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愛の妙薬 -L'elisir d'amore-

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以上、代理人こと狐眼の提供でお送りしました(


仮面小説大会非エロ部門寄稿作品

この作品は読み手を選ぶ点をいくつか有しています。

其れは、女性が女性を愛する、同性愛の禁忌。
其れは、命の水である血が弄ばれる、流血の描写。
其れは、同胞を殺す、もっとも危ぶまれる大罪。殺害の狂気。

それをも否定しないというのなら、どうぞ物語の紐をお解きください。

愛の妙薬 -L'elisir d'amore- 






 ~ 起 ~

 エンペルトは、強く大地にしがみ付く麦の束を手で掴み、その根元に翼を宛がった。
 ちりちりと繊維の悲鳴が聞こえたかと思えば、次の瞬間翼は麦束を刈り取っていた。
 そこは広い麦畑。所狭しと根を張る植物が、各々に天を指していた。それらが群れて作るは黄金色の海。
 たわわと実る麦の穂が風に揺れ、波を形作る。その波間に娘たちが見える。彼女らは一心に鎌を振るい、麦を収穫していた。
 艶を帯びたその粒は光を受けるたびに輝き、しなやかな茎が揺れた。その細いからだも束にすれば相当の量となる。
 それを纏め、鎌をもって裁ち、海はたちまち山を作り上げていく。
 長く伸びた鋭い葉は刃のように。ひらりと舞えば、それは美しい。
 黄金色の植物は斜陽の光をきらきらと反射する。空は赤色を帯びて夕刻を告げている。
 少々くすんではいるものの、明らかな紫色が空色を一様に覆っていた。見上げた空に鰯雲が浮かんで。
 静かだった。平穏な町の、平和な麦畑だった。



 その麦畑からそう離れてはいない場所に、その建物はあった。
 薄汚れた白い壁はその建築物が古いことを示している。
 その建物はあちこちに分厚い硝子がはめ込まれていて、それが夕日の光を受けて鋭く目を刺した。
 唯でさえ珍しい白の壁で出来た建物は、それだけで人の目を引いたが、その建物からまっすぐに天を目指す塔が町の人々の自慢だった。
 すらりとした細い体は凛と聳え立ち、あちこちに施された彫刻は人を魅了する美しさがある。何よりもその白い塔は高く、大きな存在感を呈していた。

 建物。孤児院、と呼ばれているその建物の中に、少女と老婆がいた。

 少女はギャロップ。老婆はガルーラ。
 共に忙しそうに台所で作業している。食欲をそそる香りが部屋中を満たしていた。大なべの中ではスープが煮立ち、白い湯気を昇らせている。
 透明なスープの中にあまり具はなく、辛うじてカゴの実がなべ底でうずくまっている程度だ。
 ガルーラはすぐ近くのざるからモモンの実を取り出してその中に加える。渋さと同じだけの甘さを加えて味を相殺するためらしい。
 ガルーラが中身の世話をしている間、ギャロップはなべ底を覗き込んで火加減を睨んでいた。
 弱すぎれば消えてしまい、強すぎれば不味くなってしまう。
 火勢の強弱を見極めることなどギャロップにとっては容易いことだ。
 あるときは燃料を取り上げ、あるときは口から火を吐いて火を強める。耳をくるくると回しながら、紅蓮の目に炎を映していた。

「リコ、火をとめて」

 スープを混ぜる木べらを持つ手を止めてガルーラはギャロップに言った。リコはぴくりと耳を動かし、蹄で火を踏み消した。
 大きな伸びをしてガルーラはどっかりと椅子に腰掛ける。仕事が一段落したことでそれまでの疲れが押し寄せたのか、ガルーラは息を吐いた。
 リコもそれにあわせて足を引きずりながら隣の椅子に座る。
 大型のポケモン二人で席をつかっても、そのテーブルにはまだまだ余裕があった。
 遠く遠く、家路に着く人々の足音が聞こえる。
 農作業を終えた町人たちは世間話に花を咲かせている。それが二人の耳にももれなく届いてきた。
 それでも、半ば喧騒と解離した孤児院には快い沈黙が降りていた。
 リコは耳を伏せ、緊張を解いた表情をみせていた。そんな彼女を見てガルーラは声をかける。

「いやあ、やっぱりリコがいてくれると助かるよ。この間までは一人で十数人分の食事作ってたから、そりゃあてんてこ舞いで」
「いえいえ、こちらこそ雇ってくれてありがとう」
「またまた。給料なんてポッポの涙ほどしか出してないし、実質ボランティアよね」

 あはは、と二人は軽快な笑い声を立てる。夕日の赤色が満ちた部屋はすべてが暖色を帯びて。
 そんな中でも、ひらひらと燃えるリコの炎は煌いて見える。
 まるで蜃気楼のようだとガルーラは思う。炎の外見をしたたてがみは手が届くほどに近くで燃えているのに、不思議と熱くなかった。
 リコが、つまりギャロップが吐く炎はそれこそ極熱だというのに、体のあちこちに纏った炎は体温と同じくらいの温もりを帯びているだけだ。

 聞けば、ギャロップの炎は本来業火のようだとか。心を許したものには熱を感じさせないらしい。

「あっ、帰ってきた」

 耳をぴんと張り詰めてリコはドア側に顔を向けた。数歩分の足音の後、ドアをノックする音が室内に響く。
 あいよ、と返事をしてガルーラはドアにかかっていたつっかえをはずした。
 途端、はじけたようにドアが開く。
 外から子供たちがなだれるように入ってきて、室内は笑い声で騒がしくなった。そんな子供たちをガルーラは優しそうな笑顔で迎え入れた。

「ただいま!」
「お帰り。はいはい、お帰りなさい」

 孤児院に住んでいる者の殆どは子供だ。
 しかし中には大人びた風貌の者もいる。大人びた、とはいってもまだ「子供」といえる年齢であるうちは孤児院で保護することができた。
 だからオタチやヒメグマの中に混じってキノガッサやガラガラがいたりする。

 そして、深い青色の双眸を持った彼女も、その中にいた。

 顔に浮かんだ二つの蒼玉と、冠にも三叉の槍にも似た角が非常に精悍な雰囲気をかもし出している。
 あるいはその紺色の体色のせいか、鋼の翼の鈍い光のせいか。そんな近付きがたい外見をしているが、彼女は微笑を湛えていた。
 和やかな顔は女のそれで、とても美しく。

 エンペルト――彼女は名前を、キニーネという。

 物心ついたときからずっとこの孤児院を住いとしていた。両親に捨てられた、というのがガルーラから聞いた理由で。
 だから彼女にとってはここが家だ。成人し、だれかと婚礼を挙げるまでは。

「さあ、夕食にしましょう!」

 大なべを抱えながらガルーラは大声でそう告げて、子供たちを席につかせた。
 子供たちは大急ぎで各々の席に座った。
 ポケモンの種族によっては図体の大きいものも小さいものもいる。それらにあわせて椅子も用意されていた。
 リコはびっこを引きながらも人数分の椀と大きな籠をテーブルの上に置く。籠からは大きなごつごつとした黒パンが覗いている。
 労働を終えた子供たちは腹を空かせていて、食事を待ち遠しそうにしていた。ガルーラは椀に一杯ずつスープをすくっていく。
 キニーネは大なべのほうをぼうっと見ていた。
 煤で薄汚れた鍋はあちこちがへこんでいて、ぼろぼろといってもいい代物だった。そこからガルーラ、リコへと視線を運ぶ。
 ガルーラはせかされながら一杯一杯スープをよそって、リコはそれを子供たちに渡す。
 キニーネはリコのことを見つめていたが、それに気づいたリコに見つめ返されて驚いたような顔をした。
 それを見てリコはくすくすと笑い、二つ椀を持ってキニーネのほうに歩み寄った。

「ほら、スープ」
「ああ、ありがとう、リコ」

 リコはキニーネの隣に腰掛けた。
 その顔に笑いを浮かべて。キニーネも笑いながらリコのほうを見た。
 正しくは見つめていた。
 透き通った瞳には燃える赤色しか映らない。瞳の紅蓮色、炎の朱色。どちらもそれぞれ違う色で、二つとも光を受けてさざめくように光る。
 幾度も幾度も形を変えて。目くるめく形を変える炎はキニーネを飽きさせることがない。
 ぱん、と破裂音に似た音が鳴った。
 少しの間――スープが全員に配られている間渦巻いていたさえずり声がはたと止む。
 手を叩いた姿勢から、ガルーラは手を合わせた。子供たちもそれに倣う。当然リコもキニーネも。

「いただきます」

 最初の一声をリコが上げ、

「いただきます!」

 子供たちがそれに続いて挨拶をした。各々の椀を両手で抱えて口元に持っていく。
 匙などの食器はとうてい安価とはかけ離れていて、裕福でない町の貧しい孤児院にまで普及しているわけがなかった。
 それでも皆喜んだ表情でスープをすすっていく。
 ガルーラは大きな黒パンにナイフを入れていたが、干からびた、と形容できるほどに固くなったパンはそうそうには切れない。
 それでもなんとか等分して、それを子供たちに分け与えていた。
 キニーネも、ゆっくりとスープ椀に黄金色の指を這わせた。その姿勢のままじっとスープの中を覗き込む。
 黄金色の水面。その中に具など殆ど無いに等しく。
 覗き込んだエンペルトの顔がはっきりと映し出された。そしてキニーネはため息を吐き、ふと辺りを見回す。

 具の無いスープに、硬い黒パンを浸してほおばる――。

 食事風景は貧しいの一言だった。
 生まれてからこのかたずっと孤児院にいた彼女でさえ、この食事が貧相なものであると分かっていた。
 寒冷地に位置するこの町の実りは豊かでなく、痩せた土地でも育つカゴならまだしも、麦は収穫高も質も低い。
 その麦を粉に挽いて捏ね、大量にまとめて焼いたパンを一ヶ月ほど食い延ばすわけだから、黒パンはスープが無ければ嚥下すら困難な代物だ。
 この町は貧しいの一言だった。
 それでもキニーネをはじめとしたすべての人はこの町を愛していた。
 自分をはぐくんでくれたこの町を、親に見捨てられた自分を愛してくれたこの町を彼女は愛していた。
 この土地は貧しいの一言だった。
 それでも町の人々は、大地を愛していた。それはキニーネも賛同していた。されど彼女には理解できないことがひとつだけあった。

 ――どうして、この町の人々はここまで苦しめられても神を信じ続けるのだろう?

「キニーネ姉ちゃん、食べないの?」

 すぐ隣にいたマクノシタの子供が、物欲しそうにキニーネのほうを見つめていた。マクノシタの椀はすっかり空になっていた。
 まだまだ子供とはいえ、マクノシタは大食らいの部類に入る。
 自分の分では物足りないらしく手をつけていないキニーネのパンとスープをじいっと見つめていた。
 キニーネが食事を分けてやろうか躊躇していると、すぐ隣からバリバリとパンを千切る音が聞こえた。驚いてキニーネは振り向いた。
 リコは微笑しながら、丁寧に自分の分のパンを等分した。
 それをさらに自分のスープに浸して渡そうとしているのを見て、キニーネはマクノシタに椀を差し出した。

「スープは私のを分けてあげるよ」
「ありがとう!」

 マクノシタは満面の笑みで感謝の意を告げ、それを見てリコもまた笑った。
 キニーネは微笑の相好を崩さないままマクノシタの椀にスープを流し込む。マクノシタは大喜びでリコから受け取ったパンを千切り、スープに浸す。
 それをさもおいしそうに頬張った。
 嵩の減ったスープとマクノシタを一瞥し、リコに視線を移した。
 彼女はただ唇をほころばせていた。
 残った自分のパンをゆっくりと咀嚼している。それがキニーネにはどことなくうれしそうに見えた。

 ――それが彼女には理解し難かった。

 自分たちを困窮の際まで追いやる神を、痩せた大地に恵みを与えようともしない神を、病羸(びょうるい)の人々の命を躊躇無く絶やす神を信じる町の人々を。
 中でもそれを心から崇め敬い、尊ぶギャロップを、リコを。
 何の慈悲もくれてやらない神など、人々の偶像に過ぎない。すがるものの無い人々が作り上げた幻想に過ぎないのだ。
 罪人一人にすら罰を下せない神。
 そんな作り物を敬うことが、キニーネには出来なかった。だから食事の度に手を合わせて神に感謝することに違和を感じてしまう。
 快く自分のものを分け与えるリコの心中がよく分からないのだ。
 キニーネはすっかり冷めたスープに口をつけた。生ぬるい塩味の液体が喉を下る。
 黒パンを千切って口に入れると無骨な香ばしさが広がった。
 それを幾度もかみ締めた。



 テーブルの上の皿の中がすべて空になると、食事を始めるときと同じように全員が手を合わせた。

「ごちそうさまでした」

 全員の声が合わさって合唱になる。それと同時に子供たちは椅子から降りて、思い思いの場所に向かった。
 食器を片付けるのはガルーラの仕事だった。
 そう、ガルーラの仕事。彼女は一つ一つの食器を重ね、粗末な洗い場まで運んでいく。
 テーブルの上が片付いたことを確認してリコは孤児院の出口に向かった。
 彼女は孤児院の者ではなく、福祉として働きに来ている。だから夜には自宅へ帰る。

「お疲れ様、リコ」

 そんな彼女にキニーネは声をかけた。リコは深紅の瞳を彼女に向けて口角を上げた。
 いつだってリコは笑顔で人と接する。無論キニーネに対しても例外ではなく。それどころかキニーネとリコはとても仲が良かった。
 完全な幼馴染とは違うかもしれないけれど、十数年前に知り合い、数ヶ月前、リコがここで働き始めてから二人の仲はさらに近しくなった。
 むしろ彼女が孤児院という働き場所を見つけることが出来たのはキニーネのお陰だろう。

「どういたしまして。キニーネこそ仕事はどう?」
「今年の麦は質がとても良い。よく肥えて大粒だよ。これまでにない出来栄えだ」
「今年は晴れの日が少なかったから心配してたけど、話を聞く限りでは大丈夫みたいだね」
「ええ。ただ、取れ高があまりよくないことが欠点……かな」

 口を開けば出てくるのは畑の話ばかりだった。秋、麦の収穫時期は特に忙しく、また神経質になる時期である。
 一年の生活が係っているのだから無理も無い話だろう。
 しかし、本当は無邪気な話を――心からの話をしたかった。素肌を風にさらす様に、心のうちを開け広げたかった。
 それでもキニーネは畑の話をし続ける。
 会話に笑い声が混じるようになったころ、家事を終えてガルーラが二人のところにやってきた。

「今日も来てくれてありがとうねえ」
「好きでやってるようなものだから。それなのに雇ってもらえて、感謝するのはこっちのほうだよ」

 どちらも謙虚や世辞ではなく本心だった。ガルーラは熱心に働くリコのことを褒め上げ、リコはそれに対してかぶりを振る。

「それじゃあわたし、そろそろ失礼させていただきます」
「また明日ね」
「ああ、あの」

 会話が了するのを見計らい、キニーネはおずおずと提案を口にした。

「リコを送っていってもいいかな? 特に意味があるわけではないけれど」

 突然のことにガルーラは目を丸くした。
 悪い意味ではなく、彼女がそんなことを言うのは初めてだったからに過ぎない。
 昔から他に関心の薄い子だったキニーネが、意見を言うようになったことはいい傾向だ。それを咎める理由も無い。
 彼女はキニーネに頷いた。
 キニーネは、微笑に近い無表情を湛えている顔を少しばかり明るくさせる。

「ありがとう。遅くはならないから心配はしなくても大丈夫だよ」
「キニーネ、ありがとう。あと今日はありがとうございました」

 二人は共に感謝の意を掲げた。キニーネはしなやかな剣の翼をドアノブに手を伸ばす。
 風が渦巻いて、唸っては咆哮する音が耳に届いた。さも外は嵐が吹き荒れているようだったが、されどそれは隙間風がそう聞こえるのに過ぎない。
 思い切ってドアを開けてしまえば外は穏やかな秋の夜だ。リコはドアを閉める間際におやすみを言い、ゆっくりとドアを閉めた。

「綺麗な空だ」

 キニーネは嬉しそうにそういいつつ、空を仰いだ。
 秋の夜空は墨の上澄みを掬い取ったような深い藍をしていて、ところどころ白が瞬いている。
 星は透き通った空気の中で燦然として。薄雲さえ無い空でとかく美しく見えた。
 夏の名残の濃色と、冬の先駆けの乾いた空気が満天の星空を作り上げていた。

 二人はそんな星空の下で歩き始めた。キニーネが少し先を歩き、リコがそれに続く。
 リコが孤児院の場所を知っているように彼女もリコの家を知っている。
 頬に当たって走る風がリコの炎を翻させた。暗転した世界で彼女の炎はより一層煌いた。

「それにしてもあんまり機会が無いね。こうやって二人きりで歩くの」
「少し前まではよく歩いたものだけど、互いに仕事ができたからね。私はこうして歩くのが好きだ」
「うふふ、わたしも」

 少女のような笑い声を立ててリコは笑った。それは幼稚には見えず、キニーネの眼には可憐に映った。まるで花が揺れるように笑う。

「昔からリコにはお世話になりっぱなしだ」

 ぽつり、とこぼしたその言葉に、リコはふと足を止めた。
 どうしたのだろうと振り返ると、彼女は家とは違う方向に向かうよう促している。畑のほうをむいて前足の蹄で軽く土を掻いていた。
 赤く煌々と燃える炎に照らされた赤い眼は茶目で、悪戯っぽい雰囲気だった。明るい表情でこちらを見、尾を振っていた。

「遠回りして帰ろ。二人になるのも久しぶりでしょ、せっかくだから沢山お話しようよ」
「そうだね。でもすぐに帰らなくてもいいの? ご両親は心配しない?」
「孤児院の仕事が忙しい日にはこれくらい遅くなることもあるから」
「それなら言葉に甘えさせてもらおうかな」
「わあい」

 嬉しそうに尻尾を振りながら、リコはキニーネに擦り寄った。キニーネはそんな彼女の燃えるたてがみを撫ぜた。
 暖かい風に手を当てているような不思議な感触がある。小さなころから彼女の炎に触れてきたから、熱くないことにはいまさら驚かなかった。
 ただその柔らかく仄かに温かい見せ掛けの炎が好きだった。

 畑に近付くにつれ、粉挽き風車の回る音が大きくなっていく。
 飲料水程度なら井戸でまかなえるものの、平野にある以上、この町では水車を作ることが叶わない。だから製粉には風車が用いられた。
 ゆったりと回転する風車を見ていると、キニーネは安堵を覚える。

「ここでちょっと座ろうよ」

 風車小屋の壁に背を向けて座り込み、リコはキニーネを手招きする。疲れたのか、話をしたいのか彼女にはよく分からなかった。
 ただ話をしたいのはキニーネも山々だ。紺色の体を彼女の隣に下ろした。

「昔はよくここで遊んだな……。出会ったのもここだった?」
「覚えてないけど、ここではよくキニーネと一緒だったよね。懐かしい」

 風車の羽が空を切る穏やかな轟音が懐古の情を催させる。小さなころの二人はこうしてよく風車小屋によりかかっていた。
 ポッチャマとポニータ。体格の違いもさることながら、そのころの二人の性格は今と同じとは言いがたかった。
 されど境遇が少しばかり似通う点があったから、二人は縁を得、仲良くなる機会を持った。

「わたしのお母さんが亡くなった頃だったっけ」
「面影とか何か覚えてるの?」
「全く、とは言えないけどよく覚えてるってほどじゃないなあ。美化されてるだろうけど綺麗な人だったよ」

 親を失くした。それが二人を結びつけた。
 弱いもの同志――という言い方では語弊があるだろうが、同じような悩みを抱えていた二人は、互いに慰めを欲していた。

 小さな頃のリコは今とは違って泣き虫で。ギャロップの母親を亡くして、風車小屋の前でぐずぐずと泣いていた。
 小さな頃のキニーネは今と違って他人不信で。周りが敵だと、いつも思っていた。もっとも身近な存在になるはずだった親に棄てられた以上、彼女は信じる心を持つことができなかった。

 今リコは父親が再婚し、養母ともとても仲睦まじくしている。無論父親とも。
 もとより他の人を深く信ずる心を持っていたから、実母ではない母親にも懐き、甘えることが出来た。感謝すらしている。
 リコは凛と生きていた。
 そしてキニーネも、リコと共にいることで他人との接し方を覚え、信頼することを学んだ。

「キニーネのお母さんは? ……何か覚えてるとか、聞かされたこととかないの?」

 キニーネは、青い眼を細くした。

「……ちょっと聞いてもらえる?」

 小さな、本当に小さな声で彼女は囁いた。その無表情のような微笑に悲哀の色を浮かべて。
 リコは驚いて耳を立てる。すぐに頷いて耳をそばだてた。

「この町、ポッチャマもポッタイシも、エンペルトもいないでしょう? つまり私は余所者なんだ。
 ……都の罪人、だったらしい。私の親。父親がそうなのか、それとも母親なのかは知らないけれど。だいぶ大きな罪を犯して追放されたらしい。
 ドリンさん――ガルーラさんに聞かされたのは、リコに出会う少し前でね。本当にショックを受けたよ。
 どこか、どこか遠くに行っていて、そう働きに出ていて、いつか帰ってくると思っていたから」

 墨を流したようなむらの無い空に星座を探す。星の一つ一つをつなぎ合わせて骨格を作り上げていく。
 時折強めの風が吹くたびに風車の木が鳴き声を上げた。軋む音が心地よかった。リコは紅蓮の目でずっとキニーネを見ていた。

「皆が、町の人が罪人の娘である私を疎ましく思っていると、そう思い始めた。
 平気で娘を棄て、旅を続けられるような両親から生まれた自分は汚らわしいとね」
「でも」
「分かってる。リコは『私のために』私を孤児院に預けたんだろうって思いたいんでしょう。否定はできないよ」

 風が沈黙を構築した。重くも軽くも無い、柔らかくも硬くも無い静寂を。

 二人とも寂しそうな表情を変えようとはしなかった。青い眼に、赤い目に、それぞれよく似た違う感情を宿している。
 キニーネは何も無い宙に目を凝らして、その奥にある何かを探りとろうとしていた。その彼女をリコはじっと見つめている。
 このときばかりは笑顔ではなく、同情をちらつかせた表情で。
 金属光沢を帯びた翼の縁の露草色が、炎の光を反射して周りに光を振りまいていた。磨かれたエンペルトの鋼の翼はそれこそ鏡のようだった。

「でもね」

 不意に発せられた声にリコは注意を向けた。暗い声ではない、むしろ明るい声に。

「幼い頃の、誰に対しても敵愾心を持っていた私に、リコはとても優しくしてくれた。 本当に有難い人だよ。感謝している」

 他人に面と向かって感謝することがあまり無いからか、キニーネは少し恥ずかしそうにいい切った。気分が高揚した。心がむず痒く、落ち着かない。
 リコはそれに対して綺麗な笑みで応えた。そのままリコはキニーネに細長い顔を摺り寄せる。
 親愛の情を表すときはこうするのだと、彼女は実母にそう教えられた。
 キニーネは照れくさそうに笑いながらリコの首をなでる。しなやかな毛は金属質な指に絡まることがなく。まるで絹のようだった。
 そしてまた彼女もリコを頼るようによりかかる。

 しばらくの間、殆ど無言で過ごしていただろうか。途中で短い、他愛の無い会話が交わされて。
 二人で一緒に、黒い世界にばら撒かれた白い宝石の粒を見ていた。
 しかしずっとそうしているわけにも行かない。その内に夜の時は刻刻と過ぎていく。あまり遅くなってはいけないと思い、キニーネは立ち上がった。

