SOSIA.Ⅰ
Written by March Hare
◇キャラ紹介◇
○シオン:エーフィ
主人公。北凰騎士団、九番後方支援部隊の隊長。
○フィオーナ:エネコロロ
無統治国家ランナベールの権力保持者、ヴァンジェスティ家の
○
極東の国、陽州出身のサーナイト。ヴェンジェスティ家に仕える使用人。西のサーナイトとは形態が異なる。
○ハリー:フーディン
アウトローな探偵。
etc.
多種多様な種族のポケモン達でごった返す港市場。雑多に並べられた食材や雑貨は、降り注ぐ斜陽で赤橙色に染まっている。温暖な気候のランナベールも、真冬のこの時間帯ともなるとさすがに寒い。が、雑踏の中に埋もれていると不思議とそんな寒さも気のせいなのではないかと思えてくる。
――などと呑気なことを考えているのは、この国を知らない無知なポケモンか、よほど腕に自信があるヤツぐらいだろう。ちなみにオレはそのどちらでもない。故郷の国に住んでいた頃の感覚が抜けきっていないだけなのだ。
ダメだ。気を引き締めねえと。殺人強盗強姦が横行するこの国では、
「よォネエチャン。俺とちょっと遊ばねぇ?」
何故って、この国には法律がないからだ。今もまた
――あいつ、シオンじゃねえか。オレが勤めてる店の常連客の。
シオンはケンタロスに一瞥もくれることなく、その横を通り過ぎた。
「オイ。シカトかよ。可愛い顔して度胸あんじゃねえか。ああ?」
確かにシオンは同じ年頃のエーフィと比べても華奢だったが、顔立ちは非の打ち所がないほど整っていた。毛並みはさらさらと輝いていて、まるでビロードのよう。そのすらりとした首には、赤いルビーをはめ込んだクロスペンダントの輝く
だが、ケンタロスの目は腐っているとしか言いようがない。オレなんか初対面でわかったぞ?
「何かご用ですか?」
シオンはエーフィにしてはぱっちりとした、それでいて大きすぎない目をケンタロスに向けた。吸い込まれそうな輝きを放つ琥珀色の瞳は、首飾りの宝石すら見劣りするほどの美しさだ。
「なんか用じゃねえ。俺のありがたァァアい誘いが聞こえなかったのか」
シオンは耳の付け根から頬に垂れ下がった飾り毛をその
「や。あまりに発音が悪いもので空耳かと」
などと白い小さな犬歯を覗かせ、遠まわしながらそのケンタロスを侮蔑した。
「あァ?」
どうやらその意図も本気で理解していないらしい。頭の悪い典型的なゴロツキだった。
「わかったわかった。じゃあ単刀直入に言うけど、きみ邪魔」
「
ようやく馬鹿にされたことを悟ったのか、ケンタロスが激昂してシオンに詰め寄った。
野次馬と化した群衆が見守る中、あわれケンタロスはシオンを大きな角で突こうとした。
――え、何があわれかって? 決まってんだろ。
ケンタロスがシオンの細い身体を持ち上げようと角を突き出した瞬間、力の方向が反転したかのごとく、その巨躯が天高く放り投げられた。シオンの
――あいつはああ見えてこの国の騎士で。街のチンピラなどでは逆立ちしても敵うはずのない相手だ。
数秒後、ケンタロスの身体はテント式の店を一件破壊しつつ、重々しい激突音を轟かせて地面に落下した。
「ぐ、が、こ、このアマ……」
――そしてもう一つ、ケンタロスは決定的な間違いを犯している。
「あま?」
シオンはにこにこと清純な笑顔を浮かべて、とぼけたようにケンタロスを見つめ返した。
「オンナっつー意味だヴォケ! もう頭にきたぞてめえ。ヒィヒィ言わせてやるから覚悟しやがれ!」
ケンタロスは跳ねるように立ち上がって鼻を鳴らし、右前肢でニ、三度地面を蹴って威嚇した。
「ひーひー。言ってあげたけど……これでいいかな? 僕、きみと遊んでる暇なんてないんだけど」
「ヌガァアアアアア!! コロス! シニャアァガレェェコノアマァア!!」
もはや奴が何を言っているのか、オレには分からない。ここまで来るともはやギャグ以外の何物でもなく、野次馬の中からも笑い声が上がった。
「や。死にやがれこのアマとか言われても……」
いやお前、どんな耳してんだよ? なんでちゃんと理解できるわけ?
二度目の突進を敢行したケンタロスは跳躍したシオンの下を通り過ぎた。そして石造りの塀に頭から突っ込んだ挙句、そのダメージで失神してぶっ倒れた。ボギャッ、と鈍い音がしたのは、ケンタロスの角が折れた音か。うへ。あまり二度三度と聞きたい音じゃないな。
「あっ、そうだ……お店壊しちゃってごめんなさい。これで弁償しますから」
シオンはド派手に自滅したケンタロスには目もくれず、先ほど破壊されたテントの前で呆然としている店主のハブネークに、首に下げたポーチから取り出した一万ディル白金貨を咥えて優雅な所作で差し出した。不慮の事態だというのに、何の準備もなく白金貨を出せるあたりがオレみたいな貧乏人とは違う。しかも、あいつがそれをやると不思議と嫌みったらしさを感じさせない。
ハブネークが戸惑いながらもディルを受け取ったとき、野次馬から歓声が上がった。
「やるじゃねえか嬢ちゃん!」みたいな、お前はいつの時代の
シオンは観衆に微笑みを返しているが、少し辟易しているようだ。さすがにここまで盛り上がるとは思っていなかったのだろう。
さて。オレは仕事の都合上ここであいつに見つかるのはまずい。
「……あいつ
オレは隣にいた結婚を申し込んだクレイジーなドゴームにそう耳打ちしてやり、群集を掻き分けてその場を去った。
驚きと落胆、はたまた歓喜(?)の声が背後で入り交じって余計に騒ぎが大きくなったが、オレに責任はない……はずだ。
事実を言っただけなんだからさ。
ランナベール北部、北凰騎士団駐屯所兼演習場。
兵士食堂の隅のテーブルには今日もお定まりの面々が集まっていた。
「シオン隊長、人参いりませんか?」
そう言ってカレー皿の端に寄せた人参をシオンに勧めてくるのは、シオン率いる後方支援部隊の副隊長、ライボルトのラウジ・プラヌスだ。
「べつにいいけど……」
ラウジがカレーライスを頼むのは、シオンが同じメニューを頼んだ時だけだ。というのも、ラウジはカレーは好きだが人参は食べられないのだとか。
そうして、いつも食べる前にシオンの皿に人参だけを移すのだが。
「アカンアカン!
右
「しかしアスペルさん……俺、これでも何度もチャレンジしたんスよ。二十年以上も食べられなかったものが今日突然食べられるようになんてなるわけないっス」
斬り込み隊を率いる北凰騎士団最速のポケモン、マニューラのアスペル先輩。彼は指と一体化した二本の鉤爪を使ってサンドイッチを片手に挟んでいる。彼はマニューラでありながら、器用にも直立二足歩行をするポケモンの手のように前肢を使うことができるのだ。
「食べ。隊長命令」
「俺はアスペルさんの斬り込み隊じゃなくて後方支援隊所属っス!」
「ほんならシオン、ラウジからニンジンもらうの禁止な。先輩命令で」
「ほぁ……そうなると自分で食べるしかないね」
「そんなっ、シオン隊長まで……」
かわいそうだけど仕方ない。アスペルはシオンの六つ年上の先輩で、階級こそ同格とはいえキャリアはシオンよりも断然長い。小隊長に昇格し一個師団を率いる立場となっても、先輩たちへの敬意は失うべきではないというのがシオンの信条なのだ。とはいえラウジも二十三歳で、じつはシオンが北凰騎士団で最年少の兵士だったりする。
「お前らな……
と、深みのあるアルトの声で場を
リュートというのはランナベール国内に創立された兵士養成学校『セーラリュート』の略称である。北凰騎士団の兵士たちはそのほとんどがセーラリュートの卒業生で、いわば戦闘の英才教育を受けた者ばかりで構成される精鋭部隊だ。さらにランナベールには他に二つ、東桜騎士団、西皇騎士団という兵団があり、それらも同様である。南と西を海に面し、北と東は高い城壁に囲まれたランナベールは、強力な軍事力によってもまた護られているのだ。
「すみません。僕の不手際で……副隊長のラウジが子供っぽいのは隊長の僕の責任ですよね」
「失礼なッ! 俺のほうが隊長より年上っス!」
「本物の子供と中身が子供の大人か……どっちも変わらないな」
シャロンは五番親衛隊を率いる隊長で、女を捨てて戦場に立つと公言しており、口調も牡のそれのごとく堅い。二十六歳独身、浮いた話は一つも聞いたことがない。
「む。本物の子供って、僕のことですか」
「隊長は未成年っスからね」
「未成年っていっても十九だよ。これでも婚約者がいるんだからねっ」
「お前みたいな子供と婚約、か。この国の王女様の物好きにも困ったものだな」
「何
自分の容姿が
「せや、そういえば最近市場やら住宅街の方で連続誘拐事件が起こってるらしいな。何やよう知らんけど、十五、六の少年ばっかり
「
「そうっス! 俺がもし牝だったら絶対隊長ゲットしてるっス!」
「や。なんでそういう話になるわけ。きみみたいな牝がいてもいらないから」
「がうーん。隊長にフラれた……」
「しょーもないこと
見れば、ラウジの皿のカレーはニンジンだけを全て残して八割がたなくなっている。最後まで残して廃棄する腹か。
「そ、そろそろお腹がいっぱいに……」
「もう放っておけ。子供の相手は疲れる」
「よっしゃ。俺が大人にしたる」
「ちょ待っ、アスペルさもがゴっ」
神速だった。アスペルが片手でラウジの口を開き、片手に持ったスプーンで素早くニンジンをすくって押し込んだ。
ラウジは口にニンジンを詰めたまま悶絶し、二、三度床を転がってぶっ倒れた。まるで毒死だ。
「を? 死んでもうたがな。まあええわ。さっきの話やけど、ホンマに
「アスペル先輩まで僕を子供扱いしないでくださいよ。誘拐犯がターゲットにしているのは十五歳くらいの少年だって話でしょう? 僕はもうそんな年じゃありませんし」
「疎い奴だな。身代金も要求しない誘拐など、犯人の目的は一つしかないだろう」
疎いと言われればそうかもしれないし、そうでもないかもしれない。今の婚約者だって身分が違いすぎたのもあるけど、まさか本気でシオンに一目惚れしていたなんて思っても見なかった。
「ああ、いるんですよねそういう変態趣味みたいなの……僕も何度か狙われたことがあります」
「せや、だから危ないっちゅーてんねん。なんぼ
「そうだな。十五で押し通そうと思えばできないことも……無理か。せいぜい十七ぐらいか? 牝で押し通すことはできるだろうが」
「ええ……僕はむしろ普通の牡のひとによく狙われるんですよ」
中性的な容姿をしているレベルならまだ良かったのだが。体に不調があるわけではないものの、うまく成長してくれなかったらしい。
「あばばっばばばっばっばっばば」
突然、くぐもった奇声がシオンたちの会話をさえぎり、コントラストの強い黄色と青の角ばった物体が起き上がった。
「ん? 何や?」
――とはライボルトのラウジのことだが、起き上がる動作があまりにも機械じみていたものだから、つい生物だと認識しそこなってしまった。
「いい加減にしろ。さっさと昼食を終えないと午後の訓練が始まるぞ」
ラウジはまだ苦しそうにゼェゼェやっているが、シャロンの一瞥は冷たい。でも心底からの批判ではなくて、どこか楽しんでいるような雰囲気も見てとれる。
