当作品は、ウルラさんの作品「添い寝屋の夜」および「添い寝屋の陰 ?」の施設設定を拝借して書かせて頂いた三次創作になります。
この度許可を下さったウルラさんに、この場をお借りして感謝を述べさせて頂きます。誠にありがとうございました。
添い寝屋さんはいいものです。
宿に入ってくるなり、その姿は、ロビーの内装をあれこれ見ながら、その割には迷いなく、受付へと歩いて来た。
初めてのお客さん。だけれど、ここがどういった宿なのかを分かっているお客さん。
青く澄み、か細く震えるその目を見捉えながら、私は、早々にメンバーリストを取り出した。
「すみません、予約を、お願いしたいのですけれど」
「予約ね、分かった。誰にパートナーになってもらいたい、っていうのは、もう、決まってる?」
「いえ、まだです。同じくらいの体格の男性がいらっしゃれば……とは思うのですけれど」
少し控えめな様子だけれど、そこは常連でもないんだし、仕方ないのかな。
「じゃ、はい、これ」
私は、そう言いながら、リストの向きを反転させた上で、受付正面のそのポケモンへと渡す。
「気に入ったパートナーが見つかったら、言ってね。急がなくても大丈夫だから」
「ありがとうございます」
そのポケモンは、リボンのような触角でリストを受け取り、目を通し始める。
「ところで、きみは――」
噂の添い寝屋
時折、上の部屋から木の軋む音が聞こえるだけの静かな中。小窓から見える外は、日が落ちて、遠い空に燃えるような赤みを残すのみ。
休憩室の中で、床に座り、息を一つ吸って吐いて、落ち着いている、四足のポケモンが居た。真っ黒な下地と、その上に、黄色く淡い光を放つ模様を持つ、まるで雲一つない夜の空のような毛並みの姿。イーブイの進化後の、ブラッキー。そのポケモンは、窓の外を見て、顔をずらして、窓や漆喰の壁を視界から流し、テーブルの上に用意した籠と木の実のほうへと視線を固定する。大きく口を開けて間の抜けた欠伸をしながら、前足で自身の顔周りを、軽く梳き、ぼんやりと物思いに耽っていた。
(お客さん、まだかな)
天井へと意識を向けると、その先、上の部屋から、ベッドの軋む音が、悲鳴として小さく零れ落ちてくる。既に入っているお客さんとメンバーの、その静かなやり取りが、微かに聞こえてくる。宿の入り口、ロビーのほうへと意識を向けると、四足の歩く音が、気配と共に、ゆっくり、近付いて来ていた。ブラッキーは耳をぴんと立てて、その気配をしっかりと捉えた。受付カウンターの辺りで、その気配が、聞きなれない声を用い、聞きなれた二つの声と、会話している。その聞きなれない声は、低く、しかし通りのいい声。恐らく男性客で、予約しに来たか、あるいは、受付をやっているポケモンのお客なのだろう。そこまで思案したところで、ブラッキーは意識を外し、休憩室の静かな中で、再び物思いに耽る。
今夜、自身を予約しているお客さんは、同じイーブイから進化した、ニンフィアの、その女性である――と、ブラッキーは聞かされていた。この宿を利用するのは初めてのお客で、その名を、メイリ、という。そろそろ来てもおかしくない頃であり、同族である彼女の、その姿を想像していた。
この添い寝屋専門の宿では、増えてきた女性客の、その多くに指名され相手をすることになる従業員――とりわけ、男性メンバーの不足が、問題となってきていた。それを解消する拡充の流れで、メンバーとして契約を結んだ新たなひとりが、ブラッキーだった。彼は、メンバーとしての仕事に慣れるまでは早かった。ベッドメイクをこなし、お口直しの木の実や、興奮作用のある、追加サービス用の芳香の準備なども、あっという間に、手際よくこなせるようになっていた。
