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新月の夜に肉を喰らう

/新月の夜に肉を喰らう

大会は終了しました。このプラグインは外して下さって構いません。
ご参加ありがとうございました。




注意:この小説にはエロ、グロ、バイオレンスおよびその他読む人を選ぶ要素の集合で構成されています(エログロは別シーン)。それらが無理という方は読むのをお控えください。




新月の夜に肉を喰らう



水のミドリ





1.営業 


🌓

 青い炎の灯った両腕をゆらりゆらりと揺らめかすと、それに合わせて宙に浮いた鬼火も、糸で操られているかのように怪しく揺らいだ。不規則な明暗を繰り返す火の玉を、私はそう広くもない小屋の中に、まんべんなく遊ばせていた。
 私は行商の医者で、今は治療の真っ最中だ。
 閉め切った小屋はすでに蒸し風呂のような熱気で満ちていた。私のように炎でできた体を持ち合わせていなければ、たちまち汗まみれになるだろう。鬼火が細やかに弾ける小気味いい音が響く。焚きつめた香は体の髄まで浸透していくようだった。
 霊界の空気が染み込んだという布で作られた装束が、炎に照らされて不規則な影を作る。壁面に浮かび上がったそれは、霊界を司るとされる反骨の竜を想わせた。本来なら私とは無縁の道具だが、これに身を包むと普段より霊力が強まるような気がして、治療の際には必ず使うことにしている。
 連れのアリシアは一定のリズムで(つつみ)を叩き、経を唱える。鈴を転がしたような普段の声からは想像もつかない、おどろおどろしい地鳴りのような響き。これに合わせて、私は鬼火を操る。彼女はそれらしい服こそ身に着けていないが、もともと神秘的な白いドレスを着ているような外見をしているから、座っているだけで巫女のように見える。治療を何度も行っているうちに、暑さには慣れてしまったようで、額に汗のひとつもない。
 窓の木枠に黒い布を張り付けて日の光が差し込まないようにしている。天井の四隅に放たれた怪しい光と、体に影響が出ないまでに薄められた毒霧(スモッグ)も、治療の演出に一役買っていた。そう、すべては患者に浮遊感を覚えてもらうための演出だ。
経が、いよいよ佳境に入ってきた。力のこもったアリシアの声がいっそう張り上がる。
「汝の心よ開き給え!!」
 ひときわ大きなまじないにあわせて、私はふたつの鬼火をひとつに合わせ、大きな火球を作り上げた。煉獄の業火を思わせるそれは、淡い光にもかかわらず、小屋の中全体を青白く照らす。
 そして、私の炎を追い回していたラッキーの視線が、釘付けとなった。彼女は、私たち2人の、本日唯一の患者だった。それだけに治療に力が入る。
 ラッキーはもはや、私の思うがままだった。30分も私の催眠を受けていれば、どんなに屈強な精神の持ち主でさえ、心の奥底が手に取るようにわかる。火の玉を転がすように、彼女の心も自由に操ることができた。
 事前に聞いていた話の通り、彼女は託児所を経営しているようだった。それも多忙で、トレジャータウンで働く者の子供たちをひとえに引き受けなければならない。もちろん休みなんて殆どない。いくら子供が好きだからと言っても、さすがに心が悲鳴を上げていた。それが彼女の本心だ。
 私はその心の端に、そっと鬼火を近づけた。
 シャンデラの業火は人の心さえも燃やし尽くすというが、それは本当だ。いま燃え上がるラッキーの心は、仕事がつらいとか、このままではいつか過労で倒れてしまうのではないかという、心の底にある不満や恐怖。いわば無意識の感情だ。そのような負の感情というものを取り去ってしまえば、確かに仕事に集中できるだろう。が、不満や恐怖はなくてはならない感情で、それらを取り除けば当然副作用も出てくる。私はそういう者たちをいくらでも作ってきたが、今更気に留めることはない。私とて、今日の路銀を稼ぐのに必死だ。これが、私たちの仕事であり、()()であった。もしかしたら、私は自分自身のうちにある、他人を想う心までも燃やしてしまったのかもしない。

「はい、終わりましたよ。気分はどうですか」
 打って変わって穏やかな声に戻ったアリシアが、古びた木の扉を開けてラッキーを外へ導く。半ば放心状態の彼女に続いて、私も外の空気を吸い込んだ。
「ええ、なんだか、憑き物が落ちたようです。これで仕事にも身が入ります。ありがとうございました」
 懐から包みを取り出して、ラッキーは頭を下げた。中身を確かめてからしまう。
「ではまたどこかでお会いしましたら、ご贔屓に願います」
 おぼつかない足取りで去っていく丸い背中は、角を曲がったところで見えなくなった。愛想よく手を振っていたアリシアが大きく息をついて、伸びをした。私も空っぽの肺を満たすように息を吸い込む。すっかり日の沈んだトレジャータウンの路地裏は、表通りとは対照的に喧騒が鳴りを潜めている。熱の引いたたおやかな風が、火照った体に心地いい。軒を連ねた家々のどこからか流れてくる焼けた魚のにおいと、それにうっすらと混じる土(かび)のにおい。まだらに雲がかかった空から、三日月よりも薄く欠けた月が、ひっそりと私たちを照らしていた。
「さてミトス。晩ご飯は何にしましょうか? そろそろ新月ですから、わたしは獣のお肉が食べられないのですけれど」
「ああそうか、もうそんな時期か。たしか、私たちがトレジャータウンについたのも新月の日だったな」
「ええ、小屋を借りてからちょうど一か月になりますね」
 湿気でバナナのように丸まった緑の髪の先を指でほぐしながら、アリシアが言った。彼女の信じるクレセリアの教えはいくつかの禁則事項からなり、新月に近い晩は肉を口にしてはいけない、というのもそのひとつだった。なんでも月の光の届かない夜は天女様のご加護が行き渡らないらしく、隠れて肉を食べようものなら、その姿はたちまち悪魔に変わってしまうのだとか。そんなばかばかしいことがあるか、と私はかつて一度だけ口走ったことがあったが、その時のアリシアの見幕といったらなかった。サーナイトの彼女にとって、教えは絶対であり、それに唾をつけられるものなら、それこそ悪魔にでもなろう、という按配(あんばい)だった。
 だから、今晩は魚の香草蒸しだ。むろん、彼女の前で獣の肉を食べることもためらわれるから、私も同じものを食べる。
「では、私が買い出しに行ってくるから、おまえは調理の支度をしておいてくれ」
「水を汲んでおきますね」
「よろしく頼む」
 いつものように軽い財布を引っ提げて、私はタイムセールの始まっている頃であろうカクレオンの商店に急いだ。

 両手に数日分の食材を抱えて来た道を戻る途中、私は路地裏から呼び声を聞いた。きっと乞食だろう。聞こえないふりをしようと決めたが、視界に入った影を見て(いぶか)しんだ。うす暗くてよく見えないが、ピンクで丸々としたシルエットだ。先ほど治療を施したラッキーが思い浮かぶ。
 目を細めて様子をうかがおうとすると、やにわに体が引っ張られる感覚を覚え、気づいたときにはもうすでに路地裏に引き込まれていた。
「すみません、足を止めていただいたものですので、つい念動力(サイコキネシス)を使ってしまいました。お許しください」
反射的に防御の体制をとった私を迎え入れたのは、向こう見ずの暴力ではなく、人の良さそうな口調だった。淡いピンクとパープルのツートンカラーのずんぐりとした丸い体を、ゆったりと浮遊させている。ここらではあまり見かけないが、同郷の村にもいたからわかる。ムシャーナという種族だ。
 頭の天辺にある煙穴からは、肌の色よりも鮮やかなピンクのふわふわが湧き出ていた。起きている間はムシャーナの夢の煙は発生しないはずだが、目の前の彼はまるで桃色の衣に身を包んでいるかのように、深く煙を炊き込めている。会釈程度に頭を下げ、フーモです、とうやうやしく名乗った。喋るたびに長い鼻が上下に揺れる。
「何の用だ? 急いでいるんだが」
「そうでしょう、けれどちょっと待ってください。いえほんの少しだけしかお時間いただきませんから。シャンデラさん、この町の人じゃないでしょう? いやね、あなたから発せられる波動が、ほかの人とは違うのですよ。何と言いましょうか、きらびやかと言うか、惹きつける魅力にあふれているというか。頭の炎も艶があって若々しいですね、さぞモテるのではないでしょうか」
 ははあ。客引きか。言葉通りけむったい奴だな、と私は思った。見た目とは裏腹に結構な早口のセールストークだ。こんなものに引っかかる奴の気が知れない。わざとらしく荷物をゆすって、棘を含ませて言う。
「早く帰らないと、新鮮な魚が腐ってしまうのだが。待たせているポケモンがいる」
「ええ、ええ、そうでしょう。お家で待っている恋人がいらっしゃるのでしょう。お抱えになっている食料を見ればわかります。今の時期、海の幸は豊富ですものね」
 そんなものじゃない、と口走りそうになるのを堪えた。恋人と聞いてアリシアの顔が脳裏をかすめる。アリシア? いや、彼女と恋仲になるなんてことはあり得ない。なにせ4年もともに旅をしていて、浮かれた経験は何ひとつなかったのだから。
 苦々しい表情が出てしまっていたのか、フーモは顔を覗きこんで私の心境を察したのだろう。これはすみません、と小声で謝って、丸い体つきをさらに丸くしたような声をかけた。
「けれどあなたほど素敵な方ならばすぐにうまくいきますよ。辛そうな顔をしていると、どんどん魅力もしぼんでいってしまいます。ワタクシのように呑気に過ごしていたほうが健康的ですよ。どうですか、最近よく眠れていますか? 不眠の特性を持たない限り、大抵のポケモンは1日少なくとも6時間眠らないと、脳が正常に働かないそうですよ。徹夜して夜を明かした次の日は、どことなくふわふわした感覚があるでしょう。あれは、頭の一部が蓄積した疲れに耐えかねて、起きながらに眠っているからなんです」
「はぁ、そうなのか」
「ですから、どんなに忙しくても必ず睡眠をとらなければなりません。働き詰めで倒れてしまえば元も子もありませんからね。毎日しっかりとした睡眠をとっていれば、全てがうまくいくというもの。どうですか、ちょっとこちらでワタクシの催眠術を試してみませんか。ほんの数分だけですので。お代は決していただきません。ワタクシどもの行っているサービスは、なにもただ眠っていただくだけではございません。最上級の夢見心地をご提供いたしますよ」
 確かに近頃は私たちの噂もじわじわと広まっているようで、1日に何人もの患者を診ることが増えてきた。ちゃんとした睡眠時間を確保できていないのも事実だ。帰りを待っているアリシアには悪い気がするが、遅れてもたかが数十分だろう。料金も発生しないと言っているし、ここはひとつ誘いに乗ってみるのも悪くない。そもそも金銭沙汰で問題になっても、こっちには貯蓄もほとんどないし、売れるものがあるならすでに売り払っている。
 ――ほんの少しだけなら。
「それほど言うのなら、少し試してみようかな」
「そうですか! ご理解いただけて光栄の限りでございます。では、もう少し詳しい話をいたしましょう。そうですね、あちらのカフェにしましょうか。あ、お飲み物の代金もご心配なく」
 路地裏をもう一度折れたところに、一軒の店があった。カフェというには闇夜に溶け込んでいて、まるでその店自体がうごめく生き物のようだ。闇の冷気を吸い込んでたたずむ魔物。熱のない視線で射すくめられている気がして、私は思わず身を震わせた。
「どうしました?」
「何だかこの店、雰囲気が怪しくないか……」
「そうでしょうか? ワタクシには何も感じられませんけれど。流石は特別な力をお持ちの方だ。どうします、店を変えましょうか?」
 一度足を踏み入れるのを躊躇したが、サービスを受けると言ってしまった手前、フーモの笑顔を前に引き返すのも気が引ける。新たに店を変えるにも時間がかかり、アリシアに要らぬ心配をかけることになる。私は無い足を地に着ける思いで、フーモが開けて待っているドアを恐る恐るくぐった。

