SOSIA.Ⅲ
◇キャラ紹介◇
・ハリー:フーディン
私立探偵。元保安隊という経歴を持つ。
・シオン:エーフィ
美少女と見紛うほど容姿端麗なエーフィ。ヴァンジェスティ家の婿養子。
・トモヨ&ペロミア:ミルタンク、リーフィア
喫茶店『
・ビオラセア:ブーピッグ
ケンティフォリア歓楽街のトップ。
・孔雀:サーナイト
陽州国出身のサーナイト。ヴァンジェスティ家の使用人。
◇漆黒の薔薇◇
『……国外に逃亡した可能性もあり、ジルベール国家警察は近くランナベールに特殊捜査部隊を送り込む予定……』
「……またランナベールかい。ジルベール王国は国外逃亡ってたらここばっかりだね。まぁ、私が
店の端に置かれたテレビから流れてくるニュースに、カウンターの奥に座ったミルタンクが煙草を片手に不満を漏らす。
「仕方ありませんよ。実際この街は犯罪者天国なんですから……それよりマスター、仕事中に煙草はやめてください」
ハリーの注文したコーヒーを淹れながら答えたのはウェイトレスのリーフィア。
ランナベール西、ヴァンジェスティ家の屋敷からやや北辺り。ランナベールに住んでもう二十余年になるが、こんな所にアンティークな喫茶店などがあるとは思いもしなかった。知り合い――というか友人の友人、いや、ひょんなことから友人として付き合うようになった彼と来るまではここの存在を知らなかったのだ。
東側の壁は硝子張りで、西側はテラスになっている。硝子ごしにランナベールの白い街並みが、テラスからは碧い海を見渡すことができる。
冬も終わりかけのこの時期、ランナベールが温暖だとはいえ、さすがにまだテラス席に出ている者はいない。
――――寒さのせいでもないか。平日のこの時間帯のせいもあるだろうが、客はハリーを含めて
「お待たせしました、ブレンドコーヒーです」
と、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。笑顔の眩しいその少女は名をペロミアといい、歳は十八だそうだ。二年前からここで働いているらしい。
「どうも。しかし君も大変だね。あの
「こ、声が大きいですよハリーさん!」
例の友人と来て以来ここが気に入ったハリーは度々訪れるようになり、今では立派な常連の
「何か言ったかい?」
ジロリとこちらに目をやったミルタンクはここの
「いやいや、ペロミア君に労いの言葉をかけただけですよ。
「いいんだよ。女とアンタみたいなオッサンしかいないときにシャンとしたって仕方ないさ」
「確かに私はそう呼ばれても仕方のない年齢ですがね。失礼だが
「なっ……?」
トモヨの顔色が変わった。どうやら彼女の年齢に触れるのは
「ペロミア! アンタ――」
「ち、ちちち違います! 私は何も……」
ペロミアは慌てて否定し、横目でちらりとハリーを見た。
「……ご心配なく。彼女に聞いたわけではありませんよ。私は貴女自身の口からつい先ほど聞いただけです」
運ばれてきたコーヒーにミルクを注ぐ。
「私がかい? そんな覚えはないよ。デタラメ言ってんじゃないわ」
スプーンの先をカップに向けると中の液体が回転し、透き通った褐色が不透明な色へと変わった。
「わ……」
ペロミアが小さな感嘆の声を漏らす。
「二十年前のあの事件の時に『
「ちっ……いちいち細かいことまで聞いてんじゃないよ。ていうかさ、あたしゃ
「女性が十代後半を指すのに『頃』は使わんでしょう。良くて二十代前半。中にはあまり気にしないひともいるようですがね。今の返答を聞く限りでは、少なくとも
浮かせたスプーンを空中で回転させ、言い終わりと同時にスッと手の中ヘ戻した。
「……ふん、これだから探偵ってヤツは……」
否定することはせず、トモヨはまた煙草をくわえてテレビに目を向けてしまった。ハリーもそれ以上は何も言わずに手元の資料に目を落とす。現在受けている依頼は浮気調査が一件、組織のアジト探しが一件。浮気調査のほうは対象が愛人と通っているホテルを突き止めたので、後は証拠写真を撮れば終わりだ。
しかしもう一つはそうはいかない。組織のメンバーは全員手慣れた者達で、探っていることが知れればこちらの命はない。加えて依頼人がその事実を把握していないのも問題の一つなのだが、一番の問題は。
――報酬ゼロ。
これには色々とあって、責任はハリーにあるといえばある。別件で依頼人を利用したことに対し、礼はする、とハリーが伝えると、その後日依頼人はこの喫茶店にハリーを連れてきてタダなのをいいことに極めて難解な捜査を依頼した上に、馬鹿高い"レアチーズケーキ"なる物を奢らせたのだ。ハリーとしたことが見た目に騙されてしまった。容姿端麗、人畜無害を装い、甘え上手。所謂小悪魔というやつだ。相手が
カラン、と入り口の扉が開いた。入店した客に、すかさずぺロミアが頭を下げる。
「いらっしゃいませ――あ、こんにちはっ!」
さらに言うと、たった今店内に入ってきたビロードのような菫色の毛並みと琥珀色の瞳が美しい美少女――にしか見えない少年のエーフィが、小悪魔シオンだ。
◇
ランナベール中心部、ヴァンジュシータ。高層建築に囲まれた場所に、木々が並び、噴水とベンチのあるちょっとした広場がある。
ランナベールで最も人気があり、唯一と言ってもいい平和な公園だ。
その秘密は場所柄にある。まず、一方には大きな道路が真っ直ぐに伸びていて、その先には北門が見える。南はヴァンジェスティ本社に接していて、東西に伸びる道路はヴァンジェスティ本社を中 心に大きな円を描き、ヴァンジュシータをぐるりと取り囲んでいる。
そう、ここはヴァンジェスティ本社前に位置する。保安隊が常にうろついているし、ヴァンジェスティ社私兵隊最強の北凰騎士団が護りを固めているのだ。犯罪など起ころうはずがない。
いつしかこの公園は『縛鎖の広場』もしくは『縛鎖公園』と呼ばれるようになった。
物語の中の魔王城のような見た目をしている本社、通称『黒塔』の壁面についた時計を見上げると、針は午後一時五十五分を指していた。待ち合わせの時間まであと五分。
待ち合わせの相手は西側から軽快な足取りでやってきた。
「すみません、ヒ――いえ、ハリーさん。待ちました?」
「いや、私が勝手に早く来ただけだから気にしなくていい。暇だったのでね」
――せめてこの時に気づいていれば、少しは警戒したかも知れなかったのに。
別のことに気を使う必要があったのだ。
「みろ、あのオッサンのオンナ……」
「ありえねー……すげー可愛い仔じゃねーか」
「時代はオッサンか……」
「釣り合わねーけどな……」
近くでたむろっていた若い牡達がこちらを見てひそひそと囁きはじめた。ハリー達に丸聞こえなあたり、囁きと呼べるのかどうかは疑わしいが。
「ときにシオン君。周りの視線が痛いのだが。場所を変えないか?」
「ええ、僕もそう思っていたところですよ。ハリーさんに頼みたいことってのもこんな所では話せませんし……僕の行きつけの喫茶店なんかどうです? いつも
喫茶店か。ランナベールで有名な喫茶店といえば東の歓楽街にある『コーヒーオブザティー』というマズそうな名前の店だが……
「どこの喫茶店だね?」
「西の住宅街の隅にある
「いや、聞いたことはないが。私の知る店などよりはいいだろう。君の方が詳しそうだ。行ってみるか」
住宅街の隅とはまた変わった場所だ。いつも空いているというのは立地条件のせいだろうか。
「決まりですねっ。じゃあ行きましょうか」
