どうして、こんなにも嬉しいんでしょうか?どうして、こんなにも胸が苦しくなるんでしょうか?この人はボクのご主人様ではないのに。この人はボクの知らない人なのに。どうして、ボクは今、まるでご主人様が迎えに来てくれたかのように、喜んでこの人の手に触れているのでしょうか?
わかりません。でも、確かに、ボクはこの人の手を、白くて細長い指と、柔らかい手の平を、とても心地よく感じてしまっています。そして、その手に導かれるがままに、自分の体を抱かせ、そうすることによって得られた、匂いと、温かさに、忘れていた感覚を思い出してしまっています。
ボクの知る言葉では表現できない程に、長くて綺麗な色をした赤い髪、手と同様に白く、そして柔らかな印象を与える顔に、聞いているだけで、体中が満たされていく優しい声、そう、この人は確かにボクのご主人様ではないのです。それなのに、どうしてボクは、こうも懐かしいと思ってしまうのでしょうか?この人がボクに、何かしらの危害を加える可能性が無いと言えるわけではないのに、どうして、ボクはこんなにも無防備に、それこそ、そうする以外に選択肢はないというくらいに、この人に自分の身を預けてしまっているのでしょうか?
わかりません。どれほど考えてもその答えはわからず、ボクの奥底にある何かが、この人のことを求めてしまっていました。
今はただ、この人の傍にいたい。もっとその手でボクに触れてほしい。もっとその顔と声で笑ってもらいたい。
今や、ボクの頭に浮かぶのはそういったことばかりでした。何かを問われても、その問いの意味がわからないくらいに頭が一杯で、胸の中は嬉しい気持ちで満たされていました。
ですが、その時間は長くは続かないようでした。優しい手の感触を頭に感じながら、うつらうつらとしている内に、その手の主であるこの人は、一緒にいる方と何やら話した後、先ほどまでとは打って変わったように表情を曇らせて、手を放し、ボクの顔を覗き込んで来ました。
言葉こそ発しなかったものの、その表情の意味はボクにはよくわかりました。そしてそれを裏付けるように、この人は、一緒にいる方と二人で、近くに広げていた布や、先ほどボクにも分けてくれた、小さくて甘い食べ物を乗せていた、白くて平べったい物などを、大きな袋にしまい始めました。二人は、互いに色々と話し込んでいましたが、ボクはそれを黙って見ていました。
やがて、久しく見ることの無かった火を含む、一通りの物が、地面の上から取り除かれると、この人はボクに、再び、先と同じ表情を向けてきました。そして、ボクもまた、先と同じように、その表情の意味を理解していました。ですが、だからこそ、ボクは何も言わずにはいられませんでした。例え、それがご主人様の言いつけに反することであっても、ボクはこの人に声をかけたかったのです。
どうか、ボクのことを置いて行かないでください。どうか、ボクを独りにしないでください。お願いですから、ボクのことを、もう一度その手に抱きしめてください。
ボクの口はそう訴えるべく動きました。そしてその声に、この人は、一度は去りかけた足を止め、再び、ボクの方を見てくれました。ですが、その表情は、とても残念なことに、ボクの期待していたものではありませんでした。一体ボクが何を言っているのかわからない、そう言っているかのような表情でした。
それもそのはずです。ボクの口は、確かに動いてはいましたが、そこから発せられた声は、人に伝わるそれではなかったのですから。
ご主人様と何度も何度もお話をしたのに、今のボクは、まるで、そのことを全て忘れてしまったかのように、綺麗に人の言葉を忘れてしまっていました。伝えたいことをどれだけ頭の中に思い描いても、今のボクには、それをただの吠え声としてしか現すことができないのです。何度も何度も吠えたところで、ボクに安らぎをもたらしてくれたこの人に、ただ困惑した表情をさせるばかりで、決してその足を引き戻してもらうことはできないのです。
でも、そうとわかっていても、足音が茂みの向こうに去っていってしまっても、ボクは吠えることをやめられませんでした。二度と伝わることは無いのだとわかっていても、そうすることをやめられませんでした。喉が痛くなって、段々とその大きさが小さくなっていってしまっても、そうすることをやめられませんでした。
わかっているのです。そう、ボクはわかっているのです。本当は、ボクは今、つい先ほどまで、そっとボクの頭の上に手を置き、優しげな表情を浮かべて、ボクのことを見ていてくれたあの人にではなく、遠い昔と思えるほど前に別れた、ボクのご主人様に対して吠えているのだと。「いつか迎えに来るからここで待っていろ」と言ってくれたご主人様に対して、ボクは訴えようとしているのだと。
どうして、ボクを置いて行ったのですか?どうして、戻って来てくれないのですか?ボクは、もう、ご主人様の傍に必要ないのですか?あの言葉は嘘だったのですか?
