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深海の影の女神

/深海の影の女神

SOSIA.Ⅷ

深海の影の女神 

Written by March Hare


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◇キャラ紹介◇ 

○シオン:エーフィ
 ホウオウの魂の欠片を持つ陽州の皇家の末裔。

○フィオーナ:エネコロロ
 ランナベールを統べるヴァンジェスティ家の王女。

○孔雀:サーナイト
 陽州武家当主の一匹。ヴァンジェスティ使用人。

(りん):ミミロップ
 陽州武家当主の一匹。美少年が好き。

真珠(しず):エンペルト
 陽州武家当主の一匹。皆の長兄。

○一子:ゲンガー
 陽州武家当主の一匹。ヴァンジェスティ使用人。

紗織(さおり):ケンホロウ
 陽州武家当主の一匹。素直じゃない。

瑪瑙(めのう):オノノクス
 陽州武家当主の一匹。最年少。

開斗(かいと):ラッタ
 陽州武家当主の一匹。無口で大食い。

○セルネーゼ:グレイシア
 ランナベールの王、リカルディの専属護衛。

○キール&シャロン:クチート&アブソル
 北凰騎士団の騎士。

○イザスタ:ルギア
 ランナベール近海に封印されていた海の神。破壊神として復活した。

○セルアナ&クライ:ラティアス&ラティオス
 ベール半島二国の護神姉弟。


00 


 どれほどの時が経過したのか。いつからか意識も時間の感覚も消え、無だけが私を支配していた。
 視界の片隅に何かが光った。私の止まっていた時がふたたび動き始めた瞬間の記憶。
 その光は、鶏冠のような形をしていた。ひどく懐かしい光だった。
 私は光を求めた。しばらくして、小さな虹色の光が落ちてきた。風に舞う羽のようだった。求めるほどに、一枚、もう一枚と舞い落ちてきた。虹色の羽は私の求めるところに集まってくるようだった。
 そうするうちに私の視界は広がっていた。虹色の羽はあちらこちらで舞っている。私はその羽が欲しいと思った。一枚や二枚では足りない。否、不完全だ。すべて集めたい。私の手元へ。手の届くところへと願った。願い続けた。

 五感を取り戻したとき、私は千年の時を知り、同時に全てを思い出した。
 自分が何者であったか。
 求めていた光の正体。

 (わらわ)の名はイザスタ。海の創造主カイオーガに仕えし女神ルギアとして、海の秩序を護りし者。天空の虹の神を愛し、裏切られ、世界にすら見放された深海の影の女神。
 願望はただ一つ――世界への復讐だ。

01 


 軌道を変え時間差で放った九連シャドーボールは悉く躱され、無音の黒い爆炎が青空にいくつもの穴を空けた。
 ならばと広範囲にスピードスターを撃ち出すも、この距離ではかすり傷程度にしかならない。すぐにエアロブラストで反撃され、ぎりぎりのところで回避した。地面が弾け、岩や草の破片が視界を覆う。横に転がったところへ、ビームのような水流が飛んできた。細く集束されたハイドロポンプの水圧は凄まじく、身を躱しても水飛沫だけで痛い。岩石質の地面さえも削られている。
【ファナスの魂の一片を身に宿したところで、所詮はポケモンに過ぎぬ。神の力には及ばぬと知れ】
 これでも通じないというのか。千年の時を重ね、一匹のポケモンの身に余るほどに膨れ上がった力でも。
 いや。力だけなら。
 ルギアはシャドーボールをすべて躱した。孔雀達の攻撃は正面から力で叩き潰していたのに。それに、力を解放したとき。目覚めるパワーの落雷で、サイコキネシスを打ち破った。
 力だけなら通じないことはない。運動能力と技の練度で相手に分があるとしても、駆け引きでその差を埋めればあるいは。
「神の力にそんなに自信があるなら、真正面から勝負しようよ。それとも、単純な力比べじゃ僕には勝てないの?」
【妾を愚弄するか、(たわ)け】
 縦横無尽に空を飛び回っていたルギアの動きが止まった。口腔に光が灯り、空気が渦を巻いて圧縮されてゆく。周囲の風の流れが変わるほどに。
「あはは……やっぱり無茶だったかな」
 連発していたエアロブラストでもあの威力だ。時間を掛けて全力を込めたらどうなるかなんて、想像もつかない。
 特大のシャドーボールを生成しながら、敗北と死を覚悟していた。そのとき。
 横から撃ち込まれた冷凍ビームが、ルギアの体を傾がせた。
【何奴……!】
 続いて火炎が浴びせられ、ルギアの体のあちこちが燃えた。火を消そうと海へ飛び込んだところへ、落雷が追い討ちをかけた。断崖の淵に駆け寄って見下ろすと、浅い海底で雷撃に身を捩らせるルギアの姿がぼんやりと見えた。
 援護射撃の主は、見上げた空を優雅に舞っていた。宗教の壁を越え、三神鳥として語り継がれる氷と炎と雷の神。
「目覚めたようだな、ファナス……いや、シオンか」
 氷の神フリーザーには一度会ったことがある。決して再会を喜び合えるような出会いではなく、この氷神がシオンの名を覚えていたのは意外だった。
「綺麗な子ね。確かに彼ならファナスにも劣らないくらいだわ」
 ファイヤーの声は女性のものだった。神々というのはどうも見た目には性別を判断しづらいが、シオンの容姿を褒めそやすあたりはたしかに女性らしい。
「一緒に戦ってくれるならありがたいけど、どうせあなたたちは世界の秩序さえ守られればそれでいいって考えなんでしょ。例えルギアを倒すためでも、この街と人々を危険に晒すようなことは――」
 大きな水音がシオンの言葉を掻き消した。三神鳥の攻撃を受けてなお致命傷には至らないのか、怒りに燃えるルギアが海から飛び出したのだ。
【待っておったぞ……! うぬらの方から現れるとは都合が良いわ】
「千年の眠りで記憶も失ってしまったか? イザスタ。千年前と同じく、闇の彼方へ葬ってくれよう」
 サンダーの声は鳥ポケモンとは思えないほど低く太く、威厳があった。上空から発せられた言葉なのにはっきりと聞こえるあたり、声よりはテレパシーに近いのか。
「引け、ファナスの魂を持つ者よ。下界のポケモンが神々の戦いに身を投じるには"個"が強すぎる。其方自身の魂が持たぬぞ」
「そんなこと……」
「イザスタは私達に任せておけ。お前には守るべき者がいるのだろう? イザスタは世界の敵であり、私達は世界の守護者だ。イザスタと戦うのはお前の役割ではあるまい」
 あのとき身を挺してシオンを守ろうとした橄欖のことも知っているフリーザーの言葉には、他の二羽と違って薄いなりとも感情が見えた。皮肉なことだが、彼の言う通りでもある。
「……信用していいの?」
「神を信じるも信じぬも、お前の選択だ」
 神頼みで自分は何もしないってのは性に合わない。でも、重傷を負っていた孔雀さん、橄欖も一子も心配だし、仮に鈴の治癒能力ですぐに治ったとしても、シオンが戦っていると知ればすぐにまた駆けつけてくる。だから、ここは任せて皆と合流するのが正解だ。
 シオンは黙って駆け出した。不安を残しながらも、今はそうするしかない。三神鳥でもルギアに勝てるかどうか。過去にフリーザーの力をこの目にしたシオンには、わかる。一対一ならば比べるまでもなくルギアの方が上だ。三羽集まった神鳥の力がそれを上回っていることを祈るしかない。
 彼らが千年前にルギアを封印したのなら、今回だって上手くやってくれるはずだ。少なくともシオンが戦うよりはずっと安心ではないか。死んでしまったら守るべきものも守れない。だから、今は僕にできることをしよう。

02 


 神様だって無限に力を使えるわけじゃない。この星の生命力だって無限に溢れているわけじゃない。
 でも、その大きな生命の核に触れることはできる。ボクは次の新しい命の誕生に使われるエネルギーを少し分けてもらっている。
「リンさん! 孔雀さんは……橄欖さんと一子さんは大丈夫なんですか? どうしてすぐに目が覚めないんですか?」
 だというのにこの家の執事、王妃の付き人でもあるトゲチックのラクートは、まるで鈴の能力を万能の治療薬みたいに考えているらしい。
 意識のはっきりしていたセルアナ以外の三匹は一先ずそれぞれ自室のベッドに寝かせてある。治療を終えた鈴が客間に戻ると、ラクートとキールしか残っておらず、キール配下の兵は軍への報告に、真珠達は二郎や三太を手伝い、地震で荒廃してしまった屋敷を片付けているらしい。
「重傷だったからね。癒しの波導も癒しの願いも、傷を物理的に治す技じゃないんだ。魂の方を……霊体って言えばわかりやすいかな。そっちを修復すれば肉体もそれについてくるけど、さすがにあの傷じゃ少し時間はかかるよ」
 とくに孔雀は予断を許さない状態で、命を助けられただけでも十分奇跡的だ。そして仲間の誰にも言ったことはないが、大きな傷を治療するとさすかに鈴の体にも負担がかかる。本来は自身の生命力を他者に分け与える技なのだからその程度で済むだけでも奇跡の能力なのだが、命に関わるほどの傷を治療するとどうも寿命が縮む心地がする。卯月家は代々短命で、熱心に人々を治療していた当主ほど早死にだったと聞く。
「我々は肉体と魂……霊体が重なって一匹のポケモンとして存在しています。物質界に存在する肉体は物理法則に抗うことは敵いませんが、技を行使する霊体の方は強力な干渉能力があれば修復も可能ということでしょう」
「そ。話がすぐに通じる頭の良い子は好きだよ、キールくん」
 補足してくれたキールを抱きしめようとしたら、今度はさすがに躱されてしまった。
「おや」
「馴れ馴れしい接触はお止めなさい! 私と貴方は年も近いのですから、その()というのも非礼だとは思わないのですか!」
「まあまあ。可愛いは正義って言うじゃない」
「私は可愛くなどないし正義でもありません!」
 そうか、気にしていたのか。キールはこれでも冷徹な軍の参謀らしいし、可愛らしさは彼にとって否定したい要素なのだ。鈴の目に映る姿は変わらないので、本人がどう思っていようと構わないけれど。
 キールとのやり取りで場が気まずくなり、ラクートも辟易して言葉を発せずにいるところに、玄関のドアが開く音がした。
「誰だろ?」
「シオン様……でしょうか? ホールへ行ってみましょう」

         ◇

 玄関ホールに着くと、そこには紫苑とセルアナ、そしてもう一匹大きなポケモンがいた。流線形に近い体も長い首もラティアスのセルアナにそっくりで、色は紅白ではなく青と白だった。ラティアスと対になる牡の護神、ラティオスだ。
「鈴さん……! みんなは無事?」
 紫苑は鈴の姿を目にするや否や、その美しい琥珀色の瞳を心配そうに歪ませて駆け寄ってきた。
「安心して。今はまだ起き上がれないけど、命に別状はないよ」
「良かった……」
 ほっと吐息をつく憂いを帯びた姿も愛らしく、抱き上げてキスをしたい衝動に駆られたが、真珠以下同胞達もホールに集合してきたので頭を撫でるだけに留めておいた。ひとまずは助かったとはいえ諸手を上げて喜べる状態ではないのも事実だ。
「それで、戦局なんだけど」
 皆が揃ったのを確認して、紫苑は現在の状況を説明した。力を開放した紫苑でもルギアには勝てそうにないこと、サンダー、フリーザー、ファイヤーがルギアを止めるために現れたこと、それから隣国ジルベールの護神ラティオスことクライが合流したこと。鈴達の想像を超えた神々の戦いが起こっているのだと。
「まったく。なんでランナベールにちょっと立ち寄っただけの私達が巻き込まれなきゃならないわけ?」
「紗織。言っても仕方があるまい。人生とはそういうものだ」
 真珠の言うことはもっともだが、偶然にしてはできすぎている。鈴たちの受け継いできた力がホウオウに与えられたもので、それがこの地に揃った今このときにルギアが復活するなんて。
「待って真珠。もしかしてルギアが復活したのって」
「オレ達が……ここへやってきたから……なのか……?」
 珍しく開斗が口を開いたと思ったら、鈴の言葉をしっかり引き継いでくれた。そう。この場所に、ホウオウの力を持つ九匹が揃ってはいけなかったのではないか。だとしたらこの街の惨状は鈴たちの所為ではないのか。
「逆だよ」
 皆が鈴と同じ考えに思い至り沈黙したところを、紫苑はきっぱりと否定した。
「僕たち一匹一匹の選択なんて、神様の意思に左右される大きな運命の前ではで枝葉でしかないんだ。ルギアが千年、ホウオウを求め続けたから、運命は僕たちをここに集わせるように回った。八卦と両院の均衡が少しずつ崩れていったのも、僕の母さんの代でついに破綻したのも、父さんが陽州に流れ着いたのも、僕たちがランナベールに逃げてきたのも、みんなが僕たちを追ってここにたどり着いたのも。みんなルギアが引き寄せた運命なんだ」
 継承した力を開放し、ルギアと刃を交えた紫苑には一歩向こう側の世界が見えているみたいだった。ホウオウの力を最も濃く受け継いでいる両院の当主には、未来を見通す者さえ存在したという。
「ルギアがボクたちにそうさせた、と……でも、皆が揃わなきゃいけないとしたら、一匹足りないはずだ」
 力に溺れた暴走の果てに散った黒夢もまた、ホウオウの力を身に宿した一匹だ。しかし、あの若さで力を継承した例も、継承先を定めぬまま命を落としてしまった例も過去にはない。鈴たちの世代は早くに継承してしまったとはいえ、それでもみな継承の儀式を済ませた弟妹や従兄弟がいる。黒夢は一族最後の生き残りだったから、先の世代に力を引き継ぐことができなかった。
 では、継承先のなくなった力はどこへ行くのか?
「神様の魂は消えてなくなったりしない」
 疑問に答えたのはラティオスのクライだった。
「僕達ラティ族も海の創造神カイオーガから力を分け与えられた種族だから、君達とは近い存在だ。自分自身の魂とは別に、与えられた神様の魂を持っている。ラティ族が命を終えるとき、土地に残るんだ。依代となる肉体がなくてもね」
 海の創造神、ということは、海神ルギアの上位の神ということになる。水の都の護神として知られるラティ族の伝承は比較的新しいが、つまりはいなくなってしまったルギアの代わりにカイオーガによって生み出されたということか。
「残った魂はどうなるんだい?」
「次にその土地に生まれたラティ族が引き継ぐ。あるいは、僕から姉ちゃんに、姉から僕に重ねて引き継ぐこともできる。ただ、神様の魂の欠片を二つも宿したら、自分自身の魂がもつかどうかはわからないけれどね」
 黒夢に宿っていたホウオウの魂の欠片は、この土地に残っているというのか。彼の命を奪った張本人の孔雀に話を聞きたいところだが、肝心の彼女は話ができる状態ではないし、目覚めたとしても絶対安静だ。いきなりあれやこれやと過去を問い詰めるのはいくら相手が孔雀でも酷というものだ。
「わたしの……出番みたいですね……」
 いつからそこにいたのか。治療を施したあと自室で寝かせていたはずの孔雀が、肩を押さえながら壁にもたれ掛かって立っていた。
「孔雀さん!」
 誰より先に駆け寄ったのは紫苑だった。ラクートが目を潤ませて足を踏み出そうとしていたが、機先を制されて動けずにいる。同胞たちも皆、紫苑と孔雀の間には入れなかった。
「おやおや、お帰りなさいませ……ご無事で何よりです、シオンさま」
「それはこっちの台詞だよっ……無事で……良かった、本当に……」
 泣きそうな紫苑を見ているとただの主従関係には見えない。彼の愛情に溢れた人柄がその光景に表れていて、孔雀や橄欖、一子も彼に心惹かれるわけだと改めて納得する。
「鈴姉さんのお陰です……」
「まったく、キミの精神力には驚いたよ……キミの傷が一番ひどかったのに、橄欖や一子より先に目覚めるなんてね」
 鈴はつかつかと孔雀に歩み寄って、肩に手を置いた。一瞬だったが、孔雀が痛みに顔を歪めたのを見逃さなかった。
「でも、痩せ我慢はだめだよ」
「孔雀さん……」
 紫苑が救いを求める目で孔雀と鈴を見上げ、呟いた。
「ふふ……わたしもまだまだのようです……」
 言いながら倒れかけた孔雀の体を支えた。真珠とラクートも駆け寄ってきて、手を貸してくれた。
 ひとまずロビーのソファに座らせたが、本来なら三日は寝ていないといけないほどの傷だった。話が終わったら強制的にでもベッドに直行させなくては治療した甲斐もなくなってしまう。
「申し訳ありません、お世話を掛けてしまいまして」
「謝るなら大人しく寝ていろと言いたいところだが……こちらとしても丁度お前に話を聞きたかったところでな」
 真珠の物言いは厳しかったが、眼差しには安堵の心が滲み出ていた。鈴の治癒能力をよく知る真珠でも、孔雀のあの状態はさすがに気が気でなかったのだろう。
「黒夢くんを斬ったとき……虹色の羽根が、空に消えてゆくのを見ました」
 伝承では、当主がその命を散らすとき、魂が羽根の形になって消えてゆくのだという。鈴の両親は姫女苑の一撃によって瀕死の重傷を負ったものの、命尽きる前に鈴に力を継承しているので、実際にその光を見たことはない。
「それからしばらくして……わたしが一度落ち込んでから、立ち直った頃でしょうか……この身に新たな力が宿るのを感じました。そのときは一つの壁を乗り越えたと思っていたのですが、もしや」
「姉ちゃん、彼女に宿る魂が見える? 僕には一つしか見えないけど」
「うーん。発現しているのは一つ、みたいだけれど……深いところに、もう一つ光がある……かも?」
 姉というだけあって、セルアナの方がクライより目は肥えているのだろうか。鈴たちには仲間を見分けられる程度にしか感じられないので、孔雀に魂の欠片が二つ宿っているかどうかなんてわかりっこない。
「行き場のなくなった魂が孔雀ちゃんに継承されたのかもしれないね。アタシの見立てが正しければ、眠ってるだけだよ。前のシオン君みたいにさ」
「ふむ……では、黒夢……艮の魂は孔雀の中にあり、やはりこの地にホウオウの魂が全て揃ったことになるな」
 黙って皆の話を聞いていた真珠が重い口を開いた。今度こそ認めざるを得ない。
「俺たちがルギア復活の引き金になったのかぁ……神様が望んだ運命だって聞いても、やっぱり悪いことしちゃったって気分だよね……」
 瑪瑙は牙が床に刺さりそうなくらい項垂れている。
「元はといえば僕がここにいたから追ってきたんでしょ? きみたちが悪いわけじゃないよ。それに、大事なのはこれからどうするか、でしょ」
「そうだね。紫苑の言うとおり、ボクもそう思う」
 一段落ついたところで、セルアナとクライがふわりと浮かび上がった。
「それじゃ、アタシは行くよ。傷も治してもらったし、クライも来てくれたから」
「神鳥の援護は僕等に任せて、君達は待ってて」
 紫苑は心配そうに二匹を見上げ、唇を引き結んでいた。特にセルアナとは親交があったようだから、情も移るというものだろう。
「そんな顔しないでシオン君。これがアタシ達護神の使命なの」
「行こう、姉ちゃん」
「無茶は……しないでね」
 紫苑の言葉を聞き届けないうちに。二匹は吹き抜けになった二階のバルコニーから飛び立ち、空に消えた。
 このまま彼ら護神と三神鳥に任せておけばルギアは再び封印されるのか、あるいは倒されるのか。自分の力の及ばない大きな流れに託すしかないというのはもどかしいが、今は祈るしかない。
 ルギアと対峙したとき、鈴には何もできなかった。孔雀や橄欖や一子のように捨身の覚悟で挑むことも。まして紫苑のように渡り合うことも。
 こうして戻ってきた紫苑も含め皆の心境は似通っていて、セルアナ達が飛び立ってしばらくは誰も言葉を発しなかった。

03 


 わたしがシオンさまを守る。シオンさまはわたしがいなくなっても生きてゆけるけれど、わたしにとってシオンさまのいない世界なんて生きる価値もない。わたしはどこまでも利己的だ。でも、たった一つのエゴくらいは許してほしい。他の全てを、あなたとあなたの大切な人々の幸せのために捧げるから。
 だからこんなのは間違っている。シオンさまがわたしを守るために犠牲になるなんて。シオンさまが誰かのために戦って死ぬというのなら、わたしは一秒でも一瞬でもあなたを庇って死にたい。
「ん……」
 目を開けると、見慣れた自室の天井が見えた。夢と現の区別が一瞬つかなくなる。何も起こっていない日常の中にいるような錯覚。
「橄欖……!」
「シオン……さま……?」
 ベッドの横に彼がいるなんて。わたしはまだ夢を見ているのか。
「なかなか目を覚まさないから心配したよ……体の具合はどう?」
 シオンさまを助けようとルギアに攻撃を仕掛け、敢え無くサイコショックで撃ち倒された。彼は動けなくなった橄欖の身を仲間に託して戦場に残ったはずだ。
 それとも、あれから随分と時間が経過していて、戦いはもう終わったのか。
「……痛みも不調も消えています……鈴姉さんの奇跡の能力のお陰ですね……」
 体を起こして、シオンの飾り毛に触れた。少しぱさついていて、いつもの艶がなかった。
「シオンさま……ああ、ずっと戦っておられたのですね……」
「ちょっとね。今はサンダー、ファイヤー、フリーザーの三神鳥と、セルアナたち護神がルギアと戦ってるんだ。僕たちには手を出せない神々の戦いっていうか……悔しいけど、僕の力じゃ役に立たなかった」
「良いのです……シオンさまはただ、生きてここにおられるだけで」
「そう言ってもらえるのは嬉しいけどさ。僕たちが先祖代々受け継いできた力って、このときのためにあったんじゃないかな。予感がするんだ。僕がやらなくちゃいけないって」
 ただの予感なんてあてにならないと思いたいのに、彼の言葉には強い説得力があった。覚醒したシオンには少しばかり向こう側の世界が見えているのかもしれない。
 それでも、あなたに危険を犯してほしくない。見知らぬ大勢の人々(ポケモン)よりも、愛しい一匹の命が惜しい。
「黒塔へ戻りましょう。わたしはフィオーナさまの命であなたを連れ戻しにきたのです。あなたが戦う必要がないのなら、戻ってフィオーナさまを安心させてあげてください」
「そういうわけにもいかないよ……」
 シオンの中にはまだ大きな不安が残っているようだった。戦いの行く末ではなく、胸の詰まるような感情の揺らぎ。
 重傷を負ったのは橄欖だけではない。あのとき飛び出した二匹は。
「姉さんと一子さんは無事なのですか?」
「一子さんも大丈夫だよ。孔雀さんは……誰よりも早く目を覚ましてさ。でも、無事って言っていいのかどうか……」

