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初めての救助 (上)

/初めての救助 (上)

ヤシの実

初めてのポケダン物です。 一部、キャラ視点の部分があります。
長編だと、修正する部分が多いですよねぇ。

初めての救助 (上) 


 地平線の彼方まで続いている青い世界。その先を行こうとするのは風に流されて何処までも浮かび進んでいく白い雲の数々。
 見る者を圧倒する程までに広い青き清浄なる自然。そこには沢山の恵みを含み、沢山の生命の源となってきた水の宝庫。
 何処までも続く蒼穹と、辺り一面に広がるのは潮の臭いが香る海。
 そこに浮かんでいるのは、ありのままの自然が広がっている。人間がまだ足を踏み入れていない大地、ポケモンだけしかいない、そんな世界がそこにあった。
 
 黄緑色した生い茂る草むらを涼しい風が吹きサワサワと靡く。そんな中、一部だけが強く揺れる。
 ユサユサと揺れる草むらの中から、丸い水色をした、中央に黄色の十字文字の模様をした耳がチョコンと顔を出す。
 何かを見つけたのか、それはピクッと僅かに動く。それに近づこうと可愛らしい耳が移動する。
 草むらを分ける音を鳴らしながら、やがて一本の木にたどり着くと動きを止めた。そこはちょうど日陰になっており、眩しく照り付ける日差しを避けるのに最適な場所だ。
 一点に留まったそれは、草の根を分けるようにガサゴソと動いている。やがて制止するように動きを止めると。
「見つけた~」
 幼い少女のような声、お目当てのものを見つけた声の主は草むらから顔を出し、喜ぶ声をあげた。
 両手にもったオレンの実を手に、満面の笑顔でそれを見やる。
 外見的に幼い彼女は丸みを帯びた四足体系で、前半身水色、首元は黒色した牙模様と後ろ半分からは黒一色の二色の体毛をしている。
 頭には小さくハネッ毛があり、邪気の無い丸みのある瞳は小金色で、前肢にも同色のリング模様がある。
 そして四足歩行ポケモンのチャームポイントでもある尻尾は、付け根から先っぽに掛けて黒色をしており、先端部分は黄色の四角形の星状の形が特徴的なポケモン。
 頭部に着けてある青いリボンと、首から前肢に触れそうな位置に小汚い黄色のカバンを提げている。
 せんこうポケモンのコリンク――彼女はようやくといった感じで今みつけたオレンの実を咥え、ぶら下げてあるホック付きのカバンの中に入れこんだ。
 カバンの中は今入れたばかりのオレンを除き、何も入っていなかった。かれこれ一時間掛けて、ようやく見つけた食料だった。
 健気に頑張った証として入れた木の実を嬉しそうに見ながら、ゆっくりとカバンを閉じる。
「もっといっぱい見つけなくちゃ」
 何時までも苦労して見つけた幸福に浸るわけにはいかない。喜びは大きいが、食料としては全く少ない。まだまだ沢山見つける必要がある。
 一匹二匹分じゃ到底足りない。だからコリンクは次の食料を探そうと身を屈めた。鼻の先っぽを地面すれすれに近づける。
 クンクンとは鼻を鳴らしながら、再び草むらを分けて進みだす。
 視界に広がる黄緑色の草と茶色の土。それ以外の目ぼしい物は視界に入りづらい。 
 その草はコリンクの身長の半分以上ある。地面に落ちてある食料を探すには視界的に不利な為に、木の実特有の臭いを嗅ぎ取る嗅覚に頼るしかないのだ。
 時折、短く生えた草の先がコリンクの耳にチロチロと触れてくすぐったくなるも、それを堪えて、懸命に食料になりそうな木の実を探した。
 すると、視界の片隅に草と土以外の赤い何か映りこんだ。
 コリンクの表情がまた明るくなる。オレンの実を見つけてから短時間で次の発見にウキウキしながら近づいていく。頭の中で、クラボの実かと内心期待していた。
 視界の邪魔な草を前肢でどかし、お目当ての物を目にした。しかし、期待は裏切られた。
 コリンクが見つけたのはそれは食料ではなかった。赤い物の正体は千切れた赤い布切れだった。近くで見ればすぐ気づくものの、狭い視界ではそれに気づく事が出来なかった。
「ただの布かぁ……」
 ただのゴミを見つけてしまったコリンクはつまらない顔でふぅと溜め息を吐いた。このコリンクはいつもこんな調子で日課である木の実探しをしていた。
 どうりで見つけた割に匂いがしないと思ったコリンクは、頭の中で自分の愚かさを責めた。
 めげずに次の食料を探そうと再び鼻を地面に近づけようとした。その時、何かの気配を感じたコリンクはふと背後に振り向く。
 草むらから外れた砂色の一本道から、ゆっくりとこちらに歩んでくる一匹の姿。日差しの影響でそれをはっきりと見る事が出来なかった。確認できるのは形だけのシルエットだ。
 徐々に近づいてくるそのシルエットに見覚えがある。眩しい日差しに目がなれてきてその正体がはっきりと映し出される。
 やがてその姿がはっきり見る前に、コリンクは嬉しそうな顔をすると草むらから飛び出す。歩み寄ってくるポケモンに向かって全力で駆け出した。
 相手との距離が一気に縮まり、そのシルエットの正体がはっきりした。
「お兄ちゃ~ん!」
 近づきながらそうを呼ぶ、その相手はコリンクよりも一回り分体系の大きいポケモンだ。
 全身が長い時間を砂遊びでもしたかのような汚れた体。しかし引き締まっているその表情からはとても遊んできた感じは無く、毅然とした感じを思わせる。
