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The Virgin

/The Virgin

28×1

 “マリアは天使に言った。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」

 天使は答えた。

「聖霊があなたに降(くだ)り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」”

――〈ルカによる福音書〉より

The Virgin
【この小説には宗教に対する多大な偏見が含まれております】


1.赤 

 落ち着いた静けさが波のない水面のように広がっていた。遠く人々のざわめきが聞こえるのは気のせいか。それとも無音になれた耳が捉えた実在する音だろうか。
 時は日没。暁と正反対の方角に沈み行く太陽は、紅葉色をした光を地上に投げかけている。その濃淡のある赤色が、この部屋の色調を単調なものにしていた。見渡す限りが赤と黒とのモノクロームでできている。煉瓦を積まれて作られた家であればなおさらのこと。
 その家に、ようやく家人が帰宅してきた。木の扉の軋む音に足音が重なり、何もなかった部屋に音を響かせる。それは、瞬く間に壁に吸い込まれて。

「ただいま」

 帰ってきた家人は、一人の少女。正しくは幼げなイルミーゼ。頬に泥のおしろいをしてはいるものの、その顔にははっとするような健康的な美しさを湛えていた。未だあどけなさの残る、丸みのある顔に青い瞳は爛々と輝いて。妖精のような飛べない翼の輪郭が、赤い陽を受けて光る。
 ――イルミーゼの少女は名をマーヤと言う。
 心地のよい疲労がマーヤの体を満たしていた。労働を終えた後の感慨といえば、これだけで働くことの意味への問いかけに答えることができそうなほどだ。こうして働いた後の体を早めに寝せ、そして朝早く農作物の刈り入れに往くために起きる。そんな淡々とした毎日。それは楽しくもあり、また退屈を覚えるものでもある。しかし農村に、それ以外の仕事があるといえば否。
 マーヤは先日収穫したオボンの実を夕食に選ぶ。家具の少ない部屋、地面がそのまま床となった部屋のなか、隅に置かれた箱の中から、マーヤは淡い橙色の木の実を手に取る。今年は寒冷が長引いたせいか猛暑が訪れたせいか、実りはあまりよくなかった。小ぶりで固い果実を一つだけ。それが毎日の食事になることくらい、農村に生を受けた時から覚悟している。
 オレンの実だけで一冬を越したこともあった。
 それを思い出すたび、貧困の苦々しさを思い出すたび、マーヤは神に感謝せずにはいられなくなる。われわれに豊穣を齎してくれる神々に。

「父よ、あなたの慈しみに感謝してこの食事をいただきます。
 ここに用意されたものを祝福し、私たちの心と体を支える糧としてください。
 ……私たちの主によって」

 そういうや否や、マーヤはゆっくりとオボンの実に口をつけた。さく、と。敢えて言うならば氷になりかけた雪を踏み崩した、そんな音。
 様々な味が折り重なり、練りこまれたオボンの味は、心なしかいつもより渋い。種も大きい。例年よりも少々酷な環境で実を結んだことの表れ。来年こそはより良い果実を。マーヤはそう誓願した。
 いつのまにか手元にあったオボンの実はなくなり、その代わりに大粒の茶色い種が手元に残った。苛酷な環境を耐え抜いた種は強く育つだろうか。彼女はオボンの実が入ったかごの隣、影に置かれた壺の中に、その種を入れた。陶器を固いものが打つ複数の打音。
 食事を済ませれば、もはや夕暮れを過ぎて、空は夜の帳を下ろす。暖色に染められていた部屋はいつしか暗色に覆われ。冬の近づく足音が聞こえてくるように、日の入りから夜までが駿馬の如く早くなっていく。一日を過ごすたび、日が短くなることを感じざるを得ない。
 そうして眠りに就こうとするたびに、――マーヤの胸に一筋の痛みが走る。

