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Farewell, My Child of Nature

/Farewell, My Child of Nature

雄ポケモン同士の同性愛描写を含みます

Farewell, My Child of Nature 作:群々

目次


1 [#41VS5CO] 

 
 ナックルシティのカフェテラスでコーヒーを啜って、トレーナーの連れ歩くワンパチの無邪気な振る舞いを微笑ましく眺めながら、インテレオンである私は考えた。
 ミュウツーの事例を引くまでもないように、ポケモンが必要以上に人間的な理性を得てしまうと、何かと厄介なことが起こるものだ。プラズマ団的な言い回しを許容してくれるならば愛玩の対象、使役の対象に収まっていさえすれば特段抱く必要のない葛藤を抱いて、余計な精神的苦痛を味わうことになるからだ。まあ、ミュウツーのように極めて繊細な心を持った個体は、例外的なのかもしれないが、要するに、人間と対等な理性を手に入れてしまうことは、人間が持つ不完全で厄介な性質を、ポケモンであるにもかかわらず、そのまま引き受けなければならないということであり、すなわち、ワイルドエリアのキャンプでたっぷりポケじゃらしで遊んだ後に大盛りのカレーを食べるような、古代の詩人たちが荘厳な韻律で歌った牧歌やら農耕詩のような振る舞いは永久にできなくなってしまうということなのだ。
 なぜ、わざわざそんなことをする必要があったのだろう?
 種族名としてはインテレオン、コードネームとしてはゼクス、通り名としてはポワル。いずれも単なる記号に過ぎないが、真空上のことのように複雑な問題はあらかじめ排除することにしよう。命題はシンプルだ。なぜ、わざわざ私はそんなことをする必要があったのか? 理性と、一通りの知性を得たポケモンとして世の中を渡り歩いていると、一度ならず、そういうことを考えることはあるのだ。人間たちは口を揃えて自らの境遇を嘆いている。世界はあまりにも理不尽で、不公平で、つまりはクソだ、と。
 スマホロトムに今日の出来事を読み上げてもらうにつけて、確かに彼らの言うことにも一理あるのだろう、という印象を私は抱く。基本的に、世界は陰鬱な出来事で満ちているし、誰もが現実に対して吐き気を催している。おそらく、正気でいられるのは、一部の狂人だけなのだろう。存在すること自体の堪え難い吐き気について、かつてカロスの哲学者にして作家は著述した。それから100年近く経った今、その吐き気は収まるどころかますますどうしようもないものになってきている。吐きたくても、おそらくは教えてもらったことがないせいで戻し方がわからず、ひたすらその最悪の状態が過ぎ去るのを耐え忍んでいるように、この世界の人間たちは生きているように見える。古代の人間のように食っては吐き、吐いては食うような享楽的で堕落した生き方と決別した代わりに、終わりのない嘔吐感を抱えて生きる羽目に陥っている。
 私は都合よくポケモンという身分を利用することももちろんできたはずだ。いくら、人並に話し、考えることができたとしても、だって私はポケモンですからね、人間に保証され行使することのできるあらゆる権利も義務も持っていませんし、あなたたちの世界がいくら泥に塗れていようが関係のないことですね、と言い切ることだってできるのだ。人間たちの内政には原則として干渉しない、というのもそれはそれで筋の通った態度であるし、それはとても真っ当なことに思える。
 しかし、私を取り巻くタフな状況は、それを許してくれなかった。私は最初から人間の社会で暗躍するべく生まれ、教育され、進化して、今に至ったわけである。メッソンとして卵から生まれたこの方、ジメレオン、インテレオンを通して私はずっとそうだった。創作物では、しばしば人間社会に溶け込んだメタモンというのが登場するが、私に課せられているのは、まさしくそのメタモンだ。しかもメタモンとは違って、私はありのままの、固有のポケモンとしての姿で立ち向かっていかなければいけない。社会を痛罵する人間たちの暮らしを、今日も陰ながら支えなければならない。まったく、辛い立場だ。しかし、こう表現すると極めて幼稚な印象を与えるが、ガラルの平和を守るために、私は日々ボスから司令を受けては、各地を巡って、悪者を退治しているのだ。まるで、毎週の休日にテレビで放送されるアニメみたいに。といっても、私の仕事はそこまで華々しい活躍ではないのだけれど。物陰から、この細身な体に対して歪なほどに大きな指で、標的を狙撃するだけ。具体的には、ポケモンの密売人だとか、どの地方にも必ずいる過激派集団だとか、そうした集団を仲介する危険分子だとか、ガラルを危険に曝しかねない連中を。嘘だと思うなら、別に信じてもらわなくても構わないが、それが私の密かな仕事であり、社会における役割なのだ。
 つまりは、どこかの小説家が書いた「ケロマツくん」みたいなものだ。大都市の地下から大地震を引き起こそうとする巨大なナマズンと日々格闘している「ケロマツくん」。生憎、私はガマゲロゲでもゲッコウガではなくて、単なるインテレオンでしかない。こうして、私(厳密には「私たち」、と言うべきなんだろうが)の活躍によってカタストロフは防がれ、救われた世界で今日も人々は元気に社会の理不尽さを呪うのだ。やれやれ、まったく大した仕事だと思う。
 しかしながら、私自身には世の中の不完全さに対して、異議申し立てをする権利も謂れもなかった。私は粛々と指令をこなす、ただそれゆえに、私は存在する。人間ならば、考えるだけで済むことに対して、私は多少のリスクを犯さなければならない。難儀だし、不公平な話だ。でも精々、私はコーヒーカップを片手に肩を竦めるくらいで良しとしなければならないし、その境遇を受け入れなければならない立場でもある。どこまで知的になろうが、インテレオンはインテレオンであり、ポケモンはポケモンだからだ(フーディンやイオルブたちなら、その気になれば世界を征服することだってできるだろうが)。どれだけ人間が進歩しているように見せかけようとも、ポケモンに人間と同等の権利を与えようとするほど、彼らは向こう水ではなかった。なんだかんだ言っても、人間というものはしたたかだ。勿論、私程ではないにしても、人並みの理性を身につけて、自立しているポケモンは少なくないが、それはあくまでも例外とみなされている。彼らの言う自由とか秩序とかいうものも、見方を変えてみれば、ちゃんと天井があるし、見えない壁があり、境界線が存在する。興味深いことに、なかなかよくできている。
 首が窮屈になってきたので、私はネクタイの紐を緩め、パリッとしたワイシャツの一番上のボタンを外し、イスに背をもたれて、楽な姿勢をとる。もとより着用を必要としないスーツを身にまとうのも、私の甘受した妥協の一つである。社会的記号としてのスーツ。身につけた途端、どんな取るに足らない人間でさえ、それなりの社会的地位を得たように見えて、それなりの敬意を表される魔法の衣装。そして、その度合いはスーツの仕立ての良さと正比例する。通りすがる人々から注がれる眼差しや、コーヒーカップを運んでくるイエッサンの物腰から、それは確かめられる。その意味に限れば、私は手厚くもてなされている方だったが、特典といえばそれくらいのものだ。ポケモンとしての私の肌は、所詮は人間用の衣服に対して、常に居心地の悪さを表明していたし、外に出ている間は、そのむず痒さに堪えなければいけなかったが、それにしてはしけた見返りだった。
 結局のところ、私は、余計なことを知りすぎてしまったし、知らざるを得なかった哀れなインテレオンである、ということだ。ポケモンの癖に、カジッチュの林檎をかじり、ランクルスの体液を飲んでしまった原罪の償いとして、ちっぽけでささやかな英雄を演じ続ける羽目になってしまった。私はボスが以前話したことを思い出す。我々の行為はその壮大さに比して、もたらすものはきわめてちっぽけなものに過ぎない。私のしていることは、ヒードランがシンオウ地方のどこかの壁を、今日も元気に這いずり回っているのとさして変わりのないことかもしれなかった。
 やれやれ、私が考えられることはそれくらいしかない。それに何度考えたって、私の思考は同じルートを辿るのだし、同じアポリアに至るので、結局、匙を投げてしまう。
 空になったティーカップを雌のイエッサンが片付ける。私はコーヒーをおかわりし、スマホロトムに今の時間を尋ねた。予定した時間までおおよそ10分だった。私は辺りを見回す。何重にも築かれた城壁からなる、ナックルシティの美しい街並みが広がり、そのあいだを通るお濠が湛える水面は、太陽の光を浴びて照り輝いていたが、私の視線はしばしば、ラテラルタウンへと通じる跳ね橋の方へと移っていた。私はテーブルに置かれた二杯目のコーヒーを手に取って一口啜り、味わい深い苦味をゆっくりと舌で味わっていたが、私の視線はことあるごとに、宝物庫と6番道路を繋ぐ跳ね橋へと向いているのだった。私はロトムスマホに時間を尋ねたが、大して時間が経ったわけではなかった。時刻を告げるロトムの声には、どことなく揶揄うような調子が含まれているような気がしたが、私の自意識過剰かもしれなかった。
 跳ね橋の少し手前、宝物庫の正面の広場には、ボケモンバトル用のフィールドが設えられていて、今日もそこではサイドンとトリトドンが相対していて、その様子を通行人たちは立ち止まって観戦していた。この古式ゆかしいナックルシティの人々にとって、ポケモンバトルは私が啜る一杯のコーヒーのように身近なものと言えた。私だって好きだし、何人か贔屓にしているトレーナーもいるし、アマチュア同士の試合があれば、興味深く見物もする。ただ単に力をぶつけ合うだけではなく、それぞれのポケモンたちの個性を活かし、時には可能性を引き出しながら戦うのだ。あの二匹にしたって、シンプルにタイプ相性で考えるならばトリトドンが勝つだろうが、トレーナーの組み立てる戦略、その日の気候、ポケモン自身のコンディションによって、どう転ぶかは戦ってみるまでわからない。実際、毎日のように勝負をしている二匹をここに来るたびに見てきたが、勝率は互いに五分五分といったところだ。そして、二匹はいつ見ても楽しそうに勝負をし、その結果にかかわらず、終わった後はトレーナーと共に仲良しそうに好みのきのみを食べている。
 私はあのサイドンやトリトドンのように生きることができたのかもしれない、とまた同じ思考の堂々巡りに陥りそうになった。そういうのを感傷的と言うのだし、多くの場合、それは褒め言葉ではない。ナイーブ、という言葉が「マヌケ」を意味するのと同じことだ。そこまで考えたところで、私とテーブル全体に大きな影が覆い被さった。
「悪い」
 「彼」は私のかけた椅子の背もたれの両角に手を置いて、振り向いた私に少し無骨な笑顔を見せた。
「待たせたか」
「問題ないよ」
 私はそう彼に言った。
「いずれにせよ、君は必ず待ち合わせの場所には来たし、これからも来る、そうだろ?」
「ううん」
 彼はしばし考え込んだ。
「そういうものかな」
 ぎこちなく微笑む。私の言葉よりも、私が言葉を発したことそのものに対して、喜びを表明したかのように見えた。私は首をもたげて、彼の精悍な顔つきをじっくりと見つめていた。頭部と胸元を覆う純白でしっかりと刈り整えられた毛並みから、甲冑のような深紅の顔が、まるでカントーツバキのように浮かんでいた。黄身がかった白目と、青白いグラデーションのかかった虹彩に囲まれた真っ黒な瞳孔は、静かな佇まいの中に漲るような力を私に感じさせた。額から威嚇するように伸びる鶏冠も勇猛だった。
「なあ、バシャーモ」
 私は彼の名前を読むように呼んだ。バシャーモ。彼はそういう名前だった。といっても、それも単なる種族名に過ぎないのだが。ちょうど、私もその気になればインテレオンと名乗れば済むように。しかし、彼は私のようにはそんなシニフィアンの問題になど関心は無かった。彼は私とは違って、だいぶ自然児だったから。
「おう」
「とりあえず、今日はどうする」
「ああ」
「ナックルシティばかりでもつまらないだろうから、ちょっと、キルクスまで遊びに行かないか」
「いいのか」
「もちろん。ホテル・イオニアの予約はもう取ってあるんだ。明日までなら、休みを取れたから大丈夫って話だっただろ」
「おう」
「なら、少しコーヒーを飲んでから行こうじゃないか。空飛ぶタクシーでもいいけど、今回は電車で行ってみたいんだ。君とゆっくり話をしたいからね」
「ああ、そうだな、ポワル」
 彼は私をそう呼んでくれた。このように私たちは話をしていたのである。私は流暢に喋り、バシャーモが淡白に答える。しかし朴訥な態度の中に、私は雪のような人肌に差す薔薇の仄かな赤らみのような魅力を感じずにはいられなかった。つまるところ、私はバシャーモに強い好意を抱いていた、ということになるだろう。

2 


 私がこのバシャーモと出会ったのは、ラテラルタウンの場末のバーで、それは偶然の、運命的な出会いだった。私はいつものように、仕事の用意をしているところだった。近く、6番道路のディグダ古跡の近辺で闇業者間で違法ポケモンの密輸が行われるという情報が入り、その現場を取り押さえるためだった。私にとってはすっかり手慣れて、身近な業務になっていた。私の指から放たれるねらいうちを先陣にして、後は別の少数部隊が一気に密輸人どもを制圧する。いわば、フレンドリーショップの店員の仕事のように、形式ばってさえいる。仕事の内実は違うとはいえ、私もしっかりと社会の歯車を演じている。
 とはいえ、決行に先んじてラテラル入りして、現場の下見をあらかた済ませてしまうと、私にはだいぶ暇な時間ができる。その合間に、私はゼクスというコードネームを忘れて、ポワルという名前のインテレオンを演じることにするのである。卑俗な言葉で言えば、それは私の「源氏名」とでも言うべきものだ。私はガラルでも貴重なヒトとコミュニケートできる、雄のインテレオンとしてカラダを売っているのだ。清く、正しいポケモン像を求める向きには申し訳ないが、私はそういうポケモンとしてこれまで生きてきたわけで、ご了承願いたいところではある。自慢ではないが、適当な金銭を払い、契約と常識の範囲内で振る舞うならば、私はどんな欲求不満な変態とだって交わることもやぶさかではない。文字通り、スカタンクの尻尾に顔を突っ込むことだって厭わないのだ。
 普段はシュートシティに本社のあるマクロコスモス社の関連会社のポケモン枠で雇用されているエリートポケモン。多忙な日々の中で溜まりに溜まった欲望を発散しようとして、夜な夜な密かに相手を求め、何よりもブラックコーヒーを愛する、謎多き雄のインテレオン。虚実入り混じった私のプロフィールだが、それだけでも数えきれない程の相手が近寄ってきたし、今ではスケジュールだって厳密に管理しなければいけない程だった。インテレオンのポワル君、というのはその手の人間の間ではちょっとした都市伝説のような存在になっているらしい。まったく。
 だからその日も、決行までの空いた時間に次の相手との予定を組んでいたし、待ち合わせの場所を偶々ラテラルにあった、隠れ家のような趣のバーに指定していたのである。仕事帰りの雰囲気を出すために、少々クタクタなスーツに身を包み、上のボタンをいくつか外して、青色の細い胸元が肌けるようにしながら、私は約束したバーへと入店したのだった。その日は気分で、予定よりも10分ほど早く店に着いていた。来るタイミングはいつだって構わない。あなたに会いたくて、随分早くに来ちゃいましたよ、と言えば相手は自分を求められる喜びと興奮で、大概は悦に浸るものだし、逆に遅刻したとしても、睨めあげるような視線で遅刻してすみませんでした、うぉれおん、と鳴けば良いだけだ。後は適切な金銭と常識と契約の範囲内で、遅刻してきたお仕置きと称して好き勝手にすればいい。
 繰り返すが、それが私とバシャーモとの出会いだった。ドアを開けて、薄暗い店内を見渡した時に、カウンターの一番奥で静かにしているバシャーモを見ただけで、私はドキリとした。バシャーモ自体がホウエン産のポケモンだから、こんな場所で目にするのは珍しいと思うと同時に、その凛々しくも含蓄深い雄の憂いを帯びた横顔に私はすっかり魅入られてしまい、これから会う相手のことなんてすっかり忘れてしまいそうなくらいだった。それに私の雄としての第六感が、彼がそうだと言っていたのだ。
 私は勝手にバシャーモの横に座って、マスターに適当なカクテルを注文しながら、そっと彼の腰に腕を回した。嫌がる素振りは無かった。私はニヤリとして、彼の逞しいガタイを揉んだ。
「こんなところでバシャーモなんて珍しいね」
「そうかな」
「どこに住んでるんだい。野生ではないのは確かみたいだ」
「そうだな」
 バシャーモはコップの水に目を落とした。いきなり親しげに声をかけてきた私に対して、何を話すべきか、そうでないかを彼なりに考え、計算を巡らせているように見えた。
「普段はラテラルジムで修行、している」
「へえ」
 私はそのことについて色々と尋ねてみた。彼は訥々とした口調で話した。カロス地方のシャラシティからここガラルへと派遣されてきたということ。世界的にも名高いガラル地方のかくとうジムで積んだ経験を、カロスへと持ち帰るためだということ。とはいえ、やはり出身はホウエンだということ。ホウエン。行ったことがあった、この仕事の悲しい性のせいで。それとなく、ムロやカイナの話をすると、彼の口は途端に軽くなった。
「ムロには格闘のジムがあるから、そこでも修行をしていた。近くに洞窟があって、よくそこで合宿みたいなことをしてたんだ」
「石の洞窟」
「そうだ、最奥には壁画があって、修行の合間はそこで過ごしたりもしていた。なかなか、楽しかった」
「古代にあったとされる、グラードンとカイオーガとの争いを描いた壁画、だったっけ」
「そう言われるらしいな、でも、そういうの、あまり自分には関心がないんだ」
「空の柱というところには、もっと詳細な壁画があるとか。なんでも、そこでちょっとした騒ぎがあったとか」
「あの騒ぎの時には、もうホウエンにはいなかった。とっくに、カロスにいたよ」
「へえ」
 「流星の民」の末裔を自称する女が不審な動きを見せている、ということでホウエンに派遣された時のことをぼんやりと私は思い返した。あの女のエキセントリックな言動にはひどく翻弄されたものだ(「想像力が足りない」という言い回しは私たちの間でちょっとした流行語にもなった)。結局、物事はエウリピデスのある種の悲劇のように絶妙に収束していったわけで、任務というよりはホウエン観光ツアーになってしまったのだったが。カイナの海岸から見上げた煙突山のなかなかの絶景を、私は思い出していた。なかなかの日々だった。
「それにしても、君」
 私は、ようやく口にしたいことを口にした。
「ア・ラ・カロセーズかい」
「ア・ラ・カロセーズ」
 バシャーモはその言葉を未知の単語のように繰り返したので、私はなんとなく可笑しいと思った。
「メガシンカ風、とも言うかな」
 メガシンカ。ガラルではおよそ馴染みがないが、バシャーモにそういう形態があることは知っている。生憎、カロスにも見知った顔はたくさんいるのだ。身体的に大きな負担がかかるためにそう長く維持できる姿ではないから、気分だけでも味わうためにメガシンカ風のスタイルをするのがあちらでは流行りなのだと、どこかの鼻持ならない「ケロマツくん」が言っていたのが、こんなところで役に立つとは思わなかった。ぞっとしない。
「ああ、これか」
 彼はそれで合点がいったようだった。
「さっぱりしてる方が好きなんだ、それに動きやすい」
「グッドだ」
 私は不意に口をついた。通常とは違って短くしたことでピンと立ち上がった角のような頭は、彼の凛々しい顔つきをいっそう雄らしくまとめ上げていた。汗と質の良い石鹸の香りが彼の毛並みから私の鼻腔へと伝わり、ほんの一瞬、惚けた気分にさせた。
「グッときたよ」
 バシャーモは初めて私に微笑んで見せた。険しい目元が少し緩んだ、チャーミングな笑顔だと思った。私も笑った。
「いきなり長々と話して悪いね。もしかして誰かを待ってたりとかしてたかな」
「そうでもない。あんたは」
「ただの出張さ。シュートからわざわざ来てる」
 私はほんの一滴の真実の混じった嘘を吐いた。私の手はバシャーモの腰のクビレの辺りを丹念に確かめながら、彼の筋肉の形を丁寧に検討していた。目の前にそっと置かれたマティーニを空いた手に取って一気に飲み干した。ピリッとするようなマティーニの味に加えて、グラスの底に沈んだノワキの実から滲み出す辛味と渋味がじんわりと私のどこまでも長い舌の味蕾へじんわりと染み込む。
「トレーナーはいないのかな」
「ジムの仕事の後は基本的に自由にさせてもらってる」
 そう言ってバシャーモは首からネックレスのように吊り下げた小型のモンスターボールを爪でつまみ上げて私に見せた。ボールの外面には、IPLA ——国際ポケモンリーグ協会、の略だ—— による認証番号、バシャーモの学名であるBlazikenの名と、管理者であろうトレーナーのイニシャルが刻まれていた。トレーナーの元を離れて行動するポケモンにとっては、これが一種の身分証明書になる、というわけだ。
「あんたは」
「僕は自立してる」
 私はスーツの尻ポケットから社員証を取り出して見せた(もちろん、私の組織によって偽造されたものだ)。古風なジュークボックスから流れる微かなジャズミュージックと、客たちの囁くような声だけの店内に、バックルの金属音がやたらと響く。
「なるほど」
 ありふれた私の証明写真を一瞥だけして、バシャーモは私にその紙切れを返した。
「スゴいな」
「どういたしまして」
 私は腰に這わせた指をいっそう伸ばして、彼のお腹に触れていた。質の良いグリーンの芝のように刈り整えられた毛並の奥に、確かな腹筋の膨らみを感じることができた。バシャーモがそっと左手で、私の手を包んだ。横を見ると、鋭い目元がほんのりとモモンのように染まっていた。私は腕時計を見た。バーに入って、10分ほど経っていた。
「ねえ」
 私は彼の瞳を見据えながら言った。
「今晩は、暇かな」
 バシャーモはコップの水をゆっくりと飲み干した。
「朝までなら空いてる」
「十分だよ」
「あんたのこと、なんて呼べばいい」
「ポワル、と呼んでくれれば嬉しいよ」
 彼の腰を抱き締めたまま、私たちはカウンターから立ち上がった。ロトムフォンが支払いを勝手にしてくれている間に、私はバシャーモと店を出た。扉越しにドラパルトとすれ違ったので、クラブのように横歩きにならないといけなかった。
 繰り返すが、それが私ことインテレオン、かつゼクスでありポワルとしての私とバシャーモの出会いである。
 チェックインしていたホテルの一室に入ると、私はおもむろにコットン製のスーツを脱ごうとした。制服であり、鎧であり、社会との絆であり連帯であり束縛である衣装を脱ぎさろうとボタンに手をやると、バシャーモはそっと背後から私を抱き締めた。細かい鱗が敷き詰められた鉤爪のような手がスーツのお腹あたりにきつく食い込んだ。背中越しにバシャーモの素晴らしい筋肉と、肋骨の輪郭を感じた。頸をそっくり私の肩に預けて、不規則に荒れた呼吸をしながら、私の胸元をぱくぱくと食もうとするのがいじらしかった。彼の手がゆっくりと下がり、バックルの微かな金属音を立てながら、そっと私のそこへと触れた。
「積極的だね」
「同性のポケモンに付いて来るの、初めてなんだ」
「君の初めてが僕で嬉しいな」
「いいか」
「何をかな」
「しても」
「もっとはっきりと言ってくれないと困るな」
「あんたと、セックスしたい、ポワル」
「仕方ないな」
 私は上のボタンを外しながら、バシャーモと舌を絡め合った。ユキハミが地を這うような時の流れに揺蕩いながら、私たちはディープキスをしていた。
「かわいいな」
 深く息をつきながら、私は囁いた。
「脱ぎ終わるまで待っててくれよ」
「ああ」
 すっかり準備が済むと、私たちはベッドになだれ込むようにして互いを求め合った。腕と脚をしっかりと絡めて、無我夢中で口の中を貪った。組み伏せられるような体勢で、私は長い尻尾の先端でバシャーモの赤い毛並でも隠せない鍛えられた背中の谷間から尻の割れ目までくすぐると、彼はアチャモに孵ったような雛みたいな声をあげた。とっくに勃起しきっていた私たちのペニスが重なり合って、興奮はいっそう高まった。
 ベッドの上で転げ回り、バシャーモを組み敷く姿勢になると、私は一心不乱でフェラチオをした。彼の最大限に勃起した見事なペニスをたっぷりと口の中で満喫し、使い慣れた舌を器用に操って刺激した。その精悍な肉体に違わない逸物だった。根本まで咥えても、先端にキスをしたり舌で軽く舐めても、素晴らしい反応をしてくれた。
 にわかにペニスが最大限に膨れ上がった時、バシャーモは私の首を掴んで、射精寸前のそれから私を引き離してしまった。
「あんたの中で出したい」
「大胆だね。もちろん、構わない」
 私は答えた。その時、彼のことを本当に可愛らしいと思った。
「経験はあるかい」
「育て屋で、メタモンと何度か。それだけだ」
「もったいないな」
 おもむろに、私がベッドの上で四つん這いの姿勢になると、バシャーモは後ろで膝立ちになりながら、恐る恐る私のアナルに触れた。
「雄の尻を弄るのは初めてだけど」
 バシャーモは慎重に言葉を選びながら言った。
「すごいな」
「まあね。その気になれば拳まで入るんじゃないかな」
「さすがにそれは遠慮しておく」
「初心だね」
 バシャーモは私の尻の肉を左右に大きく開いて、使い込まれたアナルをじっくりと眺めた。われたポットとかけたポットを見分けようとする鑑定人のような視線を尻に感じて、私は自分のペニスを軽く扱いた。
「何でも入りそうだ。何人くらい相手にしたんだ」
「数え切れないな」
 私はきっぱりと答える。それに比べれば、自分の指で仕留めた連中の数の方がまだ数えられるだろう。バシャーモの節くれだった指が私の中に入った。水面に触れるようにあっけなく、指の先端が直腸の奥まで達した。排泄物が腸壁をのたうち回るような感覚が、瞬く間に快楽に変換されて、私の全身を満たした。
「狂ってるな」
「狂ってるさ」
 私は平然と言い切った。バシャーモに前立腺を弄られながら。
「だけど、そういう狂った日々が僕を輝やかせてくれる」
「さすが、色男は言うことが違うな」
「君だって立派な色男じゃないか、バシャーモ」
 私は尻尾をバシャーモの引き締まった腰に回して、鍛え上げられた肉体を楽しむようにさすった。短く刈られた毛並みが、私の滑らかな皮膚を優しく刺した。彼は私の青い尻を優しく掴んだ。
 それは、いわば完璧な一夜だった。私は完璧な雄のバシャーモと完璧なアナルセックスをし、もちろんその晩の任務も完璧にこなした。彼がぐっすりと眠っている間に、しっかりと密輸の現場をこの指で制圧した。それから、何事も無かったようにベッドに戻り、朝になったら挨拶がわりのキスをした。そして、もう次に会う約束をしていた。
 そうして私とバシャーモは出会ったのだ。何度繰り返しても、言い過ぎないことはない。

3 


 これはもちろん血生臭くて胸糞も悪い、労働と日々の合間のインテルメッツォであり、その一部である。血と涙と糞便と精液、あらゆる体液に塗れた、私の。
 ただ単にバシャーモとだけ呼ばれ、そのことに特に何の疑問も抱いていない彼とは、それから何度となく会う約束を交わし、その度にラテラルやナックルで落ち合っては二匹きりの時間を過ごした。私が経験上知っている気の利いた店で食事をして、経験上観たことのある映画や演劇を鑑賞して、経験上行ったことのある気の利いたホテルに泊まって、心ゆくまで互いについて語り合うと、経験上したことのある気の利いたセックスをした。
 それは、世界中のあらゆる恋人——あるいは性欲にいきり立った獣のような連中——によって再生産されているありふれた事柄であり、私自身も数え切れない相手と共に過ごしてきたものだったが、その相手がバシャーモだったというただそれだけのことによって、私は極めて強いときめきを感じたのは事実である。実際、彼といる時間にはひどく心が安らいだものだ。共にあり、寛いで語り合い、抱きしめられることで、激しく胸を熱くさせる何かが、確かに私の中で芽生えていたのである。それは他の誰の胸の中でも感じたことのない、特殊なものだった。
 私は彼とキルクスタウンへ行くと言ったのだった。惚気話をし過ぎると言うのは本来、私の趣味ではない。
 私とバシャーモはキルクスへ向かう列車の中にあった。コンパートメントで向かい合って、ナックルから北上して徐々に雪景色の色濃くなってくる窓外の景色を私たちは楽しんでいた。この路線は、ガラルのジムチャレンジを勝ち抜いた精鋭たちが、意気揚々とシュートシティへ向かう道そのものである。かつての、そして現在のチャンピオンもまた、この同じコンパートメントから同じ景色を眺めたはずだ。そのチャンピオンと共にこの列車に乗って、今はブラッシータウンでポケモン学を研究している青年の著作に、そんなことが回想されていた。
「君もバトルに身を投じているわけだし、チャンピオンには憧れるのかな」
「どうだろうな」
 窓枠についた肘で頬杖をつき、ただじっと景色を見つめながら、バシャーモは口ごもった。白い雪を背景に、サファイアのような瞳がよく映えた。
「チャンピオンであれなんであれ、自分の心をわかってくれるのがいいなと思う」
「今の君のマスターはどうなんだい」
「わかってくれている、そう、思っている。ジムで修練する時以外なら、わりと自由にはさせてくれる。だから、こうしてあんたともいれる」
「それもそうか」
 私もごく自然にバシャーモと同じようなポーズをして、山脈が織りなす白銀の世界を見つめた。ワイシャツの襟がむず痒くなって、ボタンを二つ外した。 10番道路のホワイトヒル駅を経由すると列車はキルクスへと向かっていく。線路が走る白い山間に、モスノウたちが羽ばたいているのが見えた。鉄道橋から冷え切った川を見下ろすと、コオリッポと思しきアイスフェイスが浮かんでいるのがチラホラと見える。カロス地方にいた時、ああいう川で寒中水泳をする修行をしたことがある、と言った時のバシャーモが控えめに火鶏の顔を仰向いて見せる顔つきが、雄らしくも、とてもチャーミングだった。
 キルクスへ到着する時分には、ちょうど太陽の沈む頃おいだった。薄暗くなり始めた街並みに、ほんのりとした街灯が灯って、いかにも幻想的な印象を与える。山脈を挟んで反対側にあるアラベスクにも劣らない童話的な空気が街全体に漂っている。といっても、私は仕事柄幾度となく訪れた街なのだが、この時だけは傍にバシャーモがいる。
「綺麗だ」
 鉤爪に舞い降りる雪をじっと眺めながら、彼はそうつぶやいた。
「雪なんて久しぶりに見たな」
「それは良かった」
 私は片手の甲を口元に当てて笑った。そうだ、あの青年の研究員がテレビのインタビューで語っていた。インテレオンはみな一様に同じような笑い方をするのだそうである。それがトレーナーの元に付き従う一ポケモンであろうが、人並みに理性を持ち社会に交わり、あまつさえ己の肉体を人間相手に平気で売り飛ばすようなインテレオンであろうが。そのファクトはどことなく私を安心させる。どう足掻こうが、結局は一介のインテレオンでありポケモンであるということから逃れることはできないという運命論的な事実は、寧ろ私を勇気付けるものだと思った。私は自らのことを決して冷笑主義者だとは考えないが、生きているという、確かな生の輪郭を掴むためには、冷笑の果ての肯定が必要だと考える者(ポケモン)である。つまりは、否定神学的、ということだ。否定の末に、ある種の崇高さへと至る。その逆説を私は愛している。
 私たちはおいしんボブで親密な会食をした。もちろん、私がちゃんと予約を入れていた。マルヤクデの炎で焼いた上質なステーキに舌鼓を打ちながら、私は無我夢中になって三人前のステーキにありつくバシャーモの姿を微笑ましく見つめていた。いかにも、こんな美味しいものを初めて食べたような新鮮な反応に満ち溢れていて、何か口を挟む余裕もないままに食べ続けているのが面白かった。熱々の鉄板の上に載せられていたが、もどかしいカトラリーを無視して、素手で掴んで啄んで平然としているのは流石にほのおタイプに分類されるポケモンだった。その姿は、店内でも目を引いていた。客たちではなく、厨房のコックたちもちらちらと彼の食事風景を見ていたし、看板ポケモンも兼ねているマルヤクデが私たちのテーブルに近づいてきて、興味深そうにバシャーモのことを見つめていた。鼻先から髭のような炎が盛んに吹き出してきた。
「こんなに美味しそうにステーキを喰うポケモンは初めてかもしれない」
 と、揶揄うように私は言った。バシャーモはちらりと上目遣いで私を見て、コクリと頷くような動作をするとまたステーキとの格闘に戻っていった。私は微笑しながら、ステーキのお代わりを頼んだ。
 たらふくおいしんボブのステーキを楽しんだら、雪降りしきるキルクスの街を腹ごなしに散歩した。街の至るところをゆっくりと徘徊するユキハミにちょっかいを出したり、広場の屋台でヒウン式のバイバニラ風アイスを別腹ながら2個注文して、それも美味しく食べた。広場の中央の湯気が立つ温泉に足をつけながら食べるそれは絶品だった。アイスの気配につられて、駅前のマメパトのように集まってきた手慣れのユキハミたちに、バシャーモがそっとアイスをあてがうと、コンセントに群がるバチュルよろしく引っ付いて、瞬く間にコーンだけを残して食い散らかしてしまった。ガラル暮らしの短い彼には、ユキハミの食欲がどれほどのものか、予想もつかなかったらしい。困惑するバシャーモの傍で私が例のインテレオン式の笑い方をすると、彼も思わず苦笑せざるを得なかった。
「知ってたのか」
「悪いね」
「そうか」
「大丈夫」
 もう足湯から立ち上がって、革靴の踵を履き潰しながら私は請け合った。
「もう一個買ってくるよ」
 そうして、また自分たちのアイスを買いにいく様子は、傍目から見ればいかにも馬鹿馬鹿しかっただろう。実際、馬鹿馬鹿しかった。自分を不幸だと思い込んでいる類の人間であれば、きっと呪ったことだろうし、私だって同じような光景を第三者として見たならば、きっと鼻で笑っていた。しかしそこに身を投じてみればわかることだが、その瞬間には、全てのことが尊く、眩いほどに感じられるものなのだ。これはとても不思議なことでもある。いま、これを読んでいるあなたの世界がどうなっているのか、私には知るよしもないし、さして関心もないが、ナックルで待ち合わせた気の置けない相手と列車に乗ってキルクスへと赴き、ステーキを平らげた後でこんな馬鹿な真似をして笑い合っているということは、何と素晴らしいことだろう!
 より集まったユキハミたちの恨めしい視線を浴びながらヒウン式アイスを食べ終わったら、私たちはキルクスの中心に構える「英雄の湯」に浸かりに行った。ガラルに伝わる英雄たちが、戦いの合間にその疲れと傷を癒したと伝わる温泉だが、近年の研究によって、その英雄の傍にはザシアンとザマゼンタもまた付き従っていたことらしいから、恐らくはその二匹も共にこの湯に浸かったに違いない。
 バシャーモはキルクスの寒さに震えていたからか、湯に着くなり一目散にその煙の中へと飛び込んで、まるでプールみたいな水飛沫を立てたので、付近を見張っていたトロッゴンに見咎められて一頻り説教をされた。そんな彼のことを苦々しくも微笑ましく思いながら、私はおもむろにスーツを脱いだ。ネクタイを緩め、ワイシャツのボタン、ベルトのバックル、ズボンの留め金を外すと抵抗感もなく私から脱げていく。全く、こういう時に不必要な衣着の不便さを思い知らされる、つくづく、大した仕事だと思う。
「ふと、思ったことだけれど」
 湯気の向こうのバシャーモに声をかけた。無骨な表情ながら、よほど温泉というものに心躍らせていたのか、肩まで浸かっているだけでは満足できなかったのか、人気のないことをいいことに、それこそプールか何かのように、広い温泉の中を慎重に平泳ぎして、端から端まで往復して帰ってきていた。かくとうタイプというものは、こういう場所へ来ると泳がずにはいられない性分なのだろうか? みずタイプながらあまり泳ぐのは好きではない私には、その辺りの事情はよくわからなかった。
「ああ」
「どうしてあの時、僕に付いてきてくれたんだ」
「どうして」
 考えながらお湯の中に潜って、ぷはっと息を吐きながら水面から顔を出したバシャーモは、両手で頻りに顔の水滴を拭った。「ア・ラ・カロセーズ」の頭部の髪のような羽根が一際決まって見えた。
「わからない」
「わからない」
 私は思わず、彼の言葉を反芻した。わからない。
「正直、どうしてあの時あんな店に入ったのかもわからないんだ。こういう立場だし、アルコールもあんまり摂らないから」
「ムシャクシャしていた」
「そうかもしれない」
 彼は口元まで湯に浸かって、子供みたいにブクブクと泡を立てた。本当に、子供みたいで、純真で自然だと思った。
「でも、あんたに腰を回された時、なんだかいいな、って思った」
「へえ」
 私も彼のように口元まで「英雄の湯」に浸かって、泡を立ててみた。ジメレオンやメッソンの頃でさえ、こんな真似をしたことは一度もなかったことを痛感する羽目になった。背中の薄い翼膜がぷかぷかと湯に浮かぶ感覚がむず痒い。
「なんというか」
 バシャーモは虚空に目を泳がせながら、テッカニンのように飛び回っている言葉の断片を何とか掴み取ろうと努力していた。
「あんたを抱きたいな、って思った。抱かれたい、と思った」
 あんたを抱きたい、抱かれたい。悪い、なんだか恥ずかしいことを言ってしまった。同じことをホテル・イオニアの一室でも彼は言ったのだった。
 チェックインしたホテル・イオニアの西館の広々としたダブルルームで、私とバシャーモは、上質なキングサイズベッドのヘッドボードに背をもたれながら、客室用のテレビをつけて、そこで流れていた映画を観ていた。
 それは昔、観たことのある名画だった。確か、古代のシンオウを舞台にした悲劇が原作だったはずだ。人しれぬ古びた遺跡に封印されていた、恐るべき「禁術」が何者かによって解放された。その力を得たフーディンによって、意思の神たるアグノムが殺されてしまう。ユクシーから蘇生の術の存在を示唆されたことで、無鉄砲なエムリットがアグノムの仇討ちをすべく「禁術」を奪った相手に復讐しに行く。「禁術」の使い手となった悪辣なフーディンを打ち破るために、エムリットは自らも「禁術」を身につけるが、それは「自分の命を使ってでも、相手に果てしない苦しみを与え、死に至らしめる」ものだったために、仇を討つ間もなく死んでしまった。全てを知ったユクシーは嘆きながら、エムリットの亡骸をアグノムと共に氷の棺の中に納め、「禁術」を封印する。ユクシーの言った蘇生の術というのは、そもそも存在せず、ただエムリットの気迫に押されて口走ってしまったに過ぎなかったのだった。悲しげな二つの氷棺を映しながらフェードバックして映画は静かに終わる。
 私は何度も観ていて、細かい舞台装置や台詞もある程度頭に入っていた映画だったから、かなり寛いだ姿勢で鑑賞していた。物語が進むうちに、私はずり落ちるようにバシャーモの膝に頭を置いて横たわってしまったが、彼は何も言わず、時々不器用に左手で私の黄色い鶏冠を撫でた。ゴワゴワとした赤い毛並みを感じながら、視線をテレビの画面から彼へと移すと、じっとテレビの画面を見つめて、映画の世界に没頭している表情を見ることができた。そして、うっとりするような腹筋と、羽毛でも隠しきれない胸筋も、間近で見ることができた。
「どうしたんだい」
 画面に浮かぶ「fin」の文字を見届けながら、私は言った。
「ん」
「すごく真剣に観てたな、って思ったから」
「ああ」
 バシャーモもまた、同じ画面をじっと眺めていた。同じ瞬間を共にあることの幸福が、私にも改めて、身に染みてきているところだった。涙が出そうなくらいだ。
「ちょっと、考え事をした」
「何だい」
「俺は、誰かのために死ねるかって」
 バシャーモは一瞬、考え込んだ。
「誰かのために自分の命を捧げられるか、誰かのために一生を尽くせるか、そんなことを考えてた」
「ストイックだね」
 私は言った。
「いかにも、かくとうタイプのポケモンらしい考え方だと思うな」
「そうだろうか」
「素敵だよ」
 私はおもむろに腕を彼の頬へと伸ばした。そして、彼の顔を引き寄せて貪るようにキスをした。口づけは何度交わしても足りなかった。彼の野生児のような心の純真さと肉体の美しさのために、一つになりたいという衝動に駆られて、私は彼を強く抱きしめて、求めあったけれど、上半身も下半身も頭の向きですらもあべこべに取り付けられたウオチルドンのようなもどかしさを感じ続けていた。
 私は剥ぎ取るように、スーツを床に脱ぎ捨て、マホイップのようなシーツに寝そべるバシャーモへと飛び込んで、肉体が溶けそうな気持ちになるまで彼と愛撫しあった。
「ポワル」
 やっと嘴を離して、荒い呼吸をしながらバシャーモは私のことをそう呼んだ。
「わかってる」
 傍目から見たらあまりにも馬鹿げているだろうが、私たちは飽きずにセックスをした。恋人同士がするような、あまりに単純な、欲望の求め合い。私は彼の紅白の羽毛に包まれた、細身の引き締まった雄鶏の肉体を全身で味わった。私のトカゲの皮膚に、黒手袋を嵌めたような手に、長い舌に、彼の官能がたっぷりと、ポットデスの紅茶のように注がれていた。ディープキスがあり、ペッティングがあり、フェラチオがあり、アニリングスがあり、ドギー・スタイルがあり、深いオーガスムがあった。まるで、長大な博士論文の冒頭に添えられた淡々と続く献辞のようなホモセックスだった。
「ポワル」
 彼はまた私のことをそう呼んだ。それはちょうど、吐精してもなお逞しく怒張したペニスを私の底知れぬアナルから引き抜いた時であり、私がいきみながら、彼のペニスを排泄する興奮に任せて四つん這いのままマスターベーションをし、泥のような精液を吐き出した時だった。
「変なことを、言っていいか」
「いいよ」
 四つん這いのまま、私は振り返ってニッコリと微笑んでみせる。
「俺も、あんたに同じことを『されたい』」
「されたい?」
「あんたが気持ちよさそうだから。俺もあんたみたいに気持ちよくなりたい」
「構わないよ」
 私は、笑いながら答えた。私たちはベッドの上で、持ち場を交代した。バシャーモは静かに四つん這いになると、腰を横に揺すりながら私の目の前に突き出した。私のような太くて長い尻尾がない分、窄んだ彼のアナルがよく見えた。私は指を口の中でじっくりと濡らしてから、人差し指で軽く叩いた。彼は咄嗟に短い喘ぎ声を上げた。
「好きにしてほしい」
「かわいいな」
 そっと背中の縦筋に舌を這わせてから、普段はこの世のろくでなしどもに突き刺す指を、彼の未開発のアナルへと挿し込むと、思いの外抵抗感があった。第一関節辺りから先に進まなくなったので、指の腹を直腸の入口辺りでほじくるように掻き回すと、それだけで彼の精悍な尻がピクリと震えた。
「けど、慣らすにはちょっと時間がかかる」
「そうなのか」
「このままペニスを挿れてもたぶん気持ち良くはないし、怪我するかもしれない」
「ああ」
 バシャーモはシーツの上で俯きながら、独り言のように言った。
「大丈夫、僕だってそうだったし」
 しかしながら、どのようにそうだったのか、もはや私には思い出すことができなかった。ジメレオンやメッソンだった頃の感覚を、私は経験したにもかかわらず、うまく信じることができないのだ。いけすかない加齢臭を放つ中年の上司にもみずみずしい青春があり、無垢な幼年時代が存在したことなど、到底信じられないのと同じことだ。
「次会った時のお楽しみにしよう」
「そうだな」
「僕も君の中に挿入るのが、楽しみだよ」
 私は代わりにたっぷりと彼のお尻とアナルを舐めてから、四つん這いのバシャーモの股間に屹立するペニスを扱いてやった。改めて、でっぷりとして、掴み心地のよい立派な逸物だった。白くて熱い濃厚な彼の精液が、たっぷりとシーツの上に注がれるのを、私は堪らない思いで見つめた。
 そうして私たちは眠りについたのだったが、健やかな寝息を聞いて彼が眠りについたことを確かめると、こっそりとベッドを抜け出し、タオルで簡単に汗と雄の汚れを拭き取って、極力音を立てないように窓を開けた。バルコニーへ出ると、私は手摺りに足をかけて一息で飛び上がって屋根に上った。
「おっ、気づかれちゃった?」
 そこには案の定というか、やはりというか、奴がいた。全く、巨大なナマズンとの格闘は一体どうしてきたというのだ?

