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愛のマヨヒガ-中-

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書いた人ウロ


その5


 一つの部屋がもぬけの殻になっていたことに、いち早く気がついたのはソルベだった。ドアをノックしてみると、反応がないことは眠っていると解釈している彼女は、ドアをノックしながら、そのまま自分の部屋に戻った時に、違和感を感じた。一つの部屋に、寝息やベッドの軋みが聞こえない、風の音が強く打ち付けるだけで、そのほかの音が聞こえないということに気がついたのは、午前三時を回るか回らないかというところだった。
(まさか)
 腹の底に嫌なものがたまり始める。不安と焦りが悪い方向へと物事を運びそうになり、首を振る。足早に不自然な部屋の方へ行き、ゆっくりと扉に手をかけて、ドアを押した。
「……っ」
 室内の状態が視界に入り、思わず息をのんだ。誰もいない。半開きの窓が、風に叩かれて少し軋んだ音を出している。それ以外に、何も変わるところはなかった。子どもたちが三人いないことを除いて。
(そんな……)ソルベはひどく狼狽したように、一歩、二歩と体を後ずさらせる。(院長先生に)何かをしようとして、そのまま次にやらなければいけないことを思い浮かべる。それが優先順位の上に行っているのかどうかはわからない。(私は……報告を……)してどうなるというのだろうか、と自分で思ってしまう。頭の中で瘋癲した思考がぐるりと一周し、頭を押さえて、壁に背中をつける。
「……」
 静かな部屋には、まるでそこにいるはずの子供たちの残滓が、残っているような印象をソルベに与えた。乱れたベッド、開かれた紙の手帳、何もかもが、まるでいつもの日常に戻していくような印象。しかし、その日常の中になくてはならないものが、ない。
(なんてこと……)
 消えた子供たちの部屋番号を無意識に確かめる。なじみ深い孤児院の部屋の番号は、すべて覚えていた彼女は、部屋番号を見たときに、呻くような声を漏らした。いつも問題を起こして素知らぬ顔をするバニラ。面倒見はいいが時折孤立したように輪から外れるソルト、何を考えているのか、今一わからないピール。どれもこれもひと癖のある顔ぶれが浮かび上がり、ソルベは口の中にたまった唾を、こみ上がってくる苦いものと一緒に飲み下して、淀んだ息を吐き出す。
 子供たちの輪郭をなぞるように、闇の中にぽっかりと、その姿が映るような気がした。そんなことはあり得ないと思っていても、わだかまった闇の中に、彼らの姿を思い起こせば、その場所に色がつき、残滓が脳を通して視界に映写する。しかし姿を思い起こすほどに、ここにいないという理由がわかってしまうのがおかしくもあった。
 バニラは毎日勉強にかじりつき、この孤児院を嫌っているような節があった。ソルトは、何かを払うような気分に浸っている時があった。それはつまり、この場所から離れて思案に暮れたいという思いがあったのかも知れない。ピールもまた、一人になることに義務のようなものを感じていた、それは見ているだけでうっすらと、滲むような感覚で見えていた。誰がどうだったとしても、三人とも共通するように、この場所から遠ざかることをよしとするような印象を、彼女は持っていた。
「院長先生……連絡を……」
 何が言いたいのか整理がつかないまま、彼女はふらりと、ドアの向こう側へ逃げる。彼女がターキーに連絡を入れるまで、無為な闇が笑うように風が吹いた。


「おぅい、バニラ」
 入口近くの扉を開けようとしたバニラの足を止めたのは、ほかでもないソルトの声だった。ペパーを抱えたまま少しだけ足を止めて、ゆっくりとソルト達の方へ振りかえる。
「どうしたの?」
 バニラは不思議そうな顔をしてソルトを見つめる。――ちょっと待て、と言わんばかりのソルトの制止に、少しだけ難色を示しているような顔で、楽しんでいる行為を邪魔されたような雰囲気を伺わせた。荒廃した洋館がそこまで探究心を高めるのだろうか、と思いながら、ソルトは右手で入り口付近を示した。
 首を傾げながらそちらの方へ視線を寄せる。入口の近くに、何やら大きく書かれた図式がかけられてあったが、朽ちかけているのでよくは見えず、仕方なしに足をその方へと運ぶ、床が軋んで、埃が舞う。少し咳をしながら、ゆっくりと周りを見渡した。造林の奥にある、陽光に灼かれることのない古びた洋館。視線が戸外の風景を薙いだとしても、それは林に吸い込まれるだろう。たとえ昔は賑わっていたとしても、廃れていけばすべてが木々に包まれてしまう。死にかけた洋館は完全に死に絶え――木々に呑まれる。
(ここは、そういう場所なのかな)
 最初に見たこの場所は、栄えていた面影。何かのはずみで、すべてが朽ちた場所へと変わる。まるで夢でも見ているかのような光景を思い出し、この館はどういう場所なのだろうと思ってしまう。取り繕った外観、侵入者を世界から隔絶するような現象、まるで家が意思を持ち、人を閉じ込めるような――
(……マヨヒガ?)
 そこまで考えて、バニラは一つの伝承を思い出した。欲ある者を閉じ込める家、悪いものには罰を与えるという伝承があるが、それは伝承に過ぎず、本当のところは、マヨヒガは家内の者の思念や無念、怨念が詰まったものではないかという言葉がささやかれている。バニラも多少の話は耳に拾ったが、しょせんは架空の産物、ありもしない幻想だと切り捨てていたが、もしかしたら、と思い始めると、間違ってはいないような気すらした。
 バニラ達は特に欲望があったわけではない、だとしたら、バニラ達を閉じ込めているのはこの家の強い思いなのだろうか、まだはっきりとせず、マヨヒガ、ということすらも分からない。この洋館がただの家なのか、それとも異型のものなのかを確かめるには、と、視線を落として、抱きかかえたペパーを見据える。
(きっとペパーが教えてくれる)
 自分たちではまだこの場所はわからない、どういう場所なのか、何が起こるところなのか、それはすべて、ペパーの記憶を取り戻していけば、解けていくだろうと、根拠のない思いを頭に馳せた。それが間違っているのか正しいのか、それすらも分からない雲をつかむような思考、自分でもこんなことを考えているのにびっくりした。
 それでも、とバニラは首を振った。自分でもよくわからないが、ペパーを信じてみたい気になった。他人と共有する思いというよりは、親近感に近いものを感じながらも、ソルトの指定している場所までやってくると、目の前に張り付けられたものを見て、首を傾げた。
「これは」
「この洋館の見取り図、かな」
 見取り図ということはわかっていたが、所々がかすれていて読みづらいということもさながら、見取り図を見てどうしようというのだろうか、ということがあった。あの変なポケモンに話しかけたときに、この洋館はいきなり朽ち果てた。いきなり起こったことに動転してしまったが、あとで冷静になって考えて見れば、この場所が朽ち果てたということは、この場所にあった軌跡もすべて朽ち果てているということだろう。だから、今の場所を確認しようにも、朽ちてしまった見取り図ではどうしようもできない。
「そうだ、ペパー、これを見て、何か感じないかな」
 ソルトの言葉は、バニラではなく、バニラの腕の中で揺らめく、ペパーに向けられた。揺らめく紫が体を照らすように周りをぼやりと照らし、暗がりの中で、ペパーは思案にくれるように自分の体の上部を抑えて、ゆっくりと体を左右に揺らした。
「……感じる」
 その言葉を聞いたソルトは、一層語気を強めた。「どこだ」言葉を強くたたきつけられることに少し驚いたが、ペパーはバニラの腕の中から身を少し乗り出して、感じると思われる場所をゆっくりと指さした。指し示す場所はこの場所から奥に進んだ先にある、開けた場所。「食堂だね」ピールがかすれた文字を指ではじき、埃を落としながら目を細める。最初に行くべき場所は――
(食堂か)
 ソルトは上半身をゆっくりと後ろに向けると、広い受付の細い通路を見つめる。迷途に迷い込んだような感覚がずっと頭の中に残っていたが、ヒントをもらいながら進む分には何の問題もない。そのヒントが、ペパーの一つ一つの言動。それがこの洋館という名の迷途を抜けるための重大なこと。それはすべてペパーの記憶なのだと、今確信した。
「食堂に進もう。最初に進むべきは、食堂だ」
 全員に言い聞かせるように、ソルトは無意識に声を大きくした。ピールとバニラ、それにペパーはその声につられるようにして、足早に動き出したソルトの後を追う。
「なかなか気合が入ってるみたいだね、早く抜け出したいのかな」バニラの声に、ピールはそうかもしれない、と頷いた。「もしかしたら、怖がってるのかも知れませんね」冗談めかしたピールの言葉に、まさかだろ、とバニラは苦笑した。「彼なら見世物小屋のくだらない猥雑な物や因業物も大して興味関心を示さないような感じがするけどね」その言葉こそ、ピールは笑い崩れる。「うふふ、そういうのに興味関心を示さないのは、バニラの方じゃないのかな?」
 その言い方に少しだけ不服そうな顔をしたバニラを見て、ピールは日ごろの行いから推測したようなそぶりを見せる。まったくそれが的外れでもない分、バニラは少しむきになり言葉を重ねる。
「僕だって勉強以外に興味がないわけじゃない。都会の他愛ない大道芸も楽しそうだし、華やいだ興行(たかもの)だって興味関心があるさ」
「だけど、そういうものはえてして理不尽な規制を受けて街路から消えていく」
 ピールの言葉に、少しだけバニラは体をこわばらせる。街路取締規則などというものが設置されてから、街路の見世物は減少の一途をたどるという噂も聞いた。鑑札制の導入、組合を組織させそこに取締係を置き、警察などの監視を受けること。自由な興行を禁じられ、路上や公園から追われて、彼らは行き場をなくしつつある。興行が大好きだったバニラにとって、それはとても理不尽なもののように感じられ、憤慨すら覚えた。それを知っているからこそ、ピールは彼女の憤りがよく感じられた。
「バニラは、大道芸好きだものね」
「あれが初めて見た、都会の見世物だった」
 彼女はそういうと軽く息をついた。一度だけ、都会の大道芸人たちがこの孤児院の付近まで芸を見せに来てくれたことを思い出し、ピールも感慨に浸るように顔をあげる。子どもたちはタネも仕掛けも分からない芸を見て、目を輝かせてどういう原理なのかを調べようと躍起になって目を見開いていた。その中でバニラだけは、ただ純粋に芸を見るということに楽しみを覚え、そしてこんなものがあるという都会の期待に大きく胸を膨らませた。「出ていきたい」という思いが一層強くなったのも、大道芸の面白さが拍車をかけていたのかも知れない。そう思うと、ピールは見世物が潰れていくというのは時代の流れを感じて、バニラだけではないピール自身も、少しだけ悲しい思いが巡る。
 屋敷内に入る不可解な風を受けて、少し言葉を切る。バニラは視線を下に向けて、ぽつりと言葉を落とした。
「規制されるのは当然かもしれない、それは僕も分かってる。天下の通りはだれのものでもないんだから。だけどやっぱり嫌なもんだね」
「やっぱり気にくわない?」
「僕はただ、猥雑で品のないものが好きだったのかも知れない。中には出鱈目なものもあるだろうし、贋物(にせもの)だってあっただろうね。僕が見た芸や露商の物ももしかしたらそれだったのかもしれないし、詐欺まがいの物だってあっただろうね、でもそれも愉しみの一つなんじゃないかなぁって」
「なるほど、愉しみね」
「うん」と、バニラは下に落とした言葉を拾い集めるように俯いて歩く。「世にも恐ろしい人魂とか、タネも仕掛けもない不思議な生き物とか、そういう嘘くさいものも大量にあっただろうね。だけどそれでも人が集まるのは噓でも構いやしない、むしろ噓を見るために集まるんじゃないかなって思う。露店(ころび)の古道具にしても、しかつめらしくおっさんが来歴を語ってみせる。それは噓かもしれないし本当かもしれない。買った品物は屑同然のがらくたかもしれないし、大層な値打ちのものかもしれない。その本当のような噓のような曖昧なところを、人は愉しんでいるんじゃァないかなぁ」
 ふむ、とピールは自分の髯を摘まんで撫でる。
「そうかもしれないね」
「世の中には本当のことと噓のことがある、どちらともとれず曖昧だからこそ面白い。本当と噓の白黒をつけてしまえば安全なかわりに何の面白みもなくなってしまう。ましてや噓を規制すれば、だれもが本当の顔をして噓をつく。噓が本当になる。本当になってまかり通ってしまうことと、二つが曖昧なこととは同じようでまるで意味が違うように思える気がするんだ」
「そうだね」ピールはそう言って、指先で髯を弾いた。「規制を受けて、芝居の演目まで許可が必要になっちゃって。お上は品のない出し物を規制するのだとそう言ってるけれども、本当のところは壮士芝居だの政府批判芝居だのそういったものを規制したい胎があるのかも知れないね。下品な出し物を規制すると言えば真っ当正しいように聞こえるけれど、胎を探れば噓が出る」
「そういう胎を探らなければいけない感じが、僕は好きじゃない」バニラはそう言って、自嘲めいた笑みを浮かべる。「噓でも本当でもいいから、無責任に楽しんでいたかったのかも知れない」
「そうだねェ」
「ごめん、話が脱線したかも」
「ううん、構わないよ」
 ピールは自分にも非があるように少しだけ頭を下げた。バニラの腕の中に抱えられたペパーは、二人の会話を聞いて、虚ろな瞳をぱちくりとさせている。話が難しすぎたか、と思った時、ソルトが声を上げる。
「ここが食堂に続く扉だ」
 声に気がついて、一斉に同じ方向を向く。ソルトが見ている扉は錆びついて、腐りかけていても、その先にあるものをしっかりと包み隠しているような印象を受けた。その場所だけが、まるでこの洋館とは違うものの印象を受けて、開けた時に何が別のものが見える、そんな感覚が全員に伝わる。
「当たり、かな……」
「開ければ、わかるんじゃないかな」
 バニラの言葉にソルトは頷く。何かを吹っ切るように首をひとつ振り、錆びついたドアノブに手をかける。外は宵が深くなっているかもしれないし、もしかしたら朝になっているのかも知れない。不思議な洋館の中で、ソルトは何かを警戒するように、ゆっくりと扉を開けた。


