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PRISMATIC 1

/PRISMATIC 1

writer:朱烏










 天から与えられた千年の命は終焉を迎えた。
 私の生き方が正しかったのか、あるいは間違っていたのか。
 私には未だにわからないし、ましてや他の者が判断できるものとも思えない。
 確かなことは、今、たとえようのない安らぎで満たされていることだけだ。

 終わりのない迷い道を彷徨しつづけ、結果、幾多の物語を紡ぐことになった。
 ここに記すのは、そのうちの一つにすぎないもの。
 傍から見れば、どこにでもある、誰でも経験するような人生の起伏のようなものだ。
 しかし、神が起こした小さな気まぐれに感謝して。二度とない彼らとの出会いを祝福して。
 なによりも、私が『生きた』しるしとして。大切に刻む。









PRISMATIC










邂逅 



 目の前を通り過ぎていく季節を、私はどれだけ見送ったのだろうか。過ぎ去った膨大な時間(とき)の中で、自分自身にどれだけのことを見出せただろうか。
 答えを出そうと思うことはない。必要のないことだ。しかし、ふっと心に浮かんでしまうものはある。――生きてきた時間と記憶の中身がつりあわない。
 流れる日々を漠然と過ごしていたわけではない。私のやることなすことすべてに意味があるわけではないが、私の意識の働くところ――何かしらの目的を持って起こした行動には意味はあるはずだ。汚れてしまった泉や湖は幾度となく私の力によって清められ、周辺に住むポケモンや人間たちを喜ばせた。怪我を負ってしまったポケモンがいれば、一日と経たないうちに完治させた。それが水の化身として与えられた使命だと感じたのか、それとも単純にさまざまなポケモンや人間たちの喜ぶ顔を見ることを至福としたのか、遠い昔の私が何を考えていたのかは知るところではないが、確かに存在(・・)したのだ。
 しかし私にスイクンとして何百年も生きていく自信は揺らぎ始めた。百年も経たないうちに何もかもが当たり前になってしまった。いくらこの世が無常といえど、変わっているようで本質は何も変わらないのだ。そのことに気づいてから、私の心の中を空虚が支配するようになった。
 色のない世界――彷徨いながら辿り着いたのは自分を持つ必要の場所……そんな世界だった。
 日常の生活に形の上では何の変化もなかった。相変わらず汚れた泉があれば浄化していたし、怪我の治療も相手が必要としているのであれば応じた。いつも当たり前のように起こる出来事に、当たり前のように対応していく。そこには中身のない『空疎』が在る。それすら私は何も感じなくなった。私自身が何も感じてないのだから私が完全に変化してしまっても気づくものは誰もいない。百二十年間、私の眼前は変わらない笑顔で満たされ続けており、耳には礼の言葉が溢れている。もちろん、それらが私に何らかの影響を与えることはない。
 皆が皆、私の内側の変化の兆しに気づかなかった。どうして本当の私をわかってくれないのだと叫んでいた時期もあったかもしれない。しかし考えてみれば単純で、周囲のポケモンや人間が私の変化を知る機会はあまりにも少なすぎた。日常的に会うのならともかく、一度きりしか出会うことのなかった者たちが私の前に姿を現すほうが圧倒的に多かった。加えて、私は心情を表情に出すということをまったくしなかった。……しなかったというよりも、できなかった。生まれ持った性分なのだからしかたないと言えば格好良かったのだが……単に苦手だった。
 私はとある森の中でひっそりと暮らしていた。深閑と静まり返る青い木々の中で、ただ佇む。木の葉の擦れる音、通り抜ける松籟(しょうらい)、地に水が吸い込まれていく様、熱を伴わないかすかな木漏れ日……五感すべてを集中させ、私を取り巻く空間を体中に染み渡らせる。色を失った世界で、これほど無意味な行動はないだろう。もとより、意味を求めているのかさえ定かではない。ほとんど無意識下で遂行されているようなものだ。しかし十数年もの間続いているからにはやはり理由があって一心不乱に感覚を世界に預けるのだ。『無常』に内在する『不変』に、少しでも鮮やかなものであってほしいと願っているのだ。今にも消えかかってしまいそうな心の奥底にある小さな欠片が欲している。
 命の灯火がもともと小さい生き物からすれば、それは贅沢な願いだ。むしろそんなことを考える暇などないだろう。だからこそ限られた時間の中、精一杯光り輝こうとするのだ。私はそんな生き方のできる皆が羨ましかったのかもしれない。そのような者たちと違い無限とも言うべき時間を与えられた私には、そのような生き方は許されなかった。否、そもそも私がスイクンとしてこの世に生み落とされたこと自体が間違っていたのか。ほかに私と同じ時間を与えられ生きているものがいるならば、果たして私と同じような生き方をするのかは確信が持てない。生憎、身近にそのような存在はいないので確かめることはできない。
 将来のことを思う。果てしなく先にある命の終わりまで、私はこの悶々とした思いを抱えたまま過ごしていくのだろうか。どれだけ考えても答えは出そうにない。今の私の状態が、肯定されるべきことなのか否定されるべきものなのか、それがまったくわからなかった。非難する者はいないが、認める者もいない。私の内側を誰も知らないのだから、未来永劫、そのようなものが現れることはないだろう。


 ……現れないと思っていた。


 私が世界に与える影響は確実に少なくなっていた。スイクンという種族は、大地を駆け巡り、現れた土地に北風を吹かせるのだという。私のことを水の化身ではなく北風の化身と呼ぶものもいた。しかし今の私には後者の呼称は相応しくないだろう。第一に、大地を駆け巡るということをしなくなった。北風を吹かせたことなど遠い昔の記憶だ。
 この森に住み着くようになって、世界との関わりはほとんど消えた。人間を目にしなくなって久しいし、ポケモンも一週間に二、三度ミネズミが走り去っていくのを見るだけだ。世間に干渉しないためにこの森にすむことを決めたわけではない。ただ、生まれ落ちた森で暮らそうと思い百年ぶりに戻ってきたらこの有様だった。……忘れていただけで、はじめから生物の呼吸することを許さない場所だったのかもしれない。私は何者も寄せ付けない雄大で荘厳なこの森になんとなく共感を覚えた。無論、私が他の者を寄せ付けない風格があるかどうかは疑わしいが。結果的に、この森に住むという決断は私の心が元に戻るきっかけを逸することと同義になってしまったが、後悔はしていなかった。満足もしていない。ただ、現状を受け入れただけなのだ。







 私はある日、少女と出会った。唐突な出会いだった。最後に人間を見たのが前の年の春だったので、少しばかり驚いたのを覚えている。しかし、私にとってあくまで彼女は一定の速さで流れる平坦な日常に出現した、微小の突起物のようなものでしかないはずであった。


 私は何の収穫も得られない例の行為をして、いつもどおりどうしようもない虚無感に身を委ねていた。何度ついたかわからないため息が、今日も空気に溶け込んでゆく。
 やがて私はふらふらと歩き出した。ここのところ移動するときは食料を求めるときだけだったので、この行動は日課の一部ではなかった。心の隙間が生み出した、気まぐれのようなものだった。今思えば、それは私とは違う本当の神が、私と彼女を巡り会わせるために立てた小さな(さざなみ)だった。
 私はしばらくの間森の中を、根無し草のように漂っていた。勿論目的などない。気まぐれが生んだ行動なのだから、あるはずがない。森の景物が変わらないのはこれまでどおりだった。どれぐらい歩いただろうか。私は軽く足に疲労感を覚え、立ち止まった。ちょうど止まった場所の十数歩先のところには泉があった。幾度となく訪れた、しかし最近はまったく来ることもなくなっていた泉だった。もう一度歩き出し、柔らかく危なげな土を踏みしめて、泉のほとりまで近づいた。私は少し首を突き出して、水面の下を覗き込むような姿勢になった。意外にも水の透明度は以前とさほど変わっていなかった。しばらくの間放置していたというのに、なかなか立派な泉だ。浄化しようかと考えていたが、やめることにした。
 私は泉を挟んだ向こう側に広がる森を見渡した。壮観な景色だが、文字通り飽きるほど目に焼きついた光景だった。泉に聳え立つ木々たちを逆さまにした像が浮かび上がっていた。しかしその飽きるほど見てきた光景に、どういうわけか(ひず)みが生じていた。永遠に決定されたその姿に、余分な成分が入り込んでいた。それは、沈み込むような暗い青緑の森の中で十分な存在感を示していた。真っ暗な夜空に浮かぶ一番星のような輝きはないが、はっきりと自己主張する鮮明な色だった。
 私はそれに吸い込まれるように、泉のほとりに沿って岸を歩いた。足が地面につくたびに、じわりと水が滲み出て、足の裏を濡らした。対象に近づくにつれ、だんだんと様子がわかってくる。どうやら何かが木に寄りかかっているらしい。もしやあれは……と思い歩みを早めると、案の定だった。
 人間……。長らく目にしなかったせいで判断に幾分か時間を要したが、間違いなく人間だった。その人間は、私がおぼろげな記憶の中で想像する標準的な人間よりもずいぶんと若い。世間で言うところの、子供だった。華奢で、どことなく不安定、そんなイメージを抱かせる少女だった。
 彼女はこの大きな樹の幹を背に、軽く膝を折り曲げて座っていた。身に着けている服は、洗練され、穢れを知ることが一切の罪であるといわんばかりに白かった。しかし私の印象に残ったのはそれとは違い異質の白さだった。顔、肩口から指の先、膝上から足の先、……露出している肌の部分。身に着けている衣服のもつ、冷たく鋭い純白とは違う、柔らかい、春の陽の光の持つ健やかな白があった。
 彼女は膝に怪我を負っていた。この森の中には道と呼べるものはなく、地面に大きな石が埋まっていたり、草どうしが絡まりあっていたりするので、彼女が転んでしまったことは容易に想像できた。
 私が少女に近づくと、彼女は垂れていた頭を上げた。落としていた視線の先に私の前足が映りこむまで、私が接近していたことに気づいていなかったようだった。彼女の視線はゆっくりと、私の前足から順に、胸、首、となぞり、最後に私の目を見据えた。そのときの彼女の表情は今でも忘れることはない。驚きと同時に、かすかな笑みが咲いていた。大きな黒い瞳の中に、私の顔があった。彼女と対象的で、私はずいぶんとつまらなそうな顔をしていた。泉が私の顔を映していたときには気づかないことだった。いつもこんな顔で毎日を暮らしていたのだろうか。
 彼女の反応は私の予想していたものとは異なっていた。たいていの人間は私と出くわせば、皆一様に萎縮する。人間よりも遥かに大きな体と力を持つ私に対して抱いた恐怖心からか、単なる畏怖の念なのか。いつか、私はどうやら大多数の人間に侵すことのできない神的存在だと認知されているらしいと知ることになったが、それが人間たちと私の隔てとなるならばそのような認識を取り去ってほしいと思うようになった。
 私は彼女の吸い込まれそうな双眸に見とれていたのか、彼女に近づいた肝心な目的を忘れていた。それを思い出すか出さないかのうちに、彼女は初めての言葉を発した。

「スイクン……」

 彼女もまた私が今まで出会ってきた人間と同じように私の名前を呼んだ。当然私の固有の名前ではなく、人間同士で使われる通名のようなものだ。
 私はまず行動を起こさなければいけないと思い、彼女の呼びかけを無視して、彼女の膝に前足を置く。彼女は不思議そうに、それでいて何が起こるのかというある種の期待と不安の入り混じった目で私を見つめる。
 この程度の傷なら一瞬で完治させることなどわけなかった。この傷を癒す力は、汚れた水を清める力を応用したものだ。生き物の体の主となる成分は水なのだから、力を自在に操れるようになればこれぐらいの応用はできるようになるのだ。勿論、体の中に水がほとんど存在しない一部の岩タイプや鋼タイプのポケモンなどの例外はいるのだが。四、五秒経った後、私は前足を彼女のひざから退いた。傷は完全に塞がり、残っていたのは流れ出た血の跡だけだった。

「凄い……やっぱり神様なんだ……」

 彼女は嬉々とした表情で傷のあった部分をさすった。私は彼女の言葉をいささか疑問に思った。私を神聖視していないはずなのに、多くの人間と同じように私を神様と呼ぶのだ。『神様』が彼女の中でどのような位置を占めているのか、私が理解するのには時間がかかりそうだった。

「やっぱり会いに来てよかった……」

 少女から発せられた言葉に私は耳を疑った。私に会いに来たというのか、この子供は? 何のために?