「帰ろう」

 肯定。リコはぎごちない動作で立ち上がり、キニーネのすぐ隣に並んだ。
 漸く歩き始めても彼女の歩き方はどこか不自然なものがある。それはまるでからくり人形のような。それを思い出してキニーネは遠い目をする。
 普段から気にせずにいると、リコが走ることが出来ないことを忘れてしまいそうだった。

 彼女は生まれつき障害を抱いていた。脚と目と。

 走ることが出来ないということは、恐らくギャロップにとってもっとも大きな苦痛ではないだろうか。
 本能的に走ることを好む種族に生れ落ちたというのに、彼女は駆けることの楽しさを、知ることすら出来ない。
 筋肉は正常であるものの、脚部の構造に欠陥があるのだ。だから正常に歩くこともままならない。だから畑で働くことが出来ない。
 孤児院まで働きに来ている理由である。
 それだけでも恵まれていないというのに、彼女は色盲だった。けれども世界が灰色に見えないだけ、全色盲ではないだけ良い方なのだろう。
 青や黄色は正常に認識することが出来た。
 しかし赤色を知覚することが出来ず、赤色と黒色は、彼女の目にはどちらも漆黒に映る。
 とはいえ、全く判断がつかないというわけではない。
 彼女は彼女の赤色を見ているのだ。

 それでもキニーネは残念でならなかった。長い炎の軌跡を描きながら、風の速さで奔る姿を見ることが出来ないことが。
 駆けるときに最高潮を向かえる、燃えるたてがみの美しい揺らき、煌きを目にすることが出来ないことが。
 彼女に走ることの喜び、世界の鮮やかさを教えたかった。
 されどこうして生まれてしまった以上は――。

「ちょっと、あの、速い速い! 待って!」

 リコの声で彼女は我に返った。
 あわてて足を止めて振り返り、リコが追いつくのを待つ。いつの間にか早足になっていたようだ。
 いつの間にかキニーネとリコの間は数メートル以上離れていた。その上に、気づけばリコの家のすぐ近くまで辿り着いている。
 孤児院とは反対方向にあるリコの家は石組みで、ちょうど直方体の形をしていた。
 町のはずれに位置しているそこは、昼間でも町の喧騒すら聞こえないほどの静けさに抱かれていて。
 自宅の扉の前に辿り着いて、リコはひとつ息を吐いた。
 互いに目を見詰め合い、微笑む。

「送ってくれてありがとう。それじゃあ、また明日ね」
「ああ、明日」

 軽く手を振り、キニーネは彼女のまねをしてにこりと笑ってみせる。それを見てリコも同じ笑顔をした。
 もう一度さようならの挨拶を告げて、キニーネは家路に就く。数歩歩いたところでふと踵を返してみると、もうリコは家の中に入った後だった。
 炎の温かさ――否、リコの温もりが無くなり、吹く風に冷たさを感じる。見上げた空は先ほどと比べて魅力を感じなかった。
 キニーネは心にまろいものを感じる。優しさのような何か。
 それと同じく、高揚した気分が潜んでいることを自覚していた。それどころか高潮した思いが気分の殆どを満たしている。胸が弾む思いだった。

 しかし。何だろう、この物足りない気持ちは。

 ときめきによく似た淡い気持ちが湧き上がっては眩めき、彼女を翻弄する。意識は朧、吐いた息は青色をして。
 つぶやいた言葉は風にかき消され、大気に溶けて消える。
 自覚した自身の気持ちさえ真髄を掴むことが出来ずにいた。それこそ立ち込めた水煙を掴むように思える。
 そうしてひとしきりあがいた末に残るのは途方の無さ。

 リコは優しい。
 その優しさがキニーネの心底に深く根付いている。

 元々ポッチャマという種族はプライドが高く、その分それを叩きのめされたときの苦痛は大きい。それすら癒してくれた。
 どうしてそんなにも優しいのかと問えば、「私は神から恩恵を受け、それを分けているだけ」と彼女は答える。
 どうしてリコはそんなにも神を愛するのか、キニーネはひとつの考察を持っていた。
 この町に息づき続けている土着信仰の慣わし。
 その中のひとつに、「障害を生まれ持った子らを愛せよ」という言葉がある。
 「その子等は神の恩恵を受けた故に、他の者とは違うのだ」という考えが。
 町の人々はみなこの宗教を信じている。
 だからリコを愛した。
 自ずとリコは信仰を賛美するようになり、神の名を借りて優しさを売り歩いた。そしてキニーネもそれに助けられ、今をこうして生きている。
 彼女に尊敬の念を覚え、敬愛している。そしてこのわけの分からぬ感情を抱いて――。

 彼女はため息をひとつ吐いて夜空を仰いだ。どこか遠くで木々の軋む音がする。
 それすらも上の空で聴いて、ただ取り留めの無いことを考え続けた。

 彼女の優しさが神を信じていることから来るのだとしたら、キニーネは冷徹といえるのだろうか?



 ~ 承 ~

  朝早く起き、ガルーラのドリンが作った麦の粥の朝食を済ませると、キニーネは外が騒がしいことに気づいた。
 普段より足音が多く、また微細な囁き声が寄り集まって風に運ばれてくる。どこか落ち着かなげな雰囲気が町全体を覆っていた。
 孤児院の子供たちもそれを感じ取ったらしく、そわそわとあたりを見回していた。
 何かがあるときは教会守であるガルーラのドリンから何か一言あるはずだと、キニーネはドリンのほうを見た。
 子供たちもいつの間にかドリンのほうを見ていた。
 ドリンはうつらうつらと転寝をしていたが、はたと静寂に気がついて目を白黒させる。
 なんだろうと耳をぴくぴくとさせて、どうしたのかすぐ隣にいたキノガッサに訪ねた。町が騒がしい旨を知ると、合点したように頷いた。

「えーと、今日はなんだか行商人の方がお見えになってるみたいよ。ただ、貯金で何か買いたいなら仕事のお休みのときになさいね」

 行商人、という単語に子供たちはざわめきだした。不安を煽られたときのそれではなく、例えば祭典前のように高揚した気分から起こるどよめきだ。
 この小さな町に、商人など一年に数えるほどしか来ない。ましてや全国を渡り歩く行商人などまず殆ど来ないといって過言ではなかった。
 あちこちの国を商売して回っているのだから、何かものめずらしいものがあるに違いない。そう子供たちは踏んでいる。
 キニーネも例に漏れず心を躍らせていた。
 ただそれは騒ぎたてる種類のものではなく、もっと他の……ある種の期待を抱いているような、そんな気分だった。

 昂る気持ちを落ち着かせようと思考を一巡二巡していたものの、ドリンが大きく手を叩いた音で我に返る。
 仕事場に行かなければいけない時間が差し迫っていた。
 子供たちは雑談をしながら、嬉々とした顔で扉を開き、外に出始めた。半端な濃度の雲が浮ぶ晴天。
 キニーネも重い腰を持ち上げて仕事場へ向かう。
 その最中、少ない給与を必死で貯めていたことを、そしてその金を隠した場所を、考え続けていた。
 希望と不安と未知なることに対する好奇心とで胸が上下する。決心したように拳を作って、キニーネは仕事場へ、畑へと向かった。
 歩く足は大地を踏みしめて。
 いつもの無表情――つまり微笑とは違う、決意を固めた表情を浮かべた。

 昨日リコと共に歩いた道をなぞっていくと、そのうちに回る風車のリズムが耳に届くようになる。
 その音が大きくなったときには視界に麦畑が広がっていた。麦畑はほぼ一様に金色をしているが、昨日収穫した箇所は土がむき出しになっている。
 日を重ねる毎に金色の面積は狭まり、変わりに土色で塗りつぶされていく。
 それを見るたびに達成感がこみ上げてきて。キニーネはこの仕事が少し好きだった。

「キニーネ、鎌とってくれる?」
「え? ああ、分かった」

 不意打ちのように声をかけたのは同じ孤児院にいるガラガラだった。その隣にキノガッサもいる。
 キニーネは少し遠いところにあった木箱から鎌を二本取り上げて二人に渡した。
 キニーネは、孤児院の子供たちのなかでも年上の部類に入る彼らと一緒に仕事をしていた。
 二人とは本当に幼馴染で、それなりに仲もよく、会話も滞りない。
 しかし、彼らと会話していても、リコと言葉を交わしているときのような気持ちは起こらなかった。彼らと話しているときは、胸が温かく感じる。
 リコのときはそうではない。熱いものが滾り、波打つようにして胸を圧迫した。
 その意味で言えば、彼らと話しているときのほうが心安らぐのだろう。しかしそれは魅力的ではなかった。
 彼女は昨日と同じように、麦を掴んでは翼で刈り落とす作業を始めた。
 彼女はエンペルトだからこそ翼を鎌代わりに用いていたものの、キノガッサたちはそういうわけには行かない。
 そういうものたちは普通に鎌を振るっていた。
 しかし彼女は鎌を使うのがあまり好きではなかった。感触が直接手に伝わってこない上に、その切り口の鮮やかさは鋼の翼には勝てまい。

 淡々と麦を刈る平坦極まりない仕事。気づけば太陽が頭上に差し掛かっていて、時の流れの速さを痛感させた。
 谷も山も無く退屈である反面、一度作業に身を入れれば過ぎ去る時の速いこと。地主であるバクオングが発した笛のような音で彼女は我に返った。
 手に握った麦束をすぐ近くの山に放る。
 周りの、他の人々は昼休みに入ったことで気が緩み、あちこちで談笑を始めた。
 地主もある程度良心のある方だ、とキニーネは思う。酷い地主だと暁から日没までずっと働かせ続けることも厭わないという。
 キニーネも伸びをし、穂の海から土手に上がった。
 キニーネは土手に上がったところでふといつもと光景が違うことに気づいた。
 普段なら、昼食を持参しているものは食事にし、そうでないものは雑談をしているはずだ。
 それが今日に限ってはいそいそと急ぎ足でどこかへ歩いていく人が散見される。
 そこで咄嗟に行商人が来た話を思い出し、キニーネは胸が高鳴るのを感じた。
 彼女もまた何かに惹かれるようにして、人の流れに乗った。人々の流れは町の中央に向かっている。
 段々人々の声が大きくなり、ざわめきの波も細かくなっていった。中央の広場へ行き着いたときには、すでに先客が数多くいた。
 もともと何かを買うつもりで来たわけではないからそれは別段気になることではなかった。
 その人の群れの中心に店らしきものを見つけ、彼女は目を瞬く。

 店――むしろ巨大な荷台だった。何で出来ているのかはわからないが、やけに軽くて頑丈そうな材料で出来た牽き車。

 その上に山積みになった荷物がどうやら商品らしい。
 まさに堆しと積み上げられている。しかしそれのお陰で、肝心の行商人がどこにいるのか視認することが困難になっていた。
 キニーネは左側から回り込み、正面近くへと移動する。客でごったがえっていたが、通行できない訳では無い。
 波に軽く揉まれながら、漸く彼女は商人の姿を見ることが出来た。

 二人組の商人。片方はキレイハナ、もう片方はサンド。
 キレイハナは大きな荷物の上に座ってパイプを吹かしており、いかにも余裕といった風貌をしていた。
 ただキレイハナの魅力である葉が少し萎れているのを見る限り若くは無いらしい。
 一方サンドのほうは客と取引を一任しているようだ。小さな体の小さな脚でちょこちょこと走り回り、貨幣や物品と商品を引き換えている。
 最初こそ働いているのがサンドだけで、キレイハナは仕事をなまけているのだと思っていた。
 だがよく見てみるとキレイハナが、荷物の上からサンドに指示を投げかけていることが分かる。
 その口ぶりや声からキレイハナが翁であることが察せられた。

「せんせぇー! 干し肉ってどこっすかあー?」

 サンドは客のライチュウから紙幣を受け取りながら、振り向きざまにそう叫んだ。客はそれに驚いたのか戸惑っている。
 「先生」と呼ばれたキレイハナは煙を吐き、

「さっきも訊いただろが。お前のすぐ背後に袋があるだろ。もう一度言うが一銅貨で二枚だかんな」
「じゃあって鎮咳薬ってどこですー?」
「……お前本当に訊きたかったのはそれだろ、干し肉の場所じゃなくて。右後ろの箱の中で紙に包まれてるやつだ。一包で銅貨二枚」

 見ていて非常に軽快なやりとりだった。都らしい早口の喋りと巧みな台詞運びが印象に強い。
 まだ若い青年のサンドは若者言葉で客の機嫌をとり、キレイハナの「先生」は正確な記憶で商品の位置とその情報をサンドに与える。
 なるほど行商人らしい二人組だった。
 田舎にこもっていた人はそんな明るい調子に驚き、また振り回されながら取引をしていた。
 中でもキニーネが驚いたことがあった。殆どの人は貨幣での買い物をしていたが、中には麦やカゴの実などでの物々交換もある。
 その度「先生」が一個や一袋当たりの値段を教え、サンドが暗算で価値を割り出していた。
 キニーネもただただ驚くばかりでしばらくぼうっとそちらを見ていた。商売慣れした透き通った声は、人ごみの中にいても鮮明に聞こえてくる。

 次にサンドが応対したエテボースの客もキニーネと同じように思ったらしい。

「面白い商人さんだな」

 珍しいものを見るように、エテボースは目を瞬かせる。
 これまで商人といえば淡々と品卸しと買い受けだけをする人のイメージがあった。
 されど面白い、という物言いは失礼に当たるのでは、とキニーネは一瞬ひやりとした。
 しかしサンドはにかっと笑い、大道演説さながら声を張りあげる。

「面白いだけじゃやってけませんよ。こちらのコルヒチン先生は学者で医者で旅商人、都にて数多の資格を身につけできないことは全くないような」
「黙れ」

 凄味を利かせた声で「先生」に一蹴され、サンドは首根っこを掴まれた様に息を止めた。
 しばらく出てくる言葉を飲み込んでいたのか、少し間をおいて「そういう商人なんです」と締めくくった。
 キレイハナの「先生」改めコルヒチンはふんと鼻を鳴らし、またパイプの煙を燻らせる。
 人々はどっと沸いた。
 漫才でもしているような二人は、人々の目にとても滑稽に映ったに違いない。しかしそんなこと構いなく、キニーネはその場に立ち尽くしていた。
 彼女は確信を得たように目をみはった。
 青色の瞳にはちょこまかと動き回るサンドが映っていたかもしれないが、少なくともそれを見てはいなかった。

 だから背後の気配に気づかなくとも不思議ではない。

「キニーネ?」
「わあっ?!」

 無意識下から急に呼び覚まされ、キニーネは驚愕した。いきなりのことに大きな声を上げてしまい、キニーネは少し赤面する。
 少し落ち着きを取り戻したのもつかの間、振り向いた先にいたリコに対してまた胸が高鳴り始めた。驚いたことも加わって汗が全身から噴き出す。
 頬を紅潮させながらリコのことをずっと見つめていたが、当の彼女は驚いた顔をしている。

「あ、驚かせてごめん」
「すまない。こっちこそ今のは過剰だと思った。……リコも買い物に来たの?」
「うん。ドリンさんと一緒にね。その途中でキニーネを見つけたから、声をかけてみようと思って」
「脚は大丈夫?」
「んー、だからあんまり人の多いところを歩くなって言われて、外野をうろうろしてたの。
 ……あっ、そろそろドリンさんの買い物が終わる頃だと思うから、行くね」

 ほんの少しだけの会話を終えて、リコは店の周りの人だかりまで歩いていった。
 その後姿を見つめている今も、まだキニーネはじっとりと汗を掻いていた。驚愕と、確信と、そしてもうひとつの感情。
 彼女は今日ここに来たことで、漸く自分の想いを明確にすることができた。それを自覚するたびに鼓動が早まり、胸が疼く。
 肺にとぐろを巻いた暑い空気を逃がすかのように、キニーネはため息を吐いた。
 彼女を取り巻く喧騒はその音を掻き消して。
 しかしずっとこうしているわけにも行かない。そろそろ仕事が再開する時間だった。
 キニーネは浮かれた足取りで広場を後にした。



「いやあ師匠、お疲れさんっした」

 サンドはそう言いながらコルヒチンの座っている荷物の隣に腰を下ろした。コルヒチンのすぐ隣には、刻み煙草の袋が無造作に置いてある。
 それをうっかりぶちまけたことを思い出してサンドは刻み煙草の袋を遠いところに移した。
 コルヒチンが愛用している刻み煙草は高級なもので、その時は大目玉を頂戴したものだと苦笑した。

「先生なのか師匠なのか呼称はどっちかにしろ」
「んじゃコルフィー先生で」
「愛称で呼ぶな。それにコルフィーじゃなくてコルヒーだ」

 サンドは毒の無い、憎めない笑い方をする。コルヒチンも本気で怒っているわけではないし、両極端な二人は均衡が取れていた。
 コルヒチンはパイプの灰を叩き落し、緩慢な動作で立ち上がった。
 キレイハナである都合上、先生と呼ばれていてもサンドより背が低い。荷物に乗り降りするのも楽とは言いがたかった。
 コルヒチンは荷台に直接置かれていた瓶の蓋を開け、その中から大きなビスケットのようなものを取り出した。
 それとすぐ近くにあった干し肉を手に取り、サンドと等分になるよう分ける。

「ほれ、夕メシだ。ジャーキーと乾パン」
「たまには野菜が食いたいっす。っていうか栄養偏んじゃねーのー?」
「サプリメントでも食ってろ」
「ひどいなあ」

 干し肉の端をぐじぐじと齧りながらサンドは後ろに寝転がった。
 静かな晩だった。この町は日没を過ぎれば皆寝てしまうらしく、音を立てるのは風車ばかりと思われた。
 取引で得た多量の小麦から、その風車が粉挽き風車であることは察しがついている。収穫された麦を挽くために夜遅くまで仕事をしているのだろう。
 今日の夜空には月が昇っていて、星はかすんで見える。その代わり白い雲が月の光を浴びて輪郭を縁取ったようだった。
 行商人という仕事柄こうして空を仰ぐことが多いため、彼は正座をことごとく記憶していた。
 明るく輝く星をつなぎ合わせて線をつむぐとそれを核にして像が浮かび上がる。

 しばらくはそうやって寝転がり、星を見ながら干し肉を貪っていたが、コルヒチンにつつかれて集中力が雲散した。
 サンドがしぶしぶ起き上がると彼はパイプで前方を指し示す。

「水汲んでこい。そこに井戸があるみたいだから」

 サンドはむっと眉を顰めた。
 水を汲むという行為は水に触れる確立が高い。
 それなのに彼は水が苦手だし、その点コルヒチンはキレイハナ、つまり草タイプなので水をどうとも思わないはずだ。
 サンドは不平を言おうとしたが、大抵コルヒチンは「老人」を盾にとって彼を簡単に言いくるめてしまう。
 歩く理論武装だ、と思いながらサンドはすぐ近くにあった木桶を手に取った。すっかり熱を失った地面をぺたぺたと歩いていく。

 途中幾度か道を間違え、引き返して、漸く井戸を見つけた。
 井戸は町全体の人々が利用しているだけあって、とても大きくまた同時に疲労している。
 縄目はあちこちが解れ、積み上げられた石材にひびが入っていた。

「縄くらいなんで取り替えねーかな」

 縄の先端に木桶をくくりつけて勢いよく放り投げた。心地よい水音がした。古いとはいえ一応滑車はついていてサンドは一安心する。
 コルヒチンより大きくても、やはり小さい部類に入ってしまうのだ、サンドは。軽く体操をし、短い腕でもう片方の縄を引っ張り上げはじめた。
 木桶を引き上げることに夢中になっていたサンドは気づかなかった。近付いてくる足音と影に。
 やっとの思いで水のたっぷり入った木桶を引き上げると、サンドは片方の手で縄を固定して、木桶を手に取ろうと試みた。
 うんと体を伸ばすとやっと手が届く。
 しかし出来ることはそれだけで、片手で結び目を解くのは無理だと分かった。仕方がなく片手に握っていた縄を足で踏み、木桶を縄からはずす。
 思えばそのとききちんと木桶を固定していればよかったのだ。
 結び目を解き、彼は木桶の持ち手を持とうとした。しかしそれと木桶が落下するのが同時だった。
 木桶は鈍い音を立てて石材にぶつかり、反動でサンド側に倒れてきた。当然木桶いっぱいの水はサンドに襲い掛かる。
 土に水が吸い込まれるのと同じで、サンドに乾いた皮膚が黒っぽく変色する。
 冷たさが突き刺さるように痛かった。しばらく彼は遣り切れなさに唸っていたが、やがてあきらめたように吐息を漏らした。

「大丈夫ですか?」

 唐突に降りかかってきた声に彼は思わず悲鳴を上げた。
 それには相手のほうが仰天したのか、動きを止めて目を皿にしている。サンドも闇に目を凝らし、相手が誰なのかを知ろうとした。

 茶色い目が波紋の無い水面のような目を捉える。エンペルト――キニーネがそこに立っていた。
 それ自体はなんでもないのだが、何せサンドとエンペルトの身長差は激しい。
 自分の三倍ほどの大きさのある影にサンドはしばらく腰を抜かしていたが、しばらく見つめあった後に猛烈な勢いで謝り始めた。
 キニーネは怪訝な顔をして頬を掻く。

「……私は別にかまいませんから、どうかそんなに謝らないでください」
「えー、そう言うならやめますけど、んなみっともねぇ姿見られちゃどうも忍びない」

 サンドはぼりぼりと頭を引っかく。そんな彼を見てキニーネはくすくすと笑った。最初の、冷たそうな口調とは違う側面にサンドも笑う。
 優しそうな人だと思ったが、そう思うと尚更自分が情けない。サンドはもう一度縄に木桶を結び付けるが、

「よければ私が水を汲みますよ」

 その縄をキニーネが取った。何か言う間も無くキニーネは井戸の中に木桶を落とす。
 澄んだ水の音が聞こえてからほんの数十秒後、縁までたっぷりと水が入った木桶が上に上がってきた。サンドは唖然としていた。
 それを見ながらキニーネは木桶から縄をはずす。

「……何から何まで申し訳ねえなぁ」

 サンドはこうべを垂れて礼を言った。何でもないと謙遜した後、間をおいてキニーネも口を開く。

「あなた、商人の方でしょう? あの、コルヒチンとか言う人と一緒に来た」
「ええそうっすよ。っていうかお客さんでしたっけ? 一度接待した客の顔は覚えてるのが自慢なんすけど」
「……連れて行ってくださいますか」

 彼女は木桶を持って立ち上がり、広場のほうに数歩歩いてサンドを見る。状況を掴みかねて彼女を見つめるばかりだった。
 やがて彼女を案内しなければならないと分かると、サンドは体を大きく揺すって水分を落とした。
 それからちょこちょこと走ってキニーネの道案内を始める。
 二つ分の足音が闇夜に吸い込まれていった。

 コルヒチンは広場をぐるぐると歩いていた。それは何か目的があるといったふうではなく、退屈そうに遅い速度で。
 サンドが返ってくると重そうに頭をもたげ、彼を一瞥し、そしてキニーネに目を向けた。

「遅かったなタキス……ってそっちのエンペルトは?」
「お客さんっす」

 想いもよらない返事にコルヒチンは足を止める。まじまじと、それこそ穴が開くほどキニーネを見ていた。
 が、しばらくして怪しくないと分かると彼は自分の店まで歩いていき、二人に手招きをする。
 どうやら嫌がられてはいないようだとキニーネは安堵した。内心拒まれるのではないかと思っていたのだ。もう町は闇の中に沈みきっている。
 キニーネは荷台の車輪脇に木桶を置き、荷物の山に足を踏み入れた。
 昼間遠いところにいたときは気づかなかったが、荷物からはさまざまな匂いがする。
 香ばしい匂いだったり、美味しそうな匂いだったり、香の匂いだったりした。
 座ることを躊躇していたが、コルヒチンに座ることを進められて荷物に腰掛けた。
 キニーネが座った荷物は香料でも詰まっているのか、甘そうな香りと爽やかな香りが入り混じって混沌としている。
 あたりをきょろきょろと見回している彼女にコルヒチンが干し肉を差し出した。