「そ、そういうシャロンさんは好き嫌いないんスか! 俺マジ死にそうだったんスよ今!」
「強いて言えば、甘いものはあまり好きではないな。だが、甘いものを食べたからといって死にはしないと思うが」
「えー。シャロンさん甘いもの嫌いなんですか? 僕は大好きですけど」
「まるで逆だな。シオンが牡みたいでわたしが牝……逆か? シオンが牝で――ああ、もう! お前と話していると調子が狂う。一言で形容できる外見をしろ!」
「そんな無茶な」
「シオン隊長が牝だったら絶対俺がゲットしてるっス!」
「さっきも聞いたよ」
「いや、ちょっと
「がうーん。アスペルさんに盗られた……」
「あ、あのさ……僕を取り合いされても困るんですけど」
まあ、昼食はいつもだいたいこんな感じだ。ラウジとアスペルが何かしらしでかして会話を盛り上げ、シオンが柔らかに、シャロンが鋭くツッコミを入れる。由緒あるルーツを持つ政府ではなく、財閥である"ヴァンジェスティ社"が統括する前例のない無法国家でも、日常は普通の国の
「そういえばシオン。今日の午後の訓練はタッグで模擬戦闘演習だったな。相手はボスコーンとキール……いつもみたいに足を引っ張るなよ」
「はい。今日こそは頑張ります……!」
きっと他の国の軍隊はもっと規律が厳しいんだろうな、と思う。北凰騎士団の明るい雰囲気は、財閥が運営する国家だからこそ存在するものなのかもしれない。
でも、軍隊は軍隊だ。戦闘を生業としているんだから、気を引き締めて訓練にかからないとね。
◇
「シオン、跳べ!」
ドサイドンが高く翳した両
シャロンに言われるまでもなく跳躍したシオンは、地面へ向かってサイケ光線を放って滞空時間を稼ぎ、なんとか地震攻撃をやり過ごした。
「上達しましたねえ。ボスコーン総長の地震をいとも簡単に躱すとは」
ドサイドン――北凰騎士団総長ボスコーンの肩に座ったクチートが感心の表情を見せた。
「ですが、まだまだですね」
クチートの指がクイッと上に向けられた瞬間――そう、シオンの着地と同時のタイミングで大岩がせり出してきて、シオンは四方を岩に囲まれてしまった。
「空を飛べないポケモンにとって、着地の隙を消すことは容易ではありません」
岩石封じ。直接打撃を与えるよりは、こうして相手の行動を制限してしまう技だ。というか、北凰騎士団十三番隠密部隊を率いるクチート、キールほどの使い手ともなれば岩同士の隙間が限りなくゼロに近くて、完全に閉じ込められてしまった。
「キール。御託はいいからさっさと降りろ。いつまで肩の上に乗っているつもりだ」
「おっと、これはとんだ失礼を」
ボスコーンの肩から飛び降りるキールの姿が岩の隙間から見えたが、シャロンの姿は見えない。上から飛び出せば恰好の的になるし、かといってこのままこうしている間シャロンが二体一の不利な戦闘を強要されているし、やられてしまったらほぼ詰みだ。
ちなみに訓練の際は全員が
何はともあれ、ここが戦場だとしたらこれは大ピンチだ。シャロンの助けをあてにするわけにもいかないし、迅速に対処しないと――
と、そこでシオンにおもしろい考えが浮かんだ。
そうだ。得意技の
この物質世界と重なるエネルギーの世界への門を開き、"技"の元となる闇の属性エレメントを召喚する。高威力の技はエレメントを大量に消費するため、特殊な集中状態が必要となる。熟練すればするほど大きく門を開いたり、収束までの時間を短くしたりすることができる。
コオォォ……と渦巻く、まるで遠方から聞こえてくるかのような風の音。額の宝珠の上に黒点が現れ、そこから噴き出した暗紫色の霧がみるみるうちに広がりはじめた。この霧を球状に圧縮し、
圧縮率百、百十、百二十……二百……三百、三百六十、三百九十、三百九十八、三百九十九……
「四百♪」
「ふぇ?」
声に出して数えていたわけではないのに。完成と同時に頭上から降ってきた声は、シオンの技の発動時間を把握していたかのようで、いや、おそらく完全に把握していたのだろう。見上げると、岩の上に腰掛けたキールは余裕の笑顔を浮かべていた。
「ふぇ、ではありませんよシオン君。ゲームオーバーです」
対象変更――だめだ、間に合わない。
植物の葉に似せた、キールの頭の大顎が目にも留まらぬ速さで伸びてきて。
「きゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ……!」
固い。毛布一枚かけられていなくて寒いし、寝心地は最悪だった。シオンの知るかぎりにおいて、まさしくただの台でしかない寝
軍の治療室のベッドの上で目を開けると、隣のベッドに腰掛けるというよりは身体を横にしているシャロンの姿があった。
「……やっと目を覚ましたか」
シャロンはベッドから降り、歩み寄ってきた。
「キールに噛まれた傷は大丈夫か?」
「あ……はい……そうみたいです」
「ピックは目を覚ましたら大丈夫だと言っていたから、もう帰ってもいいぞ」
後方支援隊の隊長に昇格してから、軍医のデンリュウ、ピックのお世話になることがかなり増えた。戦闘訓練で同じ隊長クラスの相手とやることになったのが主な原因だが、それにしても自分の実力のなさには落胆する。シオンだって小隊長の一人だから決して弱くはないし、兵卒の頃に大きな手柄を立てたこともある。しかし北凰騎士団の隊長達は次元がまるで違うのだ。
「もう八時前だからな。宿直の部隊以外は解散済だ」
「わ、僕そんなに長い時間気絶してたんだ」
「正確に言うと、気絶したあとそのまま眠っていたみたいだが」
「あれ? シャロンさんはどうしてここに?」
「今日お前と組んでいたのはわたしだからな。き、気になって当たり前だろ」
「……それで帰らずに残っていてくれたんですか? 心配かけちゃったみたいで、ごめんなさい」
「いや、わたしが勝手に残ってただけだから! 何もお前が謝らなくてもいいんだ。うん。じゃあわたしはもう帰るからな!」
なにを慌てているのか、シャロンは目を逸らすように後ろを向いて、医務室から出ていった。
よくわからないけど僕も帰ろう、とベッドから降りたところで、銀縁の眼鏡を掛けたクチートがシャロンと入れ替わりに医務室へ入ってきた。
「なかなか可愛い
「や。シャロンさんに……ですか? キールさんの言いたいことはわかりますけど、まさかシャロンさんが僕をそんな目で見てるわけありませんよ。それに、シャロンさんはかわいいというよりは凛々しい感じじゃないですか? かわいいといえばキールさんのほうが……」
「私の顔には愛くるしさやあどけなさなど存在しません」
キールは右手の指で眼鏡を直しつつ、キッパリと否定した。とはいっても、キールがなかなかキュートな外見をしているのは事実で、それは眼鏡を掛けていても隠しようがない。まあ、もともとの性格も相まって、理知的な雰囲気と愛らしさが変に調和して同居する独特の風貌は、シオンから見ても好感が持てるし、他の兵たちにも評判はいいみたいだ。これでキールがもしいかにも理科系といった感じの顔つきをしていたら、周りには堅すぎる印象を持たれるだろうから、少なくともマイナス要素にはなっていないと思うのだが。
「君のような可憐な男の子に可愛いなどと言われるのは甚だ心外ですが……私はこのような話をしに来たわけではありません。夜間の宿直とはいえ、暇ではないので」
「あ、そうですよね。えっと……今日の訓練のコトですか?」
「ええ。シオン君の後学のためと考えましてね。私と
「それは……わざわざありがとうございます」
「私も同じ北凰騎士団の小隊長として、シオン君にも強くなってもらいたいのですよ」
キールは懐からメモ帳を取り出し、また眼鏡の位置を直した。
「えー……審判役を勤めたアスペル君によりますと、戦闘開始が十三時三十四分二十一秒、
「はい……」
細かい。実に細かい。審判役も、キールの戦闘に関しては必ず後で訊かれるので秒単位まで正確にカウントしなければならないから大変だ。もっともキールは十三番隠密部隊を率いるかたわら、北凰騎士団の頭脳、軍師を務めているから、その細かさに誰も文句は言わないのだが。
「ボスコーン総長の攻撃力を考慮すれば、必然的に決着は早くなります。総長は一対一の戦闘演習においては最速四秒で相手を戦闘不能にしている猛者ですからね」
「四秒……って、その相手僕でしょ?」
「正解です。あの時は私も見ていましたが、見事に岩雪崩で一撃でしたね」
「あれだけの瞬発力であの破壊力は反則的ですよ……」
炎、水、氷、電気、光、闇、その他諸々。僕たちポケモンは、エレメント層、要素世界などと呼ばれるエネルギーの世界からこれらの"
「さて、本題に戻しますが……」
またまた眼鏡の位置を直し、キールはメモ帳に目を落とした。
その眼鏡、サイズあってないんじゃないの。
「時間も遅くなっているので簡潔に申し上げましょう。今日のシオン君の反省点は主に二つ」
右手で二本指を立てて、メモ帳を持った左手で無理にまたまたまた眼鏡の位置を直した。
「私の岩石封じで閉じこめられたならば、もっと迅速に行動を起こすべきです。それに、岩の隙間から見える位置にボスコーン総長がいることに術者の私が気づいていないと思いましたか? あそこでシオン君が総長を狙うという選択をするのは私にも十分予想できました。岩を貫通するため、威力を重視して放とうとすることも、です。この一点。シオン君は私の岩石封じを逆に利用しようと考え、無防備な集中状態に入ることを選択してしまいました。しかしシオン君が閉じ込められた岩の中でいかなる行動を起こすかというのは、私があの状況で最も気を配っていた部分です。対策を講じるのも容易でした」
「言われてみれば……そうですよね。閉じこめて、はいおしまい、なんてコトないですし」
「相手の心理を読むことが重要なのです。では、第二に――」
「いやああぁぁぁっ!」
シオンは悲鳴を上げてその場を跳び退った。
第二に、と言いかけたキールが、前触れもなく後に垂れ下がっていた大顎を持ち上げて前に伸ばし、その牙でシオンに噛み付こうとしたのだ。
――が、どうやらただの脅かしだったらしく、キールの大顎は凶悪な牙を見せたままで止まっていた。
「それですそれ。あなたはそこらを歩いている今時の女の子ですか。どこの国にそのような甲高い悲鳴を上げる兵隊がいるというのです」
「だって……ひどいですよキールさん……僕それ苦手なんですよ……こう、口がいきなりぐわーっと開いて襲い掛かってくるんですもの……」
キールは大顎を背後に戻し、またまたまたまた眼鏡の位置を直した。
「今日の訓練でもなかなか魅惑的な声を上げてくれましたね。ですが、戦場であのような声を上げると敵に位置を知らせるようなものです。例えばシオン君の隊が伏兵として山岳地帯に陣取っていたとしましょう。しかし偶然にも敵の歩哨が一人で現れ――」
「きゃあああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
もうやだ。この
「もし歩哨がクチートだった場合、これでシオン君の隊の存在が敵軍全体に知れ渡ることになります」
