てるてる
ルイス・ホーカー .9
町は、日差しの傾き始めた山峡に佇む。
暮れなずむ夕陽の染め上げた大地は昼の熱気を幾分か和らげ、それを包囲する山々はすでに漆黒に塗りつぶされている。
黒いばかりの山肌からは木々の姿が稜線に覗かせていた。
吹きすさぶ風に、家から家へと明かりを浴びてけぶる赤土がうずを巻くのを、博物館の別館にある私道と繋がった職員玄関のガラス越しにシャワーズのリリアンは息をつく。
普段、来訪者の入ってこない外と直接繋がるこの短い廊下は、展示する予定のない物をしまい込んだ木箱が雑多に置き捨てられ、余計に狭苦しい印象を、夕方の薄闇の中に与えている。
廊下のすみで退屈そうに毛繕いをしていたマグマラシのゾルタンは、内ももからじゃらりと鎖を鳴らしながら顔を上げると、ため息のしたほうを見る。
「どうかなされましたか?」
やや気後れ気味な口調に、木箱に腰掛けていたリリアンは振り返る。
「ううん、別に。眠たいなと思っただけよ」
そう言って、当座しのぎなあくびをひとつして見せた。
実際に眠けはあった。
昨日の晩に館長から急な頼み受けて睡眠時間を削って仕事をしていたのだ。
その代わり、館長はリリアンに昼過ぎまで業務に出なくて良いと言ってくれたが、退屈した子供たちに起こされて結局いつもと同じ時間に床から出るはめになった。
出発の準備のため昼からもあまり寝ていない、確実に眠けは溜まっていた。
素っ気なく言い返されたのに、そうですか、とゾルタンは呟いたきり面伏せる。
すっかりうつむいてしまった彼がふと呟いたのはそれからしばらくしてからだった。
「しかし、ホーカーさん遅いですね」
ルイスの名前を聞いて、リリアンは無意識につくった顰めっつらでゾルタンを睨め付けるが、それが相づちを求めて言ったのではないのを見て取ると、気付かれないうちに視線を玄関の外へと向けた。
砂の作った細かい傷で全体的に白ずんだガラス戸の向こうに広がる薄闇とさらに向こう側の人家の光、そのあいだに止まった一台の車がうっすらと夕陽の残光に濡れている。
館長に指示された時間はあくまで夕方ではあるが、リリアンの見る限り、すでに夜になろうとしている。
荷物はすでに積み込み終わっていたが、いまだにルイスが姿を見せない。
暗い博物館のどこかに、陰鬱を抱え込んだままひとりでいるルイスの様子が頭をよぎったのに、昼間のこともあってリリアンは胸が痛んだ。
どうにかすると決め込んだ手前、ルイスから決して目を離してはいけないということをリリアンはわかっていたが、拒絶を恐れて、結局こうして彼が来るのをただ待っている。
臨時閉館した博物館には普段よりも早くそこかしこに陰が幅を効かせている。
そのうちのどこかひとつで倦怠に身を落としていた者がいたとしても、しょせんは田舎の博物館、ある程度建物に詳しければすぐに見つけられるはずだ。
そう思っても、リリアンはどうしてもその場から動く気になれなかった。
ルイスを探すため、必要最低限以外の照明が落とされた館内を駆け回ること自体は苦ではなかったが、探し出されたルイスがどんな表情をリリアン向けるのか、不安はそこにあった。
協力を必要としていないルイスに出来る限りの救済を差し伸べようとするリリアンにうっすらと漂う、独りよがりではないか、という危機感に確実を持たせてしまうのではないだろうか。
唐突に背筋に寒気を感じて身じろぐリリアン。
不審を窺わせるそれに、ゾルタンがいぶかしげな視線を上げてきのに、彼女は肩をすくめて誤魔化すと木箱から降り、ゾルタンから隠れるような位置に腰を下ろし直す。
リリアン自身、この望みが正しいことだと絶対的な肯定を向けられる種類にないことをわかっているつもりであった。
都合の良い虚飾を当て込まれた自分勝手な思いが、相手の意思を無視していることには変わりなく、否応なしの我が
なんとかしてあげたい、という願いと、関わるべきではない、という恐れ、互いに相反する結末を描き出す二つの感情は、こうして職員用玄関の前から動かないリリアンの内面に巣くった救いたいと願う自身とそれを望まない自身の、そこはかとない二面性をまさしく表しているものだった。
ルイスの中に残してきた自身の後悔を、ルイスのため、という都合の良い別の
結局自分はなにをしたいのか、浮ついたため息が
展示室とを結ぶ古い鋼鉄の扉の立てる苦しげな気息に振り返ったリリアンは、同じように振り返ったゾルタンが開きかけた扉の隙間に会釈しているのが見える。
「どうしたの?」
「ホーカーさんです。やっと……」