「ミトスさんは、『明晰夢』ってご存知でしょうか?」
「めいせきむ?」
 店の中に入ってしまえば、先ほどまでひしひしと感じていた異様な空気は、立ちどころに掻き消えていた。淡いかがり火に暖められた穏やかな空間が、こぢんまりと広がっているだけだ。カモミールの香る紅茶を注いで、フーモが尋ねた。念動力で木のカップを差し出す。品のいい芳香が部屋中に広がった。高すぎないテーブルを挟んで、フーモは今まで以上ににこやかに話し始めた。
「聞いたことはある。詳しくはわからないが、たしか、『今見ている夢は夢であると意識できる夢』の事だろう? なんでもその能力に秀でていれば、自分で見る夢をコントロールできる、とか」
「知っていらっしゃるなら話が早い。ごく一部の人間やポケモンは、自分の夢を好きなように変容させることができるのです。あるいは、さらに限られた種のポケモンは、他人に悪夢を見せるとか、他人の夢の中にポケモンを送り込む、なんてこともできるそうですよ。かの英雄に力を貸したスリープが、まさにその力を持っていたといわれています。もう10年も前のことになりますから、真実かどうかはあやふやではありますが。ともかく他人の夢を操る才能はほとんど生得的なもので、普通のポケモンが努力してどうこうなる代物ではありません。ワタクシどもの社長はその能力を訓練する方法を確立し、店を始めるに至ったわけです。不思議に思われていたでしょう? ほら、ワタクシは起きながらにして夢の煙を出すことができます。あ、まだ吸い込まないでくださいね、夢の内容を決めておりませんから。同様の力はワタクシのほかに3人のポケモンが修得していて、それでしがなく店を経営しております」
「なるほど」
 他人の夢を操るなんて眉唾な話では、店の裾野を広げることも容易ではないだろう。それは私たちにも言えることだ。紅茶を啜ると、口の中にまで穏やかな香りが広がった。ゆったりとした、きっとフーモの夢の煙に包まれれば、同じような気持ちになれるだろうと思わせる心地。注意深く見渡してわかったことだが、店内は客がリラックスできるよう細部にまでこだわりが施されていた。淡い色の間接証明。モダンな雰囲気の調度品や、それにあったシックな棚。吊るされた木彫の天井扇は、木目調の家具に薄い影を規則的に投げかける。扇を回す水車のリズムは、目を閉じれば夕暮れの海岸を連想させる。まるで眠るために用意された空間のようだった。さざ波のように押し寄せる眠気を振り払うように、私は話の先を催促した。
「それで、他人に悪夢を見せて、どうするんだ」
「何もお見せすることができるのは、悪夢に限った話ではございません。いえ、ご所望ならばお見せすることもできますが…… ワタクシ共はあくまで、お客様がいい夢を見ることのできるよう”手助け”するだけです」
「手助け?」
「はい、そうです。というのも、簡単に申してしまえば、ワタクシ共がお客様に干渉することはたった3点だけ。ひとつはお客様の心の深層にある欲求や本当の欲望に従い、それが夢の中で実現するように働きかけること。もうひとつはそれがより現実的であるように、詳細な感覚を補うこと。そして最後にですが――これが最も重要であると言えるかもしれません――見た夢を起きてからも思い出せるように、記憶を保存しておくこと。忘れてしまえば、幸福なひと時の価値も無くなってしまいます。起きてから思い出すことも、夢の重要な役割ですからね」
「確かに私も、目覚めてから『ああ、今の夢の続きが見たい』と思うこともしばしばあるな」
 そうでしょうそうでしょうと相槌を打ちながら、嬉しそうに紅茶のお代りを差し出してくる。丁寧にそれを断って、私は心の隅に引っかかっていたことを訊いた。
「それで、どうして私に声をかけたんだ。金を持っていそうな奴らなら、高台のほうに住んでいるだろう」
「そうですね、それはあなたが心理的療法を生業(なりわい)としているから、でしょうか。どんなに深刻な悩みでもきれいさっぱり忘れさせてくれる、という二人組の医者の噂はうかがっております。ワタクシ共の仕事も、言うなれば精神治療のようなもの。同業者の方なら、夢の力を率直に信じていただけると思ったからですよ。そういった力に親しみのない者たちは、夢とか霊とかいう言葉を耳にすると、とたんに険しい顔をする。そうでしょう? そのようでは、一通り事が済んだ後に何かと文句をつけられて料金を踏み倒される、なんてこともありますから」
 ――知っていて私を誘ったのか、食えない奴め。
 申し訳ありません、と苦笑いしたが、フーモはすぐに真面目な顔に戻った。確かに、私たちを訪ねる客の中にも、一定の割合でそういう輩がいた。治療が済んでから、「はじめと何ら変わらないじゃないか!」と喚くような客だ。私がきっちりと魂を削り取っているので変わってはいるのだが、そんなことをおいそれとは言えない。治療法が表沙汰になってしまえば、それが合法であるはずがないのだ。すぐにお尋ね者になるだろう。私たちのやっている商売は、その側面でもグレーだった。フーモの商売も、(おおやけ)にはできないような秘密で成り立っているのだろう。
 それだけに警戒せざるを得なかった。何をされるかわからないという恐怖は、私が一番よく知っている。副作用を知らずに治療を受けた患者がどうなったのか、思い起こすだけでも気が滅入る。この(おとこ)について行ってしまってはダメだ。彼らの縄張りとする沼に足を踏み入れた途端、あっという間にずぶずぶと全身沈み込んでいってしまうだろう。今ならまだ間に合う。カフェを出たらすぐに逃げて帰ろう。表通りまで出てしまえば、無理やり捕らえられることもない。
 まだ中身の残っているティーカップを押しのけ、私はそそくさと荷物をまとめ始めた。
「眠りがいかに素晴らしいかわかったよ。話もついたところだし、そろそろおまえたちの店に案内してくれ」
 フーモは目をぱちくりさせ、穏やかな笑みでそうですか、と言った。最後に一口だけ紅茶を啜って、ゆったりと腰を上げる。
「ではそうしましょうか。あ、お荷物はそのままでいいですよ。またお帰りになられるときにお渡しいたしますから」
「いや、だから、今から店に向かって――」
 ドアに向かおうとする私の体を、フーモは念動力で押さえつけた。結構な力だ。
 私を見据えて、フーモがニッと笑う。物腰の低い笑顔とはまた別の、口の端を釣り上げた、落ちていた大金を拾った時のような表情。
「それでは早速眠っていただきます。お二階へどうぞ。……そうそう、申しておりませんでしたが、ワタクシどもはカフェも経営しているのです。いらっしゃいませ、ごゆっくりと」 



☆☆
☆☆☆
☆☆☆☆


 ざらざらした路面を走る車輪に揺られる感覚を覚えて、私は重い体を起こした。こめかみのあたりが鈍く痛む。記憶には(もや)が掛かったように曖昧としている。自分の炎の発する光によって、薄暗い空間が浮かび上がった。私ほどの大きさのポケモン1人ならば、ゆったりと寛げる広さ。端には保存のきく干した魚や乾燥させたモロコシが積まれ、水の貯められた(かめ)が2つ並んでいる。どうやら(ほろ)馬車に揺られているようだ。
 恐る恐る日よけの布を持ち上げる。眩しい日差しに一瞬目をくらませて、目に飛び込んできた光景に、私は絶句した。
「は……?」
 宿場町だった。
 荒い石畳が南北に向かってどこまでも伸びている。久々に嗅いだどこまでも澄み渡った土の香りと、空の青さを肩代わりしたかのように吹き付ける爽やかな風。もうすぐ差し掛かる十字路を左に曲がれば、スワンナの料亭をはじめ、屋根がなくとも多くの露天商が並んでいるはずだ。高台から遠くを見渡せば、この季節なら一面の紅葉が眼下に広がっているだろう。右手にはみなが『パラダイス』と呼ぶ自由開墾地がある。ポケモンが居つくようになった初めの頃はソバも育たないような荒れ地だったが、今はそんな過去を想像させることのないくらい緑に潤っていると思われる。山脈から水を引き、岩を切り開いて訓練場を設える者までいた。なにもかも、こつこつと開墾を続けてきたポケモンたちの努力の賜物だ。
 すべて知っている通りだ。それもそのはず、ここは私の故郷なのだから。
「おンやァあんちゃん、いいとこで目ェ覚ましたなァ、ほゥら、そろそろ宿場町につくでよォ、降りる準備してくだされ」
 間延びした方言で、幌を引く壮齢のゼブライカがのんびりと(いなな)いた。ぼさぼさに毛羽立った(たてがみ)に、衰えていない速さで電撃が走る。急に声をかけられ飛び上がりそうになるも、私はしどろもどろになりながらも訊いた。
「あの、えっと、こ、ここは……?」
「ここって、そりゃァあんちゃんの夢の中だべさ。故郷(くに)に帰った覚えはあるかいな」
 夢。そうか、ここは夢の中か。
 次第に記憶がはっきりとしてきた。そうだ、あのカフェから逃げようとしたところを、フーモに半ば無理やり二階の青いドアの部屋に連れ込まれ、奴の煙で窒息させられたのだ。いってらっしゃいませ、と囁くフーモの張り付いた笑顔がいやに頭に残っている。そして気づけば故郷への帰路を急いでいる。なるほど合点がいった。私は夢を()()()()()()()()のだ。フーモの言葉を借りれば、『深層にある欲求や本当の欲望に従い、それが夢の中で実現するように働きかける』ことをした結果なのだろう。つまり、私の心が切望しているのは郷愁の想いということなのか。
 どうにせよ、夢が醒めるまでは現実に戻れることはないのだろう。折角ならば、久しぶりの故郷をゆったりと見て昔を懐かしむのも悪くない。いつか酒を酌み交わした旧友は元気だろうか。黙って故郷を捨てたことを、両親は怒っていないだろうか。ひそかに恋心を寄せていた2つ隣に住むベトベトンは、もう嫁いでしまったのだろうか。
 高鳴る期待に胸を膨らませ、私は幌を降りた。通いなれた道を、右へ左へ。あった、私の生まれた家だ。後先考えずに飛び出したあの頃と寸分たがわない、古めかしくも立派な家。茅葺はところどころ剥げ落ちていて、建てられてから長い間風雨にさらされ続け、木の傷みがひどい。庭に植えてある柿の木はちょうど熟れはじめたところで、砂糖を練って固めたような甘い匂いがかすかに鼻に届いた。あれから20年は経っているだろうか、もう二度と戻ることはないだろうと思っていた故郷に、自然と涙がこぼれかけていた。
 軒先に誰かの影が見えた。もともとおふくろは病弱だったから、親父だろうか。農夫らしい朗らかな声が脳裏に甦る。遠くから帰ってくる私を見て、手を振りながらぱたぱたと慌てたように出てくる。
 太陽の下に出てきたそのポケモンを見て、私は再び絶句することになった。
「あなた、お帰りなさい! 今日のお仕事は早かったのね!」
 さらさらとした光に包まれ、玄関から迎え入れたのは、見まごうことなくアリシアだった。

 夢の中の故郷は、私の知っているそれに少しだけ脚色が施されているようだった。
 一通り村を回ってみて、そのほとんどが思い出通りであることに驚いた。記憶がかすれて曖昧でおぼろげだった部分も、見ればかえって記憶が鮮明になるほど鮮やかに描かれている。そして、それは宿場町に住む住人もしかりであった。料亭のママであるスワンナに会えば、あら、今日は早くから飲むのね、と冗談めかして言われ、古くからの付き合いであるズルッグは、今日はサルベージに挑戦するんだ、と相変わらず楽して稼ぐことしか頭にない。においや味に関してもそうだ。山裾から吹き付ける、身を切るような凍てつく風に、どこか遠くから響く鳥ポケモンの高音(たかね)。おふくろの作ってくれた味噌汁には私の好きな(かぶ)が入っていて、汁を啜れば記憶の底に沈んでいた懐かしい味がした。
 ただ、決定的に異なるのは、歩く私の隣にアリシアがいるということ。
「あなたがお昼ごろに帰っていらっしゃるって聞いていましたから、お弁当を作って待っていました」
 そして、彼女と結婚しているということ。パラダイスにある私の畑の(うね)に腰かけて、アリシアは家から持ってきた巾着を開いた。握り飯が数個と、蕪の浅漬け。首からかけた白い手ぬぐいを土で汚して、屈託のない笑みでおにぎりを手に取る。世の中にこれ以上の幸せはないと思わせるほどの、ぱっと輝いた笑顔。
 ――可愛いな。
「あなた、どうしたんですか? お仕事疲れちゃったんですね、今日はゆっくりとお風呂に入りましょう」
「あ、ああ……」
 アリシアと一緒に風呂。考えたこともなかった。いや、夫婦なのだからおかしいことはないだろう。そもそも私はあまり長風呂をすることができないから、そういう状況を想像できなかったが、確かに悪くない。
「どうしたんですか、そんな思いつめた表情をして。さ、ご飯食べちゃいましょう。あと畑の半分を刈り取るだけですから、今日中に終わりそうですね」
「ああ、そうだな。今日中に終わるといいな」
 つかえた声でおうむ返しになりながら、私は握り飯にかじりついた。気恥ずかしくて、アリシアを直接見ることができない。自然と体内の炎の温度が上がる。現実とはあまりにもかけ離れた彼女のすべてが、私をちぐはぐな方向へ引きちぎっていくようだった。
「あ」
 アリシアが不意に声を上げた。驚いて振り向いた私の口許にそっと指をあてる。
「ご飯粒、ついてますよ。ふふ、仕方のない人」
 見たこともない満面の笑顔で、アリシアはそのまま指を口に運んだ。突然風が舞い立って、まだ刈り取られていない稲穂を大きくそよがせた。
 とくん、と静かに心臓が跳ねた。薄れゆく意識の中で、私はようやく気付いた。そうか、そういうことか。
 ――私はアリシアのことが好きなのか。


☆☆☆☆
☆☆☆
☆☆



「おはようございます。夢見心地の夢の世界はいかがだったでしょうか、ミトスさん」
「はぁっ、はああっ……」
 がばと起き上った私を迎え入れたのは、アリシアでなくやはりあの(おとこ)だった。夢の煙を周囲に漂わせ、今ひとつつかみどころのないフーモ。にやつく顔に非難がましい視線を向けて、意識を鮮明にしようとした。まるで悪夢から飛び起きたかのように、荒い呼吸が繰り返され、目の奥がちかちかする。なんだ、なんだったんだ今の夢は。
 私は非難がましい視線をフーモに向けて、詰問した。
「他人の頭の中を勝手に覗いて、しかも変な夢まで見させるなんて、失礼だとは思わないのか!?」
 半ばいきり立つ私をよそに、フーモは肩をすかしてしれっと答える。
「その点は散々説明したじゃありませんか。確かにワタクシはミトスさんの記憶を覗きましたが、決してその内用を他言しません。ワタクシ共の沽券にかかわりますから。そのこともお伝えしようと思ったのですが、早く眠らせろ、とあなたが仰られるもので」
「なんだと……!!」
 くつくつと笑うフーモに思わず手が出そうになったが、ぐっと堪える。私の気持ちを知ってか知らずか、フーモはそっと耳打ちした。
「でも、悪くなかったでしょう?」
 そう言われてしまえば、おとなしく頷くしかなかった。アリシアの笑顔を思い出すだけで、全身をくすぐられたかのように心が沸き立つ。押し黙った私を見て、フーモはさらに甘言を漏らす。
「ちなみに、あの夢の続きをご覧になりたいのなら、こちらの料金にて提供させていただいております」
 フーモの示した金額は、それは肝を抜かすほど高かった。私たち1週間分の食費はゆうに超えている。ダンジョンの奥深くに店を出す商人も、ここまで喰ってかかった値段は付けないものだ。
「ふざけるな、こんなに払えるわけないだろう!」
「おやおや、そのご様子ですともう次の夢をご所望ですか? あまり連続で夢を見ると、体に毒でございます。今回は体験だけにしておきましょう」
 ――こいつめ……!!
 踵を返そうとする私の背中から、うやうやしい声が響く。
「またのご来店を心からお待ちしております。あなたはきっといらしてくださるはず。――そうだ、こちらがお預かりしていました手荷物になります。外はもう朝ですが、道中お気をつけて」
「……外は朝!? 私はどれくらい眠っていたのだ!?」
「そうですねぇ、ざっと10時間ほど。よほど素晴らしい夢を見ていらっしゃったのでしょうか、起こしてもまったく起きなさらなかったものですから」
「このやろ……!!」
 二度と来るか、と吐き捨て、私は腹を空かせたアリシアに怒られるべく、小屋へと戻った。


