writer:朱烏
前編へ→PRISMATIC 1
PRISMATIC
私はふと目を覚ました。車輪が線路をなぞる音は相変わらずやかましい。あまり心地よいとは言えない振動もしっかりと腹から伝わってくる。充満している干し草の臭いにもいい加減飽きが来る。埃を被った天窓から顔をのぞかせていた銀色の月はいなくなったが、車両内は明るくなっていた。空が白み、朝が来ることを告げる。
ユズリハとエンジュはぐっすりと眠っていた。寝顔は見えないが、静かな息遣いは私をそれとなく安心させた。凝り固まった体を少し揺すってほぐそうと思ったが、彼らの安眠を邪魔しないように思いとどまった。
さて、この貨物列車は果たしていつ停まるのだろうか。真夜中に出発して、今の今までまったく停まる気配を見せない。相当な距離を進んでいるし、どの方角に向かっているのかも見当がつかない。ユズリハは本当に行き先がわかっていないのであろうか。
「ん……ふわあぁぁ……」
何かが気怠そうに蠢く。ユズリハが座ったまま、あくびをしながら大きく腕を上方に伸ばしていた。寝起きというのは概して瞼が半分も持ち上がらないものだが、ユズリハは一度目をこするといつも通りの、つまり日中と変わらぬ目つきをした。私と違い随分と爽やかな目覚めなことだ。
「……おはよう、神様」
まだ睡魔に背中を引っ張られていたユズリハは、目をこすりながらこちらに顔を向けてくる。狭い車両の中、ユズリハは四つん這いになって近づいてきた。兎に角挨拶を返さなければいけないと思うが、言葉が伝わるはずがなかった。肝心のエンジュはまだ深い眠りを彷徨っている。
『お、おはよう』
人間と思うように意思疎通ができないというのは歯痒かった。エンジュを叩き起こすのが一番の解決策だが、ただでさえエンジュを傷つけている私がそんなことをできるはずがない。
それでもユズリハは私が返事をしたのだと理解して、首にひしと抱きついてくる。ユズリハの白い肌が、黒い髪が、息遣いが、私の体を撫でる。私の首から垂れ下がっている円盤が音をたてて揺れた。錆びついた金属音が耳を通すり抜ける。
「五時半……か。」
円盤を覗き込んだユズリハの頬が少しばかり緩んだ。エンジュ曰く、時刻を知るうえで一番大切なのは短針らしい。それが欠けているこの円盤でどうしてユズリハは時刻がわかるのか不思議だった。肌身離さず持っていた祖父の形見らしいから、慣れの部分が大きく関係しているのだろうか。
「なんだかいい旅になりそうね。わくわくする」
白く咲き誇る少女の笑顔も、今となっては眩しさを感じない。ユズリハは私を開放して、背中を積み上げられている干し草に預けた。その天井を見上げる瞳に青みがかり始めた空が映る。
そのとき、何かが私の脳裏を掠めた。空色に染まった瞳が、私を大きく吸い込んだ。
『見て、空が綺麗。まるでスイクンみたいな色……』
『……ユズリハ?』
『ユズリハ……って何? いきなりどうしたのスイクン?』
『わ、私の言葉がわかるのか?』
『一体どうしちゃったの? 今日のスイクンはなんだか変よ?』
『な……なぜ隠していたのだ? 会話できるのならわざわざエンジュのテレパシーなど使わなくても……』
「……神様?」
はっと我に返る。何かがおかしい。
『ユズリハ……?』
再び私は話しかける。しかし、少女は首をかしげるだけだった。
今のは一体何だったのだろうか。ユズリハと話していながら、ユズリハではない人物と話しているような気分だった。そして懐かしい。まるで以前にも会ったかのような感覚になったが、そのユズリハと重なった人物が誰なのか皆目わからない。森で初めてユズリハと出会った時のような不思議な気持ちに囚われる。
「で、一つ問題がございますが……」
私もユズリハも列車の中でなければ飛び上がったかもしれない。まるで亡霊のような声が余計に体の委縮を加速させた。体からエンジュの重みが消えてしまったのにも気づかなかった。
「……驚かすな。まったくこれだからエンジュは……」
「まだ寝ててよ、もう」
