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愛のマヨヒガ-上-

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書いた人ウロ

主な登場人物紹介
ターキーさん:ズルズキン♂
 孤児院の院長先生。ちょっと失礼な発言が多い。

ソルベさん:グレイシア♀
 孤児院のシスターの一匹。切り盛り担当。院長先生のお目付け役。

バニラ:エモンガ♀
ソルト:ジャノビー♂
ピール:フタチマル♀
 孤児院の子供たち、問題児ABC


はじまりがき
 八月の半ば、十五日から十六日の間、孤児院の子供たちが失踪した。もともと辺鄙なところにあったぼろぼろの孤児院だったので、だれにも気にかけることはなかったが、孤児院の院長と経営を守っていたその他のポケモン達は眥を吊り上げて陰鬱な気分を飲み下していた。不審な明かりが見える、と第一報を入れたのはソルベだった。時間帯は午前三時を過ぎたところだっただろうか、机に突っ伏して泥のように眠っていたターキーは跳ねるように飛び起きた。
「どこだ」
「あちらの造林のあたりからです。北の山の上方」平静を装いながらも、ソルベの顔は暗雲が垂れこめているように曇った。気温、摂氏九・七度、実効湿度七十・八パーセント。風速毎秒十四・四メートル。折からの異常乾燥注意報など、とっくの昔に火災警報に切り替わってもおかしくはなかった。ラジオのチューニングを合わせながら、目を大きく見開いて、ターキーは不審な明かりを見据える。首筋から冷汗が伝うのを、静かに感じていた。
「まさか……」
 まさか、そんなはずはない、と思いたかった。ここ数年の間で、このあたりに火災警報が鳴り響いたことはない。ただ単にこの場所は海にも山にも面しているため、潮のせいで警報機が錆びついてしまっていると思ってしまえばそれだけだったが、二カ月ほど前に警報機は新しいのをたてたばかりで、急速に壊れるようなら不良品として返品したい気分だった。
 ぬるい風が室内に吹きつけて、二人の背中を舐めるように撫で上げた。ソルベに押されるように、硬直していた体を叩きだし、孤児院の出入り口を乱雑に蹴飛ばす。立てつけの悪かった木製の引き戸はけたたましい音をたてて前のめりに倒れこんだ。
「何壊してるんですか」修理代を慮ったソルベの悲痛な声に対して、ターキーは犬歯を打ち鳴らして大きく息をついた。「子供たちとドアの修理代と、どっちが大事だ」子供たちの方が大事だが、光が見えたからと言って子供たちだとは限らない。いや、とソルベは首を振った。あれが火災だったとしたら、異常乾燥しているこのあたり一帯はすぐに火の海に変わるだろう。結局、あれが何なのか確かめない限り、孤児院も無事で済むわけではなく、ソルベは眉を顰めた。
 孤児院の北には黒々とした山並みが横たわっている。昼間なら、晩夏の滑る空を背景に緑の山が連なるのが見えただろう。常緑樹の造林がゆっくりと盛り上がり、なだらかに折り重なる稜線、そこに点々と混じる鮮やかな季節の草花、遠目からでもはっきりとその光景が想起できるほど、ターキーにとっては見慣れた山だった。
 それは今、無数の光点を撒いた星空を切り取り、漆黒の影として横たわっている。満天の星のひとつが散り落ちたように、まばゆい光が見えていたが、それが常にそこにあるものかどうかまでは判然としなかった。
「ソルベちゃん、見えるか?」
「いえ、うっすらとしか」
 ターキーの言葉に相槌を打ちながら、ソルベは目を細めた。身を軋ませるほどの寒風が正面から押し寄せてきていた。それは山の上方から孤児院に向かって吹き下ろしている。およそ夏にはそぐわない様な背筋の走る風を身に受けながら、ターキーに目を合わせたまま体を少し震わせた。風も乾燥している、あの光が火の手なら、瞬く間に燃え広がるだろう。
「近くに行かないとわかりませんね、どうしますか?」問いかけに意味をもたなとわかっていても、問いかけてしまうのは相手の顔色を伺いながら対応を求める行為と似ているなと思った。「決まってるだろう、行くぞ」即決の言葉を受け取り、ソルベは頷く。問題はその「火災と思われる明かり」の発生している場所が、ぼんやりとしていてわかりづらいということだった。発生が遅れればそれだけひどい被害を蒙るということが分かっていても、ソルベにはあの仄かな明かりがどうも火災だとは思えなかった。
(でも)もし、という希望的観測が大変な事態を招くということはよくあることだった。(お願いだから、単なる明かりであってください)祈るように両手を弾いて、夜の闇を疾走する。心の中で祈るソルベの声が聞こえたように、ターキーが声を出した。
「山火事じゃなきゃ、いいんだけどな」
「山火事だったら、院長先生の取り付けた火災警報器が壊れているということの実証になりますよ」
 ソルベな頷きながら、そんな恐ろしい冗談を口にする。ターキーは苦笑いをしながら考える。もし火災だったら、火は乾ききった下生えを舐めて恐るべき速度で広がっていくだろう。広大な斜面が炎に包まれ、それは秒速十四メートルの風に煽られて、いくつもの尾根を駆け上がり、駆け下りながら北部の山々とそこに孤立するように立つ孤児院を飲み込むだろう。海辺に近く、水ポケモン達に協力を仰いだとしても、恐らく乾燥状態と風速からざっと目算して、水の勢いよりも、火の粉の舞いあがる量の方が上だと思った。いずれにしても、本当に火事だとしたら、一千ヘクタールにも及ぶ山林を巻き込んで、孤児院は消滅するだろう。
(頼む……)
 縋るような気持ちとともに、足をとにかく動かした。自分たちはまだいい。しかし身寄りのない子供たちはまだ孤児院にたくさんいる。この状態から火の手を見て戻っても、恐らく逃げ遅れるに違いない。誰かが犠牲になる、その考えはターキーの足を叩き動かすには十分すぎるほどの恐怖だった。
「見えました。あれは――最悪です……炎です!!」
 ソルベが弾けたような声を上げた。藍色の空の下を照らすのは、赤色と紫色の混じった不気味な火の手、ターキーはぎょっとしたように目を見開いた。大きな炎は雲すら飲み込まんという勢いで轟々と燃え盛り、そこに近づけさせないどころか、そこからさらに拡大するという意思を持った、怨念のような火だった。灼熱の炎が柱となり、火の粉が塊となり周りに伸びるまで、時間はかからないだろう。それはすぐそこまで来ているような気がした。開けた場所に見えたそれは――あまりにも大きな炎の塊で、しばらく呆然とする以外の行動を、わからなくさせるほどに。
(最悪だ――)
 ターキーは心中で呟いて、いまさら疲労を覚えたようにがくりと肩を落としてしまう。遠目からみてあれだけの光点があったのだから、これくらい燃え盛っているということは容易に想像できたというのに、心の中で明かりであってほしい、という希望を思い浮かべていたことに、ターキーは唇を噛んだ。孤児院の院長としてあるまじき判断に、自虐を含んだ笑い声が自然に漏れる。
(なんてことだ……)
 なぜ先にまだ眠っている孤児院の子供たちやシスターたちを先に起こさなかったのか、この状況になっていると最低限でも予想して、先導して避難をするべきではなかったのか。その思いは、失踪した三人の子供たちを見捨てられないということが引っ掛かり、一瞬の思考が生んだ行動だった。なぜすぐに決めたのだろう、なぜ躊躇しなかったのだろう。目の前の炎を見て、何もかもが間違っていると気がつくのには遅すぎた。
「院長先生……」
 ソルベの声に無意識に顔を向ける。意思のともった瞳がターキーの顔をとらえた。まだ諦めていないという気持ちが伝わる瞳も、ターキーには伝わることなく、地面の滑った土に視線をそらした。
「院長先生、早く退避を……まだ間に合います」
(無理だ)ソルベはまだ諦めていなかった。まだ生きている、体が動く限りは行動をしなければいけないという切迫した思いが彼女を突き動かしているのだろう。(何もかもが――遅い)ターキーは無意識に首を横に振る。ソルベが叱咤するような声をかけたが、それが聞こえているのかどうかは分からなかった。(遅いんだ、何もかもが……)最初に決断をしなければいけなかった、その決断は一つしかなく、ほかの決断をした瞬間に、もう終わりだということだけ、それが最初に分からずに、ターキーは違う行動を起こしてしまった。いや、とターキーは、目の前の燃える炎を見て思う。最初から逃げる以外の選択肢などなかったということ、そして、最初にソルベが明かりを見つけた瞬間から、この孤児院の近辺が焼け落ち、消滅していくという事実は、半ば確定してるのかも知れなかった。