「悪いな遅れちまって。すまん」
答えかけたゾルタンの前を通って入ってきたルイスに、ゾルタンは迷惑そうに眉根を寄せると、開けっ放しにされた扉を閉めにかかった。
誰にと特定していない声に、リリアンが無意識に身を低くしたのは、やはり後ろめたさがあるからだ。
薄暗い玄関でルイスはふと足を止め、顔ぶれが足りないことに首を傾げつつも小さく辺りを見回す。
「リリアンは?」
言い終わり、奥の木箱の陰から覗くリリアンを見つけたルイスは、ちょうど扉を閉め切ったゾルタンが不可思議そうに振り向いたのに、
「いや、いい。解決した」
と詫びを入れると、先ほどよりもやや重い足取りで木箱を回る。
伏せ目がちに、やあ、と口をまごつかせるルイスに、リリアンも僅かに視線を逸らす。
「……ルイス」
床を這う薄暮れを見つめたまま言う。
視線の端でルイスが腰を下ろすのが見えた、わずかに煙草のにおいがする。
「どうしたリリアン」
どこか余所余所しく笑いかけてきたのに、リリアンはその表情の裏を探るように視線を上げる。
冷たい態度を取られているわけではなかったが、やはりふたりのあいだに隙間風のようなものが吹いていた。
「ルイス。その、昼間は……」
「待て」
頭を下げかけたリリアンを、ルイスは声を潜めて制止する。
そしてルイスは無言のまま鉄扉のほうを顎でしゃくってみせ、リリアンにゾルタンのことを言外に伝えた。
頭をもたげたリリアンは、木箱の向こうからゾルタンが訝しげな視線を投げかけているのを見つけた。
「ねえゾルタン。忘れ物がないかどうか、見てきてくれないかしら?」
箱のふちに掴まり立ったリリアンは、ゾルタンに私道の車を示した。
「お願い」
目をつぶって拝むような体裁で頼まれたのに、ゾルタンは一瞬顔を曇らせたが、はあ、と渋った返事を返す。
すれ違いざま、彼がルイスを横目に睨んだのをリリアンは気付いたが、声をかけるより先にゾルタンはさっさと玄関を出てしまっていた。
薄暗い廊下にふたりきり、口を開いたのはリリアンが先であった。
「ルイス、さっきはごめんなさい。あなたの気持ちも考えないであんなことしちゃって」
「いいんだ別に、おまえは当然のことをしたまでだよ」
「でも……」
「考えてもみりゃ、ばかな話だ。自分でふたを開けておいて、その中身が嫌なものだったから、周りに当たり散らす。昼間は怒鳴って悪かったな」
決まり悪そうに犬歯を見せながら、軽く頭を下げた。
返事を待つように上目遣いにリリアンを見たルイスは、宵の降りた廊下、彼女が顔色を失っていることに気づけない。
「おれも気にしすぎだったのかもしれないなあ。ああ実際そうか」
なにも言ってこないリリアンに眉を寄せながらも、へらへら笑いながらおどけてみせる。
その細められていない目と、口元のみにしか笑みを宿していない何となく引きつった表情は、暗々に偽りのものであるということをリリアンに感覚的に悟らせていた。
「そう」
内心に思いながら、
「そうなんだ。良かった。心配してたのよ」
当たり障りのない言葉は、どこか自身が発したという実感を欠いていた、それはただ成り行きに任せて親切ごかしを言ったに過ぎないということへの罪悪の念を伴っているようだと、リリアンは思った。
ルイスの中でとぐろを巻く憂鬱を取り払うためには、当然リリアンはルイスに近づかなければならない。
いままで誰にも知られることのなかった胸の奥を覗かせてもらうためには、親和的な関係が基盤にないといけない。
昼間のことでリリアンへの信頼をほとんど失っているルイスに、この場でまた互いの溝を深めるようなことをすれば、二度とルイスが暗澹に打ち勝つことが出来なくなってしまうのだ。
しかし、リリアンがルイスとの
なにをしても結局はルイスの為にならない。
進退きわまった思いを悟られないよう、リリアンは精一杯の笑顔をルイスに向けるのがやっとだった。
「とても心配してたのよ。わたし」
後肢を伸ばして、もたれ掛かるような姿勢でうしろ側のドアの取っ手に片腕を掛けたまま、マグマラシのゾルタンは首だけをうしろに向けて職員玄関の中で破顔させているシャワーズのリリアンを見つめていた。
普段自身に向けてくれる
早まる鼓動に熱を帯びたため息が赤土の煙雨の中へほぐれていく、しかし伴う音が満足げでないのは、その笑顔を向けられているのが自身ではなくサンダースのルイスであったからだ。
さらに不満なのは、笑顔の所在がゾルタンの居なくなったあとの玄関――ルイスと二人きりになったあとだったのも気に食わない。