「……あ、もうこんな時間……」

 彼女は服の中から何かを取り出していた。正確に言えば、首に掛けていた何かを襟から服に入れていたらしい。何かの正体はわからない。生まれて百二十年、時には人間とともに過ごしたこともある私だが、初めて見る代物だった。ゆえにどのように形容するのが適当なのかははっきりしないが、特有の金属光沢を持つ円盤で、その円盤の端に長めの鎖が通してあり、それが少女の首に掛かっている。彼女はそれを手に取り、しばらく眺めていた。
 彼女はおもむろに立ち上がると、長く座っていたせいでついてしまった湿った土を払った。やはり白い服に多少の汚れも許されないのだなと思った。彼女は今一度背筋を伸ばして、私と相対する。それでも私のほうが彼女よりも目の位置は高かった。

「ありがとう神様。また会いに来るね」

 彼女は手を振って、森の奥のほうへ駆けていった。また転んで同じ膝を擦りむくのではないかと思ったが、その姿を彼方に消えるまでに認めることはなかった。
 私は不鮮明な意識のままその場に留まっていたが、はっと我に返った。
 無我夢中とはまさにこのことを言うのであろう。どういうわけか私は少女を探して走り回った。何かが私を突き動かしたのかもしれないし、そうでないかもしれない。
 長い間彼女を探したが、見つからなかった。まるで夢の中を堂々巡りしているようだった。そのうちに彼女を探す目的も忘れた。そしてもともとないものをを忘れたと言うのはおかしいことだと気づいた。
 私はいったい何をしているのだろう。幻でも見たのではないかというような気分に陥る。すべてを失くしてしまいたいような不気味な浮遊感がとめどなく私を襲ってくる。
 ……とにかく元いた場所へ帰ろうと思った。







 私は眠りにつくその瞬間まで、今日の出来事に思いを馳せていた。深閑とした闇の中で、少女の残像がゆらゆらと揺れる。振り払うべきか迷ったが、そのままにしておくことにした。たまには不安定な空間の中を溺れるまで泳ぐのもいいと思った。
 どうせ儚く消えゆくもの。どう足掻こうが行きつく先は同じ場所なのだから……。






短針のない土圭(とけい) 




 闇から開放された景色は、ひどくぼんやりとした、まるで時の流れ置き去りにされたように変わらないものだった。太陽は昇っているのだろうが、森自体が絡まった糸の塊のように蕪雑なので、光はまだ差し込んでこなかった。それでも穴がそこかしこに開く天井から空模様だけは確かめることができた。無論それはどうでもいいことで、たとえ今日の空が昨日よりも多く雲がかかっているところでどうするわけでもなかった。
 私は寝ぼけ眼のまま、食料を採りにいくことにした。目覚めて朝食をすぐに採りに行くのは、この森に住み始めて以来ずっと継続してきたことだった。
 何か問題があることといえば、昨晩はいつもの寝床で夜を過ごさなかったことだった。恥ずかしいことに、昨日は森を当てもなく放浪した挙句、少女を追いかけると言う理解不能な行動に走ったせいで、自分がどこにいるのかわからなくなってしまったのだ。湖の場所さえ見つけられなくなってしまっていた。私はどれだけ長いこと少女の捜索に精を出していたのだろうか。とにかく、私はほとんど変えることのなかった寝床の場所を移さざるを得なくなった。
 いつも食している実がなる木の群生の位置など当然わかるはずもなく、新たに食料が確保できる場所を探さなければいけなかった。それが想像を絶する辛苦となるのは身を以って経験済みだ。ずっと昔、生まれた場所に舞い戻るように再びこの森に足を踏み入れたが、木の実を口に含むまでに三日を要している。成程、どうりでポケモンがすみつかないわけだと妙な納得をしたのを覚えている。私は生物の棲まない森で、いちいち食料探しに骨を折ることがないようにできるだけ寝床は変えないようにしていたのだった。
 とりあえず散策し始めたのはいいものの、あてもなくただ歩き回るのは苦痛以外の何者でもない。それこそ昨日のように無我夢中で走り回っていたほうが精神的にも楽というもの。この広い森の中では、どれだけ視野を広げて嗅覚を鋭くしても限界がある。視覚情報の中には木の葉の色である緑と、木の幹や土の色である褐色しか存在していないため、目立つ色の木の実があればすぐにわかるはずなのだが……。
 太陽が南中し始めようやく森の中が明るくなってきたときには、私は疲れ果てて座り込んでいた。空腹感が余計に体を疲弊させる。都合よく木の実が落ちていたりはしないだろうかと考えたが、すぐに現実に引き戻された。そんなにこの森が優しいものならば、わざわざこんなことで苦労したりはしないし、ポケモンもす棲みつくだろうに。
 あくびが出た。不意に瞼が重くなる。空腹を紛らわすために体が起こした防御反応のようだ。幾分か気温が高くなったせいで単にうとうとしているだけなのかもしれないが。今回は体の欲求に妥協することにした。今空腹を満たさなくても死ぬわけではない。仮にずっと食事にありつけなかったとしても、二週間程度なら飢えで死ぬなんてことはないだろう。
 私は瞼を重力に任せて、しばしの休憩をとることにした。音のない森で、私の呼吸音だけが響き渡っているような気がした。





「神様、こんな時間に寝てるなんて暇なのね」

 私をからかうような軽快な声が聞こえる。幻聴にしてはやけに鮮明な気もするが、そういう類のものもあるのだろう。もっとも、幻聴など生まれてから一度も聞いたことがなかったので、鮮明も不鮮明もあったものではない。なんとなくそう思っただけだった。

「会いに来たよ」

 私を夢と(うつつ)のはざまから(すく)いだしたのは、幻聴と思い込んでいたそれだった。未だ残る強烈な眠気に邪魔されながらも開いた目には、少女の足が映りこんだ。私は寝ていたために伏せるような姿勢になっていたので、少女の顔を見上げる形になった。
 それともう一人……いや、もう一匹、面識のない者がいた。黄色とも黄土色ともつかぬ体の色をしており、体に似合わない大きな尻尾を抱えている。長めの耳とひげを持ち、額には五角形のそれぞれの辺をへこませたような模様*1がある。何より印象的なのは、その右手の三本の指で、細長く、先が丸くて大きくなっている金属製の何かを握り締めていることだった。
 確か、この種族は何度か目にしたことがある。……そうだ、超能力を操ることに非常に長けているポケモン、ユンゲラーだ。
 少女のそばにぴったりとくっついている様子を見ると、彼らはただの人間と野生のポケモンという関係ではないらしい。

「ね、本当にいたでしょう? これで少しは私のことを見直してくれた?」

 少女は興奮気味にユンゲラーに話しかけていた。当のユンゲラーは少女と対照的に冷静で、彼女を一瞥したあと、一歩私に歩み寄る。ユンゲラーの態度がやけに真面目くさって見えたので、このまま地面に伏せているのは失礼だと思い、立ち上がって居住まいを正す。
 昔から神と崇拝されているせいもあってか、少しでも自堕落な姿を見せるのは恥だという、どうにも奇妙な感覚が残ってしまっていた。
 ユンゲラーはまるで荘厳なものでも見るかのような目つきをしていた。あまりにまじまじと見つめ続けるので、自然と背筋が伸びる。
 穴が開いてしまうのではないかと思うほど見つめられた後、ようやくユンゲラーは口を開いた。

「昨日はお嬢様がスイクン様にご迷惑をおかけしたようで……非常に申し訳なく思っております」

 ……何を言うかと思えば、突然望んでもいない謝罪の言葉が登場した。私は彼に謝罪をさせなければならないことを少女にしてしまったのではないかと当惑する。

「いや、私は当然のことをしたまで……謝られる道理などまったくないように思うのだが」

 そう言うと、ユンゲラーは大きく首を振って私の言葉を否定した。謝りたくて仕方がないらしい。変なポケモンもいるものだと思った。

「いえ、私がお嬢様から少し目を離したばかりに、……森に迷い込んでしまい……、もしあなたがお嬢様を発見していなければと思うと私はどうなっていたことか……ああ、恐ろしい。想像したくもない。……スイクン様はお嬢様の命と私のくび(・・)を救ってくださったのです」

 私がユンゲラーを冷静なポケモンと判断したのは間違いのようだ。ユンゲラーは両手を広げたり頭を抱えたりと、やたらと大げさに身振り手振りを交えて話していた。それに彼らがどのような生活を送っているのかは知らないが、少女のことに加えてちゃっかりと自分の心配もしているのだから可笑しいことこの上ない。

「……感謝するのはそなたの勝手だが、些か勘違いをしているようだ。わたしは彼女が膝をすりむいていたのを治しただけで、そなたの言うような大それたことにはなっていない。それと、彼女は自分から私のことを探しにきたと言っていたが」

 ユンゲラーは横目で少女を見やった。そのときの目つきは、まるで親がやってはいけないことをしでかした子供を咎めるようなものだった。
 そして彼女は昨日と同じ、花の咲いたような笑顔を私に向けるのだ。

「だって、あんな屋敷に閉じ込められていては退屈なんだもの。少しくらい冒険したって罰は当たらないでしょう?」

 彼女にユンゲラーの望んでいると思われる反省の色は見えなかった。屋敷とは彼らの住んでいる場所のことだろうか。私は視線をユンゲラーのほうに移す。

「……彼女は私たちの言葉を理解するのか? ポケモンに人間の言葉を理解する能力が備わっていても、人間にポケモンの言葉を理解する能力はないはずだが」

「もちろん、お嬢様にそのような能力はございません。このエンジュがお嬢様にテレパシーで言いたいことを伝えているのです。なのでお嬢様が一方的にエンジュに話しかけていても、実は会話として成り立っているのですよ」

 ユンゲラーは持っていた金属棒のようなものの先端を直角に折り曲げた。念力か何かの類だろう。

「失礼だが、エンジュというのは?」

「申し遅れました。エンジュは(わたくし)の名前でございます。そしてお嬢様がユズリハでございます」

 一人称に自分の名前を使うとは、やはりこのユンゲラーは変わっている。

「本当に申し訳ございませんでした。お嬢様はこのエンジュが責任を持って連れてかえ、あっ」

 少女――ユズリハがそっとエンジュの後ろに近づき、持っていた金属棒を取り上げた。

二匹(ふたり)だけで会話しないでよ。つまらないじゃない」

 エンジュは飛び跳ねて金属棒を取り返そうとするが、彼女が高く掲げたそれに届きそうで届かない。多分「返してくださいませお嬢様」とテレパシーで伝えているのだろう。そんなエンジュが哀れで滑稽だったが、念力を使って取り返そうとしないところに彼女への配慮を感じた。