その1


八月十四日午前六時二十五分三十秒。
その日、バニラはいつものように机に向かっていた。この孤児院を出たい。このくだらない木の塊から抜け出して、さっさと都会に行きたい。その気持ちが、彼女の心を一層強く突き動かしていた。くだらない孤児院、くだらない院長とシスター達、子供というだけでいろいろなことが規制されて、彼女は面白くもなんともない閉塞した生活に嫌気がさしていた。
(くだらない孤児院)
 親と呼べるものがなく、孤独な自分は不幸だ。とも思わない、親がいなければ、ほかの大人たちが親代わりになる。その現実を一年も見せつけられれば、嫌でも理解するだろう、親がいなければ親にとって代わる存在がいる、彼女は現実を見て、さらに深い息をついた。
(早く、都会に出てみたい)
 都会に出れば、閉塞したここでの暮らしよりも開放的な気分になれるだろう。そう思い、今は都会に出るために準備を進める。必要な知識を吸収し、一人で行動できるようになれば、誰も自分を縛るものはいなくなるだろう。そう確信していた。結局のところ、自分が束縛され、閉塞しているのは、自分がまだ子供として認識されているからに違いなかった。
(ふざけてる)
 バニラはぎり、と犬歯を噛み合わせて、口の中を刺す。軽い酩酊感と、口の中に鉄の味が広がる感覚。何度これをやったのかわからなかった。口の中に広がるぬるりとしたものを咀嚼するように舐めあげる、吐き気がしそうだったが、誰かを傷つけるよりはましだった。鉛筆をせわしなく動かし、数式を解いていく。文字を読み取り、数式を書き取り、頭の中に知識を吸収する行為はこの薄汚れた孤児院から抜け出すための「代価」だ。まだ抜け出せないのは、「代価」が足りないからだ、と彼女は軽く息をついた。
「んー、休憩するかな」
 彼女のことを孤児院の子供たちは奇異な目で見ていた。勉強をすることしか能がない子供、遊んでくれないつまらない子供、自慢をするわけでもなく、ただただ知識を吸収するだけの子供。ありきたりな誹謗中傷で、バニラはうんざりしていた。言うのは勝手だが、視線をこちらに移すという行為自体をやめてほしかった。夢のない子供だと思われている。
(夢がないのは、お前たちの方だ)
 この孤児院の子供たちは、自分たちは院長先生たちが養ってくれていると勘違いしている子供たちが多かった。そんなはずがないと彼女は憐れんだ瞳を子供たちに向けることが多く、それが一層彼女を孤独に引いて行く行為となってしまう。バニラはそれを気にすることはなかったが、シスターたちはなぜ仲良くできないのかと問いかける。誰と仲良くしようとも勝手だったし、そもそも一人が好きなバニラは仲良くする必要がないから、仲良くしないだけ、と冷めた返答をシスターに返すだけだった。それではいけない、誰かと友達になりなさい、とシスターは悲壮な顔をしてバニラをなだめるようにそう言い聞かせる。その姿は彼女にとって、とても滑稽なものにしか思えなかった。わけもない苛立ち、何に対してか自分でもわからない焦燥感、冷えて横たわった床に足をつけながら無言で窓の外に手を伸ばす。この手を伸ばし続けて、あと一歩、あと少しで、この閉塞した世界から逃れられる。彼女はその行く末を思う。山野を貫き、孤児院を置き去りにし、都会へと向かうだろうその道。彼女の伸ばした手の先にあるものが、賑やかな街に通じているのだと、知識としては了解していたものの、それは周囲の大人が語る彼女の「未来」のようにひどく現実味を欠いている。
 大人たちはざわめく、バニラはこのままだと明るい「未来」に進むことはできないのではないかと、このままで閉塞したまま大人になっていくのではないかと。バニラはそれを聞くたびに、わけもなく口の中を下顎の犬歯で刺す。自分の行為は、閉塞した「現在」から進み、自由な「未来」をつかみ取るための道。それ以外に思えるところなど何もない。しかし、大人たちはその気持ちがわからない、それが一層、バニラの憤りと苛立ちの種になる。
 時折、静寂を震わせながら都会の方へと鳥ポケモンが駆け抜け、彼女を置いて去っていくのを、どこか自重するような気分で見送る。いたたまれない朝。じりじりと身の置き所のない気分で、それでもその場を立ち去り難くて、東の山の端から日が昇るのを無為に待った。やがてほかにすることもなくて蟲ポケモン達の物憂い声に踏ん切りをつけ、いつものように後ろ髪をひかれる思いで窓から身を放す。ほんの少し、打ちのめされたような気分がして、同時に安堵もする、自分への不可思議。
 今朝もまた、心中に割り切れないものを見つめながら、放置していた数式の問題をひも解こうと再度机と向きあった。延長線上の同じ行為、辛いと思ったら、その時点でこの場所から「抜け出す」という行為を放棄することになる。けして思ってはいけないのだ。
「そう思っちゃダメだ、そうにきまってるから」
 誰にいうわけでもなく、彼女は呟いた。


八月十四日午前四時二十分三十八秒。
ソルトは緑の杣道(そまみち)を息を整えながら規則的な動きで上り下りしている。最近運動不足と言われたのがショックだったのか、今でも心の中で引きずっている節があった。造林を抜け、開けた岩場で時間を計っていたピールに息を切らしながら駆け寄った。
「どうかな?」
時計を見ながら、ピールは少し首を傾げる。
「うーん、前回よりも二分くらい遅れてるね、やっぱり運動不足なのかな?」
「シスター達の話を真に受けないでほしいな」ソルトは苦笑する。「あのおばさんたちはああやって何かと僕をくさすんだから」でも、とピールは笑った。「案外真に受けて運動してるのかと思ったけど、違うの?」
「断じて違うってば、僕は最近運動してなかったから、ペースを保とうとしてさ」
 そんな風にいうソルトを見て、ピールは口の端を吊り上げた。シスターの言葉は子供たちにそのまま拡大して伝わる、そしてもちろん好奇心旺盛な子供たちは、同年代の子供たちに向かってその拡大を口にするのだろう。そんな光景を見て、ちょっとだけ面白いような気もした。
「シスターさんたちの話が、結構拡大したって感じかな?」
「ああ――そうだね。まったく、おかげで昨日は無駄話をしにくる仲間たちで千客万来だよ。いや、たぶん今日も、なんだろうね」平たい岩の上に身を置きながら、ソルトはやれやれと息を吐く。「誰かが僕の運動不足は最近バニラと一緒に遊んでるからだの、体に悪い病気ができただの、僕の部屋の前で鈴なりに好き勝手言ってるよ」
 ピールはなるほど、と苦笑した。
「僕が信じられないのは、その見物席を抜け出して、わざわざそのことを僕の部屋の窓際から知らせに来るやつが少なからずいるってことさ。見物したいなら、そのまま窓の外で僕が何かアクションでも起こすところを見てればいいんだ、なんだっていちいちやってきて、御注進に及ぶのかな?僕が何かを思いつめているとでも思っているのかね、連中は」
 ピールは特に何も言わなかった。ソルトも別段、返答を期待しているわけではないことを、ピールは幼いころからの付き合いで知っている。
「全く孤児院の仲間たちはどうかしている」
 ソルトは嘆くような仕草で天を仰いだ。
「僕の体調のことなんかに首を突っ込んでる場合かって思う。一週間前は驟雨(しゅうう)のせいで孤児院の屋根が雨漏りして大騒ぎだったっていうのに、一週間後にはもう既に僕の体調について話題が鰻昇りだ。雨漏りの話はもうどうでもよくなったらしい」
「みんな他人事だと思ってるんだよ」
「そのとおりさ、噂なんて自分にとってはどうでもいい話題、刺激を求めるための薬みたいなものだから」
 言って、ソルトは息をついた。
「孤児院で変化があれば、祭りか何かのように騒ぐ。こっちがいくらただの食べすぎとか何とか説明しても、日ごろの運動不足がたたったとか、バニラとつるんでるから体のつくりがおろそかになったとか、挙句の果てには体調管理うんぬん以前に病魔に侵されてると嘯く始末だ。一大事だ一大事だと言って、さもこれが自分たちの運命を決定づける重大事のような顔をするわけだけど。その重大事はたった一軒、一週間くらい前に雨漏りだなんだのと騒いでたのと大して変わらない程度のものらしい」
 ピールは苦笑した。
「みんな退屈なんでしょう。変化は歓迎するところ、といったところじゃないかな。本人たちも分かっているんでしょう。これはなんでもないことなんだって。反対に、わかっているからこそ退屈しのぎの娯楽にはなるわけで」
 ご苦労なことだ、とソルトはため息をついた。もちろん。ピールが指摘したようなことは、ソルトだってわかっているのだ。
 実際問題、この孤児院では退屈という言葉に支配されるケースが多い。変化のない窮屈な暮らしの中では、野草を摘んだりすることも厳禁だった。そんな制限された世界で唯一できることと言えば、こうやって朝の早い時間に起きて、孤児院の近場で運動をするくらいが、自由な時間ということだろう。自由な時間が与えられたとしても、結局のところ変化を求めている子供たちは、何かがおこれば我先にと駆けつける。変化が起こった時にまるで珍獣のような目で見られるのをソルトは鬱陶しく思ってしまう。
「ほぼ毎日見るような顔ぶれを、変化が起こった瞬間に奇異の目で見るっていう行為自体がおかしい。そんなに珍しいものが見たかったら、杣道に生えてるキノコでも取ってくればいいのさ」ソルトはもう一度タイムを計るようにピールに促した。「僕たちには刺激が必要かもしれないけど、もっとほかのことで探してほしいなっ――」
 言い終わるのと同時に、浮遊感を抱えたまま、規則的な動きでソルトは駈け出した。残ったピールは、もう一度時計に目をやり、息をつく。虫のざわめきが聞こえる中、顔をあげて空を見上げる。日が昇るころには、もしかしたら猛暑日になるかもしれないという懸念が、頭の中に擡げていた。
「妙なアジテーションさえとられなければ、私はなんでもいいんだけどなー」
 言って、首まわりを拭う。突出した岩のそばには、木刀が立てかけられていた。ソルトが運動をしている間が暇なので、と自主的に始めた素振りだったが、これがなかなか楽しいものだと自覚する頃には、無意識に時間が推し量れるようになった。おもむろに木刀を握りこんで、素振りを再開する。木製の棒が空気を切る音が、周りの静寂にやけに大きく響く。
 退屈、変化を求める。悪いことではないが、それを身近に起こった変化に置き換えてやけに肥大させる子供たちのことを、ソルトは快く思ってない節があった。気にしなければいい、というわけにもいかず、人付き合いもそこそこにあるソルトは、孤児院の仲間内では頼れる兄貴分、という位置付けを押し付けられていた。それがいい方向へ行ったのか悪い方向へ行ったのか、何かとソルトにうじゃうじゃと纏わりつくようになった孤児院の子供たち、同じ孤児院に住んでいる分邪険に扱うこともできず、こうして二人の時だけにソルトは溜めている思いをピールに吐き出している。
 彼も分かっている。差し出すつもりのないものを、無理やりにもぎ取るのは搾取だ。ソルトは断じて、勝手に振られた役回りを演じる気などなかったが。この孤児院ではそれが当然のこととしてまかり通っているばかりではなく、だれも演じさせられているソルトに気づかずむしろそうやって相手の期待を演じることが美徳だと思われているのだった。子どもも大人も、恐らく同じような思考でソルトを見ているだろう。
(孤児院ぐるみの猿芝居……だね)
 孤児院の子供たちは勝手に仲間内での頼れる兄貴分という役回りを、ソルトに振った。だけどもそうしていながら、仲間たちは、ソルトの子分という役回りを演じているだけで、そこには上滑りな夢想しかありはしないのだった。それは切実な希求ではない。たんに頼れる兄貴分の子分たち、という役回りを演じて、自己満足に浸っているだけかも知れなかった。仲間たちは、みんながみんな、一事が万事そうだった。
 だけど――とピールは思った。そんな子供たちもたった一つ、退屈だ、変化がほしいという時だけは本当の顔をしていたような気がした。孤児院はつまらないといい、もっと遠くへ行ってみたいと言っていた。それに関しては本音に見えたし。ソルトも共感可能だったのかも知れない。
 しかし、子供たちは変化がほしい、退屈を払拭したい、などと口で言う割には、具体的なことを思案してないような気がした。大人になって孤児院を出ることができるなら、どれだけ楽しいだろうとピールにも思ったことはあった、しかしそれはまだ先の話で、あまりにも漠然としている。自分たちがいつ大人になるかなど、だれにもわかりはしないのだ。親を早期に亡くし、寄る辺を失った子供たちが集まるこの場所では、子供たちは親というもの間近に見ることなく、他人同士のまま育てられる。ピールもそうだし、ソルトもそうだろう。いくらシスターや院長先生が親代わりだと言っていても、結局のところ行きつく先は他人という壁が大きくそびえている。親身になることも、世話をすることも、他人という壁で一つ隔たりができる。血のつながった大人を見ないからこそ、孤児院の子供たちは大人というものがどのような境界を挟んで成長することなのかが分からない。
 そして子供たちは変化を求め、大人になり、早くいろんなものをみたいと言っている割には、そのための具体的な準備というものを何一つしていない。ただただ速くなりたいと思うだけで、自分たちの成長には無頓着だった。早く出ていきたいと思い準備をしているポケモンは、ピールが知る限り一人しか思い当たる節がない。バニラというエモンガは、この孤児院を一刻も早く出るために毎日下積みを重ねている。とにかくここを出て、都会の方に行くことさえできれば、あとはなんでも問わない、という気持ちがにじみ出ているような気がした。彼女はおそらく、この閉塞した空間から抜け出したい一心で己に知識や実績を積み重ねているのだろう。それはまっすぐでひたむきな気持ちだろう。だが、そんな彼女の姿を見て孤児院の子供たちはまるで奇異なものを見るような眼で、蔑むように後ろ指をさす。その行動が間違っていると言わんばかりに。
 実際のところ、バニラの行動にもおおよその未来性があると言えば、ほぼ無きに等しいが、それでも、と何もしないよりはという思いが伝わっている。それだけで十分、前に進んでいる気はしたし、それが原動力で日々を積み重ねているのなら、それは充実しているといえるような気がする。本当のところは、まだわかりそうにもないが、少なくともピールはそう思っていた。
 結局のところ子供たちは、抜け出したいという思いだけが強く、バニラのようにそれに対する下積みを全くしない人物が多すぎた。おそらく土壇場になれば何かと理由をつけて変節するのだろう。
(私も……あまり言えないけどね)
 ピールはそう言って息をつく。実際のところピールも考えるだけで、バニラのように抜け出したいという思いは持っていない。流れるまま、なるようになるだろうという思いが強かった。ゆえに、思っていて、あとで考えることは。自分もそうなのか、という思いが大きいだろう。
「ただいま、どうだった?」
「……四分遅れてるね」
 がっくりと肩を落とすソルトを迎えながら、木刀を地面に突き刺して、くすり、と微笑んだ。