「酷い言い様でございますね。お嬢様方が目覚められる前から起きていましたが……」
邪険に扱われたエンジュはがっくりと肩を落とすも、めげずにぼそぼそと喋り始めた。
「どのようにして降りるのでございますか?」
エンジュの抱いた素朴な疑問は、私たちが知らぬうちに直面している問題そのものだった。乗り込むときには貨物の中身が容易に予測できたのも相まって、大した苦労はしなかった。しかし降りるとなると話は別だ。列車の外の様子が全く分からないのにテレポートを使用するのは危険極まりないし、人がいるかもしれない。いや、人の活動しない夜に出歩くことができた昨日が特別なのであって、下車と同時に人に見つかるのは決定的だ。
よく考えればどれもこれも事前に予想できたことである。目先の、ユズリハへの思いが強すぎて、彼女以外のことが全くと言っていいほど見えていなかった。
「……もしや私が貨物列車から出てきたら大騒ぎになるのではないか?」
「いまさら何をおっしゃいますか。大騒ぎどころではありませんよ。貨物からスイクンが出てきたなんて笑い話にもなりません。しかも
その厭味ったらしい口を塞いでしまいたいと思うものの、エンジュが言うことに間違いは含まれていなかった。あまりにも事がうまく運びすぎていて、私自身がこの場にいることの異質さを忘れていた。
「とにかく、このままだとスイクン様ならまだしも、お嬢様にも危害が加えられかねません。あまり騒ぎを大きくしないためにも……おや?」
エンジュが唐突に言葉を切る。私やユズリハも同様の反応をした。ユズリハは腕を私の前足に巻きつけて体を寄せる。体が少し前のめりになった。
貨物列車の速度が徐々に遅くなっていく。車輪から伝わる轟轟とした唸り声は潰えていき、振動も緩やかなものになっていく。到着は目の前に迫ったも同然。思ったよりも事態は逼迫しており、自らの計画性のなさを呪った。
「エ、エンジュ! ユズリハは本当に到着地のことを何も知らないのか? テレパシーで聞いてくれないか!」
「は、はい……」
ふと考えついたことがあった。ポケモンがいるとはいえ、子供がたった一人で列車に乗り、親の目の届かない名も知らない遠くの地へ出かけるなどということが出来るだろうか。ユズリハの荒唐無稽な行動力は称賛に値するが、終着駅の場所を調べることすら怠るようには見えなかった。知性もあって、幼いとはいえ大人びた雰囲気も感じさせる彼女が何の計画性もなく出かけたいと言うだろうか?
エンジュが大げさな身振り手振りを交えてユズリハと会話する。ユズリハは私の前足をぎゅっと抱きしめた。彼女の口が微かに動く。
「おばあ様の故郷……」
エンジュのスプーンがいつものそれとは異なる方向に捻れた。
「おばあ様はいつも、自分の故郷の話をソファの上で聞かせてくれた……。
少女の瞳が微かに揺れる。
やがて、貨物列車は静かに止まった。私たちの周りを渦巻いていた唸るような響きも途絶える。しんと静まり返った車内。音は、外の世界から小さく聞こえるようになった。鳥の声が、内壁を通して伝わってくる。
「キャモメの声が聞こえますね……」
キャモメ……そんなポケモンもいたな、とエンジュの呟きでまた一つ思い出す。どんな姿形をしたポケモンなのかは詳細に思い出せないが、確か海辺に棲む鳥ポケモンだったはずだ。ということは、この貨物列車のそばには海があるということになる。外界の景色がわからなくても、たったそれだけで随分と遠くへ来てしまったものだと痛切に感じた。
「……テレポート、使いますか?」
「いや、外の様子がわからぬ限りは……」
今のところ人間の気配はしないが、例えばテレポート先が海の上になってしまったら、いろいろと危険が伴う。海の上を走れたとしても、エンジュの念力が私の速さに耐えられなかったら、ユズリハを海に振り落としてしまうかもしれない。……そもそも、海の上など長いこと走っておらず、着水できる自信すらないのだ。ユズリハやエンジュの身を考えると、陸路を目指さなければいけないことは必至だ。
「おーい。人手が足りねえんだ。貨物降ろし手伝ってくれ」