言うと、シオンはハリーに寄り添うようにして歩きはじめた。
シオンが近寄った瞬間、少し甘いような、薔薇のムスク香がした。
それが彼の美しい容姿と変にマッチしていて、ともすれば本当に女の子なのではないかと思ってしまうくらい――
「シオン君。君、何か香水でも使っているのかね?」
「あ、これですか……いい匂いでしょう?」
シオンは歩きながらハリーを見上げた。
「それはいいのだが……」
しかし一度そう見えてしまうと自分の認識を修正できないものだ。
このまま彼女――ではなくて彼と目を合わせていると変になりそうなので、ハリーは目を背けて前を向いた。
「女の子みたい、ですか? じつはですね、これフィオーナのと間違っちゃいまして……」
間違うとは、一体何をどうやったら間違うというのだろう。普段から香水なんかつけていたか? そういえば前に会ったときは微かにラベンダーの香りがしていたような気がする。
「でもべつに変じゃないってうちの使用人さんが言うからこのまま来たんですよ」
「変に似合っているのが怖いよ。前から思っていたんだが……そのアクセサリーもね」
「男の子だって首飾りぐらいしますよ」
「まあ、そうだな……」
とはいえ似合っているのだから仕方ない。逆にこの容姿にワイルドな格好はどう奏でても不協和音になる。
「ハリーさんにはアクセサリーは似合わなさそうですけどねっ」
……余計なお世話だ。
◇
二十分ほど歩いただろうか。
白い住宅街の端、西海岸にほど近い場所にその喫茶店はあった。木製の看板が立て掛けてある。
"喫茶・重食
……軽食ではなく、重食。何だ、重食ってのは。
こちら側に面した部分は全面硝子張りで、外から店内が見える。なるほど確かに空いている。客の入りはあまり良くないらしい。
中に入ると、それまでカウンター席で客と話していたリーフィアがぱたぱたと走ってきた。
「いらっしゃいませ! こんにちは、シオンさん。
ウェイトレスの格好をしているということはここで働いているのだろうが、その割には妙にフレンドリーだ。シオンが常連だからだろうか。
「私立探偵のハリーさん。先輩の友人で僕とも知り合いなんだ」
「へぇ……探偵、ですか」
彼女は興味深げにハリーに目をやると、屈託のない満面の笑みを浮かべた。業務用の愛想笑いには違いないのだが、それを感じさせないような自然な笑顔だ。
「いつものカウンター席ですか?」
「や、今日はハリーさんと込み入った話があるんだ。テーブル席にしてくれる?」
「かしこまりました。それではご案内致します」
案内された先の席につくと、リーフィアのウェイトレスはすぐにメニューと水を運んで来た。
「ご注文がお決まりになりましたらお呼び下さい」
そうしてリーフィアは先ほど話していた客のほうへと戻って会話の続きを始めた。
「今日は私の奢りだ。これも先日の礼だと思ってくれていい」
「本当ですか? ありがとうございます!」
ぱらぱらと品書きをめくると、紅茶やコーヒー、サンドウィッチ、パフェなど喫茶店お馴染みのメニューの他に海鮮パエリアやパスタ、ドリアなど港町の洋食店らしい料理、さらにはハリーの見たこともないような異国の料理らしきメニューまで載っていた。看板にあった重食というのはきっと軽食だけではないという意味を成すとともに、このバリエーションの多さを物語っているのだろう。面白いと言えば面白いが、道行く人々に伝わる可能性は極めてゼロに近い。
ハリーはこの店のオススメらしいブレンドコーヒーを、シオンはハリーが耳にしたことのない品を二つ注文した。
「さて、シオン君。早速だが私に何をしてほしいのだね? 私にできる範囲のことなら何でもいい」
「はい……じつは僕、ハリーさんに探してほしいものがあるんです」
「探し物? 私の本業か。いいだろう、無料で君の依頼を引き受ける。それでいいかね」
「ええ。ありがとうございます」
シオンが笑顔でそう言ったとき。
「薔薇の香り……」
ストライクの
「何だったんでしょう? 今のひと」
「さほど気にすることではあるまい。彼は恐らく独り者さ。他人と話す機会がないから何か自分の好きなこと、詳しいことがあれば飛びついてしまう。会話は上手とは言いがたいがね。薔薇を育てることに打ち込んでいるのだろう」
フーディンという種族は総じて記憶力が高く、その中でも優れた部類に入る(と自分では思う)ハリーは、大抵のことはさほど苦もなく覚えられる。
「どうしてそんなことがわかるんですか?」
「腕に薔薇の棘によるものと思われる擦り傷が多数。それから右の鎌に植物の茎を切断したような跡が付いていた。ここへ来る前に剪定でもしていたのだろう」
「……わお、さすが探偵さんですね。僕、ハリーさんのことちょっと見直しちゃいましたよ」
シオンはハリーの目を上目遣いで見つめながら、取りようによってはかなり危ない発言をした。思わずゴクリと生唾を飲み込んでしまう。
これが女性ならともかく、シオンはれっきとした男性、少年だ。どうして彼に見つめられただけで私が緊張しなくてはならないのか。
――どうも私は彼が苦手らしい。
「お待たせしました」
と、先程のリーフィアがコーヒーとミルクティーのような何か、そして微妙な焼き色のついたケーキみたいなものを運んで来た。
「このレアチーズケーキ、いつ知ったんです?」
どうやらその菓子は"レアチーズケーキ"というらしい。ランナベールではあまり聞かない名だ。異国の菓子か。
「前から知ってたよ。マスターが他のお客さんと話してたのを聞いてさ」
「そうなんですか。確かに裏メニューとはいえ包み隠しているわけではありませんから、何度も来られているとわかりますよね」
「裏メニューか……看板の字句といい、変わった喫茶店だな」
ハリーが率直な感想を漏らすと、リーフィアは少し困った顔をした。
「……あの看板、ヘンだからやめましょうってマスターに言ったら私、殴られたんですよ」
「トモヨさんってそんなことするの? 優しそうなおばさんに見えるけどな」
「とんでもない、マスターはタイプの男の子にだけ態度が変わるんですよ」
文脈から察するに中年の女性がここの店主らしい。
「やっぱり? よくいるんだよね、そういうひと。僕はその利益を享受する側だからいいんだけどね」
「……そういえばシオンさん、今日は香水か何かつけてらっしゃいます? これは……薔薇、ですか?」
「うふふっ、いいでしょ」
シオンは可愛く笑ってリーフィアにウィンクした。
紛れもない男であるハリーの胸でさえも
「確かにいい匂いですけど……そんなことしてるから女の子に間違われるんですよ、シオンさんは」
リーフィアは全く動じずに、自然な笑顔のまま答えた。
「冗談だよ。じつは孔雀さんがフィオーナのを間違って僕に……」
「使用人さんにしてもらっているんですか? あの方、ヘアメイクなんかできたんですね」
「あのひと何かと万能なんだよね……お花にも通じてるらしくて、中庭の管理も任せられてるんだ」
ブレンドコーヒーにミルクを入れ、スプーンでかき回す。どうも会話に参加できない。そもそも店員が客とこんなに話し込んでていいのだろうか。
「さすがヴァンジェスティ家に雇われているだけのことはありますね。私なんかマスターに怒られてばかりです」
「や、でもペロミアの能力というか目には驚いたけどね。彼女、僕が初めてここへ来たとき一目で僕が牡だってわかったんですよ、ハリーさん」
ハリーの内心を察知したのか、シオンが話を振ってきた。このリーフィアの名はペロミアというらしい。