元はと言えば、彼は、この街の大きなイベントである闘技祭に挑戦するため、街の外からやってきたポケモンだった。武闘者としては今一振るわなかったのだが、祭典が終わったその後も、闘技場で行われる催し物などを好み、移住してきたのだ。決して治安がいいとは言えない街だが、それでも彼はこの街を気に入った。そんな時に、やや怪しい、しかし高給が掲示された従業員募集を知って、応募し、採用された。気が昂ると毒の汗をかいてしまうブラッキーの体質は、お客さんと添い寝をするメンバーとして、あまり好ましいものではなく、この仕事は向いていないだろう、とは、彼自身、思っていたのだが、『その毒を吸って、苦しくなる感覚がまた心地いい』と、数名のコアなお客に気に入られ、それが、思いのほか嬉しかったのだ。「お客さんが、心安らぎ癒される場所」をモットーとするこの宿で、自身の存在に癒されてくれるお客さんのため、この仕事を続けたい、と思うようになって、彼は、今に至る。
「コクヨウさん、お客さんです」
二足で立ち、コクヨウと呼ばれたブラッキーより一回り大きく、淡い紫色の鬣を揺らし、黄色い瞳を揺らめかせる――そんなゾロアークの姿が、ドアを開け、休憩室へと入ってきた。コクヨウは、そのゾロアークへと意識を向け、少し遅れてから視線を向けて、ただ、ぼんやりと声を上げた。
「はい?」
何の予兆もない唐突な出来事だった。彼は、数瞬、その言葉の理解に悩み、そして、さっきロビーに居たお客が、自身のお客さんだったのだ、と、ひとり納得しながら、同時に、強く内省する。女性のニンフィアが、まさか、あのような低い声であるわけがない――と、そのように結論付けていた自身の思慮の足りなさを、意識の内に強く留めた。
「……あ、来たんですね。分かりました、向かいます」
コクヨウは立ち上がり、テーブルの上にある、籠を見捉える。
「……少し、素性の分からないところがあるお客さんだから。……だから、危険だなって感じたら、すぐに逃げてきて下さいね?」
「大丈夫ですよ。ありがとうございます」
そのゾロアーク、シエンが、気遣わしい様子で言葉を続ける様子を、コクヨウは、中ほどまで聞き流し、そして、感謝を述べてから、眼前の籠を咥えて、休憩室を出る。
心配性のシエンを、コクヨウは時々疎ましく感じたりもするが、彼は、その心遣いを無碍にするつもりもなかった。お客とメンバーが近しい距離で過ごすこの宿において、急に襲い掛かられたりした際に、メンバーが身を守り逃げられるよう、最大限助力してくれているのだ。今回のコクヨウのお客は、街の外からやってきたポケモンで、素性がよく分かっておらず、シエンは、その点を気に揉んでいる。シエンのその心配や働きがあるからこそ、他のメンバーたちが安心して従事できている様子も、よく把握している。ただ、お客の素性などを意識しすぎても、ぎこちない接客になり、却ってお客さんを不安にさせかねないため、コクヨウとしては、あまり気にする必要もない、と考えていたのだった。
彼は、部屋の前に来て、少し大きなドアを見ながら、咥えていた籠を一旦降ろす。失礼します、と、部屋の中へ断りを入れてから、三つほど間を置いて、ドアを開ける。
部屋の一角に置かれた大きなベッドの上に座る、コクヨウと同じ体格の、四足のポケモン。短く整えられた白と桃色の被毛は、ビロードのように、柔らかい光沢を纏っている。首元と左耳元からは、リボンのような触角が長く伸び、自身のその耳や前足に、緩く巻き付けている。そんなニンフィアが、吸い込まれるような青く澄んだ瞳で――僅かに震える視線を、しっかりとコクヨウを見捉えていた。
「メイリさんですね。初めまして、お相手務めさせて頂きます、コクヨウです。この度はご指名下さり、誠にありがとうございます。今夜は、宜しくお願いします」
「ありがとうございます。宜しくお願いします」
先ほどロビーから聞こえてきていた、低く、通りのいい声が、確かに、その姿から放たれる。声を聞く限りでは、男性としか感じられなかったものも、面と向かってみれば、確かに、このくらい声の低い女性もいる、と、コクヨウは頭の隅で思う。
部屋の中央、テーブルの上には、火の入ったランタンの他に、彼女の私物であろう、麻袋と、無地の――色褪せて染みが模様を浮かべるローブが、畳まれて置かれている。コクヨウは、籠を咥えなおし、部屋に入り、そのテーブルの隣に置く。