ご主人様の言葉を疑うことは、ご主人様そのものを無視することに違いありません。残してくれた言葉を信じて、いつまでも待ち続けることこそが、できることの少なかったボクにとって、たった一つだけの、ご主人様に対してできることなのです。
でも、ボクはもう、声に出さずにはいられませんでした。その声が人にはわからないものではあっても、ましてや、ご主人様には決して届くはずのないものであったとしても、ボクは叫ばずにはいられませんでした。そして叫びながら、ボクは、ご主人様と最後にお会いしてからのことを思い出していました。
ある時ボクは、この森の中にある、小さな穴の中で待っているようにと、ご主人様に命ぜられました。何故、そのようなことを、ご主人様が命じてきたのかはわからなかったのですが、ボクはそのことを、とても嬉しく思っていました。何故なら、ボクはご主人様から、何かを命じられるということが、ほとんどなかったからなのです。
ご主人様の周りには、ボク以外にもたくさんの仲間がいて、その方達は、みんながみんなとても強くて、ご主人様からも頼りにされていたのですが、残念なことに、ボクにはそうされるだけの強さがありませんでした。ボクが何かをしなくても、ご主人様は何でもすることができましたし、時折できないことがあっても、ボク以外の誰かがそれをすることができたので、結局、ボクは何もすることがありませんでした。だから、ボクはご主人様の傍に置かせてもらっていることに、とても不安を感じると共に、ある一つの疑問を抱いていました。
ボクは何もできないのに、どうして、ご主人様はボクのことを傍に置いてくれているのだろう?と
ボクはご主人様のことがとてもとても好きだったので、そうした不安と疑問を持つのはすごく辛いことでした。そしてご主人様は、何も言わずに、ボクのことをずっと傍に置いてくれていました。基本的には、モンスターボールという物の中にいましたが、食事の時は外に出してもらえましたし、時々、ご主人様が寝る時に、ご一緒させていただくこともありました。不安と疑問はいつまで経っても残ったままでしたが、ボクはとても幸せでした。
ですから、ボクはこのご主人様の命令をとても嬉しく思えた一方で、ボクにとって、これはとても大事なことなのだと思いました。命令の理由はわかりませんでしたし、その内容は、ご主人様の傍にずっといたいボクからしてみれば、とても辛いことではありましたが、それでも、ご主人様がボクに対して命じてくれたことですから、ボクは絶対に守ってみせようと思いました。
そうしてご主人様のことを待つようになって以来、ボクはひたすらにご主人様の命令を守り、暗い穴の中で、ジッとご主人様が迎えに来てくれるのを待っていました。ご主人様はここで待っていろとしか言いませんでしたが、もしも、勝手に外に出てしまったら、迎えに来てくれたご主人様と、すれ違いになってしまうかもしれないと思ったので、ボクは一歩も穴の中から外には出ませんでした。幸いにも、ご主人様がボクのために、小さくて固い食べ物が入った袋や、舐めればお水の出る、透明な細長い入れ物置いていってくれたので、しばらくはお腹が減ったり、喉が渇いて苦しい思いをすることはありませんでした。穴の中はとても暗かったですし、時々、穴の外から、大きくて狂暴そうな生き物の声が聞こえたりして、一人でいるのはとても怖かったですが、ご主人様がすぐに迎えに来てくれると思えば、それも何とか耐えることができました。