「本当か? それは鋭い観察力だな。ウェイトレスより探偵向きなんじゃないか?」
「いえ、そんな……あの時はたまたまというか……ただの勘でしたし」
「勘も高い観察力の表れだ。勘というのは無意識下で五感を総合して得られる判断だからな。君はシオン君の何かを感じ取った結果その判断に至ったのだよ」
「はあ、なるほど……」
ペロミアが感心顔でしきりに頷いていると、カウンター席のほうから彼女を呼ぶ声がした。
「おぉい、またそのエーフィ様かよぉ。こっち来て俺達の話し相手もしてくれよペロミアちゃん」
声の主は食事を楽しむ若い牡たちのうちの
辺りを見回すと、男性客が多く――と言っても全体として客は少ないが――女性の姿は見ない。この店に来る者たちの目的がわかったような気がする。
「いいよ、今日はハリーさんと話があるからさ。行ってあげたら」
「あっ、そういえばそう仰ってましたよね……申し訳ありません。私、邪魔でしたよね」
「そんなことはない。私のようなオッサンには君のような美しい女性と話す機会など滅多にないからな」
率直な感想を漏らしたのだが、ペロミアはどこかばつが悪そうに「では、また後の機会に……」と言い残してハリーたちの席を離れた。
「それでハリーさん。さっきの話なんですけど……」
間髪を入れずにシオンが話し始めたので、ひとまず彼女に関する考察は置いておくことにする。
◇
「それでですね、ローレルたちの居場所を探してほしいんです」
シオンはいつになく真剣な表情で訴えかけてくる。
――その眼差しで私の目を真っ直ぐに見つめるのはやめてくれないか。一言では形容し難い魔力のようなものに冒されそうになる。
「いや、それは……」
かといって首を縦に振ることはできない。
事の顛末はこうだ。
シオン曰く、ナイリルの一件を解決したあと家に戻ると屋敷の門は固く閉ざされ中に入ることができなかったという。それで実家に帰ったそうだ。
そこでセーラリュートの寮にいるはずの弟、ブラッキーのローレルに遭遇した。ローレルはリュート時代の同級生二匹を含む柄の悪そうな連中を引き連れていたらしい。彼らはシオンの姿を見るや否や逃げ出し、その後の消息は掴めていない。
「……流石の私でもそう易々とはいかない依頼だ。完全にタダというわけには……」
「…………僕、ハリーさん以外に頼れるひとがいないんです! そこを何とか……!」
「いや、それ相応の代金を払ってもらえれば受けることは受ける。契約金は無料、成功報酬は相場の半額とすれば君への礼には十分だろう?」
シオンは知らないのだ。自分の弟が何者なのかを。ハリーとて、たった今シオンの話を聞くまでは彼がまさかシオンの弟だとは思わなかった。
十七歳にしてハンターズ"グラティス・アレンザ"のリーダーを務めるブラッキー。グラティス・アレンザの任務成功率は彼らの所属するハンターズギルド"カルミャプラム"のナンバーワンと言われる"
彼らは通常、メンバーのうち
ところが、保安隊結成以後恐らく初であろう例外が発生したのだ。
グラティス・アレンザの六匹とその時駆け付けた十数匹の部隊が戦闘になり、保安隊側に八人の死傷者を出した。保安隊は撤退を余儀なくされ、事実上保安隊がハンターに敗れる結果となったのだ。本来そのようなことなどあってはならない。この事件はハンター業を助長することとなり、保安隊に汚点を残した。カルミャプラムへの依頼が増えたという噂まである。
「僕…………弟が心配で心配で……夜も眠れないんです……」
ハリーの懸念を余所に、シオンは涙声でハリーに訴えかけてくる。
「い、いや、しかしだな……」
相手は保安隊を遥かに越える戦闘力の持ち主だ。保安隊時代は高い戦力を誇っていたものの、全盛期からみれば衰えた今のハリーに敵うわけがない。
「うぅっ……ハリー、さん…………」
そもそもハンターの溜まり場といえばギルドだ。たいていのギルドは酒場や風俗店に紛しているから、ハンターには仕事がなくともギルドで過ごしている者が多い――
――――と。
なんと、シオンが泣いていた。
「お、おい……」
私か? 私が泣かしたのか?
慌てて周囲を見回す。誰かに見られてでもいたら非難の的になりかねない。他人の目にはシオンはどうみても女の子にしか見えないのだ。
「だ、だって……いえ、ご、ごめん、なさい……」
「わかったわかった、私が必ず見つけ出してやるから! 契約成立だ!」
焦りに耐え切れず、ハリーは思わず心にもないことを口走ってしまった。
「……ほ、本当に…………? あとで、お金、取ったり、しません……?」
自分で言った以上どうしようもない。
「それではまるで悪徳業者ではないか。私はそんなことはしない。約束は守る男だ。だからもう泣くな」
「……あ、あり、ありがとう……ございます……」
シオンは朱く腫らした目を擦りながら、ふふっ、と笑った。何はともあれ、ひとまず安心だ。
――私もお人良しになったものだな。
「あっ……」
と、シオンが柱時計を見て声を漏らした。
「どうかしたのかね?」
「ちょっと他のひとと待ち合わせをしてまして……」
言いながら、シオンは慌てて立ち上がった。
「ごめんなさい、お先に失礼させていただいていいでしょうか?」
「ああ、構わんよ。私はもう少しここでゆっくりしていくことにする」
「今日はご馳走さまです! お願いもきいていただいて、どうもありがとうございました!」
シオンはぺこりと頭を下げると、足速に店を去っていった。
不思議な緊張感からの解放に、自然とため息が漏れる。
ハリーの前には空になったグラスと皿、まだ半分ほどコーヒーの入ったカップ、丸められた伝票、そして淡い薔薇の香りだけが残っていた。
コーヒーを口にしつつ、今後のことを考え始める。
ギルドの場所を特定する方法そのものは誰でも思いつくほど簡単だ。縛鎖公園や港付近、歓楽街にいる請負人の行動を観察、尾行すればいい。しかし言うは易いが行うは難い。彼らは尾行、観察、詮索の類を異常なまでに嫌い警戒する。これは請負人だけでなくハンター達も同じなのだが、ギルドの場所を漏らすと
――できるのか、私に?
そもそも、シオンに弟の素性を明かすべきなのだろうか?
――――否。彼の様子を見ていたら、弟がハンターだと知れば
やはり私がやるしかないだろう。カルミャプラムの場所を特定する。請負人、もしくはハンターを尾行してギルドを暴く。
……とはいえ先の通り請負人は難しいし、所属ギルドまで知れたハンターとなると凄腕の者が殆どだから尚更だ。
まずは方法を探さねばならない。
「よし」
ハリーはコーヒーを飲み干して立ち上がった。伝票を掴み、レジへと向かう。
遅れること数秒、ペロミアが走ってきた。店員は彼女しかいないのだろうか。
「えーと……千二百八十ディルになります」
「はぁっ!?」
予想外の高額に、ハリーは思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……と、すまない。もう一度言ってくれないか」
「千……二百、八十ディルです」
今度は一言一句区切るように、明瞭な発音で告げられた。
せんにひゃくはちじゅう。千二百八十。四桁。この店、こんなに高かったのか。確かにコーヒーはいい豆を使っていたとは思うが……いや、そもそもメニューで確認済みだ。コーヒーは五十五ディル、喫茶店としては良心的な値段だったはずだ。
まさか彼女との会話で金を取られたりしないだろうな?
