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盲目の恋人

/盲目の恋人

Writer:Lem
この小説には人×ポケ、同性愛の表現、流血表現が含まれています。苦手な人はお引取り下さい。


盲目の恋人 

1.

 黒、黒、黒。
 それが私の唯一の世界で、全てで、望み、欲し、夢見、焦がれる程に憧れた世界。
 そう語るのは私がどう望んでも、欲しても、夢見ても、焦がれる程に憧れても、手にする事も得る事も叶わなかったから。
 夜の世界より尚昏い深淵の闇を求め、自ら光を閉ざして逃げ惑い、幾許かの時が過ぎても、瞼の裏に映る世界は決して黒一色には染まらなかった。全てが一つに成り得なかった。
 理不尽で、不条理で、不可解で、忌々しく、呪わしく輝く光。それらひとつひとつの輝度は淡いものでも、私には充分過ぎる程に不愉快だった。そしてそれ以上の気分を強制的に植え付ける人物。ベッドの上に寝たきりの彼の輝きを私は凝視していた。
「やぁ久しぶりだね。元気だった?」
 こちらに気付いた彼の声が室内から外へ抜ける様にして、或いは私が開けた窓から逃げる様にして、或いは私の心を掻き乱すべく耳から侵入していくが、返答の一つもせずに部屋の中へと足を運ぶ。一歩を踏締めた途端、不快感が足裏を通して伝わった。室内に敷かれた絨毯は、どうにも私の来訪を芳しく思ってない様な、そんな感触を毎回私に訴える。そして彼が寝そべるベッドまで跳躍するのも毎度の事。
 お蔭様で上半身を起こして挨拶する彼を押し倒す事も日常化してしまっていた。正しい扱い方のラインにぎりぎり収まるのか、ベッドは衝撃による反動と音を返してくれた。そのまま余韻に浸り続けるのも悪くないが、治まってからは唯の沈黙が続くのみ。
「相変わらず君の挨拶は激しいねぇ」
 くつくつと笑う彼の両手が私の顔へと伸びる。彼の身体を取り巻く光の膜が、私の鼻先から頬へ、頭へ、房へと撫でる様にして擦り始め、そこから伝わる感触は決して嫌とは言わないまでも、先の感覚とは違ったこそばゆさを感じ、じれったくなった私は口許を一気に下ろす。行き先は彼の口許。
 突然の異物混入に彼の小さな苦鳴が漏れる。口の隙間を塞いで舌を捻じ込ませ、彼の舌に触れると逃がす暇も与えず絡み取った。優しさの欠片なぞ毛頭も無く、吐き気を覚えさせる程に歯茎や舌の裏、極めては喉の奥等、口腔内のありとあらゆる箇所を穢していく。彼の表情が苦痛に歪むまで時間はそれ程かからなかった。
 私の肩に置かれた彼の両手が反抗の意思を見せているが、体格的にも力量的にも私の方が勝っている為、現状を打破するまでには至らない。このまま続けていればやがて彼は窒息死するかもしれない。それならそれも良いだろう。そもそも私の目的はこんな事をする為ではなかった。

――もともとは彼を殺すつもりで追ってきたのだから――。

 なのにその結末はいつまで経っても起こり得ず、今日まで続くばかりかこの様な淫らな行為を白昼堂々と行う有様で。そんな考え事をしているだけで口許が離れている事に気付く。又しても殺し損ねてしまった。
 命を奪う経験が無い訳じゃない。唯、実行に移そうとするとそれができない。こんなにも目障りで、不愉快で、鬱陶しくて、好きという感情の一欠片なぞ微塵も存在しないのに。捕食するのと同じ様にやればいい事なのに。
 解放されてから咳き込み続ける彼の顔は、互いの涎と彼の涙に塗れ、厭らしく滑っているのだろうか。それを想像するとぞくり、と背筋に電流が走る様な感覚と共に下半身の己自身が疼く。他人が傍目から見れば、淫猥な雰囲気に流されたからという言い訳が通用するはずも無い、変態的な趣味を持ったポケモンにしか映らない。自分だってそう見えるしそう思う。
 尤も今の私には彼を取り巻く光しか見えないので、想像かつ妄想にしか過ぎないのだが。
 一頻り咳き出してようやく落ち着いた彼の反応は「相変わらずだねぇ」といつも通りに嘯いている。分からない。何故こうも危機に直面してその様な態度を取れるのか。何度やっても彼はそればかり。
「御前を殺すつもりなのだから相も変わらずも無い」
「それもそうだねぇ」
 そして又、くつくつと――笑う。
 その態度が苛々する。苛々以外の気分も混じっているが。兎に角苛々する。自分の事を陰気だと卑下するつもりは無いけど、彼の暢気さは普通を通り越して異常過ぎる。余りに対極過ぎて、輝きに飲まれそうになる不安感すら覚える。
 だからこその抵抗だとは言わないが、悔し紛れの反撃だとは言わないが、私は彼の両手を押さえ付けて、再び彼の口腔を破壊しようとする。彼の精神が壊れるまで、いつもの事を繰り返そうとする。
 けれど――本当に壊されていたのは、私だったのかもしれない。


2.

 同じ事の繰り返し。是までやってきたように、是も又同じ事の、繰り返し。そこに意味が有るのか無いのか等考えたくは無かった。けれどやはり同じ事を繰り返す事は必然的に――飽きる。今までの自分は無駄だったと、救い様の無い気分へと転落させる程に私の心は沈んでいく。
 結局それ以上の行為もせず、彼との戯れも中断し、彼も又それに不満を漏らす事も無く、唯虚しい感情だけが下半身の昂りと共に募っていく。そんな変化を、同じ事を繰り返すだけの私を、変われない私の行為と振る舞いだからこそ、その微細な変化に彼は気付いたのかもしれない。
「……何かあった?」
 私はそれに答えない。否、答えあぐねていたのかもしれない。迷っていたのだと思う。あの助言を聞くまでは。あんな世迷言を聞くまでは。
 それから数分程の無言が続き、沈黙に堪えかねた私は彼からそっぽを向く。目前で彼の光がゆらゆら揺れるのと、頭の中で回り続ける言葉に平常心を掻き乱されて、自分でもどうしていいか解らなかったからだ。
「答えたくないなら無理に聞かないさ。でも……できればちょっと頼みたい事があってね」
「……何だ」
 らしくない。この様な突発的な催促は彼らしくない。今までの付き合いが長いのか短いのかは差し置き、少なくともこんな急に強請(ねだ)りをする奴ではなかった。それだけに意外過ぎて、ぶっきらぼうな態度ではなく、何処か親愛を寄せる様な返事を漏らしてしまう。全く……らしくない。
「その……君が剥いだ衣服を返してくれると嬉しいかな。窓が開けっ放しだからちょっと寒くてね……シーツでもいいんだけど」
 どんな頼みが来るのかと構えていたからだろうか。待ち受けた要求は予想の斜め上を通り過ぎ、余りの拍子抜けな展開に思考回路が数秒停止した。
 それぐらい自分でやれと言い掛けそうになった所で口を噤む。よくよく考えてみれば窓を開け放したのは私だし、彼を襲ってシーツと衣服が邪魔だからと剥ぎ捨てたのも私だ。ここで彼の頼みを無下にすれば、私は強姦魔という汚名を被る事になる。
 ……行為に及んでる時点で既にその汚名が被せられてる気がしなくもないが、そんな突込みは無視しよう。今やるべき事は彼の衣服を探す事だ。しかしそれを遂行するには目を見開かねばならない。生物や植物に流れる微弱なエネルギーの光を認識はできても、衣服や布地までは見分けられない。輝きに耐え兼ねて逃げ出した私に、今以上の光を受け入れる等御免被りたかった。さてどうしたものか。
 あれこれと考えあぐねている内に、彼のくしゃみが室内に響く。隣で突然大きな音を出すのは止めて欲しい。その原因を作ったのも私だけど。えい、仕方が無い。
 ベッドからを身を起こし、衣服を探す為に目を見開く――事はせず、彼の方を振り向き、彼の腕を掴み、そのまま強引に引き寄せ、掴んでない方の腕を回して、ぎゅっと抱き締める。傍から見たら恋人同士の抱擁に見えなくもない。しかし片方は半裸の人間、片方は素から全裸の人外。異様で異質、異常以上の異観だった。誰も見ていないからとはいえ、仮に他の者に見られていたらと思うと恥ずかしさの余りに死にたくなる。
「吃驚したなぁ……まさか君がそんな行動に走るなんて」
「煩い、黙れ」
 はいはい、と生返事。その割には嬉々としながらも胸元の毛皮の感触を嗜んでいるのか、彼は頻りに顔をすり寄せたり、指先や掌で毛並みを弄ったりしている。先程の行為の昂りが未だ残っているからか、少しでも油断すると嬌声をあげてしまいそうだったが、雄の意地としてそこだけは堪える。しかし次の感覚には我慢する事ができず、嬌声ではなく怯えた声で、私は小さく鳴いた。
 その反応に驚いたのか彼は触れた手を引っ込める。けれど驚いたのは自分もだった。
「痛かったの?」
 そうではない。それはもう古傷で、過去の物で、終わってしまっている感情で。だから痛くは無い。肉体的には。それなのに……。
「少し前の――事だ」
 私は引っ込めた彼の手を握り、再び胸の前まで持ってくる。かつては手の甲から生えた突起物と同じ物。今はもう無い物。根元から折れ、削れて隆起した胸元へ彼の手を再び重ね合わせ、そして語り始める。私の過去について。
 それが済んだら、終わったら、私は最後を迎えられるのだろうか。彼の命を奪えるのだろうか。
 彼と私の、時間(とき)の終りを、捕食できるのだろうか。


3.

