SOSIA.Ⅵ
今宵は満月。黒い帳にぽっかりと空いた大きな、白銀の真円。こうして見つめていると、その深淵に吸い込まれてしまいそう。
――月を見ていると、どうしても思い出してしまう。もう長い間会っていない。反乱の中ラウジと戦い、その生命を奪った彼には。
会えないわけではなかった。会いたくなかった。彼には彼の世界が、僕には僕の世界があった。僕が彼を、彼が僕を、意図的に避けていたことも間違いない。
二匹の世界が思わぬ形で交錯することになって今、それが間違いだったのだとはっきりわかった。生きる世界が違っても、相容れない環境に置かれていても、彼は僕の弟で、僕は彼の兄なのだから。
会ってさえいれば。話してさえいれば。分かり合うことも――こんな形で取り返しの付かない溝ができてしまうこともなかった。僕が溝だと思っていたものは、簡単に跨いで渡ってしまえるようなただの隙間に過ぎなかった。
自分がわからない。彼を恨んでいるのか、憂えているのか、哀れんでいるのか。ただ明らかなのは、僕の心に掛かった黒い影は、ラウジではなくローレルの姿だってこと。
僕は真っ白な月を見上げていた。
フィオーナがいつも星を見上げているバルコニーで。
この広い屋敷の片隅で。
太陽ポケモンのエーフィが月下に佇む様子なんて、フィオーナみたいに絵にはならないだろう。
初めてこの屋敷に連れてこられたとき。
僕は月明かりに照らされたフィオーナの姿を、幻みたいだと思った。あまりに現実離れした美しさだったから。
「フィオーナ……」
会いたいよ。
どうして僕を慰めてくれないの?
僕はきみさえいればいいのに。
他のことはどうだってよくなるくらい、ずっと僕のそばにいて、僕を抱いていてほしいのに。
「ほんと、わたしの入り込む隙間なんてないみたいですね」
「……孔雀さん」
ちょっと空を仰いでいる間に、孔雀さんがシオンの隣で柵に背中を預けていた。
「相変わらず神出鬼没なんだから」
「ヴァンジェスティ家の家政婦たる者、どこにでも現れなくてどうします」
「黒メイドにでもなるつもり? いつからそこにいたの」
「詮索は無用ですよー」
「もぉ……まあ、見られて困ることなんてしてないけど」
少なくとも僕がフィオーナの名を声に出した時にはいたと考えたほうがいいな。
「今夜は月が綺麗ですね」
「そうだね。夏は夜、なんて、母さんがよく言ってた」
「夏は夜。月の頃はさらなり。闇もなほ。螢の多く飛び違ひたる……とか?」
「そうそうそれ……え? どうして孔雀さんが知ってるの?」
「陽州の古い随筆ですよ。ここには蛍はいませんけれど、ね」
蛍といえば、バルビートやイルミーゼの祖先から枝分かれした昆虫だということは知っているけど、本物を見たことはない。
「陽州には蛍がいるんだ……バルビートみたいに光るの?」
「はい。もちろんポケモンではありませんので小さいですが、たくさんの蛍が飛び交う様子は本当に綺麗ですよ」
陽州では昔から夏の夜を風情あるものだって思っていて……なんだか陽州のポケモンたちとは気が合いそうだ。実際、孔雀さんや橄欖はもちろん、一子さんたちだってこれから関係を深めていけば好きになれそうなポケモンだし。
「って、ちょっと待って」
陽州の古い随筆?
どうして孔雀さんが知ってるか、じゃない。
「どうして僕の母さんが陽州の随筆のことなんか……」
「決まっているでしょう? 一子ちゃんたちも味方になってくれましたから、そろそろあなたに本当のことを伝えても良い頃合いだと思いまして」
「本当の……こと?」
湿っぽい夜風がバルコニーを吹き抜け、孔雀さんの衣がはたはたと揺れた。朱い双眸は何かを決心した、そんな光を。
「わたしがこれからお話しすることは、おそらく今シオンさまが抱えておられる問題にも関わってくるものだと思います」
「ローレルとラウジのこと?」
「はい。仇討ちのお話ですから」
孔雀さんが仇討ち?
そういえば一子さん達が最初に孔雀さんを襲った理由って、裏切りがどうとかこうとか言っていたような。
や、でも。
「それと僕の母さんとどういう関係が?」
「単刀直入に申し上げますと……シオンさまのお母上は、両親の仇なのですよ」
耳がおかしくなったのだろうか。
空耳……だよね?
「あの、よく聞こえなかったからもう一回言ってくれない?」
「シオンさまのお母上は、両親の仇なのですよ」
一言半句
母さんが、孔雀さんの、そして橄欖の両親の仇だって。
「そんな、まさか」
「わたしや橄欖ちゃん、それに一子ちゃん達がランナベールまで来たのもすべて、あなたのお母上である姫女苑を追ってのこと……彼女がすでにこの世にいないと知った後は、その血筋を断絶させるため、その息子たちを狙って、ね」
背筋が冷たくなった。
僕の命を狙っているというのか。
孔雀さんも橄欖も、一子さんも二郎も三太も。
今この屋敷にいるラクートとマフィナ以外のポケモンはみんな。
「ご安心くださいな。一輪の花より軽いあなたの命を刈り取る機会なんて数えきれぬほどありましたでしょう?」
確かにそうだ。今はもう、みんな僕を殺す気はないってことだ。
それで合点がいった。孔雀さんが一子さんに裏切り者扱いされた理由。それもきっとわかってくれたんだ。だからこうして、彼女たちもヴァンジェスティ家の使用人になってくれているわけで。
「わかったけど……まだ整理できたわけじゃないよ? すぐに信じられるような話じゃないし。それより、姫女苑って僕のお母さんのことだよね。陽州の言葉ではそう呼ばれていたの」
「お母上のお名前は何と言うのですか?」
「デイジーだよ」
「なるほど。デイジーとローラスの仔、アスターとローレル……というわけね」
「アスターって僕の昔の名前……嘘。そういうことなの? 母さんのほんとうの名前は姫女苑っていって、素性を隠すためにデイジーって名乗ってたの?」
「それは定かではありませんが、その可能性は十分にありますね。姫女苑はお母上の本名ですよ。ですから、お分かりでしょうか。お母上が亡くなられた時の記憶がないと仰っていましたが、あなたのシオンという名も、陽州
僕がひとつ覚えているのは、途切れ途切れの母さんの声。僕の本当の名はシオンだってこと。
「陽州でなくともありそうな名前ですからお気づきになられなかったのも無理はありませんけれど。紫苑という花の名です」
「じゃあ僕は陽州人だったってこと? 孔雀さんや橄欖と同じ?」
「はい。ですがお父上がコーネリアス帝国の方ですから、ハーフということになりますね。継承したはずの血が色濃く出ていないのもそのお陰でしょう」
「ちょっと待って。継承って、孔雀さんの
「あなたの血筋は特殊で、少し違いますが。陽州を守る八つの武家を統括していたのが両院家、即ちシオンさまの血筋なのです」
「両院……」
「わたし達陽州の武家に伝わる血の継承については以前にお話ししましたね。通常、年を重ねれば第一子に当主の座を譲りますが、その際に継承の儀式を執り行います。継承の儀式により、先祖代々の力を仔に伝えるのですが、その前に不慮の事故や暗殺で当主が死んでしまっても途切れないように、親が死ねば自動的に仔に力が継承されるよう、命名の儀式というものもあるのです。ですから、姫女苑亡き今、両院の力はシオンさまの中にあります。お父上が外国
「僕の中に……両院の……く……ぁ、ああっ」
何だ。頭が痛い。痛いというより、熱い。
この熱は。
目の前が、真っ白に、燃えて――
あの日も満月の夜だった。雲の隙間から覗く真円の月が、僕たちを照らしていた。
ランナベールに落ち着いて数年が経ち、ここでの暮らしにもどうにか適応していたラヴェリア一家。
十三歳の僕はあの夜も、母デイジー、弟ローレルと三匹、父の帰りを待っていたんだ。
「父さん今日は遅いね……母さんの料理が冷めちゃうじゃない」
「そうそう決まった時間に帰れる仕事じゃないから仕方ないのよ。そのうち帰ってくるわ。待っていましょう? ね?」
「うん……」
「ったく。兄ちゃんももう進化したんだし、仔供じゃないんだからさ」
まだ進化していない、イーブイのローレルが毒づく。そんな光景もいつも通り。
「あらあら。ローレルもかまってほしいのかしら?」
「ちがうよ」
「お兄ちゃんばかり可愛がるから妬いてるんでしょう」
「ちがうって……」
僕はいつまでも母さんのことが好きだった。この歳になればそろそろ反抗期が訪れても良い頃なのに、抗いたいと思ったことなんてなかった。
「ほんと、ローレルはお父さんにばかり懐いてしまって。もっと母さんに甘えてもいいのよ?」
「俺もう十一だよ? 甘えたいなんて思わない」
「母さんにすればあなたもまだまだ仔供なんだから……」
ゆっくりと流れる時間。囁かな、けれど確かな幸せがそこにあった。
今日も明日もその先もずっと、続くと思っていた。
今日という日の上に明日があって、その上に積み重なって、続いていくんだって。
それが突然崩れ去るなんて。
明日という日が、今日という日と繋がらない、別世界に迷い込んでしまうなんて。
玄関のドアがノックされた。
その時僕は子供心にこう思ったのだった。
妙に不吉な響きだって。
「はい、どなたでしょうか――」
母さんがドアを開けると、そこには。
「ホルスさん!?」
全身血だらけのムクホークが、片足で立っていた。
片足立ち、ではなかった。足が片方しかないのだ。翼もボロボロで、立っているのが不思議なくらいだった。
「ろ、ローラスの旦那が……くっ、すまね……え……」
「ホルスさん! 主人がどうしたんですか? しっかりして下さい……!」
母の呼びかけに彼が応じることはなかった。
ホルスさんは父と一緒に仕事をしていた一匹で、僕やローレルと遊んでくれたことも何度かあった。
突然訪れたよく知るポケモンの死に、僕もローレルもただ息を呑んで震えるしかなかった。
「アスター、ローレル! 鍵をかけてここで待っていなさい!」
弾かれたように飛び出した母さんの後ろ姿は、サンダースの名に恥じない、まさに疾風迅雷の如く。
父さんの身に何かがあったのは明らかだった。
ローレルと顔を見合わせること、数秒。
僕たちは決心して母の後を追うことにした。
当然大人のサンダースに追いつける足じゃない。すぐに見失ってしまって、どこに行ったのかわからなくなってしまった。
「兄ちゃん……」
「こっち!」
それでもエーフィに進化した僕は空気の流れを読むことができる。母さんの駿足なら捉えるのは簡単だった。
遅れて現場にたどり着いた僕達の目に飛び込んできたのは。
「女の次はガキか」
「母さん、父さん……!」
倒れ伏した父さんとその仲間。返り血を浴びて不敵に笑うリングマを先頭に、ざっと三十匹はいるだろうか。
「このキュウコン野郎の家族かよ……」
何が起こっているのか。意味が分からない。
どうして父さん達が?