 食堂の椅子に座り、ゆっ足りとした仕草で周りを見渡す一人は沈黙の中で食事を続ける。静寂が支配する中、ランクルスの女将は料理を両手に運んで客の前に差し出す。何の変わりもない、宿屋の日常だった。
「おはようございます。お客様。よく眠れましたか?」
「ええ、とても」キリキザンはとても快活に笑って、口の中に焼き立てのパンを放り込む。「こんな辺鄙なところにこのよう場所があったことに私は驚いています。なぜこんなところに宿を構えたのですか?」
 その言葉に対して、ランクルスは自嘲気味の笑みを浮かべて、スープを運ぼうと後ろを向いた。振り向きざまにはなった言葉が、キリキザンの耳を掠めて、ゆっくりと言葉の信号を伝える。
「あまり大きなところには作りたくないのです。知られないところでやるというのが一番いいので」
「なるほど」
 キリキザンは特にその返答に難色を示すことはなかった。人には人のやり方がいくらでもある、それに反することなどしないだろう。秘密を持っているわけでもない、柔和な宿屋の奥方、という印象が彼の頭の中にはある。特にこんな辺鄙な場所で秘密にすることも、何かを包み隠す必要もない。ここはそういう場所だ。何かを隠す必要もないくらいの自然と、温かな宿がある。それがここであり、後ろめたいことなど何もない。キリキザンは道に迷ってしまったときに、この宿を見つけた。宵も深くなり、木々のざわめきがまるで第三者の喧騒に聞こえる中、温かな宿を見つけ、戸を叩いたところ、温和な夫婦が迎え入れ、温かい食事と、温かい寝床を提供してくれた。
「御馳走になりました」
「お粗末さまでした」
 丁寧に両手を合わせて、食事を平らげるのを確認して、ランクルスはスープを運び、スプーンを置いて、空になった皿をゆっくりと持ち上げる。
「食後の口直しです、少量ですのですぐに胃に入りますよ」
「申し訳ない」
 キリキザンは頭を下げて、スープをスプーンですくう。口に入れたときに、うっすらと、ほんのうっすらと、ランクルスは微笑んだ。それは真夏の朝の暑さを抜き取り、底冷えするような畏怖をこみ上げさせるような印象を受けた。考えすぎか、とキリキザンは自虐的に笑い、スープを再度口に運んだ。
「味のほうはいかがですか?」
「いえ、こんなに御馳走していただいて、味に文句をつけるのは――」
「宿ではお客様が満足していただけるように、日々精進しておりますので」ランクルスは頭を下げた。けして慇懃無礼というわけでもない、本当に客のことを思った発言に、キリキザンは本当にいいところを見つけたものだと、道に迷った昨日の自分に感謝すらした。スープを運びながら、キリキザンはふと思ったことを口にする。
「そういえば、こんな辺鄙な場所に――失礼、辺鄙と言ってはいけませんね」
「構いませんよ。辺鄙というのは否定しません」
 腕のような形をした右の細胞を口の近くに持ち、自嘲気味にほほ笑む。続きは、という様な顔をして、食事の皿を片づけた後に、掃除をする。
「申し訳ない。ええと、こういう場所に来ても、宿としては洋と和を貫いているんでしょうか、と思いまして」
「ああ、それは主人が洋と和の調和が好きなのです。ここに訪れる人は数こそ少ないですが、洋と和、どちらかに偏っている人の方が多いですからね、どちらも程よい調和を洋館に敷き詰めればどちらに偏っていても、お客様は居心地が悪いと感じることはなくなるだろうという気持ちを持っているらしいのです」
「なるほど、お客様のことを考えておられる主人なのですね」
「私は外観を取り繕うよりも、心をこめたおもてなしをした方がいいと思いますが」
 ランクルスの苦笑に、つられて笑う。外観ももてなしも最高級だというのに、この奥方はどうやらさらに上の者を目指すらしい、その向上心や奉仕の心意気に、先ほどの思いは完全に消え、溜飲が下がる。
「十分素晴らしいおもてなしをしているようにも思いますが」
「私はまだまだ上を目指せると思います。お客様がこの宿を後にする時、もう少し奉仕の心を込めればよかったと、何度も思うことはありますわ」
 今までのことを思い出し、少し後悔の念をよぎらせる彼女を見て、キリキザンは頭が上がらなかった。どこまでも自分を下にして、奉仕することにすべてを注ぐその姿勢に、上がる頭があるかどうかはわからなかったが、恐らくそんなものはないだろう。
「いや、立派な心がけ、頭が上がりませんな。ごちそうさまでした」
「はい、お粗末さまです。……本当にお客のことを思っているのかどうか、私にも甚だ疑問なんですよねぇ……主人はこんなわかりにくい場所に宿を構えると言ったときに、少し反対側にいた方が良かったのかも知れませんね」
 冗談めかした彼女の口調に、キリキザンは破顔した。「奥さん、先ほどと言ってることが違うのでは」もちろんそれに対してランクルスはくすくすと微笑む。「もちろん、わかってます、これでは単なる自虐と取られてもしょうがないと思いますが、辺鄙な場所に造るなら、せめてお客さんにわかりやすいようにしてほしいというのがあったかもしれません」
「ああ、そういうことですか」
 それを聞いてますます彼は笑い崩れた。こういう風に他愛のない会話で笑えることなど何年振りだろうと、少し頭に擡げた眠気を払いながらのんびりと思案した。
「わざわざ看板も立てずに、誰かが住んでいるような屋敷の外観を立てるなんて、看板も立てずに、わざわざ造林が一番交差しているところを選ぶなんてっ」
 ランクルスの少しむくれたような声を聞いて、くすくすと笑いを抑えて、キリキザンは項の辺りを掻いた。
「もう二年にもなりますけど、何とか商売になってるからありがたいです。越してきた当初は、夫に畑を作ってもらわないといけないかと思ってましたが、それなりに御贔屓にしてくれる人に恵まれていますので」
「ほう?」
「昼になると来てくれますが、最近はこちらやあちらの都合の問題か、夫が取り持ちをしてくれるんです、私は切り盛りや子供の世話で手いっぱいで」
「お子さんが?」
 ええ、とランクルスは幸せそうに微笑む。「夫についているのです。私にはあまり甘えてくれないのですが、恥ずかしがり屋かもしれません。わが子の成長が、今一番楽しみですね」
「いいですね」
 幸せそうな彼女を見て、キリキザンは笑みを浮かべる。頭の中の眠気が促進してきて、ゆっくりと瞳を閉じそうになった時、入り口のドアが開いて、風が入ってくる。シャンデラとヒトモシはゆっくりとランクルスに歩み寄ると、ただいま。とだけ告げた。言葉を放ったのはシャンデラだけで、ヒトモシはこそりとシャンデラの後ろに隠れてしまう。
「お帰りなさい」
「君はまたお客さんに長話をしてるのか?」
「久しぶりのお客様ですから、精いっぱいの奉仕をしたいだけですよ」
「どうだか」シャンデラは苦笑いを浮かべて、緩くヒトモシを撫上げる。「君のことだ、また自分のことや私のことで無為に足止めをしてしまったのではないかね」
 そんなことはありませんと首を振り、すぐにそういうことを言うんだとちょっとむくれる。彼女の夫もまた、ちゃめっけのある人だとキリキザンは穏やかな思考でそう思う。本当に危機意識を持つ必要がない、こういう場所に安らげる宿があるというのはある意味正解なのかもしれないと、彼は思った。この家族は本当に温かなものを持っていると思い、自分も早くそういう運命の人を見つければ、と急ぎ足になる気持ちも少し湧き上がる。
「ほら、ペパー、お客さまに挨拶を」
「あ、あの……こんにちは」
 ペパーと呼ばれたヒトモシはおずおずと前に出ると、申し訳ない程度に頭を下げて、すぐに父親の後ろに隠れた。人見知りも激しいのかも知れない、それとも、何かキリキザンを恐ろしいものと勘違いしているような印象を持っているのか。どちらにせよ、せせこましく動き回るような子供ではなく、少し引っ込み思案のおとなしそうな子供のような印象だった。
「全く、あいさつもちゃんとできないとは、お客様、申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらずに――ひと眠りしたら、もう出発しなければ」
「おや、睡眠が足りませんでしたか?ベッドに何か違和感はございませんでしたか?」
「いえ、ただ単に私の睡眠時間がいつもより長いのかも知れません、誠申し訳ないが、割り振った部屋でもうひと眠りさせてもらえませんか」
 キリキザンは自分の体をゆっくりと舐めるように見るが、特に異常は感じられない、不慣れな土地での行動で、疲労困憊しているだけだろうと特に気にも留めなかった。そんな彼を見た夫婦は、どこか含みのある笑みを浮かべた。何をどう見ているのか、それがわからないまま、キリキザンは妙な違和感と背中のべた付いた怖気が拭えずに、少し身震いをした。
「本当に申し訳ない」
 キリキザンの言葉に、シャンデラとランクルスはとんでもない、と笑って首を横に振る。
「お父さん、僕も眠い」
「そうか、わかった、君はこの子を寝かしつけてあげてくれないか、私はお客様をベッドに連れていくよ」
「ええ、わかりました」
 二人のやり取りがまどろみのせいか、やけにぼやけて聞こえる。これほどの意識の混濁は体験したことがなく、それ以前になぜこのような状況に陥ってしまったのか、キリキザンには全く分からない。そもそも、そういう考え方自体がおかしいというのに、それがおかしくないと本能が言っているような気がしてならなかった。
(こんな辺鄙な場所で、平穏な宿で、何がおかしいというのだ)
 体を支えられて部屋に運ばれるまで、奇妙な違和感が纏わりついている。それは紛れもなく宿屋の主人から出ているもので、それが何なのかはわからず、結局ベッドの上に体を預けたときに睡魔に塗りつぶされて考えられなくなる。
「ごゆっくりと、お休みくださいませ」
 最後の最後まで、違和感の正体が拭えないままだったが、シャンデラの笑みを見て、この張り付いたような笑みが、違和感の正体だったと気がついたキリキザンは、なぜそんな笑みを客に向けるのか、なぜ獲物を狩るような目つきでこちらを見るのか、質問を山ほどしたかったが、口から言葉が出る前に、ゆっくりと意識が霧のように霧散していく。最後の最後まで違和感の正体がわからないまま、最後でわかるこのもどかしさ、目を覚ました時は、出る前に二、三質問をしようと、彼は思った。


「これは――なんだったんだ」
 意識が戻ったように、ソルトは周りを見渡した。ぼろぼろの洋館の食堂は、思った以上に朽ち果てていて、木の柱は腐りかけ、微生物が分解したような跡がいくつも残っている。煉瓦を積んだ窯のようなものは煤で真っ黒になっていて、ほとんど崩れかけている、風化したものは原形をとどめず、何が何だかわからないものが壁にかろうじて立てかけられている程度である、最初に見たものがおかしいかったせいか、さほど驚きはしなかったが、周りを見渡してほかにドアがないかを確認しても、やはりどこにもそれらしきものは見当たらなかった。
「ここは違うってことですかね」
「どうだろう」
 室内には外壁が貫通した跡があるのか、夜風が吹きこんで、ゆっくりと抱えたペパーの炎が揺れて、少し顔に近づいたバニラは驚いたように首を右に動かした。抱きかかえられたペパーは何も言うことなく、呆然と朽ち果てた食堂内での出来事を思い出すように、俯いた顔に紫の影を落とす。滴る蝋がバニラの腕に落ちて、熱を感じる前に冷えて固まる。ねっとりとした固形物の感触に身を震わせながら、バニラは問いかける。
「どう?何か、思い出した?」
「……」
 だんまりを決め込んでいるペパーを見て、バニラは何か腹の底にたまるような感覚がした。先ほどの回想のようなものは、この扉を開けた時に出てきたもの、それがペパーに何を影響するのか、こちらが見たときに何を及ぼすのか、それさえわかれば、と思う半面、思い出の様な回想を見たときに、それがまるで切り抜かれた世界ではなく、ペパーの視点から見た出来事のように思えた。ペパーは先ほど入り口で見たランクルスの息子であり、シャンデラの息子でもある。あの二匹は仲睦まじく、そしてこの宿を経営している反面、滅多なことで接点を持とうとしない。食材の買い出しや、掃除道具の買い替えなど、そう言って出て行く以外は、自宅に閉じこもったまま。
 そんな夫婦の息子。気おくれしたような感じがする、少しだけ引っ込み思案の息子。そんなペパーでも、両親からの愛は注がれていた。わが子の成長を楽しみにしている、それだけが彼にとってうれしい言葉だった。飾り立てることのない、賛美の言葉。それを聞くだけで、彼は生きているという実感がわいた。そのペパーの思いを、バニラは自分の心で感じた。彼と彼の両親を見比べてみると、似ても似つかない気性の持ち主だが、妻に選んだランクルスはまた不思議な感じがしており、それが彼女には奇異の目で見るというよりも、一時の母として、という枠を超えた一人の女性の像を脳裏に焼き付けられたような気がして、かぶりを振った。ほかの二人もこんな感覚で今の出来事を見ていたのだろうか、と不思議に思うくらい、それはまるで自分がその出来事の中にいたかのような感覚だった。
(ほかの二人も同じように、そう感じているのなら……)
 そう思う自分がいた。そうであってほしいと心から思う自分がいた。屋敷に来る前のペパーを見たときの感覚を思い出して、かぶりを振る。あの時自分だけが気が付いていたこと、ほかの二人は自分が気がついたときに、そこにいたかのように気がついた。自分だけが気がつく、ということに対して、何か特別なものでも感じている、というわけではなく、自分が見えた、と思ったときに、もしかしたら自分は二人に話さなければ、この家に自分一人だけ呼ばれていたのかも知れない。それは特別とはほど遠いもので、「憑かれて」いるというものに近かった。
(二人を巻き添えに、したかったのかな……)
 そう考えるだけで、自分は特別何かに惹かれたわけでもなく、「憑かれて」いることに対して、自分だけが巻き込まれたくなかったからという理由で誰かを巻き込む。という行動に出たのかも知れなかった。そう考えていると、胃の中に腐敗したような感情がたまって、知らないうちに渋顔を作っていた。
「すごい顔してるよ、大丈夫?」
「うん、全然大丈夫じゃない」
 正直に言葉を紡ぐと、ピールは苦笑した。
「何それ」
「わからないけど、大丈夫じゃないからしょうがないじゃないか」
 無責任に大丈夫という言葉は使いたくない。結局大丈夫かもしれないという言葉など、そうあってほしいという言葉と同義だ。希望的観測という言葉で繋がれて、結局自分が願っても変わることがない。バニラはそう思いながら、腕の中で沈黙しているペパーを軽く叩く。
「ペパー、思い出したことがあるかい?」
「……僕、お父さんとお母さんにいっぱい愛を受けて、育ってきたんだ」
 回想を思い出すようにペパーは体を少し震わせる。それが歓喜なのか、それとも畏怖なのかはわからない、あの回想を見た感じではおそらく前者かもしれない。どうやら先ほどの改装でペパーは何かを思い出したようだが、どうにも様子がおかしかった、何か、引っ掛かりを感じて、ソルトは眉根を寄せる。嫌なものが背中に走り、知らないうちに背筋を伸ばす。体が強張るのを感覚を通して伝わり、嫌な感じが伝わる。
 何か間違ったことを思い出すような、そんな感じがペパーからにじみ出ているような感じがして、どうにも暗澹とした気持ちが払拭できなかった。ソルトは自分の思いすぎであるということもあったが、ペパーの顔を見て、その可能性が限りなく低いということも重々自覚していた。
「だけど」ペパーは続く言葉を吐き出す。それは重く、とても沈んだ声だった。「どうして、あんなこと……」鬱積した言葉が絞られるような声が出たときに、ソルトはやはり、と瞳を歪ませる。
 息をひとつはいて、思案顔になった。ソルトはペパーのあんなこと、という言葉に何か重大なものを感じる思いを寄せていた。それは突飛的で靄のように曖昧だが、何か確信をつかむような事柄の様で、無為に切り捨てようにもなかなかできそうになかった。それはまだわからないが、少なくともこの屋敷に関係している、ということだけはわかるし、それを紐解くことが、何かこの不気味な空間から抜け出すことに対しての鍵のようなものに感じられた。
「ペパー、あんなことって?」
「わからない」
 同じような言葉を聞いて、溜息をついてソルトは落胆した。先ほどの回想ではまだまだ思い出せないということだろう。やはりここはマヨヒガではないのだろうかという思いが、強くなる。閉じ込められた家の子供、扉を開けて見える回想、それは残滓であり、家に残っている未練のようなもの、それをすべて解き明かせば、マヨヒガは消え去る。遠い昔の伝承は無欲ならば出られるらしいが、昔の話は基本的にあてにはならなかった。御伽噺のようだが、先ほどの回想と一致する部分が多く、あながち間違ってはいないと思った。
「わかった、じゃあ次だな。戻ろう。もうここに用はないからな」
 ソルトの言葉に全員が暗黙の了解の様に踵を返す。先ほどの見取り図の所に戻るまでに、全員の心に暗雲が垂れこめたように沈黙を保っていた。