「や……うん、頑張って克服したいです……はい……」
さすがに戦場でそんな失態は犯さないと思いたいが、心の準備ができていなかったからだなんて言い訳はこのひとには通用しない。
「シオン君の可憐な
「そ、それは責任重大すぎますね……」
シオンが縮こまっていると、背後で大きな音がして医務室のドアが開かれた。
「キール、何をしている?」
「あ、これはこれはボスコーン総長。シオン君の容態はすこぶる良好ですよ」
「嬌声が外まで聞こえたものでな。よもやお前がシオンを手籠めにしてしまったのかと思って駆けつけたのだ」
「きょ、嬌声って……違いますよ……」
「ふん……何があったのか知らんがきゃーきゃー喚きおって」
「私が今それを指摘していたところです。このように」
「ひっ……!」
違った。
相手はボスコーンか。
「ほう」
ボスコーンは全く動じることもなく悠然とたたずんでいた。さすが総長、と言いたいところだが、エーフィとドサイドンでは何しろ身体の大きさが違うんだから、シオンにとっては大顎でもボスコーンにとってはただの口と変わらないってだけじゃないのか。
「……して、何を身をすくめているのだ貴様は」
「あ、いえ……」
「なかなか可愛いでしょう、彼。私もシオン君を指導するのは楽しくって。つい調子に乗ってしまいました」
「ふん。貴様のように小賢しい頭があるならともかく、可愛いだけでは戦場では役に立たん」
「と言いますと、私もその"可愛い"の部類に入るとでも?」
「そう聞こえなかったか?」
ボスコーンは片手でキールの首根っこをつまんで持ち上げた。
「なっ……! 何をするのですか! 私は自分で歩けます! 離しなさい!」
うん、たしかにかわいい。僕なんかより全然。
「暴れるな。貴様をこのまま放っておいたらシオンと遊んでいそうだからな。持ち場に戻るぞ」
「セクハラパワハラで社長に訴えますよ! ああ、シオン君! この男の不祥事を令嬢に伝えておくように――」
キールは手足をばたつかせて抵抗していたけれども、完全に宙に浮いているから逃れられないし、さすがに仲間に噛みつくわけにもいかないから、結局はボスコーンにされるがままに連れて行かれてしまった。
なんで僕がフィオーナにそんなこと。話のネタぐらいにはしてあげてもいいけどさ。あ、それいいかも。
なんだかんだ言ってあの
「シオンさんシオンさん」
思案にふけりながら帰りの支度を整えていたところで、ウツボットが医務室に入ってきた。
「東部美女って感じのサーナイトが迎えにきてますぜ」
「え? あ、ああ……わざわざ伝えてくれてありがとうございます――」
えーと、たしか十三番隠密部隊所属の……
「――デアスさん」
デアスに軽く微笑みを返し、医務室を出て正門ヘ向かった。
正門へ向かうと、警備兵
ランナベールには様々な地方から
彼女はこちらに気がつくと微笑んで、軽く頭を下げた。後頭部で髪をまとめているリボンは……これは身体の一部ではなく、アクセサリーだ。
「わざわざゴメン、孔雀さん」
陽州では普通、姓名に漢字をあてることが多い。大陸とは違ってを姓を先に、名を後に表記するのも特徴的だ。孔雀の場合、孔が姓で雀が……ということはなく。シオンは彼女の姓を知らない。
「いえいえ、使用人として当然のつとめですよ。シオンさま、お体の方はよろしいのですか? 先程兵士さんにお尋ねしたところ、お怪我をなさって治療室でお休みになっていたそうじゃありませんか。ささ、わたしが運び」
「もう大丈夫だよ。訓練だから死にはしないし、団の治療の技術だってすごいんだから」
嫌な予感がして孔雀さんの言葉を遮ると、彼女はめっ、と言わんばかりにシオンを睨みつけた。
「だめです。もっとご自分の体を大切になさってください。シオンさまはヴァンジェスティ家の次期当主なんですよ。もっとご自覚を持ってくださいな」
なんだか今日は昼ごろから注意されてばかりのような気がする。
「や、それはまだ気が早いんじゃないかな。まだ婚約の段階だし……」
「とにかくそういうことですから、大人しくわたしに運ばれてください。そうしなければわたしがお迎えに上がった意味がないじゃないですか」
論点がずれているような気がするのだが――有無を言わせず、孔雀はシオンの
同時に、地面から足が離れる浮遊感。
「楽にしててくださいね」
なんて、孔雀は何故か嬉しそうに言う。
「どうせ僕が念力使ったところで飛べないしね……」
孔雀さんの強引さにはかなわないな。
◇
孔雀の飛行は、いつにも増してものすごい
門をくぐるとすぐに、両側に木々の立ち並ぶ林に入る。林といってもそう大きくはなく、中心を貫く石畳の道の向こうには庭園のカスケードが見えている。一分ほど歩くと、ジルベール王国の庭園の形式のひとつ、ヴェルヴェデーレがその姿を現す。まず目に入るのが石畳の先に続く横幅の広い階段と長方形の泉。階段の両サイドはカスケードになっていて、合間に積み上げるように置いた花壇には紅白のアネモネが花を咲かせ、黒い雌蕊を囲む花弁を月光が幻想的に照らし出している。
「夜に見ても綺麗だよね。月とマッチしてていいんじゃない?」
「ありがとうございます。シオンさまに喜んでいただければ嬉しいです。フィオーナさまは不吉な月を観賞するなど正気の沙汰じゃないなんて仰るんですよ。キレイですのに」
孔雀は庭の管理もしている。他にも様々な雑務がある中、この広大な庭をどうやって一人で維持しているのかは甚だ疑問だが、孔雀に関して疑問を持ち始めたらキリがない。とにかく謎の多い女性で、少なくとも単なる使用人でないことは確かだ。
「月ってこっちじゃ不吉の象徴だったりするんだよね……陽州では違うんだ?」
「遠い昔は西洋と同じだったみたいですけどね。今では秋にはお月見なんて行事もあるのですよ。シオンさまは月はお嫌いではないのですか?」
「うん。好きだよ。死んだ母さんがよく月を眺めてた」
「はあ、シオンさまの良き感性はご母堂さま譲りなのですねー」
階段を上りきると中心に噴水のある広大な泉が姿を現し、泉の向こうにはもはや屋敷と呼ぶには大きすぎる、そして荘厳すぎる洋館が訪れる者を威圧するかのごとく聳え立っている。月明かりに照らし出された白い外壁が淡く水面に映し出されていた。泉の中心にある海の神ルギアを象った彫像が口から水を噴き出していて、その周りを噴水が取り囲んでいる。
泉の外周を周り、ようやく玄関口までたどり着くと、孔雀が重々しい両開きの扉を開けて満面の笑みでシオンを促した。
「ありがと」
自分は使用人だからそんな気遣いは要らないといつも言われるが、シオンは婿養子で、もともとこの家の者ではない。
――まだ慣れていないのだ。兵士養成学校セーラリュートは全寮制だったし、その前は家族で小さな家に住んでいた。
だから、使用人と主人の関係なんて実は
「いえいえ、どうぞお気遣いなく」
孔雀はいつもこうやって華のような笑顔を見せる。幸い彼女はこちらの心情を察してくれているのか、最近はこんな調子で合わせてくれる。
扉をくぐると、広い玄関ロビーに入る。正面と左右に廊下が伸びていて、それぞれ居間や食堂、北館、南館へと続いている。両側には南館、北館それぞれの二階へと続く螺旋階段がある。
「お帰りなさいませ……シオンさま、姉さん……」
と、ロビーにいたキルリアの少女が頭を下げた。
いた、というのは語弊があるか。彼女はシオン付きの侍女で、いつものごとく主の帰宅を待っていたのだ。ちなみに半死人のようなか細い声もいつものごとく、である。
「ただいま、橄欖」
橄欖というその使用人は孔雀の妹で、シオンと同い年くらいか少し下に見えるものの、実はシオンより一つ年上の二十歳ですでに少女ではない。もともと童顔なのと、本来サーナイトに進化していてもおかしくない年齢でありながら未だ一進化に留まっているせいで実年齢よりも若く見える。それに顔立ちは悪くないし、それなりにかわいらしい容姿をしている。が、身に纏う暗いというかいかにも幸薄そうなオーラのせいで全て台無しだ。とはいえ、シオンも慣れるまではちょっと近づきがたい印象を抱いていたものの、いざメイドさんと主人の信頼関係を結ぶに至るとそうでもなかったりする。
「シオンさま。フィオーナさまが食堂のほうでお待ちしていますよ。橄欖ちゃん、御鞄をシオンさまのお部屋に持っていってあげて」
「はい……失礼します……」
橄欖はシオンの側に屈み込み、シオンの首にかかった鞍状の小さな鞄に手をかけた。入っているのは
「シオンさま、お料理が冷めてしまう前に食堂へ行きましょう」
「冷めてしまう前って、もうできてるの? や、いつも通りだと作ったのは五時半ごろのはず……」
「ふーむ、実に一時間四十五分ほど経過しておりますねー」
「や、だからもうとっくに……」
「仕様ですからお気になさらず。ささ、早く早く♪」
意味不明度は姉の方が断然上だが。
時刻は夜の十時半になろうとしている。シオンがフィオーナの部屋に来てから、だいたい一時間半と少しか。
隣に座って語り合っているエネコロロは、控えめに言ってもかなりの美女だ。シオンの婚約者にしてランナベール最高権力者、ヴァンジェスティ社長の一人娘フィオーナである。
「僕としては橄欖より孔雀さんの方が楽でいいと思うんだけどな」
シオンとフィオーナが互いに身を寄せているソファはジルベール王国のレフデシリアというブランド家具で、テーブルも同じブランドで揃えられている。二つ並んだティーカップは、前肢が器用でない四足歩行のポケモンに使いやすいように配慮された、前足を通すための可変部の取っ手のデザインが特徴的な、コーネリウス帝国のブランド、ウィズウッド……というのは全てフィオーナからの受け売りで、正直シオンには価値も分からない。いつもはワインかブランデーだけど、今日は孔雀さん特性のハーブティーなのだとか。なんだかコーヒーに似た味がする。
「そこで相談なんだけどさ」
「なりません」
「……まだ何も言ってないんだけど」
「孔雀と橄欖の役割を交代させろというのでしょう。橄欖は真面目だから、シオンに心奪われたりはしません。あの仔は使用人としての立場というものを弁えています。しかし孔雀は何を考えているのやらわかりません。
「べつに、孔雀さんも仕事はきっちりしてくれると思うけど。だいたい、獲物って何さ。僕はきみの獲物なわけ?」
「ええ。もう捕まえた後ですが」
「フィオーナってば最初ホントに僕を捕まえてここへ連れてきたでしょ? 無茶苦茶な要求出してくるし、散々いじめられた記憶が……」
フィオーナとの出会いは、胸ときめくような、素敵なものでは断じてなかった。
「その代わり料金ははずんだでしょう。あのような店にいるより実入りが良くて貴方も助かっていたのではなくて?」
「それはそうだけどさ……普通はそういうのって恋愛には発展しないよね」
「過程はどうあれ、現に貴方はわたしの花瓶に納まったでしょう」
「花瓶って、僕は観賞用の花?」
それを言ったらフィオーナも花みたいなものなんだけど。
