※注意※
この作品には流血、及びポケモンの死の場面があります。
今日も私は、海の夢を見ていた。
今から少し昔、
そう、ほんの少しだけ昔の、海の夢を。
『からたち島の恋のうた・暁光編』
~Roots of Fossil~
◇
波の向こうから差し込んだ暖かい陽光が、海底に黒々と丸く突き出た岩の上に降り立って、ゆらゆらと軽やかなダンスを踊っている。
その揺らめく光が何だかとても楽しそうで、まるで私を嘲笑っているかのように思えて。
2本の鋭い爪で硬い岩壁にしがみついたまま、私は忌々しく顔を伏せた。
平たい甲羅の上を流れるのは、つい先刻私の翅を取ってズッコケさせてくれた潮流。
バカバカしい。普段の私なら、いくら初めて泳いだ場所だからってこの程度の流れにバランスを崩したりするもんか。
さっきはちょっと、気持ちが塞いでいたからだ。
悶々とした思いに捕らわれてさえいなければ、こんなドジを踏むことなんて……
あぁ情けない。何だかますます憂鬱になってくる。
今日はこんなにいい天気で、海は見渡す限り澄んだ
もっとも、あんな無様なスッ転びを誰かに見られていたのなら恥ずかしくて表を泳げやしないけど。
殊に我が親友にでも見られでもした日には、さぞ
いや、彼がこの場にいるのなら、そもそも鬱になる理由も存在しないか。何考えているんだろ私。
……まさか本当に、誰かに今の醜態を見られちゃいないでしょうね?
突き出した眼をキョロキョロと蠢かせ、周囲の様子を伺って――
そして、私はそれを見つけた。
◇
この岩山の、私が張り付いている場所のすぐ上が長く広く割れて岩棚になっており、その奥に大きな
どの紅藻も私の身体と同じかそれ以上に長く、鮮やかな紅紫色の葉を優雅にそよがせている。
中でも眼に付くのは、一際大きく茎を延ばした一株。
その鮮烈な色彩を一目見ただけで私は心を奪われ、澱んでいた気持ちをどこかへ吹き飛ばされてしまった。
もっと側で見てみたいな……
込み上げた誘惑を押さえ切れず、私は4対の翅と2枚の尾鰭を広げて流れに乗り、身をくねらせて岩棚へと登っていった。
◇
しかし近くで見ると尚のこと、ますますもって美しい。
私はすっかり夢中になってその海藻を観察した。
キュッとしまった細い茎は紫の地に金色の縞模様が入っており、丸々とした房の部分ではその金色の線が波紋のような模様を形作っている。
薄紅色の葉は先端に行くにつれて鮮やかなグラデーションに彩られ、まるで朝の太陽が海の底に昇ったかのようだ。
これ程までに美しい海藻なんて、っていうか、これ程までに美しい存在なんて初めて見た。
葉の付け根はどんなふうになっているのだろうか?
そう考えて、房に顔を近づけてみる。
と、突然その海藻の房が、流れに逆らってこちらを向いた。
ギョッと見開いて飛び出した私の目に映ったのは、葉の付け根に開いた陰りから覗く二つの光り。
それがチカチカと瞬いた後、ペコッ、と房が
「こ、こんにちは!!」
と、挨拶した。
「きゃあああぁぁぁぁぁぁあぁっ!?」
もうビックリ仰天、大慌てで後方に跳び退る。
遠巻きにじっくりと相手の姿を確かめ直すと、向こうも相当に驚いた様子で茎を反対側に仰け反らせていて、それでも房の中の〝眼〟を興味深げに爛々と輝かせていた。
ドキドキする胸を静めながらもう一度近づいて、恐る恐るその〝子〟に話しかける。
「あぁ驚いた。てっきりただの海藻だと思ってたら、ポケモンだったんだ。あなた、こんなところで何をしているの?」
「何……って」
茎を……いや、首を傾げてその子は応えた。
「ここは僕の巣で、僕はここに住んでいるんですけど……エビのお姉さんこそ、こんな岩山に何をしに来たんですか?」
「え゛……あ、はははっ、そりゃぁそうよね。こりゃまた失礼」
しかし〝お姉さん〟ときたか。声音も瑞々しく、思っていたより幼げな――
「いやね、私はここから南の方にある谷に住んでいるんだけど、ちょっと……冒険したい気分になっちゃってね。この辺でぶらぶらしているうちに流されてここまで来ちゃっただけなのよ」
「あぁ、それでは先程クルクル回りながらここのすぐ下の辺りに飛び込んで来られたのは、流されたからだったんですか」
……うわ見られてた! やっぱりさっきコケた場面を目撃されていたぁぁっ!!
「あははははっ、そうなのよお恥ずかしい。ついぼ~っとしてたんで。……見なかったことにして」
「あはは、そうしておきます。……ところで」
素直に頷いた後、妙に眼をキラキラと煌めかせて紅藻くんは言った。
「南の谷というのは、もしかしてこの麓に見えている、あの水晶の谷のことですか?」
「え? ……ううん、もっと向こう。入り組んだ岩と砂だけの、特に目立つこともない谷よ。住民だけは結構いるんで賑やかだけどね」
「あ……そうでしたか。勘違いしてすみません」
「でも、水晶の谷ならここに来る途中で通ったけど?」
「えっ!」
見るからに嬉しそうに薄紅色の葉が輝いた。
「どんなでしたか!? ぜひお話を聞かせてください! あの谷の水晶は、やっぱり近くで見てもキラキラ奇麗に光っているんですか!?」
「うん、それは大きな透明の石の柱が何本も突き出ていてねぇ、覗き込むと自分の顔が写るぐらい……」
語りながら、そうした時のことを思い出し、私の心はまた沈みかけた。
それを振り払うように紅藻くんの顔を見つめ直し、
「……ん?」
と、ようやく彼の様子に疑問を感じた。
「やけに聞きたがるけど、紅藻くんはあの谷に行ったことないの? すぐ近くなのに」
水晶の谷はこの岩山の麓に広がっており、降りて行けばすぐ直下なのである。
私の尋ねに、紅藻くんはガックリ項垂れて、岩をガッチリ掴んでいる彼の根元を葉で指し示した。
「僕、ここから離れることが出来ないんです。だからいつも、ここから眺めているだけで……時々水晶の谷の方からこの岩山に来られる方たちが聞かせてくれるお話から、あそこがどんな素敵な場所なのか想像しているんですよ」
「そうだったの……ごめん、気付かなくって」
振り返って、眼下に白く広がっている水晶の谷を見下ろしてみる。
陽光が谷の上で揺れる度に、乱反射した光が虹色の彩りを帯びて周囲に飛び散っていく。
目前のこの幻想的な光景を独りぼっちで毎日見つめながら、ずっと紅藻くんは憧れ続けてきたんだろう。
これは……放って行けないな。
「ねぇ、紅藻くん」
決意を固めて、私は彼に尋ねてみた。
「あなたのその根っこ、私の爪に掴み変えることって出来ないかな?」
「えっ!?」
はっと振り向いた紅藻くんに、私は力強く笑顔を向ける。
「出来るんなら、私が抱えて連れて行ってあげる。百聞は一見に如かずだよ。あの谷の水晶がどんな風に輝いているか、
「あぁ……嬉しいです! で、でも……」
感激に奮えた紅藻くんの顔が、不意に不安げに曇る。
「どうしたの? もしかして、根を放すことも出来ないとか……」
「いえ、それは問題ありません。ただ……僕なんか持ち上げて、お姉さんは大丈夫なのかな、と」
「……あ~、お姉さんをバカにしてるな!? ま、さっき失敗しちゃったし、あの様を見てたんじゃ不安になるのも無理ないけど、本当は泳ぐの得意なんだぞ?」