邪魔者を追い出して、やっと二人きりになれた男女が交わす親密な会話。
ふとよぎった悪い考えをゾルタンはかぶりを振って跳ね落とし、元気づけるように頷いて車に向き直る。
彼女に限ってそんなことはない、と自身を納得させるも、しかし黒い車体に鏡のように映ったマグマラシの表情は少しも納得したふうではなかった。
思わず彼はその影が背に抱えている漆黒を睨め付ける、がとどまるところを知らない土煙のうずに染められ、鏡面に玄関は見えない。
ゾルタンはリリアンが好きだった。
にも関わらずいまだに自身がリリアンに正直な気持ちを伝えられないのは、とゾルタンは再びうしろを振り返り、宵に霞んだ職員玄関を仰ぎ見る。
ガラス戸の向こうに見える人影はリリアンのみで、彼女の視線の先に居るであろう人影は、ゾルタンの位置からではちょうど積み上げられた木箱の陰に隠れてしまって見えない、だからこそ勝手な想像はそこに相好を崩したルイスの姿を当てはめてしまう。
段々とわき上がる悔しさに耐えかねてゾルタンは目を逸らす。
ふたりが交際していたのは昔のことで、いまは単なる職員仲間でしかないルイスとリリアンの関係、頭では理解出来ても、心のほうにはやはり遠慮のようなものがある。
それは、リリアンとの仲を深めたい、そう思って談笑を持ちかけようとするが、そのたびにルイスの視線が気になり、とどのつまりふたことみことの会話で中断してしまう普段の態度にも表れていた。
見えない咎めを恐れる意気地のない自分、このまま片思いで終わってしまうのだろうか。
「ビアスさん……」
なんとなく呟いたゾルタンは、どこを見やるでもなく逸らした視線の端にまたリリアンが笑うのを見つけて小さく首を振ると、車のほうを向いた。
せめて言われた用事を片付けよう、そう思ったからだ。――たとえ厄介払いのための用件だとしても、きちんとこなさなければ。
ドアを開けて中に入ったゾルタンは、後部座席の足下に乱雑に詰め込まれた荷物をざっと見定める。
大量に載せられた大小様々な抱え
モヘガンへ持って行く積み荷の選別を担当したのはゾルタンで、それらを車に載せる作業にはリリアンも加わってふたりで行った。
しかし、実際に荷物を積んだのはほとんどリリアンひとりだった。
まだ作業の初め、あとはわたしがするからあなたは休んでて、と強引にゾルタンを追い払った彼女は、ひとりになった途端次々に荷物を足していき、結果、トランクと助手席を一杯にした挙げ句、後部座席の足下からも隙間を奪ったのだ。
ゾルタンがそれを見つけたときにはすでに作業は終わっており、それとなく咎めても彼女は、必要かもしれない、と言って聞く耳を持ってくれなかった。
そのときの動転混じりに退けるような彼女の態度を思い出して、大量の荷物を隠れ
別の荷物との隙間に隠すような
布製のしっかりしたベルトと、その両端に結わえ付けられた小さめの鞄、四肢を地に付けるポケモンがベルトを軸に背中に乗せたとき、鞄がそれぞれ脇腹の辺りに来るようになっているのは、それがもともと四本足で歩くポケモンのために作られているからだ。
俗に言うサイドバッグを手に取ったゾルタンは、そもそもあまり需要の少ないこの鞄、博物館の関係者でこれを使用する者といえば。とそこまで思って、慌ててうしろを振り返ってしまう。
薄闇の降りた私道に感じ取れるのは砂の砕ける音とそこに混じる自身の息づかいのみ、博物館は一層濃くなった闇に輪郭のみを残してあとは紛れて見えない。
誰もいない、半ば言い聞かせるように深く深呼吸したゾルタンは、しかし耳だけは博物館のほうへ向けたままドアを閉める。
ウインドウに背中を貼り付けて、中の様子を探られにくくなるよう心がけながら手元のサイドバッグに視線を下ろす。
口の中に広がりだした苦味を息を飲み込んで誤魔化すと、そっと鞄を鼻に近づける。
吸い込んだ空気が甘く感じられるのは、鞄に染みこんだ女性のにおいを感じているからだ。
異性の香り――リリアンの香りに背中が逆立つのに任せて、ゾルタンは
ぎょっとするほど荒くなった自身の息づかいに気付いたのは、自分が鞄に手を回してからだった。
行き過ぎた行為に慌てて鞄を放り出す。
うわずった息を整えながら、ちらちらとうしろを振り返るのは誰かに見られていたかもしれないことを恐れてだ。
見られていたとしてゾルタンには弁解ぐらいしか取る行動はないのだが、それでも振り返るたび濃度を増す夜の色に安心を得ることは出来た。
安堵のため息をついたゾルタンは、改めてまじまじとリリアンの鞄を拾い上げる。