「こちら、モモンになります。好きなタイミングで召し上がって下さい。――既にお話伺っていることとは思いますが、私の汗は軽微な毒ですので、体調悪くなりましたら、早めにお申し出下さいね」
「分かりました」
間近で向き合い、コクヨウは、ベッドの高さ分だけ視線を上げて、メイリのその顔を見捉える。彼女は、コクヨウがぱっと見ても明らかなほどに、その身を強張らせていた。初めて宿を利用するお客さんでも、いきなり抱き付いてきたり、ベッドも無視して飛び付いてきたり、と言ったことも珍しくない中では、メイリは控えめなほうである。大した話も接触もしないまま満足して帰っていくお客さんも居るので、あるいは、彼女もそうなのかもしれない。
「緊張なさってます?」
「あ、ええと……はい」
自身に巻き付けた触角を引き締め、身を竦める彼女へと、コクヨウは、くすっと、はにかんで見せる。
何にせよ、少しずつ、
「そうですね――お隣、構いませんか?」
「はい、ぜひ」
「では失礼して……」
彼は、ベッドに上がって、メイリと同じように部屋の内側を向き、後ろ足を畳み、腰を下ろして、その隣に座る。
「夜伽にならない限り、自由に触れて頂いて構いませんので、どうぞ」
「ありがとうございます」
彼がそこまで言うと、メイリは、ようやくその身体を、ゆっくり、コクヨウへと寄りかからせる。彼の首筋に、その頬を重ねる。様子を窺いながら、リボンのような触角を、そろり、と、耳や頬に添えて、その表面をなぞる。黒い毛皮を、堪能し始める。メイリは目を瞑り、深い吐息を漏らす。その呼吸を聞いたコクヨウも、同様に目を瞑って、気遣わしく控えめに
「慎重ですね」
彼がそう言うと、「はい」と、短い言葉が上がりつつも、その触角がもう少し伸びて、耳や首、前足に、緩く巻き付いた。どこまで大丈夫なのか、とぎこちなく手探りしているかのような、その心の奥底では、もっと近付きたいと思っているのを抑えているかのような、そんな感じだった。宿から叩き出されたり、メンバーに嫌われたりということに恐怖を感じるお客さんは、コクヨウの経験上では、それなりに存在した。彼女もそんなひとりなのだろうか。もしそうなら、抑えているものを解放して、少し、リードしてあげよう、と。違うなら、ただ、ただ、謝ろう、と。
――彼がそう思う核は、自身が感じ続ける、しかし言葉にならない、小さな、小さな、違和感だった。
「メイリさんの、あの、ローブ、でしょうか、だいぶ使い古されていますよね。大切なものですか?」
コクヨウは、正面、テーブルの上に、畳んで置かれているローブをぼんやりと見つめ、雑談を持ち出した。静かに寄り添い続けるだけの彼女を解す一環として――あるいは、自身が感じる小さな違和を拭い去るため。シエンが疑る要因となった部分であるが、彼女としても答えづらい部分かもしれない。遠回しに尋ねこそすれど、返事がないなら、それでもいい、と、コクヨウは思っていた。
「別にそういう訳では……雑に扱ってますし……あ、でも愛着はあります。長く一緒に過ごしてきた、半身みたいなものですから」
メイリはコクヨウに寄りかかったまま、数瞬、身動ぎを止める。彼女も彼女でぼんやりとしていた中、言葉を紡ぐための思考を手繰り寄せて、そう言葉を返す。
「雨が染み込んだりした跡などがたくさん見えますしね。日除け、雨除けに重宝していそうに見えます。……恐らく、旅していて、しかも旅慣れていらっしゃります、よね?」
「……そうですね、旅してます、ひとりで。慣れてるかどうかは分かりませんけれど」
その話の上で、寄りかかってくるメイリの、その感覚を評するなら、確かに、短い毛皮に覆われたその内は、筋肉があり、あまり柔らかくなく、無駄の少ない肉体であることが窺い知れる。逞しい女性である。
「野営もよくなさってらっしゃりそうですね。盗賊などは怖くありませんか?」