と怒った振りをしながら、紅藻くんの柳腰に爪をかける。
「あ、あの、ちょっと待っ……」
「覚悟を決めなさい。私はもうあなたを連れて行くって決めたから。つべこべ言っていると、強引に摘んで行っちゃうよ?」
有無を言わさぬ私の勢いに、どうやら彼も根負けしたらしい。そっと岩から放した根を私の爪へと絡み付けてきた。
「お……お願い、します」
「よしきた!」
緊張に強ばる彼の房をもう一方の爪で支えて抱き上げると、私は4対8枚の翅を水中に広げる。
白地に赤い紋のついた翅をうねらせ、私は紅藻くんと海流の中へ舞い上がった。
◇
「わあぁぁぁーー……」
私の腕の中で、紅藻くんはすっかり興奮して感嘆の悲鳴を上げていた。
「視界が流れて動いて行く! 凄い、凄い! ああぁ……っ!」
「あはは、楽しそうね、紅藻くん」
「す、すみません、はしゃいじゃって。僕こんなこと初めてで……あ、僕のいたところ、外から見るとあんなふうになっていたんですね!」
振り向くと、ずんぐりした丸い岩山の上の方に、先程までいた岩棚が小さな眼のように開いているのが見えた。
生まれてからずっとあの上の狭い世界しか知らなかった彼にとっては、何もかもが珍しくて仕方がないのも無理はない。8枚の葉を振り乱しながら、かっと見開いた眼で忙しなく周囲を見回している。
そうこうしている内に、麓の光景が目の前に迫って来ていた。
◇
透き通った柱の中に7色に輝く
それが地面から
その水晶たちの表面に、2匹のポケモンの姿が写し出されていた。
鈍い鉄色の平たい甲羅に身を包み、その両脇に4対の白地に赤い斑紋を彩る翅を広げたエビに似たポケモン。
そしてそのポケモンが2本の爪で抱き抱えている、透き通った紫に金の縞模様を飾った茎と、艶やかな薄紅色の8枚の葉を持つ海藻のようなポケモン。
それが、私と紅藻くんの姿だった。
紅藻くんは激しくドキドキと鼓動しながら、陶酔し切った様子で水晶に葉を伸ばして撫で回していた。
「こんなに硬くてツルツルした物だったんですね……」
「ほら、見てご覧。私たちの姿が写ってる。水晶に写った紅藻くんも凄い奇麗だよ」
「あはは、お姉さんも奇麗ですよ。おでこに並んだ緋色の模様が水晶の中で輝いて」
「えへへ、照れちゃうなぁ」
紅藻くんは本当に楽しそうだ。連れ出して来て本当に良かった。私も楽しくて堪らない。
そうだ。私は誰かと一緒に同じ物を見て、喜びを分かち合いたかったんだ。
まったく、先刻ここを通った時の気分と比べたら。
あの時は、本当に寂しくて堪らなかったからなぁ……
「……お姉さん?」
ふと気が付くと、紅藻くんが私の顔を覗き込んでいた。
「あ、あら、どうしたの?」
「いえ、お姉さん今とても悲しそうな顔をしていましたから……」
「そうだったかしら?」
「それに、さっきこの谷のことを教えてくれた時も、その前にお姉さんが岩山に来た理由を話してた時もそんな顔でしたよ」
「あらやだ、つまんないこと顔に出ちゃってたのね……心配してくれてありがと。でももういいのよ。今は凄く楽しいし」
「あ……すみません、聞いちゃいけないことでした……?」
「ううん。実を言うと、そんなに深刻な話しでもないのよ。話せば長くなるけど、掻い摘んで話すと……」
小さく肩を竦めて、私は言った。
「親友に彼女が出来たってだけの話、よ」
……数瞬、身を強ばらせて絶句した後。
躊躇いがちに紅藻くんは口を開いた。
「あの、お姉さん……もしかして、その方のこと…………?」
「あ~っはっはっは! ないないそりゃない!」
大笑いしながら、私は紅藻くんの早とちりを否定した。
「だから、そんなに深刻な話しじゃないんだってば。雄友達だったのは確かだけど、あいつとは単なる腐れ縁。気の良いケンカ仲間って感じかな。そもそも将来を考え合うような種族じゃないし。
「あ、分かります。同じ種族の方が時々岩山を通って行かれますから」
「そいつと同じ寸胴魚の
「……反動なしで決められた*2、と」
「そ~なのよぉ! あぁ憎ったらしいったら! それで今朝会ったら、目一杯幸せ顔して今日はいよいよ初デートだとかぬかしやがったから、お邪魔虫にならないように遠出してここまで来たわけよ。こんなんでも一応は雌友達だし、それこそさっき紅藻くんがしたような勘違いをその娘にされたらフられかねないからね。でも……」
一度言葉を切って、私は周囲の水晶たちを見渡した。
「ここに来て、水晶に写った独りぼっちの自分の姿を見たら、側にいつもいた奴がいないことに気付かされてねぇ。何だか置き去りにされたみたいで……ははっ、やっぱりあいつのこと、少しは意識してたってことなのかな?」
「…………」
「でもね、そう思いながらブラついていたら、潮に流されてあなたのところまで運ばれたのよ。だからもしかしたら、この水晶たちがあなたに会わせてくれたのかもしれないわね。感謝しなきゃ」
「そうですね……」
もう一度、2匹で同じ水晶を見つめる。
私は水晶に写った紅藻くんの瞳を。
紅藻くんは水晶に写った私の瞳を。
と、不意にその水晶たちが、紅く陰った。
海面を見上げると、西に片寄った陽光が茜色に染まっていた。
「もうこんな時間かぁ」
「そろそろ、帰らないと……」
「やっぱり、帰りたい?」
言外に『このまま私と一緒に行かない?』と含ませて尋ねてみる。
紅藻くんは少しの間、じっと黙って考え込んでいた。
けれどやがて顔を上げ、迷わぬ口調で彼は言った。
「帰りたいです。あそこが僕の巣ですから」
◇
昼と同じ潮の流れに乗り、今度は転ばないようにしっかりと翅を張って岩棚へと登って行く。
降りる時よりもむしろ楽に、私たちは岩棚へと帰り着いた。
再び紅藻たちの園の中へと、彼を挿し戻す。
彼の根っこが岩をがっしりと掴んだのを確認すると、私はそっと彼の身体から爪を放した。
――我が身が裂けるような、思いをしながら。
「今日はありがとうございました。夢が叶ってとても嬉しいです」
「どういたしまして。私も本当に楽しかったわ。名残惜しいけれど、私も自分の巣に帰るから、それじゃ」
踵を返し、岩棚を発とうとして、
「ねぇ、」
「あの、」
もう一度振り返るのと、彼が私を呼び止めるのと、殆ど同時。
照れ笑いを互いに返し合い、やがて、私から問いかけた。
「また明日、遊びに来ていいかな?」
夕映えの中、彼の葉が一層紅く輝いた。
「は、はい! お待ちしています!!」
◇
◆
◇
その日から毎日、私は朝食を終えると北の岩山に通い、紅藻くんを連れ出して近くの海を泳ぎ歩き、2匹の時間を満喫した。
珪藻が岩の上に幾重にも層を成して積み上がった緑の丘に。
奇妙な形に捩じ曲がった白い岩が天井を覆っている風穴に。
地面から熱いお湯が懇々と湧き出している心地よい岩陰に。
どこに行っても、そこには紅藻くんの純真無垢で朗らかな微笑みがあって、それを見ていることが私にとってこの上ない幸福だった。
◇
そんなある日。
いつものように北の岩山へ紅藻くんを迎えに行こうとしていると。
「いよっ!