 その日は特別と言う程に特別な事があった訳でもなく、日常と言えば日常で、平常と言えば平常とも呼べる日でもあったかもしれない。彼から見る一日としては。
 そんな彼の一日を、何でも無い事の様に私は打ち崩そうとした。掌から零れてできた砂の山を払い除ける如く、彼からの言葉を、差し伸べた手を、世界を、自分の内の声を。不信感も、嫌悪感も、それ以外でそれ以上に芽生えつつある感情も、全て平らにしたかった故に。
 殻の割れる音が一瞬を巡った。辺りに散乱したそれは最早障壁として意味を成さず、無遠慮に風が室内へと侵入していく。視線の先に居る彼は恐怖による動揺からか、上半身を起こした侭ベッドの上から動かない。隙だらけの獲物を逃す訳が無く、跳躍を終えて宙を舞う所でようやく彼が動く。でももう遅い。全てが遅い。私に干渉した彼方が悪いのだから。
 落下していく身と共に叩き付けられた衝撃を緩和しようとするベッドは、独特の音を奏でて彼と私を白い渦中へと飲み込んでいく。
 暮れなずむ夕日は、朝と夜のどちらなのだろう。光と闇のどちらなのだろう。区別を付けれない一瞬の連続はそんな疑問に答える事も無く、室内を茜色に染め上げていく。翳りを含んだ陽光が窓から私の背を照らし、その下に居る彼は私の影を纏い、決して一つには交わらず、対を極める侭に相反していた。
――他人の言葉等全てまやかし。その様な甘言を吐く者がいるのならそれは私の敵でしかない。御前等には解らない。私の気持ち等解らない。知ろうともせず、上辺だけの口を揃えて私を利用して、私を捕食しようとする。だったら――。
 賽は投げられた。彼の日常を、平常を、異常で異状な世界に引き擦り込む為に。壊して穢して殺す為に。
 抵抗されて助けを呼ばれぬ様、私は彼の口許と両手を鏡合わせの様に重ねる。当然舌も、彼の指の間すらも。抵抗の素振が至る箇所から伝わるが、それすらも押し倒す。押し倒す以上に圧し倒す。
 浮かした身体も彼の身体とぴったりと合わせる様にして、全体重を駆使して圧殺する。一人と一匹の体重を受けるベッドはやがて埋没していき、ずぷずぷと彼を包んでいく。ずぶずぶと淫楽の世界に落ちていく。
 どれ程嫌がっても、嫌っても、嫌悪していても、考える事が全て思い通りに動くとは限らない。それを裏付ける証拠が彼の下半身から伝わってくる。尤もそれは私も同じ事であり、その反応が忌々しかった。嗚呼、穢らわしい。
 初めに見せた抵抗感も快楽に飲まれつつあるのか、舌の動きも、絡んだ指の力も、全身の力も、全てが弱々しい。堕ちていくのも時間の問題だった。
 口許を引く。それに続いて舌と、先端から銀糸が伸び、架け橋の様にもとれるその繋がりに気持悪さを感じて顔を横に振る。呆気無く崩れるそれは彼の顔へ痕跡を残し、誰の目にも映る事無く放置され、忘れ去られる様に風化していった。
 両手の自由を得る為に体勢を変えるべく、膝の力だけを使って腰を浮かし、彼の象徴を押し潰す様に馬乗りになった所で、ようやく両手が自由になる。
 私も彼も呼吸が荒いが、抵抗に抵抗を重ねた分、疲労が蓄積しているのは彼の方だった。又、上からも下からも押し潰されているのだから、その度合いは半端ではないだろう。
 両手をぶんぶんと振って軽くほぐした所で、にょきり、と爪を剥き出した。露出された先端は命を刈り取るのに適した鋭利さを放ち、陽光を浴びて先端そのものが光っている錯覚を覚える。
 それを彼の喉仏に宛がい、少し食い込ませてみたが、恐怖によって彼の光が揺らぐかと思えば、少し苦しそうにしている以外は何の変化も見せない。余裕とも取れる様なその態度は気に入らないが、ならばそれが理解できるまで陥れてやればいいだけの事。
 先端をゆっくりと下ろし、衣服の継目に到着した所で、私は一気に力を込めてそれを引き裂く。小気味好い音がして悦に入りかけそうになった。慌てて正気を取り戻した所で彼を見下す。
 継目を失い、衣服として機能を成さないそれは唯の布地で、布と布の合間から、彼の胸元から腹までが露出する。今度は皮膚を引き裂いてやろうかと爪を宛がわせた所で、何かに引っ掛かった。小さな鎖が連結して首周りを覆い、胸の上には加工された一際大きな宝石。
 その宝石が放つ光は彼の纏う光よりも一層強く、眩く、触れる事すら躊躇わせる輝きを放ち、引き裂く事も忘れてしまう程に、私は心を奪われてしまった。

 そのままどれ程の時間が経ったのか。気付けば夕日は既に落ち、室内は完全に闇に閉ざされ、彼は私の頭と頬を撫で、私は泪を零していた。零れ落ちた雫は宝石に吸われる様に、彼の胸の谷間に溜まり、次の一滴で湖は決壊した。
 そして私は逃げる様に彼から飛び退く。光に穢されそうで、輝きに飲まれそうで、何よりも自分の行動の意味が解らなかった。その意味を知る事も恐ろしくなり、かつて私が居た場所へ、彼と初めて接触したあの森へ、只管に走って逃げ帰った。訳の分からぬ気分に蝕まれまいと叫びながら。


 それからの私は彼に出会うよりも無情であろうと努めた。無常であろうとした。それが最早叶わぬ所まで及んでいると自覚していても。
 日常を、平常を掻き乱された私には、少し前までの自分が何をしていたのかも解らない侭、時間だけが過ぎていった。一日が過ぎ、更に過ぎ、七夜を過ぎて、陽の光が昇り掛ける頃。
 彼が居る部屋の前へ、窓の外から見える彼の光を、私は何をするでもなく見詰めていた。


4.

 己の事は己が一番知っているつもりだった。是までもそうで、そう正当化しなければならなかった。私が私で在る為に必要な事だった。そうしなければ私は生きていけなかった。
 自分がどれ程愚かしくても、穢れていても、生きる価値が無いと決め付けられていても、私は死ぬ事が嫌だった。存在していたかった。どれ程無垢だったとしても死は恐ろしかったから。
 それが二度と戻れなくなる結末に繋がるなんて、あの頃の自分には気付く力すら無かった。気付いた頃には全てが遅すぎて、終わってしまっていた。
 私は生き残った。私を捕食し続けた仮初の主をその手にかける事で。同じ血の色が流れてる生物をその手で殺める事で。
 私は生き残った。犯した罪の意識から逃げる事で。焼き付いて消せない世界を塗り潰す事で。
 私にとっての正常が必要だった。その渇望が既に異常だったとしても、私にはそれが全てだった。そうして生きてきた。それなのにどうして、こんなに気持悪いんだ……。
 視界が歪み、目頭がやたらと熱い。嘔吐感を必死に堪えようにも、頭痛によって抵抗の意思が削がれていく。思い通りにならない身体に自棄を起こしそうで、窓に置かれた掌にもその表れが出ている。いっそ破壊衝動に身を任せて気分を逸らそうかと思い詰めるその時。
「鍵は開いてるよ」
 不意に耳に入る声。いつ起きたのか、彼は上半身を起こしてこちらを向いていた。言葉通り窓は鍵が掛けられておらず、取っ手を手前に引くだけで簡単に開く。何のつもりだろう。鍵を掛けずに就寝に入るなんて、些か無用心過ぎるのではないか。
「……部外者が侵入したらどうするつもりだったんだ」
「ん、おかしな事を言うんだね。部外者と言ったら君も含まれるよ」
 確かに。二度の接触を果たしているとはいえ、立場的には部外者である事に変わりはない。いやいや、そうではなくて。そもそも何故私はここに来たんだろう。
「入らないのかい?」
 少し前までの私だったら絶対に入らなかった。他人の言葉を耳に入れる事も無かった。それがそうならなかったのは、彼の言葉に触発されたからでもなく、今の自分は少しおかしいだけ。正常になりきれていないのだと、そう思い込む事にした。
 先程まで感じていた気持悪さも大分落ち着いている。彼の言葉に乗るのは癪だったが、このままじっとしていても話が進展しないので、一歩を踏み出そうとした刹那。
 ぞわり、と足裏から背筋に電流が走る様な感覚。不意に襲ったその感覚は身体中の毛を逆立たせ、反射神経が跳べと命令するより早く、私の身体は地を蹴って。その先には彼が寝そべるベッド。当然どうなるかは語るまでも無く。衝撃、反動、音の三調和。
「……随分な挨拶なんだねぇ、君」
「床にあんな罠を仕掛けておいて何を言う」
 やっぱり人間は信用できない。幸い足は何とも無い様だが、あれは一体何なのか。
「罠? そんな物仕掛けた覚えは無いけど」
戯言(たわごと)を。一歩を踏み入れた途端、私の足裏に何かが絡み付いたぞ!」
「君が言う罠ってのが何の事か良く分からないんだけれども、もしかしてそれは、新しく取り替えた絨毯の事を言っているのかな?」
 沈黙が流れる。それはもう痛い位に。失態を晒した事による羞恥心に対抗しようと、頭の中で言い訳が目まぐるしく駆けている。言葉を発そうにも上手く出せず、代わりに呂律の回らない声が、か細い声が漏れる。仕舞いには動揺による身体の震えが、密着した彼に伝わってしまっていた。
 その一挙一動にとうとう堪え切れなくなったのか、彼は押し殺しているつもりなのだろうが、殺し切れずに失笑が漏れている。自分が蒔いた種とはいえ、無性に悔しくて腹が立ち、黙らせようにも声が出ないので、口許を強引に合わせて黙殺した。
 思い返すと手でも良かった気がしたが、こういう抑止は意外性と相手の気を逸らす事にあるので、目的を遂行する行動としては最適だろう。唯一の救いは彼以外に他人が居なかった事。もしもこんな行為を他所に見られていたら、今度はそっちの羞恥心で私は生きていく事すら儘ならない。
 頃合を見て口許を離すと、彼はもう笑いはしなかったが代わりに「君の所ではいつもこんな挨拶なの? 随分激しいんだなぁ」等と嘯いてくる。お仕置きが足りないらしい。
 私は両手を彼の頬に合わせ、優しく尚且つにソフトに。文字通り強引に両頬を左右へと引っ張った。優しさもソフトの欠片も無いお仕置きだった。


「あーうーひーどーいー……僕何もしてないのにー」
「煩い、黙れ」
 又引っ張ってやろうかとも考えたが、これ以上彼のペースに巻き込まれるのもうんざりしてきたので、何もしないでおいた。そもそも何をしにやってきたんだろうか。
「帰る」
「え、もう帰っちゃうの? まだお話もあまりしてないのに?」
 話す事……何があるのだろう。是までを独りで生きてきた私に、彼に話せる事等一つとしてあるのだろうか。仮に彼が私の身の上話に興味を持っていたとしても、私がそれを打ち明ける等――有り得るのだろうか。何にしても今はそんな気分では無い。ならば森に帰って、大人しく瞑想していた方がいい。
 ベッドから立ち上がり、窓の外へ向かって跳ぶ。地面と違って弾力のあるベッドの上は跳び難かったが、何とか絨毯を飛び越して外に出る事に成功する。
「鍵はいつでも開けておくから、又おいで」
 ……変な奴だ。それで強盗に襲われでもしたらどうするのだろう。幾らここが地上より高いからといって、安全性が高いという訳でもないというのに。
 返事もせず、尻尾を振って開け放しの窓を閉めた。その拍子に鳴った音は、少なくとも自分なりの返事であったのかもしれない。


5.

