SOSIA 番外編.1
闇夜の蝶と幻夜の姫君:1へ戻る
◇キャラ紹介◇
・シオン/クラウディア(17):エーフィ
風紀委員長。
城が傾くほどの美貌を持つ。
・グヴィード(17):グレッグル
自称シオンの親友。
・テリーア(17):プクリン
シオンのクラスの学級委員長。
・ロスティリー(15):チャーレム
シオンアンチクラブ会長。
・フィオーナ=ヴァンジェスティ(19):エネコロロ
ランナベールの王女的存在。
・セルネーゼ(19):グレイシア
風紀副委員長。富豪の娘。
etc.
◆闇夜の蝶と幻夜の姫君◆
文化祭が始まる数日前のこと。
「ワインの中にこれを入れてシオンに持って行けばいい。メントの馬鹿で実験したところ、効果発揮まで約三十分から一時間。身体の小さいあいつならもう少し早いかもしれないが……」
アンチクラブの面々をリーダーであるロスティリーの家に集めた。作戦会議だ。
「待て、そのメントとかいう奴はちゃんと限界まで……当てになるのか?」
「いや……そうだな。倍は見ておくか」
「だが、二時間半前に飲ませたとして、演説の前に駆け込まれたら失敗だぞ」
「そこはあれだ。ベタだが、清掃中の看板を立てておけばいい」
あの歳で、公衆の面前で、だ。名誉失墜間違いなし。集めていた尊敬の念も、牝仔たちの憧憬も、全て地に堕ちる。
「そんなにうまくいくもんかね」
「だからこそ
ここで初めて口を開いたのは、グレイシアのセルネーゼだ。
「セルネーゼさま……」
「あの仔さえいなければ、
風紀委員はもちろん全校生徒の投票で決まる。シオンはクラスメイトに推されて出馬し、最有力候補とされたセルネーゼを破って一位で当選した。得票数の最も多かった者が委員長の座につくというしきたりに従い、シオンは初出馬初当選で委員長になりおおせたのだ。
結果、セルネーゼは副委員長の地位に甘んじることとなる。二つも年下のポケモンに負けたとあってはプライドが許さないらしい。
「おまけに風紀委員たる者のノウハウをあの仔に教えて差し上げたのは私ですのよ! それなのに……」
「お気持ちはお察しします」
「……まあ、だからこそあの仔も
言うと、セルネーゼは前足で口許を押さえて笑った。
絶対に敵には回したくない女だ。はっきり言ってかなり怖い。
だが、味方としてはこの上なく心強い。
「ふふ……今年こそ、こちらの物だな! 見ていろよシオン!」
笑いが止まらない。
◇
夕方のダンスパーティまではまだかなりの時間がある。
劇が終わったあと、テリーア達は数人グループで各クラスの催し物を回ることにした。
「ねっ、ほらシオンくん。
「物で釣ろうったってダメなんだからっ。唇を盗むなんてほんっと最低。まあ、奢ってくれるなら断らないけどさ」
グヴィードが攫ってしまう前に声を掛けて、グループの中にシオンを入れることには成功した。
「あ、ずっけえ。オレにも奢ってくれよぉ」
「なんであなたにまで奢らなくちゃならないのよ」
シオンを入れた、というか。
シオンを誘ったらグヴィードまでついてきて、結局他に誰も来なくて、テリーアがいつもの
「なんでシオンばっかなんだよテリーアちゃん頼むぜオレにもよぉ」
「ったく……わかったわよもう!」
さすがに可哀相だものね。ま、学園祭の喫茶店程度じゃ大した出費になるわけじゃなし、いっか。
「おおー! さすがオレ達の学級委員長サンだぜアヒャヒャヒャヒャ。ありがとテリーアちゃんっ♪ ヒャヒャ」
「ふーん。テリーアって意外と優しいんだ」
「意外とって何よ……私を何だと思ってたわけ」
これでシオンくんの好感度アップかも――なんて不埒な事は考えてない考えてない。
シオンはミルクティーを飲みながらテリーア達と話はしているものの、どこか心ここにあらずといった感じだった。今も、話が途切れると窓の外に目を向けて考え事をしている風に見える。
「ねえシオンくん。何か悩み事でもあるの?」
「きみとコカに唇を奪われて、チャオにセクハラされたこととかね」
「それはだって、その……私も調子に乗りすぎて悪かった、けど……」
傍らで、グヴィードはパフェやら何やら注文し始めた。私の奢りだと決まったとたんにこれだ。
でも、それよりシオンのことが気になって仕方がない。
「あの
「……べつに」
否定はしたものの、図星でないならば「話をすり替えないで」等と切り返しそうなものだ。
「まあ、いいけどね。ただ女の子のことを考えてるシオンくんって何だか違和感あるなあって」
「だから違うってば。テリーアこそ何さ。僕についてきちゃったりなんかして、らしくない」
「そっ、それは……」
せっかくの文化祭だし。これはチャンスかもしれないと思って。
それに、あのエネコロロが、フィオーナが現れなければ、私は――
◇
廊下ですれ違う者たちの二匹に一匹は振り返る。
シオン君の隣を歩いていると何だか肩身が狭い。
「プラネタリウム、か。行ってみない?」
当の本人は慣れっこなのか、そんなものは何処吹く風といった感じでキョロキョロと出し物に目を映らせている。
キラキラと目を輝かせる姿は仔供みたいで、普段はちょっと冷めた目でクラスの皆を見つめているシオン君にもそんな一面があったんだと少し安心した。
「それよりあっちにしよーぜ。アヒャ」
グヴィードの指し示した方を見ると、廊下の少し先に『お化け屋敷』とあった。
「お化け屋敷ね。面白そうじゃない。ね、シオン君?」
「えっ……っあ、ああ、お、おおお化け屋敷、ね……」
さっきから黙っているシオン君に振ってみたのだが、どうも様子がおかしい。
「うん? どうかした?」
「アヒャヒャヒャヒャ。シオン、行こうぜっ」
「や。お、お化け屋敷なんてっ。ど、どうせ仔供騙しにきき決まってるでしょ。ほ、他のにしようよ」
平静を装おうとはしているが、どうみても顔が引きつっている。
「はは~ん。さてはシオン君……」
「アヒャ」
「や。な、何なのかなー、その目。こ、怖くなんかないんだからね!」
「じゃあ行こーぜ」
「そうね」
テリーアとグヴィードが満面の笑みで答えると、シオンは泣きそうな顔で後退った。
「や、やだっ。僕は絶対行かないもんね」
「ふーん」
その仕草が可愛くって、つい悪戯心に火が付けられてしまう。
テリーアはグヴィードと目配せすると、素早くシオンの前と後ろに回りこんで、体を持ち上げた。
「ふえぇっ、な、何するのさ!? や――」
「アヒャヒャヒャ。三匹入るぜ」
グヴィードが笑いながら受付のコンパンの仔にそう告げて、テリーアたちはお化け屋敷の中に突撃した。
「やだって言ってるじゃない! ちょっと、グヴィード、テリーアっ、降ろしてよ! てか降ろせこの莫迦! わーうー#$%&'*?+'{:@;「;:・!!!!」
だが、本格的に暴れ始めたシオンが想像以上の力を発揮してきた。
「アヒャぅおおっ!」
「きゃっ!」
まずグヴィードが
「ちょっ、先輩方――!」
受付のコンパンが慌てて駆け込んできた。入り口を入ったばかりの所なので、廊下を行く生徒たちからも丸見えだ。
「はぁ、はぁ……」
シオンの力がさほど強くないのと、風船のような体のお陰でダメージはあまりないが、今のシオンの顔を見るのはさすがに怖い。
「はややっ……?」
が、顔を上げられずにいると、息を整えたシオンが突然間抜けた声を出した。そこで初めて様子を確認すると、我に返ったらしく、シオンは呆然と辺りを見回していた。
巻き込まれたお化け役のポケモンが何事かと集まってくる。
「あ……貴方、風紀委員長のシオンさまではなくて……?」
「あ、や、その」
「とりあえず教室の明かり点けて!」
「何だ何だ」
廊下にも群衆が。
「おい、誰か教室ン中で技ぶっ放したらしいぞ」
「お化け屋敷のニセモンのお化け相手に何本気になってんだか」
「風紀委員長その人だとか」
「ええ? 誰が処罰するんだ?」
「ありえないっしょあの風紀委員長がそんな事すっか?」
後処理が大変そうだ……半分は私達の責任だよね、コレ。
◇
「……ごめんなさい」
効果抜群のエスパー技をまともに受けたグヴィードを保健室に運び、お化け屋敷の補修を手伝った後、テリーアとシオンは
「私とグヴィードも悪かったわ……怖がるシオン君を無理に連れ込んだりしなければ」
「や。僕もその……ね」
シオンはばつが悪そうにうつむいた。やっぱりお化け屋敷が怖いなんて恥ずかしいのかな。
「今日のこと、ぜったい誰にも言わないでよね!」
「あれだけ暴れたら、
「う。それもそうだよね……ってゆうか僕、ダンスパーティの開会式で演説しなきゃなんないんだけど! あ~~~~っ、みんなの前に出たくないよ……」
耳を伏せて塞ぎこむ姿がかわいらしい。いつも斜に構えてないで、こうやってもっと感情を表に出せばいいのに。
待って。
「あ……」
「どしたのテリーア?」
「な、何でもない!」
よく考えたらシオン君と
他の生徒から見たら私達、付き合ってるみたいに見えたりして……
すれ違う相手を横目で確認しながら歩くが、誰もテリーアたちを気にとめる様子はなかった。
「考えすぎ、よね。あはは」
「何を考えてるのさ?」
「何でもないって言ってるでしょ! あ、そこのアズマオウ焼きっての食べてみない?」
水路際に設置された屋台では、ロコンの少女が一風変わったお菓子を焼いている。水路内では牝牡のアズマオウが踊りながら客寄せをしていた。
「いらっしゃいませー! 陽州風のお菓子を私達なりにアレンジしてみたんです。お一つずついかが?」
二十ディルという値段も手頃だったので、早速お金を払ってアズマオウ焼きとやらをいただくことにした。
「二つください」
「はーい」
アズマオウ焼きは、どうやら小麦粉でアズマオウを模した皮を焼いて、その中に小豆で作った
「なにこれおいしい。でも、アズマオウを焼くんじゃなかったんだね。良かった良かった」
「当たり前でしょ! シオン君ったら」
こうやって大ボケをかましていながら、テストでは好成績を取るんだから。こういうギャップに弱いのかな、私。
や、何がどう弱いのかしら。自分の心の中で言っておいて、意味わかんない。
ふと劇が終わった後の、あのエネコロロの事を思い出す。シオン君にダンスパーティを申し込んだランナベールのお姫様。
なんであのエネコロロのことが頭に浮かぶんだろう。
「あ、そろそろ……ダンスパーティの準備に行かなきゃ」
と、急にシオン君はアズマオウ焼きの残りを口に放り込んだ。
「え? シオン君って風紀委員でしょ? 演説するだけなんじゃないの」
「学生自治会との結び付きも強いからさ。ほら、いつもそっちの業務も手伝ってるでしょ」
「厚意で、ってわけね。冷めてるようでいて……シオンのそういうところ、私は好きよ」
今まで考えていたこととの関わりがあるから、なのか。さらりと口をついて出た自分の言葉に、自分の耳を疑った。
「ほへ?」
「やっ、変な意味じゃないからね? そういう性質には好感が持てるって、そう! 客観的に見て、よ!」
「あー……そうなの。じゃ、また後でね!」
私は何をしているんだろう。今の私を私が見たらきっと、言いたい事があるならはっきり言いなさいよ、と叱りつけるに違いない。
私がシオン君に言いたい事なんて、決まってるじゃない。なのにどうして、言い出せないんだろう。怖いからか。今まで悪戯だって誤魔化してきたことが、本気だったとシオン君が知ったら?