聞き慣れた声に背後から囃し立てられて、私も振り向き様に声を張り上げて言い返した。
「こら寸胴魚! 今の〝王子様〟っていうのは、もしかして私のことか!?」
岩のような顔に細い眼を歪ませて、ニヤニヤ笑っている我が親友がそこにいた。
「噂になってるぞ。どこぞの平たいエビの王子様が、毎日午後になると海藻のようなお姫様を抱っこしながら北の海一帯でデートしてるってな。王子と聞いてお前に違いないとピンときたがやっぱそーだったか」
「こんな可愛い乙女を捕まえて王子でピンとくるなバカ! ……まぁ、当たってるけどさ。言っとくけど、相手の子もレッキとした雄の子だからね!」
「わっはっは、そーかそーか。俺ばっかガンガン先行しちまってずっと後方で悔しがって地団太踏んでるとばかり思ってたが、お前もきっちりやることやってんのな」
「お生憎様でしたバーカ。で? そういうあんたはどうなのよ? 例の彼女とどこまで進んでるの?」
「うっ……それがなぁ、無茶苦茶言い辛いんだがな……」
急に寸胴魚は言い澱み、唇を噛み締めてそっぽを向いてしまった。
「ちょっと、どうしたのよ? まさかあんた、やっぱりもうフラれちゃったとか?」
心配になって顔を覗き込んで見ると、寸胴魚は固い表情を浮かべながら、ポツリ、と呟いた。
「……『タマゴ産んでもええよ』って言われちまった♪」
……うわ。
「キャー! うっそー! やりやがったなこいつめぇ! 余裕で大差勝ちしてるんじゃないの! この野郎この野郎!!」
「痛い痛い、爪で小突くなってのバカ! つーことで、悔しかったらお前もその彼氏のタマゴ産んでみせな」
「セクハラやめぃ! 大体そんなのまだ早いよう。あの紅藻くん、まだ本当に坊やなんだもん」
まったく、寸胴魚めが変なことを言うもんだから、思わず色々と想像しちゃったじゃない。恥ずかしいったらありゃしない。
「あーもうこんなことしてらんないわ! スケベな寸胴魚がボコボコ繁殖している間に、私は紅藻くんと清らかな愛を育まなきゃ!」
「おーそーかいそーかい。そんじゃその〝清らかな愛〟とやらの果てに扁平エビが大量繁殖して追い抜かれたりしちゃかなわんから、俺も彼女との愛の営みに勤しみにいってくらぁ!」
くだらない文句を笑いながらぶつけ合って背を向けた。小さいころからずっとそうしてきたのと同じように。
何だかホッとした。あいつに恋ポケが出来たからって、これまでのように気軽にケンカ出来なくなるかもって落ち込んでいたのがバカみたい。清々しいまでに何にも変わっていないじゃないか。
「ねぇ、寸胴魚!」
振り向いて、もう一度親友を呼び止めて見る。
「なんだ、扁平エビ!?」
威勢のいい声が、跳ね返ってくる。
「あんたに子供が産まれて、私もお母さんになったら、その後はお互いの子供自慢で勝負だからね!」
「あっはっは、その頃になったら、俺たちの子供同士もケンカばっかしてるかもな!」
「子供ら自身のことまで分かるかバーーーカ!!」
約束なんてするまでもなく。
了承を確かめる必要もなく。
当たり前のようにそうなるだろうって信じられた。
寸胴魚と私とは、結局そういう間柄だった。
◇
今日もまた海の色が茜に変わり、紅藻くんとの楽しいひと時に終わりの刻を告げる。
漣痕*3広がる砂地の上で寄り添いながら、私は海面を見上げて小さくぼやいた。
「もっと遠くまで2匹で行きたいなぁ。もっと長く一緒にいられたら……」
本当は紅藻くんの住む岩山まで巣を移してしまいたい。もしくは彼を私の巣まで連れ去ってしまいたい。
でも駄目。残念ながら私が生活出来る環境は紅藻くんの岩山の周囲にはない。
それは紅藻くんも同様で、自分で移動することが出来ない紅藻くんの場合はもっと条件が厳しい。
結局これからも、私が自分の巣から紅藻くんを迎えに通い続けるのがベストなのだろうか。それはそれで楽しいからいいけど。
「そうですね。もう少ししたら、僕も歩けるようになりますから……水晶の谷辺りで待ち合わせして、2匹の時間を延ばすことも出来るようになりますよ」
「そうね。もしあなたが歩けたら……って、え!? ちょ、ちょっと待って、何ですって!?」
初耳だった。驚きの余り飛び上がって彼の方に向き直る。
「紅藻くん、あなた、歩けるようになる……の!?」
「はい。僕の母も歩いてあの岩山にやってきて僕を産んで、僕が一人で餌を取れるようになった頃に去っていったんです。だから僕も、成長したら母と同じように歩けるようになるんです。僕の岩山は水が奇麗でいい環境ですから、きっともうすぐですよ」
「そうなんだ……」
衝撃の事実を前に呆然と呟く私。
その頬に薄紅の葉がかけられ、気が付けば私は紅藻くんの懐に抱き寄せられていた。
彼の早い鼓動を、直に感じた。
「エビさん」
お、〝お姉さん〟じゃなくて!?