彼がそう言葉を向けると、メイリは言葉に詰まったのか、数瞬、間が空く。意地の悪い質問だったかもしれない。いつ襲われるとも知れず、しかもひとりで旅していて仲間もいないのならば、目を付けられてしまった時点で、もう助からないようなものだろう。怖くないわけがない。
「……ううん……あまり大きな声では言えませんけれど、私、どちらかというと、そういう方々にはお世話になっているほうでして」
しかし、彼女から帰ってくる言葉は、決して恐怖の声ではなかった。
「大したことじゃないんですけれど、普段飲んでる薬が、私の力では中々手に入らないものでして、それの流通経路を確保していらっしゃる方々と、交流があるんです。薬の出どころは知りませんし、もしかしたら知らないほうが幸せなのかも知れませんけれど」
「あー、それは……なるほど、大変ですねぇ……」
コクヨウは、昔の、解毒薬を入手しようとして苦労したことを思い出す。当時の仲間がコクヨウの毒をうっかり帯びた時のため、モモンだけでなくもう少し効き目の強い解毒薬を用意しようとして、その流通経路が中々見付からなかった、という過去。メイリがどのような薬を飲んでいるのかは分からないにしても、常飲しなければならないものともなれば、入手経路を見つけるその苦労は、大変なものだっただろう。別段、深くなくとも賊と繋がりがあるから、といって、彼女を咎めたりする気は起きなかった。
これを聞くのがシエンなら、口を尖らせただろうか。それとも、コクヨウと同じように、彼女を受け入れただろうか。
「お体、あまり丈夫ではないのでしょうか? 今夜は折角の機会ではありますけれど、無理なさらないで下さいね」
「そこは大丈夫です、体調が悪くなりそうな感じがしましたら、すぐ言います。曲がりなりにも私の身体ですから」
メイリのその言葉は、冷静なようで、語調が、ひどく平坦だった。出かかった何かの言葉を、抑え込んだかのようだった。
彼女にとっては不本意なことは、決して少なくないのだろう。薬を常飲すること自体が、彼女にとっては不本意なのだろう。
「……因みに、嫌でしたら答えて下さらなくて大丈夫なのですけれど、普段飲んでいらっしゃるそれは、どういった薬なのか、お聞きしても?」
その抑え込んだものが、あるいは、彼女を苦しめているのならば、と、もう少し話を続けるも、コクヨウへと返される言葉はなく、彼を堪能する触角の動きも、ぴたりと止まる。互いの静かな吐息が、一つ、二つ、部屋の中に響きながら、ただ、混ざり合う。
「……ごめんなさい、面白くないお話でしたね。違う話、しましょうか」
コクヨウは謝り、本当に他愛もない話をしよう、と思考を切り替えようとした。そうするが早いか、彼女の触角が、コクヨウの耳と前足を、強く絞めた。彼の首に絡んでいた触角だけは解かれて、浮いたそれが、コクヨウの視界へと入り込んだ。
「……いえ、言わせて下さい。何も言わず、ただ、聞いて貰えますか」
強く彼の身に絡んだ触角とは裏腹に、寄りかからせ密着していたその身体は、自力で姿勢を維持できるよう、コクヨウから僅かに離れる。メイリは横へと視線を向け、自身の触角に絡まれた彼の、その横顔を見据える。一つ息を吐いて、気を落ち着けようとしたところで、その横顔も、彼女のほうを向く。一瞬、二つの視線が噛み合った。
そこには、柔らかく目尻を落とす、赤の瞳があった。落ち着き、哀れみを浮かべつつも、包み込むかのように温かい笑顔があった。
そこには、小刻みに震え続ける、深い青の瞳があった。覚悟に張り詰め、壊れてしまいそうな様を覆い隠そうとする、取り繕われた無表情があった。
「はい、お聞かせください」
鼓動が二つ、三つほど身を打つまでの短い間、ただ、互いの目を見合う。メイリが視線を外し、正面へと向き直ると、コクヨウも同じように、自身の正面へと視線を戻す。
メイリの中には、確かな感慨があった。羨望から後悔まで、様々に入り混じるものが見て取れた。コクヨウは、その感慨に気付いて、それから、自身の感じていた微かな違和の正体にも、気付いた。ニンフィアという同族だからこそよく分かるはずの、異性としての魅力を、今一、感じられなかった――そんな認識もできていなかった違和も。よく通る、しかし低いその声も。無駄の少ないその肉体も。それらを含めて、彼女の姿を明らかにしていた。コクヨウは、ただ、彼女が口を開き、本質を語れるように、静かに耳を傾けた。