「いやよ。どうせすぐに連れてかえるとか馬鹿なお嬢様で申し訳ありませんとか言っていたんでしょう」

 いい推理だが、流石に馬鹿なお嬢様、とまでは言っていなかった。

「私が神様にお礼をしたくて来たのは知っているんでしょう? 何もせずに帰るなんて失礼よ」

 お礼? と首をかしげる間もなく、エンジュが私に説明してきた。飛び跳ねるのに疲れたのか、この短時間でずいぶんとやつれてしまったような印象を受けた。

「はぁ、はぁ……お、お嬢様はスイクン様にお礼がしたいとのことでしたので……何とかごまかして屋敷を抜け出してきたのですよ」

 エンジュの金属棒はさらに大きく曲がり鋭い角度を作る。無理やり曲げたというよりは、今の覇気をなくしたエンジュ同様に金属棒自身もくたびれてしまったというほうが正しいのかもしれない。

「しかし……私は十分すぎるほどの感謝の言葉をそなたたちから受け取っている。それ以上に望むことなど何もないし、むしろ申し訳なく思っているのだ」

 お礼などといきなり言われて困惑している旨を伝えても、エンジュは引き下がろうとはしなかった。

「いえ、そういうわけにはいかないのでございます。ここでお嬢様を満足させておかないと、どんなとばっちりが来るかわかったものではありません。スイクン様にまたも迷惑をかけてしまうことは非常に心苦しいのですが、どうかお嬢様のわがままを聞いてやってください」

 こうも懇願されてしまうと、断ってしまうのはエンジュ、ひいてはユズリハの気持ちを無碍にしてしまうようで、余計に申し訳なくなる。仮に私が群れの中で生きるポケモンとして生まれていたなら、無用な苦労を背負ってしまうような生き方をしていただろう。そんな自らのふがいなさを嘆いてかため息がひとりでに漏れる。
 しかし、お礼というのも気にはなる。今までも何度かもらったことがあるが、概して言えることは、ポケモンからもらうものは当たりが多く、人間から貰うものははずれが多いということだ。貰うものに当たりはずれをつけるのは褒められた行為ではないが、何しろ人間は私にとって不必要であるものを渡してくることほうが多い。当の本人たちは悪気があってやっているわけではないのだろうが、例えばご利益があるらしいお守りだとか不自然なほどに光を反射する宝石よりも、それこそ一つの木の実をくれるほうが断然ありがたいのだ。
 ……ユズリハが私に渡そうとしているものは、気にはなるがあまり期待はしていない。

「あった」

 ユズリハは私とエンジュがやり取りしているうちに、右肩からかけている袋(エンジュが言うには手提げというものらしい)から目当てのものを探し当てた。なにやらジャラジャラ、と絡み合う鎖同士が鳴らすような歪で心地よい音が聞こえる。察するに木の実ではないようなので、心の隅で縮こまっていた期待感を封印しておいた。

「これなんだけど……」

 彼女の手の中にあったものは、例の円盤だった。昨日彼女が覗き込むようにして見ていた、奇妙な金属盤である。

「本当は昨日渡すつもりだったの。でも神様の首に掛けてあげるにはちょっと鎖が短かったから、長い鎖に取り替えてきたの」

 彼女は私の前に立ち、両手で鎖の部分を握った。ちょうど円盤がぶら下がるような形で、それは軽く左右に振れていて、時々くるりと裏返る。そのとき初めて私は彼女が円盤を除く意味を知った。
 単なる金属の円盤だと判断していた部分は、それ自身の裏側だったようで、表側にはおそらく人間が使うであろう文字と、金色の針があった。それには透明な蓋がかぶせてあり、触れることはできないようだ。

「少し頭を下げて」

 何をされるのかと一瞬戸惑うが、どうやら彼女が首から掛けていたように、私の首にも同じように掛けるらしい。私は彼女の言われるがままに、頭を少しだけ低くした。彼女は背伸びをして、鎖を持つ腕を上方向へいっぱいに伸ばして、ようやく私の頭にある水晶(かざり)のてっぺんから鎖を通した。その際に円盤が私の鼻先に幾度となくぶつかったことは気にしないことにした。かすかに錆びついた金属のにおいが残る。
 鎖はうまく首に掛かったのだろうか。……首と同時に髪も巻き込んでいるようだが。

「む。これは……少々お待ちを」

 そう言ってエンジュは金属棒を強く握って力を込め始めた。金属棒の丸みを帯びた平たい先端があらぬ方向へと捩れてしまう。どうやら念力を強く発生させているらしい。私の髪は持ち上がり、頭のほうへと引き寄せられた。髪の上から掛けられていた鎖はすっと私の首元へ落ちて、ようやく正しく『首に掛かる』状態になった。エンジュが念力を止めて、宙に浮いていた髪も元の位置に戻る。

「うん、やっぱり似合ってるよ神様」

 彼女があまりにも目を輝かせるので、あとで鎖を噛み千切って捨ててしまおうと考えていたが、そんな気持ちも立ち消えになってしまった。期待通り(・・・・)の役に立ちそうもないものであるのに。いたたまれない気持ちになって、エンジュのほうに目をそらした。

「ふぅ……ところでエンジュ、これはいったい何なのだ?」

「これはまあ……時計というものでして、すでに想像されているかとは思いますがスイクン様には何のお役にも立ちません」

 はっきりと役立たずなものと断言されると苦笑いをするしかない。どうしてこんなものを受け取ってしまったのだろうと後悔の念ばかりが押し寄せてくる。

「あくまで人間が時間を知るためだけに作ったものでございますので……私のような人間のもとで暮らすポケモンならともかく、スイクン様のように人間とほとんど関わらずに生きているポケモンには縁のないものでございます」

 そこでエンジュは一度言葉を切った。金属棒が四たび曲がる。もはや金属棒を曲げることが一種の癖になっているようだ。

「しかし、どうか大切になさってください。それはお嬢様にとって何ものにも代えがたいものなのです。それをスイクン様にお渡しするということは、お嬢様がスイクン様に最上級の感謝を示されているということなのでございます。どうかご理解いただければ……」

 エンジュは私に不必要なものを押し付けて申し訳ないとすまなそうに頭をかきながらも、結局は、暗にユズリハの機嫌を損ねるようなことはするなと言いたいらしい。
 私は、はあ、と曖昧な返事をして一応は了承したものの、内心これからずっとこんなわけのわからないもののために首に重さを感じ続けなければいけないのかと鬱屈な気分になっていた。重さなど気にするほどのものではないが、拭いきれない違和が首に纏わりつく。

「そんなに大切なものを受け取るのは気が引けるのだが……ありがたく受け取っておくことにする。彼女にはありがとうと伝えておいてほしい」

 ユズリハに、私が不純な本心を隠してお礼を受け取ったと思わせなくなかったので、エンジュには念のため釘を刺しておいた。それでもなお少女は笑顔を絶やさずに話しかけてくるのだからかなわない。

 ほどなくして、ユズリハとエンジュという嵐は、テレポートを使ってまるで何事もなかったかのように消え去った。私には過ぎ去る嵐をただ呆然と見送ることしかできなかった。







 夜を迎え、文字通り嵐が過ぎ去ったあとのような静けさを取り戻した私は、しばらく置き去りにしていた空洞に体を預けた。大して心地よくもないのに、どうしても安堵感のようなものがつきまとう。ここが本来の私がいるべき場所なのだろうか。
 何も存在し得ない空隙の中心で、思考を何度も繰り返しては止める。やがて、、無秩序に五感に染みこんでくる色の無い欠片を、一つ一つ積み上げていった。大切なものを扱うように、それでいて(うずたか)く重なり続けるそれにはどんな感情も込められない。所詮時間を無駄に浪費しているだけなのだが、私には投げ捨てても投げ捨てても湧いて出てくるような、余りある時間を与えられてしまっているのだ。そもそもそれを責めるような者もいない。
 積み上がった生成物は、無色の燐光を伴って私の奥底にある小さな破片を照らそうとした。しかし、その力はあまりにも微弱で、願いむなしくひとりでに霧散してしまう。私は太陽の光の届かない深海に放り出されたような気持ちになった。決して哀しいわけではない。決して……。
 ――……。
 これが私にとっての安寧の場所……。
 ――……、…………。
 私は急に現実に引き戻された。……何かがおかしい。いつもなら何も考えることなく、何にも侵されることなく、本当に我を忘れてしまい没入してしまうのに、なせかできない。雑音が邪魔をしてくる。
 ならば、と意識的に傾注しようと試みる。雑音など無視し、私の、私だけの何もない世界を構築しようとする。
 しかし、できなかった。何かを(こす)り合わせるような気味の悪い不協和音が、鋭利な刃を以って私の世界をばらばらに切り刻んでしまう。切り刻まれた欠片を拾い集めても、ぼろぼろと崩れ落ちる。私は恐ろしい気持ちになった。いったい何が起こっているというのか。何が私の邪魔をするというのか。
 夜の空を見上げた。果てしなく続く闇の中に、銀色に浮かぶ月を見た。







 久しぶりに夢を見た。内容は昨日ユズリハとエンジュが私にお礼をするという件が現実とまったく同じように反芻されているだけであった。実に夢らしくない夢だ。
 目覚めとともに広がった景色は、そこはかとなくいつもより明るい。……どうやら目の覚めた時間帯がいつもより遅かったようで、いつも目にする深く暗い緑色の森は既になかった。
 さて、とおもむろに立ち上がると、首に違和を感じた。そして何度か耳にした金属同士の擦れる音。
 ああ、そういえば、と私の首からぶら下がっているものを見やる。ユズリハが私に贈った、人間が時間を知るために使うという円盤。おそらくエンジュの言葉がなければユズリハの屈託の無い笑顔は、嫌がらせの好きな下卑た人間のする笑みにしか見えなかったかもしれない。
 私はもう一度座りなおした。ユズリハが覗き込んでいた針や文字などがある円盤の表側を見るためだ。立っていたのでは、円盤はぶらぶらと私の体の下で揺れるだけで、見るためには円盤を地面に置くという作業が必要になる。私は草が乱れて生えている地面に無造作に置かれた円盤が裏返っていたので、鎖をを右前足で引っ掛けてひっくり返した。
 ユズリハに渡されたときになんとなく覗き見たもの。私の足先には、まだ私の知らない世界が広がっていた。
 円盤の中央から淵に向かって生えた何本かの金色の針。淵を沿うようにして刻まれた十二個の文字。何よりも奇異なのが、一番細い針が一定間隔で、止まる、進むを繰り返しながら右回りに回転するのだ。この円盤は生き物なのだろうか。それにしては口もなければ目も鼻も耳もない。なによりも生物としての温かみも感じられない。……もしかして、例えばエスパータイプのポケモンが使うような摩訶不思議な力がこの針を動かしているのだろうか。……きっとそうに違いない。そうでなければほかに説明のしようがないのだ。念力やサイコキネシスといった類の技が、そのポケモンの意識の範囲外でも対象物に絶えず作用し続けることを証明しなければならないが。おそらく私にはできない。
 確認できる針は三本ある。短時間で円盤上を一周してしまう細長い針。それよりもはるかに遅い速さではあるが、同じように右回りに動く、少しだけ太めの針。……そしてもうひとつ、ほかの針よりも太く短い針があるのだが、……壊れているようなのだ。ほかの針とは違い根元は固定されておらず、先はあらぬ方向を向いている。文字も刻まれていない白地の平面に横たわっているだけだ。振れば自由に盤上を彷徨う。わたしはエンジュの言葉を思い出した。