嫌われてしまうかもしれない。私はシオン君と友達でいたいのに。友達で。
「ほんとに、これでいいのかな」
もとはと言えば、横からいきなり現れたのはあのエネコロロの方じゃない。だったら、私だって。
「待ってシオン君! 私、あなたと……シオン君と踊りたいの!」
◇
モテ期って急にやってくるものなのだろうか。や、普段はモテるというよりマスコット的扱いをされてるだけだし。僕を男の子だと見てくれて、本気で告白してくる牝なんていないのだ。いや、いなかった。今日までは。
「委員長、大事な話がありますわ」
風紀副委員長のセルネーゼは二つ年上の先輩で、突然風紀委員長に抜擢されてしまった僕に風紀委員のノウハウを教えてくれた。左右にすっと落ちかかる鬣が何とも言えず美しいグレイシア。ダンスパーティの準備中、その彼女がシオンを廊下に呼び出した。
「大事な話って何ですか?」
セルネーゼは周りにポケモンがいないことを確認して、耳元に顔を寄せてきた。
「委員長。いえ……シオンさん。
小声だったけれど、セルネーゼはゆっくり噛み締めるようにはっきりと発音した。
「ぇ、え……えぇえっ?」
◇
さて困った。本気の告白を三つも受けてしまった。三匹と一曲ずつ踊ることはできるのだが、二匹が結ばれるとされるのは最初に踊った相手だ。とはいえそんなのはただの慣例で、今までだって例外も多数あったはずなのだ。シオンが知っている例では、結ばれたはいいが次の日には破局したカップルもいた。たかが学園祭の行事だし。だいたい、あのフィオーナとかいうお嬢様の考えていることはよくわからない。
セルネーゼさんとテリーアには、一応順番があるから、と断っておいた。フィオーナさんの告白を知るテリーアは二番目でも構わないと言った。セルネーゼさんは諦めてくれたけど、心底残念そうにしていたから、もう一度僕から誘ってあげてもいいかもしれない。
「シオンさま」
ホールで準備作業に勤しんでいると、背後から聞き慣れない声がかかった。背筋に冷たいものを感じ、一瞬振り返るのが躊躇われた。無防備な背中を曝してはいけない相手だ。誰なのかはわからないけど、とんでもないプレッシャーを放っている。
「委員長のお知り合いの方ですか? 申し訳ありませんがまだ準備中ですので……」
セルネーゼさんの声に救われた。注意を逸らしてくれたところで、前足を視点にして素早く体の向きを反転させた。
「委員長……?」
「おやおや、警戒心のお強い方ですこと。ふふ」
そこに立っていたのは、あの時フィオーナの横に控えていたサーナイトだった。東方のフォルムは、それだけで目立つ姿だからよく覚えている。名前は、確か……
「孔雀さん……でしたっけ」
「おおお、わたしなぞの名を覚えていて下さいましたか! 感動です!」
孔雀はしゃがみ込んで両手でシオンの前足を取り、ぶんぶんと振った。
本当にこのポケモンがあんなプレッシャーを? 読み違えたか。
強い違和感に襲われたが、こうして対峙している限り殺気のようなものは感じられない。どこにでもいそうな、笑顔を振り撒く好意的なポケモンだ。
「あの……
や、ここまでマイペースなひとも滅多にいないか。真面目なセルネーゼさんまで辟易している。
「ほ? ああ、準備中でしたのですね! 申し訳ありません、フィオーナさまとはぐれた挙句に道に迷ってしまいまして」
……天然なのか。苦手なタイプだ。シオンは内心溜め息をついた。
「貴女、令嬢のボディーガードなのではなくて? はぐれてしまわれるなどと……」
「いえいえ、わたしはただの付き
論点はそこなのだろうか。違うと思う。絶対に違う。
「えっと、迷子でしたら僕が案内しますよ」
こういうタイプには単刀直入に言わないと、絶対に話が終わらない。セルネーゼさんの丁寧な応対では準備もあったものじゃない。
「さすがはシオンさま、話が早いです」
「あなたが遅くしてるんじゃないですか……」
それにしても、やけに馴れ馴れしい。『シオンさま』のくだりが特に。まるで僕が彼女の仕える主人みたいで変な気分になる。
「セルネーゼさん、すみませんがあとお願いします」
「承知しましたわ」
セルネーゼさんも、孔雀さんのことは僕に任せた方が良いと判断したらしい。まあ、会うのは二回目だしそれが適当だろう。
「では行きましょう!」
迷子になった当の本人は無駄にハイテンションだ。対照的にこちらは早くも気が萎え始めていた。
◇
吹き抜けの中庭ホールから、エントランスホールを抜け、校門と建物を繋ぐ路に出る。出店の方は売れ残りの最終セールが行われており、教室の模擬店からの売り歩きをしているポケモンもいた。
「とりあえず出てみたけど……どの辺りではぐれたか、わかります?」
「はて。学園内のどこかであるコトは確かなのですが」
「や、それは当たり前でしょ!」
予想以上の天然っぷりに思わず語気を強めてしまった。
「……」
じっ、と見つめられる。
まずかったか。どう見ても年上だし、今のは失礼だったかな。
「あ、その……ごめんなさい」
力なく謝ったが、孔雀はシオンと目を合わせたまましゃがみ込んで、両手を頬に添えて……え? え?
「あなたは……」
「ちょっ、近……ひぁあッ――!?」
その時の恐怖を、シオンは一生忘れることはないだろう。死ぬ、と思った。普段から鍛えているのに。体の力が抜けそうになった。立っていられなくなってその場にへたりこんで、あまつさえ失禁してしまいかねないような。純粋な、本能的な恐怖。
その紅い瞳だけで。視線だけで。表情こそ変わっていなかったが、先程までのふわふわした感じとは別人の目だった。
「孔雀、そこで何をしているの」
天からの救いの声に聞こえた。彼女が現れなかったら本当に泣き出していたかもしれない。
「フィオーナさまではありませんか! 探しましたよー」
孔雀がシオンから手を離して立ち上がった時には、あのおどけた調子に戻っていた。さっきまでの出来事は幻だったのか。そんな風に見えただけなのかもしれない。
「それはこちらの科白よ。貴女、一体どこへ行っていたの」
キルリアの少女――橄欖を引き連れたフィオーナは、孔雀に凛とした鋭い眼差しを向ける。それがシオンの姿を捉えるや、暖かい優しさに包まれた。
「あら……案内して下さったの? うちの使用人がご迷惑をお掛けしたわね」
「は、はあ」
何度見ても、本当に美しい
「まさか本当にご迷惑を?」
「いえいえ、僕は構いませんよ! そ、それより」
僕なんかが本当にこのひとと踊るの?