その囁きと、甲羅に響く彼の鼓動に流されて、私の鼓動が早くなっていく。
「僕はもうすぐ大人になります。今はこうしてエビさんに抱えらえなければどこにも行けない身体ですが、その内
薄紅色の葉の中心で、彼の視線が。
私の視線と、真っ直ぐに交わる。
「あなたと一緒に歩ける雄になったら、僕を……受け入れてもらえますか?」
……まいったなぁ。
まだほんの坊やだって、思ってたのに。
答えの代わりに、私は彼の葉の中心へと、そっと顔を近づけた。
私の目の前で、紅藻くんの双眸の光が、そっと閉ざされる。
私も眼を引き込んで、最後の一歩を踏み込み、彼との距離を0にする。
甘酸っぱい感触を、私たちは分かち合った。
顔を離し、眼を出して見ると、すっかり茜色に満ち溢れた世界がそこにあった。
「予約、しちゃったぞ」
熱く火照った頬で、精一杯の笑顔を作る。
「きっとどこまでも、一緒に行こうね」
「はい…………」
返された紅藻くんの笑顔もまた、夕陽より熱く眩しかった。
◇
紅藻くんを送り届け、自分の
現実に見る夢が際限なく溢れて、眠りの中の夢を見る余地がなくなってしまったのだ。
あぁ、紅藻くんが大人になったら、どんな姿になるんだろう。
彼が歩けるようになったら、まずどこから行こう。
どこまで行って、どんな愛を交わそう。
フフ、気が早いかな。それよりもまず、明日は彼と、どこへ…………
◇
◆
◇
突然の激震が。
積み上げた夢を、打ち壊した。
◇
揺さぶられた身体が、まだ惰性で震えている。
どこかにぶつけたのか、身体の節々から痛みを感じる。
眼を出して回りを見たけど、真っ暗で何も見えやしない。
今が朝なのか、それともまだ夜なのかも判らない。
巣穴の入り口を探ろうと爪を伸ばすと、穴がある筈の場所は硬く重い岩と崩れた土の感触で閉め切られていた。
――生き埋めだ。
どうしよう。どこかから穴を掘って脱出することが出来るだろうか。
だけど我が巣穴は思いのほか堅牢で、だからこそ押し潰されずには済んだのであろうが、爪を立ててもどこにも穴は掘れそうにもない。
嫌だ。嫌だ! このままでは、私はどこにも行けずに独りぼっちで死んでしまう。紅藻くんにも会えなくなっちゃう!!
あぁまずい、
「扁平エビぃっ! どこに埋まっていやがる! 生きてんなら声でも屁の音でもいいから聞かせやがれぇっ!!」
岩壁の向こうに轟く幼馴染みの、これまでの永い付き合いでも聞いたこともないような悲痛な叫びが、恐慌に陥りかけていた私の心をつなぎ留めた。
「こ……ら……っ、寸、胴、魚あぁぁぁっ!! あんた、それが雌の子を呼ぶ台詞かバカあっ!!」
「やっぱりしぶとくくたばり損なったか。一体どこでベソかいていやがる1?」
「涙声なのはあんたでしょうが!」
震えそうになる声を力の限り張り上げてごまかしながら、私は入り口を塞ぐ岩壁に向かって爪を振り上げた。
「こいつがぁっ、邪魔してんのよ!!」
ガツンと鈍い衝撃が岩盤を震わせ反響する。
「よっしゃあっ! 奥に引っ込んで頭抱えてろぉおっ!!」
寸胴魚の咆哮が、上方から迫ってきて――
ズガアァァァアン!!
炸裂音も凄まじく、巨岩が粉々となって砕け散る。
どっと流れ込む新しい水の向こうに、たった今頭突きの一撃で岩を叩き割ったいかつい顔が覗いていた。
「た、助かったわ。ありが……」
「何てこった、手遅れだったかぁっ! 可哀想に、こんなにもペチャンコになっちまってよう……」
……どうやら我が親友は、水臭い礼の言葉なんかより憎まれ口の方が聞きたいようだ。
「岩がなくなって助かったと思ったら、まだ口と
「そんだけ言えりゃ大丈夫そうだな」
「ほんまに大丈夫でっか? どこもえらいとこあらへん?」
訛りの強い穏やかな声で心配そうに話しかけてきたのはもう1尾の寸胴魚。
親友と比べてどこかすっきりとした面立ちのこの娘が、例の彼女だった。
「ありがとう。平気よ。少し痛むけど、泳ぐのに問題はなさそう」
ひと心地付けて辺りを見渡してみる。
住み慣れた谷は無残に荒れ果てていた。そこら中に砕けた岩がゴロゴロと散らばっており、潰れた巣穴の前で途方に暮れて立ち竦むポケモンたちの姿があちこちに見られる。波間に見える空は、どうやら夜の闇とは違う暗さに閉ざされているようだ。
「一体、何が起こったのよ。地震?」
「あのな、扁平エビ……」
何か言いかけて急に口ごもる寸胴魚。
代わりにその彼女が教えてくれた。
「北の陸地で火山が噴火したんや。この辺から北側はどこも大変なことになっとるさかい、早よ南の安全な土地に避難せんと」
北。
ここの、北。
水晶の谷。北の岩山。
そんな……バカな!?
「あっ!? こら待て、行くなバカ! 戻れ! 戻って来い!!」
背後から追い縋る寸胴魚の制止の声を振り切って、私はここ数日通い続けた道を一目散に泳いだ。
紅藻くん…………っ!!
◇
「何、なのよ、これ……っ」
信じ難い、信じたくない光景が、私の目の前に広がっていた。
真っ直ぐ進めば水晶の谷に続く筈の水路は、海面まで突き上がった長大な土の壁によって断ち切られていたのだ。
一体壁の向こうはどうなっているの……!?