ただ、シオンが一重咲きの原種の野薔薇だとしたら、フィオーナは温室で育てられたカップ咲きのモダンローズだ。ある種の凛々しさを感じさせる芯の強い勝ち気な眼差しと、一糸の乱れもない、艶のある毛並み。気品に溢れた立ち居振る舞いにも隙がなく、相対する者は言いようもない緊張感に晒されるとともに、つい粗探しをしたくなるかもしれない。が、それもおそらく骨折り損に終わる。敗北、落胆、偽り、恐れ、憂い――負のイメージを持つ言葉がこれほど似合わない女性もいないだろう。いかにも社長の
「勿論わたしの目の保養にもなりますが」
こと、シオンに対する変態的なまでの溺愛ぶりと最強クラスの独占欲は何とかしてほしいところではある。
フィオーナはそっと目を閉じた。そうすると長い睫毛が一層際立って、気品に溢れながらも若干の鋭さを含む面差しから鋭さだけが消えて、油断させられるというか、思わず無防備になってしまう。
「その花に触れて、香りを楽しむのもまた一興です」
目は閉じたまま、飾り毛の下から右
軽いフレンチキスから、フィオーナはシオンの口腔に舌を侵入させてきた。
僕はもう
僕は僕の意思で、きみに全てを捧げるよ。
シオンは身体の力を抜いて、フィオーナに身を委ねた。フィオーナはシオンを抱く
「は……」
鍛えているはずの僕の方が先に息苦しくなって、空気を求めて喘いだ。
「駄目です……まだ……足りません」
フィオーナはとろけるような視線でシオンを見つめ返し、抱いた姿勢のまま上から覆いかぶさるようにしてまたシオンの口を塞いだ。もう片方の
ようやく口を離したフィオーナの瞳は窓からの月明かりに照らされて、妖しく輝いていた。
「もう……構いませんか?」
仰向けになったシオンの上に跨がるような姿勢で、顔を近づけてくる。
「や……ベッドでしようよ……連れてって……」
そうして頬を舐められ、文字通り、フィオーナは舐めるように全身を見回して、シオンを背に乗せた。
「まったく、甘えん坊なのですから……このわたしに運ばれる
お姫様のきみは、運ばれることはあっても運ぶことはないのね。
あぁ、彼女の背に追われているとどうしてこんなにも心地いいんだろう。首まわりのふさふさのたてがみ、さらさらした肌触りの毛皮に、温かくて柔らかい体。エネコロロという種族は生存競争に弱い代わりに繁殖能力が高く、総じて異性を引きつけるようなボディをしているというが、フィオーナのそれは同種の中でも間違いなく一級品だ。
フィオーナはシオンを背に乗せたまま、軽々と天蓋つきのベッドに上がった。もともとエネコロロの方が身体が少し大きいし、シオンはエーフィの中でも小柄なほうで、体重は二四キロしかなく、標準の二六.五キロには二キロ半も足りないから、当然といえば当然かもしれない。国を護る兵士がこんなコトでいいのかって話だけど。
「さぁ……お望み通り、寝台まで連れてきてあげましたわよ。もう準備はよろしいかしら?」
「あ……と、ごめん、ちょっと」
……なんて、僕ってばどうしてこんなときに。
「トイレ行ってきちゃダメ……?」
おかしいな。フィオーナの部屋に来る前には済ませておいたし、来てからも二時間と経っていないはずなんだけど。
「……またですか。いつもいつも直前になって……何処でそのような焦らしプレイを覚えてきたのです?」
雰囲気を壊しちゃったわりには、フィオーナはそれほど不機嫌そうではない。何故って、彼女の答えはいつも決まっているからだ。
「ここまでこのわたしを昂揚させておきながら……許すとお思いですか? 我慢なさいな」
一度スイッチの入ったフィオーナはあくまで自分中心で、シオンには選択権なんか与えてはくれない。
不敵な笑みを貼りつけた彼女に抵抗しようなんて思わないほうが身のためだと、直感がシオンに教えていた。
◇
「中断など許しませんわ」
「わたしの前で漏らしたくなければ、せいぜい我慢なさいな」
背に乗せたシオンをベッドに放り出すようにして寝かせる。そう、わたしは貴方のそういう困った顔が見たいのです。
「…………」
無言で潤んだ瞳を逸らすのは、シオンのOKサインだ。右
「……堪えることができれば、の話ですが。ふふ」
脇腹をさすり上げると、シオンはびくんと身を震わせた。うっすらと涙を浮かべた琥珀色の瞳は、守ってあげたいような、抱き壊してしまいたいような気分を誘う。癒されるようで、心躍らされる。
シオンを抱いたまま布団を被り、そっと寄り添う格好になる。腰に
「ああ、どうして貴方は……」
そんなに美しいの。わたしの側にいるの。まるでわたしに愛でられるためだけに花を咲かせてくれたみたい。
フィオーナは右
ただ抱き合って、間近でこうして目を合わせているだけで、わたしはもう
「穏やかな戯れでは私のこの昂揚を抑えられそうにありません……そろそろ始めましょうか」
シオンは答えない。自分には選択権がないことを理解しているからだ。
「……もっといろいろな
それが肯定の意であることもフィオーナは承知していた。
腰に回していた前肢を、シオンの背を撫でるように下ろしてゆく。
「にゃ……」
尾の付け根に到達した時、シオンは小さな声を上げた。
「いい声……」
二叉の尾を掴むように
「ひゃんっ」
まだ一番敏感な場所には触れていないのに。後ろの穴の周りを撫でただけで声を上げるなんて。
「にゃん、や、やめてえぇっ!」
「そうですか? では……」
楽しみは長い方がいい。
後肢の付け根に左前肢を滑らせ、右前肢でシオンの身体を強く抱きしめた。
「は……」
頬を優しく舐めて、左前肢で内腿をそっと摩ってやると、シオンはまたふるふると身体を震わせた。先程よりは甘く、穏やかな刺激。
わたしは特別な性技など持ち合わせてはいないけれど、シオンに精神的悦楽を与えることができるのはわたしを他に置いて存在しないだろう。彼が生理的な刺激だけで満足できるポケモンでないことはよく知っている。相手に愛されることこそが、シオンにとって最上の快楽。
私は目一杯の愛を貴方に注いであげる。だから、私の前で狂乱して、羞恥に塗れた顔を見せなさい。
「……やはり、これではつまらないわ」
「えー……僕は……もう少しこうしていたいな」
「あら。長引けば長引くほど貴方が不利になるとわかっているのかしら? それに、わたしを愉しませることも貴方の仕事の一つよ。もはや雇用関係ではなくなったとはいえ、貴方を手に入れるのにわたしがどれだけ投資したのか知ってる?」
「ふみゅ……それを言っちゃ僕はきみに逆らえないじゃない……」
「いい仔ね。今度こそ、覚悟はよろしくて?」
答えさせる間は与えなかった。体毛の間から露出したシオンのモノの付け根に触れ、裏側を愛撫しながらシオンを抱く力をさらに強める。
「ふぁっ、や、んっ――」
強い刺激に耐えられず喘ぎ声を上げるシオンの顔が間近にある。フィオーナを昂ぶらせてやまないその表情。シオンは頬を薄桃色に染めて、喉の奥から嗚咽のような小さな声を漏らしている。
「――んんっ!」
その口を自分の口で塞いだ。今度は目を閉じずに、悦に入ったシオンのその目を直視して。シオンはすぐに目を閉じてしまったが、下半身から全身を貫く快感に耐え切れず、フィオーナの口腔内でも喘ぎを止められない。愛撫を続けるごとに強さを増す快感と同時に襲い掛かる尿意で壊れそうになっているシオンを抱いていると、壊したのはフィオーナなのに、どこか憐れに思えてきて庇護欲をそそられてしまう。
「ぷはっ――ふわあぁ! らめえぇっ! もれちゃうってばぁ!」
「さあ……私の胸の中で弾けなさい」
これまでの経験で
「みゃぁあぁぁぁあああっっ!」
「ホントに甲高い声ですこと。私でもそんな高い声は出せないわ」
シオンは我を失って嬌声を上げ、前肢、後肢でフィオーナにしがみついてきた。全身を電撃の如く迸る快楽に行き場を失い、散りゆきそうになる他の感覚を、そうして何かに縋ることで維持しようとしている。それは反射的な行動で、自分の意思でそうしているのではないのかもしれない。それでも強く抱き締められていることに変わりはない。
むしろ、わたしは誰かに優しく抱き止められるよりも、こうして無理に抱かせる方が好きだ。全てが自分の思い通りにならないと気がすまないというわけではないが、思い通りにことが運ぶというのは実に気持ちがいい。
シオンの全身を突き抜けている快感は、フィオーナが愛撫をやめない限り消えることはない。アレを出させてしまったら終わってしまうが、そうならないようにできるだけ
「やぁああぁぁっ……!」
何回目かの刺激で、シオンの下半身が悲鳴を上げた。
「潮噴き、ですか……? 男の子なのに」
くすっ、と小さな笑みでそれに返してやると、シオンは頬を朱に染めてフィオーナから離れようとしたが、
「しょうがない仔ね」
シオンは答えない。いや、答えられないのだろう。フィオーナを抱き寄せたあとも、シオンの身体から抜けてゆく温水は止まることを知らない。フィオーナの胸のふわふわした飾り毛も濡れそぼってゆく。
――気に入りませんね。わたしがシオンに抱かれているですって? これでは私が水攻めに遭っているようではありませんか。
べつにシオンのものなら全身に浴びようと厭わない。過去、訳あって食事管理されていた頃ほどではないが、食肉目のくせに肉を好まないこともあってか、匂いも仄かな体臭くらいで悪臭はない。ただ、その過程と状況による。自分の意思は無視されて、シオンの意思の元にそれをされているとなればプライドが許さない。
「お仕置きが必要ね」
わき腹をさすり上げて脱力させ、シオンの胸から顔を上げる。フィオーナの首の下辺りを挟み込んでいた後肢も開かせ、股下を前肢で押さえた。
「みゃ……」
「ここを押さえると
「やん……そんなこと……しないで……苦しいよ……」
押さえた前肢は離さず、体位を調節して目線を合わせる。フィオーナの鋭い視線に、シオンはびくっ、と怯んだ。
「賭けはわたしの勝ちです。しかしこのわたしを襁褓にしようなどと……貴方はいつそんな権利を得たのです?」
シオンはフィオーナの目を見ることが出来ずに顔をそむけてしまった。単なる恐怖なのか、恋人との情事で失禁してしまったことへの羞恥心からなのか。
「……ひぁああっ!」
前肢の指を目一杯開くとぎりぎりでシオンの敏感な場所に届いた。先程まで続けてきた刺激で積み上げられたものが、再び天に昇るのに時間はかからない。
「心の準備はよろしくて? ……いえ、身構えもない相手を無理矢理というのも一興だわ」
横向きのまま、シオンの秘部を自分のそれへと近づける。前足を離してしまったため再度透明な噴水が噴き出したが、フィオーナはそれを意に介さず、一気に引き入れた。シオンの扇情的な声、恥じ入る顔、愛くるしい仕草――それらが既に十分すぎるほどにこちらの摩擦係数を減らし――ともかくそういうことで、シオンとの交合は容易だった。
引き入れると同時に、フィオーナの中で迸る熱が通常の数倍、いやそれ以上の刺激をフィオーナに与えた。
――多方面にマニアックな孔雀からの情報で、一度試してみようと、思っ……て……
「はぁああぁっ! シオン、ちょっと……止めなさい! ダメっ、拡げられ――くぁうっ!」
そんな、こんなに凄いなんて、孔雀――話が違います!