目の前にすると少し信じられなかった。
「ええ、今夜はどうぞ、よろしくお願い致ししますわ」
「はい! ぼ、僕なんかで良ければ喜んで!」
その時、孔雀が橄欖に耳打ちしていたのが気になった。声は聞こえなかったが、口の動きから察するに。『見つけた』――シオンを見ながら、そう呟いていた気がする。
◇
『それでは、風紀委員長より諸注意があります』
来賓もちらほら見かけるが、ダンスパーティに参加するポケモンのほとんどは学園生だ。中央エレベータ塔を取り囲むように、吹き抜けのホールに集まったポケモン達。皆それぞれにパートナーと寄り添い、開幕を今か今かと待ち構えている。
『えー、本日は生徒自治会主催のダンスパーティにお集まりいただきありがとうございます。風紀委員からも御礼申し上げます』
シオンが壇上に立つといくつか黄色い声が上がるが、所詮はマスコット的な人気だとはわかっている。その証拠に、彼女たちにはきちんとパートナーがいるのだから。
『皆様には存分に楽しんでいただきたいとは存じますが、セーラリュートの生徒としての節度を弁えるよう』
視界の隅に何やらドタバタと慌てるロスティリーとメントの姿が映ったような気がするが、見なかったことにしよう。
『羽目を外し過ぎることのないように! お願いしますね。あと誰かそこの二匹を放り出して』
少し語気が強くなってしまったかな。や、まあこんなものだよね。
『それではあとは生徒会長、お願いします』
そうしてシオンからマイクを受け取った生徒会長から、ダンスパーティの開幕が宣言され、会場はわっと拍手に包まれた。
シオンも壇上から降りて、待ち
ベール地方で広く採用されている社交ダンスの形態は、ポケモンの姿形によって大きく四足、二足、多足、飛行、不定型、水棲一、水棲二、水棲三の八つに分けられる。その組み合わせでパートが決まるのだが、同じ形態だと牝牡でまたパートが分かれる。脳内で四足同士の男性パートを思い出そうとするも、今ひとつイメージが掴めない。
「改めてよろしくお願い致しますわ」
「ど、どうぞお手柔らかに」
フィオーナは余裕たっぷりに微笑みかけてくるが、シオンは緊張で笑顔を返すこともできなかった。
『それでは記念すべき一曲目……』
曲が始まろうとしているのに、これではいけない。
「シオンさん、ダンスはお得意で?」
「や、ぜ、ぜぜん」
後になって思い返すと、我ながらひどい受け答えだった。それでもフィオーナはにっこりと笑って答えた。
「それでは体の力を抜いて、私に任せて下さるかしら。僭越ながら私がリードいたしますわ」
非常にありがたい申し出ではあったのだが。女性がリード……?
『ミュージックスタート!』
生徒会長の声を合図に、軽快な三拍子の
「さあ、いきますわよ!」
そこからはお察しというか何と言うか。レベルが違いすぎて噛み合わないところを、フィオーナは完璧にフォローしてくれた。四肢と尾を巧みに使って、シオンの動きまでも操るのだ。
「はい、一、二、三……ターンよ」
言われるまでもなく、誘導されるままに。
ていうか、これ……
「ちょっ、これって逆じゃ」
「こうでもしないと私がリードできませんでしょう?」
牝牡のパートが逆なのだ。フィオーナが男性パートを、シオンが女性パートを担当することになってしまっている。
「貴方は可愛らしいですから、問題ありませんわ!」
などと、嬉々として言い放つフィオーナ。そういう彼女も、男性パートを踊っても随分と様になっているのだった。力強さこそないかもしれないが、ある種の凛々しさを兼ね備えた美貌が、違和感を感じさせない。そう、気づけば――
「うふふっ、私達、注目の的ですわね」
「えっ……」
そう、周りのポケモン達の視線を否が応でも感じた。というのも彼女がアマルガメーション*1を駆使してフロアを一周するなどという暴挙に出るからだ。シオンも相手の形態によってフォロー*2することもあるから、何とかついて行くことくらいはできる。彼女のリードが非の打ち所のないくらい上手で、それに助けられている部分も大きいけれど。
最初の曲が終わると、近くでは拍手喝采が起こった。戸惑う僕を余所に、フィオーナは前足を揃えて礼を繰り返していた。
「慣れてるんだ、こういうの」
「あらあら、貴方の人気に依る所が大きいでしょう?」
「ご謙遜を」
「シオン君!」
そこへぱたぱたと走ってくる丸い影があった。
「次は私と! お願い、いいでしょ?」
学級委員長のプクリン、テリーアである。かなり強引に入ってきたな。
「えと」
フィオーナに目配せすると、にっこりと頷いて肯定の意を示してくれた。
「わたしは構いませんわ。どうぞご学友ともお楽しみ下さいな」
「じゃあ、また次の曲で!」
「ええ、お待ちしていますわ」
二曲目。
二足と四足だから、性別に関わらずテリーアのリードだった。レベルからするとフィオーナとは比べるべくもなかったけれど、楽しく踊ることはできたと思う。
その後はまたフィオーナさんと、それからセルネーゼさんと、何故か孔雀さんとも踊ることになって、結局休みなく踊りっ放しだった。ちなみに牝牡の告白云々の話は、前もって正式に申し込む相手に限った話であり――その場で決めて一緒に踊るぶんには特別なことは何もない。友達同士や、時に兄弟姉妹で踊るポケモンもいる。
「楽しかったですねー」
「あ、は、は……」
予想通りというか何というか、孔雀さんはメチャクチャだった。文字通り振り回されて、何度体が宙に浮いたことか、どれだけ他のペアの邪魔をしたことか知れない。それもサーナイトとは思えないほどの力で、まるで羽より軽いとでも言わんばかりにシオンを振り回すのだ。本人もフィオーナも孔雀はただの使用人だと言っているが、どうにも引っ掛かりを感じざるを得なかった。
卒業後に一つ屋根の下で暮らすまでに至っても、引っ掛かりは引っ掛かりのままなのだが。
『最後の曲も終了いたしました。名残惜しいですが、これにて生徒自治会主催ダンスパーティー、並びに第32回セーラリュート学園祭を閉幕致します!』
後半は少し気の早い拍手喝采に飲み込まれてよく聞こえなかった。
これがおそらく、僕にとって最後の学園祭だ。そう思っても哀愁が込み上げてこないのは、隣に彼女がいるからだろう。
果たして、彼女は
「シオンさん」
鳴り止まぬ拍手の中、フィオーナはシオンの耳に顔を寄せてきた。
「この学園の生徒なら、わたしが貴方をダンスパーティにお誘いした意味、理解していただけますわね」
たぶん、彼女の言葉を聞いている間が、最後の学園祭で一番緊張した瞬間だったと思う。
知ってたんだ。やっぱり。本気で僕を。
「今夜はしばしの別れといたしますが……」
ダンスをしていた時以上に、心は踊り狂っていた。本当に、本当に、こんな美人のお嬢様が、僕に一目惚れしただなんて。
「……もう、逃がしませんわよ」
とても甘い、とろけるような囁きだった。でも、いやに甘ったるいのは毒の匂いだったのかもしれない。
フィオーナに見初められたことで、シオンの
◇
ダンスパーティの裏で起こっていた事件。
まあ、ロスティリーたちが何を企んでいようと、どうせ失敗するのは目に見えていた。実際、ダンスパーティの進行に支障はなかった。
「ちくしょーローレルぅぅぅ! 俺の完璧な作戦がッ! ヤツの裏切りで何もかも台無しだッ」
「最初からそんなことだと思ってたよ」
台無しになっただけなら、まだ良かったのだけれど。
実はあの日、校庭から海へと流れる水路で、急激に水質の低下する事故があったとか、何とか。
◇
「やめましょう」
開幕を三十分後に控えたところで、ロスティリー率いるシオンアンチクラブの面々が会場の外に集まっていた。ところが、協力を申し出ていた風紀委員会副委員長のセルネーゼが突然、作戦の中止を提案したのだ。
「何……ですと?」
「
ロスティリーにしてみればあまりにも突然で、自分勝手な進言だった。
といっても自分達のしている粘着質で嫉妬ですらない悪戯のことを考えに入れなければ、であるが。
「何故です? まさかシオンの野郎を引っ掛けるのに失敗したとでも?」
「まっ、まさか。彼のごとき……あの仔を騙すことくらい、私にできないとお思いですか?」
作戦はこうだ。パーティで参加者に振舞われるノンアルコールワインに強力な下剤を混ぜて、風紀委員長の演説がある前にシオンに飲ませる。
その際、問題のワインはセルネーゼに渡してもらう手筈となっていた。といっても、開幕前では不自然極まりない。シオンを油断させる布石として、セルネーゼを完全に信用してもらわなければならなかった。信用を得る手段として最も有効だと考えたのが、シオンをセルネーゼに惚れさせることだった。
「ただ……その、私といたしましては」
ふと、セルネーゼの様子が明らかにおかしい事に気づいた。ロスティリーと目を合わせようとしないし、グレイシア特有の鬣で顔を隠す素振りも見せる。