         ◇

 セルアナとクライが戦いに出ると、孔雀は鈴の手で強制的に自室のベッドに戻された。
「この力を開放すれば、わたしもシオンさまのように強くなれるのでしょうか」
「キミはさっきの話を聞いていなかったのかい。神様の魂の欠片を二つも乗せたら、キミ自身の魂がもたないってクライが言ってたでしょ」
「わたしなら大丈夫だと思うのですが」
「そんな体のどこから根拠のない自信が湧いてくるんだよ……」
 あのとき、ルギアのサイコキネシスで体が引き千切られる寸前だった。両手両足に力が入らず、痺れと痛みが残っているし、感覚も鈍い。視力もかなり落ちていて、全体に靄がかかったみたいだ。
「はっきり言って、キミは生きているだけで奇跡なんだ。ここからロビーまで歩いてきたのが信じられないよ」
 実際自分の足の力で歩いたかというと嘘になる。サイコキネシスで自己の体を操れる能力のお陰でどうにか歩けた、というのが答えだ。癒やしの願いを受けてこの状態なのだから、相当ひどい傷だったに違いない。
「わたしの体は今、どんな状態なのですか」
「……ボクは医学の専門家ではないから、体のことはわからない。でも……キミの魂だけは、完璧に修復したつもりだよ」
 鈴の言葉は歯切れが悪く、胸のツノで感情を受信しなくとも何かを隠しているのは明白だった。
「正直に教えてください、鈴姉さん」
「……隠しても無駄、か」
 鈴は今まで見たことがないくらい、真剣な顔つきになった。
「キミの体は神経から骨から、文字通りバラバラにされていた。特に中枢神経ってのは厄介でね。自然には治らない。キミも癒しの波導を使えるなら知ってると思うけど、ボクたちポケモンの癒しの技は本人の治癒力頼りだ。だから、脳や脊髄の損傷にはほとんど効果を発揮できない」
 重い事実を淡々と受け止めている自分に驚く。孔雀にも少しは医学の知識はある。体の感覚から覚悟していたからか。それとも、すでに捨てた命だからか。
「でも、ボクの能力は境界を少し踏み越えているからね。動かせているってことは、皮一枚で繋げることはできたみたいだ。あとはキミの回復力次第」
「可能性はあるということですか」
「さっきも言ったように魂だけは修復したからね。キミ自身の思い描くキミの姿に、キミの実際の肉体を近づける……そんな強いイメージを持って」
 全身の尋常ではない痛みと痺れ、倦怠感の中で、わたしのあるべき姿を。
 わたしはこんなに力が弱いはずはない。感覚だってそんじょそこらのポケモンよりずっと鋭い。こんなのはおかしい。
 シオンさまとフィオーナさまをお護りすると決めたのだから。こんなところで倒れるわけにはいかない。
「どこまで治るかはわからない。回復しても日常生活を送るのがやっとかもしれない。少なくともこの戦いに復帰するのは無理だ」
「……もしも神鳥が敗れたら、シオンさまはまたルギアとの戦いに身を投じるに違いありません。わたしには……それを止めることも、守ることもできないというのですか」
「キミの体が治るまでは、紫苑のことはボクに任せて。キミの代わり、紫苑の護衛でも世話係でも何でもするよ」
「鈴姉さんが……ですか」
「キミはボクを目標にしていたんだろう? だったらボクはキミの理想の姿のはずだ。キミの代わりを務めるのにこれ以上の人選はないと思うよ?」
 胸を張る鈴の姿が眩しくて、目を開けていられなくなった。
 わたしにも頼れるひとがいたんだ。彼女なら、安心して任せられる。わたしの代わり、いやわたし以上に頼れるお姉さんなのだから。
「ありがとう……ございます」
「何、当たり前じゃない。可愛い妹のためなんだからさ。ほら、泣いていないで今はしっかり休んで」
 救われたこの命。絶対に無駄にはしない。

04 


「というわけで、孔雀が良くなるまではボクが代わりをすることになった」
「は?」
 橄欖と共にロビーに戻り、皆で無事を喜んでいたところへ、戻ってきた鈴がいきなりとんでもないことを言うものだから、皆呆気にとられて場が静まり返った。
「鈴姉さん……また勝手にそのような」
「ちっちっ」
 鈴は橄欖に向かって指を振ると、立ち上がって一同を見回した。
「これは孔雀の希望でもあるんだ。紫苑と正式に契約して、キミのメイドになることにするよ」
「や。孔雀さんと雇用契約を結んでるのはフィオーナだし……僕と契約しても」
「そもそも姉さんはフィオーナさま付きの侍女です。シオンさまのお世話はわたしの仕事ですので、鈴姉さんは必要ありません」
「冷たいなあ橄欖は……そのフィオーナってお姫様は黒塔で守られてるんでしょ? 孔雀が離れていても大丈夫ってことはさ。それに孔雀は何よりもキミの身を案じていたからね、紫苑」
 孔雀さんが。
 目を覚ました孔雀さんは苦しそうで、歩くのがやっとだった。我慢強い彼女でも周囲に隠せないくらい、重い状態だということはシオンにもわかる。
「鈴、あんたね! いくらなんでも悪ふざけが過ぎるわ。会ったばかりのそいつを信用するどころか、使用人ですって? あんたには武士の誇りってものがないの?」
「紗織、キミの気持ちもわかるよ。でもね、孔雀は……」
 鈴はそこで言葉を止めて、橄欖、紫苑を順番に見た。
「孔雀はもう二度と、戦えない可能性が高い。いつか使用人には戻れるかもしれないけれど、できる仕事も限られてくるだろう。生きているだけで奇跡だってことは、皆に知っておいてほしい」
「そんな……嘘、でしょ?」
 さっきは一匹で歩いて、ここまで来てたのに?
 しかし橄欖や一子、そしてセルアナのことを考えると、鈴がどれだけ高い治療の能力を持っているかがわかる。彼女の能力をもってしても、あそこまで回復させるのが精一杯だった、というのか。
 さすがの紗織も口を噤んでしまい、真珠は押し黙って(うで)を組んでいる。瑪瑙は泣きそうな顔をしていて、開斗は相変わらず無表情だった。
「私らを完全に治してくれたあんたでも難しいのかい」
「そうです……鈴姉さんの力なら……!」
 その身に鈴の能力を受けた一子と橄欖は、まだ信じられない様子だった。しかし、鈴は答えない。
 できるならやっている。そんなことはわかりきっている。
「無茶を言っても仕方ないよ。鈴さん、ありがとう。孔雀さんを助けてくれて」
「ボクよりも体を張ってキミを守ろうとした孔雀に言ってあげなよ。それでもボクに感謝してくれるなら……お礼だと思ってボクの気持ちを受け取ってくれないかい?」
 ここまで言われたら、断れない。黙って肯定の意志を示すと、鈴は屈んでシオンの頭を撫でた。
「よろしく、紫苑()()
 陽州の仲間たちも、鈴の行動に文句をつけることはしなかった。橄欖はまだ納得がいかない様子だったけれど、会ったばかりのシオンから見ても、孔雀と鈴はよく似ている。意外と適任なのかもしれない。
「わかった。よろしくね、鈴さん」

05 


 シオンの無事を確認し報告に戻ったキールは、すぐに住民の避難誘導の任務についた。
 西の空を見上げれば、夕日に映された大きな影が飛び交い、戦闘を繰り広げている。伝説の三神鳥の姿を一目拝もうと戦闘区域に近づく野次馬が後を絶たないので、地上空中共に一帯を封鎖する準備にも追われていた。
「全く手を出せないとは……軍とは一体何なのか、考えさせられる」
「貴女がそのような疑問を持つとは珍しいですね、シャロンさん」
 キール隊、シャロン隊は未だ戦闘区域に残っている住民を探して、戦闘区域の真っ只中を駆け回っていた。
「こっちには誰も残ってないみたいです!」
 シャロン配下、オオタチのリルが路地の間から出てきて報告する。その間も頭上では氷や雷や炎が飛び交っていて、いつ流れ弾が飛んでくるとも知れない。決して油断はできない。
「この辺りは大丈夫みたいだヨ!」
 クロバットのキャシーが上空から舞い降りてくる。そのとき。
「危ない、キール!」
 シャロンがいきなり、キールの角の根っこを銜えて跳んだ。一瞬遅れて青白い光線が白い石畳を撃ち抜き、爆発的な冷気が周囲に広がると共に、いくつもの氷柱を立たせた。
「ありがとうございます……背後には気を配っていたつもりだったのですが、申し訳ありません」
 シャロンはキールをそっと降ろして、首を横に振った。
「いいんだ。頭を使うのがお前の役割だと前にも言ったじゃないか。戦うしか能のない私は何も考えていないから、反応が早かった……それだけのことだ。お前の頭脳は私が守ってやる」
「……こほん。職務中にあまり私情は差し挟まないでください」
「は? ……べ、べつに深い意味などない! お前こそ私情を挟むからそんなふうに聞こえるんじゃないか? 私の感情がどうあれ、お前は軍にとって失うわけにはいかない存在だろ!」
 失言だった。命を助けられて、優しい言葉を掛けられたものだから、つい安堵してしまったのだ。
「たいちょー、やっぱり、キールさんと付き合ってたんだ……って、痴話喧嘩してる場合ですか!」
「キャハハ! 隊長はワタシが頂こうと思ってたんだけどネ!」
 リルは呆れているし、さらっととんでもないことを言ったキャシーの心など初めて知ったが――部下に注意されているようでは隊長として失格だ。
「と、とにかく! 次の現場に移動しますよ! あちらの海沿いはここよりも危険ですから、注意を」
「お前もな、キール。それと、部下の躾がなっていないぞ」
 シャロンが一瞬キャシーを睨みつけたのが恐ろしくもあり、きちんと自分を好いてくれている証として嬉しくもあり。
 ――いけない。こんな気持ちでは。今は住民の安全を守ることだけを考えて、任務に集中しなければ。

         ◇

 日も暮れた頃、地震で散らかった屋敷の片付けもようやく終わって、孔雀、マフィナ、ラクートを除いた一同は食堂に集合していた。マフィナとは一度顔を合わせたが、体調は優れなさそうだった。貴族の箱入り娘として育ってきたマフィナにはフィオーナのような強さもないし、これだけのことが起これば無理もない。リカルディを婿養子として迎え入れ、全てを彼に任せた先代の判断も頷ける。
 さておき、食卓には一匹一匹の料理が別々に並べられていて、食器の形や大きさも各ポケモンに合わせられていた。献立も和食で統一されていて、色彩は控えめだが、落ち着いて食べられそうな雰囲気が感じられる。
「うーん。豪華なテーブルと長椅子に並べると地味だね、ボクの料理は」
「鈴さんが作ったの?」
「ボクだけじゃないけどね。橄欖や一子、三太にも手伝ってもらったよ」
「わたしたちは言われた通りに動いただけですから……」
 孔雀の代わりを務めると豪語しただけのことはある。一緒に屋敷を片付けてもらったときも仕事は早いし正確だし、シオンにちょっかいを出して橄欖に諌められる余裕さえあった。
「……ただのボクっ娘セクハラ魔神じゃなかったんだ」
「ふふ。感心するのは食べてからだよ? そっちの方もお望みなら、夜のお世話も任せ――へぶっ」
 鈴の危険な発言を予想していたかのように、最後まで言わせず真珠が鈴の頭をぶっ叩いた。かなりいい音がした。
「紫苑。こんな女に孔雀の代わりを任せていたら何をされるかわからんぞ」
「あはは……でも、孔雀さんも普段こんな感じだし」
「あの大人しかった孔雀が……か。未だに信じられん話だが」
 シオンは一度“昔に戻ってしまった”孔雀を見ているから、過去に大人しかったと聞いても驚きはしなかったが。
「ひとの頭をぶん殴っといて放置はひどくないかい?」
「皆さん、せっかくですから冷めてしまう前にいただきましょう」
「橄欖まで無視? キミも昔は冷たいこと言わなかったのに……」
 橄欖の心優しい性格ならこんな鈴の相手を真面目にしていて、さぞいいように振り回されていたに違いない。今では孔雀のお陰で、橄欖もこの手のお調子者の扱いには慣れてしまったが。
「安心して。僕は鈴さんのこと、好きになれそうだよ」
 自分自身のやりたいこともあるだろうに、孔雀の代わりを務めるという決意と愛情は本物だと感じた。それなのに皆に冷たくあしらわれるのは可哀想な気がして、せめて僕だけは優しくしてあげようと、目一杯の感謝を込めて微笑みかけた。
「……れ? どしたの?」
 鈴が黙り込んで頬を染めているのにまず驚いたが、橄欖まで目を逸らしてぶつぶつとつぶやいているのもわけがわからない。
「や、やるじゃないか……ボクをこんな気持ちにさせるなんて」
「いい歳をして何を十代の乙女よろしく胸をときめかせているのだ」
「真珠は牡だからわからないんだよっ。ねえ橄欖?」
「わ、わたしだって……もっときちんと……言われたことありますし……鈴姉さんにはシオンさまは渡しませんからね?」
 橄欖が変になった。ただ微笑みかけただけでどうしてこんなことになるのか。鈴が冗談半分に抱きついてくるくらいなら想定の範囲内だったけど、これはあまりに気まずい。
「侍女のキミにそんなこと言われる筋合いはないよ。紫苑は王女の婚約者なんだろう?」
「それでも二番はわたしなんです! そこは譲れません!」
「あ、あの、橄欖」
「へーぇ……ちゃっかり愛人の座を狙ってたりするんだ? 妬いちゃって、もう」
「や、妬いてなんかいませんしっ! シオンさまはそのような深い意味で言ったのではありません! 鈴姉さんの勘違いです。シオンさまの心は手に取るようにわかりますから、間違いありません」
「愛人のくだりは否定しないんだ」
 いろいろとまずい。橄欖はスイッチが入っちゃって周りが見えていないし、鈴はそんな彼女をからかうことに心を移してしまっている。頼りの真珠はシオンを疑いの目で見ているし。違う。僕と橄欖はそんな不適切な関係じゃないんだ。
「あ゛ーーー! 見ててイライラするわ!」
 場を鎮めてくれたのは紗織だった。
「さっさと食べましょ。いい加減付き合ってられないわ。私はルギアの一件が片付いたら即、国に帰るから」
 ひとときの間だけ、忘れていた。神鳥が、護神が今、戦っているのだということ。紗織の言葉で意識したことは皆同じで、元の重い空気に戻ってしまった。
「そ、そうだね……鈴さんがせっかく作ってくれたんだし」
 皆がテーブルにつこうかというとき、小地震が起こって食器がカタカタと揺れた。戦いの余波がここまで届いているのか。
 今は祈るしかない。神様に任せろと言われたのだから。
 これで終わりになるとはどうしても思えない、胸の中心に気持ち悪い感覚がずっと残っている。皆がどう考えているのかはわからない。でも、シオンには戦いの予感があった。これが最後の晩餐になるかもしれないと。

         ◇

 封印されてしまった海の神ルギアの代わりに力を与えられ、海辺の街の秩序を守る存在。それがアタシ達ラティ族。
「なんて戦いなんだ……僕らが入る隙間もないじゃないか」
 けれど、本物の神々の戦いは次元が違った。サンダー、フリーザー、ファイヤーが入れ替わり立ち代わりルギアに攻撃を浴びせ続け、ルギアはそれを回避し、自らの攻撃で相殺する。ときどきは命中しているがあまり効いてはいないようで、すぐにエアロブラストで反撃する。
 ルギアが現れた昼下がりからおそらく二時間以上もそんなことを繰り返していて、日が沈みそうになっても神々の戦いは拮抗していた。
 しかし、強大な力を持つ者同士の戦いは一度崩れると、一瞬の間で決してしまう。
 何度目だったか、フリーザーが前に出て冷凍ビームを放ったとき、ルギアがついに強気の攻勢に出た。急降下して冷凍ビームを回避すると、フリーザーの下を潜って後方で羽ばたいていたファイヤーに向かって体当たりしようとした。ファイヤーも回避を試みたが、急に機動を変えたルギアはその逃げた先を、冷静に翼で打ち据えた。
「あ……! まずい……!」
 体勢を崩して墜落するファイヤーを追撃から守るべく、サンダーが翼を畳んで体を錐揉み回転させながら、ルギアに突っ込んでゆく。
「逆に均衡が崩れた今こそチャンスよ、クライ! 隙をついて流星群を叩き込む!」
「待って姉ちゃん、近くには住宅街が……」
「大丈夫。この国のポケモン達、優秀だから」
 眼下の街を走り回る軍のポケモン達もだいぶ数が減ってきて、住民の避難は粗方済んでいると見える。野次馬も近づけないようにしてくれているし、彼らを信じよう。危険は察知してくれるはずだ。
「……了解」
 サンダーのドリルくちばしはルギアのサイコキネシスで絡め取られ、翼を畳んだ格好のまま縛られてしまった。こうなってはサンダーも重力に引かれて落下するしかない。次いでフリーザーが吹雪を浴びせかけたが、ルギアはエアロブラストで吹雪を吹き飛ばしてしまった。
 しばしルギアとフリーザーが一騎打ちの様相を呈したところで、セルアナとクライは竜の力を開放し、両の手を天に掲げた。蒼い光の靄が、空へと立ち昇ってゆく。
 撃墜されたファイヤーとサンダーが再び空へと舞い上がるが、目に見えて動きが悪い。ダメージを負っているのは明らかだった。フリーザーの冷凍ビームをルギアは一気に高度を上げて躱し、すぐさま反転して三羽を見下ろした。三羽を全て視界に捉える形になる。翼ではなくESPで飛行することができるルギアは小回りが利く分、三神鳥に対し優位に立ち回っていた。この瞬間を待っていたとばかりに、ルギアの周りから黒紫の弾丸の嵐が発射される。サンダーとファイヤーが体勢を立て直す前に、サイコショックで終わらせるつもりだ。フリーザーが光の壁を張ったが、あまりの高威力故かさしたる効果も発揮できず、易々と貫通してしまう。
 ルギアの攻撃を止めることは出来ず、三羽まとめてサイコショックで撃ち抜かれ、ふらふらと落下してゆく。
【神鳥も所詮は三羽で一体……一羽では何もできぬ無能の愚神よ。半人前が三羽集まったところで妾を封印しようなぞ、片腹痛いわ】
 敵を倒し、最も油断する瞬間。射程圏内まで接近していた二匹にルギアが気づいたときには、もう遅い。
【うぬらも命を捨てに……ぬっ!?】
 本来は流星を召喚するのに長い準備を要する技だが、時間は神鳥たちが十分に稼いでくれた。夕闇の空からは既に隕石が炎を上げて迫っている。
「赦されざる者への天の裁きを!」
「天に遍く流星よ、災禍の化身を打ち砕け!」
 赤い炎に包まれた無数の小隕石が、次々とルギアに降り注いだ。
【小賢しい……ぐぬ……っ……!】
 如何な海神とて躱しきれるものではない。小隕石の一つが直撃し、ルギアは地面に叩き落とされた。流星群はその墜落点へと容赦なく降り注ぎ、連続で大爆発を起こす。狙いをつけるのが困難な技ではあるが、二匹の力で制御すれば、周囲への被害を最小限に抑えつつルギアへと集中砲火を浴びせられる。
「このまま跡形も無く吹き飛ばしてやる!」
「気を抜かないでクライ! あいつはまだ……」
 流星群の直撃を受けてもなお、爆炎と土煙の向こうに感じるルギアの生命力は耐えていない。それどころか。
【かぁぁぁぁっ――!】
 爆発的にルギアの発する力が増した。
 爆炎も落下した隕石の欠片も、全てを神通力で吹き飛ばして、蒼いオーラを纏ったルギアが飛び出してきた。速い。一直線にこっちへ――
「姉ちゃんっ!」
 体当たりの勢い以上に、重い一撃が体の芯に響いた。目の前が一瞬真っ暗になって、思考が停止する。
 竜は同じ竜の力に弱い。ドラゴンダイブで上空に吹き飛ばされたのだと気づいて体勢を立てなおそうとしたが、体が思うように動かない。
 視界の隅で、ルギアの口腔に禍々しい光が灯るのが見えた。
「やめろっ! 姉ちゃん、避けて! 姉ちゃん!」
 ――ごめんね、クライ。アタシはここまでみたい。
 何も護ることなんでできやしなかった。こんなんじゃ、シオン君達にも、顔向けできないな。
 本当に、ごめんね――