「ま、食べたらどうだい。なんか悩み事があるんだろ」

 にやにやと笑う彼の顔を見て、キニーネは驚いた。見事に言い当てている。

「どうして相談に来たと分かったんです?」
「なぜって、そりゃあこんな夜中にやってくるなんて、なあ。あ、迷惑だとは思ってないからゆっくりしてきな。こっちも退屈してたところだから。
 子守でもするつもりで話していってくれりゃ、相応のことはする。そいで、名前は?」
「……キニーネ」

 相談する必要もないのではないか、とキニーネは思った。
 彼は、コルヒチンは何でも見通しているようにものを言う。

 彼は荷物の上に転がっていたパイプを手に取り、中に刻み煙草を詰め始めた。
 何度も詰めては隙間を埋め、気づいたときにはもう煙を登らせている。
 そうやって煙を堪能しながらこちらを見ているキレイハナは、信用してもいいものか迷ってしまうほどに表情が読めなかった。
 干し肉を一齧りして彼女はぽつりぽつりと語りだした。

「……私は孤児院で暮らしているんです。親に棄てられて。だから小さな頃の私は本当に誰も信じていなかった」

 一度反応を見るように、キニーネはサンド――タキスという名前のサンドとコルヒチンに視線を走らせる。
 二人とも話を茶化すつもりなど微塵も無いらしく、ことにタキスは緘黙を決め込んでいた。煙をふわりと風に流してコルヒチンは会話を持たせた。

「ポッチャマはプライドが高いからな、それを折られちゃ苦しかったろう」
「ええ。私も子供の頃は本当に傲慢だったと思います。人が近付けば恐怖心と敵愾心を抱かずにはいられない、感じずにはいられない――。
 そんな私にも仲良くしてくれて、信じることの重要さを見出させてくれた人がいました」

 胸が締め付けられるように圧迫され、キニーネは一度言葉を切る。
 言っているのは勿論リコのことだった。
 ただの友人ではなく、彼女が唯一親友として認めたギャロップのことだった。渇いた口に唾液を呼ぼうと干し肉をまた噛み千切る。

「彼女は私のしばれた心を溶かしてくれました。私はそのとき、初めて友人というものを得たんです。初めて子供らしくなることができました。
 そうして私は彼女と共に大きくなり、未熟ながらも大人になりました。彼女を女性だと自覚した。そのころでしたでしょうか。
 ――彼女に会うたびに胸が高鳴るようになったのは」

 空気の冷たさがより一層深まったように感じた。彼女の背筋を熱いものが走り、汗が肌を湿らす。
 火照ったかと思えばすぐにぞっとするほどの寒気を覚えた。
 それは興奮したからというだけではなく、どんな罵倒が待ち構えているか分からなかったからだった。
 こうして自分の感情を理解しきった後でさえも、キニーネは背徳を覚えずにはいられないのだ。自嘲気味に笑みを浮べる。
 しかしコルヒチンのほうを見て、彼女は表情を変えた。
 尚も分からない表情とはいえ、今のそれは思慮深げな顔に見える。少なくとも非難などはしていなかった。
 キレイハナの特徴である大きな花をくるくると回転させながら、じっとキニーネのことを見つめるばかりで。それに促されるように話を続ける。

「私は恋をしたことがありません。ですがこれは初恋と呼べるものだと。そう思っています。この衝動は、抑えられない鼓動は……。
 ……でも、私にはどうすればよいのか分からない。コルヒチンさん、他の町ではこのような恋は許されているのですか?」

 名前を呼ばれて、彼は口からパイプを離した。強い香りのある煙が息を白く染める。

「少なくとも都市では許されていたな。一、二組同性同士の恋人を見たことがある」
「そう、ですか。そうだとしたら羨ましい。この町の人は殆どすべて土着信仰を崇拝しているのですが、その信仰は同性愛をそしっている。
 この想いが表に出たとしたら、私どころか彼女も迫害されるでしょう。
 会うたびに触れたくなる。抱きしめたくなる。しかしそれが許されないことが分かりきっているから、切なく、悲しく、遣る瀬無い」

 可笑しな話かもしれない。
 この町の土着信仰は同性に恋愛感情を覚えることを禁忌としている。
 それは神を信じていないキニーネにとって脅威にはなりえないはずなのに。

 しかしそんな虚構の壁が高く彼女に立ちはだかる。焦がした胸は痛み、苦しみに悶えた。
 扇情的な影をリコに見出すたびに、彼女と世間に対する罪悪が圧殺するように重くのしかかった。

 誰も動かなかった。コルヒチンが咥えたままのパイプからは、消えかけのような柔らかい煙が出ていた。
 その甘い香りは空気に混じって二人の鼻にも届く。キニーネは目を伏したままで。
 黒い静けさを破って、タキスが「あのさ、」とはなし始める。顔を上げた先に見えた彼の目はどこまでも純粋だった。

「ちょっと訊きたいことがあるんすけど、あの、水を差すようだったら先に謝るよ。キニーネさん、だっけ?
 あなたの言いたいことはよく分かるんっすよ。恋愛くらいしたことあるし。でもそれからすると、あなたの恋はちと異質に見えるんですよね。
 偏見ってえ訳じゃねえけど、あなたの恋は恋人を身近な女の子の友人で済ませちゃった、って感じがするんす」

 別の視点からの率直な感想。それを受けてキニーネは半分面食らったが、動揺はしていなかった。
 それどころかどこか冷静な態度すらとることが出来る。侮辱された訳ではないと言うことは、タキスの性格から分かっていた。
 しかしそう分かっていても、気分が落ち込まずにはいられなかった。
 女の子同士での恋愛の真似事。そうだと思う心と、断固として違うと言い張る心と、双方が惹起されて彼女は困惑する。

 ――されどそうだとしたらこの感情は何なのだろう。そう自問した時、彼女の心に立ち込めていた霧がさあっと開ける。

「私は彼女を好きです。――愛することができる。他の誰とも違う感情を抱いています。彼女を失うことなんて考えられないほどに、盲目なほどに」

 感情的かもしれない。しかしこの感情が、一途な思慕が確かにその問いへの答えだと。
 彼女はそう思う。
 コルヒチンは相変わらずの鉄仮面だが、それを聞いてタキスは納得したのか、頷くしぐさを見せた。
 しばらく目を眠らせて首を上下に振っていたものの、急に頭を抱えて丸まり始める。

「ああ~! でもどうすればいいんっすかねえ? その彼女ってのも信仰賛美者でしょ?
 告白なんて失敗したら町にボッコボコにされる上に、彼女にもすっげえ嫌悪されるっすよね? どうすりゃいいのかなあ~」

 キニーネはタキスに言われて漸くそのことに気づいた。リコは障害を持って生まれてきたということから、この町の人々にまさに「崇められて」いる。
 そして彼女自身も神を愛していた。
 いいところばかりを見て、最悪の事態を、直面が必須のことを考えようともしていなかった。
 そんなキニーネの苦悩を具現化したように、タキスは精一杯悩んでいた。
 ああでもないこうでもない、と訛りのある早口でさまざまなことを捲くし立てている。そんな彼がとても頼もしく見えた。
 他人のことをここまで考えてくれる人もいるものだと、その点タキスはリコに似ていると思う。邪気のない笑い方であるとか、楽天家な点であるとか。
 どうすればよいのか考えても、いずれ彼女のその思考は感情に飲み込まれ、結局はリコのことしか考えられない。
 それが喜ばしいことなのかは分からなかった。しかし今は方法を考えねばならない。

 途方にくれる二人を見比べて、コルヒチンはふとにやっと笑った。
 そしてパイプを口から離し、おもむろに口を開く。

「あるかもしれんぞ、方法」

 その言葉にキニーネは希望を得、跳ね上がるように彼のことを見つめた。
 彼は円らな瞳とは似合わない老人らしい笑い方をしている。
 タキスも、最初こそたまげたような顔をしていたが、そのうちさも嬉しそうな顔で彼のことを見つめていた。
 コルヒチンはパイプを逆さにして振り、煙草の水分を飛ばした。
 話の続きを催促するようにキニーネはじっとコルヒチンのことを見た。瞳には彼ばかりが映る。否、むしろその向こうにある可能性を。
 頬を赤く染めた彼女は、ただただ食い入るように彼を見つめていた。コルヒチンはパイプを持つ手を振りながら話し始める。

「――愛の妙薬を知っているか」

「愛の妙薬? なんすかそれ?」
「お前は黙ってろ。あくまでも商売だろ。……お嬢さんは知ってるかい?」
「いいえ」

 答えた声は渇き、上ずっていた。愛の妙薬という甘美な言葉に胸が高鳴る。

「恋が成就する薬、とでも言うかな。いや、思いを実らせる薬だろうな。恋情を起こさせる作用がある。媚薬とか惚れ薬とか呼ばれてるな。
 その代わり精神昂揚作用があるし、副作用として体が痛んだりするみたいだが」
「恋をさせる薬? そんなものが存在するんですか?」
「うむ。ロマンチックだぁな。恋の薬……まあそういっても過言じゃなかろう。ただ全く流通してないから知らないのも当然だが。
 ただ高くつくぞ。珍しい高純度な薬だし、そうそう手に入らん。お嬢さんはいくら持ってるんだ?」

 すぐさま懐から、重い皮袋を取り出した。
 畑仕事の賃金は低い。低いものの、孤児院での生活費は給料から差し引かれていたから、手に入る金はすべて彼女のものだった。
 今まで使った覚えの無い金は大きな額となっていた。コルヒチンはいささか驚いた顔をしたが、すぐにどれくらいの価値があるかを調べ始める。
 謳い文句に高揚していた彼女は、その「愛の妙薬」の存在が現実味を帯びてきたことに心を躍らせていた。
 しかし心のどこかでささやきが聞こえる。冷たい声が彼女の心を這う。

 それは本当に想いを伝えることになるのか?

 相手に有無を言わすことなく自分の虜にするというわけにはいかない。その考えに意志が揺らいだ。
 今まで盛り上がっていたものが下降線をたどるのを感じる。熱を帯びていた体を悪寒が襲う。戦慄が背中を伝うように、彼女の肌が粟立った。
 何故、と意味の問いかけが渦巻いた。意識が記憶の中を漂う。
 そしてそこでキニーネは理由を見つけた。もっとも相応しい理由と、彼女の意向。

「おいタキス、荷台の一番後ろに積んである行李持って来い」
「ふぇ? ああ、ただいまっ」

 眠そうに返事をしたタキスは軽く眠っていたのか、焦点のあっていない目をしていた。
 しかしコルヒチンににらまれて背筋を伸ばし、荷物から降りてまさに飛ぶように走る。ったく、とコルヒチンは悪態を吐いた。
 が、やはりその顔は楽しそうで。
 タキスが持ってきた行李は艶のある茶色をして、月の光を受けて煌びやかだった。それを受け取ってコルヒチンは蓋を開ける。
 几帳面に整理された薬の包みが並んでいた。恐らくは何十種類もあるだろう。
 その上部には黒いインクで薬品の名前が書いてあったが、文盲であるキニーネにはそれを読むことができなかった。
 コルヒチンはその中を掻き回す様に漁っていたが、タキスが興味津々で見ていることに気づくと、彼の影になるようにして薬を探し続けた。
 けち、と言いかけたがタキスは言葉を飲み込む。代わりに口を尖らせた。キニーネという客がいたから喋るのを止めたのだろう。

 しばらくするとコルヒチンは、行李の深いところから漸く目当ての薬を取り出した。大きな透明の袋に幾包みかの薬がまとめて入っている。
 そのうちのひとつを取り出して、紙の包みを開いた。

 愛の妙薬。

 それは白い結晶を砕いて粉々にしたような、不思議なきらめきを纏った粉末だった。

「一包みで銅貨二十三枚分の価値だ。でもちぃと負けて二十枚にしてやろう。お嬢さんの金は銅貨五十六枚分だが――どうする?」

 彼の目は真剣さを孕んで黒々と光る。
 その表情はいつものおどけた老人のものではなく。
 そのときばかりは、高齢であることが何よりの重みに見えた。

 迷い無く彼女は首を縦に振った。

「まずは一包みだけいただきましょう。試さなくてはいけない」

 それを見、聞いてコルヒチンは一度ゆっくりと目を閉じた。かと思えばにいっと笑って愉快そうに手を叩く。
 そして金が入った皮袋をキニーネに投げ返した。タキスも嬉しそうな顔をしてキニーネを見ていた。
 にこにこ笑うというよりは、それは寧ろ静かな笑顔に近かった。
 でもそれが、今では輝いて見える。

「毎度あり。銅貨二十枚だ。一回の量は耳かき一杯程度を目安にしな。副作用が強すぎるって時にはまた来い。調合してやろう。
 あと――もしだが、もっと薬が必要になったときにも、だ」

 キニーネが銅貨二十枚を数えてコルヒチンに手渡すと、彼は小さな白い包みをキニーネに投げた。
 危うく受け取り損ねそうになったが、確かに愛の妙薬を手に握り締めた。
 その手が興奮で震えている。動悸が激しかった。商人たちに対する、感動のようなものが胸にわいてあふれる。
 初め、彼女が行商人を見るために広場へ行き着いたときには、こんな風にうまくいくとは思っていなかった。否、思えなかった。
 それが彼らはキニーネに対して出来る限りの方法を示してくれた。情とは温かいものだと、今もって実感する。

「ありがとうございます」

 恭しく腰を折り、キニーネは礼を言った。普段情に薄い彼女の心からの礼だった。満足したのだろうか、コルヒチンが軽く笑い声を立てる。
 仏頂面か、にやついた笑みしかしない彼が声を上げて笑うのはどこか珍しい感じがした。
 しかしいつまでもここにいるわけにはいかない。彼女は寝静まった孤児院を抜け出してきたに過ぎないのだ。
 年頃の娘が寝床にいない。それが示すものはよく分かっている。
 良い夜を、と帰り際の挨拶をして荷台を降りると、足元にタキスが立っていた。愛嬌のある笑顔は、やはりどこかリコに似ていた。
 けれどキニーネは、リコと会ったときに覚えるような想いをタキスには抱くことはない。タキスは耳を貸すよう手招きをしていた。
 彼に対してとても大きな体をかがませる。顔の側面にそっと手を当てられ、息と一緒に囁きが届いた。

「応援してる。どうにかなるよ」

 手を離したことを確認して立ち上がり、キニーネは笑った。御礼の代わりだった。
 それが分かってサンドも笑い返す。キニーネは手を振ってきびすを返した。
 その彼女の背中にタキスのさようならの声がぶつけられた。しかしもう振り返ることは無く、彼女は夜道を歩く。
 ひたすら帰り道を。
 その足音は風車の回る規則正しいリズムと重なる。そのテンポが心地よかった。ただ一つの感情に駆り立てられるがままに、脚を動かした。
 その夜は暖かかったにも関わらず、汗を掻いた彼女の頬に風はとても冷たく感じられた。
 衝動。希求するものに近づけるきざはしを見つけ、上り始めて、彼女はこれまでにない充実した思いを胸に満たしていた。
 仰ぐ空にかかる雲が月華のように白く咲く。

 ふと手に握り締めた薬を思い出して、彼女は手を開いた。手のひらに乗せた白い紙と、それを空かして見える粉が儚げな蝶のようで。
 キニーネは、先ほど揺るいだ意志を再び固めた考えを、反芻するようにつぶやいた。

 ――たとえ刹那だろうと構わない。彼女を心から抱きしめたいから。



 リコはたまに、両親のことを考えることがある。両親、とは言っても実の親は父親だけで、今の母親は養母なのだが。
 実の母親が亡くなった時のことは、はっきり覚えているとは言い難い。
 死因は肺炎であったらしい。そう聞かされたことがあったような気がするし、晩年は咳き込んでいる母親をうっすらと眺めていた覚えがあった。
 その時の母親はとにかく苦痛そうで、それでもリコにはいつも笑ってくれていた。そのせい、なのかもしれない。彼女がいつも笑顔でいるのは。
 リコの母親は昔から病弱だったと、そう父親に慰められたことがあった。
 そうした儚げなところに惹かれたということも白状したことがあった。花は散るからこそ美しい、という有名な言葉の通りなのかもしれない。
 その言葉は、人は死ぬからこそ美しい、という信仰の言葉と同じ文句であると気づいた。
 どちらも失われることが分かっているから今を精一杯に生きる。リコにはそれが一種の、遺された人に対する慰めの言葉に思えた。
 しかし、亡くなった母親のことを思い出すたびに、彼女は自分の障害のことを考えずにはいられなくなる。
 母親であるそのギャロップが産み落としたポニータは、そのほかの多くのポニータとは違う体をしていた。
 欠陥。即ち障害。
 ポニータは生まれたときから歩くことができるはずなのに、リコは地べたでもがくだけだったと言う。
 しかしそんな劣等な赤子を、町の人々は愛してくれた。彼女はその町の人たちが大好きだった。
 その人たちの期待に応えたくて、信仰に深く身を打ち込んだほどに。
 最も敬虔な信徒と呼ばれるほどに。

 それを慈愛と呼ぶのだとリコは考えている。
 彼女を健やかに育ててくれた神の恵みを、神を信じて彼女を受け入れてくれた人々の感情を、そして彼女自身が人々に与えているものを。

「ああ、もうこんな時間」

 物事を考えふけると時の流れを忘れがちだ。夕闇が空の東端から迫り来ている。
 微かな光の変化で時刻を計るくらいは、町のものなら誰でもできた。それでも緩やかに訪れる秋の夕暮れは時刻が把握しにくい。
 時の流れが遅いなのか早いのかよく分からないままに、夜が来てしまうこともある。
 そんなことを防ぐためにも、リコは早めに孤児院に向かうことにする。

 ドアを開け、四角い形の家を出るが、鍵はもとよりついていない。
 泥棒をするような人がこの町にいるとは思えなかったし、第一盗みに入ったところで金目のものが無い。
 リコの父親であるグランブルはその力を生かしての粉運びを、養母のキリンリキは小麦の選別作業を仕事にしていた。
 二人とも責任のある地位についているため夜遅くまで働いていることが多く、孤児院で働き始めるまでリコは昼間いつも退屈な時間を過ごしていた。
 今では、両親が遅い帰りであっても孤児院で過ごすことができる。孤児院はリコにとって仕事場であり、憩いの場でもあった。
 孤児院で働くことを提案してくれたキニーネに、彼女はいつも感謝していた。

 孤児院へ向かう道は二つあった。広場や市街地を通る道と、畑側に走る道と。
 彼女はいつも畑側の道を歩いていた。そこで働く人々を見るのが好きだったし、何よりも風車の中で駆動する木でできた歯車の音が好きだった。
 ことん。ことん。ことん。
 優しい音色。それはまるで子守唄のように。
 ことん。ことん。ことん。
 リコが仰いだ空に風が吹き渡る。東の果ては暗く、西の果ては赤く。
 しかしリコにはどちらも黒く見えた。赤色は彼女にとって黒と同色だった。自分の体に宿る炎ですら黒く燃えているように見える。
 彼女にとってはそれが赤だった。鮮やかでなくとも、黒とは違う風合いをした黒が、確かな赤色だった。

 白い孤児院の扉は大抵閉まっている。ノックをするとすぐにドリンが出迎えてくれた。
 リコは頭をかがめて扉をくぐり、懐かしい香りの立ち込める建物の中に入った。
 いつもと同じように台所に向かうが、そこはいつもと違う香りが漂っている。昨日まとめ買いした干し肉や木の実の袋が積み上げられていた。
 洗い場のすぐ近くには赤い実と、高級品であるはずの砂糖が山になっている。

「今日はちょっと贅沢な夕食にしようと思うのよ。昨日商人さんから安く卸せたから。
 こっちの地方ではハバンの実はめったに手に入らないし、たまには少し甘い夕食もいいわよね」

 ハバンの実という木の実をリコは初めて知った。
 ドリンによれば苦味の中にほんのり甘みがある木の実らしいが、煮詰めると苦味が消えるためジャムや砂糖煮に向いているとか。
 ジャムは保存食にもなるためリコはそれに賛成した。ドリンは小さな実を丸洗いして皮をむき、鍋に砂糖と一緒に入れていく。
 その鍋を加熱するべく、リコは木材をかまどのなかに入れて火を噴いた。

 数分ハバンを煮たかと思えばすぐに火からおろし、今度は麦を煮始める。木の実はさっと火を通すだけのほうが風味が逃げないらしい。

「……ちょっと待って。今思い出したけど、キニーネって甘いもの苦手じゃなかったかな?」
「あ」

 麦を煮詰め、その中にハバンの砂糖煮を加えようとしたところでリコは不意に思い出す。危うく粥全体が甘くなりかけたところでドリンは手を止めた。
 その後リコのことをじっと見つめて、どうしよう、と呟く。もうすぐ子供たちが帰ってくる時間だった。いまさら具を変えるわけにもいくまい。

 最終的に、夕食はキニーネの分だけ取り分ける形になった。彼女の分の粥には干し肉を混ぜてなんとかごまかす。
 本当なら初めから干し肉を煮込んだほうが柔らかく、美味しいのだが背に腹は変えられない。
 粥を早めに子供たちの椀によそっていると扉を叩く音が聞こえた。子供たちが帰ってきたようだ。
 ドリンは忙しかったため、代わりにリコがつっかえ棒をはずす。いつもならはじけるように子供たちが入ってくるのだが、今日はゆっくりと扉が開いた。

「ただいま」
「あっ、おかえりなさい」

 最初に入ってきたのがキニーネであることに、リコは少し驚く。なるほどマナー良く扉を開くわけだ。
 彼女が屋内に入ると、今度こそ子供たちがなだれ込んできた。

「ただいまー!」

 子供たちはきゃあきゃあと騒ぎ立てながらリコにただいまの挨拶をする。
 そのまま台所にいるドリンのところまで行って、この甘い匂いは何だろう、夕食はなんだろうと調べに行った。
 今まで見たことの無い、果物の入った甘い粥を見て子供たちは目を輝かせた。そして粥のよそられた自分の椀を持ってテーブルのほうに走る。

「まだ食べちゃだめだからね! おとなしく座って待ってるんだよ!」

 どんな味がするんだろう、と好奇心旺盛な子供たちはじっと粥を覗き込む。
 中には味見をしてみようとまだ熱い粥の中に指を入れ、軽くやけどをした子供もいた。あきれ笑いをしながら、リコはそんな幼子たちを見守る。
 いくら生意気であっても、リコはこのあどけない子供たちが好きだった。
 リコは自分の分の粥を取りに行くために席を立とうとしたが、そこにキニーネがやってきてきょとんとする。
 今日の彼女はいつもと違ってどこか積極性のある行動をとっているような気がする。
 いつもは消極的で、例えば孤児院に帰ってきても一番最後に扉をくぐるのはキニーネだ。驚いた顔で自分を見ているリコに彼女は笑いかける。

「座ってなよ。私が持ってくる」
「うん。あ、キニーネのはみんなと違って干し肉が入ってるやつだよ。……今日はなんだか行動的だね。ありがとう」

 感謝されたことに照れてしまい、キニーネは早足に台所のほうへ消えた。それがリコにとって微笑ましい。
 素直とは断言できなかったけれど、彼女の優しさは言葉の端々から感じられる。
 それが他の人にも向けられるようになるといいんだけど、とリコは一人呟いた。

 全員が席に着いたとき、子供たちは皆自分の椀の中をのぞいていたが、キニーネだけは他の場所を見つめていた。
 というより、何も見ていないかのような目をしていた。食事を始める挨拶があっても集中していない。
 結局食事中に口を開いたのは一度だけ、はじめの一口を食べて、