 八月十四日午前八時五十三分三十秒
「院長先生」
 ターキーは自分が呼ばれたと認識し、その前に掃除を終わらせたいという思いが先行して、聞いて聞かぬふりをした。
「院長先生」ソルベは眥を吊り上げて、じっとターキーを見据えた。気迫に押されて根負けし、やれやれとゴミを吐いていた箒を立てかける。「なぁに、ソルベちゃん」
「雨漏りの修理が終わりましたので、支払い通知書が来ています」
 ごく作業的な手つきで、ソルベはくしゃくしゃの紙をターキーに手渡した。不審げに見据えると、そこにはとんでもない額がのっていた。
「おいおい、なんでこんなに多いんだ?これじゃあ修理というか、屋根の取りかえっていった方がいいんじゃないのか?」
「先生には教えてませんけど、私がお願いしたんです、ほかにも腐ってるところがあったら、取り換えておいてくださいと」
莫迦(ばか)野郎」ターキーは通知書を丸めて、軽くソルベの頭を叩く。「余計なことするな、出費がかさむ」
「ご心配なく、出費は院長先生のへそくりから出しておきましたから」
 さもあらんといったように悪びれる様子もなく、ソルベは口の端を吊り上げた。目を見開いて硬直したターキーを、彼女はなだめるような口調で諭すように話しかけた。
「院長先生、孤児院の者はみんなのもの、みんなのものは孤児院のものですよ」
「最悪だ……硝子を張り替えようと思ったのに」
「まだ硝子は大丈夫でしょう、おしゃれみたいに言わないでください」
 やれやれ、と言ってターキーは孤児院の壁にもたれかかる。
「硝子にもひびが入りそうなほど傷んでるところがあったからな」ターキーは(ふいご)の様な音を出して笑う。真新しい雑誌を取り出すと、ゆっくりと付箋が貼ってある項を開いて、読書の続きをするかのように掃除を放り出す。「掃除はいいんですか?」ソルベの言葉に対して、思い出したように慌てて雑誌を閉じ、いそいそとゴミを掃き取る。
「やれやれ、院長先生。今日はラムネの日ですから、もっと支出が嵩みますよ」
「ラムネはしょうがない、夏場の子供たちの必需品だからな」
 この孤児院の坂を行き来するのは主に、わざわざ子供たちのためにラムネとアイスを運んでくれる業者と、手紙を届ける鳥ポケモン達がほぼ毎日同じ顔触れで現れる。週に二回三回あるラムネやアイスの届けは、夏場限定の暑い時期に子供たちに配給するおやつのようなものだった。その姿がおおよそ夏にそぐわない格好をしていた時は、何か違うものを見るような目つきで、二人して顔を見合わせていたものだと、当初の思い出に少し浸り、笑う。
「あのラムネ売りはすごい格好をしていたな」
「何と言うか、暑そうっていう言葉を超越した感じですね。ただのきちがいか何かに見えました本当に」
 その発言はいかがなものか、とターキーは笑い崩れた。胡乱な格好をしているために、最初は追い払おうかと思ったのは、ターキーも一緒だったが、後ろに見えたラムネの台車を見て、違うと判断するのが早かった。
「まぁ君のいうことも一理あるがね。夏場にあの格好をしていたら首を捻りたくなるのも間違ってはいないしな」
「変、という感じがまさしく似合う。といった風情ですね」
 互いに顔を見合わせて、笑い合う。このシスターとはつくづく気があうと思いながら、経済面では気が合うどころか反り合っていると認識する自分がおかしくなり、さらに笑う。院長という肩書は持っているもの、力の趨勢はこのソルベというシスターに流れているような気がして、少しだけ身震いのようなものも感じる、このまま牛耳られてしまうのかと思っていたが、ソルベはそういう思考を働かせる人物ではない。
「子供は夏は冷たいものを与えると喜ぶものですからね」
 不意に言った言葉を耳がひろい、ターキーは赤いとさかのようなものを掻き、思案する。夏の宵が深くなれば、寝苦しくなる時も多くなり、生活は乱れる傾向が強くなるかもしれない。子どもたちに快適な環境を与えるというのは、この孤児院では限界があるだろう。今はまだ大丈夫だとしても、これから先がどうなるか、ということは考えたくはなかった。
「何とかしなければいけないのはわかっているが、いかんせん切り盛りで精一杯だな。何とかやっている状態だけでかつかつなのに、これ以上増長したら破産だ、破産」
「まぁほとんど破産しかけていますしね」
 ソルベの言葉がターキーの胸に突き刺さる。ほぼ善意で経営しているこの孤児院は、近くの村の一部に取り込まれているはずだったが、村からの仕送りがなければ切り盛りできない状態であり、今年に入ってから右下がりに金額が減る一方で、シスターやターキー自身が、暇を見つけては内職や出稼ぎに出て、何とか食いつないでいるという状態である。この状況を考えて、村から切り離されている、という懸念が頭をよぎる。ソルベの言葉でそれを思い直したわけではないが、今にも朽ちかけた木造の、造林に囲まれた孤児院などはもはや村の一部ではなく、過去の産物として隔離されてしまうのではないかと不安になる。
「嫌なことを言わないでくれ、君は本当に性格が悪いな」ターキーの言葉に、ソルベは眥をつりさげた。「事実を伝えただけですが?それが何か?」
 何かを言いたげに口を開閉させたが、何を思ったのか、ターキーはゆっくりと雑誌に目を移し、思い立ったように口を開く。
「ソルベちゃんは、確か七月の初めの生まれだったっけ?」
「そうですけど……」
「旧だっけ?新だっけ?」
「新です」
「生まれの時刻はわかる?」
宿曜(すくよう)ですか?たぶん明け方だったと思いますけど」
「ふーん、なるほどね」
「なんですかその反応。易者のまねごとなんかして何のつもりです?」
 なんでもない、とターキーは言いたかったが、絡みつくような視線がわけを話せと訴える。その視線に根負けしたように、諸手を挙げる。
「わかったわかった。いやなに、今日の雑誌に書いてあったんだ。易者によると性格は生まれた月と日数と宿曜でわかるらしい。七月の初めの明け方に生まれた女性は乱暴で粗雑な――」そこまで言いかけて、頭部に引っ張られるような痛みを感じる。にこりともせずにソルベは思い切りターキーのとさかのようなものをひっつかむと、あらん限りの力で引っ張る。「知ってますか?院長先生……私は易者の妄言に惑わされる人は嫌いなんです」布を引きちぎるように、とさかのようなものをつかんだ右手に一層力が籠るのを感じて、ターキーは自分の身の危険を感じ、思い切りソルベの手を振り払う。グレイシアの力はそう強くないのか、あっさりと振りほどかれて、ソルベは尻餅をついた。「私を殺す気か、君は」
「莫迦は死ななければ治らないといいますけど」
 ソルベの言葉に対して、ターキーはぞわりと胃の腑から湧きあがるものを感じた。力では優勢に立っているとは思うが、そんな気分になれない、心臓を鷲掴みにされるようなうすら寒さを感じながら、そそくさと自分の状態を整える。
「おっと、そろそろみんなに朝の挨拶をする時間だな、行ってくる」
 脱兎の様に逃げ出すターキーを後ろ側から見つめながら、ソルベは小さく悪態をついた。
「逃げた」