メイリの、彼女の、そのニンフィアの身体は、男性のものだった。
「――普段飲んでいるのは、避妊効果がある、と言われている、女性向けの薬です。副作用としては、乳房が発達し、筋肉が落ち、脂肪を蓄えやすくなったりします。男性的な欲求が抑えられたりもするそうです。主にそう言った副作用を目的としていて、この身体からすればただの毒です。消化、吸収の負担が大きく、体調が安定しなくなって、少しの低調から、そのまま吐き気や頭痛に見舞われて、一晩まともに活動できなくなることもあります。未だに、慣れません。どうして薬を飲んでいるのか、私自身、分からなくなってきています」
その語調は、話す中でどんどん崩れて行き、上擦ったものに変わっていく。
「この身体は、私のものではない、と、どんなに願っても、どんなに壊そうとしても、私からくっ付いて離れません。疲れました。私は、こんな〝普通の身体〟ではなく、もっと〝普通な身体〟に生まれたかった」
「なるほど」
彼女の抑え続けていたであろうものが、溢れ出すように言葉となっていた。話が脱線し、飛躍しながら、
「女性の苦労を知らず、女性が知らないはずの男性の苦労を、この身で知ってしまっているんです。おかしいんです。男性に抱かれたいとは思っても、男性を異性として好きになることもできていなくて、そして男性と子を作ることもできなくて、こんな私が女性であるわけがなくて、それなのにこんなことを言っている私は、ただ気が狂っているだけなんです。旅をしているのも、そうです、誰にも、とやかく言われたくないんです。街での暮らしは、男性がどうの、女性がどうの煩くて、嫌だったんです。その辺の盗賊に殺されるなり、攫われて売り払われたりすることを期待して始めた旅だったんです」
コクヨウの身に絡まっていた触角が、緩み、
「出会った盗賊の皆さんが、そんな薬の流通経路を確保していらっしゃって、飲み始めたんですよね。私としては縋るような思いで、変化もあって、最初は、よかったんです。それなのに、慣れてくると、やっぱり、ダメだなって、私は女性ではないんだな……って……」
そこまで口にしたところで、彼女は言葉を詰まらせ、声を漏らし、静かに泣き始める。コクヨウは、それを聞いて、ただ、思う。表出する機会のなかったあらゆる感情が、乗った、重い嗚咽だ、と。ともすれば、その声に惹かれて一緒に泣き出してしまいそうな気さえしつつ、彼女の儚い姿に、軽く、軽く、身を寄りかからせる。
「――大丈夫ですよ」
彼女は一層激しく身を震わせ、言葉のない声を荒げながら、押し返すように強く、コクヨウへと身を委ねる。その黒い首筋へと、頬を当てて、まるで、圧迫された首筋から、彼の温もりを貪るかのよう。
「……この部屋まで案内して下さったキュウコンさんがいらっしゃって、予約受付もしてもらって、でも、そのかたには、私が男性だってこと、一瞬で見抜かれました。やっぱり、ダメ、なんです。……あなたは、どうですか? 話す前から分かっていましたか?」
「いえ、私は、分かりませんでした」
「そうですか」
彼女の、脆い部分が、露呈していた。
「……あなたは、ひとりの男性として、私を、滅茶苦茶に壊したい、だとか、思いますか? ……思いませんよね?」
強迫的とも取れる、感慨に歪んで震えた声が、彼を問い質す。果たして回答を求めた言葉なのだろうか、と、コクヨウは数瞬迷うも、ここまで言葉を紡ぎ続けていた彼女の声が止まったのをしっかりと受け取り、口を開く。
「思いはしませんけれど……うーん……弱りますね。私、女性を滅茶苦茶にしたい、とか、そう言う願望は、そもそも、ないんですよね」