2.部長 


「ミトス、わたしに何か言うべきことがあるんじゃないですか?」
 朝帰りした私を待ち、小屋の前にずっと棒立ちになっていたアリシアは、開口一番こう言った。
「あ、いや、その――」
「その、じゃありませんよ! まったくもう、わたしがどれだけ心配したと思っているんですか!? あの後何時間も探し回ったんですよ! 道行くポケモンに尋ねて回って、カクレオンの商店にまで聞き込んで……!! もし川に落ちていたら大変だからって、町の自警団の人にも話を通して!!」
 アリシアは怒るといつもこうだ。こちらの弁明などにはまるで耳を貸さず、一方的にまくしたてる。こめかみの辺りが痛くなってきた。論理的な思考を排除した力ずくの感情論に振り回され、説教が終わるころにはへとへとになる。そして話の後半には……
「だいたいミトスはいつもそうじゃありませんか! わたしの事なんて考えもせずに! この間も苦しんでいるポケモンがいる、っていうのにあなたは貧乏人だから助けない、だなんて! それでも医者ですか!?」
 二人旅で鬱積した不満が(せき)を切ったように溢れ出す。サーナイトはもともと目がぱっちりしているうえに、アリシアのそれは他のサーナイトと比較しても大きい方だから、うっすら充血した双眼を吊り上げていると、まるでゲンガーに睨まれているようだ。深くしわの寄った眉間から、呪いの言葉が出ているようだった。愚痴が一通り済むと、それから……
「はあっ、もうこの調子なら、アリスが見つかるのもいつになるのやら…… 奴隷商人に売り飛ばされてしまった可愛そうなアリスは、今ごろ元気にしているのかしら。心配でなりません」
「わ、悪かったよ」
 生き別れになった妹のアリスの身を嘆くのだ。それに私は関与していないのだが、(てい)よく責任を擦り付けてくる。両手で顔をすっぽりと覆い、時にむせぶように声を荒げ、時にさめざめと涙をこぼす。演技しているような綺麗な泣き方が、私をより一層焦燥させた。
 けれど、アリシアを黙らせるにはたった一言、こう囁くだけでいい。
「すまない、どうしても外せない用事ができてしまったんだ。だから昨日は帰れなかった。分かってくれたか?」
 ほんの数秒、彼女は私の瞳を見つめた。真紅の宝石をはめ込んだように透き通った輝きが、私をまっすぐ見つめている。
「そう、それなら仕方ないわ」
 私はほっと胸をなでおろした。彼女には、心の大事な部分が欠けている。他人に猜疑心(さいぎしん)を持つという、なくてはならない感情が、そっくりそのまま抜け落ちてしまっているのだ。
 アリシアは、私が南の大陸に渡ってから初めての患者だった。


 それは、冬が最も厳しくなる月の初めの頃だった。
 大陸の南北を隔てる急峻な峰々を超え、もう食料も底をつきかけているという頃に、私はやっとのことで町を見つけた。(くずお)れそうになる体を必死の思いで鼓舞し、民家の軒先で一宿一飯の恩をあやかろうにも、私の顔を見るなり怪訝そうな表情をして、音を立てて戸口を引き絞るのだ。ブリザードこそ起こらないものの、『北の砂漠』は乾燥し塩気を含んだ海風が1年中吹き付けている。土地が痩せているのも仕方のないことだった。特にその年は冷夏が長引き、寸でのところで飢饉を押さえこんでいるという按配だった。どこからか流れ着いた余所者に分け与える食糧など、どの家を探してもありはしなかった。
「み、水を……」
 赤煉瓦敷きの道端にもたれ込み、身を切るような鋭い風から、わずかな体力を奪われないようにぼろを被る。頭の炎はすっかり萎んでしまっていて、頼りない蝋燭そのものだ。ガラスの顔にこびりつく塩を振り払う力さえ残っていない。意識は朦朧とし、暗幕をかけたように視界が滲む。空にはでこぼこした灰色の雲が一面に伸びていて、今が昼なのか夜なのかもはっきりしない。
 くたびれた私の前に、誰かの影が止まった。腰を低く折りたたんで、顔を覗きこむように確かめる。反射的に私もそちらのほうを見る。まだ息があるのを確かめると、そっと懐から木筒を差し出した。
「はい、これをどうぞ」
 差し出された筒の中身を確認しないまま、私は死に物狂いで水を飲みこんでいた。不完全燃焼だった体内の平衡が保たれる。半ばひったくるように、彼女の持っていたバスケットのパンに噛り付く。一心不乱にエネルギーを摂取する私を見て、彼女はおかしそうに笑った。
「ふふっ、まるでゴンベみたいね。食べ物があっという間になくなってしまったもの」
 はっきりと輪郭を取り戻した彼女は眩しかった。それはまるで、長かった夏の終わりを、思いを寄せるポケモンとともに過ごす、少女のような笑みだった。つるっとした満月のような笑顔が、ぽかんとしている私を照らしていた。
 思えば、この時から私はアリシアに心を寄せていたのだろう。
 アリシアはエスパータイプにありがちな、いわゆる『サトリ』という症状に悩まされていた。他人のあらゆる思考が思念波となって伝播してしまう、というものだ。それは例えば遠くで落ちた針の音さえ聞き分けられるというピクシーが、随時雷の落ちるエレキ平原に放り出されたというようなことだ。ノイローゼになることも少なくなく、自傷行為に及ぶものもいる。
 さらに悪いことに、その年は穀物がほとんど収穫できなかったため、アリシアの家族を含む上流階級に対する不満が鬱積していた。誰もそれを口にはしないが、アリシアには伝わってしまう。ねたみや恨みの言葉を耳元でささやかれ、彼女の心の角は見る見るうちに黒く染まっていった。そのせいで普段はめったに外に出ないというが、二階の窓際から道端で助けを求めている声が聞こえた時には、急いで駆け付けるのだ。それで私は助かった。『困っている人を見捨ててはいけない』というのも、クレセリアの教えのひとつだった。
 私が精神の病を専門としている医者と聞いて、アリシアの両親は色めき立った。
「ぜひうちの娘の心を楽にしてやってくれ」
「しかし……」
「どうかお願いできないかね? 例ならいくらでも弾むのだが……」
 いかにも成り上がりの貴族然とした父のミカルゲに懇願されて、私は答えに窮した。確かに彼女のサトリを取り除いてやることはできる。しかしそううまい話ではないということはこの時すでに分かっていた。副作用は忘れた頃にやってくる。それはたいてい私がその場を去って数週間が経ってからで、とうに行方をくらませてしまっていればよいのだが、この時ばかりは良心が傷んだ。私の命を救ってくれたアリシアを無碍にすることなんてできなかった。
「1日だけ待ってください。治療には様々な準備が必要なので」
 そう誤魔化して夜逃げするつもりだった。名残惜しいが、彼女とその家族を最も傷つけない最良の方法がそれに思えたからだ。
 しかし、その1日がいけなかった。ついに村で暴動が起きたのだ。
 私がちょうど村の出口で名残を惜しんでいた時の事だった。
「南のほうで暴徒が暴れはじめたぞ!!」
 まだ若いエイパムが声高に叫びながら物見やぐらを駆け上がり、あらん限りの力で鐘を打ち鳴らした。空気を震わす衝撃にはじき出されるように、私はもと来た道を駆け戻っていった。
 ――まさか、まさかな。
 悪い予感は当たるものだ。私がアリシアの家に転がり込んだとき、彼女は口の端から血を流して横たわる角の欠けたサーナイトと、真っ二つに割れた御影石の前にへたり込み、光を抽出されてしまったかのような虚ろな目で、虚空を眺めていた。
「……ああっ、あああ、ああああああ!!」
 見知った顔に安心したのか、アリシアはどっと泣き出した。枯れてしまうのではないかと言うほど嗚咽と涙を絞り出した後、その隙間を埋めるかのように、周囲に散りばめられている負の感情を吸収し始めた。嫉妬。憎悪。殺意。恐怖。無念。ポケモンが死んだとき、その周囲には甚大な量の思念が残留されるのだという。彼女はそれらをひとつ残らず取り込もうとしていた。
「おい、やめろ! やめるんだ!! 死んでしまうぞ!?」
 サーナイトの角の仕組みには詳しく知らなかったが、私はただならぬ気配を感じ、咄嗟に小さな影の球を作り、彼女にぶつけた。気を失っている彼女をひっそりと連れ出し、日が沈むまで村から逃げ続けた。
「ここは、どこ?」
 アリシアが目を覚ましたのは、草木も眠る真夜中だった。うつらうつらしていた私も、咄嗟のことに飛び起きる。
「村から少し離れた、小高い丘のうえ――」
「父と母は?」
 短く言った。アリシアが口をつぐむと当時に、私も黙り込んだ。底冷えする風が吹きつける。
「……覚えていないのかい?」
 彼女は小さく頷いた。別段不思議なことではない。衝撃的すぎる出来事が身に降りかかったとき、防御反応で一部の記憶が失われることがある。彼女の場合、きっと今日1日の記憶は抜け落ちてしまっているのだと思われた。
「……きみの両親なら、隣町に食糧を買い付けに行ったよ。私はきみから目を離さないでいてくれ、と言われてある」
「うそよ」
 凛として言い返した彼女の瞳には、しかし不安と恐怖を編み上げたような気持ちが透かして見えた。私の炎に照らされて、それらはより一層膨らんでいた。
 私にとって、今日の記憶が無くなっているのは好都合だった。
「……わかった、本当のことを話そう。それよりまず、私の炎から目を離さないでいてくれ」
 青い炎の灯った腕がゆらり、と揺らいだ。彼女の心を無理やり引っ張りだし、その一部に怪火を近づける。ぴしぴしと音を立ててそれは焼き切れた。
「もう一度言うよアリシア、君の両親は、隣町に食糧を買い付けに行ったんだ。わかったかい?」
 ほんの数秒、彼女は私の瞳を見つめた。真紅の宝石をはめ込んだように透き通った輝きが、私をまっすぐ見つめている。
「そうなの」
 ふ、と息を吐き出すようにアリシアは答えた。少女のような笑顔だった。
 空には新月が昇っていた。


 それからアリシアと旅を続けるうち、私は私の能力の本当の恐ろしさを見せつけられることとなった。今日のようにヒステリックになることも多く、常に感情が安定しない。心にぽっかりと空いた穴を埋め合わせるように、アリシアは私に依存していった。私が頼りないそぶりを見せようものなら、すぐに泣きわめく。ほとんどの旅人はそんなポケモンと寝食を共にしたくないし、優しい者ならひとりになっても生き延びられるよう大きな町で置き去りにするかもしれない。しかし私はそれをしなかった。わけは昨日見た夢の通りだ。心寄せているアリシアを、どうして置き去りにすることができようか。
「今日は疲れているようだから、母屋でゆっくり休むといい」
「でも……」
「いいから、気もピリピリしているようだし、なにか温かいものでも作って待っていてくれ。治療なら時間がかかるが一人でもできる。しっかり養生するんだぞ、分かったか?」
「はい……」
 役立てないことが後ろ髪を引かれるのか、伏し目がちに頷く。私ははっとした。普段見慣れている表情でも、ひとたび意識し始めると見方も変わってくるものだ。今までなんとも思わなかった表情も、見れば思わず息を止めてしまいそうな。
「ほ、ほら、明日は客も多いし、頼りにしているから、今日のところは休んでいてくれ、な?」
 慌てて我に返ると、貸し小屋の離れにアリシアを寝かしつけ、私は小屋できたるべき患者を待った。ばれていないだろうか。近頃はサトリの症状もめったに見せないから、私の感情が漏れ出していても気づかないはずなのだが、気になる。感づいたそぶりは見せていなかった。
 それに、もし閉め切った小屋の中でアリシアとふたりっきりになったら。おそらく正気を保てなかっただろう。治療にも専念できない。今回は私ひとりで治療する。それでいいじゃないか。
 しかしいくら待てども現れない。仕方なく街に出て、必要な消耗品をそろえることにする。たしか雨具がだいぶすり減っていたはずだ。安いものが売られていればそれに交換しよう。
 そうだ、たまには彼女の嬉しがるものでも買ってきてやろうか。月をかたどったペンダントなどどうだろう。貯蓄は少ないが、私の浪費を押さえれば何とかなるはずだ。心を弾ませながら町へ降りて行った。