その2


屋根の上でラムネを飲みだしたのは、だれが最初かわからなかった。おそらく一人を好んでバニラが登り、そこにつられるような形でソルトとピールが登り、今のような形が長らく続いたのだとバニラは思う。誰と仲良くなってもいいと思ったし、だれにも好かれなくても別にいいと思っていたが。まさかこんなに親密な関係になるとは思わなかったという風情で、水滴の付いたラムネのビンを指先でなぞり、弄ぶ。
「今日も暑いね、この時間が一番涼しい時間帯かな」
 さあ、と素っ気ない返事を返して、ラムネ開けをゆっくりとビンの口につけて、力を加える。ラムネ玉が押し込まれて、カラン、と綺麗な音を出す。炭酸の気泡が上方へ上がり、少しだけ口から中身が漏れ、指先の汗と混じり合い、滑った光沢を放った。ソルトとピールも同じように力を加えて、やはり同じように少しだけ中身が漏れる。
「どれだけ押し込んでも、ちょっと漏れちゃうね」
「しょうがないと思うけどなぁ」
「いただきます」
 夕暮れ時の時間になっても暑さは体中に纏わりつくようだった。汗を拭いながら、ラムネを口の中に流し込む。口の中を滑って喉の奥までたどり着くときには、ラムネ玉が大量に流し込まれるのを堰き止めて、少しだけ苛立ちが鬱積する。
「このラムネ玉、ほんとに邪魔だな」
「これとったら、ラムネじゃない気がするけどね」
 バニラのそんな言葉に、ピールは苦笑して軽く瓶を揺らす。ラムネ玉がからからと鳴り、音を周りに響かせる。それに反応するように風が吹いて、三人の体を撫上げる。宵に近づいた少し涼しめの風は、夏の熱気で火照った体を冷やしてくれる。心地よい風はこういう高台に上った時あびると、とてもゆるりとした気分になれるとバニラは思う。今日は少し風が弱い日なので、少し強い風はありがたかった。屋根の上にいるということを誰かに誰何(すいか)されるのも興醒めなので、バニラ達は見られないような死角の屋根で、遠くを眺めながらラムネをあおる。
(なんでこの二人と一緒にいるんだっけ)
 夕闇が少し暗くなったときに、少し考える。なぜこの二人と一緒にいることが多くなったのだろうか。孤児院に来たばかりの時は、とにかく抜け出したい一心で勉学に打ち込み、この閉塞した場所から大きく飛び立ちたいという思いを持っていた。その他の関心はほぼ無いに等しく、それゆえに周りから後ろ指を指されたような気がした。しかし、なぜか知らないうちにこの二人と一緒にいることが多くなった。
 勉強の合間に少しだけ二人につきあったり、こうやって自由な時間に三人で悪いことをするのが当たり前のようになってきていることに違和感を覚えない自分が、何だか恐ろしくも思えた。昔はこうではなかったはずだと思うことはないが、それでも自分で自分の性格で二人も友達ができるとは、と思うと不思議な気分だった。
 声をかけるのも憚られるほどつっけんどんな態度をとったという記憶もないが、他人が寄り集まるほど好意的な態度を見せた覚えもなかった。彼女はごく自然に、自分の思うように立ち振舞っていただけだった。その結果が、二人ほど集まっただけだった。
「最近どう?バニラは勉強頑張ってる?」
「んー……まぁ、ここをすぐにでも抜け出せるような状態にはなりつつあるんじゃないかな、多分」
 ピールはそう、と言ってラムネをのビンを軽くあおる。口の中ではじけるような味が広がり、すっきりしたように口元がつりあがる。
「なるほど、私たちと違って、バニラは夢があるものね」
「夢?」
 ここから出ていく、と言って、ソルトはにやりと笑う。
「もっと先の未来では変わるかもしれないけど、今のところの目標はそれだよね?……目標に向けて日々邁進できるなら、すごいよね、将来が見えてる」
 そう言われると、この二人となぜ一緒にいるのかを思い出した。この二人は、初めて話しかけてきたときに、なぜ毎日勉強をしているのか、という質問を投げかけられた。他の子供たちも同じように聞いて、勉強が好きだからと返答を返したら、ありふれた反応が返ってきたので、そんなものか、と思っていた。答えないというのは選択肢の中に入っていたが、それをする必要性がなかったので同じように、勉強が好きだから、とだけ言うと。なるほど、と二人は頷いたことを思い出す。他の孤児院の子供たちとは違う反応に、少しだけ興味を持った時だった。
――勉強をしてればいつかは自分のやりたいことが見つかるから、君は僕たちよりも未来に進んでいるね。
 確かそういった気がする。と指先でラムネの瓶を弾きながら、薄暗い雲がかかった空を見上げた。バニラは初めて、自分の行動を肯定し、理解してくれたという思いが大きくなり、二人のことが好きになったのかも知れないと思った。そうでなければ、恐らく今も一人で空しくラムネを飲んでいただろう。
「空を見て手を伸ばしてると、ほんとにここから抜け出せそうな気がするね」ピールの言葉に、バニラは頷いた。「うん、ここから抜け出せたら、きっと楽しいかもしれないね」きっと楽しい、という言葉は、抜け出すことができないから、仮説でしか成り立たないことへの強い憧れも含まれているような気がしてならなかった。「いっそのこと、今から本気で抜け出すか?」ソルトの大胆な発言に二人は苦笑する。
 実際、抜け出したいという思いはあったかもしれない。ばれないようにこっそりと抜け出して、造林の奥の方へ散策に出かけたい。いろいろなものを見て回り、満足したいという気持ちはあった。都会に出る道は閉塞されて抜けられないが、近場の冒険すら制限されたこの場所では。近場だけでも冒険する価値がある、と思わせるものところどころにあふれているだろう。
「抜け出すなら、もう今日は遅いよ。明日だね」
「ああ、もし抜け出すなら、またこの屋根の上に集まるか?」
「本当に抜け出すなら――ね」
 もちろん、ただの冗談だろうと思うし、たぶん明日になったらまた同じような行動をとると思っている。全員がそれを暗黙の了解の様に心得ているからこその、他愛のない脱出の計画。宵が深くなるにつれて、悪いものが跋扈する、などとシスター達には脅かされているが、実際そんなものこの近辺に出ることすらない、結局は、行動を規制するための口合わせの様なものだ。行動を制限されているから、そもそも確かめに行けようがない。空になったラムネの瓶を両手で弄びながら、バニラはぼそりと口にする。
「明日――ね」
 その言葉には誰も反応しなかったが、誰もが分かっているように、瓶を強く握りこんでいた。


 夜に明かりをつけて、同室で眠っている二人を起こさないようにバニラは数式に取り掛かる。すでに終わった勉強も、今日の時間で教わったことも、もう頭に叩き込んでしまったことばかりで、全く違う上の数式を解き明かすことに勤しみ、せわしなく鉛筆を動かす。
 (こんな孤児院、すぐに出て行ってやる)
 勉強を始めるといつものように思い浮かぶ、外への渇望と、閉塞への鬱屈、悪態をついて、下顎の犬歯で口内を刺す。じわりと広がる滑りと、軽い酩酊感がますます感情を高ぶらせた。数式を解きながら、口の中をゆっくりと舌が動きまわる。這いずるような感触に辟易しながら、それでも右腕はしっかりと動かし続ける。知識を吸収したくらいでは、おおよそここから出ていけるという大きな確信はない。脱出計画と呼ぶのも馬鹿らしいが、少なくとも持っていて悪いものではないことを、彼女は理解していた。同時に、理解していないにも関わらず、それを指摘する孤児院の仲間たちやシスター達を見ていてやはり苛立ちが鬱積する思いが駆け巡る。
(ほんとに、くだらない)
 勉強ばかりしていると、いい大人になれない。友達と遊んでばかりいても、いい大人になれない。どちらが正しくどちらが間違っているのかはっきりとせず曖昧模糊な返答を投げつける。理屈をこねくり回す子供は悪い子供で、屁理屈を垂れ流す大人は咎められない。不条理の塊がはびこるこの世界、大人は何をしてもよく、子供は何をするにしても制限され、檻のような場所に閉じ込められる。初めてきたときに、シスター達は親代わりだ、と院長は言った。そんなの嘘ばかりだった。シスターは親代わりなどではない、制限された日常、満足に動くこともできない狭い世界。孤児院という檻の中で、シスターという名の飼育係は言葉で惑わす、そう思わせるほどに、この孤児院という場所は他人に対しての壁を作り上げている、気がつかないものには絶対に気がつかないほどの、巧妙な壁がそびえている。そしてこの孤児院の子供たちは、まるで食用の家畜のように飼いならされた生活をして、それに疑問を抱くことなどない。少なからずの退屈はあるが、それだけだと思っている節があり、それがバニラには耐えられない。
 自分は違う、と思っても、結局は他の仲間たちと同じ、この檻から出られない。だからこそ、自分はだれよりも早く「抜け出す」のだ。と決意を固める。宵の深さに反比例して、心の中は熱く燃えている。白昼のかんかん照りを思わせるような意気込みとともに強く朱塗りの六角を握り直した時、窓の外からぬるりとした()が見えた。ゆるゆると伸びて、窓の外からまるで見ているような揺らめきが、バニラの視界に入り込み、暗がりに光る金色と、滴るような緋が揺らめく。唆す様な焦れた緋の前に、彼女の感情は鈍麻した。
(なんだ、あれ――?)
 真っ先に思い浮かぶのは、生き物であるかどうか、こんなところまで悪所働きを行う人などいはしない。閉塞した場所は一部のものしか知らない、という認識を受けている。そもそも、なぜこの時間に明かりがともるのか、それを最初に考えなければいけなかったのではないか、薄闇に目が慣れて、ゆっくりと緋の全容が視界にぼんやりと映る。体が蝋のようなもので塗り固められたかのような印象を頭が拾ったが、蝋そのものと気がつくころには、その蝋はぎょろ、と瞳を動かして、造林の奥を見つめ、悲しそうな声を出した。
――お母さん。お父さん。
 声にならない声がしわがれた呻きとともにおし出る。固いものを叩きつけられるような感触が背中に襲い掛かり、それが椅子が倒れたのだと認識する頃には、後頭部に鈍い痛みが走った。けたたましい音を立てて、木製の椅子が高い音を夜の孤児院に響かせる。消灯時間を過ぎても起きていると怒られる、怖いわけではないが、自由が奪われるのは勘弁だ、と心の中で舌をうち、あわてて椅子を立て直すと、ゆっくりと椅子に座り、机に突っ伏し、規則的な呼吸を立てる。木の板がきしむ音、ランプの金属器が揺れる音、心臓が口から飛び出そうになる、動悸が高まり、頭に血が昇る。ゆっくりとドアが開けられる音を聞いて、いよいよ追い詰められたような気分になりながら、冷汗が体を伝う感触を感じた。
 見回りのシスターはきょろきょろとあたりを見回し、机に突っ伏しているバニラを見つけると、渋い顔を作った。「やれやれ、またお勉強のしすぎで机で寝ちゃってるわね」そういうと、何事もなかったかのようにドアを閉める。足音が消えるまで心臓はとび跳ねるように動き、体中を緊張が包んでいた。
(さっきのは――)
 慌てて顔をあげ、窓の外を見たが、もう姿は見えなかった。夜闇に映る造林が、嫌に恐ろしく思えた。宵に浮かぶ金色、滑った緋、およそこの世のものとは思えないようなものを見た気分になり、どっと疲れが増した気がした。息をついて額の汗を拭うと、後ろのベッドが少し軋む音がした。心臓を鷲掴みにされるような思いで体が硬直する。恐る恐る後ろを振り向くと、寝ぼけ眼のピールが、目をこすりながらこちらを見ていた。
「どうしたの?すごい音がしたけど」
「いや……」
 なんでもない、とはいえない。なんでもないなら、あんなけたたましい出来事は起こらない。背中にまだうすら寒いものが残っているのを確認して、息をつく。起こしてしまったことに対して、少しだけ頭を下げた。
「うん、大丈夫だよ。でも、バニラも勉強ばっかじゃなくて、少しは体を休めないとね」
「夜の方が捗るんだ」
 わかってる、と言って、ピールは大きな欠伸を一つする。もうとっぷりと宵が深くなる中で、まだ起きていたことに対して驚く様子もなく、にんまりと破顔する。
「夜は光が隠れるから暗いのか、それとも闇が立ち現れるから暗くなるのか、どっちだろうね」
「どちらがどうでも」高鳴る動悸を抑えながら、何とか返す。夜闇の中で、なぜ彼女がこんなことを言うのかわからず、無意味に心臓が締め付けられた。
「では、人の心はどちらだと思う?」
「またそんな理屈を」
「君には負けるさ」揶揄を含んだ口調で、くすりと笑む。うすら寒いものを感じながら、言葉に耳を傾ける。「ずっと不思議に思わないかな?昼夜の世界は、どちらが正しいのかなって。昼であるべきものを、闇が食い荒らして夜が来るのか、夜の闇を、地金が見ないくらいに塗り固めて昼が来るのか。どちらも正しいのか、昼と夜を繰り返すのが本当なのか」
「お月さまの満ち欠けと同義の問いだね、月はなぜ痩せるか、なぜ太るか、それと問うてどうなるって」そういうと、違いない、というように苦笑い。口元を指で押さえて、薄い線をなぞるようにつ、と動かした。「確かにそうだけれどね」いいながら、ゆっくりとベッドから身を下ろし。軽く息をつく。「繰り返しが正しいのなら、人の心はどうだろう。人の心は闇に堕ちても誰もそれを褒めてくれない。そして昼でいることが正しいようなたち振る舞いをする。繰り返しが正しいのなら、どうして闇も認めようとせず、昼ばかりでいようとするのかね」
「君は悋気(りんき)や嫉妬を知らないのかい?」
「知っているとも、だけれども、それは心の中にある黄昏さ。闇というのは常に暗いもの、そして一見穏やかなものさ」
「そしてその底にあるものが、魍魎」
 そう、と言って、ピールは怪しい笑みを湛えた。答えを導かせるのに謎かけの様な言葉回しをするのは、彼女の癖のようなものなのか、今でもわからない。
「何か見ただろ?深い深い夜の世界で」
「別に……何も」声が上ずって、しゃっくりの様に裏返る。あわてて口元を押さえて、静かに視線を移す。くっくと、ピールは笑いを堪えているようにもみえた。月の明かりが窓から差し込んで、二人の輪郭をくっきりと写した。
「夜が深くなればなるほど、闇に魅入られやすくなる。上澄みでも滓でもない平坦な暗さが、逆に惹きつけるのかも知れないよ」
「夜語りなら、もう少し理屈を省いてくれないかな」
「たまには理屈も聞くものさ」そう言ってピールは腰についているホタチを片方とって、月明かりに照らす。「怖いものを見てもバニラなら大丈夫かもしれないね、だけれども、常闇の住人達は魍魎。闇に跋扈する。それが人であれ、物であれ、それは闇の住人、見てしまったのなら、あまり長く夜を感じない方がいいかもね」
「だから、違うってば」
 くす、ともう一度笑うと、ピールは小さく、おやすみ、といった。


