群青色の空を、ゾルダは食い入るように見つめていた。散りばめられた星たちの間を、箒星がすり抜ける。ゾルダには静寂をいっさい破ることなくその存在を示す箒星が、とても神秘的に思えた。
 まだ夕飯を食べていないことを思い出して、ゾルダは前もって採ってきておいた木の実を一口かじった。甘酸っぱい香りと味が、自分の雑な性格と真逆だと彼は思う。そしてゾルダは、自分が木の実を咀嚼する音に混じって、聞きなれた別の音が耳に入ってくることに気づいた。土の上に繁茂する草や木を踏みつける音。しかし足音のようなものではなく、連続的である。
「兄貴ぃ」
 ホイーガのコペルが転がりながらゾルダに向かってくる。
「あだっ」
 そして大きな石か何かにつまづいて跳ね上がり、木に体当たりして吹っ飛び、ゾルダのそばに倒れた。横倒しになるさまが何とも痛々しいと、ゾルダは嘆息した。
「ちゃんと前を向いて転がれと言っただろ?」
「目が横についてるから前はうまく見えないです……」
 コペルの言い訳を受け流しながら、ゾルダはコペルの体を起こした。自分の二倍の体重を持つコペルを軽々と起こしたのを見ると、ゾルダの腕力のほどが窺い知れる。
「すみません」
「今度から気をつけろ」
 コペルの目じりがわかりやすく下がる。過去何度も叱られてきたコペルだが、それには慣れている。彼が気にしていたのは、自分の失敗の後処理をゾルダにさせてしまったことである。
「……さて」
 ゾルダはコペルに背を向けるように歩きだした。
「どこに行くんですか」
 まるで何も聞こえていないかのように、ゾルダはコペルに返答をしなかった。コペルは、無愛想なゾルダにはよくあることだと割り切って、それ以上の追及はしなかった。闇に溶けるように消えたゾルダを見送り、コペルはしばしの間ひとりになった。
 数分後、森の目の外から戻ってきたゾルダは、木の葉や枝などを小さな手に抱えていた。コペルにはゾルダがこれから何をしようとするつもりなのか大方予想がついたが、それを聞かずにはいられなかった。
「また火をつけるんですか?」
「ああ」
 ゾルダはコペルの方を振り向かず、淡々と答えた。
「今の季節は夏なんですよ、暑苦しいです」
「暗いのは嫌いだ」
 ゾルダの有無を言わさぬ口調に、コペルは少しだけ怯んでしまう。そのコペルの態度には何の関心も示さず、ゾルダは森の目の中央に木の枝をすばやく組み上げた。昼寝同様の早業である。
「ま……山火事さえ起こさなければいいんですが」
「心配無用」
 たしかに、とコペルは頷く。ゾルダがそんなへまをやらかすなど、想像できない。
 ゾルダは火の粉を使って、組み上げた木の枝に火を焚きつけた。火はぱちぱちと音を立てながら燃え広がり、橙色の光が辺りを照らしはじめる。ゾルダもコペルもお互いの顔がはっきりとよく見えるようになり、以心伝心したかのように、二匹一緒にそばに近寄った。
 それからしばらく無言の時間が続き、二匹ともどちらかが話を切り出すのを待つように、大きくなる炎を見つめ続けた。最初に口を開いたのはコペルの方だった。
「今日も勝てませんでしたね……僕」
「……そうだな」
 ゾルダは毎日のようにコペルやその他の弟分にバトルの手解きをしていたが、とりわけコペルに対しては自分自身が音をあげそうになるほど、たくさんの相手をしていた。もちろん面倒くさがり屋のゾルダがそれを熱望するわけがなく、コペルが何度も何度も頼みこんだ末にそうなってしまうのである。だが、ゾルダはそれを嫌がりはしない。可愛い弟のお願いを聞くつもりで応じていたら、いつのまにか本当に可愛い弟子になってしまったのである。ゾルダにとって一番の弟子はコペルであり、またコペルにとって一番の師匠はゾルダであった。もはや切っても切れない関係である。
 そして手解きが終わったその夜は、恒例行事として反省会が始まる。コペルが勝手にゾルダの棲みかにやってくるだけなのだが、ゾルダは嫌な顔一つせず(良い顔もしないが)、夜半(よわ)に突入するまで語り合う。ゾルダとしては睡眠時間が昼寝で十分補われているので、朝まで話しこんでも問題はないのだが、コペルのまぶたがもたなかった。
「まあ、そのうち勝てるようになるさ」
「僕を打ちのめした当の本人が言っても説得力がないです……」
 コペルの言い分はもっともだった。ゾルダがコペルをねじ伏せるのはお決まりの図式で、ゆえにコペルは積極的にゾルダへアドバイスを求めに行くのだが……。
「もっと努力すればいいだけの話だろ?」
 ゾルダは、解決策は端から決まっているとでも言うようにつまらない回答をした。
「兄貴……最近そればっかりですよ。僕はもっと具体的なアドバイスが欲しいんです」
 コペルは息を荒げた。少しばかりの苛立ちも見え隠れする。それに対してゾルダは相変わらず無表情で、何も答えなかった。
 ゾルダがコペルに対してそっけない態度を示すのは何も今日に限った話ではない。ここのところ、コペルはどうも自分が冷たくあしらわれている気がしてならなかった。もちろん彼は自分のために時間を割いてバトルの手解きをしてくれるのには感謝しているし、難しい相談に乗ってくれるのも頼れるゾルダ以外にはいない。いつでも愛弟子のために親身になってくれるゾルダに、コペルが大きな声で不満を言えるはずがなかった。それでも、コペルはなぜゾルダが自分に冷たく接するのかを知りたかった。もしかしたら、自分に何か非があるのかもしれないし、そうだとしたら早急に改める必要がある。しかしコペルは、自分がゾルダの気に入らないことをした覚えがなかった。だからこそゾルダにその冷めた態度の理由を問いただそうとするのだが、肝心のゾルダ自身が煮え切らない。
「なんで最近の兄貴はそんなに冷たいんですか? 僕が兄貴に何かしたのなら謝ります。だから理由を言ってくれませんか?」
「……冷たい? 何がだ」
「そうやって誤魔化さないでください! 自分でわからないんですか!?」
 コペルはそう言い放ったあと、我に返ってすぐに口をつぐんだ。こともあろうに弟分の分際である自分が、尊敬する師匠に向かって何という口の利き方をするだと。
「すみません……」
「いや……」
 二匹の間に流れる不穏な空気。もちろん師弟関係である以上、お互いに口げんかは多少なりとも経験はあるが、今回はその質が異なっていた。ゾルダがいつになく覇気がないのだ。コペルが感情的に口ごたえし、それをゾルダが冷静に正論で返す、というこの辺りに棲んでいるポケモンならほとんどが知っているであろう光景が見られない。今夜に限った話ではない。ここ最近、ずっと続いているのだ。
「僕……帰りますね」
 無表情なゾルダの碧い目が、コペルには一瞬薄気味悪く思えてしまった。ゾルダは、表情が乏しいわりには考えていることがわかりやすい。しかし今のコペルには、ゾルダが何を考えているのか全くわからなかった。コペルが逃げ出すようにゾルダの元を去ったのも、些細な言い合いが原因というよりは、言葉にしづらい居心地の悪さを感じたからであった。

 夜半を迎える前にコペルと別れてしまったことに、ゾルダは惜しい気持ちがしたが、内心安堵のようなものも感じていた。なんとか平静を装っては見たものの、コペルが自分の中身を遠慮なく引きずり出してしまうのではないかという不安に足が震えていた。
「はぁ……」
 ため息とともに、ゾルダは悲しい表情になった。ゾルダが無表情なのはあくまで他人の目があるときだけであった。ここのところ彼は、夜、独りでいるときに、どうしようもなく寂しそうな顔をする。とくにコペルとの反省会が一段落したあとに、そのような状態になることが多かった。ゾルダは、なぜ自分が落ちこむようになったのか、初めはわからなかった。しかしつい最近、ある一匹のポケモンと話をして、彼自身をを落ちこませるものの正体がわかってから、一層ひどく悩むようになっていた。

『おぬしは嫉妬しているのだ。“コペル”という才能にな』

 いっそのこと言わないでおいてくれれば、どれだけ楽だっただろうか。ゾルダは空に向かって嘆くが、受け止めてくれるものは誰ひとりとしていなかった。ゾルダはもう一度、深いため息をついた。



    