「フン。恨まれても面倒だ。始末するぞ」
どうして?
「下がって眼を閉じていなさい」
母さんが僕たちのところへ駆け寄って囁いた。
何が何だかわからなかったけれど、僕たちはその通りにするしかなかった。
それから起こったことは、ランナベール史に残る大事件。
目をつぶっていても、瞼の裏が真っ白になるくらいの閃光。
僕はローレルと身を寄せて震えているだけだった。
だけど、怖い物見たさで。
僕は薄目を開けてしまったのだ。
雷撃が次々とポケモン達を捉え、その体を黒焦げにしていく。肉と血の焼ける嫌な臭いが立ち込めている。
相手に戦う意志なんてない。背を向けて逃げ出そうとする者が、その足を踏み出せずに灰となってゆく。そのあまりにも一方的な殺戮を行っているのが僕の母さんだなんて、信じたくなかった。
僕はぎゅっと目を閉じて、嵐が止むのを待った。ほんの数分の出来事なのに、ずっとずっと長く感じられた。
「アスター……ロー……レル……」
苦しそうな母さんの声で、僕たちは恐る恐る目を開けた。
「母さん……!」
這うようにこちらへ近づいてくる母さんに、ローレルが駆け寄った。
「やっぱり……私の体にこの力は……重すぎたみたい……」
「何いってんだよ母さん! 父さんは助けられたの? ねえ?」
「ローレル……アスター……よく聞いて」
「母さん……?」
最後の力を振り絞って立ち上がった母さんはローレルと僕に告げるのだった。
「私は……遠い東の国からここに来たの……今まで黙っていたけど……素性を隠すために……あなた達の名前も……」
どうしてそんなことを伝えるのか。
「ローレルは月桂……そしてアスター……あなたのほんとうの名前は……紫苑……覚えておいて……あなたならきっとこの力、うまく使えるはずだから」
僕は言葉を発することも動くこともできず。
それどころか、母さんが最期の言葉を残して崩折れるのを見届けると同時に、気を失ってしまった。
次に目覚めたとき、母さんも父さんもいなくて。ローレルが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
母さんと父さんを失ったという事実、それに自分の名前以外……僕は何も覚えていなかった。
「お目覚めになられましたか……具合はいかがですか?」
体を起こすと、そこは自室のベッドの上だった。橄欖が濡れタオルを手にベッドの傍らに立っていた。
「ん……僕どうしちゃったの?」
「姉さんとバルコニーでお話をされていたところ、突然お倒れになったとのことで……姉さんがシオンさまを運んできた時には、また良からぬ悪戯でもしたのかと思いましたが」
「孔雀さん信用ないなあ」
「それで……お体の方は?」
「大丈夫だよ。ちょっと夢を見てただけ」
あんな大事なことを僕はどうして忘れていたんだろう。ローレルは知っていたのかな。知っていて、僕を気遣って黙ってたんだ。
「わたしにそのような誤魔化しが通用しないことはご存知でしょう? 思い出したのですね」
「たまには知らないふりしてくれてもいいのに」
「申し訳ありません。ですが」
「孔雀さんからだいたいのことは聞いたよ。僕の母さんがきみの仇だってことも」
「それは……!」
僕に隠してたはずのこと。やっぱり、孔雀さんの独断で?
「もう時は満ちたと思うのだけれど。問題があったかしら?」
「……姉さん」
橄欖は孔雀さんの姿を確認するや否や、ぐいと詰め寄った。
「シオンさまは姉さんのせいでお倒れになったのではないのですか? シオンさまが記憶をなくしていたのは、自分の心を守るため……壊れてしまわないためだったのですよ? それをこのような時に、追い打ちをかけるような真似を!」
「逆よ。シオンさまは今回のことで強くなったわ。それに、この問題を乗り越えるのに必要だと思ったから」
「そんな……それではシオンさまのお気持ちはどうなるのですか?」
ああ。また僕のことで姉妹喧嘩してる。
僕は仇の息子なのに、僕のことを想っていてくればこその喧嘩。
「とにかく、そこを退きなさい。シオンさまにお飲み物をお持ちしたのだから」
「……っ」
橄欖が引き下がると、孔雀さんがトレイに載せたお茶を運んできた。
「どうぞ。先刻は突然あのようなお話を申し訳ありません。まさか失神されるとは思いもしませんでした」
「謝らないでいいよ。お陰で大切なことを思い出したから」
孔雀さんは紅茶を置くとトレイをお腹の前に持ち替えて一歩下がった。
「体は大丈夫だから、話の続き聞かせてくれるかな。橄欖からも話を聞きたいし」
「シオンさま……」
橄欖が困惑した視線を、僕と孔雀さんの間で往復させる。
「……承知いたしました。シオンさまがそうお望みならば」
バルコニーで孔雀さんに聞かされた内容と、母さんが死に際に遺した言葉。それらを総合するに、僕は陽州の武家の血を引いていて、何か特殊な力を持っているというのだ。
「孔雀さん。僕の血筋は特殊だから、孔雀さんとは違うって言ってたけど、どういうことなの?」
「それにはまずわたし達の力がどういうものなのかを説明しなければなりませんね。わたしや一子ちゃんは当主として、ある特定の技に関する特殊能力を先祖代々受け継いでいるのです。これは当主だけが持つもので、橄欖ちゃんや二郎くん、三太くんは今は普通のポケモンと同じです」
「僕の場合も……ローレルは何も特別な血を持っていないってことでいいのかな?」
「はい。シオンさまがローレルさまに両院家当主の座をお譲りするかお亡くなりになられない限りは」
「つまり今は僕がその力を持ってるんだね。母さんが死んだ時から。僕が気づいていないだけで」
「そうなりますね。ただ、ご自分ではお気づきになられていないようですが……発現しているのではありませんか?」
「発現って……その特殊な力ってやつが?」
「シオンさまが私兵団に入隊してすぐの、初陣の時。十匹以上の敵に囲まれたにもかかわらず、その全てを討ち果たし生還したのだとか」
「あの時は無我夢中で……よく覚えていないんだ」
しかしそれが後にラウジを差し置いてシオンが九番隊隊長に推薦された大きな要因の一つであり、紛れようもない事実である。
「その時に僕が特殊な力を使ったの? 孔雀さんの
「申し上げたようにわたし達の力とは少々性質が異なるのですよ。確かにある特定の技には違いないのですが」
「勿体ぶらないで教えてよ。それがわかったら今までの戦い方を一新できるかもしれないんだしさ」
「目覚めるパワーです」
「え?」
目覚めるパワー、といえば、生まれつき備わっているというそのポケモンに親和性の高い
「目覚めるパワーって……僕、そんなに強くなかったと思うんだけど」
「シオンさまご自身の力はそう強くないかもしれません。しかし、両院家の目覚めるパワーは代々の力を蓄積……個人の能力はほとんど関係しないのです」
「蓄積ってことはつまり」
「代を重ねるごとに強くなるということです。シオンさまはお母上を超える力をお持ちだということです」
僕が母さんを超える力を。
父さんを殺したあの数十匹のポケモンたちを一瞬で駆逐した母さんを?