4 [#7S37JQS] 


「ああ、気付かれちゃったかあ。気配消してたつもりだったんだけどなあ」
 いかにも白々しい態度で、「ケロマツくん」が言った。
 といってもそれは私があらゆる意味を込めてそう呼んでいるというだけだ。「ケロマツくん」とは種族としてはゲッコウガだし、コードネームはドライと言った。辺りをほっつき回る時の名前はその時々の思いつきで決めていた。
 「ケロマツ」くんは私がよろしくやっている間、水掻きのついた手のひらを扇子のように広げて、キルクスの雪を花びらか何かのように受け止めては興じていたようだった。山脈から吹きつける風に、マフラーのような桜色の舌がたなびいて、少し霜もかかっている。
「『ケロマツくん』がガラル入国とは、どういう風の吹き回しだ」
 率直に言い放った。「ケロマツくん」は、ゲッコウガ特有の糸目を保ったまま、軽薄な表情で私をまじまじと見つめている。いつものことである。私とコイツとはいつもこうだった。私よりも少々先輩といったところだが、それは六つ子の末弟にとって三男が一応兄であり年上である、という程度のことでしかない。書類上、ヤツの登録がほんの少し早かった、それだけのことだ。
「どうも、下ではお楽しみだったようで」
 彼は私の問いかけには答えなかった。私だってそうやすやすと答えるわけがないとは、付き合い上知っているはずだ。
「いつからいた」
「薄々噂に聞いていたが、ゼクス殿もただ春を(ひさ)いでるだけの『バイタ』ではないんだなあ」
「いつからいた、と聞いている」
「おおっと」
 神の啓示でも聞いたかのように、「ケロマツくん」は目を開いた。誰かと会話している時でも、こいつはいつもこの世界には自分しか存在しない、みたいな受け答えをした。私はどちらかといえばそのやり方は好きではないし、はっきり言って嫌いであるが、それもまた彼のスタイルなのだから仕方がなかった。
「そこの広場で連れとアイスを食ってるところは見てたよ」
「下世話なカエルだ」
「悪いね。でも、大事な大事な部下のことを案じて、自分としても、一応成り行きは見守っておかないといけないだろう、って言うのもあるから」
「それはどうも」
 私はドライな返事をして、ホテル・イオニア西館の屋根からキルクスの街並みと、その向こうに広がるキルクスの入り江を眺めた。美しい光景だ、ただすぐ隣に鼻持ちならない「ケロマツくん」が飄々と佇んでいることを除けば。
「インテレオンとバシャーモのつがいなんて、出来過ぎなくらい出来過ぎてる」
 「ケロマツくん」がボソッと呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
「何が言いたい」
「ははは。お似合いだねって言いたいんじゃないか」
「どういたしまして」
「けど、そんなに雄のポケモンに飢えてるんなら、いつでもこちらは空いてるって言うのになあ」
「第一に同業者とヤる趣味はない」
 私はきっぱりと言った。
「第二に、それが形式上ではあれ直属の上司となれば尚更だ。第三、同性だろうが名目上の部下にそのようなことを抜かすのは紛う事なきセクシュアルハラスメントにあたる」
「冗談じゃあないか」
 満月じゃあないか、十五夜は俺たちのお祭りじゃあないか、と「ケロマツくん」は付け加えた。いかにもカエルらしい、しなやかに鍛え上げられた両脚を大きく伸ばして、月を抱きしめようとするかのように両手を広げる。フェアリータイプでもないくせに、それどころか正反対のタイプを持っているくせに、ニンフィアのように月の力を浴びようとしているみたいだった。やれやれ。
「それにしても、スゴいじゃないか」
「何が」
「見ての通り世界は美しい。幻想的だ。しかし、こうしている間にも誰かは苦しみ、死のうと考えているものさえいる」
「そうかもしれない」
「世界にはあらゆる不正義が蔓延っている。それにもかかわらず、罰せられるべきものは大概は保身に走り、最後は逃げおおせる。虐げられた者たちの苦しみは一生消えないが、傷を与えた者はそんなことすら忘却してしまう」
「理不尽な世界だ」
「ボスが言うように、俺たちのできることは世界の歪みをほんの少し矯正することでしかない」
「その通りではある」
「うん、全くその通りなんだ」
 大きく息を吐き出すと、「ケロマツくん」はゆっくりと腕を組み、つま先立ちになりながら広場の中央のモンスターボール型の足湯(さっき、私とバシャーモがヒウン式アイスを食べていたところだ)から立ち上る紫雲のような湯気を見つめた。横目から見るその姿には、ある種の貫禄が感じ取れることを私としても認めないわけにはいかなかった。私がこのゲッコウガのことを「ケロマツくん」と呼ぶのは、実際に彼が大都市の地下で巨大なナマズンと格闘するのにも等しいような仕事を積んできていたし、私自身もその目で見たことがあるからでもあった。
 もっとも、そういう瞬間はエピファニーのように滅多にあるものではなかったし、顔にも口にも出すのは勘弁願いたかったが。
「で、最初の問いかけに戻るが、どうしてガラルに来た」
「ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ」
 途端に、いつものような糸目に戻った「ケロマツくん」が真っ青な指で鼻先を擦った。
「何でだと思う」
「知るか」
「頼む、何でかって聞いてくれ」
 コウガ、と奴は鳴いてさえ見せた。私はとりあえずため息を吐いた、とりあえず、だ。「ケロマツくん」はひょっこりと私の顔を覗き込んでは、赤ん坊をあやすかのような顔をした。その間の抜けた面を見てどことなく、カロスでは有名だとか聞いた、とある色違いのゲッコウガのことを思い出させないわけにはいかなかった。名前は忘れたが、ちょうどコイツのように並の個体よりも鍛錬された肉体をしていて、剽軽な口調で喋る愉快で好色なゲッコウガ。
 私は沈黙した。「ケロマツくん」は処置なしとでもいいたげに首を大きく縦に振った。そして私の手にこっそりと一枚の紙を握らせた。
「今どき、紙のメモとはアナログだな」
「今どきだから、さ」
 欠伸をかまして、「ケロマツくん」は屋根の上であぐらを掻いた。帆のように張った耳をパタパタと冷えた外気にはためかせて、ピタリと止めた。真面目な話をする時の、これが彼のルーティンだった。
「イッシュの国防総省じゃ、本当に守秘すべき情報は決してデジタルにはせず、ファイルとして特別な場所へと保管するもんだ」
「そこまでする内容か」
 私はその紙に目を通した。そこには一人の肌の白く人相の悪い男の顔を正面から写した写真と、詳細なプロフィールが記載されていたが、一目見て私はそいつのことを思い出した。
「『ハエ男』」
「うん、そうだ」
 「ケロマツくん」はさらに姿勢を崩して肘枕になった。そのままジョウトの酒でも嗜み出しそうな風情だった。
「覚えてるだろう」
「最初見た時の名前はサツキバエフだったな」
「名前の通り、うるさ(・・・)いヤツだった。とんだニックネームを付けたもんだな。そいつが俺のマスターじゃなくて良かったよ。『ケロマツくん』より酷そうだあ」
 彼の言葉には答えず、私は話を続ける。
「アブリボンのようにちょこまかと、テッカニンのようにすばしっこく飛び回る男だった。元々はイッシュ・プラズマ団に所属していたが、分裂後は旧指導者率いる右派の一員となり、『ポケモン解放戦線』と称して各種工作に従事。ソウリュウ氷化テロの主犯格として国際手配されたのち、カロスへ逃亡、潜伏。その間にフレア団に潜り込み、工作部隊に配属されてイベルタルのエネルギーを用いた一連の粛清計画に関わったが失敗。公的には、セキタイ北部のフレア団基地の崩壊に巻き込まれて、リーダーともども死亡したとされる。そんな男をなぜ今になって」
「『ハエ男』は生きている」
「まさか」
 「ケロマツくん」が青い尻を掻いた。もう十分だろうという風に手を伸ばすと、私から「ハエ男」の紙を引ったくった。
「まさかだと思うじゃん? でも確かな筋の情報だ。エーテル財団の関係者から情報提供があった。こりゃ、間違いないな」
「そしてそれが、お前がここに来ている理由でもある」
「ご明察でやんす」
 でやんす、などと普段口にもしないような嬉々とした語尾をつけて「ケロマツくん」が言った。
「『ハエ男』はいま、ガラルにいる」
「だが、一体どうしてだ。エール団をそういう連中と勘違いでもしたか」
「流星の民の末裔の言葉をもじれば、ちと想像力もユーモアも足りないよ、ってとこだな」
「何が言いたい」
「ガラル住みなら、見当はついてるだろ」
 私は首を振った。微かに頭の鰭にくっついた雪が舞い落ちていく。
「マクロコスモス社に関係する利権か」
「もっと具体的に言えば、『ムゲンダイナ』ってやつのエネルギーに関わるもの、な」
「その事件自体は前社長の辞職、起訴をもって解決は見た。『ムゲンダイナ』自体も捕獲され、無力化された」
「しかし、その『ムゲンダイナ』を手にしているのは誰だい?」
「表向きは事件後に設立された第三者機関において厳重に管理されている」
「けれど実際、『第三者機関』なんてのはどだいおかしな話、ってわけだ。何せ、前社長と『第三者』でなかった連中なんて、この地方にはほとんどいないんだ、そうだろ?」
「だから、『ムゲンダイナ』は事実上、現チャンピオンが前チャンピオンとの合意のもとで保有している。もちろん、これは一部の者しか知らない」
「『ハエ男』はどうやらそこに目をつけたらしい」
 肘が疲れてきたのか、「ケロマツくん」はまたあぐらを掻く姿勢に戻った。
「どうして生きてたかは知らんけど。とにかく、奴は半年ほど前にヨロイ島からガラルに密入国したと推定されている。鍋底砂漠周辺でしばらく潜伏。慣らしの洞穴に何者かが一定期間生活していた跡が見つかってる。その後ガラル本土に入り、複数の偽名、肩書きを用いて前社長の秘書を含むマクロコスモスの関係者複数と接触したのが確認されている」
「それにしても」
 私は「ケロマツくん」に向かって言った。
「どうして今まで私に伝えなかったんだ。ガラルのことであれば、真っ先に私に知らされるべき事象だと思うのだが」
「さあな」
 はぐらかすように「ケロマツくん」は背伸びをすると、そのまま後ろに倒れ込んで大の字になった。
「ボスがそうしたんだから仕方がない」
「ボスが」
「『ハエ男』が元フレア団関係者であるからには、一応、カロスの案件でもあることだし。それに、『ムゲンダイナ』に近づこうとしているのも不穏だ。一度世界の消滅を企てた連中の一員ってからには、健全な使い方をしないことは明らかだ。ってことで今回は、普段は反りの合わないガラルとカロスで共同戦線を組ませよう。ボスの意図を忖度すれば、そんな感じかねえ」
 私は顎に手をあてて、そのことについて深く考えてみた。しかし、どうも合点がいかない。
「そうだ。何より」
 「ケロマツくん」は私の顔を丸い指で差しながら、ニヤニヤと凝視して言った。
「そういう時に、イケメンなバシャーモとイチャイチャしてるインテレオンのことを知って不安になったんじゃないかな、『ポワル』くん」
「減らず口を」
「ほら、握り拳が震えている。さっさと話を切り上げて、彼の眠るベッドに戻って、もっとエッチしたいって顔が言ってるぞ」
 るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる!
 そう叫んで「ケロマツくん」は逆三角の胴体を激しく震わせて爆笑した。息も絶え絶えとばかりに寝返りを打って、立ち上がるのも困難とばかりに文字通り笑い転げた。私は頭に上ってくる血の不快感をじっと堪えていた。瞬膜が閉じて、周囲がより薄暗く見えていた。
「他に何か伝えることはないのか」
「うーん」
 やっと笑いの発作の止まった「ケロマツくん」めは、挑発するように長いあくびをかまして、それから黙り込むと私の顔をじろじろと観察し続けた。いつだって下世話でいやらしい糸目をしている。やはり先輩だろうが何だろうが、コイツはいけすかない。思えば、ずっと彼には弄ばされっぱなしだった。今までもそうだった。やはり、これからもそうなっていくのだろうか? やれやれ、どんな立場であれ、社会の歯車というのは辛い立場だ。
「ま、そうだな」
 「ケロマツくん」は目を見開いた。突如として生気の失せた、死骸のような目に変わっている。呆気に取られた私は、ほんの少し怯んでしまった。
「『ハエ男』は必ず殺す。何としてでも、どんな手を使っても、ね」
 私が言葉を出そうとするのを、水掻きを目一杯広げた手を突き出して「ケロマツくん」は制止した。瞳にはあっという間に豊かなハイライトがきらめていた。ガスみたいに感情が変わる奴だ。
「けどまっ、今晩は楽しんでくれ、『ポワル』くん、じゃなくて、ゼクスくん」
 月をめがけて吾等ゆく夢の脚。「ケロマツくん」はそう呟いて、バネのような脚で屋根から高く跳躍してキルクスの幻想的な闇の中へと消えていった。全く、久々の大仕事になってしまったな、と私は思った。「ハエ男」。
 私たちのダブルルームへ戻ると、バシャーモはうつ伏せの姿勢で寝息を立てていた。鉤爪でギュッとマットレスカバーを掴んで、マホイップのクリームのような枕に顔をグリグリと埋めていた。そっとシーツを捲ると、彼の赤い羽毛からなる逞しくも美しい背中を眺めることができた。かくとうタイプのポケモンとして鍛え上げられた背筋と大臀筋、ハムストリングスと腓腹筋の彫琢を目にしたら、私はすぐに勃起してしまった。
 バシャーモのア・ラ・カロセーズの短髪を優しく撫でながら、私はそっと彼のお尻の谷間に自分のペニスを当ててゆっくりと腰を振った。本当は彼の中に入りたかったが、指一本受け入れるのにも精一杯だったアナルを傷つけてしまうわけにはいかなかった。それに、彼の峻厳なお尻の形を感じながら羽毛に包まれて素股をしているだけでも十分だった。ペニスの先端がちょうどバシャーモの短い尾にぶつかって埋もれると、中に入っているのに似た満足感を味わうことができた。
 彼の腰が微かに盛り上がって、私のペニスが持ち上げられる。大臀筋にぎゅっと力が入れられると、谷間の中で締め付けられたペニスに何とも言えない快楽が伝わった。
「ひんやりする」
 寝言を呟くようにバシャーモが言った。
「嫌だったかい」
「いや」
 彼は枕に顔を埋めたまま首を振った。
「気持ちいい」
「うん、僕も気持ちいいよ」
「もっとあんたを感じてたい」
 バシャーモは控えめに腰をくねらせる。その動作はたまらなく健気で、私は彼のことを幸せにしてやりたいと心から願い、胸を熱くする狂おしさがこの細長い体いっぱいに広がった。
「好きだ、バシャーモ」
「俺もあんたを愛してる」
 私は彼のお尻の間にペニスを挟んだまま腰を振った。やがて絶頂に達すると、マットレスにグッタリと身を沈めるバシャーモの背中に精子をかけた。赤い背中に振りかけられた白い飛沫を、馬鹿げたことに美しいと思った。

5 


 私たちがあの男を「ハエ男」と呼んでいたのは、単なる洒落というだけには留まらなかった。「サツキバエフ」などというふざけた名前はもとより、実際、そいつはあらゆる面において、「ハエ」と呼ばれるにふさわしい男だった。
 プラズマ団時代の悪行については言うまでもない。「ハエ男」は、偽善的なポケモン解放計画を推進していたゲーチス・ハルモニアの最も忠実な部下の一人だった。解放計画の実態も早い段階で知りながら奴に協力し続け、次第に団員たちの間では最右派の領袖と目されるようになり、ポケモン解放と称した、市民からのポケモンの略奪行為、さらには誘拐したポケモンへの拷問を主導する立場にまでなっていた。内部分裂後には、その行為はいっそう残酷さを増した。
 職務上、「ハエ男」が主導したポケモンに対する残虐行為に関する報告書を読んだことがあるが、読むに堪えないおぞましい内容だった。例えば、ある男の子が大切にしていたマメパトは、人間への憎悪を植え付けさせるために、ムシャーナの漂わせる黒い煙を10日間浴びせられ続けた末に極めて凶暴な性格になり、手が負えなくなると即座にキリキザンの刃によって屠殺された。これらを実行したムシャーナとキリキザンも、元はやはり一般市民のムンナとコマタナだったが、長期間の虐待を伴う洗脳によって、本来の性格を喪失していて、ポケモンセンターの人々の努力も虚しく、元の状態に戻ることはなかった。そして、これを証言した、実際に拷問を行ったプラズマ団員もまた、数年もの間、毎晩ダークライに取り憑かれたように悪夢を見続けた(今ではシンオウのヨスガシティの教会で働いている、とはどこかで聞いた後日談だ)。
 こうした話が数千枚のA4用紙に、ほとんど改行されることなく記録されていた。酷い話には事欠かないというわけだ。かつて世界各地で行われていたアブソル狩りの記述の方が、人々の誤解と裏返しの善意がある分、まだ正気で読むことができるだろう。プラズマ団の瓦解後、多くの人々が奪われた自らのポケモンたちと再会しようとしたが、不幸にも「ハエ男」と関わることになったポケモンたちは一匹たりとも持ち主のもとへと帰ることはなかったと言えば、いかにその所業が悪魔じみていたかがお分かりいただけるだろう。並の人間なら怒りに震えるのを通り越して、錯乱に陥ってしまうほどの犯罪を、「ハエ男」は眉一つ動かさずにやってのけたのだ。
 そうした「ハエ男」の行いに対して、私はある種の畏怖さえ覚えてしまうくらいだった(もちろん、賞賛しているわけではない)。奴のポケモン観は、ゲーチス・ハルモニアが抱いていた利己心や独占欲とは全く異なる類のものであると私には感じられた。ポケモンに対する憎悪ですらなく、一言で言って、冷徹なほどの無関心。「ハエ男」にとってポケモンたちは、自らの破滅的な思想を実現するためのコマですらなかった。見方を変えれば、それ以上にもなるし、それ以下にもなった。奴にとってポケモンとは、苛立った時に感情に任せて壁に拳を打ちつけたり、ものを投げつけたりする壁のようなものに過ぎなかった。プラズマ団とは、ポケモンを壁のように何度でも打ち壊したり、壊れたら建て直したりすることが許される格好の場であった。
 あまりにも度を越したと思える「サツキバエフ」の行動に、あのゲーチスが何と言ったかは残念ながら証言がないが、何となく、彼ですら非難めいた言葉の一つや二つ、口にしたのではないかと思う。あの男にだって、それなりにポケモンへの愛情のあったことはあのサザンドラ一匹の存在を見ればわかる。
 だからこそ、私の組織は何度も「ハエ男」を無力化しようとしてきたが、どれもあと一歩のところで失敗に終わった。殺したと思っていたら、ひょっこりとまた別のところに現れるのだ、それこそ、「ハエ」のように。イッシュの同僚のゾロアークが忌々しげに話してくれたことには、ホドモエの今は亡き倉庫街で他の団員にイリュージョンし、奴の眼前で悪の波動を浴びせたが、奴は死ななかったそうだ。そこにいたのは奴ではなく、「サツキバエフ」に変身したメタモンだったから。簡単で安易、しかも陳腐なトリックだが、我々を苛立たせるには効果的だ。次に、セイガイハ近海の小舟に乗っていたところを、急襲して船ごと奴を海の藻屑にしてやったが、それも当てが外れたのだった。そのようにして、奴は狡猾に生き延び続けた。
 やがて、プラズマ団が組織としては完全に崩壊し、「ハエ男」がカロスのフレア団に加入してから、奴の無力化を担当したのがあの「ケロマツくん」である。結果はご存知の通りだ。やはりメタモンに撹乱されて奴を取り逃した挙句、あのエネルギープラントごと奴が爆死するのを長いベロをしまって見届けていたというわけだ。しかしながらそれもまた、どうやらメタモンの変身に過ぎなかったようだが。態度こそ軽薄だが、「ケロマツくん」は任務の完徹には強いこだわりを持っている雄だ。この間キルクスで会った時に「『ハエ男』は必ず殺す」と言ったのも、よほど奴に出し抜かれたのが屈辱的だったからなのだろう。もしかしたら、わざわざガラルにまで首を突っ込んできたのも、その意外なほどのプライドの高さゆえなのかもしれない。それを指摘したところで、「ケロマツくん」は「ばらあらばらあ」と言うだけだろうが。
「今度ガラルで複数確認されている『ハエ男』もまた、メタモンの変身である可能性はないのか」
 ナックルシティの城壁の上で再び「ケロマツくん」と落ち合った時に、私は念のために確認した。この奇怪なゲッコウガの意向で、数日に一度、ガラル地方のどこか無作為な場所に集合して、情報を交換するようにしていた。高台から見下ろすナックル丘陵の光景はなかなかの壮観だった。
「素晴らしい能力を持っている個体であることを大前提にして」
 「ケロマツくん」が言った。
「よほどマスターになつき心から深く信頼しているのであれば、内面まで真似ることができるかもしれないがな」
「だが、『ハエ男』に限って、そんな芸当はできないし、あってはならない、か」
「うん。メタモンだろうがなんだろうが、滲み出る邪悪さを見抜けないほどバカじゃない。少なくとも、これまで奴に変身したメタモンは全て囮にされてきたわけだし。『ハエ男』はハエのくせに、やたらと警戒心が強い、それに勘も鋭い。まるで頭の中にネイティオを内蔵してるみたいにね」
 青い指でこめかみ辺りを強く押し付けながら、ドライは言った。時々はそう読んでおかないと「ケロマツくん」のコードネームを忘れてしまいそうだった。
「もちろん、今度も錯乱のためにメタモンを通した自らのコピーを大量に泳がせるだろさ。ヨロイ島に潜伏してたのもワークアウトの海にある『メタモン島』でそういう個体をいくつか確保するためだろう」
「今のところは」
 私はスーツの擦れを気にしながら言った。
「リーグ関係者等に接触した人物はオリジナルと見て間違いない、ってことでいいんだな」
「短期間でメタモンにヒトの言語を仕込み、さらには持ち主と同等の言語能力を操らせることは、一流のブリーダーでも不可能だ。それに、もし奴に永遠のような時間と山のようなメタモンがいたとして、そんなこともともと出来ようはずがないがな」
 「ケロマツくん」はそう断言した。もし間違っていたとしたら、その場でハラキリでもしてやるといった気迫に満ちていた。
 ともかく、「ハエ男」は本当に「ハエ男」なわけだった。ハエ叩きで殺したと思っても、しばらくするとまた耳に障る羽音を鳴らしながら私たちのもとをうろつき回る。いくらハエ叩きを振り回しても、両手で叩き合わせるついでにそいつを巻き込もうとしても、最後は相手の狡猾さが上回る。そんなことが繰り返されてもう何年にもなって、とうとう「ハエ男」は私のいるガラルまで飛んで来たというわけだった。
 やれやれ、厄介なことになったものだ。そう考えながら私は一匹バウタウンのロッジにいた。脱いだスーツの皺をしっかりと伸ばしてハンガーにかけると、シングルベッドに寝そべって、テレビの電源をつけた。
 ちょうどテレビではトーナメントの中継が始まったところだった。盛大な花火が上がり、フィールドの中心でチャンピオンがスポットライトと観衆の熱狂を浴びている。シーズンオフにシュートスタジアムで行われるエキシビジョン。チャンピオンの名の下に開催される、ガラルでも伝統ある催しである。前チャンピオンの代名詞であるリザードンポーズが初披露されたのは、このエキシビジョンでのパフォーマンスであることは誰しも知るエピソードだ。何より、主催する立場のチャンピオンは、非公式な試合でも勝つことを求められるから、一時も休まる暇がない。ここでの勝敗のみならず、チャンピオンの些細な言動や所作に至るまで、翌日のタブロイド紙のネタされるし、時にはスキャンダルにさえなり得る。直接は知らないが、前の前のチャンピオンや、さらに前のチャンピオンなどには何かと悩みのタネがあったそうである。ガラルにおいてチャンピオンとは、それこそ「王」に近しい存在として品位を問われ続ける存在なのだ。
 私は華々しいスタジアムの熱狂を眺めながら考える。「ハエ男」のいたプラズマ団にも「王」として担がれて、その立場に苦しみ続けた青年がいた。彼は人間でありながら、ポケモンと心を通わすことができたそうだが、もし私のようなインテレオンと会ったらどのような反応をするものだろう? 彼の慈愛的な思想とは逆に、野生を捨てて人間社会に同化し、さらには従属し搾取さえされている「ゼクス」兼「ポワル」のことを、果たしてかのN氏は哀れむのだろうか? あるいは、思いがけない別の言葉を私にかけてくれるのだろうか? 
 わからない。私は首を振る。
 それはともかくとして。おそらくは、この熱狂の坩堝のどこかに「ケロマツくん」はカントーのニンジャよろしく忍び込んでチャンピオンに目を光らせていることだろう。チャンピオンとなったトレーナーは、フィールドの中央、モンスターボールを象った白線の中心で高らかに開会を宣言している。いかにもガラル的なしきたりめいた開会の辞も、すっかり板についてきたという印象だ。「ケロマツくん」には滑稽かもしれないが、無粋なカロスのカエルにはガラルの風土はわかるまい。
 さしあたって、我々のすべきことは、「ハエ男」が接触する可能性のある「ムゲンダイナ」の共同管理者である新旧チャンピオンの周囲に注意を払うことだった。「ムゲンダイナ」がどのように保管されているかは、ガラルポケモンリーグもその上位組織たるIPLAも極秘にしている。というか、大半の連中が知らされていないというのが実情だろう。「ケロマツくん」曰く、我々の組織はちゃんと調査していた。世界の命運に関わることで、我々に関係のないことはない。「ムゲンダイナ」はポケモンホーム社の管理する特殊なボックスに管理されている。ポケモンホーム社——通称PH社と言えば、データ化されたポケモンの管理、通信を請け負う世界最大手のポケモンバンクであるし、その安全面に関してはポリゴンを数万匹送りこんでも突破できない障壁であると謳われていた。
 そんなPH社謹製の特殊ボックスの存在を知る者は共同管理者の二名を初めとしたガラルポケモンリーグの関係者ごく一部と、PH社の管理責任者、そして上層部に限られていた。緊急時に引き出す権限があるのは、共同管理者の二人だけ。なおかつ両者の合意があって、さらにはIPLAに報告し承諾された時のみ、担当者が何重にもかけられたロックを外して、初めて「ムゲンダイナ」の転送が可能になる、という仕組みだった。
 「ハエ男」がチャンピオンの周辺に出没しているのは、「ムゲンダイナ」の在りかを伺うためだろうと思われた。おそらくは、ある程度は奴の推測の範囲内にあるだろう。特殊ボックスでの厳重な管理、前委員長がそうしていたように、どこかの地下施設に匿っているか。奴が堂々と表に姿を現してみせたのは、ハエよろしく我々を苛立たせるための大層なご挨拶かもしれなかった。
 我々はウツボットやマスキッパのように、じっくりと「ハエ男」がやかましい羽音を立ててやって来るのを待っているわけだった。「ケロマツくん」こと「ドライ」がシュートスタジアムの壁にでも張り付いている間、私はバウタウンで会合に参加している方向音痴の前チャンピオンの動きを注視していたが、彼はいつも通り、「防波亭」からバウスタジアムへ行こうとして第二鉱山に迷い込みかけた以外に目立った出来事はなかった。
 チャンピオンの口上が終わると、すぐに第一試合が始まった。私は黄色い上瞼に力を込めて、大型の薄型モニターの画面を見つめた。ガラルでも有数の実力を持つキルクスのジムリーダーと対するのは若い男のジムチャレンジャーだった。チャレンジセットの白いユニフォームから、逞しくて唆られる胸筋が浮かび上がっている。いかにもな風貌の通り、ラテラル格闘ジム所属というテロップが画面下に表示された。間違いない。
 ガラル空手の型をアレンジした投球フォームで、モンスターボールが投げられる。私の目は釘付けになる。光と共に現れたのは、一匹のバシャーモ、何より私が日頃会っているあのバシャーモだった。「ア・ラ・カロセーズ」の短い髪型が凛々しくスタジアムに映えている。けたたましい闘鶏の雄叫びを挙げてアピールすると、弾けるような歓声が飛び交った。先鋒のガメノデスと向かい合った彼は、その鍛え上げられた左脚を上げて、戦闘のポーズを整えた。
 今度のトーナメントにジムチャレンジャーの手持ちとして参加することになった、と先日ナックルシティで一夜を共にした時に、彼は言ったのだった。実力を見込まれて、ガラルでの本格的なバトルを経験させることも兼ねてのジムリーダーの計らいだった。高名なトレーナーたちやチャンピオンと戦える貴重な機会になるし、結果次第では、もしかしたらジムリーダー直々の手持ちとして加わることがあるかもしれない、そんなことをバシャーモは話したが、淡々とした口調の中に確かな高揚感を聞き取ることができた。
「観に来てくれると、嬉しい」
「最近は出張ばかりだからさ」
 私は平然と嘘を吐いた。悲しい性のせいで。
「都合さえ良ければ観戦に行くんだけど。でも、テレビだとしても必ず観るよ」
「ありがとう」
 そうしてキスをしてくれた時とは違う、獣性を剥き出しにした目つきをした彼がいきなりガメノデスの眼前に飛び込んだ。インファイトの体勢だった。その気になれば高層ビルほどの高さを飛び越えることができると言われる脚ならば、神速で懐に潜り込むことなど容易だった。
 間髪入れずにバシャーモが痛烈な蹴りをガメノデスの石突からはみ出した腹へと浴びせると、不意をつかれた相手は何もできずに膝をついた。追い討ちをかけるように、野生に返ったような凶暴な目つきのままバシャーモが蹴りを叩き込むと、ガメノデスはたまらず出たばかりのモンスターボールへと退場してしまった。
 扇情的で大袈裟な実況と共に、スタジアムのボルテージが上がっていくのをひしひしと感じる。相性有利な対面とはいえ、ジムチャレンジャーがジムリーダー相手に先行する展開。何より、バシャーモのガラル地方でのデビューとしては、なかなか鮮烈なものと言えた。私は黒手袋をはめたような自分の拳をきつく握りしめて、内側に手汗の滲み出るのを感じながら、存在しない素朴な幼年時代のように胸を熱くしていた。
 バシャーモは次鋒として出てきたバンギラスに倒されたが、インファイトを一発決めてそれなりに手傷を負わせたので、先鋒としては十分な働きをしたと言えた。両膝をついて倒れかかる瞬間にボールへ戻される時、満員の観衆は健闘を称える拍手を送っていた。その後は、キルクスジムリーダーが大いに巻き返し、切り札であるセキタンザンを出すまでもなく快勝して試合は終わったが、猛火ポケモンの勇敢な姿がずっと脳髄にこびりついて離れなかった。
 クラクラするような興奮に駆られて、私はテレビを消すと、そのままシーツの上で四つん這いになって無我夢中で苦しいくらいに勃起したペニスを扱き始めた。昂ったままに射精して、下腹のスリットにしまわれた精嚢が枯れて引き締まる感覚を味わっても、性欲は収まるどころか、息が出来なくなりそうなほどの動悸がしてたまらなかった。戦っているバシャーモのあの殺人的な目つきを思いながら、そんな彼に今すぐ乱暴されたいと願いながら、私は一晩オナニーに耽っていた。
 私は幸福になりたくてたまらなかった。

6 


「ハエ男」は相変わらず姿を見せなかった。
 私と「ケロマツくん」もまたそれぞれすべきことをなしていたが、注目に値するような変化は何も見出すことがなかった。チャンピオンとタワーマスターが秒単位でのスケジュールをこなすのに合わせて、ガラル全土をシュートからカンムリまで駆け回り、「ハエ男」の微かな羽音をも聞き逃すまいとしてきたのだが、我々の日々は淡々と過ぎ去っていくばかりだった。
「愛は『時間』に弄ばれる道化ではない」
 と、空虚な情報交換の夕べに「ケロマツくん」が呟いた。張り合いが無さすぎてとうとう頭がおかしくなったものかと思った。
「何の話だ」
 私は目の前の蛙が言っていることについて考えた。シェイクスピア『ソネット集』第116番。’’Let me not to the marriage of true minds‘‘という一行に始まり、時間を越えた愛の不変性を讃えた恋愛詩の9行目にある一節。
「ポワルくんの話さ」
 「ケロマツくん」は左手の水かきを口に添えながら長い欠伸をして、鋸壁の縁で手慣れた爪先立ちをして、ナックルシティの街並みを見下ろした。
「絶景かな」
 私もつられて奴の見つめる方向を眺めてしまった。確かに、絶景ではあった。街の中心であるナックルスタジアムと一体化した巨大なキープの最上階、「タワートップ」と呼ばれる場所に私たちはいた。「ムゲンダイナ」の暴走によって屋根が吹き飛ばされ、今は剥き出しになったこの場所からは、古式ゆかしいナックルの城下町と、ワイルドエリアの大いなる広がりを一望することができた。タワーの両側には5階層の摩訶不思議な空中歩廊が奇妙にもバランスを保っていた。おかげで、あちら側からこの街を眺めれば、まるでダイマックスしたシンボラーが侵入者を威嚇しているように見える。
 実際、この街はそんなシンボラーに守られているかのように堅固であり続けてきた。ただ、1000年先を見据えた老婆心に満ちた一人の男が地下深くに「ムゲンダイナ」を隠匿していたことを除いては。鉄骨を剥き出しにして、溢れ出さんばかりのエネルギーの光を漏らしているアーチの残骸は、今となってはそんな男の夢の名残りに過ぎなかった。しかし、その残り香が巡り巡って、私たちをこんな場所で落ち合わせ、「ケロマツくん」に似合わないシェイクスピアのソネットを呟かせることになるわけだった。
 「ケロマツくん」は大袈裟に感嘆しながら黙っていた。私も黙っていた。気まずくはなかった。それがいつものことだったからだ。インテレオンの私とゲッコウガの奴とでは、時間の流れ方が違う。それだけのことだった。
「もしこれが誤りでっ! 私の考えが嘘だとしたらあっ!」
 「ケロマツくん」は急に叫んだ。13行目。ソネットの締めくくり。
「どうするさ? ポワルくん」
「何をだ」
「だからさ」
 奴は鋸壁に腰掛けて、場違いなくらいにまったりとした顔で私を見た。急に首が苦しくなった私は少しだけネクタイの紐を緩めた。ワイシャツが私の体の表面にぺったりとくっ付いて気色悪く感じられた。世を偲ぶ仮の姿も楽じゃない。それに引き換え「ケロマツくん」は生まれたての姿のままでのうのうとしている。まるで野生のポケモンみたいだった。やれやれ、イッシュのゾロアークだって普段は人間に化けているというのに!
「愛は永遠だと思うのかい、え?」
 私は黙っていた。「ケロマツくん」は足場の上で大の字になって白い腹を見せた。胸から腹まで、逆三角に鍛え上げられた肉体ではあった。
「真面目な話の最中に、揶揄うのは止めて欲しい」
「どうして」
「私たちは任務においてのみ繋がっている」
「ふうん」
 小賢しい蛙は起き上がって、相変わらず揶揄いとも憐れみともつかない糸目の視線を、スーツに身を纏った私を頭のヒレのてっぺんから脚に履いた革靴までしつこく注いだ。
「結構なことだね」
 かなりの時間を置いてから「ケロマツくん」は言ったのだった。全く。
 だが確かに、私はシェイクスピアのソネットのように、バシャーモのことを夏の一日と比べずにはいられなかったのである。その度に、彼は何よりも美しくて、神々しいとさえ思った。彼の喜びは私の喜びであり、そう考えるだけで私の心は燃え盛った。彼と会えた日は至上の悦びに満ち、彼のいない日は牢獄のように暗鬱だった。二つのカラダにおけるただ一つの魂、と私は古の詩人の言葉を身に染みて反芻していた。もっとも、バシャーモにはそんなことちっとも思いも寄らなかっただろうが。彼はあるがままに生き、闘っているだけに過ぎない。けれどそれこそが、私にはとても心地よかった。
 タワーマスターが来季のジムチャレンジの会合のためにラテラルを訪れた日、私は粛々と任務をこなし、何度も6番道路やルミナスメイズの森の方へ駆け出しては制止される前チャンピオンを遠目から見ていた。長らく絶対的な存在として君臨した相棒のリザードンがその度に彼の手を引っ張っているが、そのあしらい方も随分と手慣れたものだった。ヒトカゲの頃から、よほどその方向音痴に手を焼いてきたことが窺える。彼とは気が合いそうだ、もしナックル辺りの洒落た喫茶店でコーヒーを嗜む趣味があるならば。
 紆余曲折の末、タワーマスターにして現ガラルリーグ委員長がようやくラテラルスタジアムに入った。「ハエ男」と思しき人物はなおもその周辺には現れなかった。もし、奴を見つけたら尾行を始め、適切な場所で適切に叩き落とせ、組織からはそう命令が下されていた。いつものように、世界の歪みをほんの少し矯正するだけの簡単な作業。その時に備えて指を鳴らしながら、私は間を取ってスタジアムに入った。
 ラテラルタウンはガラルでも屈指の激戦区だ。今でこそかくとうジムが地域代表としてトップリーグに在籍しているが、その座を長年争っているゴーストジムも強豪である。事実、直近のファイナルトーナメントでも上位に入っているし、世間的にもトップリーグ相当の実力と認識されてもいる。その上、長らく低迷していたどくジムやエスパージムもこのところ力をつけてきて、大会でジムリーダーの名を聞くことも多くなってきている。かくとうジムの立場だって、決して安泰というわけではないということだ。
 それは同時に、バシャーモを取り巻く環境でもあった。エキシビジョンでの活躍以来、カロスからの研究生という立場ながら、ジムトレーナーの手持ちとして定着するようになった彼は、これまでよりもガラルのポケモンリーグの闘いの激しさに身を置くことになった。ジム内での訓練だけではなく、来たるジムチャレンジに向けて挑戦者を迎え撃つための予行演習も入念に行わなければいけなかった。練習試合ともなれば、ラテラルのみならず別の街へも遠征する必要もある。
 つまりそれは、バシャーモと会うことのできる時間がますます少なくなっているということに他ならなかった。私が「ハエ男」を巡ってガラル中を冒険しているのと同じように、彼もまたポケモンとしての闘いに身を投じるようになっていた。今までのように、練習後の夜にナックルで落ち合って何やかやすることはしにくくなっていた。
 欲望それ自体は、いくらでも満たすことはできた。そのための「ポワル」ではあった。しかし私は誰かの胸の中で常にバシャーモのことを考え、誰かに激しくアナルを犯されながらずっとバシャーモのことを考えるようになっていた。それは極めて貪婪ではしたない発想であることは否み難い。だが身勝手な想像力は愛にはつきものである。理性ある生き物は事物そのものよりも、それに対して抱いた幻想によって恋に落ちるし、薄々それが幻影であるとわかりながらも、想像によって再構成されたものを激しく愛するようになるのだ。結局のところ、『失われたディアルガを求めて』があの手この手で伝えようとした真実とは、そのようなものではなかっただろうか?
「貴様、何をしているでありますか」
 威嚇するような声がした方を振り向くと、巨大なビードル、ではなくタイレーツが私を睨みつけていた。正確には先頭にいる「ヘイチョー」と呼ばれる個体である。他の「ヘイ」たちはしっかりとイモムシ型の隊列を忠実に行進していたから顔までは見えないし、ホプロンと呼ばれる丸盾でしっかりと顔面を覆っていた。
「不審である」
 「ヘイチョー」は「ヘイ」たちより一回りも大きい両手のホプロンを高く掲げて挑発するようにこちらを見た。
「君たちは何をしているんだい」
「それに答える義務も謂れも我々にはないのである」
 不審である、と「ヘイチョー」は繰り返して言った。
「君たちをテレビで見たことがある」
 私は言った。現ジムリーダーの手持ちには確かタイレーツがいたはずだ。
「ジムリーダーの元を離れて大丈夫なのかい」
「我々にはそれに答える義務も謂れもないのである」
 タイレーツが芋虫型から横広がりの陣形になって、一斉に金切り声をあげた。
「そうだそうだ!」
「然り」
「諾!」
「イエッサー!」
「パニュゲー」
「やれやれ」
 私は率直に言った。やれやれ、と。
「さては貴様、バウジムからの差し金であるな」
 「ヘイチョー」は即断した。
「スパイ行為とは、卑劣すぎてメガネが曇るのである」
 憤然として「ヘイチョー」は言ったが、無論タイレーツはメガネなどかけていなかった。
「私は他所のジム関係者ではないよ」
「言葉だけでは信用ならぬのである」
 冷ややかに「ヘイチョー」は言い切った。
「何よりも先に、身分証明を要求するものである」
 私は尻ポケットにしまっていた偽物の社員証を「ヘイチョー」に見せた。「ヘイチョー」はそこに写った私の顔と、読めもしないガラル語の表記に何度も熱心に目を走らせた。
「こんなものは単なる紙切れに過ぎないのである」
 唾棄するような口調で「ヘイチョー」は告げ、私にその紙切れを突き返した。「ヘイチョー」の言うことに間違いはなかった。本質的ではないが、確かに私は嘘を吐いている。
「それは残念だな」
「ジム内の練習内容は非公開である。それに、所属ポケモンについての情報は口外無用である。とっととお引き取りを願うのである」
「ヘイチョー!」
 「ヘイチョー」から2番目の「ヘイ」が叫んだ。
「何であるか」
「僭越ながら申し上げたく! 門前払いだけでは、遺憾ながら不十分だと思われます!」
「ふむ」
「此奴の身柄を拘束すべきであると思われるのです!」
「パニュゲー」
 と最後尾の「ヘイ」が受け合った。他の「ヘイ」たちも賛同の意を表してホプロンを打ち鳴らした。
「これが民主政というものである」
 「ヘイチョー」は誇らしげに宣言した。
「スパイ容疑で貴様を拘束するのである」
 「ヘイ」たちは「ヘイチョー」の指示のもと、円陣を組んで私を取り囲んで、どこかへと運ぼうとしたが、誰もどこへ運ぶべきかがわからなかったので、そのままの姿勢で動かなくなった。
「ジムチャレンジが控えているとはいえ、何だか非常にピリピリしているようだね」
「繰り返すが、我らタイレーツには貴様の質問に答える義務も謂れもないのである」
「君たちは勝手に私のことを他のジムからのスパイと決めつけた。怪しい誰かが、このジムに出入りしていたとか?」
「我っらタイレーツには貴様の質問に答えるキムも謂れもないのである」
「なるほど」
 それで大体私には理解できた。
「例えば、今ここに来ているらしいリーグ委員長やジムリーダーにまとわりつこうとしてるテッカニンみたいな誰かとか」
「テッカニンなんて知らんのである」
 「ヘイチョー」は言った。なるほど。確かに、むしジムと対戦する機会は少ないのだろう。私は話題を変えた。
「ここにバシャーモというポケモンが所属してるはずだけれど。私の知り合いなんだ。せっかくだからちょっと声をかけたいんだけど、どこにいるか知ってるかい」
「バシャーモであるだと!」
 突撃を命令するように、「ヘイチョー」はいきりたって叫んだ。
「バシャーモである、だと!」
「貴殿は効果バツグンマシーンであらせられるか!」
 「ヘイチョー」から3番目の「ヘイ」が間に割って入った。
「的確に弱点を突いてくるとは!」
「君たちは彼に何かしらのジェラシーを抱いているらしいね」
「否! 汝虚言を吐きたるは畜生の業!」
 4番目の「ヘイ」が叫ぶ。
「どうして練習時間のはずなのに、タイレーツがこんなところで油を売っている? それに、『所属ポケモンについての情報は口外無用である』と『ヘイチョー』は言ったのに、バシャーモがいることは認めるんだね」
「パニュゲー」
 最後尾の「ヘイ」が言った。
「こらっ、お前そんなことを言っては!」
「君たちは彼に自分の立場が奪われることを恐れているし、実際、その兆候は大いに見られる。そんなところだろうか」
「うっ!」
 「ヘイチョー」はホプロンで顔を覆った。
「これはなにかのミスである。やりなおしを要求するのである」
「スナフ! スナフ!」
 最後尾から2番目の「ヘイ」がよろめきながら喚いた。タイレーツは混乱していた。
「なら、やり直そうか」
 私は「ヘイチョー」と同じ高さまでしゃがんで、優しい声色で話しかけた。
「今ここに来ているリーグ委員長や、ジムリーダーの周りに誰か気になった奴はいなかったかな」
「いないである」
 「ヘイチョー」はまだ顔を隠しながら答えた。
「そんな奴がいたら、我らタイレーツ、断固として排除しているである」
 私は少し重心をスーツから突き出ている尻尾にかけながら、急にバドレックス調になった「ヘイチョー」の声音を検討した。
「本当かい」
「嘘だとしても、それを貴様に告げる義務も謂れもないのである」
「なるほど」
 これ以上尋ねても答えはないだろう。しかし、ほんの一瞬ながらあの忌まわしい羽音が聞こえた気がしただけで私は良しとした。
 突然、「ヘイチョー」がホプロンから顔を出して辺りを神経質に見回すと、危険予知でもしたかのように震え上がって、「ヘイ」たちに命令を下した。
「総員撤退せよ!」
 他の「ヘイ」たちも「ヘイチョー」の意図を察したらしく、すぐさま芋虫の陣形へと戻って、私のことなど構わずにスタジアムの奥へと足早に行進していった。最後尾から2番目の「ヘイ」が慌てふためき過ぎて、私の尻尾に躓いて陣形に入り損ねた。
「タルフ! タルフ!」
 哀れな「ヘイ」君は泣きそうになりながら叫んでいた。彼らにとっては、このスタジアムこそが戦場であり、栄えある勝利も犬死にも全てがそこで起こるのだ。
「ボルボルボル〜!」
 タイレーツと入れ替わるように現れたのは、謎めいたボールガイだった。不気味なほどに明るい笑顔をしたモンスターボールの覆面を被り、赤いポロシャツと紺の短パンを履いた妙に筋肉質な大男。
「まいどおなじみ、ボク、ボールガイボルよ〜!」
 ボールガイは剽軽なステップを踏みながら私の前で踊る。ボールの額の辺りにくっついている前髪がフサフサと揺れた。
「どうも、こんにちは」
「こんなところでお会いできるなんて、これも何かの縁ボルねえ〜」
「どこかでお会いしたこと、ありましたっけ」
 ボールガイは一瞬動きが止まったが、すぐに両手両足で8の字を作って戯けて見せた。
「ボクを忘れないように記念グッズをあげちゃうボル!」
 陽気なボールガイはポケットから取り出した金の玉を私に手渡した。丁寧に磨きでもしているのか、見事に輝くボールガイの金の玉。
「いやはや、ボールって本当に奥が深いボルね〜」
「もし、ここに所属してるバシャーモを見かけたら、これを渡してくれないかい」
 私は片手で金の玉を弄びながら、スーツの胸ポケットから小型の封筒を取り出して、ボールガイの男に渡した。
「そのノリで渡してくれるだけでいい。中身を見ただけで彼には伝わると思うから」
「いやはや、『ポワル』君のお願いなら、聞かないわけにはいかないボルね〜」
「ありがとう、頼むよ」
 私は感謝の言葉を告げた。
「けれど、僕の名前は『ポワル』じゃない。誰かと勘違いしてるようだけど、良く似た別のポケモンだと思うよ」
 ラプラスに凍らされたように動かなくなったボールガイを尻目に、私はその場を離れた。会合の終わりまでスタジアム内部を見回っていたが、残念ながらこの日は「ハエ男」らしい羽音を聞き取ることはできなかった。委員長はラテラルの中心街へ出ようとして、遺跡への階段を上がろうとしていた。