 首からコリンクが同様のカバンを提げていたが、一回り大きいカバンを首元から提げている。小汚さは同じだが、相当使い込まれていたのかひどくボロボロだった。
 そのポケモンはコリンクが目に入ると、引き締まっている口元を緩ませて口を開く。
「ただいま、元気にしてたかい?」
 優しい問いかけにコリンクは元気よく「うんっ!」と頷く。曇り一つ無い可愛らしい笑顔にそのポケモンも嬉しく思い、つられて笑顔になった。
 コリンクは嬉しさの余りにそのポケモンの前肢に頬ずりをした。
 そのポケモンはコリンク同様の黄金色の目の色、水色と黒の体毛に覆われ、丸みのある耳の形と十字文字の黄色い尾をしている。
 違う点を上げれば、幼さの抜けた凛々しい瞳に前肢のあるリング模様が左右両方にある事。そして見る物を自分は一人前だと出張するような、頭部の周りを覆うほどの黒長く跳ね上がった体毛。
 コリンクの第一進化系、でんこうポケモンのルクシオだ。
「よしよし、良い子にしてたな。リン」
 ルクシオはそう言って顔をリンと呼んだコリンクに近づけて頬ずりをした。
「うん、良い子にしてたよ。セルシオお兄ちゃん」
 リンもまた、セルシオと呼んだ自分の兄の頬ずり返す。
 肌が触れあう度に、その摩擦で二匹の間に微弱な電流が流れた。会話からして二匹は兄妹だ。
「木の実は沢山集まったか?」
 ぶらんと提げているカバンを見て、セルシオが聞いた。するとリンの顔が僅かに苦笑に歪む。
「ううん、かれこれ一時間は探してるんだけど、まだオレンの実一個……」
 申し訳無さそうに、薄汚れたカバンを開いて中の木の実を確認させる。広いカバンの空間でオレンの実がゴロゴロと転がる。
「そうかぁ、この辺りの木の実はほとんど無くなっているみたいだなぁ……」
 セルシオは周りに立ち木を見やる。この辺りは特定の時期が来ると、沢山に木の実を実らせる。リンにとってこの場所は食料探しのポイントになっていた。
 しかし、今はほとんどは木の葉を除き、実などぶら下がっていなかった。目ぼしい物は多分、ほとんど他の者に取られたに違いないと彼は想像した。
「前はいっぱい拾えたのにね……」
「このご時勢だからな、他のみんなも食料探しに必死と言うわけだ」
 少し残念そうに言うリンに、セルシオは冷静な解説をした。
「そういえば、セルシオお兄ちゃんは探検どうだったの?」
 話を変えて、顔色を変えたリンが唐突な質問をする。それに対して、リボン越しに頭を撫でながら答える。
「あぁ、今回は成功したさ。ちょっと苦労したけどな……」
「本当!? やったぁ、やっぱりお兄ちゃんは強い探検隊だね!」
 朗報を耳にしたリンがその場で跳ね、兄の成功を心の底から喜んだ。
「そうはしゃぐなよ。あとは依頼主に盗まれた道具の渡せば、そこで仕事は終わり。貰った報酬で久しぶりに美味しいものを食べような!」
「うんっ。それじゃ早く行こうよ!」
 嬉しい余りにリンは急かすように前を走り出した。セルシオはやんちゃな妹にはにかに微笑みを漏らし、続いて歩き出した。
 砂色の小道を仲の良く進む兄妹。元気そうに走る妹の後姿。セルシオにとって、この世でリンだけが、自分に残された最後の『家族』だと言う事を実感させた。

 帰路の道中。コリンクとルクシオの二匹はある所に寄り道をしていた。そこは海が近い絶景の岸壁となっていて、いつも波が岩壁を打つ清清しい音を鳴らしている。
 二匹は灰色に塗られた木材作りの半球状の建物の前に来ている。崖に近い故に、周り草と岩以外ものは何も無くて、孤立するように建てられている為に妙な存在感がある。
 一見半球状の建物は、大きな口を開けたような入り口以外は、これと言った物は無い。それどころか、窓さえ付けていない。住処として使うには余りにもこざっぱりしている。
 セルシオとリンは、大きく開けられた入り口へと吸い込まれるように、並んでに入っていく。
 こざっぱりした外見に負けじと、塗装がされていない木材面がむき出しだ。床面も、あちらこちらに散らばってるみたいに雑草が生えている。
 全方向を見回して、面白味のある物と言えば、ちょうど二匹分が座れそうな木材で作ったベンチらしき物以外何も無く、殺風極まりなかった。ただこの半球状の中心点にあたる床面にあるそれを除いては――。
 訪れる者を迎えるようにある、自然石で作られた段差のある階段があった。そこから先は、影で黒くなっていて見えない。
 コリンクのリンと、ルクシオのセルシオの二匹はそれを確認するや、何の疑問もなく階段を降りていく。
 馴染みある土の感触から、硬い石の感触に変わった。階段の広さはそこそこあり、4匹ぐらい横に並んで降りてもまだゆとりが出来るほど。 
 階段の途中は若干薄暗く、足元に注意して進まなければ転んで怪我をしてしまいそうだ。途中でゴミらしき物に足にあたるが、セルシオは構わず降りる。その後にリンが着いて行く。
 段差はそこまで長くなく、階段の終わりの先に出口がある。出口から漏れている光を頼りに二匹は向かう。
「依頼のおじいちゃん、来てるかな?」
 唐突に聞いてくるリンに、セルシオは「来ているさ」と優しく答える。
 出口に出た二匹の前に映る光景――広大な空間が広がっていた。
 ドッと生き物達の賑わう声が耳に入る。表の殺風景で静かな場所とは違い、そこには大勢のポケモン達が至る所に居て賑わいがあった。
 岩の天井に下げられている灯火が空間全体を明るく照らしている。