『……どうか大切になさってください。……お嬢様に……何ものにも代えがたい……。……にお渡しするということは、……最上級の感謝を示している……』

 もしや私は、ユズリハの何物にも代えがたいという代物を壊してしまったのだろうか。馬鹿な、それほど乱暴な扱いはしていないはずだ。しかもよりによって昨日の今日のことなのに。
 ユズリハの笑顔……上がった口角がみるみるうちに下がっていく様子がありありと想像できた。私の心の中で罪悪感の種が芽を出した。あろうことか私は少女の気持ちを完全に踏みにじってしまったのだ。もしエンジュがここにいたらなんと言うだろうか。あの奇妙な形の金属棒をぐねぐねと曲げながら、丁寧な言葉遣いで私に罵詈雑言を浴びせるかもしれない。その横で少女が死んだような目つきで私を見つめるのだ。恐ろしくなって身震いする。
 しかしよくよく考えてみると。おそらくもう二度と来ることがないであろう少女に、私が円盤を壊してしまったことなど知る由も無い。少しだけ冷静になれた。……そうだ、これはもともと私が望んでいなかったものだし、一度きちんと断ったのに半ば無理やり押し付けられたものなのだ。自分で自分を苛む道理などまったくない。私は悪くないのだ。
 だが、しかし、と相反する二つの言い分が葛藤を続けているうちに、いつの間にか長く少しだけ太い針は円盤の中を二周していた。結局私はいつもどおりに無駄なことをしていたようであった。おなかが空いたので食料を採りにいくことにした。

 ……。


 ……予想の範囲内だったとはいえ、今日も食料が見つからないとなると精神的につらいものがある。足どりはもう一匹の自分を背負っているかのように重い。体力もほとんど底をつき、私は突風で簡単に折れる脆い木の枝のようにその場でへたり込んだ。すっかり夜の帳は降りて、木々の梢が織り成す穴だらけの天井には輝く幾つかの星が張りついていた。同じように穴からのぞいている銀色の月も、心なしかいつもよりも輝きを増しているようだった。
 少女から貰い受けた円盤の針は、私が数え間違えてなければ、目覚めてから今までに十四周もしていた。飽きることなく一定のリズムで何度も同じところを回るなんて、私同様、相当時間を持て余しているらしい。もしこれが無生物じゃなかったら、多少は暇つぶしの相手になってくれたかもしれない。
 ……ため息が、ひとつ。
 やはり何かがおかしかった。私が関知しない微妙な部分、この円盤の上で動く針の正確無比さのように狂いの生じ得なかった部分が、少しずつずれてきている。このどうしようもなく胸が締め付けられる感覚。自分が自分でなくなってしまうのではないかという恐怖。こんなことは初めてだ。
 ……いや、違う。初めてではない。今までだって何度も何度も自身の存在に疑問を呈し続けていた。それに答えることを拒否したのは紛れもなく私自身であり、また忘却し強引に修正したのも私だった。それをすることで私は私を保っていられるのであり、これからも過ごし続ける無限に近い時間の中で普通に(・・・)生きることができるのだ。
 それが今は、なぜか忘却も修正もできない。寂寥感がとめどなく溢れ、その中で溺れることしかできない。どうしてこんなことになってしまったのだ? いつからおかしくなったのだ?

 ……。

 記憶の彼方から、何かが飛び出してくる。
 もやが一切かかっていない、はっきりしたモノ。
 眩しいくらい明瞭で、私の世界を破壊するものとしては十分すぎる原因だ。

 ……。

 ユズリハ……初めて彼女が私の目の前に現れてから、私の中で何かが変わった。
 ……なぜ? たかが一人の人間に。そんな出会いなら彼女だけじゃない、他の人間でも幾度も経験しているではないか。私を惑わす要因が彼女のどこにあるのだ?

 ……誰も答えてはくれない。

 今まで体中を満たしていた空虚なものですら、最初から何もなかったかのように消え去った。生まれて初めて、心が空っぽになってしまうことを味わった。







 ユズリハとエンジュが私の前に現れたのはそれから三日後のことだった。そのときの私は、奇跡的に発見できた実のなる低木に前足をかけて木の実をボトボトと落としているところだった。木の実にがっつく私を見てユズリハは、なんだか神様らしくない、と言った。当たり前だ。神様らしくない、ではなくて、神様ではない、なのだから。しかしそれを抜きにしても、私の行動はかなり滑稽だったのだろう。ユズリハもエンジュも必死で笑いをこらえようとしていた。私が「笑うな」と言うと、エンジュだけはすぐに静かになった。私は羞恥で体が火照るのを隠すように努めた。
 が、それは建前であり、頭の中ではまさしく混乱という二文字が相応しいような状態に陥っていた。
 既に私の中では、彼らとの関係は終了していたのだ。ユズリハがお礼をくれるという余計な出来事はあったものの、それが完了している時点で、私と彼らの繋がりは切れたはずだ。この三日間、私の堅く閉ざした世界に入り込んだ異物はひとつ残らず排除した。無論ユズリハに関しては痕跡でさえ跡形も残らないようにしたのだ。全ては『私』が未来永劫崩れないように……ただそれだけを願って。
 なのに、彼らの登場はまたもや私の世界を破壊し始めた。美しいほど漆黒に染まった環壁に白い亀裂が入る。まばたきをする間もなく、亀裂は一瞬にして広がり、音もなく崩壊していく。丸裸にされた私は、ただ深い深い光へと堕ちていくほかないのだ。



「前回もそうだったが……なぜそなたらは私の居場所がわかるのだ?」

 疑問だった。確かこの森に住みつく前に、人間がこの森を毛嫌いしているというのを聞いたことがある。森の面積があまりにも広大すぎて、入ったら最後、二度と帰ることはできないと言い伝えられているらしい。それゆえ私は数十年もの間ほとんど人間を見なかったのだが、彼らは明らかに暗黙の規則に逆らっていた。
 しかしそのようなことはどうでもいいことで、質問は核心を外していた。本当に聞きたかったことは、なぜ私の会いに来るのか、だった。

「エスパータイプの勘でございます。何度もテレポートすれば勝手にスイクン様のところへ行き着いてしまうのですよ」

 それはそれはたいそうな能力なことだ。当人たちにとってはさぞ便利なことだろう。だが私にとっては迷惑至極、そのまま森の中で迷ってしまえばいいのにと不謹慎ながら思った。

「神様、その木の実おいしいの?」

 まただ……屈託のない笑顔。眩しい……。私が揺らぐほどに。
 私は彼女を無視し、エンジュに話しかける。極力ユズリハが視界に入らないようにした。

「すまないが、帰ってくれないか」

 短い、簡潔な言葉。いろいろ含みを込めたつもりだったが、エンジュには理解できないらしかった。

「なぜです?」

 いちいち説明しなければならないのは億劫だった。理屈じゃない、体が彼らを拒絶するのだ。

「とにかく帰ってくれ。今はそんな気分ではないのだ」

「そんな……。お嬢様もここに来られるまでに相当な苦労をなさっているのですよ?」

 そんなこと、私の知ったことではない。勝手にそなたらの都合を私に押し付けるな。

「帰れ、と言っているのだ」

 私は無意識のうちに凄んでいた。エンジュの表情から焦りが見て取れる。

「し、しかし……」

 エンジュがまだ粘る意思を見せたときに、私の中で何かが切れた。

「口ごたえするな!! 聞こえないのか!? 帰れと言っている!! そなたらを見ていると頭が痛くなってくるのだ!! 帰れ!!」

 エンジュが一歩、後ずさる。

「帰れ!!!」

 一瞬だった。エンジュはユズリハの手をつなぎ、逃れるようにテレポートした。そのときの彼らの表情が脳裏に焼きついて離れない。エンジュはひどく怯え、その目は私を生物界のヒエラルキーの頂点に君臨する捕食者とでもみなしているようであった。

 対照的なのはユズリハだった。彼女はただ、私の怒号に純粋に驚いているだけであった。







 暗闇に浮かぶのは、端がわずかに欠けた月のみで、私を包み込むのは無音を司るもの悲しさだけだった。
 私は後悔していた。ユズリハとエンジュに乱暴な言葉をぶつけたことだけではない。自分の心に嘘をつけなかったことを悔いていた。心の中にある互いに矛盾する気持ちをうまく整理できていなかったかもしれない。
 あまりにも自分の心に正直すぎた。崩れていく世界を傍観することを許さない自分がいた。血眼になって零れ落ちる欠片を拾い集める自分がいた。
 今になってみると、確かめるのが怖かっただけなのだと思う。自分の存在する場所が桃源郷(ユートピア)であるのか、はたまた何者も近寄らない低次の場所である反桃源郷(ディストピア)なのか。私を包む世界が剥がれ落ちて、私のいる場所が後者なのだとしたら……。私の全てが否定される気がして、それがたまらなく哀しくなるのだ。
 『私』を保つために張った予防線は、いつの間にか私をがんじがらめにし得るものへと変貌していた。うすうす気づいていても、私はそれを見て見ぬふりをしていたのだった。



 エンジュとユズリハは三日と空けずに私へ会いに来た。当然のごとく私は追い返した。しかしいくら追い返しても、翌日、翌々日には私の前へ現れる。そのたびに私は以前よりも強い怒気をもって応対していた。
 まったく効果がないというわけではなく、エンジュに関して言えば、彼は明らかに私に会うことを拒んでいるようだった。当然の反応である。
 ところがユズリハは真逆とまではいえないが、エンジュとは違う反応を示していた。単純に驚いていることもあれば、微笑んでいるときもある。異常としかいいようがない。もしかして私の怒鳴る様に何かしら彼女を面白がらせる要素があったのかもしれないが、それ以前に私は彼女の目が怖くなっていた。
 私のもとへ訪れるたびに目の色は違っていた。私を観察する目、存在し得ない高次の場所から俯瞰する目、……とりわけ私が恐怖心を感じたのは、彼女の、何もかもを見透かしてしまうような目である。会えば会うほどその色は強くなっていき、そのたびに私の心は彼女の前へさらけ出されているような気がしてならなかった。

 私が諦めたのは、彼らが私のところに来て十二回目を数えたときのことだった。

「勝手にしてくれ」

 そのとき、確かにユズリハは笑顔だった。それは安堵から来た表情なのだと長い間考えていた。しかし、実際は違ったのだ。
 私は、ユズリハは私とは正反対の場所で生きているものだと思っていた。ところが、似たもの同士は惹かれあうというのは不変の真理であったらしい。彼女もまた、私と同じであった。
 そういえば、私はまだ彼女から貰った円盤をぶら下げていた。


夢と幻に…… 




 私が彼らに少しだけ気を許すようになって何が変わったのかと問われれば、ほとんど何も変わらなかった。彼らは私のところへ何かするために来ているわけではないのだ。

「エンジュ、ユズリハは何をしているのだ?」

 あまりにも彼らが静か過ぎて、私は静寂を破らん勢いでエンジュに尋ねた。どうにも分が悪い。
 ユズリハは、四角形で厚みのあるものを持って、それを開いていた。本というものである。本については、何度か人間と関わったときに見たことがあるので知ってはいた。ただしそれは二十数年前の記憶の引き出しの中で片隅に追いやられていたもので、長らくほこりをかぶっていたものである。

「……本を読んでおります」

 エンジュは幾分元気がなかった。なにしろ彼は計十一回も私に怒鳴られたのである。行けば怒鳴られるのをわかっていながら、ユズリハのわがままを聞くのは擦り切れる思いだったのだろう。恐怖心を植えつける気などさらさらなかったが、彼は私の前で必要以上に萎縮していた。もちろん「そんなに硬くならないでほしい」などと言う気は毛頭ない。責めるなら私でなくユズリハを責めるのが道理だろう。