そうこうしているうちに、人間の声が聞こえてきた。決して私たちに近い場所にいるわけではなさそうだが、声が聞こえる以上、テレポートで脱出すればまず見つかるだろうと思った。
「まったく、今日はいやに貨物が多いぜ。なんだって俺がこんな苦労しなきゃいけねえんだ」
そしてその男の声がだんだんと近づいてくる。歩調は遅く、線路に敷かれた砂利を踏みしめる音も冴えない。愚痴をぶつぶつと呟きながら、私たちの乗っている車両近くで歩みを止めた。彼はどうやらこの車両から積み荷を降ろす役割らしい。
「せっかくの俺の休日が……くそっ」
バン、と鉄板を思い切りたたいたような音が木霊する。彼はやり場のない怒りを、貨物列車の壁を殴ってぶつけることにしたらしい。ユズリハは突然鳴り響いた音に驚いて、さらに私に体を寄せた。
「つべこべ言わずさっさと錠を外せや馬鹿野郎! 毎度毎度手を動かしもしねえ奴が偉そうな口叩くんじゃねえよ!」
遠くから怒号が聞こえる。貨物車両の壁を隔てて目の前にいる男との口調の悪さは段違いであり、余計にユズリハを委縮させる。エンジュはユズリハの頭を撫でて宥めていた。
「へいへい……ちっ、うっせーな」
男はようやく貨物の錠に手をかけたらしく、錆びた金属がこすれあう音がしきりに鳴った。
「くそ……なんでこんなに
男が錠開けに苦戦している間に私はゆっくりと立ち上がり、ガタガタと揺らされている車両の側壁を見据えた。
「エンジュ、ユズリハを私の上に乗せて、そなたも私の上の乗るのだ」
「な、なぜです?」
「どうせ騒ぎになるのは避けられないのだ。下手に動くより、その方がはぐれることもないだろう。どうやらこの貨物車両は側壁全体が観音開きのようだし、外の男が開ければ容易に出られる。何人かに見つかってしまうのは覚悟して、騒ぎを起こす前に速やかにここを立ち去るのだ」
ガチャリと、錠が外れる音がした。
「うまくいく確証はあるのでございましょうか?」
エンジュが不安そうな顔つきで言った。その手に持つスプーンが真っ二つに折れんばかりに曲がっている。
「わかりきっていることだろう? 確証なんてものはない。そんなものがあったならば、初めから旅などしない」
それだけ言って、もう時間がないとエンジュを急かした。エンジュもただ不安がっている場合ではないとようやく察して、ユズリハを私の足から念力で引き剥がした。ユズリハは無言でそのまま宙に浮き、天井にぶつけてしまわないように頭を下げ、私の背中の上に乗った。
「神様の髪の毛、ふわふわだね」
怖がっていたのは一時だけだったのか、ユズリハの興味は別のところへと移っていた。引き続いてエンジュも自分自身を浮かせて、私の上に跨る。執事の務めを果たすかのように、ユズリハの後ろに控えめに座った。
「ここを出たらそのまま走るぞ。エンジュは念力でユズリハが吹き飛ばされないように固定してくれ。もちろんエンジュ自身もだ」
「わかっております」
彼らが私の上から落ちてしまわぬように念には念を入れる。これで準備は万端だ。
「よっ……くそ、重いな」
「おら、開け!」
男が片側の扉を思い切り引っ張った。その瞬間私は外へと降り立った。男は扉を全開にするために体ごとそれを引っ張ったのだ。だから、私が外へ出ても、扉という壁に隔てられて男の姿は見えない。しかし、線路に沿って敷かれていた砂利を踏むと音が鳴るということを想像していなかった。
「な、何だ!?」
当然男に気づかれる。
「スイクン様!」
エンジュの呼びかけとともに、私は男とは逆の方向に走り出した。扉の横から顔を出した男は一体どんな顔をしていたのだろうか。
「ス、スイ――」
走り去る間際にそんな呟きが聞こえた。どこであろうと私は姿も名前も知られているのだと、一瞬だけ嫌な気分になった。
そこは寂れた港町だった。朝焼けを背にしてニ、三羽のキャモメが鳴きながら飛んでいた。森の中に引き籠っていては、まず見られない景色だ。ユズリハもエンジュも感嘆のため息を漏らしていた。