「そんなの、いつか世界を滅ぼすような力を持ってしまうんじゃ……」
「世界はそう簡単に滅びませんが、すでにその力が自分の身を滅ぼす程度には強まっているようですね」
そうだ。母さんは身に余る力を持っていたから、あんなことに。
僕とローレルを守るために。
「神か悪魔か、幻か伝説か……わたし達の先祖は力を与えられたと思いきや、とんでもない呪いを陽州
僕が継承した血に宿る力を解放したら、爆発的に強くなるということだ。
普段はか弱いポケモンでしかなかった母さんがランナベール史に残る大事件を起こした時みたいに。
「姉さん……それ以上は」
「いい。全部聞かせて」
僕の気持ちを察してか、橄欖が制止してくれたけれど、ここまで聞いたのだから全部知らないといけない。
「ここからがお話の本筋ですから、そのつもりですよ」
「姉さん……」
橄欖がきゅっと唇を噛み締めるのがわかった。
きっとこの先は孔雀さんと橄欖にとっても辛い話になるのだと。
「わたしがこのお話をシオンさまにお伝えしようと思ったのは、シオンさまの現在の心境に通じるものがあるからです。ですから、少々お辛いとは思いますがどうか最後までお聞きください」
「わかってる。僕の母さんが……孔雀さんたちのご両親を殺してしまった時の話だよね」
僕も覚悟を決めなくちゃ。
「……あれは、まだ橄欖ちゃんが生まれて間もない頃でした。陽州を訪れた若いキュウコンの外国人が、陽州を収める八つの武家を統括する両院家に入り込んでいるとの噂が立ったのです。そのキュウコンこそシオンさまのお父上、ローラス・ラヴェリアその
要するに父さんが陽州に流れ着いて、母さんがそれを助けて家に置いたことが発端となって、政治的大事件に発展したということだ。
母さんと父さんにしてみれば、政治的思惑なんて関係なく、ただ愛を育みたかっただけなのに。
「しかし艮藤家は黙ってはいませんでした。両院家への不満を元に八つの武家を全て味方につけた艮藤家は、両院家に戦を仕掛けたのです。もともと、ローラスが来る前から両院家の力への恐れがありましたからね。大義があれば潰してしまおうとしていたのかもしれません」
「それは、孔雀さんと橄欖の巽丞家も?」
「後に聞いた話ですが、父上は最後まで悩んでおられたようです。ですが、他の家が足並みを揃えたとあっては選択肢はなかったのだと思われます」
シオンの質問には、それまで黙って聞いていた橄欖が答えてくれた。
「そして陽州革命……いえ、反乱と呼ぶべきでしょうか。両者共に多数の死者を出し、両院家は当主の姫女苑を除いて全滅。姫女苑はローラスを連れて大陸に逃げのびました」
「逃げのびた……って仇の話はどこに?」
「反乱軍が彼女をただで逃がす筈がないでしょう。両院家を取り囲んだ反乱軍は、投降を迫りました……思えば、両院の力をあまりに甘くみていたようです。ローラスとともに門から飛び出してきた姫女苑の雷が一閃……シオンさまの記憶を辿っていただければ、その破壊がもたらす結果はお分かりでしょう。二匹は包囲網を力ずくで突破し、最後はローラスが姫女苑をその背に乗せ走り去ったと言われています。反乱軍側に出た多数の死者というのは彼女一匹によってもたらされたもの……わたしと橄欖ちゃんの両親もね」
僕の母さんが孔雀さんたちの仇だってこと。
その全貌がここに明らかになった。
それでも橄欖は仇の仔である僕を好きだと言ってくれて。
孔雀さんや一子さんたちも僕たちに仕えてくれている。
「この反乱で両院を支えていた八つの武家の多くは当主を失うか再起不能になり、血を継承し次期当主となったのは年端もいかぬ仔供ばかり。陽州ではその時より現在に至るまで戦乱の世が続いていますが、大人になったわたし達の思いは陽州を平定することなどではなく――皆一つの心を抱いていました。それが仇討ちです。両院家当主姫女苑は今もどこかで生きている。生きていなくとも、わたし達の仇は両院の血である。大陸に渡り、必ずや討ち果たして見せようぞ――と誓い合ったのです」
誓いを破ってまで。
僕を生かしてくれているだけでも辛いのに、側にいてくれて。
「シオンさま、それは違います!」
強い語気でシオンの前に進みでてきたのは、橄欖だった。
「橄欖……」
「わたしも姉さんももう辛くなどありません。シオンさまを憎い仇だなんて、米粒ほども思っておりません……! わたしにとってシオンさまは、大切な想い人で、心からお仕えしたいご主人さまです。それ意外の何物でもありません」
「わたしもです、シオンさま。あなたのお母上が両親を殺したのが事実だとしても、それは戦が起こした悲劇の一端にすぎないのですから……」
孔雀さんは目に涙を溜めて、シオンの側にかがみ込んだ。
「あなたを産み育てたお母上は、本当は憎むべきポケモンなどではないのかもしれないと」
抱きしめられた。甘美な匂いが鼻腔をくすぐった。
「仇を討っても気など晴れはしません……ですから、わたしも姉さんも、精一杯の幸せを求めることにしたのです。その方が父上も母上も天国で喜んで下さることだと思います」
わかってた。ラウジはサエザの乱の犠牲者で、ローレルは巻き込まれただけ。何かが違っていれば、待っていた結果は逆だったかもしれない。死ぬのはローレルで、手を下したのがラウジだった可能性もある。戦とはそういうものだ。
「シオンさまのことはシオンさまがお決めになることです。ですが、わたしと姉さんの過去と今が少しでもあなたの道標となるのならば嬉しく思います」
橄欖の声と孔雀さんの温もりが、僕に勇気をくれた。
明日ローレルを探そう。
あの場所に行けばきっと。
「今まで僕は何も知らずに
「良いのです。シオンさまは変わらず、これからもどうぞわたし達に甘えてください」
「わたしは……側に置いてもらえているだけで幸せ……です」
最後に橄欖がうつむき加減で、そんなことを言ってくれたのが印象的だった。
ランナベール北西部の住宅街の端、断崖となっている海岸のすぐ近くで、ミルタンクのトモヨが経営している喫茶店『ウェルトジェレンク』は、知るひとぞ知る名店だ。
北凰騎士団九番隊を任せられるようになってすぐの頃にここを見つけてからというもの、休日には決まって足を運んでいたのだが、変わらずの石の一件以来取り込んでいて顔を出していなかったのだ。
「いらっしゃいませ!」「いらっしゃ――げっ」
予期せぬツインボーカル。
まず驚いたのは、店員が
そして、ペロミアらしきリーフィアは、ウェイトレスではなくウェイターに転身している……?
「おや。珍しい顔だね。シオンちゃんが来ない間にここも随分変わったもんさ」
「この方も常連の?」
「オレがウェイトレスをやらされてた頃のな……」
やらされてた?