コクヨウは、追加サービスを要求する女性客と、何度かまぐわることはあったが、何れも、理性的な対応に尽いていた。要求通りの行為をするだけであり――その間の高揚感自体は彼も十分に分かってはいるのだが、それでも、自分から何かを仕掛けよう、というようなことは、なかった。
彼女の聞きたかった言葉ではないだろう――と、
「――あまり、面白い答えではありませんよね、ごめんなさい」
「……いえ、こちらこそ、ごめんなさい……こんなこと聞いても、仕方ない、です」
首筋の黒い被毛が、湿って、沈む。嗚咽が部屋に響く中で、メイリの目から垂れ落ちる雫が、コクヨウの首へと伝っていく。
「男性であった記憶と、男性としての身体を全て失って、女性としての身体と、幼少期からの女性としての思い出を得られれば……なんて、思うんですけれど、そんなことは不可能ですし、できたところで、傍目には、ただ気の狂ったポケモンだ、って――私は、そう思ってしまいます。ごめんなさい、本当に……」
彼女は、自己矛盾に苛まれている。自らの価値観に折り合いが付けられず、身を切り刻みながら、その存在を保っている。――コクヨウが感じるのは、ただ、そういった、つらみだった。
「――言うことすら、嫌になります、よね、そういうのって」
「……はい」
「言いたくないことは、無理して言わなくてもいいですからね。ただ、今の話、私は、しっかりと聞きましたから」
そう言ったところで、コクヨウは、重心を引き戻し、身体の力を抜いた。メイリは、数瞬、そんなコクヨウの様子を感じ取り、遠慮がちに、力を籠めて身体を引き離そうとしたが、そのまま彼へと身を傾け続けた。重心が崩れ、落ちていく中で、コクヨウは、身を捩り、両前足で挟むように、彼女の身体を受ける。勢いまでは削がずに、ふたりして、ベッドへと倒れ込む。互いに向き合い、緩く抱き合うような形になる。
それぞれが、意図を感じ取って、受け入れた。
「――つらいですよね。たくさん泣いていいですからね」
コクヨウは両前足で、ゆっくり、メイリの後頭部を撫でる。両前足付け根の間へと寄り、その顔を押し付けて呻く彼女を、ただ、宥める。メイリの触角が、改めて彼の前足や耳に纏わり付く。その身体が、悲哀に震える。コクヨウは、そんな彼女を感じつつ、抵抗せずに受け入れる。
メイリの、そのつらみの根本について、コクヨウは、理解しきれていなかったが、彼女の求めを断る理由には、なり得なかった。
「……あ、でも、呼吸が苦しかったりとかしましたら、言って下さいね」
「……はい、もちろん」
ただ、安らぎが欲しい、それだけのこと。雨が降りしきる真っ暗闇の中で、重い身体を引きずりながら生き続けることに疲弊した、その末の、我儘。
「……いい匂い、です」
「お褒めに授かり光栄です」
メイリは、顔を埋めたまま、身体から力を抜く。コクヨウの静かな鼓動に包まれながら、ゆっくり、眠りに落ちていく。部屋に響く嗚咽が、収まっていく。コクヨウも、改めて一つ、息を吸い、吐いてから、目を瞑る。まだ眠るには少し疲労感が足りない気もしつつ、あまり興奮することなく眠れるのも、悪くないかな、と、思案しながら、意識を沈める。ランタンの火が消え、周囲が暗くなる。コクヨウの鼓動を表す光が、ただ淡く、部屋の中を、照らし続ける。ベッドの上で緩く抱き合っていた身体が、解け、圧迫されない位置まで、僅かに、離れていった。
コクヨウが身を起こすと、身体に纏わりついていた白い触角が、するり、と、落ちていく。窓の外からは、もう朝の日差しが入り込んで来ていた。
あまりに平和な一夜だったな、と、彼は、少しばかり思い返す。彼女にとっては、決して穏やかな話ではなかったのであろうが、だからこそ――本当に添い寝だけでよかったのだろうか、と、数瞬、思案する。しかし、隣へと視線をやり、寝息を立てている穏やかな表情を捉えると、そんな心配をする必要もなさそうだった。彼女の求めていたものは、安らぎは、きっと、しっかり提供できたのだろう。コクヨウは、寝入り続けているニンフィアのその姿を、メイリを、ぼんやりと見続けた。
(――果たして自分の目には、彼女の姿は、どう映っているのだろうか?)