「……重ねて申し訳ないのだが、内訳を教えてくれ」
「はい。ブレンドコーヒーが五十五ディル、シナモンチャイが百二十五ディル。レアチーズケーキが千百ディルになります」
どうやら違ったらしい。元凶はあの裏メニューとやらか。
「レアチーズケーキというのはそんなに値の張るものなのか?」
「ええ……当店のレアチーズケーキは独自製法でごく僅かしか作れないんです。でもお召し上がりになった方は皆さんどこよりも美味しいと仰ってくださいますよ」
「………………」
シオンは知っていたのだろうか。だとしたら――――
「どうかなさいました?」
ハリーが黙っているのを不審に思ったのか、ペロミアが首を傾げる。
「いや…………千二百八十ディルだったね」
渋々財布から千ディル金貨と五百ディル金貨を取り出す。
まさかこんな所で金貨を使う羽目になるとは思いもしなかった。とんだ出費だ。
「私、シオンさんがお金を置いて行ったものだとばかり思っていました」
お釣りを返しながら、ペロミアはそんなことを言った。
「いやいや、今日は奢ると私が言ったのだよ」
「あの、もしかして……」
「これくらい、私にとっては大した出費ではないさ。それにしてもなかなかいい店だな。また来るよ」
それだけ言い、ハリーは店を後にした。
まぁ実際、先程の依頼をタダで受けることを考えれば安い出費だ。あの依頼を普通に受ければ三万ディルは下らない。
私は何故あんなことを言ってしまったのだろう。
シオンがあまりにも必死だったからか。さすがに泣いて頼んでくるとは思わなかった。あの涙がなかったら受けなかったかもしれない。いや、確か半額で……?
待てよ。シオンが泣きついてきたのは私が依頼を拒否したからではなく、タダではできないと言ったからだ。それなのに"心配で夜も眠れない"。明らかに不自然な会話の流れだ。
考えてみれば、縛鎖公園に来た時から私を
やられた。どうやらシオンはナイリルの事件のことをちゃっかり根に持っていたらしい。あの店が初めての私には値段がわかるはずもない裏メニューを注文したのも故意に違いない。
普段の私なら相手が牝でもこんな小悪魔的な手にはかからない。誘惑だの嘘泣きだの、私には通用しない。探せば不審点などいくらでも見つけられるからだ。
それがまさか牡に騙されようとは。というより牡だからこそか。全くの無警戒だった。
牝の脳というのは話の筋が通したり理論だてて考えるよりもまず感情的になるが、牡の脳はそうではない。例えば相手が嘘をついていると感じた場合、多くの牝は根拠もなく自らの感じたままを訴えてしまうが、牡は私のように客観的事実をもとに考察する。
牡の感情と思考は別居しており、牝のそれは同居していると言える。だから会話の途中で急にキレて帰ったりするのは大抵牝の方だ。逆に自らの思考だけで感情を自在に操るのは
まぁ、何事にも例外はある。彼の容姿もその例外に違いないし、脳の構造も牝に傾いていたとしても不思議ではない。
十九歳の少年ごときに駆け引きで一杯食わされようとは……私もまだまだ蒼いな。
◇
「どうです? ローレル達の足取りは」
ハリーの隣の席に座ったシオンが尋ねてきた。
「なかなか進まないよ……尾行の類を警戒しているらしい。あまり頻繁に張っていると気づかれてしまう」
まずは港市場とヴァンジュシータのデパートに張ることにした。誰しも、食料品や日用品は定期的に買わねばならない。ランナベールでは大方その二ヶ所で調達することが多い。
港市場に張り込みを始めて三日目、ローレルはルカリオを連れて現れた。事前にアスペルから情報を仕入れておいたので(もちろん自腹である)、その奇抜な格好をしたルカリオがグラティス・アレンザのメンバーの
その後、彼ら
「そうですか……すみませんね、タダでやってもらって」
「同じ手は二度とは食わんぞ?」
「僕も道端で悪人に出会ったらまずハリーさんが近くにいないか探すことにしてるんですよ」
シオンは優雅な所作でアールグレイ・ミルクティーを飲みながら、冗談めかした皮肉を返した。あの日のような女々しさや飾り気のないこの姿が彼の自然体なのだろう。まぁビジュアルに限って言えばやはり少女そのものなのだが。
「確かに君を一度生命の危険に晒してしまったのは事実だからな。お相子ということにしておこう」
「きっと命までは取られなかったでしょうけどね。あんな変態、僕
「…………」
彼と目を合わせるのを避けるためにコーヒーカップを手に取り口をつける。
「……それは本当か? まさか、私の到着が遅かったのか? あの時君はもう――」
「勝手に想像しないで下さい。ちょっと触られただけですよっ」
シオンは少し顔を赤らめてそっぽを向いた。何はともあれ、それなら良かった。実はアレが後戯だったなんて知った日には、一生を賭けてシオンに詫びねばならないところだった。
「オマエ……」
不意に、先ほどから奥の席にいたブーピッグの女性がレジでの清算をすべくカウンター席の方へ来て、ハリーたちを見て立ち止まった。
――何をつまらないことを考えていたんだ私は。
「……クラウディアだよナ? そうだよナ? 一段とキレイになったじゃないか!」
女性はシオンを見るなり、感激の表情で謎の名を口にする。
「え……」
シオンはぽかんと口を開けて彼女を見つめ返した。
そして数秒の後、はっと気がついたように口を押さえた。
「ビオラセア……さん?」
「思い出してくれた? オマエが辞めちまってからアタイ淋しくってサ」
この馴れ馴れしさは何だ。ビオラセアと呼ばれた彼女は三十代後半で、シオンの知り合いにしては年齢がアレだ。まぁハリーも四十、トモヨもそれ以上だから何とも言えない。
「あ、ははは……まさかこんなところでお会いするとは思いませんでしたよ……」
シオンの顔色には少し焦りの色が見える。
≪ハリーさん、絶対に僕の名を口にしないで下さい≫
と、突然頭の中に声が響いた。シオンの
驚いた。ハリーもエスパーの端くれ、暗示をかけることぐらいはできるが、こうはっきりとした言語を伝えることはできない。シオンの高い
「失礼ですが御婦人、彼とどういった関係で?」
「何だオマエ、このアタイを知らないのか? ケンティフォリア歓楽街に遊びに来たことはないのか? アタイはあの街を取りまとめてるのサ。クラウディアはアタイのお気に入りでね。よく
「ははあ、つまり……」
クラウディア、というのは源氏名か。出張とやらが何なのか気にかかるが……
「彼はケンティフォリア歓楽街のホストクラブで働いていたわけですか」
「いいや。クラウディアはホストなんてもんじゃないよ」
「と言うと?」
「本人に聞いたらどうなのサ? それよりオマエこそ誰なのかアタイは知りたいけどね」
「おっとこれは失礼。私はハリー・ディテック、探偵業を営む者です」
「探偵? ハンターじゃなくてか? ランナベールじゃ珍しいナ」
「ハンターに仕事を頼むのを厭う者もいるのでね。それに料金もハンターよりずっと手頃です」
「へえ。覚えておくよ。立場上いろいろと問題を抱えることもあるからナ。そのときは仕事を頼むかも知れないよ」