7 


 その晩、喉奥に人差し指を突っ込みながら、私は考えに耽っていた。私を定義づける指、それがために今の今まで「ゼクス」として生きながらえてきたこの指から一撃を放てば、全ての物事があまりにもあっけなく終わってしまう、そのことについて。思考以上、哲学未満の何か。
 私の「ねらいうち」は極めて正確で、そして無慈悲である。無防備で無警戒な人間であれば、インテレオンの能力で視認できる範囲においては自分の人差し指だけで仕留めることができる。そこに込められた水滴の弾丸は、いわば雨の鉄だ。撃たれた側は何もわからないままに、こめかみから血を噴き出して倒れるだろう。私が指を向けた時、全てはイエッサンの甲斐甲斐しいお辞儀の角度のように決定的となる。文字通り、全ては消し去られるのだ。
 瞬膜を閉じる。ベールを覆われたように薄暗くなった意志と表象の世界を眺めながら、ある意味で誇らしく、一方では呪いでもあるこの指を私自身に向けたらどうなるだろう? と想定する。言うまでもなく、私は死ぬだろう。マッハ3の速度で放たれる銃弾が咽頭を突き抜け、頚椎を打ち砕いて脊髄を損傷させ、夥しい血とともに私の頸の皮膚を突き破る、その痛みを感じるまでもなく、私の意識は真っ黒になる。
 しかし小さくえずきながら、私はゆっくりと人差し指を口から抜き出す。もちろん、こんなことは一つの想定でしかない。私は死ぬことができるが、それはカンムリ雪原がガラルから独立するように有り得ないし、非経済的でもある。ただ、メタグロスの脅威的な頭脳が導き出すように、あらゆる可能性は可能性として存在するし、多くの場合、それは単なる気まぐれによっても実現しうるのだ。つまり、私は気まぐれによって喉元に「ねらいうち」を撃ち込んで、唐突に死ぬことができる。それに対して私は渇いた希望と、漠然とした恐怖に立ちすくむ、ただそれだけの話だ。
 私には希死念慮というものがあるのだろうか? わからない。少なくとも、「はい」か「いいえ」で答えられる類の都合のいい問いではない。私が死んだ場合、誰か悲しむ者はあるだろうか? 「ボス」ならばその損失を表向きには表明しないながらも遺憾には思ってくれるかもしれない。インテレオンとして、それに値するだけの仕事はしてきたつもりだ。代役を立てるのだって、決して楽ではないはずだ。私が失われることによる経済的損失は、少なくとも前委員長のそれには遠く及ばないにしても、これまでオーベムの集団がさらって行ったウールーの総数くらいには大きいだろう。
 スーツ姿のまま、私はベッドシーツに体を沈めた。ちょうど脊髄に沿うように生えた黄色い鶏冠と背鰭が枕の中でくしゃりと潰れていくのが感じられる。せめて、背広くらいは脱がなければいけなかったが、ボタンに指を伸ばすのが面倒だった。それに、ボタンを捻るように弄って外して、それを脱ぐために上半身を起こすことさえしたくなかった。その代わりに指はスラックスの分かれ目へと伸び、少し蒸れたところをしつこく触っていた。
 まもなくもこもこと膨れ上がった、拘束服のようなスーツの下で勃起するペニスを、モノトーンから純白に変わっていく天井を見つめながら労るように撫でさすった。たっぷりと血液を得て、度し難いくらいに大きく硬くなっていく私のペニスをぎゅっと握りしめると、しっかりとした熱が伝わってくる。
 要するに、私は疲れていた。過酷な労働は慣れ親しんできているし、それに対して驚くべきほどの従順さで仕事に励んでさえいる。ポリゴンの類ではないのだから私は疲れて当然だし、ぐったりとベッドに横たわるのは道理ですらある。勃起する権利だってある。けれど、いつものように扱く気分にはならなかった。鼓動だけがやたらと高鳴っていた。
 個室のドアが開錠の音と共に開くのを私は耳にした。私はそちらへ顔を向けることもしなかった。真っ白な私の視界を、やがて鮮やかな血色が覆った。私は穏やかに微笑んだ。
「疲れてるな」
 バシャーモはそう私に言ってくれた。
「この間の試合、テレビで観たよ。素晴らしかった」
「ああ」
「本当に素晴らしかった」
 彼は生地越しに聳え立つ私のペニスに目をやりながら、そっと部屋の鍵をシーツの上に投げた。
「ボールの頭をした男からもらった封筒に入ってた。スーツを着たインテレオンがと言ってたから」
「無理させてしまって悪いね」
「そっちだって疲れてるらしい」
「うん」
 私は全身の力を抜きながら言った。
「ちょっと仕事が立て込んでね」
「そうか」
「会いたかったんだ」
「俺もそうしたかった」
 「ポワル」、と私のことを呼びながらバシャーモはベッドに腰掛けると、その凶器のような鉤爪で勃ち上がる私のペニスを優しくつまんだ。自分で触るのとは根本的に違う快感が私のカラダを包み込んだ。
「どうする」
 私は大きく息を吐いた。
「滅茶苦茶にされたい」
 完膚なきまでに、と私は付け加えたかった。あるいは、容赦なく、無慈悲に。
「おいでよ」
 細い腕を目一杯に広げると、バシャーモは心良く私にその逞しい闘鶏の肉体を預けてくれた。彼の体温と毛触りをスーツ越しに感じながら、私は夢中で彼の舌を貪り、何かに誇示でもするかのように大きな水音を立てた。私は彼をきつく抱きしめ、尻尾をくるくると彼の腰に回して絡めとるように抱擁をし、バシャーモも嘴をパクパクと開きながら何度も舌を伸ばして、私たちの唾液をたっぷりと交わしあった。
 私はセキタンザンのように体の中を熱く燃え上がらせていた。私を構成する細胞の一つ一つがその境界を失って溶解していく感覚がこの快楽と幸福を一層昂らせてくれた。尻尾から手を取るように伝わってくるバシャーモの完璧に引き締まった肉体の触り心地に、私はいてもたってもいられなくなる。
 彼はいきなり上体を起こして私から身を振り払うと、そのまま乱暴に鉤爪で私のスーツを掴み、勢いよく扉を開け放つようにワイシャツごと引き裂いた。ボタンが次々と弾け飛び、シーツの上に、マットレスの上に散らばっていく柔らかい着地音を鼓膜に響かせながら私がベルトを緩めると、スラックスも彼の爪によってすぐに同じ運命を辿った。ボロ切れになったスーツの断片たちを、バシャーモは唾のように床へと投げ捨てた。
「すまない」
 バシャーモは私を見下ろしながら言った。試合で見せたのと同じ、私を殺してくれるような、それでいて濁りのない瞳だった。本物の闘士の目つきだ。
「たまらなくなったんだ」
「いいよ」
 私は答えた。
「最高だ」
 私は言った。このような高揚感においてソネットは書かれるのだろうと私は信じた。
「アオガラスの死骸みたいに、ボロボロにしてよ」
 彼は微かに頷いて、両爪で私の足首を掴んで勢いよく持ち上げると、私のお尻から太ももの裏にかけての青いラインを熱い舌でひと舐めした。怒張するペニスと、引き締まるアナルの感覚を心地よく感じながら枕にいっそう頭を沈めた時、頭蓋骨の中で脳味噌がごとんと音を立てて落ちた。
 彼は私が願った通りに、完膚なきまでに私のペニスを扱き、容赦なくその偉大な雄の証でアナルを犯し、無慈悲に私からあらゆるレッテルを剥ぎ取ってくれた。私は「ゼクス」でも「ポワル」でもなく、何か新しいものであるような気がしたし、何者かになれそうな予感がした。そのような考えが所詮はドクサに過ぎず、行為の最中に私があげた叫びのように頭のおかしいことかもしれないが、そんなことは「ケロマツくん」がいまどこで何をしているかと同じくらいどうでもいいことだったのだ。確かに、それはとても私には気持ちの良いことだったのだ。
 行為の後で、バシャーモはくず折れて私の細い胸元へとうなだれていた。水の進化石のような彼の瞳はまるでイオルブの翅の模様のように淡く輝いて見えた。闘いの時とは対照的な落ち着きと、そして脆さを湛えた表情だった。
「キツい」
「練習が大変なのかい?」
「色々なものと闘わないといけない」
 彼は言葉を継ぐ代わりに、ゆっくりと首を横に振るように額を擦りつけた。硬い鱗で覆われたそこが私の背広と擦れてくすぐったい。ごわごわとした衣ずれに耳を傾けながら、私は昼間に出会った鼻もちならないタイレーツのことを考えた。我々にはそれに答える義務も謂れもないのである、とあの「ヘイチョー」は言った。
「時々、故郷のムロの島が恋しくなる」
「お疲れ様」
「悪い」
 私は両手で優しくバシャーモの首を掲げた。そして両指を物静かな顔面に這わせ、鶏冠と同じ向きに立ち上がった短髪の羽根を丁寧に掻き撫でながらキスを交わした。私はまるで死の床に横たわる者のようだった。後代に座を譲ったアラベスクの前ジムリーダーもこういう心境だったに違いない(別に彼女は死んでいないが)。
 彼は思い出したようにカラダを震わせると、モンスターボールと共に首から下げたポーチから一粒のカプセルを取り出した。
「これを飲むようにと、トレーナーから言われてたのを思い出した」
 とバシャーモは言った。
「『とくせい』を変えないといけないって」
「なるほどね」
 私はにこやかに返事をした。バトルに臨むポケモンたちの場合、強化の一環としてそのようなことが行われることを私は承知していた。もっと言えば、ああいう試合に出てくるバシャーモの99%が「かそく」であることぐらい。そういえば、ポケモンの「とくせい」を変えるためのアイテムが開発されたと、スマホロトムが読み上げるニュースか何かで聞いた覚えがあった。
「『もうか』だったとは意外だね」
「そうだろうか」
 彼はユニットバスの洗面台から汲んできたコップの水で小さなカプセルを一飲みし、そして私に向かって笑顔とも苦痛とも言い難い微妙な表情をした。
「でもいいな」
「どうして」
「何故だと思う?」
 私は聞き返した。彼は照れ臭そうに、腹筋が綺麗に浮かぶ赤い脇腹を掻いた。
「効果的な飲み方を教えてあげるよ」
 私は尻尾で「とくせいカプセル」を取り上げると、人差し指に持ち替えて、彼のアナルの中へ埋め込んだ。小さな叫び声を上げながら、バシャーモはぴくりと腰を震わせた。
「大丈夫だろうか」
「平気だよ」
 カプセルごと奥へと入った指で、彼の中を弄った。生ぬるく柔らかい腸壁が、私の食指に密着してはキツく締め付けるのは楽しかったし、そこを掻き回して押し広げてやると、彼の甘やかな呻きと共に、彼が開発されていくという確かな手応えが得られた。
「欲しい」
 バシャーモは私の前なのに声を潜めて言った。緩やかに何度もその引き締まった腰を揺らすので、私は引き抜いた指を中指と合わせて、慎重に彼のアナルに押し当てる。
「可愛いな」
 二本の指を赤い羽毛の奥へと埋め込むように挿入すると、抵抗感は強いものの、少しずつ関節が彼のお尻の中へと収まっていった。バシャーモは上体をすっかり私の胸に預けていた。アナルが刺激されるたびに彼のお尻が垂直に突き上がると、尾骶骨から美しい深紅の背中にかけてくっきりと現れる峻険な溝に打ちのめされそうになった。
「まずまずだけど、まだキツいな」
「俺は別にどうなってもいい」
「期待の新人に馬鹿げた怪我はさせられない」
 私は空いた手で、彼の首から下がった小型のモンスターボールを取り上げて、そっと彼のお尻に当てた。
「これが入るようになったらちょうどいいかもね」
「頑張るよ」
「頑張ることでもないさ」
 私にしても、別にどうなったって構わなかったのだ。自分の喉元に一撃を打ち込むことに比べれば、こんなことが何だって言うのだろう? つまらない理性さえなければ、きっと一晩中腰を振り続けることだってできるはずなのに。野生のポケモンならば、きっと躊躇なくそれをするのだろう。羨ましいことだ。
 けれど私はバシャーモの中で丁寧に指を動かしていた。前立腺を弾くように捏ねくり回すと、彼の雄らしい肉体は敏感に反応した。刺激の度に私の体を強く抱きしめる姿は子供みたいで素朴で、馬鹿げたことに母親にでもなったような気分だった。狂おしさで首を後ろに反らしてする熱のこもった生あくびが、私のトカゲの顔を好ましく蒸らしていた。
「今日、委員長の前で練習試合をした」
 そっと指を引き抜いた時、お尻を小さく震わせながらバシャーモは言った。
「どうだったんだい」
「緊張はしたけど、それなりにいい動きはできたと思う」
 私は彼の谷のようなお尻を撫でて、揶揄うように軽く叩いた。硬さを増したペニスが重なり合ったお腹を圧迫してくる。
「君の活躍する姿をもっと見たい」
「そうできるように努力したい」
「君の支えになろう」
 私は彼をベッドの端に座らせて、無我夢中でフェラチオをした。彼の雄々しい男根を喉奥にまで突っ込ませて、全身を縦に揺さぶりながら精液ごとしゃぶりつくした。ベッドが鈍く軋むような音が耳鳴りみたいだった。夜が幾晩更けても足りなかった。
 あのボールガイから貰っていた金の玉は、掘り出し物市で売って新調するスーツの足しにした。後で「ケロマツくん」に何を言われるかについては考えないことにした。

8 


 不愉快な羽音は、いつの間にか遠くから聞こえてくる。最初は気配であり予感だったものが、次第に不快な実在感を持つようになっていき、気がつけば耳の周りを小賢しく飛び回っている。「ハエ」というのは往々にしてそういうものを指す。それにもかかわらず、気配は気配のまま留まるのだ。
 「ハエ男」が生きているという知らせを受けてからというもの、私はそのような緊張感の悪さをずっと感じ続けていた。バドレックス陛下に拝謁しているのとはまた違った緊張感である。私だけの親密な領域の中に、見知らぬ、招かれざる誰かが潜んでいるのではないか、という予感。普通なら、想像力のお節介な作用によって恐怖を増幅させるのかもしれないが、私はただじっと自分の指を構えながら静かに息を潜めていた。それが「ゼクス」である私の流儀だった。
 これは、私にとっての奇妙な戦争である。恐らく、火蓋が切って落とされた瞬間には全てが終わる。それだけ私の指は絶対的であり、無慈悲なのだ。だが、「ハエ男」もまたそれを知っているかのように、ひたすらどこかで羽音を鳴らし続けたままその存在だけを示唆し続けていた。あたかも、それが奴にとっての生存戦略であるかのように。
 チャンピオンの周辺を監視していた「ケロマツくん」から連絡を受けたのは、私が昼下がりのブラッシータウンで委員長の久方ぶりの凱旋を見届けている時だった。スピーカーの向こうから彼はただエンジンシティ側から第二鉱山へ来い、と言った。バウタウンで「ハエ男」と思しき人間を見つけた。奴はそのまま鉱山へと続くトンネルへ入ったところだ。バウタウンとエンジンシティ側からそれぞれ鉱山に潜入して挟み撃ちにして仕留める。以上。
 私は新鮮なオボンの実に舌鼓を打ちながらコーヒーでも啜ろうとしていたのを中断して、すぐさま空飛ぶタクシーに飛び乗って来た次第だった。「ケロマツくん」と言えども上司は上司だ。可能な限りは組織としての指揮系統は遵守されなければならない。秩序を守るものは、まず秩序に従わなければならないのだ。
 ニャイキングたちの潜むエンジンシティ外れから第二鉱山に入った私は、「ハエ男」の顔面を脳裏に強く浮かべながら、何ものをも見逃すことのないように、アリアドスの糸のように入り組んだ坑道を慎重に進んで行った。モンスターボールに擬態して地面の中に潜んでいるガラルマッギョ一匹たりとも見落とさないほどに、瞬膜を閉じ、神経を研ぎ澄ます。時がバチンウニの歩みのように遅くなる。蠢くもの、身を潜めるもの全てが私の視野に明瞭なシルエットとして浮かび上がってくる。
 これは私の血を煮え立たせる謂わば「チャンピオン・タイム」だった。それは好むと好まざるとにかかわらず、私そのものを規定してくれる唯一の知覚、いわば直観。私からあらゆる名をエポケーして最後に残る本質的なものといえば、実にこれなのだと思う。
 そう思うことによって、私は今まで生きていくことができたのだ。
 鉱山を進んだ先で私が見たのは、何を隠そうここへ私を呼び出した張本人たる「ケロマツくん」だった。クリムガンが好んで潜んでいそうな狭い坑道を前にしてぼんやりと立ち尽くしていたカエルは、私が背後に近づいても迂闊なことにしばらく振り返らなかった。
「おっと、お世話様です、『ポワル』殿」
 彼はいきなり振り返ると、水掻きで舌を下ろして慇懃に笑って見せた。目もとは柔和な糸目だったが、口元に触れる水掻きには血がまとわりついていた。
「どういうことだ」
 私は努めて冷ややかに言った。白いワイシャツがぺっとりと皮膚に張り付いたのを、背広ごしに摘んで剥がした。
「粗相でござるよ」
 普段は使いもしない口調で戯けながら、「ケロマツくん」は言った。彼の脚元には、男が一人倒れ込んでいた。回り込んで顔を見たが、それは「ハエ男」とは似ても似つかなかった。
「命に別条はない」
「そういう問題ではない」
「顔も見られちゃいないよ」
「私が尋ねたいのは、もっと根本的なことだ」
 「ケロマツくん」はピンと張った三角の耳をそびやかすと、ダラリと垂らした。自分がヒバニーか何かだと勘違いしているみたいだった。
「こんな真似をするなんて、お前らしくもないな」
「そりゃ、僕だって完璧なゲッコウガじゃないよ。まだまだ勉強中の「ケロマツくん」さ」
「杜撰だな」
 私は冷静に言葉を選びながら話した。その気になれば、ストリンダーのように叫ぶことだってできただろう。
「おかしいなあ。バウで見かけた時には間違いなくそうだと思ったんだけどなあ」
「今日はやけに減らず口を叩くな」
「まあ、なんというか、すまんね」
 私は重たげに首を振った。背鰭が坑道の湿気を吸ってでもいるのか、やけに重く感じられる。あるいは、サニーゴの怨霊にでも取り憑かれているのかもしれない。
「後始末は私がしておくよ。あと、ボスにはしっかりと報告させてもらうからな」
「甘受するさ」
 這いずり回るコソクムシや忙しく飛び回るオンバットを眺めながら、彼は肘枕になって、頻りに尻を掻いた。いつもの動作にもほんの僅かに力がこもっていた。
「ホームシックにでもかかって、調子でも狂ったか」
 私は彼の逆三角の背中を見つめながら言った。
「カロスへ帰りたいなら、いつでも帰ればいいさ」
 「ケロマツくん」はゆっくりと私の方へ振り返った。細められた目に眼光が赤く輝いていた。
「僕を揶揄うとは、随分と余裕綽々じゃあないか、ポワルくん?」
「ゼクスと呼べ」
「僕のことは一向にドライと呼んでくれないのにい? ズルいよ、それは」
 ゴツゴツした地べたで大の字になって、「ケロマツくん」は欠伸をし、わざとらしいほどにまで腹を凹ませた。教科書の図版にある解剖されたカエルそのものだった。
「論点をすり替えないでくれ。私たちは仕事の話をしているんじゃないか」
「熱心なようで」
「当たり前じゃないか」
「『ハエ男』はなおも見つからない、俺も眠ろう、以上」
 「ケロマツくん」はすっくと起き上がり、猫背でしゃがみ込んだ姿勢をとると、バネのような脚でカムカメたちがたむろす沼をそそくさとひとっ跳びしていった。しかし、跳び越えた先で何かを思い出したようにピタリと動きを止めると、再び踵を返して私の前に戻ってきた。
「おっと、言い忘れてたんだ」
 彼はいきなりその水掻きから水手裏剣を作り出すと、その凶器を振り上げた。私は瞬時にかわそうとしたが、後ろから何かに羽交い締めされて、身動きを取ることができなかった。一瞬振り向いた時に見えたのは、さっきまでそこで伸びていたはずの男だった。尻尾でその男を振り払うよりも先に、「ケロマツくん」の振りかざした水手裏剣が、私の体を切り裂いた。水棲のポケモンには対照的な鮮血が大量に噴き出すのが見えた。それから、焼けるような痛みが襲ってきた。
 私の意識に、バシャーモの姿が浮かび上がってきた。それがごく自然な精神の作用であるかのように、私は彼のことを思い浮かべたのだ。彼の端正な闘鶏の顔立ち、チャーミングな「ア・ラ・カロセーズ」、汗とシャンプーの入り混じった芳しい紅白の羽毛、引き締まった胸筋や腹筋の形、逞しい腕と脚、しっかりと丸みを帯びたお尻に、目眩がするほどの赤々としたペニスの雄々しさ、そしてそれら全てに私が包含される言いようのない悦びが、全身を駆け巡った。同時に、私の目は大きく見開かれ、全身がガタガタと痙攣した。それと共に回避不可能な恐怖が私の混濁した思考に流れ込んできた——
「小賢しいハエめ」
 「ケロマツくん」がボソリと呟いたのを私は聞き逃さなかった。口元にマフラーのように巻いた長い舌のせいで、ひどくくぐもった声だったが、普段の彼のヒトを喰ったような調子とは違う、重みのある声だった。ここが第二鉱山の中であるということを、うっかり忘れてでもいるかのようだった。
 そうだ、ここは第二鉱山だった。私はその地べたに仰向けになった姿勢で、薄暗い坑道のでこぼこした天井と、私を見下ろす「ケロマツくん」を見ていた。じんわりと燃えたつような鈍痛がして、私は思わずこもった苦悶を漏らし、胸にぐっと手を当てた。
「安心してよ。応急処置くらいは済ませてあるし、死にやしない」
 あとでげんきのかけら代奢ってくれればそれでいいから、と「ケロマツくん」は付け加える。
「でもまさか、こんなことになったとはねえ」
 「ケロマツくん」が横たわる私のそばであぐらを掻いて、大口を開けて長い欠伸をした。肋が浮き出るくらいまで大仰に息を吐き出して、ふう、と溜め息をついた。
「君は僕の姿をした何かに襲われた、対抗する暇もなく、ザクっとね。うん、深い傷じゃなくて良かったと思うよ。ポケモンセンターでピンピンピロリンですぐ元通りさ。スーツ仕立て直すのは自前だけどね」
「お前の方はどうなったんだ」
「うんうん、随分上司思いで、仕事熱心だ。部下の鑑だね。僕としても喜ばしいと思うよ」
「その様子だと、取り逃したらしい」
「『ハエ男』はメタモンを随分手懐けているらしいね」
「どういうことだ」
「僕もさっき、君の姿をした何かに会ったんで、やんす」
 わざとらしい口真似をして「ケロマツくん」はクスクスと笑いを堪えた。さっき会った「ケロマツくん」よりもだいぶ悪い目をしていた。
「うん、随分と殊勝なもんだと思って、ちょっと君のバシャーモのことを揶揄ってみたらさ、うんともすんとも言わないから水手裏剣で一発かましてやったんだ」
 私は痛みに耐えながら黙っていた。
「いやあ、『ポワル』くんには今回助けられたってとこかな」
「いいから、何があったのか続けてくれ」
「あんまし喋るとカラダに毒だぞっ。……案の定、メタモンの変身でさ。でもまあ、そいつに足止め食らったおかげで、『ハエ男』はまたどっかへ行ってしまったんだけれどね。それでも、君がしてやられてなければ、仕留めることはできたかも、だけど」
 私は締め付けられる苦しみに叫び、身を捩らせた。
「『ハエ男』は僕らが思っているより遥かに用意周到だ」
 「ケロマツくん」は背中を丸めて、私の顔をまじまじと見下ろした。
「僕らはとある元プラズマ団員の証言を思い返す必要がありそうだ。ポケモンは、主人がどんなに残忍であろうとも付き従う。それが『ハエ男』であったとしても」
 私の横に寄り添うように「ケロマツくん」は肘枕で横たわり、無駄な肉のない白いお腹を見せた。
「ヤツによって訓練されたメタモンはガラル中にいる。今このときも誰かに化けているかもしれない。その辺にいる野生のポケモンのフリをしているかもわからない。あるいは、僕も。あるいは、君も」
 顔を背けると、地べたにはまたしてもボロボロになったスーツがやたらと丁寧に折り畳まれて置かれていた。
「けど、君も迂闊でござるよ、ゼクス殿」
 私はゆっくりと息を吐いた。熱にうなされている時とは逆に、自分の細身のカラダが収縮し、矮小になっていくように感じられた。
「そんな粗相をする上司と思われてるようじゃ、拙者も不服でござるねえ」
「その口調で喋るのはやめてくれないか」
「るるり、りりり、るるり、りりり」
「何を言いたい」
「『ハエ男』はなおも捕まらない、俺も眠ろう、以上」
 私は瞼を閉じ、それからすっかり黙り込んだ。要するに我々は「ハエ男」にしてやられたのだ。今回の仕事は楽じゃない。それだけだ。何も、これが初めてというわけじゃない。フレンドリィショップの店員だろうが、空飛ぶタクシーを運ぶアーマーガアだろうが、時たま面倒な場面に遭遇する。それと同じことなのだ。我々は面倒な客に出くわし、その対応に苦慮している。そうして我々固有の日々は過ぎていくのだ。
 ——「ケロマツくん」の手で久しぶりに入れられたモンスターボールの中で、私は再び「ハエ」なる概念について考えていた。ニシノモリ教授の発見によって生み出された、ポケモンにとっての極めて個人的で不可侵なこの領域の中で。
 このサンクチュアリでさえ、「ハエ男」の羽音がした。ヤツは大勢のメタモンたちと共に、ガラルだけではなく、私自身の内面すらも脅かそうとしているらしい。私の精神を脅かし、取り返しのないものに変質させようと企んでいるかのようだった。憎悪や不信という良からぬ感情はもっぱら恐怖から生じるということを「ハエ男」は理解していた。敵ながら、そつのない。天晴れだ、まったく。
 しかし、周りのものを何も確信することができなくなってしまってもなお、信じなければならないものは存在することを私は知っていた。それすらも信用することができなくなった時、理性ある生き物は仄暗い底無しの深淵へと引きずりこまれてしまうのだろう。生憎、私はそこまで物事に対して悲観的でも冷笑的ではない。ねらいうちの態勢を整えて、あくまでもその時をじっくりと待つ、そのことには何ら変わりはないのだ、「ハエ男」め。
 私は死ぬことを恐れてはこなかった。カロスの偉大なモラリストのように、死ぬべくして死ぬように生きてきたし、生かされてきた。そのプログラムに忠実になって、これまで「ゼクス」としての役割を果たしてきたのだ。
 けれど、私はあの時バシャーモのことを脳裏に浮かべた。「彼」ただ一匹のためを思って、これまで積み重ねてきた一切の経験を放棄しそうになってしまった。それが「ゼクス」としての私には大いに気がかりだった。その瞬間、私は一匹ぼっちだった頃のメッソンのようにひどく混乱してしまっていたのだ。ドロドロと混沌とした死というものに直面して、私は恐怖の余りに身を震わせてしまった。それは長い時間をかけて払拭したはずの感情であるはずだった。私は思い出してはいけないことを思い出してしまった。感じてはならないことを感じてしまった。
 私が私であることを確信できる何かが揺らいだようで、私は不安に駆られている。その代わり、雄らしいバシャーモが私のひび割れた領域に染み込んで来ているのを同時に感じてもいる。
 それが何を意味しているのかはわからない。いや、もう私は知っているのかもしれない。ただ、定式化してはいけないものであると言い聞かせているに過ぎないのかもしれなかった。私は冷静に、判断を保留する。
 バシャーモにまた会いたいと思った。ガラルのジムチャレンジの季節は間近に迫っていた。

9 


 酷い夢を見た。こんな夢だった。
 私はジメレオンだった。「ポワル」という名前を思いつくよりも前で、「ゼクス」というコードネームすらも与えられていなかった単なる「ジメレオン」という不安定な名称の下に私は置かれていた。
 カーテンの締め切られた陰気なマイクロバスの車内が、夢の舞台だった。私はそこでぎゅうぎゅう詰めにされていて、あまり舗装のされていない道を走っているためにバスが激しく揺れるのを気持ち悪く思いながら、苦々しい思いで座っている。バス自体もかなり年季の入ったものだった。タバコの臭いをかき消すための芳香剤の強烈な甘ったるさは、ポケモンである私でさえ吐き気を催させるものだった。空調もおざなりで、ぬるま湯がそのまま蒸発したような風が車内を循環して、気持ち悪さを助長していた。まるでセキタンザンの欠伸を顔面に浴び続けているような不快感だった。
 隣に座った人間の男が、私に執拗に絡んできていた。私はずっと目を逸らしていたが、その男が勝手に私の顔を覗きこんでくるものだから、いやでも相手の顔が印象に残ってしまった。テレビで見たことのある顔、だったと思う。ジムチャレンジやエキシビジョンマッチの中継の合間に流れるCMだとか、街の至る所の空隙を埋めるためだけに存在するあらゆる類の広告——とある偉大な作家が「世界の癌」と呼んだもの——で見かけたような顔、顔、顔。そうしたもののコラージュとも言える顔だった。彼はニタニタといやらしい笑みを浮かべながら、私の片目を隠すヒレを掻き上げて、偽善的に面白がった。つまるところ、無から無理やり有を生み出すというあの怠惰な営み。思ってもいないことを口に出して勝手に悦に浸る馬鹿げた振る舞い。そういう類のヒトに往々としてある、自分こそが中心であり、自分があらゆる物事を動かしているのだと思いこむ耐え難い傲慢さが、その粘着質な笑いに凝縮されているかのようだった。
「どうしたの? 元気ないね」
 彼は私を気遣うフリをしてそう言った。空虚な戯言を表向きの温情で包み込むことには長けているその男は、なおも白々しい心配の素振りをしていた。私は黙っていた。
 気がつくと、マイクロバスには私とその男以外に大勢の影のような輩が乗っていることがわかってくる。どいつもこいつも、悍ましい顔をしていた。そして、一様に私をおちょくろうとする男のことを面白がって観察していた。私はこのバスの中で完全に孤立しているようだった。
「それならさ、いいものあるんだ」
 男はそう言うと、私の垂れ下がった片腕を勝手に持ち上げて、平べったい黄緑色の手のひらに何かを載せた。それから男の唾棄すべき顔面が、プリンのように膨らんで私の頬にまで迫ってきた。相変わらず何故かは知らないが男はずっとニコニコと微笑んでいた。
 男は私の手を優しく包み込むと、そのままゆっくりと力を入れて私の拳を閉じさせた。握らされた何か柔らかく、ぷにぷにとしたものが少しずつ潰れていく。私は必死に男から顔を背け、目を瞑っていたが、薄い膜ごしに寒気のするほどのイヤらしい視線を感じて、とても堪え難かった。私の拳の中で、プチッという音が鳴り、それからドロドロとした液体がゆっくりと垂れていく。私は目を開いた。右手から、潰れたマトマの残骸が血のように溢れ出していた。
「ほら、な?」
 男は笑顔で言ったが、ジメレオンである私には一体何を言いたいのか、ちっとも分からずにただ呆然としている他なかった。周囲に座っている影のような追随者たちも、クスクスと陰湿な笑い声をあげ始めた。私は赤く汚れた右腕と、汚らしい男の凡庸な顔面とを見比べながら、とてつもない屈辱を覚え、泣きたいような気持ちになっていた。マイクロバスは前進を止め、甲高いブザーを鳴らしながらゆっくりとバックしていた。どうやら、目的地へ辿り着いたようだった。でも、そんなことが私に一体何の関係があると言うのだ? 私は自分がおかしくなりそうなほどの憤りと、無力感からくる悲しみにいつまでも打ち萎れていた。この汚れた右手は、一体どこで洗い落とせばいいのだろう?
 私は目を覚ました。首筋にヒタヒタと流れる滴が感じられた。全く、トカゲらしくない汗をかいてしまったと思った。それに、夢の中で感じた逃げ場のなさから来る不快感がずっと尾を引いていた。あたかも、それが現実のことであったかのような重みを持って、私の心にかなしばりみたいにのしかかっているのが嫌でたまらなかった。
 あの癪に障る男の顔が浮かび上がってくる。どこにでもいて、そのくせあまり見かけないような平凡な顔面。私は心底、ああいう人間が嫌いなのだろう。もし私があの場でインテレオンであったなら、すぐにでも()にかけていたかもしれない。
 こんな夢を見るのも、シュートシティの片隅にある慣れないセーフハウスの中で退屈な時間を過ごさなければならないからであった。「ハエ男」にいっぱい食わされて余計な怪我をしたおかげで、当分はここに潜伏して安静にしていろという組織からのお達しがあってのことだった。ひとまずモンスターボールに入って、大人しくポケモンセンター式の治療を受けたから、さして動くことには問題はないはずなのに。第一、ここは私専用の場所でもないのだ。別のエージェントが普段拠点としている、窓がなくて、四方がラテラルの棚田のように単調な白模様で覆われた陰気な一室である。
 本来であればここのセーフハウスの主と「ハエ男」を始末する算段になるはずだった。ガラルのことはガラルで然るべき処理する、という原則に立つならば。「ケロマツくん」の怨念じみた要請が、どうやらそれを打ち砕いてしまったらしいが。彼のコードネームは何と言ったっけ? 最後に会った時はまだ若々しく血気盛んなジュプトルであったと思うけれど。もしかしたら、すでにジュカインには進化しているのかもしれない。
 ブザーが鳴った。ベッドの片隅に放り投げられたロトムフォンからだった。私は尻尾でそれを手繰り寄せて、たっぷりと時間を使って電話を手に取った。
「ゼクス」
「直接の連絡とはお久しぶりですね、ボス」
 いつものように、私のコードネームをボスが告げた。ゼクス、6番。それでいてあいも変わらず複雑に音声加工されているために、男か女か、ヒトかポケモンかもわからなくなった声。もしかしたら実際に会ってみたら、本当に性別も種族もない一つの機械なのかもしれない。
「状態はどうだ」
「何も問題はありませんよ」
 私は固いベッドの上に寝転がったまま答えた。ホテル・イオニアやスボミー・インの快適に設られたベッドが恋しかった。
「正直に言って、私に対するこの処置がいささか大袈裟に感じられるほどです」
「そうか」
 ボスは沈黙し、私の返答についてしばらく考えを巡らせているようだった。ノイズのようなものがスピーカーから聞こえてくる。
「諜報部は、いま全力でガラル全土のメタモンを調査しているところだ」
「『ハエ男』がばら撒いた個体、ですか」
「彼らは常に何かに『へんしん』している。だが、一般のメタモンとは異なり、人間にも、その他あらゆる有機物になりすますことができる」
「それも、極めて高水準の『へんしん』で」
「彼らはこのガラルをあたかも一つの有機物であり、一つの器官であるかのように振る舞っている。いわばメタモンたちはガラルという肉体に備わった免疫機構の役割を果たしていると言える」
「いわば、ガラル全体が『ハエ男』を守る鎧となっているというわけですか」
「そういうことだ。彼らは心の底まで『ハエ男』に忠実であり、彼をあらゆる危害から防衛することを唯一の行動原理としている。例えば先日の君が体験したように、そうしたものは全て容赦のない排除の対象となる」
 なるほど、「ハエ男」の企みが明らかになるにつれて、私たちを取り巻く状況は思っていたよりも複雑なことになりそうだった。しかし、ボスの声調は何一つ変わることがなかった。そこには何らの不安や懸念というものは存在していないかのようであった。
「蓋然性を高めるために打てる手は尽くす。だが、我々の行うべきことは飽くまでもシンプルだ」
「つまり」
 私は寝返りを打って、ロトムフォンの側で添寝するような姿勢になった。密やかな会話を楽しむにはこれがうってつけの姿勢なのだ。
「『ハエ男』のムゲンダイナに対する野心を阻止する、ただそれだけのことである」
「そうだ」
 ボスはしばらくの間黙り込んだ。ボスと呼ばれる何者かが目を瞑って神妙に任務について考えに耽っている——私にはそんなイメージが思い浮かんだ。
「明後日から任務に戻ってもらう。『ドライ』もそれを待ち望んでいる」
「希望を言うなら、今すぐ謹慎を解除して欲しいくらいですがね」
 ボスはそれに対しては無言を貫いた。私は横になって、ロトムフォンの無機質な通話画面を見つめたまま、噴き出しそうになっていた。私はとてもリラックスして、心は穏やかであった。
「しかしながら」
 しかしながら。ボスはまたそう言った。
「君は神とは何だと思うか、ゼクス」
 ボスは単刀直入に私にそう訊ねた。私はその問いかけについて考えながら、何度か寝返りを打った。
「アルセウスのような実体のある神ではなく、より形而上的で普遍的であり、あらゆるものの根源であり原因であり主たる、我々の想像の及ぶべくもない形態を有した神それ自体について、ですか」
「神と悪の問題は常に理性あるものを悩ませてきた」
 「とくせい:リベロ」のエースバーンのようにボスは絶え間なくその声を変貌させながら言った。
「素朴な時代であれば、ヒトはそれを神罰と見做すことが可能だった。だが、自然の猛威、戦争の災厄が信心深い人々を理由もなく殺戮する事態を目の当たりにするにつれて、その見立てには深刻な疑義が生じた。善なるものが創った世界になぜ悪が蔓延るのかという矛盾について多くの神学者たちが説明を試みてきたが、人々の不信を宥めるにはいずれも不十分かつ不合理な回答でしかなかった。そして、少なからぬ人々は善なる神という存在を措定すること自体が誤りではないかと考えるようにすらなった」
「今や真に神を信じられるのは、そうした矛盾に立ち向かえる強さをもった者だけである」
「だが()()()()()()()()()、神は存在する」
 ボスは続けた。
「『神が語られるのはまさに真理そのものによるのであって、それは身体によらずただ精神によってのみ聞かれうるものである』」
 『神の国』第十一巻第二章の一節をボスは呟いた。テープレコーダーに吹き込んだかのように淀みのない話し方であり、聖アウグスティヌスの言葉の一語一語がボス自身の言葉として話されているみたいだった。
「神の実在は確かめられない。だが、その実在を予感することはできる。目を瞑れ、ゼクス」
 私はボスのために忠実に目を瞑った。
「鳥の群れを思い浮かべてみるがいい。ココガラでも、マメパトでも構わない」
 私は暗闇の中で、鳥ポケモンたちの姿を思い浮かべた。
「目を開け」
 数秒後に、私は目をぱっちりと見開いた。もしこの場に他者がいたならば、顔だちの整ったインテレオンの締まった表情を見ることができたはずだ。うぉれおん。いんて。
「さて、その数は限定されたものだったか、それとも限定されないものだったのか? 君には答えられるか?」
「なるほど」
 私は納得した。
「鳥類学的推論。『問題の整数の推測は不可能であり、故に、神は存在する』。ミュウが発見された大陸の文人の詩句でしたか」
「我々は『ある』か『ない』かでしか語ることができない不完全な存在だ。その埒外にあるものに関して語ろうとすることは理性あるものの思い上がりであることを忘れてはならない」
「集合的唯心論への戒め。我々には知り得ないものが、それ自体の仕方によって存在するということを常に意識し、畏怖すること」
「『このような生命をもつものは、主よ、あなたからでないなら、どこから起こるであろうか』」
 『告白』第一巻第六章、と私は心の中で呟いた。ヒトを理解し、それに順応するために神学を学ばなければならなかった私のようなポケモンにとっては、その言葉は言葉自体を超えて、あらゆる相反した感情が秘められている。
「崇高な感情、驚異的なもの、名付け得ぬもの、何だかわからないもの、そうしたものを通じて神は予感される。そして神は苦しむ者の精神に向けて公現する。そういうことでしょうか」
「我々が信じる信じないにかかわらず、神は確かに存在する。さて、君の考えを聞かせてもらおう」
 ボスは改めて私に訊ねた。私は神なるものについて思いを巡らしながら、固いベッドの上で伸びをした。明らかに人間のために最小限に作られたシングルベッドから、私の張り詰めた手足ははみ出していた。
「神の実在。理念としては勿論理解できます。しかし、ヒトの理念というのは、やはりどこかフォクスライにつままれたような趣があるというのが、ポケモンとしての私の感想ですね」
「我々の世界は複雑さや撞着からは逃れられない。それが弱みであり、それが故に偉大でもある」
「偉大であると振る舞わなければならない、()()()()()()()()()
 私はしばらく沈黙した。スピーカーの向こうにいるボスの反応を僅かでも感じ取ろうとしたが、無駄なことであった。私は私にとっての神について、話を続ける。
「とはいえ、そんな理性あるものの一員として、私も何か絶対的なものの存在を感じ取ることがあります。それを感じる時、私の存在は高い次元へと引き上げられたように感じられ、私の魂は解き放たれ、自由になる。少なくとも、そのようなエクスタシーに陥ることができる。そんな時に確かに神はいるのだと私は思うことがあります」
「それが君の敬虔さか、ゼクス」
「ええ」
 私は頷いた。一瞬、全身がゾクッと疼くように震えた。
「私はある意味で信心深いのかもしれませんね」
「それが人間的理性を得ることに他ならない。ポケモンとして、後天的に要らぬ原罪を背負うということの悦びと哀しみなのだ。君はそれを幸せだと思うか、ゼクス」
 君は幸せか? まるで、すっかり飼い慣らしたワンパチに対して飼い主のトレーナーが感慨深げに問いかけているような言葉だった。私はアルカイックに微笑した。
「勿論ですよ、ボス」
「幸いなことだ」
「私たちはまだ狂っていない」
 ボスは頷く代わりにしばしの沈黙。
「『クリフ』からの伝言だ。そのセーフハウスに置いてある酒は好きに飲んでくれ、出て行く時も別に整理整頓はしなくても構わない、だそうだ」
 電話が切られた後、私はすぐに居心地に悪いベッドから起き上がり、クローゼットに吊り下げていたスーツを身に纏い、美しく磨かれた革靴を履いた。結局、「ケロマツくん」の言った通り、本当に自前で仕立て直すことになった。ほとんど使われた形跡のない洗面台の姿見で自分の姿を入念に確認する。鏡面を通じて、皺一つない紺色のスーツを着込んだ「ゼクス」であり「ポワル」と呼ばれる「インテレオン」を認識して、柔和な微笑みを浮かべると、そのまま私はセーフハウスを後にした。爬虫類の朝は早い。
 夜のシュートシティの街頭は一際華やかだった。遠いエンジンシティでは、ジムチャレンジの開幕が宣言され、最終目的地となるガラルの首府は早くも挑戦者たちの到着を待ち侘びるかのように、人々も、ポケモンたちも表へと繰り出していた。アーマーガアの銅像が雄叫びを上げるセントラルパークで「哀愁のネズ」がパフォーマンスをしていると、足早に駆ける人々は口々に言い合っているのが聞こえた。路地の一角ではどこからともなく群れ集まったレドームシたちが一定のリズムを刻むように揺れていた。バトルカフェの前には色とりどりのマホイップたちが並んで不揃いながらチャーミングにくるくると踊りを披露していた。
 いかにもな都会の喧騒から少し離れた河川敷へと私は歩いた。ちょうどよく空いていたベンチのど真ん中に座って足を組んでそこを独り占めすると、川の向こう側の両端にホテル・ロゼとシュートスタジアムが鎮座し、その間をいまだに旧名のローズタワーと呼ぶ者が後を絶たないランドマークが聳え立つ夜景をしみじみと眺めた。スタジアムからは特大の花火が太っ腹にも何発も上がり続けていた。その上空をたくさんのアーマーガアたちが人々の乗ったゴンドラを運び、ホテル・ロゼの窓々からは豪奢な照明が何か暗号めいた模様を壁面に浮かび上がらせていた。川面はそれらの光を一身に浴びて、まるで輝いているかのようだった。何もかもが、「いま・ここ」の煌めきを謳歌しているかのようだった。素晴らしい、本当に、それはしみじみとさせられる光景だった。私はその景色を留保なく美しいと感じることができた。結局のところ、美しさとは私たちの価値判断とは無関係に最初から美しくある。問題は、私たちがそれを美しいのだと認識できるかどうかにある。その点、私は幸福と言えるのかもしれない。
 「それ」を感じる時、私の存在は高い次元へと引き上げられたように感じられ、私の魂は解き放たれ、自由になる、と私はボスに対して語った。だが、私が「それ」と言った時、私は紛れもなく「君」のことを思い浮かべていたんだ、バシャーモ。私はもがき苦しむほどに君の毛並みを、肉体をこの爬虫類の皮膚に、鱗に感じたくてたまらないんだ!