小柄なシオンはそちらの大きさも足りないのは仕様で、とにかくこれ程の快感を覚えたことはなかった。
液体であることの流動性か、恋人と抱き合うことで湧き上がる身を焦がす程の恋慕の情に加えて、パートナーを完全に支配した状態で失禁させ、これ以上ない程の羞恥を味わわせることで征服欲が満たされるからか。
「シオン……あぁっ、もうどうなっても……」
罰を与えるつもりが、壊されてしまいそうなのは自分のほうで、無意識にシオンをかき抱いて、夢中でその快楽を求めていた。
「ふぁあ……」
全てを出し尽くして、終わってしまったものとも気づかずに。シオンの声ではっとして、我を失っていた自分に腹が立った。
じっ、とシオンの琥珀色の瞳を覗き込む。
「ぁ……」
先に目を逸らしたのはもちろんシオンの方だ。
恥辱に負けたようね。一度は堕ちてしまいそうになったけれど、これでわたしの優位は代わりません。
「このわたしとの愛の交歓の
「だって……最初に言ったのに……きみが強行するからじゃない。それに最後のは完全にそっちが……」
シオンはそう口を尖らせたものの、檻に捕らえられた小動物のように、何処にも逃れられないと悟り、自らの行く末に覚悟を決めた目をしていた。
交合を一旦解いて、ぐっしょりと濡れてしまった掛け布団を後ろ肢で跳ね上げた。当の犯人の身体がほとんど濡れていないのは体位のせいなのだろうけど、それはどちらでもいい。ある部分では汚してしまっても、ある部分では綺麗なまま置いておく。自らの
フィオーナの前で恥辱をさらけ出すことを強要し続けた結果、現在では言わずとも自分からその
シオンをシーツの濡れていない部分に仰向けに寝かせ、フィオーナは前肢でシオンの後ろ肢を開いたまま固定した。
「シオン。最後は男の子らしくして下さいね」
「な、なんだよ男の子らしくって……」
「男の子といえば決まっているでしょう。つべこべ言わずに出しなさい」
ようやく理解したのか、シオンはぎゅっと目を閉じた。
開いたしなやかな後肢と尾の間から除く控えめな大きさのそれに、口先を近づけた。
「花は香りを楽しむものですが、食べられる花もあるそうですね」
そっと咥えて舌を躍らせた。
「きゃっ――く、口? ぁ……」
前戯はもう十分に楽しんだ。あとはわたしが生理的な処理を施してやれば終わりだ。
びくん、とシオンの体が一瞬浮いて、口腔内に温かな粘性の液体が放出された。長い前戯のせいか粘性は弱く量も多かったが、甘いような、少しだけ苦いような味で不快感はない。孔雀に聞いたところでは、世の中の牡のそれは食事や体質で苦味が強かったり、性器に付着した垢のせいで悪臭を放ったりすることもあるそうだが、シオンにはもちろんそのどちらもありえない。大雑把なように見えて自分の体のことになると綺麗好きだし、常から異性同性問わず魅了するような不思議な匂いを放っているような仔だ。
「ご馳走様」
「目を見て言わないでくれる……? 恥ずかしいから……」
「それも罰だと思いなさいな」
さてと。シャワーを浴びて、ソファでシオンを抱いて一緒に寝よう。口も漱がないと、このままじゃキスもできない。繰り返すがシオンのあらゆる全てを肯定するわたしは何であれシオンの体から出てきたものは嫌いではないが、それを愛しいシオンの口につけることがどうしてできようか。
罰だ何だと言っているけど、貴方がいとおしくてたまらないのですよ。
的が飛んでるーるーるー……るー……当たんないよー。
「隊長~! しっかりしてくださいよ!」
「二十枚目っ!」
対飛行部隊訓練。兵舎の屋上から数名の隊員が円盤状の的を投げて飛ばし、訓練者は左から右へと飛んでゆく的へ正確に攻撃を当てることを目標とする。投げる隊員の膂力もまちまちであることから円盤の飛ぶスピードや正確な方向が一定ではなく、
「ほわちゃっ、
「ふぇ?」
空気を裂く音が近づいてくる。
瞬間、ガツン、ときた。
「きゃっ」
痛い……何が起こったの?
と、気づかないうちにシオンはばたりと地面に伏していた。
「おお悪い悪い! しっかりせーよー!」
アスペルが屋上の柵から身を乗り出して叫んでいる。ああ、投げた的が当たっちゃったのね。この的ってこんなに固かったっけ。痛いなぁもう。
「えー……シオン君の点数はですね」
キールがつかつかと歩み寄ってきて、倒れているシオンを見下ろした。
「カス当たりが一枚、外れが十九枚。使用技はサイケ光線一本、発射十四に対し命中一。その命中率は実に七.
「はうぅ……循環小数使ってまで無理に百分率で出さなくても……」
「シオン君。それよりも問題なのは発射十四という数値です。的がいくつあるのか理解していますか?」
だって昨日はフィオーナに遅くまで弄ばれたせいで寝不足なんだもの……
あのあとはフィオーナの部屋に付いた個室でシャワーを浴びてからソファで眠ることにしたのだが、いくら大きなソファでも
「私の計算によれば、今回のシオン君のやる気率は三十五%……隊長どころか兵士として有るまじき数値を叩き出しています」
そこでフィオーナは、「貴方のせいでベッドが使えなくなったわ」と理不尽にもシオンをソファから放り出してしまったので、半分は自分のせいでもあるから否定できず、しぶしぶ自室に戻ろうとしたら「食い散らかしておいて事が済んだら去るというのはたちが悪いわね」と嫌味な言い回しで引き止められ、結局新しい毛布を渡されて床で寝る羽目になった。
「尚、やる気率は私キールの考案した数値であり、"攻撃回数×一〇〇/的の数×二"で算出されます。知性の欠片も存在しないネーミングはボスコーン総長によるもので、もとは"士気及び積極性値"と呼んでいたのですが、『長い』との総長の指摘により、本日より現在の呼び名に変更しました。さらにこの至極単純な算出式は私のような高い計算力を持たなくとも誰でも容易に暗算可能であることが利点ですが、これまた総長に『無駄に複雑だ。もっと簡単にしろ』と要求されたため本日より簡略化した結果なのです。本来は様々な要素が関連するためもっと複雑な……ともかく、シオン君も覚えてくださいね」
比較的床の上で眠りやすいのは僕のような哺乳類型四足歩行ポケモンの利点で、ふんわりとした絨毯を敷いた床の寝心地は兵舎の治療室と比べたら十分に快適だった。
「さて、本日の対飛行部隊訓練個人の部において、士気お……失礼、やる気率の北凰騎士団平均は実に一五七.三五五%。平均三一.四七一回攻撃しています」
しかし、ようやく眠りに落ちたところでフィオーナにたたき起こされたのだ。
「ついでに命中率に関して申し上げますと、最高がアスペル君の一〇〇%、最低が貴方の七.
何かと思ったら「やはり貴方を冷たい床に追いやるのは良心が許せませんわ。貴方がソファを使いなさい」などと優しく声をかけやがったので怒るわけにもいかず、ソファへと移動。
「最終結果と致しまして、各隊一斉攻撃による点数、副隊長以上の兵員個人の部の点数を総計し、さらに遠距離射撃に強い後方支援部隊である九番、十番隊はハンディキャップとして点数を四割差し引いた結果――」
フィオーナは大人しく床で眠るのかと思えば、床の上で丸まって数秒もしないうちにソファに戻ってきて「固くて寝られないわ。やはり無理があったようね」とシオンの横へ滑り込んできたのだ。
「――本日の清掃は九番隊に決定です。主に某隊長の成績不振が原因ですね」
で、どっちかはっきりしてよとかなんとか文句を言った覚えがあるのだが、いつのまにか二回戦に突入してしまったのがいけなかった。疲れて眠ったのは結局四時半ごろだ。三十分後に孔雀さんに起こされて、慌てて朝の用意をして六時の朝礼に駆けつけ、ぼんやりした午前中を過ごし、昼休みに仮眠を取ったものの不十分で、そのまま午後の訓練が始まってしまい、今に至る。
「隊長っ。いつも通りの成績なら最下位は免れてたっス!」
てゆうかもう訓練終わっちゃったみたい。わーい。早く帰って寝よ。
……え。最下位?
「ラウジ、僕寝たい……」
「ダメっス」
あちこちで皆の嘆息が聞こえた。ほんと頼りない隊長だよね――僕。
「まさか牝との情事に耽って寝不足などということはあるまいな?」
ぎくぅっ。
「総長。シオン君も男の子ですからそのような事もあるかとは存じますが、流石に騎士の端くれですしそれは」
ぎくっ。ぎくっ。キールさんはよくわかってますね。あはは。
「冗談だ……こやつを隊長に昇格させたのも雇い主からの圧力でな」
見抜かれていたのかと思った。危ない危ない。
「前九番隊隊長が歿せられた時に、九番隊副隊長のラウジと十番隊副隊長のミセト、そして彼の三匹が候補に挙がりましたが、三名の中では彼の実力が最上位でしたけどね」
「冗談だと言っただろう」
「成程。『冗談』とは今言ったことが冗談だというのではなくこれから冗談を言うという意味だったのですね。む? ということは――」
うん? 冗談で冗談をこれから今言って……わけわからなくなった。でも、キールさんの言うことがたまに理解できないのは仕様だと思う。
キールとボスコーンは昨日に引き続いて宿直のため兵舎に向かい、他の私兵隊員たちも解散して九番隊だけが野外演習場に残された。
「さあシオン隊長。掃除っスよ掃除」
ラウジ、ちょっと怒ってる?
「まだ眠いとか抜かしたら雷落とすっスよ」
やっぱり怒ってるっぽい。体が資本なのにろくに睡眠を取っていないなんて国を護る兵士として失格だから、仕方ないか。
でも諦めないのが僕クオリティ。なんとかして楽する。
「ねえラウジさん……」
「ひぎっ、何スか隊長、イキナリ牝声で……」
猫なで声でラウジの首に擦り寄って、甘い吐息を吹きかけた。
「わたしは疲れているのです。わたしの分もお掃除お願いしてよろしいかしら?」
「は、はい、喜んでーッ! 愛しのシオンさんのためならどこまでも掃除するっス!」
あきれ返る隊員たちの中を突っ切って、ラウジはどひゅんと清掃用具庫の方へ走っていった。さすがライボルト、素早さも半端じゃない。
どひゅん。
――と、思ったら最速で戻ってきた。
「って、ふざけんなっス! 騙されないっス!」
「やだラウジさんったら。暴言はいけませんわ」
「えーいや何でも。はは、かわいいっスねシオンさん……」
昔取った杵柄というかなんというか、実はこういうのは得意なのだ。ボスコーンやシャロンに見られたら何を言われるか分かったものではないから、九番隊員だけのとき限定仕様だが。
「……じゃねえっス! こんな時だけしおらしいフリしても無意味だっつーのっス!」
「うふふっ、ラウジさんって面白い喋り方をなさるのね」
「殺っス」
「や、殺っスってちょっと待っ――」
ラウジの
「なんでもかんでも語尾にスをつけたからって敬語にならないから! 殺すってこんどこそそれ暴言だってば! てゆうか暴力はダメ……けふん、暴力はいけませんわラウジさ――ひぎっ」
バチッと音がしたのと、黒雲が光ったのと、首筋から尾にかけて痛みが走ったのはほぼ同時だった。本日二回目、シオンはばたりと地面に倒れ伏した。
「声色調節してるヒマなんかあったら避けろっス。ほんと絶不調っスね……」
調子に乗りすぎたかな。でも、このまま気絶して寝てしまったら掃除しなくてすむかな……?