「……苦い」

 といったばかりだった。何が苦いんだろう、とリコも思ったが粥を食べてみると確かに苦味が感じられる。麦の苦味だろうか。

 結局、子供たちはみんなハバンの実を喜んで食べてくれたが、キニーネは複雑な面持ちのまま食事を終えた。
 完食はしたものの、それも胃に詰め込んだというのがふさわしいような食べ方で。おそらく腹を膨らませるためだけの食事だったのだろう。
 食事を終えた後は背もたれにもたれかかり、虚空ばかりを見つめていた。
 気分が悪いのだろうとリコは思っていた。しかしそれは違った。もっともそれが分かっているのはキニーネだけだったが。
 だからこそ、帰り際に彼女が送っていくと言い出したときには驚いた。
 リコがドリンに麦が苦かった旨を伝えてドアを開こうとしたとき、キニーネが立ち上がってドリンに申し込んだのだ。リコは目を丸くする。

「気分悪いんじゃないの? 大丈夫?」
「勿論。さっきはちょっと食べ過ぎて気分が悪くなっていただけだから。それに少し夜風に当たりたい」

 そう言うキニーネは僅かながら青い顔をしていた。ほんの少しだが、もし倒れられたりしたらと思うと彼女は心配だった。
 けれど彼女の好意を無下にするのも悪い気がして、断ることを躊躇してしまう。
 リコがどうすればいいか迷っていたところに、ドリンが助け舟を出した。

「ほら、キニーネちゃんも送っていくって言ってくれてるし、別に遠慮する必要はないと思うけどねえ。
 本当に気分が悪くても、少し外の空気に当たったほうがいいんじゃないの」

 コルヒチンとはまた違う意味で、ドリンは人の心を読む人だとキニーネは思う。
 子供の欲するものが分かる母親のようだった。それともガルーラは皆母性に溢れているのだろうか。
 リコもどうやらそれで納得したらしい。堅い表情を幾分か和らげて彼女はキニーネに微笑んだ。それが余りにも愛らしくて、心臓が激しく動悸する。
 それを悟られないことに必死で、出来るだけ冷静な表情を、無表情な微笑を保ち続けた。
 それでも、ことがうまく運んでいることに心の中で歓喜の声を上げる。
 思えばここまで調子よく駒が進んだことが偶然の連続だったような気がして。彼女は昂る気持ちを押さえつけることに懸命だった。
 上気した頬を血色の良さと取ったのか、リコは心から安心してドリンに辞儀をした。ドリンはいかにも世話好きなおばさんといった顔で頷いている。

「ゆっくりしといで。キニーネ、帰りが遅かったら子供たちと一緒に先に寝てるから、帰ってきてから戸締りちゃんとしてね」
「今夜もありがとうございました。キニーネ、いこ」

 リコが急にキニーネの名前を呼んだことに、そして彼女がその手を軽く口で咥えて引っ張ったことに、キニーネは体が燃える気分を味わった。
 ドリンがリコを見送ってからすぐに扉を閉めたことが幸いだった。額に汗が粒を作り、ほろほろと肌を伝う。
 普段から四足歩行であるリコにとってはそれが手つなぎなのだろう。この至近距離は、ただただキニーネの気分を舞い上がらせた。

 その夜は、夢か何かのように気分が朧がかっていた。何時に無く暖かい空気は夏を髣髴とさせる。
 星が転々と光り、月が妖しく丸い身を天上に掲げていた。幻想的、だった。
 夜の帳が降りてからどのくらいの時間が過ぎたかは分からないが、とにかく静寂さえ耳に聞こえそうなほどに静けさが満ちている。
 風すらもその沈黙を乱すことを畏れている。今は足音さえ聞こえず、キニーネにはリコが出す音しか聞こえていなかった。
 とにかく、その音だけに集中してしまう。
 彼女の息遣い。彼女の足音。彼女の声。
 引き摺る足の音が、普段なら痛ましいとさえ思うその音が、とにかく調和の取れた快音に聞こえてしまう。
 キニーネは自身の口元が笑っていることにいまさら気づいた。
 いつも堅く凛々しい、見方によっては憮然として見える表情のはずなのに、笑みがこぼれてならなかった。いっその事軽やかに笑えたらと思う。

 そしてふと、愛の妙薬のことを思い出した。

 変わり始めていた。何かが。それは自覚することが出来ないほど微弱な変化。しかし確かにそれは心に作用を来す。
 二人の歩く速さは少しずつ上がっていく。リコは体が段々と軽くなっていくように思えた。
 本当に夢の中を歩いているような、歩いているという実感の無い歩行。空を歩いているようにも思えた。
 それが本当に楽しくて、リコはキニーネに笑いかけた。
 風が吹かないために、風車は回っていなかった。気づいたときには、畑が一望できる道を、昨日リコと一緒に歩いた道をなぞっていた。
 時代を感じさせる風車の大きな音がしなかったためだろうか、麦畑のすぐ近くを歩いていることに気づかなかったのは。
 リコは土手のほうを見ると、秋の蝶が羽ばたいているのが目に入った。
 最初こそひらひらと踊るように飛んでいたものの、キニーネたちの気配に気づいたのか蝶は逃げはじめた。
 その動きにつられるようにして、リコは土を思い切り蹴った。蹄が金属に木を打ちつけたような音を立て、彼女は蝶を追いかける。
 すっかり、自分の足が走れないことも忘れて。
 突然足がもつれたことに驚きつつも、どうしようもなく彼女は枯れ草の上に転んだ。そのまま、長い脚を振り回して寝返りを打つ。
 視点がくるりと回転するのが楽しくて、そしてどうしようもなく面白可笑しくなって、リコは子供のように大笑いした。
 キニーネもすぐ彼女のすぐそばに侍り、寄り添った。無垢な眼差しを向けられて鼓動が大きくなる。
 彼女は無防備に四肢を投げ出して、くすくすと笑っていた。
 子供のようだとも思ったが、生意気そうではなく、純粋と呼べるほどの明るさを持っていて。まぶしいほどだった。

「キニーネ、なんだか立ち上がれないんだけど」

 足をぱたぱたと振ってリコはキニーネに話しかける。すごく、すごく楽しそうだった。心からの笑いだった。
 キニーネは笑うことが殆ど無い。笑顔を作ることも、吹き出すこともできるのに、笑い声を上げることが出来なかった。
 今なら何でも出来そうな気がした。
 リコが。リコがそばにいるから。
 このために、今まで使ったことの無かった金をたくさん払って薬を手に入れた。
 夕飯の粥は、麦が苦かったわけなんかじゃない。独特の苦味は愛の妙薬のものだった。
 鈴を転がしたように笑うリコが愛おしくてたまらない。彼女はキニーネを誘うためにそうしているのだろうか。
 一つの考えを続けることが出来なかった。何か行動をしていないと落ち着くことが出来なかった。キニーネはリコのたてがみを目でなぞる。
 柔らかそうな耳を、宝石のような目を。何もかもが魅力にあふれて輝いている。

 それを――手に入れたい。

 衝動が意識の窯を突き上げた。
 枯れ草が舞い、雫が踊る。黒い蝶は大きな羽を広げ、光る鱗粉がひらひらと輝いて。
 二人に憚るように、全てのものが息を潜めた。何の音もしない。まさに無音の世界が二人を優しく包み込んでいた。

 キニーネは強くリコを抱擁した。それに言葉は無く、無言のまま固く体を抱く。それはひたすらに甘く、体熱は炎のそれだった。
 口さえもつぐんで、心臓の音が聞こえるほどの静寂に鼓膜が震えた。
 これまでに無いほど熱くなった心臓は力強く脈打つ。リコにもそれが伝わっていると思うと、ますます身が焦がれた。
 耳を首筋に添えると、確かに生きている証の音が聞こえてきた。

「愛してる」

 その言葉を口に出すのに恥じらいは無かった。

 彼女の表情を見ることもなく、キニーネはリコの唇を奪った。僅かな隙間を割ってエンペルトの細い舌が口腔に入る。
 ちろちろと伸びた赤い舌がとろけるような唾液を舐め取っていく。長いリコの舌に自身の舌を絡ませる。
 それを吸って、吸って、吸って吸って味わった。
 あまい、味がする。たとえ錯覚だろうとそれは余りにも美味だ。
 背中に回していた腕の片方をリコの後頭部に滑らせて、彼女の頭を抱いた。ひらひらと生ぬるい炎が翼を掠めた。
 鍛えられ、磨かれた翼の縁が鏡のように赤色を反射する。

 口付けを止め、キニーネはリコの顔を覗き込んだ。そして、胸がどくん、と強く脈打つのを感じた。

 無防備な表情で安らかな息をしている。まるで純真な少女のように。

 そのとき、急に重いものが心に落ちる。
 同時に体全体が強張った。
 今まで忘れていた疲弊が堰を切ったように押し寄せてくる。体に滾っていた熱は冷め、代わりに氷の冷たさがキニーネの正常な思考を奪っていく。
 今まで興奮に高鳴っていた胸は、別の何かに圧迫され始めた。からっぽになったキニーネにこみ上げてきたのは、理由も分からない悲しさ。
 責めるような鼓動の音なんて聞きたく無い。胸が痛んだ。理解できない感情がキニーネを苦しめる。
 唐突に訪れたそれに当惑し、畏れ慄いてキニーネはリコから体を離した。
 心も体も、どちらもキニーネのものでは無いようだった。
 体は過労を覚えて石のように重く、心はもはや自分で制御することができない気持ちでいっぱいだった。
 それがすべてリコのせいであるかのように彼女はリコから退く。
 心臓がばくばくと弾み、時折鋭く強く痛んだ。そしてキニーネは漸くこの気持ちが、覚えのあるものに気づく。

 切ない。苦しい。遣る瀬無い。

 それはキニーネがリコに恋焦がれていたときに感じていた感情と同一のものだった。しかしそれはそのときに比べてずっと強大だ。
 不安感のようなものが入り混じって、もはやキニーネはリコを抱く気持ちが、情熱が引けてしまった。
 愛しているのに続けられない。
 体が強い倦怠感を訴えた以上、これ以上続けてもどうにもならないと悟る。

「……キニーネ……?」
「リコ――」

 細い声が微かに震えているのが自分でも分かった。それきり声が出なくなってしまう。
 しかし唇の動きだけでも、リコは理解できたのかのっそりと起き上がる。しばらく彼女は不思議そうにキニーネを見ていた。
 キニーネはその目を見ることが出来なかった。射抜くような鋭さを持つ炎色の目を。
 見てしまえば、この気持ちがもっと暴れるように思えて。
 風の囁きさえ無いこの無音が、今では痛々しく感じられた。

「――ごめんなさい」

 謝罪の言葉を押し付けてキニーネは逃げ出した。口の中が溶けない氷を詰められたように凍りつき、からからになる。
 自分で自分のことに動転して、もはや何もかもが分からなかった。
 油絵の具を片っ端から混ぜて塗りたくった、そんな汚らしい色が今の自分の心なのだ。
 途轍もない闇に追われるようにして、キニーネは来た道を走った。幾度も足がもつれて倒れそうになる。
 しかし足を止めていれば胸が軋んでしまいそうで。叫び声が喉までせり上がってきたのを飲み込み、彼女は必死に逃げ続ける。

 白い壁の孤児院に辿り着いても彼女は落ち着こうとはしない。何もありなどしない壁に怯えて、キニーネは扉に手を触れた。
 それをすばやく開いてすぐに閉める。温もりに満ちた香りを深く吸い込んだ。安心に満ちたにおい。
 生まれたときからずっと吸ってきた空気。
 それに緊張の糸を断ち切られ、キニーネは疲れに身を任せて床にくずおれた。
 手が痙攣していた。
 胸が握り締められるように苦しい。そして何よりも体が疲れを訴えてならない。
 震える膝を立たせて寝室に向かうと、子供たちが安らかな寝息を立てていた。その中でももっとも大きなベッドに身を倒す。
 悲しくてたまらなかった。どうしてなのか分からない。布を丸めただけの枕を強く抱いて、気分が落ち着くのを待った。

 それは長い時間を置いてようやく訪れる。体を動かすのが大儀なほどの疲れは取れないが、だんだん鬱々としていた気持ちが軽くなっていった。
 しかし心にしこりのようなものが残り、キニーネはもやもやとした居心地の悪さを感じた。それでも、あの悲しみの洪水は引いた。
 水かさはある程度まで下がっている。その淀みをぼうっと眺めた。不可解な感情を再び呼び起こさないよう細心の注意を払いながら。

 リコを懐に抱いているときはそんな感情など微塵も無かった。変わったのは、横たわる彼女を客観的に見たすぐ後だ。
 それまで味わっていた甘美な悦びは蜘蛛の子を散らしたように消え、気分が反転した。
 それまで感じてさえいなかった疲れが一気に体に襲い掛かった。
 突如として。
 何の兆候も無く。
 何も無い宙にひたすら目を凝らしていたが、何にも結びつかないそれを長く考えることはできず、途中からキニーネはリコのことを考え始めた。
 訳も分からぬ感情の決壊に弄されるより、束の間の幸せを反芻することのほうが、彼女は楽しかった。
 夕食を一緒に摂ったときの、いつもと同じ芯のあるリコ。
 妙に明朗快活な、謂わば浮かれた状態のリコ。
 子供と同じ笑顔と言動をするリコ。
 その後無言でされるがままだったリコ――。
 その記憶を鮮明に思い出していると、体が疼いた。丁度リコの体を強く抱きしめたときと同じように。
 体の熱が、力強い鼓動がまたよみがえる。細部が分かるほど記憶に焼きついたリコの表情と、それとは正反対にまったく分からない思い。
 辛さから逃避したくてキニーネは疼く箇所に指を伸ばした。
 エンペルトの首元から伸びる青い突起をなぞり、下腹部へと……。



 束の間の逃避。
 やるせなさに駆られて、キニーネは自分を慰めた。
 そのうち、キニーネは自分の中にある想像が湧き上がり、それが自分を突き動かしていることに気付いた。
 閉じたまぶたの裏に二人きりのリコとキニーネ。
 仰向けになったリコに多い被さった彼女。
 リコの表情は分からない。
 それが苦痛にゆがんでいるのかも、微笑を浮かべているのかさえ。
 嗜虐――支配?
 想像のリコの中で何かが破裂する。全身が痙攣することだけが分かった。あとは、真っ白く、なる。



 キニーネは見果てぬ快楽に意識が白く煙り、朦朧とした。
 息が荒いのも、体が熱いのも時が過ぎるにつれてじき収まるだろう。
 ただ――快楽は失われて、余韻をかみ締めるだけだった。そしてまた、胸の奥から苦い想いがこみ上げてくる。
 先ほどまで思い浮かべていた幻想。
 リコをキニーネが抱き、あるはずの無い雄の象徴で犯すという、ひどく男性的な想像。
 肉体を持ってリコを支配するそれは、極めて雄の思考に似ていた。
 もしかしたら先ほどの慰めの行為も、リコを抱いたときに彼女が覚えた体が燃える感じも、
 キニーネの中の男性がリコを求めて催したものだったのか――。
 それを思った途端、口の中にすっぱいものがこみ上げてきた。吐き気だ。リコに背を向けて逃げ出したときと同じ、黒ずんだ感情が胸を締め付ける。
 そうやって彼女は、この気持ちがなんというものなのか理解した。

 罪悪感。

 この愛は男性が女性に覚えるものでは無い。男女関係の真似事でもなんでも無い。
 ただ純粋にリコに恋をしているだけだと、そう分かっていたはずなのに。

 自分の中に雄――けだものを垣間見て、キニーネは青い息を吐いた。夜が白んでいることにも気づかずにいた。
 ただ一途に彼女を慕っているだけだと思っていた。この気持ちは今も揺ぎ無い。
 ただ、こんな穢れた目でリコを見ていた自分に気づいて、ひどく悔やまれた。
 枕にリコに投影して、彼女は抱いた。深く深く抱いた。
 小さな寝息を立てて、キニーネは夢の世界へおちる。



 キニーネが目覚めたのは朝が訪れてからそう遅くは無かった。
 夜明け前に眠ったような気がしたから、数時間も寝ていない。時が遅いのか、眠りが深いのか。そのどちらかだろう。
 あれほど疲れていたのに今は全く眠くなかった。
 まだ他の誰も起きていない。いくら農村の朝が早いとはいえ、辺りは静けさが覆っている。とはいっても全く起きていないというわけではなかった。
 生活音がどこからか聞こえてくる。しかし、孤児院では子供たちが多いという関係もあって起床が遅かった。
 恐らく起床にはあと一時間はかかるだろう。誰も起こさないよう物音を立てずにベッドから抜け出し、キニーネは寝室を出た。
 足元に冷気がとぐろを巻いていた。そのまま、誰も起きていないことを再度確認して外に出る。
 真っ直ぐに、町のほうへ急いだ。
 畑のほうではなく、広場のほうでもなく、彼女はリコの家を目指していた。
 感情の整理は済んでいるはずだった。キニーネも、リコも。謝らないといけない。逃げ出したこと、行為のことを。
 しかし、自分が謝罪だけをしにいくわけではないということは、ほかでもない彼女自身がよく分かっていた。
 怯えていた。
 もしも自分のことを嫌悪していたら? 町からの攻撃など、今の彼女にはどうでも良かった。リコに否定されてしまうよりはずっと。
 長方形の家の前についても、キニーネはしばらく足を止めたままだった。彼女はどうしても一歩が踏み出せなかった。
 いっその事逃げ出してしまいたい気持ちが押し寄せてくる。
 でも、彼女がキニーネのことを赦し、受け入れてくれたらと考えると、何とか踏みとどまった。
 一縷の望みに過ぎなかったが、キニーネはそれにしがみついて放さない。一秒の間をおいて、キニーネはリコの家の戸を叩いた。

「はい」

 声がリコのものだと気づくと、キニーネの心拍数が上がる。緊張していないとは、緊張だけをしているとは断言できなかった。
 引き摺る足音が近付いてきた。観念したようにぎゅっと目をつぶり、拳を作る。表情を見たくなかった。

 でも、戸は開いてしまった。

 リコの表情を見ることが出来ない。俯いた青い目はリコの足元ばかりを見つめていて。
 怒っているだろうか? 悲しんでいるだろうか? いつものように笑うばかりだろうか? まっすぐに目を見ることができたらどんなに楽だろう。
 それが出来なかった。言葉も生まれてこない。ただ、胸が早い鼓動を繰り返すのを聴いていた。

「キニーネ」

 リコはキニーネの名前を呼んだ。それでも彼女は顔を上げてはくれず、悲しそうな表情で地面を見ている。静寂がひしひしと迫っていた。

「あっちで、話そ?」

 話し言葉にはっとしてキニーネはリコを見た。いつもと同じ彼女だった。優しい笑顔をした、柔らかい言葉遣いのギャロップ。
 リコはキニーネの腕をくわえて、すこし強引に家の裏へ連れて行く。
 リコの両親はまだ家の中で寝息を立てていた。けれど途中で起きてきてしまってはいけない。
 木の実が詰まった袋がいくつも置いてある裏口につくと、キニーネはリコに促されるまま麦の入った袋に座る。

「どうしたの? 朝から訪ねてくるなんて」
「分かっているでしょう。謝りに来た。それと、リコがどんな風に思ったのかも」
「――きのうの、こと?」

 言葉が突き刺さる。
 リコが昨日のことを覚えていなければ、と起こりもしないことを期待していたが、それは簡単に裏切られる。
 いまのキニーネは何とか彼女のことを見ることが出来たが、リコは温かそうな表情を、普段の顔をしているだけだった。
 それが逆に心苦しい。何を考えているのかが分からない。
 雲の多い空をただぼうっと眺めるだけでキニーネは返答をしなかった。ただ、彼女は嘘を吐くのが上手ではない。
 沈黙を肯定だと捉えてリコは言葉を続けた。

「もしそれが逃げ出しちゃったことを言ってるんだったら、わたしは気にしてないよ。
 気分が悪くなっちゃったんでしょ? わたしは一人でも帰ることができたから、謝らないで。
 でも、キニーネが言いたいのはたぶん、そのことじゃないよね。その前の――」
「リコ」

 また空気が張り詰める。逃げ出したことを赦してくれたことは嬉しい。しかし、行為のことを彼女はどう思っただろう。
 ふざけてあのことをやった、などと言っても彼女には通じないだろう。耳をふさいでしまいたかった。彼女の顔を見るのが辛い。
 しかし、時は止まってくれない。

「愛してるって。わたしのことを」
「否定はしない。私の本心だ。――リコを愛している。今も。今でも。愛していないのだとしたら、こんな謝罪に来たりしない。
 こんなに、胸が苦しくなるはずがない」

 滅多に表情を崩さないキニーネが、今は顔をゆがめていた。リコはそれが本心であることを確信した。
 女性が男性にそうするように、キニーネが自分に恋をしているということを。昨日の抱擁も、愛撫も、衝動から来たことだと分かった。
 しかしそれは簡単に受け入れられることではなく。二人とも口をつぐんだ。

 先に口を開いたのはキニーネだった。

「ねえ……私のこと、どう思っているんだ?」

 必ず来ると思っていた質問。リコは昨日の夜から朝にかけて、つまりキニーネが逃げ去ってから謝罪に来るまで、ずっとそのことを考えていた。
 理路騒然としていた自分の想いに自問を繰り返して、何とか一つの意見に纏めていた。それを少しずつ、少しずつ語り始める。
 綿のように儚い声だった。

「キニーネって、いつも堅実な人だと思ってた。不器用だけど優しくて、いつも微笑んでいて。
 だからわたしも、キニーネみたいなひとのところにお嫁さんに行きたいな、とか考えたことはあるよ。
 それはキニーネと結婚したいっていうことじゃないけどね。それは分かって? 
 でも、抱きしめられたときは純粋に嬉しかったよ。こんなにもわたしのこと大事にしてくれる人がいるんだって思ったもの」

 目を細くして空の彼方を見つめる。

「でも、どうすればいいのか分からない。わたしは恋したことがないから、分かってあげられない。
 わたしもキニーネのことは大事だよ。友達。だから傷つけたくない」

 キニーネはリコの肩を抱きたかった。ひたすら自分のことを大切にしてくれている彼女のことを。
 いつもとは打って変わって儚げな表情のリコは、キニーネにとってひどく扇情的だった。しかしその感情が、結果的にリコを苦しめ、悩ましめる。
 吐き気という形で現れた罪悪感がキニーネを圧迫した。抑制せざるを得なかった。
 空に浮んだ大きな綿雲がもう一つの綿雲にぶつかり、溶けて、一つになる。リコはそればかり見ていた。
 やがて沈黙に耐え切れなくなり、リコは言葉を浴びせかけた。

「キニーネ、恋をする相手はわたしじゃないよ。きっと今は良く分からなくなってるだけ。
 だって、キニーネがそんな罪を犯すとは考えられないもの。

 ねえ……キニーネ?」

 背筋が凍りついた。意識が遠のき、目がちかちかした。ひどい吐き気と入れ替えに、強い頭痛を催す。キニーネはうろたえて袋から立ち上がる。
 頭を殴られたような感じだった。いや、それよりもひどいかもしれない。
 リコの言葉に含まれる拒絶に耳をふさぎ、キニーネは頷いた。そうするしかなかった。

 これ以上、リコに否定されたく無い。尊ばれるべき恋愛の心を、いもしない神に踏みにじられたくは無かった。

 悲しみと悔しさと、そして嫉妬に似た何かに熱いものがこみ上げてくる。それを隠すためにキニーネは笑顔を作り上げた。
 リコがするような満面の笑み。彼女を悲しませたくは無い。この悲しみは自分で背負わなければならないものだ。

「そろそろ朝食になるから帰るよ」
「うん。……じゃあね」

 別れの挨拶を口にしたリコの顔を見ないよう、軽く手を振った後キニーネはすぐにきびすを返した。
 リコが見送っているのを感じている間は俯いて歩いていたが、それがなくなると同時に走り出した。
 涙を流す代わりに、彼女は風を浴びる。
 空っぽになった虚ろな心に負の感情が流れ込んでくる前に、どうしても行かなければならない場所があった。
 朝の日差しが町全体に広がり、人々が起きる前にやらなければならないことがあった。