 あくる日の朝、コペルはゾルダへ手合せを申し出る前に、少しだけ寄り道しようと考えた。彼は、何が自分とコペルの仲を怪しくさせているのかを知る必要があるという結論に至っていた。しかしゾルダはその問題のこととなるといやに口が堅いし、特別コペル自身に問題があると考えているわけではない。それではいつまでたっても事態は平行線のままだと、コペルはゾルダの友達に会いに行くことにした。
 記憶力にそれなりに自信があったコペルは、以前ゾルダが教えてくれたその友達の棲みかの位置を正確に覚えていた。それから彼は自分の棲みかからゾルダの友達の棲みかまでの道筋を計算して、車輪のような体を走らせた。
 森の中を縦横無尽に駆け巡りたどり着いたのは、ほかの木よりも背丈がいくらか大きい、青い葉を茂らせた大樹だった。コペルは上を向くと、枝に繁茂する葉の塊に向かって声をかけた。
「ヨットさーん、いますかー」
 返事はない。もう一度名前を呼ぼうとするが、コペルははたとあることを思い出した。ヨットというポケモンは、同じことを繰り返し言ったり言われたりするのが嫌いなポケモンだと。類は友を呼ぶとどこかの誰かが残した格言があるが、ゾルダと同じく、ヨットはほかのポケモンから見て扱いづらいポケモンだった。そしてそう感じてしまうのは、コペルも同様である。
 コペルはヨットが木の上から顔を出すのを待つことにした。もともとヨットは出不精なのだから、隠れているに決まっている。寝ているか、食事の時間を邪魔されたくないから引きこもっているかのどちらかだろう、とコペルは決めてかかった。
 ヨットが木の上から落ちてきた(、、、、、)のは、それから十分後のことだった。ゾルダは目の前に何かが降ってきたことに驚き、横に倒れてしまった。
「ふむ……ヒコザルも木から落ちる……」
「いきなり落ちてこないでください。それと、あなたはヒコザルじゃなくてクルマユですから」
「突っ込むときは一言で、短く突っ込め。煩わしくてかなわん」
 それはこっちの台詞だとコペルは毒づきたくなった。もしヨットがゾルダの親友でなければ、コペルは間違いなく彼を避けるだろう。
「呼んだらすぐに来てくださいよ。起きてたんでしょう?」
「お前の忍耐力を試していたのだ」
「……ところで、僕の特性は毒のとげなんですが」
「すまぬ、嘘だ。食事に時間がかかってしまった故。勘弁しろ」
 相も変わらず、見た目に反して話し方が仰々しい、とコペルは思った。年は一つしか違わないはずなのに、コペルはまるで年老いたポケモンと話しているような気分になった。
「ときに、お前は何ゆえ吾が元に来たのだ? 珍しいこともあるものだ」
「ええ、少し兄貴のことで相談がありまして……」
「ほう……ゾルダがどうかしたのか」
 それからコペルはヨットに、最近のゾルダとの仲について話し始めた。
 なぜかゾルダに冷たくあしらわれること。ゾルダ自身にも元気がないこと。コペルに何か問題があるのかもしれないが、それが何なのかまったくわからず困っていること。
 コペルが洗いざらい話している間、ヨットはふむふむとうなずきながら耳を傾けていた。コペルに親身になって話を聞いているようにも思えるが、ヨットの白く塗りつぶしたような目は一向にコペルのほうへ向く素振りを見せない。コペルはそれに気づいて苛立った。いったいヨットは何を見ているのかと、コペルは彼の視線の先を目で追ったが、何もなかった。ヨットはただ虚空を見つめている。
「僕の話、ちゃんと聞いてます?」
 コペルは一旦話を中断した。
「ああ、もちろんだとも」
 コペルは、相談相手を間違えたのではないかと不安になった。彼は嘆息して、話を再開した。
「……つまり簡単に話をまとめますとね、僕はあなたに、どうすれば兄貴との関係を回復できるかを聞きに来たんです。兄貴の親友であるあなたなら、わかるのではないですか?」
「なるほどな……」
 ヨットが今まで以上に大きくうなずいた。本当に自分の話をわかったのか、コペルは疑問を抱くが、ヨットに相談する以外に問題解決の方法がないと思い直して、彼を信じることにした。
「これは……あれだな」
「あれって何ですか」
 ヨットはまるで自分だけがわかるように納得してうなずいた。
「ひび割れ注意……」
「え?」
 聞き慣れないヨットの言葉に、コペルは思わず聞き返した。
「ひび割れ……すなわち、亀裂のことだ」
「そ……それがどうかしたんですか」
「お前は意外と鈍いのだな。つまり、ゾルダとお前の仲に大きなひびが入るということだ、それも遠くない未来に、そして永遠に修復できない傷となる」
 コペルはヨットが言っている意味を素直に理解できず戸惑う。
「今までのはただの引っかき傷程度に過ぎん。時間がたてばたつほど、傷はより深く、鋭くなる」
「ちょっと待ってください! 僕はちょっと兄貴が冷たくなったって話をしただけで……それがどうして仲が悪くなるってことになるんですか? もしかして僕に原因があるんですか?」
 遠まわしでわかりにくい物言いをするヨットに、コペルは詰め寄って反駁した。それに驚いてヨットは体を少し後ろに反らすものの、射抜くような白い目玉はしっかりとコペルを見据えていた。
「ああ……少なくとも原因のうちの一つはお前だ」
 コペルは、頭が真っ白になるのはこのことだと痛感した。そうかもしれないとは思っていたが、いざ正面から言われると動揺せざるを得ない。それでもコペルは頭の中をきちんと整理して、まず何をすべきかを悟る。自分では解決しようがないのだから、コペルのせい、とはっきり言ったゾルダの友人に答えをもらわなければいけない。
「なぜ僕のせいなんですか?」
 コペルは単刀直入に尋ねる。
「わからぬのか?」
「わかりません」
 コペルの返答に、ヨットは情けないとばかりにため息をつく。
「なら探せ。お前がゾルダの一番弟子だというならできるはずだ。四六時中ゾルダにくっついているお前にわからぬはずがない」
 四六時中ではない、とコペルは心の中でヨットに悪態をつく間もなく、ヨットは再び話しはじめる。
「……と言いたいところだが、お前のようすを見るかぎり……お前はゾルダのことを一割も理解しておらぬ」
 一割も理解していない――その言葉にコペルは不快感を覚えた。
「たった一割? 冗談言わないでください。これでも兄貴とはしょっちゅう手合せしてもらっている仲なんです。そりゃ今は倦怠期というか……前より仲は良いと言えませんけど……とにかく、一割も理解していなくて兄貴の弟子になれるわけがないでしょう!?」
「違うな。そもそもゾルダ自身が自分の気持ちにやっと『三割方』気づいたところなのだ。それをお前が半分も理解できると思うか? 無理だ、今のお前にはな。お前は、今の自分がどれだけ盲目的なのかさえ知らぬ」
 コペルは言葉に詰まった。核心をついているのかどうかすらわからない、ヨットの曖昧な言葉に、どうしても反論することが出来なかった。ゾルダのことを理解していない、盲目的だ、とヨットに自身を否定されたことへの怒りよりも、それならばこれからどうすればいいのかという困惑の気持ちの方がずっと勝っていた。
「じゃあ……僕はどうすればいいんですか? ヨットさんはわかるんでしょう?」
 投げやりな気持ちで、コペルは問う。向かう方向がわからない。だからヨットにすがった。
「ああ、わかるとも。ただし、教えるつもりなどない」
 コペルは泣きたくなった。目の前にいるわけのわからない変人を頭突きで吹き飛ばしたい気持ちだった。なぜゾルダはこんなやつと友達なのだろうかと、コペルはゾルダに対する疑心をもつ。
「コペル……何ゆえゾルダはお前を一番弟子にしたのか、わかるか?」
 それは、何度もゾルダに手合せを申し入れた結果だ、とコペルは心の中で答える。しかしその問いに正解しても、根本的な問題は解決しないような気がして、コペルは聞かないふりをした。
「……もう帰ります。相談を受けていただいてありがとうございました」
 悩みは、より深くなっただけ。収穫も、零れ落ちたものも、同量。コペルは、ここに来るべきではなかったと思った。
「コペル、聞きたいことがあるのだが」
「何ですか?」
 背を向けるコペルをヨットは呼び止めた。
「ホイーガに進化してどれくらいたつ?」
「そろそろ三年たちますけど……それが何か?」
 それくらい覚えているに決まっていると、コペルはぶっきらぼうに言い放つ。
「いや、ただ聞きたかっただけだ」
「そうですか。では」
 もう用はないと言わんばかりに、コペルはその場をすばやく転がり去った。地面に落ちている枯れた木の枝を踏みしめる音だけが残響する。静まり返った森の中でヨットは深呼吸し、木の上の棲みかへと戻る。
「さて……コペルよ、お前は気づけるか?」
 ヨットはひとりごちる。独り言にしては、大きな声だった。



    



 それからというもの、ゾルダにとってもコペルにとっても悶々とする日々が続いた。
 お互いが胸の内を語ることなく、すでに目の前に迫っているはずの問題から逃げる。解決の糸口はなお見つからない。
 そんなある日のこと、事件は起こる。
 コペルは、己を磨くために、ゾルダ以外にも手合わせを申し出るようになっていた。ゾルダに鍛えられていたおかげか、その戦いのほとんどで勝利することができ、コペルは改めてゾルダの偉大さを知った。
 しかし、コペルがゾルダ以外との戦いを欲すようになったのは、単純にコペルの向上心が以前よりも増したというわけではない。最近のコペルは、ゾルダとあまり手合わせをすることがなくなり、相対的にほかのポケモンと戦うことが多くなったというだけである。
 この日、コペルは対戦相手にセサミとビーツを選び、バトルしていた。両者とも、コペルより能力は劣るものの、ゾルダに日々鍛えられているれっきとした弟子である。過去に一度も手を合わせたことはなかったため、それぞれの実力を知ろうという名目で戦っていた。
「喰らえ、乱れ突き!」
 戦いは終局に入り、それぞれが決着をつけようと躍起になる。
 セサミは得意技の乱れ突きでコペルにダメージを与えようとするが……
「甘い!」
 コペルは体の中心を軸にして高速回転し、セサミの乱れ突きを軽くいなした。
 うめきながら弾き飛ばされるセサミ。コペルは横回転の勢いをそのまま縦回転に変換して飛び上がり、セサミが転がり横たわった方向へポイズンテールを繰り出す。その挙動の速さは、セサミが容易に見切れるものではなく、迫りくるコペルにセサミはなすすべがない。
「ぐっ!」
 回転で威力が倍増したコペルのポイズンテールが、セサミの腹に直撃し、彼はうめき声も漏らした。柔らかな地面にめりこんだセサミは、茫然として空を仰いだ。もう彼に、戦う意思は残っていない。
「やっぱり強いなあ、コペルは……」
 一足先にコペルと対戦し、セサミと同様に敗れたビーツは、木陰の下で休みながら呟いた。いくぶんか体力が回復した彼は、ゆっくりと飛び上がって、地面に半分埋まっているセサミの体を無理やり引っこ抜く。
「いてえよ……」
 悪態をつきながら、悔しがるセサミ。途中までは互角の戦いをしていたものの、後半は押されっぱなしでまったくいいところがなかった。
「ありがとう、かなりいい戦い方が出来たよ」
 コペルは二匹に近づいて言う。二連戦した疲れなどどこ吹く風といったようすで、ビーツは、この先どうあがいても勝てない相手だと実感した。生まれもった才能に、並々ならぬ勝利への執着心。コペルに勝つのはむしろ失礼になってしまうのではないかとビーツは思った。
「ちぇっ、はじめからこうなるのはわかってたのにな」
「そんなことない。こっちだって油断していたらどうなっていたかわからない」
 それならなおさら勝ち目はない、とセサミはうなだれる。もともと諦念の感が強かったビーツは、まだコペルに勝利することを夢見ているセサミを憐れんだ。