地味な色合いのそれは持ち主の性質を良く表していた。
派手を好まないゾルタンは、リリアンのそういう一面もまた好きだった。
きちっと着こなしたリリアンの姿を想像して、
他人の持ち物を勝手に
落ち着きなく後肢を踏み換え前足を鞄の中に入れた矢先、思わず眉をひそめたのは唯一手に当たったのが古ぼけた帽子のみだったからだ。
どこか見覚えがあったが、外と同様車内はすでに暗く、夜目の効かないマグマラシにはウインドウにかざしてみたとしても単なる輪郭しか見えない。
嗅覚に頼るという手もあったが、先ほどのこともあるのでどこか後ろめたい思いもあり、最終的にゾルタンは帽子を元の場所に戻してしまう。
ちょうどその時、遠くの方でなにかが開け閉てされる音を聞いて慌てて顔を上げた。
職員玄関から出てきたリリアンとルイス、車内にゾルタンの影を見つけたリリアンは火の灯ったランタンを咥えたままゾルタンに軽く笑いかけると僅かに駆け出した。
ルイスもそのあとに続く。
駆け寄ってくる二人と鞄を見比べながら慌てふためくゾルタンは、後部ドアを開けてリリアンが声をかけてくるより先になんとか鞄に本を入れて元の場所に押し込んだ。
「遅れてごめんね。明かりがいると思って」
「い、いえっ別に、そんな――」
片手を上げて会釈してきたリリアンにお辞儀を返したゾルタンは、自身が早口になってしまっていることに気付いて咳払いをする。
「――そんなことありません。ちょうど確認し終えたところです」
「ほんとう? 助かったわ。ありがとう」
言ってランタンから火を消すと、車に上がるリリアン。
狭い車内でわざわざゾルタンの前を通って、自分の鞄がある場所を隠すようにランタンを置いてから腰を下ろしたのをゾルタンは横目に捉える。
「おふたりでなにを話されていたんです?」
問いかけに対して視線を泳がせるリリアンに変わって答えたのは、運転席側のドアを開けたルイスだった。
身体についた赤土を軽く払いながら、腰を下ろす。
「別になにも、たいしたこと話してないさ」
言いながらマスターキーをひねる。
エンジンの振動がどこか間遠に響く中、背もたれに腕を乗せて振り返ったルイスは、ゾルタンににやりと口元を歪めた。
「それともなにか、焼いてるのか」
「そ、そんなことありません」
思い切り首を振って否定するゾルタン、必死な様子にくつくつと笑いながらルイスは前に向き直る。
「ほんとかねえ」
「ほんとです」
へえ、と鼻から信じていないような声を上げるルイスにゾルタンは、ほんとです、ともう一度呟きながら深く俯いてしまう。
不思議そうに目を瞬かせながらその表情を覗き込もうとするリリアンと、顔を見られまいと必死で逸らすゾルタンのふたりをバックミラーの中に見つけたルイスは軽いため息をつく。
「冗談だよ、からかって悪かった。おまえは単におれらが遅くなったことを咎めてるだけだろ」
流された助け船に、ゾルタンは僅かにルイスを見たあと、頷く。
「はい……」
赤くなった頬を揉みほぐしながら口をまごつかせる。
陽が落ちようとしているために暗い車内に伝わったのは声のみで、それを聞いたリリアンは片手を拝むように鼻の前にやった。
「そうだったの、ごめんね」
「いえ、こちらこそ」
申し訳なさそうに頭を下げるのに、つられてゾルタンも頭を下げる。
ゾルタンにしてみれば、自分の気持ちをリリアンに悟られなくて済んだことを御の字と受け止めたかったが、本当の気持ちを知ってもらえなかったことに後悔を感じている以上、なんとなくやるせないものがあった。
「出すぞ」
唐突に言ったのはルイスだった。
バックミラーから視線をはがしたルイスは前照灯を付けて闇を追いやると、砂ぼこりで視界の利かない路面に、のろのろと車を進ませる。
タイヤが砂利を踏む感触が僅かに伝わる。
座席に座り直したゾルタンとリリアンは特に話すこともなく、徐々に早くなっていく窓の外を黙って見守っていた。
博物館前の大通りに出た車は左へ曲がる。
町の中央を貫く大通りは全部で二本あり、一方は南と北を、もう一方は東と西の方向を結んでいる。
このうち町の外へ繋がっているのは東西に延びる後者の道だけであり、しかも西へから出て行く道は途中を落石でふさがれている。
無事なのは東へ向かう山岳道のみで、南に面した博物館の前を横切ることになるのだ。
表通りに出た車は、町の外を目指して加速しかけた矢先、急停止した。
いきなりロックしたタイヤにわずかに車体が傾く。