 例えばの話。現実的で無く、倫理的で無く、夢物語でしか無くとも、例えばの話として、眠らない生物がいたとしよう。
 その生物は夢を見る事は無く、一生を動き続けて生きていられるのだろうか。その生物は生きているのか、死んでいるのかどちらであると言えるのだろうか。
 睡眠が生物の生命維持装置である事は誰もが知っている。呼吸するのと同じで自然な事であり、当たり前過ぎるからこそ、誰もそれ自体には考えもしないし気付きもしない。そもそも考える事が無意味なのかもしれなかった。にも拘らず意識を傾けるのは、私がその真理から外れた生き方をしているからだろうか。
 眠る事。それはとても幸せな一瞬で、明日も生きようという気分にさせてくれるもの――だった。
 眠る事が恐ろしい。正しくは夢を見る事がとてつもなく恐ろしい。いつからそうなったのかは解らないけれど、確かなのはあの時以降。
 いっその事眠らない生物になれればと思う。その生物が生きているのか死んでいるのかは兎も角、夢を見ないでいられるのはとても魅力的だった。けれど願い事は願い事でしか無く、生物である以上はどれ程拒んでも睡眠は私に必要な物なのだ。必要である以上避けては通る事もできない。ならば。
 そうして私は私を誤魔化した。全てを偽って、塗り潰して、偽装した。眠る事を精神統一に摩り替え、夢を思考で塗り潰し、騙し騙しに生きてきた。
 しかしどれ程身体を馴染ませようとも、無理と言う言葉には亀裂が生じる。そんなもので睡眠と同じ効力が得られる訳があるはずも無く、同等の位置に及ぶにはそれ以上の時間を必要とする。
 結果、私が擬似睡眠から覚めるのは三日か四日程を過ぎた頃。空は未だ瞼を突き刺す陽光も見えない宵の刻だった。
 流石に彼がこの時間に起きているなんて事は無いだろう。別にこのまま押し掛けても一向に構わないし、寧ろ絶好のチャンスでもある。それなのにそんな気分にもなれず、空腹を感じても食欲は無く、いつものの様に思考に耽る侭ぼんやりとしている。
 そういう時に限って普段は思いもしない事を考えてしまう。そうならない様に精神統一をし直したり食料を探しては気分をリセットしていたのに。一度深みに陥るともう這い上がれなくなる。既に陥っているとしてもこれ以上沈みたくは無いのだが、気持と身体は喧嘩でもしているのか意思疎通が捗らない。こうなってしまうと梃子でも動かす事は難しく、檻小屋から抜け出す方法は決まって唯一つ。
 自傷行為に走り、罪の意識と絶望感によって痛みを知り、堪え難い苦痛によって現実へと引き戻すしか手段は無かった。
 自らの心を掻き毟ってまで苦痛に浸る様は、自虐的嗜好でもあるのではないかと思うがそんな気は更々無い。そもそも痛いのは嫌だ。そういう気のある奴は肉体を傷つけて生の実感を味わうと聞くが、いつまでも残り続ける痛みに耐える自信は無いので、一瞬だけの苦痛を味わい、一瞬で忘れてしまえればそれでいい。私がこの世に留まれる痛みなんてそれだけでいい。一生残る傷なんてもう受けたくない。
 死にたく無い。けれど生きる事が辛い。そんな思いを抱える程、生きる事には貪欲だ。貪欲であるが故に、生きているのに生の実感を求めようとする。確かめる為に傷つけてしまう。それはまるで自分の物だと刻印(マーキング)を残す様に。
 自虐的嗜好なんて無いとは言ったものの、自傷行為に走る者は皆その気があるのかもしれない。強いて言えば、どちらのコースがいいですか、みたいなものなんだろう。仮に肉体も精神も自傷するコースを選ぶような者が居るならば、それこそが自虐的嗜好者と言ってもいいのかもしれないが。
 嗚呼、胸の奥が痛い。痛みは一瞬とはいえそれでもしばらくは残り続けるので、肉体を傷つける者と比べると痛みに慣れていない私には、苦痛の度合い等全て同じでしかない。釘を打たれる様な鋭い痛みが治まったかと思えば第二波、第三波と続く。肉体の自傷を一瞬の持続とするなら、精神の自傷は一瞬の連続だろうか。そうでも思わないと、考えていないと気が狂いそうになり、胸部を押さえたり叩いたり等をして気を紛らわす事でしか痛みから背く方法が無かった。
 そうしている内にどうにか鋭い痛みも治まる。一息を吐くものの、今度は鈍い痛みがじくじくとする。叩きすぎたからでは無く、傷跡の疼きによるものだろう。最初と比べれば幾分かマシと思える分、慣れてくるとこれもこれで忌々しい。だから、痛いのは、嫌なんだ。
 こんな状態では瞑想に耽る事も難しいので、空腹を満たそうかとも考えるが未だに食欲が無い。しかしじっとしているのも酷だし、やはり何か腹に納めねば飢餓で死んでしまう。ならばやる事は一つだ。
 そうして重い腰をあげ、痛む胸に手を置きつつ、よろよろとしつつも歩を進める――のだが。
 何故私は彼の下まで足を運んでいるのだろうか。気が付けばこんな所に居る。そして鍵が掛けられていないのはどういう事なのか。まさか本当に三日四日も鍵を掛けずに夜を過ごしたと言うのか……バカでは無く、馬鹿なのか?
 開かれた窓の奥に見える彼は、ベッドの上で呼吸をする度に光の隆起をゆらゆらと揺らしながら眠っている。よくもまぁこんな無警戒の部屋で寝られるものだ。こっそり忍んで近付こうかと足を投げ出した所でふと思い止まり、足を引き戻して下を見る。
 是があるから鍵を掛けなくても大丈夫だ、とでも言うのだろうか。私と彼を結ぶ直線状には例の、あの嫌な感触しかしない謎の物体Jが敷かれてあった。新品と言うだけあってか微かに残り香がある。再びベッドの方を見る。悠々と寝ている彼。再び下を見る。ベッドを見る。どう見ても一歩では無く何歩かは歩かないと辿り付けない距離。嫌がらせにしか思えなかった。だからだろうか。少しだけ、ほんの少しだけだけど。
 イラッとして、私は思い切り天井すれすれまで飛翔して、ベッドの上の彼を――衝撃、反動、轟音の三反調和。
 彼に一言があるとすれば。死ね。今直ぐ死ね。語る事無く死ね。兎に角死ね。私の為に死ねっ! 絶対に謝る気なんか無かった。

6.

「そんな事もあったねぇ。君ったらあの後本当に謝らなかったもんね」
 そんな過去も今となっては笑い話でしかないのだろうけれど。しかし彼の場合は年中笑っているのではないかと思える節がある。
 いや、そうではないな。寧ろ毎日が笑い話なのかもしれない。そんな事は無いと仮に彼がそう言ったとしても、彼の怒った姿や悲しむ姿等を想像する事ができない。そもそも今日まで接してきてそんな姿を見た事は一度たりとも無かった。
「あのまま死んでくれたら楽だったのに」
「あはは、酷いなぁ」
 と、この調子だ。無論冗談雑じりの軽口ではあるけれど、冗談でも本心でも笑ってる様なイメージしか浮かばない為にいまいち彼の本心がつかめない。彼の心が、彼の態度が、彼の全てが、何もかもが度し難かった。
「御前がそうして笑う事に、何らかの意味はあるのか?」
「うん? 前にも似たような質問しなかった?」
 回想の続きでは彼はあの後、苦鳴を漏らしつつ悶絶してのた打ち回っていた。数分程して治まった所で文句の抗議を問われたが、その時の態度も本気で怒ってる様には感じられず、結局いつもの調子で私の来訪を迎えるので、その返し方に気味悪さを感じたのと同時に湧き出た疑問を彼にぶつけたのだったか。
「御前は何で怒らない。何故そうして笑っていられる……か?」
「そうそう、その質問」
 確かに似通う点はあるが。厳密には彼がどうしたら怒るのかではなく、どうしてそういう態度を私に示すのかという意味合いだ。彼が誰に対してもそういう態度ならば前者で通る。そうでないならば彼は私に何を求めているのか、と。
 遠回しな物言いは回りくどいと思われるけれど仕方が無い。知りたいというより、彼に対する怖れを確認したいというのが最もだったから。
「怒らない訳じゃない。僕が怒るとすればそれはもっと別の事。浅瀬ではなく深海に淀むものこそが対象になる……って言ったよね?」
 一句一文字違わず、回想と同じ答え。遠回しな質問は求める答えを得るまで時間がかかると解っていても、できることなら察して欲しい。
「まぁそれも事後になっちゃったけどね」
「……事後?」
 事後とはつまり、一度は怒った事があると言う事ではないのか。何時、何処で、そんな要素があった?
「覚えてないの? 『御前は死ぬ事に恐怖を抱かないのか』って、君が言ったんだよ」
 覚えてない訳がない。彼に対した疑問の全てを忘れる等。忘れ様があるはずも無い。
 が、あれで怒っていたというのか。あれが彼の怒りの表情だというのか。だとしたらとんだ温厚な奴である。否、冷徹なのか。何にせよ前言撤回する。一度怒られた事があった、と。
「納得した?」
 彼の表情は閉じた目では確認する事ができないけれど、きっと変わらぬ笑みを私に向けているのだろう。その笑みの真意が別の所にあったとしても。
「嗚呼、御前はどんな人間の中でも一番恐ろしい奴だと納得……否、改めて確認した」
「あはは」
 その笑声も一体どれ程の意味を孕んでいるのだろう。本当に解らない。何もかもが、度し難い。けれど判る事が、唯一と呼べる程に判別している事がある。
 彼は奴とは違う事。私が殺めたあの男とは違う事。
 私が苦しむ恐怖とは異なる怖れを、彼は有しているのだと。
「御前は死ぬ事に恐怖を抱かないのか」
「その質問、二度目だよ」
 知ってる。けれど確認したいから。何回でも、何度でも。
 彼は私と違って、生きる事も死ぬ事もどうでも良いのだから。
「続き、聞かせてくれる?」
 胸元に置かれた侭の手は、傷跡を癒すものなのか。抉るものなのか。或いは両方なのか。どちらともつかない彼の手が、私の意識を指先でなぞっていく。
 それに応えるべく、より一層彼を抱き寄せ、首筋に口先を宛がわせて咬みつく。
 それが親愛を示す行為である事を私は本能的に知ってはいるけれど、彼は知っているだろうか。できることならば知らない侭であってほしい。

7.