 広場へ足を踏み入れて彼女は辺りをすばやく見回す。大きな布のかけられた荷台以外は、何もなかったし誰もいなかった。
 まだ商人たちは起きていないのだろうか、と思った。しかし遠くから聞こえてくる水のはねる音で我に返る。
 建物の角まで走ると、向こう側からタキスが歩いてきていた。タキスはまた水の入った重そうな木桶を、慎重に運んでいる。
 また今朝も水を飛び散らかしたのか、体のあちこちに黒いしみができていた。そんな彼に話しかけるのは気が引けた。
 しかしこんなところで待ち伏せしていても、驚いた彼は水桶をひっくり返してしまうかもしれない。
 感情にばかり突き動かされていた思考を少しばかり回転させて、彼女は結局店の前で待つことにした。
 彼はサンドだ。体が小さい。結果歩幅は狭く、歩くのが遅かった。彼が店に辿り着くまでの間、キニーネは心をすこし整理することが出来た。
 吐いたため息は風に吸い込まれて。激しい熱愛の後に訪れる失恋とはこんな感じなのだろうか。
 底の無い喪失感は、気が狂うほどの悲しみを呼び、誘発された憤りはリコに向かう。
 それではいけない。
 リコに八つ当たりをすることなんて、キニーネが直接彼女に危害を加えるなんて狂気の沙汰だった。
 しかしここまで強いマイナスの感情は、その「狂気」になりうる。悲しみに混じった怒りを押さえつけたくて彼女は自分の体を抱いた。

「あれえ? キニーネさんじゃないですか。朝早くにどうしたんすか?」

 素っ頓狂な声を上げられて、キニーネは少し驚いた。タキスはやっと店まで水を運び終えて、荷台の車輪のすぐそばに木桶を置いた。
 キニーネを疑問の目で見ている。彼女は誰もいないことを確認し、タキスに耳打ちした。

「コルヒチン先生、いらっしゃる?」
「あー、師匠っすか? ああ見えても寝起き悪いんですよねー。普通老人は早起きなもんだと」
「誰が老人だって? あ? 誰が起きてないなんて言った?」

 タキスはぎくりとした。人形の動作のように振り返ると、明らかに怒気を発しているコルヒチンと目が合う。
 しかしそうは言ったもののコルヒチンは起きたばかりらしい。彼は確かに目覚めの機嫌が悪い体質のようだった。
 コルヒチンは自分より大きなタキスに肩を怒らせて詰め寄ろうとしたが、途中でキニーネに目を止め、激怒を緩ませる。
 前回あったときはこんなやり取りに笑いさえ見せていたものの、今回は無表情どころか深く沈みこんでいる。
 コルヒチンはタキスの首元を掴んだ手を放した。

「どうした、お嬢さん」

 タキスが椅子代わりにと箱のようなものを持ってきて地面に置いたので、キニーネはそれに座った。
 コルヒチンも一度荷台の中に引っ込み、彼のパイプと刻み煙草を手にとって戻ってくる。
 キニーネは沸きあがってくる怒りを二人に喚き散らしかけ、言葉を呑み込んだ。
 八つ当たりをしてどうにかなるわけではないと、分かっていたはずなのに。
 衝動に意識の隙を突かせてしまえばそれまでかと思われた。その前にすべてのことを話さなければ。
 コルヒチンが緑色の手で煙草をパイプに詰めている間、キニーネは途切れがちな言葉で起こったことを話した。
 できるだけ感情が声の表面に出てこないように。

 彼女に恋心を抱かせるために、そして自分の中に渦巻く恋情を燃え上がらせるため食事に愛の妙薬を混ぜたこと。
 リコの体を抱き、接吻したこと。
 その直後起こった大きな罪悪感の洪水のこと。今日リコに会ったこと。
 ――リコが言ったこと。
 キニーネの気持ちを受け止めはしたものの、葛藤し、拒絶さえみせたこと――。

 自慰のことは流石に、そして不必要なことなので話さなかったが、大体のことは分かったらしい。
 タキスは黙って上目遣いでキニーネの表情を伺い、コルヒチンはパイプに煙草を詰める作業の最後の工程を行っていた。
 キニーネが話し終えて少しすると、ことの整理が終わったらしくコルヒチンはマッチに火をつけた。ヂッ、と微かにこげた匂いと音がして光が閃く。
 その後数秒を待ってパイプに火をつけ、息を吸い込み、一度消した。数回この行為を繰り返した後、やっとコルヒチンはパイプを口にくわえた。

「サンドパンのジレンマ、ねえ」
「それは?」

 呼吸に合わせて煙がゆっくりと昇る。パイプはこの消しかけの状態を維持するのだと、キニーネは初めて知った。
 サンドパン、と聴いて俄然反応したのはタキスだ。

「サンドパン、ってあのサンドパンっすよね?」
「そうだ、お前が進化する、はず、のサンドパンだ。それにつけてもお前は進化が遅ぇな。
 ……話がそれたな。ほら、サンドパンを思い浮かべて欲しい。体中にトゲが生えてるだろ?」

 コルヒチンは指先を払って鋭そうな針をイメージさせた。
 サンドパン。キニーネは見たことが無かったが、タキスの体中に棘が生えていると想像すると、なんとも攻撃的な外見をしていると思った。
 タキスも、まだ何も生えていない平らな背中をぺたぺたと触っている。
 進化するはず、それが遅いと聞いて改めてタキスを見てみると、幼そうに見えたが彼はキニーネより年上らしいことに気づいた。
 若者言葉と小柄な体格に騙されていたが、筋肉や、顔立ちは良く見ると大人っぽい。
 せいぜい一、二歳の年の差だろうが、キニーネは第一印象との違いに驚く。

「こんな童話がある。
 寒い冬、二人のサンドパンがいた。二人はとても凍えていたから、互いに温めあいたかった。でも近付けば針が刺さっちまう。
 それで結局、どうすることもできない。つまり自分のことを大切にし、かつ相手を愛する。
 この欲求を同時に満たすことはできない、どちらかを満たすと不利益が起こる。っつーのがサンドパンのジレンマだ」

 この人は本当に心を読めるのではないだろうか。今の状態は、その二人のサンドパンにぴったり当てはまる。
 キニーネがリコを愛そうとすれば、リコは彼女にとっての罪を背負うことになる。
 キニーネも拒絶されて傷つく。
 しかし愛情を無視してはキニーネの心は壊れてしまいそうだった。恋が実らないことに業を煮やして、リコを傷つけかねなかった。

 しかしどうすればよいのだろう。道しるべが欲しくて、キニーネはコルヒチンを見た。
 パイプの煙を一度口に溜め込み、ふうっと一気に吹いて大きな煙を作り上げる。タキスが痺れを切らしてコルヒチンに言った。

「それで先生、キニーネさんはどうすりゃいいんです?」

 その言葉に、コルヒチンは吹き出した。にやにやと笑いながらキニーネを見つめる彼がどこか不気味に見える。
 彼女は心の中を探られているような気がして、落ち着かなかった。
 コルヒチンは何か考えをまとめたらしく数回頷き、よし、とつぶやいて、

「食事に薬を混ぜたといったな? どの程度の量を加えた? もしかして、一回の使用量の半分以下しか使わなかっただろ?」

 キニーネに質問をした。彼女はたじろいだ。一度煙を深めに吸い、また長く吐く。

「はい。その通りです」
「やっぱりな。大抵、そんな症状が起きるのは量が少ないせいだ。――それで、どうすればいいかだが、少し考えがある」

 彼女は固唾を呑み、食い入るようにコルヒチンの目を覗き込んだ。きらきらとしたきらめきを持つキレイハナの老人の目は底が知れない。
 彼女はコルヒチンが何を考えているのか分からないのに、彼女は自分の感情がすべて彼に読まれているような気がする。
 彼のようなことができたらどんなに楽だろうと思い、次の言葉を待つ。

「愛の妙薬は、恋の心を呼び覚ます薬だと説明したが、もう一つ大きな薬効がある。
 興奮を高める作用と、性的快感が強くなるっていうのがそれにあたるな。言いそびれていたが。あとは分かるだろう?
 ……まず一度に使う量を増やせ。これで作用が強くなるはずだ。
 それと量を増やしたならお嬢さんは飲まないほうが良い。
 どうも副作用が出やすい体質の割には、効果が全く長続きしてないからな。薬は高い。丁寧に扱え」

 鼓動が激しくなるのを感じた。体中を熱い血液が駆け巡った。コルヒチンがいわんとすることを呑み込んで、彼女は顔が上気する。
 この方法でうまくいくのだろうか、と心の片隅で思ったが、コルヒチンの言葉は非常に重みと正当性があるように、キニーネには感じられる。
 先ほどまで落ち込んでいたことも忘れたように、キニーネはりりしい顔をしていた。
 コルヒチンはそれを見て笑うと、タキスの名前を呼んで荷台のほうを顎でしゃくった。少しのあいだかちゃかちゃと固体がぶつかる音がした。
 タキスは何か黄色いものがほんの微量入った瓶をキニーネに手渡す。見覚えの無いそれに、キニーネは瞬きをする。

「ナナシの皮を乾燥させたやつです。ほら、薬って苦かったっしょ? これ一振りすりゃどうにかなるっす」
「ただでくれてやるよ。せっかくの金づるにクレームいれられちゃ困るからな」
「わざわざ、ありがとうございます」

 キニーネは現状を打開する方法を得たことで、また元気を取り戻したようだった。
 沈んだ反動で胸を弾ませている。
 失敗した原因と、成功する理由を懐に抱いて。キニーネは立ち上がった。大きく伸びをする。そろそろ孤児院の起床時刻だった。
 早く帰らなければならない。

「それでは、失礼させてもらいます」


 小走りで遠ざかっていく大きな背中を見送る。タキスはしばらくキニーネが帰っていったほうを見ていたが、唐突にたずねた。

「ねえ師匠」
「ん?」
「サンドパンのジレンマってマジですか? 誰にも近づけないっていうんだったら進化したくねえなあ」

 それを聞いてコルヒチンは笑い出した。
 少しして落ち着くと、今度はにやにやしだす。老人なのにこんなに陽気なら、彼は若い頃どんな性格だったのだろう。
 今のように明るく意地悪だっただろうか。それとも青春をまじめに過ごしてきた反動がこれなのか。
 タキスはじっと彼を見ていたが、やがてコルヒチンは口を開いた。

「まあ、サンドパンのジレンマにはこんな見解もあるんだがな。
 二人のサンドパンは近付いたり離れたりを繰り返した結果、互いが寒くなく、傷つかない距離を見つける、っていうやつだが」
「それなら安心だけど……変な話っすね。捉え方によって良くも悪くもなるなんて」

 コルヒチンはそれを聞いて鼻の先でせせら笑った。
 そう、それは本当に嘲笑といった風で、本来可愛らしいはずのキレイハナの風貌は今、意地の悪い老人のそれでしかなかった。

「世の中そんな都合がいいわけねえだろうが」

 けっ、と痰を吐いてまたパイプを咥える。その目はおどけていなかった。



「キニーネ? 大丈夫? やっぱり昨日具合が悪かったの?」

 ドリンは夕食のスープの味見をしていた。今日は見たことの無い木の実が柔らかく煮えていて。その具の中には干し肉も混じっていた。
 キニーネは食器を持ったまま立ち尽くしていたのを見て、ドリンは心配になって声をかけた。
 やはり昨日、外に出したのが悪かっただろうかと思ったのだ。
 キニーネは少し飛び上がったが、すぐに振り返って微笑みかける。すこし考え事をしていただけらしい。
 大丈夫そうなのを見てドリンは一安心した。大なべを抱えて食卓に運んでいく。
 それを見届けて、キニーネはまた手元を見た。リコの器が手に握られていた。
 別に気がそぞろだったわけではない。夕食がスープだと分かったとき、キニーネは自分が器を運ぶと申し出た。
 スープは食卓で配膳されるから、リコのスープに直接愛の妙薬を入れることが出来ない。だから器に薬を盛ることを考え付いた。
 愛の妙薬と、ナナシの皮を器に入れる。わずかな量だから、目の良くないリコには分からないだろう。
 キニーネは冷や汗を掻きながら笑い、全員の食器をテーブルに乗せた。
 その際キニーネの椅子の隣に座っているリコと目が合って、あわてて目を伏せた。後ろめたかったわけではなく、高鳴る胸を気づかれたくなかった。
 大なべの中のスープが空になり、代わりに子供たちの器が満たされると、キニーネは席につこうとした。

 しかし背もたれに手をかけたところで息が詰まる。

 リコの近くにいるのが辛かった。触れたいのに触れられない。椅子をずらしてリコから少しはなれたところに座った。
 ドリンが椅子に座ると全員が手を合わせる。キニーネは彼女のことを盗み見たが、いつもと同じ笑顔をしているだけだった。

 食事の挨拶をして、いつもと同じようにスープに口をつける。しかし一度飲み干したきり、食器を食卓に置いてしまった。なんだか味がしない気がして。
 昨日は苦味が気になったせい、今日は味気ないせいで食が進まない。一日に二度きりの食事なのに何故だろう。
 空腹なはずなのに、胸に何かつかえているようで。
 キニーネはがさがさの黒パンをむしり、スープの中に放り込んだ。水気を吸って膨らみ、柔らかくなったパンを流し込むように飲み下した。
 平らげた後の皿の中をただ見つめて、キニーネは食事の時間が終わるのを待つ。
 視線は皿に集中させているのにリコのことが気になって仕方がなかった。

 リコは、キニーネが一時の迷いで同性に恋をしていると言った。
 一時の気の迷いということは全力で否定したとしても、ある意味その言葉は正しいことかもしれないとキニーネは思う。
 きっとリコに出会っていなければ、キニーネは男性と縁を結び、何事も無い人生を送っていたはずだ。
 この気持ちはリコにしか起こらない。
 他の同性相手には起こらないという不思議な確信が、キニーネの中にはある。

 食事を終えた後、キニーネはしばらく席に座ったままだった。何を見つめている風でもなく、子供たちが足元で騒ぎ立てても上の空で。
 ドリンとリコが話していても何も聞いていなかった。ひとしきり世間話をして、いざ帰ろうとしたとき、リコはキニーネが目に付いた。

「キニーネ、一緒に帰らない?」

 待ち構えていたのだろうか。
 動揺もせずゆっくりと立ち上がり、ドリンとリコに向かって軽く笑いかける。リコも応じて微笑み、その腕を引いた。

 ドリンは、ここ数日の間にキニーネが変わった気がしていた。他人に対して積極的になって笑顔が増えた。
 赤ん坊の頃からずっと育ててきた。自分の娘の成長を見ているようで、嬉しかった。
 彼女にはもともと娘がいたのだが、ガルーラの子供の生存率は著しく悪い。ドリンの娘も遠い昔に死別していた。
 だからこそ、孤児院の子供たちを無事育て上げることに生きがいを見出していた。
 リコという友人がいたからこうなったのだろう、と思うと感謝したくなる。子育ての醍醐味を味わった気がしてドリンも口元をほころばせた。

「行ってきます。帰りが遅くなっても心配しないで」
「もちろん。リコちゃんと仲良くしてらっしゃい。昨日と同じように先に寝てるから」

 手を振るドリンの姿がドアの向こうに消えた。

 孤児院という名前の隔絶された世界の外に出て、キニーネはリコの顔色を見ようとしたが、リコも同じようにこちらを見ていたのに気づいて、恥ずかしそうに顔を背けた。
 大きな鼓動の音がキニーネの聴覚を奪った。
 リコは不思議そうにキニーネを見つめていたが、やがて空を見上げる。

 リコは数回キニーネに話しかけたが、口を開けば言葉を自分でも制御できなくなりそうで、会話が成り立たなかった。
 いつもの穏やかな静寂ではない、少々緊張気味な沈黙が二人を覆う。
 キニーネもリコも伝えたいことはたくさんあるはずだった。
 けれどリコは、キニーネがいかにも話したくなさそうな風なので、本題を口にすることを躊躇った。
 星が見れなくて残念だね、明日は晴れるといいな。
 そんな関係の無い話から本題にもつれ込ませようとしても、キニーネは寡黙だった。嫌われてしまったのだろうかとリコは少し落ち込む。
 それでも少しでも一緒にいたくて、リコは畑のほうの道を、遠回りの道を選んだ。道を歩くにつれて、静寂をかき消す風車の音が大きくなっていった。
 それでもキニーネはだんまりを続けていて。

「風車のところに行かないか?」

 だからその提案をキニーネがしたとき、リコは嬉しささえ覚えた。もっとキニーネと話をしたかった。
 足を引き摺りながら風車に向かい、その壁に背中をつけて草の地面に腰を下ろす。
 キニーネも座ったら、と勧めたが丁寧に断られてしまい、些細なことなのに少しさびしく思えた。
 キニーネは時を待ち、雲を見た。大きな雲はうねりながら遠くへ運ばれていく。そのゆっくりとした動きを目で追うことは容易だった。
 時々リコの表情を窺いつつ、しばらく空を眺め続けた。

 そうしてやがて時は訪れる。

「キニーネ」

 静寂を破ったリコの声には、あまい響きが含まれていた。
 それに気づいてキニーネが振り返り、彼女を見ると、とろんとした眼差しでキニーネのことを見ていた。昨日と同じような表情だった。
 しかし昨日は子供に返ってしまったようだったが、今日のリコは大人らしさも兼ね備えている印象を受ける。
 それがあまりにも扇情的で、キニーネは自分の胸が弾み、体中が煮え立つのをとめることができなかった。
 もっとも、その術を持っていたところで止めようとはしなかっただろうが。

「どうしたの」

 敢えて、質問を投げかける。

「ふふ、なんかしおらしくなってるなー、と思って」
「……気分は大丈夫?」
「言われてみれば、なんだかふわふわする」

 リコは前足をぺたんと垂らしてキニーネを見た。熱っぽい表情をして、どこか心もとないものがある。それがキニーネの胸を鷲づかみにした。
 ときめきがあふれてしまいそうだった。唾を呑み、興奮しすぎないよう一定の距離を保って足をとめる。
 リコは焦点の定まっていない目をキニーネから空に向けた。
 きれいだな、と思う。雲の切れ目を探して星を見つけると、リコは喜んだ。あまり視力は強くなく、ぼやけた視界の中で星を懸命に探す。
 その作業をあきもせず繰り返した。
 やがて空全体が雲に覆われ、星が見えなくなると、仕方なく視線を落とす。
 その代わりまたキニーネを見つめ始めた。きりりとした表情を引き立てる金色の角と引き締まったくちばし。
 背中から始まり、胸元から下腹部にかけて、体の真ん中のラインを通る突起を。

 そしてふと、疑問がわいた。
 キニーネに尋ねるはずだった文章。今ならなんの躊躇も無く口にすることが出来る。

「キニーネ、わたしのこと、どう思ってるの?」

 キニーネは目を見開き、リコを見た。見つめあう形になったが、リコはぼんやりとした目、キニーネは鋭い目で互いを見ている。
 回っているはずの風車の音が、既にキニーネの耳には届いてこなかった。
 彼女だけに静寂が訪れ、意識を集中させるために手を強く握り締める。
 汗を掻いて湿った触感があった。

「もしも神から罰されたとしても、私はリコのことを愛している。報われなくても。

 拒絶されるのは苦痛だけれど、私の気持ちを分かってほしい。理解して欲しい」

 リコが笑ったのを見て、キニーネはゆっくりと彼女を抱きしめた。

 体が燃え上がる。
 深く深く深く、強く強く強く華奢なリコの体を抱いた。口付けを繰り返し、柔らかい場所に手が伸びていく。
 二人の乙女は互いに絡み合い、もつれ合いながら熱く甘く互いの体をまさぐった。

 キニーネは、ふと、リコが抵抗しないことに気付いた。何かを受け入れたのだろうか、それともあきらめたのだろうか。
 分からない。
 におい立つ肌に顔をうずめながら、夢心地でキニーネは首許に接吻して、細長い舌で筋をなぞった。
 処女の未熟な汗ばんだ肌は柑橘のような味だった。
 夜が二人を包み、甘美な空気を漂わせながら、月はそっと愛し合う二人から眼を背ける。

 薄雲をすかした月光だけを手がかりに、黒の帳が昇るまで――。



 ~ 転 ~

 リコが副作用を催したというのを聞いたのは、彼女を愛してから二日後のことだった。

 わらを纏める単純な仕事をしていると、地主のバクオングに名前を呼ばれた。
 キニーネはしばらく、なんだろうと訝っていた。しかしバクオングの影に行李を持ったコルヒチンがいるのを認めて、彼女は土手を上がる。
 そこにいたのは地主とコルヒチンだけではなく、リコの両親が二人そろっていた。
 グランブルとキリンリキはともに顔を見合わせ、心配そうにそわそわしている。

「ああ、ああ、キニーネ。仕事の最中に呼んですまない。しかし、話さなければならんことがあるんだ」

 しわがれた声のバクオングが非常に涙もろいことは知っていた。今も目頭に涙の粒をこさえている。
 感受性の高い人物なのだが、リコの両親の表情を見て何事かあったのを悟る。

「いや、その、あのだな、君の親友にリコっていうギャロップの女の子がいるだろう? その子が今朝なんでもいろいろあったみたいで……。
 結論から言うと、君にしばらく今の仕事を休んで、彼女の看病をしてもらいたい」

 キニーネは目を白黒させた。たった数秒バクオングが話しただけだったが、それでも内容が濃すぎた。
 リコの身に何かあったと思うと、背中に氷を当てられたような冷たさが走る。
 バクオングが詳しく説明しようとしたのをさえぎって、コルヒチンが咳払いをした。彼は誰よりも小さいのにとても威厳があるように見える。
 リコの両親はおろおろとしながらキニーネのことを見つめた。

「はじめまして。私は医者のコルヒチンです。以後見知りおきを。
 リコさんは今朝から、『原因不明』、の症状に苦しまされています。体中の強烈な不快感、倦怠感、発熱です。
 原因が分からない以上対症療法でいどむしかない。しかしずっとリコさんに付き添ってくれる人がいなければいけません。
 私が適任なはずなのですが、いやはや、知っているとは思いますが私は行商人でしてね。
 ご両親も非常にご多忙な様子で。ですからご友人のキニーネさんに看護をお願いしようと」

 白々しい。
 コルヒチンはキニーネとは初対面である風を装っていた。そうでなければ何か探られるかもしれないからだろうが、その演技の見事なこと。
 つくづく抜け目の無い老人だとキニーネは感嘆する。
 この説明も殆どはバクオングとリコの両親のために行われたものらしく、穴だらけで、薄っぺらく、嘘の塊のようなものだった。
 わざと「原因不明」という箇所を強調していたが、キニーネは分かっている。

 これは愛の妙薬の副作用だ。

 しかしそうと分かっていても、リコが苦しんでいると聞けばやはり不安だった。それは、リコの両親と同じくらい強いだろう。
 ふとグランブルとキリンリキを見ると、目が合い、頭を下げられた。
 愛娘の大切さと、キニーネに頼むしかない、という頼み。リコの母親を看取ったグランブルはリコを失うのが恐ろしいのか涙さえ浮かべていた。
 二人とも重要な職についているため、リコにずっと付き添っていてやることができないと訴え、切実な思いがひしひしと伝わってくる。
 断るつもりも無く、
 断る理由も無く、
 断ることも出来無い。