前につんのめったゾルタンが不平を言おうと顔を上げるも、しかしなにも言えなかったのは、ウインドウに射し込む博物館の明かりに照らされたルイスの忌避感に満ちた表情を見たからだった。
博物館のある一点を見つめたまま身を凍らせるルイスの視線を追っていくと、正面玄関の石畳の上の人影に行き当たる。
いままで暗いところにいたゾルタンは、辺りの光量に目を灼かれながらも目を凝らすと、それがジュカインのトニーであることが分かった。
老齢の館長は三人を見送りに来たらしく、峻厳な眼差しをルイスたちに向けている。
トニーとルイスとを交互に見やって、不可思議そうにゾルタンは首をひねる。
遠目にしか見送ろうとしないトニーと、トニーを恨みがましく睨め付けるルイス、どちらも釈然としない。
館長としての体裁があるにしても、そのトニーの態度はどこか妙だし、ルイスはルイスでただならぬ思いが瞳の中に見受けられる。
ゾルタンの知る限り、ルイスは昼間から様子がおかしかった。
そのことでトニーと喧嘩でもしたのだろうか、想像を膨らませていると、リリアンがルイスの肩を背もたれ越しに叩いた。
「どうしたの」
消極的な声をかける。
それでもなお視線を動かそうとしないルイスの肩へ、もう一度手を伸ばそうとしたリリアンの手にルイスは我に返ったように身体を跳ね上げさせた。
慌てたように振り返る。
「ああ、ああ心配ない。少し考えごとをしてただけだ。早く行こう」
曖昧に笑ってアクセルを開きかけたところで、あの、とゾルタンが呼び止める。
「館長に挨拶されないのですか」
片手をアクセルに乗せたまま、顔を引きつらせたルイスは喉の奥で小さく唸った。
それが鮮明に聞こえたのは、ルイスもリリアンもそれきり沈黙してしまったからだ。
それきり無音の車内にはゾルタンだけが返答を待つように首を窺うように伸ばしている。
おもむろに咳払いをしたリリアンは、居住まいを正しながら気まずげに含羞んでゾルタンを向いた。
「別に良いじゃない。一生の別れとかならともかく、二週間足らずで帰ってこられるんだから、今さら改まって声をかける必要はないんじゃない。そうよね?」
最後の言葉はルイスに向けられたものだった。
しかしルイスはそれを同意も否定もせず、口を一文字に引き結んだままだった。
途切れてしまった会話にリリアンが物憂くため息をついたのを見て、ゾルタンは疑問を口走る。
「なにかあったんですか?」
誰と指定していない問いに、ゾルタン以外のふたりは胸を衝かれたように顔を曇らせる。
事実を知らないゾルタンにはそれがなにか意味を持っているとは知らず、その中にあるそれぞれの感情を汲み取ることはできない。
ただ率直な疑問を投げかけたつもりでいたゾルタンは、意外なほど狼狽した様子のふたりに対して不安さえも覚えた。
「ほんとうにふたりともどうされたんです?」
「知るか、行くぞ」
答えたルイスの声は言外に嫌悪を滲ませて、冷たかった。
「しかし旅費を出して頂いた手前もありますし……」
「そんなにしたけりゃ、いますぐ車から降りておまえひとりですりゃ良いだろ。それが嫌なら黙ったらどうだ」
乱暴にアクセルを全開すると、リアをわずかに滑らせながら車は大通りを加速した。
いきなりのことに対応できなかったゾルタンとリリアンは背中が背もたれに押しつけられたのに小さく呻いた。
博物館から遠ざかっていくのと伴って、車内から明かりが消えていく。
いままで明るい光に慣れていたゾルタンが視界にちらつく
「なんですか」
ルイスのことがあって自然と小声になる。
「いつもと変わらないわ。だからお願い、彼を責めないで」
同じく声を潜めてそう言ってきたリリアンが、ちらちらとルイスを窺い見ているのがなんとなくわかった。
「わたしは別に責めてなんか……」
そこまで言って、ゾルタンは思考をよぎった不信感に次の言葉が出せなくなった。
リリアンはとルイスのあいだには、たしかになにか隠しごとがある。
そして、ゾルタンはなにも知らない。
ふたりが交わす信頼――特にリリアンの――の中に自身が入っていないのは悔しいことでもあったし、そのことをことさらに自覚してしまうのは悲しいことでもあった。
リリアンの視線の先にはあるのは、自身ではない。
仮にそれが恋愛というゾルタンの抱いているような感情でないとしても、いまの彼女が見ているのは、ルイスなのだ。
「……わかりました」
ありがとう、と言ってきたリリアンに生返事を返したゾルタンは、ふと窓の外を見やった。
山道へ続く道は、すでに頂上を目指して軽く上に傾いていた。