10 


 リーグ委員長のスケジュールは分刻みだが、それはブラッシータウン発フリーズ村への列車のように大雑把で、気まぐれなものであるというのが関係者の総意だった。言うまでもなく、委員長の過度な方向音痴癖が厳密な時計の針をも狂わせてしまうせいだったが、ガラルの人々は彼のことをまるでどこかの国の皇族か何かのように幼少期の頃から知り尽くしていたから、さして気にすることもなかった。
 本日も、その委員長は開幕したばかりのジムチャレンジの視察と会合のために挑戦者が列をなすターフジムを訪問する手筈だったが、例によって遅延していた。相棒たるリザードンを含めた幾多もの同伴者の目をも振り切って、彼が明後日の方向へと駆け出していってしまったのを連れ戻さなくてはならなかったからだ。農業を主産業とするこののどかな町のどこからでもあの巨大なジムは目視できるというのに、これは筋金入りと言うべきだ。
 そのようなラプソディの合間に、私はターフジム内の関係者用トイレットをお借りして、優雅に身だしなみを整えていた。ダークブルーのワイシャツ、黒色のベストとスラックス、紺色のネクタイ。腰を屈めて鏡に映された自分の姿を私はじっくりと見つめ、点検する。真新しいスーツは私の身体にフィットして、その細長い体の輪郭を生地越しからでも忠実に浮かび上がらせていた。手の甲で口元を拭う素振りをして、私は鏡に向かって不敵な笑みを浮かべてみた。「インテレオン」というものに対して期待される典型的な表情を見せること。それは、私にとってすっかり板についた行為になっていた。
 それにしても。どんな存在であれ自分自身の顔は自分自身で認識することができないというのはなんだか不思議なことだった。自己を認識するためには、常に鏡が必要だ。それでいて、私は私の顔を、全てが反転したイメージでしか捉えることができない。そうしないことには始まらないから、そんな不完全なものを一応自分であると納得しなければならない。鏡像段階という理論に沿うならば、理性を持つ生き物はみな鏡を通じて自己を認識し、その瞬間に自我が生まれるという。だがそれは同時に自らの有限性を自覚し、幻滅することでもある。言ってみれば、全能と思い上がっていた自分が、あまりにも広大な世界に比して卑小で貧弱な点に過ぎないことを悟ることの根源的恐怖。
 あるいは大胆で野心的な学説によれば、人間に意識が生まれたというのはせいぜい3000年ほど前、古代のカロス地方で最終戦争が起こった頃に過ぎないという。それ以前の人間は神の言葉を聴くことができたというが、意識の誕生とともにそうした声は消え失せてしまった。
 それは大いにありうることかもしれないと私は思った。なぜなら、私は社会的動物たるに相応しい言語も理性も持たなかったメッソンの頃のことを、何一つ具体的に思い出すことができないからだ。私に残る最古の記憶は、生まれた瞬間に見た手術室の電灯だとかいう劇的なものではなく、ただ「あお」というシニフィアンだった。A・O。その音声が私自身を染めるものの名前であることを、絶え間ない反復の果てにジメレオンだった私が認識できた瞬間から、私は「私」になったのだ。その瞬間、私は決定的で致命的な大きな川を渡ってしまったのだ。
 私はネクタイの結び目をつまみながら、ブレイドを少しばかり強く引き下げた。縮こまったネクタイの輪が、私の首を優しく締める。
 結局のところ、私はまたしてもアポリアへ到達せざるを得ない。私は誰か? 私とは何か? 私を私たらしめるものとは? そもそも私が私であることは本当に善きことなのだろうか?
 わからない。ワンパチが水滴を振り払うように、私はしきりに首を振った。こんな思索を弄しているのは、結局は空隙を埋めるためであり、話すために話し、考えるために考えているからだ、と私はひとまず思うことにする。それは群れた会社員たちが何となくどこかで耳にした誰かの(ということはもはや誰でもないのだが)受け売りを口にして時を過ごすのと同じことだ。私がしていることは、複雑に過ぎ、時には平凡な者を狂気に陥れる世界でうまくやっていくための術なのだ。そうして私は委員長がジムへやって来る頃おいまで、鏡に向かって秋波を送っていた。うぉれおん。
 ロビーに出ると、あらゆる人やポケモンでごった返していた。一つ目のバッジを求める挑戦者たちが列になって順番を待ち、その周りを観衆が取り囲んで期待の眼差しを送っている。いつもの光景だが、これから待ち受ける試練よりも、ここで数時間、あるいは一日近く出番を待って闘争心を維持することの方がハードでタフな試練かもしれない。一度負けた者も、ジムリーダーの温厚な性格に慈悲を求めようとして諦めずに列に並び直すといった具合だし、温厚なターフジムリーダーが彼らを捌き終わるまで、しばらくは背筋を伸ばしたドラパルトのような長い列は当分消えることはない。
 そんな開幕まもないジムチャレンジの様子を視察に委員長がやっとロビーに姿を見せると、会場は渦を巻いたような騒ぎになった。スマホロトムたちが一斉に飛び上がって、彼の一挙一動を捉えようと鳴らすシャッターの音で、他のあらゆる音がかき消されるくらいだった。カオスを極める混雑を掻い潜りながら、全員の注目を浴びている彼の周囲に注意を払っていると、ずっと彼の隣に控えている相棒のリザードンと目が合った。相変わらず、方向音痴の主人に振り回されつつも、よくやっているみたいだ。ご苦労様。私は彼に向かって笑いかけた。ちょうどさっきやった通りのインテレオン的微笑みで。リザードンもニヤリとリアクションをしてくれた。「ケロマツくん」ほどではないにせよ、それはなんだか場末のバーで会いでもしたかのように、ちょっと馴れ馴れしい印象を与える笑い方だった。
「貴様、何をしているでありますか」
 騒音を劈くくらいに甲高い声が私を呼んだので足元を見下ろすと、そこにはかの「ヘイチョー」がいた。私を見上げながら、見下すようにふんぞり返って、高慢に振舞っている。
「やあ」
 私は気さくな挨拶をした。
「お久しぶりだね。僕を覚えていてくれるなんて嬉しいよ」
「当然である」
 「ヘイチョー」は冷ややかに答えた。
「貴様は我々にとってのオストラキスモスなのである」
「なるほど」
 私はロビーの中の群衆を見渡した。委員長はリーグスタッフの報告や説明を聞きながら関係者専用の通路へと入っていくところだった。今後の運営方針に関する定例の会議の後で、委員長は現在進行形のジム戦の状況を視察して回ることになっている。彼を取り囲む人々の中で、不審な行動をしている者は確認できなかった。
「けれど、『我々』というわりに、君しかいないようだ」
「我々は卑劣な分断工作に遭ったのである」
「迷子になった、ということかい?」
「なんという理解力のなさ! 震え、迷える、ウールーのごとしである!」
 「ヘイチョー」はホプロンをカチンと鳴らして憤った。
「さては、これもまた貴様の策動であるな! あまりにも度し難いのである! ヘイたちと合流し次第、直ちに貴様を拘束するのである!」
 私は微笑みを絶やさずに喚き散らす「ヘイチョー」を抱き上げた。チャーミングななりをしていても、しっかりとした重さが腕に感じられた。
「放すである! 放すである!」
 興奮の余りにバドレックス調になった「ヘイチョー」をひとまずは抱えたまま、私は雑踏を抜け出した。タイレーツたちの金切り声は騒音の中でも良く通るから、少なくともこのロビーにはいないようだ、ということはわかった。観衆の注目を浴びながらジムを出て、ターフタウンの綺麗な空気を肺に入れると、あまりにも口うるさく喚く「ヘイチョー」を丁重に地面に置いた。
「拉致監禁は、たとい未遂だとしても、重大な弑逆行為である。断じて許し難いのである!」
「承知の上だよ」
「貴様が無実を証明したいのであれば」
 「ヘイチョー」は冷酷にも言ってのけた。
「我々に忠誠を示すべきである」
「勿論だよ、『ヘイチョー』」
「今時のインテレオンは、言葉遣いが軟派に過ぎてならんのである」
「大変申し訳ないであります、『ヘイチョー』」
「頭が高いのである」
 私はニッコリと笑った。「ヘイチョー」より背を低くするためには地べたに這いつくばらなければならないのだが。
「しかしながら、『ヘイチョー』がここにおられるということは」
 私は「ヘイチョー」に敬意を示しながら言った。そういうことはお手のものなのだ。
「このジムチャレンジに挑戦しておられるのですか」
「我々はオデュッセウスの身である」
 「ヘイチョー」は毅然として言った。
「イタケーを目指して放浪しているのである」
「要するに」
 私は「ヘイチョー」の前でしゃがみこみ、極力頭を低くする。
「不本意ということなのですね。本来は挑戦者を迎え撃つ立場であるはずのあなたが、なぜか挑む側にさせられているということに」
「バルバロイは黙るのである!」
 「ヘイチョー」は憤然とした。私を邪智暴虐な王か何かであるみたいに。
「それもこれも、あのヘイロータイが悪いのである」
「心中御察ししますよ、『ヘイチョー』」
 私は「ヘイチョー」がブツブツと洩らす不平に付き合いながら、ターフの町を見渡した。挑戦者の列はジムを突き抜けて、緩やかな坂道を上って、ちょうど花屋の辺りにまで続いていた。遠くにはかつてのブラックナイトの伝承を記録する地上絵が山肌に刻み込まれているのが見える。私はその景色を背にしてもう一度「ヘイチョー」を抱き抱えて付近を歩き回った。
「先ほどの試合は見事でしたね、『ヘイチョー』」
「当然であろう」
 「ヘイチョー」は微塵も高慢な態度を崩さずに言った。もっとも、その試合が終わったのは私がジムへと来るよりも前だったので、スマホロトムによる試合速報で簡潔に結果だけを知ったに過ぎないのだが。
「あんなワタシラガなど、我々だけで事足りるのである」
「そのようですね」
「ここは我々のテルモピュライではあり得ないのである」
「しかし、試合が終わった後、なぜ『ヘイチョー』たちはあそこに?」
「ウールーを狙うルガルガンには常々目を光らせなければならないのである。それが我らタイレーツである」
「どういうことでしょう? あなたは、あのターフジムに誰か怪しいものがいたとでもいうのですか?」
「そこが賢人と愚者の大いに異なるところである」
 「ヘイチョー」は得意げに鼻を鳴らした。えっへんという声が聞こえそうだった。
「貴様はポケモンなのに、何も感じなかったのであるか」
「私には何のことかわかりませんね」
 ()()()()()()()()()()()()()()()、と私は言った。
「所詮は貴様はヘイロータイである! バルバロイである!」
「どうやら、そのようですね」
 私は忠実に首を振った。やれやれ。
「そういえば、以前ラテラルでお会いした時も『ヘイチョー』は警戒していらっしゃったようですね。私が『今ここに来ているリーグ委員長や、ジムリーダーの周りに誰か気になった奴はいなかったかな』と尋ねた時、あなたは少し狼狽しながら言いましたね。『いないである。嘘だとしても、それを貴様に告げる義務も謂れもないのであると』と。やはり、あの時も同じものを感じていたのでしょうか?」
「無論である」
 有頂天な『ヘイチョー』は言った。即答だった。
「我らタイレーツ、不穏な気配は見逃さないのである」
「それは一体どのような気配だったのでしょう?」
「それを貴様に告げる義務も謂れもないのである」
「なるほど」
「ヘイチョー! ヘイチョー!」
 姦しい声がした方を振り向くと、タイレーツの「ヘイ」たちが寄り集まって決死の覚悟で『ヘイチョー』に呼びかけていた。横一列に並んで、それぞれがぴょんぴょんと飛び跳ねていると、まるでマルヤクデがのたうち回っているみたいに見えた。
「ヘイチョー! 無事であられましたか!」
 「ヘイチョー」に最も忠実な「ヘイ」が感極まって叫んだ。
「無論である。しかも我は新たなヘイロータイを得たのである」
「感服であります、ヘイチョー!」
 忠誠心誇らかな「ヘイ」はますます「ヘイチョー」への尊敬を深めたようであった。「ヘイチョー」は随分とご機嫌になっていた。
「点呼!」
「1!」
「2!」
「参!」
「フォー!」
「うむ! 我々がタイレーツであるには一体欠けているのである」
 「ヘイチョー」はホプロンを音高く鳴らした。
「それについてでありますが」
 代表して前から2番目の「ヘイ」が答えた。
「ただいまヘイロータイに労働をさせているところなのでありました!」
「パニュゲー」
 物陰から現れた最後尾の「ヘイ」がその言葉を諾なった。そしてその「ヘイ」を胸に抱き抱えていたのは彼だった。私は彼に柔和な笑みを送る。
「やあ」
 私は彼に言った。
「悪いな」
 彼は私の目をじっと見据えて言った。
「手間をかけさせてしまったか」
「いいんだよ」
 私は「ヘイチョー」を地べたに下ろしてやる。彼は「ヘイ」を抱き抱えたまま、私がゆっくりと屈伸するのを見つめていたが、取り繕うに言葉を口にした。
「ちょっとこの子たちとの遊びに付き合ってたんだ」
「そうなんだ」
「これは断じて遊びではないのである」
 「ヘイチョー」が私たちに口を挟んだ。
「ヘイロータイは我々のために労働しなければならないのである。我々は故に安楽に自己の営為に集中することができるのである。これぞソポスである」
「どういうことをしてるんだい?」
「この子たちを一匹ずつたかいたかいしてやってる」
 彼は最後尾の「ヘイ」を下すと、今度は後ろから2番目の「ヘイ」をその逞しい腕で掴んだ。
「いいスクワットになるんだ」
「なるほどね」
 私はなだらかに傾斜した草地に座り込んで、彼が「ヘイ」たちを一匹ずつたかいたかいしてやっている光景を眺めた。彼は「ヘイ」を腕に持ったまま下半身をゆっくりと深く沈める。嘴から深い息が漏れる音がそよ風に混じって聞こえた。むっちりとした太腿の筋肉が一斉に収縮しカタカタと震える極限から、彼は一気に息を吸い込みながら直立して、「ヘイ」のことをてっぺんまで持ち上げる。そうすると、「ヘイ」は子どものように喜んで、彼はわずかに表情を和らげながら、再び腰をギリギリまで低くする。それを何十回も、「ヘイ」たち全員が満足するまで繰り返した。確かに、それはとてもいいスクワットのようだった。
「楽しそうだね」
「そうだろうか」
「本当に楽しそうだ」
 彼は照れ臭そうにしながらたかいたかいを続けた。その様子をウジウジと遠目に眺めていた「ヘイチョー」が、堪えきれなくなって、順番待ちする「ヘイ」たちの後ろに並んだ。
 どこからかワタシラガたちがふわふわと舞って、田舎町の空を横切っていくのが見える。アーマーガアたちはひっきりなしに地に降り立っては、また飛び立っていった。ウールーたちは至るところで草を食み、何とはなしにクルクルと転がり、牧羊犬のはずのワンパチはすやすやと居眠りをして、その傍を通るクスネやホシガリスにも気がつかないでいた。何というのどかさだろう。
 あれやこれやと不満を言って何度も宙に持ち上げた「ヘイチョー」をようやく地面に下すと、彼は私を見て、流石に疲れたという素振りを示した。彼の羽毛は汗ばんで、重みで倒れた稲穂のようにしんなりとしていた。
「次はもっと我々を楽しませて欲しいものである」
 ホクホクとした笑顔をホプロンで隠しながら「ヘイチョー」がぶっきらぼうに言うと、すっかり満足しきったタイレーツは、芋虫状に整列して、悠々と行進してどこかへと去って行った。
「今日の試合は終わったから、夜までは自由行動なんだ」
 彼はそれだけ口にして私の顔をじっと見つめた。私は頷く。
「わかったよ」
「いいかな」
「もちろん」
 彼は私の腕を強く掴むと、そのまま勢いよく駆け出した。その気になれば高層ビルの一つや二つ、簡単に飛び越せてしまう脚力で走ると、私の体は宙に浮いてしまいそうになる。
 でも、それでいいのだ。私など宙に浮いてしまえばいい。
 パルファム宮に王がましました時代の、ある感傷的な哲学者は、現代の人々の間における諸悪の根源を私有財産に求め、人間が進歩する以前の純粋無垢な感情しか持たない「自然人」に理想を見た。彼らの世界では何もかもが平等で、麗しく、争いも存在しなかったと彼は主張し、そのような世界を夢見続けた。
 それが本当かどうかは知らないし、その考え方には幾分文明への憎悪を窺えなくもないが、その孤独な思索者の言う「現実の感覚」とやらが、私には理解できる気がするのだ。
 いま、ここにある感覚。彼と、バシャーモと共にいるという感覚こそ、それなのだ。私は彼に負けないようにターフの草地を駆け抜けた。

11 


 4番道路の人気のない麦畑の中に飛び込むと、私とバシャーモは張り裂けんばかりの悦びを分かち合った。そうしないわけにはもはやいかなくなっていた。黄金色の麦の中に、倒れ込むやいなや、付近に群れるラクライやワンパチたちを寄せ付けないくらいに、私たちは絡みあい、転がってもみくちゃになりながら、夢中で互いの舌を貪り合った。それだけでは飽き足らずに、私はバシャーモの美しい白い胸の羽毛に顔を埋めて、逞しい形をした筋肉の至るところに口づけをした。彼の心臓が高鳴っているのがよく聞こえた。激しい呼吸と共に波打つバシャーモの体の上に漂いながら、私は彼の「ア・ラ・カロセーズ」を梳かすように撫でた。彼が私の腰に優しく腕を回し、スラックスから飛び出した私の水色の尾の付け根を労るようにさすったので、私はレパルダスのような鳴き声を出しながら、麦と混じり合ったバシャーモの汗の匂いを鼻いっぱいに吸い込んだ。そうすると、神によって全てが与えられるように、私は満たされていった。
 私は顔を上げて、バシャーモのじっと待ち侘びる表情を眺めた。もしドーブルがその一瞬を絵画に描き留めたなら、それは素晴らしい一枚になりうるはずだった。立ち上る幸福感に浸るだけでも、私たちにはあまりにも時間が足りないとさえ感じた。けれど、私は少しでも彼と共にあることを噛み締めていたかった。
「あんたとどこか遠くへ行きたい」
 私の背中を不器用にさすりながら、バシャーモはふと漏らした。その視線は晴れ渡った大いなる空をしっかりと見つめていた。
「できればムロの島で、あんたと子どもでも育てながらひっそりと暮らしていたい」
「いいかもね」
 私は彼の雄らしいお腹を指でつまんでみたが、彼の完璧な肉体はそんなことを許してくれるはずもなかった。全く、完璧だった。
「けど、雄同士じゃタマゴは産めない」
「あんたと何かを共にできるなら、なんだっていいんだ。どこかで拾ったタマゴを育てて、一緒に……」
「君にしては珍しくおしゃべりだ」
 そう言いながら、私は既に勃起しきっていた彼のペニスを指で弾いた。それはバネブーの命懸けの跳躍のように弾んだ。
「そうだろうか」
「いいんだよ。もっと君の声を聞かせて」
「あんたみたいな相手と一緒に、どこかでひっそりと、自由に暮らすことができたらって考えるんだ。もちろん、今こうして修行に励んでいるのも悪くはないし、楽しいと思うことだってある。だが、時々帰りたいって心が疼くんだ。帰るって何だろうな? わからない。わからないくせに、俺は帰りたいって思う。だから、あの時、ラテラルのあんな場所で一匹過ごしていたのかもしれない。そうしたら、あんたが俺の前に現れた。俺たちは分かり合えた。だから、もし遠くへ行くならあんたとがいい」
 私の脳裏には、バシャーモと共に暮らすイメージが浮かび上がっていた。山奥のひっそりとしたロッジのようなところで私たちは暮らしていて、しとしとと雨の降るどんよりとした天気を窓の外に眺めながら、私はソファで横になりながら本を読んでいる。気怠い一日だ。そこに、しっとりと雨と汗で体を湿らせたバシャーモが帰ってくる。こんな日でも、炎タイプにもかかわらず彼は運動をしてきたのだ。私はやおら上体を起こして、彼をハグする。そして舌を絡め、本なんか床に投げ捨てて私たちは睦みあう。そのように続く日々を私は想像した。
「いいね」
 私は指を滑らせて、彼のアナルに触れた。キュッと萎んではゆっくりと広がっていくその触感を私は楽しむ。バシャーモの表情が少し歪んだ。
「でも、僕はガラルを離れるわけにはいかないな」
「そうか」
「だけどね、こんなクソったれな世界で、僕は君と出会えた。できれば手放したくないんだよ、バシャーモ、君のことを」
 私は起き上がって、仰向けに寝そべる彼の上に跨った。
「なら、どうしてだ」
 私はニッコリと微笑んで見せた。とびっきりの「うぉれおん」。
「僕は愚かで、自由なんだ」
「よくわからないな」
 バシャーモは残念そうな目をした。彼の手が私のお尻を撫でていた。鷲掴みにされて、揉みしだかれるのを感じながら、狂おしい待ち遠しさが私の全身を血のように循環していた。
「そう言ってくれて、嬉しいよ」
 私はサダイジャのように彼の首元を腕を巻き付けながら熱烈にキスをした。
「なら、俺があんたを連れて行く」
「お願いするよ、バシャーモ」
「ああ」
「愛しているよ」
 愛している! バシャーモの赤々と脈打ったペニスを躊躇することなく咥えると、私はたっぷりと時間をかけてフェラチオをした。感情に任せるままに、激しく頭を上下させて根元まで口に含んで愛撫したり、先端や瑞々しい肉を甘噛みしたりしながら、彼の漏らす低い呻き声に耳を傾けた。上目遣い彼を見ると、快楽に身を捩らせて、魅力的な筋肉の形を浮かび上がらせているのが素晴らしかった。目を細く閉じて、奉仕する私のことを微笑ましく見つめているのに、私はたまらなく興奮して、フェラチオを続けながらバックルに指をやってスラックスを下ろし、ネクタイを外し、チョッキもワイシャツも脱ぎ捨てた。
 「やせいのインテレオン」が現れた!
 溢れ出した彼のザーメンをかいふくのくすりのように飲み干した。熱く、ドロドロとした喉越しのある、魂を孕んでいるかのようなザーメンだった。顔に弾け飛んだ分を舐めとる前に、バシャーモは私の体を掴み、組み伏すように四つん這いにさせた。彼の腕が私のヒラヒラとした背鰭を引っ張ると、私は尻尾を高く掲げて彼の肩へと撫で下ろした。まるでオーロンゲの肉体を包み隠す黒髪みたいにだ。
「バシャーモ」
 私は彼の「名」を叫んだ。それを彼の「名」と呼ぶべきかどうか私にはよくわからない。しかし、「名前」などというものがいかなる意味も持たず、何者をも疎外しない世界はとても素晴らしいものだと思えた。何かである、ということに少しも拘泥することもなければ、何者でもないと自らを卑下することも自嘲することもない自由な場所。そんなものがあるかどうかは極めて疑わしいはずなのに、私は彼の透明な「名」を通じて、その自由を見出した気がしたのだ。
 私は両手でぐっと自分のアナルを拡げた。
「君に壊してほしい、僕の世界を」
「ああ、ポワル」
「もっと僕の名前を呼んでよ」
「わかった、ポワル」
「好きなだけしてくれていいよ」
 彼と初めてセックスをした夜、「狂った日々が僕を輝やかせてくれる」と言ったのを思い出す。それが私がこのとち狂った世界とうまく距離を置いて適切に付き合うために必要な態度だと考えていた。しかし、バシャーモと共にありたいという強い純な心が、それ以上に私を輝かせ、影ひとつ見えなくさせていた。数えきれないほどの抒情詩人たちが表現してきたにもかかわらず、私がその意味するところに達するにはこんなにも複雑な道を歩まなければならなかったとは、遺憾である、と思った。全くだ、ヘイチョー。
 軽くお尻を叩いたのを合図にして、バシャーモは両手で私の腰をしっかり掴むと、そのまま豊穣なペニスを私の中へと入った。彼の熱が、肉棒を通じて私をも火照らせた。彼は激しく、きわめて欲望に忠実になって腰を振った。私もそれに応えた。勢いよく出し挿れされるペニスの感覚は途方もなかった。暴力的な男性器が私を押し拡げる感触も、それが一息にいきんで排出されていく感触も、素晴らしく気持ち良かった。何よりも彼に愛されているということが、幸せでならなかった。
 誰かと一つであるなら、君でありたい! 恍惚に頭をもたげながら、私は狂おしく思っていた。素晴らしい天気だった。私は片手で握り拳を作って、後ろ向きに彼の腹筋の硬さを確かめるように叩いた。一際猛烈に腰を前後させて、バシャーモは出した。
 精液に塗れた彼のペニスがゆっくりと私から引き抜かれると、私は深く息を吐いた。私は胸がいっぱいになっていた。傍目から見ればヒドい格好だった。尻尾は相変わらず彼の肩にぶら下げながら、お尻を垂直に突き出し、弛緩したアナルから精液を噴出させて、あまつさえ勃起したペニスを股間から垂らしている有様だった。このような格好をあらゆる男を相手に、あらゆる場でしてきたにもかかわらず、この時ほど単なる悦び以上のものを味わったことは、私にはついぞなかった。
 勃起したままの私のペニスを掴んで、バシャーモは戯れに数度扱いた。エンニュートのように腰をくねらせながら、私は彼の方へと振り向く。彼はじっと私の目を見据えていた。透き通るような蒼空だった。
「俺もしたい」
「いいのかい」
 私は膝立ちになって、縋るようにバシャーモのお腹に抱きついた。彼の峻厳な背筋の溝を指でなぞり、そのまま尾骶骨に触れて、柔らかな谷間の中へと指を忍ばせた。彼はピクリと腰を震わせた。私はニッコリと笑みを浮かべて、彼をさっきの私と同じような姿勢になるように促した。彼は従順にお尻を差し出した。私は人差し指を挿し入れた。甘い水音を立てながら、指の付け根まで彼の中に収まった。
「すごいね」
「頑張ったんだ」
 今度は中指も挿れた。彼のアナルはゆっくりと解されて、どんどん拡がっていく。私は彼がハードな試合の合間に、一匹で密かに「開発」をしているのを想像して微笑ましかった。ラテラルで彼に会った時に、戯れにカプセルを彼のお尻の中に挿れた時から、彼がそうしていたのだと思うと、なんてキュートなんだろうと思った。空いた方の手で彼の逞しく膨らんだお尻を撫でさすると、バシャーモは腰を震わせた。
「かわいいよ」
「大丈夫だろうか」
「もちろん」
 私は自分のペニスが限界までそそり立っていることを扱いて確かめた。バチンウニの針のように鋭く、硬く、勃起している。薬指も奥までしっかりと挿入っていた。小型化したモンスターボールくらいなら、簡単に収まってしまいそうだった。しばらく彼の中で指を動かし、前立腺の辺りをくすぐってやると、彼のペニスは猛烈な勃起で反応した。
 さっきの意趣返しとばかりに、私は彼のお尻を叩くと反射的にキュッと締まって、背筋の溝が深まるのを見て、私はいてもたってもいられないくらいに興奮し、エースバーンかリザードンのように体内の熱が煮えたぎるような感覚を味わった。私は指を抜き、彼のお尻にしがみつくようにして、たっぷりと蕩けるようなアナリングスをした。長い舌で彼の前立腺をくすぐると、目の前の彼のお尻が豊かに揺れた。
「くれよ」
 バシャーモは懇願するように叫んだ。
「ポワル」
「わかってる」
 私はいっそう強く突き出された彼のお尻にいきり勃ったペニスをあてがって、先端を谷間に擦りつけた。
「愛してあげるよ。待ってたんだ」
 彼は黙って頭を下げて、もぞもぞとお尻を動かした。私の肉棒が、本当に肉のように、じゅわりと音を立てて焼かれるような気がした。
「頼む」
 私はゆっくりと腰を押しだすようにして彼の中へと入り、一つになったと感じるとそのまま腰を前後し始めた。バシャーモは背中をぐっと丸めて、羽毛から背骨の形が浮かび上がらせた。
 彼を! 愛している! バシャーモを愛しているこの時、私の罪は赦され、私は私自身を肯定することができた。これがストリンダーの吐く毒のように狂気の愛で、彼によって私の「ゼクス」としての理性は大いに揺さぶられていたとしても、私は満足だった。
「もっと、欲しい」
 苦しげに呻きながらも、彼はとても気持ちがよさそうだった。麦が何本か引きちぎられていた。
「うん」
 私は腰の振りを早めた。
「もっとあげるよ!」
 彼のアナルが一気に縮こまって、私のペニスは締め付けられた。そのまま「抽挿」していると、頭がおかしくなりそうなくらいに気持ちよかった。彼もまた、初めての感覚を大いに楽しんでいるみたいだった。低音で勇猛な彼の声の調子が上ずって、まるで孵ったばかりのココガラのような声を立ててオーガスムに耽っていた。私は彼の腰をしっかりと握りしめて、ありったけの力で腰を振って、彼の直腸に白く粘り気のある精液を注ぎ込んだ。
 タマゴでも何でも産まれてしまえばいいと、絶頂に達した私は馬鹿げたことにそんなことまで考えていたが、思えば私に馬鹿げていない時期のあった試しがあっただろうか? おりしもファイヤーの運ぶ春のような一陣の風が私たちのいた小麦畑を吹き抜けていった。
 バシャーモの爽やかな「ア・ラ・カロセーズ」を優しく掻き撫でながら、私は萎れたペニスを抜いた。彼は猫撫で声をしながら、勃起したままだった自分のペニスを夢中になって扱いて、3度目にもかかわらずたっぷりと濃い精液を出した。
「幸せだ」
 バシャーモは頻りに息をする間に言った。
「僕もだよ」
 親指で彼のアナルをぐっと拭い、そこにこびりついたあらゆるものを舐ると、私には全てが理解できた。それはあまりにも単純で、それが故に到達しがたい境地だった。訳あって世を偲ぶエージェントをしているインテレオンと、トレーナーのもとで修行に励んでいるバシャーモと、そこに何の違いがあるというのだろう? 私たちは原始へ還りたいだけの存在だ。
 私たちは同じことを何度も繰り返した。画家が己のビジョンを克明に記録すべく何度も紙に鉛筆を走らせるように、私たちは何度も互いの中で交わった。まるで子どもの遊びのように、何度も「攻守」を交代しながら、私たちは小麦畑ではしゃぐように戯れた。そんなことが、あまりにも素晴らしいものだと心の底から思えた。泥遊びをしたヒバニーみたいに、白く汚れた私たちは笑い合いながら、近場の川で体を洗い、そのまま草地に添い寝した。
「ジムチャレンジが終わったら」
 彼の強靭な鍵爪が私の皮膚をそっと掻くように触れた。
「どこで待ち合わせる」
「クロウク」
 私は彼の耳元で囁いた。
「そんな風に鳴くアーマーガアが、シュートスタジアムの前でいつも客待ちをしてる。僕のちょっとした知り合いなんだ。いつでも都合はつけてあげる」
「わかった」
 私たちはもう一度キスを交わした。キスは何度しても足りなかった。その間、私はこの上なく自由であり、この感覚がいつまでも続けばいいと思った。
 気怠いキスを交わすうちに、バシャーモはいつしか寝息を立てて眠っていた。私を信頼してあまりにも無防備な姿勢で横たわる彼の寝顔を見つめながら、私は生きる悦びを感じていた。古代の詩人たちなら、まさしくそれこそが人生だと称揚したであろう、剥き出しの生のあり方。
 彼と本当にガラルを抜け出すことになったらどうなるだろう? と私は考えた。彼の言った通り、逃げるならムロの島のような物静かで、自然が豊かで、どこかポケモンたちのノスタルジーを誘うような場所がふさわしいと思った。そんな場所で、とりたてて何もないけれど満たされた日々を送り、やがて老いさらばえていくのを私は想像した。長い時が経って、私も少々頭が鈍り、彼のお腹は出てくるかもしれない。それでも構わないじゃないか、と私は思った。自然に還ったものほど、美しいものなどあるだろうか? そんなことは断じてないのだ。
「いやあ、おめでたい、おめでたい」
 無造作に麦をかき分けて、何かが出てくる気配がした。私は振り返らなかった。まばらな拍手から唐突な三三七拍子。
「任務中におせっせとは、随分と大胆じゃあないか。ミスターゼクス」
「何しに来た」
 私が振り返るまでもなく、「ケロマツくん」は軽やかな跳躍をして、私の前に回り込んできた。
「ええじゃないか、ええじゃないか、でござるよ」
 私はあぐらをかいて、片手を顎にあてながら「ケロマツくん」を睨みつける。長い舌に巻かれて見えないが、明らかにニヤついているのがわかる。
「それはそれとしても、さっきの言葉は僕としては看過しがたいなあ。ゼクス君がぽっと出のバシャーモと駆け落ちをしようなんて! これは、僕としても不本意だけれど、組織に報告しないといけないでござるよお?」
 「ケロマツくん」は腰を屈めて、くつくつと笑った。
「どうするつもりだ」
「さっきの君らのエッチシーン、ちゃんと録音しといたから」
 目覚めのように開いた目は、ヌケニンの背中の穴のように黒々としていた。
「そういうことだったら、報連相ってあるじゃん? 僕、君の上司なんだからさあ。ま、知らないこともなかったけど。そこまで至る前にきっちり僕に報告して、連絡して、相談してほしかったなあ。君の門出はまあ嬉しいけどさあ、なんだか信頼されていないみたいで、僕は一抹の寂しさを感じるよ」
「そうですか」
「ともかく、査問不可避だよ。組織のポケモンとして、君の適正が問われる。ま、ルールだから仕方のないことだね」
「わかりました」
 私は眠りに落ちたままのバシャーモの顔を眺めた。そして顔を上げた私は「ケロマツくん」に向けて人差し指を突き立てて、「ねらいうち」をした。その頭に向けて正確に3発ぶちこんだ。
 何てことはない。いつものように、あってはならない現実を一撃のもとに砕いただけなのだから。

12 


「本物ならもっと陰湿なことをするさ」
 私は「ケロマツくん」に向かって言った。
「たとえば、その音声をダークウェブにばら撒くとかね。それに、本物はこれ見よがしにおかしな奇声を上げて笑うんだ。真似するのも面倒だから言わないけどね」
「ふふふっ」
 額に大きな穴の空いた「ケロマツくん」は口を歪めながら笑った。
「はははははっ!」
 「ケロマツくん」は瞬く間にドロドロと溶けた。ダイナマイトの爆発で解体されたビルディングのように、蛙の形は地べたへと真っ逆さまに崩れ落ちていった。私はバシャーモの寝姿を一瞥した。すっかり深い眠りに落ちて、この騒ぎだというのに少しも目覚める気配がなかった。私は口角を吊り上げてニッコリと微笑んだ。
 水たまりになって広がった「ケロマツくん」だったものは、煮沸した砂糖水のようにぷつぷつと弾けるような音を立てていた。私は再びねらいうちの構えを取りながら、その物体に向かって言った。
「同じ手を二度も食らうのはただの馬鹿だ。だが、同じ手を二度使うのはもっと馬鹿だ」
「ごもっとも」
 突如として唾のように草地に這いつくばっていたそれは、垂直に立ち上って一本の柱のようになって私の前に立ち塞がった。私は人差し指をピンと伸ばしたて狙いを定めた。
「だが、無駄だよ。僕は何度撃たれようが決して死ぬことはない。ありえない。先にそう断言させていただこう」
 私はもう一度、その溶けかけた蝋燭のような柱に向かってねらいうちを食らわせた。銃弾よりも早い水滴が柱に大きな穴を開けたが、すぐに穴は塞がった。まるで水に向かって銃を撃ったみたいだった。
「なるほど」
「君ほどのポケモンならば十分に了解されるはずだ」
「なぜわざわざ現れたんだい」
 ドロドロとした柱が、意思を持った大理石のように彫琢されていき、それはやがて一体のヒトの形を取った。私は掘りの深い陰鬱な顔立ちにすぐに「ハエ男」ことサツキバエフの面影を認めた。
「人聞きが悪いな。あるいは、言葉に対して厳格に『ポケ聞き』と言うべきかもしれないが」
 サツキバエフの顔に、メタモンのとぼけた表情がサブリミナルのように映り込んだ。
「ある意味で、僕らは兄弟のようなものではないか」
 メタモンのへんしんは完璧なまでの領域に達している。目の前にいるのはまさしく私たちが追い求めた「ハエ男」ことサツキバエフその人であった。陰湿さを醸し出す目元の深い彫りの織りなす陰影、虚無を見つめている瞳の暗いハイライト、血の気の失せたような蒼白の肌、乾いた唇に入ったひび割れの一つ一つまでもが丹念に再現され、私はまるで精密な写実絵画に立ち会った時のような感動さえ覚えた。それは、余程長い間「ハエ男」の側にいて、奴の内面にまで深く立ち入り観察に観察を重ねなければ決してできないへんしんだった。もしかしたら「ハエ男」のペニスの長さまで——通常時から勃起時まで——正確に答えられるかもしれない。
 その感情を極限まで削ぎ落とした寒気さえする声まで、音声データで聴いたことそのままだった。感情によって少しも揺れ動くことがなく、その声のもとに多くのポケモンやヒトに癒し難い傷を与えた男が、確かに再現されていた。仮に、創造神が悪意を持っていたとしたら、きっとそんな声で「光あれ」と言ったのだろう。「ハエ男」が「しろ」と言ったように。
 だが、それほどまでに本物そっくりなものに対して、私たちはあたかも本物だと思い込んで驚愕するか、あるいは写真を引き合いに出したりすることですっかり失念してしまうのだが、それはあくまでも虚構なのだ。鏡で見る私が私であって私でないように、入念なリアリズムによって形作られたものもまた虚像に過ぎない。芸術家もそれを理解している。そうでなければへんしんなど不可能なのだ。このメタモンはそのことを深く理解し、寧ろ楽しんでいるように思えた。「ハエ男」が決して使うはずのない「僕」という一人称が、私の聴覚に深く染み込んでいた。
「どういうことかな」
「僕らは『投げ飛ばされたもの』だ。一義的には我々はポケットモンスター、略称ポケモンであり、モンスターボールから『投げ飛ばされた』存在である。その点において、僕らは同士だ」
「確かに、そうとは言える」
「ボールから『投げ飛ばされたもの』たるポケモンから、僕は各地へ放たれる『ミサイル』となり、君は『ミッション』を請け負うものへと分岐していった」
「なおかつ、君は『メッセンジャー』でもある、とでも言いたいのかな」
「全ては繋がっている。僕らの大地が、この星そのものと分かち難く結びついているように」
 サツキバエフの目が、ステレオタイプなメタモン顔になり、それから絶え間なく「ケロマツくん」の形を取り、そばで眠るバシャーモの顔へ、そして誰でもない誰かの顔へと移り変わった。missile、message、mission。古代語のmittereから派生した言葉たち。人間の言葉を教わる合間に、口うるさいペラップがそんな蘊蓄を披露したのを覚えている。言葉の表面上の意味合いにおいては、確かに我々は繋がっていたようだ。
「君が熱心に『ハエ男』に付き従っていることを除けば、私たちはいい友人になれそうだね」
「彼は僕にとっては善き人だ」
 メタモン——さしあたって、そう言うべきなのだろう——が言った。
「ホウエン地方で彼のポケモンとなった時から今に至るまで彼と共にいた僕から言わせれば、こうなった責任は全て君たち『正常』の側にあるのだ。彼は君たち『正常』によって取り返しもなく狂わされた。彼が犯した悍ましい行為は、それによって彼が彼の安寧を保つための唯一無二の行為である。全てのポケモン、ニンゲンの犠牲の責任は全て君たち『正常』の側にあるにもかかわらず、君たちがしていることといえば、ただ腫瘍を除去するように『狂気』を排除することに汲々として、本質には何一つ着手しようとはしなかった。君たちは君たちの『正常』だけを主張し、その無謬性に少しも疑問を抱こうとはしなかった」
「大した責任転嫁だ」
 私は首を振った。
「洗脳された狂信者なら、誰だってそういうことを言う」
「僕は誰かに理解されるために彼を慕っているわけではないということは理解していただきたいね。それに、ポケモンである以上、常に何かに隷従しなければならない、そうではないか?」
「それには概ね同意だけど、君の主人はかつて表向きではあれポケモンの解放を主張していたはずじゃないか?」
「それが偽善に過ぎなかったことも君は良くご存じのはずだ」
 見覚えのある顔、懐かしい顔が次々と現れた。狂気に陥った男に生死不明の男。その節は大変お世話になったものでした、と社交辞令を送ってやりたくなるほどだった。
「彼には思想など必要なかった。ただ然るべき『自由』があればそれで良かったのだ」
 再び「ハエ男」の顔になってメタモンがその口角を吊り上げて笑ったが、それもまた架空の微笑みだった。私もニッコリと笑顔を返した。
「今度の然るべき『自由』というのが、ムゲンダイナというわけかい?」
「僕らがそれをするのは、『狂気』として排除されるものとして『正常』に向けて告げ知らせるためだ。あらゆる『狂気』と呼ばれるものは、『正常』に対して呼びかけ、警告するのだ」
「それにしても」
 私は表情を微塵も変えずに言った。
「委員長を探さなくて大丈夫なのかい」
 私の問いかけに、メタモンは微塵も動揺しなかった。
「君がリザードンの姿で僕に笑いかけただろ。あの苦労人なリザードンが決して見せるはずのない軽薄な笑みをね。『ハエ男』のミサイルとやらはどうやら核心部にまで到達しつつあるようだ」
 あのリザードンの凛々しい顔立ちが私の前に現れた。そしてさっきも見せた馴れ馴れしい薄笑いを浮かべる。 
「どうしてそんなことをした? 君は心酔している『ハエ男』に背く行為をしようとしているように思える。君の意図は何だ?」
「君たちの監視があろうとなかろうとも、僕らの計画の成否には一切関係しない」
 リザードンの眼力が私を見据えた。古代の禁忌とされた異神の像か何かのように、瞳の奥が怪しく光った。
「僕は彼によって君に発射された『ミサイル』であり、『使者』なのだ」
「それもまた『ハエ男』の意思、というのか」
「目と目が合ったらポケモンバトル、とヒトは言う」
 柱状の塊が草木のように伸びて逞しい首になった。その下がもこもこと隆起して渓谷のような胸筋と丸く張ったお腹が現れた。背後からは一対の翼が伸びて力強く開くと、すっかりダンデのリザードンとなったメタモンが、がっちりとした両足で力強く地面を踏みしめた。麦畑が一斉に棚引いた。バシャーモの短い毛並みもまたはためいたが、それでも彼は幸いにも優しい眠りについてくれていた。
「僕らは君たちに正々堂々と勝負を挑むことを希望する」
「大胆なのか、無謀と言うべきかな」
「陳腐な言い回しだが、あらゆるポケモンバトルと同様、勝利したものが正しい。僕らはそれを証明するだろう」
 偽物のリザードンが翼を緩慢にばたつかせると、その巨躯が一段階ごとに浮き上がっていく。私は片腕を伸ばして、ねらいうちの構えをした。
「ならば、こちらも証明してやるまでだ」
「程々に期待しておこう」
「委員長が失踪しないうちに早く探し出すんだな」
「僕らには自信がある。君たちはどうだろう」
 私は威嚇のつもりで数発、ねらいうった。メタモンの化けたリザードンは俊敏にもそれを躱すと、さっと低空飛行をして私の側を掠めていった。ふんわりと上昇した橙色の体を完璧に使いこなしながら、咄嗟に地面に伏せた私を見下ろした。
「『ミサイル』はスピードが肝心だ。君たちは間に合うだろうか?」
 もう一度、リザードンが草地に這いつくばった私の上を掠めていった。尻尾の炎が一瞬私の背鰭を炙り、ジリリ、と焦げる音がした。
「今や『すばやさ』が問題とされている。僕らが先か、君たちが先か? 秒ではない。コンマの差が、カタストロフかそうでないかという重大な結果を生み出すのだ」
 限りなくリザードンに近い何かは空中で大きく円を描いて一周すると、そのまま麦畑を薙ぎ倒す風を巻き起こしながら飛び去っていった。私は片膝立ちになって小さくなりゆく黒点にねらいうちを撃ち続けたが、まるで蜃気楼を相手にしているみたいに手応えがなかった。
 「ハエ男」が放った『ミサイル』は確かに順調な軌道を描いて、今や着地の態勢に入りつつある。それを迎撃するのが私たちの役目だった。その点に関してはお互い全く不足というものはない。そうだ。あのメタモンが言った通り、問題はどちらの「すばやさ」が上か、ということに集約されるのだ。世界中の、あらゆるポケモンバトルと同じように。しかし、やらなければならないことが増えてしまった。
 足元で草葉の擦れる音がした。バシャーモの目がぼんやりと開かれていた。サファイアのような瞳は、赤ん坊のようにまだ現前するものをうまく捉えられていないようだった。実に、よく眠っていたものだ。
「起きたのかい」
 彼はゆっくりと首をもたげながら、赤く峻険な嘴をぱくぱくと開いた。
「ああ」
「お寝坊さんだ」
「すまない」
「いいんだよ」
 さっきまで『ハエ男』のミサイルに向けていた指を、バシャーモの綺麗に整えられた「ア・ラ・カロセーズ」へと通す。ゆっくりと持ち上げると、星の砂で手遊びしているみたいにさらさらとその毛並みがすり抜けていった。私はそれを何度も繰り返した。彼は何かに気づいて、私の背中に手を伸ばした。
「背鰭が、少し焦げている」
「これかい」
「さっきは乱暴しすぎたか」
「手ぬるいくらいだよ。それに、すぐ元通りさ」
「そうか」
「そうさ」
 バシャーモはいきなり両手で私のカラダを掴んで、ナゲキが華麗な柔術を疲労するようにぐっと自分の胸元へ引き寄せた。再び、私たちは重なり合い、求め合っていた。いくら時間をかけたとしても到達できず、口でも、舌でも、手でも、たとえペニスでも感じることのできない一体感を、ほんの一瞬でも、その残滓でもいいから感じとるべく、私たちは有限な時間の中で必死だった。
「次はいつ会えるかな」
「わからない」
「君のジムチャレンジに同行できればな」
「最後は一緒になれる」
「シュートスタジアムの前、クロウク、と鳴くアーマー……」
 まだ何かを言おうとする私の口がバシャーモに塞がれた。そうだ、私たちに言葉なんか要らなかったのだ。