今更、怖くなったとでも。ロスティリーは内心舌打ちをしたが、相手は成績優秀の上級生、強くは言えなかった。もちろんロスティリーの頭には上級生に対する畏敬の念などなかったが、兵士要請学校では、成績がそのまま生徒の強さを表すと言っても過言ではないのだ。
鈍感なロスティリーは気づいていなかった。
セルネーゼはシオンを
「もういい、貴女が抜けたいなら抜けてくれればいい。俺達だけで何とかする」
「……っ!」
セルネーゼは無言でその場を後にした。走り去ってゆく後姿をねめつけながらも、ロスティリーは歯噛みするより他になかった。
◇
「ロスティリー、聞いたよ!」
その時、物陰からひょっこりと顎を……いや、顔を出した者がいた。
「あの時オレに変な物飲ませたのはそれだったの? よくもひとを実験台に!」
「ぬぉう、メント!?」
ロスティリーの無二の親友、いや腐れ縁のアリゲイツ、メントである。
「シオンさんにそんな悪戯を企ててたなんて……言いつけてやるもんね!」
と、驚くロスティリーたちを余所に、メントはホールの方向に向けて駆け出した。
「ちょ、貴様……待て! 皆、あの莫迦を捕まえろ!」
「へん、ロスティリーなんかに捕まるもんか!」
メントは後方に水鉄砲を吹き出しながら、遠ざかってゆく。だがこちらも負けてはいられない。
「俺のヨガパワーを思い知ぺっぶほっ」
……負けてなどいない。
我が最強のヨガパワーを発揮する一瞬の隙をつかれて、水鉄砲を顔面に食らってしまっただけだ。
「今度こそ、死ねぇえええィッ」
ロスティリーは大きく跳躍して、十メートル先にいるメントめがけて跳び蹴りを繰り出した。しかし、相手も走っているのだから飛距離は十メートルでは当然足りないし、そもそもロスティリーにはそんな距離を一気に詰めるだけの身体能力もない。
ロスティリーは見事に地面に激突し、逃げるメントにさらに遅れを取ってしまう。
「やーいバーカバーカ」
メントはロスティリーをはやしたてながら、器用にも後ろ向きに走っている。と。
ゴン、と校庭に植わっている木に頭を打ちつけ、ひっくり返る。
「ふん、莫迦は貴様のようだな」
なんて、追い回している間に時間も過ぎ。
このやり取りにアンチクラブの面々も呆れ、今回の作戦は見送りにしようと、ロスティリーを放っておくことにしたのはまた後で知る話。
二匹がホールにたどり着いた時には、すでに風紀委員長の演説が始まっていた。
「シオンさんシオンさん!」
ポケモンの海を掻き分け掻き分け、メントが最前列を目指す。
「待て貴様ッ、演説中に大声を上げるとは不届き極まりない!」
シオンのところまでたどり着かせるわけにはいかないとロスティリーも後を追う。
「とうとう捕まえたぞ」
足こそ太いものの、全体としてみれば極端に細いシルエットのチャーレムと大きな顎が邪魔になるアリゲイツとではポケモンの間の通り抜けやすさに差があった。
「くっ、ロスティリーのくせに!」
「黙れ、メントの分際で俺から逃げようなどと一千万年早いわ!」
『あと誰かそこの二匹を放り出して』
次の瞬間、上級生達によって二匹は会場の外までぶっ飛ばされた。
◇
ダンスの相手もいない、というかダンスなどできないメントはしぶしぶ寮に帰ったが、それでも諦めないのがロスティリーの信条である。
「何としてもシオンにこれを飲ませてやる……」
再び会場に侵入したロスティリーは、配られていたワインを一つ受け取って、会場の隅で粉薬を入れた。問題はこれをどうやってシオンに渡すかである。直接渡しても無駄だということはさすがのロスティリーもわかっているがしかし。
「シオンの相手の牝……か」
大人気のシオンは、複数の牝と順に踊っている。見れば、最初に踊っていたエネコロロは休憩中のようだ。
「これはチャンス! あいつを利用すれば――」
尤もロスティリーの知能はそのエネコロロに怪しまれないかどうかを考えない程度でしかなかったのだが。
「もし……そこのチャーレムさん……」
「何だ、今俺は忙しいんだ」
声を掛けてきたのは、見るからに薄倖そうなキルリアの少女だった。年は同じくらいか、少し下か。
「つかぬ事をお尋ねしますが……わたしのご主人さまに……何をされるおつもりで……?」
言葉遣いは丁寧で、今にも消え入りそうな小さな声だったが、この時ロスティリーは背筋が冷たくなる恐怖を感じた。これから働く悪事を暴かれたことと、何より、キルリアの視線が、あまりに冷たかったからだ。
「い、言い掛かりは――」
「おやおや。キルリアの感情受信能力を欺けるとお思いですか? サーナイトのわたしにもほら、焦りが伝わってきますよー」
キルリアの後ろからもう一匹。こんどはサーナイトが現れ、つんつん、と自分の胸の角を指さした。
「少しお話を伺いましょうか」
言い返す間もなく、ロスティリーはそのサーナイトに首根っこを掴まれ、またしても会場の外に放り出されたのであった。
◇
「あのサーナイト、鬼畜だ! 俺にあれを飲ませるとは!」
「そりゃ自業自得でしょ」
ロスティリーから事情を聞いたローレルは、擁護する余地のなさにため息をついた。
「公にされなかっただけでも喜ぶべきじゃないかな。ていうか俺、水ポケモンじゃなくて良かったと本気で思ったよ……」
校庭にて、自分で下剤を仕込んだワインを無理矢理飲まされ、その作用のあまりの強さにどうしようもなかったロスティリーはすぐ横の水路に飛び込んだのだという。あとは、口にするのも躊躇われる惨状が展開された。
「ていうか、俺に話していいわけ? そんなこと。普通の奴だったらドン引きすると思うんだけど」
「俺はお前を信用している」
話の内容と状況を考えなければ格好いいというか、言われて嬉しい台詞なのだが。色んな意味で嬉しいやら悲しいやら。
「同じ俺の友人でもお前はメントの莫迦とは違う。うむ」
「俺にとってはメントもきみも、どっちも大事だけどね」
なんか変なのに気に入られ、気に入っちゃったなあ。毎度の事ながら、どうしてこんなのと友達になっちゃったのかと不思議に思うローレルであった。
◇
しばらくの間、フィオーナから一切の連絡はなかった。学園祭の一週間後にダンスパーティーのベストカップルが発表された時に呼ばれたらしいのだが、私用で来れないというのだった。仕方なく、シオン一匹で――そう、フィオーナのお陰でベストカップル賞に選ばれてしまったのだが――表彰されるハメになって恥ずかしかった。だって僕は何もしていないんだから。
そんな学生としての残り少ない日々を満喫しながら、闇夜の蝶としての生活にも戻っていた。
夜中に寮を抜け出して、元貴族のバタフリー、ラ・レーヌが経営する娼館で、男娼として働く日々が。
そのはずだった。
「こんばん……」
裏口から娼館に入った時にシオンを待ち構えていたのは、異様な空間だった。娼婦達の目がシオンを映そうとしないのだ。
「えっ、と……どうかしたんですか?」
「店長に聞きな」
話しかけても、冷たくあしらわれてしまう。そこでようやくラ・レーヌが出てきた。ひどく落ち込んだ様子だった。
「……クラウディア。お前、もう来なくていいぞ」
「え?」
予想だにしていなかっただけに、言葉の意味が飲み込めないでいた。
「クビだクビ。上からの圧力でな。お前を辞めさせろだとよ。詳しくは俺にも伝えられていない」
はっきりと宣告されて、背筋とか首筋とか、色んなところが冷たくなった。クビ? なんで僕が? 業績は悪くないどころか第二位なのに?
「俺だって手放したくなどない。出所は知らんが多額の手切れ金は受け取った。だがな、将来お前が俺にもたらしてくれる利益を考えると小さすぎる」
あくまでラ・レーヌは情を挟まず、淡々と語った。自分は損得計算しかしていないんだと主張するみたいだった。
「つーことでだ。お前はもうこの店のモンじゃねえ。おいロッキー、つまみ出せ」
「ちょっ、えっ、そんな……!」
リュートの近くから、ここまで警護してくれたゴローニャ、ロッキーもこの事実は知らなかったのだろう、始めは困惑の色を見せたが、ラ・レーヌにキッと睨まれると慌ててシオンの体を持ち上げた。そのまま抵抗虚しくも裏口から放り出されてしまう。
「嘘……これ何の冗談?」
口からは現実逃避したい一心の言葉が漏れたが、頭はすでにこるからどうするべきなのか考え始めていた。見た目以外に何のスキルもない僕が、夜にだけ働ける仕事。稼ぎのいいところ。ふと、何度か耳にした『
そういう問題ではなかったのだ。上からの圧力とは何だったのか。少し考えたらわかりそうだったものを。
殺気……!?
感づいた時には遅かった。
トントントン、と素早いリズムで体の数箇所を叩かれた。それで何をどうしたら視界が暗転するのやら――
◇
あまりに呆気ない。これが本当に姫女苑の息子なのかしら?