 死の概念についてありきたりの事を言わせて貰うならば、死にたくないからこそ生きていたい。大半の生物は是だけで通ってしまう。私もその内の一匹だ。
 そんな極論で一括りできる程に単純なものではないけれど、突き詰めれば意味はそんなものでしかない。けれど彼はどうなんだろう。
 別に彼の人格が破綻している訳でも、宗教寄りの思想を持っている訳でも無い。彼だってちゃんと怖れているものはある。
 ただそのベクトルが普通とは違っていて進み過ぎていた。或いは違い過ぎていて進みすらしていなかった。
 彼は生きる事と死ぬ事の区別がまるでついていない。生死の意味ではなく、生死の概念が彼の中では同一化されているか放棄されている。その違いは些細なものであれど(ひず)みを生み出すには充分過ぎ、異質であるが故にあらゆる事象が咬み合わない。
 死を恐れる者は存在に固執するが、彼は理由そのものに固執していた。理由を解明できない事が彼の恐怖で、それこそ死ぬ事以上に死にたくなるのだという。彼曰く「君が僕を殺す理由を明確に答えられるならば、僕は君に喜んで殺されてもいいよ」と。変人どころの話ではない。異星人だった。とはいえ。
「んぅ……くすぐったい……」
 その異星人の首筋をべろべろと舐め続けている私も私だが。
「そんなに舐めて、美味しいの?」
「別に。塩っぱいだけだ」
 美味しそうな肉だなぁとは思うけど。舐めるだけでは飽きてくるので顎を動かしては彼の肩をあぐあぐと食んでみたり、強弱をつけて彼の反応を見たりと忙しい。彼はといえば続きを待ちながら大人しく弄られている。
 こうして抱き寄せてみると案外と華奢な体型だ。もう少し調べようと鎖骨より下へ舌を這わせようとするが、腕を回した状態ではこれ以上下がらない。姿勢を変えるべく密着状態から離れようとすると彼が身体を寄せてくる。
 離れようとする。寄せられる。離れる。寄せられる。御前はN極か。
「……何のつもりだ」
「それはこっちの台詞だよ。人の身体をべろべろと舐め回す挙句、続きを聞かせてくれないんだもん。やーらしーんだぁー」
 珍しく反抗的だった。今まで大人しくしていたのは何だったんだろう。仕方が無い、ならば別の手段を使うまで。
 決行する前に自由の利かない手を彼の手の甲へ重ねる。もう片方もできれば封じておきたい所だけど、何処ぞのポケモンよろしく腕が4本生えている訳がない。うん、ならば彼に協力してもらうという事で。
「分かった、続きを話そう。だがその前に」
「その前に?」
「重ねた手は指を絡め、もう片方の腕は私の首へ回せ」
「どうして?」
「……抱き合った方が話しやすい」
 何となくを最初にもっていこうとは思ったけど、理由に拘る彼の事を考えれば取り除いた方がそれらしくなるだろう。勿論抱き合った方が話しやすいなんて真っ赤な嘘だ。しかし彼は疑う事すらせず、理由に納得して言われた通りにする。少しは他人を疑うという事を覚えた方がいい。
 さて邪魔な障害物は無くなったが念には念を押すという事で、密着部位の隙間を埋めるべく身体を更に寄せる。ではいよいよ決行だ。
「ひゃあぅッ!」
 耳元で大きな声を出されるのは好ましくないが、心構えさえしておけば割と耐えられるのか。新発見。
「ちょっ、何……ッ」
 何もこうも、手で胸元を触っているだけだけど。まぁ、最初に触れた位置が悪かったのは反省している。乳首弱い、と。
 企みがばれた所で彼からの抵抗が始まるものの、重ねた手と指はしっかりと絡ませ、首に回された彼の腕も密着している為にしまうスペース等ありはしない。更には胸元、腹、脇腹と彼の肉付きを手探りで確かめる様に弄っており、その刺激で強制的な脱力感を与えられている為、彼の抵抗は最早虚しいものでしかなかった。
 しかし。華奢といえば華奢だけどちょっと華奢過ぎる。痩せぎすと言う程では無いけど、多少の贅肉はあった方がいいと思う。ほら、こんな事されたらこうなるし。
「あはははははははははははははははちょっやめっひゃはははははは!」
 という事で刺激を緩和する効果は馬鹿にはできない。このまま笑い殺すのもアリかなぁと思ったけれど、そろそろ止めておこう。流石に耳の奥が痛い。
 手の動きが止まった事で彼の反応もやがて穏やかになるが、息切れを起こして少々酸欠になっている。タフなくせに意外と体力が無い。打たれ強さと体力って関係あるのかな。
 笑い飛んでしまったのか彼の身体から力強さが感じられない。支えてないと倒れ落ちそうだ。いっそ横にさせる方が楽かもしれないと思い、ゆっくりと身体を横たわらせると彼の胸元にあの宝石の光が見えた。
 以前程心を取り乱されはしなくなったものの、奇妙な感覚を植え付ける魔力は健在でどうにも落ち着かない。しかし目を離す事もできず、寧ろ吸い寄せられる様にして私の顔は彼の胸元へ導かれる。
 触れた瞬間彼の身体が強張ったけど何もしないでおいた。寧ろ光が眩しくてそれ所ではないのだが、どういう訳か身体を反らせず、身動きも取れぬ侭数分が経過する。次第に彼の手が私の頭に置かれるが、それを払い除ける事もせずにいると、いつものの儀式が始まった。
 いつものの光景。いつもののやり取り。結局こうなってしまう。今度こそと思っても捕食できない。そもそも、捕食する気なんて初めから無いのだと光に晒されて、分かり切っているはずなのに。
「……続きを聞かせろとは言わないのだな」
「ん、君が話したくないなら別に無理強いはしないよ。又さっきみたいな事されたら困っちゃうしー?」
 意地悪くくすくすと笑う彼。根に持っているらしい。別に下心があったからではなく、好奇心で調べたかっただけなのだけど。まぁどちらにしても彼には言い訳にしかならないだろう。
 無理に自分から傷口を広げる事もあるまい――が。いつか私は彼に自らの傷口について語る事になるのかもしれない。しれないというよりされてしまいそうだった。
 それが彼の持つ宝石の魔力によるものなのか、或いは彼自身の光によるものなのか。解らぬ侭、確かめる様に私は彼へ問う。
「御前は――」

8.