 行き交うポケモン達。荷物を運ぶゴーリキー、沢山の手紙らしき封筒をせっせと運ぶベリッパーの姿、はたや鋭い目をした怖そうな人相をしたポケモンなど……
 またポケモンのみならず、土台で作られた売店の列や市場、また出会いや情報交換の場として利用される酒場など、地下ならではの町が、そこに存在していた。
 セルシオの目の前で左右からポケモン達が行き交う姿を目にしながら、まっすぐと進んでいく。  
 
 人間が居ない世界、ポケモン達だけの社会がある。空洞に存在する品々や看板、建築物は全部ポケモン達によって作られた物だ。
 そこでかならず必然的になってくるのが、通貨という存在だ。この世界での通貨は「ポケ」という単位で利用され、ポケモン達はそれを使って、それに見合う値段を欲しい物と交換するのだ。
 いまセルシオ達がいる場所は、「ポケ」が最も流通する所にいるのだ。地下空間ながら、はんぱ無い広さのおかげでポケモンが、物が、ポケが常に絶える事なく行き交っているのだ。
 どうして日の光に当たらない空間にポケモンが集まり、沢山の物資を流通させていく地下繁華街を発展させているのか――
 まず、掘られて出来た洞窟は当たり前のように薄暗いはずだが、それを照らしているその理由は、ある特殊な植物のおかげである。
 この大地で発見された、暗い場所で光を灯す苔がある。それを天井で繁殖させたお陰で、暗い空洞は忽ち光に満たされている。
 それが生き物が活動するのに必要な条件が揃い、ポケモンの活動を有利にしてくれている。
 もうひとつ、ポケの流通が活性化しているその理由――元々はある職業のポケモンを束ねる目的で作られた組織、『ギルド』によって開拓された地下空間。
 その「ある職業」こそが、セルシオを含めた、『探検隊』と呼ばれる職業だ。この空間は、そんな探検隊の活動拠点として造られた場所である。
 探検隊とは、一言に言っても色々ある。その活動の仕方は他者によってさまざまだ。とある遠い地方で遭難した者を救出する救助。悪事を働き、ポケモン社会の秩序を乱すおたずね者の退治。まだ見ぬ地に訪れ、新しい発見や財宝を追い求めるトレジャー。
 それらの活動隊を一括りに、探検隊と呼ぶ。
 活動するにはすべて、ギルドを通じて依頼主の仕事を請け負う。探検隊はすべて、依頼書を見て、希望があればその依頼書を持って行き、ギルド関係者にそれを渡し、そこで初めて仕事の受領が成立するのである。
 探検隊は依頼書に書かれた内容を把握し、目的を達成する事によって、依頼を達成し、報酬を得ていくのだ。
 地下繁華街は、そんな探検隊が必要とするトレジャーアイテムや、娯楽などを提供する為に『ギルド』の領地を借りて商売をしている。その内に自然的な形で発展していったのだ。 
 今セルシオ達は地下繁華街の娯楽場である、酒場に来ていた。リンと二匹で椅子に腰を掛けて、軽い飲み物を口にしている。依頼を受領してから、数日後この酒場で待ち合わせをする予定だった。
 依頼を達成し、待ち合わせの場所に到着。後は依頼人が来るのを待つだけだ。
 丸型のテーブルとそれを囲む椅子、席を埋め尽くすほどの客が賑わっていた。ちょうどセルシオの背後で、依頼を終えた三匹の探検隊が祝盃をあげていた。
 それとは別に、セルシオの正面に座っている別の三匹の探検隊が同じく依頼を終えている様子だ。しかしその表情は、依頼に失敗したのか、しょんぼりしている。祝盃とは逆の、反省会と言った雰囲気だ。
 セルシオは、他の探検隊の様子を覗っているうちに、一匹のポケモンが自分達の座っている席に近寄ってきた。
「もしもし、チーム『ライメイズ』かね?」
 老いた声で唐突に話しかけてきたのは、動物の髑髏を被ったような顔のポケモンだ。茶色の手足に、横線の入った膚色の体。手には杖代わりに骨を持っている。 
 ほねずきポケモンのガラガラだ。
「ご依頼の方ですね」
 セルシオが聞くと、ガラガラはコクンと頷く。髑髏を被っている為にその年齢は分からないが、彼は老人だ。
「それでは、依頼した物です。確認してください」
 セルシオはボロボロのカバンの中から、随分と使い込まれて薄汚れた、ガラガラの顔模様が刻まれている黄色のリングを取り出した。それをガラガラ老人の前に差し出す。
 それを確認すると老人はやや驚いた様子で、やがて狭く開いている目がやんわりと、笑顔に変わる。
「おお、これですじゃ……間違いありません!」
 ガラガラ老人はそう言うとリングを受け取り、セルシオに向かってお辞儀をする。
「どうもありがとうございます……流石チーム『ライメイズ』ですじゃ……」
「それほどでもありませんよ」
 大事そうにリングを抱えるガラガラを見て、セルシオの表情に笑みを浮かべる。
 依頼の成功で老人が喜ぶ事に嬉しく感じるのもあるが、何よりも自分のチームの名に輝かしい功績を残せた事に喜びを感じていた。
 ――チーム『ライメイズ』それがセルシオの探検隊の名前だ。主な活動は、救助、おたずね者、トレジャーなどさまざまに行っている。
 チームと言っても、メンバーの数は彼一匹のみの、特にこれと言った名誉あると言う訳でも無いごくありふれた探検隊だ。
 結成してからまだ日が浅い。数も揃わず、経験も少ないセルシオ一匹で探検隊を活動していた。
 ハンターランクと呼ばれる探検隊の階級を表す栄誉なども、ライメイズには無縁のものだ。だから今目の前にいる老人一匹の依頼を達成するだけでも精一杯。