容姿はそんなに変わった風には見えないけど、声がまるっきり男のそれだし、オレって言ってるし。
もともとハスキーな声で、ボーイッシュだとは思ってたけどまさか本当に男の子だなんて。
彼女、いや彼が初対面で僕の性別を間違わなかったのも、自分が同類だったから。
それはお互い様のはずなのだが、してみると僕はかなり鈍感らしい。
「つーわけだ。オレはエリオット。ウェイターだ。間違ってもウェイトレスじゃねえ」
「あー見たらわかる、けど……」
あの淑やかなペロミアがねえ。素だとこんなに荒々しい口調の男の子だったとは驚きだ。
「いつものカウンター席だろ?」
「うん……」
とにかく同一
「そちらの綺麗なブースターさんは?」
「エリオットの姉のイレーネです。新米ウェイトレスなので些か至らぬ部分もあるかと思いますが、以後お見知りおきください」
「こちらこそよろしく……」
うーん……このブースター、どこかで会ったことがあるような。
「やあ。シオン君ではないか。実に久しいね。何より無事でよかったよ」
疑問を抱くのもつかの間、カウンターに座っていたフーディンがシオンに気づいて声をかけてきた。
何度となくお世話になった私立探偵のハリーさん。
遠方まで旅に出て、タイムスリップなんかしちゃって、帰ってきたら反乱を起こしたやつがいて。
一度も挨拶にさえ来なかったもんだから、心配されて当然だ。
「ご心配かけました。ハリーさんもご無事でなによりです」
この人、結構危ないことに首突っ込んだりするもんな。
「ヴァンジェスティ家の者たちも無事なのかね?」
「ええ、所帯も増えて、前より賑やかなくらいです」
「な、なんだとっ! 君がついに父親に……」
「や。そうではなくて、使用人が増えただけですよ!」
こんな言い方をすれば勘違いもするか。
僕もそろそろ二十歳だし、フィオーナは今年で大学を卒業するし。きっとそう遠くないうちにそんなこともあるのだろう。
――なんて、幸せな未来を想像できるくらいには僕も落ち着いてきたらしい。
「お話し中のところ申し訳ありませんが、ご注文をお聞きしましょうか?」
「あ、ごめん。いつもの……や、アールグレイミルクティーをお願い」
「はい。かしこまりました」
ここに来ればハリーさんに会えるとは思っていたが、一発で会えたのはラッキーだ。
ローレルたちのことをよく知っていて、共通の敵ならぬ共通の味方。ハリーさんしかいない。
黒薔薇事件の時、ローレルを信じてやれという彼を父さんと間違えそうになった。
父さんの最期を思い出した今、なんだか彼に対する親近感が強まったような、そんな気がする。
「ハリーさん」
店内にはシオンとハリーの他にも何匹か客の姿が見える。
たまたまかもしれないが、エリオットのお姉さんまで雇ったという事から考えると以前よりも経営状態は良いらしい。
「何だね?」
「久しぶりに会ったのにいきなりで申し訳ないのですが……ローレルの居場所を教えて欲しいんです」
「……ローレル君に会うつもりかね」
「はい。どうしても会って話したいことがあるんです」
「お待たせしました」
そこへイレーネさんがトレイをくわえて運んできた。
エリオットはというとテーブル席の中年女性グループの世間話に付き合っているみたいだ。
男の子は男の子でまた別の層に人気があるんだな。
「シオン君。それは……君の亡くなった同僚の事か?」
知っていたのか。
そりゃそうか。ハリーさんはアスペル先輩とは親友同士なんだもの。知っていて当然だ。
「……はい。ですが、僕はローレルを糾弾するつもりはありません。彼は……ラウジはサエザの反乱で戦死した。ローレルと敵同士として戦場で向き合った。それだけのことですから」
「君というやつは……いや、君たち兄弟というべきか。つくづく運のないというか間が悪いというか」
「どういう意味です?」
「ローレル君はつい一週間前まで、仲間とよくここに来ていたのだがね」
「な……!?」
ローレル達が、ウェルトジェレンクに?
「これが最後だと言い残して、仲間ともども消息を絶ってしまったらしい。私はその時は来ていなかったから、ついぞ君がここに来ていたことを伝えずに終わってしまった」
どういう経緯でこの喫茶店を知ったのかわからないが、少なくとも僕に会うためではなく。
そして、もうここには来ないと。
「ローレルたちに何が……? イレーネさん、何か聞いていませんか?」
「ええと……あなたがローレル君のお兄さんだって知って、私驚いてしまって」
「ローレルからはなにも聞いてなかったの?」
「あの仔ってばハンターでしょ? だから家族の話なんかはしなくて、仲間が家族みたいなものだって、そう言ってたから」
仲間が家族、か。
両親のない僕たちは兄弟で支え合わなきゃいけないのに、どうしてこんなことに。
僕は何も知らない。
ローレルがリュートを退学にされた理由。ハンターになった理由。
それとも、考えが浅いだけなのか?
本当は僕の中に全部、答えはあるのかもしれない。
僕の頭に様々な記憶が、光景が巡って、言葉を発することができず。ブースターのイレーネさんと見つめ合っていた。
ブースターのイレーネ。
どこで会ったのだったか。
それは、忘れ去ってしまいたい記憶、学生時代の最後、闇夜に舞う蝶の下で。
「「あなたは――!」」
僕は彼女に会っている。
身を売るポケモンとしての手ほどきを受けた、シャポーというブースターに……。
「さすがにあの時よりずいぶんと男の子らしくなっちゃったわね」
「僕もじきに
どういうことだ。
「年を重ねたというより、雰囲気かな? クラウディアは今も綺麗だけど、男の子としての魅力がちゃんと感じられる」
「その名前はやめて下さい。僕のことははシオンと……本当の名前で呼んでください」
どうして姉ちゃんとシオンが旧友に再会したみたいに仲良く昔語りなどしているんだ。
「失礼。じゃあ私のこともイレーネって呼んでちょうだいね」
「まてそれはダメだふざけんなよシオン」
姉ちゃんとシオンの間に何があったかは知らねえがお互いに呼び捨てなど言語道断だ。
「や。僕は何も」
「エリオットったら何を言い出すの?」
「嫉妬はいかんぞエリオット君」
こいつら。
「ああ……わかりました。僕の方が年下ですから、イレーネさんと呼ぶことにします」
シオンはオレをちらちら見ながら言った。
「オレもお前の事をシオンさんって呼べってのかよ」
「そんなことは言ってないけど……てゆうかエリオット、ウェイトレスの時は僕のことさん付けで読んでたじゃない」
「うるせー。今更しおらしく"いらっしゃいませシオンさん!"なんて言えるかっつーの」
「私としては二度とペロミア君に会えないというのも悲しいのだがね」
「ヒゲは黙ってろよ」
「こら! お客様になんてことを言うの! ごめんなさいハリーさん、不肖の弟をどうかお許し下さい」
姉ちゃんが前足でオレの頭を押さえ付けて、強制的に謝らされた。くそ。
「いやいや。自慢のヒゲを褒められるのは悪くないものだ」
褒めてねえよ。ヒゲ以外に自己主張のない存在感の薄さを皮肉ってんだよ。
それとも皮肉に皮肉で返しているのか。このオッサンはそういう奴だしな。
「それで、話は戻りますが」
「ローレルさん達のこと? 実はね」
オレ達が聞いた話の内容は半ば信じられないものだった。
サエザの乱より後、ローレル達グラティスアレンザの仕事に妨害が入り始めた。私兵団らしき部隊の罠に落とされたり、同業者から付け狙われたり。傷を残したのは何も私兵団の側だけにではなかったのだ。
そしてローレル達は決断した。この国を出ると。
国を出るとは簡単に言うが、ハンターとして身を立ててきた彼らがどうやって生きてゆくのか。どこの国にも戸籍がある。素性の知れない者にまともな雇用が与えられるとも思えないし、市民権の獲得だって簡単ではない。山賊や暴力団の末端として働くのが関の山ではないのか。
「そんな……」
姉ちゃんに顛末を聞かされたシオンは言葉を詰まらせた。そりゃそうだ。弟と二度と会えないかもしれないんだから。
だが、オレだって一度は姉を失った身だ。
だから、一番大事なのは何かってことをわかってる。
「良かったんじゃねえの」
「なっ……? 良かったってどういうことさ」
挑発する意図はなかったのだが、怒らせてしまったかもしれない。
「エリオットの言うとおりだと思うわ。軍や同業者に狙われている今、この国でボヤボヤしてると命を落とすのも時間の問題だものね」
姉ちゃんもオレと同じ意見だ。
シオンだってバカじゃないから姉ちゃんの言わんとしていることくらいわかるだろう。
「……そうですね。命さえあればまた再会できるかもしれない。きっと探しだします。エリオットとイレーネさんがそうだったように、またいつか僕とローレルの道が交わると信じて」
「生きてさえいれば、な。オレ達みたいな弱いポケモンでもこうやって生きて再開できたんだ。お前ら兄弟はオレ達と違って強いんだろ? 心配することはねーさ」
「エリオット……うん。ありがと」
シオンは憂いを湛えた、しかし花咲くような笑顔を見せてくれた。
姉ちゃんの言ったように牝っぽい空気はなくなったが、それでも美しさは変わらなかった。
しかしその横でにやけているヒゲのせいで台無しである。
「何がおかしいんだよオッサン」
「君も百パーセント演技をしていたというわけではなかったのだね」
「どういう意味だよ」
「いい加減にしなさい。ハリーさんはエリオットの優しさを褒めてくれてるのよ?」
褒める?