 見取り図の前に来ると、少し安心したような気がした。広い空間に来ると、少しの寂しさを感じるが、隣に誰かがいる、というだけで妙な安心感があると思えるのだから、安い心だと思う。言葉では表しにくい安堵など、案外その辺の身近な出来事に紛れ込んでいるものだと認識した。
 体に伝う汗を拭う。抱えていたペパーをしっかりとつかんで、暑いのはたぶんペパーの蝋燭のせいだということはわかっていたが、どうしても離すことができなかった。話した時に、自分は両手で納まっているペパーを全て失くしてしまう、そんな気がして、どうにも手を動かして、地面に下ろすという行為に違和感を覚えてしまう。知らないうちに感情が高ぶっていたのか、口の中でぬるりとしたものが広がる。軽い酩酊感が襲いかかる。
「それ、やめた方がいいよ。口がぐずぐずになって腐るから」
 それに気がついたのか、ピールがバニラの癖を指摘した。もちろんそれはわかっているが、もうバニラは止められないところまで来ているのかも知れなかった。自分でそれを自覚していたとしても、どうにも止めることができない。日々鬱積する思いは、すべて彼女は自分自身の口の中でがりがりと砕く様に潰していた。その行為が口内に犬歯を刺す、という自傷行為だったとしても、他人を傷つける、物に当たる、そんなことをしなくてもいい方法が、自傷行為だっただけだった。
「大丈夫だよ」バニラは鬱陶しそうに首を横に振った。「大丈夫、っていう言葉が一番信用できないかな。特にバニラ、あなたは平気で嘯くもの」ピールの言葉に、少しだけバニラは苛立ちを覚えた。嘯くのは間違っていないが、いつもいつも偽りを塗りたくっているわけではない、それを彼女に分かってもらえないことに、少しだけ傷ついた。友達、という言葉を飾っても、結局は理解し合うことはほとんどできないのだろうということを分からされたような気がして、息を吐いた。「嘯くなんて失礼な奴だな。どうでもいいことを吹聴してまわる奴らよりはましだと思うね」ふい、とそっぽを向く彼女に、ピールは何とも言えない顔をして口の中にたまった唾を飲み下した。「みんな屈折したところがあるからね、ちょっと我儘なところとか、そういううわさに対して貪るような姿勢をとるのも分かる気がするけどね、ほら、孤児院のみんなって思い通りにいかないと気に入らない時があるじゃない」
「馬鹿か」
「そうかもね」
 ピールの苦笑に、バニラはますます顔を曇らせる。
「そうじゃなくて、ピールの言い分が馬鹿かってこと」
「あらら」
「屈折してるとか我儘とか、そんなの他人から見た通説でしょ。同じ環境に育ったら、必ずしも同じポケモンができるのかな。生き物には個性ってものがあるでしょ。それを適当に(つづ)めて本人無視して、イメージに振り回されるのが馬鹿くさいって言ってんの」
 あのねぇ、とピールは息を吐いた。
「私はあなたの肩を持ってあげてるのに、さりげなく孤児院の仲間たちをフォローしつつ、バニラを立ててあげてる。こういうのを気配りっていうんだよ」
「陰口の間違いでしょ。そういうセコイ味方なんて、私いらないよ」
「……バニラさぁ、そういう態度ばっかりとってると、いつか誰かに刺されちゃうよ?」
「刺すほどの度胸がある奴がいたら、受けて立ってあげる。別に自分が間違ったことなんて、言ってないしね」
 まったくとピールは呆れる。バニラの言い分が正しいかどうかはともかくも、こうやってあっさりと言って放つところはバニラらしいと言えばらしいかもしれない。彼女は陰口という行為自体好きそうではない性格をしている、恐らく真正面から罵詈雑言を叩きつけられる方がいいのだろう、そうすれば何の気兼ねもなく相手を払えるからだと、何かに後ろ指を指されることもなく言いたいことをすっぱ抜けるからかもしれない。
「でも、口の中を刺したり、他人の言葉が馬鹿くさいって思える子供の個性って、ある意味歪んでるよね」
 視線をペパーに移して、バニラは鼻を鳴らす。それがどうした、とでも言わんばかりの顔をして、バニラは言葉を紡いだ。「それは人の個性なんだからほっといてほしいって感じだけどね。他人がいちいち介入してきたらめんどくさくてしょうがない」悪びれる様子もなく、しれっとそんなことを言ってのける彼女は、神経が太いというよりも、他人に対してとことん介入しないんだと改めて思い知る。
(だったら)
 なぜ彼女はペパーを抱えているのだろう。それだけではなく、なぜペパーに付き合っているのだろう。彼女はペパーに何を見ているのだろう。自分たちに付き合うのもそうだが、彼女の人との関わる基準が分からずに、少し困惑した。
「ペパー、次は何を感じる?どこに行けばいい?」
「……ええと、ここに……」
 少し控え目に指をさす。朽ち果てた見取り図に移す視線と、ペパーの指定した場所を見やると、そこは二階の一つの客室を指している。ソルトはそれを確認すると、すぐに踵を返した。ここにはもう用がないといわんばかりに、埃だらけの階段に近づいていく。
「おうい、ソルト待ってってば」
 待てるか、と口早に紡ぎ、ソルトは足を動かした。誰かに急かされているというわけでもないのに、何かに急き立てられるように足を動かした。この場所にいるだけで、炙るような暑さだった外の気温とは真逆の底冷えするような恐ろしさが、足元から這って来るような感じだった。どんな些細なことにでも敏感に反応してしまう。この屋敷には、いるだけで常に注意を配らなければいけないと思わせるものが多数あるのだと、思うように首を振った。
 そんなソルトを遠巻きに見つめながら、呆然としていたが、あわてて思い出したように、ピールとバニラは後を追った。未知の恐怖が夜の帳を侵食するように、あたりの薄暗さがどんどん増しているような気がして背筋に力を入れる。体の重みが尋常ではないほど重く感じ、後を追う速度にも一抹の不安が付きまとう様な感覚。冗談でも何でもなく、鉛のように体が重くなるという体験をしたような気分だった。
「僕……」
 階段を一歩、また一歩と登るたびに、抱え込んだペパーが悲しそうな声を出したのを、バニラは訝しげに首を傾げた。どうした、とも言えずに、ただただ足を延ばして階段を上る彼女の腕の中で、急にペパーがもがいた。いきなりの行動に虚を突かれて、バニラは手の中からペパーが抜け出すのを止めることができずに、階段を登りきった時にもんどりを打って倒れた。鼻先を地面に打ち付けて、けたたましい音が鳴り響いた。
「いった」鼻面を抑えて体中にかかる埃を払い、何事かと後ろを振り向くと、申し訳なさそうな、しかしそれでも自分の行動が間違ってはいないと思う様なペパーの顔が、そこにはあった。「ご、ごめんなさい」何やら小さな声で謝られはしたが、小さすぎて何と言っているのか今一わからない節があった。「謝るのなら、いきなり抜け出さないでよ」
「僕、僕……その先に行きたくない」
 え、と口からの呟きが、彼女には信じられない言葉を聞いたように呆然とする。それはペパーが見せた反発のようなもので、到底そんなことをいうような人物像ではなかったために、余計に唖然とする。なんで、という前に、体を横に振って、ペパーは抵抗するような表情をした。
「行きたくない、嫌なんだ。僕、行きたくない」
 バニラはふむ、と思案した。拒否という行動に対して咎めることはしない、しかし、理由がはっきりしない拒絶にはなにやら不可解なものがあった。少し思案して、体に残ったほこりを完全にたたき落とす。
――どうして、あんなこと。
(あんなことっていうのは、ペパーにとって思い出したくないこと)
 ペパーの言葉を頭の中で反芻する。屋敷の暗さは外の明るさと比較すればするほど、かろうじて見えるほどの薄暗さ、暗闇に目が慣れさえすれば見えるが、それでも深い深層まで見ることはできはしない。それは人の心を表すようで、バニラはこの屋敷の暗さは、ペパーの見えない心の中と同じようだと思う。おそらくペパーは、ソルト達が開ける扉の先に、何か思い出したくないものでもあるのだろう。それはものか、それとも残滓かは、まだ知る由もなかった。
「ペパーは、知りたくないの?どうしてこの家が君を拒絶したのかを、僕たちが入れて、君が入れないとは、何とも理不尽な話じゃァないかな?」
「それは」ペパーは言葉に詰まったように、視線を泳がせる。意地の悪い笑みを浮かべて、バニラは言葉を続ける。「どうして入れないのか、それがわかれば君がこの家に対して持っていた思いというのもわかるんじゃないかな?」
 だけど、という言葉を口の中で持て余して、ペパーはしばらく躊躇したが、結局はバニラの腕の中にもう一度抱かれた。腕の中にある温かみと重みが帰ってきて、バニラは少し安堵した。
「思い出したくないもの、嫌なものっていうのは、思い出すのに勇気がいるんだ。ペパーは、自分がどうして帰れなかったかを知るために、勇気が必要なんだよ」
「勇気……」
「そう、難しいこと、わからないこと。怖くて思い出したくないこと、人に聞くのは恥ずかしかったり、嫌なことを思い起こしたりするときには勇気がいる。自分で調べるよりも、ほかの人に聞いた方が早い時もある。そういうときには、勇気がいるもんさ」
「……」
「大丈夫だよ、何も難しいことを言ってるわけじゃない。もし怖くなったら、僕がいる、だから安心して」
 何の根拠もない言葉だったが、ペパーは少し安堵したように笑う。つられたような笑みを浮かべたところで、先についていたピールとソルトを交互に見て、不審げに目を細めた。
「どうしたの?」
「開かない。ドアノブがないんだ」ソルトの言葉を一瞬疑ったが、視線を移すと、確かにドアノブというものは存在しなかった。代わりに、扉の前に木製の板が立てかけられている。腐りかけていて文字もかすれているが、黒い文字はまだ読めるようで、ソルトはそれをゆっくりと読み上げる。
「空のコップに、水は何滴入る」
 なるほど、とバニラは思う。見られたくないものには蓋をする。それと同じような感覚で、このドアの向こうにはおそらくペパーの言う見られたくないものいうものがあるのだろう。そして見られたくないものには、蓋をする。
「つまり、この変な問題を解いたら扉が開くとか、そういうこと?」
「わからないけどね、扉を思い切り蹴破るっていう方法があるけど」
「一回それをやってみる?」
 バニラの言葉にびっくりしたようにペパーがバタバタとしだす。そういうことを分かっているかのように、ゆっくりとドアのそばにペパーをおろして、下がらせる。ピールはホタチを構え、ソルトは蔓を伸ばす。電気袋が微弱に放電して、目の前の扉を見据えた。
 息を吐いて、三人同時に自分の持っている力を叩きこむ。電撃がとび、蔓が唸る。ホタチの抜き打ちが横薙ぎに一閃、扉にけたたましい音が響いて、埃が立ち上る。少しむせ返りながら、煙が晴れた扉を見つめる。壊れた様子も、扉が動いた様子も見られずに、ただそこにある様子は変わりようがなかった。ソルトは不審げに思いながら、ドアを軽く押してみたが、ぴくりとも動く気配はなかった。
「うーん、だめっぽいね」
「じゃあやっぱり、この問題を解かなきゃいけないってことかな?」
「空のコップねぇ……」
――空のコップに、水は何滴入る
「水は何滴入るって……満タンまでじゃないのか?」
「うーん、もしかしたら、ゼロかもしれないかもね」
 ピールとソルトはお互いを見あいながら、扉の問題に取り掛かる。バニラは離れていたペパーをもう一度抱きあげて、思案した。ペパーもバニラの腕の中で、バニラのような真似事をするように首を捻る。
「水が何滴入るかねぇ……確かに、たくさんとか、いっぱいとか……」
 バニラは考え込むように俯き、顔に薄い影を落とした。コップの大きさ、水の量、質量はどのくらいか、そもそも水が何滴という定義は、どこまでが何滴、という定義には当てはまるのか――頭をひねればひねるほど、この問題の答えが遠ざかるような気がしてならなかった。数学的な問題を解くのには得意だが、こういうなぞなぞの様な問いかけに対して回答をするのは、あまりにも発想が足りない。そんな自分が少し嫌になり、肩を落として息をつく。無意味な積み木重ねをしているような感覚に陥り、鬱蒼とした気分が心に生い茂る。
「あてずっぽうでいいなら適当に言うけど、何通りあるのやら……」
「……空のコップに、水が入ったら、空のコップじゃなくなるよね?」
 腕の中で何気なしに行ったペパーの言葉を、バニラは耳で拾い、一瞬だけ動きが止まる。(空のコップに)ぐずぐずになった頭の思考が、ゆっくりと回転を始めるような感覚がした。感情が高ぶり、意識が鮮明になる、暗がりの中で、自分だけが明るくなっているような感覚があり、知らないうちに口の中を犬歯で刺していた。(水は何滴入るか)口の中に広がる酩酊感、痛みとともにはっきりとする問題の意味、腕の中できょとんとしたペパーの顔を見て、口の端がゆっくりとつり上がる、けして何か含みのある笑みではない、ただ単純な、問題を解いたときの微笑み。一つ一つの曲解を全て崩して、ゆっくりと一つの答えにたどろうとする意識。思考が先にとんだような感覚になり、一つの答えが導きださせる。(空のコップは、何も入ってないから空のコップ)すべてが解けて、崩れる。思考が消えないうちに、息を大きく吸う。お互いに問答を繰り広げている二人の前に、割って入るような声を出す。(何かが入ったら、空のコップという概念は、消えてなくなるんだ)
「一滴だ」
 え、とピールが声を上げる。その言葉に、ソルトはバニラの光る瞳が、暗がりの中でよく映えているのを見て、何かを思いついたのだと確信するのと同時に、バニラの口から、矢継ぎ早に答えが飛び出した。
「空のコップに水は何滴入るか。ペパーのヒントでわかったんだ。空のコップはあくまで何も入ってないから空のコップ、何か入ったら、「空のコップ」という概念が消えてなくなる。水を一滴たらせば、もう既に空のコップじゃなくなる」
「だから」ピールが言葉を紡ぎ、それにこたえるようにソルトが続きを答える。「空のコップに水が一滴入れば、もう既にそれ以上入らない。だから一滴か」
 閂が抜けるような音がして、全員がそちらを振り向く。ドアに視線をやると、少し開いていた。力技でもどうにもならなかったものがいきなり開くというのは、若干の拍子抜けのようだと、ソルトは少し脱力した。ドアノブのない扉、確かに、見られたくないものには蓋をする。それは、気がつかれてしまえばこの家の全容の一つが漏れる残滓かもしれない。思念とは複雑怪奇に絡み合い、一つの謎を積み上げる、そこにほころびができれば、迷い込んだものはすぐに抜け出せてしまう。マヨヒガの典型的な伝承の一つだ。抜け出せないような細工が施される。無欲なものは抜け出せるが、自分たちにはおそらく「抜け出したい」という欲があるのだろうかと、少し顔を顰めさせる。まだまだ分からないので、この自問は頭の隅に押しやり、バニラとピールを交互に見る。
 ピールは中にある残滓どういうものなのか気になっているという風情だった。しきりに扉を見ては、髯を弄っている。この扉の先には何があるのか、それはおそらく全員が、先ほどのような残滓だと思っているだろう。それはペパーが何かを思い出すきっかけの一つであり、「あんなこと」という出来事の残滓かもしれない。本当にどうかはわからないが、大切な記憶のかけらであることは確かだった。
 バニラは何やら複雑な顔をして、ペパーと話している様子だった、特に密談をする内容でもないのか、言葉は大きく、こちらの耳にも届くほどだった。
「ペパー、君はいいのかい?」
「勇気を出してみることが大事だって教えてくれたのは、バニラお姉さんだもん。僕、勇気、出すよ。もし間違ってたら、お母さんとお父さんにあったら、喧嘩だってするよ」
「……わかった」
 ピールの方に意識を移していたせいか、聞こえた部分は最後の方のみだったが、何となく腹を決めたという印象を受けて、無意識に頷いていた。
「じゃあ、開けてみよう、何が出るかはお楽しみってやつだね」
 ソルトの冗談めかした言葉には、全員が全員、苦笑した。
「お楽しみも何もないさ、この空間から出られれば、それでいい」
「そうだね。私もそう思う」
「はい、僕、大丈夫です」
 全員の答えを聞き取り、ソルトはゆっくりと開きかけた扉を押しあける、空間が歪んだような感覚が視界に移り、扉の先の世界を見据える。切り離された残滓が、とどまって繰り返される。バニラは思考をその世界の中に溶け込ませた。