06 


 鈴の料理は孔雀に負けるとも劣らないくらい、絶品だった。陽州料理の和食に限って言えば孔雀以上かもしれない。特に豚の角煮はこんなに美味しい肉料理があったのかと驚かされた。
「ほんとに美味しかったぁ……さすが、孔雀さんの憧れのひとだね」
「ボクは孔雀と違って和食しか作れないけどね……西洋料理かぶれの孔雀がちゃんと昆布や味醂まで揃えてあったのには驚いたよ。やっぱり異国の地に住むと和食が恋しくなるものなのかな?」
 異国の地であるランナベールに永住する覚悟を決めるだけでも相当なものだ。それも、親の敵の息子の下で、住み込みで働くなんて。孔雀も橄欖、一子たち姉弟、そして鈴も。どうして簡単に過去の自分を捨てられるのか。これが陽州(ポケ)が美徳とする潔さなのか。
「陽州の皆、すごいよね……僕にも陽州人の血が流れていることが誇らしくなってきたかも」
「あんた、自分が陽州の皇家の末裔だって自覚してんの? 私はあんたみたいなのを追っかけてこんな僻地まで来たのが阿呆らしくなってくるわ」
 すかさず紗織に毒づかれたが、曲がりなりにも一緒にテーブルを囲んだ後だからか、彼女の態度も少し和らいだ気がする。
 シオン達の横では橄欖と一子、二郎、三太が食器を片付けるのを瑪瑙と開斗が手伝おうとして、断られていた。
「それは……ちょっと申し訳ないかも」
「謝ってんじゃないわよ! ったく、いちいち頭にくるわね」
 フィオーナと正式に結婚すれば、ランナベールの第二王位継承者だ。その事実がシオンにとっては重くて、母さんが女皇で、本来は陽州の皇子だったなんて言われてもいまいちピンとこないのだ。
「それはそうと鈴。孔雀の食事は用意しているのか?」
「もちろん。これから持っていくよ」
 孔雀さん。目の前でルギアに壊されかけて、鈴のお陰でなんとか助かったけど、状態は思わしくないらしい。シオンが病気で臥せっているとき、橄欖とともに熱心に看病してくれて、温かいスープを作って食べさせてくれたことを思い出す。
「それ、僕に任せてくれないかな?」
「主人のキミがかい?」
「今は孔雀さんは怪我人だから。主従は関係ないよ」
 強いひとだからこそ、つらくても苦しくても耐えられてしまう。けど、強い心を持つひとは許容量が大きいだけだ。感じる苦しみが小さいわけではない。
 だから、支えてあげたい。こんな風にゆっくり過ごせる時間も、きっと長くは残されていないから。
「それならボクと一緒に」
「察してやれ、鈴」
「ありがとう真珠さん。ちょっと孔雀さんと二匹で話がしたいんだ」

         ◇

 一匹になると、さすがに募る不安も大きくなる。こんな体になってしまって、この先ずっと橄欖や鈴姉さん、フィオーナさまやシオンさまにまで世話を掛けて生きていくのか。何かあったらすぐに鳴らせと、ベッドの脇には呼び鈴が置かれている。本来は自分が使うものではない。今まで数え切れないくらいフィオーナさまに呼び出されたことを思い出す。
 無様に生き残るくらいなら華々しく散った方が良かったなんて、自分勝手な逃げ口上を並べたくなる。助けてくれた鈴の気持ちを無駄にしてしまうとわかっていながら。
 自分の嫌な部分が出てきそうになっていたとき、ドアがノックされた。応えなければいけないのに、声を発する気力が湧いてこない。
「孔雀さん、寝てるの? 入るよ」
 予想していなかった声だった。あなたが来てくれるなんて。
「シオン……さま……」
「あ、起こしちゃったかな」
「いえ……お気遣いなく」
 部屋に入ってきたシオンの傍らには、料理の載ったトレイと、片側だけに支えのあるオーバーベッドテーブルが浮かんでいた。食事を運んできてくれたらしい。主人であるシオンが、使用人のわたしに。
「夕飯、鈴さんが作ってくれたんだ。体、起こせる?」
「……ありがとうございます。置いておいていただければ……」
「無理しないで」
 シオンは食事をベッドの脇のサイドテーブルに置いて、ソファの上のクッションを念力で持ち上げた。
「体起こすよ……痛かったら言ってね」
 そうしてシオンはベッドに乗って、孔雀の背中の下に前足を入れた。顔が触れそうなくらい近づいて、いい匂いがした。いつもの調子なら悪戯したいなんて思うところだけれど、今はこんなことをさせてしまうのが申し訳なくて、そんな気分にもなれない。
「よいしょ、っと……これでいいかな?」
 クッションを背中に挟んで、ヘッドボードにもたれかかる形で体を起こしてもらった。
「シオンさまにこのようなことを……」
「なに言ってるの。僕がちょっと風邪を引いたくらいでも、孔雀さんはこれくらいしてくれたじゃない。僕を守るために傷ついた孔雀さんを労るのは当たり前だよ」
「しかしわたしは使用人の立場ですから」
「孔雀さんは使用人だから僕を看病してくれたの? 使用人だから僕を命懸けで守ろうとしてくれたの? 違うでしょ」
「それは……」
 シオンは隣に寄り添うように座って、頬を寄せてきた。
「僕のことが好きだから、でしょ」
 まるで挑発するみたいな甘い囁き。シオンに対して主従以上の感情を抱いていることは事実だし、隠していたつもりもない。それでもはっきりと本人から言われると、さすがに胸がどきりとする。
「だったら同じだよ。僕も孔雀さんのこと、好きだもん」
 それが孔雀の望む恋愛感情ではないとわかっていても。
「こんなときに言うのは……ずるいです。いつものわたしなら襲っちゃいますよ?」
 愛に溢れたあなただから、純粋なあなただから。あなたを慕う皆に愛を分け与えてくれる。
「ごめんね。でも、今言ってあげなきゃって思ったんだ。僕は孔雀さんが有能だから好きなわけじゃないって。孔雀さんというサーナイトが好きなんだって。だから孔雀さんにはどんなになっても、生きていてほしい。迷惑だなんて思ってほしくない。孔雀さんが生きてここにいるだけで、僕は嬉しいから」
 昔ラクートにも似たようなことを言われた。見通しているのは自分だけじゃなかった。相手の心を覗くとき、自分の心も覗かれているのだ。わたしがシオンさまをよく知っているだけ、彼もわたしをよく知っている。
「……なんて、橄欖の受け売りだけどね」
 あなたに出会えて良かった。あなたのお陰で、わたしはまだ生きていける。言いたいことはあるのに、恥ずかしくて言葉が出てこない。
 誤魔化すようにテーブルの上のトレイに視線をやった。並べられた料理は懐かさを感じさせる和食で、ご飯に味噌汁、豚と大根の角煮、それから金平牛蒡(ごぼう)。鈴がさっそく腕を振るってくれたらしい。
「病気じゃないから食事は特に制限はないらしいけど、食べづらかったらお粥を炊こうかって鈴さんが言ってた」
「だ、大丈夫です……」
「そう?」
 シオンはベッドの上にテーブルをセットして、食事を並べてくれた。
「それじゃ、はい」
 そうして肩に前足を回して孔雀の首を支え、汁物茶碗を念力でそっと口元に近づけてきた。
「いえ、あの」
「ん? 最初は汁物からって、鈴さんが言ってたけど。陽州のマナーなんでしょ?」
「だから……じ、自分で食べられますので」
 右手を動かして箸を持ってみせた。少し手先が痺れているけれど、箸くらいはどうにか扱えそうだ。
「わかったよ。じゃあ、手伝うことにするね」
 片手で茶碗を持つとひっくり返しそうで怖い。自分のサイコキネシスに加えてシオンにも支えてもらえば、確かに安心だ。
 まずはお味噌汁そっと口をつけた。材料がこちらのものを使っているだけに過去に食べた鈴の料理と同じ味ではないけれど、ベール半島特有の豊富な魚介類の出汁が利いていて、頬に染み渡るようだった。この場所で初めて料理をするというのにすぐに対応するあたりはさすが鈴だ。そして何より、隣にシオンが寄り添ってくれているだけで料理の美味しさも倍に感じる。
「美味しいです……鈴姉さんには敵いませんね……」
「そう? 孔雀さんの料理も好きだけどな。鈴さん西洋料理は作れないって言ってたし」
「鈴姉さんなら、すぐに覚えてしまうでしょう……料理の基本は東洋も西洋も同じですから」
 金平牛蒡もしっかり味が染みていて、アクセントにキリッとした辛味がついている。孔雀はこちらに来てからはあまり白米のご飯を炊いたことはなかったが、こちらで手に入るお米もきちんと炊けば意外と悪くないかもしれない。豚の角煮は鈴の得意料理で、凝縮した肉の旨味ととろけるような食感が和風出汁の味付けと完璧にマッチしていて、失っていた食欲も戻りそうだった。
「これ、本当に美味しかったよ……ん? お水? はい」
 真剣に世話をしてくれるシオンを見ていると、食事を楽しむことさえできる。
「次はこっち? はい。ふふ。孔雀さんがしてくれたみたいにできてるかな、僕」
 まだまだ楽しいことも、何だってできそうな気がしてきた。
 ずっとこの時間が続けばいいのに。そう思っていたのに、半分くらい食べたところで、体がそれ以上を受け付けなくなってしまった。
「もうおしまい?」
「ごめんなさい……シオンさまに食べさせていただいているのに」
「そんなこと気にしないで。無理もないよ。本当ならこんなに早く目を覚ますはずなかったんだから。孔雀さんの体がそれだけ強いってことだよ」
「……鈴姉さんにも、申し訳が立ちませんし」
「鈴姉さん、か……」
 シオンはテーブルを脇に避けると、断る間もなくナプキンで孔雀の口を拭いて、頬をくっつけてきた。
「シオン、さま……?」
「陽州の仲間はみんな兄弟みたいで羨ましいなって、ちょっと思っちゃった」
「幼少の頃……助け合って生きてきましたから……」
「うん。でもさ、僕にとって孔雀さんって何なのかなって」
「わたしはフィオーナさまの侍女で……シオンさまにとっては、使用人の一匹、ですよね」
「またそんなこと言って。怒るよ?」
「怒った顔も素敵ですね」
「もう! 話の腰を折らないでよっ」
「ふふ。申し訳ありません」
「少し、いつもの調子が戻ってきたね」
「おかげさまで」
 ベッドの上で体を寄せ合っているこの状況で自分が何もしないのは、まるで普段とは程遠いけれど。
「それでね。僕のこの気持ち……恋、とは違うんだよね。フィオーナへの気持ちとは違うけど、でも孔雀さんが愛おしいって思う。これって、家族愛なんじゃないかな。ローレルに対する気持ちと似てるかもしれない」
「姉……ですか。わたしが」
「孔雀さんとは他の陽州の仲間にも負けないくらい、親密な仲だって僕は思ってるけど」
「わたしも同じ気持ちですけれど……シオンさまにまでそう思っていただいているのは嬉しいです」
「あのさ。僕も……お、お姉ちゃんって呼んでいい? 孔雀さんのこと」
 弟、か。もしも主従関係がなければ、姉弟みたいなものなのかもしれない。孔雀の一方的な感情を抜きにすれば、その形で落ち着くのが理想の関係だと思う。一枚壁を作らざるを得ない使用人と主人でいるよりはずっと魅力的だ。
「はい。もちろんです」
「あ、ありがとう……お姉ちゃん。だから、僕のこともさ。どうせ、しばらくは使用人でいられないんだから。立場なんてどうでもいいから、"さま"付けで呼ぶのはやめてほしいな」
「シオンさ……いいえ。他の弟たちと同じように、シオンくん、と。そう呼ばせてもらうわね」
 これはもしや。橄欖を追い抜いたのではなかろうか。我が妹は自分が二番目だと信じて疑っていないが、未だ敬称を付けて敬語で話しているではないか。もはや確実に、わたしの方が彼に近い位置にいる。
「可愛い弟がもう一匹できてわたしは嬉しいわ。そうだ、せっかくだしこのまま一緒に寝ましょ? お姉ちゃんが可愛がってあげるから」
「や、それは……ちょっと、待――」
 シオンを抱きしめて、キスをしようとした。
「早速お休みのキスを……ぎぁ、痛たたたたたた……!」
「孔雀さん!? ちょ、大丈夫?」
「だ、大丈夫よ……調子に乗るものじゃないわね……それと、戻ってるわよ。呼び方」
「あ……そ、そだね……お姉ちゃん」
 そろそろ橄欖が割り込んでくる頃かと思ったけれど、どうやら今の自分にはその必要はないらしい。この体では到底シオンに悪戯なんてできやしない。
「体が良くなったらいくらでもそういうことしてくれていいからさ。今はゆっくり休んで。それと」
 話しながら、背中のクッションを退けてソファに戻し、孔雀をそっと寝かせて布団を掛けてくれた。
「無理しないで、してほしいことがあったらなんでも言ってくれればいいの」
 初めてだった。シオンの方からしてくれるのは。
 穏やかで甘い、夢心地のする優しいキスだった。


 ――シオンさま……! 大変です!
 なんだって? セルアナが? やっぱり……そう、なんだね……
 ……シオンさま? ダメです! シオンさま!

 微睡みの中で、妹と弟の声が聞こえた。
 シオンくん。橄欖ちゃん。お願いだから、わたしを置いて遠くへ行かないで――

07 


 海の創造主カイオーガの魂の欠片。雫のような光が散って、天に昇って消えてゆく。
 神鳥と戦い、流星群をその身に受けたルギアは傷だらけで、ダメージを隠せそうにない。それでもセルアナを葬るに十分な力は残していた。
「海の創造神の御名の下に告げる。護り神ラティアス、セルアナ……の……役目を終えたカイオーガの力……護り神ラティオス、クライが継承する!」
 次のラティ族が生まれるまでなんて待っていられない。神鳥が再び力を蓄えて受肉するまでだって、年単位の時間が必要だ。世界は簡単には滅びないが、今このランナベールをルギアの手から救うには、僕が引き継ぐしかない。
 自らの魂の上にもとからカイオーガの魂の欠片を重ねているラティ族が二つ目の魂を引き継ぎその力を解放すれば、おそらく自身の魂を滅ぼすことになってしまうだろう。セルアナと二匹で戦うよりも爆発的な力を得られるが、それでもルギアに勝てる保証はどこにもない。
 いずれにしても流星群で大きく消耗してしまったクライにはこうでもしないと、ルギアと戦闘を続行する力は残されていない。
 二つの魂の力を解放した途端、体の中で炎が燃えるような熱さを感じた。視界が真っ白になり、頭が割れそうな痛みが襲ってきた。
 それも一瞬。数秒後には、制御できそうにもないくらい溢れ出す竜とESPの闘気が全身を覆い、視覚も聴覚も遥かに鋭敏になり、頭もはっきりと覚醒した。二匹の流星群で倒し切れなかったルギアに、こんな付け焼き刃では到底敵わない。そんな冷静な分析までできてしまうくらいに。
 それでも最後まで、引くわけにはいかないのだ。
「……刺し違えてでも、姉ちゃんと僕の使命を果たしてやる!」

         ◇

 シオンを呼びにきたのは、キールの独断らしい。神鳥が敗北しセルアナが散った現場に居合わせたキールとシャロンの部隊は、団への報告を後回しにして屋敷へ駆けつけた。
「国はシオン君を保護の対象としていますが、もはやホウオウの魂を持つ貴方がたの力に頼るほかはありません。神鳥と護神との戦いでルギアはダメージを負っています。恥を忍んでお願いします。今こそ力をお貸しいただけませんか」
「僕はもとからそのつもりです。ホウオウの魂がどうとか運命がどうとか、それ以前にこの国の騎士ですから」
「……だな。キールと共に私も戦おう。お前の盾にでも何にでもなってやるさ」
 シャロンの凛とした声にはいつも勇気づけられる。
「シオンさまの盾となるのは、わたしの役目です。絶対にわたしより先には死なせませんから……」
 橄欖には孔雀の側に残っていてほしいけれど、彼女の心はとうの昔に決まっている。何を言っても無駄だ。
「私もあんたを気に入っちまったからには行くしかないね。後のことは弟達に任せるさ」
 一子。シオンが拘束されたとき、孔雀や橄欖とともにルギアに挑みかかった。普段は口にしなくても、愛情を掛けてくれている。
「孔雀と約束したからね。ボクも覚悟は決めてるよ。盾は多い方がいい」
 孔雀も含めて、陽州の皆にとって姉のような存在である鈴。彼女もすでに後に引く気はない。
「鈴姉が行くなら、おれも!」
「武士たる者……逃げの手はない……」
 瑪瑙と開斗も、戦う意志は十分だった。
「……ほんとバカばっかり。私一羽だけ逃げ帰るなんて惨めなだけじゃない。いいわよ、とことん付き合ってやるわよ」
 紗織もこうは言いながら、仲間たちを大切に思う心は人一倍強く持っている。会って間もないシオンにさえそれがわかるくらいには。
「全く、どいつもこいつも命を粗末にしおって……先頭に立つのは長兄である俺の役目だ。お前達を無駄死にさせるわけにはいかんのでな。無論、お前もだ。紫苑」
 真珠。皆を率いてきた頼れるお兄さんは、鈴と共に迷いなくシオンを仲間だと認めてくれた。
「私が頭を下げるまでもなかったようですね……立つ瀬がありません」
「神鳥が敗北した今、奴を放置しておけば全世界の脅威だ。それに、ホウオウの魂を持つ我々を奴が見逃すとも思えん。今はただ、共通の敵を倒すために我々と手を組もう、ランナベールの騎士殿」
 真珠が差し出した翼の先を、キールが小さな手で握り返した。
 もはや個々の損得を考えている場合ではないと、皆が理解している。逃げ続ける未来を選ぶか、戦って平穏な未来を取り戻すか。ランナベールの騎士として。陽州の武士として。選ぶ道は決まっている。

         ◇

 ウェルトジェレンク付近の住宅街は戦闘の影響であちこち破壊され、月明かりに浮かび上がる白い石造りの家々に美しい街並みの面影はなかった。
 上空ではラティオスのクライとルギアがまだ戦っている。飛び交う技の応酬、光と音の炸裂。両者とも傷ついてはいるが、クライが押され気味だ。ルギアのドラゴンダイブが命中して、クライの体が傾いだ。続くエアロブラストをどうにか躱したが、体勢を崩したままだ。ルギアが第二撃を発射する方が早い。
 横合いから撃ち込んだシャドーボールは、ルギアを止めるには十分だった。
 そこで初めて、二者はケンホロウ、紗織の背に乗って現れたシオンと、眼下のポケモン達に気がついた。
「シオン……どうして戻ってきたんだ? 姉ちゃんは君を守りたいって……」
「たった今ルギアにやられそうだったじゃない。命を張る理由があるのは僕も同じだよ。神様には任せておけない」
「そう、だな……頼りない護り神で、済まない……僕もそろそろ限界、みたいだ……」
 クライには、魂の波導が――三つ、見える。
「……まさか」
「そう……姉ちゃんの持っていた神の魂を……上乗せ、したんだ。それでも、力及ばなかった……」
 同じ光景を過去に見た。母さんが両院の力を開放してシオンとローレルを守ったとき。大きすぎる力の負担に、体が耐え切れず。
「あとは……君が……」
 クライの体から青い光の霧が溢れ出して、二つの雫のような形を為した。光が空に溶けて消えてゆくと共に、クライの体から力が失われ、眼下の住宅街へと落下した。
「……っ」
 会ったばかりとはいえ、セルアナと同じ使命を背負った姉弟で、ランナベールを守るために戦ってくれた彼の死は、母の死の光景と重なったこともあって、シオンの心に重くのしかかった。
「悲しんでいる暇はないわよ! 前見て! しっかり掴まって!」
 不意打ちでシャドーボールを食らったくせに、ルギアの反撃は早かった。サイコショックによる黒紫の弾丸の嵐を紗織は掻い潜り、鎌鼬を連続で撃ち返す。シオンも第二撃、第三撃とシャドーボールを発射するが、相手もこちらに集中していては当たってはくれない。
【自ら舞い戻るとは……シオンよ、妾の物となる決心がついたか?】
「そんなわけないだろ! 神鳥とセルアナたちに随分と手酷くやられたみたいじゃない? とどめを刺しに来たんだ」
【無意味な疑問であったな。妾の意思によってのみ其方の運命は決定するのじゃ】
「そうやってお高く止まっていられるのも今のうちだよ!」
 自信なんて全くなかったけれど、自分を奮い立たせるために言い放った。
 純粋な戦闘力ではシオンがラティ族や神鳥に匹敵するとしても、ルギアには届かない。圧倒的な空中での運動性能の前では数の優位も機能しないから、闇雲に戦ったところで一匹ずつ戦力を減らされて最後にはジリ貧になってしまう。
 攻撃力だけなら、相手の防御力を無視する竜の怒りの性質を他の技に乗せられる瑪瑙と、怒りの前歯を倍の威力で扱える――すなわち一撃で相手の持つ生命力を全て奪い取ってしまう、開斗の二匹がルギアを倒し得る能力を持っている。
 作戦は、どうにかしてルギアを地上に引きずり下ろし無防備な状況を作った上で、二者のどちらかが攻撃を叩き込むというものだ。
「ルギアの拘束は真珠がやってくれるわ。私とあんたは陽動、準備が整うまでの時間稼ぎよ」
 来る途中に紗織と相談して、ルギアの技のスピードや射程を伝えておいた。こちらの攻撃を当てることもできないが相手の攻撃を確実に避けられる間合いを保ち、真珠が泡の包囲網を完成させるまで時間を稼ぐ。シオンと紗織に加えて、キャシーとキールがサポートすることになっている。
「あんたの翼になるってのは癪だけど、やるからには絶対に倒すわよ!」
 ただ傷を回復して出直しただけじゃない。一緒に晩餐を囲んで、孔雀や鈴の気持ちを確かめ合い、恨まれていたシオンもようやく仲間になれた。
 結束して力を合わせれば、僕たちは伝説の不死鳥、天空の虹の神ホウオウになれる。
「僕の命は預けたよ、紗織さん!」