「それでは、お約束の報酬ですじゃ……少なくても申し訳ないですが……」
 ガラガラ老人は腰に下げていた小さな布袋をテーブルの上に置いた。それをセルシオの方へやると、彼はそれを受け取る。
 紐で括られた袋を解き、中身を確認する。金色に光る円形の中央に『P』の文字が書かれてある通貨が少なからず入ってあった。
 袋の中に爪を突っ込んで、報酬の額がちゃんとあるかを確かめようと弄り、中でポケ同士がチャリチャリと擦れ合う音がした。報酬的に、決して多い額とは言えない泡銭。しかし、彼にとってその泡銭こそ、自分達の明日を支える貴重なお金だった。
 やがて、中身が約束通りの金額がある事を確認すると、袋の紐を縛り直した彼は笑顔で老人に向ける。
「確認しました。よかったですね、奥さんの形見なんでしょう?」
「はい……前に亡くなったばあさんの物です。ゴーストに盗まれた時は、本当に絶望的な気持ちでした……」
 取り戻したリングを胸に当てながら、ガラガラ老人は続ける。
「ワシが探検隊を始めた頃、ろくに成功せず、落ち込んでいたワシを慰めようとした時に、ばあさんが何時も腕に付けていたリングなんですじゃ……」
 昔の事を思い出すように、しわしわの瞳を瞑らせて言う。セルシオはそんなガラガラの過去の事をなんとなくで想像しながら聞いていた。横でジュースを飲み終えたリンは、興味無さそうにテーブルの上に置かれた布袋をツンツンとつついて遊んでいる。
 依頼を終えて受け取るべき報酬も得て、後はガラガラと分かれて家路に着くだけだが、セルシオはなんとなくこの老人の話をもう少しだけ聞いていたくなった。
「あの頃はというと……ワシは頼り無いカラカラでしてなぁ、いっつもばあさんに助けてもらってばかりで……」
 ガラガラは頼まれるまでも無く勝手に自分の過去の事について語り続けた。がやがやとにぎわう酒場の五月蝿い声を気にする事なく、セルシオは老人の語る思い出話に付き合った。 

「すっかり遅くなっちゃったね~」
 小さな布袋を首に提げたリン言われて、セルシオは苦笑気味に「ゴメンな」と返す。思い出話にすっかり夢中になり、時が経つのを忘れていた。おかげでお昼が遅くなって腹の虫が抗議するかのように鳴いている。
 酒場でガラガラと分かれた後の二匹は、貰った報酬でこのポケモンが繁盛に行き交う地下繁華街の何処かでお昼にしようと決めていた。
 経済的な理由で、何時もはリンが拾ってきてくれる木の実とか、余り値の張らない地下繁華街で販売している味気の薄い木の実ばかりの粗末な物が二匹の食事だった。
 自分だけならまだいいが、育ち盛りの妹にはそんな粗末な食事しかさせられないとなると、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。兄としては、遊ぶ暇もなく食料探しを手伝わせていつも苦労掛けている妹に是非美味しいものを食べさせてあげたいと、今回だけは贅沢を決めた。
「リンは何が食べたい?」
 並んで商売している露天を見ながら尋ねると、リンはそうそう滅多に無い贅沢な機会に懸命に頭を悩ませている。
「う~ん、どれにしようかなぁ。辛い物が食べてみたいかも」
「辛い物かぁ、そうだな~。辛い物と言えばだな」
 一緒になって、リンが希望する食べてみたい物を考える。今並んでいる露天を少し進んだ奥に、看板を下げた穴の列が見えた。
 露天を過ぎた先には食事をする店の列がある。一見穴ぼこだらけだが、穴の潜った先に空間が広がる。一つ一つの空間全てが食事場となっている。その中でポケモン達は豊富なメニューを決めてはそこで外食を満喫するのだ。
 飯店の列を通ると穴の中から匂いが漏れる。どれも涎が出てきそうな良い香りが広がった。どれにするかセルシオは迷った。
「何処にしようか、久しぶりのご馳走だから迷っちゃうよな。リン」
 そこにリンが希望するお昼があるかもしれないと、セルシオは臭い宛てにしてキョロキョロと見て回る。その時、ある異変に気づいた。背後に着いてきているはずの妹の気配がない。
「リン……?」
 辿った道を目を向けると、やや離れて小さくなっていた妹がそこにいた。露天の最後の列の場所に留まったまま動かないでいる。
 近づいても全く気づく様子の無く、ボーッと一方方向を見ている妹に半場溜め息を吐く。構わずセルシオは妹に声を掛けようとした。そんな時、一軒の露天が目に入ると開きかけた口を閉じた。
 白色に塗られた木材作りの二段式の棚に、ピンク色の掛かった白色のハンカチの上に一個ずつ商品が乗せてある。他の店に比べて綺麗であり、一際目立つその露天。いかにも高級店っぽい雰囲気を放っている。丁寧に並べられた商品の内、一つの商品に目が行った。
 白のフリルと水色のリボンという絶妙な色合いと、複雑な絡みをした模様が少々派手な印象を与える。所謂フリルリボンと言う物だ。
 雄であるセルシオにはそれの価値が今一分からない。だからこんな物に目がくれるはずがなかったのだが、妹がそれを熱心に見ている点では例外だった。
 今一度リンが頭に飾ってある青いリボンに目を向ける。青い布で作られた単純なリボンだが、カバン同様に使い込まれたそれは、所々茶色く染み付いている。露天に飾ってあるリボンと見比べても、どっちが良いかは考えるまでも無い。
 水色の体毛をしているコリンク種だからこそ似合いそうな水色をしたフリルのリボン。それが兄の存在を忘れてしまうほどリンには輝いて映ったのだろう。