それは、男性的にも、女性的にも、映っていた。どちらかと言えば女性である、と、思っていた。しかしそれは、聞いてしまった話を加味したものである、と、コクヨウ自身、理解していた。最初に彼女を見た時は、彼女が女性である、と思い込んで、何も疑っていなかった。同性のメンバーを指名するお客さんも、そうそう居ないため、男性であるコクヨウを指名したからには、そのお客さんは女性である、という先入観があった。
どうだろうか。何も話を聞かなければ、果たして気付く事はあったのだろうか。
性別のある種族のポケモンと対面する際は、まず、男性か女性か、そのどちらであるか、という目星を付ける。大抵その目星は当たるのだが、稀に外れることもある。男性だと思ったポケモンが、女性だったり、女性だと思ったポケモンが、男性だったり、そういうことは、確かにある。では彼女は、どちらなのだろうか。どちらでもあって、どちらでもないのだ。コクヨウの中には、彼女を定義しうるものが、なかった。目に見える形だけで、断定ができれば、ずっとよかったのだが、彼は、メイリのその姿を見れば見るほど、分からなくなってきていた。
(それが理解できないものならば、どうだろうか。彼女は、怪物や化け物の類なのだろうか? ――そうなのかもしれない)
そもそも、ポケモンの姿として考えても、性別によって姿に大きな変化がある種族のほうが、ずっと珍しい。コクヨウは、ポケモン全てを完全に
昨夜、彼女が言葉なく呻いていた、その根本が――それとなく、分かった、気がした。
コクヨウは、目を瞑り、一つ、息を吸って、吐く。
理解する必要はない。何も難しいことではない。ただ、そこにある存在として、受け入れればいい、と、そう結論付けてから、目を開いて、再び彼女を見捉える。暫くすると、その瞼が、ゆっくりと持ち上がり、青く澄んだ瞳が、コクヨウへと視線を向ける。
「おはようございます。お体、無事ですか? どこか重かったり、違和感がありましたり、そういった症状はありませんか?」
「――おはようございます。何か変な感じは、特にはありません……あ、でも、心がすっきりした気はします」
コクヨウの挨拶に対して、メイリは、柔らかく微笑んだ。彼女の気負いのない様子を、コクヨウは、何より、嬉しく感じられた。
「そうですか、よかった」
窓から入り込んで来る風が、心地よい。後ろ暗い空気は何も無く、爽やかな中で、コクヨウは、小さく、微笑みを返した。
「――では、メイリさん、お気をつけて、行ってらっしゃいませ。ご利用ありがとうございました」
「はい。一夜をご一緒して下さり、ありがとうございました。心地よかったです。――どうか、お元気で」
ひとりのニンフィアが、ロビーから出て、宿を去っていく。その後ろ姿を見送って、彼は、一息付く。
夜行する個体の多いブラッキーとしては、寧ろ、眩い日中こそ眠っていたい、と思ったりもするのだが、添い寝という形で、一夜を眠って過ごした後は、日の光の下でさえ、活発に動きたくなる。
コクヨウは、明るい外を見ながら、今日はどうしようか、と思考を巡らせる。
「ん、お客さん帰したところ?」
そんな言葉が後ろからかかり、そして、横を過ぎて彼の前へと出る姿があった。身支度を終え、帰路に付こうとしているキュウコンだった。綺麗に整えられた黄色い毛並みは、朝日を跳ね返して艶を作り、清楚な装いで、しかし、その毛並みの隙間からは、微かに、追加サービスで用いる甘い芳香を漂わせている。女性メンバーであり、この宿の人気パートナーであり、また、コクヨウにとっては先輩にあたるポケモンだった。
「はい、つい今しがた、お帰りになられました。――何か?」
いつも通りの他愛ない話……とは、思い難かった。コクヨウは、そのキュウコンの横顔を見て、柔らかい微笑みの中に、小さな歪みを、見た。
「――コクヨウは、あのお客さん――ダメじゃなかった?」
「ダメではありませんでした。初めてで戸惑いましたけれど」
彼女は、その場に留まり、コクヨウへと視線を向ける。互いの赤い目と赤い目を向かい合わせる。そうすると、罪悪感に苛まれているかのような、暗い歪みが、軽微ながら見て取れる。嫌々留まっているわけではない、ということを表す微笑みが――それが本心なのだろうにしても、まるで嘘を付いているかのように白々しくも感じられる。何か言いづらいことを言おうとしているのだ。