歓楽街は利害関係、得に金をめぐる争いが絶えない。そのトップである彼女にはそれなりの苦労があるのだろう。
「さて――」
シオン君、と言いかけて言葉を飲み込む。危ない危ない。
「ホストでないとしたら、君は何をやっていたんだね?」
ハリーの問いかけに、シオンはしばらく黙り込んだまま答えなかった。
やがてハリーとビオラセア、傍らでハリー達の会話に聴き入っているペロミアの顔色を伺ってから、重々しく口を開いた。
「……娼館ですよ。男娼として働いていたんです」
「男娼!? 君、そんなことをしていたのかね?」
「声が大きいですよっ」
「あ、ああ……失礼」
今のはペロミアにもトモヨにも聞こえてしまったな。合掌。
しかしシオンの容姿なら有り得ないこともないが、俄かには信じ難い。シオンは今やヴァンジェスティ社の跡取りになることが確定的な、ランナベールで最上級の地位にいる者の
「そんなことも何も、クラウディアはあの店で男娼としては異例のNo.2だったんだ。それが突然上からの圧力でクビになってしまったんだけどナ……アタイなんかの手の及ばない絶対権力サ。理由も告げられなかったよ。オマエには何か知らされたんだろクラウディア?」
「ええ。後からでしたけど……」
ケンティフォリア歓楽街のトップの手の及ばない権力といえばたった一つ、ヴァンジェスティ家をおいて他にない。
「考えてみればオマエ、謎の多いヤツだったよナ。このアタイでさえクラウディアって
「事情があってお教えするわけにはいかなかったんです。まぁそれは今も変わりませんけどね」
「いいよ。謎に包まれていたほうがオマエらしい」
意味深な
「……それでビオラセアさん。今まで会いませんでしたけど、この店に来るのは初めてなんですか?」
「そうだよ。アタイだってたまには煩い仕事を離れたくなってふらふらしたくなるサ」
「で、偶然ここを見つけてしまったわけですね……」
はあぁ、と深い溜息をつくシオン。ビオラセアはできれば会いたくなかった相手に違いない。
「……っと、あまり話してる暇はないんだ。アタイは仕事に戻るよ。部下が煩いからナ」
またオマエに会いに来るよ、と付け足して、ビオラセアは喫茶店を去った。
どうもこの店、個々人の理由は様々なれど、一度来ると病み付きになる何かがあるらしい。
◇
『こちらランナベール、ヴァンジュシータ市内、縛鎖広場からの中継です。ランナベールに逃亡した連続殺人犯が新たな事件を起こしました。連続殺人の続きが、ここランナベールで始まってしまったのです!』
画面の向こうから真剣な表情でニュースを伝えてくるアナウンサーのピクシー。縛鎖公園といえばランナベールの住人にしてみれば安全の象徴のようなものだが、法治国家に住む人々にとっては戦場の真っ只中に等しいのだろう、アナウンサーは大袈裟なまでの物々しい護衛に囲まれている。
「こう言われると何だか怖くなっちゃいますね。この街にも慣れたはずなのに」
ハリーの正面、カウンター内側に立ったペロミアの低い声。可愛らしい容姿には少し似合わないこのハスキーボイスも彼女の魅力の一つである。
「ああ……」
ハリーは半ば生返事で答えた。というのも、考えは別の所にあったからである。
『今日未明、ケンティフォリア歓楽街で三つめの遺体がランナベール保安隊によって発見されました。手口や現場の様子から、国家警察は今回の連続殺人犯による犯行と断定。ランナベール保安隊に協力を要請し、捜査資料の提供を受ける予定――』
「ペロミア君。君はこの報道を聞いて奇妙だと思わないかね?」
「と言いますと……この護衛の多さとか、でしょうか?」
「そうではない。もっと根本的な問題だ。ランナベールで事件が起こる前からのね」
ハリーがヒントを与えると、ペロミアはうーん、と考える仕草をして、すぐに何か閃いたように顔を輝かせた。
「わかりました。仔供が見ているかもしれないのに、アブない歓楽街の名を言ってしまっています。仔供が興味を持ってしまったら……」
「バカかいアンタは」
ペロミアのズレた返答にトモヨがすかさず容赦のない突っ込みを入れた。
「どこが根本的なんだい? だいたいアンタみたいなぼ――仔供が何を偉そうに」
「いやいや、ナイスボケだよ」
「ふ、フォローになっていませんよっ」
ペロミアはペロミアなりに真剣だったらしく、恥ずかしそうに肩をすぼめた。
「で? 何が奇妙なんだい? もったいぶらずにさっさと言いな」
トモヨはいつものように煙草を燻らせながら肘をついているからこちらの話には興味がないものだと思っていたが、さり気なく聴き入っていたようだ。
ハリーは一息ついてから話し始めた。
「私達がある
ペロミアは興味津々と言った様子で、トモヨは憮然とした眼差しでハリーの話に耳を傾けている。
「私はつまりこういうことではないかと睨んでいる。ジルベール国家警察が疑いの目を向けている者は複数いて、恐らくは一定期間にジルベールを出国した者のうちの誰かが犯人であるというところまでは掴んでいる。だが、その複数の中には公にはできないような身分の者が含まれているのだろう。はっきりと証拠をつかむまでは名を空かせないほどのな」
「なるほど、それなら説明がつきますね」
「うむ。更には同じ手口というやつが、簡単には模倣できないような――」
ふと入口の扉が開き、ハリーたちの会話を遮った。
「いらっしゃいませー」
「オマエに頼みたいことがある」
ペロミアの挨拶を無視し店に入ってくるなり一直線にハリーの隣の席へ来て、第一声がそれだ。あれから二週間、ビオラセアは毎日のようにウェルトジェレンクを訪れている。とはいえ、ケンティフォリアで変死体が発見されたあんなことがあればシオンに会うのが目的なのだろうが、彼のほうは忙しいのかあれから一度も来ていない。必然的に、捜査の合間の休憩、写真や資料の検証にこの店を使うハリーが話し相手となり、彼女からは歓楽街の得する情報やアスペルでも知らないような裏の事情なども聞かせてもらった。
「あのー、ビオラセア様、ご注文は……」
「いつもの」
ビオラセアはペロミアの方も見ずにそれだけ言うと、ちらとテレビに目をやった。
「あの鬼畜を何とかしてほしいんだ。歓楽街で死体が発見されてから噂が広まって、夜に出歩く
「……ああ。ちょうど今話していたところさ」
皮切りは、フシギソウの遺体の発見だった。その後、ケンティフォリア歓楽街では今日までに三つの惨殺体が見つかっている。それだけならランナベールの性質上珍しいことではないのだが、この事件には奇妙な点がいくつもあるのだ。被害者はいずれも人気のない路地裏で殺されていた。鋭い刃物で一刀両断にされていて、三つめの殺人現場は目を傷めるほど鮮やかな
「さすが探偵、話が早いナ。金はいくらだ?」
ビオラセアは例の微妙なイントネーションの付け方で単刀直入に訊いた。なんともせっかちな
「今回は殺人事件の犯人捜しということで……契約金一万五千、解決金八千ってところだな」
「そんなに安いのか? ハンターに頼んだら倍はするよ」
「ハンターはギルドのピンハネが大きいからどうしても高くなってしまう。私は依頼人から直接仕事を請け負うのでね。……さて、早速だがこれに記入してくれないか」