13 


「そういう話なら聞いたことがあるねえ」
 目を細めながら「ケロマツくん」は言った。5番道路のワイルドエリアを臨む大橋の縁に私たちは佇んでいた。ナックルシティの威容を遠影にして、大きな夕日がゆっくりとその背後に沈み込もうとしていた。
「主人を慕うあまり、あまつさえ主人になりきってしまうメタモンにむかし遭遇したことがあるよ」
 この雄にしては珍しくどこかしんみりとした口ぶりだったが、それが本心なのかどうかは私にさえわからなかった。
「それは、どういう案件だったんだ」
「なんて事はないよ。亡くなった主人になり変わって、生前、そいつができなかったことを代わりにやってやろう、っていうわけ、健気だろ、ね? ご立派にポケモンまで連れ歩いて、殿堂入りなんてしちゃったから、さあ大変、ってやつ?」
「そのメタモンはどうなったんだ」
「人畜無害ってことだし聞き分けもよかったから無実放免さ。今ごろはアローラ辺りでも旅行してるんじゃないかなあ?」
 水掻きを扇子のようにして顔に風を送りながら「ケロマツくん」は大あくびをした。
「ま、悪くないヤツだったね。うちの言葉じゃ『サンパ』ってやつ?」
 「ケロマツくん」は両手を組み合わせ、忍法でも唱えるかのように、長い人差し指を重ね合わせた。突然、ふう、と柄にもないため息を吐くと、その場に胡座を掻いて考え込むように腕を組んだ。機嫌を損ねている時、「ケロマツくん」はそのような唐突な態度の取り方をするのだ。それはユキハミがポケモン同士のかけっこで勝つのを見るのと同じくらいには珍しいことだったのだ。
「そういうメタモンが『ハエ男』のところにいたのは正直僕も予想外だったよ」
 ああ、ポケモンってつくづく不思議な生き物だねえ、とポケモンである「ケロマツくん」は言ったが、自分で自分の話していることがつまらないとわかりきっているかのように、声色は全く笑っていなかった。
「モンスターボールの認証システムもくぐり抜けるくらいには巧妙な変身ができるってことだ。つまり、何だってできるかもしれない。ポケモンというよりは生物兵器の類だよ。まったく、もう」
「我々は『ハエ男』のパーソナリティについてやや過小評価していたということになる」
「奴はホウエン地方で『ハエ男』に出会った、と言ってたんだっけ? それも話しぶりからすれ結構昔のことだとかさ」
「ホウエン唯一のメタモン生息地はハジツゲの私有地だ。私たちは思いもがけず経歴不明の『ハエ男』の過去の一端を掴んだということかもしれない」
「何の役にも立たんけどね」
 「ケロマツくん」は吐き捨てるように呟いた。淡々としながらも、そこにははっきりとした憎悪が認められた。今度取り逃がしたら自決も辞さないというほどの、強い「ハエ男」への憎悪と軽蔑。奴のことを語ろうとすればするほど、いつも全てを軽薄に受け流しているように見える「ケロマツくん」はどこかぎこちない調子になり、ある種の政治的偏向者が表立っては中立を装うようにことごとく不自然な振る舞いに思えてくるのだった。
「んー? ゼクスくん今日はやけにじろじろ見るね。もしかして僕のこと見直した?」
「『ハエ男」事件の前、あんたはもっとまともなゲッコウガだったなと思っただけだ」
「何言ってるんだい? 僕は昔から何も変わらないさ」
 「ケロマツくん」はぷりぷりと頬を膨らませた。ウロボロスのように丸まった背中から脊椎が浮き出していた。
「それにしても、さ」
 「ケロマツくん」、もといミスタードライ——残念だが、時々はそう言ってやらなければこいつの名前を忘れてしまうのだ——は目を見開いて私をまんじりと見つめながら話を逸らした。いやに眼光が輝いていた。
「君のバシャーモ、結構活躍してるみたいじゃん。カブのマルヤクデとの死闘はなかなかのハイライトだったよ。ふふふ。僕らンとこにもああいう子、欲しいよねえ」
「何が言いたい」
 顔を仰いでいた「ケロマツくん」の手が股間の突き出したところをこれみよがしにさすった。隣にティッシュペーパーの箱でも積み重ねてありそうな風情だ。
「どれだけしたの? 彼と」
 そんなことに答える義務も謂れもないのである、と私の頭の中の「ヘイチョー」が言った。
「ふうん。あっそうか。こんなこと聞いたら『セクハラ』になっちゃうもんね。おお、世知辛い、世知辛いっ」
 ぷう、せりを、てる、と「ケロマツくん」は嘯いた。私は黙っていた。静寂。奴は話題を変える。
「けど、委員長のリザードンがすり替えられてるとなると、こりゃ一大事だ。参ったねえ、どうも」
 両生類の皮膚のようにねっとりとした「ケロマツくん」の視線が私を包んだ。オニシズクモに捕らえられたようにゾッとしない。
「委員長にべったりとくっついて、隙あらば極秘情報を盗み聞きして『ハエ男』にでも流すつもりでいるのか。ただ、少し引っかかる」
「ふふふふ」
「何が可笑しい」
「まあまあ。僕はいい上司だから、ゼクスくん、率直に自分の考えを言ってみ? ほらほら」
「仮にそんなことをしようとしたとして、委員長がムゲンダイナについて口にするかどうかは完全な運任せだ。そうした緊急事態が運よく舞い降りてくるのを待つなんて、不確実性が高いし、何より合理的じゃない」
「うんうん」
 「ケロマツくん」は拍手をする。うっすらと粘膜の貼り付いた水掻きからぱふぱふとした気の抜けた音が鳴った。私は構わずに推論を続けた。
「だとすれば、必要な情報を聞き出せる確信が無ければならない。手っ取り早い方法は委員長を脅迫することだが、ハイリスクだ。何より、メタモンを差し向けて彼の相棒を装わせたことの意味がなくなってしまう。『ハエ男』としては、ほとんど足をつけずにムゲンダイナをせしめたいはずだ。理想的には、ガラルポケモンリーグの不手際によってムゲンダイナが紛失したことにしてしまえるほどに」
 私は「ケロマツくん」の方を一瞥する。顔の周りからお花畑が浮かんで見えるようだった。
「まあまあいいんじゃないかな? いやはや、僕の指導の賜物だねえ」
「つまり、ごく自然にその情報が引き出される状況を作り出す。『ハエ男』はそれを狙っている」
「うむ。だとすれば、奴は近いうちに必ず何らかのアクションを起こすはずだねえ」
「『ハエ』のように、不愉快な羽音を立てながら」
「本物のリザードンの行方は、物理的な拘束、ポケモンバンク・ネットワークへの放流、あらゆる可能性を考えて諜報部が情報を集めてるとこだってさ。ま、僕だったら擬態したメタモンで架空の口座を開設して、適当にぶち込んでおくだろうけど」
「モンスターボールごとワイルドエリアの湖に沈められていないといいがな」
「おっとお? そんなことしたら、余計に足ついちゃわない? 奴は何事もなかったかのように、ムゲンダイナを掠め取りたい、ってさっき言ったろポワルくん?」
 「ケロマツくん」は肩肘をつきながら、神経質に尖った耳を動かした。口元に巻かれた長く分厚い舌の裏側でボソボソとした低い音が漏れていたが、私の耳にはよく聞こえなかった。
「任務中の呼称は『ゼクス』で統一してほしい」
「リザードンはあくまでも時間稼ぎに過ぎないさ」
 私の言ったことには答えずに、「ケロマツくん」は水掻きを庇にして、赤い夕日をひとしきり眺めた。
「ゼクスくんの推測通り、『ハエ男』はまた飛び始めるだろうさ。ここで問題。昨日はどこで奴が目撃されたか、はいっ、5秒で答えて」
「まどろみの森、一礼草原、エンジンシティの路地裏、ガラル鉱山、ミロカロ湖のほとり、キルクスの入り江、ディグダの遺跡、10番道路駅舎」
「さすがポワルくん、舌がよく動くねえ」
「……」
「ちぇっ、堅物だなあ。『ゼクス』くん」
「あたかも奴が偏在するように、ほぼ同時間帯に確認されたという報告だ」
「ガラル中に撒き散らされたメタモンどもが活発に動き出してる。僕らにはまるで隠し立てをする気もないらしい」
「『君たちの監視があろうとなかろうとも、僕らの計画の成否には一切関係しない』、そうヤツは言っていた」
「やれるもんならやってみろ。舐められたもんだよね、僕らも。ま、ヤツらが勝負を仕掛けてきたんだから、僕らとしては真正面から受けて立てばそれでいいさ……」
 腕を組んで考える姿勢を取ると「ケロマツくん」は電撃を浴びたように背筋をピンと伸ばした。このゲッコウガはもはや自分がどう見られて然るべきかなどということは最早考えも及ばないのだ。その点で言えば、あのメタモンともさして変わらないかもしれなかった。「ケロマツくん」は「私」なるものを軽蔑することで「私」になった。メタモンは「私」でなければ「私」たり続けることができない。そして、私は「私」というものが今更わからなくなり始めていた。何もかもが、「私」という恒星を逡巡して、その重力から見放されないように何とか距離を保っている衛星のように感じられた。
 私たちは「投げ飛ばされたもの」である、とあのメタモンと称するものは言った。
 「ケロマツくん」の声が遠くなっていた。私はネクタイの紐を結び直した。
「あれえ? 立ちながら寝てるう、ポワルくん?」
 目を眠りこけたヤクデのように垂らしながら「ケロマツくん」は舌のマフラー越しに喉を膨らませた。グレッグルの喉元のように膨らんだ首元は、まるで腫瘍か何かができたみたいにグロテスクだった。私はヤツの間抜けづらを睨んだ。「ケロマツくん」ははしゃぎながら太陽光でも浴びたみたいに水掻きで顔を覆った。意味もなく楽しそうだ。
「任務中の呼称は『ゼクス』で統一しろ」
 あのメタモンの化けたゲッコウガが本当にこいつだったら良かったのに、と私は本気で思ってしまった。革靴でこつ、こつとリズムを刻んでレンガを叩いた。マキシマイザズのドラマーの打ち鳴らすビートを真似して昂った神経を、快い音楽への陶酔のうちに鎮めていった。
 「ケロマツくん」だって「ハエ男」の犠牲者なのだ、と私は大いなる気持ちで考えた。何があったか知らないが、結局のところカロスでの一件で、ヤツは手痛いダメージを被った。XからYへ、あらゆる物語には変化がつきものだ。それと同じように、ミスタードライこと「ケロマツくん」は取り返しのつかないほど変わってしまった、それだけの話だ。私としてもそれを考慮して接するように心がければいいのだ。そういうことにしておこう。
「全く、随分名前にこだわりがあるインテレオンくんだねえ。ま、いいけどさ。それでちょっと思ったんだけど、そのメタモン、『ミサイル』がどうこうって言ってたじゃない」
「『ミサイル』はスピードが肝心だ。君たちは間に合うだろうか?」
「やたら速度にこだわっているよね。決着はコンマ1秒か。昔のテレビゲームみたいだねえ。『!』が出たらすぐにボタンを押せ! ってさ」
「その瞬間が来るまで、くれぐれも『ミサイル』から目を離さないこと。私たちがすることは変わらない、そうだろう?」
「同感だね。ハエはどれだけ小賢しく飛び回っていても、必ず止まる瞬間が来る。それを叩くか、逃げられるか、二つに一つ」
「私たちは奴らの『ミサイル』が墜落する日時と地点を見極めて、迎え撃たなければならない」
 口元を覆った舌をずり下げて、「ケロマツくん」ことミスタードライはニヒルな笑顔を向けた。
「となれば、だ」
 「ケロマツくん」はすっくと立ち上がって、一直線に伸びをした。
「僕らは今晩一杯やらなければならないよね」
「お断りする」
 私は瞬膜を閉じた。
「あんたの酒癖は最悪だと聞いているからな」
「なんだよー、ノリ悪いなあゼクスくん。決戦を前にパーっとやるのはバディもののお約束じゃないかあ」
 駄々を捏ねながらにじり寄ってくる蛙の顔を伸ばして片手で掴んで押さえ込みながら、スマホロトムを呼び出して、あれこれと指示を出した。ヘイ、ロトム、ガラル交通社にタクシーを予約してくれ。
「今夜、委員長はナックルシティジムのレセプションに出席する予定だ。あのリザードンが『ハエ男』の手先だとわかった以上、例の事件現場にいるというのは少し気になるし、『ミサイル』の手がかりだって探らなくきゃならないからな。悪いが、酒の相手なら他をあたってくれ」
「つれないぞっ、ゼクスうっ! ぎゃわろッ、ぎゃわろッ!」
 「ケロマツくん」は不服そうに喉を鳴らし続けた。その震動音がレンガ橋の上からワイルドエリアへと不気味に響き渡っていくようだった。同時に、耳鳴りのように「ハエ男」の羽音が、消え入りそうなところで、ずっと通底音のように鳴り続けているのを聞き取った。私を取り囲んでいる現実はこのようなものだった。
 しばらく私たちが押し合いへし合いしているうちに、シックな黒に塗装された車を掴んだアーマーガアが到着した。こんな場所で大のポケモン同士がやり合っているのを見てきょっとんとして、大きな体躯をすくめている。
「お待たせいたしました、ええと、ご利用は2名様、でしょうか」
「1名だ。よろしく頼むよ」
「しょうがないなあ、次こそは、だぞ」
「『検討』しておく、ミスタードライ」
 私は空飛ぶタクシーに乗り込み、それから窓から軽く身を乗り出した。
「そうだ。ここからならバウタウンの『防波堤』をお勧めしておく。そこのカレーは一生に一度は口にする価値がある」
 そうして、ばたりとドアを閉めると私はレザーの座席に背中を沈めた。ナックルシティへ、と言うとアーマーガアは丁重に了解いたしました、と言ってフワリとタクシーを離陸させた。相変わらず、熟練した飛行技術だ。下界を一瞥すると、腕を組んでこちらを眺める「ケロマツくん」がとうに小さくなっていた。私はようやく吐息をつき、チェックの乱れを整えた。
「ゲッコウガ、という種族でしたか」
 アーマーガアは車の上から、感慨深げに嘴にした。
「話には聞いたことがありましたが、アーマーガアというのはガラルより外の世界を知らないものですから」
「知ってしまえば、外の世界というのも案外平凡なもんだろう?」
 私は快いワイルドエリアの風を顔に浴びながら答えた。ひんやりとした空気が、私の潤った肌をやさしく撫ぜた。
「いえいえ、私には新鮮なことばかりですよ。あなたは私の知らないことをたくさん見聞きして、羨ましい限りなのです」
「知りすぎるのも、時には悲しいこともあるのさ」
「そういうものでしょうか」
 私はこくりと頷きながらそっと瞼を閉じた。ごく自然に、私は彼のことを考えていた。あの自然児を愛しているのは、彼が「無私」であるからなのだろうか? 彼は「バシャーモ」という不特定多数を示す一般固有名詞で呼ばれることに何の痛痒も感じず、何でそんなことを感じる必要があるのかも考えたことがないようだった。彼は彼自体で自足していた。それこそ、遠いムロ島の穏やかな自然で素晴らしい時を過ごすのに不可欠なものではないだろうか? 一方で私は「ゼクス」や「ポワル」という名前に束縛され、あまつさえ苛立っている有り様なのだった。たかだか一体のポケモンとして存在することに困難を感じ、要らぬ苦労を費やしているみたいだった。
「この間話したことは大丈夫かな」
「もちろんですよ。チャンピオンカップの時ですね。連絡をくだされば、すぐに参るようにいたしますから、何卒よろしくお願いいたします」
「ありがとう。頼むよ」
 ヘッドレストに首を預けながら、私はしばしうとうととしていた。バシャーモ、ハエ男、ケロマツくん、メタモン、ミサイル、ゼクス、ポワル、あらゆるものが混ざり合って、ストリンダーの吐き出した毒のようにドロドロと私の頭の中に渦巻いていた。私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、私たちはどこへ行くのか、などと陳腐で馬鹿げた文句が浮かんできた。それでいて、結局のところ、何もかもがわからないままなのだ。
 少なくとも、こういうことばかり考えているときは、クタクタに疲れているということは確実だった。私はしばし寝息を立てることにした。その時まで、私なりに英気を養わなければならないのだ。
 メタファーとしての「ミサイル」を迎え撃つこと。

14 


 いまガラル地方が密かに直面している状況は、さながらジョルジュ・ド・ラトゥールの『ダイヤのエースを持ついかさま師』のようだった(イッシュだったかカロスだったか、そちらに出向いた時に美術館でちらりと見たことがあった)。貴族の正装をして羽振りの良さそうに手札を見つめている右端の青年をガラル地方としよう。テーブルに重ねられた金貨はムゲンダイナといったところか。自分の札に夢中になって浮わついた彼を尻目に、左端の髪をカールして若ぶっている男が絵を鑑賞する者へと挑みかかるような眼差しをむけている。これが「ハエ男」だ。
 この絵で一際目を惹く中央に座った女——見栄を切ったように目をぎょろつかせ、給仕女からワインを受け取る素振りをしながらも、その右手の指は意味ありげなサインを示している。ワインを渡す給仕女も慎ましく装ってはいるが、女の目配せに対して明らかに呼応していることがわかる。そして彼女たちのやり取りをトリガーにして、いかさま師は服に隠したダイヤのエースをこっそりと取り出すのだ。未熟な金持ちの青年を素っ裸にしてしまう切り札を。彼女たちが、いわばガラルのあちこちに散らばった手先のメタモンなのだ。
 そして私はまさしくこの絵の鑑賞者に他ならなかった。決定的瞬間の目撃者であると同時に、傍観者にさせられた存在。彼らの目論見が手に取るように理解できる立場にいるにもかかわらず、それに対して何らの手出しをすることもできずに畏怖をもってこれから起きることを眺めているだけの部外者、透明な目撃者として。少なくとも「ハエ男」や輩下のメタモンたちにとっては、私や私の所属する組織はそのような慎ましやかな観衆に過ぎないかのように。
 大型のモニターで流れていた美術番組が終わり、コマーシャルが連綿と流れ始める。丸眼鏡をかけてチャーミングなサルノリがどこかのスタジオで無邪気に太鼓を叩いたり、木登りをしている姿が、陽気なバック・グラウンド・ミュージックと共に映し出されていた。ベッドの縁に腰掛けていた私は腕を下ろすと、両膝に腕をついて腰を屈め、何度見たかしれないサルノリの姿を見つめる。続けて、バウタウンジムリーダーが出演している化粧品のコマーシャル。新しいバージョンだ。今回は新任のスパイクタウンジムリーダーとの共演だった。顔を寄せ合って指の互いの頬を撫ぜ、その柔らかさと瑞々しさを確かめて、二人ともにこやかに笑っている。テレビ慣れしていなさそうな少女の笑顔は肩の力が抜けておらず、微笑ましいほどにぎこちない。コマーシャル・ソングは彼女の兄の新曲だった。普段のイメージとは異なる前向きで明るいアップテンポなポップ・ミュージック。私は肩を微かに揺らしてリズムを取りながら、口をすぼめてその旋律を口ずさんだ。
 委員長の背後にピッタリとついた「リザードン」とはすっかり顔馴染みのような奇妙にも親密な関係を築くに至っていた。ガラルの各地で目を合わせるたび、ヤツは頬を吊り上げて微笑みかけてくる。私たちの関係はまるで役者と、その役者のことを地の果てまで追いかける一人の熱心な観客のようなものだった。各地を公演して回るうちに、役者はいつも同じ人物がかぶりつきのど真ん中を陣取っていることに気づく。観客は決して言葉を発することはないが、熱心な眼差しを舞台の中心にいる役者に送り続けている。役者はその熱烈なファンに向かって、二人にしかわからない秘密のようにさりげないアイキャッチを示す。彼らはそうして親密に頷き合う。それと同じように私たちもそれとない、アンティームな挨拶を交わすのだ。
 リザードンの所在はなおも掴めないでいた。ポケモン・バンク・ネットワークの目ぼしいボックスの中身を総浚いするだけでも数ヶ月は要するという諜報部からの報告だった。それにしたって、目的のリザードンがあの広大なネットのどこかにいるかどうかは別の話だ。確かに本物のリザードンを確保することができれば話は早いが、都合の良いことは滅多に起こらないのがこの稼業だということを、私は経験則として知っている。
 「ハエ男」の消息も杳として知れなかった。メタモンのへんしんと推定される「ハエ男」もゾンビのように各地に湧き出て、監視の目を撹乱させていた。監視カメラの映像や写真に捉えられた「ハエ男」の幻影は、ガラル各地を観光していて実に楽しげだった。
 そんなわけで、私と世界との関係は「ハエ男」事件を介して少しずつ変質し始めていた。私は当たり前のように私の周囲にある広がりやそこに存在する物質を感じ取り、それを認識することによって世界というものを理解してきた。それらの実在性、確実性への信頼というのは全くもって自明的で、揺るぎのないものだと思っていた。
 たとえば、そうしたもの一切が悪賢いメタモンのへんしんに過ぎないとしたら?
 もちろん、そんな思考は論理が飛躍しているし馬鹿げてもいる。健全な精神が考えるべきことではない。いくら「ハエ男」の仕向けたメタモンたちがガラル中に蔓延しているからと言って、私たちを取り囲む全てを偽物と断じるのは、健全なものの見方とは言えない。私はそう私自身に言い聞かせる。ところが、そういう空想を理性で抑え切ることができなくなるほどに、私は大いに不安を覚え、心が落ち着かなくなってくる。どうしても頭はそのような空想を反芻して、その考えを抑制するために私は余計なエネルギーを費やさなくてはならなかった。とりわけ、こうしてホテルの一室で静かに次の展開を待ち受けている時には。何もいないはずなのに、何かがすぐ側に潜んでいるような緊張感に私はこのところずっと包まれているのだった。
 あのメタモンなら何にだって化けることができるのだろう。いま私が眺めているテレビであれ、腰掛けているベッドであれ、あるいは部屋と外界とを仕切るクラシカルなカーテンだとか、心地よい温度と水圧をしたシャワーのお湯の一滴一滴にすらメタモンは宿っているのかもしれなかった。妄想というのは一度火がついたらどこまでも連鎖してしまう。かつてシュートシティを襲った破滅的な大火のように、私の精神の隅々が不安に取り囲まれる。人間の心的機構とはかくも厄介なものだと思う。まったく、そんなものをポケモンがわざわざ後天的に輸入することになるだなんて。
 私はそのままベッドに倒れ込んだ。満たされない欲望の充足は、孤絶した夜になるとひどくこたえた。適度な発散と金銭のための行為も、当分はお預けだった。いったい誰がメタモンのへんしんなのかわかったものではない以上、最低限の警戒心は働かさなければいけなかった。連絡のために「ケロマツくん」と会うたびに——といっても、報告することなど何もなく、私たちは現状を確認し合うだけだったのだが——奴がニヤニヤとした視線を送ってくるのを、私は知らん振りをするようにしていた。ケモノというのは黙っていてもそういう欲求不満というのを察する「勘」というものがあるらしい。
 ——んんん? 最近はご無沙汰なようだねえ、「ポワルくん」?
 私は鳥の群れを思い浮かべることにした。ココガラか、マメパトか? 何でもいい、とにかくたくさんの鳥ポケモンが飛び回っているぼんやりとしたイメージを瞼の裏に浮かび上がらせる。問い。その数は限定されたものか? 限定されないものか? 答え。問題の整数の推測は不可能である。それは神のみぞ知ることだから。結論。神なるものは存在する。つけっぱなしのテレビジョンの放つ猥雑な光が天井に反射していた。蛍光ペンを何重にも塗り重ねたようなけばけばしくも幻想的で、どこか音楽的な光景だと思えた。鳥類学的推論が、私を平静にさせた。
 薄暗い部屋の天井を見つめながら、彼と交わった時のことを思った。私の両手を押さえ込んで、峻厳な風貌とは対照的な純粋な瞳で見下ろすバシャーモに向かって私は微笑みかけた。彼はそっと目を閉じて、胸板の逞しい上体を屈めて頬を寄せる。ねっとりとした舌が私の首元に触れ、吸い付くような甲高い音を立てるのが聞こえる。彼の豊かな羽毛の触覚と体温を感じる。私は恍惚として全身の力を抜き、まるで宇宙空間にでも漂っているような安楽な気分になっていた。彼がメタモンだったとしたら? という問いはそこでは何の効力も持たなかった。この燃え上がるような情感だけは、信心深い信者が神の実在を信じるように私にとって確かだった。
 現に彼は実在し、ジムチャレンジを順調に回っているところだった。彼のいるチームはスパイクジムを突破し——さっきCMに映っていた彼女に彼らは打ち勝ったのだ——ナックルジムへの挑戦権を得たそうだ。タイミングが良ければ、ほんの少しだけでも彼と会うことができるかもしれない。たった一秒だけでも、顔を寄せ合っているだけでも良いから、こう言う時こそバシャーモに会いたいと思った。
 私は安堵のため息をつく。すんでのところで私はまだこの状況に持ち堪えている。いずれにせよ、「ミサイル」が発射される瞬間が勝負なのだ。私たちはその一瞬を見逃すことがなければ、決してしくじることなんかない。私にスライムのようにまとわりつく不穏も、それで綺麗さっぱり消え去るだろう。細身の体がゆっくりとシーツに沈み込んでいく心地よい感覚に身を委ねて、私はすっかり楽観的になっていた。
 ロトムフォンが着信を知らせた。非通知の番号。私は身を横たえたまま応答した。
「至急、バトルタワー、旧ローズタワーに向かえ」
 コードネーム・チャールズという名のオペレーターがそう簡潔に私に指示を下した。
「何かあったのかい」
「10分前、PB社のサーバーにシステム障害が起こった。まあ、すぐにMCNでもちょっとしたニュースとして取り上げられるはずだ——会社側は人為的なミスによるものと説明するだろうが」
「なるほど」
 私はベッドから立ち上がって、スーツを身にまとった。
「障害自体は微々たるもので、せいぜいポケモンセンターのPCがしばらく起動できないという程度のものに過ぎないが、事の本質はそこではない。これで了解したか、ミスターゼクス」
「『ハエ男』が動いた」
「『ムゲンダイナ』の保管されたボックスに向けたハッキングが行われ、緊急措置として全ネットを切断した、というのが実際のところだ。先程、チャンピオンがバトルタワー行きの空飛ぶタクシーに乗ったそうだ」
「了解」
 そういうわけで、私はホテルの窓を開け放って夜更けの闇の中へ飛び立つことになったのだ。否応もない。まったく、常軌を逸したポケジョブだ!
 シュートシティの闇の中、アンティークな住宅街の屋根から、近代的なビルディングの屋上を伝って、シュートシティ北部に鎮座するバトルタワーの麓に辿り着くまでにそう時間はかからなかった。今晩の待機場所をロンド・ロゼにしたのは僥倖だったというべきだった。案の定、タワーの周辺は少々ものものしい雰囲気に包まれていた。入口でうろつく警備員やリーグスタッフたちがまばらに集まっているのには、祭典が終わったばかりのような慌ただしさの残響が聞き取れた。
 物陰で私は足首をバネのように使い、緊張した筋の筋を一挙に解き放って軽やかに跳び上がると、タワーに斜めに走る空色の鉄骨に足音もなく飛び移った。頭の中でごきげんなスイングを奏でながら、リズムにのって私はバトルタワーを上って行った。バレエダンサーのように軽やかに、そのまま飛翔してしまいそうな跳躍で頂上まで駆け上がるのはわけもないことだった。
 アリアドスの巣のような鉄骨を掻い潜って最上部のドーム状の展望デッキの真下へ潜り込み、作業員用の扉の鍵をこじ開けながら、眼下に広がるライトアップされたシュートシティの華やかな景観を一瞥した。それをじっくりと楽しむ暇がないのを私はとても残念に思った。ガラルの首府を一望のもとに展覧できるただ一つの場所であるだけに、遺憾に思う気持ちはひとしおだ。ムゲンダイナのエネルギーをもとにひと騒動起こした前委員長の考えも、この景色を観ればたちまちにして理解できそうだった。確かに1000年守りたくなると決意するほどには、シュートの街は美しく、堅固で、それにもかかわらず儚げに見えるのだった。
 前委員長のオフィスとして使われていたまさにその場所で、委員長とチャンピオンがガラルの街並みを見下ろしながら佇んでいるのを遠目に確認した。公共のバトルスペースとして開放された今でも、大事なことを話し合うのにはここはうってつけの場所なのだ。もちろん、相棒の「リザードン」の影もあった。尻尾から見事に灯された炎が都市の放つ逆光を浴びて影絵のようになった彼らの姿をほんの少し照らし出していた。私はこっそりとドームの天井に張り付いて、迫り出したアーチ状の柱を死角にしながら、彼らの声の聞こえる辺りまで近づいた。
 委員長は「ハエ男」の想定通り、ムゲンダイナを一時的にボックスから引き出す方針を示していた。サーバーはいずれ復旧するが、いつ、どのような形でハッキングが行われるかはわからないし、第一、極秘としていたボックスの情報がそのような人間に漏洩したとわかった以上は、今まで通りに管理することはリスクが大きい。PB社ならびにIPLAにも報告の上、新たな管理方法が構築されるまでの応急的な処置として委員長の責任のもと、ムゲンダイナを手元で管理することとする。物理的に保管する場所に関しても、今後自分達や関係者を交えて協議されるだろう。そのような旨を委員長は説明した。若いチャンピオンは真剣な面持ちで頷きながら話を聞いていた。さすがにムゲンダイナを捕獲した張本人なだけはあった。こんな若くして世界の命運にも関わりかねない事件に二度も関わり合いになるなんて、ある意味で運が良いのかもしれない。
 二人の話を側で聞いている「リザードン」の様子を観察する。いま密かに交わされている会話の内容は、当然奴にも筒抜けになっている。おそらくここで聞いたことを、何らかの手段を使ってガラルのどこかに息をひそめる「ハエ男」に連絡するだろう。となると、どのような手段をとるか?
 「リザードン」が私のいる方を見上げた。どうやら、私の気配にはとっくのとうに気づいていたらしい。だからといって動揺するわけでは無論なかったし、むしろしたり顔で爪を二本上げて意味深にクロスさせてみせた。見てろ、俺たちはこれから堂々と札をすり替えてやるんだ、と綻びた口元が宣言しているように思えた。私はガラス張りの窓の夜景に注意を払った。大窓の向こう側から、一匹の小さな影がリザードンの突き立てた爪をじっと見つめているのを私は確認した。こんな夜更けに、こんな高度にいるはずのないココガラだった。「リザードン」からのサインを確認すると、そのココガラはくるりと向きを変えて、この場から飛び去っていった。私は「リザードン」への挨拶もそこそこに、展望デッキを後にした。
 タワーの外に飛び出し、鉄骨の上に立って指を突き出し狙いを定める。ふわふわと風に漂うように飛ぶココガラの影はまだそれほど遠くにはないはずだった。目に見えるものであれば、私にとっては手が届く距離に等しかった。ココガラの影を見出した。間髪入れずにねらいうちを放とうとした時、私の目の前にいきなり黒い雲が立ち上って、視界を覆い隠してしまった。それは群れたヨワシのように寄り集まったココガラたちの得も言われぬ集団だった。標的のココガラはたちまち彼らの中に溶け込んで見分けもつかなくなってしまったし、もはやねらいうったところでどうしようもなくなっていた。彼らの中で「リザードン」のゴーサインは共有され、散り散りに飛び去ってガラル中に漂着するのだろう。まさしくミサイルであり、使者だ。「ハエ男」はどこにいようとも、「リザードン」のサインを受け取ることができるというわけだった。まったく。
 私は指をゆっくりと下ろし、冷たい風の吹き荒ぶ高台からココガラたちの黒い群れがうねるようにシュートシティの上空を飛び去っていくのを黙って眺めながら、スマホロトムで通話を繋いだ。
「やあ、元気い?」
 「ケロマツくん」は電波を介しても相変わらずだった。随分とリラックスした声だった。スピーカーの向こうで奴がどんな体勢を取っているのかも容易に想像できる気がした。
「どこで、何をしてる」
「ナックルジム屋上さ。僕も向かいたいのはやまやまなんだけど、ちと遠いじゃん? バトルタワーは君が向かってくれるってことだったから、こうしてムゲンダイナゆかりの地で待機してるってわけ」
「ムゲンダイナはボックスから引き出されることになった。そして、その情報はいずれ『ハエ男』にも届く」
「ってことは、最初の封じ込め失敗したってことかあ」
 いかにも残念そうに、この「ケロマツくん」はうそぶいてみせる。
「問題なのは、一時的に保管されるのがどこになるかだ。近く委員長、チャンピオン、PH社、IPLAの四者協議が内密裡に開かれる。いまはそこで交わされる情報を手に入れることが先決だ」
「そこに張り付いてれば、確実に『ハエ男』を待ち伏せできる。そう『ポワルくん』は考えるわけだ」
「この仕事において重要なのは、いかに価値のある情報を握るかだ」
 私は決然として言った。背鰭が帆のように揺れていた。
「ま、ともかく、言えることとしては今のところは『ハエ男』のシナリオ通りに物事は進んでいるってこった」
 大きなあくびをかましてから、「ケロマツくん」は続けた。
「僕らにできるのは、奴が姿を見せる一瞬、ミサイルが放たれた瞬間を絶対に見逃さないことだっただろ、ゼクスくん? ま、取り逃がしたからって頭に血上らせちゃ、イケメンが台無しだぞっ。吐きたいことがあるならいつでも付き合うからさあ」
「差し当たって、報告は以上だ。次に会った時に詳しく話そう」
 電話を切ると、改めて私はバトルタワーの最上階から見るシュートシティの街並みを堪能した。ここにインテレオン一匹で立っていることに物寂しさを感じつつも、今晩は一刻も早くホテルの部屋に帰って一息つきたいと思った。冷たい風を浴びながら、クールダウンといこう。私は鉄骨から飛び立って背鰭を広げて滑空し、シュートシティの狂おしい闇の中に溶けこんでいった。

15 


 時は穏やかに流れていく、まるでエンジンリバーのせせらぎのように。静かに、だが容赦なく。万物の根源は水である。パンタ・レイ。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。人間が水について書き残した考察を私は頭に思い浮かべる。そうした観念について初めて教えられた時、正直なところ感銘よりも困惑の方が多かったのを記憶している。年端もいかなかった私は、水について真剣に頭を凝らして考えてみたものだが、特にこれといった感慨も湧いてこなかったし、すぐに頭も痛くなってしまった。インテレオンになった今でも、人間の認識と、ポケモンとしての認識は丁重に分別するようにしている。人間的理性を獲得することができたとしても、完全に人間になりきることはできない。それは私が根源的にポケモンであるからには仕方のないことなのだと思う。言葉の表面をなぞるように、舌を複雑に可動させて適当な音を出してそれを口にする、さしあたって私にはそれくらいで事足りるのだ。パンタ・レイ。こんな言葉を覚えたのは、人間というものを理解するためではない、理解しようという身振りそれ自体のために過ぎないのだから。
 世の中ではジムチャレンジが佳境へと向かうにつれ、人々の心も沸々と沸き立っていくかのようだった。群衆はいつものようにエンジンの街を、古都ナックルを、冠たるシュートの街を、まるでシュールレアリスムの絵画に見られるみたいな偶然さをもって交錯していくが、そのくせ誰もが意識の下では今度のトーナメントのことを考えているのだ。まるで集合的無意識の実在を証するかのような、興味深い事例だ。『赤の書』の作者も、もしかしたらガラル地方のジムチャレンジの熱狂を目の当たりにして、そんなアイデアを思い浮かべたのかもしれない、と私は突拍子もないがそれでいて真剣に考えてもみる。
 シュートシティのメインストリートに面する巨大なデジタル・スクリーンには、今度のチャンピオンカップの組み合わせが掲示されていた。人々は足を止め、顔を上げてそこに記されたトレーナーたち一人一人の名前を強い関心をもって確かめる。その合間を、ロトムフォンの画面をチラチラと見つめながら歩行者たちが通り過ぎていくが、彼らだって見ているものは同じなのだ。街角のキオスクにその日仕入れられた新聞も一様に今度のトーナメントのことを一面に取り上げていた。高級紙もタブロイド紙も、果ては政治信条すらも関係なく、誰もがファイナルトーナメントへの挑戦権を得る未来のトレーナーが誰になるのだろうかと熱心に考えているのだ。
 そんなことを言う私は、本来であれば祭典からは距離を置いて、やれやれと肩をすくめなければならないのだろう。残念ながら、私だってそうした集合的無意識のうちの一人(いや、一匹だろうか)だ。その点については、メッソンのころから受け続けたガラルナイズ教育のたまものであるのかもしれない。しかし、胸の内で膨らむ誇らしさからなる高揚感は、それだけで片付けてしまえるものではもちろんなかった。
 だって、「彼」もまたチャンピオンカップに進出していたのだから!
 私はできるものなら街行く老若男女やポケモンたちに向かって、ミュージカルのような大袈裟さでもって高らかに宣言したかった。「彼」は僕の知り合いなんだ。知り合いというより親友といった方がいいかもしれないな。いや、それだけでは言い切れないかもしれない……とにかく「彼」は僕にとってかけがえのない存在なんだ、とても。もちろんそんなことを実際に叫ぶほど私は愚かではなかった。けれど、「彼」の朴訥な口調や、寄り添った時に皮膚にかかる温かな吐息、ほんの少しチクリと刺す毛並みと、引き締まった筋肉の熱っぽさを思い起こすだけで、私は胸を熱くし、他のあらゆるしがらみさえ忘れて幸福な気持ちに浸ることができるのは確かだった。きつく胸に抱き抱えていたくてたまらない感情を、誰かに伝えたい、たとえそれがどれだけ馬鹿げていることだとわかっていても。相反する気持ちで私はいっぱいになっていた。
 ポナヤツングスカの心優しき小説家が描いた年老いた馬丁のことを私は思い出さないわけにはいかない。大切な一人息子を失くして悲しみに暮れる彼は、しかしそのことを誰にも話すことができない。残酷なことに、誰も彼のささやかな悲劇になど耳を傾けようとはしないのだ。馬丁は今日の仕事を終えた後、孤独に相棒の馬に語りかける。彼に起こった出来事を、それについて彼がどのような悲しみや苦しみを抱えているのか、そんな細々としたことを。境遇は全く違うけれど、私にもそういう馬がいてほしいと狂おしくも思った。語ることができるなら、それで私の心が満たされさえするのなら、石っころだって、草っ原だって、あるいはたまたま隣に佇んでいるドラパルトにだって私は語りかけてしまうかもしれなかった。
「Doukipudonktan?!」
 ドラパルトが不意に素っ頓狂な叫び声を上げたので、私はさっとそちらに振り向いた。
「大丈夫かい」
「え、えっと……俺はっ……俺はっ……」
 私と頭上のデジタル・スクリーンをキョロキョロと見渡しながら、ドラパルトは気まずそうに全身を点滅させた。
「俺はいま何て言った?……俺にはわからない……何にも……俺は何にも言ってない……これは誰かに言わされたこと……俺は悪くない……決して……イオブル!……きっとアイツが俺の脳味噌弄って……弄んでるんだ……オモチャみたいに……こんなに清廉潔白、苦労重ねた俺のこと……馬鹿にしてやがる……馬鹿にしてやがる……」
「君もトーナメントに参加するのかい」
「へ?!?!?!」
「いや、シュートシティに来ているからさ。もしかしたらジムチャレンジに参加しているのかなと思ってね」
「へ……へ……へけけけ、けっ」
 ドラパルトは照れ臭そうに二等辺三角形の頂点あたりの鼻をさすった。そして私には聞こえないほどか細い声で何かを付け足すように呟いていた。
「それならさ」
 私は言った。
「もしかしたら『彼』と闘うことになるかもしれないよ」
「お、おう……?」
「知ってるだろ? あそこの組み合わせにいるパーティにいるバシャーモさ。通常個体とは違って、たてがみを短髪にしているのが特徴のね。ほら……」
 タイミングのいいことに、スクリーンには「彼」が所属するトレーナーがピックアップされていた。ダイジェスト映像には、先日のナックルジムリーダー戦の模様が放映されている。ジムチャレンジとしては変則的なダブルバトルに、先鋒としてあのタイレーツたちとともに登場した「彼」が、挨拶代わりに相手のギガイアスに得意のとびひざげりを浴びせたシーンだ。終始砂嵐にまみれて試合の様子がほとんど見えないほどだったし、フィールドの視界はますます悪かっただろうが「彼」は獅子奮迅の活躍をしたと言えるだろう。ギガイアスに続いて、主力のフライゴンにもなかなかの痛手を与えたのは試合の流れを左右した。大将のジュラルドンはかなりひやひやさせられたが、おかげでジムチャレンジは無事クリアと相なったのだ。
「は、はあっ……」
 ドラパルトは口をあんぐりと開けて、スクリーンに映るバシャーモのことを見つめていた。試合後のインタビューを受けるトレーナーの傍らに静かに佇む「彼」は理想の神ゼクロムのように逞しい腕を手持ち無沙汰そうに前に組んでいる。画面の下からは「ヘイチョー」らしきものがピョンピョンと見切れていた。おい、貴様たち、このたびのサラミスを勝ち抜いたのは他でもなくワレワレの勲功なのである、と叫んでいるのが微かに聞き取れた。私は「彼」のどぎまぎとして仮面のような軍鶏の頬が染まるのを見逃さず、思わず口元を綻ばせた。
「君にだけ話すんだけど、僕は『彼』の恋……」
「あああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 いきなり大声を出しながらドラパルトは人混みを掻き分けるようにどこかへ飛んで行ってしまった。胴体よりも長い尻尾がスラリと伸びて、危うくその場にいた人を薙ぎ倒しそうになるところで、ドラパルトがすっと体を透かしたので事なきを得ていた。私は肩をすくめた。スクリーンに視線を戻すと、インタビューはまだ続いていた。ラテラルジムの練習生としてチャンピオンカップに進出したこのトレーナーには、一際注目を浴びているようだ。インタビュアーの質問に初々しくもしっかりとした口調で答える姿からは、以前のエキシビジョンで目にした時よりもずっと垢抜けた印象を受けた。ジムチャレンジはアローラに伝わる島めぐりと同様、ガラル地方の子どもたちにとってのイニシエーションであるのだと感じされる一瞬だ。
 インタビュアーの問いはチャレンジャーのポケモンたちのことに及んでいた。このトレーナーは、控えめなバシャーモと頑固なタイレーツ(彼らは何を命じようとも「そんなモノに従う義務も謂れもないのである」と言いそうだ)を除けば、試合ごとにポケモンの種類を効果的に変えながら臨んでいた。あの二匹を巧みに使いこなすだけでもただならぬ実力を持っているわけだが、ジムチャレンジの道中でゲットしたポケモンたちの性質を理解し、適切な命令を下すことだって容易ならざることなのに、随分とうまく立ち回れるものだとは私もポケモンながら興味のあるところだった。ラテラルジムで長くジムトレーナーを務めていたとはいえ、そうしたことができるのはジムリーダーになる素質があるようなごく限られた人々だけなのだ。しかも、この挑戦者は過酷なジムチャレンジにあってまだ窮地に追い込まれたことがなかった。注目株と目されるのもごく自然の成り行きと言えた。
 チャレンジャーの青年は(いつか見た空手着ではなく、ジムチャレンジ用のユニフォームを着用していると、まるで別人のようだった)、照れ臭そうにしながら言葉を探すように小刻みに目を泳がせた。ためらいがちな間投詞の後に、彼は模範的な回答をした。ポケモンとの間に築かれた友情と信頼。ありふれた言い回しを誤魔化すように、彼はずっと手に掴んでいたモンスターボールを大きくカメラの前に突き出した。滑らかな光沢をした紅白のボールが画面を占有する。その動作は所在なさげでありながらも、どこか挑みかかるような静かな迫力を感じさせた。それと共に画面は別のものに切り替わった。
 私は人混みを抜け出し、ストリートを歩きながら今後のことについて考えていた。「ケロマツくん」風に言えば現状はこうだ。「ハエ男」はなおも姿を現さない、俺も眠ろう、以上。リザードンの行方についても以下同文。極秘裏に行われた例の四者会談では、3番道路近郊のMCエナジー社の工場が一時的な隠し場所に採られたという報告だった。無論、親愛なる「リザードン」も同席していたという。つまりは、我々にとっても「ハエ男」どもにとっても、コンディションは一緒ということだ。
 確かなのは、これから何かが起きようとしていること。それに大しておちおち警戒を怠ってはいけないということ。そして、いつ治るかもしれない微熱を覚えながら過ごすのは非常に居心地が悪いということだった。こんなことをしているうちに、ジムチャレンジの季節もクライマックスを迎えようとしている。中世のカーニバルのように、熱狂のうちに死と再生が繰り返される舞台が今年も始まろうとしていた。「ハエ男」は前委員長よろしく、そのような絶頂の折りに「ミサイル」を飛ばすつもりなのだろうか? なるほど、今の今まで羽音ばかりを立てているからには、それは大いにあり得ることだった。その時が近づくにつれて、可能性はいっそう高まっている。やれやれ、これじゃあバシャーモの試合だってまともに観ることができやしない。
 秋めいた風を心地よく浴びながら、私はシュートスタジアムまで足を運んでいた。長かったジムチャレンジが収斂する場所、全ての決着が着けられる場所。あるいは、私自身にとっても。
「おや」
 アーマーガアが華やいだ様子で私に声をかけた。スタジアム前に停めたタクシーの上の止り木でのんびりと客待ちをしているところなのだった。
「ご予約以外でお会いするなんて、珍しいです」
 私を見下ろしながらアーマーガアが言った。
「今日はお散歩でしょうか?」
「まあね」
「わかります。この辺りはとても素敵な場所ですから……」
 アーマーガアはホクホクとした表情で同意する。
「それに、今はまだ静かですが、これからよりいっそう素敵なことになりますから」
 彼が翼を指した辺りでは、スタジアムに入り切らなかった観客のためにライブビューイングの設営が行われていた。その周縁を取り囲むようにカード売りの屋台のテントもちゃっかり準備されている。
「トーナメントの間は客待ちもほどほどに是非たくさんの試合を観戦したいのです」
「チャンピオンに挑むのは誰になるだろう」
「それはですね……!」
 私たちはひとしきりチャンピオンカップの話題で意気投合した。それは心まですっかりガラルナイズされたポケモン同士の親愛こもった礼節のようなものと言えた。アーマーガアは今年こそナックルジムリーダーが優勝するんですと力を込めて宣言した。私はあらゆる観点からその予測に反証してみると、ガア君は漆黒の顔を火照らせてまでムキになって譲らないのだった。
「ですがっ! 私はっ! やはり、彼に優勝してもらいたいと思いますし、その資格だって十分にあると思われるのですっ……」
「それには同意するけれど、チャンピオンを倒すには何かが足りないんじゃないかなと僕は思うな」
 私の頭には、先ほどのバシャーモを従えるトレーナーのことが浮かんでいた。
「おそらくはポケモンバトルに対するこだわりと同じくらいには、割り切りの良さも備えていないといけないのだと思う。その点では、今回のチャレンジャーは面白いのが揃ってるよ。まるで今のチャンピオンが生まれた時みたいにね」
「しかし! 私といたしましては、何と言いましょうか……!」
「ナックルに思い入れがあるんだね」
「ええ、そうですとも!」
 アーマーガアは大きな胸を膨らましてふんぞり返ったようになる。それが大人気ないとでも感じたのか、ハッと真剣な目つきになると、すぐに姿勢を整え直した。
「いやはや、やはりこの話になると熱中してしまいます……」
「仕方ないさ。僕らはポケモンといえども、生粋のガラル人なんだから」
 照れ隠しにアーマーガアはワンパチのように身震いをした。黒い羽が何枚かヒラヒラと心よい風に運ばれて、街を横切る運河へと飛び立って行った。私の詩句に鳥のような翼があれば——というカロスの詩人の文句が頭に浮かんだ。そうだ、そのようにこのヒラヒラとした黄色い背鰭が大いなる翼であったなら。うなじに指を回し、うら若い少女が長く豊かな髪をなびかせるように、さっと背鰭をはためかせた。
「例のこと、大丈夫かな」
 全く同じ質問をこの間タクシーに乗せてもらった時にしたことを私は思い出した、いやはや。アーマーガアは私の苦笑を慮ったかのように、にこやかに頬の辺りを緩ませた。
「もちろん、大丈夫ですよ。必ず、必ず貴方がたをお乗せいたしますから。どこへでも、何なりとお申し付け下さい」
「ありがとう」
「本当に、心待ちにしておられるのですね……」
 おもむろに首を傾けるアーマーガアの素振りは、まるで慈愛を施す聖女のようだった。
「わかります。大切なことなんですから」
 私は深く頷いた。ロトムフォンが鳴ったのはその時だった。非通知の番号。10回ブザーを鳴らした後で、私は通話に出た。
 ——でも、僕はガラルを離れるわけにはいかないな。
 ——そうか。
 ——だけどね、こんなクソったれな世界で、僕は君と出会えた。できれば手放したくないんだよ、バシャーモ、君のことを。
 ——なら、どうしてだ。
 ——僕は愚かで、自由なんだ。
 ——よくわからないな。
 ——そう言ってくれて、嬉しいよ。
 ——なら、俺があんたを連れて行く。
 ——お願いするよ、バシャーモ。
 ——ああ。
 ——愛しているよ。
 音声はそこでブツリと途切れた。間髪入れず再びかかってきた電話に出ると、「ケロマツくん」が笑いを堪えきれないでこう言った。
「今すぐ組織へ来いってさ、ヒューっ!」