 少しばかり過去へと遡る。否、初めて彼と遭遇した時の話であるからそれは全然少しとは言わないのだが、過去と現を比較するには彼が元はどういう人物であったかを説明する必要が生じる。それぞれが立ち位置につかなければ天秤は釣り合わないし、何より私自身の得心の為にもしばしの語りが必要だった。再確認が必要だった。
 正確な日数は既に忘却の彼方へと押し遣られたが、彼の事だけは鮮明に覚えている。寧ろ忘れようがあるはずがなかった。
 彼こと少年はどういう縁か或いは因果か、私の住処へと迷いついた唯の子供であった。唯の子供であった方がマシである程に。
 第一に少年の容姿は奇妙過ぎた。第二、三を通り越してただただ奇抜で奇怪だった。どちらかといえば怪奇に遭遇したと言い換えても遜色無い。
 何故今更と思うだろうが、何度も言う様に自身の得心の為で、当時の自分はその状況を静観する事ができなかった。それ程に少年は異質過ぎて異形過ぎた。懐古と、畏怖と、狂恋を、私の下へ運んできた。
「――世界を望まないのか」
「懐かしいね、その言葉」
「元は御前の言葉だろう」
 そう、元は少年の、彼の言葉。混濁した感情は私から平常心を奪い、一番強い想いが私を突き動かした。殺意が、猛獣の如く少年を押し倒した。けれどそれっきりだ。
 結末通りにならなかったのは、罪悪感と死が齎す恐怖を知っていたからというのもあるが、最もたる理由は少年の動向にあった。少年の顔には恐怖の色が全く存在せず、何が起きているか解らないといった風でもなく、ありのままに起きた現実を直に受け止めていた。その人間味の無さに不気味さを感じ取り、これまでとは異なる得体の知れぬ恐怖感に何もできなかったのと、彼の瞳があまりにも――。
「その両眼、治せぬ訳でもなかろうに」
「ふふ、心配してくれてるの? でも僕は理由さえ解れば別にこのままでもいいんだよ」
 上半身を起こして、ゆっくりと眼瞼(がんけん)を開ける。隙間から侵入してくる光に目が眩みそうになりつつも、少しずつ慣らしていくとそれはベッドの脇にある電灯の光で、それ以外は何もなく室内は真っ暗だ。視線を下ろすと上半身のみ裸体を除けば、記憶と変わらない彼がそこにいる。
「御前は成長していないのか?」
「あ、ちょっと酷い。これでも身長伸びてるんだよ?」
 そうなのか。でも体感が確かなら彼はもう青年になっている頃なのだけれど。舐める様に彼の身体を見回すけれど、あんまり変わってない気もする。体躯も、顔も、瞳の色も、何も映さない所までも。
「御前は変わらないな。何もかもあの頃の侭だ」
「君はかなり変わったよね……もう大丈夫なの?」
 大丈夫、と言えるのかどうかは実の所解らないが、それでもあの頃よりは幾分マシであるのは確かだ。けれど一つの点が、気掛かりが無いという訳でもないのだった。
 彼はかつての主に瓜二つだった。勿論彼と主は別人であるしそもそも体格も違う。主は巨漢だったけど彼は小柄だ。
 何よりも私が主を手に掛けたのだから。嫌になる程主の死を確認したのだから。どれ程認めたくなくとも。
 だから彼は主との接点なんて一欠片もなく、唯似ているだけの他人でしかない。それでも心の何処かでは畏怖と恋慕の情が残っていて、それは彼に対する物ではないのだと思うと、彼は代替品なのだと思うと――。
 それ故に申し訳無く、何もできなくて。私はこの想いを消化する事さえもできずにいる。
 唯一勝ってる所といったら畏怖位だろうか。彼は主みたいな事をする訳でもないけど、逆に何もしてこないのが怖いので、別の意味でも警戒しているのだった。だから何度も、何度も、確かめる様な問い掛けをしてしまう。失ってしまうのが恐ろしいから。
「……その気は無くとも、誰かを殺めてしまった者はどうしたらいい?」
「珍しく意味深だね」
「私はその先が分からない」
「んー……僕には人が他人を殺す事って理由があれば成立する事だと思うんだけどね。その理由が愛憎しかり、何であれ、ね」
 さらりと恐ろしい事を口にした。まぁ脅しても寧ろ何か楽しい事が起こるのかな、とはしゃぐ奴だ。聞くだけ無駄なのかもしれない。しかし一度吐いてしまった物を戻す事も難しい。ならば沸いた疑問は全て向こうへ投げる事にしよう。
「そんなつもりが無くとも他人を殺す理由が成立すると?」
「理由無く他人は殺せないよ」
 少々荒げた声で聞き返してしまったものの彼は気にする事もなく、逆にしっかとした答えを返してくる。
「他人を殺す事が楽しい人も居れば、哀しい人もいる。それ等は価値観の違いでしかないけれど、何かを行う為には必ず理由が付き纏う」
 詭弁を言ってる訳でもなく、怒っている風でもなく、優しく諭す訳でもなく、彼は当たり前の事を淡々と述べていく。
「理由無く世界は回らない。理由無く僕等は存在しない。君が先の進み方が分からない事も理由がちゃんとあるからだよ。ただそれに気付いていないだけ」
「……何だか言い包められた様な感じしかしないのだが」
「僕が窓を開け放しているのも、君の事が気になるからって理由だよ。何かおかしい?」
「…………」
 どさくさに紛れて今何か凄い事言わなかったか。何を言っているのだこいつは。いよいよ頭がおかしくなった様だ。あれ、私がおかしいのか?
 いかん、頭が混乱してきた。ちょっと落ち着こう。えーと、何でこうなったんだっけ……。そもそもだ。彼は独りで生きてる様な印象だっただけに、その言葉の持つ意味があまりにも陳腐過ぎる。
 私の見る世界と彼の見る世界とでは、行為の意味が180℃違うので、彼の考えている事は一生理解できそうにも無いと思っていたのだが。
「……案外普通の感性を持っていたんだな」
「なにそれー。君は僕の事を過大評価しすぎなんだよ」
 いや、だって……ねぇ。普通なのかどうか聞かれると彼はとても微妙なラインに入るのだが。案外見た目で損をするタイプなのかもしれなかった。
「悪かった、御前は独りで生きてる様な印象……何だその手は」
 まるで抱っこしろとでも言う様に彼は両手を突き出して、自然な流れで当たり前の様に次の言葉を吐く。
「窓から入る風で寒いから抱き締めて」
 うん、やっぱり普通じゃない。

9.

 別に彼の要求を呑む事については今更どちらでも構わない。にも拘らず考えあぐねているのは要求の意味についてであり、それが齎す結果次第では普通じゃないのは彼ではなく私だともいえる。
 そうまでして疑う理由は、私が情欲に流されているからでもなく、ある既成事実によるものなのだが、できればあまり思い出したくなかった。
 そこに私の居場所は無く、そこに私の価値は無く、そこに私の願いは無く、そこに私の姿は無い。故に忘れてしまいたい記憶。
 彼と主が違うと分かってても、中身がどれだけ違っていても、同じ容姿というそれだけの理由が、醜悪ともいえる感情が私の心に住み着いた。
 彼と他者の既成事実。それは即ち目合。即ち、主と他者。唯一の救いとしては閉ざした世界の最中だった事で、記憶に明確な偶像が焼き付く事はなく、忘れたい一心もあってあやふやな侭にぼかされたが、その分彼の既成事実だけが強く記憶に刻まれていた。
 彼が主だったら――壁を壊して、私を蹂躙しているだろう。
 彼が主だったら――偽りだろうが、愛を感じられただろう。
 彼が主だったら――穢されようが、居場所であっただろう。
 でも彼は主じゃない。同じではない。彼は他人なのだ。何も知らない人が、私が欲した物と同じ物を返してくれる等あるはずがないのだから。
 だからこそ彼の要求は私にどういう意味を含めているのか。それだけが気掛かりでもあった。彼は普通で、私が異端でしかないのかもしれないから。その答えを探すべく彼の胸を手探る。接点を探す様に。
 触れた箇所が敏感であったか、小さな反応とともに彼の身体が強張った。そういえば弱点でもあったなと思い出しつつ、置いた手をそのままに身体を倒して重ね合わせる。其の侭、密着。彼は何も言わない代わりに、突き出していた両腕を私の背に回して抱擁する。
 けれどそれだけでは真意は分からない。その先にあるものを知るにはやはり一歩、一歩を踏み出す必要があった。彼は主ではないから。壁を壊してはくれないから。私自身が聞くしかないのだから。
 密着した身体を少し浮かし、彼の唇に口先を伸ばす。異なる唇が触れ合うだけの簡易な接吻は出口を求めるべく、内包された物が壁を抉じ開けようとする。ほんの少しだけ硬い感触を残しつつ、それは彼の口腔へと突き抜け、滑る感触を与える物に触れる。
 そこまで来るともう簡易と呼べるものでもない。けれどまだ真意は分からない。彼と会う度に交わしてきた挨拶がこの行為であった事が今更ながら恨めしいが、耳元に彼との滑り合う音が幾度と無く踏み入れられる度、そんな後悔等どうでもよくなってくる。
 唯違う所は、彼の口を塞いでしまう様式ではない所か。断片的な呼吸が彼の口から漏れ、混ざり合った口臭が鼻腔に甘ったるい匂いを運んでくる。当然その匂いの元となる膵液はそれ以上の甘さだった。鼻腔と口腔が自分の物か彼の物か分からなくなる。脳が溶けているのではないか。
 かろうじて薄目を開けると彼の両眼が閉じているのが見えた。閉じられたその表情はやはり同じ顔にしか見えなくて、今自分が相手にしているのは彼なのか主なのか分からなくなってしまう。混濁した思考を覚まそうとしてようやく行為が中断される。その際に伸びた銀糸はいつも以上に粘っこく、艶かしく輝いては球を作り、ぷつりと切れると彼の頬に落ちた。口から頬へ伸びる残滓をべろりと舐め取ると、彼が両眼を開ける。やはりその瞳に色は無い。けれどそれが彼と主の明確な違いであるとも言えた。
 彼の瞳をじっと見つめ、何を思ったか口先を伸ばしては、彼の眼球を舐めあげる。塩っぱい味が舌に広がるけど気にせずもう一度、一度とそれを繰り返す。
「……何やってるの?」
「眼球を舐めている」
「どうして?」
 どうしてだか自分も分からなく、気が付けばそんな事になっていたとしかいえない。しかし彼はそんなものでは納得しないだろうから、どうにかして答えを模索する。
「……舐めれば御前の目が見える様になるだろうか、と考えていた」
「そんな事あるわけないじゃない」
 即効で返事が返ってきた。それもおかしそうにくすくすと。
「煩い、黙れ」
「ふふ、君は僕の目が見える事を望んでいるの?」
 別にそんなつもりでは無かったけれど、もし望めば彼は視力を取り戻そうとするのだろうか。私が望むというそれだけの理由で彼は容易く世界を捨てるとでもいうのだろうか。
「そうならばどうする?」
「質問に質問で返すのは関心しないなぁ。でも君が望むなら僕はそうしてもいいよ」
 どうして。何故そこまでして、彼は自分を捨てられるのだろう。私は自身を捨てる事すらできないのに。そんなの、そんな事――。
「御前は御前の侭でいい……代替品になる必要はない。ならなくていい」
 彼は彼で。主は主でしかない。
「御前が主と同じになってしまったら……又殺してしまうかもしれないから」
「どうして?」
 そんな事聞くまでもないだろうに。意地悪な奴。
「二度も愛しい人を殺めたくない。どれ程愚かしくても、穢らわしくても、私は御前と……生きていたい」
「僕の事好きだったんだ?」
「煩い、黙れ」
「ふふ……両想いだねー」
 彼は又もおかしそうにくすくすと笑う。始めから彼は壁等を作ってはいなかった。単に自分が躊躇していただけで、彼はそれを不思議そうに眺めているだけだったのだろう。全く以って滑稽な話だった。
 やはり彼は普通じゃない。私よりも上の、或いは斜め上を行く程の、変な奴。けれどそれも又、彼らしくはあるか。
 真意は明かされたが、この先どうなるのかといえばどうする訳でもなく、そもそも私が主導権を持ってしまっていいのかどうか。今更意趣替えしますだのそんな話が通じるのかも怪しい。又、彼にそんな役が務まるのかも疑問だった。嗚呼、もうなるようになれ。
 彼の胸に置いた侭の指にぐっと力を込める。不意打ちの刺激は彼の笑いを止めるばかりか、期待通りの反応を返してくれた。嬌声付で。更に刺激を与えるが、それを漏らすまいと彼は歯を食い縛る。一点しか攻めていないのにこの反応。別の箇所も攻めれば呆気無く崩落するのではないかと思い、試しに首筋に舌を這わせてみるとその通りだった。軽く食んで刺激を加えると呼吸とともに小さく嬌声も漏れていく。なかなか面白い反応をする。
 しばらくそれを続けていると彼は口を手で塞いでしまった。一体何をそこまでして漏らしたくないのだろう。まぁ私もそこまで鬼ではないし、彼の手を払い除けたりもしない。どうせこの後に是以上の刺激がまだ控えているのだから、其の内漏れ出す事は想像に難くない。
 背に回されていた彼の腕が解けた事で、自由になった私はそのまま重心を下へとずらす。首筋、鎖骨、胸、乳首、脇下、腹、(へそ)、鳩尾と至る箇所に蛇が這う。舌の上からも彼の強張る感触が強弱の域までよく分かる……弱っ!
 ここまでくると過敏というより病気だった。表情を伺ってみると目に涙すら溜めている。何だか物凄い悪い事をしている気分になってくる。何なのこの罪悪感。しかしここで止めてしまえば生殺しでしかない。自分の身体がそれを嫌と言う程知っているし、何より私自身も消化不良になる。互いにお預けを食らってまで得られるメリットがあるとも思えないので、そのまま続行する事にした。この判断が間違いでなければいいけれど、状況に流されてるだけでしかないのも確かな訳で、ある意味彼も私も未開拓を進んでいるようなものだった。
 やや不安を隠せない所ではあったものの、彼の身体はしっかりとそれに対する反応を返してくれていた。それだけで幾分かは救われた様な気分にもなり、同時に又愛おしくもなる。
 鼻先が彼の物に触れた。衣服の上からでも彼の匂いが充分過ぎる程に嗅ぎ取れ、彼の反応も更に大きくなる。
 正常な判断力さえ奪いかねない程、脳が彼という存在に侵されていく。知らずの内に鼻先を強く押し付けてしまっている所為か、それが与える刺激に彼はとうとう手を離し、私の頭を押し退けようとする。両足までも閉じ掛けるが、合間に私の頭がある為に完全に閉じる事もできない。寧ろ逆にそれは私を押し付ける形になってしまう。濃密な匂いが鼻腔を滅茶苦茶に駆け回り、最後まで残っていた理性が一気に弾け飛ぶ。
 その情景は正しく、紛うことなく、(けだもの)に蹂躙される人の図を描いていた。