🌒

 1日中探して、納得のいくものには出会えなかった。足取りは重かったが、気分はよかった。小屋に戻ればアリシアがいる。いつもと変わらないその日常が、夏の砂浜のようにきらきら輝いているように感じられた。
 鼻歌を歌いたい気分の私の背中を、ぞくり、と何かが走り抜けた。振り返ってみれば、そこは昨日フーモにであった路地裏だった。昨日の出来事が、本当にそっくり夢だったような気さえしてくる。私の足は吸い込まれるように路地裏の奥へと進んでいった。果たして昨日のカフェはそこにあった。幻覚などではなかった。
「おや、ミトスさん。いらっしゃいませ。やはりあの夢の続きを見てみたくなったのですね、どうぞこちらへ」
「いや、そんなんじゃないんだ」
 カウンターでお茶の仕込みをしていたらしいフーモは、はて、と首を傾けた。相変わらず周囲を漂う煙がうっとうしい。
「今日は礼を言いに来ただけだ。ありがとう。アリシアが好きだと、はっきりと気づかせてもらった。何だか一日をすがすがしく過ごせた気がする」
 そうでしょう、と愛想よく笑って手際よく紅茶を淹れ、私に差し出した。受け取って、近場のテーブルに着く。
「お客様の心の想いに気づかせて差し上げるのが、ワタクシ共の使命だと肝に銘じております。そのような感謝の言葉をいただけるなんて、冥利に尽きる思いですよ。それで、彼女に心の内を告白なさるのですか? うまくゆくことを応援しております」
「いや、それは……」
 私は口ごもった。それは私の本望であったが、心配も多い。彼女は心の一部が欠落しているから、心理的に強い衝撃を与えた時にどうなるかは私でも分からない。アリシアの心をこれ以上心を不安定にしてしまうわけにはいかなかった。人形が汚れるのを嫌がって、大事に箱にしまっているようだな、と私は苦笑した。正直言ってしまえば、私はアリシアに受け入れられるかどうか自信がなかったのだ。
 それなら、とフーモが明るい声を出す。
「夢の中で恋に落ちる予行演習をなさればよいのですよ。そうすれば、失敗したときのリスクもありません。彼女の好みや仕草、微々たる表情の変化まで、あなたの心は鮮明に記憶しているはずですから、現実と近いシミュレーションができるはずです。試してみる価値はあると思いますが」
「なるほど……」
 私はちらと財布の中身を見た。アリシアに買うペンダントのための硬貨が、きらり、と光った。告白のシミュレーションも、彼女のために支払うものとして考えてもいいんじゃないか。ロマンチックに愛をささやかれた方が、きっとアリシアも喜ぶだろう。
「では、そのように、頼む」
 道化師のように張り付いた笑みで頷くフーモから、鍵を受け取る。
「では2階に上がり2つ目の黄色い扉の中でございます。それではいってらっしゃいませ、甘い甘い夢の世界へ」



☆☆
☆☆☆
☆☆☆☆


 顔に生暖かいしずくが垂れてきて、私はやにわに目を覚ました。
 大口を開けたクチートが、今にも私のガラスの頭部を噛み砕こうとしているところだった。
「うわあああっ!!」
 横っ飛びに転がって、間一髪顎の一撃をかわした。質量のある顎が空を切って、クチートはもんどりうって地面に倒れた。のそり、と力なく起き上ると、虚ろな目で私をとらえ、にじり寄ってくる
 どうやらダンジョンに潜り込んでしまったらしい。
 ――あのゲンガーめ……!!
 私を眠らせたゲンガーは、どうして意地悪くもこんな夢を見させるのか。ケケケ、と不気味な笑い方をする雄だったからあまり良い印象ではなかったが、ふたを開けてみればこうだ。そもそもゲンガーは怒った時のアリシアに似ていて、あまり好きではなかった。
 文句を並べているうちに、すぐそばまでクチートが寄ってきていた。こいつ以外にも、完全に心を失った輩がダンジョンには多くいる。逃げようにも、狭い通り道で挟み撃ちにあえば、ひとたまりもない。切り抜けられるか不安だが、戦うしか他に道はないようだ。元来戦闘は得意ではなく、町から町への移動はダンジョンを迂回していた。たしか、鋼には炎がよく効くんだったな。腕に力をこめ、体内に蓄えてある蝋を滑らせ、燭台のもとへ押し流した。大きく膨れ上がった炎が風にたなびく。
「脅かせば逃げてくれるだろうか」 
 手の中でばちばちと弾ける小さな火の玉を作る。それをクチートに直撃しないように打ち、手前の地面に炸裂させ、火の粉を舞い散らせる、はずだった。
「グギャアアアア!!」
「……え?」
 私が放った火の玉は、火の玉と呼べるほどちゃちなものではなくて、まるで太陽をそのまま縮小したかのような高密度のエネルギー体だった。それはまっすぐとクチートの腹に吸い込まれてゆき、すさまじい轟音を立てて爆発した。辺り一帯が火の海になった。
「な、なんでこんな……」
 業火をまともに喰らったクチートは、この世のものとは思えない絶叫を上げて、あたりを転げまわった。燃え盛る炎の奥に、かっと見開かれたつぶらな目と、頭まで裂けるのではないかというほど開けられた大口が透かし見えた。熱で亀裂の走った肌が溶けはじめ、腕から流れ出した金属質の肌が再度固まって、袴のような脚に癒着していた。荒々しい断末魔がしばらく続いていたが、炎が引くころに残っていたものは、あとに残されたものはぐずぐずに溶けた鋼と、ところどころ飛び出している、焦げて矮小になった骨片だけだった。
「あ、あああああ……!!」
 私はただただ、見ていることしかできなかった。ダンジョンのモンスターとはいえ、初めてポケモンを殺めてしまった。わなわなと震える腕を鎮めることができない。どうして急にこんな力が……
 ――そうか、夢の中だからか。
 この感覚は昨日一度体験している。意識が断絶され、急に現実そっくりの異世界に閉じ込められるような。昨日の夢はアリシアを好きだという気持ちが幸せな生活を描いていた。そうするとこの夢は――
「きゃあっ!!」
 息を押し殺したような悲鳴が唐突に上がった。嫌な胸騒ぎがする。ダンジョンは危険がいっぱいだ。先ほどのような心無いポケモンばかりか、踏むと作動する罠もある。しっかりと準備していなければ途端に迷子になるだろう。もし、もしもアリシアが危険な目にあっていたら。
 私はすぐに駆け出していた。
 声のする方へ急ぐと、案の定、小さく身を縮こめるキルリアに、2匹のヘルガーが飛びかかるところだった。リンゴほどの小さな影の球を手の中に作りだし、瞬発的に片方の脇腹に打ち込む。ねじりを加えられた球は肉を大きく削り、螺旋状の風穴を開けた。火花のように鮮血が飛び散り、アリシアの傍に飛び石状に血だまりができた。体の上下が分離して、下半分はまるで焼きすぎた手羽先のように干からびていた。
「ひっ……!!」
 小さく息をのむアリシア――まだ進化しておらずキルリアのままだが――に、残りの片方が喰らいつく。すかさず私はその間に滑り込み、腐臭の漂う口にゼロ距離から影球を叩きつけた。葡萄がもぎり取れるかのようにマズルが(ひしゃ)げ、球が破裂するとともに鼻から上が吹き飛んだ。頭部を(むし)り取られた体は、2、3度千鳥足でふらついたあと、自らが噴き出してできた赤い池に滑るように伏した。根元まで丸見えになった舌が、おぞましほど光を反射していた。
「アリシア、大丈夫か? 怖かったろう」
「っ……!!」
 アリシアは返事をするでもなく、ぜんまいの外れた仕掛け人形のように、かたかたと震えるだけだった。私の腰に回された腕に、きゅっと力がこもる。押し付けられた顔から、じっとりと水分がにじみ出ているようだった。
「私がいるんだ、もう心配しなくていい。まずは……ここから抜け出さなくてはな」
 私はなんとなく想像できた。この夢はおそらくアリシアを傷つけることなく、敵を蹴散らすことが目的なのだろう。以前の夢が彼女との平穏な暮らしなら、今回ははらはらのアドベンチャーと言ったところか。そのために戦闘能力が上昇したのだ。
 私の胸に顔をうずめるアリシアの瞳が、小刻みに揺れた。まだ小さな唇がふるふると震える。彼女の視線の先には、降ってわいたように亡者たちが群れを成していた。
「……これ全部を相手にしろっていうのか……」
 ざっと20はいるだろうか。小さい者から大きいものまで、皆一様に光のない目を物陰からぎらつかせ、私たちを睨みつけていた。技の能力が飛躍的に上昇したからと言って、戦闘に関しては素人だ。複数の相手を同時に対処するとなると、厳しい戦いになるかもしれない。
「アリシア、私の背中に隠れて、目をふさいでいろ。決して顔を出すんじゃないぞ、いいな?」
「うん……」
 すごすごと後ずさって、アリシアは身を固くした。自由に動ける私を待っていたかのように、広い空間に躍り出たサンドパンが、醜くねじ曲がった爪を振り上げた。
 考える前に体が勝手に行動していた。振り上げられた腕の軌道が、手に取るようにわかる。左側から打ち下ろされる鉤爪は、頭ひとつ分後ろに下がれば当たらない。ひょいとそれをかわし、無様に突き出た腕を引っ張ってやる。つんのめったところで片足を引っかければ、いとも簡単に弾みをつけて転がった。地面に刺さった平らな棘が抜けない。じたばたともがきながら爪を振り回す姿は、ひどく滑稽だった。
「ぎぢゃッ、ギリャリャアア!!」
「あぁ…… 腹が立つなァ」
 醜態をさらけ出すサンドパンが、いやに癪に障った。見ているだけで不快になり、いらいらが増幅する。
 ――さて、どう嬲り殺しにしてやろうか。
 私はいきなり、締まりのない顔に向かって毒霧(スモッグ)の息を吹き付けた。
 吐き出された濃紫の霧は、動けずにいるサンドパンの顔を包み込んだ。刺激が鼻を突いたのか、慌てて呼吸を止めたがすでに遅い。反射的に何度か咳を繰り返すも、出てくるのは乾いた空気のみ。しかししばらく続けていると、呼気にはかすかに赤いものが混じり始め、ひときわ大きくむせび込んだと思うと、腹の奥から熟れすぎた柿のような塊を吐き出した。苦痛に顔をゆがませてひゅうひゅうと掠れた息を繰り返すたびに、喉から赤い霧が散布される。
 吸収された毒素は体内の器官を破壊しながら全身を駆け巡る。毛細血管に至るまですべての管に、細かい針をねじり込まれたような痛みが全身に駆け巡っているはずだ。自らの鋭利な爪で腹のあちこちを引っ掻き回す。線虫がのたくったような傷跡から赤黒い血が染み出している。特に強くあてられた首筋はひどく、喉仏が浮き出るまでに表皮が(なめ)されてしまっていた。
 ――こんな気分も、悪くないかな。
 黒く変色した血の混じった体液が、体中の穴という穴から染み出していた。眼球は半分飛び出しているのか、手ですくえば今にも転げ落ちそうだ。悲惨な姿で事切れたサンドパンを見下ろす。ふと、視界の端にゆったりとうねる影をとらえた。
 それは、おびえるアリシアを今にも丸呑みにしようとするジャローダだった。
「私のアリシアに手を出すんじゃねえ!!」
 喉が潰れるほどに大きな声を荒げ、私は奴に突進した。両手で(おとがい)を締め上げると、そのまま体内の熱エネルギーをがむしゃらに放出した。私を中心に、洞窟を貫くような火柱が上がった。
「じゃがららぐぎゃア!!」
 白目をむいて丸焼きになったジャローダを地面に叩きつけた。曝け出された腹には、模様と同じようにカールした私の腕の跡が、まるで火箸をなじり付けたかのようにしっかりと刻み込まれていた。
「おまえは! 私の! 恋人に! 何を! したんだ!!」
 一言ずつ叫びながら、高熱に達した金属片をえぐり込む。まだ意識があるらしく、じゅ、と煙が立つたびに耳を裂くような叫び声をあげ、きつく絞られたかのように身をくねらせた。一連の反応が小気味よく、気づけば焦がした玉葱のような表皮の下から、食欲をそそる肉色がのぞいていた。
「二度とこんな真似するんじゃないぞ、思い知れ」
 泡を吹いて動かなくなったジャローダの口にサンドパンの死骸を投げ入れ、念動力で頭部を思い切り地面に押し付ける。ぎりぎりと不快な不協和音が続くと、最後には平板な棘が頭蓋と皮膚を突き破り、手入れのされていない生垣のように飾り付けられた。出がらしのような血と脳漿(のうしょう)が飛び散り、地面に暗い染みを作った。眼球を貫いた棘は、まるで先端に真っ赤な梅の実をつけている盆栽のようだった。
「アリシア、怪我はなかったか?」
「……うん、大丈夫。ありがと」
 恐怖で凍り付いていたアリシアの顔が、安堵で少しだけ崩れた。再度胸に顔を押し付けてくる。大きく垂れ下がった頭の両端の髪がさらり、と触れた。微かに吐き出される鼻息がくすぐったい。そうだ、早く終わらせて安心させてやろう。
 這い寄るポケモンどもに向き直ると、掌を合わせて大きな火球を作り上げる。まるで焼き菓子の生地を練り上げるかのように、内部からゆっくりとかき混ぜ、膨大な量の熱エネルギーを炎に変換してゆく。空間のほとんどを埋め尽くすそれは、まるで本当に太陽かのように不気味な流動を繰り返していた。
 腕を下に振って、私は日没させた。
 内包されていた不定形のエネルギーが光に変換され、あたりを一瞬にして焼き払う。遅れてやってきた熱風が、まだ死んでいない者にとどめを刺した。
「グジュオウウウ!」
「んぐらーが、っがあぁぁ!!」
 大地が慟哭(どうこく)しているようだった。しばらくして申し合せたようにあたりは急に静かになった。あちらこちらに焦げた屍体が転がっていて、どれもかろうじて種族が判別できる程度の焼け具合だった。広い範囲にわたってできた肉叢(ししむら)は、山火事から逃げ遅れた集落のようだった。内臓と肉の焼ける香ばしいにおいが漂っている。
 庇っていたアリシアが顔を上げる。気恥ずかしそうな、少女のような笑み。
「あの、助けてくれて……ありがと」
 つま先で背伸びして、私の頬にキスをする。ほんのりと頬を赤らめ、手を体の前でもじもじさせる。三日月型の角がうっすらと光っていた。
「ミトス、大好き。もう絶対に離れないでね?」
 言いながら、アリシアはもう一度、今度は口と口をぶつける。とくん、と静かに心臓が跳ねた。意識が薄らいでゆく。
「私も、おまえが大好きだよ、アリシア」
 ――ああ、できることならば、(いと)しいアリシアを思い切り愛したい。