その3


その日の夕方、バニラは屋根の上に登る。一日の行動がとても抑制されているような気がしてならなかった。何をするにも、昨日の緋とぎょろつく金色が頭の裏側に張り付いて、ゆっくりと焼きついたものが思い起こされる。闇の中で見えた、滴る緋、悲しそうな声でつぶやいた、言葉。何を意味するのかわからず、頭を抱えていると、屋根が軋む音が聞こえる。ゆっくりと後ろを振り向くと、同じような顔ぶれがそろっている。昨日今日で変わらないのも、変化のない日常だろうと、頭は認識した。
「や」
「登ってる姿を見たから、つい……な」
 そんな二人に苦笑いを浮かべながら、改めて遠くの造林を見る。何の変りばえもない、見慣れた常緑樹の数々、この閉ざされた場所から見える唯一の自由な視界も、今日に限ってなんだかぼやけて見えるようだった。瞳をこすりながら、バニラは考える。静謐な夜だったのにもかかわらず、恐ろしいほど現実味を欠いた揺らめきを見たとき、自分の思考はどこか別の方向へ連れ去られてしまったのかも知れなかった。何をしても揺らめく緋が消えない。その気持ちが、ますます思考の濁流を加速させた。あれが何だったのか、それだけが彼女の頭の中に色濃く残った。
「何か見たのかな?昨日の夜中」
「いや、別に何も見てない」
「視線が泳いでるよ、バニラ」
 二人に問いただされる様に口を開かれて、バニラはますます顔を鬱屈とさせた。干渉をしてほしいというわけではないが、顔に出してしまった以上思いは払拭した方がいいのか、少し決めあぐねた。たとえ話したところで、現実ばかりを見て、いきなりそんなものが見えたと言って通じるか、そもそもこんな笑い話にすらならない話をしても、しょうがないのではないか、という思いがある。閉塞した場所から抜け出したい、という思いで計画性のない行動を繰り返した自分がそんなことを言うのは、他人から見た自分自身の姿にそぐわないと思われるかもしれないと思い込んだ。
「……あの――いや、なんでも……」
 言いかけて、視線が合った。忘れるはずのない、昨日と同じ金色、滑り付く汗がしっとりと冷えて、腹の底からぞわりと湧き上がるものが口の中まで上りつめて、思い切り口内に下顎の犬歯を突き立てる。ぬめりと鉄の錆びついた味が、口の端から漏れて、心臓が高鳴る。隣にいた二人が驚愕したように眼を見開いた。
「バニラ」
「お前、何やってんの」
 二人の声が聞こえたが、そんなことは気にも留めなかった。屋根から落ちそうになるくらい身を乗り出して、ぐっと目を細める。ぎょろぎょろと金色の瞳を動かしながら、昨日と同じように、蝋燭は悲しげな声を出す。
――お母さん、お父さん。
 不快感がこみ上げた。なぜ両親のことを呼ぶのか、なぜそんな言葉をわざわざこちらに見せつけるのか、二人もその声に気がついたのか、あたりを探すように視線を動かしているが、見えていないのか、やはり首を傾げるだけだった。
 バニラは口の端を舐めあげて、ゆっくりと体を起こす。屋根が軋んで、びくついたように蝋燭がこちらを向いて、目を細めた。
「おい」声を変えると、びくり、と体を震わせた。蝋が少し飛び散り、揺らめく緋が風にさらされたように消え入りそうになった。そのまま体を動かして、造林の奥に逃げるように消えていく。「待てよ」声を大きく上げたが、待つ気配はない。動きを止めるどころか、もっと早く動き出す。日が落ち始め、造林にぽっかりと浮かぶ蝋燭は、遠目でもよく見える。悲しげな口から、また言葉が漏れる。
――お母さん、お父さん。
(ふざけるな)
 軽く舌をうち、勢いよく両手を広げる。エモンガの特性上、高い所から降りるときに、滑空すると速いのを重々理解している。向かい風が来ないことを祈りながら、思い切り飛び降りる。
「バニラ」
「ちょっと、どうしたんだよバニラ」
 後ろをちら、と見やる、驚愕しながらもバニラの後を追うように屋根を勢いよく飛び降りる、ピールは何か躊躇するような行動をとったが、結局そのまま屋根から落ちるように滑った。その顔には、何か狼狽したようなものさえ浮かぶような感じもした。速度を落とすことなく、大きく右に反る。木々の間をすり抜けて、小走りに動く蝋燭を視界にとらえる。おおよそ、生きているものの足の速度ではないことに、ますます背筋が寒くなった。
(こいつ、何なんだ)
 頭の中に浮かぶのは、異形の形、追い抜くこともできず、ただついていくことしかできないまま、木々の枝で高度を調整しながら、彼女の空色の瞳はひた走り続ける蝋燭を追い続けた。