海面に昇って、震える眼で上の様子を伺って見る。
黒々とした雲に覆われた陰鬱とした空気の中で。
無数の水晶が突き出した谷が、その向こうに見えるずんぐりと丸い岩山が。
何もかもが全て陸上の景色となって、壁の上にそびえ立っていた。
火山の脈動が地面を持ち上げて、紅藻くんの住む岩山一帯を陸地へと変えてしまったというのか。
これじゃあ、紅藻くんは、もう…………
「だから行くなって言ったんだぞ。もうどうしようもないってことぐらい、いくらバカでも解るだろ?」
追いかけて来た寸胴魚が、重苦しげに声をかける。
「その坊やが住んでいたのは、水晶の谷よりもっと奥なんだろ? 陸に上っちまった今、そんなところまで辿り着く
解ってる。ましてや紅藻くんは自力で逃げることも出来ない身だ。何の希望も、ありえない。
「諦めるしかねぇよ。ここで見ていても辛いだけだ。俺たちと一緒に南へ引っ越そうぜ。さぁ……」
「寸胴魚……」
「あん?」
「ごめん。私、やっぱり諦められないわ」
「!? ばっ…………」
愕然とした顔で振り向いた親友が、私を取り押さえようとするより早く。
私は全身のバネをしならせて、海面上に跳び上がった。
2本の爪を断崖へと突き立て、陸へ向けて這い上る。
水晶の谷へ。
その向こうにいる、紅藻くんのところへ……
「バカッたれぇ! 何考えてやがるんだ! お前まで死んじまうぞ!! くっ!」
私の後を追いかけるべく、寸胴魚は海面から跳躍する助走のために身体を沈め、
「わぷっ!?」
跳び上がろうとした瞬間、追いかけて来た彼女に尾鰭を咥えられて失敗した。
「は、放せ、放してくれぇっ! あのバカを連れ戻さねぇと……」
「もうあかんわ! ウチらにはあの子みたいな爪もないねんよ! 下手に陸に上ったら、先にあんさんの方がお陀仏になってまうわ! お願い、行かんといてっ……!!」
決死の形相で、彼女は寸胴魚に縋り付いて放さない。
そうだ。しっかり捕まえておいて。
私の親友を、あなたの愛するものを、決して放さないで。
私は、私の愛するものの側に行く。
「バカ野郎! 大バカ野郎おぉぉぉ~~~!!」
涙交じりの絶叫に送られて。
私は水晶の谷へと、身体を踊らせた。
◇
「ぐあっ!」
一歩進むたびに、鋭く尖った石が腹に食い込んで容赦なく切り裂く。
余りにも硬い水晶の刺*4に削られて、ほんの少しも進まないうちに私は傷だらけになってしまった。
苦悶の声を上げる私の側に、ボトッ、と不快な音を立てて落ちて来たものがある。
干からびかけた、ポケモンの亡骸だった。
「……っ!」
もう、紅藻くんもそうなっているかもしれない。
だけど、もしそうだとしても、それをこの眼で確かめないまま後悔を抱えて生きていくなんて私には出来ない。
例え私自身が屍の列に並ぶことになろうと、前に進むしかない。
だから――
「諦めるもんか。負ける……もんかあぁぁぁぁぁぁっ!!」
気合と共に、身体を持ち上げた瞬間、脳の奥深くに閃光が走り――
我に返ると、何故か視点が高く昇っていた。
自分の身体を見下ろすと、引き裂かれた腹の下から太く逞しい脚が2本生えて、しっかりと地面を踏み締めている。
「あ……私、〝進化〟したんだ……」
試しに本能のまま前に進むと、力強く脚が繰り出されて、先刻まで腹を傷つけていた水晶の刺を一跨ぎで越えていく。
やった! これならきっと、谷を抜けて岩山に辿り付ける!
「今行くよ、紅藻くん」
水晶の谷の奥深くへと向けて、私は足取りを速めた。
◇
◆
◇
実のところ、歩ける姿に進化しても尚、谷の道程は苛酷を極めていた。
砕けた水晶の欠片がゴロゴロと転がる不安定な足場での不慣れな歩行に足を滑らせて転ぶこと数十回。
生え立ての足の爪はたちまち剥がれ落ち。
転倒して硬い柱に衝突する度に甲羅が
尖った石に引っ掻けて、翅も鰭も残らずズタボロに擦り切れた。
おまけにいつの間にやら、左目の視力まで失われているようだ。
それでも私は、紅藻くんに会いたいという想いだけを胸に、軋む身体に鞭を打ってひたすら歩き続けた。
そして、ついに。
私の右目が、見覚えのある水晶の柱を見い出した。
砂埃に塗れて白く濁ってしまっているが、間違いなくあれは最初に紅藻くんを連れて来たとき姿を写した思い出の水晶。
あの柱を抜ければ、岩山はもう目の前の筈だ!
「紅藻くん、紅藻くん、紅藻くん、紅藻くんっ……」
体液の滲み出る脚を引きずりながら、無我夢中で私は柱の横を擦り抜け、
「こっ……」
そこで、私の歩みは、止まった。
◇
紅藻くんがいる筈の岩棚も、そこへと続く黒く張り出した岩壁も、海の中で見ていたシルエットのままに、確かにそこに存在した。
けれど、ずっと潮流に乗って登っていた私は、気が付いていなかったのだ。
この岩山、こんなにも、高かったんだ。
こんなにも……険しかったんだ。
麓からしばらく上までオーバーハング*5の切り立った壁が続いており、爪をかけられそうな場所なんかどこにも見当たらない。
一番低い足掛かりになりそうな所でさえ、精一杯背伸びしたとしても、全身全霊をかけて跳び上がったとしても、爪の先端だって届きそうにもない。
あははは……ほんとバカだ私。
結局最初っから、紅藻くんの所に辿り付くことなんて、不可能だったんだ。
突き付けられた絶望に、満身創痍の肉体を支えていた心がボッキリとへし折れる。
身体が傾ぐ。視界がぐらりと回っていく。
ごめんね、紅藻くん。私、もう行けそうにない。
ごめん、寸胴魚。折角助けてもらったのに。
崩れ落ちた先は坂道で。
成すすべもなく、私は荒れた砂の上を滑り落ちていった。
◇
湿った塊に頭からぶつかって、滑落はようやく停止した。
何にぶつかったのか確かめる気力もないが、大方屍の類いだろう。気にすることもない。どうせ私もじきになるものだ。
谷間の奥底、砂の堆積した場所で、私は頭を下にして仰向けに引っ繰り返った姿勢で横たわっていた。
もうあの岩壁を登るどころか、この砂地から抜け出すことも、身体を起こすことさえも出来そうにない。終わりだ。
遂に辿りつけなかった岩棚が、涙で霞んだ右目に写る。
悔しいなぁ。折角こんなに近くまで、目指す場所が見えるところまでやって来れたのに。
歩けるように進化出来たぐらいなら、空を飛べるように進化出来たって良さそうなものじゃない。
……それを言ったら、ここまで来れたのだって奇跡みたいなものなんだから、また奇跡を望むのは虫が良すぎか。
あぁ、でも本当に、もう出来る事は何もないのかな……
そうだ。
声なら、声だけなら、ここからだって届けられるじゃないか。
残された有りったけの力を込めて。
私は、天へと向けて、吼えた。
「紅藻くん! 私よっ……!」
駄目! 駄目! 全然駄目!