ああ。なるほど
オレがペロミアだった頃のことか。
「口は悪くなっても性格は変わらないんだね。僕も安心したよ」
「うるせー」
小悪魔のお前だけには言われたくない。
保安隊と軍の事実上の統合が決まってからひと月。保安隊も軍と同じく三つの部隊に分けられ、北凰騎士団も団員数を一気に増やした形となる。
街の巡回は主に保安隊出身のポケモンで構成される部隊が行っていて、機能としてはまだ統合のメリットを活かしていないと言える。
そんな中、この男の隊は積極的に巡回の任務にあたっている。
「なあ。そろそろやめにせえへんか?」
山のような書類を前に心ここにあらずといった様子のクチート。
「何のお話ですかアスペル君」
キールは以前は事務作業を好み、現在のように先頭に立って先陣を切るタイプではなかった。
「ジブンやろ? 仇討ちを主導してるっちゅうんは。街で噂になっとんで」
「取るに足らない民衆の噂話を本気にするというのですか? 仮に本当だとして、何の問題があります? 私達は保安部隊の務めを果たしているだけに過ぎません」
「そやけどなあ。シオンの休暇もジブンが上申したっちゅう話やないか。あいつがメインターゲットの兄貴やからか? ヘタしたらキール、信用失くすで?」
「私の心配などしている場合ではないと思いますが。ハンターズギルドとの交渉の一件で、貴方にはスパイないし情報漏洩の疑惑がかかっているのでしょう」
カルミャプラムの一件。
サエザの情報を引き出した手柄を讃えられた一方で、アスペルとハンターの間には以前から繋がりがあったのではないかと疑う者が現れ始めた。
軍の情報を売った事はないもののあながち嘘とも言えないのが辛いところである。
「キール――ん? アスペルか。ここで何をしている」
背後からのアルトの声。足音から察するに、随分と早足で飛び込んできたようだ。
「ちょっとキールに話があったんや。シャロンもか?」
「ああ……少し席を外してくれないか」
「お。何や、俺には聞かせられへんのか? 二匹だけの秘密ちゅうやつか、ほうほう」
「莫迦を言うな! 私を何だと思っている!」
「冗談やて。ほな」
キールを説得することは能わず、仕方なく執務室を後にするしかなかった。
シャロンもラウジと親交の深かったポケモンの一匹だ。
同じ境遇ながらアスペルは仇討ちには反対の立場である。更なる仇討ちを呼ぶ無限連鎖だ。多方面に顔の広くただでさえ敵を作りやすいアスペルは。
あかん。この流れはあかんで……
◇
「ウチが思うにやで」
ラウジの最期を知るヒルルカに話を聞くしかない。それは仇討ちをする者とて同じだ。
「あの後"ハイエナン"とかいうアホが出てこんかったらラウジは死んでなかったかもしらへん。今さら何
「せやけど直接手ぇ下したんはローレルなんやろ?」
「……ウチを庇ったんです。ハイドロポンプからウチを守るためにラウジは……」
「
「そらわかってます。ウチはラウジの分まで生きなあかん。そう思て頑張ってるつもりです」
ヒルルカは何もかもを敵のせいにして仇を討つというような考えにはたどり着かなかった。今も葛藤しながら前を向いて進んでいる。
「ほんで、ジブンはどうなんや。仇討つつもりなん?」
「ウチはシャロン隊長の言わはることに従うだけです」
「盲信か」
「ちゃう。ウチの意志で隊長に従うと決めたんです」
「自分では判断がつかへんってことかいな?」
「……ウチは、ラウジの最期を目の前で見たんです。冷静な判断なんてできません。今すぐにでもひっ捕まえて焼き殺したいぐらいや」
「そらそうやわな。けど俺が今から
やっぱり、完全に流れはそっちや。
ヒルルカも冷静なつもりでおるけど、本心がそうである以上は無理やろ。
「私情はあかん。仇なんか討ったって俺らにメリットなんかあらへん」
「そういう問題やないと思います。ウチらかて国の兵隊である以前に一匹のポケモンなんやから」
俺に賛同してくれるやつなんてシオンぐらいしかおらんのとちゃうか。あいつが抜けてるのは痛い。二匹と三匹では発言力にさしたる差はないが、一匹と二匹では全く違う。ましてシオンはラウジのいた九番隊の隊長なのだから。
「そらしゃあないけどやな」
「本来の仕事に支障がないんやったら咎める権利もあらへん。そうとちゃいますか?」
「あのな」
ラウジを殺したローレルはシオンの弟なんや。
言ってどうなる。それこそ私情ではないか。
「……いや。何でもない。俺は今日は上がりやから、ほなな」
「お疲れ様です」
こうなったら。
俺は俺で動くしかない。
即日休暇届を団長の机の上に置き、その晩アスペルは南西端の丘を上っていた。建物はまばらで、見張りの兵の詰所があるくらいである。
ヴァンジェスティの邸宅は高い塀に囲まれ、サエザの乱の後はさらに周りに堀を掘り始めたらしい。水タイプ対策として最終的には電気が流れるようにするのだとか。そこを乗り越えたとしても門から本館までかなりの距離があり、美しい庭園には守護神が、さらに孔雀に並ぶ実力を持つ護衛が増えたというから、もう前のようなことは起こらない。大軍を持って攻め立てれば別だが、敵国に攻められるようなことになればそもそも四つの私兵団が意地でもランナベールに入る前に撃退するので邸宅にたどり着くことすら不可能だ。
「ほあー……でっかいのう」
丘を上りきると、見上げんばかりの巨大な門が立ちはだかる。この先がようやくヴァンジェスティ家の敷地だ。
深呼吸して呼び鈴を鳴らし、待つこと数分。
林の向こうに覗く庭園から、何かが飛んできた。形からして、あれは……ムウマだろうか。まだ仔供だ。
「んー? 食料の配達業者じゃなかったのかな? 怪しいマニューラだ!」
「ちょっ、待ちいな、俺はシオンの――」
説明をする暇もなく、鉄柵状の門の隙間を抜けて銀の煌めきが時間差で三つ飛んできた。咄嗟に一つめを弾き、持ち前の動体視力でドーナツ状の円盤だということが確認できたので残り二つは爪の先を差し入れてキャッチした。カラカラと回る円盤の外側は鋭利に研ぎ澄まされている。陽州産の武器か。
「うっそぉ。ただの怪しい男が孔雀姉ちゃんみたいなことを……」
「あのな。俺は怪しいもんやあらへんっちゅうに。シオンの先輩やぞ?」
「証拠ある? ヴァンジェスティ家の守護神たるこの僕を騙そうったってそうはいかな――」
ムウマの背後から一際大きな黒い影が猛スピードで迫ってきているが、気づいているのだろうか。
「ぐへっ」
ものすごい剣幕で後ろから接近したゲンガーの女性が、ムウマの頭をぶん殴って地面に叩き落とした。
「このバカ三太! 客人になんて失礼なことをするんだい!」
「だって」
「だってもクソもあるかい! ポケモンを見た目で判断するなとあれほど――」
俺は見た目は怪しいっちゅうことか? まあええわ、遊んでる暇はないんや。さっさと用件を伝えんと。どちらも見ない顔だが、彼女達が新しい護衛ということだろう。
「あー、ジブンのがまだ話はわかりそうやな。俺は北凰騎士団六番隊隊長のアスペルっちゅうんや。ちとシオンにだいーじな話があって来たんやけど、会わせてくれへんかな」
「紫苑の知り合い? 確認取ってくるからちょっとお待ち願いますかね」
どちらもまったくヴァンジェスティの使用人らしくないポケモンだが、とりあえず取り次いではもらえそうだ。
ゲンガーがムウマの首の数珠を掴まえて引きずっていくのを見届け、さらに数分の後。今度は白いのが飛んできた。
「これはこれは飛んだ非礼を致しました、アスペルさん」
やっと見知った顔が現れた。腰に刀を差した東方のフォルムのサーナイトだ。
「久しぶりやのう」
門を開けてくれた孔雀に続いてようやく中に入る。でかい家っちゅうのは面倒やわホンマ。
「孔雀……さっきのは新しい使用人か?」
「ええ。わたしの同郷の幼馴染みでして」
しばらくは木ばかりの林道で、そこを抜けると広い庭園が現れる。階段状になった噴水が夕陽を反射する幻想的な光景に思わず目を奪われた。
「綺麗でしょう? これで侵入者の戦意を喪失させるのですよ」
「は?」
「こんなに美しい庭園を壊すのは気が引けるじゃありませんか」
「まあ、そらな……」
「ふふふ、冗談に決まっていますのに面白い方ですこと」
「あのな……俺を何やと思っとるんや?」
孔雀とは一度共闘にしただけだが、正直なところ孔雀のはたらきはあまり褒められたものではなかった。実力者なのは間違いないのだが、いまいち信用できないというか、冗談ばかり言って本性を隠しているのではないかと疑いたくなる。
「で、シオンはどんな感じ?」
「橄欖ちゃんのお陰で随分立ち直ったみたいです。橄欖ちゃん、もうずっとつきっきりなんですよ」
「献身的でええメイドを持ったもんやな。でもフィオーナはんは?」
「それが卒業論文が忙しいとかなんとかで、今はジルベールにいるのですよ」
「マジでか。そらあかんで。橄欖に盗られてまうで」
「そうですねー。そうなると面白いのですが」
「いや真剣な話。言うても牡と牝やからな、そこまで関係が深くなってもうたら主人と侍女のままでいけるんかいな」
「ふふふ。あまり客人にお話しすることではありませんでしたね」
意味深な微笑。もしかして本当に何かあったのか。あかん。あかんでシオン。なんぼラウジを失って淋しいからゆうてメイドに
「ほんとうにアスペルさんは面白い方です」
「何がやねんな」
「恋愛沙汰には疎そうですから」
「やかましいわ。ちゅーかジブン年下やろ。もっと年長者を敬わんかい」