黒いばかりの山の裾を見ている途中、緩い左カーブへ差し掛かった車に伴って、自分たちの住む町の明かりが視界に転がり込んだ。
山峡に落ち込んだ小さな町。
地形に沿って南北に伸びるその姿は、夜闇と赤土に燻られた家々の頼りない門灯によってなんとか判別できる。
その中心の、ひときわ明るい光点は博物館のものだ。
砂を含んだ風に煽られて明減するそれは、ゾルタンの見守る中、すぐに路側帯の向こうに隠れてしまった。
無言の車内には、密室に特有の静けさと、間遠に響くエンジンの低い音だけが幅を効かせている。
座席に座り直しながら意識を外から内へ移したゾルタンは、各々の上に降りた重苦しい空気の中に思わず息をついた。
すっかり陽の落ちたモヘガンは、近代都市に特有の乱立するガス灯の
今しがた通り過ぎた機関車の置いていった、なんとなく鼻に残る甘いような形容しがたいにおいをウイスキーで流し込みながら、発掘のための人夫として雇われたピカチュウのライトは、道路越しに見える通りより一段低くなった港に並んだコンテナの向こうの湾を振り返った。
太陽の隠れていった山とは反対側に広がる海には、漁船や貨物船の澄んだ光が往々にして茫洋とした黒い波間に漂っている。
陽が落ちたせいか、涼しい海風が流れていた。
「向かい側、良いかい?」
唐突に声をかけられて振り返ってみると、同じく人夫仲間であるフシギソウのロジャーが蔓に掲げられた酒瓶をゆらゆらさせて立っていた。
「どうぞ」
「悪いな」
ライトが促すと、軽く笑って椅子に前足をかけた。
その見るからに危なっかしい足取りは、ロジャーが蔓も加えて踏ん張るためテーブルに置かれた瓶が、ほとんど空だったのが原因だろう。
ライトが推察していると、やっとのことで椅子に這い上がったロジャーが満足げに瓶から残りの酒を飲み干した。
彼らがいるのは、食堂も兼ねた大衆酒場のまえの歩道を半ば占領するような形で設けられた屋外席だ。
昼間のうちは片付けられ、夜になって人通りが増え出すと姿を現すそれは、いかにも仮設といったふうではあったが、様々な種族の使用を考慮された丈夫でしっかりとした椅子とテーブルや、座面を広く取るため背もたれが取り払られている辺り、ライトにとってもロジャーにとっても御の字だった。
身体の性質上、椅子に座るのは難しいロジャーだが、同じ目線でテーブルを挟めることには変わりない。
静閑とは無縁な店内の
「そういえば、おまえはいつもここで飲んでるよな」
目を瞬かせて問うてきたのに、ライトは含み笑いを漏らした。
うしろ手に海のほうを示す。
「ここからの眺めが好きなんだ」
「眺めねえ……」
首を伸ばしてライト越しに海を覗いたロジャーはそう呟いた。
「でっかい水たまりを見たって腹は膨らみそうにないな。それよりライト、腹が減った、なんか食おう」
店のほうを仰ぎ見ようとしたロジャーに、ライトは済まなさそうに首を振った。
「おれはいいや」
「いつからそんな倹約家になったんだよ」
眉を寄せるロジャーに、ライトは決まり悪そうに表情を崩すと、椅子の下に置いた鞄から写真を出した。
大事に差し出されたそれを見て、ああ、とロジャーは得心したように頷く。
「なるほど、そういうことか。いつだっけ?」
「一週間後、ちょうど報酬を受け取ったおれらが町につくころ」
「たしか……もう七歳になるんだよな?」
ライトは頷いた。
一児の父であることを改めて自覚して誇らしげなその顔は、恥ずかしさも混じって赤くなっていた。
ライトとロジャーは、同じ町の出身である。
互いの家が近いことも手伝って、ふたりは仲が良い。
ロジャーがこの発掘に関わったのも、ライトのためを思ってだった。
ライトの家はお世辞にも裕福ではない。
それはロジャーにも言えることだが、世帯を持ったライトに比べればはるかに身は軽い。
そんな彼がわざわざ遠出したのは、妻子を置いて遠方へ働きに出ることを渋るライトを連れ出すためだった。
毎年この時期になると、誕生日になにもしてやれない、と酒の席でこぼすライトの哀れな姿をロジャーはなんとかしてやりたかった。
「へえ、早いもんだ。あのよちよち歩きだったピチューも、いまじゃすっかり女の子ってわけだ」
おどけたロジャーにライトは小さく含羞むと、まだ進化してないけどな、と言い加え、自身と妻と娘の写った写真を愛おしむように目を細めてから、鞄にしまう。
「いままでろくな誕生日プレゼントを渡してやれなかったからなあ。最近はあの子も、そんなのいらない、って気を遣ってくれるんだが、それがまたかわいそうでな」