 ――だってリコとずっと一緒にいられるから。

 キニーネは首を縦に振る。

「申し訳ありません。よろしくお願いします」

 涙声で二人は感謝を言い、頭を下げる。パイプをくわえていないコルヒチンに視線を遣るとウインクを投げかけてきた。
 にやにや笑いの代わりなのだろうと考え、キニーネもウインクを返す。何から何まで手配をしてくれた彼にはこちらの頭が上がらない。
 付きっ切りで看護することを了承すると、地主であるバクオングからそれに関する説明を受けた。
 まず仕事には来なくてもいい、リコに専念すること。
 食費と治療費は町で負担すること。そしてほぼ泊り込みの状態になるため、孤児院へは帰らなくてもいいこと。
 やりすぎではないのか、と思わず考えてしまった。しかしあることを思い出して苦笑する。
 彼女は信仰の対象なのだ。
 神を見殺しにするわけにもいくまい。

「孤児院のほうにはこちらから通知しておく。くれぐれも、よろしく頼むよ」

 バクオングはもらい泣きで流れた涙を押しぬぐいながら、リコの手を握って上下に激しく揺さぶった。
 キニーネはリコの両親に案内されて彼女の家まで向かった。
 コルヒチンもその後ろをついていく。不謹慎という理由で自重しているのだろうが、本来ならコルヒチンは大笑いしているところだろう。
 彼の説明のほとんどが後付の理屈で塗り固めた虚言なのだから。彼がそんな上手いはったりの利く人物でよかったと、キニーネは思う。

 リコと昼夜一緒にいられる。愛することも出来る。誰にも邪魔されることがなく。

 町の中心から離れた、閑散とした場所にあるリコの家。
 風車の音すら聞こえないほど遠く、その場所だけ違う次元に存在しているような錯覚を覚えるほど静かな。
 グランブルが扉を開けた際の軋みがその無音の空間に音をともした。前を歩くキリンリキの後にキニーネとコルヒチンが続く。
 貧しいのか豊かなのか。少なくともキニーネには後者に思える。
 整えられた地面には板張りの箇所までがあり、家具も孤児院のものと比べるとはるかにつややかだった。
 子供の頃からリコの家に来たことは数え切れないほどにあったが、今ではそんな細かいところからリコを感じてしまう。
 温もりも、匂いも、全てのものが。
 なごやかな雰囲気は笑うリコのそれだった。本当に虜になってしまったものだとキニーネは内心笑う。
 案内された先は、リコの家の一番奥にある部屋だった。キニーネはこの部屋には入ったことが無い。
 リコの病床の母がいた部屋、といわれて入れてもらうことがなかったのだ。キリンリキが前足の蹄で軽く戸を叩き、返事を確かめず向こうに開く。

「リコ」

 疲れた声には確かな心配の情が聞き取れた。キリンリキは細く開いた戸の向こうに顔を出して、二、三、声をかけた。
 それから扉を全開にしてキニーネとコルヒチンを招き入れた。
 赤い炎が目に飛び込んできて、思わず駆け寄りたくなる衝動を抑えねばならなかった。
 鼓動の間隔は短くなり、それを知られやしないかとキニーネはちらちらとリコの両親を窺う。
 キリンリキとグランブルはリコのほうに寄って、優しく話しかけていた。少しすると二人は脇に退いて、キニーネにリコを慰めるように促した。

 背中に何か冷たいものが流れ落ちる。近付くための足が躊躇してばかりだ。それを振り払い、キニーネはリコのほうへ歩む。

「……リコ」

 覗きこんだその表情に思わずたじろいだ。
 眉間にしわをよせ、息は荒く、それを苦悶と呼ばずにしてなんと言えるだろう。燃えるたてがみの勢いも弱かった。
 もしかしてこれは副作用では無いのではないか、という考えが脳裏を掠めてキニーネはぞっとする。

 リコはつぶっていた目を薄っすらと開き、虚ろな赤色の目でキニーネの姿を認めた。横たわったことで投げ出された前肢を手に取って握り締める。
 蹄の部分はいつもと変わりないようだったが、肌は驚くほど汗でぬれていた。
 エンペルトの金色の細く冷たい指に、リコの体温は血潮が煮え立っているかのように熱い。それでもなおしっかりと握り、両手で包み込む。
 リコの両親と同じくらい、キニーネは彼女が心配だった。

「キニー、ネ」
「具合は? 今はどんな感じなの?」
「ん、……喉がすごく乾いたのと、体中が痛い……あときもち悪い」

 体のわななきを少しでも抑えようとキニーネはリコの手に強く圧をかける。
 先ほどまでの楽観的な考え方がまるで嘘だったかのように、今では恐れが彼女の心に満ちていた。
 その彼女に助け舟を出したのはコルヒチンだった。わざとらしく咳をして、リコの家族とキニーネの注目を引く。
 その部屋にいた誰よりも小さな体だったが、キニーネにとって彼は非常に大きな存在に思えた。部屋の隅からずいずいと歩いてリコの手を取る。
 そのまま脈を調べるような仕草をして、一度だけ頷いてその手を放した。

「発汗の活性化、喉の渇き、関節の痛みの症状……ですね。
 それに対する頓服薬と、それと睡眠薬をお出ししておきます。睡眠薬は夕方に飲んでください」

 抱えていた行李の蓋を開けて、彼はその中からいくつか白い包みを取り出した。それを大きな茶色い紙の封筒に滑り込ませてキニーネに渡す。
 その動作にキニーネは戸惑ってしまったが、自分が受け取らなければならないと気づいて、両手で封筒を受け取る。
 表情を窺うようにリコの両親のほうを振り返ると、それに気づいたらしい、キリンリキがグランブルに耳打ちをして、深々と頭を下げた。

「娘をお願いします」

 それは、その言葉は、婚礼の場において使われるものと重なった。

 仕事の忙しさが頂点を迎える前に帰らなければと、リコの両親は名残惜しそうに席を立った。
 リコはさびしそうな表情を垣間見せたが、それでも無理そうに笑いかけて見せた。
 二人はキニーネとコルヒチンに会釈をしてから、部屋を出るべく戸を開いた。キニーネも、そしてコルヒチンも次々と見送りに出る。
 刻々と細くなっていく隙間から見えるリコに手を振って扉を閉める。
 居間を通り過ぎて出口まで歩くすがら、誰も喋ろうとはしなかった。リコの両親はおろか、キニーネも重い空気に口を開くことが出来ない。
 結局沈黙を切ったのは扉の音だった。キニーネも家の外に出ようとしたがキリンリキに引き止められる。
 そうされてようやく、もう勤めは始まっているのだと知る。
 家の外に出て数歩歩いたところで、リコの両親はきびすを返し、恭しく黙礼をした。その背を見えなくなるまで見送った。

 しんと静まり返っても風車の音は聞こえない。風の回る音はしても、風車の羽の軋む音は届いてこなかった。
 もしかして彼女をリコに付かせることにしたのは、リコの退屈を紛らわすためでもあったのではないかと邪推してしまうほど、刺激のない世界だった。
 ふっ、と息を吐いてキニーネがリコのところへ戻ろうとした、そのときだった。

「おいおい、お嬢さん、忘れちゃいかんよ」

 いつもの口調に正したコルヒチンが足元にいた。
 にやにやとした笑いを浮かべながらキニーネのほうを見ている様は、もはや先ほどの医者としてのコルヒチンとは似ても似つかなかった。
 背の低さから見落としてしまっていたことに、キニーネは申し訳なく思う。
 彼はそれを察したのか軽く笑い、キニーネの前に回りこんだ。

「薬、の説明だけして帰らせてもらうぞ。……パイプがないと落ちつかねえ」
「はい、お願いします」

 彼はどうやらチェーンスモーカーらしい。
 時折口許に短い手を運ぶが、パイプがあるはずの場所をまさぐっても空を掴むばかりで、そのたび肩をすくめている。

「んむ、あの症状はお嬢さんも気付いたろうが、愛の妙薬の副作用だ。
 ちと苦しそうに見えるが問題ない。治らねえわけじゃあないし、そもそもそれに対応する薬もあるしな。
 その薬と、愛の妙薬と、あと睡眠薬を用意させてもらった。白い包みが愛の妙薬。白の包みに紐がついてるのが副作用の薬。副作用が出たら投与。
 睡眠薬は茶色い包み。どれも一回耳かき一杯な」
「睡眠……?」
「正しくは睡眠導入剤だ。比較的すぐ効いて強力なやつ。愛の妙薬には精神昂揚作用があるが、それと同時に目が冴える効果がある。
 ほれ、お嬢さんあのリコって子と一緒にいたいんだろ? だったら副作用を完全に治すこともあるまい。
 薬は飲ませるが適度に副作用を残して、愛の妙薬を服させて、親が帰ってくる前の夕方、睡眠薬で深い眠りにつかせる。
 そうすればまずバレねえだろ」

 ウインクを投げつけてコルヒチンは鼻で笑う。
 くるっと回転してキニーネに背を向け、彼には大きい行李を抱えてずいずいと歩き始めた。
 それはまるでもう言うことは無いと背中で示しているように。
 キレイハナの小さな小さな足音すら耳に届くような静寂の中、キニーネはただ呆然と突き立っていた。
 紺碧の海の色をした瞳にコルヒチンを映していても、それを見ているわけではない。
 すぐにはっとして、キニーネは段々小さくなりゆく背中に大きな声を上げた。

「待って、ください!」

 老人はゆっくりと振り返る。黄色と緑の葉がゆらゆらと風に踊る。
 キニーネは、彼の顔を見ながら言葉を捜した。胸の中で蛇のわだかまるが如く鎮座する疑問をぶつけるのに適した単語を。

「……どうしてこんなにも助けてくれるのですか? 私はあなたたちに何もしていません」
「おやおや」

 コルヒチンは、まるで分かっていない、という風に首を横に振り、まぶたを落とす。
 それは小ばかにしたようにも、何もたくらみなどないと語っているようにも見えて、キニーネを惑わした。裏があるのか、無いのか。
 その考えを一蹴したのは他でもないコルヒチンの一言だった。

「放っておくわけにはいかなかった、いや、放っておけなかっただけだ」

 それだけ。たった一言だけを、キニーネへ伝わるか伝わらないかの大きさの声で言って、コルヒチンはまた踵をめぐらす。
 その言葉には、欠片も具体性など無かった。

 しかしその口調はキニーネの心を揺さぶるに足る。

 それだけの義理を貫くために、ここまでのことをキニーネに施したのか。
 彼女は神を信じてはいないが、人々が崇拝する神とは、このような行動をする者のことを言うのだろう。すなわち仁を、真っ先に考えるという規範。
 そうしてキニーネは自分の浅はかさを再確認して苦笑する。
 まだ疑心暗鬼な、他人を信じようとしない自分が影で生きている。
 再び視線を上げたとき、コルヒチンの背中は随分遠ざかっていた。それが消えてしまう前、届かなくなる前に、キニーネは声を張り上げる。

「ありがとうございます!」

 コルヒチンはそれに返事を返すことはせず、ただ、頭に咲いた大輪をくるっと一回転させただけだった。

 緑色の後姿を見えなくなるまで見送った後、キニーネの心は温かいもので満ちていた。
 空気ほど軽くなく、炎ほど熱くなく、まるで温水のように快く、とろけたような感じの。彼女はしばらくそれに酔いしれていた。
 優しさに触れて、涙が溢れてしまいそうだ。金属のような両手を重ねて、指をあわせた。確かな味方が自分にはいる。
 そのとろとろした充足感に心奪われながら、キニーネは扉を閉めた。
 少し前までここは静寂で出来ていたと思ったが、今は違う。耳を澄ましてみれば草の擦れる音が、鳥のさえずる声が、風が空を切る音がする。

 リコの部屋への扉をあけて、キニーネはそこへ足を踏み入れた。それに気付いてリコは扉のほうへ視線を向ける。
 その紅蓮色の目がエンペルトの姿を認めて、瞳孔が開いた。彼女はあわてたように起き上がろうとするが、キニーネはそれを優しく制した。
 刃の翼で寝床を切り裂かないよう気をつけながらリコを寝かせる。

「とりあえず、薬。……リコは安静にして」

 キニーネはそう言い、副作用の薬と愛の妙薬の包みを開いた。中から現れたのはやはり白い粉末。
 それは愛の妙薬と殆ど同じような外見をしていて、これでも種類が全く違うのか、と彼女は驚いた。
 医者は薬の一つ一つをどうやって見分けているのだろうか、とも。その薬を僅かにつまんで枕元に佇んでいた水差しを手に取った。
 幼い頃風邪を引いたとき、ガルーラのドリンがこのようにして薬を飲ませてくれた。見よう見まねでキニーネはリコの口を開かせる。
 その口腔に薬を入れて水を流し込んだ。むせないか心配だったが水はちゃんと喉を通ったらしい。
 しかし水差しを口から離したとき、リコがげほげほと咳き込んだのでキニーネは少し焦りを見せる。
 その様子を見てリコは笑った。

「……苦い、ね、やっぱり」

 いつもと変わらない明るさを認めてキニーネも笑い返す。

「良薬口に苦し」
「むー、ちょっとこれは、苦すぎるのとちがう? わたしにがいのは嫌いなのにー」
「薬なんてそんなものじゃないの」
「これでこの症状がおさまるなら、いいんだけど」リコは言った。
「苦いだけだったらお断りだなあ」

 尖らせた口が可愛らしくて、鼓動の音がまた自己主張をする。
 しかしいつもと違って、それを誰かに聞かれるかもしれない、と恐れる必要がなかった。
 寧ろリコと二人だけの小さな小さな世界に於いて、その鼓動は確かな現実感をもたらす。彼女にはまるで、今の状況が嘘のように思えたのだ。

 すらっとした目の形、そこに影を落とす睫毛、水に濡れた薄い唇の艶、瞬きの僅かな時間にも姿を変えるたてがみの炎、額から凛々しく伸びた鋭そうな角。

 細かなところが手に取るように見える。至近距離にほど近い位置で、二人きりだ。
 その大きく潤んだ目を熱っぽく見つめ続けた。
 衝動が巻き起こる。
 突然煮えたぎった。
 胸の中に満ちていた生暖かいものが、せりあがって喉を灼くほどの勢いで。
 愛の妙薬はまだ効果を発揮してはいないだろう、リコの目はまだ虚ろではない。
 しかし、……彼女はすでに、キニーネのことを受け入れている。愛の妙薬はそれを確固たるものにするための道具に過ぎない。
 気付けば上がっていた息を、整えることもせずキニーネは立ち上がった。

「リコ」

 短い言の葉さえ空気に余韻が残る。
 雑音が消えた。振り向いたリコの表情。それを読む間も無く。

 距離はすぐゼロになる。

 唇を吸い、肌を合わせて、熱く滾った柔らかい場所に指を這わせた。息が熱く激しくなる。

 キニーネはリコと体を重ねながら、ふっ、と息を漏らす。ため息よりもずっと短い、しかし笑いではない。
 抵抗はなく、それどころかリコは今、自分から彼女に身を委ねている。甘い甘い、むせるほどに甘い関係が構築されていた。
 性的な快楽と満たされた愛欲に、体がとろけてしまいそうで、キニーネはぎゅうっとリコを抱きしめる。
 嗅覚を支配するリコのにおい。
 その心地よさにわれを忘れてしまいそうになる。

 これが何時までも続くのなら、――この関係が保たれるのなら――ほかに何もいらない。
 ああ、と。キニーネは柔らかい声で呟き、ゆったりと目を閉じる。
 自分の存在が溶けて、リコと一体になったような、不思議な気分だった。
 本能が目覚め、理性が意識の闇に落ちていく。

 時を刻む鼓動、静けさを乱す吐息、……情欲に燃える愛……。



 幾度と無く、日々が繰り返される。光陰は矢の如く。

「んっ……はぁ、っぁ……」

 短い呼吸を繰り返して、あえぎ、キニーネはリコから体を離した。血管を熱湯がはしっているかのように体中が熱かった。
 リコの唇と自分の金色のくちばしを渡す銀色の細い糸が断ち切れるのを見届けて、キニーネは再度瞬く。
 リコの部屋で寝泊りをするようになってから、幾度朝が来、夜が回っただろう。
 最初はリコと互いを慰めあっていたが、最近、特に今日は抱きしめるだけで満足だった。
 軽い抱擁とキス、そして気まぐれに熟れた箇所を愛撫するだけで。たったそれだけのことなのに、時間は駿馬のように過ぎ去っていく。
 この部屋に窓らしい窓といえば壁の高い場所にぽつんとあるだけで、昼間でも薄暗く、それを照らすのは煌々と燃えるリコの炎ばかりだ。
 それでも夕方になれば小窓から赤い光がぼんやりと差し、夕刻を告げ、そのたびキニーネはリコを愛すのを止めて、彼女に睡眠薬を飲ませる。
 ぼんやりとした青色の目で光の軌跡を追うと、小窓は紅で縁取られていた。
 もう一時間ほどすればリコの両親が帰ってくるだろう。
 汗ばんだ額を翼の裏側で拭う。薬を飲ませなければならない。立ち上がりながら、その眼はリコばかりを見ていた。
 大きな赤い宝石の目をこちらに向けて笑わせて、汗を掻いた毛はあちこちが乱れていた。
 リコはすっかりキニーネを受け入れたのか微笑さえ浮かべている。
 それどころか、反抗したり無関心だったりしたのが、今では自らキニーネの体に手足を絡ませている。
 リコの両親が家にいるとき、彼女は全く起きなかったが、睡眠薬が処方されているのをしっているためか、グランブルもキリンリキも何も言わなかった。
 まさか同じ部屋にいるというだけで体を重ねているなどという考えには至らないだろう。
 以前と比べて幾らかかさの減った茶色い包みを躊躇いがちに開き、ほんの少しばかりの量の、睡眠薬を細い指でつまんだ。
 それを見るとリコは自分から口を開けた。薬と一緒に水差しの水を流し込むと、リコは喉を鳴らしてそれを飲み干す。
 もう苦さには慣れたのかあきらめたのか、不満を言おうとはしなかった。
 キニーネは薬を飲み終えたことを確かめて、まだ水に濡れたままの唇を奪った。

 睡眠薬の効能はすばらしいものがあった。数十分もしないうちにリコの意識は朧になり、まさしく眠りに「落ちる」。
 その眠りは深く、ちょっとやそっとのことでは目覚めず、目覚めても寝ぼけてばかりですぐに目を閉じてしまう。
 それはリコの両親に愛の妙薬を使っていることがばれない、という点では良いものだったが、眠っている間は何をしても彼女は反応を示してくれなかった。

 だから、リコが眠りに就くまでのほんの僅かな間でも、彼女はリコを感じたかった。

 平たく大きな舌と、細く長い舌が交わる。くっついては離れを繰り返して、唾液がにちゃにちゃと音を立てる。
 それを汚らしいとは思わなかった。思えなかった。
 キスを終えて口を話した後、ふたつの口の間は複雑に白い糸が絡んでいた。それはまるでくもの巣のようで。
 キニーネはリコの唇を何度も貪っていたが、その都度リコの目がとろんとし、舌の動きが鈍くなっていくのが分かった。
 今にもまぶたが落ちてきそうな。
 それを見て彼女は接吻を止め、リコのベッドから降りる。
 リコのベッドの隣には、もう一つ簡素なベッドが置かれていて、それはキニーネの寝床だった。
 もっとも使うのは夜だけだったが、
「夜、急に発作か何かが現れたときの用心をしておいたほうがいい」
 とコルヒチンがリコの両親にアドバイスをしたために、わざわざ孤児院から運び込んできたのだ。
 そこに腰を下ろして、彼女は少し想像にふける。

 ――今の状態で、いいのだろうか?

 一つの小さな部屋に閉じ込められ、リコとの禁断の愛は誰にも認められない。
 つまりこの部屋から出るためには愛の妙薬の使用をやめなければならず、しかしそうすれば彼女はリコとずっと一緒にはいられない。
 それに、愛の妙薬の効果が切れて、リコが自分から離れていってしまうのを、キニーネは何よりも恐れていた。

 愛の妙薬の効き目が切れれば、リコに植えつけた恋心は消えてしまうのか。
 その答えをキニーネは知らなかったが、それとなく見当がついている。
 現に、愛の妙薬の効果が切れたときが副作用の起きるときだと、キニーネは学習していた。
 それは突然に訪れるのだ。
 それまでキニーネにされるがままだったリコは、唐突に跳ね上がり、激痛に身をよじったり、悪寒や、逆に猛暑を訴えたりする。
 喘ぎ喘ぎ副作用の薬を求める、その声。
 それは苦痛に満ちて、そこに愛の妙薬の効果を見ることはできなかった。
 ……即ち愛を。
 愛の妙薬の効果が切れたとき、リコの恋は消える。

 しかし、とキニーネは思う。このままではいけない、と。薬に頼ってばかりではいけないということは分かりきっていた。

 ――だから、どうすれば良いんだ?