「……今日もあなたは帰ってこなかった」

 半ばあきらめ気味に。半ば期待気味に。そして残ったほんの少しを私怨気味に。彼女は夫に対してそんな言葉を呟いた。夫は良い人だった。彼女を一途に愛する、素直なレディアンの男性。
 彼は真っ直ぐにマーヤを愛した。だからこそ彼は今この家にいない。貧しさをしのぐために、遠く都まで働きに出ているのだ。この国で最も大きな商家へ奉公に。それがマーヤには寂しくてたまらない。彼は働き先から生活費を送ってくれた。愛の言葉を伝えてくれた。されど、それだけでは満たされない思いが、輪郭のうやむやな想いが、彼女の内側に渦巻いている。
 ……マーヤはまだ男性を知らない。
 まぐわうことに対して抱く淡い想像は、例えば恐れ。例えば悦び。例えば安らぎ。例えば絆。それらは全て何も知らないからこそ生まれる感情。子宝を得るための方法としてではなく、いわば快楽とより強い関係を重視した上で花咲く堂々巡りの想い。彼女は愛情に飢えていた。愛された証を欲していた。
 幼いころに両親と死に別れ、毎日を畑にて過ごした幼少期は、色の無い記憶として彼女の脳裏に浮かび上がる。生れ落ちたときは幸せを抱いていようと、それを手放してしまえば再び手に入れることは困難を極めた。結局、マーヤが再び幸福を見つけたときは、乙女と呼べる年頃だった。――都からやってきた、一匹のレディアン。二人は恋を分かち合い、永久の愛を誓い。それが感じられなくなってしまった今、彼女を慰めるものは何一つ無く。
 家の一番奥にひっそりと置かれた寝台。そこに横たわり、寒かろうと夫が買ってくれた毛布を体に巻きつけた。そうして目を閉じれば、途端に疲労からくる眠気が意識を蝕んでいく。様々なわだかまりや不満ごと。
 夫の幻想を抱いて、イルミーゼの少女は眠りに落ちた。


2.白 

 イルミーゼの少女の名を呼ぶ声が聞こえて、彼女は瞼を開いた。すれば、広がる視界に飛び込んでくるもの全てが白光を帯びている。自らが身を横たえている臥所も、イルミーゼの体も、薄汚れた壁ですらも。黎明に地平線からあふれ出す陽光に似た、透明に近い白色。むしろいかずちが走った瞬間に似ているだろうか。限りなく白い世界に、果てしなく黒い影。目をつむってしまいそうなほどに眩い、その光が何であるか考えるまでもなく、マーヤは目の前に“在る”ものを凝視した。
 光源の如く思える純白の体を、その体に浮かび上がった赤と青の三角模様を、血の気を思わせない顔に浮かんだつぶらな目を。
 ――トゲキッスが携えた、誇る白い花、百合を。
 辺りを照らしているものは後光だろうか。分からない。ただ彼女の思考は運動することを止め、眼は百合に釘付けとなってしまう。されどいきなり現れたトゲキッスに対して、不思議と警戒の念は生まれなかった。寧ろ胸からあふれ出てくるものは慈愛か。ふとすれば涙がこぼれてしまいそうなほどの感慨。それがどうして自らの感情を支配しようとしているのか、彼女自身にも理解できない。

「だっ……」

 声帯が縮まって声を出すことさえままならない。それは驚愕からではなく、まして恐怖からではなく。それは或いは畏敬の意からか。輝ける白の体は余りにも神々しい。されど尊びの心を抱いてしまう原因が別のところにあることを、マーヤは咄嗟に思い出した。
 トゲキッスは今まで出会ったこともなかったが、見た覚えであれば数え切れないほどにある。――神殿の壁画、教会の天井、神話の挿絵。それら全てに、トゲキッスの姿を垣間見ることができた。神聖なるものの具現化した存在、神の使いの姿として、聖霊が姿かたちをもった生命として。神々と等しい存在として。
 “揉め事のある場所には決して姿を現さない”とも、それによって“その姿を拝むことは滅多になくなってしまった”とも言われていることを、マーヤは知っている。そのトゲキッスを神の使いであると仮定するならば、何故このような場所に訪れたのか。何か手がかりを探そうと記憶の霞をまさぐるものの、底のない無限の海へ手を伸ばすように、記憶は指の間をすり抜けていく。
 何もしようとしないイルミーゼの乙女に向かって、トゲキッスは口を開いた。まろく、暖かな声だった。