☆☆☆☆
☆☆☆
☆☆



「どうだった、オレの見せた夢は。ケケケ……」
 汗をぐっしょりと掻いて飛び起きると、ゲンガーが私の顔を覗きこんでいた。私を眠らせた奴だ。こいつが、あんな趣味の悪い夢を見させたのだと思うと、胃の奥がむかむかしてくる。
「おまえもあいつらのように吹き飛ばされいか?」
「……いやだな、お客さん。目を覚ましてくれよ。まだ眠ったままなんじゃないのかぁ?」
 そう言われて、私は我に返った。もう一歩で影の球をずんぐりとした腹に叩き込むところだった。
 気分を振り払うように、とっとと身支度を整える。
「グロテスクな夢を見せるなんて、最低だな」
「でも、悪くはなかっ――」
「うるさい!! もう2度と来ないからな!」
 音を立ててドアを閉めると、そのまままっすぐ愛しいアリシアのもとへ戻った。
「どうせすぐ来るんだろうな。ケケケ、泥沼に頭までどっぷり嵌っちまって……」
 ゲンガーの独り言は、ドアの音にかき消され私の耳にまで届かなかった。


3.秘書 


🌑

 今度はいったいどんなサービスが受けられるのだろうか。高鳴る胸の鼓動を抑えながら、3番目の桃色の扉を開く。部屋の中には、しかし誰もいなかった。中央に一人用のテーブルと椅子があり、紅茶セットが置かれているだけだ。準備がまだ済んでいないからここで待て、ということなのだろうか。夜は長い。3日間通い詰めて、ここの雰囲気も肌に合ってきた。夢を見るまでのゆったりとしたひと時を味わうのも悪くない。
 しかし、いくら待てども誰かがやってくる様子はない。壁掛け時計の針はいたずらに進む。紅茶はぬるく、底に沈んだジャムも、腐った茄子のようにぐずぐずになってしまった。
 ふと目を向けると、ドアの隙間から何か白い布のようなものがはためいている。入ってくるときにはなかったはずなのだが。怪しんでドアを開けると、その白いひらひらは、滑るように奥へと消えていった。廊下の突当りの角から、また少したなびくそれが垣間見える。
「おい、早く眠らせてくれよ」
 少し苛立って、声をあげて追いかけた。白い布は、まるで私と追いかけっこを楽しんでいるかのように、一定の距離を保ったまま、店の奥へ奥へと逃げてゆく。手をのばせばひらり、端を掴んでもするり、と、まるで恥じらう乙女のように、追いすがる私をかわす。足は自然に速くなっていったが、一向につかまる気配がない。
「くそっ、どうなっていやがる!!」
 次の曲がり角まで逃げると、布は必ず端だけを壁から出して待っているが、決してその全容は見せない。必死に追いかける私の息は荒々しく繰り返され、額にはじっとりとした汗がにじみ出ていた。今どこを走っているのかまるでつかめない。右へ左へとつづら折りに曲がり、意地悪な布はついに最奥の部屋に入り、動きを止めた。勢いもそのままに、私は飛びつき、薫り高い藁とふかふかの綿でできた、大きなベッドにもたれ込んだ。衝撃で綿のかけらが宙に舞った。
「はぁっ、ここはもう夢の中。あなたの好きなようにしていいんですよ、ミトス。はぁ」
「ああ……」
 やはりな、と思った。私の追いかけていた白い布はサーナイトのドレスで、アリシアであった。部屋で紅茶を楽しんでいる間に、フーモか誰かが催眠をかけていたのだろう。現実と夢の境界がわからなくなるような、粋な演出だ。
 追いかけっこですっかり上気したアリシアの頬は薄赤く染まっていて、規則的に荒い息を吐き出す。赤く熟れた唇はみずみずしく、うるんだ瞳は水を湛えた泉のようだった。私も同じような顔をしているのだろう、私の呼気が彼女の顔にかかるたび、くすぐったそうに目を細めて笑う。いつものアリシアからは想像もできない、幸福に満ちた笑顔。
 最高の気分だった。
 呼吸が収まるのもほどほどに、唐突に彼女の唇を奪った。しっとりと湿った唇は、あたかも私の口に含まれるのが当然であるかのように、確かな質感をもって、その存在を主張していた。上唇に優しく噛みつくと、アリシアもそれに応えて私の口を覆う。乳と蜂蜜でできているかのように甘かった。彼女の吐く熱い蒸気が喉の奥をくすぐり、唇が勝手に震えだした。行き場を失った空気が口許から漏れ、ふっ、と掠れた喘ぎを響かせる。
 口づけは長くは続かなかった。窒息感を覚えて口を離せば、水を奪われた魚のように再び荒い息に戻る。呆けたようにそのまましばらく見つめあった。アリシアの口から飛び出た熟れたトマトのような舌が、名残惜しそうに覗いている。舌先から垂れる細い糸は彼女の鎖骨あたりでとぐろを巻いていて、淡い照明を浴びて私をいざなうかのように妖しくきらめいていた。
「……アリシア、私は、おまえを、抱きたい」
「ええ、わたしもずっと、あなたに抱かれたいと思っていました。はぁっ、やっと、その思いを遂げることができます」
「しかし――」
 クレセリアの教えが、と言おうとして、彼女の萌黄色の手で遮られた。私の口に指をあて、静かに囁く。それはあどけない少女の笑みにも、雄のすべてを知り尽くす手練れた娼妓の手ほどきのようにも見えた。
「ここは夢の中。天女様も、人の夢までは覗こうとしません。ですからミトス、思う存分、わたしを愛して」
「……ああ」
 私は新月の夜、彼女の肉を喰らう。

 アリシアの胸に顔をうずめていると、香ばしい汗のにおいとほんのりとした体臭が鼻の奥を渦巻く。長いこと私は彼女の腰に手を回し、体を密着させていた。こんなに近寄ったためしがあっただろうか。彼女の心臓が早鐘を打っているのが伝わってくる。いや、それ以上に私の心臓は破裂しそうだった。ただ抱き合っているだけで、この高ぶりようだ。好きな相手だとはいえ、初心(うぶ)すぎやしないだろうか。
「じゃあ、そろそろ始めるぞ」
「ええ、来て……んっ」
 恥ずかしさを悟られないように、私は再度キスをした。そのまま舌をアリシアの口に捩じ込む。執拗なくらいに粘膜を絡ませあう。すべての神経が舌先に集中しているのではないかというほど、ほかの感覚が鈍麻している。頬の裏をかき回したり、舌同士を押し付けあったり。生卵のようにとろんとした舌裏を撫で上げると、彼女はたまらず声を上げた。
「んあっ…… いきなり激しいんですね。ふふ、意外」
「嫌か?」
「まさか。あなたの思い通りにしてよいのですよ。ここはあなたの夢の中ですから」
 それもそうだ。私がいくら私の夢の中でアリシアを汚したって、現実の彼女に起こる影響はひとつとしてないのだ。遠慮などいらない。
「これを舐めてくれ」
 接吻ですでにそそり立ったペニスをさらけ出した。うっとりとしたため息を吐き出して、瘤のついたエンドウの鞘のような形状のそれを、アリシアは両手でいとおしそうに包み込む。サーナイトの手は細い体つきに対して幾分か大きい。まだ完全に張りつめていない状態なら、すっぽりと手中に収めることができた。そのまま優しく、洗うようになじる。体の中で燃焼している炎のエネルギーが一極に集中するようで、奥底から湧き上がってくる快感に私は思わず身震いした。
「ふふ、想像通りに立派……」
「いつも想像していたのか?」
「それは、それこそあなたの想像にお任せします」
 含みを持たせた笑みを作り、アリシアは味を確かめるように、そっと先端に口づけをした。手とは打って変わって、ねっとりとして絡め取るような圧力。口の中にすべてを収めることはできないだろうが、それでも暴力的な刺激であることに変わりはない。念動力で体躯を浮かすことも、体を下から支える軸でバランスをとることもできず、私は力なくベッドに沈み込んだ。喉まで出かかった情けない喘ぎを押し殺す。燃え上がる手から蝋が跳んで、小さな火の粉が弾けた。
「……っ」
 ここが攻め時と思ったのだろう、アリシアは舌を這わせたまま片方の手で私を抱き留め、もう片方の手でペニスを裏から撫で上げた。すでに留まることを知らない先走りを手に絡ませ、射精を促すように激しくこする。絹のようになめらかな感触は、今まで味わったことのないものだった。舌はそれを手伝うかのように、突端に開いた小さな穴を優しくこじ開けようとする。
「ぅを! ……っが、はぁ……ッ!!」
 今までの我慢を容赦なく打ち壊すほどの過激な愛撫。甘美な刺激に顔の筋肉が引きつり、目じりが細く歪む。長くは持ちそうになかった。アリシアの口の中で果てるわけにはいかない。吐く息が細かく震えるのを抑えながら、私は彼女の口を遠ざけようと頬に手を当てた。金属質な私の肌とは対照的に、寒天でできているかのような柔らかさだ。手に力をこめようとするも、滑る汗と弾力でうまくいかない。そうこうするうちに、極限まで張りつめたペニスが細かく痙攣し始めた。
 アリシアが目だけで笑った。限界が近いと察したのだろう。けれど一向にやめる気配がない。むしろ今までより一層強くなぶる。うごめく舌がペニスにぴったりと張り付いているようで、快感の淵に引きずり込まれるような感覚に、私はある種の恐怖さえ覚えた。霞を湛えた谷に、どこまでも落ちてゆくような底抜けの恐怖。しかしそれも幾重にも上書きされる興奮によって麻痺していた。
「はぁ…… っちょ、口を離して――」
「……」
 温度が下がりオレンジに変化した炎に照らされ、愛撫するアリシアの表情に紅が差し、一層艶美に映った。とどめとばかりに彼女が上目遣いで吐き出した吐息は、脳の髄まで(とろ)かしそうなほど甘いにおいがした。
 限界だった。
 彼女を汚してはいけない、というかろうじて残された理性を拭い去ったのは、やはり当のアリシアだった。先端を口に含んだまま、唇だけを動かす。

 ゆ、め。

 ああそうか、そうだった。何も我慢することなんてなかった。さっき確認したばかりじゃないか。最後に残された歯止めが飛ばされた。もう後戻りすることはできない。
「で、射精()るッ……!! っはぁ、ちゃんと受け止めてくれよぉッ!! うををぉぉッ――!!」
 たがの外れた声を張り上げ、暴れまわる寸前の硬直しきったペニスを、私は思い切りアリシアの口に突き入れた。
「――!? ……!!」
 声にならない悲鳴を上げる彼女の首に腕を回し、強く引きつける。口に含めるかどうかさえ怪しかったものを喉の奥に叩き込まれたのだ、苦しくないはずがない。両手でもがいて口から私の体を引き離そうとするアリシア。きっと開かれた眼からは涙がにじみ出ているだろう。見えはしないが、想像するだけでさらに昂ぶり、脈がうなる。目をぎゅっと閉じて、すべての感覚を下半身に集める。ペニスが小刻みに、しかし激しく痙攣し、今まで溜まりに溜まっていた――ある意味4年越しの欲望を、彼女の食道に叩きつけていた。
「――っあ、はぁ、はぁあ……」
 アリシアの喉によって締め付けられていたペニスは、それこそ檻に閉じ込められた猛獣のように、大量の精液をまき散らしながら激しくのたうち回った。得も言われぬ快感が脳天を貫く。一連の射精が済むと、下半身からじわじわと広がるぬるい快楽と、それに付いて回る倦怠感が私を包み込んだ。じりじりと白んでゆく視界の端でとらえたのは、無茶をさせられたはずのアリシアの姿。しかし当の彼女はけろりとしていた。注がれた精液の大半は飲み下したらしく、苦しそうなそぶりは微塵にも見せない。恍惚とした顔つきで、口の端から漏れてベッドに零れた飛沫を手で拭き取っている。
 なるほど、これも夢だから、か。
 現実ならばむせ返って、続きを楽しもう、なんて雰囲気にはならないだろう。ぼうっと眺めている私に気づいたアリシアは、普段ふとした時に見せる少女のような笑顔を返した。悪戯っぽく舌を突き出してみせる。赤い舌の上を白い塊が粘っこく流れ、舌先から落下したものは掌当たり、べとり、と音を立てる。口内にはまだ結構な量が残っていたようで、唾液とともに手の上に溜まり、手からも滑り落ちた精液は胸の前に飛び出た心の角に掛かった。白蜜をかけた苺のようだ。ひどく官能的で、扇情的だった。
 ぽかんと口を開けて見とれている私に、アリシアは尋ねる。
「どうでしたかミトス、わたしの奉仕は」
 返答に困る。たしかに彼女の手も、舌も、表情も、細かな仕草も文句の付けようがない。が、どこか心の隅に引っかかる違和感が付き纏っていた。
「ああ、うん、最高だったよ。……けど、無理をさせたが苦しくはなかったのか?」
「あの程度ならまったく苦しくありませんよ、慣れていますから。なにか注文があれば、何でもいたしますよ」
「いや、何だか、それにしても場馴れしていないか? 口の使い方とか、上手すぎる気がするんだが…… まるで、町の娼婦としているみたいだった」
 はっとしたようにアリシアは思いつめた表情になったが、次の瞬間にはいつもの彼女に戻っていた。べとべとになった口周りと手を素早く拭う。
「そうですね、確かにこれでは淫乱すぎて、かえって気が滅入ってしまいます。――ではあの、続き、をしませんか? わたしはまだですし、あなたも、その……満足していないようですし」
 気恥ずかしそうにはにかんで、膝立ちになったアリシアはそっとドレスの切れ目をたくし上げた。香り立つ彼女の陰部が曝け出される。そこはもうすでにしとどに濡れていて、一筋の愛液がベッドに垂れ落ちた。
「あの、わたし、こういう経験あんまりなくて。……お願いできますか?」
 ペニスはすぐに硬直した。私は彼女を押し倒していた。