 焼け焦げたキリキザンの死体を見据えて、ふん、とシャンデラは鼻を鳴らした。よく眠っていることだとも思う。おそらく自分自身が死んだということにすら気がつかないだろう。ランクルスの作る睡眠薬は強烈な効果を持っていると改めて思う。
「どう?」
「大丈夫だ、こいつはかなり金目のものを持っているようだな」
「そう」ランクルスは素っ気ない返事をして、キリキザンの持ち物を物色する、益になりそうなものは剥ぐ、いらないものは死体と一緒に始末する。夫婦で同じような行動を何度も繰り返す。何度やった変わらないが、罪悪感などは一切なかった。それが必要だと感じているからこその、感じない感情。それが間違っていると思ったことも、懺悔も後悔も、二人に必要なものではなかった。
「あの子は大丈夫か?」
「ええ、よく眠っています」
 眠らせたの間違いではないかと思ったが、そんなことを詮索する気にはならなかった。見られなければそれでいいのだ。この光景を。そう思いながら、シャンデラは物色を再開した。ランクルスもそれを手伝うように、遺体の周りを片付け始める。
「このことを知ったら子供はどんな顔をするんだろうな」
「知られるはずがありません、私たちのこの行動は、一生知らないまま、あの子は「いい子」に育っていくんですよ……」
 違いない、と言って笑う。金品を物色し、残りはすべて遺体の上に置く。焦げてしまった遺体はすべて片付けて、庭の奥底に埋める。灰になってしまったとしても、庭の植物を育てる肥しくらいにはなりそうだった。口の端を歪ませて、くぐもった笑い声を漏らした。
「うふふ、素晴らしい、もっと必要ですね」
「ああ、次の客をまたなければな」
 次の客を待ち、金目のものを奪う。温厚で奉仕の心をつくす不思議な宿の後ろ側に隠された陰惨な部分を知るポケモンなどいはしない。骨になったとしても、地面を掘り起こすポケモンもいなければ、この場所に迷い込んで一拍の恩を受けるポケモン達は夫婦の手厚い歓迎を受け、緊張を解く。疑いはしない、疑いも疑念も持たないまま、灰になり、骨になり、この世から消えていく。その姿を何度も何度も、夫婦は見続けてきた。もちろんそれは、彼らが主犯だからだ。そしてそれに気がつくものは誰もいない、見た者もいなければ、出来事を記憶する者もいない、そういう類の者たちになる予定の者も、この夫婦は遺体にする。くぐもった笑い声、腐臭と焼け焦げた跡。ドアをひとつ挟んだ外と内では、全く異質な世界が築き上げられている。
 出入り口の戸を叩く、木製の軽い音が聞こえる。強盗殺人の容疑をかけられるという懸念も、見つかって咎められるという罪悪もよぎることなく、舌なめずりをして、次の客が来た。という思いを頭に膨らませる。彼らにとって、客は「肥し」であり「贄」である。それ以外の感情など、持つことはないだろう。表面で取り繕った顔を整えると、焼け焦げた死体を一瞥して、夫に話しかける。
「どうしますか?」
「扉に暗示でもかけておけばいい、開けられなければいいだけだ」
「そうですね、暗示をかけておきましょう」
 二人で確認し合うように頷き合う。扉をゆっくりと閉めると、体を発光させて、扉に複雑怪奇な余波を送る。死体が放置してある扉は、ただの扉から、どう開けるかもわからない複雑な錠がかけられた。
「申し訳ありませんでした。いらっしゃいませ、お客様」
 取り繕う顔を崩さないように、ゆっくりと扉を開け放つ。中肉中背の、身なりの整ったオノンドが、不思議そうな顔をして立っていた。
「ここは、宿屋ですか?」
「はい、勿論です」ランクルスは上品にほほ笑んだ。それにつられたようにシャンデラも口の端を吊り上げて笑う。勿論という言葉に安堵したように、オノンドはほっと胸をなでおろした。「よかった、何分道に迷ってしまい、進退窮まってしまったもので、一泊でいいので、止めてもらえないでしょうか?」
「このあたりは迷いやすいですからね。もちろん構いません。どうぞ、上がってください、外はお寒かったでしょう?すぐに暖をとりますので」
「ありがたい、申し訳ありません」謙ったような態度と声で感謝を示し、オノンドはいそいそと荷物を抱え、中に入る。入口で少したたらを踏んだのは、特に感情が憤りの方に向いていたわけでもなく、躊躇したように足を絡めて、もつれるような行為だった。「失礼、本当に寒かったので、少し足が悴んでしまって」
 明かりが見えて、本当に助かりました。とオノンドは何度も頭を下げる。瓦斯灯の光が客をここに誘う。そして扉が閉まれば、その客は家に閉じ込められる。不気味な思考が働いたことに苦笑しながら、シャンデラは自答の様に思う。
(その客を閉じ込めているのは、ほかでもない私たちなんだが)
 不気味に笑うシャンデラを、オノンドは不審げな目で見つめた。まだ扉が閉まりきっていないので、庭の瓦斯灯が強い明かりをはなっているせいで、残像が斑紋を描いているせいで、不気味さが加速するだけなのかもしれないと、考えを改めた。
 そうこうしているうちに、大きな風が一つ吹いて、勢いよく扉が閉まる。喧しい音が鳴り響いて、びくりと肩を震わせる。そんな様子を見たランクルスが、薪を暖炉に入れながら苦笑した。
「申し訳ありません、なにぶん入り口の建てつけが悪いのか、少しの風でもすぐにうるさい音が立つのです」
「あ、ああ、気にしません、こういうのは慣れっこですから」
 ひどく狼狽したように震えて、背筋の寒さを肌で感じる。しまった扉は少し開けて、風に吹かれながら微弱な開閉を繰り返す。視線をそこに移したオノンドは、なぜかその動きに目が離せなかった。もしかしたら、と思う自分、そんなことがあるはずがない、という自分。何かに急き立てられるように、どちらかに決断を委ねなければいけないような気がしてならなかった。迷うことなく、やはりいいです、などと言って扉から外に出てしまった方がいいのではないか、という自分の思考が一瞬だけ、ほんの一瞬だけよぎる。その考え方をしてしまうのは明らかに間違ってはいるし、相手に対しても失礼に値するかもしれないが、なぜかその思いが霞の様に浮かび上がる。
「申し訳ありません。早めに扉は直したいのですが」思考が鬩ぎあい、躊躇していると、シャンデラが音もなく扉に近づくと、ぴったりと閉め切り、閂をかけた。乾いた木製の音が響いて、喉を鳴らす。オノンドは、自分の行動がとんでもない間違いを犯しているような感覚から、しばらく抜け出せなかった。背筋に寒いものが張り付いて、喉の奥から苦いものがこみ上げてくる。いやな気分というのは、こういうときなのだろうと思った。
(考えすぎか)
 そう思い、息を吸って吐いた。悪い空気を逃がして、屋敷に満ちる平穏を吸い込む。自分の考えすぎだ。自分の考えていることがおかしいだけだ。なにも問題はない。この屋敷も、この夫婦も、ここに泊るということも何もかも。


 薄闇の中で下から聞こえる複数の会話を聞きながら、ペパーは震えた。見てはこそいないものの、聞いてしまった。急いで扉を開けようとしたが、不思議な力に阻まれて進めない、恐怖と焦りでたたらを踏んで、これは夢だと、悪い夢だと思いたくなる。
(お父さん、お母さん)
 嘘だと思う。そしてこれは夢だと思った。自分の眠りが浅いのは、しっかりとした生活ができてないのかという思いがある。些細なことでも目を覚ます。入口の戸を叩く音でも、小声で話すような音でも目覚めることがあったが、今夜の場合は、もっとあからさまに誰かに起こされた、という気がした。強烈なにおいを感じて、そちらの方へと興味が注がれた。余計な好奇心はもつものではないという言葉は、まさしくその時のためにあったようなものだった。自分の好奇心は、無意味なところで働き、無意味に事態を悪化させる気がしてならなかった。まだ見ていないから、という言葉は意味がないのと同じなのかも知れない。興味深げに覗こうとしたときに、二人の声が聞こえて後ずさった。異臭が顔を打つような感じがして、急に気分が悪くなる。
 ペパーは軽く息をつめて、耳を澄ませる。会話の内容は小声だったのか若干聞き取りにくいような印象を受けたので、何をしゃべっているのかは断片的にしか聞こえなかった。しかし、内容は断片的でも十分に察することができるほどで、そしてその内容がどんな意味をなしているのかも、幼い頭で十分に理解した。そして、理解してはいけなかったのだと、深く後悔をした。
 扉があけ放たれて、両親が出てきたときに、とっさに半開きの扉が開いた隣の部屋に入り込み、ドアを閉める。音が聞こえたような気もしたが、そんなことは気にすることができなかった。恐怖と疑惑、そして真実が頭の中で揺れた。こんなことがあるはずがないと願いながらも、それが現実だと認める自分がいて、どちらが正しいのかわからず、知らないうちに涙が流れた。
(誰かに……連絡しないと)
 そう思って、だれに、と次に思う。何を連絡するというのだろう、こんな辺鄙な山奥に、いったい誰が来るというのだろう。誰が自分の言葉を信じてくれるというのだろう。それすらも分からないが、とにかく、何かをしなくては、という思いに駆られた。もし、自分の預かり知らないところで両親がこんなことを何度もやっていたと思えば思うほど、止めたい、という衝動に駆られる。
 ドアがしまる音がして、空間が歪むような妙な音がする。かすかな駆動音の様なものと、シャンデラ特有の金属音。すべての音がやむまで、何も動けずにいた。体に瘧の様な震えが襲いかかり、すべての音が消えると、どっと圧し掛かる虚脱感。間違いなく、自分の体はおかしくなってきていると思った。闇の帳がゆっくりと下り、夜が押し広げたように伸びていく。そして、その闇の中に跋扈する魍魎たち。魍魎というのは、自分の父であり母であるのかも知れないと、彼は心臓の動悸を抑えながらごくりと唾を飲み下して、大きく息をつく。
(どうしよう、扉を――)
 あけなければ、中を見なければ、そう思い、扉を開けようと奮起する。力に阻まれて開けられない自分が悔しくて、中を見なくてはいけない、真実を知らなくてはいけない、そう思う自分がいて、その中で、やめてしまった方がいい、いつも通り何も知らないまま過ごした方がいいと思う自分がいて、鬩ぎあい、前者の思いが真実を追求するという心と共鳴した。開けて中を見て、もし話していた言葉が本当だったのなら、自分は問いたださなければいけないような気がした。
(開けないと――)
思考が焦りに満たされていき、扉を多少乱暴に押してはみるが、どんな暗示をかけたのか見ていなかったペパーには、その扉の先を見ることはできなかった。見れないことに焦燥を感じ、感づかれないうちに何とかしなければいけないという思いが喉の奥までこみ上がる。声に出したい気分になり、ぐっとこらえて扉を見据える。
――空のコップに、水は何滴入るか
(え?)扉の前に不自然に掘られたような言葉を見つめて、目を細める。これは単なるいたずらか、それとも扉の鍵か、宵の魔性か、わからないが、これがこの扉につながる大事な事柄であるのではないかと思い、少ない時間の中で、ペパーは頭を回転させる。(空のコップに水……)空のコップに入る水は水の量によって決まるし、コップの大きさによっても決まるかもしれない。しかしこの言葉には水の量もコップの大きさも何も指定されてはいない。発想が行きとどかずに、口から呻いた様な声を漏らした。喉元に蟠って掠れた声は、幸いしたのポケモン達に聞こえることはなかった。(コップに入る水の量)どれだけ頭を捻っても、これだという答えが浮かばない。あれでもない、これでもないと考えているうちに、ぎしり、と木製の階段が軋むような音がした。のぼってくる。その音だけが、心臓の動悸を無為に動かし、焦りと恐怖を増長させる。(見つかる)
 なぜ人は不意に見慣れた暗闇に背筋を粟立てることがあるのだろう。どうしていつもと変わりのない廊下の端の闇に意味もなく怯えてしまうのだろうか。そこに何かを嗅ぎ取るからではないのだろうか。だとしたら、その何かと同じようなものが、今ペパーの後ろから迫ってくるのではないだろうか。
(逃げないと)
 この家の主の子供である自分が何から逃げるのか、それがわからずに、軋む音が近づいてくる。この状況が向かっても戻っても、悪い方向になってしまうという思いが頭に圧し掛かる。迷う時間がなく、軋む音が近づく中、ペパーは一瞬だけ躊躇した後に、意を決したように扉を見上げる。自分の身長では扉のドアノブに手をかけることすらできない。無理やり開けようにも非力な自分ではどうしようもない。そう思った彼は、自分の体を少しとかして、どろりと蝋の垂れた手をドアに擦りつける。冷えて固まり始めるのと同時に、手を交互に上にのばして、ドアをよじ登る。ゆっくりと、しかし焦る心を抑えて早めにドアの鍵穴まで登る。階段から少し見えたのは、知らないポケモンの一部分。見られる、という思いより先に、鍵穴の向こう側の世界が視界に飛び込んだ。狭まった鍵穴から見えたのは、焼けた腐臭と、ベッドの上に横たわった焦げた遺体の一部。数瞬の瞬きで、ペパーの見た者はそれだけだった。たったそれだけでも、ペパーは力が抜けて、そのまま地面にゆっくりと落ちた。蝋が潰れる音がするのと、見知らぬポケモンと、それに付き添う両親達の視線が、自分に移っても、頭から確定した事実が離れなかった。信じたくない事実が、脳裏に張り付いて、取ることができなかった。
(お父さん、お母さん……嘘だよね)
 誰にいうわけでもない、頭の中で呟いて、ペパーは涙を流した。オノンドが不思議そうな顔をして、ペパーに近づく。
「どうしたんだい?」
「うあ……あの……」
「こら、お客様の前でみっともない。申し訳ありませんお客様。こちらは私たちの息子です」
「お父さん」ペパーは声を出した。焼けて死んだポケモンが、ベッドの上に横たわっているんだ。声に出そうとしたときに、それは喉の奥で理性という重しが留めた。言うな、わかっているだろう。本当は、そう思って、口を無意味に開閉させる。
「あらあら、怖い夢でも見たの?ほら、床にお入りなさい」
「お母さん」口から出た言葉は、全く違う言葉だった。ゆっくりとランクルスの腕に抱かれて、安らぎと一緒に、子守歌を口ずさむ母の姿。昔と何一つ変わっていないその姿が、今日だけは不気味に見えた。自分の親がやっていることは、とてもひどいことで、悪いことだと、理解していてもどうしてもそれを口に出して言えなかった。自分が見て見ぬふりをしているのはわかっている、しかしそれでも、見て見ぬふりをするしかない自分がいて、唇をかんだ。
(お父さんとお母さんは、悪いことしてる)心の中で反芻して、母の顔を見る。子どもをあやす、母親のそれであり、その顔には本当に心配そうにしている顔、そして愛情を込めるように、柔らかな歌を聴かせ続けて、階段を下りていく。確かにそこには、母として息子に与える愛情のようなものが存在した。(僕は……聞くのが怖い)ペパーはそんな母を見ながら、あふれる涙を抑えることができずにいた。そこにある確かな愛情すら。外見を取り繕うために作りだされた偽ものかもしれない、そう思えば思うほど、母親という存在が信じられなくて、泣いた。
「お母さん」
「どうしたの?」
「………なんでも……ないです」
「そう」ランクルスの声は小さく、そして静かに響いた。悲しくて泣いているわけではなく、怖くて泣いているのだと、母はわかるのだろうか。聞くことが怖く、先ほどの遺体が怖い。夜はいつから恐怖に彩られるようになったのだろうか。それがわからず、ただ泣いた。怖いだけではなく、心の奥底には、もし、先ほどの出来事を訪ねた時、この偽りの愛情が、ペパーの中から消えてしまうのではないかと、その思いが巡り、怖くて聞けなかった。それがどれだけ悪いことでも、ペパーにはそれをとがめる権利など、ありはしないのだから。