「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」
「あなたは」
「恐れることなかれ。あなたは純潔のまま身ごもった。代わりに聖霊があなたの胎に満ちている」

 なんのことだろうか。始めこそそう考えてはいたものの、それは鮮やかに確信へと移行する。それは彼女が心から信仰している宗教の教典に書かれた言葉そのものだった。だとすれば、トゲキッスはやはり天井の使いであられるのか。それはにわかには信じがたいことではあったものの、マーヤはそれを信じた。信じざるを得なかった。目の前に君臨したトゲキッスと、純潔を意味する白百合の意味を汲み取れば。
 トゲキッスはマーヤに向かって跪き、その手の甲に口付けをした。驚き、戸惑い、そしてそれを受け入れ、マーヤは凛とトゲキッスの目を見つめる。深く澄んだ栗色の目だった。
 マーヤは張り付いたように動かない喉を必死に動かし、上ずった声で言葉を紡いだ。読みなれた教典に綴られた言葉を。幾度も幾度も読み返した文章を。

「私は主のはしためです。お言葉通り、この身に成りますように」

 その言葉に満足したように唇の形を整え、トゲキッスはマーヤに向かってウインクを施した。それを見た直後、緊張した筋肉が弛緩し、マーヤはとてつもない睡魔に襲われる。睡魔……いや、神を敬い言うならば、眠たさに意識を奪われた。唐突なこと、いきなりの宣告を終えたが故に訪れたか。
 マーヤはくずおれるように毛布に倒れこみ、寝息を立て始めた。消え往く意識の破片のなかに、トゲキッスが飛び去る姿を見たような気がする。

= ◇ =


「マーヤ……マーヤ」

 いとしい人が名前を呼んでいる。暗がりから意識が浮上して、重たい体に宿った。夢と現の境目をたゆたった後のような途方もない疲労感と自重感。瞼も例外ではなく、持ち上げることが容易ではなかった。それでも眠りへの誘(いざな)いをなぎ払い、マーヤはその目を開く。
 そしてその青い眼に、レディアンの姿を認めた。
 すぐには事態を飲み込めなかった。イルミーゼの目の空色とは似て非なる、シアンブルーに近しい水色の虹彩。それはまさしく彼女の良人のもの。大きな大きな穢れのない瞳は、紛れもなく彼女のいとしい人のもの。
 夫が帰ってきたと分かるや否や、マーヤは反射的に彼を抱きしめた。対格差が激しいが、何とかレディアンと口付けを交わした。彼の温もりを肌で感じ、吐息を重ね、体温を補い合う。暫くその行為が続いて、二人だけの長い時間の果てに唇を話す。少し肩で息をして、胸のうちに抱いていた疑問符を投げかけた。

「あなた……どうして帰ってきたの?」

 それを聞くなり、レディアンははっとした。世話しなく四本の腕を動かす。むずむずと、そわそわと、せかせかと。それはマーヤの瞳に奇異に映り、愛らしく見え、好奇を呼ぶ。一体どうしたというのだろう。マーヤがレディアンの顔を覗き込むと、彼は吐き出すように早口に言った。

「お告げを聞いたんだ」
「何ですって?」

 まさか、という想いが胸の奥底から湧き踊る。ああ、それはもしかして。

「トゲキッスが夢に現れて……マーヤが聖霊によって身ごもったって言うんだ。
 まるで教典の通りだと思って急いで帰ってきた」
「それじゃあ、私が見ていたものも……」
「君は何をみたんだ?」
「私の夢にも、トゲキッスが現れたわ。私のおなかに聖霊が満ちているって……」