 西日が差しこんでくるまで、彼らは思い思いの時間を過ごし、やがて別れを告げた。また明日――、それが合言葉であった。
 コペルは大きく伸びをして、それから夕食用の木の実を採りに行く。この季節、木の実の量は豊富であり、食事に困ることはまずない。
 コペルは、木に体当たりして、揺らして落とした木の実を、ねぐらに持ちこんでほおばる。
「なんだか美味しくないな……」
 どういうわけか、コペルは自分の味覚がきちんと機能している気がしなかった。彼は何となく、自分の体が熱っぽいと思った。彼は、風邪を引くと味を感じにくくなってしまうということを思い出す。
「……大人しくしてるか」
 本来ならばまだ起きている時間だが、病気の夜更かしは毒である。まだ夜の帳は降りきっていないものの、彼は寝床に体をうずめることにした。
「明日は……兄貴と一戦交えようかな」
 コペルはゾルダを慕うことを忘れているわけではなかった。今の自分があるのはゾルダのおかげ、そのことを彼は重々承知していた。心が疎遠になりかけている現在でも、その気持ちは変わらない。

 早く目を瞑ったほうがいいと頭でわかっていても、コペルはなかなか眠りにつけなかった。何か音がする拍子に飛び起きては、また目を瞑る、この繰り返しが幾度となく続いた。
(暑い……)
 やけに蒸し暑い。夜に気温が上がるなんておかしなこともあるものだ。コペルはぼうっとする頭でそんなことを考えながら、地面を掘った。体にまとわりつくような不快さは、寝床が安定しないせいだと言い聞かせて。
 しかし、それでもコペルは眠れない。頭がおかしくなりそうな息苦しさを覚える。そこでようやく、コペルは暑いのが気温ではなく、自分の体温によるものだと気づいた。
(こじらせたか……)
 コペルは、頭がのぼせてふらついた。これではいけないと、そばにあった木に寄りかかる。
 空にかかる三日月が乱れ、重なって見えた。
 その月の光はどんどん見えなくなっていく。
 しかしそれは、月が雲に隠れたわけではない。むしろ増幅する別の光に月の明るさが囚われていくのだ。
(……!?)
 そこではじめて、コペルは自分の体から光り輝いていることを知った。
 周囲の闇をいとも簡単に飲みこんでゆくまばゆい光を、コペルはかつて一度だけ見たことがあった。彼がフシデからホイーガに進化したときのこと、ちょうど三年前の出来事である。
 むず痒く、全身がバラバラになりそう、それでいて痛みなどはまったく感じない。そんな摩訶不思議な感覚に包まれてゆく自らの体に、コペルは期待と一抹の不安を覚えた。
 やがて光は目も眩むほどに大きくなり、コペルはぎゅっと目を閉じる。それが静かに収束し、自分の姿が完全に変わるその時まで、コペルは目を開けなかった。
(……終わったか)
 目を静かに開くと、そこにはいつもよりも遠い地面に、いつもより近い空。数倍大きくなった体には、手足が生えている。一度は失った赤紫の体色も、二度目の進化によって、より濃く、より鮮やかに。
 きっと体の調子が悪かったのはこのためだろうと、コペルは納得した。
 コペルは、淡い月明かりに照らされる自分の体を、垂れ下がった頭を傾けながら見渡す。最近の彼は、自らの実力をつとめて冷静に評価してきたつもりだったが、感情は抑えきれない。
 長きに渡り抱き続けてきた夢が、ついに現実となった。それがただ嬉しくて。
 森閑とした常闇を、彼の咆哮が切り裂いた。



    



 朝焼けが空を彩りはじめた時間には、ゾルダの目は冴えていた。昨晩の、地を揺らすようなたけりが、耳にこびりついて離れない。あれはいったい何だったのだろうかと彼は思案してみるが、本能がそれを拒否した。たどり着いたら最後、答えはゾルダにとって残酷なものにしかならない。
 ゾルダはいつもより早く棲みかをあとにした。昼寝を除いて無駄な時間を過ごすことが好きではないゾルダは、手持ちぶさたになることを回避するため、森の奥へと繰り出した。
 西の空には、まだ星がかすかな光を放っていた。
「起きるのが早すぎたか……」
 目は冴えていても、体はまだ眠ったまま。彼は体を伸ばしたりひねったりしながら歩き続ける。
 ゾルダは途中、おなかが空いていることに気づいた。あたりを見回すと、実のなる木はそこかしこにある。ゾルダは、木にぶら下がっている木の実を、火の粉で撃ち落とした。二つ、三つと焦げついたそれらを拾い集めると、ゾルダは再び歩きはじめた。どこへ向かおうとしているのか、彼自身にもわからない。まるで恋煩いでもしたかのように、うろうろと森の中をさまよう。
(そういえば、最近コペルと闘うことが少なくなったな……)
 ゾルダはふいに、コペルのことを思案しだした。コペルと顔を合わせる機会が少なくなったことが、はたしてじぶんにとって良いことなのかどうか、ゾルダはわからない。一つだけ言えることは、背中に積み重なっていく『重み』がいくらか軽く感じられるようになったということだけだが、それはある意味で逃げなのではないかを、ゾルダは悩んだ。
(今日は手合せしてみるか……)
 彼は、決して前向きな気持ちでそう思ったわけではない。ただ、後ろに向きがちな自分を前に向かせるため。
 ゾルダは、このままではコペルとも関係が危うくなってしまうことを、頭では分かっていた。ただ、行動には移せない。
 いい加減腹をくくらねばと、ゾルダは肺のよどんだ空気を浄化するかのように、朝の新鮮な空気を吸いこんだ。
 刹那、轟音が空を突き抜ける。
「な、何だ!?」
 マメパトやポッポなどの鳥ポケモンが、木立から飛び出した。やかましい羽音が思い思いの方向へと四散していく。それから、何かが倒れたようで、その拍子に地響きが鳴った。
 ただならぬ気配に、ゾルダは一連の音が発せられたほうへと走りだした。その手にはしっかりと木の実を抱えていた。

 たしかこのあたりのはずだと、ゾルダは足を止めた。しかし、そこには誰もいない。気になる点を挙げれば、それなりに太さのある一本の木が、根元から折れてしまって横倒しになっている。自然的な作用で木が折れたわけではないことは誰の目にも明らかだった。
 おそらくはポケモンの技。だがゾルダは、木を丸ごと一本破壊してしまうような強力な技をもつポケモンに覚えがなかった。物騒なこともあるものだ、とゾルダは木の折れ口をのぞきこんで、木の実を一つ口にくわえた。その木の実があまり美味しいと言えないのは、彼の舌が麻痺しているからなのか、否か。
 太陽が山々の間から完全に顔を出し、空一面薄い青色で染まる。ゾルダは、ほかに何か異変はないか、倒木の周辺を散策していた。仮に(くだん)のポケモンに会ったならば、むやみに森を傷つける行為は慎んでほしい、そう言おうとゾルダは考えていた。
(……)
 ゾルダは、急に立ち止まって、茂みへと身をひそめた。まるで、何かの気配を敏感に感じ取ったようすである。
 ゾルダの体が震えた。
(何か、いる……)
 じっと身をひそめ、注意深くまわりを観察する。この時のゾルダは、なぜ自分が無意識のうちに隠れるという行動に出たのかを知らなかった。ある意味では、幸運なのかもしれない。
 やがて、何かが草木をのけながらやって来た。その足音は重く、相当大きな体格の持ち主である。ゾルダは息を殺した。彼は茂みの隙間から、その正体をのぞく。
 しかしゾルダには、その大きなポケモンが何という種族なのかわからなかった。見たことがあるような気もするし、ないような気もする、そんな曖昧な記憶は、ゾルダを余計に夢中にさせた。
「ふう……」
 そのポケモンは、静かに息をついた。いったい何が始まるというのか、ゾルダは少しだけ身を乗り出した。
 数秒の静寂が流れる。聞こえるのは、鳥ポケモンの鳴き声だけ。
 そのポケモンは、唐突に走りだした。一心不乱とも言うべきその挙動に、ゾルダは身構える。それも一瞬のことで、そのポケモンはゾルダが隠れている茂みの横を、風のように走りすぎた。
「うおお!!」
 耳をつんざくような雄叫びに、ゾルダは身を完全に乗り出した。そのポケモンの背中と、紫色に発気する大きな尻尾を見て、ゾルダの体にびりびりと刺激が走る。
(ポイズンテールか……!)
 そうゾルダが思ったのと、そのポケモンが大木をなぎ倒すのと、どちらが早かったのだろうか。
 そのポケモンがポイズンテールを樹木に見舞った衝撃、折れた樹木が地面に激突する震動、その二つの地鳴りがゾルダの体の芯を伝う。
 ゾルダの体を支配したのは、果たして本能的な恐怖だった。戦慄という言葉すら生温い。
 気がつけば、ゾルダは逃げるように走りだしていた。



    