「九番隊、清掃始めるっスよー!」
ほら、副隊長が勝手に命令してくれてるし。
「隊長。アンタさっさと起きてくださいよ? 加減したでしょ? それとももう一回しびれたいんスか?」
やっぱダメか。副隊長の自分を飛び越して隊長に就任したシオンを一切の妬みもなくここまで慕ってくれてるとはいえ、ラウジはこれでもシオンの一年先輩だ。時に部下ではなく先輩の顔に戻ったりする。
「いやです……掃除すればいいんでしょ掃除すれば……ふぁ~あ……」
しぶしぶラウジから箒を受け取った。柄が短く、首に結ぶための紐と口に咥えて使うための取っ手が付いている箒は四足歩行型のポケモンに合わせたものだ。
「君……少しいいかね。アスペル君はもう帰ってしまったのかね?」
と、そこへ野外演習場には場違いな
「あ、はい、先程……あなたは?」
「おっとこれは失礼。私はハリー・ディテック。しがない私立探偵業を営む者だ」
「シオン・ラヴェリアです。北凰騎士団九番後方支援部隊隊長を務めさせていただいてます。アスペル先輩にご用ですか? 言伝を預かりましょうか」
「その歳で隊長とは……いや。実は彼に取り合ってもらおうとね。ここの兵士に捜査協力を依頼したく。訓練の終了を見計らってきたんだが、いささか遅すぎたようだね」
「はあ。そーさきょーりょく……ですか?」
この国では滅多に聞くことのない単語を認識するのに少しラグがあった。寝不足のせいもあるけど。そーさきょーりょく、捜査協力ね。
「北凰騎士団の総長が兵舎におられますが」
「いや……表沙汰にはしたくないものでね。そう正式に申し込むのも気がひけるというか……この国の探偵など、世間の口コミと評判だけで成り立っている職業だからね」
「非公式、ということですか? べつに北凰騎士団には団則とかないんで、構いませんよ。僕の率いる九番隊からなら」
「おお、そうか。ありがたい」
「しかしどうして兵士が必要なんです?」
尋ねると、ハリーと名乗ったフーディンはスプーンで形のいいヒゲをすぅっと払った。
「危険を伴うからね。自らの命を守る術を十二分に心得ている者でなければならない」
「キケン? 命を守るってそれ、死ぬ可能性もあるってコト?」
アスペル先輩の知り合いらしいこの
「いや、万が一というやつだ。流石に命の危険までは伴わないが。ああ、それと」
ハリーは両手のスプーンをくるりと一回転させた。
「協力者は男子限定、容姿端麗である必要が……ああ、勘違いしないでくれよ。私の趣味などでは断じてないからな。捜査過程でその必要があるのだ。アスペル君に訊いたのだが、北凰騎士団には傾城の美女ならぬ美少年と噂の隊長がいるらしいね。できればその隊長とやらに頼みたいのだが今は留守のようだし、君のところの隊でも構わない」
美少年隊長って誰。たぶんキールさんでしょキールさん。かわいいし。少年じゃないけど。
「美少年、ね……最近少年ばかり狙われてるっていう誘拐事件のお話を聞いたことがあります。囮捜査か何かですか?」
「……うむ」
ハリーはため息をつき、右手に持ったスプーンをくにゃりと曲げた。
「伏せておこうと思っていたのだが、君は勘がいいね。さすが、若いながら一隊を率いる女性……いや、少女だけのことはある。失礼だが歳は幾つだ?」
ラウジや隊員達が箒やチリトリを片手にこちらを見て笑っている。まあ、初対面ではそうなっても仕方ない。一方的に勘違いして襲い掛かってくるような男もいるんだから。
「……十九です」
「おや、もっと下かと思っていたよ。仮にも騎士の君にこう言うのは失礼かもしれないが、幼さが残っていたものでね。十九といえば、アスペル君の言っていた美少年隊長と同い年か。相手が女性を狙った誘拐犯なら、迷わず君に依頼しているところなのだが」
ハリーは曲がった右手のスプーンをまっすぐに戻し、今度は左手のスプーンとクロスさせて二本のスプーンを
や、そんなことはどうでもいいから、まずは勘違いを正してあげないとね。
シオンはハリーの顔を見上げて、上目使いで彼の瞳を覗き込んだ。
「ハリーさん、でしたよね。アスペル先輩にその美少年隊長の名前、聞いてません?」
「いや。ほんの茶飲み話で彼が職場の話をしていただけだからな。名前までは聞いていない」
シオンを牝と勘違いしている牡ならこれで少したじろいだりするものなのだが、ハリーはヒゲ一本動かさなかった。牝に興味がないのか、単に精神力がありすぎるだけなのか。
「十九歳の隊長って北凰騎士団には一人しかいないんですよ。僕が自分で言うのもおかしな話ですけど、先輩の言っていた美少年隊長ってのはたぶん……」
「何だと?」
お。ヒゲがぴくりと動いた。さすがのフーディンの精神力でも驚きは隠せないみたい。精神力に勝った勝ったー♪
「き、君が……? まさか……む、しかし、君はさっきそこのライボルトと会話していて……確かに女性の声で女性の言葉をだね」
「あー……えーと……それ、聞かなかったことにしてくれません?」
あの時からいたのか。全然気づかなかった。宿直で警備してるはずの一番隊と十三番隊は何をしてたんだ。
シオンがにこりと笑顔を向けると、ハリーはうむ、と頷いた。
「残念ながら私は一度聞いたことは忘れないが……身内専用というわけか。私の口から他
「そ、そんな感じかな……」
「よし。では口止め料として君に捜査協力を依頼しよう」
「は?」
なんでそうなるの。ていうか口止め料って、もしかしてタダで危険を伴う犯罪捜査に協力しろっての?
「無論、事件解決のあかつきにはそれなりの礼はするよ」
「や、お礼をするって言われても。ていうか強制ですか? そうなんですね。受けなかったら口の軽いアスペル先輩あたりにさっきのアレ言っちゃうんですよね」
「うむ」
うむじゃない。
好中年だと思って油断していたがこれがなかなかどうして、抜け目のない男だ。ヒゲめ。
「……わかりましたよ。でも、囮捜査って……僕も簡単に訓練休むわけにもいかないんで、そんなにまとまった時間は取れませんよ? 有事の時以外は訓練が仕事ですから」
「隊長、それ本気で言ってるんスか? 昨夜も彼女とラブラブで今日の訓練に響きまくりだった仔の台詞とは思えないっスねぇ」
と、ラウジが首から箒の紐を外しながら会話に割り込んできた。また要らんコトを。
「
ラウジはくふふ、と笑って場を離れ、隊員たちに掃除の終了と後片付けを命じた。
ともあれ会話の間に清掃は終わってしまったらしい。ラッキー。
「シオン君、だったね。安心したまえ。囮捜査とはいえ時間は夜だ。訓練の時間を削れとは言わない。その彼女とやらにはいささか可哀相かも知れんがね」
「いえっ、真に受けないでくださいあんなひとの言うコト! とにかく、夜に僕が囮として誘拐犯の出没しそうなところを歩いてればいいんですね?」
「ああ。時間がないなら、仕事の帰りに少し回り道してくれるだけで構わない。情報を撒けば、向こうでもこちらを探すだろうからね」
なんかよくわからないけど丸め込まれた。
これもきっと寝不足のせいだ。ほんとに今日は早く帰って寝よう。
あれから休日を一日挟んで四日になる。打ち合わせどおり回り道をして繁華街の路地裏を通って帰っているのだが、未だ誘拐犯とやらは現れない。
ハリーとの約束では、誘拐犯が現れたら様子を見てとりあえずぶっ飛ばせばいいことになっている。ただしハリーの名は決して出さないようにと。訳あってハリーが嗅ぎ回っていることが犯人に知れるとまずいのだという。
「お帰りなさいませ、シオンさま……」
シオンの帰りを待っていたのだろう、ヴァンジェスティ家の屋敷の門の前に立っていた橄欖が頭を下げた。
「ただいま。寒いから中で待っててもいいって言ったのに」
「いえ……わたしは大丈夫ですから……」
橄欖は屈み込んでシオンの首に止めた鞄のボタンを外した。
ランナベールは温暖な気候だとはいえ、季節は真冬だ。午後六時ともなれば気温もかなり下がっている。
「前みたいに遅くなることもあるし……って、そういえば帰りが遅いときもずっと待っててくれたの?」
「はい……それはもちろんですが……七時を過ぎた辺りで……フィオーナさまから中に入っておくようにとの仰せがありまして……」
律儀にもほどがあるでしょ、と言いたいところだがべつに迷惑しているわけでもなく、むしろありがたいし、実際シオンが言っても聞いてくれないからどうしようもない。橄欖自身がそうしたくてやっていることを無理にやめさせるのはかえって悪いんじゃないかとさえ思えてくる。
「ありがと。でもさ、前に言ったけど最近帰りに用事があって急に遅くなるかもしれないから、そのときは家に入っといてよ」
橄欖はシオンを門の中へ入れ、シオンの鞄を片手に持ち替えて、もう片方の手で
庭を歩くこと数分、ようやく玄関口へたどり着く。
「ただいまー……れ、フィオーナ?」
「お帰りなさいシオン」
「お帰りなさいませー」
フィオーナが玄関でシオンの帰りを待っているなんて不思議なこともあるものだ。たいていこの時間は大学のレポートだのなんだのと自室に篭っているのだが。
「わたしが夫として迎える相手の帰りを迎える事に何か不満でも?」
「や、珍しいコトもあるなー、って」
フィオーナはあからさまに不機嫌そうな表情をして、斜めの視線を向けてきた。
「良からぬ噂を聞いたわ。近頃、美少年ばかりを狙った連続誘拐事件が発生しているとか……最近帰りが遅いようだけれど、よもや貴方が拐かされてしまわないかと不安なのよ」
「そうですねー。シオンさまは既に齢十九とはいえキレイなお顔をしていらっしゃいますものねー」
婚約者に貶されながら家政婦さんに褒められるとは複雑な気分だ。
「よろしければ迎えを遣りましょうか? 孔雀がついていれば誘拐犯如き……」
「あのね。僕は兵士なんだよ。しかも一小隊を任せられてる指揮官なんだよ? ゆーかいはんなんかに後れを取るわけないでしょ。だいたい孔雀さんって、なんで僕が使用人の女の子に守られなきゃならないのさ」
「シオンさま……姉さんは既に二十二です……既に女の子などと呼べる年齢では……」
後からか細い声でつっこみが入った。論点が微妙にずれてるし、捨て置いてもよかったけど、一応橄欖は僕の侍女だし無視するのも気がひける。
……つっこみって勢いが大事な気がするんだけど。
「あー、そうだね。ていうか大人の女性でも一緒だけどね……と、とにかく。訓練場まで来られると、あの、恥ずかしいっていうかなんとゆーか。そもそも僕が誘拐犯に狙われたら孔雀さんの方が危ないでしょ」
無視と変わらないじゃないのこれじゃ。
「……ならば、せめて周囲には気を配って歩きなさい」
くるりと踵を返し、食堂へと続く正面の廊下の方へ歩いていった。孔雀もシオンに軽く頭を下げてその後にぴったりと付いてゆく。
「ああ、そうだわ」
少し歩いたところで、フィオーナが振り返らずに立ち止まった。
「夜九時に屋敷の全ての門を閉めるというこの家の規則はご存知ですね? いかに婿養子と雖もその規則を曲げることは許さないわよ」
「わかってるよ」
ゆーかいはんぐらい一分でボコボコにして帰ってこれば問題ないんでしょ。
「シオンさま……決して……侮らぬよう……」
「ふぇ?」
僕、今口に出してた? や、出してないよね?
橄欖がシオンの要求を先読みして行動することは常だが、時に心の中まで読まれているのではないかと思うことがある。
「いえ……シオンさまから……来たる対決への……油断……と申しますか……そのような感情を……受信致しましたので……」
「ああ、それね……頭のツノ……感情を受信するんだってね……」
それにしても『来たる対決への油断』って、かなり細かいところまで読み取られてるんですけど。キルリアの感情受信能力ってそこまで高かったっけか。まあ、ツノが二本ある分サーナイトよりは上なんだろうけどさ。
「でも送信してない感情まで受信するのはやめてほしいなぁ……と思ってみたり。あ、今度は出しちゃった」
「しかし……そうしなければ……わたしの行動が遅れてしまいます……侍女たる者……常にお使えするご主人さまのご動向を伺い……御心をいち早く察し……お望みを叶えて差し上げるのがつとめでございます……」
橄欖の朱い双眸はまっすぐにシオンを見つめていた。真摯なその瞳に、思わず胸がどきりとしてしまった。
そんなコト言われちゃうとさすがに何も言えないよね……
◇
八日目。
今日もゆーかいはんは来ない。いい加減忘れそうになってしまうのだが、いや、ひるあんどんとやらはいけない、油断はいけないと思い気を引き締めなおし、周囲に注意を払いつつ夜の路地を歩く。
こうなったらアレか。もう究極といってもいいくらいのベタな展開を期待して一つやってみるか。
シオンは大きく息を吸い込んで、天に向かって叫んでやった。
「ねえゆーかいはんさーん! ここに超かわいい男の子が
よーっよーっ……ーっ……
……来るわけないよね。
僕のばか。
それにしても何やってんだろハリーさん。ホントに情報撒いてくれたのかな。
十二日目。べつに四の倍数が好きってわけじゃないけど。
油断するなと言われてもこれではさすがに無理がある。もうすぐ二週間が経ってしまうというのに、ハリーは音沙汰無しで、もちろん肝心の誘拐犯も現れない。
概して、災難は意識の外に追いやられた時にやってくるものだ。
「これはこれは綺麗な……お嬢さん?」
「何故に疑問形?」
見るからに怪しげなジュカインに呼び止められた
「ワタシの美少年センサーが反応しているの。どうしてかしら? 狂っちゃったのかしらね」
狂っているのはその言動だ、なんて、寒気がしてまともな返答ができない。や、べつに冬だからとかそういうのじゃなくて。
このジュカイン、見た目も声もフツーにオッサンなんだけど。なんでオネエ言葉?