あの琥珀色の瞳を忘れるはずがない。同じだった。サンダースとエーフィ、それも牝と牡でここまで容姿が似ているなんてこと、親仔でなければあり得ない。
「フィオーナさまとしたことが。わたしを信用しすぎです」
あの仔を迎えに行って頂戴、だなんて。普段のお使い感覚で、自らの見初めたポケモンを。それも孔雀と橄欖がヴァンジェスティ家の使用人になって、まだ長くは経っていないというのに。
わたしは命令に背き、父の仇を、両院一族を始末しようとしている。シオンはわたしを前に気を失っている。彼の命は羽より軽く、風前の灯に等しい。幸いここは無統治国家ランナベールだ。今ここで一突きにしても咎める者はいないだろう。
「これでわたし達の目的も」
陽州を飛び出して、姫女苑の行方を追うこと二年。風の便りに他の仲間も陽州を発ったと聞いたが、ここランナベールまでたどり着いたのは孔雀達姉妹だけだった。潜伏期間を経て、姫女苑の死を知り、それならばと一族を滅ぼすことに決めた。そう、仇は姫女苑自身よりも、むしろ両院の血だからだ。彼がその血を受け継いでいることは、孔雀の絶対的な勘が告げていた。
これで終わり。橄欖と陽州に帰って静かに暮らそう。世を忍ぶ仮の姿ももう要らない。ヴァンジェスティの権力だか何だか知らないが本気を出したわたし達を止められるはずがない。逃亡なんて、裏切りなんて朝飯前だ。
「……」
それなのに、どうして手が動かないの。どうして、躊躇っているの。フィオーナさまの顔が脳裏に浮かんで、離れなくなった。頭は切れるくせに純粋で、ポケモンを疑いもしない。それでも嘘を見抜く能力には長けているから、騙されない。不正にはとことん厳しくて。良い意味でも悪い意味でも真っ直ぐなポケモン。
「何処に惹かれたのかしら。それとも、何に取り憑かれたのかしら」
欲しいものは必ず
わたしはフィオーナさまを正当に評価していると思う。
それが今、わたし自身の手によって否定されようとしている。
ああ、そもそも彼は――シオンは、自らの血のことを知っているのだろうか?
もしかしたら姫女苑は、生まれた息子に何も教えていないのではないか?
知らずに死んだら?
わたしと橄欖はヴァンジェスティ家の裏切り者で、何も知らない無垢な少年を殺めた逆賊としてランナベールに名を遺すのだろう。追っ手など怖くはないが、悪名だけは永遠に消えることはない。ヴァンジェスティ家の経歴にも傷がつく。もしかするとこれをきっかけに衰退の一途を辿るなんてのも有り得ない話ではない。
――わたしったら。ヴァンジェスティ家の心配なんかして、何のつもりなんだろう。今この瞬間まで仕えていても、明日には無縁になっているのに。
それに、そもそも――
「ふふふっ……莫迦莫迦しいわね」
何のために気絶させた?
最初の一撃で仕留めることもできたのに。
「橄欖ちゃんには……怒られるかな」
孔雀はシオンの体を抱き、お使いの続きを再開した。
彼の体は温かくて、ビロードのような肌触りで、少し甘いような、とても良い匂いがした。
◇
何が起こったのか。
これが夢心地というやつなのだろうか。ふかふかで暖かいのに軽くて柔らかで、とにかくこれまでの
「目が覚めたようね」
まだ目は開けていないのに、タイミングを図ったように、澄んだアルトの声が耳に染み入ってきた。
「ここは?」
目を閉じたまま答えるなんて失礼だったかもしれない。それでも声は優しく、丁寧に教えてくれた。
「安心なさい。わたしの寝室よ」
「そう……」
さすがはお嬢様の部屋、道理で寝心地が良いわけだ。この布団、一体いくら……?
「えっ、と」
夢見心地な気分は横に置いといて、冷静に考えよう。まずは目を開けて。
あ、フタがある。
フタ、なんて言い方はよろしくない。天蓋だ。本物の天蓋付きベッドに寝かされているようだ。レースカーテンは引かれていて、一匹のエネコロロがソファの上に優雅に体を伸ばしてこちらを見つめていた。
「ちょっ……ぇええぇえっ!!!!?」
確認するまでもない、そのエネコロロはシオンが再会を待ち望んでいたフィオーナそのひとだった。
「うふふっ。あまり大きな声を出さないでくださる? わたしの方が驚いてしまうわ」
フィオーナはソファを降りて、ベッドの横まで歩み寄ってきた。
「まずはお久しぶり、かしら。わたしのこと、覚えていてくださったわよね、シオン?」
「そ、それはもちろん! 会いたかったですフィオーナさん!」
「嬉しいわ」
フィオーナはにっこりと笑みを浮かべて、本当に心の底から嬉しそうだった。ただ、その笑みが前に会った時とは――昼間とは違って、一層大人の魅力に満ちた、妖艶な微笑みだった。
ドキリとしてしまう。いや、だって状況が状況だ。再会が彼女の寝室のベッドの上だなんて、想定どころか夢にさえ見なかった。
「あれから連絡もせずごめんなさい」
次の言葉が見つからず口をぱくぱくさせていると、フィオーナが話を切り出した。
「や、それは」
確かに少し冷たいかなって思ったけど、今ここで会えたんだから気にしてはいない。だが、次の一言が衝撃的だった。
「シオンのこと、調べさせていただいたわ。夜な夜な学園を抜け出して働いていた事も」
言葉を返せなくなる。
素性が知れたらきっと蔑まれて、相手もしてくれなくなるだろうって。そう思って、彼女にだけは何があっても絶対に知られたくなかったこと。彼女の申し訳なさそうな瞳は、それを知ってしまったのだと語っていた。
「はっきりと言うわ」
だが次の瞬間、言葉が明らかに鋭くなった。どんな侮蔑を受けても甘んじて受けるつもりでいた。これでお終いだ。知った上でまた会ってくれたんだから。僕にはそれで十分だった。
「わたしはあの娼館から貴方を買い取ったの。だから今のシオンは、わたしのものよ」
続けられた言葉は、予想の斜め上どころか次元を超えた裏側のそのまた狭間だった。
僕を買った?
彼女が個
買ったというからには、
ああ、何かフィオーナさんの口調に違和感があると思ってたら。
「そんな顔をしないで、シオン」
僕の名前を呼び捨てに。
「処遇はずっといいはずよ。もう不特定多数の相手を強要されることもありませんわ。これからは、わたしとだけ。シオンも嬉しいでしょう?」
それは、本音を言えば、あの日々から解放されて、フィオーナさんだけの相手をできるなんて願ってもない、こちらから望みたいくらいだ。でも、そこで頷くのは躊躇われた。それじゃ完全に欲だけで動いてるみたいだから。
「僕は……あなたとは、普通のお付き合いがしたいんです」
「そう
フィオーナはベッドからすたすたと離れてゆく。窓の上に垂れ下がっていた紐を口できゅっと引っ張ると、カーテンがぱっと開いて夜空が映し出された。
「今夜は私とのお話に付き合っていただこうかしら。親交を深め合うには良いと思いますわ?」
瞬く星空をバックに、月明かりに照らし出されたフィオーナの姿は……目の眩むような……くらくらして、目の前がぼうっとして……幻みたいな、そう、これは……幻、なのか。
「シオン!?」
僕の名を呼んでくれた彼女の凛とした艶やかな声もどこか遠い。
彼女が立つ舞台は僕とは違う、あまりに掛け離れた世界で、現実感を、確かな存在感を確かめられないくらいの、霞みのような美しさが、僕には眩しくて。夜はこんなに暗いのに、光り輝いているわけでもないのに。幻の夜に降臨した月の女神。どうか僕の女神で、僕だけの女神で、幻じゃなく、本物の女神であってほしい。
消えないで――
◇
こんなに目覚めの良い朝って、しばらくなかったように思う。夜の仕事が長引いて、昼間はずっと眠くて、なぜか歴史の授業になると寝てしまって、怒られて。
風紀委員長に用意された個室は広いわけじゃないけれど、白を基調とした部屋の造りで、清潔感がある。ベッドも白で、マットはどんな形のポケモンでも眠りやすいような低反発材で作られている。
カーテンを開け、窓から射し込む朝陽を浴びながら、朝食の用意をはじめた。朝陽は太陽ポケモンの僕に力を与えてくれる。
あれは夢だったのだろうか?