 いつもどおり無表情なゾルダだが、そこに秘められた暗鬱さは、セサミが一目見てわかるほどに顕著なものだった。
「ゾ、ゾルダさん……コペルが一戦交えたいと言ってるんですが……」
 セサミがゾルダに伝えに来た用件はそれだけである。しかし、その短い言葉をひねり出すのにずいぶんと時間がかかった。
 朝方の天気は嘘のように、午後の空は一面に灰色の雲を張っている。今にも降り出しそうな天気と、ゾルダの顔つきが重なる。
「ああ……今行く」
「ゾルダさん?」
「何だ」
「顔色悪いですよ。疲れているんですか?」
 平静を保つことが多い性格ゆえに、ゾルダは顔色や体の具合を心配されたことがほとんどなかった。
「……朝、いろいろとあってな。大丈夫、いつもどおりだ」
「……そうですか」
 まるで何事もなかったかのように強がるのは、ゾルダの悪い癖だった。本人はそんなつもりはまったくない。セサミも多少の懐疑心をもちつつも、結局はそれを真に受ける。
「あ、そうだ。実はですね、昨日コペルが進化したんですよ」
「進化!?」
 ゾルダの目がひときわ大きく開く。愛弟子の進化、嬉しい報告には違いない。歩きはじめて間もなく、ゾルダは歩みを止めた。つられてセサミも立ち止まる。
「そうか……進化したのか……」
 しかしゾルダの表情は晴れない。弟子の進化を素直に喜ばないゾルダを、セサミは不思議に思った。
「あれ、嬉しくないんですか? コペルは、「兄貴との特訓の成果だ」って喜んでいたんですよ?」
「いや、嬉しいが……俺からどんどん離れていってしまうのがな」
「そんなことないですよ」
 そんなことない。口から出た言葉はでまかせでないとセサミは信じたかった。たとえコペルがゾルダに勝っても、その師弟関係が変わることはないはずだと。
 それは、ゾルダもまた同じだった。
 同じはずだった。
 コペルは、自分の棲みかの近くにある森の目に、ビーツと一緒にたたずんでいた。その存在感は、遠目からでも十分わかった。
 はじめは見間違いだとゾルダは思った。それがゾルダにとって一番の不幸だったのかもしれない。
 彼らにかなり近づいて、その大きなポケモンの陰に隠れていたビーツを見たとき、ゾルダは立ちすくんでしまった
「嘘だ……」
 ゾルダの声は、そばにいたセサミにすら聞こえなかった。声帯がうまく震わせられないほどに、ゾルダの体はこわばっていた。
 なぜ、今朝見かけたあのポケモンを、コペルだと疑わなかったのだろう。ホイーガの進化先がペンドラーであることは知識として知っていたはずなのに。
 あの恐ろしい体躯をもったポケモンがコペルだとは、露ほどにも思えなかったからか。いや、コペルは、進化したい、とことあるごとに言っていた。それを無意識に聞き流していたのは紛れもなくゾルダ自身である。
 ……なぜ?
「早速ですけど、バトルしましょう。今日こそは勝ってみせます」
 意気揚々とコペルはゾルダの前に正対した。正面に立っているコペルの目を、ゾルダは見ることができない。辛うじて返事ができたのは、ひそやかに湧き出た意地か。
 足がうまく動かない。動け、と強く念じてようやく歩けるようになる始末だ。
 ゾルダは位置について、無理にでも自分を奮い立たせようとした。そうでなければ、背を向けて逃げ出してしまいそうだった。
(コペルは俺の弟子……)
 普段ならば気にも留めようとしないことが、どんどん顔を出してくる。
(そもそも、俺は一度もコペルに負けたことがないんだ。いまさら何を恐れる必要がある。たかが進化したくらいで、実力が逆転するはずがない)
 ゾルダは少しばかり落ち着きを取り戻した。最近の自分は物事を負の方向に考え、神経過敏になっている。ヨットの言ったことを真に受けたからおかしくなったんだ。もともとコペルを軽くいなせるだけの力はある。ゾルダはそう自分に言い聞かせた。
「両者準備! 用意、始め!」
 ビーツの開始合図とともに、戦いの火ぶたが切られる。
 最初に仕掛けたのは、ゾルダだった。
 何の前触れもなく、いきなりのニトロチャージ。ゾルダは炎をまといながら、コペルに突進していく。速さも申し分ない。鈍足なポケモンはおろか、素早いポケモンでさえよける、受け身をとるなどの隙を与えない、ゾルダの最高の技である。
 しかし予備動作なしの強力な仕掛けにも、コペルはまったく動じない。足を軸にして回転したかと思うと、その勢いを使い大きな尻尾をゾルダに向かって振る。その巨体からは想像もつかないほど、柔軟で素早い体の使い方だった。
「喰らえ!」
「ぐふっ!」
 太い、高威力の尻尾のむちが、ゾルダの体を直撃する。うめき声とともに、ゾルダの体は遠くへと吹き飛ばされた。
「うわあ、速すぎて見えねえ。別格だな」
 傍観者のセサミが感嘆のため息を漏らす。しかし、ビーツは違った。
「なあ、セサミ。ゾルダさんって、今まで先制攻撃を仕掛けたことあったっけ?」
「え? ……そういえば、いつも先制攻撃はコペルに譲ってたな。それが丁度いいハンデになってただろ」
「だよなあ……」
 二匹がおしゃべりしている間にも、ゾルダとコペルの戦闘は続く。
「火の粉!!」
 ゾルダの鍛え方は生半可ではない。倒されてから立ち直るまでも隙を見せず、即座に火の粉を打ちこむ。しかし、遠方からの攻撃は、コペルにはたやすくかわせるものだった。
(くそっ、スピードがホイーガの時とは比べ物にならない!)
 自分が今までコペルに攻撃できたのは、コペルの鈍足に依存していたからではないかと錯覚してしまいそうになるほど、コペルのスピードはすさまじかった。
 ゾルダは仕方なく、危険を承知で距離を詰めた。
「今度こそ!」
 ゾルダはもう一度火の粉を見舞う。距離は詰めた。技のスピードだったら負けるつもりはない。そう思っての判断であった。
 しかし、ここでコペルはゾルダにとって予想外の行動に出る。
「何!?」
 あろうことか、無防備に火の粉に突っ込んできたのだ。
 ゾルダは例外として、炎は虫ポケモンの天敵である。それに突っ込んでくるとは自殺行為に等しい。
 ゾルダはこのまま正面からニトロチャージをぶつけようと考えた。が、
「喰らええ!」
 コペルは前転したかと思うと、その勢いを使って転がってきた。スピードはより増幅され、迫ってくる巨体にゾルダはとっさの判断ができなかった。
(転がる? いや、違う、これは……)
 フシデ系統の得意技であるハードローラー。ゾルダの知らないうちに、コペルは習得していたのだ。
 ゾルダはいとも簡単に上空へ弾き飛ばされた。
(ここまで圧倒的に……とにかく着地体制をとらなければ)
 しかし、ゾルダの着地地点にはコペルが待ち構えていた。相変わらず動きにそつがない。
「火の粉ぉ!」
 もちろんゾルダが安直に捕えられるような真似をするはずがない。コペルもそれを承知の上で、地上で待ち構えていた。
 ゾルダは、コペルがこの日のために隠していた刃の全貌を知らなかった。しかし、それは敗因の一部でしかない。
「ベノムショック!」
(何だと!?)
 進化による体の強靭さ、スピード、新技ハードローラー、もう十分すぎるほどの急激な成長を遂げたコペルに、まだ余った引き出しがある。ゾルダは、絶望を禁じ得なかった。
 コペルの口から、毒々しい色の液体が吐き出される。空中ではかわすこともできず、また技を使い相殺できるような時間的余裕もない。
 ゾルダは全身に液体を被った。視界を奪われ、無防備のまま地面に体を打ちつけた。そして地面から跳ねた瞬間に、コペルから二度目の尻尾の追撃。ゾルダに余力は残されていない。
「ぐあぁ!!」
 ダメージが蓄積したゾルダの体には重すぎる一撃。ゾルダはなすすべもなく吹き飛ぶ。
 ゾルダは、木の幹に激突し、そのまま倒れた。
「うわあ……本当に勝った……」
 セサミが、信じられないといった表情で、ビーツに話しかける。ビーツもまた、セサミと同じような顔をしていた。
 進化して強くなったのだから、当然コペルがゾルダに勝つ確率は上がる。しかし、ゾルダがこれといったダメージを与えられず、コペルにものの一分で叩き潰されるなど、誰が想像できただろうか。
「や……やったあ!」
 念願の打倒ゾルダを果たしたコペルは、その巨体を振り回しながら大げさに喜びを表現する。倒れているゾルダに構うことなどせず、勝利の後味に完全に浸っていた。大きな体に似合わぬはしゃぎようだ。
 ゾルダは痛みに耐えながら、おもむろに顔を上げる。彼にとって、その目に映った光景はどれほど酷だったか。
 ゾルダは無意識に、コペルに向かって火の粉を飛ばしていた。コペルはそれが目の前に迫ってくるその時まで気づかない。
「あっ!」
 火の粉が、コペルの頬をかすった。一瞬の熱さと痛みに、コペルは顔をしかめる。あまりに突然の出来事に、セサミもビーツも狼狽した。意外と冷静だったのは、コペルだった。
「何するんですか!」
 コペルは、木のそばでうずくまっているゾルダに歩み寄る。理不尽な攻撃を喰らったことによりコペルの小さな反抗心に火がついた。
「黙れ」
 低く、脅すようなゾルダの声は、いつものコペルに対するそれとは真逆だった。親しみも、愛情も、かけらも感じることはできない。
 コペルはゾルダのただならぬ雰囲気にたじろいだ。今まで無表情のゾルダしか見たことのないコペルたちにとって、ゾルダの鬼のような形相は衝撃的なものだった。温和な印象だった碧い瞳は鋭く、獲物を狩るそれに近い。
「あ、あに――うぐぅ!!」
 コペルは腹部の抉られるような痛みに顔を歪め、倒れた。まさか、至近距離でニトロチャージを喰らうとは夢にも思わなかったのだろう。セサミもビーツもあまりに突然のことにただただ驚くことしかできない。
 しかし、ゾルダはまだ攻撃をやめない。先ほどまで倒れていた彼がなぜここまで動けるのか、彼自身にもわからない。底を尽きた体力さえも突き動かすような渦巻く負の感情は、ゾルダをいとも簡単に支配する。
「やめてくださいゾルダさん!」
 これ以上コペルを傷つけまいと、ビーツがゾルダとコペルの間に割って入った。しかし、我を失ったゾルダにその声は届かない。
「消えろ!」
 違う。俺がそんな言葉を愛弟子にかけるはずがない。ゾルダは心の中でそう叫ぶが、ほとばしる激情を止められるすべを彼は持ち合わせていなかった。ビーツもろともコペルは吹き飛び、地面を削りながら体を横たえる。セサミは、ただ震えながら事を見守ることしかできない。
「兄……貴……」
 コペルの頭の中に、ゾルダとの最近のやり取りがフラッシュバックする。何度も冷たくあしらわれた理由が、ようやくわかってしまった。コペルは、視界が真っ黒に塗りつぶされたような錯覚に囚われた。
(僕……兄貴の弟子でもなんでもなかったんだ……)
 突きつけられた現実と絶望。涙も流れない。反撃する気も起きない。進化したことも、勝ったことも、きっと自分のことのように喜んでくれると信じていた。裏切りというのはこんなにも悲しいものなのかと、コペルは心が空っぽになるのを感じた。
 コペルは、にじり寄ってくるゾルダに恐怖した。もうゾルダは、コペルの知っているゾルダではない。
「俺の目の前から、消えろ!!」
 ゾルダの体から炎が噴き上げる。憎しみのニトロチャージが、コペルとビーツを襲った。コペルはとっさに気を失っているビーツを抱え、ぎゅっと目を閉じた。その瞬間に見えたゾルダの顔が、コペルにとってはやけに印象的だった。
(兄貴……泣いてる……)
 炎をまとうゾルダが流涙するはずなどない。それなのに、どうして。
「コペルぅ! ビーツぅ!」
 セサミの泣き叫ぶ声は、大きく噴き上げた炎の爆ぜる音と、降ってきた雨の音にかき消された。



    