「……本を読むなら何もここでなくてもいいだろう。なぜ彼女はこの場所に固執するのだ?」

「……お嬢様はこの場所ではなく、スイクン様に固執しておられるのでございます」

 薄々ではなく、はっきりと感じていたことである。私がここに存在するから、彼女もここへ来る。

「しかし私は彼女に対して何もしていないし、彼女も私に何かしてくるわけでもない。私とそなたらが一緒にいる意味などないのではないか?」

 エンジュはスプーン(ようやくわかったことだが、エンジュの持つ奇怪な形の金属棒はスプーンというらしい)を念力で捻る。これをやれば私の前でも多少は落ち着くらしい。少なくとも肩肘を張った様子ではなくなった。

「……お嬢様は自分の存在される空間(・・)にスイクン様がおられること自体が喜びなのです。だからスイクン様がお嬢様を気にかけられる必要はございません」

 なかなか理解しがたい思考だ。いったいユズリハの頭の中はどういう構造になっているのか。

「そういうものなのか?」

「嬉しくありませんか? 二度と自分には手が届かないと思っていた遠い遠いもの、夢幻(ゆめまぼろし)だと思っていたものがそばにある……お嬢様にとってはそれが至高の喜びなのでございます」

「私がその……夢幻の存在だとでもいうのか?」

「スイクン様に限ったことではございません……。普通の人間に手に入るものがお嬢様には何もないのでございます。しかしそれを理解してくれる人は誰もいない……むしろ手に入れられるものは全て持っているとすら思われているのです。傍目から見ればそう映ってしまうのかもしれませんが……それがどれだけお嬢様を苦しめているか……。だから……お嬢様が本当に欲しておられるものは全て夢幻なのでございます」

 ふと、ユズリハのほうを見やる。……静かな笑顔だった。その目には何を映しているのか……。

 やがて彼らは帰っていった。滞在時間としては、円盤の長い針が一周しただけとたいして長いものではなかった。



 夜、私は寝付けずにいた。眠りに落ちるか落ちないかのところで、不意に目を覚ましてしまう。そのたびにエンジュの言葉が頭の中で再生される。

『お嬢様が欲しておられるものは全て夢幻なのでございます』

 何度も何度も繰り返される言葉が、突き刺さってくるように感じた。まるで、ユズリハを憂い言ったのではなく、私に対して言ったかのような……。
 結局何度も再生されるうちにエンジュの言葉は薄れ、煙のように消えた。私はおもむろに立ち上がった。寝付けないのは仕方ないことだと割り切って、少し散歩することにした。

 新月である状態を抜け出してまだ間もない月に、森の中を十分に照らすだけの力はなかった。それでも私は視覚以外の感覚をたよりに、柔らかくぬかるんだ地面をゆっくりと踏みしめながら進んでいた。その間私は不思議なことを考えていた。ユズリハやエンジュが頻繁に来るようになってから、いやおうなしに彼らのことを考える時間が増えたが、それに比例して、ほんの僅かだが、別のことを考えるようになっていた。
 外の世界はどうなっているのだろう。もう私が知っている世界とはまったく違うものに変わっているのだろうか。それとも時を止めたように、私が知っているそれとなんら変わりないのであろうか。
 このような想念がぽつぽつと暗闇の中で淡い光とともに飛び出し、溶けるように消えていく。それはまさしく私の世界に発生したしみでしかなく、排除の対象であることは明白だった。しかし私にそれを振り払う気配は一向に現れない。なぜかわわからなかった。気まぐれということで片付ければ済んでしまうことなのかもしれないが、それが正解だとは到底思えなかった。
 私は静かに目を瞑った。森が作り出す闇とはまた違う、一切の光明が遮断された美しい世界が広がる。そこには光と陰という区別すら存在しない。何もない、『闇』という言葉すら必要としない。私は間違いなく、風の音も、淡い木漏れ日も、土の匂いも、木の実の味も、全てをそこに収束しようとしていた。望んでもいないのに、あたかもそれが最良の選択だと信じて。
 夜独特の肌寒い風が、今、私の中にある無色の塊を掠めた。風はそっと、私のそばを吹きぬけた。
 ともすれば見逃してしまうかも知れないような、薄い(あと)を残して。



 その次にユズリハとエンジュが私のもとへ訪れたのは、前回の訪問から二日後のことだった。そのときの私はいつもどおり無為に過ごしていて、その先に行き着く『微睡(まどろ)む』という行為に耽っていた。そのせいで私は彼らが来たことに気づかなかった。

「おはよう、神様」

 目が覚めて彼女に近づけば、開口一番これだ。
 彼女は根元が腐って折れてしまい横たわっている木の幹に腰掛け、持ってきた本を読み耽っていた。前回と寸分違わぬ振る舞いだ。

「すまないがエンジュ、彼女に私のことを神様と呼ぶのはやめてほしいと伝えてくれないか。私は神ではなくただの一ポケモンにすぎない。……ついでに言うと、そなたの様付けもやめてもらいたいのだが」

 ユズリハのそばで付き添いをしているエンジュに文句を言う。エンジュは見るからに困ったという顔だ。

「スイクン様にとってはそうなのかもしれませんが、お嬢様にとっては神様なのでございます。スイクン様がエンジュのことを一ポケモンだと思われて接しておられても、お嬢様は私をただのポケモンではなく執事として見ておられる……それと同じことでございます。そして、私の『様付け』は癖ですので直しようがございません」

 なるほどと納得しようとしたが、都合の言いように丸め込まれている気がしてならない。直せない理由もこじつけで、私がそれを気にしていることに気づかないふりをしている。

「……まあいい。ところでシツジとは何だ?」

「端的に言えば、主人の身の回りを何でもこなす仕事でございます」

 こんなふうに、自分の世界に没頭しているユズリハそっちのけで私とエンジュは他愛のない会話をしていた。エンジュもようやく怒鳴っていたときの私を忘れて、気軽とは言わないまでも遠慮そこそこで接してくれるようになった。
 お互いに自分自身のことを話す。エンジュはユズリハの執事となった経緯、普段のユズリハの様子などを話した。自分自身というよりはユズリハのことを多く話し、表では「お嬢様のわがままには辟易させられます」と言ってはいるが、本当は心からユズリハのことを案じているのだと表情でわかった。嘘を隠し通すのが苦手なポケモンである。対して私はというと、森にすみ始める前の出来事をつらつらと淡白に語っていた。それを「その頃(・・・)は楽しかったですか」と聞かれ、そう簡単に自分のことを口に出すべきではないなと思った。質問には「私にもよくわからない」と答えた。

「見て見て神様!」

 エンジュと話し込んでいると、少し離れたところにいたユズリハが、開いた本を私に向けて寄ってきた。相変わらず無邪気な笑顔である。

「……私、これを見て神様と会うことを決めたんだよ」

 ユズリハが指し示す頁には、私の全体像が描かれていた。湖面にいつも映し出される私の姿と寸分の狂いもない。端のほうにはおそらく人間が使うであろう文字も書かれている。
 ユズリハはその頁を自分に向け、書いてある字を読み始めた。

「……水の神、北風の化身とも云われるスイクンは、目にも留まらぬ速さで大地を駆け、またどんなに穢れた水でも一瞬で清める力を持つ。見ることは稀で、とある地方では安寧、豊穣、高潔を司る神として崇められている。神話ではエンテイ、ライコウ、そしてホウオウとともに登場し、各地で語り継がれている……」

 未だに私は大層な扱いをされているようだ。できれば私ではなく他のスイクンのことであることを願いたい。

「××年○○月●●日、私はスイクンを見ました。それはそれは美しい姿でした。追いかけようとしましたが、迷いの森に入ってしまい、近づくことはできませんでした。いつかまた見られるのでしょうか」

 急にユズリハの口調が変わる。本ではなく、まるで別の何かを読んでいるようだった。

「……これ、おじい様が残したメモ……見せてあげたかったな……」

 ユズリハは私を見ているようで、もっと遠くの、二度と手の届かない果ての果てを見つめていた。一種の憂いを孕んだその目に、私はとても大切な何かを失くしてしまうような不安を覚えた。ユズリハはそっと踵を返して、再び折れた木の幹に腰掛けた。

「……お館様が生きておられたら、お嬢様はどんなに楽だったことか」

 エンジュがぽつりと呟いた。

「ここではよくスイクン様に笑顔を向けられますが……エンジュはお嬢様のそのような姿を屋敷で見ることはほとんどありません……」







 澄みきった夜の訪れを、私はいつにもまして厳かな気持ちで迎えた。凛冽とした空気の中、やはり考えるのはエンジュの言葉であった。彼の言葉はどういうわけなのか、いつも知らないうちに頭の中で鳴り響いている。彼の言葉に特別な力があるのかもしれない。そうさせてしまう何かが。
 彼の話では、私の知っているユズリハはいつものユズリハの姿とはまったく違うらしい。彼女の笑顔を見られることは非常に稀で、何か黒いものにでも纏わりつかれているように暗いのだそうだ。彼女が信頼しているのは親や友達ではなく、ほかでもないエンジュなのだという。彼はユズリハが不安定であるのを支えるべくいつも寄り添っているが、その効果のほどの自信はないらしい。
 私はそのときユズリハの表情をうかがったが、とてもエンジュの話すユズリハの姿を想像することはできなかった。それこそエンジュが嘘をついているのではないかと疑ってしまうほどに。しかしエンジュの表情は紛れもなく悲しみで満たされており、疑うのは無粋なことだと恥じた。
 ユズリハとその家族は、彼女たちが住む町の中でも一番の資産家であるらしく、それがそのまま地位に結びついているらしい。彼女の両親はともに厳しい性格で、ことユズリハを育てることに関してはその厳しさが如実に現れる。エンジュはそれが彼女の両親の彼女に対する期待の表れだといっていたが、当の本人は不当な束縛を受けているとしか感じられないらしい。その影響で友達もあまりできずに、やがて暗い少女に成長していったのだそうだ。
 ユズリハは、私の想像を超えるところで膨大な闇を抱えていた。笑顔をかたどった仮面を剥がすと、無表情のまま頬に雫をつくっている。ユズリハは心を閉ざしているが、エンジュという存在にだけは小さく開放していた。
 ……私は思った。彼女の闇は徐々に大きくなり、やがてエンジュすらも支えきれなくなるほどになってしまうのではないかと。

『嬉しくありませんか? 二度と自分には手が届かないと思っていた遠い遠いもの、夢幻だと思っていたものがそばにある……お嬢様にとってはそれが至高の喜びなのでございます』