 記憶の靄のなかを手探りでかいくぐれば、そこに確かにトゲキッスの存在が在る。そしてトゲキッスが継げた言葉の数々を思い出すことができる。されば実在していたということになるだろうか。それとも唯偶然の下に生まれた夢に過ぎないのか。マーヤは起き上がろうとして、手元に何かがあることに気付く。それは毛布の柔らかさでも夫の手の硬質でもなく、もっと……自然にありふれた肌触り。なんだろうと持ち上げる間もなく、レディアンの手の一本がそれをひったくる。
 奪われたことに多少なりとも不愉快さを感じたものの、それが何であるかに気がついた途端、そんな気持ちは虚空へと消え失せた。
 レディアンが手に持っていたものは――白百合。

「……聖告……」

 思わずレディアンが呟いた声に、マーヤは揺るがない確信を抱いた。

= ◇ =


「ねえねえ、聞いた聞いた?」

 早朝、水を汲みに井戸へ向かう乙女たちの、足取りも軽やかに。まだ夜が明けて間もなしというに、町は早くもさざめき始めていた。いつもであれば雪の降る日に似た静けさが町全体を包み込んでいるはずだったが、この朝に限っては妙に騒がしい。木の葉が風に擦れてざわめくように、娘たちの細かく明るい声が静寂の水面に雨を降らす。
 一匹のブルーの娘が、同じくらいの年のポポッコの少女を捕まえて問うた。ポポッコは何度も何度も聞いたと言わんばかりに肩をすくめる。年頃なだけあって話したがりやなのか、残念そうにブルーが横に並ぶ。が、途端にポポッコの噂話が炸裂する。ああまさに放送局とはこのことだ、とブルーは内心毒づいた。

「あたしは父さんから聞いたんだけど、父さんは酒場でレディアンに聞いたんだって! だから情報は確かだよなんてったってあたしの情報網だからね! なんでも夢の中に天使さまが現れたとか現れないとかレディアンもマーヤさんもそれを見たとかベッドに白百合が落ちてたとか」
「救世主(メシア)の再来かしら?」

 彼女のそんな機関銃トークにも慣れているブルーは彼女のことを軽くあしらい、自分は空を眺めながら誰となく訊く。それは風に流されてポポッコの耳にも届き、彼女は神妙な面持ちで一度口を閉ざした。こんなときにでも、きちんと空気を呼んでくれるからこそブルーはポポッコのことを親友だと思っている。やがて、ポポッコはゆっくりと呟いた。


「そう、だといいなあ」


3.紫 

 レディアンはこの数ヶ月の間幸せの最高潮にあった。
 信仰心の強い村であることも幸いして、マーヤが間男に夜這いをかけられた、知らぬ男と寝たなどという悪い話がたつことも無く。夫妻は共に崇敬され、信頼され、祝福されて、まさにこの村の時の人となった。最初こそ信じない人もいたものの、日に日に大きくなり行くマーヤの腹を見、確信を得たものも多い。レディアンの子ではないか、と疑われたこともあったが、この時期に百合など咲くはずも無く。マーヤの処女懐胎は村中の人々に活気を与えた。――無理も無い。神の子ともなれば。
 マーヤが身重になってから、レディアンは彼女の代わりに畑に出るようになった。そうでなくとも村人たちから様々なものが捧げられるわけではあるが、こちらとしても恐縮してしまう。いただく代わりに、ただ働きをさせてもらおうとしたが、そうは問屋が卸さない。村人たちは、無理にでもレディアンに土産を持たせようと必死だった。
 そして今日も、村人が貯蔵庫から引きずり出してきたロメの実を抱えて家路を急いでいる。唯でさえ高級な食材であるロメの実をどうしてこんなに持たせるのかと訪ねれば、出産が近いからと押し付けられ。マーヤが嫌いな味だからと嘯いて返そうとすれば、じゃああんたが食えばいいと持たせられ。
 ――されどマーヤの嬉しそうな顔を見ると、こんなことも悪くないと思えてくる。思わず壊顔しつつ、レディアンは自宅の扉を開いた。