「おっと、これは申し訳ありませんでした。非礼をお許しくださいませ」
笑顔のまま頭を下げる孔雀の心は全く見えなくて、ただいつも大人の雰囲気を醸し出しているからか年下という感じが全くしない。その朱い双眸で何を見ているのか、アスペルにはまったく想像もつかない。
というか、こんなくだらない話をしている場合ではないのだが。彼女を前にするとどうも調子が狂う。
「どうぞお入りくださいませ」
石畳の階段を上ってようやく玄関口。豪奢な扉が開くと、シャンデリアの吊るされた落ち着いた色調の玄関ホールで、キルリアの橄欖を引き連れたシオンが迎えてくれた。なるほど孔雀の言ったように元気を取り戻しているようだ。
「お久しぶりです、アスペル先輩。三太が失礼なことしちゃったみたいでごめんなさい」
「突然の訪問やったからな、そらしゃあないわ。そんなことより、大変なことになっとるんや」
「大変なこと?」
◇
立ち話も何なのでアスペル先輩を応接間に通して、ソファに座って落ち着いたところで話を再開した。
「ジブンが休暇取れって言われた理由な、どうも穏やかやないみたいや」
「というと……」
「ぼかしてもしゃあないからはっきり言うけど、ラウジの仇を討とうっちゅう動きがあんねん」
「ラウジの仇……」
こんな仕事についている以上仲間を失う覚悟はできていたが、まさか実の弟の手で奪われるとは思っていなかった。そして今度は、そのローレルを仲間が。
「多分、対立構造の間に立っとるシオンがおったらややこしいから休暇取らしたんや」
「じゃあ、仇を討とうとしているのは……キールさん?」
「ラウジと交流の深かったシャロンも協力してるらしいわ」
「シャロンさんが……」
彼を失ったことへの怒り、哀しみ、やるせない思いは誰も同じなのだ。仇が実の弟であるという葛藤が僕の歩みを止めたけれど、他の仲間には何もない。まして相手がハンターとなれば、躊躇などあるはずもなかった。
「……知らせてくれてありがとうございます」
「悠長に礼なんか言うとる場合か。すぐにでも何とかせな、ジブンの弟が危ないんやで!」
「わかっています。わかっているけれど……先輩が止めて止まらないものを僕が止めるなんて不可能ですよ。だからこそ冷静に考えなきゃ」
熱くなりそうな空気を冷ますようなノックの音が響いた。
「お茶をお持ちいたしました」
「入って」
「失礼致します」
ティーポットをトレイに乗せて部屋へ入ってきたのは孔雀さんではなく橄欖だった。お客さんにお茶を出すのはたいてい孔雀さんの仕事なのだが、珍しいこともあるものだ。
「どうぞ。手慣れないもので粗末かとは存じますが……」
橄欖がおずおずと、しかし柔らかな手つきでアスペル先輩の前にカップを置き、続いてシオンの前にも形状の違うカップを置いた。
「おおきに。突然押しかけてきたっちゅうに丁寧にどうも」
「主人を訪ねて下さった方への当然のおもてなしです」
アスペル先輩は会話を中断して紅茶に口をつけた。あまり慣れているとは言いがたい手つきだったが、少なくとも無作法な印象は受けなかった。
「うまい」
「ありがとうございます」
「俺は茶ぁのことようわからんけど、自分で粗末って言うたらあかんでこれは」
単純明快、悪く言えば馬鹿正直なこの人がお世辞を言っているのではないことはシオンの目にも明らかだ。もっとも心を読める橄欖にはお世辞なんて通用しないのだけれど。
「お褒めにあずかり光栄です」
「最近お茶を淹れるのは随分と上手になったよね」
そろそろここでの暮らしも一年になるので、舌は肥えた――と思う。渋味やえぐ味が一切出ていなくてクリアな味わい。少し薄いような気もするけれど、そこは好みの問題もあるし。
「しかしメイドっちゅーのは慣れへんわ。もっと肩の力抜いてええねんで。俺なんてぜんっぜん偉いもんちゃうし」
「わたしは使用人の身分ですので」
二匹の会話を聞く傍ら、僕はどうにかしてキールさんを止める術はないかと思案を巡らせていた。
ただ伝えてもしらを切り通されたら仕様がないし、万が一開き直られたら、私情以外の何物でもなく大義名分のないこちらは正当性を主張できない。ウェルトジェレンクで聞いたところによるとローレル達はランナベールを離れるのだという。危機を察したか。だとすれば何もしなくても、まさか国を出てまで追手を差し向けるようなことはしないだろう。
「それにしても、シオン」
「はい?」
「ジブンに聞いてたのとちゃうやん」
「ローレルのことですか?」
「いや、橄欖ちゃんの話……まあええわ。そっちが大事や」
おおかた橄欖の印象が僕の話から想像していたのと全く違っていたのに驚いたのだろう。少し前までは暗かったし、そのように話していたから。
「ローレルは……ローレル率いるグラティス・アレンザは、ランナベールを出るみたいです。まさか追撃はしないでしょう」
「それやったらええけどな。その情報を軍が掴んでたらどうする? 脱出前に片をつけるはずや。だから急いでここに来たんや」
「わざわざ僕に知らせに来てくれたんですか」
「それだけやない。俺にはハンターとつるんどったっちゅう疑いが掛けられとってな……今の俺には求心力がない。部下にも距離を置かれてる感じや。味方がおらなどうにもならん。絶対に味方になってくれるのはジブンしかおらんねん。シオンのおらん九番隊が、副隊長ラウジの仇討ちとあらば闘志を燃やさんわけないやろ」
「ラウジに一番近かった僕なら止められるかもしれない……ということですか。たとえ私情を差し挟んだと言われても」
「仇討ち自体が私情や。その点はあっちに分があるわけやない」
「どっちにしてもそんなの気にしている場合じゃないですよ」
「そら、ジブンにとってはな。弟の死活問題やし、職を失ったからって生活に困ることないしな――ってスマン、僻みやないねんけど」
アスペルさんは橄欖の視線を気にするようにほっぺたをかいた。
「いえ……事実、シオンさまの将来については、このまま軍に置いておいて良いものかとフィオーナさまも考えておられるようです。現在でも、前線に出て生命を危険に晒すことは如何なものかと思われます」
「橄欖……」
僕だって理解してはいた。僕がもう国のために戦って死ねるようなポケモンじゃないってこと。命の重さは同じだなんて綺麗事だ。ラウジだって、彼の死を悲しむポケモンがどれだけいるか。ラウジの死によってもたらされたものが何なのか。命の重さとは、つまりはそういうことではないのか。
「このまま北凰騎士団に戻らんっちゅうこともありうるんか」
僕とローレルをセーラリュートに入れたのは母さんの意志だ。戦うことをやめたら、リュートでの五年間はいったいなんだったのか。苦界に身を沈めてまで守ろうとしたのに。
「僕は戻るつもりでいます。戻ります。だってこの国を守るということはフィオーナを守ることじゃないですか。それに、僕は過去を無駄にしたくない」
「せやったら関係ないっちゅうわけにはいかんのとちゃうか」
「団を辞めるつもりはありませんが、いかなる処分も受けるつもりでいます。あとは先輩さえ構わなければ」
「さよか。安心しぃ。俺はハナっから気にせえへんわ。俺の守りたいものを守るためやったらな」
アスペルの言葉は、男の僕でも惚れ惚れするくらい格好良かった。こんなに良い先輩を持つことができた北凰騎士団を捨てるわけにはいかない。彼に掛けられた疑いも、ラウジの仇討ちの件も、すべての確執を取り除いて、北凰騎士団をラウジの知る姿に戻してやりたい。
「ご迷惑でなければご協力させていただきます。わたしにできる限りのことであれば何なりと」
「迷惑なわけあるかい。ありがとうな」
「ご主人さまの弟御の危機に際して傍観者を決め込むわけにも参りませんから」
ローレルは僕が守る。
ほんとうの意味で彼を許せるのはきっと僕しかいない。
本来なら彼が隊長職に就いてもおかしくなかった。それを潔く譲り、後輩であるシオンの部下となることも厭わず、良き副隊長として職務を全うした。自らの命を犠牲にしてヒルルカとドルリを救った。
この国の住人でありながら私達に牙を剥く。金次第でどちらにも転ぶような集団をこのまま野放しにするわけにはいかない。ただの私怨ではない。名のあるハンターであるグラティス・アレンザを潰し、ハンターにこれ以上大きな顔をさせないようにしなければ。
「キール隊長」
フォレトスのボムゥがぴょこぴょこと跳ねて執務室に入ってきた。
「本日朝、市場にて生活用品を売却する彼らの姿が目撃されました。おそらく今晩から明日にはランナベールを去るのではないかと思われます」
「ご苦労様です。了解しました」
「いよいよか」
横に座っていたアブソルのシャロンが透き通った低音の声を響かせた。気が引き締まるというものだ。
「問題は行き先がどこなのか……だな。北のコーネリアスはランナベールの者を簡単に受け入れたりはしない。目指すならジルベール……東門か?」
「常識的に考えればそうですが、敢えて北門から出て城壁を迂回する手段もあります。彼らとて狙われているのは承知の上でしょうから、莫迦正直に東から出るとは考えられません。正式な任務でない以上回せる匹数はそう多くありませんから、一点読みで当てるしかありませんね」
「裏の裏をかいて東から出るということもありうるわけか」
「いえ。買い被りでなければですが、おそらく――」
私ならそうする。
鉄壁であるがゆえに我々にとっての最大の死角。この国は外からの攻撃には強いが内側は弱い。まさにそこが露呈したのが先の反乱ではないか。