 ……そう、ユズリハは選んだのだ、私を……。今にも崩れ落ちそうな闇を支える役として。無意識で。そして本能で。

 私は初めて本気でユズリハに興味を持った。彼女が、私の知らない何かを見せてくれる……不思議とそんな気がしてやまなかった。







 三日と空けずに私のもとを訪ねるユズリハとエンジュだったが、今日は前回の訪問から五日が経過していた。しかも日の出ている時間帯ではなく、私がそろそろ眠りにつこうかというまさにそのときに訪ねてきたのだ。珍しいこともあるものだとエンジュに尋ねると、彼は、これからもそうなるかもしれません、とあくびをしながら答えた。秘密で屋敷を抜け出していたのがとうとう知られてしまったらしく、やむを得ず夜に来ることを選択したらしい。よく迷わずに来れたものだ。
 ユズリハは相変わらず本を持ってきていた。彼女は私の首に掛かっている円盤と同様、人間の技術の産物であるランプ(エンジュが教えてくれた)を木の枝に引っ掛け、そのランプが放つ光を従えて本を読んでいた。
 私はユズリハにいくつか聞きたいことがあった。私はそっとユズリハに近づいた。彼女の顔にはランプの明かりによって深い陰影が作られて、昼間に見る彼女とはまた違った印象を受ける。以前エンジュが言っていた彼女の『闇』が、僅かにだが可視化されたような……、今ならエンジュの言う屋敷でもユズリハが想像できそうな気がした。しかし、それはユズリハが向けてきた笑顔によって簡単に打ち消された。
 わたしは木の幹を背に座り込みうとうとしかけているエンジュを起こし、通訳を頼んだ。彼は寝ぼけ眼で、いかにも不安定そうな相槌で了承した。ちゃんとわかってくれたのだろうか。

「どうしたの、神様? 」

 純粋な疑問を私に投げかけてくる。私は逡巡した後、当たり障りのない話題を引っ張り出した。

「……本が好きなのか?」

 少し間が空く。エンジュがちゃんと仕事をしているのか心配になった。彼は目を閉じている。

「うん……大好き」

 エンジュのテレパシーが正しく伝わったのか、彼女は意味の通じる返答を返してくれた。エンジュを媒介にしてはいるものの、ユズリハに直接話しかけたのはこれが初めてだった。

「どうしてそんなに本が好きなのだ?」

 ユズリハは少し難しそうな顔をした。さして考え込んでいる様子ではなかったが、言葉を選んでいるようだった。

「……私の知らない世界がいっぱい広がっているからかな……」

 彼女の目はあの時と同じ……私が描かれている本を見せてくれたときの、どこか遠くを見ているような目をしていた。

「本は私の知らないことをいっぱい見せてくれるの。歴史とか、遠い外国のこととか、……ポケモンの名前だって全部暗記しているんだよ? ほとんど会ったことはないけれど……。家に飾ってあるたくさんの絵も同じように知らないことを見せてくれるけれど、本は文字だけだから、その分だけいっぱい想像もできるの」

 言い終えた彼女は満足そうな様子でいて、何か寂しいものを抱えていた。そう、彼女の抱くものは全て夢幻、永遠に満たされないものを背負っているのだ。
 しかしそれを私に見せぬかのように、彼女は明るく振舞う。

「今度は神様の番だよ? ……神様はどんな世界を見たことがあるの?」

 どんな世界……か。少なくともユズリハよりはたくさんの景色を見たり、人間と交流しているだろうとは思った。しかし、記憶はほとんど断片的なものばかりで、それらをかき集めてもユズリハにうまく伝えられるだけの量にはならなかった。……わかっていたことだった。
 果たして私は、どれだけ生きることに価値を見出していなかったのかに気づいた。

「……ごめんなさい。もしかして聞いてはいけないことを……」

「いや、そういうわけでは……」

 私は彼女に心配をさせるような表情をしていたらしい。以前の、ユズリハの瞳に映った私の顔を思い出した。私か彼女の言葉を(かぶり)を振って否定した。

「ただ……長いことここにいるものだからな……。そなたの本に書いてあったとおり、地面の続く限り走り回ったこともあるが……」

「思い出せないの?」

 真っ直ぐなユズリハの言葉が、そのまま胸に突き刺さった。痛みを伴わない傷が、どうしようもなくやるせない気持ちにさせる。彼女の言葉を否定して傷口を塞ぐ術もあったが、それをしなかったのは、彼女の前では『私』を守り通すことなどできやしないと諦めていたからである。

「……ああ……」

「そっか……残念ね」

 彼女は悩んでいる私よりもずっと淡白だった。私に向けていた視線は新たな本の頁に移され、また一つ、彼女は薄い紙を繰る。

「……いつか神様と一緒にいろいろなところに行けたらいいね」

 たびたび聞かされていたエンジュの文言から、おそらく彼女のこの言葉も夢へと消えゆくものの一部なのだろうと思った。……少なくとも彼女にとっては、だ。

「……そうだな」

 静かに肯定の意思を示すと、心がざわめき始めた。それを無理に押さえつけたのは、私の平穏すぎる無味な生活に終止符を打つことにほかならなかった。もちろんこのときの私に、可もなく不可でもない位置に停止している自分がどちらに転がり始めるのかはわからなかった。
 やがてランプの灯が小さくなると、ユズリハはエンジュを起こして、テレポートで帰っていった。半分寝ているエンジュのテレポートがしっかり彼らの家路に連れて行ってくれるかどうかが、気が気でならなかった。


旅立ちは月明かりの下で 




「……というわけでエンジュ、どうにかならないものだろうか」

「……ただでさえ四、五日に一回抜け出せるかどうかなんですよ? 今だって非常に危ない綱渡りをしているわけでして……いくらエンジュがお嬢様の身の回りの全てのお世話をさせていただいていると言っても、お助け差し上げられることには限界がございますよ……」

 この日は珍しく、というよりは、初めてエンジュだけで私へ会いに来た。ユズリハのほうは、このような辺境に来られるような体調ではないらしい。日ごろの疲れが溜まっていただけでたいしたことはないらしいが、心配ではある。

「そもそも、なぜいきなり森を出るなどと申し上げるのです?」

「正直に言って、私はどうでもよいのだ。ただ、ユズリハが私と一緒にどこかへ行きたいと言っていたからな……。そなたは五日前に私の言葉をユズリハに通訳したのを覚えていないのか?」

「ん……たしかにそのようなことを仰られていたようないなかったような……」

 半分寝ていた状態だったとはいえ、ほかのポケモンの数十倍働く頭脳を持つといわれるユンゲラーの脳もこの程度の記憶力ではそれほどたいしたことはないのではないかと思った。

「……でも確かに、お嬢様の様子がちょっと変わりましたね……。夜遅くまで本を読み耽って。……なぜに地図なども眺めるのかと思いましたが、そういうわけでございましたか……」

 エンジュは物憂げな表情で、深くため息をついた。たいそう大きな悩みの種を抱えてしまったとでも言いたげだった。

「……いくらお嬢様の申し上げたことだとはいえ、今回ばかりはいけません。これ以上私は責任を持てませんし、何かあったら私の首が本当に飛びます」

「……だめなのか?」

「だめです」

 即答だった。なるほど、ユズリハにほんの少しでも自由を手にさせてやる条件は、まずこの堅物の頭をどうにかしなければいけないらしい。

「そうか、残念だ。そなたには失望させられた。自分の保身とユズリハの自由を天秤にかけるような頭の悪いポケモンだとは……それとも私が買いかぶりすぎていただけなのなら、能のないポケモンに過度な期待をしたことを反省するが」

 挑発的な言葉が溢れるように出てくる私の口にも少々驚きを隠せ得ないが、それよりも見るからに顔が赤くなっているエンジュが今にも私を突き飛ばしてしまいそうな勢いでいるのに些かの恐怖を感じた。

「こ、ここ、ここっこのエンジュが、むの、むっ無能ですとっ!?」

 どのポケモンよりも頭脳が優れているといわれるケーシィ系統のポケモンに「頭が悪い」という言葉ほど屈辱的なものはないだろう。

「そうではないか。……心の底ではユズリハのことなどどうでもいいと思っているのではないか?」

 流石に言い過ぎの感はあった。エンジュがおそらく世界の誰よりも一番ユズリハのことを理解しているらしいことはわかっていた。あえてその逆を言うことでエンジュにもわかってもらおうとしただけなのであるが、冷静さを失っているエンジュに私の言葉の真意など推し測る由もなかった。

「たとえスイクン様であろうとも! 今の発言は許せません!!!」

 おそらく一瞬だったのであろう、エンジュがスプーンを構えたのと、私が危機意識から放ったオーロラビームがスプーンを吹き飛ばしたのは。弾き飛んだ凍りついたスプーンは、放物線を描いて地面に墜落した。
 エンジュのほうは、尻餅をついたまま動けなくなっていた。

「その頭では私に万に一つも勝てないことは考えられないのか?」

 本当に私はおかしくなっていた。他のポケモンに比べて圧倒的な力を持っていると自覚しているが、それを振りかざしたことなど一度もなかったというのに。完全に意識がユズリハへの思いに囚われてしまっている。

「うう……私は……」

 私がやったことだとはいえ、エンジュが目に涙を浮かべているのを見るのは胸が刺されるような思いだった。不本意ながらエンジュに手を上げてしまったという後悔、しかしそれに勝るユズリハへの思いが私を留まらせることをしない。

「すまない、エンジュ。……そなたがユズリハのことを一番に考えていることは知っている。ただ、今のままではいけないというのも十分にわかっているはずだ」

「……エンジュだって何度&ruby(こいねが){希}ったことか……。しかし何度願えども届きません……。所詮エンジュもお嬢様と同じ、夢幻に囚われているのですよ……」

 私はせめてもの贖罪として、先ほどの攻撃で傷ついてしまったエンジュの腕を癒した。しかしそれもエンジュの心を癒すまでには至らない。

「……情けないことです。何のためにお嬢様に仕えているのかわかったもんじゃありません……」

「……今度は届くかもしれぬぞ?」

「根拠などないでございましょうに……」

 エンジュのため息はその空気に質量を溶け込ませていくようだった。エンジュが心にずっと溜め込んでいた澱が私の中にも深く沈みこむ。

「やってみなければわからないではないか。その屋敷とやらから抜け出すことができるなら、この森でなくたって連れて歩けるということだろう?」

「お嬢様に家出させろとでも言うのでございますか……」

「ユズリハがそうしたいならさせてやればいいではないか」

 エンジュはスプーンの先の丸みを帯びた部分をじっと見つめていた。その目は何かを懐かしむようであった。気のせいかもしれないが……その瞳の中に、見たことのあるはずがない、幼い頃のユズリハが映っていた。







 エンジュが去った後、私は記憶の引き出しの開け閉めを繰り返していた。中身はどれも霞んでいて、消えてなくなってしまっているものもあったが、じっくりと想起していれば意外に出てくるもので、ユズリハに見せるならばどんなものがいいかとあれこれ選別していた。ずっとないと思っていたのはただの思い込みだったのであろうか。……あるのは知っていて、見えていなかっただけだろうか。どちらであれ、ユズリハに出会う前と後の私では大きく変化していることに変わりはないが。
 ……可笑しかった。私自身がユズリハにすべてを変えられることを拒んでいたのに、いつの間にか受け入れ、立場が逆になってしまってすらいるようだった。この森に住み始めてからの二十数年間が、一気に吹き飛んだ。
 ……盲目になることは、何よりも怖い。