その6


 孤児院から離れた造林の中で、耳を劈くような音が響き。ターキーはそれにたたき起こされた。子どもたちの捜索願を出そうかと思ったが、この近辺のことを知り尽くしている自分たちが探した方が効率がいいと思い、それでも心配な自分がやはり人海戦術をした方がいいのかと決めあぐねて思案して――そのまま机に突っ伏して眠っている深夜の時間だった。
 音のした方へ視線を向けると、何やら小さな煙が上がっているようだった。雷でも落ちたのか、何が起こっているのか、天変地異の前触れか、いろいろな思いを巡らせながら、いの一番に院長室に駆け込んだソルベが息を切らせて矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「院長先生」頭の中で回る言葉を一気に吐き出そうとするのを、ターキーは手で制した。「ソルベちゃんの言いたいことは分かってる」わかっているといい、立ち上がる。まだ夢から覚めない自分の顔を思い切り叩いて、気合を入れる。きつけが終わり、大きく息を吸う。眠気を払い、ゆっくりと息を吐く。「何が起こったかはここからじゃわからない。子どもたちは?」
「寝てます」
 好都合だ、とターキーは頷くと、勢いよく扉を開ける。彼のこの乱雑な扉の開け方はソルベはあまり好ましく思っていなかった。扉を乱雑にあけるせいで、どうにも建てつけは悪くなる一方だ。少し軽く押すだけでドアというものは閉まるのに、なぜターキーはわざわざ思い切り開けたり閉めたりするのだろうと甚だ疑問に思った。
「乱雑な扱いをしないでくださいね、また壊れてしまいますよ」
 釘を刺すような声を聞いて、右手を軽く上げる、わかっている、という合図のようなものだったが、それが本当に分かっているかどうかは疑問だった。
 孤児院の扉を開けて、夜の闇を見据える。造林がとなり合いの木々を揺らし、ざわめきが輪唱する。深い闇に吸い込まれるように、ソルベとターキーは隣り合わせに走り出す。運動をしている人としていない人を分けるように、ソルベが徐々にターキーとの距離を放していき、それを見たソルベは、溜息をついて、速度をターキーに合わせる。
「院長先生は、もう少し運動をした方がいいかもしれませんね」
「それを言わないでくれ、雑務で頭の運動しかしてないんだ」
「運動するような頭が御有りでしたか、それはすごいですね」
 ひねくったような厭みが耳から脳に伝わって、ターキーは肩を若干落とした。陰で努力をしていても、日用雑務をこなしている女性に体力や持久力で負けるというのは、どうにも情けない気持ちだった。後ろ風が背中を撫でて、妙な敗北感を一層強くさせる。
(今はそんなことを考えている場合じゃないな)
 夜の風を手で避けながら、ターキーは杣道を疾走する。夜半が近づくにつれて、視界が狭まるように感じた。夜の闇というのは、恐怖を増長させるものだと思っていたが、もしかしたら恐怖が増長するのは、夜に視界が狭まるせいなのかもしれないと、ふと思う。夜に恐怖が跋扈するのは、深い闇のせいではなく、人の視界の狭まりと、思いこみによるのかも知れないと思いなおす。
(闇の中に、子供たちは消えて行った)
 最初にいなくなった時間は、夜九時を超えた辺りだったかもしれない、もう少し早いか、それとももう少し後だったか、そのくらいの時間のように感じられた。夏は夜がとても遅く進行し、七時前後ならまだ薄闇より前の、黄昏が少し深くなるくらいの日差しが照っている。そのくらいの時間になれば、子供たちは皆孤児院に入り、夕食をとり、あとは外出を固く禁じ、就寝時間に交代で見回りをして、完全に夜の世界という意識を切り離したら、自分たちも床につく。――そこまで考えて、ターキーは首を捻った。
(子供たちの人数が少なくなっていることに、なぜ気がつかなかったんだ?)孤児院の院長という職業上、子供たちの人数は絶対に把握しておかなければならない。そもそも、食事のときに子供たちは全員集まる、その時に三人いなければ違和感を感じないはずがなかった。(まるで、三人の存在が初めからいなかったような――)そして、夜の帳がおり始めたとき、ソルベが孤児院の子供たちがいなくなったことに気がついた。それまでだれもが全く気がつかなかったということに、少なからずターキーは責任を感じた。自分が把握しておかなければならない事柄を、おざなりに抜かしてしまったことに自分の仕事の責任感の浅さや、他人に対する感情というものが欠如していることに気がついた。(だが、なぜ気がつかなかった……)気がついたときには三人の姿は影も形もなく。部屋は隠遁者の残滓を追う様な形で、乱れたまま残されていた。包み隠されたものが露呈するような感覚に陥り、今まで気がつかなかったのは、誰かにその事実を隠蔽されたような気がしてならなかった。(そもそも、あの三匹は――特にバニラは……自分を前に押し出そうとはしない)ターキーの頭を悩ませているのは、バニラが影のようにどこかに行ってしまうほど、自己主張も、自分のことも曝け出さないことだった。それどころか、孤児院を見上げ、蔑み、嫌悪しているような意識さえ見せていた。それはだれに対してでもない、孤児院という固定の場所に対しての、あからさまな嫌悪だった。それだけならまだいいが、他人との接触も最近はほとんど拒んでいる傾向が強くなり、自分たちの責任ではないかと危惧してしまう。
 最初に孤児院にやってきたとき、バニラは物珍しそうな瞳を輝かせていたが、時がたつにつれて、彼女の思考は陰鬱な方へと傾いていくような気がした。何にしても興味を示さず、ここから抜け出すという意識を持ち始めている。それは明確にはわからないが、毎度毎度都会へと続く道を眺めては、後ろ髪を引かれるような思いをはせていた、その姿を見ていると、言葉や思いが伝わらなくても、意識の向き方でそういうことは把握していた。ターキーはその姿を見るたびに、自分たちの思いや愛情が伝わっていないのかも知れないと思い、悲しい思いがよぎる。親代わりになれたらいいという思いが、他人という壁を隔てて、溝ができるのは仕方がないと思っているが、バニラの様にあからさまな拒絶や興味関心の対象をずらされるのを見ていると、自分たちのやっていることは、まるで愛憎劇の猿芝居の様にな感覚が頭を支配して、自分たちの行動が時たまに下らなく思えてしまう。子どもの反応を見るだけで、そんな思考が頭をよぎることが、自分たちの職業をすべて否定するようで、意味のない葛藤に頭を痛める。
 結局のところ、自分達の思いは彼女には伝わってはいないということが、一番ターキーを困らせた。自分達の行動が空回りして、彼女はそれに対して何かを言うわけでもなく、子供たちの輪にも入らずに好き勝手に立ち振舞っている。それを孤児院の子供たちは快く思っていない節があるし、ターキーもそれは重々承知していた。なんとか子供たちの輪に入ってほしいという思いがあるが、それを表しても彼女は鬱陶しそうに払いのけるだけだろう。彼女と付き合っているほかの二匹も、最近は彼女と一緒にいることが多くなった。ほぼ他人に無関心の彼女がほかの人に興味を持つことが珍しかったが、彼女が打ち解けているのはその二匹だけで、あとはやはり自分勝手に振舞い、周りを遠ざけるだけ。それだけ考えて、この疾走は、彼女の仕業ではないだろうかという思いが一瞬だけよぎる。
(そう考えること自体が間違っている)それはわかっているつもりだった。しかし、ほかの二匹は彼女とは違い、協調というもの知っているし、ほかの孤児院の子供たちよりも大人のたち振る舞いをしている、そんな二匹――ソルトとピールがむやみやたらと危険なことに片足を突っ込んで、闇の中に失踪するようなポケモンには見えない。(バニラが、ソルトとピールを引いたのか)あるいは、と考え直す。闇に三匹が引かれてしまったのか。そしてそれを覆い隠すように、記憶から抜き去ったのか――わかりかねて思案をしていると、音のした場所へたどり着いたのに気がつかず、ソルベの声で我にかえった。
「院長先生」
「……ああ、これは」
 一本の木が、ひどい攻撃を加えられて折れ曲がっていた。よく見た傷の後、なぞるような切り傷、燃えた跡ではなく、雷に打たれたような焦げ跡、そして固いもので叩きつけられたような跡。自然現象ではなく、あからさまな狂人の類による危害だった。ターキーとソルベはお互いに顔を見合せて、何やら見慣れたものを見るような顔をした。
「これは……まさか」
「ああ、恐らくな」
 明確にはどうだかわからないが、この近辺でこんな傷跡をつけられるのは、ターキーが知る限り三匹しかいない。なぜこんな傷跡が、こんな場所でつけられるのだろうか、三人がつけた悪戯か、それともただ単に偶然なのか、しかし偶然にしては出来すぎる。
「ソルベちゃん、俺は」ターキーは軽く絶句し、わずかに喘いだ。「俺は、何が何だかわからなくなってきた」
「どうなさいました」
 ソルベは周りの闇を見つめる。
「ソルベちゃん、俺は今日まで物の怪の類を信じなかった。闇に跋扈しているものなど存在しない。闇はあくまで闇の姿を映しているのだと。けれど今は宗旨替えをしたい気がする」
「院長先生」
「これは何だ?珍妙な見世物か何かか?こんな深い宵の中で、知らず知らずのうちに誰かがこんな傷をいきなりつけて、そして悪戯に姿をくらましたのか、馬鹿げている、そうさ、馬鹿げているとも」
 ターキーは眉を寄せた。
「近頃この夜はどうなってるんだ。いつから夜はこんなに危険なものになったんだろうな」
「落ち着いてください、院長先生」
 ターキーは頷いたが、背中にへばり付いた恐怖は拭えなかった。体が震えるのも、止まらなかった。
「瓦斯灯が作られて何百年たったんだ?文明開化はとっくに終わっているのではなかったのか?文字通り暗がりに明かりをくれたのではなかったのか。電灯やら瓦斯灯やら、明かりをともして闇を追い払ったのではなかったのか」
 だが、闇は世界の夜とい時間に依然として張り付く。そこに跋扈して、異様な恐怖をあおるものだ。
「俺は暗がりに怯えて泣きわめくほど子供じゃないが、化け物に怯えて手水を怖がる子供でもない。それでもな、ソルベちゃん、開化開化と言いながら夜が開かれないのはなんでだろう。良い時代が来るのではなかったんだろうか、古き忌みものが一掃されて四平平等の合理的な近代的な世界が来るんじゃなかったのだろうか。俺は少なくともお上がそう宣言したことは覚えているぞ」
 自身の中にたわめられたもの、恐らくそれはこれに対する恐怖ではないのかも知れないと、ターキーは我ながら思った。
「開化など、嘘だ。誰もが新しい時代が来たふりをしているだけなんだ。四民が平等ならなぜ華族がいるんだろう。華族院などというものがあるんだろう。文明国家の幕開けというのなら、どうして下長屋はあんなに貧しい。事あるごとに大火がおこって街が灰になるのはなぜだ。疫病やらなんやらで、人が将棋倒しに死んでいくのはなぜだろう」
「院長先生」
「何一つ開かれてはいないんだ。電灯や瓦斯灯なんてものも、その昔異人がこの大陸に持ち込んだ珍妙なものと何ら変わりはしない」
 文明は幻想であり、開花もまた幻想だ。問題は内外を問わず山積している。列強と軋轢、膨張する都市の最下層に汚濁のように淀んだもの。都会に行った時には感じなかった裏の腐臭の漂う得体のしれないものを、今なら感じ取れる気がした。
「化け物は、あれは過去の遺物だよ。堂々と国を、この世界を蝕んできたものの一つさ。文明がそれを駆逐できないのなら、どうしてほかの者も駆逐できるんだろう。新しい世などというものはきやしない。古い忌みものが形を変えて、そこに蠢いていることになりはしないだろうか。新しい良い世が来ないなら、何のための革新だろう。時代の力が革新を産まないのなら、人は何のために時代に巻き込まれていくんだろう。俺たちは時間か。生きて死ぬことで時間を埋める、それだけの値打ちしかありはしないことにならないかい」
「落ち着いてください、院長先生」
「俺はね、ソルベちゃん。怖いんだ。正直に言ってしまえば、夜が怖い。昔の夜というのは、それはそれは瓦斯灯なんてものがなく、底冷えするような恐怖が這ってくるんだろうと思った。俺は自分が生まれた時代に感謝したい。瓦斯灯はついて明るくなった世界は、少なくとも夜の恐怖を緩和してくれると思っていた。だがどうだろう、都会はこんな辺鄙な場所に瓦斯灯をつける余裕はなくても、くだらない建物を建てるだけの余裕があるんだ。平等じゃない。そう思ったとき、俺はわかったよ。夜の恐怖は、まだ続いている」
「時代は変わります。いい方向にも、悪い方向にも」
「そうだな、その通りだ、だが、変わっても変わらなくてもだ、今目の前の恐怖というものを見せつけられて、自分は安心して枕を高くして眠ることができるだろうか。そうじゃない、そうじゃないんだ。人は得体のしれない闇に恐怖するのではない、闇に跋扈する、得体のしれないものに恐怖するんだ」
「まだ、彼らが異形のものになったという確信はないです」
「だが、げんに失踪している。それも、俺たちは気がつかなかった」
 それは、とソルベは口を詰まらせた。言いあぐねて、口を固く引き結んで閉口する。
「あの子たちは――異形の者に魅入られたんだと思う」