 仰向けに寝かせたアリシアの体を眺め回す。固く縮こまった体に、ドレスの裾の乱れを直す、どこかぎこちない手つき。ほんのり赤く染まった色白の顔に、かわいらしいえくぼが目立っている。感情が不安定なのか、心の角が穏やかな明暗を繰り返していた。どこか困惑気味におずおずとする仕草は、初めてでこそないが、経験の浅さを想わせた。誘ってみたはいいが、これからどうすればいいのかわからない、といった顔だ。娼婦から生娘への変貌ぶりには呆気にとられたが、それは些細な問題だった。私の望むアリシアが、私が来るのをを待っている。それでいいではないか。
 ドレスの上から陰部に鼻頭を密着させて、思い切り匂いを掻き込む。夏みかんのような、気の遠くなる匂いだ。恥ずかしいのだろう、アリシアは私の顔を両手で押さえつける。
「ちょ、何やっているんですか…… やめてください、あまりお手入れしていないんです。は、恥ずかしい……!」
「恥ずかしがることはない。何も考えずに、私に身を任せておけ」
「は、はい……」
 それからアリシアは押し黙った。脱力した腕をどかすと、内股になった太腿の奥に、桃色の肉が垣間見えた。生い茂る藪をかき分けるように、顔で足を退ける。思わずつばを飲み込んだ。そこは、まるで軟体動物のように、生々しくうごめいていた。つるりとした白い肌に、突如として現れる赤の亀裂。じわり、と吐き出される半透明の液体と、その源泉があるだろうと想像させる秘裂の深淵。食べてしまいたい。そう思わせる、それはまさしく肉だった。
 彼女の腰に腕を回し、熱く腫れ上がったような舌で表面を撫でた。開いた穴に蓋をするように押し付ける。あっ、とか細くアリシアが悲鳴を上げた。唇を横に結んだうえに片手を口許に当てて、切れ長の眉を下げる。吐く息はかすかに震えていて、股ぐらに顔を突き込む私を見下ろしていた。ちょっとくすぐったそうな、体の内側から沸き起こるぞわぞわした感覚に困惑しているような、そんな表情。
「まだ表面をなぞっただけなのに、もうこんなに濡らしているのか。緊張しないんだな」
「だ、だって…… 大好きなあなたに手ほどきされているから、つい……」
 彼女の肉は、今すぐに突き込んでも受け止められるほどに、もう十分すぎるほどほぐれていた。まるで柘榴の花が咲いているようだ。虫を中へ中へと誘い込もうと、真紅の花びらが揺動している。そそる匂いを放つ愛液が、堰を切ったようにあふれ出ていた。
 入り口から、螺旋を描いた手の先端をそっと挿し入れる。浅く侵入させただけだったが、滑るように沈み込んでいった。口に入れた飴玉を離すまい、と赤ん坊にしゃぶりつかれているかのようだ。燭台の付け根まですっぽり飲み込まれてしまった。
「んんっ……」
 押し殺したようなうめき声をあげて、アリシアは身を捩じらせた。私の愛撫で彼女がよがっている。それだけで心地が良かった。そのまま肉壺の中をかき混ぜ、粘り気を帯びた音を伴奏させる。と、突然、彼女が短い悲鳴を上げて、淫猥な旋律は中断された。
「熱つッ!」
「す、すまない。興奮してつい……」
 どうやら腕に灯った炎がアリシアの肌を炙ってしまったようだった。ほのかに温かいまでに温度は下げていたはずなのだが、あられもない彼女の痴態に、そんなことに神経を回している余裕がなかったのかもしれない。しかし、普段から私の炎に当てられている彼女なら、炎が掠めたぐらいならやり過ごせるのではないだろうか。
 いや、そうはいっても普段外にさらしていない部分は別問題なのだろう。恐怖をまとった非難の目を向けるアリシアにもう一度謝ると、彼女はいつもの笑顔で、気にしていませんから、と言った。
「それよりもう我慢できそうにありません。体の中から焼き焦げてしまいそうです。ミトス、いじわるしないで……!!」
「……わかった、力を抜いてろよ……!!」
 些末な思案なんて、瞳を潤ませた彼女の懇願の前ではどうでもよかった。全身が煮え立った油よりも熱い。乱雑に股を開き、かさばるドレスを掻き上げ、ペニスを突き立てた。腰にありったけの力を加え、押し入れる。小さく穿(うが)たれただけの穴だった肉壺は、圧倒的な欲望の塊を迎え入れ、はち切れんばかりの質量に膨れ上がった。
「んぁああっ!!」
「っおうっ!!」
 頭痛にも似た爆発的な快感の津波に、私はひとえに飲み込まれた。溺れないように息を止めているのが精いっぱいだ。歯を食いしばり腹を引く。ぎゅっと(つむ)った目をかろうじて開ければ、私と同じく快感に身もだえるアリシアの姿が。反射的に背をそらせた姿勢のまま、顔は恍惚に溶け込んだように、口の端が吊り上がっている。私の腕に添えられた右手は、打ちひしがれたように痙攣していた。ベッドの端を掴んでいた左手には、力がこもって筋が浮き出ている。角はひときわ明るく発光していた。
「っあ、はっあ、大丈夫か!?」
「――っ、っあ、あぁ、はあぁ…… 嬉しい…… やっとひとつになれた……!!」
「ああ、これからもっと悦ばせてやるぞっ……!!」
「来て! 激しく突いて、いい夢見させてぇっ……!!」
 それからは、記憶がかすむほど激しく腰を打ち付けた。ペニスを思い切り突き込むと、飢えた荒々しい肉(ひだ)蠕動(ぜんどう)が喰らいつき、そのたびにアリシアは全身で応える。引き抜こうとするたびに、肉壺はそれを阻もうと締め上げ、開ききった口から緩やかな嬌声を漏らした。
 もっと聞きたい、アリシアの乱れに乱れ切った声を。目に焼き付けたい、蕩けに蕩け切った表情を。私は目の前に突き出ている、彼女の角にしゃぶりついた。
「――!? ――んあああああ!!」
 心の角は他人の感情をキャッチするサーナイト敏感な器官だ。急所ともいうべき場所で、大抵のものは他人に触られるのを極端に嫌がる。そこをいきなり(ねぶ)られたのだ、たまったものではない。甲高い嬌声を響かせ、肉壺が搾り取るように締まる。
 好機とばかりに、私はあらんかぎりの力でペニスを引き抜いた。粘膜にかかる摩擦がすさまじい快感を呼び起こし、性器同士が悲鳴を上げる。
「ひゃぁッ――!! ――――!!!!」
「あ、がぁ、で、射精るぞ、射精る!! しっかり孕めよ、子供ができたら、故郷に戻って幸せな家庭を作ろう、はぁ、恐ろしい奴らが襲ってきても、私が守る、っはぁ、だから、だから――」
 声がかすれて悲鳴すら上げられないアリシアに、欲望の塊を吐き出すべく、最後に子宮の奥底に届くほど深く、ペニスを打ち込んだ。瞬間、雷に打たれたように激しく反り返り硬直する彼女の体と、最高潮に引き締まる肉壁。それは、私の問いに対する全力の肯定。全身が歓喜に打ち震えるのは、高まる射精感のためだけではなかった。私もそれに応えようと、さらに体を密着させる。一瞬の硬直のあと、弾かれたように射精が始まる。
「――ッ!! ――――ッ!!!!」
「うをををををおおッッ!!!!」
 先端から(ほとばし)る精液が、子宮の中を瞬時に満たす。腰が砕け、射精も完全には収まらないうちに後ろに倒れると、白い塊が互いに絡み合いながら、アリシアの穏やかに痙攣を繰り返す肉壺からしたたっていた。
 余韻なんてものはなかった。ただただ嵐のような快感が、思考をどこか彼方に吹き飛ばし、感覚を根こそぎなぎ倒していった。もうこのまま意識を手放してしまってもいいくらいだ。最高の夢を見た。ああ、最高だ。最高――

「ミトスさん、起きてください。大変です」
 じれつく意識がだんだんと覚醒していく。本当に気を失っていたようだった。ただそれも短い時間だったらしく。乾いていない大量の精液がアリシアの下半身全体にこびりついていて、私は咄嗟に目を背けた。
「夢魔が出ました。私が捕まえておきましたが、何をするかわかりません」
「むま?」
「はい、夢の中に出てくる害虫(バグ)のようなものです。彼らは夢を食い荒らし、それを見ているあなたにも悪い影響を及ぼします。いち早く発見して対処しましたので心配はいりませんが、快適な夢を壊すような事故を起こしてしまい、申し訳ありません」
「はぁ……」
 あまり気にはしていなかったが、そう淡々と言われると確かに気が醒めてしまう。夢の中のアリシアにそんなことを喋らせずに、あのまま現実に戻してくれていてもよかったのではないか。
「捕まえた者はこちらなんですが…… どうしましょうか」
 部屋を中央で仕切っている垂れ布が、彼女の念動力で滑るように動かされた。奥の窓からは月の光さえ入ってこない。細かく震えるかがり火に照らされた夢魔は、その輪郭を波打たせて、縄で縛られ宙吊りにされていた。
 サーナイトだった。
 後ろ手に縛られ、脇と腰で天井からぶら下げられ、頭を力なく垂らし、足がほんの少し床から浮いている夢魔は、見間違うほどにアリシアによく似ていた。
「な…… え、あ、これは……?」
「夢魔は夢に出てくる人に化けて、その人の存在を食べてすり替わろうとするのです。この夢魔もきっと、私を食べようと近寄ったのでしょう。たしかに似てはいますが、よく見てください。ドレスが若干短いでしょう? 夢魔の変身は、メタモンほど正確ではないんです」
「……なるほど。つまりこいつは、私の夢に侵入した上に、あろうことか私のアリシアまで喰おうとしたんだな?」
 アリシアとの甘い夢を邪魔されて、私は若干苛立った。体の炎の温度を上昇させながら近寄る。
「おまえがアリシアを消そうとしたんだな……?」
 どんな表情をしているのか、と項垂れる夢魔の首をむんずとつかむと、顎を引き上げ正面から顔を突きつけた。
 どこまでも続く虚空を眺めたような両目が、私をとらえていた。
「……あ、ああっ……」
「ちッ」
 気分はさらに萎えた。なんて顔をしているんだ。世界に絶望したかのような、灰色に塗りつぶされた瞳。あれは何も映してはいないだろう。他人の夢に潜り込んだ時点で、こうなることは覚悟しているべきだ。私は夢魔を叩き起こそうと、腕の燭台に蝋を送り込み、一瞬だけ炎を舞い上がらせた。
「!? きゃあっ!!」
 夢魔は蹴られた子犬のように跳ね起きた。ほんの少しだけ輝きを取り戻した双眼で私を見据える。その目がみるみる恐ろしさに浸食されていった。すっかり血の引いた唇が震えている。
「……ああああ、あの、ほどいて、縄、お願い――」
「ほどくわけがないだろう。暴れられたら困るからな」
 泣いて懇願する夢魔の顔を、私はまじまじと見つめていた。偽物とはいえ、アリシアにそっくりの顔が、普段は決して見せない恐怖の表情を浮かべている。ああ、この感覚は、昨日も一昨日も、ついさっきも味わったはずだ。幸せそうな満面の笑顔。恐怖から解放された安堵の泣き顔。肉壺を突き上げられる恍惚の蕩け顔。心の奥底で沈殿していた何かが、急に吹き上げられるのを感じた。
 ――悪くないな。
 どうせここはまだ私の夢の中だ。何をしたって許される。
 一方の手で夢魔の顎を押さえたまま、もう一方の手で、すっぽりとスリットに収納されたペニスを引きずり出した。突然のことに驚いて固まっている夢魔の口に、穢れたそれを素早く押し込む。
「――!!」
 それは思いやりなど欠片もない、ただ欲望を発散させるためだけの行為だった。激しく揺り動かされる脳天に、咽頭まで挿し入れられた巨大な異物。もはや快感を得るための行為なのか、苦痛を与えるための衝動なのかわからない。
 十分な硬さを得て張りつめたところで、私は口から引き抜いた。喉の奥から吐き出すように、夢魔は荒々しくむせ返った。
「っが、がは、げほ、うえぇっ……!! はあっ、はあぁぁ…… どうして、こんなことを……」
「何を言っているんだ。こんなことを招いたのはおまえ自身じゃないか」
 夢魔はふるふると力なく首を横に振った。このままではらちが明かない。その罪を体にはっきりと刻み込めば、もう二度と現れはしないだろう。夢魔の後ろに回り込み、私は持ち上げられた尻のあたりのドレスを払いのけた。濡れてはいるが、まだ解れ切っていない恥部が曝け出される。
「無理やり口に押し込まれて、こんなになっているじゃないか! どうしようもない奴め。悪さをする淫乱な夢魔には、お仕置きが必要だな!」
「や、やめて! ミトス、あなたはひどい勘違いをしているのですよ!」
「五月蠅い!! 泣き叫びながら抱かれればいいんだよ、おまえは!!」
 すべてを言い切る前に、私はいきり立ったペニスを猛々しく挿入した。夢魔の金切り声が耳に届いたが、構うことなく腰を振る。凝り固まったような膣は摩擦がひどく、初めは快いと感じるよりも、すり潰されるような痛みばかりが伴ったが、気にすることなく体を叩きつけた。
「ぐっは、が、あああああっ!! ――っああああ!! あああっ……」
 夢魔の泣き声が小さくなると、尻に張り手を叩き込み、炎を近づけて脅した。そのたびに締まる膣が心地よい。防御のための愛液が染み出してきて、体と体が打ち付けられるずっしりとした衝突の中に、歪んだ水音が混じり始めた。
「ふん、火照った体は正直だな。ひとりで興奮してないでもっといい声で泣けよ、醒めるだろ? さらに強くしてやってもいいんだぞ、いっそ壊れるくらいに(なぶ)ってやろうか。私はサーナイトの死んだ姿を知っているからなあ。心の角が砕け散り、それは無残な死にざまだったよ。今思えばアリシアと旅をして、さっきみたいにセックスできるんだから、ありがたかったな。気の毒だが、あいつの母親には死んでくれて助かったよ。……おまえも同じようになりたいか?」
「な……!?」
 達したかのように、夢魔の体が硬直した。が、それも一瞬のことだった。そのまま力なく縄にぶら下がっただけで、死んだように動かない。ペニスが搾り取られる暴力的な快感に身構えていた私は、肩透かしを食らった気分だった。涙と鼻水を垂れ流し、呆然としたまま全身が脱力して締め付けが緩む。面白くなかった。腹に拳を叩き込めば、うぎゃっ、と言葉にならないうめきを発して、弾力のある膣がきっ、と縮こまった。下半身からじわじわと刺激が伝わってくるが、萎えた気分のままでは到達することもできそうになかった。一方的に苛立ちを募らせる私の目に、それは映った。
 背中から突き出している、夢魔の心の角だ。ハートを半分に割ったような形のそれは、闇を吸収してしまったかのように黒ずんでいた。
 ――もっと気持ちよくさせてやるよ、喘ぐしかないくらいに。
 心のうちでしたたか顔をした。今にも壊れそうな敏感な部分を、ひと思いに壊してしまいたい。どず黒く見た目も悪いなら、こんなもの無いほうがいい。いっそ焼き払ってしまおうか。
 ――それも、悪くないな。
 やにわに腕を伸ばし、忌まわしい突起に向かって、燭台からどろどろに溶け切った蝋を垂れ流した。
「!? ぎっ、ぎゃあああああ!!」
 この世の終わりかと思える断末魔とともに、膣がより一層引き絞られた。軋むほど背中をのけぞらせて、マグマッグのように這う蝋から逃れようと必死に体をよじる。そのたびに蝋が滑り、新たな白い肌に焦げ目をつける。縄がみしみしと音を立て、拷問を受けているかのような悪魔じみた絶叫が、断続的に響き渡る。
「あああ……ああああッ!! 熱つ、熱いッ!! ゆ、許してェ――っあ“あ”あ“あ”!!」
「……っふふ」
 自然と笑みがこぼれた。これだ。私が求めていたのは、この感覚だ。逃げることのできない恐怖におびえながら、私の与える耐え難い苦痛に身を捩じらせる彼女。必死に懇願し、いつ終わるかわからない拷問に、ただただ叫び続けるしかない彼女。本当に最高の気分だった。
 身を切るような悲鳴を上げる膣に、深々と挿し込んだペニスを狂ったように前後させる。 興奮は最高潮に達していた。ありったけの蝋の塊を集中させる。それは、角を包み込めるくらいに。振り向いた彼女の顔が、さらに深い絶望の色に染まっていった。
「し、死んじゃうッ!! み、ミトスっ! お願い、目を覚ましてェっ!!」
「おらッ、射精すぞ、好きだ、大好きだよアリシア、ありし――うをををッ!!」
 糸が切れたみたいに、絶頂感に意識を塗りつぶされる。私はなぜか、アリシアの名前を叫んでいた。