ビオラセアに契約書を手渡し、ふとテレビに目をやる。
『……尚、ランナベールに向かった国家警察部隊の
この街ではよくあることで、元保安隊員のハリーでさえ嫌なニュースには聞き慣れてしまったが、ジルベールの人達はどうだろうか。
ちなみにランナベールに放送局はなく、ジルベール王国の電波放送をそのまま受信する形となっている。ヴァンジェスティ社の社長令嬢がジルベール王国の名門女子大学ジュノー女学院に通っていることもあって、ジルベール王国はランナベールとの結び付きが強い。ランナベールの企業がスポンサーになっている局もあり、このようにランナベールの情報を送る番組も放送されているのだ。ランナベールではテレビの普及率は一割にも満たないから役に立っているかどうかは怪しい。ジルベール側の
「ほら、一万五千ディル。これで契約成立だナ」
と、ビオラセアは契約書に一万ディル白金貨と千ディル金貨五枚を合わせて差し出した。
「おいおい、こんな大金を持ち歩いていたのか?」
「なんだ。一万五千なんて大した金じゃないだろ」
ビオラセアは何でもないかのように軽く流した。さすがケンティフォリア歓楽街のトップだけのことはある。私のような常人とは金銭感覚が違う。シオンにレアチーズケーキでも奢ってやれば喜ぶんじゃないだろうか。
◇
保安隊によって事後処理が為された後の現場には、乾いた血の跡に漆黒の花びらだけが散らばっていた。
ケンティフォリア歓楽街の路地裏、ちょうど建物に囲まれて行き止まりになった場所。華やぐ通りのすぐ側であのような残酷な仕打ちがなされていたとは想像し難い。
何か手掛かりはないかと三つの現場を訪れてみたものの、どこも似たようなものだった。残されているのは薔薇の花びらと夥しい血の跡だけ。多数の足跡が確認されたが、おそらく保安隊のものだろう。
ハリーは今、黒塔近くにある保安庁本部にいる。一般公開はされていないが、過去、保安隊にいたハリーにはコネクションがあった。
「これだ」
ケンティフォリア歓楽街担当部署署長、ゴウカザルのオルドが数枚の写真をハリーに手渡した。
そこに写っていたのは、見るに堪えない赤と黒の斑模様。両断された若いフシギソウの女性とその上に巻かれた黒い薔薇。
「そんなものを欲しがるのは昔も今もお前ぐらいだ」
「これも仕事だからな」
「馬鹿言え。保安隊にいた頃も資料を勝手に持ち出しては街へ飛び出して犯人を追っていただろう」
「どうせ十日で処分されるんだ。私が持ち出したとて、保安庁に何か損害があるわけでもあるまい」
ちなみに今回は古いもので二週間前に撮影された写真なのだが、ハリーの訪問を見越してオルドが確保していてくれたらしい。
「あの頃はお前のお陰で保安隊も悪人どもに怖れられていたものだ。何たって後から逮捕されるわけだからな」
「外の国じゃそれが普通だ。そもそも私とてランナベールの流儀に反してはいない」
「保安隊の方針には反するがな」
そう、保安隊の目的は治安の維持であって罪人を捕まえることではない。保安隊という抑止力が犯罪を減少させ、住民に一種の安心感を与える。しかし、逮捕される悪人は所詮は氷山の一角、見せしめに過ぎない。裁かれない悪人はその何倍、何十倍もいるのだ。
裁かれない悪人。彼らとて、のうのうと暮らしているかというとそうではない。罰は罪に対して与えられるものではなく、罪を犯した代償として自らが背負うものだ。それは良心の呵責であったり、時に神の裁きであったり。そうでなくとも、加害者が次の瞬間には被害者になる、ランナベールはそんな街だ。しかしそれでもハリーには納得がいかなかった。悪事がこの街の闇に包まれ、覆い隠されたままであることなど許せはしない。闇のベールは剥がされるべきであり、その中にある不浄な黒き混沌は白日の元に曝され、裁きの光に焼かれるのがこの世の理であろう。保安隊はハリーには合わなかった。多すぎる悪事に対処するには保安隊のやり方が最適であるとはわかっていても、未解決の事件を見過ごすことなどできなかった。それ故、保安隊に所属していた頃も捕り逃した犯人を追っては独断で裁きの鉄槌を下していた。もちろん私の行為自体を禁止する規則などはないのだが、突然解雇を言い渡されたのはやはりそれが原因だったのであろう。当然の如く承知していた私は、密かに準備を進めていた探偵事務所を開いたのだ。
「そうだ、ジルベール国家警察に協力を要請されたそうだな。報道を観て気になっていたんだが、犯人の目星というのはついているのか?」
「ランナベールに法はないが、あちらは別だ。我々にも守秘義務というものが発生する」
オルドは後ろ手を組んで背を向けた。
「……だが、お前が
「…………確かにそうだ。三つの現場にしては写真の数が多すぎる。その理由をじっくり
ハリーは署長室のソファから立ち上がった。
「恩に着る」
オルドはフン、と鼻を鳴らしただけで答えなかった。
写真を鞄にしまい、ハリーはそのまま踵を返した。一先ずウェルトジェレンクで情報を整理することにしよう。
◇
「はあ、それではシオンさまにも少しばかり非があるのですね」
「……元は私が蒔いた種であるとはいえ、菓子代に依頼代、その上にヒゲまで取られたとあっては完全に赤字だ。下手すれば命まで取られていたのだぞ」
自己再生も万能ではない。今日一日は片方の髭が異様に短いアンバランスフーディンで過ごすしかないだろう。
まあ、既に日は傾きかけているし、そう長い時間でもなかろう。トモヨやペロミアに何を言われるかわかったものではないが。
それにしても。この東風サーナイト……自称『ただの使用人』孔雀。シオン曰く、花にも通じていて、ヘアメイクもできて、とにかく謎の多いひと。ヴァンジェスティは私の想像以上に恐ろしい権力を有しているらしい。
――住宅街。ここには所謂"普通"のひと達が身を寄せ合って生活している。閑静だが、比較的平和だ。法があろうとなかろうと危ない場所や時間帯は決まっている。悪党だって
夜の歓楽街などで悪党に絡まれても文句は言えないが、安らぎの場としての"家"が立ち並ぶ住宅街で悪事を行う者は不思議と現れない。道端に座り込んでいる連中も馬鹿話に腐敗した花を咲かせているぐらいで、通行人を襲うことはない。悪党にも休息の時間が必要だということだ。
――だから、油断があったのか。
気配を察知した時には、既に背後からの接近を許してしまっていた。
「くっ!」
ハリーはすかさず鞄から長めの銀のスプーンを二本抜き取りつつ振り向いた。
いない。回り込まれたか!
視線を前に戻すと、彼女はそこに立っていた。
否、たった今着地したのだ。空中に浮いていた
紅い瞳は髪に隠れて片方しか見えないが、その凛とした輝きには、一撃で相手を葬り去るという
彼女は即座にすっと踏み込んできて――初動作は全く見えなかった。
ヒュッ! 恐ろしく甲高い風切り音は、孤を描いた銀の煌めきに数瞬遅れてハリーの耳を
それでもハリーは何らかの波動を感知して
――ああ。
目の前の地面に落ちたモノは……箒の穂先? 違う。
ない。半分しか。
右のヒゲが半ばほどで切断されている。
私のヒゲが。馬鹿な。まさか、庭箒で……?
