“マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」
天使は答えた。
「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」”
――〈ルカによる福音書〉より
The Virgin
【この小説には宗教に対する多大な偏見が含まれております】
落ち着いた静けさが波のない水面のように広がっていた。遠く人々のざわめきが聞こえるのは気のせいか。それとも無音になれた耳が捉えた実在する音だろうか。
時は日没。暁と正反対の方角に沈み行く太陽は、紅葉色をした光を地上に投げかけている。その濃淡のある赤色が、この部屋の色調を単調なものにしていた。見渡す限りが赤と黒とのモノクロームでできている。煉瓦を積まれて作られた家であればなおさらのこと。
その家に、ようやく家人が帰宅してきた。木の扉の軋む音に足音が重なり、何もなかった部屋に音を響かせる。それは、瞬く間に壁に吸い込まれて。
「ただいま」
帰ってきた家人は、一人の少女。正しくは幼げなイルミーゼ。頬に泥のおしろいをしてはいるものの、その顔にははっとするような健康的な美しさを湛えていた。未だあどけなさの残る、丸みのある顔に青い瞳は爛々と輝いて。妖精のような飛べない翼の輪郭が、赤い陽を受けて光る。
――イルミーゼの少女は名をマーヤと言う。
心地のよい疲労がマーヤの体を満たしていた。労働を終えた後の感慨といえば、これだけで働くことの意味への問いかけに答えることができそうなほどだ。こうして働いた後の体を早めに寝せ、そして朝早く農作物の刈り入れに往くために起きる。そんな淡々とした毎日。それは楽しくもあり、また退屈を覚えるものでもある。しかし農村に、それ以外の仕事があるといえば否。
マーヤは先日収穫したオボンの実を夕食に選ぶ。家具の少ない部屋、地面がそのまま床となった部屋のなか、隅に置かれた箱の中から、マーヤは淡い橙色の木の実を手に取る。今年は寒冷が長引いたせいか猛暑が訪れたせいか、実りはあまりよくなかった。小ぶりで固い果実を一つだけ。それが毎日の食事になることくらい、農村に生を受けた時から覚悟している。
オレンの実だけで一冬を越したこともあった。
それを思い出すたび、貧困の苦々しさを思い出すたび、マーヤは神に感謝せずにはいられなくなる。われわれに豊穣を齎してくれる神々に。
「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。
ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。
……私たちの主によって」
そういうや否や、マーヤはゆっくりとオボンの実に口をつけた。さく、と。敢えて言うならば氷になりかけた雪を踏み崩した、そんな音。
様々な味が折り重なり、練りこまれたオボンの味は、心なしかいつもより渋い。種も大きい。例年よりも少々酷な環境で実を結んだことの表れ。来年こそはより良い果実を。マーヤはそう誓願した。
いつのまにか手元にあったオボンの実はなくなり、その代わりに大粒の茶色い種が手元に残った。苛酷な環境を耐え抜いた種は強く育つだろうか。彼女はオボンの実が入ったかごの隣、影に置かれた壺の中に、その種を入れた。陶器を固いものが打つ複数の打音。
食事を済ませれば、もはや夕暮れを過ぎて、空は夜の帳を下ろす。暖色に染められていた部屋はいつしか暗色に覆われ。冬の近づく足音が聞こえてくるように、日の入りから夜までが駿馬の如く早くなっていく。一日を過ごすたび、日が短くなることを感じざるを得ない。
そうして眠りに就こうとするたびに、――マーヤの胸に一筋の痛みが走る。
「……今日もあなたは帰ってこなかった」
半ばあきらめ気味に。半ば期待気味に。そして残ったほんの少しを私怨気味に。彼女は夫に対してそんな言葉を呟いた。夫は良い人だった。彼女を一途に愛する、素直なレディアンの男性。
彼は真っ直ぐにマーヤを愛した。だからこそ彼は今この家にいない。貧しさをしのぐために、遠く都まで働きに出ているのだ。この国で最も大きな商家へ奉公に。それがマーヤには寂しくてたまらない。彼は働き先から生活費を送ってくれた。愛の言葉を伝えてくれた。されど、それだけでは満たされない思いが、輪郭のうやむやな想いが、彼女の内側に渦巻いている。
……マーヤはまだ男性を知らない。