「ただいま」

 軋む音。相変わらず変わらない。しかし、今回は部屋の中の空気が全く違った。マーヤがいるはずであるというのに、何という寂寞感。漂ういやな予感はひしひしとレディアンの心に這い進み、彼を急きたてる。何か。異様なことが起こっているような。それを肌で感じ、レディアンは両手一杯のロメの実をかなぐり捨てた。愛した乙女の名前を呼び、狭い家の中を走り回る。
 そうして彼女を見つけたのは、一番奥の部屋――。苦しそうに荒々しく息をし、訴えるような眼差しを投げかけながらうめき声を上げている。

「マーヤ!」

 恐怖が彼の心を暗一色に染め上げ、パニック状態に陥れる。抱いた彼女の体はひどく暑く、戯言のようなことを呟いて眼はうつろだった。これが意味することをようやく把握し、レディアンはマーヤの体を抱きかかえた。自分の体の半分ほどの重さしかない彼女の体の下に腕を通し、家を飛び出す。扉を力任せに開くと、木でできた扉は煉瓦の壁に叩きつけられ、木片が散った。その際に金具が飛んで壊れたようだが気にしてはいられない。行く人々の目も気にせず、レディアンは翅を羽ばたかせた。
 鳥のように華麗ではないが、彼は飛ぶことが可能だった。細かく翅を震わせ、跳躍するように空に舞い上がった。風を掴み、空を翔る。早くしなければ、マーヤの体……そしてわが子、否、神の子の命までも危ういという本能が彼を突き動かす。
 主よ、とレディアンは思わず口にする。神の呼び名。それを言葉にすれば、漠然と助かるような気がしてくる。唯一の希望。強い風が彼を煽るが、彼は飛ばされぬように歯を食いしばり、より翅を強く羽ばたかせた。風の壁は脆く崩れ去り、追い風に強風が吹き荒れた。レディアンは勢いで煉瓦屋根に叩きつけられそうになるものの、なんとか持ちこたえ、風の無いうちに辺りを見回した。
 村医者は小高い丘の上、目立つ十字架のモチーフが屋根に飾られている。それを目印に、レディアンは空を蹴る。
 低気圧でも近づいているのだろうか、はたまた神を阻まんとする悪魔の意図か。不安定な姿勢で、脇から強い風に煽られる。高波に持ち上げられるように強い力に凌駕され圧倒され。彼は熱くたぎるマーヤの体を抱きしめた。腹部から、確かに鼓動の音がする。赤子の動作が伝わってくる。心配そうにこちらを見上げたマーヤの青い眼を捕らえ、レディアンは頷く。

「大丈夫だよ。……神の子だから、天上が殺させない」

 この先どのような悪魔が待ち構えていようと、彼は全てを受け止める覚悟をきめた。

= ◇ =


 この世界に、天使や神が存在するのであれば、逆もまた然るべき。それらの反対側に悪魔が存在するはずだ。
 夢魔……淫魔とも呼ばれるあやかしは、夢の中に現れ、理想の異性像となって性欲を催させる。――夢魔自体は生殖機能に欠け、他人の体を借りなければ殖えることが不可能であるから。他人の精を奪い、或いは自らの精を植え付け、確実に彼らの数は増えていく。それが、夢魔。
 神がポケモンであるというのであれば、ムウマというポケモンがこの悪霊に当てはまるだろう。
 悪夢を自力で覚えることは不可能。されど妖しい光をもってすれば、それを幻覚へと昇華させることができる。それがどんなにありえない事象だろうと、夢の中では実現することができる。
 禍々しい赤色に染まった魔性の宝珠が、月影を受けて妖麗に光る。紅玉よりも柘榴石よりも血の色に近しい珠は、幾つもが連なって首飾りを形作る。それらは本来首のあるべき場所に巻きつき、顎の輪郭を闇に浮かび上がらせた。刹那、錯乱を思わせる黄色と赤が姿を現し、それを切欠に徐々に“それ”の全貌が明らかになってゆく。
 織り上げた絹の滑らかな肌は藍染めの色をして、流る空気に関係なくはためく。頭部に値するところはふわりとした柔らかい糸のようで、先端に行くほどに明るい紫を帯びていった。やがて月華は二つの影を映し出す。揺らめく姿は二つともムウマのもの。