今日は歴史の授業も真面目に受けよう、と清々しい気分になる一方で、昨夜の出来事に思いを巡らせていた。
いつもの通り仕事に行ったら急にクビを宣告され、失意のうちに沈んでいるところで意識が途切れ、気づいたらフィオーナの部屋にいて、朝を迎えたのは自分の部屋。
「どこまでが、現実なのかな」
自分のベッドの上で目覚めたんだから、ちゃんと帰ってきたんだ。シオンの記憶は、星空をバックに佇むフィオーナの姿で途切れている。ここで目覚めるということは、最後のあれはきっと夢で……
「ううん、考えても仕方ないよね」
今この場に彼女はいない。直接確かめることもできないんだから。それに急がないと遅刻しちゃう。
朝食を済ませて身支度を整え、寮から中央ホールに出る路を歩く。個室のある寮は一番奥なので、少しずつ他の寮のポケモンが合流して大きな流れになる。
「アヒャ! よぉシオン!」
「あ、グヴィード。おはよ」
ちらほらクラスメイトの姿を見かけるようになってきたところで、グレッグルのグヴィードと会った。
「ヒャ? 今日はあんまり眠そうじゃないんだな」
「何だよそれ。僕がいつも眠そうな顔してるみたいじゃない」
「アヒャヒャ。太陽ポケモンのくせに朝弱いからなァシオンは」
本当は弱くなどないのだが、そういうことにしておこう。グヴィードに説明するわけにもいかないし。
文化祭の一件ではグヴィードに迷惑をかけちゃったけど、もとはと言えば僕を無理にお化け屋敷に引きずり込んだグヴィードが悪い。本人もその点は認めていて、まあ互いを許し合えたのであれをきっかけに仲違いするような事態にはなっていなかった。
他愛のない会話を続けながら、一限目が始まる十分くらい前だろうか、標準的な時間に教室に入った。
「おはよう、シオンくんグヴィードくん」
いつもマルマインのパツと一番を争って登校してくるテリーアが早速声をかけてきた。学園祭で一緒に回ってから、シオン、グヴィード、テリーアの三匹で行動することが多くなって、クラスでは仲良し三匹組として認識されているらしい。
「おはよ」
「よ! 今日はパツとどっちが早かったんだ?」
「私は別に競争なんてしてないよ? 学級委員だから早く来て黒板の日付を」
「ハーハハハハハ負け惜しみかよ学級委員さんよオイこれでオレの三連勝だぜなあグヴィードてめえ聞かなくても答えの判るような質問しやがって」
いやにハイテンションなパツが転がってきた。ただでさえカラカラとした早口が更に調子づいて鬱陶しいことこの上ない。
「うるさいわね。あんたなんか早く来たって何の役にも立ってないじゃない!」
「んだとてめぇコラ学級委員だからって調子乗ってんじゃねえぞオレは牝でも容赦しねぇからな雷ぶち落とすぞァアン?」
「はいはい、ちょっとあっち行ってて」
パン、とテリーアが軽くはたくと、パツは勢いよく転がって教室を飛び出し、廊下を歩いていたポケモンとぶつかった。
「おい誰だよマルマイン投げたやつ!」
「あっ、ごめんなさい」
「教室でマルマイン遊びは禁止だぜテリーアー。アヒャヒャヒャ」
扱いがまるでボールだ。ビリリダマやマルマインの宿命というやつだろう。
「てめ・らオレを・ケにしや・って殺すもう決・たぞ殺すこ・す死ね食ら・オレの十・んボルトを」
全速力で教室に向かって転がりながら喋るから、何を言ってるのかわからない。ただパツの体が雷光を帯びはじめたので、これは危ないと思った。教室で技を使うなど以ての外だが、やむを得ない場合は良しとされている。この場合正当防衛だから、大丈夫だよね?
シオンがテリーアとグヴィードを含めて光の壁を展開した直後だった。パツの十万ボルトの電撃が三匹に襲い掛かる。
術者のレベルが同程度なら攻撃の威力ははおおよそ半減される。光の壁は広く展開するとその分薄くなるが、それを考慮してもまだシオンの力の方が圧倒的に上だった。体に少し痺れた感覚が走ったが無傷でやり過ごすことができた。次いで
「ぐはシオンてめえふざけんなくそ痛えぞボケ」
「ちょっとからかっただけなのに教室で十万ボルト使うなんて、いくら何でもやりすぎでしょ」
「その通りね、ラヴェリア君」
賛同したのは予想外のポケモン。できれば賛同してほしくなかった。正面に立っていたのは四十代前半くらいのルージュラ。担任のバナヘーア先生である。
先生はシオンの
「いったあぁっ」
シオンの頭に。
「
「いえ、あの、もう十分痛いでひゅぃたたたたっ」
最後まで言わせてもらえず、ほっぺをつままれる。この暴力教師。
「早く席に着きなさい」
「ひゃい……ふきまふ」
ちなみにパツはシオンの頭に跳ね返ったあと、教室の後まで転がって水路に落ち、溺れかけたところをジュゴンのコカに助けられていた。喧嘩両成敗とはまさにこの事だが、これだけで済むなら楽な方だ。バナヘーア先生は女性教師にしては少々荒っぽいが、ネチネチした説教やペナルティーを課してはこない。先生が全員こうなら、怒られた方もかえって清々しい気分で素直に反省しようって気になれるのに。
「おはようございます皆さん。今日は――」
今日は、いつも通りの日常がなんだか新鮮なものに感じた。僕の心の中に下りていた
どうか幻でありませんようにと、願うばかりだった。
◇
朝がどんなに明るくても、昼がどんなに高くても、夜は訪れる。
僕はいつもの場所に足を向けていた。セーラリュートを抜け出して少し歩いた路地の裏。
もちろんそこにあの用心棒はいない。ゴローニャのロッキーがシオンを迎えに来ることはもうない。
「どうして、ここに?」
待ち合わせ場所には別の先客がいた。嬉しかった。また幻の世界に迷い込んだみたいだった。逸る気持ちを抑えて、淡々と疑問を口にした。先客は、白い衣から覗く緑色の手を腹の前に揃えて深々とお辞儀をした。
「お待ちしておりました」
夢じゃなかった。昨夜の出来事は本当だったんだ。
「我が主が首を長くしてあなたを待っておられますよ、シオンさま。フィオーナさまの命で不肖孔雀めがお迎えに上がりました」
「あなたが?」
「改めまして、今後ともお見知りおきを。フィオーナさまの許婚であるあなたはわたしのご主人様も同じです。何なりとお申しつけ下さいませ」
劇の科白を読んでいるみたいに、すらすらと流れるような話し方で孔雀は言う。すぐには疑問を抱けなかったのはそのせいだろう。
「ささ、どうぞこちらへ」
孔雀がしゃがんで片手をシオンに差し出したので戸惑った。迎えに来たって、まさか彼女が僕を運ぶつもりなの?
「や、その、じ、自分の足で歩きますから!」
金持ちのお嬢様の考えることはわからない。道案内さえしてくれればそれでいいのに。
「ダメですよー。フィオーナさまは少しでも長くあなたと過ごしたいと言っておられます。ここから屋敷まで歩いていては夜が明けてしまいます」
それは大袈裟だとも思うが、少なくとも片道二時間はかかるだろう。確かに、それでは向こうで過ごす時間がほとんどない。
「と、ゆーワケでっ」
「きゃああっ!?」
いきなり、問答無用で抱き上げられた。二十キロ以上はあるシオンを、あまりに軽々と。そんなに速い動きでもなかったのに全く反応できなかった。無駄がないというか、予備動作が見えなくて、しかもタイミングが完璧だった。
「わたしは絶対に落とすような失策は致しませんが、じっとしていてくださいね」
僕を両手で胸にしっかりと抱くと、孔雀さんの体が浮かび上がった。
「えっ……?」
「うふふふっ。夜空の旅へご案内します」
孔雀は楽しそうに笑うと、そのまま急上昇。体が薄青い霧状の光に包まれて、そう、間違いなく飛んでいた。街の明かりが下へ下へ、反対側を見ればセーラリュートの全景が視界いっぱいに広がっていた。
「うわああぁっ」
一体どうやって?
「と、飛んでるよ!」
「ヴァンジェスティ家の使用人たる者、この程度のコトができなくてどうします? ここからが本番なのですよー」
孔雀緩めていた口元をきゅっと引き締めた瞬間だった。横に体を引っ張られたみたいに、グン、と急発進した。加速力なんてものじゃない。最初からトップスピードだ。
「は、速っ……!」
「まだまだですよー」
否、彼女は更に速度を上げた。信じられない。息をするのがやっとだ。もしかしたらそんじょそこらの鳥ポケモンより速いかもしれない。純粋に怖くなって、彼女の胸にぎゅっとしがみついた。
「かわいい……本気で……てしまいそう」
「えっ、な、何か言いました?」
小さな呟きだったので、風の音で言葉がよく聞こえなかった。
「何でもありません♪ そろそろ到着ですよー」
街のずっと高いところにある屋敷が、遠くに見上げるしかなかった屋敷が、目の前に。屋根が見える。見下ろしている。
「本当に、僕が……ここに?」
セーラリュートの中庭をもう一段も二段も豪奢にしたような庭だというのが、夜の暗さの中にも見てとれる。これか個人の資産なのか。さすがに一つの国を作ってしまうだけのことはある。
「少しの間ですが、お静かに」
と、孔雀はシオンの口に指(?)を当てた。きっと事情があるのだろう。家の者にばれてはいけないとか。
孔雀は扉の前ではなく裏側に回り込んで、二階の窓に近づいた。タイミングを図ったかのように、その出窓が両側に開いた。中にはもう一匹の使用人、キルリアの橄欖がランプを片手に立っていた。
「……」
橄欖はシオンを一瞥して、次に孔雀の顔を見た。睨んでいるわけでもないのだが、一瞬ぞっとした。赤いのに氷みたいな。冷酷というのではなく、何も見ていないようで全てを見透かされていそうな無感情な瞳。呪ってもいいですか? そんな風に語りかけているようでもある。
「……姉さん、貴女……やっぱり……」
彼女が口を開いた時も、寒気立つのを堪えきれなかった。孔雀にその震えが伝わったのか、シオンを抱く腕に力が込もるのがわかった。
「お客様が怖がっているわ。フィオーナさまが招待された特別なお客様なのよ? 真っ当なおもてなしもできないの?」
「……申し訳……ありません」
歓迎されていない、みたいだ。少なくともこの橄欖という仔には。
「うちの妹が失礼いたしました、シオンさま。それではご案内します」
孔雀が橄欖の横に滑り込むように中に入り屋敷の廊下に着地すると、橄欖は無言で窓を閉めた。ランプを持った橄欖を先頭に、僕を抱いたままの孔雀が後に続く。薄暗い廊下を進むこと一分弱。居並ぶ扉の一つで立ち止まり、橄欖がノックをした。
「お連れ……しました……」
あんな消え入りそうな声で部屋の中まで伝わっているのだろうか。疑問を余所に、扉が奥に開いてフィオーナさんが顔を見せた。
「いらっしゃ……え?」
何か変なものを見るような目が僕に向けられた。戸惑ったが、すぐに合点がいく。
「孔雀さん……!」
「抱き心地が良かったものですから、つい」
屋敷の中に入ってからは、何も抱いて連れて来る必要はなかったのだ。
「貴女というひとは……シオンもシオンよ。孔雀の言いなりになってはいけないわ」
「は、はあ。すみません」
そこでようやく孔雀が下ろしてくれた。
「ま、良いでしょう。入って頂戴」
部屋に入れられたのはシオン一匹だった。
「ここは」
間違いなく、あの部屋だ。昨夜夢にみた部屋だ。シオンが寝ていた天蓋付きのベッドもそこにちゃんとあった。
「わたしの寝室よ? 昨日も来たでしょう?」
「あ、それは、はい」
フィオーナは窓際に立って、夜空を見上げた。まるで昨夜の夢の続きみたいだった。
「昨日は大変だったのよ。わたしはシオンを連れて来るように命じただけなのに、孔雀がしたことといえば強引な拉致じゃない。わたしのベッドに寝かせて様子を見たのだけれど、目が覚めたと思ったら結局すぐに気を失っちゃって」
振り向いたフィオーナの横顔にドキッとした。耳を覆う特徴的な紫の鬣が月明かりに透けて光っている。幻想的で官能的で、自分の中の"牡"が強く前面に出ようとしているのがわかる。そもそも寝室に招き入れられて
「今夜はゆっくり過ごせそうね」
フィオーナが艶美な体をしならせて近づいてくる。顔がぶつかりそうになって、ぶつかり……
「ちょっと待っ……んっ」
目を閉じる間もなく、キスをされた。体中に電気が走った。やばいやばすぎる。倒れそうだ。もうどうにでもして。
腰が砕けそうになったのを、体で支えられた。
「あら、大丈夫? 軽いキスだけでこんなになるなんて……男の子って意外と脆いのね」
そこではっとした。こんなところに住んでいるお嬢様が、こっそりと僕を寝室に入れているという事実。そして彼女にそこまでさせる理由も。
「フィオーナさん、もしかして」
「わたしに今までこんなことが許されたと思う? 当然、貴方が一匹目よ」
「そんな……ぼ、僕は」
ダメだ。どうかしてる。僕以外の男の子を知らないで、どうして? 男らしくないから安心だとか?