「なら、これで喜んでもらえるだろう。けどライト、手に入る金は山ほどだ。そうやって晩飯抜いてまで無理する必要ないとおもうぜ」
「はっきり自分が努力して都合したものを娘に贈りたい、ってのが親心ってもんだ」
きっぱりと言い切ったライトは、そうかなあ、とあからさまに疑ってきたロジャーからついと顔を逸らした。
怒るなよ、と軽口を叩くのを横目に捉えていると、苦い笑いを口の端に浮かべるのを見つけた。
「しかし、おまえは良いよ。おれなんか家に帰ってもひとりぼっちだ」
「どうせまた毎晩のようにおれのところに遊びに来るんだろ、変わらんだろ」
「そしてまたおれは独り身であることに劣等感を感じるってわけだ」
「いつからそんなひがみっぽくなったんだよ」
問われたロジャーは口ごもった。
が、すぐに肩をすくめて笑う。
「娘がいればそれを言い訳に出来るんだが、あいにくおれには子供はおろか女房すらいない」
「喜んで良いのか、それ」
「もちろん、おまえは幸せものだ。満たされてる、ってのはおまえみたいなのを言うんだろうな」
「そりゃ、ご光栄に預かりまして」
砕けた物言いに、吹き出したように笑い合うふたり。
ひとしきり身体を揺らしたロジャーは、最後に深く深呼吸して区切りを付けると、椅子から降りる。
「まあいい、なにか食おう」
店に向かおうとするのを、ライトはうんざりしてため息を吐いた。
「だからさっきも言ったろう、おれは……」
「おれがおごる分には構わないだろ」
「それは、まあ」
言おうとしたことを先に言われたライトは口を濁してしまう。
まったくこいつにはかなわない、思いながらロジャーのあとをついて行きかけたライトは、ふとロジャーが足を止めて振り返ってきたのに目を瞬かせる。
「忘れるところだった」
つぼみを支えるシダ状の葉のあいだに蔓を入れたロジャーは、そこから硬貨を一枚取り出した。
「がんばるお父さんにお駄賃だ」
くつくつと笑いながら投げ渡されたそれを受け止めると、ライトはまじまじとロジャーと硬貨とを見比べる。
事情が飲み込めず困惑げなその様子がおかしかったのか、ロジャーはさらに声を上げて笑う。
「たいしたことじゃない。そこの通りの電話ボックスの近くで拾ったんだ。それ一枚あれば家族に愛してるのひとつやふたつ、言えるだろ」
蔓で指し示されたほうを振り返ると、等間隔に歩道のへりから伸びるガス灯の、ちょうど真上に鉄道高架の走っている辺りの明かりに公衆電話のボックスがあった。
そういえば、と遠くのそれを見つめてライトは思い、手元の硬貨に視線を落とす。
最近家族の声を聞いていない。
遠征して以来、ライトと家族を結んでいるのは手紙が唯一だった。
それで満足していると言えば満足だったが、送り送られの手紙のやり取りでは電話のように即時な会話が出来るわけではない。
眼前にちらつく妻子の面影に電話をかけたい衝動に駆られたが、首を振ってそれを振り払う。
「いや、いい。せっかく今日まで我慢してきたんだ。一週間後の楽しみに取っておくよ」
へえ、とロジャーのつまらなさそうな声が背後からした。
「すっかり良い旦那さんだな、おまえの奥さんと子供が羨ましいよ」
軽口めいたそれが妙に
「そういえば、あいつ今日は来てないな」
残りの空席を確認していきながら、呟く。
いつもはそこにいる人影が今日は見えないのだ。
「来てない? 誰が?」
「シドだよ、あのクチートの」
問いかけに答えたライトの声は、ひどく忌々しげだった。
ライトはシドのことをあまり良くは思っていなかった。
仕事を始め、顔を突き合わせて間もないころは単に無口で陰気な性格だとしか思っていなかったが、発掘最後の日――つまり透明板の見つかった日――に自身が声をかけたにも関わらず無視されてからはシドの行動が鼻について仕方がなかった。
しかし、それ以上にライトがシドのことを嫌っている理由は、その日以来シドがなにか裏で隠し事をしているふうだったからだ。
「ああ、あいつか。あいつなら今ごろ旦那の部屋のまえにいるだろうよ。たしかこのまえ、発掘品の見張りを買って出たそうだ」
蔓同士を打ち鳴らしたロジャーの言った、見張りを買って出た、という言葉。
それを聞いた途端ライトは背中にそこはかとない寒気を感じた。
予断を域を出ないような些細なものが、心の中で不安を訴える、そういう感覚だ。
「あいつが見張りを? なんでまた急に」
「あれがないと報酬が出ないからな。ここまで働いたのが無駄骨になりそうで心配なんじゃないのか」
苦笑いを浮かべるロジャーの表情もまた、眉間にしわが寄っている。