こんな掠れた声では、岩棚まで届きっこない!
信じろ私。紅藻くんはまだ生きてる。きっとこの声を聞いてくれる!
だからもっと、もっと強く!!
「ここにいるよ! あなたに会いに、ここまで来たのよ! お願い、返事をしてぇぇぇっ!!」
必死で右の爪を伸ばし、岩棚に届けとばかりに振り上げて、私は更に声を振り絞る!!
「こうそう、く……ん……」
駄目……もう駄目。声に、ならない。
ここまで、か……
虚しく宙を掻いた爪が、力を失って崩れ落ちて。
脇から伸びて絡み付いたくすんだ緑色の触手に、支えられた。
「え…………」
それは。
先程から私の頭の後ろに横たわっていた湿った塊から伸びた、〝根っこ〟だった。
どうして、先刻ここに落ちて来た時、何にぶつかって止まったのか確かめなかったんだろう。
どんなに変わり果てた姿であろうと、この私が見分けられない筈がないのに。
例え、紫色だった身体がくすんだモスグリーンに変色していても、金色の縞模様は変わらずその身を彩っており。
例え、ボロボロに萎びて張り付いていても、それは紛れも無く薄紅の8枚の葉で。
例え、房を覆っていた包皮が剥けて丸い頭部が剥き出しになっていても、その爛々と光る瞳は、
「やっぱり……エビさん、なんですね……」
穏やかな眼差しのままで、私を見つめていた――
「紅藻くん……あぁ、紅藻くんだ……夢じゃ、ないよね……」
「エビさん、僕、歩けるようになったんですよ。自分で歩いて、ここまで下りて来ました……あなたに、会いたくて」
か細く儚いその声は、だけどとっても誇らしげに、心に響いた。
「そっか。よく、頑張ったねぇ。偉いぞ」
愛しい彼にそっと頬を擦り寄せる。
照れ笑いを浮かべた紅藻くんの顔が、ふっと悲しげに曇った。
「でも、もう少しで岩山を下り切れるという所で落ちてしまって……もう、歩けないんです。あなたと一緒にどこまでも行くって約束したのに、これでは……」
「ううん。紅藻くん、私たち、ちゃんと一緒に歩いて来れたよ。2匹で同じ場所を目指して、片方だけじゃどんなに努力しても敵わなかった困難を力を合わせて乗り越えて、一番行きたかった場所に、こうして辿りつくことが出来たの……」
そう、他のどこよりも、一番行きたかった場所に。
愛するものの、傍らに。
「だからね、私たち、これからはずっと一緒よ。もう離ればなれにならなくていいの。ほら、ね」
想いの全てを爪に託して、絡み付いた根っこをぎゅっ、と固く握り締める。
「もう放さないわ。紅藻くん、大好き……」
「僕も、です。放しません。永遠に…………あ」
ふと声を上げて、紅藻くんが空を見上げる。
私も右目を上げて、同じ空を見渡した。
「わぁ…………」
◇
それはもしかしたら、空からの私たちへの贈り物だったのかもしれない――
唐突に、立ち込めていた黒雲を裂いて、一条の光が水晶の谷へと突き刺さった。
乱反射した光は再び空へと跳ね返り。
その刹那、雲から舞い降りてきた火山灰たちを照らし出し、キラキラと輝く光の粒へと変える。
まるで星空が私たちに向かって落ちてくるかのような、それは荘厳な光景だった。
「奇麗ね……」
「本当に……」
こんな素敵な
愛するものと、分かち合える。
あぁ、なんて私たちは幸福なんだろう。
光の粒は私たちの上に降り積もり、やがて視界を覆い尽くした。
いつの間にか、傷の痛みも呼吸の苦しさも、感じなくなっていた。
最期に感じたのは、繋ぎ合ったお互いの爪と根っこの温もり。
この先何千回、何万回季節が巡り過ぎようと、この絆が断たれることは決してない。
もう、死すら私たちを別てない――――
水晶に囲まれた閨の中、光の粒の褥に包まれながら、私と紅藻くんは永遠に明けることのない初夜の床で、一つに結ばれた。
潮騒の音の向こうで。
私を呼ぶ寸胴魚の声が、聞こえた。
◇
否――
目を覚ますと、潮騒だと思っていたのは、吹き抜ける風に揺れた花壇の草花が擦れ合う音だった。
研究所の中庭にある花壇にもたれながら、どうやら私はうたた寝をしていたらしい。
「やっぱここにいたか。お前ほんと花が好きなのな」
見慣れた厳つい顔を揺らして、寸胴魚が中庭に入ってきた。
「ま、そう言えばお前も一応雌の子だしな」
「あら今頃気付いたの。もうちょっと雌の魅力に敏感にならないと、いつまでたっても彼女出来ないわよ」
「忠告しておくがな、いくら花の蜜が効果的だからといって、食い過ぎると却って太るぞ」
「誰がダイエット目的で花壇にいるか!」
「おっとっと、失敬失敬。寧ろもっとグラマラスを目指したい方だったな。扁平エビとしては」
「余計なお世話! 所詮寸胴魚には、このシャープなボディの魅力は分かんないのよね」
「お世話ついでにもう一つ言っておくが、目は洗っておいた方がいいぞ。新入りさんの前に寝坊助顔で出たくなけりゃな」
「……新入りさんって?」
「さっき博士が連れて来た。だからお前を探してたんだぞ」
「そ、それを早く言えぇぇっ!!」
私は大慌てで、洗面所を目指して這い出した。
◇
私はこの研究所で生まれたアノプスだ。
何でも、太古の地層で発掘されたポケモンの爪の化石に残されていた遺伝子を復元とかして生まれたのが私、ということらしい。
そのせい、なのだろうか? 時々知る筈のないどこかの海の夢を見る。
その夢の中で私は元気に泳ぎ回り、情熱的な恋に心を燃やして、精一杯に生きて、生き抜いてそして、死んでいった。
私が花が好きなのは、その夢の中で恋をした相手と、花壇の花の姿が被るからだ。先刻もうたた寝しながら同じ夢を見ていたが、本当に花のように可愛らしい美少年だった。*6
何故かその夢には研究所のポケモン仲間である寸胴魚も出てきて、現実同様に笑って憎まれ口を叩き合える親友同士だ。
博士によると、寸胴魚の種族であるジーランスというポケモンは、アノプスが海にいた時代にはもう今のままの姿で存在していたらしいので、ひょっとしたら彼の遠いご先祖様が、私の元になった〝母〟と呼ぶべきアノプスと本当に親友同士だったりしたのかもしれない。
もしそうなら、奇跡というか実に運命的な話だ、と思う。
何しろ――――
それはおよそ1億年以上も溯った、果てしない大昔の話だというのだから。*7
◇
目脂を落とし、ついでに軽くメイクして、私は博士の部屋へと急いで飛び込んだ。
「ごめんなさ~い、遅れました!」
「おぉ、やっと来たか。待っておったぞ」
温和そうに微笑む白い髭の老博士。その手にはモンスターボールが抱えられている。
博士の隣で、寸胴魚がニヤリ、と笑って言った。
「おーおーツヤツヤに磨いてきやがって。そんだけテカってりゃ新入りさんに存在を気付かれない心配もないか」
「そんな心配をする程ペチャンコじゃないわい! それで博士、新入りさんって、そのボールの中の子がそうなんですか?」
「うむ。実はこの仔はの、お前さんと同じ、化石から復活させたポケモンなんじゃよ」
「へぇ……じゃあ、本当に私の後輩になるんですね」
「気を付けろよ。お前口が悪いから、きつく言ったらいじめっ子だと思われちまうぞ」
「あんたが言うなーーー!!」
「はっはっは。まぁ、きっと仲良くなれるじゃろうて。何しろこの仔の化石はな、アノプスくん、お前さんの化石と一緒に発掘されたものなのじゃからな」
「え…………」
ちょっと待って。
それって。
「同じ岩の中に、絡み付くように密着しておってのう。遺伝子の状態はお前さん同様極めて良好だったんじゃが、解析に手間取ってしまってな。復元するのがこんなに遅れてしもうたわい」
夢の最後に、いつも見る場面。
永遠に離れないよう、固く、固く結び合った、何よりも愛しい……
「さあ、出ておいで。リリーラくん!」
まさか…………!?