08 


 避難指示に従って住宅街を離れたエリオットたちは、黒塔前の縛鎖公園まで逃げてきた。軍が炊き出しを行っているのには驚いたが、この国の政府もいよいよ一流の国家になりつつあるということか。
「あんたら若いんだからしっかり食べな。老い先短い私と違って」
 マスターは配られた糧食のリゾットを半分くらい食べて、残りをエリオットに差し出してきた。
「おいおい……まさかマスターが自分で年寄りじみたこと言う日が来るとは思わなかったぜ」
「そう言わずに貰っときなさいよ。私はいいですから、エリオットにあげてくださいマスター」
「店が潰れちまったんだ。もうマスターでも何でもない、本当にただのおばさんになっちまったよ」
 マスターらしくない。普段言わないようなことばかり口にする。 
「何言ってんだよ……じゃあ、トモ、でいいか?」
「何とでも呼びな」
「またマスターと呼べる日が来るまでな!」
「また?」
 エリオットはトモヨから受け取ったリゾットを一気に流し込んだ。
「またやるに決まってんだろ! 若いオレ達に任せとけって。やる気だけは十分あるからな! トモはいつもみたいに口出しだけしてくれりゃいい」
「そうね。私もせっかく弟と一緒に働けるようになったんだもの。簡単に諦められるものですか」
「いや動機そこかよ」
「あんたら……」
 二匹を見つめるトモヨの目は潤んでいて、今にもの泣きそうだった。珍しいどころの話ではない。今までただの一度も見たことがない。
「む、そこにいるのはトモではないか? エリオット君にイレーネ君も」
 せっかくいい雰囲気になっていたのに。空気を読まないヒゲが登場したせいで、見逃してしまった。まあ、オバサンの泣き顔なんてどうでもいいか。
「ハリー……あんたも無事だったのかい」
「私が住んでいるのはもとより港近くのアパート街だからな。君らの様子を見るに、店も家も奴のお陰で失ったというところか」
 ハリーの視線を追うと、ウェルトジェレンクのあった西の住宅街の上空では、夜の帳の中で火花が散るのが見えた。
「私らみたいな行くあてのないのはセーラリュートが避難先として受け入れてくれるって話だ。貯金は少ないけどあるし、次の家を探すさ」
「店の再建に資金は必要だろう? 何ならトモ、君だけでも私のところに来るといい」
 おいおい。このオッサン、大災害にかこつけてなんてことを提案するんだ。確かに最近トモと仲が良いし案外お似合いなんじゃねえかと思ってはいたが。
「あんたに世話になるのはごめんだよ」
 って断るのかよ! てめえも満更じゃなさそうだったじゃねえか!
 思わず口に出すところだったが、こらえて良かった。
「だから、店を再建したら倍以上に、これでもかってくらい返してやるよ。何年も、何十年も先まで。これでいいだろう?」
「そこまでの意図はなかったのだが……いずれ私から君に伝えるつもりだったことだ。パートナーが必要だろうとな。このような状況では風流も何もあったものではないが、ランナベールらしいとも言えよう」
 いや何プロポーズしてんだよ。状況わかってんのか二匹とも。だいたいこいつら年のせいかどっちも素直じゃねえし。
「こんな物好きがいるなんてね」
「お互い様だ」
 このヒゲ。いいところだけ全部持っていきやがって。オレと姉ちゃんの与えた感動が台無しじゃねえか。
「クソ中年どもが」
「まあまあいいじゃないのエリオット。幾つになっても恋ができるって素晴らしいことよ?」
 二匹に聞こえないくらいの小声で毒づいたが、イレーネにはしっかりと聞かれていた。
 イレーネの言うとおりだ。若いからってまともな恋の一つもできない奴だって大勢いるし。エリオット自身、今の恋人に一目惚れしてしまったのは気の迷いだったのではと、後悔することも多い。
「エリオットくーん!」
 噂をすれば。空から牝のピジョットが一羽、舞い降りてきた。イレーネの目つきが急に険しくなる。
「ルビー……なんでここに」
「エリオットくんを探してたに決まってるでしょ! 住宅街が壊滅してるって聞いて、気が気でなかったんだから……無事で良かった……」
 イレーネの厳しい視線に気づいているのかいないのか、ルビーはこれを完全に無視して両の翼でエリオットを包み込んだ。温かくて安心する香りがして、ああ、やっぱり居てくれて良かったと思い直す。
「ほう! 君が噂のエリオット君の恋人かね。頼るあてがあって良かったではないか」
「あんた、一度うちの店に来たことがあるね……一度とはいえ、シオンちゃんが連れてきたからよく覚えてるよ。エリオットあんた、一目惚れした客を落としたのかい。見かけによらず隅に置けない奴だよ」
「うるせえ! オレだって健全な男子なんだからいいだろ!」
「よしよし。また慰めてあげるからね」
「ちょっと」
 いよいよ黙っていられなくなったか、怒気を孕んだイレーネの声が場の空気を一変させた。翼に包まれて何も見えないから、どんな顔をしているのかは確認できないが。
「なぁに、お義姉さん」
「誰がお義姉さんよ! いい、エリオットは未成年なの、私は保護者なの! 私はただの一度もあなたがエリオットと交際するのを認めた覚えはないわよ!」
「この国じゃ未成年も成年もないでしょう? それに、エリオットくんはしっかり自立して生活してるんだから一匹のオトナとして認めてあげましょ?」
「そうだよ姉貴。オレはもう子供じゃないんだし、ルビーにつっかかるのはやめてくれ」
「ほらエリオットくんもこう言ってるし」
「だ、騙されてるのよ! こんな女にエリオットが……」
「やめときなイレーネ。あんたも弟離れしてさっさといい相手見つけないと私みたいになっちまうよ」
「ま、若いうちに良縁に恵まれるに越したことはあるまい」
「マスターやハリーさんに言われても説得力がありませんっ! ずっと離れ離れだった弟と仲良くしたりくっついたり抱き合って眠ったりしたい姉の気持ちなんて……」
「べつにそれくらい怒らないわよ? 私とエリオット君はそれ以上のことしてるわけだし?」
「お、おいルビー……」
 やばい。いよいよイレーネがブチ切れて口から炎が漏れはじめた。
 誰か、止めてくれ――!

         ◇

「初任務が地震の後片付けだったしよぉ、今度は縛鎖公園からリュートまで避難民を案内するとか……ま、テリーアと一緒になれたからいいけどなぁヒャヒャ」
「黙って仕事しないと、怒られるわよ!」
 新兵はまとめて避難誘導に回されたので、所属小隊の異なるグヴィードとテリーアも同じ任務についているというわけだ。
 グヴィードの所属する十三番隊は、新兵以外は戦闘区域に残る住民の救出任務についている。三神鳥と護神が戦っていると聞いたが、そろそろ決着がついてもおかしくない頃合いだ。未だ西の空で散る火花は、もしかすると神々すらも敗れ、隊長達が戦っているのかもしれない。
「隊長無事かなぁ……シオンのやつも最初にルギアと戦ったって聞いたし心配だぜ」
「でもシオン君はもう守られる側のポケモンになっちゃったから……前線にはいないんじゃない?」
「オレたちがやっと新兵になったときにはもう騎士になってんだもんな。それどころか王女と婚約……マジであのダンスパーティの相手と結婚しちまうとは思わなかったぜ。同じ団に入れたのに結局一度も話せてねーし、遠くに行っちまったよなァ」
「そうね……無事でいてくれるといいけど」
 ようやくシオンに追いついたと思ったら、ずっと高みにまで上っていて、大きく引き離されてしまっていた。高等部の頃であれだけ差があったのだから、当然といえば当然だ。進むスピードの違いが差を生み出しているのだとしたら、グヴィードたちには一生追いつくことなんてできない。
 あいつはまだオレを親友だと思ってくれているだろうか。
 あまりに離れると心まで通じなくなってしまうのではないかと不安になる。
「アヒャ。まァいいや。どうせなるようにしかならねーよ」
「……あなたらしいわ」
 テリーアは呆れ気味に納得して、避難民にリュートの方向を示す仕事に戻った。
 つまらない任務だが、部隊の統括を任されている九番隊副隊長のバリヤードから、災害支援も軍の大事な仕事だと言い聞かされているので、グヴィードもここでしっかりと仕事をして彼に認めてもらえば、九番隊隊長のシオンとも話す機会が訪れるかもしれない。
「ヒャ。避難民の方ァ、セーラリュートはこっちでぇーっす!」
「おい新兵! 声がでかいのはいいが、普通に言えないのか!」
 グヴィードとしては、これでも真面目にやっているつもりなのだが。昔から、顔つきや喋り方のせいでふざけているように思われてきたので、怒られるのは慣れっこだ。
 悪い意味で覚えられてしまいそうだが、それも悪くはないかもしれない。
「ほんと、変わらないんだから」
 テリーアも学生の頃から変わらない。
 シオンだって、卒業したから急に変わったりなんてしないよな。

         ◇

 セーラリュートの当代風紀委員長、ペルシアンのキャミィは、教員、軍の兵士と共に、生徒会の一員として避難誘導に駆り出されていた。
「ちゃんと並んでください! そこのムクバード! 空から順番を抜かさないで!」
 風紀委員長という役職上、他人に注意を飛ばす機会も多いので、こういう仕事なら慣れたものだ。とはいえ高等部を修了して一年目の若さ故か、素直に言うことを聞いてくれない住民も中にはいる。
「あまり列からはみ出さないで! そこの女性二匹組! ガマゲロゲとリーシャンのあなたたちのことよ!」
「何よ小娘が偉そうに」
「あたしは体がデカいんだから仕方ないでしょ?」
 たちの悪そうな二匹だが、相手が女ならこちらには切り札がいる。
「ライズ君、お願い」
 風紀委員になってまだ半年も経っていない頼りない一年坊のニンフィアだが、中等部の頃からファンクラブができるほどの美少年だ。大抵の女はこの子の言うことなら素直に聞いてくれる。
「またですか……?」
「あなた声小さいし、こんなときしか役に立たないんだから! ほら、行ってきて!」
 しぶしぶと駆けてゆく後ろ姿も美しくて、ついうっとりとしてしまう。いや。見惚れている場合ではなくて。
「え? 何? もっと列に寄ってほしいって? わかったわよ、しょうがないわね……」
 ともあれきっちり仕事はしてくれた。学園のアイドルをこんなことに使うのは少し気が引けるけれど、とにかく人手が足りていないのだからそうも言っていられない。
「気苦労なこっちゃなぁ学生さんも」
 その様子を見ていたのか、アザト訛りのマニューラが話しかけてきた。腕には氷と悪の板石(プレート)を組み込んだ倍化器(ブースター)を身につけている……ということは、小隊長、騎士の階級か。
「お疲れ様です、騎士様」
「ええねんええねん、そんな堅苦しいのは。俺はホンマはルギアと戦いたかったんやけどなあ。貧乏クジ引いてしもうてこんな役回りや」
「キャミィ先ぱ……あっ、お話し中失礼しました」
 騎士がやけに軽口を叩くもので、どう接すればよいのか戸惑っていたところにライズが戻ってきた。
「しょーもない愚痴やし気にせんでええで? おお、ジブンえらい綺麗やなあ。うちの団のあいつとええ勝負しそうや」
「はあ……お褒めにあずかり光栄です」
「女の扱いは任せろっちゅうやつか」
「いえ決してそんな」
「隊長! 学生の邪魔してないで仕事してくださいよ!」
 辟易するキャミィとライズに助け舟を出してくれたのはマニューラの部下らしい兵士だった。
「わかったわかった、すぐ行くがな! ジブンらもスマンかったな。ま、ホンマは俺ら大人の仕事やし、程々に頑張りや」
 ランナベールでは騎士とは名ばかりだとは噂に聞いていたが、実際の現場を見ると部下との関係もたしかにフラットに見える。変に身構える必要はなかったのかもしれない。
「ランナベールの騎士様ってあんな感じなんですね」
「ジルベール出身のライズ君が驚くのも無理はないわね」
「でも、父や他の騎士はどこか偉そうで……彼のような気さくな方のほうが好感が持てます」
 ライズの微笑みがが傍らにあるだけで、こんな仕事でもやる気が湧いてくる。思わず顔が綻んでいるのを、ライズは怪訝そうに見つめ返した。
「どうかしましたか?」
「何でも。さ、仕事に戻りましょうか」
 あまり長く雑談をしていたら先生に怒られるし。風紀委員としては学生の模範を示さなければならない。
 教室や訓練所が一時避難所になって、しばらくは授業も縮小されるだろうけど、学生のうちに非常事態を経験し、曲がりなりにも軍と共同で仕事ができたのはある意味幸運かもしれない。
 なんて、今ルギアと戦っているポケモンたちが勝利して初めて言えることだけれど。
 ランナベールではリュートが戦闘区域から最も離れた位置にあるとはいえ、ここもいつまで安全かはわからない。ルギアを止める者がいなくなれば、一日とかからずに全土が壊滅することだってあり得るのだから。
 神鳥でも護神でも、他の誰でもいい。いざとなればキャミィ自身も戦う覚悟はある。
 こんなことでこの国を終わりにしないで――

09 


 真珠がルギアに気づかれぬよう少しずつ、上空に泡の包囲網を完成させてゆく。紗織とシオン、キャシーとキールの二組がルギアの注意を引いてどうにか気づかれずに済んでいるが、こちらはともかくキール達が見ていてかなり危なっかしい。何度肝を冷やしたことか。
「たいちょーの命を預かってると思うとドキドキするヨ!」
「莫迦なことを言っていないで集中しなさいキャシー! 来ますよ!」
 キャシーはルギアのサイコショックの嵐を大きく迂回して躱したが、本当にスレスレだ。ルギアの右上に回り込んで、キールが凍える風を吐いた。
【通用すると思うか、羽虫!】
 ルギアには涼風でしかないのか。キールは多彩な技を身につけてはいるが、今回のように大きな力を持つ相手と正面切って戦うのには向いていない。本人もそれを承知はしているだろうが、これではルギアを刺激するだけだ。
「ほんと気をつけなさいよ!」
 ルギアがキール達へ反撃する前に、紗織が彼女の特殊能力で、高威力の鎌鼬を連射する。ルギアもこれには対処せざるを得ず、翼を閉じて守りを固め、弾き返した。
「今だ! 奴から離れろ!」
 地上からの真珠の号令。
 この瞬間を待っていた。
 紗織とキャシーがルギアから大きく距離を取った直後、全周囲に浮かんでいた泡が一斉にルギアに襲いかかった。
【何じゃと……? うぬらの無意味な攻撃は、時間稼ぎか!】
 闇の中に浮かぶ透明の泡など、そこにあると思わなければ簡単に見えるものではない。いかに海神といえどもこのときまで本当に気づいていなかった。
 だが、全方位から遅い来る泡を、ルギアは大きく拡散するサイコショックで次々と割っていく。技の展開の早さが普通のポケモンの常識を超えているのだ。このままではルギアを落とせるだけの泡が足りなくなる。
「そうはさせないってんだよ!」
「海神、覚悟!」
 泡の中に入っていたのか。上空から突然現れた一子とシャロンが落下の勢いのまま、それぞれ薙刀を、頭の角を振り下ろした。薙刀はルギアの翼の半ば程まで食いこんだところで折れ、シャロンの一撃は首を掠った程度だったが、成果は大きい。
【塵芥どもが……!】
 抵抗を失ったルギアが無数の泡に包まれ、閉じ込められてゆく。低空浮遊できる一子はそのまま自由落下、シャロンはキャシーにぶら下がったキールが顎と両手を使って受け止めた。
「よし……!」
 約半数の泡が破壊されてしまったが、そこは真珠も考慮していたのだろう、ルギアをどうにか拘束することはできた。あとは、地上に引きずり下ろすのみだ。
「く……凄まじい抵抗力……俺一匹の力では無理だ!」
 が、そう簡単にはいかなかった。真珠の泡を自在に操る能力でも、ルギアを意のままにするには至らない。
「ボクを忘れてるよ!」
 一子だけではなかった。泡に潜んで上空で待機していたポケモンがもう一匹。踏みつけるような跳び蹴りが命中し、真珠の泡と拮抗していた力はあっさりと崩れる。ルギアは泡に包まれたまま地面へと見事に叩き落とされた。
「紫苑、ボクを受け止めて!」
 妙に含みのある言い方に苦笑しつつ、サイコキネシスで鈴をキャッチする。
「ちょっと、重いわよ! 私に体重かかってんだからね!」
 文句を言いながらも紗織が着陸したときには、泡を制御する真珠と攻撃役の瑪瑙、開斗を中心に、皆がルギアを取り囲んでいた。
【うぬらファナスの使い魔ごときが妾に地面を甜めさせるじゃと! この妾を!】
「長くは押さえきれん……急げ!」
「わたしも催眠術で援護します!」
 橄欖の催眠術なら、と一瞬期待したが、ルギアの精神抵抗を少しそちらに割かせる程度の役割しか果たせなかった。
「一瞬で終わらせる。任せろ」
 ラッタの開斗が飛び出した。生命力のすべてを奪い取る怒りの前歯、否、あれは死神の牙と読んでもいいだろう。口を開けて飛び掛かる開斗が纏う禍々しいオーラには、ルギアがこの世に顕現した瞬間の恐怖にも通じる深淵の闇が見えた。生物には生体的な急所とは別に、霊体の生命力の源が存在する。そこを狙って繰り出す恐ろしい技が世の中にはいくつか存在するが、熟練の使い手でも命中率は三割程度だという。開斗には生命力の源がはっきりと見えているらしい。普段物静かなのに、瞬発力も凄まじかった。一対一の戦いにおいては、間違いなく最強の能力だ。
 ――当てることができれば。
【海の神を舐めるでないわ!】
 血飛沫と共に、開斗がゴミのように吹き飛ばされた。
 岩をも砕く超高水圧のハイドロポンプを顔面にまともに食らったらどうなるかなんて、想像したくもない。しかし泡を砕いて出てきたルギアは、考える暇など与えてくれなかった。
「ぐぅぁっ……!」
 天からの稲光が一閃。落雷で真珠が煙を上げて倒れ、作戦の要である二匹が戦闘不能になってしまう。
「開斗! 真珠!」
「くそっ、これでどうだ!」
 鈴の悲痛な叫びに重なり、開斗の保険として技を準備していた瑪瑙が竜の怒りの蒼いオーラを纏ったダブルチョップを仕掛ける。だが、ルギアが再び空へと飛び上がり、あと少しのところで届かなかった。
「くっ……作戦は失敗ですか……!」
 キールが地面を殴りつけて歯噛みする。彼が感情的になるほどの絶望的状況。代わりの作戦なんて、いくら北凰騎士団の軍師といえどそうそう思いつくものでもない。
「二匹ともまだ息はある……ごめん紫苑、ボクは彼らを見捨てることはできない! 今すぐ最低限の治療だけでも施さないと……頼む、どうにかルギアを引きつけて!」
 開斗と真珠に駆け寄った鈴の指示を待つまでもなく、シオンと紗織はルギアを追って飛び立っていた。その後のことなんて考えていない。
「任せて!」
「こうなりゃあんたと私は一心同体よ。最期まで付き合ってやるわ、紫苑!」
「紗織さん……巻き込んでしまって、ごめん」
「私が決めたことよ! あんたのためじゃないんだから!」
 紗織のセリフは丸っきりどこかで聞いたようなフレーズだった。やっぱりこういうひとなんだ。彼女も死なせたくない。陽州の美学よろしく死に花を咲かせるためだけの戦いなんてごめんだ。
 皆の戦いは無駄ではなかったはずだ。ルギアはいよいよ満身創痍で、ダメージは相当なものだろう。ただ自己再生能力くらいあってもおかしくはないし、回復の暇を与えることは避けたい。今のルギアならシオンの力でもどうにか倒せるかもしれない。だが、そのためには持てる力のすべてを注ぎ込んだシャドーボールを生成するための時間と、確実に命中させるためにもう一度ルギアを拘束する必要がある。
「紗織さん。今のルギアなら、僕が全力で一撃を叩き込めば致命傷を与えられるかもしれない。ただ、時間は紗織さんに稼いでもらったとしても……ルギアを拘束しないと当たる気がしない」
「私達の中に氷の使い手でもいればね……って言っても、フリーザーでもダメだったんだから、それ以上の……となると普通のポケモンじゃ無理でしょうね」
 氷漬けにして落とす、か。たしかにそれができれば最も有効な方法だ。しかし氷の神以上の使い手などこの世に、まして都合よくランナベールになんているとは思えない。
 否、諦めてなるものか。シオンの知る限りで一番の氷の使い手。アスペルは物理専門だし、吹雪といえばグレイシアのセルネーゼ。今も黒塔にいるなら、キャシーに橄欖を運んでもらえば、作戦を伝えられる。
 待てよ。黒塔を見学したときに、確か――
「ある! ルギアに通用するかもしれない手がもう一つ……!」