ハリーが目を丸くしたのも束の間、彼女は上段に構えた庭箒――否、金属の棒を振り下ろしてきた。「がっ!」
四本の銅スプーンは全て躱されてしまったが、サーナイトを後退させることには成功した。
「……スプーンで戦うとは、わたしも舐められたものですね」
彼女はそこで初めて口をひらいた。下段に構えている金属棒は僅かに反り返っていて、反りの外側にストライクの鎌のような刃を備えている。サーナイトの足元に落ちている庭箒は穂先のある側だけで、もう一方は彼女の手の内である。庭箒の中にあの金属棒が仕込まれていたようだ。一体何の道具なのかしれないが、斬れ味はヒゲで証明済みだ。
「しかし油断はできませんね。あなたはどこか老獪な鷲を思わせます。仕込み刀を見抜き、わたしの居合いを皮一枚で躱したその御手並みといい、シオンさまを謀った策士ぶりといい」
「何? シオン……?」
「覚悟っ!」
「ま、待て!」
サーナイトは仕込み刀を下段に構えたまま、恐ろしい瞬発力を発揮して距離を詰めてきた。
しかし、ハリーには視えていた。動きではなく、彼女の足先から放たれた流動が。間違いない、
不可視の糸は彼女を包囲し、身体に絡み付くかに思われたが、すんでのところで斬り払われた。サーナイトは後退しつつ、刀を持っていない左手を振り上げた。
袖口の煌きに気づいていなかったら、視覚を奪われていただろう。両目を狙って飛来した小さな刃物は、首を捻ったハリーの耳を掠めていった。
「暗器もバレていましたか」
「動作には目的がある。あの距離で腕を振り上げてもフェイントにもならんからな。未知の飛び道具であると判断したまでだ」
サーナイトのほうはだらりと仕込み刀を下げて棒立ちになっているが、ハリーは油断せず、構えは解いていない。
「シオンさまがどうとか言っていなかったか。君はシオン君の知り合いなのかね? 私の命を狙う理由もいまいちよく解らんのだが」
「暗殺者が自らの口から素性を明かすとお思いですか?」
「暗殺者……ふむ。大方、私が事件の捜査にシオン君を利用したのが歪曲して令嬢の耳に届いたのか」
「歪曲して、とは?」
「私がシオン君を囮捜査に利用したのは事実だ。私のミスで彼の身を危険に晒したことも。だが、既に本人と折り合いをつけて借りは返したし、今や私は彼の友人だ。歳は離れているがね」
「それでは、シオンさまは……」
「私を殺せば、シオン君は君を許さないかもしれないね」
「しかし! フィオーナさまはシオンさまの貞操が変態誘拐犯如きに奪われたと、大変お怒りになっておられます! 誘拐犯は死亡しているとのことで、怒りの矛先はその状況を作り出した元凶へと……」
「……それで私か。その前に、シオン君は令嬢に何も伝えていないのかね? 貞操も何も奪われてはいないはずだ。彼の口から聞いた」
「なんと? それは本当なのですか? フィオーナさまはその事実を知るや否や身体を調べるとの口実で毎晩寝室にシオンさまを通わせ……いえ、こちらの話です。シオンさまとフィオーナさまとの間でそのお話は持ち上がっていません」
「……まったく。事実関係を確認してから暗殺者を派遣してほしいものだな」
「うーん……フィオーナさまになんと申し上げればよいものでしょうか。しばらく考えねばっ。この辺りでゆっくり思案できるところなんてあります?」
「喫茶店がある。私はこれからそこへ行こうとしていたのだが」
「では、わたしもご一緒させてください。非礼のお詫びに奢りますよ」
「ああ……ヒゲ代は返してもらわねばならんな。命を狙ったということは知っているだろうが、私はハリー・ディテック。しがない探偵業を営む者だ」
「孔雀と申します。ヴァンジェスティ家にお仕えする『使用人』です」
パンパンと衣の裾を払いながら箒の穂先を拾い、仕込み刀とやらを庭箒に戻しているこのサーナイトが、使用人、か。
――笑えない冗談だ。
◇
あの写真のうち、四枚は容疑者の写真だった。四匹は同じ日にジルベール王国を出国していて、ジルベール王国での連続殺人事件の犯行時刻にアリバイがない者たちだ。その四匹の顔を見て、驚かなかったといえば嘘になる。うち
「ほ? 初対面のはずのあなたがなぜわたしの写真をっ」
いつの間に覗き込んでいたのか、孔雀は驚きに目を見開いて木製スプーンを取り落とした。
「写真の出所は明かせないが……どうやら君は今回の事件の被疑者リストに入っているらしいね」
ハリーの隣の席に座った孔雀の前には、食べかけの茄子のミートドリアが置かれている。夕方だというのに普通そんな重い物を注文するかとか、使用人の仕事を放り出してこんなところで油を売っていていいのかなど疑問は多々あるが、あえて触れないでおこう。ハリーは彼女の奢りということで、片ヒゲを奪った償いにとレアチーズケーキを注文しようかと思ったが、さすがにやめておいた。ヴァンジェスティ家は何か神々しい力に守られてでもいるのか、下手に手を出すと倍返しでは済まないほどの呪詛にも似た代償が反ってくるのだ。そういうことで、結局いつものブレンドコーヒーに落ち着いてしまっている。
「被疑者とは……わたしが、ですか? どんな事件を追っておられるのですか?」
「ケンティフォリア歓楽街の連続猟奇殺人事件。君も噂ぐらいは聞いているだろう」
「はい。ジルベール王国の方では、そのニュースで持ち切りでしたね」
ジルベール王国。話し振りから察するに、孔雀は間違いなく最近ジルベール王国に行ったということだろう。孔雀はシオン君の家の使用人だそうだが、被疑者には違いない。次はいつ会えるかわからないし、この場で聞けることは聞けるしまうべきだろう。
「失礼だが二、三質問させてもらうよ。これも仕事なのでね」
「ええ、なんなりとどうぞ。ここで拒否しちゃいますと、余計に怪しまれそうですし」
彼女は落ち着き払っている。少し揺さぶりを掛けてみるか。
「被害者は皆、大きな刃物で一刀両断にされている。そうだな、君が持っているような金属棒――仕込刀、だったか。それくらいの大きさはないと
「はあ、これは陽州から持ってきたものですが……ランナベールではこのような武器は珍しいのですか?」
彼女は全く動じない。
「そんなものを持っているのは君ぐらいしかいないんじゃないか。大陸の武器の歴史なぞ、120年前に初期型
「
「……君は後者ではないのかね」
「わたしの本職はあくまで使用人ですよ」
そう言ってほほえむと、孔雀はアイスストレートティーを一口飲み、またドリアを食べ始めた。
待て。私が訊きたかったのはそんなことじゃない。
この手のタイプは遠まわしに論を進めると会話のペースを持っていかれてしまう。
「話を戻すぞ。君を含め、四名の被疑者は同日にジルベールを出国している。ジルベールでの最後の殺
「ああ、それはですね」
孔雀は木製スプーンを空中でくるりと回転させた。いや、くるりなんかじゃない。ビシュゴォォォォオオオオだ。あり得ない回転速度だった。しかも、空気との摩擦熱だけで――
「
――発火した。
「お、お客様! 念力でスプーンを燃やされては困ります!」
ペロミアが慌てて駆け寄ってきた。どこの世界に念力だけでスプーンを燃やして店員に注意される使用人がいるというのか。
「すみませーん。まさか、回すと燃えるスプーンだなんて」
「いえ。断じてそのような特殊な材質ではございません」
「ほ? そうなのですか。では少し速く回しすぎたのですね。えと……弁償ですか?」