 無邪気な瞳で一つの物を見続けているその表情からは、何処か残念そうにも覗える。まるで星に向かって手を伸ばし、どんなに努力をしても掴めない、届かない。目の前にある物をどうしてその手にする事が出来ない子供の様子を描いている様だ。
 こんなに近くにあるのに、手に入れる事が出来ない遠い存在の物。そんな現実が妹を切ない気持ちに追いやっているのだろう。
 どうにかして買ってやりたい。兄として妹を思う気持ちが揺さぶられる。しかし、フリルリボンの下に張られてある値札の額を見て、明らかに不可能だと思い知らされる。
 老人から貰った報酬とは桁違いの値段、10倍以上の値がついていた。間違いなく高級品だろう。見た目的にも女の子のステータスを上げそうな代物だけに、その価値も半端無い。
 セルシオは曇った表情でリボンを見つめる。どんなに自分が努力をしても、決して掴む事が叶わない現状に佇んでいるだけの自分が恨めしかった。
 ――お兄ちゃん
 ポケ、ただポケさえあれば、買ってやれる。今日まで節約生活を強いられ、遊ぶ自由も無く食料探しを続けて、明日を生き抜くためだけにひたすら苦労を掛けてきた妹に為に…… 
 美味しい食事も我慢させ、文句も愚痴も言わずに今日まで自分を信じてきた、掛け替えの無い最後の家族願いだ……ポケさえあれば……
 ――お兄ちゃんっ

 買ってやれるのにっ――

「お兄ちゃんっ!」
 頭の中でちらつくような呟きだと思って無視していたが、今の一言によって我に返る。慌てて声のする方に向き直ると、そこには怒った顔で自分を睨んでいる妹の姿があった。
「あ、ごめん」
「何度呼んでも返事しないでボーッとしちゃって、もぅ!」
 無視されて、文句の一つでも言いたそうに頬をぷくーっと膨らませている。妹を呼ぼうとして戻ってきておいて、自分が呆けていたのでは世話しない。
 セルシオは苦笑しながらも先に歩き出した。リンはムスッとしながらも後を付いていく。さっきまでしていた、あの悲しい表情はすっかりなくなっていた。
「何を見ていたの?」
 リンの質問にセルシオはどう返したらいいか迷う。自分がリンと同じくフリルリボンを見ていたと知られたら、多分気に悩ませてしまう。ここはあえて嘘を付こうと口を開いた。
「えっと……リンが見ていた露天のお姉さんがさ。なんか綺麗だなぁって思ってつい……」  
 咄嗟に思いついた嘘とは言え、我ながら余りにも馬鹿げた返答だと自分を罵りたくなった。もっと他に言える嘘があるだろうと自分を責めた。露天のポケモンを利用した事に対しても申し訳ないと思い、苦い表情を無理やり笑顔を作った。
 その反面、リンはハトが豆鉄砲でもくらったような顔で自分を見ていた。
「お兄ちゃんって、ああ言うのが好みなんだ……以外かも」
「へっ?」
 リンは自分がさっきまで見ていた、露天を開いているポケモンに目をやる。セルシオも釣られて、自分が思わず口にした『綺麗なお姉さん』に目をやった。
「あらぁ、そこの可愛らしいお嬢ちゃんとお兄さぁん、何かお求めかしらぁん?」
 いかにも女口調らしい『綺麗なお姉さん』……いや、正確には女口調の『綺麗なラグラージの お 兄 さ ん』だった。
「うふぅん、そこのお兄さん若そうだけど、私好みのイケメンボーイじゃなぁい? あらやだ、そんなに穴が開くほど見つめちゃってぇ、もしかしてこの美貌にぃ、ひ と め ぼ れ ? キャーッ! マダム困っちゃうぅ、この美しさは罪ね、罪!」
 地獄の亡者の雄叫びみたいな図太い声が腹の奥底から吐き出される。
 テカテカに輝くピンク色の唇、クリンとしたパーマまつ毛、髭に見えなくも無いオレンジ色の突起には鬱陶しいほどの取り付けられたピアス。そして何よりもゴーリキーに引けをとらないムチムチのたくましい腕っ節。
 キラめかしい女の子用のアクセサリーを販売するそのイメージと恐ろしいほどマッチングせず、むしろ格闘ポケモン専用の筋力トレーニンググッツでも販売している方が似合っている。
「もう、ボーヤったらぁ。いくら私が美しいからってそんなにジロジロみるものじゃないわよん? でも、あなた見たいな子だったら一回くらいデートしてあげてもいいかしらねぇ……」
 そう言って青い顔を赤く染め上げ、セルシオにピンクの視線を送る。その恐ろしいまでに美しい眼差しを、目を点にしていたセルシオの体毛は完全に白一色に染まった。
「お兄ちゃんモテて良かったね」
 にっこりと祝福してくれるリン。裏返った声でセルシオはありがとう……と小さく呟いた。
 彼は今日、とっても大事な事を学んだ。嘘を付く時はもっとしっかりと考えてから付いたほうが良い。この教訓を決して忘れてはならないと、彼は心の中で誓った。

 久しぶりの贅沢を満喫し、上手い料理をお腹いっぱい食べた二匹の兄妹。前より少し軽くなった布袋の財布が、リンの歩く動きに合わせてユラユラと揺れる。
 少し使い過ぎては居ないだろうかと、セルシオは気にしていたが、隣でご機嫌そうに鼻歌を歌っている妹を見て、そんな事別に構わないかっと考え直した。
「美味しかったね、あのマトマ味のピカチュウオムライスとサラダ」
「あ、あぁ……ちょっと刺激的だったけどな」
 笑顔で聞いてくるリンに対して、やや苦みを含めた笑みで答える。今思い出しても蘇える、舌にざらつくようなピカチュウオムライスとサラダ。