10 


 黒塔の対策本部はもはや戦闘には手出しできなくなっていた。神鳥と護神の敗北後、シオンを含む陽州のポケモンたちに加え、キール、シャロンが命令を無視して戦っているという報告が上がったときには耳を疑った。
 多くの死者を出すことを覚悟で全軍総攻撃を掛ける手もあったし、それを望む兵士も多かったが、リカルディは被災者救済に人員を回すべきだと判断した。
 少数の勇敢あるいは無謀者達を犠牲にしながら。
「上からの命令を無視とは……シオンさんを戦闘に巻き込むなどと、言語道断ですわ!」
「頭を冷やせ、セルネーゼ。指示を飛ばすことしかできぬ我々には現場の者達の心までは推し量れん……それよりも、次に何ができるかを考えるのが先決だ。それにシオンを連れ帰ったところで事態は好転しない」
 これが一国の主の器というものなのか。娘婿の命よりも国のことを考えるのは王としては当然だ。しかし、セルネーゼにはそこまで割り切ることができない。フィオーナとて気が気ではないはずだ。
「どうあっても、シオン自身は戦うことを選ぶわ。誰かのために必死で困難に立ち向かう。そんな彼だから、私は彼を愛しているのですもの」
「フィオーナ様……強いひとですわね。私では敵わないはずですわ」
 シオンを失いたくない気持ちはセルネーゼと同じかそれ以上に強いはずなのに。でも、たしかにそうだ。あの子の魅力は美しい容姿よりも、曇りのない純粋さと、他人のために全身全霊を尽くせる優しさにあるのだから。
「セルネーゼよ。お前が戦いに出るというのなら私は止めはしない。私の護衛などという職のために動けないことが歯痒いのだろう?」
「な、リカルディ様……? わたくしは決してそのような」
「私からもお願いするわ。貴女がシオンを想ってくださっていることはよくわかりました。だから、シオンを守ってあげて」
「リカルディ様とフィオーナ様のことは儂に任せるが良い」
 婚約者もいる身だし、シオンのことはきっぱりと諦めたつもりだったのだが。皆に見えている姿が、セルネーゼの心の真実なのかもしれない。
「失礼します……!」
 そのとき、息を切らして会議室に駆け込んできた者がいた。
「橄欖! 無事だったのね」
「フィオーナさま……申し訳ありません、シオンさまをお連れせよとの命令に背き、あまつさえ戦いに――」
「そのようなことは良いのです! 用件は何なのです?」
「はい……! 現在、シオンさまと陽州の同胞がルギアと戦っております……簡潔に申し上げますと、ルギアを拘束するためにセルネーゼさんの力をお借りしたいとのことです」
「わたくしの……?」
「展望台に、試作中の兵器が、ありましたよね……」
「あの大砲か。作戦を聞こう」
 答えたのはリカルディだ。行き詰まっていたところにようやく届いた現場からの声。場が一気に緊張の色を帯びた。
「シオンさまがルギアを黒塔まで誘導します……そこを大砲で狙い撃ちに……セルネーゼさんの吹雪ならルギアを氷漬けにして落とせるかもしれないと、シオンさまは仰っています」
「ふむ……ハイアット、あれは実戦に使用できる段階にあるのか?」
「狙いをつけるのが難しく、扱える者は僅かですが……試射の際にはセルネーゼ女史に協力を仰いでおったゆえ、彼女なら問題ありませぬ。しかしまだ試作機ですからな。彼女程の力を持つポケモンが全力で技を放てばどうなるかはわかりませんぞ。大砲そのものが壊れる程度ならまだ良いですが、使用者の身も危険ですな」
「とうに覚悟はできていますわ。お任せなさい」
 願ったり叶ったりだ。思えばこれまでリュートで学び鍛え上げたこの力を使う機会はなかった。
「誘導を他に任せ、シオンに大砲を使って攻撃させる……というのは非現実的か」
「ルギアは千年の想い人……ホウオウの魂を受け継ぐシオンさまに惹きつけられています。誘導はシオンさまにしかできません」
「……事情は了解した。して、既にこちらに向かっておるのだな?」
「はい。徐々にではありますがルギアに悟られぬよう移動しております」
「ハイアット、黒塔周辺の避難民をすぐに離れさせろ。セルネーゼは大砲の準備を」
「仰せのままに」
「承知いたしましたわ」
「わたしはシオンさまとセルネーゼさんの連携を……わたしにはシオンさまの心がわかりますから」
 橄欖は首に下げた石のペンダント――変わらずの石と呼ばれる、進化を止める魔石らしい――を強く握り締めた。シオンとの絆の証、ということか。
 羨ましくはあるが、今はその絆が頼りになる。
 いいえ。この作戦を成功させればわたくしもシオンさんとの揺るぎない信頼関係を築くことができるに違いありませんわ。
「必ずや成功させましょう、橄欖さん」
「はい!」

         ◇

 キャシーが戻り、ルギアに気づかれないよう低空から合図を送ってきた。作戦は伝わったようだ。
 ルギアの攻撃を躱しながら、間合いをはかるふりをして黒塔の方面へ少しずつ移動する。ルギアは順調に追ってきている。今はシオンへの執着だけがルギアの弱点だ。
 しかし、さすがに相手も馬鹿ではない。
【何故同じ方向にばかり逃げておる? 其方の攻撃には妾への殺意が感じられぬぞ、シオン】
 黒塔まではまだまだ距離があるのに、早くも気づかれてしまった。似たような手を二度も食ってくれるような相手ではない。
「あなたは僕が欲しいんじゃないの?」
【其方の目的は妾の命であったか?】
 かつて海の秩序を守る女神として、世界の海を統治していたポケモンだ。頭も切れる。シオンなんかよりはずっと。
【そうではなかろう? 妾が追わずとも、其方は妾を放っておけはせぬ】
 ランナベールを守るため。もしもルギアがシオンへの興味を失ってしまったら、無差別に破壊活動を始めてしまったら。彼女の意思一つで、追わなければならない立場になる。作戦も何もあったものではない。
「紫苑、黙ってないでなんとか言ってやりなさいよ!」
 全てルギアの言った通りなのだ。返す言葉なんてあるわけなかった。
「くそっ……どうしようも……」
 ――そのとき、無数の光の弾が飛来し、ルギアに突き刺さった。
【何奴じゃ……?】
 闇に浮かび上がる光は、虹色にぼうっと光っていて、葉のような形をしている。マジカルリーフ。シオンの知るこの技の使い手、それも空の上に現れる者なんて一匹しかいない。
「こんばんは、海の女神さま。わたしの大切な同胞たちをいいように弄んでくださいましたね。きっちりとお礼はさせていただきます」
 技の飛んできた方向を見て、目を疑った。そこに浮かんでいたのは、青と緑の二重の光が混じって、紺碧の波導に包まれた孔雀だった。
「お姉……ちゃん?」
「あんた動けなかったはずじゃ……」
「ふふふ。この孔雀に不可能はないのですよ」
 いくら孔雀でも、いきなり回復するなんてことはありえない。孔雀から感じるESPの波導が、本来の彼女からすると大幅に強くなっているし、身体から溢れ出すような紺碧の光は、魂そのものを燃やして輝いているようで、痛々しい。クライがそうであったように。
「まさか孔雀、黒夢の力を」
「思っていたよりも心地の良いものです。これが本来のエスパータイプの力なのですね」
 生来弱かったESPを補うために努力で鍛え上げた孔雀。上乗せしたホウオウの魂の力でその弱点もなくなった。しかし、それは決して抜いてはいけない諸刃の剣だ。孔雀自身の魂が燃え尽きてしまったら。ラティオスのクライでさえ耐えられなかったというのに。
「そんな顔をしないでシオンくん。わたしの精神力がヤワじゃないってことはあなたもよく知っているでしょ?」
「……お姉ちゃんなら、大丈夫だって……信じる。信じてる」
「へぇ……あんた達、そういう仲になってたのね」
 紗織がシオンと孔雀の関係の変化をからかう余裕を見せた。
 本当は全く余裕などないのだが、行き詰まったこの状況を打破するには少しくらい余裕を持たないとどうしようもない。
【死に損ない一匹戻ってきたところで……ぐ、ぬ……? 何をした、貴様……!】
 が、ルギアの様子がおかしい。先程命中したマジカルリーフが、ルギアの中に吸収されるように消えてゆく。
「あなたはもうわたしの掌の上なのですよ、ルギアさん」
 孔雀が不敵な笑みを浮かべる。あのマジカルリーフ。上乗せした黒夢の力。
【……ファ……ナ……ス】
「そうか、宿り木の種で他者を操る能力……!」
「海神が相手となると完全に支配するには至りませんが……自身の持つ心の底の欲求に忠実に従わせる……その程度ならわたしにもできそうです」
 一年前、黒夢の宿り木の種で理性のブレーキを失ったが故に少年誘拐事件を起こしたジュカインのナイリル。本人が元から持つ欲望と一致した方向であれば導くことは容易い。
【ファナス……今は、シオン、であったか……其方を妾の物とし、世界に復讐する……それが妾の目的であった】
「紗織姉さん、シオンくん!」
「わかってる! でかしたわ孔雀!」
「本当に……僕はいつも助けられてばっかりだね、お姉ちゃんには」
 無茶をしないでって。拾った命を無駄にしないでって。今すぐ帰って寝てろって。
 孔雀のことを思うとそう言いたくなるけれど、今は素直に感謝し、作戦を成功に導くのが彼女のためでもある。
「イザスタ、僕が欲しければついてこい!」
 黒塔へ向けて飛び立った紗織とシオンを、ルギアは真っ直ぐに追ってきた。後ろからついてくる孔雀にさえ目もくれない。
 もはや牽制の攻撃をする必要もなかった。ときどき飛んでくる紗織を狙った攻撃を避け、技で相殺しながら、ルギアを引っ張ってゆく。黒塔はもうすぐそこだ。
 この先に待つのは破壊神の最期。そして皆で笑い合える勝利。それだけを信じ、突っ走るのみだ。

11 


「わたくしのそばからは離れておいてくださいね、橄欖さん、フィオーナさん」
 展望台には大砲を撃つセルネーゼ、シオンとの連携を取るための橄欖に加えて、本人たっての要望でフィオーナも同席している。
 危険は承知の上で、一匹安全なところにいるのは自分が許せない。そういう人柄なのだ。
 フィオーナの心には少し不安の色が見えるが、セルネーゼはさすが一流の騎士といったところか、漣一つ立たない凪のように落ち着き払っている。
「来ましたわね」
 全周がマジックミラーになった展望台からは、大きな白いポケモンが夜の闇を突っ切って向かってくるのが見えた。
「これが海の神ルギア……物凄い威圧感ですわ。恐怖で逃げ出したくなるほどに」
 ついさっきまで間近で戦っていた橄欖であるが、何度感じても慣れない。できることなら二度と相見えたくはない。本能的な恐怖は消えはしない。壁越しとはいえ、初めて間近でルギアと相対することになるセルネーゼやフィオーナが平静を保っていることには感服する。
「シオン……!」
 シオンと紗織の姿が展望台外周のライトにはっきりと照らされたとき、フィオーナがその名を呼んだ。シオンたちは黒塔を迂回するように回り込んで、ルギアを迎え撃つつもりだ。
 が、橄欖の目を驚かせたのは、ルギアの後ろから現れたもうひとつの人影(ポケモン)だった。
「……姉さん」
 ルギアの後ろから飛んできた孔雀は、魂の燃え上がるような青と緑の光が霧状になって体から溢れ出し、彗星のように尾を引いている。彼女の体の状態からしても、引き継いだ艮の力を上乗せして開放したことは明らかだ。
 姉の意志を継いで戦ったラティオスのクライのように。
 我が子を守るために扱いきれない力を身に宿して命を落とした姫女苑のように。
《橄欖ちゃん、そこにいるのね?》
 ここまで接近すれば、互いの感情を受信し合ってテレパシーを送ることも容易だった。
《はい……》
 いつもいつも無茶を押し通すひとだと思っていたけれど、今回ばかりは怒っても呆れてもいられない。孔雀はこれでも橄欖にとってたった一匹残った肉親なのだ。
《心配しないで。わたしなら大丈夫よ。それより、そっちの作戦を伝えてくれる?》
 もとよりシオンの心を読み取って連携を取る作戦ではあったが、孔雀がいるならこちらの意思を向こうに伝えることもできる。これなら盤石だ。
 私情を噛み殺してでも、この作戦を成功させなければならない。今囮になっているシオンだって、紗織だって、孔雀の身を案じている気持ちは同じはずだ。
《わかりました、姉さん》
 セルネーゼが構えている大砲は九時の方向、今ルギアを引き連れてきた側だ。
「セルネーゼさん! 姉さんのおかげでこちらの意思も伝えられます!」
「了解ですわ。あなたたち姉妹のこと、見直しましたわよ!」
 セルネーゼ本人が技の威力を最大限に高めるために時間を要すること。大砲に技を撃ち込んでから発射されるまでには若干のタイムラグがあること。街への被害を抑えるため射角は高めに取ること。詳細情報を、孔雀を通してシオンに伝える。
 孔雀がシオン達に近づいて耳打ちしたが、ルギアには怪しまれていない。というか、まるで理性を失っているように見える。
《わたしの力じゃルギアをいつまで操れるかはわからない。できるだけ急いで!》
 そうか。艮の力。黒夢が宿り木の種で他者を操っていたあの能力で、ルギアにまともな思考能力を失わせているのか。今はただ猪突猛進に、シオンを求めるだけの獣に等しい。
「セルネーゼさん!」
 呼びかけたが反応がない。見れば、セルネーゼはぶつぶつと呪文のような言葉を唱えていて、目に色濃く見えるほどに圧縮された氷の要素(エレメント)が、彼女の体を包み込んでいた。ものすごい集中力だ。
 さすがに王の護衛を任されるだけのことはある。そこらの騎士のレベルは遥かに超えているし、大砲を通さずともルギアを凍らせてしまえるのではないかと思うほどだった。
「――集束完了。いつでも撃てますわ!」
《姉さん、合図を!》
《お任せなさい!》
 孔雀が大砲の照準の前で手を振った。ルギアの攻撃が黒塔に命中しないようタイミングを計り、紗織が方向を調節しつつ迂回してやってくる。シオンはすでにシャドーボールの生成に集中しているようだ。
「あとは信じましたわよ!」
 セルネーゼが吹雪を放った。離れて立っていても震えるほどの冷気を感じたが、すぐに大砲の装弾孔に吸い込まれてゆく。
 紗織とシオンが大砲の前を突っ切った。そして、後を追うルギアが目の前に――
 耳をつんざく爆発音と光、先ほどとは比べ物にならないほどの冷気。目の前が真っ白になった。このまま氷漬けになって死ぬかと思った。
 セルネーゼとは反対側に立っていたのに、並みのポケモンの吹雪をまともに食らったくらいの凍傷を負ってしまったみたいだ。
 気がついたときには、大砲の置いてあった壁に大穴が空いて、展望台の半分ほどが凍りついていた。最も離れていたところにいたフィオーナは、どうにか軽傷で済んだようだ。
「当たり……ましたか……?」
 すぐ隣から苦しげな声が聞こえて、驚いた。セルネーゼは部屋の端から端まで吹っ飛ばされていた。意識が混濁していて自分の状態を認識できていないようだ。
「当たったようには見えましたが……霧で真っ白で……」
《やったわよ、橄欖ちゃん!》
「いえ、きちんと命中したようですよ!」
「そうですか……ふふ、わたくしに不可能はないのですわ」
「はい」
 あとはシオンにすべてを委ねるのみだ。あまり得意ではないけれど、気休めだけでもと、セルネーゼに癒しの波導を施しながら、白い霧が徐々に晴れてゆくのを待った。

12 


 黒塔が爆発したかと思った。それくらい凄まじい威力だった。肌に感じる冷気も、氷の神フリーザーと出会ったあのとき以上だ。
 ルギアは氷漬けになって爆風で吹き飛ばされ、縛鎖公園の一角に墜落した。それだけで普通のポケモンなら粉々に砕けてしまいそうだ。
「紫苑、行くわよ! 全力でぶっ放しなさい!」
 紗織がルギアの墜落地点へと真っ直ぐに急降下してゆく。地面に近づいたところで飛び降りて、氷漬けになって動けないルギアを正面に捉えた。
【ファ……ナス……シオン……其方を……】
「今度こそ終わりだ、破壊神イザスタ!」
 先祖代々蓄えた、最も強いホウオウの魂の力を今こそ。ルギアを倒すために。
 紗織に稼いでもらった時間で、自分の力の限界までに超高圧縮されたシャドーボールは、夜の闇よりなお深く、空間に穴が空いたような、まさしく深淵の闇だった。ここまでの圧縮率になるとシオンの力量でも弾速は出ない。まるで重い鉄球を扱うみたいだ。
 発射したシャドーボールは歩くような速度でゆっくりとルギアへと向かってゆく。全身を氷漬けにされたルギアに逃れる術はない。
【妾が……この妾が……下界のポケモン、如きに……】
 その先はもう声も聞こえなかった。無音の黒い爆発は辺りの音を全て奪い取り、ルギアを包み込んだ。煉獄から召喚された黒い炎の塊が、その体を焼き尽くすまで。
 ――世界に音が戻ったとき、そこには黒ずんでぐったりと動かなくなったルギアの姿があった。
「やった……」
 跡形も残さないつもりだったが、さすがは海の神といったところか。
 でも、倒した。
 この手で破壊神を倒したんだ。
 力を使い切ったことと、戦いに勝利した安心感で、シオンはその場にぺたりとへたり込んだ。
「紫苑!」
 紗織が嬉しそうな笑顔で降下してくる。いつもしかめ面をしていたのが嘘みたいで、橄欖が初めてシオンの前で笑ったときのことを彷彿とさせた。
「シオン君!」
「シオン!」
 追ってきていたキールとシャロンが現れる。その後には一子、真珠に肩を貸している瑪瑙と、開斗を背負った鈴の姿もある。
 黒塔からは橄欖とフィオーナが駆け出してくるのが見えた。後からセルネーゼも出てきた。傷を負っていて、足下がふらついているけれど、表情は笑顔だった。
 倒したんだ。ランナベールを、世界を災厄に包み込む破壊神を。神様も為し得なかったことを、皆の手で。
「……待って!」
 が、シオンはまだ冷静だった。勝利したその瞬間にこそ隙が生まれるという騎士の教えを、忘れていなかった。
【ぐ……!】
 あの攻撃を受けてなお、ルギアは死んでいなかった。身を捩った程度だったが、確かに動いたのをシオンは見逃さなかった。
【カラダ、が……五感が……わ、妾は……】
「ごめん、僕にはもう力が……誰かトドメを!」
【ファナス……! 妾を、また……見捨てると――】
 一閃。
 ルギアはそれ以上言葉を紡ぐことができなかった。
「残酷ですが」
 まったく、良いところを持っていくことにかけては彼女の右に出る者はいない。
 高空から振り下ろされた孔雀の刀が、ルギアの長い首を斬り飛ばしていた。
「首が千切れてはさすがの神も生きてはいられないでしょう」
「お姉ちゃん、さすが……」
「姉さん、また無茶を……って、シオンさま?」
「私の知らぬうちに孔雀と義姉弟の契りでも交わしたのかしら? この際、もう何も言わないけれど」
 さすがに橄欖やフィオーナに聞かれるのは恥ずかしいから、やっぱり皆の前では『孔雀さん』って呼ぼうかな。なんて思案したのも束の間、フィオーナが子供を扱うみたいにシオンの首の後ろを甘噛みして、体を起こしてくれた。
「お疲れさま、シオン……」
 向かい合ったフィオーナは涙ぐんでいた。
「無事で……生きていてくれて、ありがとう」
 なんて答えていいかわからなくて。
 俯くフィオーナを、無言で抱きしめた。
「ラブラブだねえ。ボクもあやかりたいな」
「鈴、お前というやつは……っ」
「真珠兄、しばらく安静って言われてたでしょ?」
 鈴の発言を咎めようと飛び出しかけた真珠を瑪瑙が押さえた。あの雷を食らって生きているのも、鈴のおかげか。開斗も口は開かないが自らの肢で立って歩ける程度には無事と言えるみたいだ。
「シオンを守って戦ってくださった貴方がたにはお礼をしなくてはなりませんね……騎士の皆さんにも」
「わ、私は……」
 キールはフィオーナの言葉を聞き、シオンとフィオーナの前に跪いた。シャロンもキールの隣で深く頭を垂れた。
「あまつさえ命令を無視し、貴女様の婚約者であるシオン様を危機に晒しました。騎士の称号を剥奪されても、この場で処刑されても――」
「顔をお上げなさいな。キールさん……だったかしら。貴方には私がそのような残酷な王女に見えて?」
「……これは大変な御無礼を致しました」
「誰か止めたとしても、シオンは自分にその力があるなら、戦おうとするでしょう。彼のことは私が一番よく知っています。その彼を無理に連れ戻すのではなく全面的にサポートしてくださった貴方の判断は正しかったと思いますわ」
「……勿体なきお言葉です」
 シオンはこうしてフィオーナの隣に立っているのに、先輩騎士の二匹が跪いていると少し居心地が悪い。気分を紛らわそうと陽州の仲間に目を向けた。シオンの意図を汲んでくれたのか、鈴がこちらに近づいてきた。
「フィオーナ様……ですね。お初にお目にかかります。ボ……私は卯月鈴と申しまして」
「あら、貴女が鈴さんね。橄欖から聞いたわ。孔雀の命を救ってくれたばかりか、彼女の代わりを務めてくださると」
「ふ……不束者ではありますが何卒宜しくお願いいたします」
「何もそんなに緊張しなくていいのよ。自然体で構わないわ」
「鈴さんもフィオーナの前だと緊張とかするんだ……」
 意外すぎて、ちょっと吹き出してしまった。
「笑わないでよ紫苑! 寝込み襲っちゃうよ?」
「あら。器の大きい私でもそれは許さないわよ」
「あ、いや、これはですね、その……」
 これにはシオンだけでなく、陽州の仲間達皆が笑いの渦に包まれた。フィオーナの下で働くなら、鈴の暴走に心配することもなさそうだ。
「鈴を怖がらせるとは大したタマだな。こんな女だが、宜しく頼む。王女様」
「孔雀の扱いで慣れましたわ」
「ひどい仰有(おっしゃ)りようですねー。わたしは鈴姉さんほど節操なくはありませんよ」
 孔雀がルギアの側に座ったまま、ツッコミを入れてきた。さすがの孔雀も無茶が過ぎたか、疲れを隠せないみたいだ。
「キミは本っ当に医者泣かせなんだから……今度こそボクに任せて、ちゃんと休みなよ?」
「はい。戦いも終わりましたし、鈴姉さんならフィオーナさまともうまくやっていけそうですし……わたしもようやく安心して眠れます……」
 微笑みを浮かべる孔雀は、何故だか寂しげに見えた。いつもと変わらない笑顔なのに、儚い幻みたいで。
 嫌な予感がして、シオンは孔雀のところへ駆け寄った。フィオーナと橄欖がすぐに後に続いたところを見ると、シオン一匹(ひとり)の気のせいではない。
「お姉ちゃん」
「可愛い妹も、弟も持てて……わたしは幸せね」
「やめてください。皆さんの前でそんな……姉さん?」
 孔雀は目を閉じて、シオンにしなだれかかってきた。イタズラをする元気くらいは残っているのか。
「肌触りが良くて、あたたかくて、いい匂いで……弟にしておくのも惜しいわね……できることなら……」
「できることなら? 何をするつもりかしら、孔雀」
 フィオーナがシオンの隣へ来て、二匹で挟み込むように、孔雀の体を支えた。
「……いいえ。フィオーナさまのことを思うと……なんて、言い訳でしょうか。わたしには橄欖ちゃんみたいに、勇気がありませんから……」
「ね、姉さんっ! な、何を言うんですか!」
「いくら恋愛経験の乏しい私でもさすがに気づいているわ、橄欖」
「なっ……や、やはり……そう、でしたか……」
 橄欖は頬を赤らめて俯いてしまった。
「ふふ。フィオーナさまは本当にお人好しですね……怒らないのですか……?」
「シオンのことも、貴女たちのことも、絶対に私を裏切るような人間(ポケモン)ではないと……信頼しているからよ」
「ごめんねフィオーナ。橄欖から気持ちを打ち明けられたこと……ずっと黙ってて」
「シオンが謝ることではないわ。橄欖と私の双方を立てるためには、黙っているしかなかったのでしょう」
 フィオーナはシオンが思っていたよりもずっと、器量の大きいひとだったんだ。いつまで経っても、彼女には追いつけそうにない。
 誰よりも強くて、皆から憧れられて、僕を虜にしてやまない女性。
「わたしの目の前で……お熱いことで……」
 しばらくフィオーナと見つめ合っていたら、いつの間にか目を開けた孔雀に見られていた。
「私とシオンは婚約しているのよ? 悪い?」
「いいえ。わたしの人生を変えたお二方が……仲睦まじくて……何よりです……」
 孔雀の声が少しずつ、小さくなってゆく。
 全身から噴出していた青と緑の波導も消えていて。
「……ねえ、とりあえず家に帰らない? お姉ちゃんを休ませてあげなきゃ……」
「そうね。事後処理は他の兵に任せるようお願いしますわ、セルネーゼさん」
 セルネーゼは答えない。孔雀とシオンたちを囲む誰も、悲痛な顔をして動こうとしない。
 静寂を突っ切るように、歩み出た鈴が孔雀の前に屈み込んでその胸に手を当てた。
「……ごめん、紫苑。ボクにはもう……」
「鈴さん? 何言ってるの?」
 やめて。
 どうしてそんなことを言うの。意味がわからない。
 みんなもどうしてそんな顔をしているの。誰か。教えてよ。
「シオンくん」
 頬に触れた孔雀の左手は、妙にひんやりとしていた。
「フィオーナさま」
 同じように、右手をフィオーナの頬に当てて、孔雀は二匹を交互に見た。
「わたしの大好きなふたりに抱かれて……最愛の妹と、仲間に見守られて……こんな最期を迎えられるなんて、想像してもいませんでした……」
「お姉ちゃん! 冗談が過ぎるよ! いくら僕でも、本気で……怒……」
 怒ろうとしているのに。言葉にならなかった。
「どうか……お幸せに……」
 頬に当てられた孔雀の手が、糸が切れたみたいにすとんと落ちた。
 ――何だよそれ。
 大丈夫だって言ってたじゃないか。
 ついさっきまであんなに力強く、戦っていたのに。
「孔雀……」
「姉さん……? 姉さんっ!」
 フィオーナの声も、橄欖の声もどこか遠い。
 込み上げてくる嗚咽を、溢れる涙を止められない。
 冗談だよね?
 殺しても死なないようなひとだったのに。
 こんなのは質の悪い冗談だ。孔雀が死ぬなんてありえない。
 でも。
 追い討ちをかけるように、動かなくなった孔雀の体から、虹色に光る羽が二枚、宙に舞った。
 青みの強い羽は橄欖の胸に。緑がかった羽は――シオンのもとに。
「……やだよ、こんなの……!」
「姉さん……」
 橄欖は出会った頃のような、表情を失った人形みたいな顔で。
 その顔もすぐに見えなくなるくらいに視界はぐちゃぐちゃで。
「孔雀……今まで……私の我儘を聞いてくれて……ありがとう」
 フィオーナは自分も辛いはずなのに、シオンと橄欖を抱きしめて、包み込んでくれた。
 いつもの温かさが、安心させてくれるはずの彼女の匂いが、今はこんなにも身に痛い。
 涙が枯れるまで、橄欖とふたり孔雀の体にすがって、ただただ身を寄せ合っていることしか、シオンにはできなかった。