 森一帯を、豪雨が襲う。まるでここは滝壺であると錯覚するくらいの大降りだった。ちょうど雨季に差しかかろうとする時期である。
 ゾルダは降りしきる雨の中、短い足を懸命に動かして走った。走って、走って、ひたすら走った。地面から飛び出していた木の根に引っかかって転んでも、再び立ち上がっては走る。体中が擦り傷でいっぱいになっても、ゾルダは痛みを感じなかった。ただ走り続けて、逃げる。何から逃げているのか、ゾルダは自分でもわからなくなった。
 自分の頬を濡らす水滴は、雨なのか、涙なのか、ゾルダはふと考えた。そして、どちらでもいいと思った。涙が悲しみを表すものならば、この雨もまた、同じ役割を背負っている。
 森の中は案外広い。それを鈍った心で感じられるくらいに、ゾルダはずっと走っていた。そして、急に立ち止まる。景色がひらけて、唐突に目の前に崖が現れた。ゾルダは息を切らしながら、切り立つ崖のふちまで歩く。ふちから顔を出してはるか下方を覗きこむと、森林地平線の向こうまで果てしなく広がっていた。その先、ずっと遠くには山が連なっていたが、まゆずみの青は雨にかき消されていた。
 ゾルダは、切れ切れの息を整えて、その場にへたりこんだ。しばらく放心して、冷たい雨に打たれ続ける。
 それから幾分か時間がたったころ、ゾルダは自分自身で認知できるくらいに、大粒の涙を流した。
「うぅ……」
 心のたがが外れ、ゾルダは絶対にやってはいけないことをしてしまった。ヨットの予言が最悪の形で実現してしまった。自我を抑えきれず暴走してしまうほどコペルに対する嫉妬や憎しみを抱えていたなんて、ゾルダでさえ知る由もなかった。自分の気持ちに素直にうなずくことができなかったからこそ起こってしまった悲劇に、ゾルダは後悔してもしきれない。
 ゾルダは、悲嘆にくれる自分の姿が、情けなくてしかたなかった。何をいまさら。心のどこかでわかっていたはずではないか。ヨットに言われてから、悩みに悩み抜いて、答えはほとんど出かかっていたではないか。弟子の成長を喜ばない師匠がどこにいる。お前は兄貴でもなんでもない、心の偏狭な、最低なポケモンだ。恥を知れ……。
「わかってる……」
 自分で自分を諌めようとする行為に、ゾルダはへどが出た。間違いを犯したのは紛れもなくゾルダだ。
 ゾルダは、確かにコペルよりも強かった。しかし、ゾルダがなぜコペルよりも強いのか、それをわかっているものはゾルダ自身しかいない。技術は並、力はそれなりに強いかもしれないが、それが二匹の決定的なまでの差を作っていた要因ではない。
(経験値……)
 それが、ゾルダの出した答えだった。ゾルダが常にコペルより上位を維持するためには、経験値の差で圧倒するしかなかった。才能に恵まれているわけではない。突飛な戦術を考えられるだけの頭も持っていない。だから、努力するしかなかった。いつまでも、コペルやその取り巻きの兄貴でいられるように。
 だから、ゾルダは恐れていた。誰にも負けないと自負してきただけの努力の結晶が、才能や進化によって簡単に覆されてしまうことを。
 くだらない矜持。無意味な自信。簡単に捨てられたならば、目の前に示された事実を容易に受け入れることが出来たのかもしれない。今、ゾルダの中で渦巻いている憎悪に似た何かも、消え失せてくれたのかもしれない。
 コペルは俺のことをどう思っただろうかと、ゾルダは思案した。しかし、考えはまとまらなかった。ただひとつ、ゾルダは、二度とコペルに顔を合わせることはできないだろうと思った。
 所詮、自分はこんなもんだと、ゾルダは自身を罵った。矮小で、卑屈で、どこまでも薄っぺらい小心者。どうせ悲しみなんてすぐに消える。ニ、三日もすれば、彼をはやし立てるような余計な者がいなくなったと清々することだろう。それで構わないのだと、ゾルダは雨に心を洗い流した。



    



 雨は三日降り続いた。炎の体を持つゾルダにとって、止まない雨というのはうっとうしく、冷たすぎる。心はいつまでも乾かない。
 降りしきる雨の中を、ゾルダは逃げるように歩き続けた。日が経つにつれて、自分の居場所は棲みかから遠ざかっていく。ゆくあてはない。何のために歩いているのかもわからない。
 すべてがどうでもよくなったのかもしれない。なんとなく、居づらくなった。それだけである。
「はぁ……」
 まずい木の実をかじっては、ため息をつく。その繰り返しだった。逃避行というにはあまりにもお粗末すぎる。ゾルダはそう自嘲した。
 雨に打たれ続けて、ゾルダの体は心から冷え切っていた。炎タイプにはあまりにも苦しい。しかし、ゾルダは自分の体が悲鳴を上げていることに気づかなかった。
 ふと、足が止まった。気がつけば、それ以上歩くことができない。知らぬ間にたまった心身の疲労が、津波のように押し寄せる。
 ゾルダはゆっくりとその場に倒れた。地面の冷たさを感じながら、ゾルダは虚無感に襲われた。自分はいったい何をしているのだろう。今まで何のために頑張っていたんだろう。
 目をつぶると、ゾルダはずるずると、二度と戻ってはこれないような深い闇に引きこまれた。



 物心ついたときから、ゾルダにのまわりにはたくさんのポケモンがいた。順調に体が大きくなり、いろいろなポケモンに慕われるようになった。年下のポケモンが多かった。「兄貴」や「ゾルダさん」と似合わない敬称をゾルダにつけていた者も、はじめは「兄ちゃん」と呼んでいた。
 悪い気はしなかっただろうし、ゾルダはそれに驕るようなポケモンではなかった。責任感の強いゾルダは、必然的に強くなった。努力の賜物である。
 ゾルダは、ここが夢の中だと気づいた。ここにいるゾルダは、自分と似て非なるものだったからだ。



「おい、起きるのだ」
 長年の付き合いのせいで、すぐに声の主が友人だと分かった。どういうわけで彼がここにいるのか、ゾルダは理解しようとした。どうせ偏屈な友人のことだから、三日三晩後を追ってきたに違いない。
「……暇人だな」
 友人への労いの代わりに、ゾルダは悪態をついた。
「相変わらず素直でないな」
「お前こそ。どうしてここがわかった?」
「決まっているであろう? 吾はおぬしの友人である」
 答えになっていないが、友人らしい答えだとゾルダは思った。どこからかゾルダがいなくなったという話を聞いて、いてもたってもいられなくなったのだろう。そんな素振りはまったくなくても、ゾルダにはわかった。
 雨は止み、雲がはけた夜空には月がよく映える。ゾルダは自分の棲みかのそばでよくやっていたように、適当な小枝をいくつか拾ってきて火をつけた。降り続いた雨のせいで火種を起こせそうなものはことごとく湿っていて、火はなかなかつかないが、それでもなんとか焚き火を起こした。
「その癖、まだ直しておらんのか。飽きぬものだ」
「直すもんじゃない。嫌なことはこうしないと忘れられない……」
「悲しい習性だな」
 たしかに悲しい。ゾルダは珍しく友人の言にうなずいた。しかし、ほかにどうしようもなかった。橙色の炎が一時のやるせなさを忘れさせてくれるのならば、ゾルダは喜んですがる。
 小一時間、ゾルダは炎を、ヨットは空を見つめていた。二匹とも隣り合って座りながら、無言のままだった。ヨットは、執拗に追いかけてきたわりには、ゾルダに構おうとしない。ゾルダが気を許した、真の友人らしい距離の取り方である。
 やがて、ゾルダはぽつりぽつりと話しはじめた。
「俺は、とんでもない馬鹿だったんだな。今回のことで思い知らされた。お前の言うとおりだったよ」
「はて、吾はおぬしに何を言ったのだ?」
 友人のとぼけにいちいち反応しては話が進まないと、ゾルダはヨットの問いかけを無視した。
「俺はコペルに嫉妬していたよ。醜いくらいに。今までこんな気持ちに気づけなかったのが不思議でたまらない。お前は知っていたのにな」
「他人に指摘されなければ気づかぬこともある」
「じゃあ、言われても気づかなかった俺は大馬鹿者だ。知っているんだろう? 俺がコペルに叩き潰されたことを」
「そのあとにおぬしが一方的に仲たがいを仕掛けたこともか?」
 仕掛けた、そんな言い方をされても仕方のないことだった。ゾルダは言い返すに言い返せない。口を開いても、見苦しい言い訳をしてしまいそうになり、閉口する。
「言い返さぬのか、おぬしらしくもない。おぬしなら、吾が言葉を打ち破るくらいの気持ちは持ち合わせていたはずだろう?」
「お前が俺に忠告したときのことか?」
「ああ」
「なら、俺を買い被りすぎだ。俺ははなからそんな力は持っていない。持ってたら……こんな場所には……」
 ゾルダの目から、涙が溢れた。雨雲が消え去っても、ゾルダの涙腺は枯れきっていなかった。
「なぜ泣く?」
「俺は……いろんなポケモンを裏切った。コペルだけじゃない。ビーツも、セサミも傷つけた。どうせ、その周りにの連中にも話は広がっているんだろう。俺は、やつらの兄貴でもなんでもなかったんだ」
「そんなことはないだろう? 皆がどれだけお前を慕っていたか」
「どれだけ高く積みあがったものでも、根元を取っ払えば簡単に崩れ去る。俺を慕ってくれていたポケモンへの気持ちがまやかしだったとわかれば、信頼なんてすぐに消える」
「おぬしはずっとその者たちの面倒を見ていたし、呆れるほど相手もしていたはずだ。それも全部嘘だったというのか?」
「さあ……。今の俺にはわからない」
 ゾルダが憔悴しきっているのが、ヨットには苦々しく感じられた。コペルを突き放したのは、見えないところで複雑に変化するコペルとゾルダの関係に口を出したくなかったからであるが、ゾルダを直前で助けられなかったのは失敗だった。ゾルダをここまで追い込んでしまったのは、自分にも責任がある。ヨットはそう感じた。
「俺にはもう……どうすればいいかわからない」
 ゾルダの目から落ちる雫は、地面に吸い込まれ消えてゆく。無表情のゾルダは、もうそこにはいない。
「それだけ涙を流せるというのに、おぬしはまだ慕ってくれたポケモンを想う気持ちが嘘だったと言い張るのか?」
「そうじゃなきゃ……俺がコペルたちにあんな酷い言葉をかけられるはずがない……。信じられるか? 俺は……俺はコペルに……消えろって言ったんだ……。俺を一番に慕ってくれていたやつを、そんなふうに罵ったんだ……。俺を越えたことを喜ばなきゃいけないのは俺自身なのにな……」
 それ以降、ゾルダは何もしゃべらなくなった。一通りたまっていた思いを吐きだして、燃え尽きたようだ。もしヨットがそばにいなかったら、ゾルダは鬱屈した思いを吐き捨てることができなかったに違いなかった。
「いい機会かもしれぬな」
「何の機会だ……」
「おぬしは、何もかも背負いすぎている。ここらでしばらく休むのもいいだろう」
「いったい俺が何を背負ったんだ?」
「自覚していないから、ここまで苦しむのだ。おぬしは他人のために、どれだけ自分の時間を費やした? そしてどれだけ自分を磨いてきた? その答えが、おぬしの背負ってきたものの重さだ。きっと吾より百倍も千倍も重いものを背負っているはずだ。ゆえに、コペルに負けたときに取り乱したのではないか? 皆のために犠牲にしてきたすべてが、負けることによって否定されたのだからな」
 ヨットの洞察は的を射ていた。ゾルダが事件を起こした日に悩み抜いたことを簡単に当てて見せ、ゾルダ自身が気づいていないことも、ヨットはわかっていた。
「敵わないな……お前には、絶対敵わない……」
「そうでなければおぬしの友人はつとまらぬだろう。何をいまさら」
「そうかもしれないな」
 友人を裏切るような真似だけはしたくない。しかしゾルダは、本心から友人の言葉のすべてを同意することはできなかった。
(失ったものは……もう取り返せない)
 ゾルダは目線を揺らめく炎から空に移した。下を見るより上を見た方が少しは気分も晴れるかもしれない、そう信じて。