しかし、ご主人様はなかなか迎えに来てはくれませんでした。穴の外にある、たくさんの木に茂っている葉っぱが、緑色から黄色に変わって、そして、茶色になって地面に落ちていくのを、穴の中から見て、かなり長い時間が過ぎているのを感じましたが、ご主人様は迎えに来てはくれませんでした。何度も何度も明るくなって、暗くなって、雨が降って、雷が落ちて、穴の中に冷たい風が吹きこんで来ても、ご主人様は迎えに来てはくれませんでした。
ひょっとしたら、ご主人様は病気になってしまったのかもしれない、だから、ボクのことを迎えに来られないのかもしれない。そう思うと、今すぐにでも穴を飛び出して、ご主人様の元へと駆け出したい衝動に駆られましたが、どうにかボクはそれを抑え込みました。そもそも、ボクにはご主人様が、いったいどこにいるのかわかりませんでしたし、あくまでそれは、ボクがそう思っただけのことだったので、もしも間違っていたら、やはりご主人様は、ボクのことを叱るだろうと思いました。そして何よりも、そうなってしまうことは、ご主人様に大変な迷惑をかけることになると思いました。
それから少しして、落ちていった葉っぱが地面の上から無くなり、再び、木に緑色の葉っぱが生い茂り始めたころ、ご主人様が残していってくれた食べ物が、いよいよ全て無くなってしまいました。水の方も、それより大分前に無くなってしまっていました。それによってボクは、お腹が空いても、何かを食べることができず、喉が渇いても、何かを飲むことができなくなりました。でも、ボクはそのことを、ご主人様が残してくれた、大切な食べ物とお水を、考えなしに食べたり飲んだりしてしまった自分が悪いのだと思っていたので、辛くなっても、穴から出て、外にそれらを求めに行こうとはしませんでした。そんなことをしている内に、ご主人様がこの穴の中に迎えに来たら、きっとご主人様は、ボクが言いつけを守らなかったのだと怒って、ボクのことを連れて行ってはくれないと思ったのです。
ですが、そうすることにも、早々と限界がやってきました。お腹が空いているのを忘れようと、喉が渇いているのを気にしないようにしようと、ひたすらに眠ることで、それまで乗り切っていたのですが、ある日、そうすることすらできなくなってしまったのです。
どれだけ眠ろうとしても、お腹と喉が、痛くて痛くて眠れないのです。それだけではなく、静かだったはずの穴の中が、やたらとうるさく感じられるようになり、強い雨の日は、その大きすぎる雨音に、頭が割れてしまいそうなくらいに痛みました。
その時のボクは、少しだけ穴の中に入ってくる水を、雨が地面で弾けることで飛んでくる水滴でもいいから、泥が混じった水でもいいから、とにかく水を飲めたら、とまで思っていました。でも、ボクはご主人様の言いつけを守るため、その場から動こうとはしませんでした。
眠ることもできず、立ちあがることすらしなくなってからは、目をつぶって、ひたすらにご主人様のことを考える時間が多くなりました。そうしていれば、きっとご主人様は、ボクのことを迎えに来てくれると思いました。次に外が明るくなったら、次に外が暗くなったら、ご主人様が穴の外からやって来て、ボクのことを呼んでくれると信じ続けました。そしてその時に、ご主人様が悲しい顔をしないようにと、どれだけ辛くても生きていようと思いました。
そんな状態が続いて少ししたころ、ボクは痛みで眠れないこともあって、前にもしていたように、穴の中から外を見ていました。そのころは時間が全くわからなくなっていたので、外に立っている木と木の間に見える、黒い雲で覆われながらも、その隙間から、少しだけ星と月の明かりを覗かせている空を見て、初めて夜なのだとわかりました。
ご主人様を別れてから、何回昼と夜が繰り返されたのでしょうか?ご主人様の言葉を聞いたのは、どれくらい前のことだったのでしょうか?ご主人様は必ず迎えに来てくれると、これまで何度呟いたのでしょうか?