 急に動き出した彼女を全速力で追い続けながら、大きく息を吸い込む。昨日の今朝よりも走りにくく、見慣れない杣道をおぼつかない足取りで進むのは、体がもつれるような気がした。
「いきなりなんで、走り出したんだ」
「わからないよ、だけど、いいのかな、私たち、造林を抜けちゃうよ」
 ピールは視界から小さくなる孤児院を名残惜しげに見つめながら、息を弾ませる。「そんなに気になるなら、ピールは戻ればいい。何の関係もないんだし」関係がないのは、ソルトも一緒のはずだ、なぜ仲間の輪から外したがるのだろう。そう思うと、妙に腹立たしかった。「嫌だ、絶対に戻らない」
 そう頑な言い放つと、ソルトはわかっているかのように頷いた。
「そう思ってるなら、黙って走った方がいい。空よりも地上の方が、周りに余計なものがあるんだから」
「先に話しだしたのは、ソルト」
 違いない、と苦笑してから、首周りの汗を拭う。走り続けているうちに、すっかりと日が落ちて、あたりには宵の気配が漂い出した。体中をうすら寒い風が撫でつけて、ゆっくりと闇に引きずるような感覚が脚先から頭の点までをすり抜ける。思わず身震いをして、ピールは大きく息を吸う。
――宵の深さは、闇の深さ。
 自分の言葉をいまさら反芻して、妙な心細さが付きまとった。体は熱を帯び、汗だくだというのに、心は底冷えするような冷風が吹きつける。夜というのはそういうものだと認識していたが、実際に味わうとなると、やはり何かおぞましいものが付きまとう様な気がしてならなかった。孤児院に戻り布団をかぶれば、これほど安らかなものはない、しかし、夜には百鬼魍魎が潜んでいる。それでいて菩薩の様な顔をして夜は過ぎていくものだから、安心という言葉は宙ぶらりんになって彷徨うのかも知れない。
 いた、とソルトが高く声を上げた。何刻を走ったのかわからないほど、あたりは静まり返り、蟲の声が茂みと揺れる音とともにざわつく。耳にこびり付く様な音を聞きながら、拾った声に視線を合わせると、バニラがいた。
「おい、お前、なんで僕を見てた」
「あの、僕、お母さんとお父さんを」
「こっちの質問に、答えろ」
 子供を脅しつけるような口調で、息を荒く顔を近づける。バニラの剣幕に押されている生き物を、ソルトは記憶していた。ヒトモシと呼ばれる、不思議なポケモンだ。
「バニラ」声をかけると、険しい顔をこちらに向けて、睨むように視線を移動させる。凄みに怯むように、息を整えながら少しだけ下がる。「おいおい、そんな剣幕をこっちに向けないでくれよ」
「こいつが質問に答えないんだ」
 指をさし、有無を言わさない口調で強く主張する彼女を見て、ソルトは眉根を寄せて、口から息を漏らして笑う。
「君は、いきなり知らない人に対してそんな行動とるのかい。ある意味ステップを大股で飛び越した過剰なスキンシップだね、孤児院のシスターが見たら泣いて喜ぶんじゃないかな?」
「ソルト――」何かを発しようとした口を、ソルトは言葉で塞いだ。「まず落ち着く、そして説明する。そうじゃないと、バニラ、傍目から見たらきちがいじみてるよ」辛辣な言葉を受けて、少しだけ口を尖らせた。「むむ、だけど」いい淀み、言葉の接ぎ穂を必死に探すように、口をもごもごと動かす。足元を見て、少し息を吐いた。結局思いつく言葉は頭の中で千々に乱れた。諦めるように息を吐いて、天を仰ぐように視線を空に移す。遮るものが何もなくて頭の天辺ばかりを見るのは奇妙な気分がした。「わかったよ、僕が、悪かった」
 慇懃無礼に頭を下げる仕草を見て、やれやれと息を吐く。まるで謝る気持ちがこもっていないが、それが彼女なんだと割り切る。他の人ならもしかしたら怒っているかもしれないが、このくらいのやり取りはもはやソルトたちにとっては日常茶飯事のようなものになりつつあった。
「でー、結局何があったの?」
「僕は、昨日こいつを見たんだ」
「このヒトモシを?」
「ヒトモシ?」
「勉強不足だね、種族名はヒトモシ、蝋燭のなりをしているけど立派なポケモンさ」
 勉強不足、という言葉には特に難色を示さなかったが、何か違うことに、驚愕しているような顔をしていた。ヒトモシとソルト達を見比べて、まるで見えているのが不思議なくらいだというような感じだった。
「ソルト、見えるんだ?」
「ん?何がだ?」
「いや、何でもないよ」
 そう、何でもない、という風情の顔をして、下を見下ろした。身長的にはこちらの方が高い部類に入るが、そう変わりはしないものの、見下ろすというのは気分的に軽蔑するような行為に見えて、少し暗澹としたものが垂れこめた。
「で、なんだってまた、ヒトモシなんて見たのさ?」
「見たっていうか、視界に入ったって感じだった」
 バニラはその時のことを思い出した。夜闇に浮かんだ白、ぼんやりとした金色の瞳に、滴るような緋が揺らめく。今見てみると、蝋燭の炎はゆるりとした紫をたたえていた。視界がぼやけていたのか、それとももともと記憶に入れていた色が違っていたのだろうか、それがわからないまま、バニラはもう一度ヒトモシと呼ばれた蝋燭を見据える。なぜ自分を見ていたのかが分からずに、そのまま話を続ける。
「昨日勉強してたらさ、こいつが視界に入って、なんか妙な怖さがこみ上げたんだ、なんだかよくわからないけど、今日一日は何にも集中できなかった。見つけたら何してたか聞きだそうとしたけど、こいつが逃げたから」
「おっかけたってか」
 頷くバニラとヒトモシを交互に見ながら、溜息をついた。
「君の名前は?」
 ピールが代わりにヒトモシに問いかけると、少しだけ畏怖するようにヒトモシは半歩下がる。「大丈夫、バニラみたいなことしないから」対象にされても特にバニラは何も言わなかった。顔は少しだけ顰めて、唇を尖らせている。「お前のせいだろ」苦笑いをしながら、ソルトはバニラを小突いた。
「ぼく……ペパーです」
 ペパーと名乗ったヒトモシは少しだけ恥ずかしそうに、おずおずと頭を下げる、蝋燭の火が少しだけこちらにより、夏の宵の暑さをさらに加速させるような印象を受けた。
「そう、ペパーはどうして私たちの孤児院の近くにいたの?」
「わからない」
「わからない?じゃあ、自分のお家は?」
「この先の、おうち、でも僕、入れない」
「なんで?」
「わからない」
 そこまで聞いて、思案するように首を捻った。こうわからないの一点張りでは、何を聞いてもおそらく答えられないだろう、どうしてそうなった経緯というのかが分からなければ、わからないだろう。
「じゃあ、何をしにこのあたりをうろうろしてたの?」
 質問を変えると、それには答えられるのか、はっきりとした声で、意思を示した。
「僕、お父さんとお母さんを探さないといけないの」
「迷子かな?お父さんとお母さんはどこにいるの?」
「おうちの中に、いる」
「でも君は入れないんじゃないの?」
 ペパーは頷く。何とも珍妙な話だった。入れないということに対して、それは自分が入ることを拒んでいるのか、それとも「家」が侵入することを快く思ってないのか、そのあたりの境界線は微妙だった。
「お父さんとお母さんに会いたい……僕、僕のことが分からない、お父さんとお母さんが、知ってるから、会いたい、でも、家にはいれない……家の中に、いるのに、入れない。大切なものを探したいのに」
「ふむ」思案顔をしていたピールの横から割り込むように、バニラが声を出した。「入れるかどうかは行って見ればわかる。もしかしたら閂が抜かれているかもしれないじゃないか」びくり、と体を震わせて、ペパーはピールの後ろに隠れて震える。「脅かさないの」いいながらも、バニラの意見には賛成の意思を見せる。「確かに、この刻限になればさすがにお家の門は空いてると思うよ。不審者じゃなければ大丈夫だよ。お母さんやお父さんも分かってくれると思うよ」
「ほんと?」
「ほんとほんと、私たちがついてあげるから、そのお家に案内してよ、ちゃんと門が空くまで、私たち見ててあげるから」
 しばらく考え込むように体をゆすり、やがてペパーはにこやかにほほ笑むと、嬉しそうに頷いた。
「うん、ありがとう、お姉ちゃん達」
「どういたしまして」
 ほほ笑むピールや、納得するまで付き合うというバニラとは裏腹に、ソルトは遠目で見ながらうすら寒いものを感じていた。
(何だろう、嫌な感じだ――)
 深い闇の中ではほとんど人眼をつかず、悪鬼悪霊が跋扈する。そう冗談めかして言っていたのは他ならないピールであり、それをまた同じように冗談めかして聞いていたソルトは、急にそれが冗談ではなくなりつつあることに違和感と、恐怖を感じていた。何か場違いな空気が周りに垂れこめているというのに、だれもその異常に気がつかない、喉元からこみ上げるものを何とか抑えて、唾と一緒に飲み下す。
 家に入れない、思い出せない、ということに対して奇妙な引っ掛かりを感じた。なぜ入れないのか、なぜ思い出せないのか、明確な理由がなければ、子供を放り出す親がいるという事実を、こうも簡単に受け入れられるはずがなかった。自分自身の曖昧な記憶を信じて、戻りたいということも引っかかる。何かが間違っている。どこかで修正しなければいけない。このまま流れていったら、きっと取り返しのつかないことになるに違いない。
 でも、とソルトは思った。結局思っただけで、何ができるというのだろうか。何かを思ったところで、自分一人ではどうしようもできない。非常に無力だと思いながらも、結局はついていくことしかできない自分に少しだけ辟易した。