コクヨウは、それに関しては、心当たりばかりがあった。メイリの予約受付をしたキュウコン、というと、彼女の他には居ないからだ。
「……あなたが、あのお客さんの予約受付、して下さったのですよね。それから、お部屋への案内も」
「うん、あの可愛いニンフィアでしょ? 私がどっちもやったよ。……問題、なかった?」
「ええと、問題があったかどうかが分からなくて……」
彼女が何を気にしているのか、というのも、コクヨウは、なんとなく分かっていた。そして、真っ直ぐ伝えることに抵抗があって、うまく説明できずにいることも。今の自分が正にそうであるように。
「あのお客さん、メイリさん、『予約受付してもらったキュウコンさんに、見抜かれた』という感じのこと、仰っておりました。自身の秘密を、です。しかし、私、昨夜入った時点では、シエンさんからは、ちょっと素性の分からないお客さん、という以上のことは聞かされておりませんでした。――なので、だから、ええと、どこかで伝達ミスがあったのか、それとも、単に、あなたが見抜いたその秘密は……シエンさんとの共有も、されていなかったのか、だと思うのです。――恐らく、後者だと思うのですけれど、どうですか?」
――彼女に限ってお客さんの弱みを無下に扱うことなどない、という事をよく分かっているからこそ、その点についての不信は、ない。
「うん、ええとね、あのニンフィアの秘密は、シエンにも言ってないし、誰にも話してない。予約を受けた時に気になって、ちょっと口頭で聞いてみただけだし、それに、あの子としても触れられたくない話みたいだったしね」
彼女は一つだけ間を置き、続けて言葉を紡ぐ。明るく、しかし、どこか細い声。
「多分、問題だった。悪気はなかったんだけど、ごめんね。コクヨウにも、シエンにも、悪いことした、とは思ってる。……でも、信頼してない訳じゃないからね?」
「分かっています、大丈夫です。あなたならそうすると思ってましたし――私が受け付けたなら、私も、そうしたかもしれません」
別に、お客さんの細かい情報まで宿全体で共有されていなければならない、なんてことは全くない。もし仔細なところまで――お客さんの悩み事にまで宿側から踏み込むなら、もう少し、窮屈な場所だったかもしれない。
この宿に来るお客さんは、悩み事を抱え、不安に押し潰されそうな状態で、縋るように安らぎを求めていることも多い。付き添うパートナーひとりだけが把握しているお客さんの秘密など、山のように存在するのだ。
「――とにかく、お客さんの秘密を守って下さったのですよね、彼女に代わってお礼を言わせてください。ありがとうございました」
「うん、どういたしまして」
メイリとしても、宿側に極力隠しておきたい、という願いがあって――そして、その願いを間で引き受けてくれたのが、彼女だったのだ。
コクヨウが微笑むと、そのキュウコンの笑みから、歪みが消えた。
「お客さんの心安らげる、癒しの空間、だもんね」
「そうですね」
夕方から翌の朝にかけて開いているこの宿で、パートナーごとに少しずつ異なる形で、お客さんに寄り添って、癒しと安らぎを提供する。
噂の添い寝屋は、優しい場所であった。
・あとがき、というほど大げさでもないのですが
ウルラさんの添い寝屋はいいものです。素敵なものです。素敵ですよね。分かりますよね、分かって。
添い寝屋さんで安らぎ癒されたい、という思いと、この世界における性別の価値観やその観点への疑問、が、悪魔合体して、疑問のように思い浮かんだお話でした。
メイリさんのキャラクター像としては、ウルラさんの作品で言う安眠を求める方にの方が適性高そうなお客さんとなってしまった気がします。("安眠を求める方に"も素敵な作品なので、ご存知でなければぜひ読んでね!!)
風刺の色が強く、いいのかな、これだいぶ差別的な作品になってないかな、当事者さんなどいらっしゃったら読んでてめっちゃつらくなったりしないかな、いいのかな、という消え入りそうな不安もあったりはしますが、きっとそんなことも関わりなく安らげる素敵な空間です。改めまして、添い寝屋さんはいいぞ。
ここまでお読みくださりありがとうございました!