貨物列車が停車した駅は、ユズリハの街にあった駅のような立派なものではなく、非常に簡素な造りだった。それで、構内から抜け出すのは容易だった。線路は海に沿って敷かれており、脱線すれば列車ごと海に落ちてしまうのではないかと思うくらいに海に接近していた。この町の住人達はまだ目が覚めていないのか、あの男以外に人影は見当たらない。私は来た道を逆走し、線路を辿って町の外れへと出る。郊外の埠頭付近には、何隻か船が並べられていた。沖には漁をしているであろう船が浮かんでいた。あの船に乗っている人間たちには、私の姿が見えているだろうか。まさか、颯爽と走り抜ける生き物がスイクンだと思う者はいないだろう。
駅前よりもだいぶ家の数が少なくなってきたところで、私はそちらの方へ方向転換した。人間を騒がせる心配はこれでほぼなくなった。
まだ日が顔を出すか出さないかという時間帯ゆえ、私が予想したほど人の数は多くなかったという事実は、私たち一行を大いに安堵させた。もともとこの町に住む人間の絶対数が少ないせいかもしれない。港から寂れた街中へと入り込む道は、全体的に煤けて見えた。道の両端に並ぶ、岩壁の苔むした家々が、この通りの歴史を感じさせる。道の広さは十二分にあり、街に漂う錆びついた空気を潮風が循環させていた。
私は人目につかないように、小走りで石畳を駆け抜けた。散歩している者や、仕事の準備をしている者たちが路地裏に散見される。いずれも私に背を向けており、幾人かは私に気づいて指をさしたようが、大して騒がれはしなかった。どうやら私をスイクンではなく、高速で通り過ぎる物体として見ていたようだ。
「こんなに朝早くに家を出たのは初めてよ」
ユズリハは私より高い位置から見下ろす朝の白んだ景色にいたく感動しているらしい。私も外で暮らす生活をしていなければ同意していたかもしれない。冷たい夜風よりかは、朝日を浴び、走りながら、髪をなびかせて受ける風のほうが爽やかだ。が、所詮はそれ止まりだ。ユズリハのように、見たことのないもの、感じたことのない全てを新鮮な目で見られることが羨ましい。おそらくかつての私も持っていたもので、今は消え去ってしまっているが、残り滓くらいなら心の奥底に沈んでいるかもしれない。しかしユズリハを間近で見ていると、それを必死で掻き集めるのも馬鹿らしくなってくる。ユズリハという透明なレンズを通して周りを見れば、欲していたものも案外必要のないものなのではないかと思ってしまう。それは自らをわざわざ森の外へと駆り出したことに矛盾するのではないか自問するが、そもそも旅の目的には個人的な諸問題など排除していた。ならば、受け身でいることも決して悪いことではない。……色のついた世界は、ユズリハを通しても見えるのだから。
「どんどん町から離れていきますね……」
エンジュの独り言のような呟きを耳にして、私は我に返った。考え事をしながら走っていたら、いつの間にか私たちを取り巻く景色は変化していた。セピア色の港町から、地面の舗装されていない畦道へ。足を止めると、辺り一面、実のなる木を栽培している畑が広がっていることを知る。振り返ると、先ほどまで居たと思っていた町は、随分小さくなっていた。私の考えていた走行距離と現実はかなり乖離していることに気づき、森の中で何もせずに二十年以上暮らしたことによる時間感覚の麻痺は深刻であると思い知った。
「うわあ……木の実がいっぱい……」
私が自分自身についての発見をしている最中に、ユズリハは『旅』の中で発見を繰りかえしている。ユズリハの言うとおり、若々しく茂っている緑の中に、黄、橙、赤、紫など、色とりどりの木の実が朝露をしたたらせていた。……そういえば、朝食のことについては何も考えていなかった。
「なってる木の実、食べてもいいのかな」
私がちょうど考えていたことをユズリハが的確に代弁する。そして彼女は私の上から降りようと、跨っている足をずらした。エンジュが気を遣い、サイコキネシスを使ってユズリハを浮かせて降ろした。そして自分自身も同様に降りると、落ち着き払ってユズリハに意見する。
「人のものを勝手に取っては犯罪でございます、お嬢様」