 一見、ただのオムライスをピカチュウの顔の形に作った可愛らしく、面白みのある料理だった。しかし、その外見とは裏腹に味はと言うと、リンには悪いが最悪だった。
 赤いケチャップだと思っていたソースは、マトマの実と言う、木の実の中で辛さを代表する物を使っていたのだ。当然、そのオムライスにケチャップの味などせず、口いっぱいに広がるのは、火傷するほどの強烈な辛さだった。
 ケチャップだけでなく、赤く染まったライスにも、マトマの実が使われていた。当然ケチャップなど一切使用されていない。
 最初の一口をしたときは顔が真っ赤になって思わず吐きそうになった。食べ物を粗末に出来ない性格で、残すわけにもいかず間食しようと努力した。それが反って彼を激辛地獄に苦しむはめになった。
 途中で辛さに耐え切れなくなり、舌の救済としてサラダを口にした。それがまた、絶叫してしまいそうな凄まじく刺激が、彼の舌に追い討ちを掛けた。
 ただ切って綺麗に盛り付けられただけの、辛さとは無縁の緑黄色野菜たっぷりのサラダ。野菜そのものに問題は無い。問題ありなのは、それを味付けするドレッシングだ。
 メニュー表に載っていた「ノワキ風味ドレッシングサラダ」というサラダ。初めて目にするノワキと言う単語に、てっきり素晴らしい味だと思い込んだ。
 水気を含んだ味気の無いサラダにトッピングされた、舌を焦しそうなヒリヒリ感を思い出す。トラウマになりそうな味だった。何度水をお代わりしたか、その数は計り知れない。
 リンだけは、文句一つ無く美味しそうに食していた。あの強烈辛いメニューを何とも無く……
 帰りの際、げんなりした気持ちで出口のそばに置いてある『ブーバーンのホット亭』と書かれていた看板を目にしてみた。その飯店名の下に書いてある煽り文字を目にし、セルシオは入る前に確認しとけばよかったと激しく後悔した。
 『炎ポケモンさんも辛い物好きさんもいらっしゃい! すべてのメニューがスパイシーな物ばかり! ただいま激辛度増量中、アナタの舌はこの辛さに耐えれるか!?』などと表示されていた。
 お会計を済ませた際に、炎模様を描いたエプロンを着た店員のサーナイトが笑顔で「またご来店をお待ちしています」と言った。誰が二度と行くものか。
「またポケが入ったら、もう一度行ってみようね」
 リンが瞳をキラキラさせて言う。セルシオはやや間を持って、「そうだな……」とだけ返した。
 一時の激辛地獄を味わって、肉体的にも精神的にもクタクタになっていた。後はこの地下繁華街から抜け出し、家であの味を忘れる為に眠りに着きたい所だ。
 元来た道を辿り、地上へ続く階段に向かって歩く兄妹。そんな時、背後から声がした。
「おい、そこのお前」
 耳に入ってくる誰かを呼ぶ声。背後に振り返ると、一羽のムクホークが黒縁メガネ越しからセルシオを睨付けるように自分達を見ていた。閉じている羽の間には数枚の紙切れを挟んでいるのが覗える。
 突然の呼びかけに戸惑いながらも毅然とした態度をとる。相手は羽で掛けているメガネを軽く押し上げて言う。
「チーム『ライメイズ』のリーダ、セルシオで間違いないな?」
「はい、僕がそうですが」
 リーダと言われても、元々一匹のみで活動しているだけに空しい気持ちになる。ムクホークは捜し求めていた相手を確認するや、ふんっとやや見下した態度をとり、セルシオは軽くいらついた。
「何の用ですか? 僕達はこれから家に帰るので用があるのなら早めにしてください」
 仕返しにと言わんばかりにこちらも冷たい言葉を投げる。ムクホークは気にした様子は一切無く、代わりに羽の間に挟んである一枚の紙を取り出し、二匹に見せ付けた。
 不審そうに警戒しながらも、その紙に書かれてある内容を見る。その瞬間、リンは何を書いてるのか意味もわからず見るその横で、セルシオの表情が強張る。
 その顔には、やばいと言わんばかりに焦りが浮かび上がっている。――来るべき時がきたかと……
「この内容の意味が分かるな?」
 そう言ってムクホークは空いている左の羽を広げる。羽に隠されたその姿を現すかのように、銀色に輝くバッチをチラつかせた。セルシオはただ黙ってそれを目にし、隣のリンに声を掛ける。
「リン、ちょっとお兄ちゃん。この方と用事があるから、先に帰っているんだ」
「え?」
 唐突な言葉にリンは戸惑う。理由は分からないが仕方ないとリンは納得し、首に提げた物を外そうとした、その時。
「大事に持って帰るんだよ。分かったな?」
 報酬を入れた布袋を外そうとするとセルシオがそれを制止する。いつもならお金の管理は兄がするはず。リンはそのお財布を持つお手伝いをしている為、何か用がある時は必ず兄に渡していた。しかし、何時もと変わらぬ笑顔の奥に「早くそれを持って帰るんだ」と言う強い意志を感じ取った気がした。
「お兄ちゃん……?」
「大丈夫さ、大した事じゃないよ。僕もすぐ帰るから、ご飯の用意をして待っててな」
 にっこりと安心を誘う兄の表情を、リンはまた戸惑いつつも、その言葉に従うように兄とムクホークを後ろ目に、地上行きの階段に向かって歩き出した。何時もの優しい顔に見送られながら。

 行き交うポケモン達の群れに紛れて見えなくなった妹のリンを確認すると、一匹と一羽は互いに向き合う。鋭い眼差しを向けたムクホークが口を開いた。
「付いてきてもらおうか」
 命令するような口調にセルシオの表情は、笑顔を忘れてしまったかのようにどんっと暗くなった。彼は逆らうことなく、先を行く一羽の後を黙って着いて行く。その様は、何処か監守に連れて行かれる囚人を描いていた。