「カプル、今夜が出産予定日だったよね?」
「四十九日目だから間違いは無いはずだけど。……楽しみだな」

 カプルと呼ばれたのは少し大柄なムウマの方。死霊の、温もりの無い肌に喜びを湛えつつ、カプルは夜空目指して高く浮かび上がった。それに続き、小柄なほうのムウマも浮遊を始める。ひらひらと、ふわふわと。それは丁度布切れを投げたときと同じに。いつ落ちてもおかしくないような。されどもともとは怨みという“感情”。風ごときで煽られ、飛べなくなるわけが無い。
 月暈が暗転した空を厳かに仕立て上げる。夜空に架かる白虹は凶兆の表れか。紫色に染まる空の下、ムウマは音も無く滑空する。ヴェールのような雲を上空に、空高くを二人は飛んだ。

「それにしてもラプスは策士だよ」

 カプルは独り言のように呟いた。「苦笑」ではない、されどどこか苦々しげな笑いを浮かべ、カプルは小柄なムウマ――ラプスのほうを振り返った。ラプスもカプルのことをにやけた顔で見ている。

「でも実際孕ませたのはカプルだから。どうすればより効果的に栄養とれるか思いついただけ」
「でもさあ、今までは若い娘捕まえて子供生ませるか、もしくは驚かして栄養とるか、どっちかしかなかったじゃん。
 まさに一石二鳥だよ。子供を作りながら、栄養にするなんて」

 くすくすという笑い声。それはたちまち冷気に立ち消え、雲に呑まれて消ゆる。今度は苦笑ではなく明らかな嘲笑。
 ムウマという種族は、木の実を食べることができてもそれ自体を栄養に変換することが不可能だ。彼らの栄養となるものは、いってみれば単なる「怖がる心」。しかし恐怖心は彼らにとってかけがえの無い栄養で、同時に生命力に等しい。常に彼らはそれを喰わねば生きていけないのだ。彼らが悪戯を好むことは必然となる。

「まさか神なんかを使うとは、恐れ入ったよ」
「ああいう辺鄙な寒村は信仰心が強くて本当に盲目だから。花嫁の恐怖心、すごく強いと思う」
「実に美味しそうだ」

 ここでラプスは急旋回した。地上に小さな村が見える。どよめきが上空にまで聞こえてくる。寒い夜に似つかわしくない松明の炎がちらちらと揺れて。カプルは狂気を瞳に躍らせ、ラプスは凶器を心に宿した。しかし、いざ降り立とうとしたとき、カプルがか細い声でラプスに何かをたずねる。その声は木枯らしの音にかき消され、届いたのはラプスだけだった。ラプスは諦観の笑みを浮かべて、目下にある騒ぎを見つめた。そして人知れず囁く。

「子供、死んじゃうかもしれないけどね」

= ◇ =


 手術室の扉が、ゆっくりと開く。羊膜液が少しばかり付着してはいるものの、結果をことづたえることの方が先立った。汚れのことなど後でどうにでもなる。この村で唯一の医者であるラッキーは、音の無い廊下を歩いていく。早足と駆け足の合間、あくまでも走りには至らない速度で。伝えなければならないことが多すぎた。医術の技をほぼ全て我が物とした明晰な頭脳でさえ、この興奮状態を抑えることはできず。ただ、思考のみが彼女の脳内を這いずり回っていた。
 長い長い廊下を抜け、大きな木の扉を開く。その音が大きかったせいか、うとうとと転寝をしていたレディアンが飛び上がった。寝ぼけていることが見透かせるが、そのようなことはいまや問題ではない。今の、思考がまだ機能している時間のなかで、少しずつ伝える言葉を選んでいった。レディアンはラッキーに詰め寄り、寝起きの声で、されど高揚した声で訊ねた。