◇
紅い閃光が消え去った時、私たちの前に現れたもの。
高さ1m程の、背の高い花に似た――否、正しくは植物たちが彼らの姿を真似て花を咲かせるようになったのであろう美しい姿。
ほっそりとした茎は、光に微かに透ける菫色の地に金色の縞模様。
茎と同じ色の
そして頂点から伸びた、艶やかな桃色の8枚の花びら。
夢に見たままの彼が、そこにいた。
モンスターボールの中から、既に私たちを見ていたのだろう。特に驚く様子もなく、花びらを広げた奥で双眸を優しく光らせて、丁寧に頭を下げた。夢の中で初めて会った時にそうしたように。
「先輩方、初めまして。宜しくお願いしま――」
ポタリ。
滴が、彼の足元に零れ落ちた。
「あ……れ…………?」
「ど、どうしたんじゃ? 急に泣き出したりして」
「す、すみません。分からないんです。何だか身体が、心が熱くなって……」
「ほら見ろ、お前が怖い顔してガンつけたりするからあんなに脅えて……」
他者のことは言えない顔を棚に上げながら振り向いて、寸胴魚はキョトンと目を瞬かせた。
「おいおい、何お前まで泣いてんだよ!?」
あぁ、本当だ。
全身から歓びが溢れて、涙が……止まらない。
確信した。あの夢はやはり、1億年前に実際にあった出来事だったのだ。
博士から聞いたことがある。私の……私たちの〝親〟となった化石は、硬い石英*8の鉱脈で出来た天然の柩の中に火山灰に埋もれて眠っていたため、1億年という時の経過にも関わらず遺伝子が奇麗に保存された状態で発見された、と。
即ち、私の母が、命を賭けて水晶の谷を渡っていなかったら。
彼の父が、死力を尽くして岩山を下りていなかったら。
2匹が化石となって残ることも、同じ研究所で復元されることもありえなかった。
愛のために貫いた2匹の想いは、本当に無駄じゃなかった。
1億年の時を経て、私たちの〝再会〟という形となって、たった今結実したんだ…………
◇
「は、初めまして、リリーラくん!」
涙を爪で拭って、私は精一杯の笑顔で彼に話しかけた。
「早速なんだけど、ここの中庭にね、とても素敵な花壇があるのよ。ぜひあなたに見て欲しいわ。一緒に行きましょう」
「あぁ、それは楽しみです! でも、僕は歩くことが出来ないのでこのままでは……博士、モンスターボールに戻していただけますか?」
「ま、待って!」
慌てて私は彼に飛びつき、その柳腰に爪をかけた。
「私が抱えて連れていってあげたいの。研究所の中も案内してあげたいし、ボール越しより直に見た方が楽しいよ」
「あ、でも、ちょっと待っ……」
「覚悟を決めなさい。私はもうあなたを連れて行くって決めたから。つべこべ言っていると、強引に摘んで行っちゃうよ?」
有無を言わさぬ私の勢いに押されて、彼は床から放した根を私の爪へと絡み付けてきた。
「お……お願い、します」
「よしきた!」
緊張に強ばる彼の房をもう一方の爪で支えて抱き上げると、私は力一杯身体をうねらせて進みはじめた。
◇
その刹那。
『きっとどこまでも、一緒に行こうね』
『放しません。永遠に……』
触れ合った2匹の身体の奥底で、恋ポケたちの魂が愛の歌を奏で合った。
遥か1億年の時を越えて――――
~Fin~
仮面外すのが遅くなりました。狸吉です。
13票。数多くの投票とコメント、本当にありがとうございました。
デビュー以来Wikiの小説大会には毎回出場してきました*9が、ついに悲願叶い優勝となりました。感激です。
◇タイトルについて
Roots of Fossilは『化石の根源』という意味。
『化石の根っこたち』とも読みかえられます。
『
そこから連想される吹き飛ばされても離れない恋ポケたちの絆と、化石復活ポケモンたちの『ルーツ』を描く物語という両方の意味を込めました。
◇カップリングについて
最初に確定したのは実は寸胴魚くん。
化石ポケモンたちの恋の脇役として、過去の時代から生き続けているポケモンということでジーランスを選びました。
そうなると化石ポケモンは海洋系の4種類に限られる訳で、この時点で上記のタイトルと大まかなストーリーを決めていたのでリリーラは確定。相方となる主人公にアノプスを選んだのは、元々リリーラの対であったということもありますが、決め手となったのは化石になる部位が『爪』だということ。『爪と根っこを結び合う』という演出をしたかったのです。甲羅や貝殻じゃ根っこを握り返せないので。
◇大会中の騒ぎについて
好調なスタートダッシュに有頂天になるあまり某所で口を滑らせてあわや仮面を外しかけてしまい、色々と迷惑をおかけしました。
指摘された方が、僕の自嘲的失言を本作(を含むいくつかの作品)に対する批判的な発言と勘違いしてくれたのでむしろ助かりました。お恥ずかしい限りです。
◇大会後の主な変更点
・携帯で見ると違和感があったこともあり、行間の菱形のサイズ指定を消去。あのサイズには左側9個スペースしか合わないwww
・2箇所あった「木っ端微塵」という表現をそれぞれ別のものに変更。古生代に「木っ端」は無いからw
・水晶の谷を越えるシリアスな場面に「すっ転ぶ」はないだろうと「足を滑らせて転ぶ」に変更。本当になんでこんな風に書いたんだろ……?