「あー。べつに狂ってはいないと思うんだけど」
そうじゃなくて。身体の大きさ以前に、まず見た目と中身が一致してないんだからそこを教えないとなんか気まずいでしょ?
ん? 待てよ。なんで僕ってば自分のコト棚に上げて相手にその可能性を考えなかったんだろう。
そうだ。きっと同じ穴の
「あのー、女のひと……ですよね? 実は僕もあなたと似たような境遇? っていうかあの、さっきから僕って言ってるように――」
「アナタ……もしかして」
「もしかしても何も、僕は男の子ですよ?」
見た目オッサンの女性(?)のジュカインは目を血走らせてシオンに迫ってくる。
「女じゃない……?」
「ええ」
「なんてキレイなの……まさかあの噂が本当だったなんて!」
黒ずんだ赤の瞳はまっすぐシオンに向けられている。
刹那、ジュカインはシオンに向かって手を伸ばしてきた。シオンは身の危険を感じ咄嗟に跳び退ったが、ほぼ同時くらいのタイミングで跳躍したジュカインはシオンに追いつき、さらに顔を近づけてきた。ニヤニヤと嫌な笑いを顔に貼り付けて。
「アナタ、ちょっとワタシと一緒に来てくれない? 悪いようにはしないワ」
「や。こんな時間に
これが。この変なオッサン的オバサンが誘拐犯なのか。
えーと、どうするんだっけ。とりあえずぶっ飛ばしてハリーさんのところへ連れて行けばいいのか。
「アラ、抵抗する気?」
答えずに、間近の奴の顔めがけてサイケ光線を放った。
ゼロ距離射撃、たかがオッサン的オバサンジュカインには反応――できたの?
「熱っ……ワタシの額が焦げたじゃないの!」
大きくスウェーバックしてサイケ光線を躱したジュカインは、すぐさま両肘の葉の間から
ポケモンの技には大きく二種類ある。身体に備えた器官の類は
「きみ……ただの誘拐犯じゃないよね?」
「アナタこそ何者なの? すごい早撃ち……宝珠の煌きに気づくのが少しでも遅れたら危なかったワ」
とりあえずサイケ光線の連射で蜂の巣にしてやろうかと思ったが、そうやすやすと殺れる相手じゃない。市街戦の訓練は経験しているとはいえ、こんな狭い路地で、それもそれなりの戦闘能力を持つ相手と向き合ったのは初めてだ。
「少しくらい傷つけても仕方ないワね。あとで治してあげるッ!」
考えあぐねている間に先手を打たれた。ジュカインは叫ぶと同時に口を開けたかと思うと、小さな光弾を次々と吐き出してきた。シオンは建物の壁を駆け上がるようにして跳び、空中からシャドーボールを二、三発返した。シオンのいた地面に着弾したエナジーボールがパン、パンと軽い爆発音を立てた。ジュカインはシャドーボールを冷静に見極め、斬り落とそうと
――あれ?
キーン、と頭の中心に響く耳鳴りのような波動。同時に、白い靄に包まれたかのように視界が閉ざされた。
まずい。こんなときにどうしてしまったんだろう。ここで倒れてしまったら間違いなくあのジュカインに誘拐されてしまう。この感覚は何だ。今までにも何度か……
……あ……精神干渉、か……催眠術……そう……反応が……すぐに気づいていれば……防護壁を張ることも……できた……の……に……
医務室のあれに比べたらまだこの世の物質らしい感覚だ。しかしかなり無茶な姿勢を強要されているらしく、身体のあちこちが苦しい。加えて、時間の感覚の欠如、空気の悪さが不安感を煽る。目を開けるのが怖い。さらに悪いことには、口内に違和感がある。猿轡まで嵌められているようだ。
とはいえこのままじっとしていても事態は好転しない。
シオンは恐る恐る目を開いた。
――薄暗い部屋の中だ。部屋の隅に置いたベッドの上、壁を背にして横向きに寝かせられている。殺風景な部屋の真ん中には四角いテーブルがあり、その上にシオンの鞄があった。その中身――
あのジュカインはこの部屋にはいないみたいだ。部屋には正面に玄関扉と思しき鉄の扉があり、向かって右、シオンの頭の上辺りに隣の部屋に続く扉がある。
と、その扉が急に開いた。
「あら。やっとお目覚め?」
隣の部屋から出てきたのは誘拐犯のジュカインだった。が、それよりも気になったことがある。ちらりと見えた部屋の中に、十三歳から十六歳くらいまでの少年がいた。パチリス、ゼニガメ、ラッタ、ラフレシアと、確認しただけでも四匹。
「……あの仔達は今日で廃棄処分にするワ。皆カワイイ顔してるけど飽きが来るのよねえ」
「
何なんだ一体。
いくら無法国家でも悪行が度を越して秩序を乱せば保安隊に目をつけられるし、
「さぁて。早速だけどワタシの為に働いてもらうワよ」
ジュカインはすぅっと手を伸ばして、素早くシオンの猿轡を解いた。
「……誰に言ってるの? これくらいで僕が大人しくお前なんかに従うとでも……」
真っ先に
と、見せかけておいて実は
反射神経が尋常じゃなかったから、サイケ光線は躱されてしまう可能性がある。でもこれなら避けられまい。
シオンは口腔内に集束させた光を星型の光弾にして吐き出した。幾千もの光弾が奴を貫……かない?
スピードスターはまともにジュカインの顔面を捉えたが、表面で弾けて霧散するばかりで一向にダメージを与えている感じがない。このヒト顔面固すぎ。
――違う。そんなにも固い顔面の皮膚は鋼タイプの専売特許だ。草タイプごときが鋼の顔面でたまるか。これは、僕のスピードスターが……
「
れすとれいなー?
どこかで聞いたような。
見れば、
石は技の威力を高めるための
「嘘……これ、保安隊標準装備の……」
「詳しいじゃない。アナタ保安隊に捕縛されたことあるの? でもワタシの方が詳しいワよ。まん中のつるっとしたやつはね、
シオンの知識では半分ほどしか理解できなかったが、でたらめを言っているようには聞こえない。
「……教える義理なんてないよ。こっちだってきみの名前すら知らないんだから」
「リリアンよ。ついでにワタシ、こう見えても牡だから間違っちゃイヤよ」
やっぱりこう見えてもおん……牡!?
ま、見た目通りなんですけど。案の定そっちのヒトなわけね。ていうかお前全部オッサンだから。
いやいやそんなコトが聞きたかったんじゃなくて。
「見ればわかるってば。もう一つ訊いていいかな? どこでどうやって催眠術なんか覚えたの?」
あくまで冷静に、媚びることも嘲ることもなく静かに話す。圧倒的不利な状況下だが、相手にそれを意識させないように。大丈夫、誘拐するくらいだからそう簡単に僕の命を取ることはしない。
「催眠術? あれはアナタが勝手に倒れただけよ。ワタシはこれ幸いとアナタをここへ連れてきただけよ?」
「なに自分に罪はないみたいな言い方してんの。連れてきたコト自体が既に問題でしょ。あ、僕の名前、アスターっていうの」
適当に会話を続けて、あわよくば話術で
あわよくばじゃない。それ以外の方法でこの状況を打破する術はないだろう。
「アスターちゃんね。分かったワ。それじゃあワタシの為に働いて――」
「あ……うん。でもその前に僕トイレ行きたいからコレ外してくれないかな?」
なんか失敗しそうな予感。数日前に同じことを誰かに頼んで拒否された記憶が。
「いいワ」
え?
嘘でしょ? ホントに引っかかっちゃったの?
リリアンはベッドの横に屈んでシオンの四肢を縛っていた縄を
「面白いこと言うのねアナタ。本当かどうか確かめてあげるワ」
「ひゃっ――!」
ぞくり、と全身を悪寒が駆け抜けた。もう片方の前足で大腿を擦られたのか。
「何するんだよこのオカマ!」
「嘘ついて逃げようったってそうはいかないワ。ワタシが
浅はか……こんなのに浅はかって言われた……
「働いてもらうってのはワタシの身辺の世話、もちろん夜の相手も含めて。アナタみたいな美少年の召使いを抱えるのが夢だったの」
「……これ外さないと僕動けないよ? どうやって働かせるのさ。外したら外したできみの首から上がなくなると思っててよ」
「心配はご無用」
リリアンはシオンを見下ろすように腕組みをして舌なめずりした。
「まずはそのキレイなカラダに刻み込んであげるワ。自分の立場というものを分からせるためにね。調教に成功したと確信してから外してあげる。その時にはきっとアナタ、泣いて喜ぶワ……『ありがとうございますお嬢様!』ってね」
お嬢様じゃないだろ、というツッコミも飽きてきた頃だが、これはもしかすると人生始まって以来のピンチかもしれない。
初陣で敵に包囲された経験のあるシオンは大抵の危機では揺るがないが、仲間もおらず自分の力すら頼れない状況で、一つの部屋に変態クソオカマと
一つの部屋……? そうだ。
「ねえ! 隣の部屋の仔! 僕を助けてくれたらきみたちを解放してあげられるから! 僕はランナベール私兵隊の騎士なんだ、お願い、
「無駄よ。あの仔達はワタシに逆らえないもの。そしてさり気なく驚愕の事実を突きつけてくれたワ。アナタ、兵士だったのね。道理で……」
ダメか。もしかすると軟禁されている子供たちも
「ちなみにワタシは元保安隊員なの。戦争ならアナタに勝てなくても喧嘩ならお手の物よ」
保安隊員。ランナベールの街の治安を守るための、ヴァンジェスティ保安庁の管轄部隊。法が無い故に一目で悪事と分かる行為に限って、しかも現行犯逮捕しかできず、人員不足故に完全な治安の維持はできていない。さらに彼らは金さえ払えば何でもやるハンター達を目の敵にしているため、治安維持部隊と言うよりほとんどハンター掃討部隊と化している。
それにしても、悪人を懲罰する保安隊員がどうして誘拐なんかに手を染めてしまったのか。
「保安隊員なら喧嘩を止めるほうでしょ……」
「
「解放じゃなくて欲望に縛りつけた、の間違いじゃないの? 誰だか知らないけど」
「よく喋るコね。調教に苦労しそうだワ」
リリアンは両腕を振るい、肘から
何が始まるんだろう。これはさすがに震えた。こっちはほとんど無抵抗だ。
「二度とワタシに逆らわないと誓うまで」
リリアンは悠々と
「誓うまで、何?」
「三秒の猶予を与えてあげるワ。これから三つ数えるから選びなさい」
ちょっと待て。流れ的におかしいでしょこれ――
「一つ」
本気か。三秒で召使いを抱える夢とやらを失ってもいいというのか。
「二つ」
やばい。誓わないと死ぬ。誓ったら精神的に死ぬ。どうすれば。
「三つ」
い、言っちゃったよ三つ。どうしよう。そうだ。肉体が死んじゃったら終わりだ。精神的に蘇ることはできる。たぶんだけど。一回ぐらい死んだっていいじゃないか。
「に、二度と――」
「四つ」
「はぎゃワぅッ!!?」
いきなり玄関扉が内側に吹き飛んで、リリアンの後頭部を見事に捉えた。そして何の意味があるのか分からないが、誰かの声で四つ目がカウントされた。聞き覚えのある声だった。
「すまないシオン君。私のミスだ。こいつがこんなにすばしっこいとはね」
「ハリーさん!」
両手に長いスプーンを持ち、肩掛け鞄を掛け、左手首に装着した
そういや囮捜査だったっけ。捕まっちゃったけど。
「ハリー……ですって?」
よろよろと立ち上がったリリアンが忌々しげに振り向いた。
「ナイリル。久し振りだな」
「それは捨てた名前よ」
「
知り合いなの? 誘拐犯と探偵が?