その7


「なんだよこれ」
 複数の扉には同じような謎解きが施されており、それは念力の余波で糊付けしたような硬さで、やはり扉はその謎を解き明かさない限り解けはしないものなのだと、全員が理解した。謎を知恵を絞って溶きながら、扉を開ける、残滓を意識に溶け込ませて、バニラ達は家の中の回想を複数見た。見るたびに顔が歪み、ペパーは震える。ソルトはいたたまれない気分になり、ピールは嘔吐した。
「なんだよこれ」
 見取り図の前に戻ってくるまで、だれも口を開くことはなかった。バニラは第一声を口に出し、思い切り壁を殴りつける。何か嫌な感じがするとは思っていたが、ここまでとは分からずに、思い切り壁を蹴りいれた。少しだけ埃が舞いとび、乾いた音が無人の洋館に響き渡った。
「お父さん、お母さん、旅の人に悪いことばっかりして、殺しちゃったんだ……僕は、それを見てしまった」
 思い出し、思い起こすように、ペパーは悲しげに眼を瞑る。それは思い出したくても思い出したくなかったことかもしれない。そして、それをいくつも見てしまったバニラ達も、これは見せるべきではなかったのかも知れないと、見終わった後に後悔の念が頭をよぎる。
 キリキザンは焼け焦げて死んだ。オノンドは首がねじ切れて死んだ。少し身分の高そうなレパルダスも、同じように焼かれて死んだ。複数の扉の中で見た者は、種族さえ違えど、眠っているところを力を加えられて、散っていった命、そこからあさましい強欲な思考が割り込み、死体を漁る。夫婦で共謀した。旅人を殺害するこの行為。それを何度も何度も見せつけられて、バニラは頭がどうにかなってしまいそうだった。
 この屋敷の残滓を追い、ペパーの記憶を取り戻せば、この場所から抜け出せるかもしれない、そんな思いが鳴りをひそめた。これは思い起こしてはならない。忘れるべきものだと、そういう気がしてならなかった。
「ごめん、みだりに思い出した方がいいなんて」
 バニラは苦いものを噛み潰したように俯いて、抱きかかえていたペパーをゆっくりと地面に下ろした。手の中にある重みが消えて、代わりに心の中に重いものが溜まりこむ。手放してしまったという行為は、自分には彼を抱き上げる資格など、もうないと思ってしまったのかもしれない。呼び起こしたくないものを呼び起こし、思い出してはいけないものを思い出させてしまった。罪悪感と一緒に、べっとりとしたものが喉に張り付いて、うまく言葉が出なかった。かすれた声を漏らしたバニラを見て、ペパーの顔は悲しみにくれる。
(やめてくれ、そんな目で、僕を見ないでくれ)
 責めてもらった方がいくらか幸せだし、きっと詰られた方が気が楽になるだろう。陰口や陰湿な行為が気に入らない彼女は、同情めいた視線を向けられることも嫌だった。思い切り叩きつけるような言葉を言ってくれた方が、まだましだ。ソルトもピールも、何も言わなかった。それが帰って、バニラは心を抉られるような気分だった。
「バニラお姉さんは――悪くないよ」
「なんでそう言い切れるんだ」バニラは声を高く上げた。「僕のせいだ。君が嫌だと言ったときに、じゃあやめようかって、僕は言わなかった。自分の私利私欲にとらわれて、君に嫌なものを見せてしまったんだ。それだけじゃない、僕がこんなところに来てしまったのも、二人を巻き込んだのも、全部自分のせいなんだって、僕だけが迷えばよかったんだ、この家の中に、とらわれればよかったんだ」
「バニラ、やめろ」
 ソルトは首を横に振って、軽くバニラの頭に手を置いた。は、と我に返ったように、バニラは口を引き結んだ。誰もが悪いわけではない。わかってはいるが、どうしてもそう思う。自分を引き寄せたのは誰でもない、自分の欲望なのだと。わかっていても、どうしても割り切れないものがあった。
「バニラだけが悪いわけじゃないですよ。私たちも、出たいという思いが先行しすぎてしまったのは間違いないですから」
「僕も……僕も自分で大丈夫っていったから」
「でも、僕はここに来ることに、寂れた洋館を見て、好奇心の方が勝っていた」
 ペパーの言葉と、ピールの言葉が耳に入る。しかし、大本をたどれば自分の責任となる。どうにも煮え切らず、それでもバニラは言葉を口にした。
「僕は最初、ペパーのことを少しだけ羨ましく、妬ましく思ってしまった」ペパーはえ、と声を出した。その言葉を聞いた二人も、いつもとは違うバニラの姿に、少なからずの驚きのようなものを見せていた。眉根を寄せた三人を見比べて、ゆっくりと息をついた。「最初に見た時は、家の「ソト」と「ウチ」を自由に行き来できる自由な子供だと思ったんだ。それでいて家に入れない、決まった時間に戻ることなく、ただただ奔放できるなんて自由な子供なんだって。僕にはそれが本当に羨ましく思えて、ペパーを少しだけ恨んだ。他人は他人、自分は自分、置かれた状況はいつでも帰ることができる。それがわかっていても、やっぱり求めてしまうものだって、その時思ったよ」
 だけど違った、とバニラは息をついて、首を振る。
「ペパーの過去を見たときに、僕は間違っているとわかるには、人の過去を除くことでしか、自分の間違いに気がつくことができない奴だってわかった。家庭が恵まれていて、環境が恵まれているなんて、本当にわかるのは人の過去を残滓で垣間見たときだけだ。僕はペパーの言動だけで彼を裕福な家庭に生まれ育ち、親の愛情を受けて育ったと思った。けど違う。境遇がどうであれ、ペパーは束縛されていたんだ。何にも縛られない自由というものに束縛されて、そのせいで彼の両親のやっていることを、止めることができなかったという自責が、たまっていることが分からなかった」
「それはそうだ、バニラはペパーじゃない、ペパーの気持ちは本人にしかわからない」
「そう、だけど僕たちは、ペパーの家の残滓を見てしまった。――彼がなぜ家に入れなかったのだろうと、疑問に思ったのが、わかった気がする。僕たちが入れたのは、客だから――」
 バニラの言葉を聞いた時、ぴく、とピールの鬚が動いた。何かを分かったような顔をして、そして、それを分かりたくないような、わかってしまったことに対しての、何か間違えてしまったような、複雑な影を落として、口を開いた。
「なるほど、「ソト」を招き入れ、「ウチ」を追い出す。「ウチ」の中のやっかみ事を払って、「ソト」の幸運を招き入れる。屋敷の「ソト」からやってくる旅人っていうのは、この屋敷の夫婦にしてみれば、いいカモってことなんだね」
「ペパーが入れなかったのは「ウチ」の厄として扱われていたから。僕たちは「ソト」の福として――」
 いや、とソルトはあごに手をあてて、ふむ、と思案した。
「福として、というよりも、肥やしとして、って言った方がいいかもしれないね」
 それに対して、ペパーはびくりと体を震わせた。蝋が飛び散り、地面に数滴落ちて固まる。その言葉に対して何か恐ろしいものでも感じているのか、嫌なものを見るような眼で、バニラの後ろに隠れ、ソルトを睨みつける。ソルトはそれを真正面から受け止める。しばらく睨みあい、そしてペパーは悲壮な顔をして俯いた。
「僕……いらない子だったんだ……あの時、部屋の中を見ちゃったから、僕が見なかったら、ぼくはいい子で、ずっといい子で――いい子で……?」
「ペパー?」
 バニラはペパーの顔を覗き込んだ。きょとんとしたというよりも、何か視線の先に恐ろしいものでもいるような印象を受けた。夜に跋扈する妖怪は、まだこの屋敷に巣食っているということを、まるで再認識させるように、金色の瞳が何かをとらえたように入り口の一点を見つめる。その先にあるものをバニラは何とするのか、首をゆっくりとその視線の先に移動させ、瞳を細める。そこに今までなかったもの、そこにいきなり現れたもの、先ほどまで残滓で追っていた「ウチ」の中にある。悪意そのものの形が二つ、バニラの瞳に焼きついた。
「――ッ」声にならない声を出し、指を刺す。たったそれだけの行動が、ソルトとピールにも、見えなかったものを映し出す。「なんだ」ソルトが目を見開いて、視線の先に映ったものに対して顔を引きつらせる。ピールも何か間違ったものを見たような顔をして、何度も目を瞬かせる。こちらを見ているその影は、ゆっくりと姿を、形を変えて、一つのポケモンを形作る。
『あの子が出て行ってから、ずいぶん経ちましたね』
「おい、お前ら」バニラが歯を剥き出しランクルスに掴み掛ろうとしたが、す、と体をすり抜ける。面喰ったように振り向くと、その後ろにソルトとピールが見える。「ダメだよバニラ、これは残滓なんだ」ピールが首を横に振りながら、そういう。わかってはいたが、目の前に現れたそれをただ指を咥えてみるということが、バニラにはできなかった。「気持ちはわかるけど、これは家の中に残っている思いなんだ。少し落ち着いて様子を見よう」
 ソルトの諭すような口調に、バニラは釈然としないものを感じながらも、首を縦に頷かせる。彼女の心に落ち着く、という言葉は今は念頭にすら現れなかった。
『ああ、もう特に気兼ねをする必要はないな。あの子に感づかれる前に、自立してよかったと思ったよ』
『ばれてしまえば、あの子の心は歪んでしまいますものね』
 何気ない会話のような声だったが、そこにはまるで感情というものが籠っていない、死体同士の会話を聞いているようだ。残滓とはいえ、会話にすら感情をともせないほど、この二人の関係は深くなかったというのだろうか、それを知らぬうちに考えただけで、ぞ、と背中をうすら寒いものが走った。この二人はあくまで、共犯というもので繋がれていただけなのか。家族という言葉で、息子と親、そういうもので繋がれはしないのか、それを考えて、ぎり、と歯を軋ませる。
 まるでそこにいる二人は、黙して語るような姿を形どり、会話をしなくても特に苦にはならない――そういう自然な親しさのようなものを感じたが、それ以上に感じ取れるものは存在しないようにも思えた。それがますます不快感を誘い、バニラは警戒心をむき出しにして、注意深くその残滓の会話を耳で拾った。
『あの子には私たちの行動を知らなくていいのですね』
『当たり前だ、私たちの様になる必要はない。私たちは私たち、あの子はあの子だ』
『そうですね――それにしても、めっきり客が来なくなったじゃァありませんか』
『勘付かれたのかもしれないねェ……もっとも、こんな辺鄙な場所にある宿屋など、だれも勘付きはしないと思うがね』
『そうですね、死体など、すべて庭の肥やしになりますもの、世俗ではまぁそれはたいそうに失踪事件などと騒がれていますが』
『大した問題ではないさ。ここに来る客は皆、私たちの本質に気づきはしないのだから』
『気づいたとしても――』
『そうだ――その時にはもう終わっているとも』
 くぐもった笑い声が聞こえる。眉根を寄せて、バニラは口内を下顎の犬歯で思い切り突き刺した。勢いよく生暖かいものが噴出し、目の前の残滓を見据える。見下げ果てた畜生根性をまき散らす強盗殺人犯は、愉快に笑い、次の客を待つ。客が来たのならば、柔和で平和的な外面を取り繕い、ゆっくりと警戒を腐敗させていく――そして、仕留める。狡猾で残忍、そして人の情など一切籠っていない、自分たちの本能に貪欲な二人の化け物。静寂が支配する空間に、外側からのノックの音がした。
『夜分に申し訳ありません。道に迷ってしまいまして、開けてはもらえないでしょうか』
 来た、という思いを、二人は持った。何を持っているのか、身分はどのくらいか、そのあたりは今までに手にかけてきたポケモン達の外見や気品から察することができる。何が大事かは、そのポケモンが何を持っているかであり、ポケモンそのものに興味など微塵も無かった。どうせ、朽ち果てるのだからと、シャンデラはうっすらと笑みすら浮かべて、ゆっくりと戸をあける。
『いらっしゃいませ、こんな夜分まで道にお迷いなされて、さぞ大変だったでしょう』
『ええ』ドア越しのポケモンは、身なりのいいランプラーだった。同種族ということもあってか、妙な感覚を覚えたが、特に気にすることなどなかった。『宿があって助かりました。ここは宿で合っておられるのですね』
『ええ、辺鄙な場所ですが、宿屋であることに変わりはありません』
『申し訳ありません、誠に勝手ではありますが、一晩の床を恵んではいただけないでしょうか?』
『お客様がそれを遠慮したとしても、それを与えるのが私たちの仕事です。では、名簿に名前をお書きしますので、名前を教えていただけないでしょうか?』
『私は、ペパーと申します』
 羽ペンを握ったランクルスの動きが、止まった。ペンを置き、しげしげとランプラーを見つめる。『どうなされました、私の顔に、何か』ペパーの声を聞いて、ランクルスは首を横に振った。『いえ、息子と同じ名だったので』
『ああ、なるほど』
 ランプラーは両の手を叩いて、微笑む。
『息子さんがいらしたのですか、同じ名前は世界にたくさんありますから、そういうものを思い出してしまうというのは、仕方がないでしょう』
 そういうペパーという名のは何かを探りいれるような不思議な目線をランクルスに合わせて、もう一度微笑んだ。それが何か恐ろしいもののように見えて、ランクルスは少しだけ体を震わせた。まるでその視線から引き離すように、シャンデラはゆっくりと体をランクルスの前に動かして、うすら笑いを浮かべる。
『お客様、もうお時間が過ぎておられます。今後の行動はいかがいたしましょうか?』
『ええ、そうですね』ランクルスは少し思案をしたようにこつり、と自身の体を撫でた。き、と金属が発する不快な音が響いて、ランクルスは背筋を伸ばした。『こんな時間に飯を持ってこいというのもおかしいですし、私は眠らせてもらいます。本当にありがとうございます』
 そういうランプラーは、多少早口に言葉を吐き、その後は視線を忙しなく動かしていた。周りを見ている、というよりも、何かを懐かしみ、そして憐れんでいるようにもみえた。憐憫な視線をあちらこちらに向けているランプラーから少し離れ、低い声で二人は話をする。
『何か怪しい客だね、感づかれたのかも知れない』
『そんな……』ランクルスは不安そうな顔をする。今までやってきたことを考えれば、当然の結果と言えばそうだが、シャンデラはそれに対して何か後悔や疑念を持とうとはしなかった。舐めあげるように炎が揺らめき、暗がりに自分の姿をゆっくりと浮かび上がらせる。『勘付かれてしまったのなら仕方がない。明るみになる前に片づけてしまえばいいのさ』
『でも……』
 ランクルスは明らかに狼狽したように、ちら、とペパーと名乗ったランプラーを一瞥した。ランプラーはその視線に気がつくことはなかったが、ランクルスはその視線を成長した息子のようなものに重ね合わせて、そして何か躊躇するような意識が頭に入り込んでいる。そんな彼女を見て、シャンデラは乾いた笑い声を抑えた。
『君はおかしなことを言うんだね、彼の名前が本物かどうかも分からない、もしかしたら偽りかもしれないじゃないか、探りいれに来たのだとしたら、自分の本名をそう易々と明かしはしないさ、こちらの動揺を誘うようにしてあるのだとも』
 本当にそうだろうか、と首を傾げる。もしかしたら、自分たちはとんでもない勘違いをしているのではないのだろうか、と頭に浮かぶ思いすらも、シャンデラは笑い、ゆっくりと言葉で打ち消していく。
『あんな言葉に騙されるなんて君らしくないな。もし息子なら、この屋敷に戻ってくることなんてないのだからね、何、いつも通りにやればいいのさ、そう、いつも通りにね』
『え、ええ、そうですね』
 まだ躊躇が残っているようだが、意を決したようにランクルスは体を動かして、ランプラーの方に寄っていく。部屋にご案内します。という声、階段を上がる二人を見上げながら、口の端を吊り上げる。こちらの動向に気がついたところで、相手は何もできないだろう。何かをする前に、こちらが始末する。
『ごゆっくりお休みくださいませ、お客様』
 誰にいうわけでもなくひとり呟くシャンデラは、扉に入る二人を見送ると、ゆっくりと食堂の方へと消えていった。
「……あれは、あのランプラーは」
 君なのか、と言おうとして、ペパーの方を向いた。ペパーは何も言うことはなかった。ただただ、三匹のやり取りを目で追い、細い瞳が厭うように入った扉に向けられ、眉を顰めて、険しい眼の色をそのまま食堂に移す。
「あれは、僕……僕だ」口から吐き出した言葉に、ソルトとピールはぎょっとした。お互いに目を見合わせて、もう一度ペパーを見る。探り寄せるような瞳に気がついたのか、それとも刺すように凝視していたことにむず痒いものを感じていたのか、ペパーは薄い笑いを浮かべて、悲しそうに影を落とした。「僕は、大きくなってもお父さんとお母さんのことが忘れられなかった、二人はきっとまだああいうことをやっているんだって思ってたら、止めないといけない、そう思った。ううん、そう思ったんだと思う。わからない、まだわからない、でも大体思い出した」
 忘れていたものを思い出したように、ペパーは先ほど入っていった扉を見た。そこはまだ明けていない、まだ中を見ていない扉。最後の客室。そこは割合、飛ばしていたわけではないが、扉の向こうから伝わる何かが、大切なことを隠蔽するようにバニラ達を弾く様な邪気を放出していた。そしてその中に入っていったペパーと、ペパーの母。残滓だとしても、次にはいる場所はそこだ、と言っているような気がしてならなかった。
「……あそこには、入るべきか」
 ソルトは口に手をあてて、思案した。冷汗が伝い、体中に滑るような寒気が纏わりついた。あの先にある者を見ることができれば、記憶をなくしたペパーはおそらくすべての記憶を取り戻して――成仏するのかも知れない。あるいは、未練を残してまだこの家の中に、いや、家の外に自爆霊のように縛り付けられるのか。
 ソルトはペパーはもう死んでいる、という考えを予想から確信に変えた。頭の中にある引っ掛かりを解いて、確実のものとする。このヒトモシは幽霊だ、という確信が頭の中に擡げていた。
「ペパー」
「なぁに?」
「君は死んだポケモンだな」
 返答はない。ただ、ゆっくりと首を縦に頷かせた。バニラの体が一瞬だけ震える。ピールも、ぎゅ、と両肩を握り、力をこめた。
「うん、僕は、もう死んだポケモン。でも、どうして死んだんだろう?なんで家に入れなかったんだろう。わからないのは、きっとそれだけ――なんだと思う」
「ならここは、君の思い残りが作った、マヨヒガなのか……」
「マヨヒガ?」
「幽霊の思いや物のが形作った、残滓の塊みたいなものよ」
 ふぅん、とペパーは興味深げに話に聞き入った。バニラはその言葉を聞いて、頭の中で少しだけ思っていたことを思い起した。間違っていると思ったし、そんなことがあるはずがないと思っていたが、間違いなくソルトの口からは、マヨヒガ、と発せられた。
「わからないけど、きっと僕やお父さん、お母さんの思いがこの家の中にこもって、昔のことが思い起こされているのなら、マヨヒガ、じゃないのかな……」
 確信はないのか、少し声が低く、小さかった。おそらく魔術的な迷信や、土地の風習というのは疎いのだろう、自信がなさそうな声を聞いて、ソルトはなるほど、と頷いた。
「わからないならすまなかった。マヨヒガは、欲ある者は罰が当たる、守り家みたいなものなんだ。もちろん、すべてのマヨヒガがそうというわけじゃない。遠い国の童話にあったお菓子の家も、勝手に食べたから出られなくなった。一種のマヨヒガ、異国のお話に出てきた、ミーノータラウスの迷宮も、王の欲望が神の怒りに触れ、抜けられない迷宮を作り出した。一種のマヨヒガだ。だけど、この家は欲ある者が訪れるのではなく、家そのものが欲望に塗り固められていた。だったらこれはマヨヒガじゃないのか?とは思ったけれど、実質僕らは抜け出せない。だから、ここはマヨヒガなんだ。それもかなり特異な」
「それは、家の思いによって抜け出せないということになるのかな」
 ピールの言葉に、おそらく、とソルトは頷いた。旅人を招き入れ、そして永遠にソトに出すことはない。そして秘密を知った息子は、危険因子。ゆえにウチからソトへ出す。それは果たして危険だから外に出したのだろうか、といまさら曲解させる。だが、妙な部分は先ほどの会話を聞いて、少しあった。ペパーの名前に狼狽したランクルス、そして息子はここには来るはずがないと断言したシャンデラ。まるでこの家から自分たちの息子を遠ざけるのは、単に秘密を知ってしまったということを感づいているのではなく、初めから知っていた、というような思いを受け、それでいてウチからソトへ出す。という不思議な行動をしていたように思えた。
「……」
 静寂が支配して、無意識にバニラは先ほどの扉に視線を移した。それにつられたように、全員が扉に視線を移す。ここは何なのか、幽霊であるペパーはなぜウチに入れなかったのか、彼はなぜ死んだのか。すべての問いかけに答えるように、その扉はただ静かにそこに取り付けてある。
「ペパー……」
 バニラは何かを躊躇するような視線を、ペパーに向けた。その瞳にペパーは、何も言うことなく、笑って答えた。言葉よりも、その笑顔の方が、バニラは何かを決めたような顔に見えて、自分の心が締め付けられるような思いだった。自分たちが見てしまったものは、自分たちの記憶ではなく、他人の思い出。それを見ることで、ペパーの忘れていたものがすべて思い起こされる。しかし、それを本当にしていいのだろうか、と、怖気づいたような思いが心の中に擡げる。ペパーの記憶が呼び戻ることで、本当に自分たちはこの場所から抜け出すことができるのだろうか、という思いが頭に淀みのように漂い始める。
「ねえ――」
「大丈夫、バニラお姉さん。僕は絶対、後悔なんてしないから」
 やっぱりやめよう、ほかの方法を探そう、ここをしらみつぶしに探せば、出口だってきっとあると思う。そう言おうとした言葉を、ペコーはすべて取り上げてしまった。言おうとした言葉は口の中で弄ばれて、結局唾と一緒に胃の中に飲み下してしまった。両手で口を抑えて、ペパーを見やる。何もかもが分かっている、そういう思いが金色の瞳を通して、バニラの頭に流れてくる。
(ペパーは、僕が言おうとしたことをわかってて、それで)
 自分の言いたいことは、すべてペパーが遮ってしまった。ゆっくりと階段に近づいて、振り返る、滴るような紫が揺らぎ、ペパーの、邪のない頬笑みを闇の中に灯す。
「僕は、後悔しません。自分の記憶を取り戻して、このマヨヒガから、みなさんを出してあげます。出る方法がわからない、でも、今わかったような気がします。ここから出るには、僕がすべてを思い出す必要があるんだって。ピールお姉さんが一緒についていってくれると言ったとき、バニラお姉さんが喧嘩したらいいって教えてくれたとき、ソルトお兄さんがみんなを誘導して、この場所から抜け出そうって考えたとき、僕の家の思い出、一つ一つを思い出して、わかったんです。ここを抜けるには、僕がすべてを思い出すことが必要なんだって。それがどんな結果になったとしても、僕はきっと後悔しません。迷うことなく――逝けます」
 すべてを知り、そして自分の未練や後悔を残すことなく消えていく。ペパーの言葉は、静かな洋館に痛いほどに響き渡り、嫌が応にも、その言葉の意味を全員がわかるほどに、よく透き通って聞こえた。
「君は本当にそれでいいんだね」
 ソルトの問いかけに、勿論、と頷いた。ピールはバニラの方に視線を移した。バニラは、狼狽の色を見せ、何かを躊躇し、ソルトの声に制止をかけようとして、伸ばした手を引っ込め。自分の行動を恥じ入るように、耳をつかんで――口内を刺した。渋顔を作った彼女の顔は、いつも口の中を痛めつけた時。それがわかっているからこそ、何か靄のようなものを感じた。どうしてそこまで、彼女はペパーが何かを思い出すことを嫌がるのか、他人に干渉しないような性格の彼女は、どうしてペパーに対してはあのような態度を取るのか、ピールには少し理解ができなかった。ただ単に、ここで一緒に行動を共にしたからできた友情などというものとは違う様な気がした。もっと奥底で繋がっている、根強いものかもしれない。
 ペパーは、ゆっくりと階段を昇り始める。小さい体を大きく飛び上がらせて、一段一段を踏みしめるように登る。ソルト達はそれに続く様に、階段を昇り始める。先ほどの扉を視界にとらえながら、周りに視線を移動させる。さまざまな調度品は、恐らく自前のものから、人から強奪したもの、死体から漁り、手に入れたもの、そう考えれば、背筋がすっと寒くなる。この家は持て成しをするために小奇麗にしてはいるが、それはすべて本音を包み隠すもの。家の周囲を改めれば、恐らくその悪行の痕跡がすべて見つかるだろう。しかし、この家はもうすぐ消えてなくなる。なぜだかわからないが、そんな気がした。
「この扉の先に、ペパーのすべてを思い出す残滓が眠っている」
 バニラは誰にいうわけでもなく、たどり着いた扉の前でひとりごちる。扉は色が付いているのがわからないほど錆びつき、塗料がはげて落ちたような荒涼とした惨状だった。一つの扉を分け隔て、こちらと、あちらの出来事は切り離されている。扉を開け放てば、何が起こるかも容易に想像がつくかもしれない。それがバニラ達にとって良いことなのか、それとも悪いことなのか、それはわからず、果たしてわかるべきことなのか、その判断すら、曖昧模糊の混沌の中に放り出したい気分になった。自分たちのやっていることは正しいのか、間違っているのか、それとも、そのどちらでもないのか――
「大丈夫です、バニラさん、開けてください」
 ペパーの声が聞こえて、バニラは背筋を無意識に伸ばした。喉もとからせり上がるものが何なのかわからず、上ずったような嗚咽が漏れる。顔に冷汗をひとつ掻き、震える手をドアノブにかけた。体を目いっぱい前に押すと、埃がゆっくりと舞い上がり、扉は半分ほど開け放たれた。
「あいた」バニラは無意識に声を出す。あかなかった扉は開け放たれて、中の様子を少しだ伺わせる。「ああ、ここが最後の、この洋館の思い出なんだと思う」ソルトは、半分ほど空いた扉に手をつけると、一気に押し込んだ。埃が舞い散り、中の扉が完全に開く。視界に入り込んだものが、すべての真実を映し出すような――
――そんな気分だと、バニラは思った。