4.社長 



☆☆☆


 どこからか流れ込む朝のにおいを孕んだ風にあおられ、私は目を覚ました。いつもと変わらない貸し小屋の天井が見える。意識は鮮明になったが、無限の回廊を下っているかのように頭が働かない。体を奮い立たせようとして、全身が泥の沼にはまってしまったかのように重たいと気づいた。特に腰が動かず、寝床から抜け出すことができない。
 腰……?
「あ……」
 炎の温度が急激に上昇するのを感じた。昨晩の夢が鮮明に思い出される。とろんとした表情で私のペニスを貪るアリシア。私に突かれてなまめかしい声で喘ぐアリシア。
 とうとう、やってしまったのだ。もちろん夢の中でだが。
 私は気恥ずかしく、今日一日まともにアリシアと目を合わせることもできないだろう。上目づかいや木の実を食べるちょっとした仕草でさえも、興奮を思い起こす引き金になるだろうという情けない確信があった。なんせ時が経つのも忘れてのめり込んだのだ。最後のほうは記憶もおぼつかない。しかし体には彼女の残滓(ざんし)がしっかりと刻みついていて、ほのかに香るにおいや唇の柔らかさが残っている。思い出そうとするだけで興奮が甦ってきそうで、雑念を散らすように私はあわててかぶりを振った。
「アリシア、なんだか体調がよくないみたいだ。今日の仕事はやめておこう」
 横になったままそっけなく言うも、返事はない。どうしたのかと重い体を引きずって小屋の中を見回しても、アリシアはどこにもいない。しばらく考えて、今日が日曜日だと気付いた。
 日曜日の午前は町の教会へ行って天女様に(ひざまず)くことが、ここに来てアリシアの習慣になりつつあった。一週間何事もなく過ごせた旨を報告するのだそうだ。つまり幸いにもお昼に戻ってくるまでに彼女と顔を合わせることはない。それまでに気持ちの整理をつけておけばいいということだ。
 彼女が教会へ赴くときは、起きるのが遅い私のために決まってサンドイッチを作っておいてくれる。たいていはあり合わせだが、私の好物が蕪と知って以来、頻繁に買うようになっていた。が、今日はどこを探しても見当たらない。
「忘れてしまったのか……」
 仕方なく、おととい買っておいた魚に火を通して食べる。火加減を調節しているときもアリシアの事を考えていたからだろうか、気づけば魚は黒こげになっていた。もう元には戻せない。我慢して口に押し込んだ。苦みが口いっぱいに広がって、私は思わず顔をしかめた。
 食事もほどほどに私は重い財布を引っ提げて外へ出た。特にこれといってすることはない。足は自然と路地裏に迷い込んでいった。
 カフェのカウンターには、フーモが暇そうに舟を漕いでいる。声をかけると、慌てふためいて飛び起きた。
「わ、これは失礼しましたッ! ……おや、ミトスさん。また、いらっしゃったのですね。店のものとして申し上げるのがはばかれますが、あなた節度がありませんよ。夢の世界は煙草やお酒と同じ。ほどほどにしておくべきです」
「うるさいな、金なら払っているだろう」
 急に起こされたのが癪に障ったのか、それとも私には気を使う必要がないと思っているのかはわからないが、彼は説教じみた口調で言った。私もむっとなって昨日の倍額を投げつけると、さすがに黙り込んだ。念動力で鍵が浮いて出てくる。
「……4つ目の黒い扉です。社長の部屋ですので、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ」
 はじめから素直に渡せばいいのだ。私は心を躍らせながら階段を上がった。はやる気持ちを抑えて黒い扉の前に立つ。私を見下ろすようにそびえ立っている漆黒のそれは、光でさえも吸収してしまいそうなほど深い闇色だった。

 鍵を外すと、ぎい、と音を立てて扉が開いた。
 しかし、そこは私の知っているいつもの部屋ではなかった。
 扉と同じく、部屋の中も真っ黒だった。壁と天井は黒一面に塗られ、床には何の動物のものかわからない、墨を撒いたような色の毛皮が敷かれていた。窓がなく距離感がつかめず、部屋の大きさがわからない。まるで悪魔を呼び出したかのような、異様な雰囲気に包まれていた。生暖かい、腐臭に似たにおいを帯びた風がのしかかるように流れ出してきて、全身から嫌な汗が滲み出る。正体のわからない怪物がその大きな口を開けて、私が足を踏み入れるのを今か今かと待ち伏せしているふうだった。
「なんだこれは……」
 今までに味わったことのない得体のしれない恐怖が、心の底からふつふつと湧き上がってくる。これはとんでもないところに迷い込んでしまった。逃げなければ。全身が危険信号を発している。しかし体が縛り上げられたかのように硬直したままだ。顔を背けることさえできない。
 ふ、と唐突に、虚空に片目が浮かんだ。

 青い目玉だった。

「ぎゃあッ!!」
 熟れきって地面に落ちた柘榴(ざくろ)を踏みつぶしたような声が出た。金属質の肌がきいきいと悲鳴を上げ、激しくかち合う顎が言うことを聞かない。喉奥からせりあがってくるあぶくで窒息しそうだった。腕の炎がひときわ小さくなり、それによって周囲に闇が侵食してきて、私はもう一度叫んでいた。
 目は、次第にその全容を露わにしはじめた。目の上に白く、煙のようにたなびく髪、下にはいかにも狂暴そうな赤の首飾り。輪郭は闇に溶け込んでいてはっきりしないが、全身から負のエネルギーが漏れ出していて、陽炎(かげろう)のように空間を歪ませていた。とてもこの世のものには見えなかった。世界中の悪夢を練って固めた化身。言うなれば、そのように形容するほかなかった。
「……」
 悪夢の化身は一言も発さず、腕と思われる闇の塊をただ突き出すだけだった。口をぱくぱくさせている私を、触れずに引き寄せる。じっくりと、じっくりと、闇に引きずり込んでゆく。段々と迫り来る恐怖に私は全身の力が抜け、声にならない声を上げ、子供のいたずらで殺される小動物のように、かたかたと身を震わせるだけであった。目や口から汁を飛び散らせ、股は黄色くぐっしょりと濡れていたが、気にする余裕などない。全身から体液をまき散らし、鼻を突く臭気を立ち昇らせる。
 化身の腕が、私の額に触れた。なんでも吸い込んでしまいそうな、ただならぬ冷気をまとった掌。触れた瞬間、何かが私の中を貫き、時を止めたように汗と涙が静まった。化身の瞳に映る、つぶさに揺れる私自身の瞳を見た。
「あっ、あっ、……っぅああっ!」
「……おやすみなさい」
 落ち着いた女性の声が響いたが最後、私は足元にできた常闇の大穴に吸い込まれていった。


☆☆☆


 どこからか流れ込む朝のにおいを孕んだ風にあおられ、私は目を覚ました。いつもと変わらない貸し小屋の天井が見える。意識は鮮明になったが、()()()()()()()()()()()かのように頭が働かない。体を奮い立たせようとして、全身が() () () () () () () () () () () ()かのように重たいと気づいた。特に腰が動かず、寝床から()()()()()()()()()()()
 腰……?
「あ……」
 炎の温度が急激に上昇するのを感じた。昨晩の夢が鮮明に思い出される。とろんとした表情で私のペニスを貪るアリシア。私に突かれてなまめかしい声で喘ぐアリシア。
 とうとう、やってしまったのだ。もちろん夢の中でだが。
 私は気恥ずかしく、今日一日まともにアリシアと目を合わせることもできないだろう。上目づかいや木の実を食べるちょっとした仕草でさえも、興奮を思い起こす引き金になるだろうという情けない確信があった。なんせ時が経つのも忘れてのめり込んだのだ。最後のほうは記憶もおぼつかない。しかし体には彼女の残滓(ざんし)がしっかりと刻みついていて、ほのかに香るにおいや唇の柔らかさが残っている。思い出そうとするだけで興奮が甦ってきそうで、雑念を散らすように私はあわててかぶりを振った。
「アリシア、なんだか体調がよくないみたいだ。今日の仕事はやめておこう」
 横になったままそっけなく言うも、返事はない。どうしたのかと重い体を引きずって小屋の中を見回しても、()()()()()()()()()()()()。しばらく考えて、今日が日曜日だと気付いた。
 日曜日の午前は町の教会へ行って天女様に(ひざまず)くことが、ここに来てアリシアの習慣になりつつあった。一週間何事もなく過ごせた旨を報告するのだそうだ。つまり幸いにもお昼に戻ってくるまでに彼女と顔を合わせることはない。それまでに気持ちの整理をつけておけばいいということだ。
 彼女が教会へ赴くときは、起きるのが遅い私のために決まってサンドイッチを作っておいてくれる。たいていはあり合わせだが、私の好物が蕪と知って以来、頻繁に買うようになっていた。が、今日はどこを探しても見当たらない。
()()()()()()()のか……」
 仕方なく、おととい買っておいた魚に火を通して食べる。火加減を調節しているときもアリシアの事を考えていたからだろうか、気づけば魚は黒こげになっていた。()()()()()()()()()。我慢して口に押し込んだ。苦みが口いっぱいに広がって、私は思わず顔をしかめた。
 食事もほどほどに私は()()()()を引っ提げて外へ出た。特にこれといってすることはない。足は自然と路地裏に迷い込んでいった。
 カフェのカウンターには、フーモが暇そうに舟を漕いでいる。声をかけると、慌てふためいて飛び起きた。
「わ、これは失礼しましたッ! ……おや、ミトスさん。また、いらっしゃったのですね。店のものとして申し上げるのがはばかれますが、あなた節度がありませんよ。夢の世界は煙草やお酒と同じ。ほどほどにしておくべきです」
「うるさいな、金なら払っているだろう」
 急に起こされたのが癪に障ったのか、それとも私には気を使う必要がないと思っているのかはわからないが、彼は説教じみた口調で言った。私もむっとなって昨日の倍額を投げつけると、さすがに黙り込んだ。念動力で鍵が浮いて出てくる。
「……4つ目の黒い扉です。社長の部屋ですので、くれぐれも粗相のないようにお願いしますよ」
 はじめから素直に渡せばいいのだ。私は心を躍らせながら階段を上がった。はやる気持ちを抑えて黒い扉の前に立つ。私を見下ろすようにそびえ立っている漆黒のそれは、光でさえも吸収してしまいそうなほど深い闇色だった。