    



「元気出せよ、コペル」
「何かの間違いだって」
 ビーツやセサミの励ましも、コペルにはすべて虚しく聞こえた。返事はすべて上の空。あの一件以降、五日ほどろくに食事もとっていない。他のポケモンが話しかけても、同様の反応だった。
 おぼろな意識の中でも、コペルは皆に心配をかけているというのはわかっていた。しかし、放っておいてほしいというのもまた事実である。そもそも、ゾルダに傷つけられたのはコペルだけではない。ビーツもセサミも、そしてほかのポケモンも、昔からの絆を否定されたはずだ。そのきっかけがたまたまコペルであっただけである。
「ふたりとも……ありがとう。もう遅いし、帰っていいよ」
 悩みが深くなれど、無情にも夜は更ける。わざわざ自分のそばにいてくれるセサミやビーツにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。コペルは、わずかに持ち直した心で、彼らに別れを告げた。
 心が空っぽのときは、どうしてこんなにも景色が深く染み入ってくるのだろうとコペルは考える。月も星も、その明かりに照らされる山々の緑も、一段と綺麗に見えた。
 ゾルダの行方はわからなくなったという。ヨットが追いかけていったという話も、コペルには興味の持てない話題だった。ゾルダに対して薄情だと責めるコペル自身の気持ちもたしかに存在する。しかし、コペルを突き放したのは紛れもなくゾルダだ。コペルはもうゾルダの弟子でもなければ、ゾルダはコペルの兄貴でもない。動かしがたい事実がコペルを締めつける。
 幾度となく漏れたため息が、また一つ落ちてゆく。ため息をつけばつくほど、幸せが逃げていくという迷信をコペルは思い出した。とっくに逃げられ、つかみ損なったものにはこの上ない皮肉だ。
「そろそろ立ち直らないとな……」
 コペルは呪文のように何度も自分に言い聞かせた。終わったことをいつまでも引きずっているのは、ほかのポケモンへの迷惑になりかねない。それにもかかわらず、いつまでも何かが心に引っかかる。

『お前はゾルダのことを一割も理解しておらぬ』

 ヨットの意味深な言葉。コペルは、自分がゾルダの何を理解していなかったのかを思案した。ゾルダ自身も三割しか理解していなかったこと。それはいったい何なのか。
 ゾルダのプライドを傷つけたせいだと言うならば、はじめから関わりを持たなければいい。コペルを恨むくらいなら、最悪の状態にこじれる前に突き放すことはできたはずだ。それ以前に、何かゾルダの気に障るようなことをしたのか。普段からの行動を洗ってみても、コペルはそれらしい挙動を思い出すことが出来ない。
 いくら考えても、やはりわからない。一割も理解できないことをすべて理解することは当然難しい。
(そういえば、どうしてあの時兄貴は泣いていたんだろう……?)
 ふいに、とどめを刺されたときの一瞬の出来事を思い出す。コペルは、そのときのゾルダの涙が見間違いではないことを確信していた。根拠はない。
 ふいに、腹の虫が鳴った。気がつけば、月は地平線の向こうに落ちて、太陽が東の方角から顔を出していた。何日も木の実がのどを通らなかったせいで、コペルの顔は目に見えるくらい痩せ細っていた。他のポケモンが心配するのも当たり前である。
「何か食べるか……」
 動きたくないのが本音であろうが、コペルは自分の体にむち打ち、のそのそと這うように歩きはじめる。その動きは緩慢で、力強さが微塵も感じられない。ゾルダを倒したとはとても思えないまでの覇気のなさだ。
 上背が高くなっていたので、コペルは後ろ足で立ち、手を伸ばせば気にぶら下がっている実に容易にありつけた。適当な木を選んで、コペルはそれを揺らす。いくつか木の実が落ちてきたが、暗いために何の木の実なのかわからなかった。たくさん採れるに越したことはないため、コペルはそのまま揺らし続ける。そして、木の実よりも数倍大きい得体の知れないものが落ちてきた。
「痛っ」
 それは見事にコペルの頭に命中した。どこかで見たような光景である。
「ふむ、また落ちてしまったか」
 ヨットだった。変人は概して神出鬼没の能力を持っている。コペルは頭の上に落ちてきたことを謝ってほしかったが、ヨットがそれに応じないことはわかりきっていたのであきらめた。
「またこんな細い枝の上で寝ているんですか。呆れますね……」
「いや、吾はお前に会いに来たのだ」
「……僕に何か用ですか」
 コペルは、さっさと寝床に戻りたかった。睡眠をとりたいということよりも、この偏屈から早く離れたいという思いからであったが、ヨットはそれを許してくれそうにない。
「ゾルダが……ゾルダが消えてしまったのだ!」
 何を言うかと思えば。コペルは呆れてものも言えないというふうにため息をついた。
「知ってますよ、それくらい。だからあなたが追いかけていたんでしょう?」
「そうだ。つい二日前まで、一緒にいたのだ。しかし……」
 ヨットは明らかに動揺していた。そして、体も妙に傷だらけだ。
「ヨットさん……その傷……」
 ヨットの体を覆っている黄緑色の皮がただれていた。火傷の痕だった。誰が彼にこんなことをしたのかは明白である。よりにもよって、ゾルダは唯一の友人にも手をかけてしまったのだ。
「なんでこんなことを……」
 コペルのやるせない気持ちが頂点に達する。ゾルダは、コペルの手の届かないところへと行ってしまったのか。
「ゾルダは吾やお前たちとの関係を断つつもりなのだ。頼む、ゾルダを助けてやってくれ」
 ヨットが深く頭を下げる。コペルと直接的な交友のないヨットが頭を下げるというのは、異常なことであった。
「兄貴が僕らから離れたいのなら、そうさせてあげればいいじゃないですか」
 ヨットは耳を疑った。これが、ゾルダの一番弟子の口から放たれる言葉なのだろうかと。
「何を言っておる……?」
「もう兄貴は、僕の兄貴じゃない。ただの『ゾルダ』です。僕とは何の関係もない……」
 コペルから紡がれた言葉に、ヨットはわなわなと体を震わせた。いつもの、しまりのない半月形の目が、鋭くコペルを睨んだ。
「馬鹿者! 愚か者! 薄情者! お前はどうして長きに渡る恩を忘れることができる!? なぜお前はゾルダの心をくみ取ろうとせぬのだ!?」
 烈火のごとく、ヨットは怒りをまき散らした。ヨットの耳をつんざくような声に、コペルは思わず触角を伸ばした。まさか、ヨットに怒鳴られる羽目になるとは思いもよらなかったのだ。
「でも……僕はもう縁を切られたんです……」
「……ゾルダの弟子が聞いて呆れる! 言い訳などいらぬ! 早くゾルダを探しに行くのだ!」
 ヨットの豹変ぶりから、コペルは一方的に攻撃された時のゾルダを連想する。正反対のようで、似た者同士である。
「もう空の者には捜索を頼んでおいた。空からなら、すぐに見つかるだろう。お前も行くのだ」
「でも……」
「ヨットさん!」
 空から、女性らしい透き通った声が聞こえた太陽に被さる小さな影が、ぐんぐん近づいてくる。ヨットにゾルダの捜索を依頼された鳥ポケモンのうちの一匹、ムクバードだった。彼女はスピードを減速させながら、ヨットとコペルの前に降り立った。
「ゾルダさんを見つけました。……えっと、あなたは?」
 彼女はコペルに向き直る。
「コペルだよ」
「え!? あのコペル君? 進化したのね。おめでとう!」
 その進化がゾルダとの仲たがいの引き金になってしまった節があるため、コペルは彼女の祝福を素直に喜ぶことができない。
「それで、ゾルダはどこにいるのだ?」
「ここから北にまっすぐ行くと崖がありますよね。その崖のそばにある滝……滝上にいました」
「滝?」
 てっきり遠くへ行ってしまっていたと思っていたヨットやコペルにとって、ゾルダの居場所は存外に近かった。しかし、炎タイプであるがゆえに水気のある場所を極端に嫌うゾルダがなぜそんなところにいるのか。
(……まさか、兄貴!?)
 コペルの考える、一つの可能性。
「あっ、コペル君!」
 屁理屈を並べ立てていたコペルの姿は、もうどこにもいない。カイリキーさながら、頭で考えるよりも体が先に動いていた。
「ふむ、まあ、口で言って切れるような縁ではなかろう。たったこれしきのことで切れる縁なら、はじめから師弟関係など結べていまい」
「……何かあったんですか?」
 未だ状況の把握に苦しんでいるムクバードであったが、ヨットは適当にあしらった。
「こちらの話だ。気にするな」



    