16 


 本物はもっと陰湿なことをする。私があのメタモンに言った通りだ。その点で、私の「ケロマツくん」に対する見立ては何一つ間違っていなかったということになる。
「僕はねえ、ただ君のことを思って行動しただけなんだよポワルくん」
 ひどい査問からようやく解放された私に、「ケロマツくん」はそう声をかけた。
「ダークウェブに大事な大事な部下のプライベートなんて放流されていたら、僕としても黙っているわけにはいかないからね」
 本部——これは機密事項だからガラル地方のどこか、とだけ行っておこう——に召集された私は、その後3日間に渡り勾留され、あらゆる事象について根掘り葉掘り詰問される羽目になった。事のキッカケはいま私の前でのうのうと喋っているこの蛙、ではなく「ケロマツくん」、正確を期すならばミスター・ドライと呼称するべきだが、彼が偶然ウェブの深層で不審な音声データが投稿されていることを発見したことだった。そこにはあの日、ターフタウンの町外れの麦畑で交わした私とバシャーモの会話がありありと録音されているのだった。「ケロマツくん」は嬉々として上層部にこの報告を上げ、私は即刻シュートシティの喧騒から引き戻されてしまったというわけだった。
「ま、悪く思わないで欲しいんだ。内容はさておいたって、大問題なわけだからね。それは、君だってわかるだろう、ポワルくん?」
 問題は専ら私とバシャーモの関係にまつわることだった。組織に属する人間たちは容赦がないものだ。仕事のためであればどこまでもビジネスライクに、冷血に事に接することができる。それ自体は称賛するべきことに違いはなかった。安易に情を差し挟むようなものはこんな裏の仕事に携わるなど到底覚束ない。だが、それにしても彼らはあの録音の内容を、眉を顰めることすらせずに聴いてのけたのだろうと考えると、吐き気を催しそうで不愉快極まりないことは否定しようがなかった。私と彼のセックスは彼らにとって現実の音声が電気信号に変換されデジタル化された単なる一つのデータというそれ以上でも以下でもないものに成り下がっていた。私が一匹のインテレオンとして感じることができた感情全てがにべもなく否定されたようだった。
「けど、本当は躊躇してなかったといったら嘘だからね。このままこっそり僕が握りつぶしてやるのも人情かなあって思わなくもなかったよ。悲しいかな、僕らは組織に生きるポケモンなんでね」
 私の肉体にまつわる細々としたことは元々問題ではなく、私が組織に適格であるか、それが大いに問題とされた。音声データには全てが記録されていた。私が彼と交わした約束まで、一言一句そのままに。私はその発言の意図を説明するように繰り返し尋問を受けた。もはや彼らにとっても自明である事柄を、私の口から言わせようと淡々と冷静に問い詰めてくるのだった。組織とは無関係のバシャーモとシュートシティを抜け出し、一体どこへ行くつもりだった? もちろん私はキッパリと答えることはできたかもしれない。私は彼とガラルを離れ、ホウエン地方まで行って静かに暮らすつもりでいるんです。あらゆる喧騒から逃れて、自然のままに、人間とポケモンという不毛な二項対立からも軽やかに離れて、子どものように戯れ、大人のように語らうつもりなんです。しかしその瞬間、彼らはストリンダーの毒が私の脳神経を侵したものだと真剣に考え始めることだろう。
 結局、私はのらりくらりと質問を交わし、欠伸が出るほど長いがかといって永遠でもない査問の時間をやり過ごすほかなかった。確かに彼とはそのような会話は交わしました。しかし、ご存じのとおりあれはポワルとして発した極めて個人的で軽率かつ軽薄な発言に過ぎません。断じてゼクスとしてのものではありません。ただ、彼と肉体的な交わりを交わしたことで気分が高揚していたのは事実です。それはいわば、リップサービスのようなものだったんです。誰だって、別に今後会うつもりもないような相手にだって別れ際には好意的な言葉を投げかけるものではありませんか?……
「ここだけの話、君は謹慎寸前のとこまで行きかけたわけ。それでも君がここにいられるのはどうしてだと思う?」
 「ケロマツくん」は糸目になってエサをねだるワンパチのように私に顔を寄せた。口は動かさなくとも何と言いたいのかはすぐにわかった。ねえ、何でかって聞いて? 聞いて、ほら? ねえ? マフラー代わりの舌がいやらしく水音を立てていた。
 結論として、「ハエ男」抹殺の任務はそのまま続行せよ、というお達しだった。この件についての処断は「ハエ男」の一件が終わってからでも遅くないというので彼らの考えは一致したらしい。
「僕が何とか組織の人間たちに掛け合って、君を残してもらったんだから感謝してほしいんだからね」
 私は黙っていた。「ケロマツくん」ことミスタードライは目を見開いて茶目っ気を見せた。
「何てったってポワルくんはとっても優秀だし、僕としてもせっかくガラルまで来たからには最後まで君と良い仕事をしたいからね」
「任務中はゼクスと呼べ」
「まったく、お堅いなあ、ポワルくん!」
 「ケロマツくん」は体を横に曲げた。甘ったるい口調にはそぐわないほどに引き締まった脇腹の筋肉をこれみよがしに見せつけているようだった。私は首を振った。
「それにしても随分お楽しみだったでござるねえ」
 腹斜筋を伸縮させながら、畏まっているのかふざけているのかわからない口調で「ケロマツくん」は言った。
「聞いてて拙者も羨ましくなってしまったよ」
「どういうことだ」
「そりゃあ、ねえ……」
 奴が右手で卑猥な動作をして見せた瞬間、私は何かを考えるよりも早く「ケロマツくん」の舌を掴んで、勢いよく持ち上げていた。ひと回り背の低いカラダは宙に浮き上がりそうになり、つま先をピンと立てていた。流石に驚きでもしたのか、モノトーンの私の視界の中で奴は一瞬目を点にした。
「黙れ!」
 全身が燃え上がり、皮膚の湿りが瞬時にして蒸発したような感覚だった。正直に言って、この蛙の面を張り倒したくてたまらなかった。いや、これは正確に言えばあの時、メタモンが扮した偽物に食らわせてやったのと同じように、脳天に穴を開けてやりたい気持ちだった。
「それ以上口にしたら殺してやる! 今すぐに! ここで!」
 熱病のように混沌とした思考から、ようやっと言葉を絞り出した。
全身が痙攣でも起こしたかのように激しく震えていた。その振動が私の細い腕を伝い「ケロマツくん」を揺さぶった。このクズ蛙はあの音声を何度もくりかえし聞いたに違いないし、あまつさえそれを単なるポルノグラフィとして消費したのだ。そう考えると殺意さえ感じずにはいなかった。
「……まあやり過ぎたことは謝るけどもさあ」
 そう言いながらも「ケロマツくん」はたっぷりと余裕を讃えた目つきをしていた。
「けどこういうのは、こっそりと、かつ情熱的にやるもんだよお、ポワルくん? あくまでもこれは君のミス。それだけは反省してもらわないとねっ」
 オーバーフローした数値が0に戻るように、私は怒りを通り越して逆に冷静になってしまった。奴を掴む腕からみるみると力が抜けた。というよりも力を入れるのが馬鹿らしくなっていたのだ。
「ふう。ホント、死ぬかとおもったよお」
 裏声で「ケロマツくん」は言った。
 私はゆっくりと瞬膜を開きながら、アウグスティヌスの悪に関する議論をおまじないのように反芻していた。曰く、この世に悪は存在しない。なぜか。最高善とは朽ちることがない故に永遠である。その最高善の被造物たる善とは朽ちるものであるが故に存在する。しかし悪というのはもはや朽ちることがない。そのようなものは断じて存在しない。したがって悪は存在しない。存在するものは全て善である。「ハエ男」だろうが、あのメタモンと呼ぶべきかどうかもわからない何ものかであろうが「ケロマツくん」だろうが、朽ち行くものであるから本質として善きものなのだ。異議が無いわけではないが、ひとまずはそういうことにしておこう。一瞬の感情を重要な任務に持ち込むのは、私の主義でもないのだ。
「ま、僕はこれ以上何も言うまい。とにかく恨むならこれをウェブに流した誰かさんに言うべきだね」
 「ケロマツくん」は大きな伸びをしながら無理やり話を打ち切った。
「幸い、僕がすぐに気づいたおかげで世間に晒されなくて済んだわけだし。それに、君のこんなところやあんなところがバッチリ録音されてたからには、連中はいつどこからでも僕らを見ているということに他ならないってことだろ」
「……監視しているはずの『ハエ男』に我々が監視されている」
「うーん、見事な倒錯だと思わないかい?」
 「ケロマツくん」は舞台上の俳優のように腕を大きく広げ、そしてキツく自分の身を抱きしめた。
「一方で僕らは奴の羽音に気を取られるばかりで、一向にその輪郭を認めることができないでいる。刻一刻と『ミサイル』が飛んでくる瞬間は近づいているにもかかわらずね。少しでも相手に先んじられたら一巻の終わりなんだから」
 私は黙っていた。正論に対しては余計なことを口走らないのが一番だ。
「本来ならこのようなことで貴重な時間を費やすわけにはいかなかったわけだ。まあ、過ぎたことは仕方のないことだけれど」
 私の表情を窺いながら、「ケロマツくん」は別に寒くもないのに両腕を組んで震える素振りをした。私も肩をすくめてやった。
「私が組織にがんじがらめになっている間に、何か進展はあったのか」
「さて、ここに良いニュースと悪いニュースがあるでござる」
 どっちを先に聞きたい? と「ケロマツくん」は私に尋ねた。私はそれには答えずに、めでたく惚けた奴の顔を深い川の底のように覗き込んだ。
「まずは悪いニュース。諜報部から報告があった。PBH社のサーバー全部洗ったけど、元チャンピオン様のリザードンと思しきデータは発見できなかったってさ」
「見落としはなかったのか」
「断じてない、とネットに潜ったポリゴン部隊の連中は自信満々に言ってたね」
 私は背ビレをひらりと掻き上げた。穏やかな風に煽られて、旗のようにピンと張った。
「捜索は振り出しに戻る、か」
「その代わりと言っては何だけれど」
 今度は目を輝かせながら「ケロマツくん」は言うのだった。
「そこで良いニュースってわけだ」
 「ケロマツくん」はそう言って胸を張った。えっへん、とでも口にしそうだった。
「ムゲンダイナの保管場所はしっかりとリサーチできたのさ」
「『ねえねえ、どこだと思う? ねえ、当ててみ? 当ててみ?』」
「拙者のセリフを先に言うのはズルでござるよポワルくん!」
 私は改めて周囲の景観を確認した。ウールーたちが群れを成してたむろし、眠り、転がり、押し合いへし合いしていた。草むらに潜んでいるココガラやサッチムシたちが盛んに鳴き声を上げている。
「通りで妙な場所に呼び出してくれたわけだ」
 ハロンタウンとブラッシータウンの狭間にある1番道路の小高い丘に私たちはいた。辺境のフリーズ村を除けば、ガラルで一番の田舎である。ただ、直近二代のチャンピオンゆかりの地であるというその一点において、特別な輝きを帯びる地域でもあった。前チャンピオンの弟も現在はブラッシーの研究所の助手を務めているという(しかも彼もまた優秀なトレーナーなのだ)。そして私たちはそんな場所から、ハロンタウン側に点々と灯りをともす家々を眺めていた。いかにも風景画におあつらえ向きな風景と言える。そして、後景に壁のように広がっているのはまどろみの森と呼ばれる一帯。
「あんなところに隠すだなんて」
 私は思わず口に出していた。
「酔狂もいいところだな」
「えー? 本当に重大な情報はアナログで保管する、って観点からすれば優秀なところには違いないと思うけどお」
 「ケロマツくん」はしゃがみ込み、両腕をだらりと下げた。
「森の最奥部に祠あたりに、こっそりと隠してるって話だよ。何というか、あの一帯は不思議な力で霧が立ち込める場所なんだって?」
「ザシアンとザマゼンタが祀られている場所だ」
 私はなるだけ理性的に答えた。
「祠への行き方だって委員長や現チャンピオン、あとは彼らの関係者。数えるほどの人間しか知らないトップシークレット。確かに突飛ではあるが、合目的的とは言える」
「科学やテクノロジーでさえ分析しきれない超越的な自然の力を借りる。知性ある人間ならではの逆説だねえ」
「だが、『ハエ男』にとっても条件は同じなわけだ」
「もちのろん、あの『リザードン』は知ってると思うねえ。けれど、委員長と常に付きっきりにならざるを得ないからには、ここに来られるタイミングは限られてくるはずだ」
「つまり、今度は彼らがここを訪れざるを得ない動機を『ハエ男』が作りだすだろう、ということか」
「ふむふむ、いい逆算じゃないか、ポワルくん(私が睨みつけたので、奴は怯え上がったフリをした)。まさしくリーグをうまく警戒させて、ムゲンダイナをボックスの外から出したようにね。さて、そういう状況を起こすのにふさわしいタイミングは?」
「これから始まるファイナルトーナメントで騒ぎを起こす。かつて、前委員長が強行したのと同じやり方で」
「歴史は繰り返す。一度目は悲劇として。二度目は喜劇として」
 なあんてねっ、と元から出ている舌をピクピクと動かしながら「ケロマツくん」は頭を掻いた。私は瞬膜を閉じた。
「やれやれ、いつまでも肩の力が抜けないんだからあ、ポワルくん」
「何度も言うが、任務中はゼクスと呼べ」
「はいはい」
 「ケロマツくん」はひらひらと手を扇のように動かした。
「とにかく、そういう見立てで僕らはヤツらと対峙することになるからね」
「役割分担は? ハロン近郊とシュートシティでは随分と距離がある」
「ゼクスくんにはシュートスタジアム近辺にいてもらおう。僕はここでまったりと待機。何かあったらまどろみの森に駆けつけ、『ハエ男』だろうが、偽物のリザードンだろうが討ち取るって算段よ」
 私としたことが、返答するのに1秒無駄に黙りこんでしまった。
「てっきり逆だと思っていた」
「これでも僕はあ、君に全幅の信頼を置いてるわけだからねえ」
「あの音声を聞いた後でもか?」
 挑発するように私は訊いた。
「シュートスタジアムの前、クロウク、と鳴くアーマーガア……うーん」
 「ケロマツくん」は頻りに首に巻いた舌の長さを調節した。
「とりあえず先輩として、君に忠告しておこうか」
 「ケロマツくん」ことドライは言った。瞳から急激にハイライトが消えた。
「君はどこへ行くこともできない。これはね、僕らに運命づけられたことだから」
「何が言いたい」
「うふふふふふふふふふふふふふふふふ……」
 不敵に笑う「ケロマツくん」に、私は首を横に振った。
「相変わらず気味が悪い」
「ポワ……じゃなくて、ほらほら怒らない、リラックス、リラックス……ま、ゼクスくんも成長すりゃわかるさ、ってことで、じゃ、またねっ」
 やせ蛙負けるな一茶これにあり。「ケロマツくん」は宙高く跳躍すると、ウールーたちの群れに紛れて見えなくなった。もう日は沈もうとしていた。
 私はネクタイを緩め、シャツの窮屈なボタンを外した。やれやれ、こういう時は気分を綺麗さっぱり入れ替えるに限るものだ。
 私は一匹、ブラッシータウンの外れの湖畔を臨む草原を訪れた。辺りには既に隠棲した高名なポケモン博士の邸宅があり、その周囲には手付かずの草木が各々の生命力の発露するままに生い茂って、まるでコンスタブルの描いた風景画のような景色が広がっている。雑然としていながらも、自然には自然の秩序というものがあるとでもいうかのように、眺めていればいるほど深い印象を私にもたらすのだった。それらの自然を前にしては我ら生物というのはいかにもちっぽけなものに思われた。そのちっぽけな人間やポケモンたちが世界という舞台で繰り広げる終わりなき狂騒というものの虚しさ、儚さについて思いを巡らさないわけにはいかないのだった。
 無論、これが過度にロマン主義的感傷であることはわかっている。皮相なペシミズムなど毒にも薬にもならないということは知性あるポケモンとして人間社会に同化してうんざりするほど学んだ教訓の一つだ。偉大なる人物は、おしなべて楽観的な思想の持ち主である。人間やポケモンなるものの真性を信じることができるものが、結局は生き延びることができるのだ。その点からすれば、前委員長は1000年先のことに対して悲観的であったがためにあのような冒険的な所業に出てしまったのかもしれない。慈愛ある人間は、かえって人の世を信用しないというのは何とも興味深いパラドックスだ。
 私は草原に寝そべり、寛いだ気持ちになりながら満点の星空に向かって指を突き出した。空には月が皓々と照り始めていた。これもまた陳腐な感傷かもしれないが、バシャーモもまた同じ月を見上げていると思うと、私の胸は苦しいほどに熱くなるのだった。黄金色の麦畑での彼とのまぐわいを思い出しながら、私はこのガラル、いや、大文字の自然と照応したかのような気持ちになっていった。自然とは、カロスの大詩人が歌ったように一つの神殿なのだ。そこでは神殿を支える柱の一つ一つが私に向かって混濁した言葉を語りかけている。私の穏やかな思考は象徴の森を散策し、やがてすべての感覚が一つのものになっていく——詩人の言う難解な高揚感と陶酔が今なら私にも理解できるように思えた。
 いずれにせよ、シュートシティの祭典はすぐそこにまで迫っている。祝祭のフィナーレとなる2日間だ。そして、そこで何かが起き、何かが終わるのだろう。

17 


 ガラル地方、シュートシティ、シュートスタジアム、ファイナルトーナメント第1日。皮相的な意味合いにおいても、象徴的な意味でも運命的と言えるこの日の天気はシュートシティらしく、どんよりとした曇り空だ。もっとも、予報によれば本戦が始まるころには雲は彼方へと吹き飛び、強い日差しが街中を照らすということだったが。
 もちろん、私はシュートスタジアムにいた。正確にはスタジアム2階の通路から、エントランスにごった返す、トーナメントの始まりを今か今かと心まちにする人々を興味深く観察していた。各地方の8つのバッジを手にし、ジムチャレンジという狭き門をくぐり抜けた者たちがファイナルトーナメントの出場権を争う大一番のために、ガラル中の人間が、あるいはこの地方の洗練されたポケモンリーグに心惹かれた他地方の者たちが数日間、この場所に集まるのだ。それは私にとっても、何度見ても心躍る光景だった。血肉沸き踊ると言うのは大袈裟な言い方かもしれないが、ガラルに生きる者なら誰しも、多少なりともその表現に共感しないわけにはいかないのだ。今年も、トーナメントの時期が来た、と。
 さて。私は人混みに紛れ、入館証の入ったネックストラップを指で弾きながら、堂々とVIPルームの方へ足を踏み入れることにした。スーツもスラックスもシャツも、この日のためにバッチリと決めている。ネクタイもマルヤクデの炎を思わせる、緋色のものを新調してある。一年に一度の晴れ舞台であるからには、着飾るのがガラル流というものだ。そして今の私は、マクロコスモス関連子会社に所属する特殊警備員ということになっている。文字通り、スタジアムにいるかもしれない邪悪な芽をあらかじめ摘んでおく仕事である。確かに、何も間違ってはいなかった。事実、ゲートで見張りをしている警備員の男にそれを示すと、彼は丁寧なお辞儀をしながら私を中へ通してくれた。まったく、マクロコスモス社の賜物というものだ。ガラル広しといえども、かの前委員長が築き上げた帝国の全貌を把握しているものなど、たかが知れている。
 賑やかな表側とは対照的に、時々リーグ関係者が足早に動き回る以外にはひっそりとした通路を歩く。居心地としては悪くない。私の気持ちは私自身がなすべき事のために、ごく自然に切り替えることができた。聴覚は研ぎ澄まされ、視覚はより明瞭になるし、直感だって敏感に働くようになる。それに、幾許か感情も昂ってくる。どんなことがあろうとも、今日全てが始まり、そして終わることになるだろう。そういう意味では、今から運命の試合に備えるポケモントレーナーとその相棒たちと、私は通じあうところがあった。
 改めて今日のスケジュールをおさらいする。今年のジムチャレンジを突破したのは5名。例年よりやや多い数だ。トーナメントの段取りは以下の通り。最も早くナックルジムをクリアした1名をAブロックのシードに置き、A、B各ブロックで第1回戦が行われる。Aブロック第1回戦の勝者がシードの選手と準決勝をし、勝利した者がBブロック勝者との決勝に臨む。
 トレーナーたちの顔ぶれについては、チャンピオンとジムリーダー二人を輩出した例の年ほどの華やかさはないものの、個々の実力に関してはファイナルトーナメントでも上位に進出する可能性を秘めているのではないか、という下馬評だった。とりわけ注目されているのはシードに振り分けられているエンジンシティ出身の選手。ジムチャレンジ中、ほとんどパーティを固定することなく、適材適所に入れ替えながら勝利を重ねてきたトレーナーとしての手腕は並大抵のものではないと見做されている。
 そして、彼のいるチームはBブロックにいた。ラテラルジムの練習生としてジムチャレンジに挑んだトレーナーは、かくとうタイプのポケモンたちを主軸に、シードの選手とは対照的にメンバーをほとんど変えずに勝ち進んでいた。もちろん、若手ながらバシャーモやタイレーツといった元から力のあるポケモンたちを見事に御していることからも、ただのトレーナーでないことは明白と言える。それに、ポケモンバトル専門の記者たちの予測によれば、この挑戦者はまだ全力を出し切っていないという意味において、今大会のダークホースと呼べるのではないかということだ。実力としては、シード選手と同等かそれ以上ではないかと見る向きも少なからずあった。バシャーモをはじめ先鋒たちの獅子奮迅の貢献のおかげもあって、これまで最後の一匹になるまで追い詰められることがない安定した試合をしてきたということも、これらの主張にある程度の説得力を与えているようだった。いずれにせよ、私としては彼のいるチームがそこまで高く評価されるのは喜ばしいことと言えた。
 試合の開始までには時間があった。プログラムによれば、マキシマイザズによるライブショーを前座に、委員長が出席する開会セレモニーがあり、しばしのインターバルを挟んでからトーナメントが開始される。私はスタジアムの裏側を我が庭のように歩いていた。エージェントであるからには、ガラルの主要施設の構造はしっかりと頭の中に記憶してある。私はそれを電脳を通じてネットワークにアクセスするように、どこに何があり、どうなっているのかを容易に想像することができるわけだ。目の見えない者が指に感じるブライユの凹凸で言葉を理解することができるように。
 私はスタジアム上階のVIPラウンジへと向かった。本戦開始を前にして、この一室にリーグ委員長を初め、現チャンピオン、各地のジムリーダーたちはもちろんガラルの大企業のトップたちなど、錚々たる顔ぶれが集まっている。
 すでにラウンジは招待客でごった返していた。周囲を見渡してみる。広間には、あらゆる媒体で見知った顔がズラリと揃っていた。こんな仕事をしていても、文字通り彼らが一堂に会する光景を見るのは稀なことだ。マクロコスモス・ネットワークの会長である白髪の紳士が、ナックルジムリーダーを捕まえて長談義に興じている。別のところではラプラス造船社のトップが、自らスポンサーのもなっているバウジムリーダーと記念撮影に興じているところである。このちょっとしたサロンと化した空間の一角で独特の存在感を放っているのがポプラ女史である。彼女は寡黙がちに座椅子に腰掛けていながら、否応もない威厳を放ち、来場者たちも畏敬せずにはいなかった。その傍らに秘書のように侍っているのが、現アラベスクジムリーダーである。性格的にこのような交流の場を苦手としているであろう彼は、師匠でもある彼女の世話役という立場として、この面倒なシチュエーションを乗り切ろうとしているようであった。
 その群衆の中にあってもヤツの姿を見失うことはなかった。映える橙色の体色をした、胴長のは「リザードン」は漆黒の闇を照らす大灯台のように確固として存在していた。私はそれとなく隅に陣取り、腕を組んで軽く背中をもたれかけると、相手に向かってそれとなく目配せを送った。すると、ご丁寧にもヤツの方から私の方へ恭しく挨拶にやってきてくれた。
「ごきげんよう」
 リザードンの形をしたその何者かがフランクな調子を装いながら話しかけた。
「どうも」
 私も口もとになだらかな曲線を描きながら会釈を返す。
「平素は大変お世話になっております」
「諦めたものかと思っていた」
「仕方がない」
 私はヤツを労うように言った。
「勝負の最中に敵に背中は見せられない。ポケモンであることの悲しきサガだろう?」
「サガ、かね」
 ヤツは私の前では委員長のリザードンであることを放棄して、零度のエクリチュールを思わせる口調に徹していた。
「私は本性においてオプティミストであると自負している。サガという諦念主義的な言葉は内心のコレクトネスに反する」
「なるほど」
 私はネクタイに乱れがないか用心深く指で弄りながら、しきりに頷く。
「それは結構なことだ」
 フィールドからがなり立てるような音響が響き始めた。スタジアムを見下ろすと、ちょうどトーナメントの前座のショーが始まったようだった。演奏はもちろん、マキシマイザズの面々だ。ハイとローのストリンダーのコンビが、胸の触覚から振り絞りようなイントロをかき鳴らし始める。それに合わせ、ゴリランダーのドラムが唸るようなリズムを刻む。会場の手拍子が、その情熱的なパフォーマンスをいっそう煽り立てようとしていた。
「『ミサイル』はいつ発射するつもりだ」
「言ったはずだ。『ミサイル』はスピードが肝心だと。いつそれが行われるかはお前にとっても、ましてや私にとってもさしたる問題ではない。いずれにせよ、速い方が勝つからだ。そして、勝つのは私たちだと確信している」
「目的のものがどこにあるか、もちろん君らもわかっているんだろうね?」
「既にそのようなことは問題ではないことは承知のはずだ。繰り返すが、全ては『速さ』の問題だ」
「それもそうだ」
 連中の一部がココガラかサッチムシに擬態でもして、まどろみの森周辺をうろついていることは分かりきっていることだった。さっき、「ケロマツくん」からの電話で、それらしきメタモンを何匹か捕捉したという報告を受けていたのだ。
 VIPルームも俄にフィールドでのライブパフォーマンスに聞き入っているような様子だった。ひそひそと小声で話す招待客たちの合間を、白黒のユニフォームを身にまとったリーグ関係者たちが糸を縫うように忙しく動き回っている。
「あの中にどれだけ君の同士がいる?」
 初対面の相手に気安く年齢を訊ねるように、私は言った。
「君は自分を構成する細胞を逐一数えたりするかね」
「それはしないだろうな」
「私にとっては同じようなことだ。一は多であり、多は一である。それは、それ以上でも以下でもなく、淡白な事実としてあるのみだ」
「なるほど、これは失敬」
 私たちはマキシマイザズのライブにしばし耳を傾けることにした。いつもよりもスローテンポなイントロの後で、タチフサグマのボーカルが深みのある歌声を発する。ハスキーながらも奥ゆかしさを持ったその声は、ストリンダーたちやゴリランダーの奏でる音楽にかき消されることのない確かな存在感を主張し、むしろ巨大な波の上を自在に滑る実力あるサーファーのように、彼らの情熱的な演奏を巧みにコントロールしながら、実にうまく魅力的な声を乗せていた。ヒトの言語を真似たようなタチフサグマの発音は、どの地方でもなく彼を通じてしか聴くことのできない確固たる言語を成しているし、そもそも文法的意味が曖昧だったとしても、声が伝える感情ははっきりと耳に受け取ることができた。私はトレーナーたちが味わった喜びと悔しさについて考え、深い感慨に浸った。
「素晴らしいと思わないか?」
 曲が間奏になり、二匹のストリンダーたちが自由気ままにフィールドを駆けずり回って、観客の歓声に応えている間に、私は「リザードン」に訊ねた。ヤツはローディングのようにしばしの沈黙を挟んでから答えた。
「それに対する答えはイエスでありノーだ」
「つまり?」
「あらゆる任意のものを僭称するからには、あらゆる価値を肯定すると同時に否定しなければならないからだ」
「自己の積極的放棄。精神の可塑性の担保」
 私は腰を屈め、背中を緩やかに反らして、右手で胸の辺りをさする身振りを示し、触覚を鳴らすストリンダーの動作を真似た。
「ある種、芸術家の目と同じと言えるな」
「芸術家」
「彼らは左目と右目とで見えるものが異なっているそうだ。その異なる視界を両目のもとで止揚することによって、彼らにしか見えない世界を見ているんだ」
「止揚、アウフヘーベン、弁証法」
 「リザードン」はそう呟いたが、その抑揚は赤ん坊が発する未分化の言語のように、もどかしい響きを思わせた。
「だがそれは、二項対立の安易で皮相的な解決手段に過ぎないように思われる」
「つまり?」
 広大なフィールドの隅々を駆け抜けた二匹のストリンダーは、少々息を切らしながら中央のステージに戻ってくると、タチフサグマを挟むように位置取って、毒々しい舌をダラリと垂らしながら、それぞれ独特の決めポーズを見せる。
「対立は対話や衝突によって解決するというドグマは些か空想的なきらいがある」
「本性においてオプティミストだという君ならば同意してもらえると思ったんだけど」
「私にとっての楽観とは一種の信仰に等しい。時局を大観すれば、全てを取りなすのは有限的な存在ではなく、名づけえぬ存在の見えざる手によるものと考えざるを得ない」
「随分とひねくれた楽観だな」
 私は思うところのものを率直に述べることにした。
「思うんだけれど、その手の信仰は宗教が我々に押し付けたルサンチマンとは言えないだろうか」
「悪しき諦念主義の一形態、王権神授説の擁護」
 自由連想のようにヤツは呟く。
「私たちは前進している。だが、前向きにか後ろ向きにか、急進的にか慎重にか、その態度の質の違いに過ぎない」
「もしかしたら」
 私は緋色のネクタイを整えながら言った。
「全てが終わったなら、君とは仲良くなれるかもしれないね」
 しばしの沈黙があった。それを引き裂くようにタチフサグマの重厚なボーカルが心地よく聴覚をくすぐる。
「それは興味深い逆説だ」
 「リザードン」は頬の筋肉を微かに収縮させた。
「しかし短期的に見れば、それは希望的観測に基づく非現実主義的な考え方だ。一面的には大衆迎合的とも言える」
「構わないさ。恐らく、これが僕たちにとって最後の使命になる」
 私は相手の目をじっくりと見つめ、お茶目なウインクを返した。
「君の正体は必ずみんなの知るところになる。いかなる手段を使ってでも、僕はそれを証明しなければならない」
「自信を持つのは悪いことではない」
 ヤツは穏やかながら深淵を湛えた表情を崩さない。
「精々善処するに如くはない。いずれにせよ、『その時』は必ずやって来る」
「僕の上司であれ、君の『ハエ男』であれ、投げかけられた者として、使命を帯びた者として」
 タチフサグマの声が半音上がった。残念なことに、ショーはもうクライマックスにさしかかっていた。
「何卒よろしくお願いするよ」
 私の戯けた言葉に対して、「リザードン」は何も言わなかった。余韻を残しながら、マキジマイザズの音楽がフェードアウトしていく。それを惜しむように観衆たちがあらんばかりの声を張り上げ、手を打ち鳴らす中を、マキシマイザズの面々はフィールドを後にしていった。
 室内に目を戻すと、視界に委員長が映っていた。目と鼻の先にリザードンがいるにもかかわらず、この大男は相棒のポケモンを探し求めてVIPルームを死にかけのカブトのようにふらふらと歩き回っていた。そんな委員長の後ろ姿を眺めると「リザードン」は、私に軽く会釈だけを送り、そのまま明後日の方向へと人混みを掻き分ける彼のもとへ駆け寄って行った。
 ロトムフォンが胸ポケットから飛び出してきて、複数件の通知が来たことを私に知らせた。わざわざポワル用の番号宛に送られていたダイレクトメッセージには「ポワルくうん。GBCか何かで面白いバラエティやってないでござるかあ?」とあった。私は既読のままにして、アプリケーションをシャットダウンした。さて、これからトーナメントの開始だった。

18 


 スタジアムのどこにいても歓声は地響きのように聞こえてきた。まるで壁をものともせず自由自在にすり抜けるドラメシヤたちのように、ゲームの始まりを待ちきれない人々の興奮が、天井から、壁面から、床から滲み出てきている。そうした一切のものがオーラみたいに目に見えるような気がした。
 私は人気のない通路を歩いている。リーグ関係者含めて、ここでは誰もがトーナメントの趨勢に気を取られているようであった。売店へフードを買いに行く人も、トイレに駆け込むような人とて見当たらない。静寂。けれど、まるでマルヤクデの炎に包まれてでもいるかのように、文字通りの熱狂の坩堝の中に私はあった。
 革靴の音が妙に高く響いている。その音が鳴るごとに、私は不思議な気分に陥っていくようだった。万一そんなことがあればの話だが、ヘマを犯してオンバットのちょうおんぱをまともにくらってしまったときのように、頭がクラクラとし、私の眼を通して見える現象が不確かなものに感じられた。無意識のうちに、私の足取りはゆっくりになっていく。暗闇の中を歩くような慎重さで、私は一歩ずつ床を踏みしめて歩くようになっていた。そんなことはありえないとわかりきっているにもかかわらず、次に足をつけた瞬間、あるはずの地面がなく、声を挙げる間もなく深淵に転落してしまうのではないか? そんなおかしな考えが私を捉えて離してくれなかったのだ。
 私は足を止め、四方八方から流れ込んでくる人々の歓声に耳を澄まし、その霊気のようなものを全身に浴びた。ひとまず、私が摂取しなければならないのは現実感、確かに触れることができる感覚だった。バチュルが電気を欲するように、私は切実にそれを欲している。私には、確実にそれが欠如している。今すぐにでもどうにかして補給しなければならなかった。
 まったく。「ハエ男」とかかずらわるようになってから、このようなことばかりだ。自明だと思っているものが尽く揺さぶられていく感覚。全く定まらない照準のようで、もどかしいことこの上なかった。
 しかし、私の身体を放射線のように貫く彼らの歓声は、ますます幻覚のように知覚された。そんなことを感じていると、彼らの熱狂、彼らの喜怒哀楽の裏側で密かに立ち働いている私自身も、また不確かな存在に思えて仕方がなかった。いや、違う。これは一時的な感傷に過ぎないのだ。そう言い聞かせても、ふさぎの虫は治らなかった。
——ゼクス。
 ボスの声がこだましてくる。私はその声を聞き、心の安らぎに近いものを覚える。そして、私はこのあいだボスとの間で交わしたやりとりを思い返すのだった。彼との件で3日間にわたって査問を受けている最中のことだ。インの一室のような場所で待機を命じられていた私のスマホロトムが鳴った。非通知の番号。私はロトムに電話を繋ぐように指示した。
「ゼクス」
 紛うことなき、純度100パーセントのボスの声だった。常に変転し、掴み所がないことによって、それが私のボスであることを証している声。
「いかがいたしましたか、ボス」
 故に、私もいつものように応答する。
「任務について報告せよ」
 私が置かれている状況について、ボスは何も言わなかった。おそらく知っているのだろうとは思う、かといってとぼけている様子でもない。私がその語調から確かに感じ取れるのは、ただボスが極めて私的で個人的な事柄からは紳士的な距離を置こうと努めている、ということだった。
 ひとまず、私は現在の任務について一通り進捗を報告する。おそらくは既にボス自身も深く了承していることを、私は改めて筋道立てて伝達した。ボスは静かに私の報告を聞いた。そして意味ありげな沈黙をした。
「『ハエ男』について、君の考えを聞きたい」
「と、言いますと?」
「ヤツは確かに『ムゲンダイナ』を狙っている。では、その目的は何であるか」
「1000年後のため、という訳ではなさそうですが」
「では、ガラルに再びブラックナイトをもたらすつもりなのだろうか」
 ボスの声は複雑に変調する。
「可能性がない、というわけではないと思います」
 私は窓から遠目に覗くシュートの街並みに目を留めた。曇り空に覆われたあの街は、何だかホウエンに存在すると言われるまぼろし島のようであった。あそこには一体何があるのだろう? そんなことを考えてしまう。答えは、言うまでもなくわかりきっているはずなのに。
「ポケモンを良からぬ手段で利用することには長けた男ですからね。それに世の中に対して極めて悲観的で、野心的な思想を抱いている」
「だが、そうでないとしたら?」
 私はボスの言わんとすることについて考えた。だが、そうでないとしたら?
「つまり、ムゲンダイナを奪う目的として、騒擾を引き起こすことが主眼でないとしたら、ですか」
「確信は狂気だ、ゼクス。私たちはあらゆる可能性の中に揺蕩っていなければならない、そうではないか?」
「なるほど」
「諜報部に『ハエ男』の過去の足取りを辿らせた」
 私は不意にあの「メタモン」(そのようにカッコを括らずにあの生物について言明するのは不可能だと思える)のことを思い浮かべた。
「ホウエン地方、ハジツゲタウンですか」
 私は囁くようにその町の名を言った。一瞬、スピーカーの雑音がかき消えて、辺りが静まり返った。
「『ハエ男』の側近であるメタモンの発言から、ヤツがかつてホウエン地方に滞在していた可能性がある。ドライからそのような報告を受けた」
「なるほど」
 あの蛙でも真面目に仕事をする時があるということに私は驚いていた。いやはや、見くびられては困るよポワルくん、と頭の中の「ケロマツくん」が言う。それならば、バシャーモとの件は黙っていてほしいと思うのだが。
「現地で調査したところによれば、近郊の私有地——通称「砂漠の地下道」において、興味深い痕跡が発見されたそうだ」
 窓の向こうでは、シュートの街を大いなる霧が覆い始めた。あの巨大な、ガラルの全てを包摂したような都市の全景がみるみるうちに掻き消されていく。そこに息づく生きとし生けるあらゆる者、ヒト、ポケモンたちまでもが、まるで何かの冗談であったかのように消え去っていく空想をした。
「一体それはなんです?」
 私は訊ねた。なんだか眩暈がしていた。私の肉体が希薄になり、まるで宇宙空間にでもいるかのように心がふわふわとしている。
「壁にはこんな言葉が彫られていた」
 ボスは感情を極力抑えながら次のような一節を口にした。

 "Oh Jesus Christ get me out of here. Dear Jesus, please get me out. Christ, please, please, please, Christ."

 ——ああ神さま、どうか私をここから連れ出してください。神さま、お願いだからここから私を連れ出してください。お願いです、お願いです、お願いですから、どうか、とボスはその言葉を翻訳した。
「『我らの時代』」
 私はイッシュの勇敢な小説家が残した短編集のタイトルを挙げた。確か、彼が文学修行のためにミアレシティで暮らしていた時代に書いたものだ。
「筆跡から見て、『ハエ男』ことサツキバエフが書いたものとみて間違いがないそうだ」
「その本はむかし読んだことがあります。『インディアンの村』、『雨のなかの猫』、それに『兵士の故郷』……どれも簡潔ながら、印象的な小説でしたね」
「問題の一節は『兵士の故郷』の前に掲げられていることは知っているだろう」
「ええ。戦地から故郷に戻ってきた孤独な帰還兵の話です。彼が戻ってきた頃には、戦争に対する熱狂や関心は過ぎ去り、誰も彼の話を聞いてくれない。鬱屈した思いを抱えながら、彼はただものぐさに日々をやり過ごしているんです」
「『ハエ男』もその小説を読み、あの一節を壁に刻んだ。そう考えるのがひとまずは妥当だろう」
「プラズマ団以前の『ハエ男』の経歴に関しては、一切が抹消されています。ですが、サツキバエフがあのクレブスのような体験をした、あるいはクレブスにシンパシーを抱いていたということは、何かヤツの真意を探る糸口になるかもしれない」
「その通りだ、ゼクス」
 ボスの声は一瞬だけ甲高い声になる。
「例の書き込みの傍にはとある数字も刻み込まれていた」
「数字」
「調査の結果それは度分秒を意味し、地図のとある一地点を示唆していることがわかった」
「いわゆる『秘密基地』ってヤツですか」
「それは106番水道・石の洞窟近くに作られた洞穴を指し示していた」
 余韻をもたせるような沈黙を挟んでから、ボスは続けた。
「君もまさに想像しているところだろうが、そこはもう十何年も放置された『秘密基地』の残骸だった。朽ち果てたベッド、薄汚れた人形が無数に並べられた空間の一角で、奇妙なことにコンピュータだけは起動することができた。そして、デスクトップには、ハジツゲで見つかった文章の続きが書き記されていた」

 "If you'll only keep me from getting killed I'll do anything you say. I believe in you and I'll tell everybody in the world that you are the only thing that matters. Please, please, dear Jesus."

「私を殺さずに生かしてくれたら、あなたの言うことはなんでもします。私はあなたを信じ、あなたはただ一人の大切なものであると世界中のみんなに言ってやります。お願いです、どうぞお願いですから、神さま」
 ボスは相変わらず丁重な音声で翻訳し、またしばらく沈黙を挟んだ。
「ヤツは一体何を伝えようとしていると思う、ゼクス?」
「明確に言葉にすることはできませんが」
 私はこめかみの辺りに人差し指を当てながら、「ハエ男」が刻んだ言葉について考えた。
「恐るべき無神論者でさえ、神的なものに縋りたくなる瞬間があったのでしょう」
 改めて「ハエ男」の人生について、私は考えてみた。しかし下手くそな水彩画のように、その輪郭は汚く滲み、私に何らのイメージももたらしてはくれなかった。とはいえ、それだけにあの男が刻んだ『我らの時代』の一節が、耳の奥でハープの快い音のように鳴り響くのだった。
「そして、その瞬間にはおそらくヤツのそばに一匹のメタモンがいたはずです。何者かになる前の、と同時に何者かでさえなくなる前の、ある一匹のメタモンが」
 「メタモン」の無表情を私は思い浮かべた。まったく、あの古代遺跡に捨て置かれたような微笑みの向こうに、一体何が眠っているというのだろう?
「なぜそんなことをする必要があったと君は思うか?」
 ボスは言った。
「あれだけ過去に関するあらゆる情報を抹消するほど痕跡を残すことを嫌う男が、そんなものを残すというのは、一体どういうことか」
「私たちにとって、それは興味深い問題ですね」
 私はニヤリとしながら言った。
「始めの問いに戻ろう。『ハエ男』の目的はなんだと思う、ゼクス?」
「ヤツが『ムゲンダイナ』を奪おうとするのは単純な政治的決起や社会的動乱を促そうというものではない。あなたはそうお考えということですね、ボス」
 沈黙が流れた。すなわち、肯定ということだった。
「恐らくはもっとちっぽけで、純粋な、かつ虚無的な動機。プラズマ団右派として行った数多の鬼畜のような所業からは、およそ考えられないほど単純な動機。誰もが内に抱き、リアルやネットで日々再生産され続ける、切実ながら凡庸な衝動。『ハエ男』を駆り立てているものは、およそそういうものということでしょうか?」
「君にはそれを確かめてもらいたいのだ、ゼクス」
 立ち込めた霧は、シュートシティの何もかもを覆い尽くしていた。さっきまで確かに輪郭を留めていた街は、今やゾロアークのイリュージョンででもあったかのように、欠片も見出すことができなくなっていた。
「それでは」
 私は思い切って現状に対する不満を表明した。
「現状の私への処遇を一刻も早く改善していただきたい」
 そう私はボスに直訴した。
「こうしている間にも『ハエ男』は何らかの行動を起こすかもしれない。私の品行に関する質疑は、現在進行している事態が解決してからでも遅くないのではないかと思いますが」
「ゼクス」
 ボスは聖書の一節のように言った。
「人間理性についてどう考える」
 いきなりそう訊ねられた私は一瞬、頭の中が真っ白になるくらいに面食らったが、すぐに口にすべき言葉を引き寄せた。
「ひどく矛盾を抱えた生命体だと思います、ボス」
「その人間理性をポケモンの身で背負ってみて、君は何を思い、何を感じた」
「確かに、理性が無ければ思うこともできず、感じることのできないものを体験したと思います」
「それは、君にとって良いことだったか」
「ある意味では、そう思いますね」
 私は目を瞑る。彼の精悍な顔立ちが瞼の裏に浮かび上がってきて、仕方なかった。さらにきつく目を閉じても、鮮烈なイメージは変わることはなかった。
「しかし、一方で葛藤を抱いている」
「善きものを見極める理性、見境のない欲望、相反するものにいつも引き裂かれている人間存在。原罪という概念が形成されたのも大いに理解できます」
「禁断の果実をかじったポケモンの一体として貴重な知見だ。実際、我々は善悪が奇妙にも混合した、言ってみれば倒錯した実存でもある」
「ええ。よくわかります、ボス」
 私は答えた。だが、私の言葉は署名のないタブロイド紙の真偽のわからない記事のように虚無だった。
「いえ、何と言えば良いでしょうか、ボス」
 私は額を鷲掴むようにして、指に力を入れてぐっとこめかみを押さえ付けた。
「正直に言って、私は少し混乱しているのだと思います」
 スピーカーの向こうからは何も聞こえてこなかった。言うなれば、ヌケニンの背中をのぞいているような深い虚無。話を続けろ、そうボスは命じている。私にはそれがよく理解できた。
「倒錯していたとしても、楽園にいた頃のような純粋さを希求してしまう。そんなものは最初から無かったかもしれないのに。ですが、より善く生きようとするために、人間理性は哲学というものを生み出した。自然、道徳、社会、国家、そうしたものを事細かに論じながらも、哲学は常に個人の問題に帰結した。すなわち、私たちはどう生きるべきか?……思うに、『ハエ男』を追うごとに、私は人間的に生きることについて、個人的な範疇であれ信念を確立しなければならない、そう感じています」
 私はふう、と息を吐いた。何を言っているのか、私自身も明瞭ではなかった。ただ、ゴリランダーがその燃えたぎるような情動をドラムに込めるように、私も何かを口に出さなくてはいけない、そんな気がしたのだ。
「自分がどうあるべきか、そのためにはどうすべきか、まもなくわかるだろう、ゼクス」
 ボスの声が、何らの個性も時代性も見出せないほど無機質に響いた。しかし、その性質の無さはかえって崇高さというものを私に感じさせるのだった。
「こんな言葉がある。遥か東の地方にいた芸術家の言葉だ」
 そして、ボスは私にこんな言葉を教えてくれたのだった。
「『原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである』……」
「なあ」
 突然、別の声が聞こえた。それは、私に向かって呼びかけている声だった。そして、その声は私にとって、とても聞き馴染みのある、低く、柔和で、快い音声だった。
「どうしてここにいるんだ」
 そう、彼は言った。私はまるで時空間を瞬く間に行き来したかのように、彼の前に立ち戻った。今の私が一番会いたい相手であり、同時に会ってはならない相手。
「バシャーモ」
 私は彼の名を呼んだ。

19 [#6NSaib8] 