 そのとき、遠くで木戸を硬いもので叩く音が聞こえて、キニーネはがばっと起き上がった。
 随分と深く考え込んでいたのだろう、とうにリコは寝息を立てており、窓からの光はだいぶ薄くなっていた。
 そしてこのノックの音は、キリンリキが帰ってきたということだ。
 リコの寝具の乱れを適宜直し、キニーネは急ぎ足で玄関のほうへ向かった。簡単な錠をはずして扉を開く。
 その扉を押し開いてキリンリキが長い首を出した。

「ただいま、キニーネちゃん」
「おかえりなさい」
「何か変わったことはなかった?」
「はい。今は睡眠薬で眠っています」

 キリンリキはかたかたと蹄を鳴らしながら台所のほうへ向かう。台所は長方形の家の角にあった。その隣が、分厚い壁を隔ててリコの部屋だった。
 大きな石のかまどの上に置いてあるあかがね色の鍋、それをキリンリキが覗き込む。

「おかゆは食べた?」
「誰が、でしょう?」

 キリンリキがくすくすと笑う。それはリコの笑いに良く似ていた。

「リコも、キニーネちゃんも」
「ああ……昼ごろ、リコと一緒にいただきました」
「リコ、ちゃんと食べた?」
「いえ、ほとんど」
「……そう」

 顔を微かに翳らせ、キリンリキは目を伏せる。キニーネも首をゆっくり振った。
 恐らくこれも副作用の一種なのだろう、リコは最近あまり食事を摂らなかった。
 キリンリキが、喉を通りやすいようにと、それこそ咀嚼しなくても飲み込めるほどの柔らかさの粥を作ったのだが、それすら口にしない。

 気付きたくなどなかったが、キニーネは確かにその影響を感じていた。
 リコの体を愛撫するとき、手に硬い触感を覚えるのだ。

 かまどの前に屈んだキリンリキの背中を呆然と見つめていたが、突如ドンドン、とやや重めのノックの音がして、キニーネは再び踵を返した。

「ただいま。ああ、キニーネちゃんか」

 扉の外にいたのは大きな袋を抱えたグランブルだった。
 持ち上げた袋の中身は麦で、これはキニーネの知らないことだが、これはリコの療養用に支給されたものだった。
 それを軽々と担ぐ様はなんとも心強い父親といった風だ。
 キニーネに一目くれて微笑むと、グランブルは台所の入り口付近に袋を下ろす。それに気付いてキリンリキは振り返らずに挨拶した。
 彼女の目の前の鍋は何時の間にやら煮立っている。

「おかえり」
「ただいま。麦を貰ってきた」
「あら、ありがとう。ちょうど夕食が出来たところだから、ま、座って待ってて」

 グランブルは椅子に座ってそのまま首を回し始めた。ごきごきと鳴る音が、肩が凝ったと訴える。
 それを見てキニーネは肩をおもみしましょうか、と申し出ようかと思ったが、自分の指ではかえって痛いだけだと気付いて口をつぐんだ。
 それに、彼女はあまり人付き合いが好きなほうではない。
 台所へと向かえば、キリンリキが四苦八苦しながら食器を出しているところだった。
 それを補佐する形で受け取り、キニーネは三人分の皿に、どろどろに溶けた粥をよそった。

「助かるわ」
「いえ、とんでもない」

 三枚の皿を、幅広の翼で食卓に運んだ。食卓は三人家族なだけあって孤児院のものよりずっと小さい。
 しかし三人で座るには大きめのテーブルだった。キリンリキとグランブル、そしてキニーネが囲んでもまだまだ場所が余る。
 全員が席に着き、各々の皿の前で、三人は手を合わせた。

 二人は真摯な風に、一人は渋々といった感じで。

「いただきます」

  重なった声。三人分には満たない大きさの。しかし誰もそれを聞き咎めることなく、静かな食事になった。
 キニーネは粥を覗き込む。孤児院のものとは全く違う粥だった。
 それは麦が溶けていることも大きいだろうが、何よりも具の豪勢さ。見たこともない木の実や、肉、何種類かに及ぶ調味料。
 慣れない手でスプーンを持ち、キニーネはそれを口に運んだが、浮かない表情を浮かべていた。
 複雑な調味は、孤児院の貧しい粥で育ったキニーネには異質なものに思えたのだろう。
 キリンリキとグランブルは取り立てて目立った表情を浮かべていないが、それはリコのことが心配だからであって、粥の味が不満なわけではない。
 居心地の悪さを感じたのか、キニーネは一度スプーンを置く。
 本来その席はリコが座るべき場所だった。
 その粥はリコが食べるべきものだった。
 嫌でも罪悪感を覚えずにはいられない。
 その様子を見て悟ったキリンリキはふっと唇を笑いの形にする。彼女がリコの症状が良くならないことを嘆いていると、そう思ったのだ。
 見当違いの微笑を受け取ってか、キニーネは再びスプーンを取り、粥を口に運び始めた。
 しかしそれでも、ほとんど噛まずに喉に通す。

 あっという間に空になった皿を一瞥し、彼女は早々に食卓から上がった。

「どうしたんだ、キニーネちゃん」

 温かい父親の情に溢れたグランブルの声がまるで罪を咎めているようだった。
 凍りついた表情に笑いの仮面。虚偽の理由だろうと構わない。この二人といることに彼女は耐え切れなかった。

「今日は疲れてしまったので、お先に失礼します。おやすみなさい」

 ああなるほど。疲労が溜まっていたのか、とキリンリキは合点する。
 キニーネは軽く腰を折り、リコのいる寝室へと歩みを進め、その扉の向こうに消えた。その背中にグランブルが手を振る。
 エンペルトの大きな体がベッドに倒れこむ鈍い音が響いてきた。金属製のスプーンを器用に使って、彼はまた一口の粥を口に運んだ。
 塩の味、それに続いて香辛料の刺激、穏やかな甘み。さまざまな材料をふんだんに使った粥はグランブルにとってとても美味なものだった。
 溶けた麦粒の中で、時折プチプチとつぶれる小さな実の食感がグランブルを飽きさせない。
 それを舌の上で転がして複雑な味わいを堪能していたが、ふと視線を上げた先に疲れた顔をしたキリンリキを認めて、そっと声をかけた。

「大丈夫?」
「んっ? あっ、私ぼうっとしてた?」
「疲れてるみたいだけど、少し休んだほうが良いんじゃないか?」
「そうかしら」

 キリンリキはスプーンを一度皿に伏せ、耳を垂らす。深く吐いた息は僅かに濁っていた。
 それは嘆息というよりは、単に息を吐いただけ、という印象を受ける。しかしグランブルは妻がいつでも気丈に振舞うことを知っていた。
 今も元気そうにしているが、リコが倒れたときにキリンリキが見せた涙は確かに本物だった。
 キリンリキの肩にそっと手を重ねて、彼は微笑してみせた。それを見て安心したのか、気が綻びたのか、彼女は粥を食べるのを止めた。

「リコのこと?」

 悩みの種を言い当てられてキリンリキは頷く。グランブルはやはりと言った風だ。むしろ他の要因を探すほうが大変かもしれない。

「あの子、なかなか良くならないし、食事も摂らないみたいで……。痩せてきてるのはっきりわかるもの。
 原因さえ分かれば何とかなるかもしれないのに、それすら分からない」
「でも、治らないとは言われていないだろう」
「死なないとも言われてないわ」

 むう、とグランブルは口をつぐむ。変なところで彼女は強情な節がある。
 強情ということはそれだけ芯が強いということで、だから彼女は皆から信頼されて重い地位に就くことを許されているのだが、こういうときに意地を張られても困ってしまうものだ。
 言い返す言葉が見つからない。まだ治らないとは言われていないが、治る見込みがあるわけでもない。
 ここで曖昧な希望を押し付ければ喧嘩に発展することは目に見えていた。
 グランブルはキリンリキの肩を軽く叩いて、何とか安心させられるような材料を探した。

「でもキニーネちゃんがいるから、信頼していいと思うよ。現にキニーネちゃんから、容態が急変したとかそういう報告は入ってこなかっただろう?
 二日に一回は夜にお医者さんも来るし、心配しててもリコのためにはならないよ。逆に悲しんでしまうんじゃないか」

 その言葉にキリンリキは目を丸くした。
 言われて見なければ気がつかなかっただろう、そのことに。自分が悲嘆すればリコにも自ずとそれが伝わってしまうのだと。
 彼女はそれに納得して、そうね、と言って笑い返した。

 それを、扉一つ隔てたところでキニーネは聞いていた。
 二人の優しさと自分に対する信頼に胸を打たれて、なんだかとても温かい気持ちだった。
 板張りの床に視線を落としながら、薄暗い部屋で目が慣れるのを待っていた。
 寝ているリコの炎は起きているときよりもずっと小さく、その分照らされる闇も広くない。
 けれどその仄かな光の柔らか味が好きだったし、適度に暗かったからこそこうした言葉を聴くことも出来た。

 しかし、そうした他人の温かみに触れて感動すると同時に、暗い気分になることを避けることはできなかった。黒い罪悪感が心に渦巻く。

 我侭ひとつでこうした純粋な人たちを裏切っているのだ。何だかそれは重い罪に思えて、キニーネは俯く。
 彼女は孤児院の子供たちも、ドリンも、リコの両親も、そしてリコをも騙している。
 むしろ真実を知っている人物を数え上げたほうが早かった。
 それでも、彼女の中である声が囁いた。
 リコと一緒にいられるから良いんじゃないか。もともとこれが目的だったでしょう。
 そんな声に心を揺さぶられながら、キニーネは自分のベッドに倒れこんだ。冷えた枕に顔をうずめても、良心の呵責も欲望の訴えも止むことを知らない。
 ちら、とキニーネはリコのほうを窺い見る。よく眠っていた。呼吸に合わせて胸部が上下する。
 ひとまずその体に変化が無いのを確かめて、キニーネは安堵の息を漏らした。

 日毎に繰り返される遊び。それは愛の妙薬が効いている間だけの、束の間の恍惚。そう、薬が切れてしまえば、一挙に副作用がリコを襲う。
 副作用の薬を投与すればいい。
 それだけなのに。彼女は副作用に苦しむリコが恐ろしかった。
 副作用が恐いのではない――ましてやリコが恐いわけではない。

 気付かないふりをしていた。

 けれどそれは回を重ねるごとに顕著になっていった。副作用を催しているときのリコは、まるでリコではないかのようだった。
 キニーネは身を縮こまらせて布団を被り、それを硬く抱き寄せる。
 自分の鼓動と、リコの息遣いと、小さいながら木の軋む音、扉の向こうのグランブルとキリンリキの談話の声。耳に聞こえるのはそれっぽっちの音だけだ。
 閉じたまぶたの裏に見える限りない暗闇に意識が沈み、ひと時の安らぎへといざなう。
 ふわふわとした不明瞭な感覚が体中を包み込んで彼女は眠りについた。



「それじゃ、行って来るよ」
「リコのことよろしくね」
「はい、行ってらっしゃい。お気をつけて」

 地平線から陽が顔を出して、黄金色の光を投げかけていた。まだ朝も早い。
 露が枯れ草の繊維に玉を作って輝いている。幾千ものそれが星を散りばめたようにきらきらと煌き、夢でも見ているような風景が広がる。
 キニーネに見送られてグランブルとキリンリキが家を出た。踏まれた足元の草が露を振り落とす。
 キニーネはしばらくその背を見送っていたが、キリンリキが市街地へ続く街路を、
 グランブルが畑へ向かう道へめいめいに進み始めたのを見届けて、くるりと背を向けて戸を閉めた。空気の流れが閉じられて、家の中がしんと静まり返った。
 連日、朝食の粥を食べ終えると二人は、早朝から仕事へ出かけてしまう。
 その前にリコの体調を見てはいるものの、朝の彼女は深い眠りについて目覚めない。リコが起きるのは決まって日が昇りきった後だ。
 キニーネは清潔な台所に足を踏み入れて、銅で出来た磨かれた鍋を覗き込んだ。
 つくられたばかりの粥がまだ熱を持って煮えている。けれど、かぐわしい匂いが鼻を掠めてもキニーネにはそれが美味しそうだとは思えなかった。
 鍋のふたを元に戻して、キニーネはリコの部屋のほうへ向かう。

「リコ、起きてる?」

 窺った声には返事があった。

「うん。ふふ、どうぞ」

 リコの声は朗らかで、それを聞くだけでまろい気持ちになれた。
 木でできた戸を押し開くと、寝たままの姿勢で赤い目がこちらを見ていた。南西向きの窓からはほの淡い光が差し込んでいる。
 ゆったりとした足取りでリコのベッドに近付くと、リコはきらきらとした目をこちらに向ける。
 見せ掛けの炎がめらめらと燃えながら踊る。似通った赤色を見つめながらキニーネはベッドの縁に腰掛けた。
 その唇に口付けをしたくなる衝動を抑えながらじっとその輪郭を視線で一撫でする。

「お腹は空かないの? お粥、持ってこようか?」
「ううん、だい、じょうぶ」
「そんなこといっても、大分痩せ細ってしまってるじゃない」
「おなか、すいてないから」

 これが孤児院の子供だったら無理にでも食べさせたところだろうが、リコのその笑いを前にキニーネは何もいえなかった。
 矛盾していた。
 しかし彼女は愛するひとに無理強いをしたくなかった。
 そう、と相槌を打ってキニーネはリコのベッドの上に登る。
 その行為が何を意味しているのか分かっているのか、リコは何の抵抗もしなかった。キニーネがリコのベッドに上がるのは決まって愛し合うときだから。
 布団をそろそろとまくると、曲線の美しい胸が、白く細長く、そして無駄な肉の無い足が見えた。それはとても扇情的に見える。
 キニーネは自分の足で寝具が乱れるのが見えたが、敢えて直そうとは思わなかった。
 しわなんて、そんなものは後でいくらでも元に戻すことが出来る。そんな些細なことに気を遣うより、睦みあう時間をより濃厚なものにしたかった。
 キニーネはリコの肩を抱いて、その唇に自分の唇を段々近づけていく。もうすぐ。

 その、時。
 ほら。糸が断ち切れる。

 近付いた大きな赤い目の瞳孔が大きくなり、掴んだ肌に汗が滲んだ。リコは体を大きく痙攣させた。
 すぅ、とキニーネの体から血の気が引き、緊迫感に脈が早まる。
 副作用が始まったのだ。
 目を覆ってしまいたかった。しかし腕が強張って動かず、呆然と惨状を目の当たりにすることしか、彼女には許されていなかった。

 声にならない悲鳴。リコは苦しみに悶え転がった。
 思わず足を前で交差させるが、触れ合ったその肌に激痛が走り、飛び跳ねるように足を離した。
 関節に激烈な痛みが突き刺さる様は痛風に良く似ていた。

 叫べど逃れられない地獄。

 鋭痛がリコの感覚と意識を乗っ取る。否、痛みだけではない。しかしそれが苛烈を極めることに変わりは無かった。
 苦痛の叫び声にやっと我に返りキニーネはリコから飛び退く。負担が無くなってリコはより激しく暴れだした。
 恐ろしく寒い――違う、燃えるように暑い!
 そう感じたかと思えば身が凍るほど寒くなり、また灼熱を覚え、昏倒したリコは激暑と激寒の終わらない回廊をめぐり続けた。
 冷や汗と脂汗が混じりあいながら全身からあふれ出す。
 それらの症状は納まることなく、リコは奈落を巡る。
 全身が八つ裂きになるような痛烈な痛み、微弱な風すら刃となって素肌を剥ぎ落とし、極端な冬と夏を際限なく繰り返す。
 赤い目に映る天井が蠢き、無数の蟲で覆われた。
 いや、天井だけではない。キニーネを見ればエンペルトの姿が、肌に目を遣れば皮膚が、赤色の無い世界でむぞむぞと這い回り、蠢動した。
 脳か内臓を揺さぶられたかのような不快感が押し寄せ、こみ上げてきてリコは嘔吐する。
 空だった胃をひっくり返した末に透明な胃液が枕元に降りかかる。すえた臭いが鼻を突き、ますます嫌悪感が高まった。
 吐き気に誘われるままリコは反吐を吐く。

「く……すり!」

 喘ぎ喘ぎ叫んだリコの声にキニーネはびくりと肩を震わせた。副作用の薬。
 それを飲ませれば――むしろ飲ませなければ彼女の症状は治まらない。これ以上苦しむリコを見たくなかった。
 水差しと、紐のしてある薬の包みを取ってその包装を開こうとしたが震える指はいうことを聞かない。

「くすり……! くす、り、」
「待って! 今、あかないんだ、あ、あ」

 紐は解けた。しかし紐という支えを失った紙はバランスを崩しやすく、容易に手の上を滑る。薬をそこらに振りまきながら包みは落下した。
 余りのことに目をみはったが猶予はなかった。床に落ちた紙の中に僅かに残っていた白い粉末を手に取る。
 薬が用意されたことが分かるとリコは口を開けた。
 キニーネは痙攣する指でその口の中に薬を振りいれ、水を一気に流し込んだ。
 その刺激すら身が張り裂けるほどの痛みに変わり、リコは体をびくりと跳ね上がらせた。
 喉を通る水が、途轍もなく冷たく思え、数秒の間熱湯に変わり、液体の感覚がなくなった頃にもう一度体中を極熱が覆う。

 薬を飲ませたことに、一段落こそしてはいないもののできる限りのことをし終えたことに、いたく安堵を覚えて、キニーネはその場に座り込んだ。
 ベッドに寝ることができればよいのだが、そうするだけの力が足に入らなかった。
 腰が抜けてしまって彼女は深呼吸をした。ともあれ安息が訪れてキニーネはすっかり床にうずくまる。
 膝に手に、粉薬の触感があるが、それを掃おうとも思わなかった。
 強い緊張から開放された。それだけが唯一彼女に考えることができることだった。
 リコがのたうち、ベッドが振動する音が聞こえても、もうすぐそれが納まると約束された以上、先ほどまでのあわてぶりが愚かしく思えた。
 あと十数分もすればこの地獄は終わるだろうか。
 まだリコの苦しみが終わりを告げたわけではないけれど、キニーネは少し休息を取ることを選んだ。
 朝早くに起きた疲れもあいまって、目を閉じると、すぐに意識は霞み始めた。
 あれほど恐れていたことも、そして実際恐怖したことも、一度過ぎ去ってしまえばたいしたことではないんだな、とキニーネはぼんやりと思った。
 眠気が柔らかく彼女を包み、思考が薄暗くなっていく。



 目覚めは唐突に訪れる。強い衝撃がキニーネの意識を叩き起こした。それは無抵抗の彼女を押し倒すのに足る。
 鈍い、音がした。背面を硬い床に打って痛みが走る。
 いきなりのことにわけも分からぬまま、キニーネは小さく悲鳴を挙げた。短い首は押さえつけられて上を見ることができない。
 一気に起こったいくつもの事象は混乱を引き起こす。
 無防備なキニーネの体は完全に押さえつけられて、抵抗もできそうになかった。
 誰がこんなことを、と焦点の合わない碧眼が宙を彷徨った。暴漢か? 理性は錯綜して、息はすっかり上がっていた。
 しばらくキニーネに圧し掛かった相手は彼女の体にまたがったままだったが、やがて彼女の顔を覗き込もうと首を伸ばし、その拍子に目が合う。
 そしてキニーネは息が詰まるのを感じた。

 その怯えた青い眼が捕らえたのは、リコ、だった。しかし様子が違うことは明らかだった。

 血走った目に象徴される、リコに滾る異常なまでの精気。キニーネを倒すほどの力が、普段の彼女に出せるとは思えなかった。
 目が油の浮いた水面のようにぎらぎらと光る。

「リコ?」

 呼びかけには応じなかった。キニーネは自分の体を寒気が這い上がるのを感じる。口の中が乾いて、搾り出した呼び声は酷くおぼつかなかった。
 恐怖に、驚愕に体中が麻痺して動かすことが出来なかった。

「っ?!」

 更なる嵐がキニーネの中で巻き起こる。リコが再び混乱に陥ったキニーネの唇を奪ったのだ。
 広く長い舌がくちばしの間を縫ってキニーネの口の中へ侵食してくる。赤い舌は別の生き物のように蠕動しながら少女を侵略していった。
 おぞましいものが口腔を隅から隅まで舐めまわし、キニーネの背筋を戦慄が走った。
 入り込んでくる自分のものではない唾液が、生ぬるく彼女の喉をくぐりぬけ、そのぬめついた感触が気味悪かった。
 尚もリコは攻撃を続け、縮こまったキニーネの舌に無理やり自分の舌を絡ませる。
 キニーネはくちばしを開いて、その粘るような接吻を止めさせた。早く終わりにしてしまいたかった。唾液の橋が二人の間を結び、音も無く崩壊する。
 それを見ながら笑うリコが、これほどまでに無く恐ろしかった。
 やめて、と言おうとした喉は痙攣して、出てきたのは震える呼吸の音だけだった。
 息を切らすキニーネを焦点の合っていない目で見ながら、リコはげひた笑い声を立てた。
 意味も無くキスが落とされる。額の角に、くちばしに、胸に、まぶたに、首に、胸元に、水色の突起に、襟元に、ひたすら。

 ――ちがう。

 キニーネの中で何かが覚醒した。黒い錯乱の中でそれは白い光を投げかけ、一つの単語が木霊する。
 涙の浮いた目を幾回か瞬かせ、キニーネはリコの顔を見た。
 落ち窪んだ目が射抜く。骨の浮いた躰、ひどく心もとない発声。それは美しいギャロップの面影をたやすく消し去った。

 即ちそれは狂気。

 これが、キニーネが愛した、リコだっただろうか?

 違う。
 違う、と声が響き渡る。

 されるがままだったキニーネは、その言葉に頭を打たれたように我に返る。霞んだ意識。それが鮮やかになるのを感じた。冷たく、なる。手が、足が、体が、頭が。
 熱ぼけていた目を幾度か瞬かせる。自分に抱きついたリコを見て彼女はぞっとした。

「違う、」

 赤い瞳に精気はなく、しかしリコは色欲に駆られてキニーネの体を貪っている。赤くじゅくじゅくと濡れた愛唇がさも獣のように思えた。

「違う」

 ――こんな、人形が、

 キニーネは力を振り絞り、のしかかったリコを突き飛ばした。障害を抱えた脚にそれを押さえつけるだけの力はなかった。
 向かいの壁に背中をぶつけてリコは目を白黒させる。キニーネは思わず後じさった。それでもリコはキニーネに這いよろうとした。
 呂律の回らぬ舌で何事かも分からない言葉を呟きながら、リコは地を這い回る。
 壁際に追い詰められて、細く切れた呼吸が自分でも耳障りだった。荒く苦しい喘息のように息遣い。胸を握りつぶしてしまうかのような鈍い痛み。
 主観と客観が交じり合い、キニーネは冷静と錯乱の狭間で、青い瞳を透かして燃える赤色を見ていた。何も考えられず、ただそこに立ちすくむばかりで。
 突如、その足に鋭い痛みが走った。思わず悲鳴を上げると、息切れが益々ひどくなって、喉を通り抜けるかぼそい息がひゅうひゅうと鳴いて骨身をえぐった。
 見開いた眼に映ったのは、リコのたてがみ、だった。燃える炎は今や極熱を帯びて、触れたものを灼く。全身が粟立つのを覚えた。

「キニー、ネ、わた、し」
「私は、……!」

 名前を呼ばれたくなかった。リコの名を騙るな、と叫ぼうとも喉が縮こまってどうにもならない。
 しかしリコはキニーネの足を捕まえて、絡み付いてくる。炎の暑さが身を焦がす中、キニーネは足に滑りとざらつきが走るのを感じた。
 それが段々上へ上り、もっとも敏感な場所に、走る。

「あはは、キニ、-ネ」

 ――こんな、性愛しか求めない「ギャロップ」が、
 リコなわけが、無い。

 彼女の中で確信が迸る。

「違うっ!!」

 炎の赤を反射して、

 翼の鋼が輝いた。

 一閃の朱がリコの胸に走り、一瞬を置いて緋色が噴出する。
 浴びる返り血。
 咄嗟に閉じたまぶたに血しぶきが襲い掛かり、液体が水音を立てて頬を打つ。
 脈の強弱をつけて流れ出る血が、赤色の面積を広げていった。
 足元に生ぬるく、とろりとした感触が及んだことを考えると、もう既に多量の血が床を深紅で染めたということなのだろう。

 呻き声が聞こえて、息が一つ途絶える。

 ゆっくりと、キニーネは目を開く。ああ、目に入るものは全て赤い。命を創る赤色の水は海となり、キニーネはそこに佇んでいた。
 まだ息が切れていて、それだけが唯一彼女の鼓膜を震わせる。
 いや、液体の音がまだ響いていた。
 白いベッドも、薄茶けた壁も、粉薬の零れていた床も、そしてキニーネも、真っ赤に上塗りされていた。
 ベッドから垂れ下がった布団は紅花で染めたような紅をして、その先端から赤い雫を滴らせた。それがさらに緋色の水面を叩いて澄んだ高い音を立てる。
 体を見下ろすと、紺も白も水色も、全てが紅で塗りつぶされている。その中でも、ある一点が彼女の目に留まった。

 自慢の切れ味を誇る刃の翼が一層血に塗れているのを見て、キニーネはやっと現実に引き込まれる。
 記憶が彼女を翻弄しながら噴き上げて。

「――何が、違う、の?」

 柔肌に翼が当たる、僅かな抵抗。

 肉という肉が削げ落ちた体。擦れた骨の感触。

 内臓か、或いは少しばかり残っていた筋肉を切り裂く際の手応え。

 一瞬の空白。

 そして赤色が視界を奪う。

 手が、震えた。目の前に両手をかざす。
 真っ赤だ。それは命の色。否。死を意味する色。それは部屋全体を満たしている色。
 両手の隙間から見えた肉叢(ししむら)は、未だ、緩やかに鮮血を吐き出し続けている。おびただしい量の生の代わりに死が少女の体を満たしていく。
 その眼は、こんなときですら、赤く燃えていた。

「リ、コ?」

 いとしい少女の名を呼ぶ声。
 かすれていた。
 途切れていた。
 それすら沈黙に溶ける。
 美しい艶を持つベージュ色の毛は紅色に濡れて、まるで赤い毛並みを持つ馬のようだった。
 ただ一点、腹部から躍り出た中身に目を留めさえしなければ。
 すらりと伸びた首元から血液が流れ出ているのが目視できた。
 それももう勢いは弱い。
 死んでいるのか、生きているのか、キニーネには判断がつかなかった。

 現実を受け止めきれず、信じることが出来ずに彼女は一歩前に踏み出した。ぱしゃ、という音と共にべとつくものが足にまとわりつく。
 その音に気付いたのか単なる偶然か、ほむらの色をした眼が向きを変えてキニーネを捕らえた。

 射抜かれたように、キニーネは一瞬息を止めた。
 そのまま彼女の元へよろけながら駆け寄った。
 足が血溜まりを蹴るたびに飛沫が舞い上がり、キニーネの体に新たな斑点をつくった。そのことにも気付かなかった。
 放心したように骸の前でへたりこむ。