痛みに耐えながらも、ボクは、何故かどんどん暗くなる外を見て、そんなことを考えていました。そして、不思議とうるさかった穴の中は、とてもとても静かになっていきました。それに伴って、痛みの方も段々と治まっていきました。それは、それそのものが無くなったからなのか、それとも、ボクがそれを感じられなくなったからなのかはわかりませんでした。
ご主人様は、いつになったら、ボクのことを迎えに来てくれるのでしょう?
考えてはいけないことでした。それは、声として口から発しなくても、考えてしまうだけで、ご主人様の信頼に背くことでした。言われたことをひたすらに守り、ご主人様のことを信じ続けることこそが・・・
ご主人様は、どうして、ボクのことを迎えに来てくれないのでしょう?
痛みが無くなったからでしょうか。穴の中が静かになってしまったからでしょうか。頭の中から、後から後から考えてはいけないことが溢れ出してきてしまいました。それを止めることができなかったボクは、目を閉じて、これまで何度もしてきたように、うまく動かない口を動かして、ご主人様にお許しを乞いました。
ご主人様、どうかボクのことを許して下さい。ご主人様のことを信じていながらも、そうできずにいるボクのことを、どうか許して下さい。そして、ご主人様の命令を、最後まで・・・
そこまで呟いたところで、ボクはずっと前に聞いた音を耳にしました。ご主人様と一緒にいる時から、ご主人様とお別れしてから、何度も何度も聞いてきた、小さくて軽い、たくさんのものが、地面に落ちて弾ける音を聞きました。
今まではボクに、頭が割れるくらいの痛みを与えていたそれは、その時のボクに、何故か、外に出たいという衝動を与えました。そうすることは、明らかにご主人様の命令を無視することになりますし、これまで、ボクがひたすらに守ってきたものを、一挙に否定してしまうことにもなります。
でも、そうだとわかっていても、ボクは、どうにかして起きようとして、自分の体を動かしていました。足は動かし方を忘れてしまったように、なかなか思うように動きませんでした。少し動いただけで、首と背中が、お腹と喉以上に痛みました。ですが、ゆっくりと、確実に、ボクはその場で、4本の足を使って立ち上がることができました。足は4本とも震えてしまっていて、すぐにでも倒れてしまいそうでしたが、ボクは外に出るために、それらを引きずるように動かして、前へ前へと進みました。
木に生い茂っている葉っぱの色が、緑色から黄色へと変わるのと、同じくらいの時間がかかった気がしましたが、そうすることで、ボクは初めて穴の出口の前に立つことができました。
ボクの目の前には、何度も見て、何度も聞いて、何度も感じて、その度に心配に思わされて、欲しいと思って、うるさく思ってきたものがありました。そしてボクは、自分でも驚くほど迷わずに、それに打たれるがままに足を踏み出しました。
今までは地面に落ちることで弾けて音を発していたそれは、外に出たボクの体の上に落ちて、やっぱり小さな音をたてていました。ボクはそれを少しもうるさいとは思わず、口を開けて、それが落ちてくる所に顔を向けながら目を閉じました。
冷たくて、小さくて、静かなそれは、ボクの口に入りながらも、ボクの額に落ちて、そのまま目の上を伝って、少しの間だけ目の中に溜まると、そこから頬を伝って顎から地面へと落ちていきました。
ボクは何も考えられませんでした。お腹と喉が痛くて痛くてしかたなかったことも、ご主人様の命令を無視してしまったことも、一切考えずに、その場でジッとしていました。黒い雲が空から消えて、明るい星と月が見えるようになるまで、ずっとそうしていました。
ここに来てから、何回その姿を変えたのかわからない、たくさんの緑色の葉っぱを茂らせている木。ご主人様の命令を無視してしまってから、何度くぐったかわからない、ボクの体よりも大きな茂み。そして、たった今、ボクを残して行ってしまったあの人が、確かにここにいたことを教えてくれる匂い。目を覚ましたボクの周りにあるのは、目を覚ます前からあるものだけでした。どれだけそうではないと思っていても、どれだけそうなのだと思っていても、ボクの周りにあるものは変わらないのです。そうあってほしいと思ったものも、すぐに消えてしまうのです。
ボクは、これまでそうしてきたように、ずっとずっとその場にいたいという衝動に駆られましたが、匂いを段々感じられなくなってくると、振り返って、大きな茂みを揺らして、その場から離れました。後ろを振り返りたくなっても、振り返らずに、黙って茂みを抜けました。
どうして?