 歓声が一段と大きくなった。それは遠いパルデアの大穴の底から這いあがろうとする何か理解し難い存在の呼び声のようにも聞こえた。
 しばらく彼と向かい合って私は、何か言葉を口にするのも失念してしまっていた。彼のメガシンカ風に短く整えたア・ラ・カロセーズの髪は、アローラの太陽を浴びた小麦畑のように豊かに光り輝いていた。凛とした表情、海の底を思わせる深い青を湛えた瞳、そうしたもの一切を引き立たせるな激烈な紅に染められた顔立ちに私の目はたちまちにして奪われてしまう。短く刈り上げられた全身の羽毛から立ち上ってくる爽やかな汗と、セレブリティ製のロゼリアイメージの香水が入り混じった匂いを嗅いでいると、葉巻かシーシャのようにもっと堪能したくなる。厳格に鍛え上げられた肉体の存在感は、近代の合理的精神を孕んだどんな彫刻作品よりも私を圧倒させた。
 私は黙っていた。彼もまた口をつぐんだ。観衆が手と足を打ち鳴らす振動が、私たちがいる空間に浸透する。天井に張り巡らされた配管が低く、鈍い音を私の耳に伝えていた。
「仕事の一環だよ」
 私はいつもながら正しくもあるし、間違ってもいることを答えた。
「こんな大事なときも、僕は日陰で自分のタスクをこなさなければならないからね」
「リーグ関係の仕事とは知らなかった」
 慎ましやかな彼の嘴が上下する。かぎ針編みが手繰り寄せた糸がいつの間にか花のモチーフを編み上げるように、彼の言葉は紡がれた。
「仕方ないさ、だってそんなことを先に言ってしまったら」
 私は彼の鼻先に人差し指を当てる。
「君がバトルに集中できなくなってしまう。そうじゃないか?」
 風なんてちっとも吹いていないにもかかわらず、バシャーモの毛並みが俄に逆立つのがわかった。彼の心臓が一瞬高鳴る音まで、私の指を通じて感じられそうな気がした。私は口元を綻ばせる。
「悪い子だね」
 バシャーモは微かに頷いた。桃色に染まった彼の頬は、私の胸をこの上なく熱くさせる。
「こんな言葉がある」
 私は彼に語り聞かせるように言った。
「『原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼はこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである』」
 彼の雄々しい顔立ちに、きょとんとした瞳が浮かぶ。パールルが一生かけて守る真珠よりも美しく、滑らかな光沢を放つ眼差しだった。
「どういう意味だ」
「君と会えて良かった、ってことさ」
 私は周囲の人目を確かめることもせず、彼を壁際に押しつけるように熱く、長いキスを交わした。私は舌を入れ、貪るように彼の内にあるものを求めようとした。彼もまた恐る恐る舌を出し、私の細長い蔓のような舌に触れたが、うっかりピカチュウの頬に触れてしまったかのように慌てて距離を取った。
「いけない」
 バシャーモは息を切らしながら私の耳元で囁く。
「試合の前だ」
 私はそんな彼の頬を優しく指で撫でてやる。
「大丈夫だよ。『今』はここまで」
「ここまで?」
「全部終わったら、いくらでも続きをしよう」
 彼の喉が音高く溜まりきった唾液を飲み下した。
「わかった」
 私は顔を離す。もう一度、彼の嘴に舌を絡めたいと思う身も捩れるような欲望を、私は辛うじて堪えることができた。私は冷静さを取り戻し、「ハエ男」のことを、あの「メタモン」のことを、「ケロマツくん」のことを一つ一つ思い出した。私はそれらの複雑な物事に対して丁寧に処理していかなければならない立場なのだ。
「君と君のチームなら、ファイナルトーナメントまで行ける。そう信じているよ」
「ありがとう」
「頑張ってくれ」
 私は惜しむように彼の体をきつく抱きしめ、羽毛でも隠し切れない美しい筋肉を指で感じた。これがオーベムの指であったなら、私は彼の事細かな感情や記憶の襞までをも感じることができるのだろうか? あるいは、ルカリオのような繊細な波導を持ち合わせていたならば、理解(わか)りあえぬ敵国のように不可解な他者たる彼の心を隅々まで読み取ることができるだろうか? 私はそうしたことに対して俄に強い欲求を感じたが、すぐに考えを改めた。美とは決してわかりえぬもの、名づけえぬものだからだ。私たちは謎めいたソルロックとルナトーンのように微妙な引力のもとに引かれあい、引き離されている。私が渇望し、激情を吐露さえしたものはそこから生じるものなのだ。
 そのように私は考えを巡らせ、私がまだ狂っていないということを確かめた。
「ところで」
 そうした一切の思考の糸を一旦切り離すように私は言葉を口にした。
「君こそ、どうしてここにいるんだい」
 バシャーモがいま、ここにいるという事実はありえないことではないが、そのためにはとある事情がなければならないはずだった。セミファイナルトーナメントはすでに開始され、試合を控えた彼と彼の同僚たちは地下の選手控室に待機していなければならないはずだったからだ。
「ああ」
「どうしたんだい? 何か忘れ物?」
 彼は俯き、しばらくの間懊悩した後、私にそっと耳打ちした。
「タイレーツの姿が見当たらない」
 私はあの高慢な我らが親愛なる「ヘイチョー」とヘイたちの姿を思い浮かべた。貴様のそんな不埒な妄想に対して我々は何ら答える義務も謂れもないのである、と私の中にいる「ヘイチョー」が言った。
「エントリーまでに戻ってこないと、厄介なことになってしまう」
「君のトレーナーは手持ち5匹で戦わなければいけなくなる、そういうことかな」
 バシャーモは頷く代わりにしきりに頭を掻いた。
「思い当たるところはみんな見て回った。全ての部屋を確認したし、空きロッカーの中も一つ一つ調べた。それなにの、どこにもいないなんて」
 私も彼らとはそれなりに長い付き合いだから、この状況であのポプリーテスたちがどのような行動を取るかは容易に想像することができた。とはいえ、ジムチャレンジのあいだずっと行動を共にしていたバシャーモだって条件は同じだろう。その彼をして、今度ばかりはお手上げだと言わんばかりに首を横に振らせている。状況はなかなか深刻なようだった。
 私たちのいる空間が再び、至る所から湧き起こる歓声によって激しく震えた。まるで大いなる神の手がカクテルを作ろうとして、この閉じた空間をシェイクでもしているみたいな騒々しさだった。
「試合も大詰めになってきたようだね」
 バシャーモはそわそわしながら目を泳がせた。無理もなかった。ポケモンリーグの公認規則第3条第1項の『競技ポケモンの数』によれば、「ポケモントレーナー、あるいはその代理人は、スローオフの30分前までに審判員に対して試合に参加するポケモンの種族名とモンスターボールのIDを申告しなければならない。申告されたポケモンは試合開始時点でポケモントレーナーが所持していなければならない。もし、所持するモンスターボールの数やIDが不一致し、かつポケモントレーナーがそのことを審判員に報告しなかった場合、そのポケモントレーナーは失格となり、審判はこの事実をリーグ委員会に報告する」とあるからだ(ジメレオンという私にとっての青の時代に、一般教養として随分と叩き込まれた文面はいまだに私の中に偉大な王の事績を伝える石碑のように刻み込まれている。フィールドの寸法から、モンスターボールを模したセンターサークルの直径まで、事細かな項目まで暗記している。おかげで、私はいっぱしのポケモンバトル通を名乗ることができるわけだ)。
 実質的なタイムリミットは、この試合が終わった直後ということになる。そして、リアルな問題として彼が出場する前の試合はトレーナーたちが最後の手持ちにダイマックスを発動しているからには、「ヘイチョー」たちを探すため彼に残された時間は少ない。
「他にあてはあるのかい」
 彼は黙って首を振った。彼の立ち居振る舞いには困惑と焦燥、半ば諦観が含まれているように見えた。そんな彼の表情に宿る少年のような純粋さに対して、私は改めて心を打たれずにはいられなかった。彼の役に立て、と定言命法が私に厳命していた。
「そう落ち込んじゃいけない。だって、これから君にとっての大勝負が待っているじゃないか」
 私は彼の体をハグし、スーツ越しに彼の熱を感じながら黙り合った。できるものなら、そんな衣服も、私の魂を束縛する肉体からも自由になって、何だったらこの固有の魂からさえ抜け出してしまいたかった。霧がかり、幻視のように見えた世界も、太陽が一つあればすっかり晴れわたるものだ。
「君は試合の準備をしなよ。ここは、僕が何とかしてあげる」
 そう私は彼に誓った。
「大丈夫なのか」
「大丈夫さ」
「仕事の邪魔になってしまったら悪い」
「君より優先するべき仕事なんてあるかい?」
「だが……」
 彼は何かを言おうとして口ごもった。私は彼から決して視線を離すことをしなかった。古代ガラルをザシアン、ザマゼンタとともに救ったとされる王に仕えた忠実な騎士たちのように私は振る舞った。
 再び私たちのいる場所が震える。ダイマックスしたポケモン同士が、これまでのジムチャレンジで背負ってきたもの全てをかけてぶつかり合っているようだった。観衆たちも試合の展開に応じて歓声と悲鳴をあげている。このスタジアムでは血の通った人間とポケモンたちのドラマが繰り広げられている。彼だってそのドラマの出演者にならなければならない。
「君が知っていることを、できるかぎり詳しく僕に教えてほしい」
 私は彼の顔をじっと見つめ、安心させるように優しい声で語りかける。
「なんと言えばいいだろうか」
 そう言いながら、彼のもどかしげな嘴は言葉を紡ぎ始める。
「突然、『ヘイチョー』がちょっと用事があると言って『ヘイ』たちを残して出ていった。だが、戻って来なかった。それで『ヘイ』の一体が『ヘイチョー』を探しに行ったが、そいつも戻って来ない。今度はもう一体の『ヘイ』が出ていった。そうして、次から次へと『ヘイ』たちが仲間を探しに行っているうちに、とうとう誰も帰って来なくなってしまった」
「まるで、『5匹のコアルヒー』みたいな消え方をしたね」
 ガラルの風習に馴染んでいない彼はゆっくりと首を傾げる。私は揶揄うように微笑しながら、まるで子守唄を歌ってあげるみたいに、ヒトの言葉を身につけるために散々歌って覚えたマザーグースを口遊んだ。

 Five little Duckletts
 Went out one day
 Over the hill and far away
 Mother Ducklett said
 "Quack, quack, quack, quack."
 But only four little Duckletts came back. 

「変な歌だ」
「マザーグースの世界は奇妙で奥が深い。妙に印象に残るリズムだろ?」
 だが、それにしても。私としてもこの奇妙なシチュエーションには首を傾げずにはいられなかった。
「どうして『ヘイチョー』は単独行動なんてしたんだろう」
 バシャーモも首を横に振った。タイレーツは一体の『ヘイチョー』と五体の『ヘイ』が揃って初めてタイレーツと呼ばれる。『ヘイチョー』が単独であったり、『ヘイ』が一体でも欠けてしまった場合、それをタイレーツと呼ぶべきかどうかは、ポケモン学においてややこしい議論を巻き起こすことになってしまうし、そうした学問的知見にかかわらず、タイレーツを構成する彼らが別々に行動することはほとんどない。
「よく思い出してくれ。『ヘイチョー』が姿を消す前に、何かおかしなことは起こらなかった?」
「おかしなこと?」
「彼らの間で何かいつもとは違う何かが起こっていたのかもしれない」
 私が初めて彼らと相対したラテラルジムでも、バシャーモや「リザードン」とのあらゆる意味でメモリアルな一日のきっかけとなったターフジムでも、タイレーツは常に何かをしきりに警戒していた。それが彼らの習性であるにしても、とりわけ「ヘイチョー」は一際神経を尖らせているように見えた。
「そうだな……選手控室で、俺がベンチプレスをしていたとき、アイツらは部屋の片隅に固まって何かを話し合っていたと思う」
「タイレーツはどんな様子だった?」
「何かわにゃわにゃと話しているのはわかったが、それが何なのかまでは」
「大丈夫だよ。こういうものは、ゆっくりと、冷静に考えていけばいいんだ。そうだな……タイレーツ以外で気になったことは?」
 控室に出入りしていたリーグ関係者や、彼のトレーナー、そしてバシャーモやタイレーツ以外のチームメイトについて、私は丁寧に彼の記憶を呼び覚まそうと努めた。
「これといったことはなかったかもしれないが」
 彼は自分の言うことに意味があるのかどうかもわからず、ごく控えめな調子で話した。
「俺とタイレーツ以外の奴らも別に普段と変わりなかったと思う」
「ええと、確かオトスパス、ネギガナイト、ルチャブルだったかな」
「ああ」
「5匹しかいない」
 彼はほんの微かにビクついた目を私に向けた。
「君のトレーナーはまだ試合で全てのポケモンを使い切ったことはないって話だったと思うけれど」
「そうだな」
 彼は鉤爪を嘴元にあて、深く考え込むような姿勢を取った。
「ちょっと妙に思われるかもしれないんだが、実を言うと俺も直に見たことはないんだ」
「見たことがないって? たとえばポケモンセンターだとか、キャンプの時にも?」
 彼は黙りこくったまま、ただ首を縦に振る。
「マスターの意図はわからないが、何というか、恐らくはギリギリまで情報を伏せておきたいんじゃないかと思う。セミファイナルトーナメントだと、旅の中でたびたび会った面々と試合をするわけだから」
「文字通りの最後の切り札」
 私は指を顎に当て、常に滑らかで潤った触り心地を保つ肌を擦る。
「とはいえ、タイレーツが欠けてしまったことで、トレーナーが最後の切り札を繰り出す機会がようやく巡ってくると考えれば、それはそれで興味深いことと言えるかもしれないよ」
「そうだろうか」
 彼は不安げな表情をした。タイレーツの不在が、バシャーモに根源的な存在への不安を喚起させてでもいるかのようだった。
「もう一つ聞かせてくれ。君のトレーナーは何をしてた?」
「チラリとしか見ていないが、マスターはずっとベンチに座って精神を集中させていたはずだ」
「試合の前はいつもそんな感じなのかな」
「ああ」
 彼はそれに関しては確かな自信をもって頷いた。
「わかった、ありがとう」
 私はもう一度彼を抱きしめ、その背中を優しく叩いた。遠くから爆発音のような響きがした。恐らく、どちらかの最後のポケモンが力尽きた合図だ。一つの戦いが終わり、もう一つの戦いがまたしばらく続くことになる瞬間。もう何度と繰り返されながら、ロマンチックであり、クルエルであり続ける瞬間。
「君もそろそろ控室に戻った方がいい。それまでに必ずタイレーツを連れ戻してあげる」
「頼む」
 彼は言葉少なに答えた。私は惜しむように彼の緋色のふわふわとした毛並みをひとしきり撫でさすった。大丈夫。そう彼に目配せをしてゆっくりと体を離した。俯き加減な彼の肩をポンと叩いてあげると、私は考えを巡らせながら彼に背を向ける。四方八方から凄まじい歓声が響き渡ってきた。選手とポケモンの健闘を讃え合う拍手はしばらく鳴り止むことがなかった。
 そのために、いきなり背後から襲ってきたものに私はほんの少し気づくのが遅れた。大きく前へ吹き飛ばされ、カイリキーにちきゅうなげをされたように強く体を床に打ちつけられた。咄嗟に体勢を整えるよりも早く、次の一撃が私の脳天を打った。霧がかった私の世界が晴れ渡ったかと思いきや、すぐさま霧に閉ざされたかのようだった——

20 


 私は目を覚ました。だが、それが意味する状況は少々複雑で、なおかつ困難を孕んでいる。
 目の前は真っ暗だった。なおかつ、全身を自由に動かすことができない。何も聞こえない。私であるはずの存在の周囲はしんと静まり返っている。
 身を捩ろうとして、手首の辺りが金属のようなもので拘束されている感覚を覚える。金属同士がぶつかり合う甲高く硬質な響きだ。背中に回された私の腕は、恐らくは手錠かそれに類したものによって後ろ手に縛められているようだった。私の手首の細さに密着するように金属はまとわりつき、そこから指を抜き出すことは難しいと思われた。足も同様に同じものによって厳重に拘束されていた。
 目蓋を覆っているのは目隠しというよりは、高性能なVR用のゴーグルのようなものを思わせた。軽く首をもたげるだけでも、ずっしりとした重みを感じる。首を振って振り解こうとしても、インテレオンの骨格に合わせてセットされたそれは、身体の一部ででもあるかのように1ミリたりとも私から離れようとはしなかった。
 意識が回復するにつれて、私の身体感覚も少しずつ悟性に浮かび上がってくる。身を横たえている場所はコンクリートのようで、爬虫類としての私の皮膚に纏わりつくワイシャツやスーツ越しからもその冷淡さを感知することができる。生臭い臭気もどこからか鼻腔に漂ってくる。それは、例えば19世紀のミアレシティの喧騒たる都市生活を謳った詩人の言うタイプの官能的な臭気ではなく、極めて現代的な、消費社会の産物としての臭いに他ならなかった。
 テッカニンに進化したツチニンが深い土の底から地上に這い上がるように、ここまでに起きたことを辿った。私はスタジアムの地下通路でバシャーモと会い、姿をくらましたというタイレーツを試合時間までに見つけ出すと約束したが、唐突に何者か——さしあたって何者か、ということにしておく——に襲われたことを覚えている。ミッシングリンクのように途絶えた時間を挟んで、私はいまこうしてどこかに拘束されている。
 じわじわと身に覚えのない痛みが全身を刺し貫いているのを感じた。あの瞬間、何者かに背後を蹴られたことは確かだが、それから手ひどい仕打ちを喰らったようだ。自由であるはずの足は動かすのも気怠いほどに重かった。まるで全身が何倍もの重力によって抑えつけられているみたいに、だ。とはいえ、骨が折れていないのは幸いだった。恐らくは時間によって傷は癒されるだろうが、さしあたって私にはその時間がわからないのだった。ロトムフォンに呼びかけようにも、噛まされた猿轡のせいで私は何も言葉を出すことができなかった。だがいずれにせよ、この状況下においてロトムフォンがつつがなく手元にあるはずがないことは容易に想像できた。
 しばしの間、なおも拘束から逃れようとかちゃかちゃと金属音を鳴らしながら身を捩らせたが随分と頑丈なつくりをしているようで、全身をカビゴンの重たげな寝返りのようにゆっくりと回転させるのが精々だった。金属自体は尻尾に隠した特注のナイフを使えば切れそうではあった。手足の自由が奪われ、視覚も不確かな状態であっても尻尾の先で掴めばそれなりに操ることはできるかもしれないが、多少の時間は必要かと思われた。
 仕方ない。私は目の前を真っ暗にしながら、我が尻尾を触手のように動かし始める。根本の辺りを弄れば瑞々しい鱗に埋め込むように秘密道具は隠されているはずだ。このような特殊な状況下にあっても無闇に取り乱したりしないということは、これまでの任務にあたって散々教えられ、かつ身につけてきたことでもある。
 しかしながらいま置かれた状況よりも私を不安にし、混乱させているのは彼のことであった。
 あの瞬間、私に襲いかかったのは本当にバシャーモだったのだろうか?
 通路には私と彼の二匹の他には誰もいなかったはずだ。ならば、状況的には彼以外にその可能性を考えることは困難だった。私はあのバシャーモがガラルに点在するあらゆるメタモンのうちの一つであったかもしれない、と考えた。それが私の精神衛生的には最も穏当な見解ではあったが、それを確証するものはさしあたって何もないのだった。だが、それにしても彼が私を襲い、あまつさえこのように監禁する理由もすぐには思いつかなかった。彼も「ハエ男」の一味? そのような仮説を思い浮かべるのは容易だったが、まるでメノクラゲとノノクラゲの親近性の問題のように簡単には結びついてはくれなかった。いや、正確に言えば、私はそのような考えを無意識のうえに拒絶し、排除していた。なぜならば、彼は私にとって確固とした現実であり、現実が現実であることを保証してくれる存在に他ならなかったから。
 バシャーモ、と私は彼の名前を呼ぼうとするが、拘束具を咥えさせられた口は母音にも満たない中途半端な呻きを漏らすだけだった。私が意識を失う直前に背後を振り返らなかったことを幸いだと思った。辛うじてではあるかもしれないが、私はまだ私にとっての現実を信じたかったし、信じなければならなかった。そうしなければ、インテレオンとしての私、ゼクスとしての私、ポワルとしての私のいずれもがガラルを覆う霧のなかに掻き消されてしまいそうに感じた。
 それは、存在に対する本質的な疑義であり、恐れと言えた。
 尻尾の付け根の真ん中辺りに、舌のような尾先を慎重に這わせる。尻尾は黄金比を描くように丸まり、あたかもパルデアの各地に住んでいるモトトカゲの走行姿勢がイメージされた。そんなたわいない連想をしていると、急に頭が重くなった。まるでダイオウドウの足に踏みつけられているみたいな感覚だった。首に力を入れても、ヤドンの一歩ほども持ち上がらなかった。
 どこからか足音が聞こえた。私は息を殺し、耳を澄まさなければ聞こえないほどの音に意識を集中させる。それは着実に自由を奪われた私のもとへ近づいてきた。
「絶景かな、絶景かな」
 声が聞こえた。視界は塞がれているけれどもその声の主が横たわる私のすぐ目の前にいるということが気配から感じ取れる。
「急に連絡が途絶えたから不安になって来てみたら、いやはや、無様な姿でござるねえ」
 目の前に立っていると思われる「ケロマツくん(仮)」——さしあたってこの対象について、私は(仮)をつけることにする——が言った。
「一流エージェントのポワルくんらしくもない。何があったんでござろうねえ?」
 私が口に出せないのをいい事に「ケロマツくん(仮)」は話し続ける。ふうむ、とわざとらしい声を出す。私が想像するには、両脚をピンと垂直に伸ばし、大袈裟に両腕を組みながらほんの少しだけ首を傾げている。目線は斜め上の方向に向け、顔の半分近くをマフラー代わりの舌に埋めて。その姿を目にするたびに、私はリククラゲが眠っている時の姿勢を連想しないわけにはいかなかった。
「まさか色仕掛けに引っ掛かっちゃったとか? どう? 図星? 図星?……図星!」
 「ケロマツくん(仮)」はナックルジムリーダーを一目見た女性ファンのように色めき立った。瞳はワイルドエリアに広がる満点の星空を気取ったように煌めかせて。私は思わず腕に力が入ったが、ただ虚しくカチャカチャという音が鳴るだけだった。そんな私の姿を見て、奴は喉にウッウでも飼っているみたいな気の抜けた笑い声を出す。
「もー、だから言ったじゃないでござるかあポワルくん。大事な仕事中にリアルするのは御法度だってさあ。もちろん拙者も悪かったと思うけどお。なんだかんだ、君がそういうことしてるの、わりかし見ててキライでもなかったでござるしい。大体、部下の個人的幸福を邪魔するのは上司としてふさわしくない言行だって思ったワケよ? 結構先進的って思うでしょ? けど、まあさ、僕らはさしあたって協力して立ち向かわないといけない相手ってのがいるじゃん? おまけにその相手ってのは、僕らのリアルを尋常じゃないほどに掻き乱してくる相手だってこと、ポワルくんもわからないワケではなかったでしょ? そりゃ、拙者も一匹のゲッコウガとしてぇ、そういうのあるってことは認めるのにやぶさかではないけどぉ? ここだけの話ぃ、そういうとこもちょっち通ってたりもしてぇ、しっぽりお楽しみしたってこともあるさ。まあ生き物だからしょうがない。生き物というかポケモン? って言えばいいのかねえ。とにかく、有機生命体であるからには、その手の欲望から逃れるには相当な努力だとか根気だとか必要なワケだけど、そんなことする謂れなんてどこにもないわけだからね。僕はそのこと自体を責めることはしないよ。だって僕は君にとって最良の上司であり同僚でいたいって心から思ってるし、何よりゲッコウガは温厚な種族だからね」
 私は黙っている。黙らざるを得なかった。「ケロマツくん(仮)」は酒でも飲んでいるかのように管を巻き続ける。
「愛の力が素晴らしいってのは確かにそうだと思うよ? なんだっけ? ガラルのポエム書きにそんなのがいるじゃない、ポワルくん好みのさ……そうそう、『慌ただしく月日がたってもいささかも変わらず、世界の終焉の間際まで毅然として堪えてゆくもの』! んでもって、『もしこれが誤りで、私の考えが嘘だとしたら、私は詩を書かなかったも同然、この世に愛した者がいなかったも同然だ』とか言っちゃうヤツ〜」
 「ケロマツくん(仮)」は()()()()と笑った。私にはそれがとてもよく分かった。()()()()
「君は身をもってそのことを経験し、水トカゲの冷えたカラダがぽうっと燃え盛るような感覚を覚えたはずだ。『ハエ男』の小賢しい羽音が聞こえないのを尻目に、君はバシャーモという壮健な男子と恋に落ち、逢瀬を重ね、愛の営み——とりあえずそう言葉を濁しておくよ、僕は優しいからね——をし、あまつさえ彼と駆け落ちをしようなんてことを本気で考えるようにまでなった。僕としては言いたいことはたくさんあるけどさしあたっては置いておくよ。それ自体はとてもロマンチックでござるし、まあこういう状況下じゃなければ、ちょっと惜しくもあるけど応援してやらなくもなかったんだ、いやコレほんとの話よ?」
 私は全ての力を手足に集中させた。今ならば怒りによってこの鎖を引きちぎれるのではないかと思ったからだ。古代の叙事詩でも主題に掲げられたように、普遍的で根源的な怒り。結果から言えば、ジャラランガが放つブレイジング・ソウル・ビートのようなやかましい金属音が鳴り響くだけであり、むしろ手首と足首に裂かれるような痛みが走った。「ケロマツくん(仮)」からすれば、その様子はまな板の上でもんどりを打ったカマスジョーのように見えたに違いないと想像すると癪だった。
「たーだーしぃ、今回の今回はちょっと物言いあるかなあ。話を最初に戻すけど、大事な仕事中にリアルするのは御法度なんだよ? 君自身言ってたじゃんか、これは『速度』の問題なんだって。来るべきその瞬間が、もし君とバシャーモが乳繰り合ってる時だったら、どうなってただろうねえ。ましてや、そのバシャーモが『ハエ男』に協力してて、それで君にカラダで接近したとかだったら、これはもう流石に僕だって擁護のしようがなくなっちゃうなあ。せいぜい、ヒトと同様にポケモンだって過ちを犯すこともあるよねー、って他人事みたいな意見だか感想を述べるのがセキタンザンの山って、ガラルではそんな言い方するんだっけ?」
 りーりー りりる りりる りっふっふっふ、と「ケロマツくん(仮)」は笑った。
「だけど、これって一応僕の監督不行届ってとこもあるし、まあ今回だけは特別にボスには報告しないであげるぞっ。良かったねえ、喜べっ! ポワルくん!」
 「ケロマツくん(仮)」はいかにも嬉しそうな拍手をした。奴が水掻きのついた手を打ち鳴らすと、パチパチ、ではなくペタペタ、という中途半端な音を立てるのだ。私は突然息苦しさを覚え始めた。「ケロマツくん(仮)」が滔々と話せば話すほどに鼻息は荒く、速いテンポを刻むようになっていた。でんじはを浴びたように全身に痺れが走る。ピリピリと刺すような痛みを手足に感じ、指先一本さえ動かすことができないほどだった。
「けど、その代わりに今の縛られた哀れで無様なポワルくんを記念に撮影させてもらおうかな〜って」
 ヤツは自分のスマホロトムを呼び出したみたいだった。そいつは蛙の懐からサッと飛び出すと、虫ポケモンのように私の周りを縦横無尽に飛び回り、パシャ、パシャと音を立てながら、360°から私の姿を撮影し始めた。強烈に喉が乾く感触がした。私は叫び声をあげたかったが、口内いっぱいに含まされた猿轡のせいでせいぜいくぐもった音しか出すことはできなかった。スマホロトムはあちこちから縛られた私の身体を撮影しているようだった。私の目隠しと猿轡をされた私の顔面を、後手に組まされた両腕を、両足を、時には私のスラックスの真正面をまじまじと捉え、その裏側から突き出した尻尾の付け根の辺りを舐めるように。私の視界は相変わらず真っ暗のままだったが、そのために、「ケロマツくん(仮)」の欲望と悪意ある目線がいっそう敏感に感じられ、屈辱を遥かに通り越して、何も感じることができなくさえなった。
「大丈夫、僕はさ、優しいから。君の弱みを握ろうって魂胆なんてメッソンもない!……あくまでも個人の楽しみの範囲に留めとくよ。ってな感じで雄と雄の約束だぞうっ、ポワルくん!」
 ピロリ、という電子音が聞こえた。私の周りをしつこく飛び回っていたスマホロトムと思しき存在が、いっそう醜悪な眼差しを私の全身に浴びせてくるのを感じた。さっき散々写真に撮ったのと同じところを、今度はたっぷりと時間をかけてビデオとして撮り溜めようという魂胆らしかった。見えざる手がそっと私の身体を撫でるような錯覚を覚え、私がしたくもない身震いをすれば、その動作をすかさず高精細なカメラの瞳が捉えるのだ。
 ワイシャツとスラックスの裏地が湿った肌にぺっとりと密着する極めて不愉快な感触があった。私を社会的に戒める機能を持ったその衣服は、私の皮膚の襞までをもしっかりと吸い付くように張り付いている。そこにはうっすらと粘膜の跡が残っているだろうし、何より着替えようとするときには、剥がすように脱がなければならないだろう。青色の皮膚がほんの少し、柔らかくつねられる感触は想像するだけでも気分の良いものではなかった。私が身にまとっているものが、常に私にとって本質的に異物であることを、その中途半端な感覚は示すのだ。
 私がいくら超人的な理性を我が物にしようとも、私は人間とは同等になることができない。かといって、ポケモンという自然状態に還ることもまた許されない。それならばこうして戒められ、視界は塞がれ、横たえられ、身悶えし、呻き声をあげ、恥辱を受けている私は何者なのだろう? なぜ、私はこのようなことをしなければならず、このような目に遭わなければならないのか? アーマーガアの翼よりも、オーロンゲの髪よりも深淵かつ濃厚な黒を湛えた闇は宇宙の果てのようだった。私は母なる星の何億光年も向こうの世界にただ一匹、意識だけを明瞭にしながら漂っているかのようだった。
 動画撮影はまだ続いていた。「ケロマツくん(仮)」の陰険な気配は闇の奥にひしひしと感じられた。奴がどんな表情をしてこの光景を眺めているのかが、盲目にもかかわらずポットデスの真作と贋作を見分ける程度には容易にわかるのだった。
 痺れは限度にまで達していた。デスバーンが高笑いするときのように、カタカタと全身が震え出した。意味もないのに瞬膜が自ずと閉じていった。
 いっそのこと、このまま私を犯してくれ。私はそんなことまでも願ってしまった。物見えぬ目をキツく瞑り、この生き地獄が少しでも早く終わりますように、と神か、あるいはそれ以上に大いなる何かに対して苦悶しながら祈った。
 ——かたむく天に。鉤の月。
 私の姿を見ているであろう「ケロマツくん(仮)」がそうボソリと呟くのを私は確かに聞いた。
「貴様、こんなところで何をしているでありますか!」
 「ヘイチョー」のけたたましい声がした。
「むむっ……」
 いきなり現れ出た「ヘイチョー」は私の眼前に立ち、訝しげに全身を傾けながら拘束された私を注意深く観察しているようだった。ひとしきり私が置かれた状況を「ヘイチョー」なりに咀嚼したところで、彼はコホンと咳をした。
「『ヘイ』どもに訊ねる。これは我々のヘイロータイであろうか?」
「違うでありますヘイチョー!」
「私めも同意見であります!」
「否!」
「ノー!」
「パニュゲー」
「つまり、である!」
 「ヘイチョー」が叫んだ。
「これこそは我らが探し求めた金羊毛であろうか? 我らのアルゴナウティカーの終着点とはこれのことであったのであろうか?」
 ヘイたちが一斉に賛同の意味を込めてホプロンを鳴り響かせた。
 うむ! と「ヘイチョー」は力強く請け合うと、私の背後に回り込み、カタカタと丸っこい身を振るわせた。次の瞬間、私を拘束していた手錠は手首を揺るがす振動とともに粉々に砕け散っていた。まったく。私はずっと視野を覆い隠していたゴーグル型の目隠しに手をやった。後頭部辺りにあたる部分を押すだけで、それはカチッという音ともに呆気なく外れてしまった。
 ビルの谷間から辛うじてガラルの青空が覗いていた。ようやく自由になった手で尻尾から「秘密道具」を取り出し、足の手錠の鎖を切断しながら、ビルディングたちの狭間にあるうらぶれた一帯を眺めていた。世界に冠たると言っては大袈裟だろうが、栄えあるシュートの街にもこのような場所があるのだ。聳え立つ摩天楼たちのせいで常に薄暗く、不貞腐れたように佇んでいるゴミの山は年月によって熟成された異臭を放って、この忘れられた空間をなおさらのこと得も言い難いものにしている。コンクリートの冷たさが改めてスーツ越しに身に染みた。息苦しさは残っていたが、さしあたって孤絶してはいなかった。
「かわらわりなんて覚えていたのですね、『ヘイチョー』殿」
「失敬である」
 唾棄すべきとでも言うように「ヘイチョー」は言った。
「これは当世流行の『レイジングブル』というのである!」
 えっへん。どこにあるのかわからない胸を張りながら「ヘイチョー」は答えた。私は首を振りながら、ビルとビルの間で木版浮世絵のように縦長に区切られた青空を見つめる。遠くから花火の打ち上がる音が聞こえた。朧げとしたどよめきもそれに続く。ヤドンの痛覚のように遅れてやってくる鈍痛を感じながら、私はほんの少しの間、あらゆる物事に関してエポケーすることにした。

21 


 担えっ銃!
 「ヘイチョー」が叫ぶと「ヘイ」たちは少しの歪みがない美しい縦列を組んで、意気揚々とその場で足踏みを始めた。1・2、1・2。その歩調に僅かでもブレが生じることはタイレーツにとっては許容しがたいことででもあるかのように、コンマ単位で入念にタイミングを合わせている。その気持ちを私はよく理解することができた。私としても、ジェットセット社特注のセットアップスーツ以外のスーツを身につけることをよしとしないからだ。襟から袖に至るまでの“殺し方”が絶妙なバイウールーの生地は無駄なシワ一つ作らないし、僅かなズレもなく丁寧に縫製されたステッチにも品があってこそ。何より、私の身体のほっそりとした線に無理なくフィットする心地よさは、ドラメシヤが親たるドラパルトのツノに収まった時に感じる安心感にも等しい。タイレーツとの行進とは、まさしくそのようにだった。
 改めてテラコッタ色のレンガに覆われた薄暗い路地を見回した。ゴミの山の上にぼんやりと光が灯っている。私の視線に気づいたそれは、おどおどとした様子ででんこうせっかのようなジグザグとした軌道を描きながら近寄ってきた。
「どうしたんだい、そんな顔をして」
 私はニッコリと微笑みながら、スマホロトムに向かって言った。
「君がタイレーツをここに連れてきてくれた。そうだろう?」
「本来なすべきこととは違うとわかっていたロトけどお……」
 ロトムの声はか細く、独り言を呟いているのと大差なかった。
「これがいわゆる緊急事態だとはわかっていたロト、それでも、それでもロトよ?」
「大丈夫さ、君は成すべきことをした。それでいいさ」
 ありがとう。
 そう言うとロトムは照れ臭そうに目を逸らした。エージェントに不測の事態が起きた場合、被所有者たるロトムはすぐに組織へ緊急連絡をするというのがマニュアル上の取り決めではある。けれど、私のスマートフォンに取り憑いたロトムは、絵に描かれたパイプがパイプそのものではないように、最早単なるロトムとは言えない。それは、トレーナーとポケモンの関係とも異なる、いわば一心同体の関係なのだ。私はスマホロトムを脇に置いたまま、あらゆることをしてきたし、どんなことでも躊躇なくすることができる。ターゲットを始末するときも、誰かしらの腕に抱かれるときも、バシャーモと情事を交わしているときも。完全な他者だとわかっているにもかかわらず、あたかもロトムは自分の身体の、精神の一部であるかのようなのだ。だから、ロトムの側も、私がそうであったらするであろうことを斟酌して行動に移した。
 つまり、そういうことだった。
「しかしながら」
 私は「ヘイチョー」に声をかけた。さしあたって確かめないといけないことがたくさんある。
「どうして、こんな場所にいたんでしょう」
「愚問である」
 「ヘイチョー」はぶっきらぼうに答えた。熱心に「ヘイ」たちの歩調のリズムのブレがないか神経を尖らせ、それ以外のことはできるものなら考えたくないといった様子だった。
「と、言いますと?」
「我々がそれに答える義務も謂れもないのである」
 英雄は決して多くを語らないのである、と「ヘイチョー」は付け加えた。私は首を振った。
「セミファイナルトーナメントの試合には間に合ったのですか、『ヘイチョー』殿?」
「そんなところは我々が目指すテルモピュライなどでは断じてありえないのである」
「それは勝った、ということでしょうか『ヘイチョー』?」
「語尾には『殿』をつけるのである」
「これは迂闊でした、『ヘイチョー』殿」
 オーケー、オーケー。私は頻りに頷く。
「それで、試合の結果は?」
 まるでジャーナリストのように私は矢継ぎ早に質問をした。私の心臓がとくり、と一際高鳴るのがわかった。その質問に対して、私は必要以上に緊張していた。
「ムロン、なのである!」
 「ヘイチョー」は事もなげに言った。やっと自分が満足する行進になったのか、ホプロンをカチカチと打ち鳴らした。「ヘイ」たちも合わせて喝采した。
「『ヘイ』たちよ! 我々はいよいよ我々のテルモピュライへと向かうのである!」
 タラッタ! タラッタ! 見ての通り、タイレーツの士気は高かった。私はスマホロトムにブレイキング・ニュースを読み上げさせた。セミファイナル・トーナメントBブロック。勝者は確かに「彼」のいるトレーナーのチームだった。
「おめでとうございます『ヘイチョー』殿」
「頭が高いのである」
 ふんぞり返りながら「ヘイチョー」は答えた。ロトムによれば、試合は先方のバシャーモとタイレーツのかつやくによって序盤に大きなリードを得たトレーナーが終始安定した試合運で勝利を収めたという。ポケモンは2体残しての快勝だった。現在はAブロックの2回戦、1回戦の勝者とシード選手による試合が行われているところだった。いまのところ、スタジアム内で何か異常が起こったというような知らせはなかった。「ケロマツくん」からの取るに足らない呟きのような連絡は、まやかしの森周辺でも目立った動きがないことを示していた。
 何者かに襲われてから、思ったほど時間は経っていないことに私はさしあたって安堵する。それに、この場所もシュートスタジアムからさほど離れてはいない。支度を整えたら、何食わぬ顔をして任務に戻ることができるだろう。
 緩んだネクタイを締め直し、私は改めて任務のことに頭を巡らせた。「ハエ男」が私を排除するために不意打ちを喰らわせことは少々意外なことに思われた。これまで羽音を潜ませていた「ハエ男」の側がこれほどまでに具体的な行動を起こした。となれば、次の、決定的な行動に踏み切るタイミングはまもなくではないかと思われた。すなわち、セミファイナル・トーナメントの決勝。トップジムリーダー、そしてチャンピオンへの挑戦権を争う大一番。私がこの路地裏で鬱陶しい幻覚にうなされている間に、試合途中で何事かを引き起こすつもりだったのだろう。状況はむしろ私たちにとって有利に働くかもしれなかった。羽音ばかり聞こえて、実像を捉えられなかった「ハエ男」の尻尾を掴むチャンスが来た、そう考えれば悪くないことだ。
「『ヘイチョー』殿」
 私はタイレーツの前に片膝をつき、地を這うように首を屈めた。彼らより視点を低くしていると、古来の爬虫類に還ったような気分になる。
「試合の前にバシャーモと会ったときに、彼はこんなことを言っていました。『ヘイチョー』殿と『ヘイ』たちが一匹ずつ控室から出て行って戻って来なかったと」
 試合前に何か願掛けでもされておられるのでしょうか? だとすれば是非その勝利の秘訣ってやつを伺いたいですね。そう訊ねた瞬間、「ヘイチョー」のツノがぷるんと振れた。
「そんなことに答えるギムもイワレも、我らタイレーツ、ないである!」
 「ヘイチョー」は同意を求めるように「ヘイ」たちを睥睨した。
「全くその通りであります!」
「私めも同意見であります!」
「諾! 諾!」
「YES SIR!」
「パニュゲー」
「なるほど」
 気炎を上げるタイレーツが派手派手しく打ち鳴らすホプロンの音を聴きながら、私は顎に手を置いて考えた。
「では、彼が言ったことが嘘であると」
「無論である! 彼奴は口さがないバルバロイなのであるが故!」
「彼は決して嘘はつかない」
 私は言った。
「そう私は確信しています、『ヘイチョー』殿」
 私は言った。ダイスを宙高く放り投げるつもりで、私は言った。落ちてきた正六面体の——正八面体だろうが正二十面体だろうが一向に構わない——どの面が表に現れるのかをあらかじめ知っているかのように。
「貴様、何を言っているでありますか」
 不審である。「ヘイチョー」はムッとして私を訝しげに睨みつけた。不審である。
「言った通りです。彼がそのような嘘をつくワケがないし、そんな理由もないと、僕はわかっていますから」
「き、貴様ハっ!」
 「ヘイチョー」は言いかけると、プルプルと震えながらも「ヘイ」たちに命じて瞬時に「はいすいのじん」を組ませると、目の前にこじんまりとしたファランクスが出来上がった。組み合わされたホプロンの隙間から、「ヘイ」たちが燐のように青白い瞳を恐る恐る覗かせている。
「貴様こそがかのにっくきペルシア人であったのだなっ!」
 そう決めつけると、であえ、であえっ、と「ヘイチョー」は叫んだ。「ヘイ」たちはなおも私の出方を伺い、腹を空かしたワンパチのようにソワソワとしている。
「流石にラテラルジムでならしたお方ですね、『ヘイチョー』殿」
 そこで、私はニッコリと微笑んでみせることにした。
「いかにも、私こそあなたが恐れていた『ペルシア人』です」
 一段と抑揚を際立たせ、それこそ舞台上の悪役が英雄に対して本性を現したかのように、努めて慇懃無礼に振る舞う。「ヘイチョー」は何かを勘違いしているらしいが、私にとってそれはむしろ好都合と言える。それに、若きデンマーク王に真実を告げる王の亡霊を演じているように、何かに扮することは悪くない気分だった。怨念深い鎧に身を包み、マントを翻しながら、おどろおどろしく運命的なお告げをする老人。
「あなた方はジムチャレンジの以前から不審な気配を嗅ぎ取っておられましたね。最初にラテラルジムでお会いした時も、どことなくソワソワしていらっしゃったし」
「ヘイチョー!」
 先頭から2番目を歩く「ヘイ」が叫ぶ。
「やはり、此奴はあの時拘束すべきでありましたっ!」
 他の「ヘイ」たちも同意を示して、両脇に抱えたホプロンを高く掲げる。ファランクスを崩さないままにするせいで、どことなくステージ上で息の合ったダンス・パフォーマンスを繰り広げているみたいに見える。
「我も最初に見た時から貴様を怪しいこと甚だしいと思っていたのである!」
 「ヘイ」たちに請け合うように「ヘイチョー」がイキリ立った。
「なぜならば貴様はバシャーモに会いたいなどと嘘を吐き! 我らがラテラルジムに押し入ろうとしたからである! そんなことは悪しき目的のための建前に過ぎぬのであったのだなっ!」
「その通りですよ、『ヘイチョー』」
 私は話を合わせ、人差し指の関節を鼻に当ててほくそ笑む。そして不敵で意味ありげな微笑みを湛えたまま、タイレーツを見つめる。「ヘイチョー」はガタガタと震える。それは武者震いとも戦慄とも見ることができるだろう。
「な、何を笑っているであるかっ! 嗚呼、何たる傲岸! 何たる冒瀆であることか!」
 私はほんの少しの沈黙を差し挟む。そして、大仰に肩を竦めてみせる。このような時にありがちなように、いかにも私が重大な秘密を認知しており、タイレーツがそのことを知らないことに対して憐れみの気持ちを抱いているかのように装う。
「や、やはり、あの時もだったのであるかっ!」
 「ヘイチョー」が威嚇するウォーグルのように目を見開く。私はそれに答える代わりに両手を腰に当てながら、やれやれ、と首を振る。あたかもこれから話される言葉が何であるか、事実が何であるかを知悉しているみたいにだ。
「イタケーで会った時も貴様は卑劣にも我々を分断したっ!」
「ああ、ターフタウンのことですね」
 私はできるかぎりそっけない態度で返事をする。「ヘイチョー」に言われてようやっと思い出したかのようにふんぞりかえる。
「目敏くもあなたが私のことを嗅ぎつけているのはわかっていましたから、少し邪魔をさせていただきましたよ」
「きっ、貴様あっ!」
 私は露骨に首を振る。これじゃあどちらが主人公なのかわからないな。
「危ういところでしたが、なんとか目的を達することができましたよ。その節は大変感謝いたします、『ヘイチョー』殿」
 ムムムッ、というタイレーツの唸り声がする。激しい正義感に駆られ、私に言い返すための翼のような言葉を探しているようだ。
「全ては今日のために綿密に計画していたのです。準備はバッチリ整いました。後は、最も相応しいタイミングを狙ってポチっとな。ボタンを押すだけになりました」
 私はわざとらしく哄笑する。は、は、は! タイレーツはプルプルと震えている。プル、プル、プル。
「それに、『ヘイチョー』殿以下、あなた方がひどく疑心暗鬼に陥ってることも私にはとっくのとうにお見通しです」
 ギクッ! とタイレーツは口に出した。陣形の最後部にいるヘイが驚きのあまり、丸まったウールーのようにコロコロと転がっていく。
「我々はそんなこと知らんのである!」
 強がる「ヘイチョー」を私は鼻で笑ってやる。
「最初の質問に戻りましょうかね。『ヘイチョー』殿と『ヘイ』たちが一匹ずつ控室から出て行って戻って来なかった。一蓮托生のタイレーツがなぜそのようなことをしたかなど想像するのは容易いことだ」
「黙るのである! 黙るのであるっ!」
「おおかた、あなた方は自分たちの中に異物がいるのではないかと不安に駆られ始めたのでしょう。初めは周囲に向けていた疑いを、次第に自分たち自身へと向け始めたというわけだ」
「ぬぬっ……」
「ヘイチョー殿!」
 先頭から3番目の「ヘイ」が潔く「ヘイチョー」の前に飛び出してくる。
「私めは断じて『裏切り者』ではないでありますからっ!」
「さ、先駆けとは卑怯だぞっ」
「諾! 諾! 諾!」
 2番目と4番目の「ヘイ」が3番目に挟みかかって抗議する。
「それにだいたい、あんなことをするのは士気を乱すから反対だったと言ったんだあっ!」
「仕方がないだろうっ! 実際一番ソワソワしてたのはお前だろうっ!」
「お前はタイレーツがタイレーツたる精神を信じられないというのかあっ!
「そういうわけではないが!……」
「否! 汝『ぺてん』を以て我々を惑わしたれば、咎免れざるべからず!」
「『ヘイチョー』殿! 『ヘイチョー殿』っ! 違う、違うのでありますからっ!……」
 2番目と3番目と4番目が言い争っているなかで、最後尾の「ヘイ」はまだ起き上がれないでいる。パニュゲー。
「フラーッ!……フラーッ!……」
 そして5番目が最後尾の「ヘイ」を起こしてやろうとしてさっきからあたふたし続けている。
 荘厳な悲劇が一転して喜劇に転倒するこの瞬間、私は生と幻想の入り混じる地点にいた。ゴーストタイプのポケモン同士が、その透明な肉体を重ね合わせ、文字通り一体となる、あの恍惚に達する地点。
 細長い指で額をトントンと叩く。動揺するヘイたちの中心でなおも険しい目つきで私を睨み続ける「ヘイチョー」と私はしかと視線を合わせる。
「やはり、間違いはないようですね」
「むむむむ、むっ……」
 「ヘイチョー」の瞳がチロチロと揺れる。ひとまずはこれでいい、と私は思った。もう少し劇を続けてもいい気分だったけれど、あいにく事は急を要した。
「ありがとうございました」
 私はすっかり肩の力を抜いて、タイレーツに感謝する。
「これで事情はおおかた知れましたし」
「ききき、貴様が何を言っているかちんぷんかんぷんなのである!」
 それはまあ、仕方のないことではあった。
「と……と……突撃っ! 突撃ぃ!」
 TO TSU GE KI!
 そう「ヘイチョー」が命じると、すったもんだしていた「ヘイ」たちが慌ててV字型に隊列を組み直し、オー! と絶叫しながら決死の覚悟で私に向かって走り出した。私はゆっくりとしゃがんで脛に力を込めた。彼らの頭の上を軽々と飛び越えると、ざわめき立つ「ヘイ」と「ヘイチョー」を尻目に、建物の屋上へふんわりと着地した。
「逃がすなっ!」
 「ヘイチョー」は私をキッと睨みつけながら金切り声を上げ続けていた。「ヘイ」たちは我先にとレンガの壁をよじ登ろうとして、敢えなく地べたに転げ落ちていく。そんな彼らの様子を、私は忝くも微笑ましく観察する。やがて「ヘイ」たちが縦に積み重なって、最上段に「ヘイチョー」が乗っかったが、それでも屋上までは半分にも満たなかった。
 まったく、騙し騙される仕事とは、楽しくも辛いものだ。
 カロスのとある哲学者が、確か”jeu”という単語に特別な意味を見出していたことを私は思った。それは遊戯であり、芝居であり、一種の賭けでもある。考えること、語ること、そうしたものに属するあらゆる営みはその哲学者にとっては何もかもが”jeu”、なのだという。
 だから私も喜んでその”jeu”とやらに乗ってみたまでのことだ。これはひとえに(それはあまりにも確からしすぎるために、しらけてしまいそうな言い回しだが)真実のためだったのだから。
「もう一度言います。どうも、ありがとうございました」
 躍起になって私を追おうとするタイレーツに向かって私は言った。
「私はあなたに敬礼しますよ、『ヘイチョー』殿」
 まるで、霊感を得た詩人が大自然に挨拶をするように私は言った。
 背鰭をマントのように翻しながら、私は開けた景色の向こうにあるシュートスタジアムを眺めた。さあ、今度は僕とお前の勝負だ、ミアレの人間模様を執念深い筆致で書いたバルザックの登場人物のように、そう私は言ってやりたい気分である。
 家々の屋上や屋根を伝いながら、ふたたびスタジアムへと走り出す。私の駆ける足音は街全体に溢れる祝祭的な騒めきの中に掻き消えていた。住宅街を抜けた先に聳えるバトルタワーが私の右横をよぎっていった。
「大した演技だったロト」
 胸ポケットから顔を出したスマホロトムが含み笑いをしながら言った。
「どうだったかな」
「う〜ん」
 ロトムはじっくりと時間をかけて考えた。
「マホミル級ってとこロト?」
「手厳しいね」
 私は屋根の縁からふんわりと跳躍した。今ならバトルタワーのてっぺんまでも到達してしまいそうな気がした。
「精進するよ」
 しかしながら、あのまだるっこい悪夢から解放された瞬間から、ある言葉が微かながら私の耳にこだましていることに気づかないではなかったのである。それはパルデア地方の詩人が書き残した不穏な断章だった。ある時はモダニストを名乗り、それと同時に古典主義者も自称し、そのどちらでもありながら革新主義者であり保守主義者であった彼の言葉が、ゲンガーのようにいつの間にか私の影に同化して、ジワジワと生気を吸い取ろうと、ほくそ笑んでいるのが私には感じられた。
 ——私は自分の身体を自分のものにしていない
 イエス。その通りだ。反論のしようもなく。
 ——私は自分の心を自分のものにしていない
 それも、その通りだった。
 ——私は自分の精神が理解できない
 それもまた、その通り。
 ——我々は身体も真実も、幻想すらも自分のものにしていない
 然り。私は何ものも自分のものにはしていない。
 ——我々は嘘の亡霊、幻想の影であり、我々の生活は内も外も虚ろだ
 そうだ。そうだ。そして、私のものであると自身をもって言えるものは果たして存在するのだろうか? いずれにせよ、私と私でないものの区別など、おおよそつけることなんてできやしない、今となっては。
 ——「私は私だ」と言えるほど自分の心の境界を知っている者が誰かいるだろうか?
 それを私は「彼」と呼んでいた。いや、まだ私は「彼」と呼ぶことができるはずだ。「バ」で始まり、「モ」で終わる。それこそ信仰者が神を信じるように、唯物論者が階級闘争を信じるように、政治的偏向者が陰謀を信じるように、私はそれを信じることができるはずだ。
 しかし私は私自身に問うている。ならば、あの時、私の背後を襲った者は一体誰だったのだ?
 私はガーメイルのように私にまとわりついた言葉を振り払うように首を振った。さっき「ヘイチョー」に咄嗟に言ったように、バシャーモは決して私に嘘をつかないと、私は信じている。確かに、信じているはずなのだ。
 塔の先端から飛び立つと、背鰭を広げ滑空の姿勢を取った。キョダイマックスしたアーマーガアの作った巣のようなシュートスタジアムがだんだんと大きくなる。いやはや、任務再開だ。