 静かに冷たくなった体を抱きかかえて、嘆く様な声が部屋中に響き渡る。大量の熱を浴び、ひしゃげた金属と、砕け散った硝子のかけらが周りに飛び散り。ランプラーはもの言わぬ肉体となり、それを抱きかかえたランクルスは、悲痛な叫びをあげる。
 いつものように眠ったポケモンに対して、手を下した、一瞬で命は散り、そして荷物を漁った時に、ランクルスは見つけてしまった。見つけてはいけないもの。写真立てに入っていた一つの写真。家族と映って笑っている人もし、隣り合わせで座り、柔和な笑みを浮かべて写真に映る、ランクルスとシャンデラの顔。その絵に偽りなどなく、ただの平和な情景を、一つ切り取り、そこに保存した、何の変哲もない写真。そこに映る姿は、間違いなく自分たちだった。
「ああ、私たちの子供が、そんな、うぅっ……」
 ランクルスは死体に縋りついて、泣き崩れた。悲鳴は嗚咽に変わり、嗚咽はまた悲鳴に変わる。シャンデラは茫然と、その姿を見ていた。ただただ、目の前にいるランプラーが、自分の息子だったと気がつかなかった自分が、あまりにも愚かで、そして自分がやってきたことが、あまりにも罪深いことだと思い起すには、時間がかかりすぎた。
「馬鹿な」シャンデラは呟いて、がくりと地に落ちた。燭台の炎が、床に燃えて広がる。自分自身の炎の力も制御できないほどに、精神が乱れる。体が瘧のように震えだし、瞳からあふれる温いものが頬を伝う。「馬鹿な」うわ言のように呟き、もう一度ランプラーの姿を見る。「私の息子を――私が?」
「ああ、お願い、目を開けて、こんな、こんな、なんて惨い」
 惨い、という言葉にはいささか語弊があるかも知れなかった。今まで散々惨いことを他者にやっておいて、などといまさらながらシャンデラは思った。そして自分の息子が同じ現実に直面したら、可哀そうだとか、惨いとか思ってしまう。これこそ罪を犯したあかしなのではないかと、無意識に思う。
「きっと、神様が私たちに、罰を与えたんだわ」
 罰と聞いて、泣き崩れて悲痛な声を上げるランクルスを見る、炎はすでに入り口を塞ぎ、部屋全体を燃え上がらせる。洋館は次々に火の手が上がり、宵の夜を明るく照らしあげる。自分の息子の亡骸を抱き、くずおれる。ランクルスの顔を見ると、悲壮と恐怖、懺悔と後悔の色が滲み出ていた。自分たちが何をしたのか、今まで何をやってきたのかを、ありありとわからせる顔だった。これは罰ではなく、当然の報いなのだと、彼は顔を歪めた。
「私たちの息子、ああ、こんな姿になって、気がつかなった母を、私を許して」
 許す、許さないの問題ではないのかもしれない。許すも何もない。初めから自分たちは許される存在ですらありはしない。今までの行為は、懺悔をしたところで清算されはしないのだ、心のどこかでそれがわかっていながらも自分たちの欲望にとらわれて、それを止めることができなかった。罪深き行為は、自分たちで実の息子とわからずに手にかけ、死体を漁った。その事実がせり上がり、吐き気がこみ上げてきた。喉の奥まで登ったそれを、何とか抑えて飲み下す。せき込み、いまさら思い出したように、感情が溢れた。
「おお……おおお……っ!なんと、何と言うことだ……」
 自分たちの行いがどれほどの結果をもたらしたのか、それを知った時には、すべてが遅すぎたのだと自覚した。その時に、これは終焉だ、と理解した。一つの年を跨ぎ、ずっと前からおこっていた、惨劇に終止符を打つ、終焉なのだと。終着点についた彼らは、今までの出来事を思い起こすだろう。そして、それがいかに人道からはなれた愚かな行為であったのかを悟るだろう。そして――
――そして、燃え広がる洋館が赤々とした炎を纏い。二人の夫婦と、その一人の息子と一緒に、焼け落ちる事実はすでに確定していた。
 燃え盛る炎に包まれて、泣き崩れる妻の姿も、もの言わぬ息子の姿も、そして自分達が間違っていると後悔し、くずおれる自分自身も、すべてがすべて、焼けて崩れる。繰り返されてきた一つの悪行が、炎に包まれて、今、幕を下ろそうとしていた。


「――全部、思い出しました。僕は、両親に殺されたんです」
 気がつけば、部屋全体が炎に包まれていた。それだけではない、火の粉が唸りをあげて、洋館全体が炎に包まれていた。これは先ほどの出来事の続きなのか、とソルトは思う。炎の熱は感じることなく、自分たちは炎に焙られても、熱いと感じることも、焦げるような痛みを感じることもない。これは、このマヨヒガの終わりを告げているのだと、静かに思った。幻の類だとわかっていたとしても、炎に焙られていると、体温が一気に上昇したような感覚に見舞われる。すべてを見て、洋館の謎を、思いをすべて解き明かした時に、幻の家は燃えて消える。人を閉じ込めるという欲望よりも、ソルト達のここから出ること、そして、ペパーの記憶を取り戻すこと。その思いが、家の欲望に打ちかったのかも知れなかった
「僕は、この屋敷に住んでいた」ペパーの姿は、ヒトモシのそれから、いつの間にかランプラーに変わっていた。幽霊体がすべてを思い出した時に、本当の姿が映し出された、ということだろうか、ピールは夢を見ているような気分で、瞬いた。「子供のころに見た、両親の犯罪行為。それを見た時から、その姿が忘れられなかった。死体を嬲るように漁り、下卑た笑みを浮かべた両親の姿、呵責のない行為を見ていて、自分はいつからか、彼らを止めたいと思った。だけど、成長した自分が戻ったところで、両親は自分の姿に気がつくこともなく、無情に行為を続けたんだとわかりました」
 その声は淡々としていた。それは自分が死んでしまったという事実よりも先に、自分が止められなかったということに対しての後悔が強かったのかもしれない。バニラは息をのんで、ペパーの姿を見ていた。
「このマヨヒガは、きっと僕の後悔が作り出したものだと思います。両親を止められなかった後悔、自分がもっと問いただしておけば、こんなことにならなかったという後悔、だけど、後悔するだけで、自分は未練を残してしまい、バニラさんたちをここに閉じ込めてしまった。彼らの行いを止めてほしいという思いで、旅人を招き入れ、自分を外に押し出した。それは、旅人をここに呼び込むため。茶番です」
 自嘲気味に笑う。その姿を見て、バニラはまた、口内を刺した。何か忘れていることはないのか、このまま消えてしまっていいはずがない。そう思っても、これ以上思うことなど、何があろうか、自分で自分に問いかける。もともと他人に対して無頓着だったのだ。いまさら何を思い起こす必要があるのだろうかと、自分に言い聞かせる。なぜこんなにも、ペパーのことに対して自分は感情を露わにするのか。それがわからずに、思考に暗澹としたものが垂れこめる。時間は過ぎていく、何か言わなければ、一生後悔することになる。おそらく、それはペパーも、自分もそうだろうと――
「もう迷いが切れました。皆さんをここに迷い込ませてしまったこと、両親の行為、すべてが燃えて、消えるでしょう。皆さんは元の場所に返します。本当にありがとう――」
「ペパー」
 バニラが呻くような声を出した。
「僕は――結局、両親に愛されてなどいなかった」ペパーの声は上ずり、今にも消えてしまいそうなほど、儚げだった。「愛されていたと、錯覚したかったのかもしれません。両親が注いでくれた愛情は、すべて幻、外見を取り繕うためのもの、良き母を演じ、良き父を演じるための、上っ面を覆い隠すための行動。自分はそれを、両親の愛なのだと、錯覚しただけでした。事実、私は死に、両親は私を殺して、初めてその存在に気がつきました。最後の最後まで、私は愛されることがなかったのかもしれません。最後に後悔をしてくれた両親を見て、少しは私も救われたのかもしれません」
「違う」
 バニラは声を張り上げた。今までなぜ、こんなにもペパーに対して自分が駆け回っていたのかが、理解できた。初めてペパーにあった時の夜、両親の名を叫んだ彼を見て、妙な苛立ちに包まれた。そして、彼は恵まれている存在だと思い込んだ。記憶を手繰り寄せるたびに、その気持ちは少しずつ薄れていった。そして今、はっきりとわかる。ペパーは、自分と同じなのだと。
 両親の愛に飢えるもの。愛と錯覚しなければ、自分ははなされてしまう。それが怖くて、何もできなかったペパー。それと対になるように、孤児院のシスター達の言葉を突き放し、子供たちの輪に入らず、自分を見るものだけを受け入れた自分。それは対局で、非常に似ている。まったく違うようではあるが、根は同じだ。結局、自分もペパーも、愛されることを望み、それを欲しがった小さな子供だと。違うとすれば、自分はシスター達の愛情に気がつくことなく、突き放していたこと、ペパーは、愛されることを望み、模造の愛だと思いながらも、それを受けていたこと。だが、ペパーは違うと、バニラは思った。
「違う?」ペパーは俯いた顔をあげる。涙が浮かんだ双眸を、バニラに合わせる。ソルトもピールも、バニラを見ていた。「君は愛されていたんだ。ペパー」
「愛されて……いた?」
「そうだよ、君は両親の愛を受けていたんだ。犯した罪に対する懺悔、恐怖、後悔、それがなくなれば、もうそれは人じゃない。君の両親は人じゃなかったかもしれない、間違っていたかもしれない。だけど、最後には懺悔した。後悔した、自分たちがやったことに対して恐怖した。それを取り戻したのは、君を殺めてしまったからだ」
 息を大きく吸って、バニラはあらん限りの力で、消え入りそうなペパーに向けて、言葉を叫ぶ。夜の空に響くほどの、大声で。
「君が愛されていないと思ったのなら、それは違うって何度でもいい返せる。両親は君を愛していたからこそ、自分たちの間違いに気がつくことができたんじゃないのか!?彼らは人だったんだ。人じゃなければ、君を殺しても何かを感じるわけがない、だから、人なんだ。ちょっと道を間違えてしまったけれども、自分たちの犯した罪に対しての懺悔、後悔、そして恐怖。それは君という愛する者を失って、初めて分かったことなんじゃないのか!?接する形は取り繕いだったかもしれない、模造かもしれない、だけど、君に注いだ愛は、取り繕いでも模造でも何でもない、本物の「愛」じゃないのか!?」
「……」
 わからないという様な顔をしたペパーを見て、バニラは燃える屋敷を見渡した。この屋敷が崩れ去る前に、ペパーに伝えたかった。先ほどの光景を見て、最後に後悔した父と母の姿、本当に人だとしたら、絶対にある、その確信を持って、長い廊下の先を見据える。
「ついてきて、ペパー」バニラはペパーの腕をつかむと、燃え盛る扉をくぐりぬけ、廊下を走りだす。ソルトとピールは突然のバニラの行動に面喰い、その場で騒然と立ち尽くした。バニラは確信を秘めたように、階段を降り、広間の周りを見渡した。最初に見た残滓は、食堂からあらわれた。そしてその近くにある扉――ペパーの部屋の扉の前まで、ペパーを引っ張りまわした。自分は愛されていないと思っているペパー、それは絶対に違うと、断言した自分の言葉を後押しするように、そこに立っている。
「ここは、僕の部屋」
「本当に愛がなければ、こんな部屋はないはずだ。開けよう。そこにあるんだ、確かにある、君への愛が」
 ペパーは、呆然と、しかしゆっくりと扉に手をかける。燃えて広がる屋敷の中では、もうすべてが消えてなくなる。遅々とした行動だったが、ペパーは確かにドアを開け、中の光景を見た。その先にあるものが、本当に何なのかはバニラにはわからない。ただ、そのさきにあるものが、彼の忘れかけていた思いを呼び起こすものだと、彼女はほぼ確信に近いものを感じていた。たとえその先に見えるものがただの部屋だったとしても、そこにはペパーが過ごした痕跡があり、思い出が残っている。崩れ落ちる前に、その思い出を拾うことができれば、彼は決して作られた愛情に包まれたのではなく、本当に愛されて育ったと認識することができるだろうと、間違っていたとしても、何かの反応はあるようにと、バニラはほぼ縋るような思いで、ペパーの後ろを後押しするように、扉の中に入っていった。