「ば、バルビートでしたか、イルミーゼでしたか、それとも神話に出てきたような姿の神の子でしたか?!」

 ラッキーは応えない。短すぎる沈黙の時間は、彼女が言葉を厳選するためには短すぎた。喉も息だけが空回りして言葉が生まれてこない。麻痺に襲われたように、表情を変えることができない。それをみて、レディアンの顔もだんだんと萎んでいく。ラッキーはついに決意を固め、何もいわずに踵を返した。そしてそのまま、強い重い歩調で部屋の奥まで歩いていく。心配そうな、しかしはっきりと慶びを顔に表したレディアンが、後ろをついていく。
 後戻りをすることはできない。

「少し、ここで待っていていただけますか。奥様は大変疲弊されています。いま、赤子を……」

 ラッキーは、やっとの思いでそれだけを告げ、マーヤのいる分娩室へと入っていった。その様子をレディアンが見届け、楽天的な思考で中の様子を伺おうとする。ああ、どのような子だろうか。厳かな雰囲気を作り出すほど、神聖な子なのだろうか。
 されど、部屋から出てきたラッキーの表情は、……まるで石に彫られたような。生気の抜けたような。無表情よりずっと重い感情が表れている。溢れている。そして、彼女は震える手で、赤子の包まった布をレディアンに渡した。

「……悪魔(インキュバス)だ……」

 か細い声。震えた手の中で泣いているのは、紛れもなく汚らわしい悪魔の子。魔性の者。ムウマの子が、空しく泣き叫んでいた。
 吹き荒れた強風は悪魔の障害などではなかった。神の子という嘯きを、彼が深く信じていたゆえの幻覚。
 ラッキーが何かをいう間もなく、レディアンは赤子を彼女に押し付けて部屋を飛び出した。マーヤがいる分娩室のほうではなく、外へ。村の中心部へと。ばたばたと荒々しく扉をこじ開ける音がし、陶器を叩き割る音がし、獣のような咆哮が村中を眠りから覚ます。静けさは瞬時にどよめきへと変わり、狂乱したレディアンがただ悪魔の名前を、そして魔性を産み落とした妻の名前を叫んだ。
 誰もいない廊下のなか……ラッキーはへたり込んだ。怯えた眼から涙が溢れ出し、頬をぬらしていく。
 まさか。
 こんな。
 喜劇が終幕を告げ、悲劇が始まろうとしている。それを肌で感じ取り、狼狽し、危惧し、ただ泣くことしかできなかった。

4.黒 

 マーヤは、目覚めれば夫がすぐ側にいるものと思っていた。夫が、可愛らしい子供が、優しく揺り起こしてくれると考えていた。薄ぼんやりとした意識の水底で、たしかにそう信じていた。
 けれど、
 彼女を起こしたのは。
 木の扉が軋む音、赤子が上げるあらん限りの泣声、土を壁を天井を叩く轟音、そして――荒らぶる戦士たちの叫び。