 行き場の無い曇った気分を胸にしまい、ゆっくりとした足取りで賑わう繁華街を歩く。
 互いに会話一つも無く、一羽と一匹の間に重苦しい空気が漂う。とても楽しんでショッピングをする雰囲気ではない。隣の露天で、雌同士が楽しくお喋りしている声が鬱陶しく聞こえてしまうくらいだ。
 ムクホークは、時折こちらが逃げ出さないかと背後に振り返っては鋭い視線を突きつける。セルシオとて、今この場から逃げ出せるものなら逃げ出したい気持ちだ。しかし、逃げたところで問題が解決する訳ないと、あの紙の内容が教えてくれている。
「どのくらい滞納しているか分かっているか?」
 ふとムクホークの方から話を掛けられた。相手の放つ威圧的なオーラに、無駄話が交わせそうな軽々しい相手ではないと思っていただけに多少驚いた。しかし話の内容からして、決して優しいものではない。
「……どのくらいですか?」
「半年分だ、半年分」
 セルシオの質問にややイラついた声が返ってくる。そんなに溜まっていたのかと彼は苦い顔で俯く。
「事情が事情だからギルドは多めに見てきたが、さすがにここまで滞納されたらこっちは冷や飯を食わされるのだ、分かっているのか?」
 八つ当たりのような口調でセルシオを責める。
「すみません……」
 ただ謝るだけの言葉しか思いつかない。そこまで滞納していたとなると、他に言い訳しようが無い。
「貴様と言う奴は、ギルドの恩赦で本来収めるべきはずの上納金の滞納を多めに見てきたと言うのに。一度も払いに来ないとはな!」
「すみません……」
 同じ謝罪をする。
「これでも、本来とるはずの滞納金の半額にしてやっていると言うのに、払うのがよほど嫌そうだな!」
「すみません……」
 三度目の、同じ謝罪。何か言われるたびに同じ言葉を繰り返すばかりのセルシオに、ムクホークは再び苛立ちを見せる。
「鬱陶しいな、何度も謝るくらいなら一部の上納金収めて欲しいものだ! かと言って、体の何処にも金目の物を持っているようには見えないけどな」
 そう言われてセルシオは押し黙った。申し訳なさそうな反面、彼は内心リンに報酬の入った布袋を渡して帰らせたのを正解だと思った。
 もし自分が持っていたら、鋭いこのムクホークに感ずかれ、持って行かれる可能性があったからだ。少ない報酬でも、持って行かれたら兄妹二匹とも無一文での生活を強いる事になる。だから何が何でもあれを渡すわけにはいかなかった。
 このムクホークはセルシオの同業者である。しかし、彼の胸に付けられているバッジがただの探検隊では無い事を証明している。彼は、ギルド関係者であり、探検隊が収める税を管理する者だ。
 探検隊は基本的に、月に一度、税金としてギルドに上納すると言う掟がある。個人個人ではなく、そのチーム毎に払う仕組みになっている。チームが大きくなると、その分だけ収めていく上納金も大きくなる。
 それ故に探検隊は、数多く、より高い報酬のある依頼を受ける必要がある。決して欲張りな守銭奴と言う訳ではなく、自分のチームを維持するためにより多くの金が必要となってくる。
 セルシオのような個人でやっているチームには、ギルド側の恩赦を受けてギルドは上納金を余り取らないようにしている。今のようにその上納金が払えないとなると、ムクホークのような管理役がやってきてはその取立てが来るのだ。 
 今セルシオは、その半年分の上納金が払えていない状態だった。故に何時来るか不安がっていたが、まさかこのタイミングで来るとは思っていなかった。
「あの……」
「何だ?」
 セルシオがムクホークに尋ねる。
「僕は、どうなるのですか? 上納金がお支払いできないとなると、やっぱり探検隊から追放されるのですか?」
 セルシオは恐れている事を思わず口にした。上納金が出来ないとなると、ギルドはそれなりの処分を下すようにしている。強制的な徴収、道具や家具の差し押さえなどの荒行事を行う時がある。無論、今言った追放とかもありえる。
 もし追放されてしまったら、収入を得る機会を失い、兄妹仲良く路頭にさまよう羽目になってしまう。それだけはどうしても避けたい。
「それを決めるのは私ではない。すでにギルドが貴様の処罰を決めている」
「その……僕達は親が居なくて、だから探検隊を辞めさせられたら、生活していけません……」
「一門の得にもならない奴の事など私の知ったことじゃない。嫌なら上納金を納めればいい話だ」
 冷徹な言葉を言い放つ。セルシオは内心に哀れみの一つくらいくれてもいいじゃないかと思った。しかし彼みたいな、セルシオ以外の未納者をいくつも相手をしてきただけにあって、その対応の仕方に間違いは無く、あくまで経理としての役目を全うしているに過ぎない。もし同情して見過ごすなどしていたら、ギルドはお飯の食い上げである。
 だからこそ、感情に動かさない彼のような冷静な判断の出来る者をギルドは役職を与えている。
 セルシオはこれ以上何を哀願しても無意味だと悟り、これ以上の話をすまいと口を閉じて、ムクホークの後を追う。
 繁華街を過ぎ去り、ムクホークが連れて行こうとしていたギルドに到着した。岩壁を掘ったような半円形した門の前に立つ。大層に着飾った門、常に開けっ放しにされている為か、そこからポケモン達が止む事無く出入りをしている。 