22 


 シュートスタジアム前の広場で、ボールガイは私の姿を認めるやいなや、コミカルに小躍りしながら近づいてくる。
「ボルボルボル〜! ボク、ボールガイボルよ〜!」
「どうも、こんにちは」
 慇懃過ぎず、無礼過ぎない絶妙なバランスをもって挨拶をする。トマス・ハーディが『日陰者ジュード』であの惨めな主人公の人生を描写する時と同じくらいの社会的距離をもって。その一方で、私はまず、次のようなことについて考えを巡らせている。
 固有の生態系を重んじるガラルにあっては、他地方からのポケモンに対して厳格な入国管理が敷かれている。例えば、我らがガラルの象徴たるアーマーガア。その生命を脅かすとされるデカヌチャン及びその系統に属するポケモン——すなわちカヌチャン、ナカヌチャン——をこのガラルの地へ持ち込むことは固く禁じられている。余談だが、この法律が制定されたのが、近代以降のことではなく、かつてのガラル王国がパルデア帝国と政治的な緊張関係にあった時代に遡るというのは興味深いことだ。ラベン博士による画期的な論文により人間のポケモン観がコペルニクス的に転回したあの時代よりも以前に、ガラル人はアーマーガアに対して特別な畏敬を込め、かつ欲深いカビゴンのように膨張していたパルデア帝国への警戒心も背景にしつつ、そのような掟を作ったのだ。そして、このコモンセンスは現在でも連綿とガラルの人々の生理的感覚の内に脈々と受け継がれている。
 こんなことがあった。以前、パルデアからの観光客がそのポケモンを連れていたがために、ガラル入りを拒否されるという事案があり、当時の委員長がわざわざ声明を出すほどの騒ぎになったくらいである。仮にアーマーガアを空飛ぶタクシーに使うことができなくなったとしても、パルデアのようにイキリンコたちを輸入することもできないし、かといってウォーグルに任せるわけにもいかない。事はそのような問題ではない。紅茶にどっぷりと浸したマドレーヌのように、ガラルの文化風土が精神の隅々に染み付いている我々にとって、アーマーガアの不在とはブラックナイトによる大災厄以上に、ガラルの死、一つの文明の死を想起させないわけにはいかないのだ。それが単なる迷信に過ぎず、アーマーガアの有無にかかわらず、我々の生活の実体はほとんど変わらないと合理的理性では了解していたとしても。
 さて。なぜ、私はそんなことを考えているのだろう?
 〈いまーここ〉に確固として存立しているように思える私(インテレオンーゼクスーポワルとしての)の現実に何か異物が入り込んでいるかもしれないという感覚が——それが事実であれ錯覚であれ——私に不快感を催すし、直言すれば不安を喚び起こしているから、と言える。たとえば、「ヘイチョー」と「ヘイ」たちの間で言葉にし難い疑心暗鬼に陥っていたタイレーツの微笑ましくも深刻な悲喜劇は、私自身にとっても共有されるべき問題だった。タイレーツと彼らを取り囲む世界との関係性が変質し、その自明と思われた信頼性に疑念が生じるに従って、タイレーツを構成する「ヘイチョー」と「ヘイ」の関係性にもまた揺らぎが生じる。そうであるものがそうでない(かもしれない)という身体と精神が結託して引き起こされる恐慌。
 では、問。私を取り囲んでいるものは果たして現実なのだろうか?
 だが、その言い方では少々陳腐な独我論に過ぎないと一笑に付されてしまうかもしれない。
 改めて、問。
 私を取り囲んでいるこの現実とはそもそも何なのだろう?
 現実を現実と素朴にも信じることはある種の信仰である。それは神の実在を信じるのと同等に、信心深い人々には平穏と安らぎを与えてくれる。逆にそれを信じない者、信じることができない者にとっては、世界はたちまち無秩序で不均衡な、いつ崩壊するともわからない恐るべき対象と化してしまうだろう。天空が落ちてくることに怯える、東の国の故事に言う杞憂の寓話のように。あるいは、古代の賢者はこんな言葉を残した、空の空——vanitas vanitatum——虚しさの中の虚しさ、何という虚しさ。信仰を欠いた者にとって世界は幻影であり、生きることは徒労に過ぎない。omnia vanitas——全ては空、全ては虚しい。
「ボルボル〜! またこんなところで君に会えるだなんて奇遇だボルね〜」
 ボールガイ——より正確かつ厳密で無味乾燥な分析を施せば、ボールガイを演じる何者か——はいつもと変わらぬ調子で私に語りかける。
「ラテラルタウンでお会いして以来ですかね」
「こんなにスーツがお似合いなインテレオンを忘れるワケがないものボルよ〜」
 ボールガイはお決まりの剽軽なポーズを取った。軽く屈伸をした姿勢で、両腕を丸く曲げながら頭を抱え、全身で8の字を描く。薄手の赤いポロシャツに紺のハーフパンツは彼の身体に対してやや小さいために、ピチピチとしている。
 私はニッコリと模範的な微笑みを返しつつ、「ハエ男」と彼を取り巻くメタモンたちについて考える。
 私の属する組織が一貫して「ハエ男」と呼び続けているその男は、その穏やかならざる計画を実行に移そうとするだろう。それも、ファイナルトーナメントが開かれるシュートスタジアムで、かのブラックナイト未遂事件のオマージュとして、パロディとして。その行為が意図すること——あるいは意図の外にあること——は私には未だ明瞭ではないし、おそらく本人に問いただしでもしなければ、100%正しい答えには辿り着けないのだろう。さしあたって、私は陰ながらガラルの平和を守る正しき者たちの一員として、いままさに起こされようとする犯罪を阻止することに——僭越ながら紋切り型をお借りさせていただければ——全力を注がなければならない。
 その「ハエ男」が従えるメタモンたち。委員長の相棒たるリザードンに扮しているリーダー格のメタモンを頂点として、無数のメタモンたちが、我々の現実に擬態しながらシュートスタジアムをはじめガラルの隅々に潜んでいる。彼ら彼女ら一匹一匹があたかもニューロンのように張り巡らされ、中枢たる「ハエ男」にあらゆる情報が伝達され、収集され、蓄積されていくのを私は想像する。
 ハロンタウン郊外のまどろみの森の奥に本物のムゲンダイナが隠されているということなど奴はとっくのとうに知っているに違いない。それなのに、そのただ一個のモンスターボールを奪うために、こんな大それたことをするのはどうしてだろう? ただ粛々とメタモンたちをまどろみの森へ送り込みんで、目的のものを盗んでくればいいだけじゃないか? 一体一体のメタモンは貧弱かもしれないが、絶対的な数的暴力は犠牲とリソースの枯渇さえ気にしなければ、その粗雑さ、不毛さにもかかわらずどのような手段よりも成果を上げるだろう。
 それにもかかわらず奴はその性分としてハエのように我々の周囲に不愉快な羽音を立てて挑発をせずにはいられないらしかった。イッシュやカロスで悪名を馳せたように、奴が唾棄すべき男であるならば、確かにそれはごもっともな行為と言えた。ある学者が定義する「遊びの形式的特徴」が私には連想された。遊びとは自由な行為であり、仮構である。現実に対して時間的にも空間的にも区別された虚構としての遊びは、だが明確な秩序があり、ある種の共同体的な模範が形成される。そして往々にしてそこでは何らかの秘密——それが暴かれた途端に虚構は幻影のように掻き消えてしまう——が丁重に匿われている。
 奴らは遊んでいる。そして、遊ぶことによって我々の世界に揺さぶりをかけようとしている。「ハエ男」の存在が根源的な不安を喚起するのは、現実を存在させる、あるいは法的に認定する。そうした私たちの世界のコンセンサス——ルールと言い換えてもいい——を奴らは逆に否定し、無化しようとしているからだ。ポケモンリーグというおよそ我々の世界が創造し得た最大の遊びの中に連中が忍び込んでいることも、そうした象徴的な意図がありはしないだろうか? 秩序立った祝祭の場たるシュートスタジアムで、あのメタモンが予告した通り「ハエ男」はミサイルを放つ。missileであり、messageであり、mission。トレーナーがモンスターボールを投げるように「ハエ男」によるミサイルは投企され、神の言葉を宣べ伝える。あたかも前委員長が大観衆に向けてブラックナイトの再現を誇らかに宣言したあの時と同じように。そしてそれは、一種の遊びとして行われるのだ。
 確実に言えるのは、私たちの共同体にとって奴らはスポイル・スポートである、ということだ。マスカーニャが無邪気な素振りをして花粉の詰まったトリックフラワーを群集に投げ込んでにんまりとほくそ笑むように、共同体のルールを侵犯し、嘲弄する存在としての「ハエ男」と愉快なメタモンたち……
「……夢を持ってそうなキミにすてきなボールをあげちゃうボル!」
 ボールガイはポケットに深く手を突っ込んで——あまりに奥の方をまさぐるので、短パン小僧がよくするように半ズボンの生地越しに股間を弄っているようにも見える——ボールを一つ取り出して、私の手に握らせた。私はひとまず思索を打ち切り、その真新しくツヤツヤとした光沢のあるボールに目を遣る。ドリームボール。ムシャーナの模様をあしらったファンシーな意匠だ、悪くない。
「ドリームボールは眠ったポケモンを捕まえやすくなる夢のようなボールだボル。さいみんじゅつやあくびを使えるポケモンと試してみるボルよ!」
 いやはやボールって本当に奥が深いボルね~、とボールガイを名乗る何某かは言った。握りしめたドリームボールの精巧な丸みは手のひらによく馴染んでいた。確かな重みと硬さがいま私の手のうちに空間を占めているのを私は感じる。
「どうもありがとう」
 私は率直にお礼を言った。申し上げた、といった方が丁寧かもしれない。
「おかげで夢が叶うかもしれないな」
「ポワ……いや、君みたいなインテレオンのためなら一肌脱いでも脱ぎたりないボルからね〜」
 孤独な哲学者のように、私は思索を続ける。
 一つの見方として、現実というものを直接見ることはできず、私たちには現実があるという感覚だけが存在しうる、と言うのはどうだろう。結局、そうした個々人の感覚の集合体がメガヤンマの複眼のように現実という錯覚を作り出すので、それが現実そのものであるだとか、虚構であるのだと断言することは素朴に想像されるほどには容易ではない。見方を変えれば、現実とは抽象絵画のようなものと言えるかもしれない。高名な画家がいみじくも言ったように、見ることも記述することもできないが確かに存在している現実を何とか表象しようとする試みとして抽象はある。そうしたフィルターを通さなければ、現実の存在は知覚することができない……
 私が思考を巡らしているのは、別に大した哲学を論じたいからではなかった。ただ、正気の枠組みから溢れ落ちないように、何とか私の心身を落ち着かせたかったからだ、と考える。私は脳を働かせ、言葉を弄し、論理らしい論理を拵え、私自身の意識をなんとか中心に保とうとしている。あたかも、画面中に大量の細々としたモチーフをぎっしりと描き並べて、鑑賞者の視線をずっと作品に惹きつけようと試みる駆け出しの画家のように。観る者の関心が他所の絵画に映ったらそこでおしまい。私の意識も、理性も、また同じようなものだった。
 つまるところ、私を苛む思念は次のようなものに帰結した。あの時、私の背中へ不意に飛び膝蹴りを喰らわせたのは誰だったのか? 私はそれについて推理することをなおもアポケーし続けていた。
 果たして“彼”の存在は真実なのか? 私が“彼”と交わしたあの情熱的な恋の赤裸々な一切は、もしかしたら「ハエ男」の作り出した幻影に過ぎなかったのではないか? だとしたら、私の存在とは、生とは、何と愚弄されたものだろう?……
 言うまでもなく、そのような考えはひどく馬鹿げているし、いくら憶測でしかないとはいえ、ほんの少しでもその可能性について考えてしまった私自身をひどく恥じてもいた。けれど、理性を持つ生き物の生理的感覚には、精神には及びもつかない領域があることを否定し去ることはできなかった。片腕を失った人を目にすれば、傷ついてもいない自分の腕がソワソワとしてくるような、あるいは、股間を思い切り蹴り上げられるのをイメージして、思わず股間を気にしてしまうような、物理的痛みではないが、痛みの予感というものはありうる。率直に言えば、いま、私は「“彼”が“彼”でないかもしれない」という命題に対して身体から恐怖している。
 全てを確かめるために、彼にもう一度会うべきかどうか。私にとって本来、喜ばしいことであるはずの彼との会合は、どうにも気が進まないことになっていた。しかし、私は信じてもいる。我々は間違いなくその瞬間を約束し合ったのだ、という事実を信じる。ターフタウンを臨む穏やかな風の吹く草原の穏やかな空気を信じる。シュートスタジアムの前、クロウク、と鳴くアーマーガアの朗らかな声を私は信じる。全てが終わった後に、私たちはそこで再会しようと誓った時の彼の肉体の実在を私は信じる。それが幻影だなどと、誰にも言わせたくはなかった。それが「ケロマツくん」相手だったとしても、あの口を八つ裂きにしてでも黙らせてやる。
 ふう。これではなんだか堂々巡りになってしまう、まったく。こんなことをくよくよと思い煩ってしまうとは、私自身も「ハエ男」がどこからともなく瘴気に当てられている証左かもしれない。私は握りしめたドリームボールと、なおも私のそばにいるボールガイの男をためつすがめつ観察する。
「ところで、良かったらなんだけど」
 私はボールガイの頬の辺りに口を寄せ、そっと耳打ちする。ボルボル?! とボールガイが突拍子もない声を上げる。触れてもいないのに心臓の爆裂する音がルカリオの波動のように伝わってきた。
「そそそそそ、それはっ、ななななな、なんとっ……」
 ロンド・ロゼの裏にあるシュート・アイで。23時、いいかな? インテレオン的微笑を湛えながら私はボールガイに念押しした。そして、今にもビリリダマのように爆発しそうになっている、ガッチリとした筋肉の塊を持った大男の脇を、私は通り過ぎる。
 目には目をではないが、遊びには遊びだ。そしていくらかの軽快さとユーモアも。もちろんそれを貫き通すだけのタフネスも。今の状況に抗うには、私も私なりに遊ばなければならない。あの勇猛果敢なタイレーツと一芝居を演じたように。
 セミファイナルトーナメントの決勝戦の時間が迫っていた。Bブロックを勝ち上がったバシャーモが属するトレーナーのチームが対戦するのは、下馬評通りに勝ち上がったシード選手だ。負ければ終わり。勝てば、チャンピオンへの挑戦権を得られる明日からのファイナルトーナメントへ。もちろん、私は心の底から彼のことを応援するつもりだ。まだ解けない疑念があるとはいえ、それとこれとは話は別だった。肝心なことは試合が終わってから確かめに行けばいい。
 スーツの内ポケットに忍んでいたスマホロトムが飛び出してきて、着信が来たのを私に知らせた。その浮かない表情を見て、私はあらかた事情を察した。私は同情するように頷き、電話に出た。
「もしもし、こちらゼクス様のお電話番号でお間違いないでしょうか? 恐れ入ります。よろしければ、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか?」
 可能ならば私は電話を切ってしまいたかった。考えてみればハエのような男は私のすぐ身近にもいたのだった。
「ふざける前に名前を名乗れ。そして用件を言え。大した用件がないなら電話をしてくるな。私たちは任務中のはずだ」
「冗談でござるよお、『ポワル』くん」
 ぎゃわろっ、ぎゃわろっ、と「ケロマツくん」は鳴いた。
「電話口の会話だっていつもテンプレート通りじゃ退屈しちゃうってのもあるじゃんか? 拙者の地方じゃこういうのエスプリって言うんだけどぉ」
 スピーカーの向こうからヤツがいまどんな表情をしているのか、エスパータイプではないがなぜか私は完璧に理解できた。だからといって、少しも誇らしくはならないのは奇妙だった。
「それにしても、なんだかご無沙汰って気がするでござるねえ。時間で言えば半年振りくらい……みたいな?」
 やれやれ。私にはまったくそんな気はしない。さっきまで、身動きを取れなくさせられていた薄暗い路地で、私は「ケロマツくん(仮)」のねっとりとした眼差しをウンザリするほど浴びたばかりなのだから。
「繰り返す。大した用事がないなら電話をかけてこないで欲しい。任務はいま佳境に……」
「大した用事だからかけてるんじゃないか」
 「ケロマツくん」のトーンは俄かに、低く、抑制した、だが幾分シリアスな調子に変わった。私はロトムフォン越しに首を振る。
「ポリゴンたちのサイバー部隊っていたじゃん? あいつらから行方不明のリザードンが見つかったって連絡があったのね」
 で、どう思う? ねえ、ねえ? 「ケロマツくん」ことドライは嬉々として私に問いかける。静かながらも一切の無駄口を許さないという意志に満ちた声だった。

23 


 ネット空間を捜査するポリゴンたちの報告によれば、委員長の相棒のリザードンと思しき個体が発見されたのは、ある「元ジムチャレンジャー」のボックスであったという。忽然と保管されていたモンスターボールの情報を解析したところ、種族はもちろんのこと性別、性格、特性、身体組成の推定値、キョダイマックスへの適正等多くの面において一致が見られた。
「同一個体である確率は、俗っぽい言い方をすれば99.9%だそうだ。DNAも確認すればもっと確実だろうって、さ」
「その『元ジムチャレンジャー』というのは?」
「数年前に引退して、現在はスパイクタウン在住。経歴をザッと見てもなんてことはない一般市民だそうな。問題の『リザードン』が確認されたサーバーはPBH社とは別の管轄の個人ボックスだったとか」
 私は眉間のあたりを顰め、壁に寄りかかる。眼前を途絶えることなく行き来する観客たちの姿を眺めながら、私は空いた手の指先でこめかみをタップする。なんだか妙なものをその報告に感じないわけにはいかなかったのだ。
「いくら個人のサーバーだったからとはいえ、PBH社のサーバーを全部洗って、元チャンピオン様のリザードンと思しきデータは発見できなかったと報告したのは誰だ? なぜ、今更そんなことを言い出す?」
 うふふっ、と「ケロマツくん」は唐突に笑った。
「いかにも、何ヶ月も前から総力挙げて捜索して半ば諦めムードだったっていうのに、よりによっていま、このタイミングで見つかっただなんていうのは、いくらなんでもおかしな話ってのは、まあわかるね」
「都合が良すぎはしないだろうか?」
「まあ、たくさん修羅場潜り抜けてきた僕らだからこそわかる勘ってとこかなあ?」
「ポケモンの勘以前の問題だと思うが?」
「ま、解釈一致、ってことは確かだあね」
 「ケロマツくん」は大袈裟な欠伸をする。奴の肺が緩慢に伸縮しながら必要分の酸素を取り込んでいる間、私は瞬膜を閉じ、絵画の下塗りのようにモノクロームになった世界を見つめた。ダラダラと長引くだけが取り柄の何ら実りのない会議に付き合わされているような気分だった。
「それで、問題のデータをどうするつもりだって言うんだ。ハックして無理やり引き出すのか?」
「早ければ明日やっちゃうって話。つまり、ファイナルトーナメントのある日?」
 私は深くため息を吐く。
「正直に言って、あまり賢明な考えとは思えない。いい予感はしないな」
「事は急を要するから、ってそればっかりなんだってさ。んー、まあ、ポリゴンくんたちも最近アテ外してばっかだったから目に見える成果が欲しいんでしょ。おかしな話ではあるけれど、かといってそれを否定する要因もいまのところないからには、やらないよりはやっとけ精神でやるんでしょ。仕方ないよねえ」
「そんな都合よく進めばの話だがな」
「君的には蓋然性はないと踏んでるらしいね。うんうん、僕らはとことん気が合う……どう、今度?」
 私はその質問には答えずに、靴底でコツコツと床を叩いてリズムを刻んだ。7回目を数えたところで「ケロマツくん」はこんなことを口走る。
「四本足のヤミカラスがいた。そのヤミカラスには本当は足が五本あったのだが、そんなことはどうでもいい。
 あるとき四本足のヤミカラスはコーヒーを買って、考えた。『さてと、コーヒーを買ったけれど、これをどうすればいいのかな?』
 不運なことに、そこへクスネが通りかかった。クスネはヤミカラスを見て、呼びかけた。
『おい、ヤミカラス!』とクスネは叫んだ。
 それでヤミカラスはクスネに叫び返した。
『ヤミカラスはお前だろう!』
 クスネが叫び返した。
『ヤミカラス、お前はパフュートンだ!』
 ヤミカラスは憮然として、コーヒーを全部ぶちまけてしまった。クスネは向こうへ行ってしまった。ヤミカラスは地面の方へ駆け降りて、四本の、いや正確には五本の足で、みすぼらしい家に帰っていった」
「何の話だ?」
「えー? ポナヤツングスカの滑稽譚」
 「ケロマツくん」は得意気に言った。声だけしかわからないが、おそらくは「ばくはつスマイル」をしている。顔の周りはきっとお花がいっぱいふわふわと浮かんでいるに違いない。
「大昔の大粛清で犠牲になったっていう前衛作家が書き残した話なんだって。ねえねえ、どう思った?」
 私はその話についてひとしきり考えてみる。「ケロマツくん」は断固として沈黙している。私がそれについて何らかの感想を述べるまで、一切言葉は継がないぞ、と言わんばかりに。
「ヘルタースケルター、だな」
 口をついて出たのは、バウタウンが輩出したロックバンドのややマイナーな楽曲のタイトルだった。しっちゃかめっちゃかだ、何もかも。
「へルタースケルター、ねえ」
 僕的にはやかましい曲は好きじゃないなあ、と「ケロマツくん」は言った。意外と僕、クラシック好きなんだよね、ドビュッシーの『海』とかなかなかイケるでござるよお? 私が聞いているか否かにかかわらず奴は喋り続ける。
「そんで、とどのつまりどういうことかな?」
「何一つとして筋が通っていない」
 一語一語、明確な抑揚をつけて私は言葉を発する。
「その話の中にはまともなものなんて何一つとしてありやしない。不条理、といってもまだ足りない。だが、考え方によっては、もはやそんなことはどうだっていいのかもしれない」
「そう、そんなことはどうでもいいんだ。このお話でもそう書いてある通りにね」
 ふうっ! 「ケロマツくん」はわざとらしく息を吐いた。必要がないことだとはわかっていつつも、私はスマホロトムから一瞬だけ顔を離した。
「でも、こんな突拍子もない話でも、時代と情勢によっては現実味を持ちうる。とりわけ、現実がその名に反して非現実性を帯び始めた時にはね。この滑稽譚が書かれた年代には、煙草やパンを買いに行くといって家を出て行ったっきり二度と帰ってこない人間が大勢いたそうだよ」
「考えるだにおぞましい時代だ。この時代に生まれたことに対して神に感謝したいものだな」
 少なくとも、それは本心からの感想である。
「あんたと任務をしなくちゃならないことだけを除けば、だが」
「むむっ! 言うねえ……」
 「ケロマツくん」はわざとらしく唸る。
「それにしても、行方不明のリザードン殿のことだけど、聞いてみると何だか心当たりがありそうな感じ漂わせてるんだけど。良かったら、仮説でもいいから僕に言ってみ? ね?」
 私は自分の考えを述べようとしたが、ふと口を噤んだ。
「一つ、念には念を入れておきたいことがある」
「んー? どした?」
「あんたは、本当にドライなんだろうか」
「ふうん……?」
 アナリストがお偉方の発言に対してするように、「ケロマツくん」は私の発言を慎重に検討する。
「そのココロは?」
「さっき自分の口で言っただろう。いまは、現実がその名に反して非現実性を帯び始めている、と。我々にとって、何が本物で、何が『ハエ男』とメタモンたちが見せる幻覚か、という区別は残念ながら明瞭ではない。用心には用心を重ねなければならない」
「なるほどっ。まあ筋は通ってるかなあ……間違ってはいないから79点、ってとこ?」
 ペチペチと「ケロマツくん」は自分の額を打った。
「君の懸念は理解しなくもない。何度か僕の偽物に手酷い目に遭ってるしねえ。大事なスーツがダメになったり、それに……ねえ?」
 何か反応を欲しがっているように「ケロマツくん」は何秒か間を置いたが、私は何も言わなかった。
「でもなあ、ストレートにそんなこと言われたら僕としてもちょっと傷ついちゃうってところで減点!」
 ヤツの言っていることに構わず、私は話を続けた。
「仮にこの話を共有したところで、そっちはハロンタウンに張り付いていなければならない。おまけに、即座に直接的な手助けをすることはできないからには、本人証明ができないかぎり、シュートスタジアムの側での行動の一切はこちらへ一任してくれればありがたい。話すのは然るべき時が来てからだ」
「うーん。手厳しいねえ、ポワルくん」
 任務中はゼクスと呼べ、と言う代わりに私は黙った。
「まあ、僕は君の能力は十分買っているし、そうすることが僕らの任務にとってプラスになるのであれば、敢えて聞かないことにするのもやぶさかじゃないよ。少なくとも、本物のリザードン殿はネット空間にはいない、君にはそう確信する理由がある、ってことで今のところは納得してあげる。何せ、僕は君のことが大好きだからね」
 電話口の向こうで、チュッ、というキツい水音が鳴った。私のスマホロトムが、まるで自分がキスをされたかのようにゾッとして顔を顰めた。
「で、これからどうするの? って言ってもさっきと同じこと切り返されちゃう感じ?」
「『ハエ男』の計画を阻止するべく、お互い引き続き任務を遂行しなければならない。我々は最初からそのために行動している。不要不急の行動はなるべく避けたいと思うのは組織の一員として自然な心情だろう」
 「ケロマツくん」は何かを言いかけたが、自重したのか口をつぐみ、しばらく立って話題を変えた。
「ま、たとえどんなことがあっても、僕はいつも君の味方でいるつもりだから安心して欲しいな」
 「ケロマツくん」は電話の向こうで、どっこいしょと呟いた。ヤツのすぐ近くにいるのか、ウールーたちの呑気な鳴き声が聞こえた。
「まあ、君の腹の底にはもしかしたらあるのかもしれないし「ハエ男」やらお供のメタモンたちについて、僕の知らない核心に迫ろうとしているのかも……すごく気になるけど、いかんせん僕、電話越しじゃ本物のゲッコウガだってこと、君に納得させるのは難しそうだからさあ」
「話はそれで終わりか?」
「んー……」
「悪いが、これ以上話すこともないなら電話を切らせてもらう」
「あ、そうだ!」
 いっけない、いけない。そんなことを言いながら「ケロマツくん」は呑気に喉を震わせた。
「一つだけ、僕からのささやかな提案なんだけど」
 私は黙って、言葉の続きを促した。
「次、会う時用に合言葉でも決めとこうか!」
「合言葉?」
「だって、君は用心深くも僕のことを疑ってるからね」
 ヤツが少しばかり恨めしげに口を窄めるているのが容易に想像できた。
「要するに、ここで僕らしかわからない言葉を共有しておくことで、次に僕の偽物、あるいは本物の僕と接触したときに区別できるんじゃないかなって? 原始的だけど、わりと有効な手段だと思わない?」
「この電話がヤツらに盗聴されていなければ、という前提ではある」
「心配性だねえ。でも、どんな物体に対しても外見的特徴まで完璧に『へんしん』することができたとしても、内心までは容易に真似ることはできない。思うに、奴らの当然の性質であり、かつ数少ないと言える弱点は実体にしか『へんしん』できないことだ。それは同意してくれてもいいでしょ?」
「あんたにしては真っ当な理屈だな、ドライ」
「もっと褒めてくれてもいいんだよー? よしよしって舌のマフラーを撫でてもらえると嬉しいなっ」
 ヤツの言うことにも一理あるのは確かだった。仮にこの「ケロマツくん」が偽物ならば、わざわざ合言葉を残そうなどと口にするだろうか? だが、私が相手にしている「ハエ男」のあまりにも忠実すぎる部下としてのメタモンの腹の底は到底理解し切れるものではなかった。「ケロマツくん」か、あるいはそうではないかもしれない相手の提案を前に、私はひとしきり考え込んだ。
「仏教では悟りに至るために、ありとあらゆるものを観想できなくちゃならないそうだよ。例えば、東の国に伝わる阿弥陀如来って神様の身体は、話によれば、世界一美しい黄金を百千万億あわせたように輝いている。仏身の高さは、60万億那由多恒河沙由旬(ろくじゅうまんおくなゆたごうがしゃゆじゅん)なんだって。いまの数値に直せば60万億×10 ⁶×10 ⁵²×14.5km(ろくじゅうまんおくかけるじゅうのろくじょうかけるじゅうのごじゅうにじょうかけるじゅうよんてんごきろめーとる)! これ、原文ママね」
 よし、噛まずに言えた。いかにも、知識を覚えたての子どものように「ケロマツくん」ははしゃいでいた。
「やたらと饒舌だな、『ドライ』」
「だって暇なんだもん、『ポワルくん』?」
 まったく、この蛙に限っては処置なしだった。逆にコイツがメタモンにへんしんしていたとしても、私はちっとも驚かないだろう。「ケロマツくん」もといドライとは悪い冗談みたいな男なのだ。
「それで、一体何が言いたい?」
「観念に化けることができるのは、ホトケの道に達したメタモンだけだということをこの話は解き明かしている、ってこと」
「なるほど」
「じゃっ、今回の合言葉を発表しようか!」
 動画配信者にでもなったかのように「ケロマツくん」はわざとらしい間を空け、それから耳元に囁くように微かな声で、私に合言葉を伝えた。
「なんだその言葉は?」
「んーとっ、初めて好きになった子の名前!」
「やれ、やれ」
 思わずそう口に出さないではいられなかった。
「あんたの心はいくら覗いてもわかりそうにないな、ドライ」
「そうかな?」
 事もなげに「ケロマツくん」は言ったが、とぼけた口ぶりのなかに底知れぬ不気味さが潜んでいるのが、トーンが急に落ちた声の響きから感じ取れた。
「忘れないで欲しいんだけどね、今回の任務における僕ら、というか僕の目的は一貫しているんだ。つまり」
 ——「ハエ男」の息の根は必ず止める。
 ってことで、じゃあねっ、「ポワル」くん! 「ケロマツくん」は笑いながら電話を切った。怯えた表情をしたロトムと目が合い、私は同意を示すように深く頷いた。本気になった瞬間のヤツの声は、何度聞いていたとしてもゾッとしないものであるのは確かなことだった。
 それにしても、誰も彼もが私の邪魔をしてくるかのようで、なんだかカフカの寓話の一登場人物になったような気持ちだった。私は早く目の前に聳え立つ城に入りたいのだが、ありとあらゆるものが私の行く手を邪魔し、妨害し、挙げ句の果てには本来の目的をうやむやなものにしてしまう。
 やもすると、私が謎の相手に不意打ちを喰らい気を失ってから、私は現実とは似て非なるA’の世界に迷い込んでしまったのではないか? そんな考えさえ浮かぶが、それはいま「ケロマツくん」が私に告げた合言葉と同じくらい馬鹿馬鹿しいものではあった。ただ、実際のところ、シュートシティの陰気な路地裏に監禁されてから私が体験していることは実際馬鹿馬鹿しく、道理に合っていないも同然ではあった。
 場内に流れたアナウンスが私の思考を中断させた。セミファイナルトーナメント最後の試合が間もなく始まることを告げる知らせだった。休憩していた観衆たちがこれからのトーナメントの展開について思い思いの意見を闘わせながら群れを成して席へ戻ろうとしていた。スタジアム全体にこだますアナウンスの巧みな口上が彼らの興奮をいっそうのこと煽り立てていた。
 「彼」にとって大事な試合が始まる。私はこの夥しい群衆に混じって、観客席の方へと向かうことにした。その試合はこの目でしっかりと見届けてやらなければならないだろう。「彼」についてちゃんと確かめなければならないことはあるにしても、闘う姿を通じてでもわかることはたくさんある。「彼」の名を私は心の内で繰り返した。ゴルーグに生命を与えるという呪文のように、確かな重みと実存を感じながら、音節を一つ一つ区切りながら唱えた。そこから得られる安らぎはさしあたって小さなものではあるが、いま大事なのは余計なことに気を取られ、肝心なものを逃してしまわないことだ。
 「ハエ男」、メタモン、ミサイル。セミファイナルトーナメントが大詰めを迎えるのを前に、奴らは未だ状況を静観しているようだった。いつ、どのタイミングで奴らは「スイッチを押す」のか? それに私(たち)はどれだけ素早く反応できるか?
 だが、本当にそれだけだろうか?
 私はピンと自慢の人差し指を伸ばし、点検をするようにじっくりと眺めた。彼らがルールの侵犯者であるからには、何もこちらがそのルールに従っている必要は必ずしもない。むしろ、ここで揺さぶりをかけてもいい。ちょうどいいことに、これから行われる試合で、私には一つ確かめたいことがあった。私の推測が当たっているならば、それは悪くない作用をもたらしてくれるはずだ。



ちょっと遅れましたが、月一更新達成! ということで23話です。
ページ数でいえばもう一丁前に本一冊できるくらいはあるようです。プロット管理も緊迫してきます(しれっと矛盾したことを書いていないか、常に怖い)
正直執筆の調子はといえば、悪い寄りの感触ではありますが、それはもうしょうがない、がむしゃらに書いていくしかないと居直る。
とはいえ、何とか書いていけそうだ。11月にまた更新できるよう頑張りたいですね。


※3章にて、二匹が観ている映画の元ネタは333氏の作品から勝手に引用させていただいております。
※※13章の「ケロマツくん」の冒頭の一連のセリフにて、とある方が書かれた小説に勝手ながら言及させていただきました。名は敢えて伏せますが、ささやかなリスペクトの気持ちということでご容赦ください。


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  •  開口一番に失礼ながら、自分はこの手の文章が、まあ嫌いです。理由は単純で、何言ってんのかマジわかんねえからです。己の浅学の棚上げであるとは重々承知のうえで、それでも現代語で書けることをわざわざ古い言葉でわかりにくくしてるだけじゃん、と思うわけです。読むのがしんどい。そのしんどさもまたよしというのなら、じゃあもう日本語でさえないエスペラント語とかで書いてくれたらいい。難しさが素晴らしさに直結するならそうなります。そんな言語で書かれた本なんて、自分なら読みませんが。
     しかしそこはヒスイ地方、こういった表現形式がきわめて相応しいのも仕方ない。このジャンルにも時代物が持て囃される時が来たのだなあと、諦め半分、群々さんの新作だからなと思い、読みました。古い言葉で物語が書けるのも、それはそれでたいへんな技術です。群々さんという方は、この手の文章表現が非常に多彩ですから、おそらくは性にも合っているのでしょう。古さには古さにしかない趣きと、それによってしか表現できないものがあります。それを認めつつ、自分はその手の懐古主義的思想は反吐が出るほど大嫌いなので、その部分で加点する気は一切ありません。好きな人は好きなんでしょうし、それだけで有り難がって読む人もいるでしょう。それで手放しの高評価になろうものなら、おめでとうございます。あなたの思惑通りです。その手の評価は、その方々にお任せします。

     さて。
     野生の過酷さを通して培われたイダイトウの残酷さが、たいへん具体的なのがまずいい。自侭に増長した過去があるからこそ、それを振り返り、踏みにじってきたものを尊ぶ健気さに心を打たれます。今さら石など積み上げて何になろうかと理解しながら、それでも死後の安らかなことだけを願うのは、邪悪に生きてきたイダイトウの善の顕れでした。罪を滅ぼすつもりもない。どのような罰を受けてもいい。受けるべきである。不器用に石を積んで死者へ祈るのは無償の行為、聖なる行為でした。この作品の一番の魅力です。
     ながら、本来の性格が変わったわけではない。命を救ってくれたやんごとなき最愛のキングには、ひ弱なガーディはいかにも不相応で、イダイトウは意地の悪さを再び見せます。悪辣を働くことはやめましたが、このイダイトウは別段、根がいいやつというのでもなく、本質的には邪悪なのです。命の恩人、最愛のキングの遺言があってさえ、軟弱者に対してやさしい気持ちになどなれないのです。それは当然でしょう。何者の庇護も得られず、死と隣合わせの荒波を泳いできたイダイトウにとって、ぬくぬくと、のうのうと、おめおめと生きているだけの命に価値など見いだせません。その惰弱者が勇気を振り絞ったとき、最愛のキングと見紛うばかりに美しいということなど、イダイトウに想像できるわけもないのです。愛するお方の遺言も忘れ、俺は一体なにをしてたんだと思ってももう遅い。愛するウインディはこの世にはいないのです。イダイトウは最後まで健気ながらも、愛するキングへの信奉と死者の安寧を祈り一心で、他のことなぞ目に映らない愚か者でした。弱者を省みない性格で、きっちりと二の轍を踏むイダイトウの懊悩はとても切なくて愛おしい。

     狂言回し的なヒスイバクフーンも、魂の導き手として、物語のエッセンスとして抜群の魅力と存在感を放っていました。イダイトウの後悔と愛を知る存在。イダイトウとウインディを永遠に完成させる存在。愛を遂げられず、地獄に堕ちるのみと思われたイダイトウを救済します。
     とてつもない慈悲と祝福に満ちた物語です。そのように感じますし、そのように演出されてもいます。でもどうしても納得しかねる点がありました。
     ウインディはイダイトウを愛していました。
     この点が、ひどいと思います。

     ウインディはちゃっかり子どもを作りながら、本当にその気があったのはイダイトウなのです。死して霊魂になってなおウインディが共にあろうとするのは、番のメスでも子でもなく、イダイトウです。
     では、なぜウインディはイダイトウを愛したのか?
     大きな要因としては、好みの味のきのみをもらったことがあるように思えますが、どうやらウインディはけっこう最初からイダイトウに一目置いているようなのです。
     イダイトウは、ウインディとの出会いをきっかけに悪辣を断ちます。でもそれまでのイダイトウは、本当にしょうもないポケモンでした。ウインディはイダイトウに何を見ていたのか? 妻や子をさしおいてでもイダイトウに魂を捧げるほどの、何があったのか?
     心を許せるポケモンがイダイトウだけだった?
     そんなことはないでしょう。キングを慕うポケモンなどいくらでもいるはずですし、なんとなればイダイトウこそ平身低頭でウインディに頭が上がりません。心安い間柄であったとは思えません。
     インオウ様の祝福を受けた者同士だから?
     それってそんなに重要なんでしょうか。英雄をダシにして好き勝手していたイダイトウを、何もかも免罪して愛したくなるほど、祝福が心にはたらきかけるものって、いったいなに?
     今作にはそういうことが書かれていません。このウインディ、イダイトウにとってあまりにも都合がいい。群々さんの作品では、しばしばそのような細部がおざなりに扱われます。一見ではたいへん上質な文章で、なんだかそれらしい雰囲気でそれなりのなりゆきへ話が運ばれるのですが、文章の上手さに騙されて、不備を黙認してはいけないと思うのです。
     友情であるのならば、まだよかった。死者を悼むことに残りの生涯を費やすばかりの哀れなイダイトウに、祝福の同志として最後に赦しを与えたい……という感じなら腑に落ちます。しかし違います。イダイトウはウインディの「背子」なのです。
     なんでなん?
     これってカップリングありきの情動じゃない?
     遺言を守る気さえなかったイダイトウに何も思わなかったのか?
     身分違いの恋模様を描くのであれば、「なぜあのお方が俺などを愛してくれたのか」は、外してはならないと思います。ウインディがいかに美しいか、イダイトウにとってウインディがいかに尊いか、それをいかに古めかしく表現するか……そんなことにかまけるより、ウインディの愛を掘り下げるべきだと思うのです。それがなくてはもう、単に好きピにデレデレしてる切ない恋慕中のイダイトウを書きたいだけです。好かれるに値することをしていないのに、なぜか愛される邪悪って、それもう伊藤誠と変わらないじゃん……
     不慮の死を遂げたウインディに、想いを伝えられなかったイダイトウの狂おしさ。そのロマンスが、なんかよくわかんないけど報われる。死してなお現世に魂が留まるほどの未練を、作中のウインディがイダイトウに対して抱いているとは、思えないのです。
     自分はアマウォの時から度々申しておりますが、雰囲気と文章力のゴリ押しはいけません。グゥとスゥ、ジャランゴとルガルガン、コイキングとヒンバス、ゼクスとバシャーモ……群々さんは心震える愛をいくつも書いている方です。ですから「こんなもんでええやろ」で物語を書かれては、ファンとして非常に残念に思うのです。

    「書きたいこと」と「書くべきこと」は両立されるべきです。今作は明らかに「書きたいこと」にウインディが引きずられています。悪質な詐言を弄したアーマーガアに、怒りも悲しみもせず、挙句の果てに理解不能な愛さえ抱くウォーグル。今作のイダイトウとウインディは、あの二羽と同じ構図ではないでしょうか。

     ポケモンの技でいうならひのこでよい
     かえんほうしゃはやりすぎ

     かえんほうしゃ並の熱量で愛を描くなら、何がその炎を燃やしたのかは描かれねばなりません。ひのこ程度の燃料しか存在しないはずなのに、文字の見た目だけで温度感を高められても、興醒めしてしまうのです。
     すばらしい着想のもと、どのキャラクターも生き生きと描かれていて、本当にそうであったらいいなと思わされる、素晴らしい二次創作でした。群々さんの個性も、遺憾なく発揮されていることでしょう。でも肝心のウインディが…… -- 仁王立ちクララ
  • うーわごめんなさい、コメントする場所を間違えました!
    「哭壁に還る」に対するコメントです! 本当に申し訳ない…… -- 仁王立ちクララ

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Last-modified: 2023-10-25 (水) 21:18:07
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