13 


 悲しみに包まれた戦場に降り立った者がいた。気配を察知して、顔を上げるとそこには。
「久し振り……だね。シオン、橄欖」
 玉葱みたいな形の頭に黒い縁取りの大きな目、二頭身の体にまるで飛べそうにもない小さな翅。薄緑色のそのポケモンは、時の番人、セレビィと呼ばれる精霊だ。神界での名は確か――
「シルル……」
 何をしに現れたのか。時を戻して、孔雀を助けてくれる? そんな期待をせずにはいられない心境だが、彼の役割はただ、時の乱れを正し世界の秩序を守ることだけだ。そんなに都合の良いことがあるはずもない。
「キミに宿っていたのがファナス……ホウオウの分裂した魂だったなんてね。あのときは気づかなかったよ」
「……いい迷惑だよ。神様の魂なんて……大切なものなんて守れやしない! お姉ちゃんも、セルアナも、クライも……母さんだって。何もかも失くしてばかりじゃない……」
「ボクもポケモンだから……心は痛むよ。何もしてあげられないのがもどかしい。ボクらが守るべきキミたちに、負の遺産を押し付けてしまった」
「それで、きみが代わりに謝りに来たっていうの? それとも神様の代わりにルギアを倒したお礼? そんなのどっちも要らないよ。失くしたものはもう、戻らないんだから」
「……ボクは過去未来を見通す時の精霊だ。ボクがここへ現れたのは、どうしてもキミに伝えなきゃって……破壊神を倒してくれたからこそ、厳しい現実を伝えなきゃって、思ったからだ」
 シルルはルギアの死骸を見て、一つため息をついた。
「神ってのはね。この物質界と霊界……その狭間にある神界で、魂だけで存在を維持できるんだ。ルギアにやられてしまった三神鳥も世界から永遠に消えてしまったわけじゃない。数年もすればまた元の力を取り戻して受肉てきるだろう」
 シルルの話は難しく、学のない者にはよくわからないかもしれない。瑪瑙や紗織などは首を傾げていたが、シオンやセーラリュート出身の騎士たち、それからフィオーナも、シルルがわざわざ伝えにきたことを、すぐに理解して、顔が青ざめた。
「つまり、それは……ルギアも?」
「三神鳥よりずっと強い力を持つ海の神……ボクの見る未来では……一年後に、彼女は更なる憎悪に燃えて復活するだろう。キミたちとこの国に復讐するために。三神鳥が健在ならまた封印することもできるかもしれない。でも、早くて四年……五年後の話だ。その間にキミたちの手で何度も撃退しなくちゃならない。そんなことは……不可能に近いと、ボクも理解しているけれどね」
 そんな馬鹿なことがあってたまるか。これだけの犠牲を出してようやく倒したっていうのに、たった一年、束の間の平和を勝ち取っただけだというのか。
「神様って三神鳥しかいないわけじゃないんでしょ? なんとかならないの?」
「……イザスタと同等の力を持つ天の神ファナスがいなくなってしまったことで、バランスが崩れたんだ。本当は皆それぞれの領域を守るので精一杯……三神鳥には大きな負担を強いていた。彼らだからこそできたことだ」
「僕たちにできたことが神様でも難しいって? 神様ってのはすぐに何でも諦めるんだね」
「手はないわけじゃない。だけど、これをキミに伝えてしまったら……」
 シルルは橄欖とフィオーナを気にする素振りを見せて、黙りこくってしまった。
 なるほど。そういうことか。
「天空の虹の神ホウオウ……ファナスが復活すれば、イザスタの魂も鎮められるってことだよね。方法は知ってるんでしょ? 教えてよ。嫌だって言っても、力ずくでも聞き出してやるから」
「……強引だね。ボクみたいな小さな精霊じゃ、イザスタを倒してしまうようなポケモンに勝てっこないよ」
 またひとつ大きなたため息をついてから、シルルは八卦の氏を受け継いだ当主たちと、シオンを見回した。
「ファナスの魂は九つに分裂して、キミたちに欠片が一つずつ宿っている。それがキミたちが受け継いできた“能力”の正体だ。行き場のなくなった魂は一番大きな欠片……シオンのところに戻ったみたいだけどね。キミたちに伝わる継承の儀式はおそらくファナスが仕組んだもの……簡単に途切れることのないよう、艮の血が途絶えるつい最近まで、千年の間、九つの魂は九つに分かれたまま維持()()()()てきた。九つが元の一つに戻ることのないようにね」
 精神分裂して自我を崩壊させ、消えてしまった天の神。世界の秩序を守ることを存在価値として義務付けられ、自由に生きることが許されない神という存在に対し、無責任だなんて糾弾する権利はシオンにはない。それでも、自分たちがその煽りを食って不幸の連鎖に巻き込まれるなんて納得できるはずがなかった。
「だから、魂を一つに戻せばファナスは復活する。シオン。魂の本体とも言える黄金の冠を宿しているのはキミだ。ここにいる羽の一枚一枚を全てキミが受け継いだならば、ファナスは復活するだろう」
 大方想像していた通りだった。
「復活したファナスがちゃんとイザスタを鎮める保証はあるの? イザスタみたいな破壊神だったら、それこそこの世の終わりだよ」
「信じてもらえるかどうかはキミ次第だけど、ボクの知るファナスは責任感の強い真面目な神だった。心を痛めたとき、イザスタのように破壊衝動に飲み込まれずに分裂してしまったのは、彼の心優しい性格故だとボクは思っている」
「わかった。神様も精霊も心を持ったポケモンなんだって、今の僕には理解できる。それに、ずっと母さんの中で、僕の中で一緒だった魂だから。信じるよ」
「待ってください」
 橄欖が声を上げたのも、想定していた通り。シルルが伝えるのを躊躇った理由も、シオンにはわかっていた。
「九つの魂をシオンさまに集める、と言いましたよね、シルルさん。シオンさまの持っていた大きな魂の力は例え一つでも、その身に宿す力が大きすぎて……彼の御母上である姫女苑は、命を落としました。姉さんも……」
「シオンの身は……どうなるのですか、時の精霊さん」
 フィオーナが神妙な面持ちで、核心を突いた。二つの欠片を乗せただけでも普通のポケモンなら命を落としてしまう。孔雀は万全の状態なら扱えたかもしれないが、ボロボロの体に鞭打って無茶をしたから、生き残れるはずもなかった。
 それが、九つ。それにシオンがもともと受け継いでいた魂は、他の八卦の当主たちの倍ほどの負担はかかっているはずだ。単純計算でも十倍の重みがある。それに耐えられるかどうか――なんて考えるだけ無駄かもしれない。何が起こるか見当もつかない。
「下界のポケモンの身を依代にして神を復活させるなんて、未だかつてなかったことだからね。ボクにもわからない。苦しむ間もなく即死するかもしれないし、ファナスの魂がすぐに彼の体から独立してしまえば、何も起こらないかもしれない」
「……そのようなこと、私が許すとお思いですか」
「フィオーナ。きみが許さなくても……僕は、孔雀さんの死を無駄にしたくない」
「莫迦!」
 頬に弾けるような痛みが走った。フィオーナにビンタされるなんて、初めてだ。
「孔雀は私と、シオン……貴方に、幸せになれと言い遺したのよ! それこそ貴方が死んでしまったら何もかも無駄じゃない!」
「わたしも同じ意見です! 何があってもこの先、シオンさまを死なせるわけにはいきません……!」 
 橄欖まで怒ってる。
 そりゃそうか。自分の命は自分が思っているよりもずっと重いんだって、ひしひしと感じる。
「ルギアが何度復活したって、その都度何度も何度も、永遠に撃退し続ければ良いのですわ! わたくしにも当然ながら……ヴァンジェスティに仕える騎士には皆その覚悟があるはずですわ」
 セルネーゼの言葉に、キールとシャロンが強く頷く。
 シオン一匹に犠牲になってほしくないという気持ちは皆共通している。
 そんなことはわかってる。
「ごめん、みんな。それでも僕には、未来永劫、今を生きるひとたちに、これから生まれてくるひとたちに……僕と同じ不幸を味わってほしくない。今この場でそれを止められる手段があるなら、僕ひとりだけが犠牲になって済むのなら、やらせてほしいんだ。そうじゃないと僕は、この先笑って生きていくことなんてできやしない」
 こればかりは皆の賛成を得ないと、自分一人で決められることではないのだ。納得してもらわなきゃ。
「フィオーナ。橄欖。僕のことを一番よく知っているきみたちだから、わかってくれるよね。ここで我が身可愛さに逃げたら、僕はこの先幸せでいられると思う?」
「それは……」
「……シオンさまがそんなお方だから……フィオーナさまも、わたしも……あなたに心惹かれたのです」
「橄欖っ! どうしてそう簡単に頷いてしまえるのよ?」
「いつもいつも……シオンさまの幸せを願って寄り添ってきましたから。今のシオンさまのお気持ちが、手に取るようにわかりますから。シオンさまの命を何よりも一番に考えるのは……わたしたちの自分勝手を押しつけているだけなのではありませんか?」
 フィオーナが、そしてセルネーゼ、陽州の仲間たち、誰も橄欖に言い返せる者はいなかった。
「それに、死ぬと決まったわけじゃないんだ。悪い未来を考えるより、望みの未来を皆で思い描こうよ? みんな僕には生きていてほしいんでしょ? 僕だって死にたくなんかないよ」
「もしもシオンさまがお亡くなりになられたら、わたしは後を追う所存ですが。わたしのたったひとつのわがままくらいは、許してくださいね?」
 皆を説得しておいて自分は後追いなんて、言ってることが孔雀よりもメチャクチャだ。思わず苦笑してしまった。
 橄欖の命もかかっているならなおさら、悲しみの連鎖はいらない。ここで止めてやる。
「……そうね。私が間違っていたわ、シオン。ごめんなさい」
 フィオーナは強く、強くシオンの体を抱き締めた。
 どんな夢だって自分の思い通りに叶えてきた彼女の力を分けてもらおう。
 シオンも彼女の体を強く抱き返した。 
「決まったみたいだね。それじゃ、魂の欠片を持つキミら一匹一匹……受け継いだ魂の力を放棄してシオンの下へ返すことを意思表示して」
「自らの意思で捨てられるのですか? 後継者のいないわたしはともかく、他の皆さんには故郷に継承の儀式を済ませた親族がいますが……」
「ファナスがどんな絡繰を仕組んだかはわからない。バラバラに願ったのでは不可能かもしれない。けれど、キミらの意思がひとつになれば、ね。元はひとつの魂だから、集まろうとするはずなんだ。孔雀の持っていた二つの欠片のうち、行き場のなくなった片方はシオンの中に入った。それに、ボクにも少しは魂を導く力があるから、サポートはするつもりだ」
「……わかりました。皆さん……真珠兄さん、鈴姉さん、紗織姉さん、一子姉さん、開斗兄さん、瑪瑙くん……準備は良いでしょうか」
「無論だ」
「意思を一つに、かぁ。皆で手でも繋ぐかい?」
「また鳥ポケモンの私に不便な提案を……」
「うだうだ言ってないで出しな、翼」
「……オレ、前足」
「紫苑……頼むから、死なないでよ……?」
 橄欖、真珠、鈴、紗織、一子、開斗、瑪瑙の七匹がシオンを囲んで、円形に手を繋いだ。
 いよいよだ。
「あ、そういえば」
 覚悟を決めて目を閉じたところで、瑪瑙が手を離してシルルを見上げた。
「ホウオウの魂の力を放棄するってことは……代々継承してきた能力、なくなっちゃうんだよね?」
「もちろん。その力は天空の神の魂がもたらしていたものだからね」
「今さら何を迷う。我々の魂の力は武士の心だ。神などに頼らずともな」
「真珠、格好いいこと言うねえ。キミは全っ然ボクの好みじゃないけど、ちょっと惚れちゃいそうになったよ」
「願い下げだ。俺には婚約者もいる」
 ここへ来て意外な事実を知ってしまった。
 鈴がシオンにウィンクして、にっこりと微笑んだ。
 安心させようと軽口を飛ばして場の空気を和ませてくれたのか。
 再び手を繋いだ七匹は、目を閉じて願った。
「天空の虹の神より受け継いだこの力」
「今ここに全ての契約を放棄し」
「その在るべきところへ」
「返還します……!」
 誰がどの言葉を口にしたのか、シオンには判別がつかなかった。
 虹色の羽が七枚、真上に浮かんでいるシルルのもとに集まり、吸い込まれるようにひらひらと舞い落ちてくる。
 キラキラと光って、この世のものとは思えないくらい。
 言葉には表せない。考えることもできない。
 こんなに綺麗な光景が、世界に存在するなんて――

14 


 景色の全てが揺らいでいる。平原も森も山も海も空も、地中や海底さえも。世界が、物質と物質がきちんと繋がっていない。
 そんな『空間』と読んで良いのかどうかわからない世界を、泳いでいた。あるいは、飛んでいた。
 体の感覚がない。
 僕は死んでしまって、あの世へ向かう途中なのかもしれない。
【……ついてきてしまったのか】
 頭の中に突然、声が響いた。落ち着いた響きの男性の声だ。
【其方の魂は完全には切り離されなかったようだな……】
 大きな翼で羽ばたいている。心に力が満ち溢れているが、体はどこにもない。そしてテレパシーではなく、頭に直接響く声は、声ではなく、脳内で自分自身が思考しているかのような感覚だ。
【千年前……私は神でありながら下界のポケモンを愛してしまった故、イザスタを狂わせ、我が最愛の女性は亡き者とされ……私もまた、我を保つことはできなかった】
 その記憶が、鮮明な映像として流れ込んでくる。悲しみも怒りも愛も、渦巻く感情も全て。
 僕は今、天空の虹の神ファナスと一体化しているのか。するとこの世界は。
【其方達には、私とイザスタの過ちの負の遺産を背負わせてしまった……責任はどうあっても私が取らなければならぬ。受肉したイザスタは肉体を殺され、霊体にもそれに相当するダメージを負っている。神界に還り彼女の領域で傷を癒していることだろう】
 神界。ここが神の住まう世界なのか。肉体を持たないまま、存在を保つための。
【私は今、イザスタのもとへ向かっている……其方には、見届けてもらおう。そして下界の者達へ語り継いでほしい。破壊神イザスタは、ファナスの手で鎮められたと】
 信用に値する神様だとシルルが言っていた。そうか。
 役目は果たせたんだ。僕がこのまま現世に戻れなかったとしても。
【案ずるな。こんな私でも、かつては天空を統べる神であった。其方をこのまま神界へ連れ去ったりはせぬ】
 そう。じゃあ、安心していいんだね。
 それまで世界のありとあらゆる景色が揺らいでいたが、ある一つの景色が広がり、他が吸収され、縮小し始めた。まるでシオン達の住む下界の移動とは違いすぎて、何が起こっているのかなんて理解できない。でも、ファナスの魂とリンクしているせいか、その光景を妙に懐かしくも感じる。
 いつの間にか全面に広がった景色は、暗い深海だった。水の中にいる感覚はない。景色だって、見えているというよりは夢を見ているかのようだ。
【何者じゃ……!】
 忘れ得ぬ禍々しいその声と気配。死闘の末に倒した破壊神が、黒ずんだ光の塊の姿で、そこに浮かんでいた。
【私を忘れたか? イザスタよ】
【その……声……まさか……】
【こうして相見えるのは千年ぶりか】
 ファナスに残る別れの記憶には、吐き気のする悲しみと、やり場のない怒りの他には何も残っていない。
 それでも、自分を世界に再び顕現させ、過ちを正す機会を与えてくれた紫苑と下界のポケモン達のため。本来守るべき者たちに押しつけてきた罪を償うため。
 心を押し殺して、ファナスはイザスタの魂に触れた。
【ファナス……】
【其方は海の女神であろう? 憎み復讐するのなら世界ではなく、私を憎め。私に地獄の苦しみを与えるがいい。其方が望むのなら、私は自由を奪われ虜囚となっても構わぬ。其方の求めし物はここにある】
 黒かったイザスタの魂が少し、明るい色に輝いた気がした。
【紫苑よ。この先はどんなことをしてでも、私がイザスタを止める。其方は在るべきところへ……】
 ファナスの思考が、遠ざかってゆく。景色も光、あるいは闇に包まれて、まるで夢から醒めるときのように。
 体の感覚が、五感が次第に戻ってくる。
【せめてもの情けに……これで私を赦せとは言わぬ……天空の虹の神……伝説の不死鳥と呼ばれた私の力で……其方の望みを一つだけ……】

         ◇

 虹色の羽の形をした魂の欠片がシオンの体に吸い込まれた瞬間、不思議と全く熱さを感じない炎の渦と共に、大きな鳥の形をした光が飛び出した。
 肉体こそ存在しなかったが、光の形はまさしく、金色の鶏冠と虹色の翼を持つホウオウそのものの姿だった。
 ホウオウの形をした光……その魂は、空に溶け入るように消えた。
 シオンが倒れたときには最悪の事態が脳裏を(よぎ)った。が、息をしているのを確認して、皆でほっとため息をついた。
「ショックで気を失っているだけだよ。じきに目が覚めるんじゃないかな」
 シルルの言葉で安心したが、フィオーナはそれでも彼の体を抱いて、祈るように目を閉じていた。
 どれくらい、そうしていただろう。
「ん……」
 シオンの耳が、尻尾が少し動いた。
「シオン!」
「フィ……オーナ……?」
「良かった……! 体は大丈夫? どこも変なところはない?」
「……うん。ばっちり、何ともないみたい……」
 これには橄欖も、思わず全身で飛び上がって喜んだ。
 失った物も大きいけれど。姉さんの代わりに生きて、シオンさまとフィオーナさまを幸せにするためにこれまで以上に精一杯尽くそう。
 悲しんでいないで前を向いて生きなさいって、姉さんならそう言いますよね。
「ファナスには会えたかい?」
 シルルが何かを見通したようにシオンに問いかけた。
「会えたよ。神界で……どんなことをしてでもイザスタを止めるって。きっとあの神様なら大丈夫。イザスタを鎮めてくれる。もしかしたら、破壊神じゃなくなるかもしれない。また海の女神に戻ったら……そのときは、僕たちにもたらした不幸の何倍も、何十倍も、未来の海のために尽くしてほしいかな」
「キミは底なしに前向きだね……あの二羽の神様よりは、間違いなく。それが何も生まないとわかっていても憎悪に心を染めてしまうのが、普通の人間(ポケモン)ってものだよ?」
「僕だけじゃないよ」
 シオンは橄欖と、そして陽州の同胞たちを見回した。
「ここにいるのはみんな、そんな前向きな心を持った尊敬すべきひとたちなんだ。たしかにイザスタとファナスのせいで、巻き込まれたけど……彼らが過ちを犯していなかったら、孔雀さんとも、橄欖とも、皆とも……仲間として出会えていなかった。僕が生まれていたかどうかさえわからない。だから、今ここにある現実を大切にしていこうって思うんだ。過ぎたことに心血を注いだって、何も変わらないじゃない?」
 シオンは立ち上がって、皆に微笑みかけた。
 最後に、胸の前で手を組んで寝かされている孔雀を見つめて、ごめんね、と呟きながら。
 そのとき、橄欖はシオンの体から虹色に光る粉が舞っているのに気づいた。
「シオンさま……それは……」
「え?」