 そこに火の手は回っていなかった。木製の積み木が重なり、子供の心を刺激するような絵が壁にかけられている。丸い窓から差し込む陽光の光は、その空間だけが、一つの残滓として出来上がっていることを認識させる。シャンデラとランクルスが、生まれたばかりのヒトモシをあやしながら、穏やかな笑みを浮かべている。
『名前は何にしようかな?』
『ペパー、という名前はどうかしら?いい名前だと思うけど』
『ああ、とてもいい名前だ』
『あなたみたいに、思いやりのある子供に育ってほしいですね』
『おいおい、君の様に、だれにでも好かれる優しい人になってほしいものだよ』
『ふふ、あなたの方が優しいですよ』
 二人の顔はとても幸せに満ちていた。そこには人に対して何か後ろめたい思いを持つわけでも、自分たちの行動を疑問に思うこともない、ただただ、新しい命が生まれ、家族という愛の形が出来上がり、そしてその愛を受ける、小さな赤子の姿が見えるだけ。
 窓から入る風が、ゆっくりと三人を撫上げる。
『偉い人にならなくてもいいから、ただ人を思いやることができる優しい子になってほしいわ』
『そうだね、私達がそうなれなかったとしても、この子にそれを願うことは、悪いことじゃないさ』
『ええ、――本当に』
 それは何かを始めるきっかけの言葉だったのかもしれない、自分たちがどのような立場に置かれてしまったとしても、子供にだけはそのようなことが起きないことを願う、一種のお呪いのようなもの。決して間違えないでほしいという、懇願にも聞こえた。
『子供は奔放だ』シャンデラは自嘲気味に笑う。『自由な発想を持ち、白にも黒にも染まることができる。もちろん、自由奔放な子供は白に染まった方がいいに決まっているというのが、世間世俗での評判だろうがね、私は黒に染まることもけして悪いことじゃァないと思うんだ』
『ええ、そうですね。白に染まるか黒に染まるか、それは子供の心次第ではないかと、思います』
 それだけじゃないよ、とシャンデラは窓から見える景色を見、大仰に息をついた。それはただ単につかれているというよりも、何か大きな出来事を超えたことに対しての、安堵のようなものかもしれない。
『子供は無意識に、親の背中を見て育つ。親の行いで、白か黒かの分かれ道を進むかもしれないんだ。親の行動の是非を問うて、子供の行動を観察すれば、子供がどちらに進むのかわかるものさ』
 それは一種の極論に聞こえる。子どもの見た親という姿。それを真似るように、人との当たり方や、物の見方、自分の考え方は決まっていく。それが悪いことではないが、いいことでもないと、シャンデラは思った。
『子供の心は複雑だ、何にも染まってないからこそ、染まりやすい』
『何色に染まるのかは、親の心次第ですからね』
『私はこの子には、白よりの黒に染まってほしいものだと思っている』
 黒よりの白。それは良い部分を多く吸収し、少しの裏を覗き、それを理解するという心。子どもとしては、理想的な子供の成長だと思った。
『そうなってほしいものだと思います。私も』ランクルスは大きなことを終えた顔つきをした、シャンデラに寄り添い、肩を預けた。『大変なのはこれからですよ。あなた』
『わかっているさ、お前にも苦労をかけたくないからな。私は私なりに、お前やこの子に限りない愛情を注げればと思う。白や黒に染まる前に、思いやりがあり、正しいことと間違っていることがしっかりとわかる。優しい子になってほしい』
『さっき、私が言ったじゃァありませんか』ランクルスの苦笑に、シャンデラはつられて口の端を吊り上げる。『君の思いと私の思い。両方を込めるのはいけないことかな?』
 それに対しての返答はない、代わりに、穏やかに眠る我が子をゆっくりと撫上げ、静かにシャンデラを見やる。それがすべての返答だと言わんばかりに。
『こんな辺鄙な場所に、宿を作って』
『ああ、わかっているさ。ここが知られない場所だからこそ、意味があったと思った。きっと経営は苦しいだろう。いやなら、私を捨てても構わないよ』
『御冗談を』ランクルスはむっと、顔を顰める。『私は、あなただから、この場所に宿を作ることを、よしとしたのです』それは、自分に対する裏切りだ、と言わんばかりに憤慨した彼女を見て、シャンデラは怖気づいたように両手の様な燭台を上げた。『わかっているとも、君がそういうのも、だが、これは本当に大変なことなんだ――』
『たとえどれだけ大変だったとしても、この子がいて、あなたがいる。私はそれだけで、十分にやっていけますとも』
『君は苦労をかけるかもしれない、私のこんな思考に付き合ってくれているのだ、私はもう君がどんなにつらくなって、投げ出して逃げても、文句は言わないよ』
『いいえ、逃げませんとも、どれだけ辛くても、どれだけ苦しくなっても、私はあなたと、あなたとの間にできた。この子と一緒にずっと――』
『すまない』シャンデラは自分の言葉に恥言ったように顔を伏せると、ゆっくりと眠る我が子に影を落とした。『お前は自由に、そして思いやりのある子供に育っておくれ。ペパー、私たちの、愛する息子よ……』
 それは確かに、すべてが起こりうる前の、彼らの本当の愛情を注ぐ姿。父と母、親と息子、ほかの誰とも変わらない。本当に何も変わることのない。愛情がそこにあった。
 外から、小さく戸を叩く音が聞こえた。朝早くから、この杣道を迷った客かもしれない。そう思うと、俄然とやる気がわく。
『私が出てくる。その子を頼むよ』
『初めてのお客様ですね、しっかりして、父親らしい立派な姿を、この子に見せてあげて下さいね』
 任せてくれ、とシャンデラは笑う。景気が悪くなることもあるし、もしかしたら宿をたたむ危機に立たされてしまうかもしれない。しかし、どんなに困難があったとしても、やっていかなければいけない。愛する妻のため、そして愛する息子のため。その日から、シャンデラとランクルス、そしてその子供の――新しい日が始まる。家族という絆で結ばれた一つの、物語の幕が上がった時なのかも知れなかった。


「お父さん、お母さん」
 思いが駆け巡った時、ペパーは父を、母を呼んだ。バニラは全てを見たときに、思い至る。経営が苦しかったのかもしれない、もしかしたら、最初は間違っていると思ったのかもしれない、だが、やり続けることで、神経が鈍麻し、そして忘れていったのだろう――人を殺めること、金品を奪い取ること、それがどれだけ非人道的な行為か。
「ペパー」バニラは、まるで幻か、自分の思い描いた理想を見ているようなペパーに、強く言葉をかけた。「きっとペパーの両親は、早くに間違いを犯してしまっただけなんだよ。だから、その分は、君が取り戻せばいいんだ」
 取り戻す。その言葉の意味はわかっているのか、それともわからずに首を捻るのか、俯いたまま、涙を流したペパーは、ただただ、震える声を喉の奥から鳴らした。
「父は、母は、きっとわかっていた。でも、やるしかなかったんだと思いました。それがどれだけ愚かで、醜悪な行為だとしても、生きるために、そして何よりも、僕のために――どうして、どうしてもっと、二人の過ちに早く気が付けなかったんだろう。きっともっと早く気が付いていれば、それがいけないことだという意識を持たないまま、あんな行為を繰り返すことなんてなかったのに」
 嗚咽が漏れて、火の粉がさらに舞い上がる。扉は炎に包まれて、もう燃え尽きて、開けることができなくなった。朽ちる家、朽ちる扉の前で、バニラとペパーはお互いに向き合うように立っていた。
「僕は、こんなにも父に、母に愛されて、それでも、悪いことをする二人のことを、怖くて、拒絶するように――」
 それはひどく暗示的な言葉に聞こえた。彼は目に見えない亡霊のような、掴めないものを掴もうと必死になり、しかしそれ確かに、彼は既にもらっていたものだった。それを気がつかずに、偽りだと思いこんだ。そのことに対しての涙も、ペパーには含まれていたのかもしれない。
「君は、あれを見た後でも、愛されていないと思えるの?」
 ペパーは、静かに首を横に振った。偽りのない情愛を注がれて、両親の思うとおり、正しいことと間違っていること、それをはっきりとわかっていたからこそ、ペパーはここに戻ってきた。両親を、間違っている道を正すために。ただ、それをするには時間が遅すぎただけだったのだろうと、バニラはやり切れない思いが鬱積した。
(僕は、取り戻せるのだろうか)
 自分に言葉をかけてみる。孤児院に来た一年前の自分、すべてを下らなく思い、下に見ることに何か愉悦のようなものを感じていた自分。それは間違いであり、それに気がつかないまま一年が過ぎていった。取り戻せるのかどうかも分からない、孤児院で過ごした日々の記憶。
 ペパーはしばらく沈黙を保っていたが、家が崩れる様子を少し顔をあげて見つめると、憑きものが落ちたような顔を、バニラに向けた。柱が燃えて、すべてが灰になるその瞬間まで、バニラはペパーを見つめた。その顔は、本当にすべてを思い出した。そんな顔だった。
「バニラさん」
「うん」
「先ほど僕は言いました。自分はこれで迷いがなくなったと。ですが、おそらくあのまま消滅しても、この家はまた現れていたでしょう」
「うん、僕も、そう思う」
 それは直感のようなものだったが、ペパーは、自分の記憶を取り戻したくて、あの家の中に入りたかったのではない。おそらく、両親の――自分が忘れていた愛を、取り戻したかったのかもしれないと。しかし、自分ではどこにあるかわからないからこそ、それを探し、そしてわからせてくれる人を探していたのだと。
 それは甘えだ、自分で探すことをせずに、わからないとのたまうことは逃げだ。初めからわかろうともせずに投げだすことは、放棄だと。だが、バニラはペパーのそれを、避難することはできなかった。
「自分が本当に探したかったものは、記憶ではなく、この家に残された。両親が僕にくれた、愛を探したかったのです。僕は両親に愛されて育てられたこと、愛されていないと思わなくて、本当に良かった」
「これからだよ、ペパー」バニラは目尻に浮かぶものをぐっとこらえ、眥をあげる。もう間もなく、この洋館は燃え、完全に消えてなくなるだろう。背後から、ソルトとピールの声が聞こえる。燃える、消滅する。そんな声が聞こえ、ペパーとの今生の別れなのかも知れないと、そう思わせた。「君はこれから、大変なことをしに行かなくちゃいけない、両親との家族の絆を、間違ったことを正していくことを。後悔はいつでもできるけど、後悔するだけじゃいけないんだから。地獄の閻魔さまも、少しくらいなら待ってくれると思うから、ね」
「僕にできるでしょうか……父や母に、僕の思いを伝えられるでしょうか」
「できるさ、ペパーは、二人の愛情を受けて、正しいことと間違っていることをしっかりと認識できたんだ、君が二人の間違いを正す、ともし火になってあげればいいんだ」
「――はい、必ず」
 ペパーは笑う。バニラはその言葉に対して、肯定するように頷いた。
「僕も、自分が間違えたことを取り戻すよ。時間はかかるかもしれないし、ちょっとやそっとじゃ取り戻せないかもしれないけど、絶対に、取り戻すよ」
 それが何かとは、言わない。
「だから、それができたら――もう一度会えるかな」
 もう会えないという思いよりも、もう一度会いたいという思いが、バニラの心の中に詰まった。もう一度出会えるのなら、変わった自分を見てほしい、そう思えた。たとえ会えなくても、自分を見ていてほしい。似ているから、ではなく。純粋に、友達としての思いなのかも知れない。
「会えます、きっと」
「君が陰に還り、僕は日向に還る。だけど、絶対会えるから、さよならは言わない。また会おう、ペパー、その時はもう一度、抱きしめさせて」
「はい、必ず」
 洋館が不思議な炎に包まれる。あらゆる後悔、懺悔、失意の念。それらがすべて、炎とともに消えていく。周りが燃えるわけでもなく、ただただそれは、間違えてしまった思いを燃やして、洗い流しているようにみえた。幻のような家は燃え尽き、夜空の光点が散りばめられる。見慣れた常緑樹が視界に移り、意識が夢から現実に引き戻されるように、三人はぽっかりと空いた空洞のような場所に、何もなかったかのように立っていた。一つの木が不自然に折れ曲がり、焼けた跡を残す以外は、何一つ変わらない光景だった。


 ターキーとソルベは、夢を見ているような感覚だった。舞い上がる火の粉も、轟々と燃える炎も、その場にとどまり、収縮していく。飛び火すると思っていたが、まるでその炎が幻のように、木々や草花をすり抜け、霞んで消える。幻覚のようなものを見ている気分に陥ろうとしたときに、炎はすべて消え、あとは荒れて広がった空間に、三人の行方不明だった子供たちが立っているのを肉眼でとらえた。
「院長先生」ソルベが声を上げる。それに気がついたように、三人の子供たちと目線があった。狐に抓まれたような顔をした三人は、目を瞬かせて、周りを見渡しながら、もう一度、ターキーたちと目線を合わせた。「みんな……よく無事で……」
 院長先生、と声が上がった。もつれる足に鞭を打つように、バニラ達は、ターキーの胸に飛び込んだ。怖くはないのに、涙があふれ、縋るように泣いた。
「お前たち、勝手に外を出るなとあれほど言っただろう」
 ターキーは忿りに震えそうだった。怒鳴り出したい。しかし子供たちが無事だったということの安堵もあり、言葉に詰まる。何を言えばいいのだろう、こういうときに並べる言葉が見つからずに、口の中でぐるぐるとまわる。優柔不断な意思を持ったつもりはないが、無事だったことへの喜びと、勝手に抜け出したことへの忿り、その二つが鬩ぎあい、どんな言葉をかけるべきなのか、わからずにソルベを見た。
 縋るような視線を受けて、ソルベはため息をひとつついた。こういう時に子供のためを思い、一括するべきではないのだろうかと思ったが、ターキーにはどうしてもそれを躊躇するような節がある。こういうとき、言葉をかけるのはいつも自分だと、貧乏籤を引かされるような気分になるが、ソルベは別段構いはしなかった。毎回毎回、同じように問題を起こすのは、決まって一定の面子が関わっている。今日こそは、という気持ちで息を大きく吸い込んで、軽く三人の頭を叩いた。
「あなたたち、私たちがどれだけ心配したか、わからないでしょうね。わからないから、こんなところで二日間も三人一緒にくだらないことでたむろしていたでしょう」
「おいおい、ソルベちゃん」ターキーから子供たちを引き剥がしたソルベは、ぎ、とターキーをねめつけた。「院長先生は黙ってて下さい」ソルベの眥を吊り上げた視線に気圧されて、ターキーはぐっと体を後ずさらせる。本当の恐怖というのは、夜の帳でも何でもない、目の前にいるシスターなのだとターキーは苦い顔をした。
「あなたたち子供は気楽でいいかもしれませんけどね、私たちがあなたたちのその行動にどれだけ頭を悩ませているのか、理解できますか?理解できないからこそ、こんなところにいて、私たちの言いつけを守ることなく、こんな場所でわけのわからない冒険ごっこみたいなことをしてたんでしょうね。バニラ、ソルト、ピール。あなたたちは私たちを拒絶している節がありましたね。特にバニラ、あなたは重症です。子どもは子供らしく、大人の言うことを聞いて、大人に守られていればいいのです、なのに、理屈をこねくり回して、自分で勝手に出て行って。私達がどれだけ心配したのかも、きっとあなたたちにはわからないでしょうね」
 ソルベは仏頂面をはりつけながら、何度も何度も三人の頭を小突く。それをただただ黙って受け入れて、三人は涙を流し、押し黙る。
「ピール、ソルト、あなたたちもです。バニラと友達になってあげているのはとてもいいことですし、輪を増やすことは悪いことではなかったとしても、だれが一緒になって悪いことをしろいいましたか?今日やったことは悪いことです。バニラ、自分が他よりも勉強をしているのなら、これがいいことか悪いことかの判別くらいつくでしょう。孤児院から出たいという思いが強く、こういうことをしてしまうのはわかりますが。他人を巻き込むことが、いいことか悪いことかの判別がついていないようでは、まだまだあの孤児院から抜け出せるなど、到底思わないことです。知識は持つに越したことはありませんが、自分の頭で考えて、初めて知識というのは動き出すのですよ。頭は万能の計算機。そのくらいのことを頭で考えることができなければ、あなたの思い描く世界なんて、夢のまた夢です」
 何度も何度も頭を小突き、叩く力を一定にしたまま、ソルベは少し震えだす。ターキーはその様子を遠巻きに見つめながら、苦笑した。彼女もまた、子供が好きで、この仕事を選んだのだ、叱るだけでない、彼女の本心が、ソルベの心が表れているようで、いつもの無愛想なソルベとはまた違った一面が垣間見れたようで、ターキーはおかしくなって、笑い声を少し漏らした。
「あなたたちがいなくなって、私達がどれだけ心配したのか、わからないでしょうね、探し回って、連絡を取り合って、不安に押しつぶされそうになって、それでもきっと大丈夫だと信じて、祈り縋っている姿が、あなたたちに想像できますか?そんな考えに至ることもないでしょうね。バニラ、ソルト、ピール、あなたたちは、赤の他人の私たちの心配など、ないに等しいと考えていますから。親を亡くし、孤児になったあなたたちに、私たちを親と呼べなどと言えるわけがありません。あくまで親代わり、他人という壁は聳えて、埋まることのない溝を作ります。私達がどれだけあなたたちに愛情を注いだとしても結局それは他人の愛情、偽りの模造品と言われてしまえばそこでおしまいです。私たちも重々承知していますし、そう思われてもしょうがないでしょう。ですが、私たちは、あなたたちに贈る愛情を、偽りだとは絶対に思わないでしょう。たとえ他人からどう思われても、私たちは孤児院の子供たちを、本当の息子のように、娘のように、接しているのです。その感情が届こうが届くまいが、私たちは関係ありません。息子や娘を放置してほうっておく親がどこにいますか?あなたたちが思っているほど、あなたたちは安い存在ではないのです。自分たちのことは自分たちが一番よくわかってるみたいな顔をして、勝手気ままに行動して、私たちがどれだけ心配しても素知らぬ顔をして――本当に、勝手に――」
 言葉が続く前に、ソルベは三人を抱きしめた。冷たい感触から頬に伝わって、それが水滴を作り、子供たちに零れ落ちる。
「無事でよかった。本当に、本当に無事で、本当に良かった――」
 それ以上言葉が続かなかった。子どもたちと一緒にむせび泣くソルベの顔を見て、心の靄が晴れるような思いだった。ターキーは無数の光点が散りばめられた空を見て、息をひとつ吐く。熱気を逃がす夜は短く、日が稜線を炙る時間になるのは、もうじきだった。二日間の捜索は終わり、常闇がゆっくりとはがされて息。朝の日差しが常緑樹を照らす。杣道や孤児院が遠巻きにはっきりと映るほど、明るい夜明けがバニラ達を照らしているのだった。

愛のマヨヒガ-下-に続く


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Last-modified: 2011-09-01 (木) 00:00:00 
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