「悪魔(インキュバス)め、殺してくれる!」
「魔性と契った女など、神を冒涜した女などこの村には要らない!」
「マーヤを出せ! 赤子を引き渡せ!」

 剣を翳した戦士たちが叫ぶ。奮う。憤る。辛うじて身の安全が保たれているのは、手負いのラッキーが掛けた扉の閂のお陰だろう。されど、それすらも大多数の手によってへし折られ、削られ、開こうとしている。マーヤは逃げようにも腹の鈍痛がそれを許さない。それ以上に、赤子が。彼女の逃亡を拒む。
 マーヤは自らが産み落とした子の顔をしかと見た。悪魔の、夢魔の、淫魔の顔。人を誑かし、欺き、嬲る、魔性の者であるムウマの顔を。
 マーヤは自らが産み落とした子のことを抱き寄せた。いくら悪魔の、夢魔の、淫魔の子であろうと、自らが生んだことに変わりは無い。これはわが子だ。わが愛おしい子だ。
 嗚呼、されどこれから先、その子が生きていくことはできないだろう。鋭いストライクの刃が、今にも太い閂の軸を切り落とそうとしている。扉を叩く音も秒を追うごとに大きくなっていく。そして、扉の隙間から、爪が鎌が剣が鉈が牙が鍬が鋤が彼女の命を刈り取ろうとしているのが見える。
 彼女は思わず声を上げた。十字を切った。神へ祈った。それすらも今は現実の拒否にすぎなかろうとも。出せる限りの大声で、彼女は神に叫んだ。非情な女神に訴えた。

「嗚呼……主よ! あなたは何故こんなにも残酷な運命を、はしためにお与えになったのですか?!」

Fin

あとがき。

サイフをなくした衝撃とサイフを見つけた悦びから一日で書き上げた駄文。
読者置いてけぼり、ここに極まれり。

……エロは入れる予定でしたが、今日は気力がつきました。
また執筆するかもしれません。

・タイトルについて。
 the Virgin、つまり処女とか純潔の意味ですが、転じて聖母マリアを指すそうです。

・色々な単語について。
 ○救世主(メシア)・・・キリスト教でいうイエスのことです。ユダヤ教ではウン千年先にいるといわれています。
 ○悪魔(インキュバス)・・・夢魔の男性のことをこういいます。女性はサキュバスといわれ、意味はそれぞれ「のしかかるもの」、「下に寝るもの」。
 ○聖告・・・受胎告知のこと。ちなみに「ルカによる福音書」ではマリアが、「マタイによる福音書」では夢の中でヨセフが聞いています。
 ○百合・・・天使ガブリエルが純潔の証に携えたとか。百合は乙女の純潔を、薔薇は子を生む力強さを象徴している、という話をどこかで聞いたのですがどこだったでしょう。
 ○聖霊・・・「精霊」ではありません。神の力のようなもので、大気をただよっているとか違うとか。オーラのようなものですね。
 ○夢魔・・・キリスト教における悪魔。睡眠中の人間を襲い、男性の夢魔は女を孕ませ、女性の夢魔は男の精を奪い取って子を成すとか。

・マーヤについて。
 名前は聖母マリアと同じく処女懐胎をした「摩耶夫人」(釈迦の母親)から。
 貧しい農村の明るい娘というイメージです。
 夢の中で神の力に“犯される”という表現がしたかったのですが、時間切れというか力尽きて書けませんでした。
 エロくなくてもいいかな、とも思っています。

・レディアンについて。
 本来は摩耶に習って「シュッド」(釈迦の父親のシュッドーダナから)という名前の予定でしたが残念ながらボツ。
 愛を誓ったというのに恋人を容易く裏切る、矛盾が書きたかっただけでもあります。

・カプル・ラプスについて。
 「インキュバス」というのは夢魔のことで、ここでは夢魔はムウマのことになっています。単なる曲解ですね。
 カプルは「カプリッキオ(狂想曲)」、ラプスは「ラプソディア(狂詩曲)」から。
 本来はラプスとソディアという名前にしようと思ったのですが、単純すぎるのでこんな名前に。
 あと、悪夢云々繁殖云々についてはアニメ版のムウマージが幻覚を見せたそうで、それをベースに夢魔のイメージを築き上げました。

・結局なにがいいたかったの?
 私は宗教信じてないよ!
 要するに人は簡単に裏切るものだし、あんまり宗教に固執してもいけないよ、というおはなし。


質問やら意見やら指摘やら感想やら、あればどうぞ。


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Last-modified: 2009-12-01 (火) 00:00:00
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