執事というのは主を正しい道へと導かなければいけないといいうのは、以前のエンジュの弁だ。それはもっともだと私も同意した覚えがあるが、今それを振りかざされては非常に困る。優先させるべきは、空腹を満たすことである。
そして何よりも、エンジュの言う通りに素直に行動することが癪でならない。
「いいじゃない。この畑は、きっとおなかを空かせた私たちのために現れてくれたのよ」
「いいではないか。腹を空かせた者の前に畑があるのが悪いのだ」
私もユズリハも、無茶な理論を振り回してエンジュを説得させようとした。たとえ正常な理論で武装していようが、数で押せば何も怖いものはない。もちろん卑怯なやり方であるのをわかった上でだ。エンジュを不機嫌にさせるのはあまり好ましいことではないが。
「勝手にしてください」
「何を怒っているのだ」
「怒ってなどおりません」
言葉と裏腹の態度で深いため息をつくエンジュを尻目に、ユズリハは畑の中へと駆けていく。一歩進むごとに跳ね上げた土が白い靴や服を汚していくが、ユズリハは気にする素振りを見せなかった。私も空腹が我慢できなくなり、てこでも動こうとしないエンジュと食事を共にすることを早々と諦め、木の実をかじりに行く。
「見て、神様、すごく美味しそうよ」
ユズリハは瑞々しく艶のあるモモンの実を、一直線に並んだ低木のうちの一本から、いくつかもぎった。それを大事そうに両腕で包み込み、私の方へ駆け寄ると、私の顔の前に差し出した。
「はい、神様」
ぴんと伸びた白い腕に、桃色の木の実が映える。私はありがとうと言いかけて、言葉が通じないことを思い出した。貨物列車でもユズリハは、単に夢の中の、妄想上の人物だったのか。もっと意思疎通ができるようにと願った私が作り出した幻か。いずれにしろ、ユズリハは私の意思を、動作や視線、彼女が聴く『鳴き声』でしか理解できない。私は頭を下げて礼をすると、ユズリハの手に乗っているモモンの実を咥えた。
「美味しい?」
ユズリハは私が咀嚼するのを待たずに味の感想を尋ねてくる。味は私が森の中でときどき食していたものよりも濃い。人間好みの味なのかもしれないが、慣れ親しんだ薄い味の木の実の方が私には美味しく感じられた。
もちろんそれを表情に出すわけなどなく、ユズリハの問いに私は静かに頷いた。ユズリハは満足そうに微笑み、その手に持っているもう一つの木の実をかじった。そしてそのときにユズリハが呟いた「美味しい」という言葉と、どこからか聞こえた怒号が重なった。声のした方を見やると、未だに未舗装道路で立ち往生しているエンジュのそばに、一人の人間が立っていた。簡素な服装で、今まで目にしてきた人間の平均的なそれよりも背丈が高い。状況から察するに、あの人間はこの畑の所有者であり、私たちの泥棒紛いの行為を偶然発見したというところだろう。運が悪い。
「人ン
再び怒鳴り散らし、人間はエンジュの手を思い切り引っ張ってこちらにやってくる。ゴーリキーのように肩幅が広くがっしりとした体形から、耳障りな声量の理由を推して知る。私は緊張した。ユズリハのような雰囲気的に稀有な人間は別として、人間側が意思を持って私に近づいてくるのは久しぶりだった。
「まったく、嫌な予感がすると思ったらこれなんだよなあ!」
エンジュを引きずりながらやって来た人間は、忌まわしいものを見るかのような目つきで私を睨んだ。ユズリハは私が人間に注視している間に私の後ろに隠れていた。この男の鬼のような形相を見ないで済むという点においては、賢い選択だろう。
「……何だ? このあたりじゃ見ないポケモンだな。しかもでけえ」
男は睨むような目つきから、私を観察するような目に変わっていた。どうやらこの男は、『スイクン』というものを知らないようである。今まで接してきた人間は、概して畏怖だとか戦慄だとか、私の前では不必要な感情を露わにすることが多かったが、それは私がどんなポケモンとしてどんな位置づけにあるかを知っていたからである。しかしこの男はそれを知らない。私は新鮮な驚きとともに、今まで抱かざるをえなかった煩わしい思いをせずに済むと安堵した。と同時に、この男とどのようにして向き合えばいいのかと戸惑う。恐らくかつての私は、口では対等にと言いながら、人間たちが自らの立場を私の下に置こうとする行為に甘んじていたのだろう。だから、いざ正面からぶつかられてみれば