「なるほど……だが完全に我々の管轄外だぞ」
「所属が知れなければ、私達もまた一般市民の一匹です。ここで片をつけてしまえば問題ありません」
シオン君。貴方には悪いですが、きっちりケジメはつけさせていただきますからね。
◇
あれだけの反乱が起こっても父は動かなかった。
私はもともと父のことが好きではないが、彼にとってヴァンジェスティ社がランナベールそのものであり、家族や国民など付属品程度にしか考えていないに違いない。お母様は一体何が良くて父のようなポケモンと一緒になったのか。
父の二の轍は踏まない。
「もう少し急げませんか?」
「コレ・まっくす。無理」
ゴルーグの腕に抱かれて飛ぶのは正直なところあまり心地の良いものではない。海辺に近い湿った夏の風が毛足の長い体にべたついているせいもあるけれど。孔雀を置いてきたのは彼女自身とシオンのため。彼の側を離れるのは辛かったけれど、何も出来ずにいるよりも行動を起こすのが私のやり方だ。それにこれは、私が自分で手に入れてこそ価値があるというもの。誰かを使いに出したのでは、ただ物に頼っているだけだから。
「ソレ、効果アルカナ?」
「私にできることは全てしてあげたい、ただそれだけです」
いつも隣にいて心情を察し慰めるのは私より橄欖の方が得意だ。橄欖とシオンが変な気を起こさないか不安でないと言えば嘘になるが、私は信じることにした。私は私にできることを。
「不器用ナ牝」
「ばっ!? な、何を仰いますか! 貴方に牡と牝の何がわかるというのです?」
この二郎というポケモン、何も考えていなさそうで突然こんな事を言うものだから心臓に悪い。シオンと同い年のくせに、シオンより遥かに大人だったりする。
「ふぃおーなノタメ・急グ」
返答はなかったが、心持ち加速したように思う。やればできるではありませんか。
あれはこれから始まる終わらない悲しみの序章に過ぎないのではないか。どうかこの胸騒ぎが杞憂でありますように。
待っていてシオン。今帰りますから――
深夜。ランナベールで過ごした最後の日、俺たちは
「本当にいい?」
「今更未練はねェよ」
「オレはアニキについてくぜ」
「おれはローレルについてくもんね」
「俺も異存はない」
「私の故郷は場所じゃないもの。あなた達よ」
意思確認するまでもなかった。慣れ親しんだ街を捨てることを厭う者などグラティス・アレンザにはいない。
「じゃあ、行こうか!」
「ええ。メント、私達が皆の要よ。命を預かる覚悟と自信のほどは大丈夫ね?」
「進化したおれのパワーなら安心だよ!」
二床の筏を引いて洞窟を抜け、海辺へと運ぶ。ランナベールの西側海岸は標高が高く断崖となっているが、南西の端にあるヴァンジェスティの屋敷からさらに南、一箇所だけ海に出られる場所を見つけた。言うなれば隠し海岸だ。
「よいしょっ、と……」
深い闇を移した水面に筏を浮かべ、キアラとメントが静かに海に入る。紐をしっかりと体に結びつけて、キアラの筏にはローレルとロスティリーが、メントの筏にルードとセキイが乗り込んだ。
「行くわよ」
「了解」
俺たちは私兵隊に狙われている。それは明らかだった。何隊かと交戦してこれを打ち倒した。金で雇われていたとはいえ反逆者には違いないのだ。
あの時一番正しかったのはロスティリーだったのかもしれない。あんな依頼を受けなければ。キアラが生活費を都合するなんて言い出したものだから、受けざるを得なかった。違う。あの時、あの場所で、いざとなればこうして街を出るぐらいの覚悟を決めれば良かっただけの話だ。
ほんとうに今更だ。
外海からの攻撃に備えて、南側は主に水タイプと飛行タイプで構成される海兵団が守っているが、こうして海岸沿いをゆく分には捕捉されることはない。進むは東。ランナベールから十分離れたところで上陸しジルベールを目指す。
「セキイ、落ちんじゃねェぞ」
「アニキ! オレを心配してくれるのか!」
「お前は火が消えたら終わりだろうが。さすがの貧弱なお前でも水に落ちたぐらいじゃ消えねェとは思うがな」
「アニキ……」
後ろからルードとセキイの会話が聞こえる。メントの引く筏も、ローレル達の乗る筏のすぐ後ろについてきている。
ここまでは順調だ。俺たちの情報がどこまで漏れているかわからないから話し合いにも細心の注意を払ったし、仮に今日この街を出ることが知れたとしてもこんなルートをどうして予測できようか。
あの私兵団のクチート。対峙したのは数回だが、あれは強いだけじゃない。恐ろしく頭の切れる男だ。私兵団の規模を考えれば、いつどこで何を見られていてもおかしくない。だから絶対に逃げ切れる道などありはしないのだ。俺達は、グラティス・アレンザは生きるために進む。最善を尽くして散るならその時はその時だ。
「ロスティリー。きみとメントはずっと俺についてきてくれたね」
「何だ急に」
「それで良かったのかなって」
「ふん。そんなもの……」
ロスティリーはローレルから視線を逸らして、後ろからついて来ているメントの方を見た。
「おれたちはローレルが好きでついて来てるんだから!」
水面から顔を出したメントは進化してちょっと野太くなったけれど変わらない明るい声で答えた。
「感謝するのは俺達の方だ。俺とメントが好き勝手していられるのはローレルのお陰だ」
「えっ……俺のおかげ?」
ロスティリーの口からそんなまっすぐな感謝の気持ちを告げられるなんて思ってもみなかった。彼に失礼かもしれないけれど。
「ロスティリーとメントの馬鹿もたまにはいい事言うじゃねェか」
「そういう話は無事、ランナベールを出てからにしましょ?」
感傷ムードになりかけたが、キアラの一声でまた皆押し黙った。
気を引き締めなければならない。
ふと見上げた空。絶壁の上の海岸で、ちらりと何かが光った。
◇
「まさか……! キアラ、メント! 散って!」
考えるより先に指示を飛ばしていた。目も眩む光と、腹に響き、耳をつんざく轟音。晴れわたった星空からの落雷は自然現象ではない。
直撃は免れたが、筏の上にいたローレル達でさえ強い痺れを感じた。キアラやメントの身が案じられるが、筏のスピードは落ちていない所を見ると致命傷は受けていない。筏は岸から離れ、沿岸へと引っ張られていく。
「有り得ねェ……どうやって嗅ぎ付けたんだ!?」
「今はそんなこと気にしてる場合じゃないよ! とにかく逃げ――」
崖の上から何かが飛び降りたのが見えた。あんなに高いところから飛び降りるなんて無謀なことを。
その何かは、ド派手に水しぶきを上げて着水した。距離と視界の悪さとで確認は出来なかったが、比較的大きなポケモンの上にもう一匹乗っていた。
「――ダメだ、来る! 応戦するよ!」
いくらなんでも一匹のポケモンを乗せただけの相手から筏を引いて逃げ切れるはずがない。が、相手も海にいるからには雷は撃てない。
「たった二匹で来るたぁ上等じゃねーか、オイ!」
セキイがドスの利いた声で吠える。
それに応えるように敵も水面に顔を出した。鋼の体を持つダイケンキと、その背に乗る白と黒のアブソル。頭の右側に備えた角は湾曲した鋭利な刃を備え、ローレル達の命を刈り取らんとばかりに黒く光っていた。
「我が名は北凰騎士団五番隊が隊長、シャロン! 貴様らに
凛と響く低音は、女性のものだった。
「六匹に対してたった二匹で突撃? しかもご丁寧に名乗りを上げるなんて舐められたもんだね」
「死にゆく者が私の名を聞いたところでそれを伝える口はない。それに、舐めているのは貴様らの方だ」
シャロンの角が風を纏って光り始めた。鎌鼬は真空の刃を生成するのに長い時間が必要だが、ダイケンキに乗って動き回られては隙を付けない。
「ろろろろろローレル……!」
「慌てるなロスティリー! メント、筏を離して! ルード、任せた!」
「行くぞメント!」
簡略な指示だが、完璧に伝わった。ルードが筏からメントに跳び乗り、ダイケンキとアブソルに向けて突進する。鎌鼬の狙いはこっちの筏だ。割って入ったルードとメントをどうするか。
「甘い」
「セキイ!」
答えは上だった。ダイケンキが突き上げると同時にジャンプしたアブソルは高空からたたき付けるように鎌鼬を放った。その風に立ち向かうは、セキイの火炎放射とローレルの悪の波導。
「だめだ! 海に飛び込んで!」
抑えられるなんて思っていたわけじゃない。だが、相殺のその字もなく一方的に掻き消され貫通するなんて。
海底まで貫き土煙を上げる鎌鼬の恐怖で海水の冷たさはわからなかった。
四散し木片と化した筏の残骸に掴まって浮上したローレルが見た光景に、もはや希望のかけらは見えなかった。
氷漬けにされたメントとルード。ローレルと同じように海面に浮かんではいるが、尾の炎を燃え上がらせるのに必死のセキイ。同じ筏にいたロスティリーとキアラの姿は見えない。
海に落ちたシャロンを再び背に乗せるダイケンキをただ眺めるしかなかった。
「あんた達もこれで終わりね」
ダイケンキが初めて口を開いた。彼女も牝だったのか、なんて下らないことしか考えられないのか、俺の頭は。
「油断するなナナ。敵は全員まだ生きているぞ」
死の恐怖はなかった。それどころか、シャロンの言葉に安堵した自分がいる。誰もまだやられていないのだと。
だが筏は壊れ、逃げる手段も戦う手段もなくした俺に何ができるというのか。俺は冷静でいられないらしい。頭ははっきりしているのに思考はぐるぐる回っている。何もできない。どこで間違えた? 何が間違っていた?