まぐわうことに対して抱く淡い想像は、例えば恐れ。例えば悦び。例えば安らぎ。例えば絆。それらは全て何も知らないからこそ生まれる感情。子宝を得るための方法としてではなく、いわば快楽とより強い関係を重視した上で花咲く堂々巡りの想い。彼女は愛情に飢えていた。愛された証を欲していた。
幼いころに両親と死に別れ、毎日を畑にて過ごした幼少期は、色の無い記憶として彼女の脳裏に浮かび上がる。生れ落ちたときは幸せを抱いていようと、それを手放してしまえば再び手に入れることは困難を極めた。結局、マーヤが再び幸福を見つけたときは、乙女と呼べる年頃だった。――都からやってきた、一匹のレディアン。二人は恋を分かち合い、永久の愛を誓い。それが感じられなくなってしまった今、彼女を慰めるものは何一つ無く。
家の一番奥にひっそりと置かれた寝台。そこに横たわり、寒かろうと夫が買ってくれた毛布を体に巻きつけた。そうして目を閉じれば、途端に疲労からくる眠気が意識を蝕んでいく。様々なわだかまりや不満ごと。
夫の幻想を抱いて、イルミーゼの少女は眠りに落ちた。
イルミーゼの少女の名を呼ぶ声が聞こえて、彼女は瞼を開いた。すれば、広がる視界に飛び込んでくるもの全てが白光を帯びている。自らが身を横たえている臥所も、イルミーゼの体も、薄汚れた壁ですらも。黎明に地平線からあふれ出す陽光に似た、透明に近い白色。むしろいかずちが走った瞬間に似ているだろうか。限りなく白い世界に、果てしなく黒い影。目をつむってしまいそうなほどに眩い、その光が何であるか考えるまでもなく、マーヤは目の前に“在る”ものを凝視した。
光源の如く思える純白の体を、その体に浮かび上がった赤と青の三角模様を、血の気を思わせない顔に浮かんだつぶらな目を。
――トゲキッスが携えた、誇る白い花、百合を。
辺りを照らしているものは後光だろうか。分からない。ただ彼女の思考は運動することを止め、眼は百合に釘付けとなってしまう。されどいきなり現れたトゲキッスに対して、不思議と警戒の念は生まれなかった。寧ろ胸からあふれ出てくるものは慈愛か。ふとすれば涙がこぼれてしまいそうなほどの感慨。それがどうして自らの感情を支配しようとしているのか、彼女自身にも理解できない。
「だっ……」
声帯が縮まって声を出すことさえままならない。それは驚愕からではなく、まして恐怖からではなく。それは或いは畏敬の意からか。輝ける白の体は余りにも神々しい。されど尊びの心を抱いてしまう原因が別のところにあることを、マーヤは咄嗟に思い出した。
トゲキッスは今まで出会ったこともなかったが、見た覚えであれば数え切れないほどにある。――神殿の壁画、教会の天井、神話の挿絵。それら全てに、トゲキッスの姿を垣間見ることができた。神聖なるものの具現化した存在、神の使いの姿として、聖霊が姿かたちをもった生命として。神々と等しい存在として。
“揉め事のある場所には決して姿を現さない”とも、それによって“その姿を拝むことは滅多になくなってしまった”とも言われていることを、マーヤは知っている。そのトゲキッスを神の使いであると仮定するならば、何故このような場所に訪れたのか。何か手がかりを探そうと記憶の霞をまさぐるものの、底のない無限の海へ手を伸ばすように、記憶は指の間をすり抜けていく。
何もしようとしないイルミーゼの乙女に向かって、トゲキッスは口を開いた。まろく、暖かな声だった。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
「あなたは」
「恐れることなかれ。あなたは純潔のまま身ごもった。代わりに聖霊があなたの胎に満ちている」
なんのことだろうか。始めこそそう考えてはいたものの、それは鮮やかに確信へと移行する。それは彼女が心から信仰している宗教の教典に書かれた言葉そのものだった。だとすれば、トゲキッスはやはり天井の使いであられるのか。それはにわかには信じがたいことではあったものの、マーヤはそれを信じた。信じざるを得なかった。目の前に君臨したトゲキッスと、純潔を意味する白百合の意味を汲み取れば。
トゲキッスはマーヤに向かって跪き、その手の甲に口付けをした。驚き、戸惑い、そしてそれを受け入れ、マーヤは凛とトゲキッスの目を見つめる。深く澄んだ栗色の目だった。
マーヤは張り付いたように動かない喉を必死に動かし、上ずった声で言葉を紡いだ。読みなれた教典に綴られた言葉を。幾度も幾度も読み返した文章を。