 家、というよりは、その外観は洋館に近かった。豪勢な屋敷がそびえ、門扉にもしっかりと不思議な文様が施されている。ソルトはそれを見たときに、何か知っているような紋様だと思ったが、それが何かはわからなくて、どうでもいいことだと頭の隅に押しやった。
門扉を軽く押すと、まるで滑るように開いて、招き入れるかのように三人を通した。「なんだ、開くじゃないか」拍子抜けしたようにバニラは口から息をついた。もしかしたら、家の扉が開かないのかも知れない、という意識はそこで完全に途切れた。建物に続く白洲の道の両脇には瓦斯(ガス)灯が点されていた。明るい道を歩きながら、何が不安になるのかわからず震えているペパーを見て、バニラは少し眉根を寄せた。
「さっきさ、両親のことを呼んだでしょ」
「う、うん」
「そんなに大事なの?」
「うん……」
 その言葉を少しだけ力強く、少しだけ嬉しそうに言うペパーを一瞥すると、そう、と言って、バニラはそれ以上の言葉を話すことはなかった。瓦斯灯の明かりだけを頼りに、長い道を進んでいく中で、少しだけ舌打ちをした。両親のことを呼ぶだけの愛情を、少なくともこのペパーという人物は受けていたのだろう。それがますます、気に入らなかった。
(ペパーは、自由だ)
 このポケモンは、少なくとも自分の意思を持ち、自分の思いのままに行動できる自由がある。それは親の愛情を受け、健やかに育った証拠なのかもしれない。ペパーほどの子供は、野山を駆け回るくらいがちょうどいいのだと、彼女は思っていた。ただ単に、自分が閉塞した世界にいるために、そのくらいがちょうどいいという認識を持っているだけなのかもしれないと頭の片隅に置いておく。
 だからこそ、院長やシスター達に自由を剥奪され、満足に動くこともままならないまま、孤児院の中で飼いならされる自分と、外に出て、自由に周りを歩き回り、そして刻限とともに家に帰る。迎えてくれる親がいて、温かい家庭が存在するその世界は、バニラが生きてきた場所とは世界が違う印象を受けて、ますます面白くない顔をした。恵まれているのに、迷子になって泣き出すとはどういうことだと憤慨さえした。
(わかってるさ)彼女は言い聞かせるように胸に手を当てる。夜の温風が頬を撫でつけて、少し気が安らいだ。(ペパーはペパー、僕は僕だ)それがわかっていながらも、ペパーに対してそういう態度をとるのは、やはり自由を諦めきれない自分の煮え切らない思いの表れなのか、それとも後ろ髪をひかれるような思いで手ぐすねを引いて自由を待ち続ける自分の哀れな行動に対しての嘲りなのか、それはわからなかった。
 ペパーは両親のことを大事だといった。はっきりとものを告げられるということは、その告げる対象に対する思いが強ければ強いほど、意思が反映されるだろう。ペパーの言う両親というのは、強い思いを残すほど、子供によい働きを齎したのだろう、それがますます、自分自身と比べて比較するような眼をしてしまい、鬱蒼と顔を曇らせた。親の愛情を知らないまま拾われ、檻のような場所で窮屈な愛を押し付けられるような形で受け続けてきたバニラは、ますます孤児院の場所と、ペパーの家を見比べて、「抜け出したい」という気持ちが強くなった。
「風が強くなってきたね」
 ピールは心細くひとりごちる。白洲の道は美しく、夜の世界には不釣り合いなほどの色をたたえる、それが逆に不気味に思えて、背中を丸め、寂しくソルトの後ろにつく。まるで乞食か物乞いのようなみすぼらしさが背中をかすめたが、怖いものは怖い、この屋敷の門扉を開けてから、自分の按配は右肩下がりに落ちているような感覚が胃の腑から流れていく。寒さに身を震わせるならまだ震えていてその気が紛れるかもしれないが、夏の夜は蒸し暑さが増すばかりで、気持ちの悪い汗がとめどなくあふれ、薄気味悪さを益々加速させた。
「どうやら、ついたようだ」
 大きく息を吐いて、ソルトは遠目からみた洋館の扉にたどりついた。左右を見渡すと、退魔像のように不思議なポケモンの像が左右に置いてある、それが何を意味するのかわからないが、妙な違和感を感じ取り、少しだけ踏み出すことを躊躇した。
「ここの扉が、開かないのか?」
 その言葉に対して、ペパーは首を横に振った。「さっきの扉が、開かなかったの」それを聞いた時、背筋が凍るような思いで慄然した。あかない扉があいたとき、閂が抜いてあるかと思った。しかし違う。もしかすると――
(この屋敷は……)
 昔の本か何か、風の噂だったかわからない話をソルトは思い出した。無人の屋敷に誘い込み、欲のあるものをとり殺す家、それは家内の怨念やら思念やらで塗り固めた。意思のある家。その意思が、家本体そのものか、それとも家内のものかはわからない。少なくとも、感じて安らぐということはまずない。
「戻ろう。もしかしたらこの屋敷は――」
 後ろでけたたましい音が鳴り響いた。微風しか吹いていないというのに、何の前触れもなく、出入り口の役割を果たしている門扉が、閉じた。ヒッ、とピールは声を上げる。バニラもぞわりと体に怖気が走るのを感じた。ソルトは、感じる前に全員に注意を促さなければならなかった。と後悔した。
 この家は――
「マヨヒガだ」
誰にいうわけでもなくひとりごちた。バニラは聞いていないようだったが、ピールは眉根を寄せて、その言葉をかみ砕いているようだった。
 マヨヒガに迷い込んでしまった以上、家の中に入り、家の思念をすべて浄化しなければ、出ることなどできはしない。それがわかっていながらも、思念がどんなものなのかわからずに、逃げることも、助けを求めることもできない状況に、何かの終焉を告げられているような気分になった。夜の蟲の声が、豪勢な屋敷に、やけに大きく響き渡っていた。


その4


 門扉が閉じ、家の閂が開く音がした。招き入れるような音を聞いて、肩をゆする。ピールは、何かがおかしい、と気がつくことなく、「異常」の中に入り込んでしまったと思った。
それがおかしいと感じる頃には、もう既にその「異常」にとり憑かれている。冗談とも思えない寒さが身に刺すように吹き上げ、足先から頭の天辺まで底冷えするような思いが駆け巡る。
「この家、僕たちに入れって促してるのかな……」
 深い恐怖の中で、だとしたら、とバニラは思案した。なぜペパーは入ることを拒まれたのだろうか、それが分かれば、この家に纏わりつく何かの本質が見えるかも知れない、と考えた。
「兎にも角にも、この家の中に入ってみないと、わからない」
「入るのか」ソルトが躊躇したようにバニラに肩を置いた。もちろん、と頷いた彼女を見て、やれやれと溜息をもらしたのを視界にとらえる。「どっちにしろ、門扉が閉じちゃったんだから、出ることはできないじゃないか。このまま進むことしか、僕達にはできないんだからね」そう言ったものの、ここが何なのか全く分からずに、うすら寒いものが駆け抜けて、少し体が震えた。
「お父さん、お母さん……」
 ペパーは信じられないといった風情で、あいた扉の暗闇を見つめた。自分は入れないのに、なぜ他人は入れるのか、そのことに悲しんでいるのか、それとも拒まれたのに、他人は受け入れるということに対しての愛情の移動に対して嘆いているのかはわからなかった。
「そんな顔をしたってしょうがないじゃないか、両親にあったら、ペパーが言ってやればいい、どうして入れないのか理由を聞いて、それで納得できなければ、喧嘩だってすればいいじゃないか」
「喧嘩?」聞きなれない言葉を聞いたかのように、首を傾げるペパーに、バニラは頷いた。「そう、自分の主張を相手に伝える一つの方法さ、口で言っても分かってもらえないなら、行動で分からせるしかないじゃないか。親と子供って、結構相容れないものが多いと思うよ。だから、ペパーが自分が間違ってないと思うなら、両親と喧嘩をするのも大いにありだと思うよ」
 聞きなれない言葉と、不思議な響きをしばらく吟味していたが、ペパーは意を決したように、軽く頷いた。
「う、うん。僕、喧嘩してみる」
「よし、いい心がけだ」
 そう言って笑う。両手でペパーを抱き上げて、前に持つ。ペパーは慣れない行動に一瞬戸惑ったものの、すぐにそれを受け入れて、居心地のよさそうな顔をした。
「なんだかんだいって、結構打ち解けてるみたいだね」
「うん、そうだね――ところでさ、ソルト、マヨヒガって、本当?」
「確証はないけど」ソルトは息を吐いた。家の外観を見渡しながら、きょろきょろしているペパーたちに聞こえないような声で、耳打ちをする。
「もしこの家の所持者の思念がマヨヒガになるために形成されたものだとしたら。ペパーはもうこの世にいない存在かもしれない」
「マヨヒガの伝説は知ってるけれども」耳打ちをしながら、聞いた伝承を思い起こした。迷い人が無人の家にたどり着いたとき、しばらく休ませてもらおうとし、家の家主に感謝をしながら一泊をした。家にはきちんと整備された庭、金目のものや豪華な食事、そして心身共に休める空間があった。が、旅人は食事をとり、ただ就寝しただけ、その次の朝、家を訪れた記念として、お椀を一つ持って帰ったという話。そのお椀で米をすくうと、いくらすくっても減らなかったという有名な物語だった。
「マヨヒガは無欲な者には益を齎し、欲望ある者には罰を齎す」
「それが嘘かほんとかは、入ってみなければわからないけれども、者には思いがこもるというのは、間違っていない気がするんだ。使い古したものが九十九の力を借りるのと同じで、家にも所持者の思いが込められる。それが強くなって、家は意思を持つのかも知れない。家の中に思いがこもるってことは、家の中にあるものすべてに、思い出や出来事が断片として入っていると考えてもいいかもしれない」
「うぅん」ピールは何かを訝しがるように口を引き結ぶ。「だとしても、なんでペパーがマヨヒガに戻りたがっているのか、そこがわからない」言葉は最初に口にしたソルトの言葉を追いかけるように、響いた。
「なんでペパーが死んでるかっていう言葉の意味なら、マヨヒガは「無人」の家であり続けるんだ。そこにあるのは人の思念であって、人そのものじゃあない。だから、ペパーがいること自体がおかしいってことにならないかな。マヨヒガに映るのは、その人の行いの残滓であって、人の行動が一秒毎に転写されるわけじゃない。同じことを繰り返す。蓄音機の音みたいに」
「それだったら、なんでペパーはマヨヒガの中で、残滓の一部に入らないのかな?わざわざ外に弾きだされてまで、私たちに見えるっていうのも、おかしな話じゃない?」
「僕たちっていうよりも、最初に見えてたのはバニラだ。それから、感染するように僕たちにも肉眼でとらえることができた」
 その言葉に対して、首を捻る。なぜバニラには最初に見えたのか。最初に見えたのは、昨日の夜だといった。視界にとらえた者のみが見えるのか、それとも見える、見えないの体質の問題なのか、そこがまだわからずに、呻くような声を出す。なぜバニラの所に行ったのか、そしてなぜ自分たちを選んだのか、選んだ、という言葉に語弊を感じて、ますます頭が絡まった。
「それを考えるのはあまりにもわからないことが多すぎる。僕たちは逃げられない。この事実はまだ動かないから、もう少し様子を見るしかなさそうだね」
 この事実は動かない、という言葉も、ピールは少しだけ思案したように首をもたげた。何かを言おうとしたが、結局言わなかった。今は何かを考えるよりも、ここから抜け出さなければ、という思いの方が強かった。耳打ちは終わりと言わんばかりに体を離して、ソルトは扉を開けようとするバニラに声をかける。
「バニラ」
「何?」
「気をつけよう」
 気をつける。という言葉に対して、バニラは眉根を寄せた。何を気をつけるのか、それとも気をつける、という言葉に対しての裏を探るかのように、視線をあちらこちらに泳がせて、まぁ、と気の抜けたような声でつぶやく様に言葉を吐き出す。
「気をつけるよ、うん」
 滴るほどの呑気を放出しているような気がして、大丈夫だろうか、とソルトは目を細めた。どうも彼女はこの珍妙珍奇な状態を楽しんでいるように見えて仕方がなかった。いくら外の自由に憧れているとはいえ、と思いながらも、ソルトは顔を顰めた。彼女の思考が分からずに、空っぽの思いが心を彷徨った。