         ◇

 妙に全身が粉っぽい気がしたのだが、どうも気のせいではなかったらしい。
 橄欖に言われて確かめると、全身の細かな体毛に、きらきらと虹色に光る灰のようなものがついていた。
「これって……」
 目覚める直前の記憶。
 ファナスの言葉が、遠くで聞こえていた。
 伝説の不死鳥でもあるホウオウ。その神様が、望みを一つだけ叶えてくれる、と。
「聖なる灰……まさか、ファナスはそれをキミに? 余程のことがなければ……不在の千年を抜きにしても、幾百年に一度しか使われなかったと聞くよ、不死鳥(フェニックス)としての力は」
「聖なる灰の伝承っていえば……死者を蘇らせるっていう、神話の……でも、そんなものが現実に存在するなんて」
 鈴は知っているらしい。陽州には神話として伝わっているのか。
 死者を……蘇らせる?
「あのねえ。ファナスは神話に出てくる天空の虹の神ホウオウそのひとなんだよ。キミの中の現実にはボクたち精霊や神は存在しないのかい?」
 冷静なシルルの答えを、悠長に聞いてなんていられなかった。
 フィオーナも橄欖もはね退けて、彼女のところへ。
 冷たくなった孔雀の体に覆いかぶさるように、体についた虹色の聖なる灰を振り巻いて、そのまま彼女をぎゅっと抱きしめた。
「お願い……! 帰ってきて、お姉ちゃん……!」
 その瞬間、孔雀の体が光に包まれた。
 光は彼女の体に染み入るように吸い込まれてゆく。
 ――とくん、と。
 胸に当てた耳に、確かに聞こえた。
 心臓の鼓動が。
 少しずつ、彼女の胸が、肩が、腕が、手が、脚が、温かさを取り戻して。
 血の気のなくなった蒼白の顔も、健康的な、暖色系の白さに変わってゆく。
 二度と開くことはないはずだったその瞼が、長い睫毛が動いて、その下から真紅の瞳が現れた。
「シオンくん……? どうして……まさかわたしの後を追って一緒に死んでしまった、とか……」
「そ――」
 いきなりの天然ボケに力が抜けて、そのまま彼女の体の上に崩れ落ちた。
「そんなことするわけないでしょ! 生きてる……ちゃんと生きてるよ、みんな……! お姉ちゃん……っ!」
「……どういうわけか、わたしは……まだ生きているみたいね……」
「姉さん……!」
 橄欖が駆けてきて、シオンの横から孔雀に飛びつくのがわかった。
「あらあら。甘えん坊な妹と弟なんだから……ふふ」
 孔雀の胸に顔を埋めて泣いているシオンには見えないけれど、周りからも嬉し泣きが聞こえて、いっそう涙が止まらなくなった。
 奇しくも孔雀を失ってしまった悲しみに打ちひしがれたときと同じ、橄欖と二匹身を寄せ合いながら。
「二匹で上に乗られちゃ重いわ、橄欖ちゃん、シオンくん……わたしはこれでも怪我人……ん?」
 体が急に持ち上げられた。橄欖は横に転げ落ちてしまったが、孔雀はしっかりと両足で立って、シオンをその胸に抱いていた。
「お姉ちゃん……?」
「体が……元に戻っています……まるで、悪い夢でも見ていたようです」
「それがちっぽけな欠片なんかじゃない、本物の神の力さ。傷が癒えるどころの話じゃない。これまでにないくらい健康で、全ての感覚が研ぎ澄まされて、絶好調だと思うよ」
「おや。以前お会いしたたまねぎの精霊さんではありませんか」
「だ、誰がたまねぎの精霊だよ! ボクは時渡りの精霊セレビィ、名前はシルル! ちゃんと覚えてよね? 全く、キミには調子を狂わされるよ。それじゃ、ボクはこれで……ああそうだシオン、最近キミの弟にも会ったよ。シオンに会ったら元気にしていると伝えてほしいってさ……」
 時渡りの精霊セレビィ。何かと縁のある精霊だから、また会うことがあるかもしれない。
 今度会ったときは、世界の危機だとか時空の乱れだとか、心の詰まるような話ばかりじゃなくて、笑ってお茶でも一緒できたらいいな。
 シルルはそれっきり、夜空に溶けるように姿を消した。
「それにしても、シオンくんは戦いの後でも温かくて良い匂いがするわね。せっかく命を拾ったんだから、二度と後悔することのないように今度こそ――」
「孔雀」
「姉さん」
 目を腫らしたままの二匹が、歩み寄ってくる。
「あいや、そうお怒りにならないでくださいまし、フィオーナさま……橄欖ちゃんも」
「とりあえず、さ……そろそろ下ろしてくれない?」
「孔雀の胸の感触に飽きた? 今度はボクが抱いてあげよっか?」
「鈴さん? いえ、鈴、と呼んでいいかしら。貴女たちの主人である私の目の前でシオンを弄ぶとはいい度胸をしているわね、二匹とも」
 セルアナやクライ、破壊された街、巻き込まれた人々を思うと、悲しみが全く残らなかったわけじゃない。
 でも今は、ただ喜び合おう。
 災厄からこの国を、世界を守ったことを。
 千年の軛から解き放たれたことを。

 また、いつもの日常に帰れることを。

15 


「ていうか、ボクもういらなくない? 孔雀の体が治ったんなら、代わりはもう必要ないよね」
「そう、ですね……鈴姉さんが使用人なんて、柄ではありませんし……でも能力がなくなってしまって、わたしはエスパーの力が弱いただのサーナイトになってしまいましたから。護衛としては心強いかと」
 翌朝。陽州の同胞たちはヴァンジェスティの屋敷に泊まり、孔雀は鈴とともに厨房で朝食の支度をしていた。
「サイコキネシスを他の誰よりも器用に扱える、ってことに代わりはないんだろう? 空を飛んだり、格闘の立ち回りには使えなくてもさ」
「そうですね……もう一度能力に頼らない戦い方を身につけないといけませんが」
 彼女の性格上使用人の柄ではないことは確かなのだが、茹でたジャガイモを手際よくマッシュしているところを見ると、調理要員としては橄欖や一子よりよほど役に立ちそうである。鈴はこう見えて、子供の頃から他の家事全般も得意だった。
「なら、付き合うよ。ボクも能力のお陰で少々のダメージなら気にせず戦えてたから、どうしても無茶な攻めが多くってさ。ちゃんと守りの技術も身につけなきゃって思ってたんだ」
「国には帰らないのですか?」
「昨晩話したんだけど、真珠と瑪瑙と開斗は帰るらしいよ。真珠には婚約者がいるし、瑪瑙と開斗も小さい弟や妹を残してるしね。ボクには従兄弟しかいないし、みんなもう大人だから心配ない。卯月家のことはその子たちに任せることにするよ。血の継承もなくなったんだから、ボクが当主である必要もない」
「はあ。それはそうかもしれませんが……帰りたい、とは思わないのですか」
「紫苑と離れたくないってのが本音かな」
「は?」
 焼いていたハッシュドポテトをひっくり返すのを危うく失敗するところだった。
「てっきり鈴姉さんのいつもの美少年好き……だと思っていたのですが。シオンさまを本気で……?」
「ただ可愛いだけの子ならどこにでもいるけどさ。だいたい、キミだってそうなんだろう? 橄欖みたいに勇気がなくて気持ちも伝えられなかったとかなんとか」
「や、やめてください……あ、あれは遺言のつもりで……ひ、卑怯ですっ、ひとの死に際の言葉を持ち出してくるのは!」
「あはは。孔雀、そういうところは昔と変わらないよね」
 変わらない、か。鈴と話しているとどうしても、昔の自分に戻ったような心地がしてしまう。コミュニケーション能力は上がったけれど、いつものように振る舞えない。本人の前で、憧れのそのひとを演じるなんてできっこない。
「そういえば……意外だったのは、紗織がねえ。ルギアのことが片付いたらすぐ国に帰るなんて言ってたくせに、どうもその話になると歯切れが悪くてさ。一晩じっくり考えるって……どういうことだろ?」
「紗織姉さんが?」
「紫苑と命を預け合っていたからねえ。戦いの前と後で随分と態度も変わっちゃって」
「まさか、紗織姉さんまで?」
「ボクの見立てでは、あれは惚れちゃってるね」
「な」
 今度こそ、手に持ったフライ返しを取り落としてしまった。
「紗織姉さんに限ってそんな……」
 フライ返しを拾って、水で流しながら、もう思考を放棄したくなっていた。
「吊り橋効果ってやつかな? 一時の熱ならいいんだけどねえ」
「とにかく、これ以上シオンさまの横取りを企む身内が増えるのは困ります……わたしだって、滅多にシオンさまと……」
「ん? それはどういうことだい、孔雀」
「あ、いえ」
 しまった。今のは失言だった。
 どうしてこう、鈴の前ではうまくいかないのだろう。緊張のせいか。
「それは聞いてなかったなあ。もう紫苑に手をつけてたなんてね……」
「ご、誤解です! シオンさまはそんな、不倫などする方ではありませんからっ」
「へえ。じゃあ、滅多に何? キミが一方的にやっちゃったってコト? どこまでやったんだい?」
 鈴は孔雀の肩を抱いて、心底楽しそうに耳打ちしてきた。普段全然女らしくしないくせに、こういうところは女のたちの悪さを全開にしてくる。
「言えませんっ……シオンさまの名誉にかけても……」
「キミの名誉じゃなくて? ほら、言いなよ。手でしてあげたとか? それとも口? 言わないとボクの想像で決めちゃうよ?」
 鈴は冗談のつもりかもしれないが、本当に口でしてしまったことがある、なんて答えたらさすがにひっくり返るだろう。フィオーナに絶対に知られるわけにはいかないのだ。口の軽そうな鈴なんかに知られてしまったら、いつフィオーナの耳に入るかわからない。
「ご、ご想像にお任せします……絶対、言いませんから!」
「初心な乙女じゃないんだからさあ。ケチケチしないで――おや?」
 鈴をどう諦めさせようかと苦労していたところに、思わぬ助っ人が登場した。
「……このような早朝から一体何のお話をしているのですか」
「橄欖ちゃん! そうなのよ、鈴姉さんがしつこくて……」
「ベーコンが真っ黒になっていますが」
「あちゃー。孔雀、ダメじゃないか目を離しちゃ」
「誰のせいですかっ」
「ボクには西洋料理のことはわからないからねえ」
「焼くだけのベーコンに西洋料理も何もないでしょうに……」
 真っ黒に焦がしてしまったベーコンの代わりに、冷蔵庫からブロックをもう一度取り出してスライスしていく。
 横では橄欖が黙々とお湯を沸かして、紅茶を淹れる準備を始めた。
「フィオーナさまはご起床されていますよ? 大きな声であのような話をされていては……もしフィオーナさまが気まぐれに隣の食堂にでも来られたら……」
「そっか。危なかったね孔雀。以後気をつけることにするよ」
 鈴がこのまま使用人として残ってしまったら。
 シオンにイタズラさえできなくなるかもしれない。橄欖の目を盗むだけでも一苦労なのに。もう一つ勘が鋭くて厄介なのが増えるなんて。
「姉さん。何か不埒なことを考えていませんか?」
 前言撤回。橄欖の方が鋭い。というか、感情を受信できるのだから当たり前だ。今までのことだって、橄欖にはバレてることも多い。黙っていてくれているだけだ。
「ところで」
 孔雀のことは諦めたのか、鈴は今度は茶葉をポットに移している橄欖の耳元で囁いた。
「橄欖は紫苑とどこまで?」
 ――直後に橄欖の催眠術で気絶させられてしまったが。

16 


 あれから一週間。
 国軍の兵士たちは皆、街の復興支援活動に精を出していた。
 陽州の仲間達はランナベール政府からの恩賞を受け取ったあと、鈴、それから紗織を除いて、陽州への帰路に着いた。
「一週間でこんなに片付くものなんだね……ポケモンの力ってすごい」
「あんたも昨日まで一緒にやってたんでしょ?」
 驚いたことに、紗織はランナベールに残り、いつの間にやらヴァンジェスティの翼として、フィオーナに雇われることになった。ルギアと戦うこともシオンに協力することも、あれだけ嫌っていたのに。
 フィオーナとの間でどんな会話がされたのかは非常に気になるところだが、フィオーナは教えてくれないし、紗織本人になんて怖くて訊けたものではない。
「当然。僕もこの国の一兵士だからね」
「王子様のあんたがねえ。本当、変わった国だわ」
 リカルディに呼ばれたシオンは、紗織の背に乗ってランナベール中央の黒塔へ向かっていた。
「誰と会っても英雄扱いされて、あまり仕事に集中できなかったけどね……」
「英雄扱いって……実際英雄そのものでしょうが」
「僕が英雄なら紗織さんだってそうだよ。あのルギアと空の戦いで渡り合えたのは紗織さんのおかげなんだからさ……わわっ」
 一瞬、がくりと高度が下がった。紗織が首を俯けてしまって、顔が見えなくなる。
「……あんたもよく私なんかに命を預ける気になったわね」
「紗織さんが本当はいいひとだって、みんなちゃんと知ってるみたいだよ?」
「や、やめなさいよ! おだてても何も出ないわよ!」
「ちょ、わ、ぁあっ」
 紗織の心の乱れをそのまま表すかのように、飛行の軌道がガタガタになって、高度が上がったり下がったり右に傾いたり左に傾いたり、危うく落ちそうになった。
「ちょっと! しっかりしてよ!」
「うるさいわね! あんたが変なこと言うからじゃないの! ああもう、あんたと話してると調子狂うわ!」
「わかったよ……落とされないように、しっかりしがみついておくね」
「……そ、そうよ。最初からそうしなさいよ!」
 首に前足を回して、後足もしっかり、ぎゅっと。
 言われた通りにしたのに何故かまた墜落しそうになって。ルギアと戦ったときよりも冷や冷やする。
 でも、空の旅はやっぱりいいものだ。孔雀が飛べなくなってしまったのは残念だけど、鳥ポケモンの背の上は風が心地良いし、景色もよく見える。
「いい体してるわね……」
 ぼそりと紗織が小声で呟いた一言は、危険な香りがした。一体どういう意味なのか――
 うん、聞かなかったことにしておこう。

         ◇

 仮設喫茶『ウェルトジェレンク』。粉々になってしまった店の跡にテントの屋根を張って、ハリーとルビーの援助を得て必要最低限のものを揃え、カフェを開店することにした。
 復興支援の仕事の合間に兵士が、もともとここに住んでいた人々が、エリオット達を応援してくれる常連たちが、次々と訪れた。家を失った住民にはタダで熱いコーヒーを配ったりもした。
「意外と店がぶっ潰れてもやっていけるもんだな」
「こんな状態でも来てくれるお客さんには感謝しなきゃね」
 店はエリオットとイレーネの二匹で回していて、元マスターは新設する店の設計や何やらを考えるとかで、建築士に相談したりランナベール中のカフェを回ってみたり、以前の彼女の姿勢が嘘のように精力的に活動しているらしい。
「あぁぁぁ、マジでシオンと話せねえよォ……どいつもこいつも英雄だ英雄だってたかりやがって」
「事実、ルギアを倒した英雄なのですから仕方ないでしょう、グヴィード君」
「それを言っちゃァ隊長だって英雄でしょう?」
「ワタシも一緒に戦ったヨ!」
「ヒャ。キャシーさんももちろん尊敬してますよオレぁ」
 仕事の休憩中に店に来ているのは、以前にも何度か来ていた銀縁眼鏡のクチート、キールと、見るからに頭のネジが飛んでそうなクロバットの女、それからしきりにシオンの名を口にする……曰く学生時代の友人だったというドグロッグの三匹だ。
「英雄は一匹で良いのです。シオン君はこの国の王子なのですからなおさら、体面も良いではないですか。それに私は恩賞も頂きましたし」
「ワタシもそのあとたいちょーにお酒奢ってもらったヨ!」
「いいなァ……オレも活躍して肖りたいもんですぜ……アヒャヒャ」
 ドクロッグは常に不気味な薄笑いを浮かべていて、本当にこんなのがシオンの友人だったとは信じがたいが。
「やる気のあるのは結構ですが、手柄を求めるあまり突っ走ることのないように気をつけなさい。新兵は目の前の手柄に飛び付きたがりますが、我々十三番隊は隠密部隊だということを忘れないように」
「へーい……」
 こうして兵士たちを、人々を見ていると、はじめは仕方なく暮らし始めたこの国にも愛着が湧いてくる。規律や常識にとらわれない風土の中で生まれた秩序というのは、居心地が良いものだ。
 願わくばこのまま、どこかで崩れることのないようにと思う。
「エリオット、何だか楽しそうね」
「この国もいいもんだなって思ってさ」
「こんなことがあってもまだ、コーネリアスに帰りたいとは思わないものね」
「オレには姉貴と違って彼女(コレ)もいるしな」
「……彼女が今回助けてくれたことには感謝するわよ。でも、まだ認めたわけじゃないからね」
「オレだって、シオンの奴に姉貴があれこれ教えたなんて、認めちゃいねーからな。お相子にしとこうぜ?」
「奴、ってあなた、シオン君はランナベールの王子様で英雄なのよ? 言葉遣いに気をつけないとそのうち騎士さん達に怒られるわよ」
「この国じゃ誰も怒らねーだろ。あいつとは婚約が発表されるずっと前から付き合いがあるんだ。今更変えられるかよ」
 シオンの旧友らしい兵士も話していたが、正式な婚約発表で名実ともに王子様になり、ルギアを撃退した英雄ときて、遠くに行ってしまったように感じる。
 それでもまた、店を再建したら、以前のようにふらりと来てくれるだろう。昔と同じように話してくれるだろう。
 シオンはそういう奴だ。客と店員の関係だけど、素直になれない自分の性格に嫌気が差すこともあるけど、オレだって本当は同性の年の近い友人としてシオンと仲良くしたいって、思ってる。
「エリオット、私よりシオン君のほうが好きだよね」
「……どっちも好きだよ。いちいち言わせんな」
 客に聞こえないように小声で、でも素直になる練習をしようと。正直に気持ちを伝えたら、イレーネに抱き着かれて、結局人目を引いてしまって。
 当面の目標は、姉貴の相手を早く見つけることになりそうだ。

17 


 久しぶりに吸う街の空気は、随分と変わったように感じる。それは何も、しばらく地下牢に捕えられていたことだけが原因ではない、と思う。
 何でも王女フィオーナが結婚するとか破壊神が討伐されたとかで、恩赦ということでルードは釈放された。処遇を決めかねていたところにこれ幸いと理由ができたというのが連中の本音らしい。元々、正式に保安隊に捕縛されたわけでもなく、一部の騎士の独断だったから、保安庁の方で罰するわけにもいかなかったのだという。
 どこまでも勝手な話だが、ハンター業に付き纏うリスクとして受け入れるしかない。命があるだけでもましな方だ。
 おそらくカルミャプラムには、グラティスアレンザは逃亡者として手配されているだろう。名前を変えて別の仕事を探すか、皆のように国を出るか。
 今さら真っ当な職を見つけるのも苦労しそうだが――
「ん?」
 借りていたアパートのある港町に戻ってきたところで、覚えのある顔を見かけた。
「それと、あと……そのチョコレートを一つ」
 輸入品を扱う店で、アブソルの女が一匹、買い物をしていた。忘れもしない。あの日ルード達を襲撃した騎士の一匹だ。
 ここで会ったが百年目だ。街の空気がどうも浮ついているというか、昼間から喧嘩を吹っかけられるような雰囲気ではないが、ルードには関係ない。
「オイてめェ――」
「まあ待ちぃな」
「ぁん?」
 飛び出そうとしたところで、後ろから爪で肩をつついてきた奴がいた。
「ジブン、あのときのハンターやろ? 釈放されたって聞いたけど、いきなりまた捕まるようなことしなや」
 襲撃現場に現れて、あのアブソルやクチートの騎士と対立していたマニューラ。ついでにカルミャプラムのボスとも面識があり、キアラの頼っていた情報屋でもある男。
「うるせェな。俺を助けた気になってんのか知らねェが、てめェも気に食わねェんだよ俺は。ぶっ殺すぞ」
「おお、怖いやっちゃのう。俺はジブン助けたつもりやないけど、これから助けたろとは思ってんねんで? 仕事の紹介もできるし、ローレルの行方も大方知っとるし」
「……俺がてめェに頼るとでも」
「知りたぁないんか? ローレルのことも。ジブンのおったギルドがどうなったかも」
 この野郎。気に食わねェが、話の上手い奴だ。はね退けてもいいが、こいつの持っている情報はどれも役に立ちそうだし。
 今は利用してやってもいいか。
 クソ騎士共をぶっ飛ばすのは獄中生活で鈍った体を鍛え直してからだ。今の自分が騎士に挑めば返り討ちにされることくらいはわかっている。
「ちッ……話くらいは聞いてやるよ」
 どこか澄んだ街の空気に影響されたか。そんな気まぐれを起こす程度には、ルードの心は穏やかだった。
 強い奴と戦えればそれでいい。いつか戦って死ぬまで、生き方を変えるつもりはない。だからローレル、キアラ、ロスティリー、メント、セキイ。俺はまだこの国で生きていくことにする。
 お前らとの仲間ごっこは楽しかったぜ。
 でも俺は一匹、守ることも守られることもない、自分のためだけの純粋な戦いが好きだ。
 いつかお前らに再会することがあったら――いや、会わなくても俺の名がお前らの耳に届くほどに名を轟かせてやる。最強のルカリオとして。
 この国には俺より強い奴がごろごろしている。片端から勝負を挑んで、全員ぶっ倒して、俺より強い奴がいなくなったら遊歴の旅に出る。グラティスアレンザに入る前の、俺の夢だ。
「立ち話もなんや、俺の店来るか?」
 正体は騎士のくせに、裏で情報屋を営んでいるマニューラ。件の反乱ではあのシェードロ率いるシャドウグラフの追撃を一匹で凌いだという。
 ――まずはお前を倒してやる。