「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」
その言葉に満足したように唇の形を整え、トゲキッスはマーヤに向かってウインクを施した。それを見た直後、緊張した筋肉が弛緩し、マーヤはとてつもない睡魔に襲われる。睡魔……いや、神を敬い言うならば、眠たさに意識を奪われた。唐突なこと、いきなりの宣告を終えたが故に訪れたか。
マーヤはくずおれるように毛布に倒れこみ、寝息を立て始めた。消え往く意識の破片のなかに、トゲキッスが飛び去る姿を見たような気がする。
レディアンはこの数ヶ月の間幸せの最高潮にあった。
信仰心の強い村であることも幸いして、マーヤが間男に夜這いをかけられた、知らぬ男と寝たなどという悪い話がたつことも無く。夫妻は共に崇敬され、信頼され、祝福されて、まさにこの村の時の人となった。最初こそ信じない人もいたものの、日に日に大きくなり行くマーヤの腹を見、確信を得たものも多い。レディアンの子ではないか、と疑われたこともあったが、この時期に百合など咲くはずも無く。マーヤの処女懐胎は村中の人々に活気を与えた。――無理も無い。神の子ともなれば。
マーヤが身重になってから、レディアンは彼女の代わりに畑に出るようになった。そうでなくとも村人たちから様々なものが捧げられるわけではあるが、こちらとしても恐縮してしまう。いただく代わりに、ただ働きをさせてもらおうとしたが、そうは問屋が卸さない。村人たちは、無理にでもレディアンに土産を持たせようと必死だった。
そして今日も、村人が貯蔵庫から引きずり出してきたロメの実を抱えて家路を急いでいる。唯でさえ高級な食材であるロメの実をどうしてこんなに持たせるのかと訪ねれば、出産が近いからと押し付けられ。マーヤが嫌いな味だからと嘯いて返そうとすれば、じゃああんたが食えばいいと持たせられ。
――されどマーヤの嬉しそうな顔を見ると、こんなことも悪くないと思えてくる。思わず壊顔しつつ、レディアンは自宅の扉を開いた。
「ただいま」
軋む音。相変わらず変わらない。しかし、今回は部屋の中の空気が全く違った。マーヤがいるはずであるというのに、何という寂寞感。漂ういやな予感はひしひしとレディアンの心に這い進み、彼を急きたてる。何か。異様なことが起こっているような。それを肌で感じ、レディアンは両手一杯のロメの実をかなぐり捨てた。愛した乙女の名前を呼び、狭い家の中を走り回る。
そうして彼女を見つけたのは、一番奥の部屋――。苦しそうに荒々しく息をし、訴えるような眼差しを投げかけながらうめき声を上げている。
「マーヤ!」
恐怖が彼の心を暗一色に染め上げ、パニック状態に陥れる。抱いた彼女の体はひどく暑く、戯言のようなことを呟いて眼はうつろだった。これが意味することをようやく把握し、レディアンはマーヤの体を抱きかかえた。自分の体の半分ほどの重さしかない彼女の体の下に腕を通し、家を飛び出す。扉を力任せに開くと、木でできた扉は煉瓦の壁に叩きつけられ、木片が散った。その際に金具が飛んで壊れたようだが気にしてはいられない。行く人々の目も気にせず、レディアンは翅を羽ばたかせた。
鳥のように華麗ではないが、彼は飛ぶことが可能だった。細かく翅を震わせ、跳躍するように空に舞い上がった。風を掴み、空を翔る。早くしなければ、マーヤの体……そしてわが子、否、神の子の命までも危ういという本能が彼を突き動かす。
主よ、とレディアンは思わず口にする。神の呼び名。それを言葉にすれば、漠然と助かるような気がしてくる。唯一の希望。強い風が彼を煽るが、彼は飛ばされぬように歯を食いしばり、より翅を強く羽ばたかせた。風の壁は脆く崩れ去り、追い風に強風が吹き荒れた。レディアンは勢いで煉瓦屋根に叩きつけられそうになるものの、なんとか持ちこたえ、風の無いうちに辺りを見回した。
村医者は小高い丘の上、目立つ十字架のモチーフが屋根に飾られている。それを目印に、レディアンは空を蹴る。
低気圧でも近づいているのだろうか、はたまた神を阻まんとする悪魔の意図か。不安定な姿勢で、脇から強い風に煽られる。高波に持ち上げられるように強い力に凌駕され圧倒され。彼は熱くたぎるマーヤの体を抱きしめた。腹部から、確かに鼓動の音がする。赤子の動作が伝わってくる。心配そうにこちらを見上げたマーヤの青い眼を捕らえ、レディアンは頷く。
「大丈夫だよ。……神の子だから、天上が殺させない」
この先どのような悪魔が待ち構えていようと、彼は全てを受け止める覚悟をきめた。