葉っぱをたくさん飛び散らせて茂みを抜けると、そこは背の低い草が一面に広がっている、小さな広場になっていました。広場の中心には、ここの周りを取り囲んでいるものよりも、少しだけ大きい木が立っていました。
ボクはここにいるの?
ボクはその木の下まで歩いて行って、そこに木の実が転がっていることに気づきました。小さくて丸い、青い色をしたそれは、この木の枝の先になっているものとは違うようでしたが、ボクはお腹が少し空いていたので、特に何も考えずに、それを口に運びました。
何のために?
木の実を一齧りすると、口の中に、とても酸っぱい味が広がりました。ボクにとってそれは、食べ続けるには少し厳しい味でしたが、それでもボクは齧り続けました。慣れ親しんだ味を、二度と口にすることができなくなってから、これまでずっとしてきたように、ボクはそれを最後まで食べました。
誰のために?
木の実はまだ、周りにたくさん転がっていましたが、ボクはもうお腹がいっぱいになったので、それらを口に運びはしませんでした。一個くらい持っていって、お腹が空いた時に食べようかと思いましたが、やっぱりこの木の実は酸っぱすぎますし、今はそれよりも、口の中に残っている、酸っぱい味を忘れるために、川まで水を飲みにいきたいと思いました。
何をしても変わらないのに?
と、木の実が落ちている木の下から離れて、川の方へと行こうと足を踏み出した時、頭の上の方から、体が思わず震えてしまいそうになる、何かをとても細かく、そして早く動かしている音が聞こえてきました。ボクは音の正体を確かめるために、木の上の方を見上げました。
・・・なのに?
するとすぐに、その“いやなおと”の正体が何なのかがわかりました。黄色と黒の
ボクは・・・なのに?
どうやら、この木はこの方の縄張りのようでした。木の下に落ちている、ついさっきボクが口にした木の実も、ひょっとしたら、いえ、間違いなく、この方が他の木から取って来て、ここまで運んだものだったに違いありません。だとしたら、この方がボクのことを敵だと思うのも無理はありません。
ボクにはもう・・・なのに?
急いで逃げなくてはいけません。例え謝っても、絶対に相手は許してくれませんし、かといって、戦うことなどボクにはできるはずもありません。何もできないボクに、何もできなかったボクに、そんなことができるはずがありません。そもそも悪いのはボクなのです。不注意で、相手の縄張りに踏み入ってしまっただけではなく、そこに蓄えられていた食べ物まで取ってしまったのですから。
ボクにはもう、だれも・・・なのに?
ですが、突きつけられた大きな針を見て、ボクの足はすっかりすくんでしまっていました。逃げようと思っていても、足がいうことをきかなくて、全くその場から離れることができないのです。何度も何度も動かそうとしているのに、いつも歩けているのが嘘のようにもつれてしまって、足元に広がっている草を揺らすことしかできないのです。
どうしたらいいのでしょう?どうしたらいいのでしょう?ボクがこうして焦っている間にも、相手は一層大きく翅を動かして“いやなおと”を辺りに響かせています。怒りで満ちている赤い目は、ますますその色を恐ろしいものにしています。
助けてください!誰でもいいから、ボクのことを助けて下さい!お願いですから、誰か助けてください!