「普通の恋人から始めたいと、昨夜はそう仰有ったわね。でもシオン、気づいていないの?」
違うんだ。僕みたいな穢れきったポケモンがフィオーナさんの最初の相手だなんて、そんなことあっちゃいけない。きっと何か勘違いしてるんだ。目を覚ましてよ。僕はあなたが好きになれるようなポケモンじゃない。
「こんなに良い香りをさせて……わたしを誘っているとしか思えなくてよ?」
フィオーナさんの艶やかな、凛と響いていた声が、だんだん溶けていくみたいに、甘い囁きへと変わってゆく。
言いたいことはあるのに、口が動いてくれなかった。
「安心なさい。こんなわたしでも、知識はあるのよ? そうでなかったら寝室にあなたを呼んだりしないでしょう?」
そうじゃないんだ。どうして? 僕のことを知っていて。圧力を掛けて娼館を辞めさせてまで。
「ふぃ、フィオーナ、さん……」
名前を呼ぶだけで精一杯だった。体が言うことを聞かなかった。フィオーナさんに寄り掛かるようにして何とか支えていたけれど、これではもう完全にOKサインを出しているようなものだ。
「とても興味がありますわ」
瞬間、視界がぐるりと回った。何が起こったのか理解するまでに若干の遅れを生じた。体の下に入り込まれて投げられた。背中から落とされた。ベッドの上。フィオーナさんが覆いかぶさるように僕を見下ろしている。
想像だにしなかった。意外にも素早く、力強い。見るからに欠点の見当たらない女性だけど、さすがに金持ちのお嬢様だけあって身体能力まで
「いざという時、自分の身くらい守れなくては困るから。ふふっ。意外だったかしら?」
こんな……こんな展開って。曲がりなりにも経験豊富な僕がいいようにされて、初めての彼女が主導権を握るなんて。
「ほんと、完璧超
フィオーナさんはそのまま伏せるように、キスでシオンの口を塞いだ。
「ん、ちゅ……はぁ……フィオーナ、さんっ……ふぁっ」
突き入れられた舌が口腔内で踊る。不思議と荒々しさは感じさせない、繊細な動きで、犬歯の裏側まで舐められて。すごい。これは天然か。このひと、ものすごく上手い。
「あっ、ふぁ……だめ……」
「ん……はぁ……本当に、こんな風に、なるのね……」
「フィオーナさんが……すご……すぎて……っ」
ぺたん、と彼女の肉球が僕のお腹に触れる。爪の先で短い体毛を掻き分けるように撫で回された。
「フィオーナ、さ……んんぅっ……」
また口を塞がれたと思ったら今度はすぐに離れて、頬を舐められた。そして首筋、胸へと下がっていく。
「ふふ……綺麗な毛並みをしているのね」
「そんなこと言われると、恥ずかしい……です」
不思議だ。体が言うことを聞かない。自分の好きな相手にされるのって、こんなに違うんだ。
「きゃぅっ……!」
フィオーナさんの舌が、一番敏感なところに触れたのが分かった。思わず体がビクンと跳ね上がる。
「こうすると……気持ちが良いのでしょう……?」
知識として知ってはいても経験がないから、そこまで――そう思って油断していた。
「あら、何か……少し甘い……」
「や……!」
「どうしてこんなに少ししか出ないのかしら? んっ……」
「す、吸っちゃだめぇっ……! や、やあああぁぁぁっ!」
経験がないから。加減を知らないんだ、このひと。そんな風に納得している暇も、この時の僕にはなかった。だんだん何も見えなくなって、頭が真っ白になって。
「沢山出てきたわね……もっと頂戴?」
「だっ、からっ……ちがっ、ぁ、あっ……ふぁあああああああああぁぁあ~~~っ!!」
閉じた瞼の裏にフラッシュが。強い快感が背中を走りぬけて、僕は自分のものとは思えないような声を上げていた。後ろ足の辺りが痙攣したみたいになって、快感が強すぎて他の感覚がなくなっていた。
「んんぅっ……今度は……んくっ……少し苦味があるのね……でも、こんなに沢山……」
我慢できず何も考えられず、フィオーナさんの口の中に出してしまっていた。不思議と、背徳感も罪悪感も湧いてこなかった。彼女の反応がきれい過ぎたからだと思う。とても純粋で、きっと彼女の頭の中には貪るような欲望もなければ奉仕精神もない。
「はぁっ、はぁっ……フィオーナさん……」
「不思議ね……何か特別なことをしたという気分にはならないわ。世間では『一線を越えた』なんて言うのかしら? シオンとの日常の一環にしか思えないというのに」
彼女はとても高潔だけれど、同じくらい素直だった。
「初めて……なんでしょう?」
「そこに特別な意味を持たせる必要があるとお思いですか? こうすることが自然の摂理なら、それは初めて立って歩いた、初めて自分で食物を口にした……そういったことと変わらなくてよ?」
ああ、フィオーナさん。あなたはなんて。
「なんて、綺麗な……」
「……?」
僕には眩しすぎて、少し目が痛かった。
やっぱり僕では不釣合いだと思う。それでも彼女の心を綺麗なままにしておきたいと思った。そのために僕はできるだけのことをしよう。
僕が穢れているなんてこと、彼女にとってはどうでもいいんだ。穢れているだなんて微塵も思っていないんだ。"初めて"という概念に特に意味はないって。僕の穢れそのものが、本当はこの世には存在しないんだって言っている。
「どうしたのシオン……! 泣いて……いるの? ど、どこか痛かったのかしら? ごめんなさい、偉そうな事を言っておきながらわたし、やっぱり慣れていなくて」
「違う……違いますよ……っ! っく……フィ、フィオーナさんが……フィオーナさんがぁ……!」
ベッドの上で僕を見下ろしているフィオーナさんの慌てぶりがまた新鮮だった。フィオーナさんでも慌てることってあるんだ。
「ふふっ……」
「な、何なの。今度は吹きだしたりして……」
「ごめんなさい。フィオーナさんが優しすぎて」
「それで泣いたり笑ったりするものなの? シオンったら……面白いのね。うふふ」
フィオーナさんは小さく笑うと、そのまま僕の上に倒れ込んできた。
「続きをしましょう?」
「……うん」
僕はもう君のものだよ、フィオーナさん。
◇
「シオンくん。シオンくん!」
「……なぁに? テリーア」
「どうしたのよボーっとして。朝からずっとじゃない?」
昼休み。グヴィードは親友のシオンとそれにくっついてくるテリーアとの三匹で食堂に来ていた。
「何でもないってばぁ」
シオンは今朝からこの調子で、時々嬉しそうに微笑んだりするものだから気味が悪い。
「ヒャ。何だよ気持ち悪い」
「きみに気持ち悪いなんて言われる筋合いはない」
なんて言いながらもシオンは全然怒っていないみたいだった。悩み事があるというより、良いことがあったのだろう。いつになく上機嫌だった。
「さてはシオンお前……彼女でもできたんだろ! あのお嬢様から正式に交際を申し込まれたとか!」
「や、ちち違うよ!」
シオンは頬を赤くして慌てて否定した。アヒャ。図星なんじゃねえの。
「何言ってんだよもうグヴィードったら!」
「怪しいなァ。テリーアもそう思わね?」
「えっ、わ、私? それは……どうなのよシオン君!」
テリーアも様子が変だな。どうしたんだ。
「違うって言ってるじゃない」
「で、でも」
テリーアは聞きたいのか聞きたくないのか、気になってはいるみたいなのだが言葉にキレがない。
「学祭のダンスパーティーで踊ったのに何もなかったなんてことあるの? あの後は会ってないの?」
「やー……それは、ね」
「だーから夜な夜なこっそり会ってんだよアヒャヒャヒャ」
「グヴィードは黙ってなさいよ!」
「ヒャヒャ」
オレは深く考えるポケモンじゃないから、会話はその場のノリだ。それでもテリーアが声を上げたのはどこか必死、というか悲痛なのは感じた。そういやオレが保健室で寝てる間にテリーアが学祭のダンスパーティにシオンを誘っていたという噂も聞いた。
「……わかったよ。フィオーナさんにはちゃんと会って、正式に交際を申し込まれました。これでいい?」
テリーアが大きな目を限界まで開けて固まった。
◇