10.

 何か。そう、何か大切な事を私は忘れている。そんな気がしたのにそれが何なのか思い出せない。どうにかして記憶の糸を手繰り寄せようとするけれど、どうしてか上手くいかない。もどかしくて、歯がゆくて、我武者羅にそれに向かっていって。そして手を伸ばして、それを掴み取って。
 けれど、手にした現実は……嗚呼、又だ。又、初めからやり直し。
 私は何を忘れてしまっているのだろう。もう一度、思い出さなければ。私は何をしているのか。そして何を忘れているのかを。

――私は彼に何をされた?
 視界に映る彼の姿は、何かに引っ掻かれた様な傷痕が体中のあちこちに残っている。浅い傷痕もあれば僅かに出血している箇所もあり、流血が彼とシーツを穢していた。その量が例え微量であって命に別状は無いとしても、今の私にとってその惨状は並々ならぬ衝撃である事に変わりは無い。
 加えて、私の両手に染み付いた、彼の血の痕跡。
――私は彼に何をした?
 涙と涎と血に塗れた彼の表情は、一見だけでは区別できない程に複雑に入り乱れ、彼の心情を察する事もできそうにない。
 荒い呼吸を繰り返す様は苦しそうにも見えれば、時折痙攣する身体へ微妙な反応をも漏らしている。何か一言、一言を彼に掛けたかった。薄々と感付き始めた意識を逸らしたくて。何とも言えぬこの空気から逃げ出したくて。彼の違った反応を知りたくて。
 それなのに、声が、出ない。
――私は主に何をされた?
 口の中で舌がもつれると同時に、醒め始めた感覚がそこに残る残滓と香りを掬い取る。それが決定打で致命傷だった。逸らし続けていた意識が急速に一つの真実へと向けて走り出し、それを止める事は最早できそうにもない。視線が彼の下半身へと降りていき、真実の出口が見え掛ける。
 彼の下半身は寝間着を着けていた。着けてはいた。着けられていた。どの言葉もしっくりと馴染まない。原型すら残らない程に裂かれたそれは、彼に貼り付いていると言う方がまだ近い様な気がする。その中でも中間部位が大きく裂かれ、そこから見える下着も又同じく裂かれ、後は書くまでもなく、答えるまでもない有様だ。
 露出した彼はまだ硬さを残しているのか弓形に反りつつ痙攣を繰り返し、濡れた身がひくつく度に電灯の灯火を受けて妖しく光る。濡らした露の大半は私の物だろうが、その量は彼のみならず臀部へと続き、肌に密着したシーツや寝間着は漏らしたかの様に変色している。 
 記憶が無くとも是だけの情報があれば、何が起きたかを推測する等は容易い。容易過ぎて逆に迷いかねなかった。
 視線を戻す様に彼を見上げる。荒い呼吸と上下する胸元。涎と涙と血に塗れ、裂かれた布の残骸が周囲に散らばり、シーツには飛沫した血痕。それらを束ねて薄暗く照らす電灯は彼の翳りすらも飲み込み、酷く扇情的な光景を形作っている。にも拘らず、私の意識は全く別の所へと飛躍し、疾走し、迷走していく。
――私は主に何をした? 
 脳裏を過ぎる映像が暴力的に私の視界を抉る。彼の姿が、周りの光景が、全く別の物へと変質していく。
 血痕が流血を呼び覚まし、残骸が骸を映し出し、虚ろな表情が死を描いた。
「……う、あう……ぁ……」
 視界の全てが朱に染まる。主の身体から色が流れる度に、主の命が損なわれる。死の色が濃くなっていく。
 頭が痛い。眩暈の所為か吐き気がする。指先に残る嫌な感触と鼻腔を突く血の臭い。舌中に広がる美味とも不味とも言えぬ味。全身の毛が逆立つ程の寒気と違和感。非現実的な現実が映すその答え。慈愛も慈悲も無い有りの侭の真実。
 頭の中で引き金が鳴った。最早如何にもならなかった。如何し様もない侭、決壊した堤防から流れる濁流に意識が飲み込まれ、慟哭の如く洪水の音が流れ出す。
 嫌だ。嘘だ。こんな、こんなのは……嘘だ。全部嘘だ。きっと夢だ。私が主を殺したなんて、そんな事在る訳がない。在ってはならない。
 じゃあ何故主は倒れている? 何故血を流している? 何故私は血塗れている? そんなの決まってる。でもそれを受け入れたら? 認めてしまったら?
 そんなの嫌だ。嘘でもいい。私が悪くてもいい。穢れてもいい。愚かしくてもいい。
 独りの侭、死にたくない。
「――――――――」 
 白い。黒い。赤い。白い。黒い。赤い。白い? 黒い? 赤い?
 嗚呼、混ざってしまって分からない。元の色が何色であったかも。分かるのは解りたくない現実だけ。
 主は死んだ。主は殺された。主は食べられた。魂までも貪られた。どれを取っても変わらない真実。
 呼び掛ける。主は答えない。呼び掛ける。死人は動かない。呼び掛ける。死者は語らない。
 必然的な真理だと解りきっていても、私はそれを決して認めず、いつまでも抗い続けている。いつまでも呼び掛ける――
「――そんなに辛いなら、目を閉じてしまえばいい」
――閉じる?
「――君がそうしたいならば、そうすればいい」
――私がしたい事? 
「――君の望む事をすればいい」
――私の望む事。
「――君は何を望むの?」
――私は――

「――独りになりたくない。貴方と同じ物を見ていたい」
「それは無理だよ」
 私の頬に置かれた彼の手に力が篭る。地毛が押し潰され、含まれていた水が彼の手を濡らし、掌、手首、腕へと伝い落ちていく。
「どうして?」
「君は独りだから」
 容赦無い言葉が胸の奥を突き刺す。刹那を伝う激痛と詰まる言葉。つわる感覚にも似た気分が心を蝕むが、言葉には続きがあった。
「僕も独りだから」
「……独りは嫌だ」
 独りぼっちで死にたくない。
「僕だって嫌だよ。けれど僕も君も、同じ物なんてない。この世界で君という存在は君しか居ない」
 同じ容姿でありながら決定的に違う部位が、何物も映さない彼の瞳が、色の無い世界が私の心を三度抉る。その言葉は私が真に望む物と望まぬ物の両方を含んでいる事を突き付けるばかりか、矛盾する葛藤が私を揺さぶり続ける。
「御前は主じゃない。主じゃない……。主じゃない……」
「そんなに似ているの?」
「……瓜二つだ。性格と体格は全く逆だが……同じ顔にしか見えない」
「もし主だったら、君はどうしてたの?」
 主だったら。彼が主だったら。そんな事決まってる。例え何度謝っても、足りなくても。
「……赦されたかった。私が主にした事と、抱いていた気持を」
 けれど主はもう居ない。言葉を掛けてくれる事もない。私が赦される事も決して無い。愛してくれる事も――無い。
「私は私を赦せない。今も又……御前を主に見立ててしまう自分に」
 それは彼に対する気持すら偽りでしかなくなってしまうから。そんな事は私も彼も誰も望まないだろうから。
「……君は自身を赦したいの?」 
 一瞬、質問の意図が分からなかった。私は私を赦したくないと、そういう意味での受け答えだっただけに彼の言葉が飲み込めない。
「君がどう思っているのかは僕には分からない。でも一つ言える事があるとすれば、自分自身を赦す事は不可能だよ」
 彼の瞳と眼が合う。彼には私の姿は見えていないはずなのに、その眼光は鋭く、迷いが一切感じられない。
「赦すという行為は他の者がいなければ成り立たない。他者と自分が認め合ってこそ、赦すという言葉が生まれる」
「生まれる……」
「君のそれは逃げの口実を作っているだけでしかない……君は赦されたいんじゃない」
 私は――
「――赦される事を怖れてる」
 認めたくない。信じたくない。傷つきたくない。その気持が私を追い詰めた。
「君は何を望むの?」
 私が本当に望んだ物――けれどそれはもう、私の元へ届かない願望なのに。
「私は……私は御前に……貴方に赦されたい……」
 彼は代わりになんてなれないと、何度口にしようとも、願わずには要られなかった。私にはそれが必要で、彼が問う答えの願望だったから。
「欲張りさんだねぇ……ふふ。赦すも何も僕は初めから君の事を受け入れていたじゃない」
「…………」
「だから君の願いを僕は叶えてあげる。聞き届けてあげる」
――どれだけ似せられるかは分からないけどね、と嘯いて。寝かせた侭の身を起こすと、彼は瞳を閉じた。そこに居るのはどれだけ自分に言い聞かせても、言い分けても、私の世界に映るたった一人の人間だった。
 ずっと言いたくて、でも言えなかった言葉。
「……ごめん……なさい…………御主人様……私は、私は……」
 言葉が出ない。あれだけ強く望んだ物なのに、いざとなると詰まる自分に情けなさを感じる他、腹立たしかった。が、それも直ぐ霧散した。
 言葉を出す必要も無く、それが答えで望んだ物。それを噛み締める様に、ゆっくりと瞼を閉じる。彼の、主の口付けにそれ以上の答えなんて無いのだから。


11.