 薄暗い森の中ですら白んでしまうような月の光り輝く夜に、私は慣れ親しんだ森を出ることにした。決して捨て去るわけではなく、少しの間ユズリハに付き合って、また戻ってこようと思っていた。
 前々からユズリハが、「屋敷には北東に進めば行けるよ」と言っていたので、木々の隙間から辛うじて顔を出している北極星をたよりに歩みを進めた。夜風が光りながら私の髪をなびかせた。ときどき走ったりして、その風を楽しんだ。といえば聞こえがいいが、走らないとユズリハが指定した時間に間に合わない。ユズリハが、「忙しい神様だね。もっと余裕を持って行動しないと」と笑うのがありありと想像できた。
 首からぶらさがっている円盤を見やる。例によってわざわざ地面に置かなければ見ることが出来ない。……月が昇りきるまでに長針が一周といったところか。やはり歩いていては遅くなってしまうと再認識して、もう一度地面を強く蹴った。
 今一度、なぜここまでユズリハが私を突き動かすのかを考えた。どこにでもいる人間の一人であり、特別な力を持っているわけでもなければ、私に所縁(ゆかり)があるわけでもない。エンジュにユズリハの境遇を聞かされてからは彼女の影がより一層私の心に焼き付けられたが、それ以前から度々彼女の顔が浮かんできた。その明確な理由付けができないのがもどかしかった。ただの気まぐれで、私の心へ無自覚的な限界が忍び寄り、それに気付いたときにちょうど私の目の前へと現れたのがユズリハだったのかもしれない。……結局のところ理由などどうでもいいことだと思った。ユズリハが来て、私が変わった。ただそれだけなのだ。
 あまりの森の蕪雑さに辟易しながらも、道なき道を走り続けるとようやく世界が開けてきた。黒々しい景色が綺麗な蒼い夜空に染められていく。長い間忘れていた光景だった。
 同時に、黄色い光がぽつぽつと現れ始める。星とは異なる、自己主張の強い色だ。人間の作る町の明かりだろうが、昔に比べて数が増えているような気がした。やはり二十年以上もあれば多少は変わるものだとしみじみ思う。
 森を出ると、地面は起伏の少ない柔らかな土に変わった。そこかしこに畑があって、土から僅かに顔を出している小さな芽には露が垂れ、月が放つ銀色の光によってよりその煌きは確かなものになる。人間がいつも動き回っている跡であり、また命の灯火が静かに揺らめく尊い風景だった。
 懐かしい外の世界のさまざまなものに目移りさせながら、遠くの人工光の密集する場所へと向かう。しかしながら、具体的にユズリハ、エンジュと落ち合う場所を決めていない。ユズリハたちがこちらにきても違いはないのだが、一応『旅』と題している以上、エンジュが緊急時に使うテレポートをむやみやたらに使うことは避けたいらしい。さらにユズリハ曰く、森に入るとかえって旅程距離が長くなってしまうのだそうだ。
 エンジュは、「町に入ればわかります」と言っていたが、何がわかるのだろうか。私はユズリハたちの住む町に足を踏み入れたことがない。……あるかもしれないが、覚えていない。最悪の場合、今晩中にユズリハたちに会えないで森へと帰る羽目になるのではないかと漠然とした不安が頭にちらついた。
 町明かりが近づくにつれて、走る速さも遅くなっていった。遠くからではわからなかった町並みの壮観さがそうさせたのかもしれない。煉瓦造りの家は一軒一軒が見下ろすようにそびえたち、街灯によってうっすらと照らし出される様は今まで見てきた町にはない光景だった。あんな城紛いの建物から泥仕事をする労働者が溢れてくるのは想像できなかった。人間というのは少し場所が変わるだけでいろいろな暮らし方をするのだなあと妙に感心する。
 この暗がりでもしっかりと町の輪郭が認識できるような距離まで近づくと、町の入り口が見えた。町並み同様、なかなかたいそうな門が立ちはだかっている。太い煉瓦製の柱が二本あり、鉄格子の観音開きの扉が文字通り頑丈に封鎖していた。回り込もうにも、どうやら町全体が堀に囲まれているようで、しかも壁まで備わっている。こうなったら町に入る方法は一つしかない。

「ふぅ……久しぶりだな」

 しっかりと門を見据えて地面を蹴った。蹴る。蹴る。駆ける。風のように。門は目の前に迫った。後ろ足に力を入れる。跳べ!

「なんだ!?」

 門を飛び越えたと同時に、人間の声がした。……どうやら門番がいたらしい。

「ポケモン!?」

 幸運にも門番は一人しかいなかった。着地した瞬間にすばやく振り向き、ためを作らずにすばやくオーロラビームを打ち込む。人間相手に手荒なまねはしたくないが、せっかく寝静まり人間のいない町の中で騒がれたくはなかった。真夜中には人がいないので安心して町に来いとエンジュは言っていたが、門番のことくらい計算に入れておいてもらわないと困る。
 気絶した人間を横目に、私はユズリハとエンジュを探し始めた。実際に町中に入ると、森とは違う種類の壮大さに気圧されそうになる。とりわけ目を引いたのが、門から何十歩か進むと見えてくる巨大な噴水だった。町の象徴となる噴水というのは、その大きさや意匠、水の描く軌跡の華やかさがそのまま町の豊かさを表すのだというのを聞いたことがある。単なる見栄とも取れるだろうが、それを差し引いても余りあるほどの立派な噴水だった。

「神様ー!」

 聞き覚えのある声が、静かにこだまする。ユズリハは、噴水を囲む縁石に腰掛けていた。エンジュも付き添うようにして突っ立っている。「町に入ればわかります」の意味がなんとなくわかった。

「お疲れ様! 門を飛び越えてくるなんてさすが神様!」

 今から家出をするという興奮も手伝って、ユズリハはいつにも増して気分が高ぶっているようだった。反面エンジュの顔には苦悩が色濃く出ていた。エンジュはもっと物事を楽観的に考えることは出来ないものか。

「そうだ、神様、あれ……」

 ユズリハが噴水のほうに指をさす。改めて眺めてみると、白を基調とした彫刻のような造りに感心する。噴水そのものよりも、人間が実用性もない、極端に言えば生活に必要のないものに力を入れることが理解できなかった。おそらく人間にしかわからないことなのだろう。
 例えば、はじける水に隠されてしっかりと全体像が把握できない彫刻があって……? あれはまさか……

「気付いた?」

 そこには私がいた。灰色がかり、少しひびも入っていて、ある程度の年季を感じさせる。手の込んだ、等身大の彫刻だった。不意に全身が痒くなるような思いがした。

「おじい様が建てたんだよ」

 地方によってはスイクンが守り神として祀られているのは知っているが、まさかここにもあろうとは。しかも明らかに原因が私自身であり、望みもしない影響が明白な形で出てしまっているなんて。急にこの町全てに申し訳なくなり、心の中で気絶させてしまった門番に謝罪した。

「……感傷に浸るのはほどほどになさって、早くここを出ましょう」

 エンジュのまともな意見に私もユズリハも向き直る。ユズリハにもテレパシーで同じようなことを言ったらしい。

「ふむ……で、目的地は決まっているのか?」

 私は今の今まで目的地を聞かされていなかった。ユズリハが一人で全て決めるらしいが、それを知らせてくれない限り旅は始まらないのだ。しかし……

「あ、行き先はまだ決まっていないわ。決めてしまうとつまらないもの」

 呆気にとられる。先が思いやられるとはまさにこのことであると、思わずユズリハの顔を凝視してしまった。当の本人はそれが楽しいらしく、いつもに増して口角が上がっていた。思わず自分の顔がほころびそうになるのを抑える。エンジュは初めからユズリハの考えがわかっていたようで、私のような驚き方はせずにふう、と息をついただけだった。決して悲観しているのではなく、ユズリハの身を危うくさせるようなことは絶対にしないという執事らしい決意が見えた。
 ユズリハが腰を上げた。彼女の陰に隠れ地面に下ろされていた手提げカバンが出現する。いつもユズリハが手にしている手提げカバンだが、いつもよりもずっしりと重たそうで張り裂けそうな様子である。彼女なりに旅の準備をしてきたのであろうが、ちょっと放浪するだけなのにそこまで物を詰め込まなくてもいいのではないか。

「行くよ。はい、持ってちょうだい」

 ユズリハは突然歩き出したかと思うと、重そうな荷物をエンジュに一方的に押し付けた。「そんなあ……」と、ユズリハに送られたであろうエンジュのテレパシーが私にも漏れ伝わってきた。つくづく不運な役回りだなと苦笑するが、エンジュは顔にこそ出さないもののまんざらでもないようである。
 兎にも角にも、こうして私たち一行は出発した。これといった波瀾もなく滑り出しは上々であろうが、行き先を決めていないと言ったユズリハがしっかりとした足取りで迷いなく歩む姿に、逆に不安感を覚えてしまう。いったいどこへ行こうというのか。それを聞くのは無粋な気がして、戸惑うことすら憚られた。エンジュはその貧弱な体では荷物を持って歩くことなど到底出来ないので、念力に頼りきりである。そのためかユズリハのことを気にする余裕がない。完全に執事意識が欠如している。
 町中は不気味なぐらい静かで、聞こえてくる音といえばユズリハの白い靴が地面と擦れる音とエンジュや私の足音ぐらいだった。その気になって耳を澄ませば、皆の息遣いさえ聞こえてくる。私の住処である森とは違う、開けた闇が町全体を包み込んでいた。まるで異世界にでも飛び込んだかのようで、得体の知れないものに体が蝕まれていく気分だった。しかしそれも徐々に爽快感に似たものに変わって体中を駆け巡る。生まれて初めての経験、そう思っていた。
 しかし、そうではないのだ。遥か昔、まだ世界が鮮やかに彩られていた頃、私は確かにこの感覚を自らの喜びとしていたのだ。……長い年月をかけて小波に侵食されていく海岸の如く、気付かぬ間に崩れ去っていくことを是としたのは果たしていつのことだったか。

「何を考えていらっしゃるのですか?」

「ちょっと……な」

 エンジュの問いかけにはっきりと答えられるようなことは何一つ考えていなかった。

「あまり難しいことを考えすぎると体に毒でございますよ」

 それは私ではなくエンジュ自身に言い聞かせなければいけないような気もするが。頭脳の容量が違うと言われてしまえばそれまでだが……殊エンジュに関しては当てはまらないのではないか。もちろん本人に言うつもりはない。怒られてしまう。

「今日も星が綺麗ね」

 脇目も振らずに歩き続けるユズリハがようやく声を発するが、ユズリハ自身が返答を求めていないようであった。私もエンジュも頷いて同意の意思を示したものの、前を歩くユズリハには見えていなかった。
 今日の夜空は「満天の星空」という言葉以外では形容しがたいほど美しかった。空の存在を微量に確認できるだけの閉ざされた森は、確かに長い間私に安寧をもたらした。しかし、何か大切なものも奪ってしまった。今の私にとって必要な大切な何かを。
 かなりの距離を歩いたと思ったが、相変わらず前後左右の景色は「高くて煉瓦でできている人間の住居」で統一されていた。何度も十字路に差し掛かり、横道に入ればまた違った景観が現れるのかもしれないが、ユズリハが目指す場所は道をまっすぐに突き進んだ先の先にあるらしい。飽きたわけではないし、森で過ごした時間に比べれば多少景色が変わらないことなど微々たる問題だが、やはりユズリハの真意が見えてこない以上不安は増すばかりだった。
 門での一件以降、人間と一切出会わないのもその一因だ。ユズリハがこんな時間帯に外を出歩いているのはもちろん秘密であるから、会わないに越したことはないのだが……。この町には夜間外出禁止令でもあるのだろうか。

「エンジュ、ユズリハにどこに行くのか聞いてくれないか」

「……無駄だとは思いますが」

 渋々ながら、エンジュはテレパシーでユズリハに話しかけた。私と違い、少しの期待感も抱いていない表情だ。

「秘密だよ」

 予想の範囲内とはいえ、落胆を禁じえない。ユズリハは悪びれる様子もなく、その腰まで届く長い髪をか細い指にくるくると巻き付けていた。

「でも、もうすぐ着くから」

 それなら悲観することはないと、少し元気になった。が、対照的にエンジュの表情は険しくなった。悪い予感がするのでございますと私に耳打ちしてくるのではないかと思った。

「あまり難しいこと考えると頭が破裂するらしいぞ?」

「おちょくらないでください、スイクン様」

「エンジュが言っていたことではないか」

「頭が破裂するなどと申し上げたことはございませんが……」

 エンジュはこの町に住んでいるので景色に興味のある風ではなく、ユズリハ同様手遊(てすさ)みをしていた。爪の先でスプーンを回すことの何が楽しいのだろうか。暇つぶしなら微妙に変化していく星空を眺めているほうが有意義だ。
 それからしばらく無言の時間が過ぎた。ユズリハは自らの髪の毛を弄りながら、エンジュはスプーンで遊びながら、私は空に見入りながら歩いた。三者三様に興味を移ろわせながら、ようやくユズリハの目指す場所を知ることとなったのだ。
 永遠に続くのかと思わせるような一様な景色は一瞬途切れ、目の前には巨大な壁が出現していた。