シドを嫌っているのはライトだけではないのだ。
「心配なだけじゃないようにも見えるが……」
そこまで言ってライトが言いさしたのは、さっさとロジャーが店の中に入ってしまったからだ。
短くため息を吐いたライトは、硬貨をしまってから鞄を背負うと、ロジャーを追って戸口をくぐった。
騒がしい店内に足を踏み入れたライトは、仕事仲間の呼び声を適当にあしらいながら店内を横切り奥のカウンターへ向かった。
先にカウンターに着いたロジャーがカウンターの向こうの厨房を行ったり来たりしている女を呼び止めた。
「あ、はいはい、いま行きますからね」
中年のゴウカザルは両手に乗せたトレイをおざなりに片付けると一旦厨房の中に入っていき、伝票を片手にロジャーたちのもとに戻ってくる。
今まで外にいたふたりは、女の熱気をまともに受けて僅かに顔を顰める。
「ごめんなさいね。最近いきなり忙しくなったもんだから」
額に浮いた汗を拭いながら言うその表情が、どこか疲れを溜めているふうだったのにライトとロジャーは顔を見合わせて険しい表情を解いて苦笑を浮かべる。
人口がそれほど多くないモヘガンの町は、鉄道が通っているといえどあくまで都市部への途中通過地点でしかない。
しかし水産業や貨物船の発着場など海の面ではなくてはならない存在でもある。
そのため取り上げて大きいとは言い難いこの町には住宅地のほかにも警察署や商店、飲食店など便利といえるものはすべて揃っていた。
特に飲食店は多い。
この店もその一つであるが、最近は客足が集中しているせいで書き入れどきはいつもこの調子だとライトは記憶している。
「大変ですね」
「まったくですよ、まァこちらとしては儲けが出るので嬉しい限りなんですけどねえ」
ライトのお定まりな労いの言葉に頷いたゴウカザルは、ふたりから注文を聞き入れる。
書き入れられた伝票を厨房のほうへ持って行きかけて、店の端の席からの大声に足を止めた。
「酒、もう一本」
へべれけ声に、はーい、と返事をして小さくため息をもらしたゴウカザルは脇に伝票を挟むと手早くウイスキーを用意して持って行く。
「いつもこうですか」
テーブルの上に酒を置いて戻ってきたゴウカザルにライトは問いかける。
「いつもはもっとがらんとしてるんだけどね」
「従業員を雇ったりとかは?」
「ここらの食べ物屋はそういうの、しないねえ。家族でやってるのがほとんどだから。うちも息子とふたりで切り盛りしてるのよ、旦那は海で働けるけどわたしらはね、こういう海沿いの町はいろいろ大変よ」
「そうですか」
厨房の中に入っていくゴウカザルにそう返事をする。
店舗と厨房とを仕切る壁に開いた小窓から見える顔にライトはこう質問した。
「では、息子さんは? 姿が見えないようですが」
「内陸のほうに働きに行ってるわ、たしか都市開発がどうとかって話。あの子もやっぱり親から離れて仕事がしたいわよねえ」
ふとフライパンを持つ手を止めて、宙に視線を漂わせる。
「その都市開発を請け負ってる会社は、たしか……エデングループって言ったはずよ」
胸を衝かれたような感覚に思わずたじろいだライトは、首を振る。
エデングループ、その名前を聞いた途端にわき上がった強い既視感、理由を思いだしかけるも、騒がしい店内の音に邪魔をされて思考が上滑りしてしまう。
助け船を求めるように、ライトはもう一度ゴウカザルを見た。
「エデングループで間違いありませんか」
「自分の息子の働き先よ、間違うわけないじゃない」
確認するように問いかけたのに、口を開けて豪快に笑いながら答えたゴウカザルに、はあ、と気のない返事を返して耳を垂らすライト。
不審な仕事仲間や、妙な既視感。
それらは総じて“嫌な予感”という感覚に帰属する。
嫌な予感、間遠に感じられる店内の喧噪の中に佇んだライトの見つけた答えは、それだった。
なかがき
本来ならばもう少しまとめてから更新する予定でした。しかしあまりにも時間を掛けすぎているのと、まとめて行うと文章量が多くなる恐れがあったので、とりあえず完成したぶんだけ更新しました。
なので失礼かもしれませんが、あとあと告知と共に変更いたすかもしれません。
今回からは文章の書き方を変えて、なるべく地の文を減らす方向でいきましたが、いかがでしたでしょうか。
私的にはいつもと違う感覚だったので、なんとなく違和感を感じてますが……。
いや、そもそも成功しているかどうかが……
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