「その……すまない」
「何が?」
 胸の中で毛並みに戯れる彼は不思議そうな顔で私を見上げている。あの後掛ける言葉が見つからなかった私へ彼は特に何も言わず、さり気無く胸の中に潜り込んでは私に包まれる様にして身を預けた。そこからも又沈黙が続くばかりなので、どうにかしたいと思っての言葉だったのだが。
「……御前には嫌な思いをさせたな、と」
「別に気にしなくてもいいのに。心配性だねぇ君」
 彼はさもおかしそうにくすくすと笑う。他者と比べられて直、何故そうして笑えるのだろうか。私にはそんな真似等到底できる気がしない。
「御前を利用した挙句裏切ったんだ。気にするなという方が無理がある」
「それは結果でしょ? それとも君の本心から? 初めから裏切るつもりだったって言えるの?」
「否……だがしかし……」
「君が僕を必要としているのなら、僕は別に何をされようと気にしないよ。言ったでしょ。僕は理由に納得できればそれでいいんだって」
 互いに一点張りで譲らず、頑固者同士で反発し合う会話だったが、不思議と嫌な気分じゃない。けれどこちらから折れたり譲歩する気はない。雄としての意地ともいうか何というか。負けられない戦いというか。だからちょっとした意地悪を仕掛けてみた。
「否、私は御前を必要としていない」
 勿論嘘だけど。みっともないとか、格好悪いとか、そんなブーイングはどうでもいい。
 彼の反応はというと予想通りの対応だったが、唯、その反抗のレヴェルが違いすぎた。三倍を通り越して十倍というか。その応対で解った事が一つ。
「嘘だね。必要じゃないと言った時、君の心拍数があがった。呼吸も少し早いよね。体温も少し低下してる。背中に冷や汗かくタイプかな?」
 怒らせてはいけない類の人間だ。それも飛びっきりに。というか密着していたのはそれを調べる為だったのか?
「それでも君は嘘じゃないって言い張るのかな?」
「……………………そうだ」
 どうしてこういう時に限って素直になれないんだろうか。一言ごめんなさいと言うだけで彼は許してくれそうな物なのに。
「へぇ……、いい度胸してるね君。更に心拍数と呼吸が早くなってるけどまぁそれはいいよ。そんな事よりもっと君に決定打を与え得る物があるしね」
 嫌な予感がする。毛が逆立つ程に嫌な予感しかしない。むしろそれ以外の予感しかない。
「これはなんだー?」
 彼の言葉と同時に、一点から全身へと電流が走る様な刺激。予想が当たった事とそれに対する心構えもあって、声こそは漏らさなかったが、躊躇いもなく実行に移す彼の行動力と決断力は末恐ろしいものがある。普通はいきなり握らない。
「えっちな仔だねー君ったら。何、僕の身体見て欲情したの? それともずっと? こんなモノおったたせちゃって、全く厭らしいんだから」
「……………………」
 こんなキャラだったっけ。否、怒ってるからこういうキャラになったんだっけ。否否、でもこれは変わりすぎというか。否否否、誰しも怒れば人格変わるだろうし。否否否否、幾ら何でもこれは変わりすぎというか。
「ゴメンナサイ、嘘つきました、許して下さい」
 素直になるのがこんなに簡単だと感じたのは生まれて初めてです。だから、その笑顔を御納め下さい。冷笑を通り越して極寒地帯に放り込まれた様な気持になるから。
「うん、君がそう言うなら許してあげよう」
 言葉通りにあっさりと彼は私を解放する。その切り替えの早さが見事過ぎて、猫を被るというよりは狛犬を被った人に見える。さっきまでの冷笑が嘘の様におだやかな感じさえ漂う。笑み自体は変わってないのに、どういう仕組みなんだろうか。
「……おい」
「うん、何?」
 何じゃねぇ。見間違いでなければその手はさっきまでアレを握っていた方の手ではないのか。
「何を舐めている」
「ん、手が濡れてるから何かなぁと思って」
「嫌がらせか!」
「ふふ。それもあるけど、ちょっとした疑問からの好奇心だよ。僕以外のって舐めた事もなければ呑んだ事もないから」
 否、ちょっと待て。それは自分のを舐めたり呑んだりした事があるという事か? それ以前に普通は他人のそれを呑む機会はないと思うのだが。自分が言うのも何だけど、明らかに厭らしいのはどっちだと声を大にして問い詰めたい。可愛い顔してやる事がエグい。
「塩っぱいかと思ってたけど、塩っ辛いって感じだね。臭いもドギツイし……」
「煩い、黙れ。感想を述べるな文句をほざきつつ美味しそうに舐めるな!」
 然程反省していない態度で笑いながら謝る彼。対して彼の一つ一つの行動に突っ込み切れない私は憮然として彼の笑みを受ける。
 一体彼の何処を見て主と似ていると思ったのだろうか。気味悪い程に異質過ぎる。別人だから異質なのは当たり前なのだが、どうしてそんな気の迷いを感じたのか分からない。
 そう思ったもののそれもそのはずだと気付く。私は主の一面だけしか知らない。そういう事だけを強制され続けてきたから。それが普通だったから。だからこそ彼の態度は私にとって新鮮だったのだろう。些か新鮮味が強すぎる気がしないでもないけれど。それでも、まぁ、この状況は悪くない。
「ねぇ、ところで君……」
「……何だ」
「僕は君に無理矢理出されちゃったけど、君は出さなくていいの?」
「ストレートに言うんじゃない」
 御前はもうちょっと言葉をオブラートに包め。悪くは無いのだが、いちいち彼の言動についていくのが全力疾走なのはどうにかならないのだろうか。
「だって、味と臭いからの推測だけども、君、随分と溜め込んでるでしょ?」
 もう突っ込まない。いちいち驚かない。一歩下がるどころか十歩下がって観察する。
「それも、三ヶ月分位……かな?」
 うん、十歩では足りなかった。百歩は必要だ。最早突っ込むなという方が無理である。
「……………………」
「あれ、どうしたの?」
「味と臭いなら兎も角、日時まで当てる御前にドン引きしてるんだ」
「ん、日時も当てて欲しかった?」
 百歩でもダメだった。

12.