18 


「シオン。お前を呼んだのは他でもない。異動命令だ。お前には北凰騎士団から黒塔本部に移り、私の直属の臣下として働いてもらう」
 漆黒の玉座の間で、リカルディに告げられた。
 フィオーナと結婚する以上はいつかこうなるとは思っていたけれど。
「いずれ全騎士団の総司令官として我が軍を預けたいと考えている。セーラリュートで学び、現場での実戦経験も積み、此度は見事に国を脅威から守り抜いた。まだ若いお前だが、誰も文句は言うまい」
 事実上の昇格だが、先輩騎士たちや団長も飛び越えて、そんなところまで話が及ぶとは流石に予想していなくて、素直には喜べなかった。
「僕にはもったいないお言葉です……本当に、僕に務まるでしょうか」
「それはこれからのお前次第だ、シオン。実戦経験は十分だが、これからは政を、国を動かす仕事というものを学び、経験を積まねばならん。戦いが強いだけでは指揮はできぬからな」
「……心得ています。義父上のご期待に添えるよう、精進させていただきます」
「うむ。良い返事だ。では、そうだな。新人教育係として、セルネーゼ。しばらくは、シオンのことはお前に任せよう」
「わ、わたくしがですか?」
 横に立っているセルネーゼの名前が出たときには、シオンも驚いた。リカルディの専属護衛である彼女が、教育係だなんて。
「なにぶん人手不足なのでな。何事かが起こらぬ限り、一番暇を持て余しているのはお前だろう」
「な……お言葉ですが、わたくしは常に貴方様の身の安全を第一に考えて気を配っております! 万一黒塔内に謀反を企む輩が潜んでいたらどうなさるおつもりですか」
「もちろん護衛としての仕事はしてもらうが、信頼する臣下に殺されるようなことがあれば、それは私がそこまでの器だったというだけの話だ。四六時中私についている必要はあるまい」
「ほっほ。儂もおりますしな」
 後ろから声がしたと思ったら、いつの間にかハイアットが背後に立っていた。
 空気の流れを読めるはずの僕が、全く気づかないなんて。
「しかし……」
 セルネーゼはまだ躊躇しているようで、シオンの顔をちらちらと伺っている。
「セルネーゼ殿も素直ではありませんな。学生時代に好いていたシオン様と仕事ができるのですから、喜んでお受けすればよろしいのでは」
「なっ……だ、誰が、シオンさんを、す……好いていたなどと! わたくしはこの子には委員長の立場を横取りされて、怒り心頭でしたのよ! わたくしとシオンさんの学生時代を何も知らない貴方が勝手に――」
「セルネーゼ。声が大きいぞ」
「はっ……!? も、申し訳ありません、リカルディ様っ!」
 ハイアットが横槍を入れたせいで、話がおかしなことになってきた。
 セルネーゼがシオンのことを好きだなんて。孔雀や橄欖も言っていたが、やっぱりそうなのだろうか。
「とにかく、これは命令だ。しっかりと頼む。だが、私情は挟まぬようにな?」
 リカルディの一言にはフィオーナと同じ威圧感があった。
 でも、彼女の気持ちがどうあれ、またセルネーゼに仕事を教えてもらえるのは、シオンにとっては純粋に嬉しく思えた。
「よろしくお願いします、セルネーゼさん」
「……わたくしは厳しいですわよ」
「知ってます」
「相変わらず生意気な子なのだから……ふふ」
 つい頬が緩んでしまった、そんな笑顔を見せてくれたことを、セルネーゼの正直な気持ちとして受け取っておくことにしよう。

19 


 橄欖と孔雀は確実に、そしておそらくセルネーゼまでもがシオンに心惹かれていることは怖くもあるが、嬉しくも思えるようになってきた。
 誰の目にもシオンが魅力的に映っている、その裏返しなのだから。そんな相手を射止めたことを誇らしく思えるから。
「どうしたの、そんなじろじろ見て。らしくない」
「三年前を思い出していたのよ」
 セーラリュート学園祭。シオンと出会ったこの場所で、今度は二匹並んで歩く。
「懐かしいですねー。あの頃の橄欖ちゃんってば無口で暗くて」
「昔の話は止してください……そういう姉さんはちっとも変わりませんね」
 少し賑やかになった護衛を引き連れて。
「わたしも変わったと思うわよ? ね、シオンくん」
「思い出すと今でも怖いよ……お姉ちゃんのあの目、忘れられないんだから」
「孔雀は紫苑を殺そうとしていたんだってねえ。おお怖い怖い」
 いつの間にやらフィオーナ達から離れて模擬店で買い物をしていたらしい鈴が、袋詰めのクッキーを前足に下げて小走りで合流した。
「鈴姉さんも同じ立場だったではありませんか……」
「ボクが最初に紫苑と会ってたら、絶対にそんなことしないよ。ああ、もしそうなってたら今頃は……」
「諦めなさいな。運命が選んだのは私なのだから」
 鈴は孔雀と似ているようで、少し違う。最初は孔雀より厄介なポケモンを雇ってしまったものだと思ったが、露骨な分、鈴の方が扱いやすい。
「はー。選ばれた者の余裕ですかあ。あーあ、ボクももっと早く国を出ていればなあ」
「鈴さんと先に出会ってたとしても、僕はフィオーナを選んでたと思うよ?」
 シオンのそんな一言に、胸の奥がほんのりと温かくなる。巡り会えた奇跡と、数々の苦難を乗り越えて一緒にいられる嬉しさを噛み締めながら、それでも周りを歩く学生達のカップルを眺めていると、二匹きりで自由に外を歩けることが羨ましくも思う。
「やっぱり、ボクじゃフィオーナ様には敵わないなぁ」
「私と張り合うことがそもそもの間違いなのよ。貴女には貴女の魅力があるのだから、()()シオンではなくもっと他に目を向けたらどうなの」
 孔雀も相当な美男子好きだと見えるが、あれで実はシオンを本気で想っていたというのだからわからないものだ。鈴はシオンの存在を理由にランナベールに残ったようだが、そこまで執着しているわけではない。まだ付き合いの浅い今のうちに間違いは正さねばならない。
 シオンは私のものなのだから。出会ったあの時から。目が合った瞬間から。
「ねえ聞いた? 一年一組のメイドカフェ」
「あのライズ様が女装してるって……」
「ほんと? それは絶対見に行かなきゃ!」
 すれ違った三匹組の女子生徒の会話で、劇のヒロイン役を張っていたシオンの姿を思い出した。一目見て釘付けになった、初めての恋を。
「孔雀、聞いたかい? 女装の美少年が見られるカフェがあるって」
「それはあまりに拡大解釈がすぎるのではありませんか?」
 なんて甘い気持ちを反芻するように振り返っていたのに、この従者達ときたら。
「いやいや。女子生徒が噂にするくらいだから、きっと綺麗な子なんじゃないかな? ねえ紫苑。キミもそうだったって聞いたよ?」
「あはは……僕はどっちかっていうとマスコットみたいな扱いを受けてたけどね……」
「女装少年はさておき、本物のメイドといたしましてはそのメイドカフェとやら、気になりますね」
 この手の話に乗るのは鈴や孔雀だけかと思ったら、橄欖が珍しく興味を示した。
「そんなこと言って、キミも噂の美少年が目当てなんじゃないのかい」
「わ、わたしはシオンさま一筋ですから!」
「橄欖。私の前で言い張るなんて、随分と度胸があるわね?」
「あ……いえ、これは、その」
 シオンと橄欖をこのままにしておいて本当に大丈夫なのか、不安はある。でも、そんな橄欖だからこそシオンを任せておけるところもあって。
「フィオーナ様。紫苑が好きなのは貴女なんですから、堂々と構えていた方がいいとボクは思いますよ? あまり嫉妬しているとかえって紫苑の心が動いてしまうかもしれませんよ」
「新顔の貴女に何がわかると言うの。私だって王女である以前に一匹(ひとり)の女なのよ?」
「ボクはこれでも経験は豊富ですからねえ。ボクも一匹の女、人生の先輩としてのアドバイスですよ」
 鈴の言うことは腹立たしいが事実だ。思えば成就してから先の恋愛相談などできる相手はこれまでいなかった。孔雀はあれで奥手だったり、いざ真剣な話になるとはぐらかされるところを考えると実はまともな恋愛経験はないのかもしれない。
「そういう話はもうやめない? 僕、すごく複雑な気持ちなんだけど……」
 本人を目の前にしていなければ、もう少し込み入った話を聞きたいところだったが。
「ごめんなさい。でも私が貴方を信頼しているってことだけは覚えておいてほしいの」
「わかってるよ。ほら、そのメイドカフェに行ってみようよ? 市民の文化に触れるのが目的なんでしょ?」
 シオンが振り向いてフィオーナを急かす。そんな姿は学生たちと同じ、普通のカップルに見えたりするだろうか。
 いいことを思いついた。成功するかどうかはわからないけれど、今訪れた平和のひとときに、少しのわがままくらいは許してほしい。
 シオンに小走りで追いついて、そっと耳打ちする。
 護衛たちに怪しまれていなければいいが。

         ◇

 廊下を歩きながら教室や生徒を見回しているシオンは、懐かしそうに目を細めていて。聞けば苦い思い出の残るこの学園には、卒業以来近づくこともなかったのだという。
「ここみたいね」
 リボンで可愛らしくあしらったピンク色の看板に、銀色に煌めくメイドカフェの文字。教室の前には長蛇の列ができていて、男子生徒に人気なのかと思えばかなりの数の女子生徒も含まれていた。
「最後尾はこちらに……あっ」
 看板を持ったヒヤッキーの女子生徒が、フィオーナたちを一目見て息を呑んだ。
「女の子みたいに綺麗なエーフィ……と、王女様みたいなエネコロロ! もしかして、伝説の」
 王女様みたいな、ではなく王女そのものではあるのだが。写真や映像メディアの普及していないランナベールでは、顔を知られてはいないはずだ。が、三年前に訪れたときも、学生達の反応はフィオーナを一市民としては見てくれなかった。やはり何かを察してしまうものなのか。
「伝説?」
「三代前の風紀委員長、シオン様ですよね?」
 いや。そもそもシオンは三年前まで学園に在籍していて、風紀委員長だったのだ。シオンの卒業後に入学した生徒はともかく、半数程度の生徒はシオンの顔を知っているのではないか。
「あー……うん。そうだけど」
「キャー! やっぱりそうなんですね! まさか学園祭に来てくださるなんて!」
 ヒヤッキーは看板を放り投げ、跳び上がって全身で喜びを表現した。なんとも元気な娘だが、これだけ大騒ぎされると厄介だ。
「シオン様ですって?」
「隣のエネコロロの女のひと、もしかしてダンスパーティでシオン様と踊った……」
「実は本物の王女フィオーナ様だった、って噂もあるんだぜ。確か王女様ってエネコロロだったろ?」
「王女様がこんなところに来るわけないじゃん」
「こんなお国柄だしわかんないよ? 意外と自由なひとなのかも……」
 並んでいた生徒たちの注目の的になり、あれやこれやと憶測を立てられはじめた。というか、ほとんど図星だったりするのだから、状況としてはあまりよろしくない。
「外が騒がしいみたいだけどどうしたの?」
 そこへ現れた救世主は、ニンフィアの女の子……ではなく男の子の声だった。中性的な容姿と、同年代の少年少女たちとは一線を画した、どこか大人っぽい瞳が、まだ少年だった頃のシオンに重なった。リボンのような触角と、それに合わせた四肢のフリル、頭に乗せたヘッドドレスがよく似合っていて、声を出さなければどこからどう見ても完璧なメイドの少女だった。
「わお。キミが噂の……!」
 彼が場を鎮めてくれるかと思ったのに、莫迦が一匹空気を読まずに飛び出した。
「鈴姉さんっ」
 橄欖が止める間もなく、ニンフィアへと急接近する鈴――の行く手を阻む者が現れるとは思いもしなかったが。
「お触りは禁止。大人なんだからちゃんとルールは読んで?」
 ニンフィアの前に立ちはだかったコジョンドが、鋭い眼差しを鈴に向けた。さすがの鈴も十近く年下の学生に注意されては引き下がるしかない。
「わかったよ……怖い彼女さんだねえ」
「わ、わたしとライズはそんな関係じゃ……」
 反省の色も見せずに冷やかしにかかるあたりが鈴らしい。
「ロッコってばクラス違うのにいつまでここにいるの?」
「わたしはライズをこういう不貞の輩から守るために……」
「それは私達に任せてくれればいいの!」
 なかなかに複雑な事情が取り巻いていそうで、ニンフィアのライズはそんな二匹のやり取りを見ながら苦笑いしている。そこへ親近感でも抱いたのか、シオンが話しかけた。
「ライズくん……でいいかな。なんだかきみ、すごく僕と似てる気がする」
「シオンさんにそんな風に言ってもらえるなんて光栄です……でも、学園の伝説に残るあなたと比べたら、僕なんて」
「またまた。僕よりもずっと女の子に人気があるみたいじゃない? 品行方正、成績優秀、容姿端麗、絵に描いたような優等生だよね。でも、きっと大きな悩みを抱えてる。だからみんな、きみに不思議な魅力を感じてるんだと思う」
 シオンが珍しく、一目で相手を見抜いたようなことを言う。気まぐれを起こしたか、余程シンクロする部分があったのか。
「でも、今を精一杯楽しむことも忘れちゃダメだよ。僕は当時のクラスメイトのおかげで気づくことができた。今の幸せに繋げることができた。だから、そんな斜に構えていないでさ。もっと素直に泣いて笑って、青春を謳歌しなよ?」
「……不思議な方ですね。初対面なのにまるで僕のことを昔から知っているみたいに」
「当たってた? 昔の自分を見てるみたいだったから、つい勝手なこと言っちゃったけど」
「僕も……おこがましいかもしれませんが、未来の自分をあなたに重ねて……僕もあなたのようになりたいと、思ってしまいました」
「ふふ。僕もまだまだこれから成長しなくちゃいけないんだけどね。こちらこそ、きみみたいな子に目標にしてもらえるなんて光栄だな」
 シオンとライズ。フィオーナの目から見ても、二匹はよく似ている。出会った順番が違えば、もしかすると――いや。シオンは例え誰とどんな順番で出会ったとしてもフィオーナを選ぶと言ってくれたではないか。
「シオン」
「うん」
 何はともあれ、騒ぎに巻き込まれて皆がライズ達に注目している今がチャンスだ。
 フィオーナはシオンと二匹、身を低くして飛び出した。
「あっ、シオンさま! フィ――こほん、お待ちください!」
 取り囲むポケモンたちをかき分け、足下を抜けて、そのまま駆け出した。
 橄欖が危うくフィオーナの名を口に出しそうになり、そこをまた学生達に問いつめられているようだ。
「わたしの足では……鈴姉さん!」
 もはや飛行することができなくなった孔雀では追いつくことはできない。
「はあ……こんなところにまだボクの知らない美少年がいたんだねえ……」
 ライズに心奪われている鈴が正気に戻った頃にはもう階段を駆け下りて、三匹は完全にフィオーナたちを見失った。
「学園の中なら任せて! 見つかりにくい場所、たくさん知ってるから!」
 シオンについて走っているだけで、こんなにも心が踊る。一緒に踊ったあの日にも勝る胸のときめきを感じている。
「エスコートは任せたわよ! 貴方はただ一匹(ひとり)の私の王子様なのだから!」

 ずっとずっと、この気持ちを忘れずにいたい。
 振り返る過去よりも、ここにある確かな現実を噛み締めて。
 無限に広がる海のように、途切れない空のように。
 貴方がくれた眼差しを、声を、温もりを、全てを抱いて飛び立とう。

 眩しいほどに降り注ぐ光を受け止めて、鮮やかな未来へと。


 -Fin-



あとがき 


数年間を費やしてようやくの完結であります(・x・)

もしも初代ポケモン小説Wikiからのお付き合いの方がいらっしゃいましたら、本当に長い間ありがとうございました。
最近になってこのWikiを知った方も、最後まで読んでくださってありがとうございます。

これからは魔女先生は恋のキューピッドシリーズの続編や短編を気が向いたときに書いてゆくつもりです。
相変わらず亀のような遅筆ではありますが。。。

本編は完結しましたが、またわたしが作品を投稿したときは読んでいただけるととても嬉しく思います!


コメント欄 

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • ↑このコメントを書いた者です。孔雀のご冥福をお祈り申し上げますと書きましたが、これは、間違いです。正しくは、孔雀の死をお悔やみ申し上げますです。間違いを訂正し謝罪します。大変失礼しました。
    ―― 2015-08-24 (月) 22:22:50
  • 孔雀さんが亡くなってしまうのが、悪い意味で意外でした。どんなことがあっても最終的にはケロッとして生き残るものだと思っていましたので。シオン君には、この一件が終わったら、夜の営みに励んで、幸せな家庭を築いてほしいですが、本人にとっては、何というか、心に一生の足枷となって残る出来事になってしまいましたね。
    物語も終わりが近づいていますね、完成まで執筆を頑張ってくださいまし。長文失礼いたしました。
    ――呂蒙 2015-08-25 (火) 15:58:29
  • >名無しさん
    >呂蒙さん
    レス返しが遅くなってしまってごめんなさい。
    というのも、こういう理由があったのです←
    やっぱり最終的には。。。というみなさまのご想像の通りなのでした(*´∀`)
    ――三月兎 2015-08-30 (日) 13:00:59
  • ついに、終わったのか……
    お疲れさまでした。ここまで日は浅いですがずっと楽しみに、また、楽しませていただきました。
    続編や新たに書かれる作品をこれからも楽しみにさせていただきます。
    ローレル君はどうしてるんだろう……
    ―― 2015-09-17 (木) 00:24:55
  • 旧BOOST時代から読ませてもらってます!もう10年ほど前のことでしょうか?早いものです
    てわけで、10年間楽しませて頂いたわけで、本当にお疲れさまでした&ありがとうございました!
    シオンと橄欖のえっちいシーンを待ち続けて結局来なかったのだけが心残りです(小声)
    ―― 2015-09-17 (木) 23:16:44
  • とうとう完結!!
    はぁ...この素晴らしい作品がもう終わってしまうとは...
    最後の最後まで、一字一句逃さず読ませていただきました!!
    素晴らしい作品を、ありがとうございます!!
    ――通りすがりの傍観者 ? 2015-09-17 (木) 23:55:33
  • >上の名無しさん
    シルルが少しだけ触れていますが、ローレルはシルルの依代となっているあの樹がある村にたどり着いて静かに暮らしています。
    ローレルとキアラが村にたどりつくシーンは書いたのですが、入れるところがなくて。。。
    でも、公開できたらいいなと思っています!

    >下の名無しさん
    あの頃は高校生だったわたしももう(ry
    本当に長い間ありがとうございます(*´∀`*)
    橄欖のお話はリクエストということで承りました←
    これもいくつか書いては本編の都合でボツになってしまったものがあるのですが
    もう気にしなくて良くなったので練りなおして番外編として上げます!
    実はこんなのをひっそり公開したこともありました(・ω・)

    >通りすがりの傍観者さん
    こちらこそ最後までありがとうございます!
    やっと完結させることができました。。。( ˘ω˘)
    ――三月兎 2015-09-18 (金) 23:53:58
  • いつの間にか完結していらしたのですね。
    途中から弟とたもとを分かちましたが、お互い納得しながらこれからの生活を続けていけるようで、ほっとしたような気分です。
    このまま世代を重ねてしまうのではないかとひやひやしながら完結を待っていましたが、新たな設定やバランスが変更される前でよかったです。

    全体的に独特のセリフ回しがお洒落な作品で、それに惹かれた読者方も多かったことでしょう。私もそんなお洒落なセリフが好きでした。

    もうこれ以上の長編は無理かもしれませんが、他の作品を投稿されるとのことで、ゆっくりと待っておりますね。
    完結お疲れ様です
    ――リング 2015-09-23 (水) 00:12:55
  • >リングさん
    ありがとうございます!
    本当に第七世代のバージョンが発売してしまう前でよかったです(*ノω・*)
    リングさんの作品もセリフや文章が綺麗なので、そんなリングさんにセリフがお洒落だと言ってもらえたのは嬉しいです!

    これからもよろしくお願いします(*´∀`*)
    ――三月兎 2015-10-08 (木) 00:03:29
  • 随分前(6,7年程前?)から密かにSOSIAシリーズを読ませていただいておりました。本日久々にwikiを訪れ、真っ先に三月兎さんのページを探し、夢中で読ませていただきました!!
    すごく楽しく読ませていただきました。キャラクターが皆魅力的で、楽しいやり取りをいつまでも見ていたいと感じます。何度も読み返させていただきました!
    後れ馳せながら、完結本当におめでとうございます!楽しいストーリーをありがとうございました! --
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Last-modified: 2015-09-17 (木) 00:03:12
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