 恐る恐る伸ばした腕で彼女の体を抱き上げた。まだ温かい。死後硬直すら始まっていない体は、重力にしたがって弓なりに反った。
 しかし、その体は、いつか抱きしめたときよりずっと軽い。

「リコ」

 強く抱きしめると、息は聞こえなくとも鼓動の音が微かに聞こえる。
 それに縋り付くようにキニーネはリコの体を強く抱きしめたが、段々、小さくなる。
 弱くなる。間隔が長くなる。
 愛したギャロップの名前を呼びながらキニーネはその体を揺すった。振動に抗うことも無く首はだらりと下がったままだった。
 キニーネが愛した朱色の眼は、いまや光を失っていた。
 あらぬほうを見た漆黒の瞳孔はすっかり開ききり、恐らく光に晒しても二度と小さくなることは無いだろう。
 何かを凝視することも、また視線を移すこともなく。生を手放した目は、水晶球に閉じ込めた夕日のような目は、寂しそうに虚空を見つめていた。
 それでもキニーネは現実を受け入れることを頑なに拒んだ。
 生きているはずだと。既に黒ずみ始めた広く深い血溜まりの中で、それはどれほど滑稽だったことだろう。
 リコの体を強く揺さぶり、きつく抱擁して、息を吹き返すのを待った。

 しかし彼女は気付いてしまった。決定的な死に。

 手が背を撫ぜる。
 そこにひらひらとした感触も、焦がすほどの極熱もなかった。
 目を丸くしてキニーネはリコの背に目を移した。
 燃えていない。
 炎の赤の代わりに血の緋。
 嘘、と呟いてキニーネは炎を探した。しかしたてがみに、尾に、くるぶしに、炎はもう残っていなかった。

 ギャロップの体にはもう炎が残っていなかった。

 生の証である焔が消えてしまった以上、その答えは、明白、だった。

「嘘、だ、ちがう、ちがう、違う! ――リコ!!」

 この手で、殺した。

 その真実から逃れるすべは無く、キニーネは叫んだ。喪った恋人の名を、切実な逃避の言葉を。
 何時しかその声は慟哭に変わり、生きているものが一つしかない部屋に響きわたる。ただ、空虚に。
 藍色の目から零れ落ちた涙が血の海に溶ける。透明な雫を拭うこともせずキニーネはリコに口づけをした。
 いつかと同じように唇の間から舌を差し込み、いつしかと同じように口の中をまさぐり、あのときと同じように舌を味わった。
 苦い錆の味、鉄の味が味覚に刺さる。それすら厭わなかった。

 それはリコだ。この血は、リコのものだ。

 くちゃくちゃと音を立てながら唇を貪るが、二つの口腔に潤いをもたらすのはキニーネの唾液のみだった。
 動かないリコの舌に自分の舌を絡ませて、吸って、吸って、吸って吸って味わう。
 仄かに温かく、柔らかい。

 それはリコが生きているかのような錯覚。

 錯覚に――幻想に惑わされてキニーネは唇を離した。赤く濁った糸が二人を結びつける。
 しかしリコの眼は大きく虚ろで、抱いた体に筋肉の伸縮も鼓動も、息遣いすらも感じ得なかった。

 ――死別してしまったのだ。

 漠然とした恐怖と悲哀が現実味を帯びてキニーネの目の前に突きつけられた。もうリコを愛することも、愛されることも叶わない。
 耐え難い恐怖。悪寒となってキニーネの体を這い、冷たさが理性を壊す。
 彼女は、どうすればリコともう一度愛することが出来るか、そればかりを回らない頭で考え続けていた。
 もう一度名前を呼んで欲しかった。もう一度抱きしめて欲しかった。けれど。それは、もう――。

 はっ、とキニーネは顔を上げる。天啓が閃いたかのように彼女に新たな道が示された。寧ろはじめから道はそれしかなかったのかもしれない。
 その道をたどるようにして、なぞるようにして彼女は一度だけ瞬きをする。

 キニーネは顔を覆っていた手を、ゆっくりとリコの頭の下に差し込んだ。
 余り血に汚れていない顔は、血色を失っても尚美しく見えた。
 すらっとした目の形も、そこに影を落とす睫毛も、血に濡れた薄い唇の艶も、真紅の宝石のような目も、額から凛々しく伸びた鋭そうな角も、キニーネは彼女の全てを愛していた。

 だから、キニーネはリコに終わらせられることを望んだ。

 美しい顔立ちに誇った角。

 そこに向かって勢いよく自身の喉を振り下ろす。

 肉を貫く音が、骨を伝わって鈍く響いてきた。
 角は動脈を串刺しにしたのか喉からどくどくと動悸がする。
 痛みに目が眩んだが、それに耐えて角を首から引き抜いた。
 まず、ごぶ、と呼吸の音。
 そしてあぶくが破裂する音がして、しとどと命が流れ始めた。
 堰を切って噴出す血がリコの顔をも飲み込んで辺りに飛び散るのを見て、綺麗な顔を汚してしまったな、とどこか遠い意識の中で思った。
 ああ、鈍く鋭い激痛が首を締め付けて。
 息が出来なかった。
 血が気管を雪崩れていく。
 息遣いに、血の爆ぜるごぼごぼという音が濃く混じった。

 真っ赤に染まった視界の中、手探りでリコを探す。まだ温かい毛並みに触れて確かめ、
 声が届かなくなる前に、囁いた。

「愛、してる」

 強く強く抱きしめた。
 もう放しはしないと。
 けして離れたりしないと。

 この意識はあとどれくらい持つだろう?
  血を失うのが早いか。肺を満たした血液で溺れるのが早いか。痛みで気絶するのが早いか。

 キニーネはふっ、と微笑んだ。これまで生きてきた中で恐らくもっとも優しく、自然な笑いを湛える。
 ようやくリコと一緒になれる。誰にも邪魔されることなく。誰にも否定されること無く。
 二人分の真紅の海に沈みながら、喉から命を垂れ流しながら、キニーネは熱いキスを施した。

 だんだん、意識が、
 生きたここちが、いたみが、
 とおく、なっていく。とおざかる。

 意識が暗転して無が生まれた。
 赤黒く変色した血に、新しく真っ赤な鮮血が混じる。それはあたかも同一の象徴に思えて、

 死して尚、彼女は美しかった。
 死して尚、彼女らは美しかった。

 ……どこか遠くで、風車の回る音がする――。



 ~ 結 ~

 身を切り裂く風が冬を告げる。平坦な雲に覆われた空に、雪の影。静まり返った町を遠く後ろに、その二人はいた。

 一人はキレイハナ。緑色の頭に咲いた赤い大輪と、腰みののように纏った緑と黄色の葉。
 一人はサンド。煉瓦のような筋の入った土色の肌。そこに触れた雪が溶けて、黄土色を茶色に染めていく。

 サンドは恐らく怪力か何かを発揮しているのだろう、小さすぎる体には似合わぬ大きな荷台を牽いて、一歩一歩を踏みしめていた。
 それでも歩幅は余りにも小さく、ゼニガメの歩みという例えが丁度当てはまりそうな。
 それだというのにキレイハナは荷台の荷物に腰掛け、それはおろか煙草を堪能していた。
 古びた、しかし艶のある木製のパイプと、程よく炭の馴染んだ火皿に詰められた刻み煙草、そこから燻る煙が風に踊りながら冷たい空に消える。
 サンドは踏みしめた大地に向けていた視線を不意に前に向けた。程近い場所に、何かごちゃごちゃとした集まりがあるのを視認する。
 町から少しばかり離れたそれは、木杭に囲まれ、寂しさを覚えさせるに足る、静けさと暗い物憂げな色合いをしている。

「コルヒチンせんせー! あれ、っすかね?」

 若人らしい舌ったらずの言葉でそう叫び、彼は前方を指差した。
 コルヒチン、と呼ばれたキレイハナは何も言わなかったが、サンドはそれが肯定の意だと知っていた。
 気難しいその老人は、不必要なことに口を開こうとはしないのである。

 寂寞としたその場所の前でサンドは足を止め、荷台を牽くのをやめた。車輪が軋んで少しよろけ、そのまま後ろに腰を下ろす。
 振動を確かめてコルヒチンは腰を上げた。小さな体格の彼は荷物から降りるにも一苦労だったが、それでも何とか地面に足をつけた。
 上に上がった牽き棒の下を注意深く潜り抜けて、サンドは目の上に手をあてがう。

 一望のもとに見渡したその場所――盛り土に刺さった太い枝が、板が、幾多もの墓標となっていた。

 ここが町の墓場であると、サンドは町にある畑の地主にそう聞いていた。雪のせいもあって静寂ばかりが空間を満たしている、
 この場所が。あちこちに聳え立った墓標には朽ち果てたものもまだ新しいものも見受けられ、全てが差別されることなく葬られていることを示している。
 葬られた跡に申し訳程度に突き立てられた粗末な目印に、サンドはいたく無常の念に駆られた。
 この町の人間はいくら懸命に一生を駆け抜けようと、結局生きた証はこれだけの木片だ。

「タキス、こっちだ」

 しわがれた声でコルヒチンがサンドを、タキスを呼んだ。
 その足元はやはり墓のようだったが、新しさが、そして何よりも存在感が違う。
 タキスは転がるようにしてコルヒチンに近寄り、その墓に目を向けた。

 ひどく寂れた墓所に、それは場違いなほどに、真新しく豪奢を極めていた。
 幾束もの花束が掲げられてその花弁が強風に散る。表面を磨いた墓石にはタキスにとって見覚えのある筆跡で文章が刻まれていた。
 墓の群れの中では異質の存在だった。
 ――名前すら書かれず、いつか土に還る木の墓標が立ち並び、群れをなす中で。その墓だけが特別な存在を主張している。

 コルヒチンは一歩後ろに下がってパイプを深く咥えた。彼のお気に入りだという刻み煙草の香は、甘く、渋く、独特の芳香を伴って、煙に、炭に、灰になった。
 もとより小さい体を屈め、彼には少し大きい石版に彫られた文字を、タキスは手でなぞりながら読み解いた。
 否、そうしなくても彼は、その墓石になんと彫られているかは知っていた。
 彫った人物は他ならぬ彼なのだ。石に文字を下書きしたコルヒチンもまた、墓に刻まれた文章を記憶している。

「――『リコ、キニーネ、安らかに眠り給え』」

 二つの名前とその慰霊の言葉。確かに二人の記憶と一致した。リコは障害を抱いたギャロップ。キニーネは彼女を愛した同性のエンペルト。
 まだ一週間も経っていない。
 謎の症状に悩まされていたリコと、その看病をしていたキニーネが、血の海の中で息絶えていたのは。

「……それで」
「ぁん?」
「二人が死んだ理由として町が公表したの、どんなでしたっけ?」

 黒い円らな瞳を一、二度瞬かせ、コルヒチンは噴出した。墓場に相応しくない高笑いが雪の降る世界に響く。寧ろ嘲笑に近い雰囲気が伺えるほどの笑い方。
 墓場には少し不謹慎かとも思ったが、タキスは何もいわず彼のことを見つめるばかりだった。
 ひとしきり笑い、コルヒチンはパイプを斜めに咥えなおしてから、それを口から離した。
 口の中に充満していた香のある煙を一気に吹き降ろし、白は雪を溶かしながら風に流されていく。
 老人の口から零れ出でた息は雪よりも煙よりも、何ものよりも白く空気を染めた。

「リコの病が良くならないことを哀れんで、いっそ苦しみから解放してやろうと考えた末の心中、だとよ。っは、笑わせてくれるなァ、おい」

 再びコルヒチンは嘲り笑う。甲高い声が二人の鼓膜を震わした。

 それとなく沈黙が訪れ、タキスの脳裏にあの日の記憶が去来する。
 リコとキニーネの抜け殻が転がった部屋に足を踏み入れたとき――リコの両親に呼ばれたコルヒチンについて部屋に入ったとき。
 ギャロップの燃える炎の赤色よりも、目を射抜く夕暮れの紅よりも、ずっとずっと真紅をした海。
 沈んだ二つの身体。
 それを呆然と目に映していた。
 一方は鋭利なもので切り裂かれた、片一方は角で貫かれた、身体。
 互いが互いを抱きしめて息絶えている様の、なんと異様で、美しかったことだろう。
 リコというギャロップが、赤を知覚できない色盲であることはコルヒチンから聞いて彼も知っていた。
 彼女は意識を手放す直前、自らから噴出すその血の色が何色に見えたのだろう。

 ふと、タキスは妙なことに気付いて首を傾げる。
 愛の、妙薬。

「先生、――愛の妙薬、って結局何だったんすか?」

 コルヒチンはこの質問が来ることを予測していたのだろう、微動だにせずただ空を仰いでいた。
 曇天は地平まで続き、降りしきる雪が土を枯れ草を民家を、白の支配下にしようとしていた。タキスは続ける。

「恋の薬だってんなら、最初に飲ませた時点でリコさんはキニーネさんに恋焦がれてたはずですよね?
 それが、恋どころかこんな大惨事でしょ。まあなんつーか、……性的興奮うんぬんの薬だったら納得できるんすけど」

 自分でもことがうまく飲み込めていないのか、タキスはあちこちの言葉を繕いながら説明した。
 短い尾をぱたぱたと振りながら言葉を捜していたが、コルヒチンの表情を見てそれをぴたりと止める。彼は謎めいた表情を浮かべていた。
 笑いの類であることは間違いないが、悪意や何か侮蔑した感じを孕んだ、それは。なんという表情なのだろう。
 コルヒチンはパイプを一度深く吸い、それを一気に吹いた。
 本来このようなパイプの吸い方は煙草の味を悪くしてしまうのだが、濃い煙が肺を満たし、喉を焦がす感覚は何者にも代えがたかった。
 途端、コルヒチンはまた笑う。
 違う、嘲う。
 声を立てて嘲う。年寄り特有の微かな声の振るえ、しわがれが、それに不気味な意味合いを持たせた。

「全く滑稽なもんだ。媚薬なんぞ存在するわけがなかろうが!」

 からからと哄笑する。その表情といつかキニーネと取引をした時の表情を見比べ、ああこのひとは本当に虚言が得意なひとだ、とタキスは半ば感心する。
 しかし彼が言ったことはタキスの問いかけの答えの半分にしかならない。あの薬の正体が、媚薬ではないのだとしたら何だというのか。
 そして新たな疑問が首をもたげ、タキスの喉に引っかかる。

「それで、あれは何という薬だったんですか? どんな薬、だったんですか?」

 コルヒチンは流し目に彼を見、墓石に目を落とす。何か考え込んだ表情。びゅうと風が吹き渡り、ばたばたとキレイハナの美しい葉が、花がなびく。
 一度だけ目を細め、重い口を開いた。

「――アルカロイド」

 異質の、響きだった。
 重々しい、或いは非常に硬いものを連想させる言葉。兎角耳慣れないそれにタキスは耳をぴくりとさせる。
 コルヒチンはふん、と鼻を鳴らし、パイプを再び咥えなおした。一度口を閉じて軽く息を吸うと煙が再び昇り始めた。

「平たく言えば、麻薬、だ。
 飲めば多幸感や酩酊を催し、陶酔的な心地、高揚感が宿る。また、快楽の増幅、性欲の高まりが得られる。
 ……精神の崩壊と身体の滅亡を約束に」

「それ、」

 タキスはつい口を突いて出た言葉に自分でも驚き、咄嗟に手で口を覆った。
 しかしコルヒチンが続きを話すことを促すように頷いたため、タキスはおずおずと口を開く。

「それ、そのこと、先生は知ってたんっすか?」

 その言葉に憤りや非難の意味が、含まれていないとは言えない。されどきょとんとした口ぶりだった。
 かかか、とコルヒチンは唇を曲げる。

「自己中心的じゃねえかって?
 こんな方法しか、こんなものにしかすがることの出来ない乙女のほうが愚かだとは思わんかね?
 いくら同性愛が禁忌だとはいえ、……方法はいくらでもあったはずだろうが?
 駆け落ちにせよ、何にせよ、しかしあの娘はその方法を取ろうとはせずこうした逃避的な方法を使った。
 これは、道を踏み外したあの娘への最大の報いだと思うが違うか?」

 珍しく感情的に、しかし同時にどこか冷静にコルヒチンはそう訴えた。タキスは納得したらしく押し黙る。
 幾らなんでも強い意見に流されすぎやしないか、とコルヒチンの中で誰かが囁いたが、彼は知っている。タキスは芯が強い。
 良いことを取り入れ、悪いものを放棄する、取捨選択ができる者だと。現に今だって抗議の声を挙げたではないか。

 自身が自己中心的であることは分かりきっている。だから尚更、コルヒチンは他者が利己的であることを憎む。
 ――それに、ほんの微塵の想いだが――リコに悪いことをしたと思わないわけではないのだ。

「神を信じようと信じまいと救われやしないよ」

 呟いた言葉。何よりも冷たく深い。勢いを強めた雪が体につぶてを打ち当てる。
 しかめた表情の空を仰げば、恐らくこの後、もっと雪のひとひらが大きくなるだろうことが予想されるほど、雲の色は暗くなっていた。
 虚しいまでに立派な墓に一瞥を投げ、コルヒチンは引き返した。
 タキスはまだ墓に視線を釘付けにしていて、遠ざかる背中に気付いて慌てて彼を振り返る。しかし足が墓の前を離れようとしない。
 嗚呼しかし、彼は二人の死を悼んでいるわけではないのだ。

 最後の気がかり。

 喉を潜り抜けた重い塊を、タキスはコルヒチンの背中に投げつけた。

「先生は……コルヒチン先生は、神がいると思いますか?」

 存在するとしたら、少なくともリコは救われていたはずだと。

 存在するとしたら、コルヒチンは罰せられるはずだと。

 存在するとしたら、もしかしたらキニーネが死んだのはそのせいかもしれないと。

 存在するとしたら、――

 ――何故神は、自分たちを救う手を差し伸べないのか、と。

 彼に信心など無い。宗教など信じていない。されど困窮に追い詰められたときは、無意識のうちに神頼みをしてしまう。
 海の化身を、大地を広げた者を、時の司を、空間を裂いた腕の持ち手を、世界の創り手を、信仰の対象にすることは構わない。
 まして存在すら曖昧な奇跡を崇めることも。

 ――しかし、それは神か?
 ――そもそも、神とは何か?

 少し萎れた葉をはためかせながら、コルヒチンは振り返る。今にも高笑いしそうな表情にタキスは戸惑いを覚えた。彼は丸い目でじっとそれを見ていた。
 切なげな笑いを浮かべるのを見ていた。
 いくつかの古い火傷の跡が残る唇が動くのを見ていた。
 丸い手に逆さにして持ったパイプから灰がばら撒かれるのを、見ていた。

 しかして白い世界の沈黙は静かに破れる。

「この世界は神で溢れているよ。

 ――そう、我々、疫病神たちがね」
 
 (了)



○愛の妙薬 あとがき

 ・バッドエンドっぽい
 ・百合もの
 ・地の分がうざい
 ・終始一貫してない
 ことでばっちりバレバレな28×1です。長ったらしい作品にお付き合いいただきありがとうございました。自分に発破を書けるつもりで小説大会に参加したのですが、予想外の結果になって驚いています。

○タイトル・レジュメについて

 ドニゼッティ作のオペラ「愛の妙薬」のパロディチックなものになっています。オペラ「愛の妙薬」のあらすじは以下の通り。

 前奏曲の後幕が上がると、村人の集う広場。ネモリーノは美しいアディーナへの想いを独白するが、彼女は魯鈍で弱気なネモリーノにはすげない。アディーナは『トリスタンとイゾルデ』の本を他の村娘たちに読んで聞かせて「飲めばたちどころに恋が成就する愛の妙薬、そんなのあり得ないわね!」と 大笑いしている。村外れに宿営しているベルコーレ軍曹が行軍を率いて登場、その洗練された物腰と凛々しい軍服姿にアディーナは一目惚れ、ネモリーノは焦る。そこへ「森羅万象に通暁した、人類の救済者」と名乗る薬売りドゥルカマーラ博士なる人物が登場、巧みな宣伝口上で村人に薬を売り付ける。人々が去った 後残ったネモリーノはドゥルカマーラに「イゾルデの使ったという妙薬」を求め、ドゥルカマーラは、とんだ馬鹿が来たとばかりにボルドー産ワインを「秘薬」 として高値で売りつけてしまう。「効目が出るまで1日待たれよ。ただし当局がうるさいので、薬のことは秘密ですぞ」と言い含めて。(後略)

 アディーナがリコ、ネモリーノがキニーネ、そしてもちろんドゥルカマーラがコルフィー先生となります。前半部分はほとんどこれに置き換えられますね。またこのオペラはハッピーエンドになるのですが、ここからさらに同性愛らしい崩壊を展開させてみようと試みたのがこの作品です。
 ちなみに、タイトルは最初「アルカロイド」になる予定でした。
○登場人物について
 ・キニーネ
  一見静かで穏やかで純情な乙女のように窺えるように設定しました。今回三人称であるにもかかわらず彼女主体の文が多いのはそういった理由です。本作のテーゼ。名前はキナから採れるアルカロイドの一種「キニーネ」から。
 ・リコ
  優しくてかわいくて外向型の典型的ヒロイン。思えば彼女、ほとんどキャラが立っていませんね。こういったありふれた設定のせいでしょうか。本作のアンチテーゼ。名前はヒガンバナの猛毒成分であるアルカロイド「リコリン」から。人名リカルドの愛称でもありますが関係ありません。
 ・コルヒチン
  高笑いとパイプの人物です。キーパーソンですが、なんというか、作者の説明不足で行動に必然性が見られないというかわいそうな役柄です。本作のジンテーゼ。名前はイヌサフランに含まれるアルカロイド「コルヒチン」から。
 ・タキス
  終わりを飾るためだけにいるようで、そうでない誰か。本作のアウフヘーベン。名前はイチイ毒の原因のアルカロイド「タキシン」から。

 拝読ありがとうございました。


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  • 実は最初読み始めようと思った時、スライドバーがやたら小さくなったので一体何文字あるのかと気になって、内容を読まずに~起~から(了)までを選択してノベルチェッカーにかけて見たんです。
    結果、73940字、2572行、原稿用紙262.1枚。
    大会の作品で 『こいつは長編ですね』と言われたのを初めて見ました。(この時点で、書いたのにはいちさんだろと思いましたよwww)大変お疲れ様でした。
    しかしこれだけのボリュームにもかかわらず、非常に読みやすい文章で文字数がほとんど気になりませんでした。さすがです。
    ところで、毒ポケが1匹もいないのに(キレイハナに至っては毒抜かれているのに)名前の由来が全員猛毒とはこれいかにwww
    解説になかったガルーラのドリンさんは『エフェドリン』からでしょうか? -- 狸吉 2009-05-02 (土) 02:39:15
  • こんばんわ。
    すみません、ずっと前に読んでいたんですけどカキコ忘れてorzingな、7名無しです。
    上の通り、昔読んで思ったことなんですけれど、やはり好きな人や愛する人、親しみのある人などが自分の前から消える事があったら、多分、私は耐えられません。だからこの場を借りて私は自分が相手を尊重して相手を本当の意味で知って欲しい、お互いを助け合う以上の存在を築き上げられる、真の関係を見つけること、をこの小説を読み、私の駄文カキコを読んでいただいた人に私の気持ちが伝わると嬉しいです。
    失礼しました。
    最後に、この小説は儚く、素晴らしい悲しい作品です、しかし、そこからみられる愛ということや、人間の我々としての大事なことがあり素晴らしい作品でした。
    これからも頑張って下さいね、応援していますよ!
    失礼しました。
    ――7名無し ? 2013-01-06 (日) 00:02:38
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Last-modified: 2009-12-01 (火) 00:00:00
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