そう叫びたくても、ボクの口は、すくみあがっている足と一緒で、全くボクのいうことを聞いてくれず、上下に細かく震えて、歯を打ち鳴らすことしかしてくれません。
戦うことも、逃げることも、助けを求めて叫ぶこともできないボクには、もう祈ることしかできません。助けてください、と頭の中で唱え続けるしかないのです。
だれに?
わかりません。でも、誰でもいいのです。一人ですくみあがっているボクのことを、誰でもいいから助けてほしいのです。
無理だとわかっていても?
何故無理なのですか?どうして無理なのですか?確かに、ボクの口は、耳を塞ぎたくなるような音によって、恐ろしい色をした目によって、ボクの体なんか簡単に貫いてしまえそうな針によって、その役割を果たせないくらいに震えていますが、それでも、もしも叫ぶことができたら、誰かが助けてくれるかもしれないのに。
自分でわかっているのに?
何をですか?ボクが何をわかっているというのですか?ボクには何もわかりません。どうして、ご主人様が迎えに来てくれないのか。どうして、ボクはあの人と会って、あんなにも安らいだ気持ちになったのか。ボクには何もわからないのです。
本当に?
わかりません。どれだけ考えても、どれだけ待っていても、ボクにはわからなかったのです。そもそも、それを知る術を持たないボクが、最初から知らなかったボクが、そんなことをしたところで、わかるはずがないのです。何故なら、もしも答えを出したとしても、ボクにはもう・・・
ボクにはもう、だれもいないのに?
そんなことはありません。ボクにはご主人様がいます。それに、さっきのあの人だって、もしかしたら・・・
行ってしまったのに?あれだけ待っても、あれだけ苦しい思いをしても、戻って来てくれなかったのに?言いたいことも、伝えたいことも、何一つとして伝えられなかったのに?一体誰が?
誰が、ボクに?ボクに、誰が?わかりません。どうしてわからないのかもわかりません。一体どうして、ボクには答えが出せないのですか?どうして、ボクには答えを教えてくれる人がいないのですか?どうして、ボクは・・・
ボクは、ヒトリなのですか?
頭の中が真っ白になって、あの時と同じ、小さくて軽い、たくさんのものが体の上に落ちてきた時の音が、体中に響くと同時に、ボクの目の前に、大きくて鋭い針が広がりました。そしてそれが、ボクに突き刺さるか突き刺さらないかという瞬間、何かが、もの凄い勢いで横から飛んできて、そのまま針の主にぶつかって大きな音をたてると同時に、その体を、広場の中央にある木よりも、遥かに高く、そして遠くへと吹き飛ばしていきました。
あまりに一瞬の出来事だったので、一体何が起きたのかわからず、ボクはその場で縮こまりながら、ボクのことを排除しようとした相手が飛んでいってしまった方を見ていました。確かに、助けてと願いはしましたが、元々はボクが悪かったがために、ボクはボクを襲ってきた相手にとても申し訳ない気持ちになりました。
ですが、それもすぐに聞こえてきた声に、すぐに嗅ぎとれた匂いに、すぐに感じられた気配によって、かき消されてしまいました。
ボクがその存在に気づいて振り返ると、そこには、長くて綺麗な、先のボクに襲いかかってきた方の、怒りに満ちた目のそれとは、まるで違う赤い色をした髪と、白くて柔らかそうな、でも、今は優しげではなく、ひどく心配そうな表情を浮かべた顔をしている、あの人がいました。
その人は、どう言っていいのかわからない色をした目で、ボクのことをまっすぐに見ていて、そして、表情が示している通りの声をかけながら、ボクに手を差し伸べてくれました。
どうして、こんなにも嬉しいんでしょうか?どうして、恐いものはいなくなったのに、ボクは震えているんでしょうか?どうして、雨が降っていないのに、ボクの耳には、雨が弾ける音が聞こえてくるのでしょうか?