 是までにおいて自分の身に何をされようとも、それを甘んじて受け入れられたのは恋情と一方的な愛情だったからだろう。そこに恥じらい等が無くはなかったものの必要とされる要素が無く、回数を重ねる内にどうとでもよくなっていた。その関係性が異常であるとしても、それでしか互いを分ち合えないならば、私はそれに(すが)るしかなかった。不必要な物に意識を傾けていられる余裕があるならば、必要とされ続ける為に意識を割く。そうしなければ私は用済みにされるだろう事を、死にも等しい程に自覚していた。それが私と主を繋ぐ唯一の絆であったから。
 それなのに彼は何々だろう。彼の言葉を聴く度、彼の体温を感じる度に身体中が熱くなる。人間と違って限定された汗腺の放熱のみでは捌き切れないばかりか、徐々にエスカレートしていく彼の行為に身体が熔かされてしまいそうで。訪れる限界に吐息が漏れていく。
「……そんなに気持良いの? 呼吸、凄く荒いよ?」
「……はっ……ぅっ……煩い、黙れ…………御前がしゃぶるからっ……こうなっているんだろうがっ!」
「だって、僕だってそんなに弱いとは思ってなかったもの。知らなかったんだから仕方無いでしょ?」
「っ……だったらっ……その行為をやめっ……ぅあうッ!」
 押し寄せる快感の波に言葉が続かない。というよりは彼が続きを語らせてくれない。彼の口腔内に帯びる熱が直接伝わってくる他、滑る感触と絡む舌が敏感な部分に刺激を送り続ける。そして何よりも「愉しいからヤダ」という彼の意思が伝わってくる。
 快楽に呑まれまいと全身の毛と尻尾が天へ向けて逆立つ中、乱れる心情に唯一つの疑問へ意識を集中させる。それは私の存在と沽券に関わる重大で重要な問題だから。
 何故、指をしゃぶられているだけで、私はこんなにも感じ、喘ぐ程に、淫しているのだろう。
 屈辱だった。だがそれ以上に恥辱心が上回っていた。それが私の体内で暴れ出す熱の、渦巻き続ける靄の正体だった。一人灼熱の中に放り込まれている様な気分と、それ以上に熱い彼の口腔に、只管(ひたすら)弱点に耐え忍ぶ事しかできないばかりか、吐息と喘ぎ声以外の物が零れ出し、垂れ落ちるそれは肥大した彼と私を濡らしていく。
「ふふ……ぐちゃぐちゃだね……」
 そう呟いて彼はやっと私の指を解放する。いつもの文句を謳う気力すら奪われ、それでも尚言葉を発そうと荒い吐息で彼に訴えた。彼の涎に塗れた指は言葉通りに濡らされて。もとい、掌全てが彼の体液に包まれてしまっていると言い換えてもおかしくない。けれど彼の言葉はそこではなく、もう一つの。
 彼までも巻き込んで、濡れに濡れた、二本の指。
 彼の手が私の手に絡む。指の合間までしっかりと。だがそれだけで終わらず、別の指へと絡み掛けて――。
「くぁふっ!」
「んっ……ふふ……凄いよね……こんなになっちゃってる……」
 熱い。熱い。熱い。熱い。熱い――今触れている物が自分の物なのか彼の物なのか、それとも両方なのか。それを確かめようにも強すぎる快楽に目を開けていられない。絡んだ指と絡まれた指が融解してしまいそうなのに、彼の言葉が脳を更に掻き乱して尚更訳が分からない。
「それにしても君のって……随分な大きさだね。硬い太い長い……僕のモノなんて比較にならないよね」
「……っ……煩いッ! いちいち……口にするなっ……」
 精一杯に声を張り上げたつもりでも、やはりその中には全然覇気がない。呂律が回らないというか弱々しい。
「ふふ、冗談だってば。ホントの事だけどね」
 何度目の謳い文句だろうか。けれどそれを口にする事は叶わなかった。口そのものを彼の口に塞がれてしまっていて。それによって舌による放熱すらも封じ込められ、酸素を求めようとすれば彼の熱が篭った吐息をその身に送り、絡む舌に何をしていいかも判らない。いっその事火をつけてくれた方が潔い気がしないでもなかった。
 一秒間が数秒かあるいは数分か。時が止まっている錯覚さえ覚える程に長い接吻に終止符が打たれる。彼の口が離れると同時に部屋の空気を胸一杯に吸い込もうとするも、爆発音を鳴らす程激しく動く心臓に、細かい動きの操作すら侭成らない。彼も又例外では無いにしても、どちらが甚大であるかは目に見て明らかだ。
 故にこちらが回復する頃には、彼は全快になってしまっている。これでは反撃のしようもない。彼の成すが侭に弄られ続けるだけだった――が。
 呼吸を整えている間、彼は私と向き合う様に姿勢を変える。両足を私の腰の外へ逃がし、膝を使って身を浮かす。それによって座高でも小さい彼の身長が、私の頭ひとつ分を超えた。目は閉じた侭だが、上から見下ろす彼の視線は何だか逆らい様の無い威厳を感じつつ、その姿勢から紡がれる行動の予測に焦りを抱かずにはいられなかった。
 その姿勢は何処からどう見ても、攻守の区分がはっきりとついている。
「待て」
「うん? どうしたの?」
「どうしたもこうもない。それは……その……」
「僕は別にいいんだよ?」
 繋いだ侭だった手が彼の臀部へと伸び、その中枢に指が触れる。
「……震えてるぞ」
「……そりゃあ、こっちの経験は初めてだしね」
「無理をするな。私はそんな事まで……」
「僕がそうしたいんだよ」
 彼の指に力が篭り、私の指を秘所へと押し込む。その折に見せた反応はどう見ても身体が拒む際のもので、私の決心は揺らぎの方向へとうねっていく。
「御前が想像する程、気持の良いものじゃない」
「どんなもの?」
「……痛いだけだ」
「愛し合う事は痛みを伴う行為だよ。僕等は独りで、独りが故に他人の気持を欲する。言葉を交わすだけならそれほど事は大きくならない。けれど愛し合う事は……感情が擦れ違うだけで痛みを伴う。痛みを共感する」
「……後で辛くなる」
 嘘。それは彼ではなく、自分がそうなってしまうのが恐ろしいだけで。自分が逃げる為の言い訳でしか無いのも見知っている。ほら、彼も又。
「僕と痛みを共感するのは……怖い?」
 離れた彼の手が私の頬へと触れる。包む様にもう片方も。彼の瞼が開き、目と目が合う。逸らそうにも、彼の両手が、無垢な瞳が、それを許してくれない。
「……御前が命令すれば、私は何処までも付いていく」
 又、嘘。それは本音に近い言葉だけれど。近いだけで本音じゃない。
「僕は君を所有しないし、君に命令もしない。けれど僕は君を望んでる。隣に君が居る事を……ね」
「言っている事が一致していない」
「ふふ、そうかもね」
 嗚呼、そこで笑うのは卑怯だろうに。そんな事をされたら、私は――。
「……途中で止めてと言っても止めないぞ」
「それは君の望み?」
「煩い、黙――」
 彼は何回私の謳い文句を遮れば気が済むのだろう。言った所で黙ってくれる訳がないだろうけど。
 卑怯なのは自分だって解ってる。けれど素直になんてなれないから、こうしてでしか私は彼への気持を示せない。
 一方的な愛ならば気楽だった。私は唯従えばいいから。けれどその関係性は決して真っ当ではなく、一度も一致しなかった故に、痛みしか知り得なかった。
 彼がそれを見抜いての言葉かどうかは解らないけれど、でも彼の事だからきっと考えるなんて手順を踏まないだろう。何時だってその場に生きている様な人だから。
 しかし私にはこの後をどうしていいかも分からない。痛みしか知らない私が、彼をちゃんと愛せるのだろうか。出来得る事ならば痛みなんて知らなくていい。
「……震えてるよ?」
「私だって……こっちの経験は無いんだ」
「じゃあ、お互い初心者だね」
「煩い、黙れ」
 くすくすと彼は満面の笑みに、対して私は笑わない侭、憮然とした態度を貫く。是から始まる事がどれだけ大変なのか、彼は解っているんだろうか。解らないからこそ余裕があるのだろうかと思ったけど、彼の事だからそうではないだろうな。
 つくづく色んな意味で恐ろしい。こんな奴は絶対に敵に回したくない。けれど味方としては――悪くない。とても悪く、ない。

13.

 幻想であればいいと思っていた。続けばいいと思っていた。
 胸に抱く彼の体温、呼吸、鼓動、肌を通して伝わる感覚の心地好さ。微睡む快楽に甘美な声が更なる奥地へと遍き、妖しさと淫靡さを増す世界に、止まる意思すらも変色して全てが流れていきそうだった――が。
 現実はファンタジーと違って都合の良い事ばかりが続く事は無く、都合の悪い事が有耶無耶にされる事も無い。現実は全てに意味を与え、幻想は全ての意味を奪う。何処までが現実で何処までが幻想かなんて区分は無い。在るのは全てが現実か幻想かの区別。
 それでも願わずにはいられないし請わずにはいられない。この時間、この瞬間だけでも、そう在って欲しいと思わずにはいられなかった。ならば彼の表情は。苦悶を浮かべて何かに耐えるその様は。現実においてどの様な意味であるというのだろう。
 現実は何処までも現実。何時までも現実。死ぬまでも現実。幻想という言葉が入る余地等一片たりとも存在しない。
 どれ程自分の意思が人間に近かろうが、それを宿す身は彼とは異質で異形だ。獲物を殺す一点のみに特化したこの身で、人と同じ事ができる等と何故そう思ってしまったのだろう。私の手がそんな造りにはできていない等と、何故、思いもよらなかったのか。
 現実は全てに意味を与える。それは同時に全てに痛みがある。
 だとしても。胸を抉るこの痛みはあまりにも過ぎる。致命傷とも遜色無く心が折れかけそうにすらなる。何故、どうしてと陳腐な言葉しか頭に浮かばない。歯痒さと同じ言葉が通り過ぎては又過ぎる中、指だけが別の行動を取っている。
 意識が更に混濁した。その行動の意味が私にも彼にも分からなかった。
 否、私がそう思っているだけなのかもしれない。
「――――」
 耳元へ彼が囁くが、科白(せりふ)は何一つ聞き取れなかった。考え事をしていたからかもしれない。或いは絶句しているのかもしれない。或いは戸惑っているのかもしれない。
 或いは――恐れたのかもしれなかった。
 盲目であるが故、外部からの情報に頼らざるを得ない彼にとって、不可思議で不鮮明な情報は恐怖を与え得る。
 耳から入る聞き慣れない不鮮明な音。下腹部に何かが垂れる生暖かい不可思議な感触。続いて嗅ぎ慣れぬ臭い。
 彼には何が起きているのか判らない。その正体を見る事ができたなら、彼はその不確かな情報を理解できただろう。
 けれど。それでも彼には理解できないのかもしれない。盲目が故に何も視えない彼だから。
 彼の手が下腹部に伸び、細い指がそれをなぞる。再び何かが垂れ、それは彼の手へ落ちる。そこから先の動きは緩やかながらも急速で、私の手首を掴んでは指を自らの咥内へと押し込んでいく。
 静寂。否、彼の舌を通じて伝わる鼓動と自らの鼓動を考慮に入れるならば、沈黙が続いていると置き換えるべきだろうか。
 続いて彼の様子。最早事の有様を察しているであろう彼は何一つも物言わぬ侭、私の指を咥え続けている。それ程に深いのか、或いは怒っているのか。両方かもしれない。
 きっと彼は私の行動なんて理解できないだろう。私も彼の意思を理解できないのだから。
 彼は何処までも優しい。それは私だけでなく、どんな他人に対しても等しく振り撒く。独りが恐ろしいからと。
 それが何処まで本当なのかどうかは解らない。全て真実かもしれない。どちらでもいい。唯一つだけ。彼は余すところ無く病人だった。それは治る事のない不治にも近い病。全ての生物が彼の様な心の持ち主ならば病気ではないのだろうけれど。幻想の世界ならば病人ではないのだろうけれど。
 盲目の彼には解らない。現実と幻想の差異が彼には見えてなく、視えていない。かつての私の様に。何も知らぬ無垢な自分を見ている様に。
 
――現実はファンタジーと違って都合の良い事ばかりが続く事は無く、都合の悪い事が有耶無耶にされる事も無い。現実は全てに意味を与え、幻想は全ての意味を奪う。何処までが現実で何処までが幻想かなんて区分は無い。在るのは全てが現実か幻想かの区別――

「どうしてこんな事したの」
 彼が問う。解放された指からはまだ己の血が滲み出ている。私は、答えない。
「ねぇ、どうして」
 彼が問う。彼の表情は悲しみと、怒りと、何だろうか。綯い交ぜで複雑な色をしている。私は、答えない。
「口、開けて」
 彼が問う。色の無い瞳はどことなく力強さを感じさせる。私は応えず、唾を飲み込む様にごくりと喉を動かす。
「――何で飲み込んだの」
「何の事だ」
 下手な嘘だった。もっとマシな言い方があるだろうにとも思うが、仕方がない。それが自分だから。
 彼と同様で――治らないのだから。


盲目の恋人~Epilogue.~



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Last-modified: 2009-12-01 (火) 00:00:00
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