・寸胴魚の彼女の登場時に「親友と比べるとどこかすっきりした面立ち」追加。雄雌でグラフィック違うの忘れてた。
◇BAR 《ARMORED WING》でのコメントへのレス
>>リザードンさん
>>純愛じゃなくて殉愛なのか?
はい。「命を捧げる愛」です。よく漢字に気が付きました。
>>サンドパンさん
>>エロ有りだったら本当に誰得で終わってたかもね。
エロ無しにしたのは、この2匹は過去パートではあえて清らかな恋のままの方が切なさが増すと考えたからです。
『悪夢のダンジョン』との兼ね合いでもありますが。
>>リングさん
>>幸福を壊さず見守りたくなるようなお話でした。
すみません作者が僕で本当にすみません。いつもの如く引っくり返りますwww
>>愛にも科学が絡むんだなぁ
科学の力さえ奇跡にしてしまえるほど、2匹の愛は偉大だったのでしょうね。
◇大会中に頂いたコメントへのレス
>>時間を越えた壮大なストーリーに感動しました。まさしく殉愛でしたね。
>>ジーランスのおかげで物語がより一層引き立ってくれたと思います。
はい。彼は重要なキーパーソンでした。
紅藻くんが復元されるより前の時点で、扁平エビに過去の夢と現在とを繋げて認識させるための道標役。
そして、もう一つ。過去編での2匹の死を美化し過ぎないために、扁平エビが死を選んだことを悲しんでくれる者が必要だったのです。
>>壮大で、長い時を経て伝えられた愛がとても印象的でした。
>>感動で余韻に浸れたのは久しぶりでした。ありがとうございました。
こちらこそどうもありがとうございます。
深く感動していただけて嬉しいです。
>>具体的にうまく言えない?書けない?ですけど、とても感動しました。今後の活躍に期待します。
ありがとうございます。まだまだ文章にしていない物語があるので、早くお見せできるよう頑張ります。
>>ないた。
つハンカチ。
>>化石ネタ……という事で大体ストーリーの見当はついてましたが、それを補って余る構成と文章力でした。
>>確かにカップリングは誰得でしたが、そこに命を吹き込んだのは見事としか言えません。脱帽ですw。
>>あと描写が綺麗で、難解な言葉をやたら駆使せずに美しい情景を飾り気無く表現していたのも印象的でした。
>>暗い印象の作品が多い中、爽やかな読後感をくれたこの作品を推させて頂きます。
まず「誰得」についてですが、これは歴代のWiki小説大会優勝作品の多くが「ブイズ作品」だった*10ことに対する挑戦でした。
一部で「選んだポケモンで優勝が決まるようなもの」とか言われた事もあったので、いつかそれを覆したいというのは『デコボコ山道の眠れぬ一夜』*11を書いた辺りから強く思っていました。
今回は他の部門もブイズ未出演作品が優勝しましたが、ブイズどころか哺乳類モチーフのポケモンが影も形も出てこない優勝作品は本作が初めてのはずです。
言葉を解りやすく書く、というのも確かに意識していた部分です。気付いてくれて嬉しいです。
暗い雰囲気の作品が非官能部門にも多かったのは、実はまさに思い通り。
僕の官能部門作品『悪夢のダンジョン』はひたすら暗いバッドエンド作品なのですが、それを初日に投稿して大会の雰囲気を暗くした直後にこの作品でハッピーエンドを強調する、というのが僕の作戦だったのです。
それがおっしゃる通り予想以上に暗い話が多かったので、投票開始前からかなりの手ごたえを感じていました。
最終的には接戦になりましたが、皆さんのおかげで逃げ切ることが出来ました。ありがとうございます。
>>とても感動しました。
皆さんの感動に感謝します!
>>化石ポケモンという特徴を最大限に生かせていて非常に感動しました。
>>風景描写も上手く、イメージが沸き易かったです。 (2010/03/23(火) 02:58)
描写でこだわったのは、「古代の海にないものは使わない」こと。
そのため「花」という比喩も使えないし、例えば
ちなみにポケモン名が現代パートまで出てこないのもその為です。例えばリリーラのリリーはモチーフであるウミユリのユリから来た名前なんですが、前述の通り古代の海にユリは「ない」ので違う名前で呼ばなければいけないと思うんですよ。
ならば「チビ」とか「ノッポ」とかいうのと同様の外観からイメージする呼称で呼び合わせれば矛盾は少ないかな、と。
>>カセキを復活させるゲームの設定を上手く使っている気がしました。 (2010/03/23(火) 16:14)
「あるものは使う」のが狸吉おじさんのモットーですからね。その辺はまさに本領発揮です。
>>泣いた (2010/03/24(水) 11:38)
つハンカチ
>>誰得カップルをここまで生かすとはな。
>>その凄さに一票。 (2010/03/24(水) 16:49)
メジャーな ポケモン マイナーな ポケモン そんなの ひとの かって
ほんとうに つよい さっかなら すきな ポケモンで かけるように がんばるべき
なんちゃってwww
>>Q.この作品について一言
>>A.誰得―時を越えた遭遇―(であい)
きっとセレビィも2匹の時渡りにはびっくりですよwww
>>1億年の時を超えた壮大な愛!感動しました。誰得なカップリング?今では大好きなカップルです!
「1億年」という数字が、壮大感を倍増させる強力な武器になってくれました。
皆さんのご支持のおかげで、どんなポケモンでもうまく活かしてストーリーを立てれば大会に優勝できるような小説が書けるということを証明できました。
大好きになってくれてありがとうございます。
>>とても壮大で、感動しました
決勝の1票に感謝します。
1点差負けても優勝できた状況ではありましたが、やっぱり明確にトップに立ちたかったのでほっとしました。
改めて皆さんに心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました!
【作品名】 Roots of Fossil
【原稿用紙(20×20行)】 64.3(枚)
【総文字数】 17928(字)
【行数】 681(行)
【台詞:地の文】 37:62(%)|6763:11165(字)
【漢字:かな:カナ:他】 32:57:2:6(%)|5861:10358:458:1251(字)
扁平エビ&紅藻くん「♪Justふたり今 何億年待ち続けた
疑いもなく巡り会えた 気がしたの REINCARNATION~*12」
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照