わかりません。ボクには答えることはできないのです。どれだけ疑問に思うことはあっても、それらに答えることはできないのです。
ボクはこれからも疑問を持ち続けるのでしょうか?どうして?と問い続けるのでしょうか?その答えはいつになったらみつかるのでしょうか?
わかりません。でも、ボクは、ボクに差しのべられたその手を、その手の中へと、自分の身を預けたのです。
おしまい
長編へのリンク→レポートNo.2「ある日森の中で出会ったのは?」
あとがき
※注意!ここから先には、マスメディアによる社会の少年犯罪に対するイメージ操作についての見解が書かれています!(ウソです)※
初めての方には初めまして、お会いした方にはおはようございます。嘘をつきつづけることで、針飛ぶ縄飛ぶ修羅場を潜り抜けたかと思いきや、より激しい修羅場へと身を投じることになり、日に日に身を削られている亀の万年堂です。作品の内容が内容だけに、ウェットな雰囲気で、このあとがきは送らせて・・・いただきません。自重できなくて申し訳ないですが、お葬式の後には高いお弁当が待っているように、暗いことの後には楽しいことが待っているものなのです。わけのわからない例えでしたね。
さて、今回の話は、長編本編に出てくる、完全な総・・・ではなく、私の文章力では表現しきれないくらいに、可愛い可愛いポチエナ♂が、後に自分の将来を大きく確認させる少女と出会うまでのお話です。
少女と出会ってからも、数々の苦難に遭遇し、様々なことを考えさせられる彼ですが、少女と出会う前は、一体どういった状態にあったのか。そして、本編では語られていなかった、彼が「待ち続けた期間」というのは、一体どういうものだったのか。彼が後に、本当に泣く時、思ったあの言葉は一体何だったのか。
今回はそういった部分を明らかにするべく、少女の前にいる時とは少し違ったタッチで彼のことを書いてみました。本編の方では、もう少し情けない、というか、拙い感じで喋っているだけに、今回の彼は、少し違った感じで見えたかもしれませんが、それは私の力が至らなかったせいです(拙い言葉を用いて表現することに頭が限界を感じて悲鳴をあげました)。核心部分は間接的にしか表していませんが、それ以外の部分においては直接的な表現を増やすために、比喩はなるべく使わないようにし、使ったとしても、難しい言葉を使わずに「彼が」理解できるように極力したつもりですが、果たして・・・
と、内容についてはそこまでにして、仕様の方について少々説明をしておきます。
タイトルに「少女が来たりて~」とあるように、この話は、前作の「少女が来たりて亀は笑む」とリンクしており、本編と照らし合わせて言うならば、レポートNo2と同じ時系列の話となっています(回想部分を除く)。「亀は笑む」もそうでしたが、時間で表すならば、この話は、わずか数十分足らずの話だったりします。1万字弱で数十分を表すのは、果たして妥当と言えるのかどうかというのは、非常に議論を要することだと思いますが、基本的には、今後もこのくらいの短さで短編を書いていくことになるのではないかと思います。長編の方も基本的には1~3万字ですが、うっかりすると7、8万字くらいになってしまったりしまうので注意が必要です(誰が?)。
あとがきだというのに、大分長くなってしまいました。よって、そろそろ締めたいと思います。
お礼が遅れて大変に申し訳ありませんでしたが、初めて私の作品を読んでくださった方々、再び私の作品を読んでくださった方々、今回は「少女が来たりて犬は泣く」を読んでいただき、本当にどうもありがとうございました。私の世界に、次回もお付き合いいただけたら幸いです。
亀の万年堂でした
何かあったら投下どうぞ。
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