「これは……」

 見上げても壁の高さはわからない。街灯の明かりが一段と暗く、天辺を照らすまでには至っていないのだ。

「神様、こっち」

 ユズリハは壁に沿って右に歩き始めていた。何かを探すように、左手で壁を触りながら私についてくるようにと促した。私の後ろをついてきていたエンジュからため息が漏れる。今度は純粋に不安だけを感じているようだった。反対に私はこれから何が起こるのだろうかと胸を躍らせていた。無意識のうちに笑みがこぼれる。

「……あった。ここに入るよ」

 ユズリハが消える。壁伝いに歩いていたユズリハは、突如現れた長方形の四角い横穴に滑るようにして入っていった。どうやらこの壁は巨大な建物だったらしい。ここはその入り口であるわけだ。私も同じように入ろうとして、ふと後ろでエンジュが立ち止まっていることに気付く。

「どうした? 来ないのか?」

「……いえ」

 先ほどからエンジュの足が進んでいないとは思っていたが、ここにきてそれが顕著になっていた。もしかしたら、この建物は足を踏み入れてはいけない場所なのであろうか。それならエンジュの気持ちは窺い知れるが、私自身は足を止めよう、ユズリハを呼び戻そうという気にはならなかった。
 エンジュの足が動くのを確認して、私はユズリハに続いて入り口をくぐった。建物の内部は得体の知れない魔物が巣食っているかのような仄暗(ほのぐら)い雰囲気を醸し出していた。ところどころに立っている柱に掛けられたランプが何とか辺りに纏わりつく不気味さを排そうとしていた。空間はとても広く、まるで入って来た私たちを迷わせようとしているのではないかと思うほどだ。
 ……察するに、これは倉庫だろう。山のように積まれた干し草がそれぞれの居場所で静かに眠っていた。草の独特な匂いが鼻腔をくすぐる。干し草の他にも、おそらくこの町の畑で取れたであろう収穫物が、自らの出番に向けて待機している。
 もしや、と思った。私の予想が正しければ、エンジュがここに入ることを渋ったのも頷ける。
 ユズリハの目指す向こう側に、光が見えた。あれが出口であり、この町で見たどの光よりも強いものだった。そして聞こえてくる音。自然のものではない、人間が作り上げた技術の英知の音。

「これが私たちの旅の第一歩だよ」

 入り口とは反対側に位置していた出口から開ける世界は、私の想像したとおりであった。今ここで、蒸気機関車の最終車両と対峙している。なかなか思い出せずにいた事柄のうち、蒸気機関車は珍しく鮮明に記憶に残っていたものだった。乗ったことはもちろんない。当たり前だ。
 ここは倉庫と駅の両方の機能を司る建物なのだ。人間は自分たちだけの集落に留まらず、他の地域と物や人を交流するようになった。百年前には見られなかった光景だった。

「エンジュ、ユズリハに正気かどうか聞いてみてくれないか」

「は、はい」

 時々鳴る汽笛の音や、貨物の中で人間が作業をしている音に遮られてしまい声がうまく届かない。目の前で出発の時を待っている派手な機械に圧倒されて声が出なかったのかもしれない。しかしそれ以上に、ユズリハがこの貨物列車に私やエンジュごと乗せて旅に出ようという現実離れした意志を持っていることに驚きを隠せなかった。私が閉ざされた森という巣を破り出るのと同じように、ユズリハもまた許されざる方法でこの町を出ようとしたのである。それがユズリハの覚悟であり、自らを雁字搦(がんじがら)めにしてきた周りの環境への反抗手段であるならば……それを私が無碍にしてしまうことなど到底ありえないと思い至る。

「……エンジュ、やはりさっきの言葉は伝えなくてよい。行こうではないか」

「しょ……正気でございますか……」

 これで正気であるわけがない。野生のポケモンが貨物列車に乗って旅をするということなど誰が信じようか。神話にでも語り継がれるのではないかというような所業だ。
 ユズリハが私に笑顔を向ける。もう後戻りなど出来ない。これがユズリハを幸せにする道だと信じて走りきるしかないのだ。

「出発進行!!」

 遠く離れた先頭車両のほうから号令が告げられる。今までよりも一番力強い汽笛が長めに鳴った。貨物列車が轟々と音を立てながら車輪を回転させ始める。

「エンジュ、一番後ろの車両の中にテレポートして!」

 ユズリハが声を張り上げた。機関車の音に負けないようにと精一杯出した声だった。しかしエンジュは動こうとしない。

「エンジュ、何をしている!? 間に合わないぞ!」

 私も同じように声を張り上げた。エンジュは目を伏せたまま、スプーンをかざすことすらしない。ゆっくりと列車が離れ始める。

「何で!? 早くして! 間に合わない!」

 ユズリハがしびれを切らして、限りなく叫びに近い声をあげる。ここまでエンジュが非協力的だとは思わなかった。エンジュ自身が踏ん切りをつけていないのだ。

「エンジュ! またこいつを喰らいたいか!?」

 また脅しという手段を使うのは躊躇われたが、仕方なしにオーロラビームのエネルギーを口内に溜め始めた。
 ……それが効いたのかは定かではないが、次の瞬間には景色がガラリと変わっていた。ガタゴトと揺れている箱舟の中に、全員足をつけたのである。薄汚れた天窓から差し込む月明かりが、私たちにかすかな輪郭を形作る。

「もう……後には引けませんね。覚悟を決めさせていただきます」

 エンジュの所信表明で、ついに全員の意志が統一された。

「エンジュ、ありがと」

 ユズリハが安定しない足取りでエンジュに近づくと、その頬に口づけをした。結局エンジュがユズリハの最大の理解者であると、彼女自身が一番理解していたのだ。おそらく報われることなどほとんどなかったであろうエンジュは、このユズリハの行為によってひと時の安堵を手に入れるのである。私はいつまでもお互いに寄り添いあってほしいと密かに願うのだった。
 倉庫から運ばれてきた干し草が&ruby(うずたか){堆}く積まれているこの車両で、それぞれが自分の空間を作って寝床を作る。しかし思うように自分たちの居場所を確保できず、仕方なくみんなで寄り合って寝ることにした。ユズリハとエンジュが私の体を枕にして寄りかかってきただけではあるが、それでふたりとも満足ならばよしとしよう。
 こうして私たちの旅は始まった。文字通り前途多難であるが、それも含めて旅なのだ。ユズリハが何を考えて、何を見せてくれるのか。揺れがひどく寝付けない中、ふたりの体重を感じながら行く先を思った。












to be continued...


えっ、無賃乗車?? ……みんな真似しちゃだめだよ?

最終更新日 11/03/30



次→PRISMATIC Ⅱ ?



感想等ありましたらどうぞ↓

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 続きが気になります。のんびり待ち続けますので頑張ってください。
    ―― 2010-11-28 (日) 02:05:09
  • 伝説のポケモンらしい重めの心理描写が印象的でした。
    やはり普通のポケモンとは比べ物にならないくらいに長い時を過ごしているのでしょうね。
    スイクンにとって流れゆく日々は変化のない空虚なものにしかならなくなっていた。
    そこへ現れた人間の少女がどのようにスイクンの心を動かしていくのか。
    続き、楽しみにしてますね。
    ――カゲフミ 2010-11-28 (日) 20:29:48
  • >名無し様
    更新が遅くなるとは思いますが、気長に待っていただければ幸いです。

    >カゲフミ様
    今回はずっとスイクンの心の変化を中心に書いていくつもりなので、そこを読んでいただいたのは嬉しい限りです。
    スイクンと少女の掛け合いを楽しみにしていてください。

    期待に添えるよう頑張ります。お二方、コメントありがとうございました。 
    ――朱烏 2010-11-29 (月) 19:32:16
  • こんばんは。

    穏やかに流れ、重みの置かれた地の文が印象的でした。
    伝説という威厳が伝わってきました。

    スイクンとユズリハのお互いの思い、そして振り回されてしまうエンジュの思いがそれぞれ独立していて、感じ取りやすかったです。
    家を飛び出してしまい、これからの旅がどうなるのか楽しみです。

    執筆がんばって下さい。続きを楽しみに待っています。
    ――コミカル 2011-03-30 (水) 21:29:52
  • >コミカル様
    会話が少ない分だけ地の文章、特に心理描写には力を入れています。
    スイクンとユズリハの周波数が合いすぎているだけに、ブレーキを踏む役目のエンジュには頑張ってもらいたいところです。少々難儀なことですが。
    旅を通じて三者それぞれが成長していく部分を書ければいいなあと思っています。
    執筆頑張らせていただきますね。コメントありがとうございました。
    ――アカガラス ? 2011-03-31 (木) 23:46:09
  • こんにちは。たぶんこちらでは初めてですね。Prismatic「邂逅」までではありますが読ませていただきました。
    スイクンの伝説ポケモンらしい重く荘厳な一人称の地の文が神秘的で、場所が森だったり、時にはスイクンの今までの歴史を振り返る回想シーンだったりしましたが、いずれも『静の描写』による独特の重みと穏やかさがとても印象的でした。
    公式設定で“北風の生まれ変わり”とも言われるスイクンですが、躍動的な描写ではなく、こういう伝説らしい厳かな雰囲気もまたスイクンらしいなと感じました。
    自分の行為、周りからの感謝、一見幸せに見えるものが当たり前のようになって、一人長く生きるスイクンにとっては周りから一線を置かれているような、寂しさのようなものを感じていたのかもしれませんね。
    ふらっと現れた少女がこれからスイクンとどう絡んでくるのか。続きはそれを楽しみにまた時間を見つけて読みたいと思います。
    これからも執筆頑張ってください。応援しています。
    ――クロス 2011-04-06 (水) 16:48:19
  • 初めまして。
    伝説のポケモンが人間やほかのポケモンより何倍も長く生きるというのがこの小説での設定ですが、そうなると彼らはは「一般人」では及びもつかないようなことを考え始めると思うのです。たとえば人間は生きる意味や自らの存在価値など答えの出ない哲学的要素を含む問いにぶつかることがありますが、このスイクンはそれを何百倍、何千倍と長い時間悩み続けるのではないか……と想像しながら執筆しています。
    地の文を重く荘厳に、というのは意識しています。長編のノリで書いてしまうと伝えたいことが伝わらないので(汗)四苦八苦しながらですけれど。
    「邂逅」までだとほとんど静の描写ばかりですが、そればかりだと物語が動かないので躍動的な描写もどんどん増やしていきたいと思います。やはりそれこそがスイクンの本来の姿だと思うので。
    相変わらず早く更新することができませんが、終わりまでお付き合いいただければと思います。
    コメントありがとうございました。
    ――アカガラス ? 2011-04-08 (金) 15:49:32
お名前:

*1 ★のこと。ユンゲラーの額にある模様。

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Last-modified: 2011-03-30 (水) 00:00:00
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