シオンくんはあっさりと認めてしまった。グヴィードがでたらめ言ってただけじゃなかったんだ。ダンスパーティでは先を越されたものの、私もちゃんとシオン君に告白した。シオン君とフィオーナさんがベストカップル賞に選ばれて、ダンスパーティでは完全に私の負けだったけど、私はそれからも毎日一緒に過ごしているのだ。シオン君は卒業を急ぐために休日まで勉強しているし、向こうだってきっと多忙の毎日だ。会うチャンスすら滅多に訪れない。少しずつ巻き返せばいいって、そう思ってた。
それが、もう決着がついてたなんて。
「待ってよシオンくん! シオンくんは……シオンくんは、あのひとのこと、好きなの?」
「ごめん、テリーア」
敢えて明確な答えを避けてくれている。でもそれは明らかな"Yes"の意思。
最初から両想いだったってこと? 私の今までしてきたことは何だったの。私の入る余地なんてどこにもなかったんだ。
「僕がきみに、ちゃんと牡として見られてたこと……嬉しかった」
「そんなこと……」
みんながどうだか知らない。私は最初、シオン君に対する感情は、異性に対するそれとは違っていた。小動物的な、可愛いものを愛でる気持ちにすぎなかった。それが突然、そう、学園祭の劇の練習をし始めて、シオンくんと話すことが多くなって。
「きみの気持ちには答えられない僕がこんなこと言うのはワガママかもしれないけど」
外見じゃない。その言葉は、心は、やっぱり男の子で、シオンくんは見た目よりもずっと男らしくて、そこに惹かれたんだ。
「これからも友達でいてくれる?」
あのグヴィードが、茶化しもせず黙って私を見ていた。
答えは決まっている。今の会話で悟ってしまった。シオンくんは、相手が彼を想うのと同じくらい、もしかしたらそれ以上に本気で相手を想っている。覆すことはもうできない。なら、首を縦に振るしかないじゃない。
「可愛い顔して、とんでもない
テリーアは席を立って、二歩三歩後ろに下がった。シオンとグヴィードの視線が張り詰めたものになる。私が泣いて逃げ出すとでも思っているのか。
「わかった。学級委員長とクラスの問題児
最後に微笑みを付け加えて、振り向いて駆け出した。
うまく笑えたかな。
「莫迦……!」
この涙は、誰にも見せられないよ。
◇
闇に舞う蝶はただ光を見失っていただけ。いずれ蛾となり朽ちてゆくとも知らず。
夜に太陽の光なんてない、ただ月を見上げて。銀色の光が僕を照らし、夜の闇に、まるで幻みたいに浮かび上がる。
「もう震えてはいないのですね。お空の散歩にも慣れましたか?」
「はい……」
今宵もその胸に抱かれて。
いや、すでに幻は幻でなくなっていた。白い衣を纏い、蝶よりもずっとずっと美しく空を舞う彼女は、具現化した幻の使者。
僕を導いて。
きっと僕と同じ景色を見ている、僕のお姫様のもとへ。
今夜こそ、僕の気持ちをちゃんと伝えなきゃ。
君のこと、大好きだって。
機会を失っちゃった感じだけど、改めて伝えてもいいよね?
「えっ……わたしにですか?」
「ちっ、違うよ! そ、そんなわけないじゃないですか! ていうか、僕は何も言っていないのに――」
「ふふ。あまりに可愛いのでからかってしまいました」
相変わらず、異性として見られていないんだ。でももう気にならなかった。大勢のポケモンに振り向いてもらうよりも、振り向いて欲しいひとただ
「さ、到着です」
屋敷の窓から廊下に降りて、彼女の寝室へ案内され――
「いらっしゃい。待っていたわ」
「フィオーナさん!」
彼女を押し込むようにして、やや強引に部屋に踏み行った。後退りしたフィオーナさんはベッドの側まで迫られる形となる。
「……や。フィオーナ。僕、君のこと、大好きだよ! 一日会えないだけで胸が張り裂けそうなの! だから、だから……」
「私に言わせなさい。良いところばかり貴方に持って行かせはしないわ」
フィオーナはナイトテーブルの上に置いてある、金と銀の十字架を取った。
「それは……?」
今日は特別な日でもないのだけれど。彼女も同じことを思ってたんだ。言葉だったり物だったり、何か形あるものがほしいって。偶然なのか必然なのか、二匹のタイミングが一致していたことに嬉しくなった。
それぞれの十字架の真ん中には、宝石が埋め込まれていた。金の十字架には青の。銀の十字架には赤の。そして細い鎖が輪っかになっている。
フィオーナは口にくわえた二つのペンダントをそっと置いた。
「金色の光は太陽。白金の光は月」
フィオーナは前足で白金のペンダントをぶら下げると、真ん中の宝石にキスをした。そして、それをシオンの首に掛ける。
「これで私はあなたの側にいる。あなたがどこにいても、月の光で包み込んであげるわ」
こっちの金のペンダントは太陽ってわけか。エーフィは太陽ポケモンだから。
シオンはフィオーナと同じように、金のペンダントにキスをして彼女の首に掛けた。
「……フィオーナ、大好きだよ」
僕はきみみたいに語彙が豊富じゃないから、ただ直接気持ちを伝えることしかできないけど。
二匹は唇を重ねた。二つの首飾りが静かな金属音を立てた……。
◇
翌年三月。スレスレの成績ではあったが、シオンはセーラリュートの卒業試験に受かり、就職先もヴァンジェスティ私兵、北凰騎士団に決まった。
「おめでとうございます、シオン。これで晴れて卒業ですね」
「ありがと」
「わたしはもう一つ嬉しいわ」
「僕はちょっと不安だけど」
卒業したら、つまり寮を出たら――
「未だに信じられないよ。僕がここに住むだなんて」
そう。卒業と同時に、僕は婿養子としてヴァンジェスティ家に入ることになったのだ。卒業を前に二匹でお義父さまに会った。フィオーナが僕と婚約することを告げると、お義父さまは迷うそぶりすらなく快諾した。お前が決めたのなら、と。よほどフィオーナを信用しているらしかった。
「早速だけれど、あなたの部屋に案内しましょう。それから、孔雀……いえ、橄欖を今日からあなたの侍女にするわ」
侍……女?
え?
それって貴族なんかについてる、身の回りの世話をしてくれるポケモンだよね。それってつまり、僕専用の家来ってこと? あの仔が?
「や、そんなの……!」
だめだ。無理だ。僕なんかがそんな大それたこと。
「シオン。あなたはもう、わたしと同じ身分なのよ。それに……いえ。とにかく、この家に来たからにはこの家のルールに従って頂くわ。つまり……私に、ね」
時々フィオーナが怖い時がある。そんな時は逆らえない。彼女の強い口調に逆らおうという気持ちが全く湧いてこなくなる。
「……はい」
前途多難ではあるかもしれないけど。それでも、闇夜でも幻夜でもない、朝が訪れた瞬間だった。
僕の知らないところで、運命の歯車は廻り続けていたというのに。
「それは本当か!?」
「ええ……由々しき事態です。生徒達にも噂が広まりつつあり……」
「あの金はそういうことだったのか……」
「それと、学園長。オーナーより、今回の件で彼の弟……ローレル・ラヴェリアを退学処分にすると」
「なん……だと……?」
「知らずともその金でリュートに在籍していたのは事実であると。一年前に卒業した彼にはもはや学園の権力が及ばぬがゆえ。何らかの形で
「急ぎ、ローレル・ラヴェリアをここへ!」
一度曲がってしまった鉄の棒は、たとえ元に戻しても、戻ったように見えても、ごく近い別の場所が代わりに曲がっただけなのだ。歪みは残る。それどころか、下手をするとぽきりと折れてしまう。
僕の代わりに、また誰かが闇と幻の溶け合う夜に堕ちる――
~Fin~
ちょっと詰め込みすぎたかな……
本編で小出しにしていた過去の断片を“今”に繋げるためにこのお話を書きました。
シオンとフィオーナの馴れ初め以外はまだはっきりと描いたとはいえないかもしれませんけれど(笑
また次のお話に持ち越す要素を残してしまいましたが、どうか末永くお付き合い下さいませ。
P.S.
挿絵を描いてくださった九十九 ?さん、本当にありがとうございました!
感想いただけると嬉しいです。
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