「……今回は構いません。ですが、何の目的でこんなことを……」
ペロミアは誰の目にも明らかなほど不機嫌だった。心なしか、もともと低めな声のトーンが一層低下して、牡のそれのようにも聞こえる。
「いえいえ、営業妨害などではありませんから……ほら、考えごとをしている時になんとなーくコップを弄ってみたりとか、ほっぺの飾り毛をさわってみたりとかするじゃないですか。あれと同じですよ」
「確かに、ハリーさんもよくスプーンを回されたりしていますけど。だからって……いえ。新しいスプーンをお持ちします」
ペロミアはもはや炭と化したスプーンを持って厨房へと消えた。店長にバレなければいいがな。
「君ね……仕込み刀じゃあるまいし、回すと燃えるなどと、そんな全く有用性のないスプーンが喫茶店に置いてあるわけないだろう」
「あのリーフィアの店員さんが特殊な趣味をお持ちのようでしたから、食器もそうなのではないかと」
「特殊な趣味?」
「あの服、ウェイトレスの装いですよね?」
「そうだな。だが、さほど特殊だとは思わんが?」
「なるほど、ランナベールでは何でもアリアリなのですねっ」
陽州出身の彼女からみれば、この国のように多用なファッションが入り乱れ、国民の
「以前もシオンさまがちょっと変わった香水に興味をお持ちになりまして。そのついでといいますか、毛ヅヤを整える際に女の子っぽく仕上げてさしあげたことがあります」
「あの時の……」
そういえば使用人にやってもらったとか言っていたっけか。そうだ、孔雀はあの一軒にも一枚噛んでいたのだった。む。やはりレアチーズケーキを注文しておくべきだったか。
ややあって、ペロミアが新しいスプーンを持ってきた。今度は金属製だった。
「あ、どーもありがとうございます♪」
「……シオンさんにお話は伺っておりましたが、孔雀さんがこんな
「シオンさまって外のコトは全く話してくださらないのに、外ではお家のこと話すんですね。にしてもペロミアさま、ハスキーなかわいい声をお持ちのようで」
「そんな、かわいいだなんて……私、声が低いのは少し気にしているんですよ」
「低い、ですか?」
「ひ、低いと、思いますけど……じっ、自分では……」
ペロミアが動揺したのを見て、孔雀は意味深に目を細めた。胸のツノがESPの波導を帯びている――ということは、ペロミアの感情を受信しているのか。
「ふふふ。シオンさまに比べると低いですね」
「シオン君が高すぎるんだ。鳥ポケモンでもあるまいし、変声期はなかったのか?」
「いえ、ご幼少の頃はもっと甲高い声だったとか……」
ソプラニスタというやつかと思っていたが、どうやら違うらしい。一般的な哺乳型ポケモンでは、声の高さは変声期に男性で約一オクターブ、女性で二音半ほど下がるというが、あの声の一オクターブ上となると……いや、それはあり得ないか。下がったにしても、あまり下がらなかったのだろう。
ところで私は何かを忘れていないか――――?
「あ」
「どうかされました?」
私としたことが、完全に相手のペースに巻き込まれてしまっていた。シオンのときもそうだ。私はこと話術に関しては人より長けているつもりだったが、このようなイレギュラーな人格の
「孔雀君。君は私の質問に答えていないだろう。スプーンを燃やしたりなどするから、有耶無耶になるところだったではないか」
「はあ……えーと……申し訳ありません。何のお話でしたでしょうか?」
ため息をつかざるを得ない。また一から説明しろと言うのか。先程の会話を完全に忘却しているのなら天然としか言いようがないが、故意にとぼけているのなら筋金入りだ。彼女が犯人だとはどうしても思えないのだが、先入観というのは概して危険なものだということは、職業柄、身に染みてよく理解している。
「いらっしゃいませ」
ハリーが口を開きかけたその時だった。入り口の扉が開き、
「……まさかとは思ったけど」
静かで深みのあるソプラニスタの声の主は、来店するなり孔雀を見てぽかんと口を開けた。
「こんなところにいるなんて」
「し、シオンさま……えと、これはですね、その」
「フィオーナがカンカンになって怒ってたよ? 使いに出したら一向に戻ってこないってさ。で、僕が探しに来たんだけど、一向に見つからないからハリーさんにでも知恵を借りようかと……またフィオーナが無理難題を押し付けたんじゃないかと思ってたんだけど、その様子だと一仕事終えて休憩中ってかんじ?」
「いえ……あ、はい。そういうコトですねー」
「橄欖が
「はい、ただ今。あ、ハリーさま、お代はここに置いておきますので。それではっ」
孔雀は懐から五百ディル硬貨を取り出してハリーの前に置くと即座に立ち上がり、風のようにシオンの
「お、おい! 待て!」
「おつりは結構ですから!」
慌てて後を追ったが、時既に遅し。孔雀はシオンを抱きかかえて空の彼方に飛び上がっていた。
「答えないのは結構だが、君の立場を危うくするだけだぞ!」
もう聞こえていないか。逃がしてしまったが、まあいい。後日シオンに聞けば済む話だ。もしかすると令嬢に他言無用を言い渡されているのやも知れぬが、今度は私の話術を以てしてシオンから確実に情報を引き出す。
「まったく。稀に見る珍妙奇天烈な家族だ……」
どっと疲れが出て、
いつの間にやら、ドリアは米粒ひとつ残らずキレイに完食されている。シオンが来る直前までは半分以上残っていた気がするのだが。
「面白い方たちですよね」
「ああ……彼らのペースに巻き込まれる方はたまったものではないがな」
「でも私、あの方にはもう会いたくありません」
ペロミアはやはり不機嫌だった。孔雀がスプーンを燃やしたことをまだ根に持っているのだろうか。
「あの
「それもありますけど。あの方と向き合っていると、私の心の中を全て見透かされているというか……」
「感情ポケモン、キルリアの進化系だからな。だが、心中を察する能力ならシオン君のテレパシーも相当なものだと思うが。まあ、暗示術というのは被術者が抵抗すればするほど効果が薄れる。他人の内に秘めた心を暴くことが簡単にできたら私の商売はあがったりだ」
「というか……たぶん……もう見抜かれてしまいました……
「君に重大な秘密があるようには思えんが。私から見れば、君は純粋を絵に描いたような少女だよ」
その事実に気づいたとき、ハリーは驚きを隠すのに苦労した。声が上擦らないように抑えて、不自然のないように取り繕った。
そういうことか。最初に見たときから気になってはいた。そうだとすれば、これまでの疑問も孔雀の発言も全て合点がいく。
「……ごめんなさい」
「
謝る必要はない、と答えようとして慌てて修正する。
「いえ……そうですね。では、ごゆっくりどうぞ」
ぺこり、と頭を下げて厨房へ消えたペロミアは、いつものペロミアだった。
シオンと知り合っていなければ気づかなかったかもしれない。孔雀とて、シオンと一つ屋根の下で暮らす使用人だからこそ初対面でその事実に気づいたに違いない。さりとて、見破ったことをペロミアに悟られるのは感心しないが、孔雀は来店するのは初めてだからペロミアの事情など知らないわけで、致し方ないといえば致し方ない。
――それにしても。悪意の有る無しにかかわらず、そこかしこに欺瞞は転がっているものだとつくづく思う。
後編へ続く
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