「……ごめんなさい。いけないことだってわかっていたけど、おなかが空いて我慢できなかったんです」
私の後ろから、ユズリハがひょっこりと顔を出した。振り向くと、ユズリハは今にも泣きそうな顔をしていた。先ほどまでの楽しそうな表情から、賞賛に値するほどの豹変ぶりだ。
「え……子供? あ、悪いな、怒鳴ったりして。悪い泥棒だと思ったんだよ。ほら、こいつなんか悪い顔してるし」
豹変ぶりではこの男も負けてはいなかった。相手が子供だと分かると、とたんに態度を萎縮させた。そして手をぐいと引っ張られて私たちの前に差し出されたエンジュは、恨めしそうな顔をしていた。確かにいつもより悪い顔をしている。「なぜ私がこんな目に遭わねばならないのでございますか」と、エンジュから負のテレパシーが伝わってきた。
「……そんなことはともかく、朝っぱらからどうしてこんなところに居るんだ? しかもこの辺の子じゃないな? ……都会から来たのか?」
ユズリハの住んでいる町は、断じて都会と呼べるものではない。ユズリハの小綺麗な格好を見てそう思ったのかもしれないが、確かにあの寂れた港町よりは都会であろう。
「私たち……
ユズリハの口から聞き慣れない言葉が飛び出る。エルトベルクというのが、ユズリハやエンジュが暮らす街の名前らしい。もっと早くに知るべきだったかもしれないだ、今の今までまったく興味が湧いてこなかった。
「エ、エルトベルクだって!?」
男は唐突に素っ頓狂な声を挙げた。その目を見開いた、まるで化け物を見たかのような驚き方は、本来私を目にしたときに初めてするものだろうに、と思った。いい意味で、この男は他の人間とは異なっている。
「エルトベルクって……ここから三百キロは離れている街だぞ。一体どうやって来たんだ」
人間の使う数字の意味を理解するのは私にとって苦だが、三百キロというのは、人間が叫んで驚くべき数字らしい。真夜中から朝方までずっと貨物列車に揺られていたのだから、距離はそれなりにあるはずだとは思っていたが。
ユズリハは無賃乗車のことを知られたくないのか、男に尋ねられたきり押し黙ってしまっていた。私もエンジュも、ただ立ち尽くしているだけである。
「私たち、家出して……それから何も食べていないんです」
ユズリハが、ぽつりとそんなことを言った。いかにも悲しそうな表情だが、作られた、虚実の表情であることは明白だった。私も、そして白けた顔でくすぶるエンジュも、当然それを見抜いている。つまり、この男――意味もなく立ち塞がる、非常に対処に困る厄介な壁――への同情を誘うことで、ユズリハはこの停滞した状況を打開しようとしているのだ。この少女は、年齢に似つかわしくなく賢しいことを考えるものだと、私は妙に感心した。
「家出……」
男は、目の前にいるいたいけな女の子が、遠くの地からはるばると、得体の知れないポケモン二匹を引き連れて家出してきたのが信じられないようで、茫然自失となっていた。それから男は短い髪の毛を掻き毟りながら、的確な返答を言いあぐねている様子だった。その次に右手の親指の爪を齧ったあと、重ねた思案の先に思いついたのは、こちらでもなんとなく予想できるものだった。
「いろいろと大変なんだな、お嬢ちゃん……まあなんだ……とりあえず、俺の家に来るか? もちろんその二匹も」
心ある大人の人間が、家出した少女を見放すことなどできるはずがない。私たち一行は、人の良心につけ込むような形で、旅路での第一の訪問先が決まった。
前回更新からかなり時間が経っちゃいました;;
もっとスピードを上げていきたいですね。
感想等あればどうぞ↓
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照