「保安隊を辞めたとは聞いていたが……どういうことだこれは? 何故お前ほどの
「この街に悪も正義も無いワ」
「……そうか」
ハリーは鞄から素早く小振りのスプーンを引き抜き、リリアン――ナイリルに向かって投げつけた。いや、投げつけたのではない。この場合、手の中から飛ばしたという表現が正しい。
「くッ……」
ナイリルは胴体を捻ってこれを躱した。やはり反射神経が尋常じゃない、と言いたいところだが残念ながらハリーの方が一枚上手だった。
「それは銅製でな。銅は銀に次いで高い熱伝導率、電気伝導率、
「はーい」
前門のフーディン、後門のエーフィ。
――構図的にはあんまし怖くないね。
さりとてナイリルにとっては由々しき事態だ。勝ち目があるとすれば手は一つしかない。
「チィッ……ハリー! 図ったワね! こんなカワイイ仔を雇って――」
さり気なく、少なくとも本人はそのつもりなのだろうが、テーブルの上に置いてあるシオンの
当然、黙って見てなどいない。伸ばしたその手は
「アァアアァァッ!」
撃った自分で言うのもなんだけど痛そう。焦げてるし。
「ナイリル。覚悟を決めるんだな」
「ふ……たかが探偵と一騎士に追い詰められて終わりか……奴を誘き出すには至らなかった……」
「は?」
刹那、ナイリルの体が仰け反ったかと思うと何かが飛び出した。速すぎて視認できなかったが、それはハリーの脇をすり抜け、一瞬の間に空の彼方へと消えてしまった。
「あのロゼリア……最初からワタシを……」
「ロゼリア……だと?」
「邪魔よ!」
「うおっ――!」
ナイリルは弾かれたように飛び出すと、ハリーを蹴飛ばして外へ逃げ出し、柵を越えて飛び下りた。この部屋はどうやらアパートの二階だったらしい。
「ハリーさん、隣の部屋に
シオンの中に何かが語りかけてきた。あの瞬間。ナイリルから飛び出した何かを見た時だ。
ナイリルをこのまま逃すわけにはいかない。
次々と屋根を渡って逃げてゆくナイリルの姿を視界に捉えた。初めて会ったときの速度には全く及ばない。至って普通、標準より少し上位レベルのジュカインの動きだった。僕のほうが速い。
「見つけた」
シオンは今ナイリルから取り戻したオーダーメイドの
額の宝珠の前で
でも、いいか。
走りながら、奴の背に向けてサイケ光線を撃った。一発じゃない。二発、三発、十発、数えきれないくらい。一秒間に三発くらいのペースか。数を撃てばそのうち当たる。背中越しに避けられるほど甘くはない。
「アナタ……! 善良な一般市民を巻き込んでもお構いなしだって言うの!?」
奴の足元で爆音が轟き、屋根の瓦が弾け、煙が上がる。七色に揺らめく爆風が体勢を崩す。
乱射したうちの一発がついにナイリルの背中を捉えた。高圧縮率の
「ヒギャァアアアァァアッ――!」
そのまま家と家の間の路地へと転落する。この辺りは主に二階建てのアパートが乱立しているから、落下距離もそれなりにある。屋根の隙間から、地面に叩きつけられたナイリルの呻く姿が見えた。
錐揉みしながらの跳躍、奴の上でくるりと仰向けになる。僅か数秒で自分の身体の大きさを超えるほどに成長させた
ナイリルは仰向けに倒れたまま、驚愕と畏怖、恐怖に目を見開いて僕の姿を睨みつけていた。
「アナタ……何がそんなに――」
四肢を開き、抱えていた
妖の
「――楽しい――の?」
一瞬後の着弾。
断末魔の叫びを上げることすら許さなかった。
何かが外からの圧力で押しつぶされたような音。渦巻く黒い炎。押し寄せる熱波。対象範囲を狭めた分、威力は申し分なかった。
痕跡すら残さない。
――あれ?
僕は何をそんなに必死に……?
「いや、済まなかった! この通りだ!」
アパートに戻り、一緒に
「僕……騙されてたんですね」
囮捜査の内容には続きがあったのだ。シオンには遭遇次第ぶっ飛ばせばいいなどと言っておきながら、その実シオンに貼り付いていたのだという。そしてあの時、
「うむ……否定はしないが、敵を欺くにはまず味方からというだろう。ナイリルはあれで戦闘の勘はいい。シオン君が手加減などしていたりわざと捕まるような素振りを見せれば感づかれてしまう」
「横から催眠術なんかかけるほうが気づかれそうですけど」
「催眠術は暗示術の一種だ。君もエスパーなら知っているかもしれないが、暗示術は被術者が抵抗しようとすればするほど効果が落ち、逆に受け入れようとすればするほど効果が上がる。私はこの暗示術が得意でね。無抵抗の状態、即ち不意打ちならば本人にも周囲にも気づかれることなく微弱な
このヒゲもただのヒゲじゃなかったらしい。元保安隊員のナイリルの知り合いってことはもしかしてヒゲも保安隊員だったのか。
「どちらにしても一般人にできる芸当じゃないですよね。いくら得意分野でもあの手際の良さには驚きました。これでも僕だって、騎士の端くれなのに」
四角い白い家の並ぶ住宅街は昼間は綺麗なのだが、夜は寒々しい印象を受ける。しかも並んで歩くポケモンがこのヒゲときた。ロマンチックのロの字もない。
「それで、お礼はしてくれるって言ってましたけど」
「ああ。何か欲しい物でもあれば買ってあげよう。何なら昼食も奢ってやるぞ? 後日になるが……待て、そんな怖い顔をするな。詐欺では断じてない。ああ、しかし後日などという曖昧な表現ではいかんな。よし。君が日時を指定してくれ。場所は
思えばシオンに依頼するときもうまく口車に乗せられた気がしないでもないし、今さら詐欺ではないと言われたところで信用には値しない、と決めつけるのは気が早いかもしれない。この国で探偵なんてやってるくらいだから、少なくとも悪いひとではないに違いない。実際、誘拐された
「うーん……それでは今からちょうど二週間後の
「わかった。何が欲しいか考えておいてくれたまえ」
命は助かったことだし。何か高い物でも買ってもらって許すとしよう。
「それじゃ、僕はこっちなので……」
ヒゲと別れ、シオンは屋敷への帰途についた。
住宅街を抜けて海岸沿いを二十分ほど歩くと、丘の上の兵に囲まれた大きな家が見えてくる。
二十分といえば、今何時だろ。スーパーヒゲ催眠術のせいで時間の感覚が狂ってしまった。首に掛けた鞄から
夜の九時三〇分……
「ひぇっ!?」
屋敷の門限って何時だっけ。九時には門を閉めますとか何とか言ってたよーな……
まずい。
ここは全力疾走だ全力疾走。エーフィは速い。体力だって兵士としては標準以下でも一般人に比べたらかなりある方だ。
一気に丘を駆け上がって、塀を回って正門にたどりつく。
案の定といえば案の定だが、門は閉ざされていた。橄欖はいなかった。門の中にも外にも誰もいない。
「おーい……」
本当に入れてくれないのかな? そりゃ物騒な国の実質最高権力者の家だから九時になったら施錠して誰も入れないようにするのは仕方ないけど、ちょっとくらい融通は利くはずだ。
「……シオンさま」
門の中からシオンの耳に届いたか細い声は、この時ばかりは暖かく深みのある声に聞こえた。
「橄欖! 良かったぁ、ホントに入れてくれないのかと……」
「いえ……」
シオンが駆け寄って門越しに近づいても、橄欖は落胆した表情で俯いたままだった。
「……申し訳ありません。フィオーナさまより……このようなことがある度に……家則を曲げていては無意味だと……ですから……絶対に入れないようにと……仰せつかっておりまして……」
「やましいことなんか何もないって。ちょっと誘拐されちゃったりとかトラブルがあっただけで」
「ゆ……誘拐……? お、お怪我などしておられませんか……?」
「大丈夫だよ。誘拐っていっても探偵さんの囮捜査につき合わされただけで……あ、フィオーナにはナイショね。烈火のごとく怒りそうだから。それで……さ。どうしても入れてくれないの?」
「……申し訳ありません……フィオーナさまには再三お願いしたのですが……使用人のわたしなどの発言力では……どうしようも……」
フィオーナに逆らうことはできないってわけか。もともと孔雀さんも橄欖もこの国に来た時は行き場がなくて、フィオーナに拾ってもらったようなものらしい。代々この家に仕えているわけでもないが、単に金で雇われているだけの家政婦ともちょっと違う。
「そう。じゃあ仕方ないね……って、ちょ、橄欖?」
橄欖は目に涙を溜めていた。純粋なまでの奉仕精神を持つ橄欖からしてみれば、自分のしてあげたいことができないという状況は辛いに違いない。
でも、その対象が僕だとあってはなんだか複雑な気分だ。こっちも申し訳ないような気持ちになる。
「申し訳ありません……わたし……」
「や、そんなに謝らなくてもいいよ! 橄欖は悪くないって。この寒いなか僕を待っててくれたんでしょ? ありがと」
「はい……それと……姉さんからこれを……」
橄欖は風呂敷に包まれた何かを門の鉄柵の隙間から差し出してきた。
「ささやかながら……おむすびです……それと、外泊の費用はお持ちでしょうけど……わたしから……少し包んでおきましたので……暖かいものでも買ってください……」
「わぁ、ありがとう! 橄欖も孔雀さんも気が利くなぁ……フィオーナとは大違いだね。ふふ。孔雀さんにもお礼言っといてね。それと寝床の心配はないよ。住宅街の実家は売らずに残してるんだ。弟もセーラリュートの学生寮に入ってて何年も開けっぱなしだけど、壊されたり誰かに乗っ取られたりしてなかったらそこで寝られると思う」
「はい……それでは……夜も更けてきましたので……お気をつけて……」
橄欖に見送られてもと来た道を逆走しはじめた。
縛鎖公園にでも行けばまだ露店のいくつかは開いているだろう。そこで何か買っていこう。買うといえばそうだ、ヒゲめ。どうしてくれるんだよ。家に入れないのも全部ヒゲのせいじゃないか。なにがまず味方からだよ。やっぱりヒゲは許さないコトにしよう。こうなったらめちゃくちゃ高い物買わせてやる。
それにしてもこの一年間、よくもまあ宿直の日を除いて一日たりとも門限に遅刻しなかったものだ。ギリギリで滑り込みセーフということは何度かあったけど。
父さんと母さんが死んでからはリュートの寮生活だったから、実家に帰るのはセーラリュート入学前以来だ。六年間も放置していたらさすがに埃は溜まっているだろうけど、ランナベール西海岸の住宅街に立ち並ぶ白い家は全部頑丈な石造りで、シオンの実家も例外ではない。老朽化には強いから、ポケモンが住めない状態にまで崩れたりはしていないはずだ。
ところで、さっきからずっと気になっていたことがある。
ナイリルが最後に残した言葉。あれはシオンに対する問いかけなのだろうか。
――何がそんなに楽しいの?
僕の顔を見て言った。あの時僕が笑っていたとでもいうの? 僕はただ、あいつから飛び出した何かを見て、あいつの存在を許せなくなっただけなのに。その何かが何なのかはわからないけれど、自分のしたことはわかる。
あの瞬間、その言葉は僕を魅惑するかのように、僕の心を一色に染めた。これまでに目にしたどんな悪事よりも許せなかった。単刀直入に言えば、この手で裁きたいと思った。罪の内容の如何ではなく、あの何かを見たことに起因する強い感情だった。
断罪せよ、と。物騒な言葉とは裏腹に、それは優しくすらあった。母の如く穏やかに、父の如く厳しく、僕に語りかけてきた。
僕は素直に頷いた。
終わってみれば、それは頭の片隅に残るだけのちっぽけな記憶。でも、頭の裏側には――
丘の上から見た冬の夜の海は、月を映して幽く揺らめいていた。
~Fin~
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