俺の
「父さん……母さん……兄ちゃん」
最期に思い浮かべるのは自分の歩いた軌跡ではなく、家族の顔だった。両親は笑っている。兄ちゃんは――泣くなって。そんなだから女の仔みたいだって虐められるんじゃないか……。
何かが、俺の体を海に引きずり込んだ。
「終わりましたかね」
「さすがはキールはんやなぁ」
ここからではよく見えないが、シャロンの鎌鼬が炸裂して彼らの足は奪った。水ポケモン二匹で四匹のポケモンを運搬するのと、一匹を一匹に騎乗させるのとどちらが有利か。
「私は指示をしたまでですから。この結果はシャロンさんとナナさんの働きによるものですよ」
「確かにうちの隊長はバケモンやけどな」
五番隊副隊長、バクフーンのヒルルカは少し自慢げに鼻を鳴らした。
「そやかてあいつら海から逃げるゆーてここで待伏せするって決めたんはキールはんやん?」
「俺は役に立ちませんでした……」
「ラウジさんリスペクトの雷、ですか。さすがに付け焼き刃では彼ほどの威力と命中精度はありませんでしたね。ですが相手の士気を挫き多少なりとも弱らせた初撃は無駄ではありません。何より成功したならば良しとすべきでしょう」
「ワタシなんてなにもしてないヨ!」
クロバットのキャシーもケタケタと笑う。やや人格に問題はあるが、十三番隊の空を任せるに足る優秀な部下の一匹だ。
キールは勝利を確信していた。洋上にちらついていたリザードの炎ももう見えない。最後に、氷漬けになったルカリオとオーダイルに向けて突き進む二匹の波しぶきは、死へのカウントダウンだ。
キールが、ヒルルカが、ドルリが、そしてキャシーが、ジエンドの瞬間を見届けるはずだった。
その瞬間は訪れなかった。
ヴァンジェスティの屋敷の方向からとんでもないスピードで飛来したポケモンが、決して入れてはいけない横槍を入れてきたのだ。
◇
「シャローンッ!」
「くっ!?」
何故お前が。どうして邪魔をする。
そこらの鳥ポケモンとは比較にならないほどの勢いで降ってきた彼の爪を、角の刃で受け止めた。勢いは殺し切れず、両者共に海に突っ込んだ。水の中で目が合った。かつて見たことがない、怒りの炎を宿したアスペルの瞳と。
ナナがすぐにシャロンを、飛行ポケモンと思しき誰かがアスペルを拾い上げた。
「アスペルッ! あの噂は……ハンターとグルだという噂は本当だったのかっ!」
「アホ言うなや。俺はジブンらぁの頭冷やしに来たったんやないかい! なんぼ言うてもわからへんかったみたいやからな」
アスペルを乗せて飛んでいるのは、あのラティアスだ。サエザの乱における敵側の主力。それがまたしても私達に
「騙されんぞ。そのラティアスが証拠だ」
アスペルを乗せたラティアスは、氷が溶けてしまいそうな敵と、シャロン達の間に割って入る位置に浮かんでいる。
「あたしが? ……もう、だからあたしが来たらややこしいって言ったのに」
ラティアスはまるで他人事のように――実際他人事なのだろう、世間話でもするみたいな軽い調子だった。冗談ではない。理由は何であれ、ハンターに加担しているのだ。ならば障害は葬るのみ。
「ナナ!」
「はいよ、隊長!」
ナナが突き上げるのと同時に跳躍したシャロンは、角の剣を上段から振り下ろした。ラティアスは避けることはできない。彼女の目には横凪ぎに振るったように見える、騙し打ちだ。
「――ちょっ、いたたっ」
シャロンはそのまま海に落ちたが、手応えを感じなかった。この暗い中だというのになんて反射神経の良さ。
潜って待機していたナナの背に乗り浮上する。水面に出たところを狙われるかと思ったが、そうはできなかったらしい。
「……キール!」
周囲を高速で縦横無尽に飛び回りつつ、様々なタイプの攻撃でラティアスを翻弄している――クロバットのキャシーに乗ったキールが、身につけた多彩な技で攻め立てている。ラティアスは直線的にはスピードがあるが、逃げるわけにいかないこの状況であんな攻め方をされたら長所を活かせない。
キールと一瞬だけ目が合った。それで理解した。この隙に仕事を終わらせてしまえばいい。チャーレムとフローゼルは筏ごとバラバラにした。リーダーとリザードは海に沈んだ。後はあの氷漬けを破砕すれば、全ては終わりだ。
「ちぃっ、セルアナ――」
「無理だよ! 下手に動けない……!」
ナナと共に、今度こそまっすぐ突き進む。仇を討つ。最強のハンターと言われたグラティス・アレンザはここに終焉を迎える。ハンターの
「さよならだ」
眼前の氷漬けに角を振り上げた時、右側に熱を感じた。ナナが大きく後退する。
大の字を描く巨大な炎が、シャロンのいた場所を焼き尽くさんとばかりに燃え盛った。すんでのところで躱したとはいえ無傷では済まない。
「何だと……?」
海に沈んだはずのリザードが、海面から顔を出していた。
「アニキ……オレの最期の力……頼んだ……ぜ……」
彼の言葉にはっとした。あの大文字。私達を攻撃するだけが目的じゃない。
「最期なんて言うもんじゃねェよ馬鹿野郎。あと俺は鋼タイプなんだから少しは加減しろ」
「あちちちちっ。ルード大丈夫?」
「メント、セキイは任せた!」
氷が溶けたばかりとは思えぬ瞬発力でルカリオが跳躍した。標的は当然こちらだ。
「いいようにやってくれたじゃねェか!」
ナナの冷凍ビームで迎撃するには近すぎる。ルカリオがそのまま振り下ろしてきた拳を角で受け止めた。鋼の拳は切れず、金属音を立てて弾き返した。
ルードは筏の破片に着地して波導弾を撃ってきた。横に躱したところへ、跳び蹴りで追撃してくる。ナナがハイドロポンプで迎撃を図るが、空中で急加速してくぐり抜けた。ルカリオの得意技、神速――まずい!
「ナナ!」
側頭部に強烈な跳び回し蹴りを食らったナナの体が、がくんと沈んだ。失神してしまった――わけではなさそうだが、すぐには持ち直せない。シャロンはルカリオを追って跳んだ。木片の散らばる足場は良いとは言えない。タイプ相性は不利だが、二本足で立つルカリオよりは安定性のあるこちらに分がある。
敵もそんなことは承知の上である。ルードは波導弾で牽制してきた。牽制といっても時々溜めを挟んだ大きな弾が飛んでくるのでまともに当たったらただでは済まない。筏を跳び移りながら躱すが、この足場では行き先も読まれやすい。鎌鼬のエネルギーを集束しようとするも、次第に弾を角で弾くことが多くなってくる。これでは集中できない。
何とかして接近戦に持ち込まなくては。
嵐のような波導弾に晒されながらもシャロンは冷静に隙を伺っていた。
――その二匹の間に降り注いだ、もう一つのエネルギー。
闇の中でなお黒く燃え盛るような、大爆発。巨大な水柱が完全に視界を遮った。
「ほんと、何やってんのさ……?」
こんな時でさえも艶のある、中性的なその声の主は。
一番来てはいけない奴。
お前に知られずに全てを終わらせるはずだったのに。
「……シオン」
日陰と月影 -Shade and Moonlight- 3へ続く
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