マーヤは、目覚めれば夫がすぐ側にいるものと思っていた。夫が、可愛らしい子供が、優しく揺り起こしてくれると考えていた。薄ぼんやりとした意識の水底で、たしかにそう信じていた。
けれど、
彼女を起こしたのは。
木の扉が軋む音、赤子が上げるあらん限りの泣声、土を壁を天井を叩く轟音、そして――荒らぶる戦士たちの叫び。
「悪魔(インキュバス)め、殺してくれる!」
「魔性と契った女など、神を冒涜した女などこの村には要らない!」
「マーヤを出せ! 赤子を引き渡せ!」
剣を翳した戦士たちが叫ぶ。奮う。憤る。辛うじて身の安全が保たれているのは、手負いのラッキーが掛けた扉の閂のお陰だろう。されど、それすらも大多数の手によってへし折られ、削られ、開こうとしている。マーヤは逃げようにも腹の鈍痛がそれを許さない。それ以上に、赤子が。彼女の逃亡を拒む。
マーヤは自らが産み落とした子の顔をしかと見た。悪魔の、夢魔の、淫魔の顔。人を誑かし、欺き、嬲る、魔性の者であるムウマの顔を。
マーヤは自らが産み落とした子のことを抱き寄せた。いくら悪魔の、夢魔の、淫魔の子であろうと、自らが生んだことに変わりは無い。これはわが子だ。わが愛おしい子だ。
嗚呼、されどこれから先、その子が生きていくことはできないだろう。鋭いストライクの刃が、今にも太い閂の軸を切り落とそうとしている。扉を叩く音も秒を追うごとに大きくなっていく。そして、扉の隙間から、爪が鎌が剣が鉈が牙が鍬が鋤が彼女の命を刈り取ろうとしているのが見える。
彼女は思わず声を上げた。十字を切った。神へ祈った。それすらも今は現実の拒否にすぎなかろうとも。出せる限りの大声で、彼女は神に叫んだ。非情な女神に訴えた。
「嗚呼……主よ! あなたは何故こんなにも残酷な運命を、はしためにお与えになったのですか?!」
あとがき。
サイフをなくした衝撃とサイフを見つけた悦びから一日で書き上げた駄文。
読者置いてけぼり、ここに極まれり。
……エロは入れる予定でしたが、今日は気力がつきました。
また執筆するかもしれません。
・タイトルについて。
the Virgin、つまり処女とか純潔の意味ですが、転じて聖母マリアを指すそうです。
・色々な単語について。
○救世主(メシア)・・・キリスト教でいうイエスのことです。ユダヤ教ではウン千年先にいるといわれています。
○悪魔(インキュバス)・・・夢魔の男性のことをこういいます。女性はサキュバスといわれ、意味はそれぞれ「のしかかるもの」、「下に寝るもの」。
○聖告・・・受胎告知のこと。ちなみに「ルカによる福音書」ではマリアが、「マタイによる福音書」では夢の中でヨセフが聞いています。
○百合・・・天使ガブリエルが純潔の証に携えたとか。百合は乙女の純潔を、薔薇は子を生む力強さを象徴している、という話をどこかで聞いたのですがどこだったでしょう。
○聖霊・・・「精霊」ではありません。神の力のようなもので、大気をただよっているとか違うとか。オーラのようなものですね。
○夢魔・・・キリスト教における悪魔。睡眠中の人間を襲い、男性の夢魔は女を孕ませ、女性の夢魔は男の精を奪い取って子を成すとか。
・マーヤについて。
名前は聖母マリアと同じく処女懐胎をした「摩耶夫人」(釈迦の母親)から。
貧しい農村の明るい娘というイメージです。
夢の中で神の力に“犯される”という表現がしたかったのですが、時間切れというか力尽きて書けませんでした。
エロくなくてもいいかな、とも思っています。
・レディアンについて。
本来は摩耶に習って「シュッド」(釈迦の父親のシュッドーダナから)という名前の予定でしたが残念ながらボツ。
愛を誓ったというのに恋人を容易く裏切る、矛盾が書きたかっただけでもあります。
・カプル・ラプスについて。
「インキュバス」というのは夢魔のことで、ここでは夢魔はムウマのことになっています。単なる曲解ですね。
カプルは「カプリッキオ(狂想曲)」、ラプスは「ラプソディア(狂詩曲)」から。
本来はラプスとソディアという名前にしようと思ったのですが、単純すぎるのでこんな名前に。
あと、悪夢云々繁殖云々についてはアニメ版のムウマージが幻覚を見せたそうで、それをベースに夢魔のイメージを築き上げました。
・結局なにがいいたかったの?
私は宗教信じてないよ!
要するに人は簡単に裏切るものだし、あんまり宗教に固執してもいけないよ、というおはなし。
質問やら意見やら指摘やら感想やら、あればどうぞ。