 鍵を外すと、ぎい、と音を立てて扉が開いた。
 しかし、そこは私の知っているいつもの部屋ではなかった。
 扉と同じく、 部屋の中も真っ黒だった。壁と天井は黒一面に塗られ、床には何の動物のものかわからない、墨を撒いたような色の毛皮が敷かれていた。窓がなく距離感がつかめず、部屋の大きさがわからない。まるで悪魔を呼び出したかのような、異様な雰囲気に包まれていた。生暖かい、腐臭に似たにおいを帯びた風がのしかかるように流れ出してきて、全身から嫌な汗が滲み出る。正体のわからない怪物がその大きな口を開けて、私が足を踏み入れるのを今か今かと待ち伏せしているふうだった。
「なんだこれは……」
 今までに味わったことのない得体のしれない恐怖が、心の底からふつふつと湧き上がってくる。これはとんでもないところに迷い込んでしまった。逃げなければ。全身が危険信号を発している。しかし体がかのように硬直したままだ、顔を背けることさえできない。
 ふ、と唐突に、虚空に片目が浮かんだ。

 赤い目玉だった。

「アリ……シア……?」

 部屋の中央で宙吊りにされているのは、まぎれもなくアリシアだった。悪漢に痛めつけられたように全身傷だらけで、気を失っている。胸に刺さっている心の角は、墨に浸したかのように黒い。乾いた粘液がこびりついているように見える股が裂けているように見えて、私は思わず顔を背けた。
「どうして現実を直視しないのですか、ミトスさん。これはすべて、あなたが昨日やったことではありませんか」
 部屋に明りがともされ、視界が一気に白んだ。4人のポケモンがアリシアを取り囲んでいる。私を眠らせた2人と、アリシアにそっくりなサーナイト。それに、見たこともないような黒い影の塊が浮かんでいる。どの顔も蝋で塗り固められたように冷酷な表情だった。
「な、え…… なんでおまえたちが……」
 動揺する私をよそに、フーモは畳みかけるように喋る。
「なんで、ではないのですよ。ワタクシは事の顛末を見ていただけです。夢と現実を混同してしまったあなたが、どのような過ちを犯すのか、しっかり見届けさせていただきました。ひどいものです。あなたには失望しましたよ」
「な、何のことを――」
「本当は何もかも気づいているのでしょう? あなたがアリシアさんを痛めつけたのも。嫌がる彼女を無理やり犯したのも。治療と称して心を抜き取り、自分のいいように扱っていたということも。そして――そして、夢を見る金を工面するためにあなたが彼女を()()()ということも。すべてあなたがやったことなんですよ、ミトスさん!!」
 とくん、とくん、とくん。静かに心臓が跳ねる。意識が薄らいでいっても、決して目を覚まさないんだということが、私にははっきりと分かっていた。



☆☆☆☆☆

 黒塗りの部屋の中央で眠っているシャンデラとサーナイトを囲んで、4人の店の者たちは話す。
「いくら復讐したいからって、わざわざ本当に抱かれることはなかったと思うのですが。夢の中で済ませればよかったじゃあありませんか。わざわざ媚薬まで使って。ミトスさんは最後まであなたをアリシアさんだと思って疑わなかったんですよ。妹のあなたにすり替わっているとは気づきもせずに。ワタクシあの夜はさすがに眠れませんでしたよ。エスプリさんはずっとあなたの部屋を覗き見していましたし…… なんでわざわざあんなことをしたのですか、アリスさん」
 ムシャーナがゲンガーを目で刺して言った。ゲゲ、とゲンガーは身を縮こまらせたが、アリスと呼ばれたサーナイトはあっけらかんとした態度で答える。
「それがいいんじゃない。お姉ちゃんの好きな人が、目の前で実の妹に寝取られる。どれだけ悔しい思いをしたのかしらね。心の角が真っ黒に染まっているのを見たときは、心底スカッとしたわ」
「ケケ、オマエ本当にサーナイトかよ……」
 姉のサーナイトのどす黒く変色した角を覗きこんで、ゲンガーが呟いた。
「あったりまえじゃない! 私が奴隷商人に売り飛ばされて5年、何の音沙汰もないのよ! あれだけ支えあって生きていこうって誓ったのに、(てい)よくお荷物が持ち去られてしまえば知らん顔するんだから。それであっちは好きな人と2人旅ですって!? 姉妹の絆も安いもんよね。せいせいするわ」
 これにはさすがにムシャーナもゲンガーも閉口した。代わりに口を開いたのは、今まで沈黙していたダークライだ。
「あなた、このシャンデラに惚れていたのでしょう? そうでなければ、復讐だからと言って、見ず知らずの雄に体を受け渡したりはしないですもの」
 サーナイトは一瞬固まったものの、確かにそうです、と吐き出した。気恥ずかしそうに内向き気味になって言う。
「わたし、奴隷になったころは本当に姉を恨んでいて、詳しい仕組みは分からないのですけれど、姉にわたしの生霊が取り憑いたみたいなんです。どうやらそれがそうとう(こた)えていたようで、辛いとか苦しいとかいう気持ちが、遠く離れたわたしのところにも同期(シンクロ)して伝わってきちゃって。皮肉なものですよね、こんなところに絆が現れるなんて」
 サーナイトの顔が、一瞬だけ照れた笑顔に戻った。それは、姉のサーナイトが時折見せる、少女のような笑みに似ていた。
「で、ある日姉の元に、心の病なら何でも治す、と噂される旅医者が訪れたようで。その時に私の生霊は消えてしまったみたいなんですが、治療の際に受けた姉の感情が同期してきて、それが浄化されるというか、天にも昇るような心地がして。……その日から何日かは、それを思い出して自慰、してました」
 ゲンガーが咄嗟に鼻を押さえて後ろを向いた。
「彼を好きになったのは、その時ですね多分。まだ顔も見ていないのに、おかしな話ですけれど。それから、いつかセックスしてみたいと思うようになったんです。あんなに優しい治療を施してくださるお医者さまは、夜はどんな秘術を使って愛してくれるんだろう、って」
 ははぁ、と感心したように、半ばあきれたようにムシャーナはため息をついた。
「つまり、あなたがミトスさんに抱かれることは、姉への復讐のためでもあり、自身の欲望を満たすためでもあったわけですね。まったくもう、今回限りにしてくださいよ。彼をこの店に招き入れるのにどれだけ苦労したことか。眠れない夜も勘弁していただきたい」
「それはごめんって。フーモの協力には感謝している。お礼にだけど――」
「ケケケ、じゃあ今晩だけ付き合ってくれよ。オレもミトスにとびっきりの悪夢を見せてやったんだぜ。姉をひどい目に合わせたいからって、あいつの残虐さを引き出すの、苦労したんだ。もうあいつに心残りはないんだろ? オマエがここに来てから3年、好きな人と交わるのはあの人が初めてじゃなきゃヤダ、って駄々こねてるのをずっと待ってたんだ。そろそろいいだろう? オレと付き合って――」
「エスプリ、それ以上は私が許しませんよ。眠らされたいのですか?」
 ダークライが優しく止めに入って、片方の鼻から血を流しているゲンガーは押し黙った。ほかの者たちが笑う。
 わいわいと繰り広げられる談笑の中央で、深い眠りに落ちていった2人は一向に目を覚ます気配がない。しかしその表情だけが、せわしなく切り替わる。幸福に酔いしれたような。残忍さに満ち溢れたような。快楽に溺れ切ったような。そして恐怖に嵌り込んだような。恋人同士のように頭を寄せ合って眠る彼らは、いったいどんな夢を見ているのだろうか。




 



あとがき

 40000字を超える作品、読了お疲れ様でした。官能作品であると銘打っておきながら、読者様に濡れ場はまだかまだかと焦らさせてしまいましたね。単にそれが目的だった人は辛かったかもしれません。
 でも、悪くなかったでしょう?(反省しろ)
 散々伏線を張っておいたわりにメインの文章量が少なかった気もしますが、それなりに官能的なものが書けた気がします。実はこれ、官能・残虐描写の練習(というか比喩練)にちょいちょい書いていたものを、どうにか読めるように仕立てあげたもの。結果として話のつぎはぎが見えてしまう荒さの目立つ作品になってしまいましたが、初めてこのような長い文章を書き上げて、達成感はひとしおでした。
 不定形が好きなのでシャンデラを主人公に、サーナイトは描写がしやすそうなので採用。ポケダンにも出てきますが、夢を操る能力は魅力的ですよね。ミトスを眠らせた4匹はみんな自力で「さいみんじゅつ」「ゆめくい」を覚えます。夢を操る設定は前から書けたらいいなーと思っていて、前回大会に出したサイバー・サバイバルに出てくる『秘密結社ハルキゲニア』はこの会社をイメージして命名しました。「ハルキゲニア」は「夢見心地を生むもの」という意味の古生物です。まさか実際に書くことになろうとは思っていませんでしたが。
 内容としては、エセ心理学、なんちゃって宗教、でっちあげ睡眠法などなど、読みにくさここに極まれり、なもので、きっと大変な労力を使わせただろうと思います。ストーリーはあってないようなものなので、なんだか過去編が完全にいらない気もするし、プロットのところから練り直したい……
 ともかく、不眠の症状を持っていても大抵の人間は1日少なくとも6時間眠らないと、脳が正常に働かないそうですよ。それは私の文章が十分証明して見せたはず!(反省しろ)



ここがつまらん、あそこがよかった、なんでもお聞きします。誤字脱字も指摘お願いします。

最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 大抵のポケモンは1日少なくとも6時間眠らないと、脳が正常に働かないそうですよ。このコメントを画面越しに読むポケモンの皆様がたはどうですか、最近よく眠れていますか?
    ……というのはさておいて。
    タイトル、注意書きと合わせて読むと野生界の捕食劇なのかな、などと期待した傍ら、そういうことはありませんでしたけれど、綺麗でかっこいい付け方ですよね。"クレセリアの教え"を破った先で出てくるのがダークライさん、というのがまた皮肉というか。その教えによる加護は、ミトスさんも知らずのうちに授かっていたのかな、とか漠然と思うんですよね。ミトスさんが悪人だったとしても、です。

    個人的に癖になりそうなのは、圧倒的な力を得る部長さんの夢ですよ。やはり暴力は全てを解決する。
    まぁ、暴力で解決してしまった出来事は記憶に残っていないかもしれないにしても、自らの力で障害として立ちはだかり止めようとしたことを相手の暴力によって解決されてしまう記憶は、誰しも一つや二つくらいあるでしょうし、そういった苦い記憶に広く刺さる悪夢ですよね。指先一つで世界全ての生殺与奪を動かせるならどれだけ楽しいことでしょう。ええ、不眠にお困りの皆さん、どうですか、このような悪夢の見られる素敵なお店があるんですが――はい。

    これは、完全にミドリさんひとりにしか伝わらない、メタい話なので、ここに乗っけるのもどうかな、とは少し思うんですが、はい、終盤で物語をひっくり返すのが好き、といつだったか仰られていたミドリさんの信念が、この時代には既にあったらしい、というのが、なるほど、なるほど、と言いますか、ですね。一貫なさっていて素晴らしいことだと思います。
    かの時の作品に対しても、世界観上での事実と善悪を作者の想定と違うキャラクターに見出していましたよね、私。らしいな、ですね、ほんと。
    物語の頭から最後の一幕まで書かれ続けたミトスさんの視点は全て夢で、あるときは夢中夢まで見ていたりしたのかな、とか。アリスさんの語り以外に信用を置かない場合、ミトスさん自身が奴隷商人と密接に関わりがあったとしてもおかしくなさそうに読み解けてしまいそうですもの。
    ……はい。素敵でした。 --
  • >名無しさん
    あ、アーっ、これはまた懐かしい作品に感想をいただけました……。読み返すにもあまりに自作が拙すぎて目を逸らしてしまうのですが、ああ、ええ、書きましたねこんなこと。あとがき痛ましすぎて古傷ぱっくり開きました。
    当時は拙さを隠す術も知らないくらいの駆け出しで、とりあえず心理モノ書いておきたいな……、くらいのノリだった気がします。心を壊す者と心を暴く者。設定は悪くないと思うんですけどね……いかんせん風呂敷を広げすぎた。
    終盤で物語をひっくり返すのが好き、というのはつまり、私の書く物語性に自信を持てていない、ってことに繋がるんだと思います。『青いとげ』『DoroRich』『カクレミノ』も本作と同じ〝ラストに全部ネタバラシする〟という物語構造をしていますが、書きたかったことはそれぞれ〝ヒドイデのサイコっぷり〟〝叙述トリック〟〝脳姦〟で、そのために物語を担保してくれるどんでん返しを好んでいるのでしょう。とりあえずひっくり返しておけば何かすごいこと書いた気になれるので。
    それゆえ作品の解釈は読み手それぞれに委ねられますから、物語の裏で誰と誰が繋がっているとか、ご自由に想像していただけると嬉しいですね……。私もそうしていただける感想に「なるほどなぁ」と頷かされるのでありがたいばかりです。 -- 水のミドリ
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Last-modified: 2014-12-06 (土) 23:22:37
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