「高いな……」
 ゾルダは、滝上から滝壺をのぞいていた。轟々とうなりをあげる水の柱から飛んでくる水飛沫が、ゾルダの体をわずかに湿らせる。ここから足を滑らせたら、無事では済まないだろう。どれだけ軽く見積もっても、滝上から滝壺までの距離はギャラドスの身長の十倍はありそうだった。
(ここから落ちたら……コペルやヨットたちに会わなくて済むのかもしれない)
 ゾルダは不穏なことを考えていた。しかし、ゾルダは至って真剣な表情で真下に流れ落ちる激しい水流を見やっていた。
「ヨットには悪いことをしたな……」
 ゾルダがヨットに手をかけたのは、コペルを傷つけた時と同じように、理性を失ったからではない。ゾルダは、自分とコペルたちの歪んでしまった関係を、ヨットに修復させるつもりはなかった。ヨットに手間をかけさせたくない。自分の犯した間違いは自分で決着をつけたい。それが、ゾルダなりの答えであった。
 結局はヨットの忠言を反故にしただけにすぎない。それを含めて、ゾルダはヨットに謝りたかったのだが、その機会はもう訪れそうにない。
 ゾルダはしばしの間、滝の織り成す音を静かに聞いていた。



    



 口でどれだけ取り繕おうが、コペルはゾルダを心から心配していた。こうして木々の間をすり抜けながら走っている間にも、ゾルダが突拍子もない行動に出てしまうのではないかと、彼は不安に駆られた。しかしコペルは、ゾルダに対する憂いとともに、怒りも感じていた。理由もわからないまま冷たく接され、進化したことも、ゾルダに勝ったことも喜ばれるどころか疎まれ、挙句の果てには滝上から身を投げる気を起こしている。
(頭がどうかしてしまったんですか、兄貴!?)
 コペルは、ゾルダを説得し終えたら、真っ先に尻尾で叩きつけることを考えていた。そうでもしなければ、とてもではないが彼は自分の気をうまく収められる気がしなかったのだ。
 彼の思っていた場所よりゾルダの位置が近いとはいえ、北にある滝へはだいぶ距離がある。それでもコペルは足を休めることなどしなかった。休む暇があったら、懸命に足を動かして、一秒でも早くゾルダの元へたどり着きたい。その思いだけがコペルを突き動かす原動力だ。
 止まることなく走り続けたコペルの体は、跳ねあげた泥や雑草で汚れていた。真上を目指す太陽からの光が、コペルの硬い外皮に反射する。コペルが走りはじめてから、かなりの時間が経過していた。


「はぁ……はぁ……」
 息は切れ切れだが、コペルは何とか目的の場所へとたどり着いた。そこは、森の目のように木々の禿げている、ひらけた広めの草原だった。しかし、森の目のそれと違うのは、その草原の真ん中を、大きな川が流れていることだった。その川の先は、急に途切れていた。そこが滝上と呼ばれる場所であり、遥か下では滝壺が轟々と音を立てているのだ。
 そして、コペルから見て河口の右側に、ゾルダはいた。ゾルダは、一歩進めば間違いなく滝壺に落ちてしまうような危ない位置で立ちすくんでいた。ゾルダは川上に背を向けていたため、その方向からやってきたコペルには気づいていなかった。
「兄貴……」
 ゾルダに聞こえないような、コペルの小さな呟き。コペルは、ずっと大きく見えていたはずのゾルダの背中が、やけに小さく感じた。まるで、ゾルダを大きく見せていたものが、一切取り払われてしまったかのように。
「兄貴!」
 コペルは、喉から絞り出したような声で叫んだ。
 ゾルダはその声に素早く反応した。ゾルダは現れるはずのない者がそこにいるという事実に、ひどく驚いた。そして、その目つきはゾルダを邪険に扱ったあの時と同じであった。
「何をしに来た?」
 違う。なぜそんな声のかけ方しかできない? ゾルダは、口をついて出てくる言葉をどうしても抑えられなかった。コペルに対する劣等感と、意地。どうしても捨てられない。ゾルダは自己嫌悪でどうにかなってしまいそうだった。
「帰りましょう、兄貴。変な気を起こさないでください」
 コペルは、ゾルダの気に障らないような言葉を選んだつもりだった。しかし、厄介なものを扱うかのような目、腫れ物を触るような態度……コペルのゾルダに対する疑心から生まれた上辺だけの振る舞いは、容易にゾルダに見透かされる。それは、ゾルダのさらなる怒りを誘発させる。
「俺を兄貴となんか思っていないくせに、兄貴って呼ぶなあ!!」
 ゾルダの口から放たれる火の粉が、コペルに襲いかかる。しかし、距離が遠いために、コペルはいとも簡単によけた。
「ふざけないでください! バトルする気なんかありませんよ!」
 コペルは思わず叫ぶものの、冷静さを欠いたゾルダにそれが伝わるはずもない。ゾルダは断崖の淵から、予備動作なしのニトロチャージでコペルに突っ込んでくる。一度見切った技を再び跳ね返すだけの自信をコペルは持っていた。しかし、こんな場所で尻尾を使って弾き飛ばしてしまえば、ゾルダを崖から落としてしまうかもしれない。そして何より、コペルはゾルダを傷つける気がない。選べる対抗手段は必然的に回避しかなかった。
「くっ」
 コペルはゾルダのニトロチャージをすれすれでかわそうとする。しかし、ここまでずっと走ってきたことによる疲れがあるせいか、動きにキレがない。すんでのところでゾルダの攻撃がコペルの腹側部にかすった。
 それからも続くゾルダの怒涛の攻撃に、コペルはよろけながらも対応していく。頭が混乱していると言っても過言ではないゾルダに対して、コペルはつとめて冷静になろうとしていた。
(兄貴は何に怒っているんだ?)
 いったい自分のどこがいけない? 自分のどこが気に入らない? どれだけ自問しても、答えは出てこない。ゾルダは「兄貴となんか思っていないくせに」とコペルに言った。しかし、そんなふうに責められる道理はない、とコペルはゾルダに向かって言いたかった。一方的に縁を切ろうとしたのはゾルダなのだから。
「くそお!」
 コペルは、この状況の解決策が見いだせないことに苛立ち、ついゾルダの攻撃を迎え撃ってしまった。
「があっ!」
 ゾルダはコペルの太い尻尾で、崖の淵まで弾き飛ばされた。連続攻撃で疲れたのか、そのまま立ち上がることが出来ない。コペルは、倒れているゾルダにゆっくりと歩み寄ろうとする。
「兄貴……」
「来るな!」
 必死で力を振り絞って、立ち上がろうとするゾルダ。コペルは、ゾルダがいったい何をしたいのかがまるでわからなかった。ゾルダの目から伝い落ちた涙を見るまでは。
(兄貴が……また泣いてる)
 その瞬間、コペルはヨットの言葉を思い出した。

『お前はゾルダのことを一割も理解しておらぬ』
『少なくとも原因のうちの一つはお前だ』
(あ……)
 コペルは、自分がゾルダの心情を考えるときの前提条件が間違っていることに気づいた。何がゾルダの気に障ったかでも、怒らせたかでもない。何がゾルダを悲しませた(、、、、、)のかだ。涙は、悲しいときにしか流すことが出来ないのだから。
 そしてコペルは、ゾルダの様子が一段とおかしくなったのは、自分がバトルでゾルダに初めて勝ってからだったことにも気づいた。ゾルダの抱えている悲しみや苦しみを爆発させてしまうきっかけを与えたのは自分なのだと、コペルは悟った。
「コペルう!」
 ぼろぼろと零れていたゾルダの涙は、彼自身が噴き上げた炎によってかき消された。ゾルダの赤い五本の角に、灼熱の炎が灯る。
(来る!)
 この距離では、コペルがゾルダのニトロチャージをかわすなど不可能だ。もとより、コペルにはかわす気などさらさらない。
「うああああ!!」
「うっ!」
 泣き叫びながら突っ込んでくるゾルダの攻撃が、コペルの胸に直撃する。コペルは手で受け止めようとするが、その短い手では受け止められない。コペルは、体勢が崩され後ろ向きに倒れると同時に、ハードローラーを発動するときと同じ要領で体を丸めこむ。
 ゾルダを受け止めることはできたが、燃え盛るゾルダを腹部に押し当てるのは自殺行為だった。
 熱いを通り越して、痛い。このまま皮膚神経が焼き切れてしまうのではないかと思うほどの痛みに、コペルは悶絶した。
「兄貴……熱い……やめて……」
 このままでは殺される。コペルはそう直感した。
「やめ……」
 コペルは気を失いかける。刹那、ゾルダは我に返り、爆ぜるような炎はたちまち収束した。
「兄貴……」
 ゾルダの様子が元に戻った。その安堵感で緊張の糸が切れたコペルは、痛みを我慢しきれず倒れた。
「コペル……ぅ……そんな……」
 ゾルダを苛む現実は、あまりにも酷い。赤黒く焼けただれたコペルの腹を見て、ゾルダは頭が真っ白になり、その場に泣き崩れる。
「コペル……俺は……俺は……」
「泣かないで……ください……兄貴」
 コペルは痛みで呼吸がうまく続けられなかった。それでも何とか気を失わずに保とうとするのは、ゾルダの気持ちをすべて理解したかったからである。
「兄貴……」
「俺はもう……兄貴なんかじゃない……」
「兄貴は……兄貴です」
「違う……。コペル、俺は……そんな資格なんかない……」
 とめどなく溢れる涙を流しながら、ゾルダの吐き出した言葉。
(……そうか……そういうことだったんだ)
 最後の最後で、コペルはようやくゾルダの気持ちを理解した。そして、今までゾルダの気持ちをわかってあげられなかったことを後悔した。
「俺は……兄貴失格だ……」
「違いますよ……」
 コペルはそう強く言い、尻尾を使ってゾルダを優しく引き寄せ、赤黒くなってしまった腹で包んだ。
「兄貴は……いつまでも兄貴です……」
「でも俺は……みんなよりも強くなければいけないのに……うぅ」
「もう何も……言わないでください……」
 コペルは、ゾルダを体で強く抱きしめた。今まで、ゾルダのことを何もわかってあげられなかった分を取り戻すかのように。
 誰よりも強くなければならないという高すぎる理想と、迫りくる現実のはざまで、ゾルダは死ぬほど苦しんだ。そして、コペルがゾルダを圧倒して勝ってしまったという事実が、ゾルダには重くのしかかった。たった一度の出来事で心が壊れるくらい、ゾルダの心はまるで砂の城のように脆くなってしまっていたのだ。
(僕が兄貴の理想の『兄貴像』を壊したから……兄貴の気持ちに少しでも気づけていれば……)
「恐かったんだ……コペルに追い越されたら、みんな俺のことを兄貴と思わなくなるんじゃないかって……」
 ゾルダは嗚咽し、体を震わせた。
「俺は……みんなの理想の存在でなければならないから……なのに……なのに」
「兄貴……ごめんなさい……」
「……どうして謝るんだ」
「僕、兄貴のこと……何もわかってあげられなかった。兄貴の弟子なのに……兄貴が苦しんでたこと……知らなかった。ごめんなさい……ごめんなさい……」
 コペルの目から流れた一筋の雫が、地面に吸い込まれた。
「コペル……俺は……まだみんなの……コペルの兄貴でいたい……」
 幾度となく悪態をつき、自分に素直になれなかったゾルダ。しかし、長い時間をかけて、ようやく自分の本心を吐露したゾルダに、もう苦しみはない。ゾルダの心の底にたまっていた澱は、きれいに溶けた。
「兄貴は……これからも……ずっと……ずうっと兄貴ですよ……」
 心の澱を吐き出せたのは、コペルもまた同じだった。