 扉を開けると、カウンターのようなものが見えた。外観は洋風かも知れなかったが、中を見るとその意識は少し薄れていった。ほぼ完全な洋風、という風情が漂っている。ほぼというのは、様式は洋風でも、随所に和風の意匠が残っている。仏蘭西窓から見える庭は瓦斯灯の明かりこそあるものの、枯れた和風の庭園、欄間位置に当たる壁と天井には明らかに和の調による花鳥図が描かれている。部屋に供えられた椅子は古代裂の錦張り。小物にも和風の意匠が多くみられた。
「和洋が合体してるのか」
 ソルトは感心したように声を出した。いまどきどちらの趣も取り入れた館は珍しいと思ったのか、木造の孤児院以外の建物をそう見る機会がないからなのか、一目見て感嘆の息を漏らした。それと同時に、この場所は異質だという事実を忘れそうになり、割り切れない思いが漂った。もう少しここを見ていたい、という思い、そして、早く抜け出さなければ、という気持ち。不思議なものがせめぎ合い、少しやりきれなくなる。もう少しだけ見ていたいという気持ちをぐ、と飲み込んで。周りを見渡した。
 かけられたものや椅子の種類、さまざまな小物絡みとり、ここはだれかを招き入れる場所。それが誰なのかは、ソルトには想像がつかなかった。少なくとも、バニラが思っているような自由を謳歌している者たちが集まるのだろうということは容易に想像ができる。カウンターの上に置かれた上質の羽ペンと、名簿のようなものがそれを伺わせた。
(……宿泊施設かな?)
 たいそうな屋敷にしては、妙に他人に気を払うような作りであるような気がした。首を捻りながら、さらに周りに視線を移すと。大量にとりつけられたドア、木目をそって伸びていく室内の長い廊下、その先からは肉の焼けるいい匂いがして、食欲をそそった。
 何おかしなところがない、普通の宿場である。それがこんな辺鄙なところになぜ存在するのかが、最も怪しいところだとソルトは思った。風情もある、風格も品格も漂っているように見えるが、異様な違和感が拭えなかった。まるで生臭いものを包み隠して、表向きだけを取り繕ったような奇妙な感覚が背中に纏わりつく。
(考えすぎかな)
 マヨヒガだということだけはしっかりと頭に入れて置き、この家に宿る残滓は何が見えるのか、それだけを意識の隅に置くことにした。そうでなければ、本当につられて何か口の中に入れたりしてしまいそうな自分がいて、欲望が膨れ上がっていると自覚させてくれる。
「宿泊名簿に、大量のドア、奥は食堂かな、香草焼きの臭いがする。ペパー、何か思い出した?」
 バニラは自分の腕の中に持っているペパーに話しかけたが、ペパーは軽く首を横に振っただけだった。ふむ、とバニラは口を引き結んで、ペパーを抱いている自分の腕に力をこめた。見た目からみる印象よりも、何かのしこりのように、気味の悪いものがどこかに集まっている。それがどこなのかはわからないが、この場所のどこかだということは理解している。それを見つけたときに、もしかしたら何か嫌なことが起こるのかも知れないと、バニラは思った――その瞬間に、視線がカウンターに移動した。
 いつの間にいたのか、それとも今までいたという認識を頭が忘れていたのか、一匹、ポケモンが立っていた。言葉には表現しにくい何かぬるりとしたものに包まれた。不思議なポケモンだった。滑った液体がぷるぷると動くような、細胞を思わせるようなポケモンだった。
「っ……あっ……」
 バニラの呻いた声が二人の耳に届き、ピールとソルトは瞬時に声の方向へ視線を移した。今までいるはずのないそれが、そこに鎮座している違和感。見る者をぞわりと畏怖させるような、禍々しい何かのように見えた。ピールは苦いものがこみ上げて、吐き捨てたくなったが、それはべっとりと胸から口腔に張り付いたままとれなかった。
「なに……?」
「お母さん」
 は、と声を上げたのは、ほかでもない自分自身だと気がつくころには、カウンターに存在する異型の者が口を開いた。
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
「いや、あの……」
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
 残滓だ。と思う、まだ生きているのか、死んでいるのかはわからないが、少なくとも生きているのならいきなり現れはしない。唐突として現れたそれが何を意味するのかは、こちらの言葉によって左右されるのかも知れないと思った。
「私たちは、その、宿泊客ですけど……」
「いらっしゃいませ、ご宿泊でしたら、こちらの名簿に名前を」
 話しかけてみても、反応は同じだった。バニラとソルトが不審に思う中、ピールは軽く息をついて、指を指した羽ペンを軽くとる、羽のふわりとした感触よりも、ゴリゴリとした何かをつまんでしまったような、妙な不快感が伝わった。
 ゆっくりと名前を走らせる。バニラ、ソルト、ピール。自分たちの名前を書いた途端に、それは名簿からゆっくりと消えていった。黒が滲んで、そのまま吸い込まれるように名簿に溶け込む。一瞬何が起こったのかわからなかった。
「ご宿泊ありがとうございます。ごゆるりとおくつろぎ下さい」
 言葉と同時に、それははじけて消えた。ペパーが、お母さん、と名前を呼んだ。ピールはとんでもないものを目の当たりにしたように、数回瞬いた。その数回の間に、自分たちのいる場所が、何かひどく場違いな違和感が、すべてわかった。
 羽ペンに視線を移した。羽がすべて抜けおち、ゴリゴリとしたものだけが残っている。名簿に目を移すと、虫に食われた跡が残るだけで、あとはかすれた文字が少し書かれているだけ、ピールの書いた文字は、インクの付いていない羽ペンの先が文字の形をひっかいただけで、何も書かれてはいなかった。
「っ……」
 周りを見渡した。先ほど見た花鳥図は図がなんのものかわからないほどぼろぼろだった。小物は木製のものがすべて腐り、蛆がわいたように奇抜な音を立てる。いやな汗を拭いながら、さらに周りを見渡す。これ以上見ていられなかったが、見なければ何もかもわからないままだった。声を上げることもなく、嫌な感じがした。それと同時に、この屋敷が外観だけを取り繕ったものだということがわかった。隠していたものがあらわになった時、ソルトが大きく声を上げた。
「二人とも、閉じ込められたぞ」ぎょっとして振り向くと、ソルトが無言で首を横に振る。ソルトの横には、先ほど自分たちが入ってきた扉が見える、鍍金が剥がれたように、金属の立派な閂は錆びて、全く動かないといった風情だった。「冗談じゃない、先に出られるかどうか、壊してでも扉を開けないと」焦ったような口調で、バニラはペパーを安全な所に避難させると、思い切りでんきショックを試みた。電撃が尾を引いて、閂を光らせるが、それ以外に何かの反応を示すことはなかった。
「無駄だよ」
 すでに諦めたかのように、ゆっくりとソルトはバニラをなだめた。
「無駄って、やったのかい?」
「うん、やったんだ、僕も技を使えば壊れるかと思ったけど、だめだったんだ、蔓を近付けるだけで、妙な感じがして、弾かれる」
「妙な感じ」
「そう、何なのかはわからない、でもわかることは、僕たちは閉じ込められてしまった。二重の意味で」
 逃げることができないという気持ちよりも、抜け出せないということに対して、バニラは顔を顰めた。どこにいても閉塞する。この屋敷を抜け出せないということに対して苛立つ自分がいた。怪奇の恐ろしさよりも「閉塞」というものに対して苛立ちを感じる。自分にそんな無様な思いをさせるものが気に入らなかった。何もかもが憎い、――この空間も、あの孤児院も、本当に何もかもが。


 しらみつぶしに調べるしかないと、思案するのをやめて、バニラは動き出した。ペパーをもう一度抱きかかえると、重さと一緒に少しだけ安心感が増した。この家に出る方法がないのなら、どこか別の出口を探せばいいだけだと勝手に考える。この屋敷に籠っている怖気のようなものに、若干辟易のようなものを覚えて、軽く溜息を吐いた。
「ペパー」
「ん」
 なんとなしに声をかけて、ペパーは息を吐く様に口から言葉を漏らした。
「君がこの屋敷に住んでいた。そしてさっきのポケモンみたいなのを君はお母さんって呼んだね」
「うん」
「お母さんの姿を見て、何か思い出した?」
「……まだ、思い出せない」
 まだ、というのは、少しは思い出してきたということなのだろうか、と思った。他にも何か聞きだそうとしたが、寄る辺のなくなった記憶を他人を通して思い出すというのは、プライヴァシーの侵害に他ならないと思った。それを不快に思っているのなら、なおさら言葉を選ばなければ、ペパーは自分たちのことを忌むべき眼で見つめるだろう。今までそれに気がつかなかった自分自身が少しだけ嫌になり、バニラはばつの悪い顔をした。
「嫌なら言わなくてもいい、でも何か思い出したのなら、少しだけでいいから、教えてくれるかな」
 嫌なら、という言葉に対して、ペパーは何の興味も関心も示さなかった。特に自分のことを言うことに対しての嫌悪感や不快感はないらしい。それに少しだけ安心した。
「……僕、この家に住んでたんだ。お母さんと、お父さんと一緒に。だけど、僕は出て行った。この家から」
「……他には?」
「わからない」
 同じような返答が返ってきて、バニラは目を細めた。それ以上はわからない、ということなのだろうか、あまりにも情報がとぎれとぎれで、少しだけ歯がゆい思いがある。自分の性格なのだろうか、どうしても一気に情報は詰め込んでおきたいという思いがある。塵が積もるように遅々とした情報の蓄積は、むず痒い気がしてならなかった。
「わからなくても大丈夫さ、僕たちがついてるからね。そうだろ、ピール」
 精一杯言葉を重ねるようにソルトが口走るが、ピールは目を細めて俯いた。あくまで自分たちは案内役であり、中に入ればそのまま元の場所に戻っていける、と思ったからなのか、唐突に起きた出来事に頭が付いてこないような感覚だった。
「うん」ピールはかろうじてそう頷いたが、本当かどうかは怪しいところだった。視線をあげて、周りを観察する。ぼろぼろの洋館、閉じ込められた自分たち。この状況になることをだれが想像しただろうか、こうなってしまったときに、どうすればいいかなど、ピールは学んでこなかった。
 闇が深く纏わりつくこの場所で、自分たちが今すべきことは何なのか、それを思案するには、あまりにもこの場所は場違いで、粘りつくような恐怖が足元に侵食している。とてもではないが、考えるよりも先に精神が異常をきたしそうだと、ピールは身震いした。
「この状況だ、出口も見つからないし、一つ一つしらみつぶしに調べてみるしかないね」
 バニラの言葉に、全員が確認し合うように頷く。たった少し離れたような場所に感じても、隔絶したような雰囲気がこの場所にはあるような気がしてならなかった。このままこの洋館と一緒に切り離されないようにするには、まず自分たちが動くしかできないのだと、そう思わせるような場所。やはりここは、マヨヒガなのだろうかとピールは背筋を伸ばした。陰鬱な気分を吹き飛ばすために、ペパーに語りかける。
「ペパーの家に、ペパーの忘れていたことがあるかもしれないし、ペパーも一緒に探す?」
「うん」ペパーはバニラの腕の中で、頷くように体を動かした。そんな姿を見て、ピールはますます深く影を落として、気を引き締める。宵が深くなるにつれて、悪鬼もはびこる。この家の残滓が悪鬼でないことを、ピールは祈るしかなかった。

愛のマヨヒガ-中-


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Last-modified: 2011-09-01 (木) 00:00:00 
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