    



「ほう、そんなことがあったのか」
「ああ……思い返すだけでも恥ずかしいがな」
 一週間後、ゾルダとヨットは木の枝の上で、友人同士、取り留めのない話をしていた。ヨットが自分の棲みかにゾルダを呼び寄せたことがきっかけである。
「それで……コペルの火傷はどうなった?」
「だいぶ良くなってきてるよ。まだ安静は必要みたいだが。……コペルには本当に申し訳ないことをした」
 ゾルダはそう言って、目を下に落とした。
「そうか……吾には火傷させたこと、謝らぬのか?」
「すまん」
「軽いな」
「そうだな」
 ヨットはゾルダに悪態をつかれることは慣れていたので、軽く袖にされたことは気にしていなかった。
「まあ、おぬしが元気になって何よりだよ。コペルも言っておった。兄貴がちょっとだけ笑うようになったとな」
「そうか?」
 ゾルダは無表情で返事をする。心なしか顔がほころんでいるようにも見えるが、真意はヨットにしかわからないだろう。
「兄貴ぃ!」
 ゾルダが木の上から地面を見下ろすと、何かが木の根もとで飛び跳ねているのが見えた。ゾルダはすぐに木から飛び降り、続いてヨットも飛び降りた。
「僕と勝負しろ!」
 そのポケモンは、颯爽とゾルダに飛びついた。血の気の多そうなポケモンである。
「なんだ、こやつは?」
 ヨットはゾルダに質問した。彼らの目の前にいるポケモンは、コペルによく似ている風貌だが、体の大きさはゾルダよりも小さい。
「コペルの従弟(いとこ)だ。新しく弟子にしてほしいらしい」
「また変なやつに懐かれて……大変だな、おぬしも。黙って滝壺に身を投げた方が良かったのではないか?」
 ヨットは意地悪くゾルダを茶化す。
「馬鹿言え。水に飛びこむなんてこと、怖くてできるか」
「ふん、どうだかな」
「早くしろよ兄貴!」
 フシデがぴょんぴょんと飛び跳ねて、ゾルダをせっついた。
「優等生のコペルとは似ても似つかぬな。言葉も態度も一から教えてやらねばならぬようだぞ?」
「その方がしごきがいがあるな。面倒くさいが。行くぞ、小僧」
「誰が小僧だ!」
 いちいち突っかかってくるフシデに、大人の対応をするゾルダが、ヨットにはおかしく感じられた。
「また、昔の表情に戻ったな」
 弟子の修行に付き添うゾルダを見送りながら、ヨットは独り呟くのであった。





大会でいただいたコメントの返信です↓

自分より弱い者、自分より強いもの、その差と嫉妬、そして信頼していたものの瓦解、それらがよく描かれていました。
最後の最後で仲直りした兄弟たちの印象がとても心に残り、ほかの作品の中でも一つ印象に残りました。
とても楽しく読めたので一票を入れさせていただきます。この作品を読めたことに最大に感謝します。 (2011/08/25(木) 00:19)


>>物語の中で渦巻くいろいろな感情を表現するのが自分の特徴だと思っているので、そこを評価していただけてうれしいです。たぶん仲直りできたのは、絆が本当の意味で壊れていなかったからですね。他作品が良作揃いだったので、その中で少しでも印象に残るような作品を書くことが出来てほっとしています。こちらこそ、読んで、投票していただいたことに感謝します。

虫ポケ好きの俺歓喜 (2011/08/25(木) 00:37)


>>虫いいですよね虫。ペンドラーのおなかをベッドにしてメラルバを枕にしたいです。火傷しそうですが。

大木をなぎ倒す所とバトルシーンが段違いの迫力だったです!
化物の様な強さのポケモンが自分の弟子だった事に気付いた時のゾルダの絶望感は半端無いですね……。
嫉妬は誰でもするものかと思われますが、ゾルダの場合無表情で感情を表に出さない性格が災いして
負の感情を心の中に溜め込んでしまい、結果暴走してしまったのではないでしょうか。
終盤の両者ボロボロになりながらも和解する場面は本当に良かったです……。
出場作品の中で一番好きです。素敵な作品をありがとうございます。 (2011/08/27(土) 21:53)


>>毎回バトルシーンには詰まるのですが、迫力があると言っていただき嬉しいです。ゾルダの「皆の兄貴でいたい」という隠れた思いを、ヨット以外の誰かが気づいていれば、誰も傷つかなかったかもしれません。でも、傷ついた上で結ばれた絆は、これまで以上に強固なものになると思います。
これからも素敵な作品と言っていただけるような作品を目指して頑張りたいと思います。

面白かったです。投票させていただきます (2011/08/29(月) 13:58)


>>これからも面白いと言っていただけるような小説を目指します。ありがとうございました。



投票、そしてコメントありがとうございました。




感想等あればどうぞ↓

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • こんばんは。ヒビワレ注意報読ませていただきました。
    メラルバのゾルダと、ホイーガ(後ペンドラー)のコペルとの熱い師弟関係にはとても感動しました。
    ゾルダの兄貴としての思いと言うのは確かにもっともで、ゾルダのように慕われることはないものの、普段は私も年下に負けることを強く嫌う傾向があるのでとても共感できました。
    逆にコペルのほうも弟子ならではの苦労と言いますか、ゾルダへの尊敬の想いと自身の強くなりたいという想いがぶつかって悩む様子は本当に私たち人間の間でもありそうで、ゾルダ同様共感しながら読むことができました。
    最後は互いに仲直りしつつあるような様子が見られ、ゾルダもいつもどおり世話焼きな兄貴に戻ってよかったと思います。友人のヨットもゾルダとコペルを引き立てるのにとても良い役割を持っていたと思いますし、ゾルダの身になってみてこんな友人がいたら幸せだなと思える存在でした。
    一部プラグインの使い方のミスや、コペルであるべきところがゾルダになっていたところがあったので訂正お願いします。
    文章力も優れたボキャブラリーを感じるものでしたが、それよりこのお話はとにかくストーリーが共感性の高い素晴らしいものだったと思います。普段私の思うところとゾルダの思いが非常に重なったところがあり、いずれよりも共感できたという理由から、今回私はこのお話に投票させていただきました。
    結果は上位入賞とはいかなかったようですが、私の中では抜きんでて秀逸だったと思っています。あとがきに質問がありますが、メラルバ…可愛いと思います(笑)元々もありますが、アカガラスさんが書いてこそですね。
    では、これからも執筆頑張ってください。
    ――クロス 2011-09-02 (金) 21:52:36
  • >クロス様
    熱い師弟関係→確かに熱いですね。私は体育会系をやっていただけに変な暑苦しさが出てしまいますw 書いている最中に、普段に比べてゾルダに感情移入してしまいました。同じようにクロス様にも共感していただいたようでなによりです。年下に負けると湧き上がる負のオーラが抑えられないですよねw
    流石に人間同士だとここまで仲違いをすることはないかもしれませんが、相手の思うことをうまく汲み取れなかったり、考えていることが一方通行だったりすると、思わぬ悲劇を招いてしまいがちです。それで壊れてしまう絆ならそれまででしょうが、ゾルダとコペルが仲直りできたのはそれ以上に強い絆があったからでしょう。
    ヨットの出番はもともと少なく設定していましたが、さすがにゾルダとコペルが自力で仲直りするのは難しいだろうということで、出番を多くしました。第三者の手を借りずに解決することが難しい場合も多々ありますからね。

    ボキャブラリーはまだまだ少なく、これから勉強してもっとうまく書けるようになりたいですね。
    プラグインミスや誤字等、見苦しいものをお見せしてしまい申し訳ありません。期限に間に合わなくなりそうで急いで書いていた、といえば言い訳になってしまいますが……。今度からは気を付けます。ご指摘ありがとうございます。
    上位入賞まではかなり遠い道のりのようです。だからこそ、やりがいもあるし、目指すべき目標だと思います。お互い執筆頑張りましょう!
    投票、並びにコメント、ありがとうございました。
    最後に、メラルバ可愛いです((
    ――アカガラス ? 2011-09-03 (土) 22:22:21
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あとがき↓
前夜祭だけでなく本番にも出させていただきました。無計画に参加表明するとあとで痛い目に会うと身をもって思い知りました。残り一週間で半分しか書けてないなんて参加表明時には思いもしなかったわけですが……。なんとか間に合い、最低限のことはできたかなあと。久しぶりに大会に出るに当たり、いつもやらないことをやってみようということで、三人称で書いてみました。今まで一人称でしか書いたことがなかったので、勝手がわからず四苦八苦。まあいい経験になったのではないかなと思いますで、ここから反省タイム……初期の構想とだいぶかけ離れたものになりました。いいか悪いかは私にもよくわかりません。弟子が進化したら思いのほかでかくなって怯える兄貴みたいなものを書きたかったのですが、不純物を足しまくった結果があれ↑になりました。そのせいで一つ一つの展開の幅もまちまちに。修正したい点です。そんなことよりメラルバってかわいいと思うのですか皆さんどう思いますか?
あとがき+↓
第三回仮面小説大会非エロ部門、7位。46票中4票獲得しました。投票してくださった方々、そして読んでくださった方々、ありがとうございました。


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Last-modified: 2011-09-01 (木) 00:00:00
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