 門を潜った先に、広々とした光景が映し出される。天井はドラゴンのシルエットが描かれてたギルドの紋章の幕が垂れ下がり、灰色した石造りの床は赤い絨毯が広げられ、綺麗に清掃されていた。なにより外の繁華街と負けないくらいに活発的な動きを見せていた。
 ここは、探検隊全てを仕切るギルドの本部。探検隊ならば依頼を受ける為に必ずこの場所を行き来する。セルシオも、何度かこの場所を訪れていた。
 行く先には、横長い木製作りの掲示板が設置されている。そこには一部のポケモンが群れるように集まり、掲示板に貼られている紙を見ている。彼らはすべて、セルシオと同じ探検隊だ。
 その彼らが目にしている紙はすべて依頼書だ。掲示板を埋め尽くさんばかりに貼られてある。簡単なアイテム探しから、かなり危険なお尋ね者の退治やら様々な内容の依頼書が張られてある。彼らは自分達に見合うような仕事と報酬を探している。
 掲示板前の群れを見て、セルシオも同じく、あそこでガラガラ老人の依頼書を見かけて仕事を請け負ったのだ。ついさっきまで、自分に向けてくれた感謝の言葉を思い出し、はにかに笑みを浮かべた。
「何を笑っている。そんな状況じゃないだろ貴様は!」
 ムクホークに突っ込まれ、せっかくの気分を台無しにされ、軽く溜め息を吐いた。思い出すのを止めて、前を行くドーブルに着いて行く。


 広々した場所を通り過ぎると細い通路に出た。ポケモンが二匹分ぎりぎり通るぐらいの幅しかない。その通路の途中には、並ぶように幾つか扉があった。
 ムクホークが一つの扉の前に来て、嘴で軽く叩く。すると扉が勝手に開き、中から一匹のポケモンが顔を覗かせる。
「君か……」
 門の中から年老いた声が聞こえた。声の主は門の中からムクホークを確認すると、杖を着いたドーブルが現れた。長い筆状の紫色した尾をユラユラと揺らし、セルシオを観察するように見やる。
「例の子だな?」
「あぁ、今回の未納者だ」
 ムクホークが言うと、ドーブルはセルシオに顔を向けたまま口を開く。
「チーム「ライメイズ」、セルシオ君だね。中に入りたまえ」 
 落ち着いた口調で、ドーブルはセルシオを中に招き入れる。セルシオはしぶしぶと彼の後に着いていく様に扉の中に入っていく。ムクホークは、彼が不意に逃げ出さないようにセルシオの後から続いてく。
 部屋の中に入った途端、セルシオは鼻がもげそうなキツイ臭いに顔をしかめた。甘いような、あるいはすっぱいような、強烈な刺激臭が部屋全体に漂っている。どう表現すればいいか分からないが、とにかくひどいにおいだという事は確かだ。それは後ろに着いてきているムクホークも同じ心境なのか、顔が引き攣っている。
「酷い臭いだな、相変わらず……」
 セルシオが口に出しかけていた言葉を、彼が代わりに告げてくれた。悪臭を指摘されたドーブルは気にする事なく、不気味な笑いを返している。
 臭いだけでなく、者が錯乱していてとても汚かった。ひょうたん型の机の上は、難しい事を書いた紙やら液体の入ったビンやら、色んな物が散乱していて、それが臭いの原因となっていた。
「ふぇっふぇっふぇ……研究中じゃからな。外に匂いが漏れると周りが五月蝿い。だからドアは閉めてくれ」
 確かにこの匂いが外に漏れるのは、ギルドとしても非常に好ましくない。ムクホークはしぶしぶと言った表情でドアを閉めた。嗅覚を狂わせそうな悪臭を三匹が占領する。早くもセルシオは、一刻も早くこの部屋に出たい気持ちが沸き起こる。
「それはそうと、ギルドからこいつをここに連れて来る様にと、わざわざこんな悪臭のする部屋まできた。それでこいつの処分はどうなったのだ?」
「それはじゃな、まぁお前さんが想像している通りじゃ。処分は――」
 ドーブルは一枚の綺麗な紙を懐から取り出し、読み上げる。
 ムクホークの想像する、セルシオへのギルドからの処分とは、多分追放か、それに近い何かだ。周りの空気の重さに押しつぶされそうな気持ちになる。
 ドーブルが告げようとしている内容を、まるで裁判に掛けられた被告人のように待ち構えた。出来るものなら追放は避けてほしい。
 しかし、これまでの探検活動で成功した成果は少なく、ほとんどが失敗続き。探検隊を始めてから一度たりとも上納金を納めていない事実を含めて、自分が受ける処分は絶望的なものだと想像した。
 間を置いて、ドーブルが読み上げる。
「チーム『ライメイズ』は解散、及びリーダのセルシオはギルドの規定に背き、彼を「追放」の処分とする、となっている」
 ――追放!? 
 想定していた最悪な事態が現実に起り、セルシオはショックに生気を抜かれ、視線が石造りの床に落ちる。
 ギルドからの追放となれば、当然今後の探検活動は不可能になり、探検隊を名乗る事も許されない。無論それは、ポケモン社会に置いて、実力無しのレッテルを貼られるのと同じ、信用を失ってしまう。
 セルシオの中で、一生懸命に木の実を集めているリンの姿が瞼に浮かぶ。苦しい生活の中を、挫けず頑張ってきたのに、いくら仕方が無いといえ、あんまり過ぎる。
 彼は絶望的な状況で、生気が抜けた体に鞭打つように、ドーブルに顔を上げる。
「待ってください……お願いします! 上納金は必ずお支払いします。だから、もう少しだけ時間を、チャンスを下さい!」
「そんな言葉が信用出来るか! もともと実力がない奴が探検隊をやろうとするとこういう結果になる! 貴様みたいな上納金をまともに払わない奴がいるから、私のような経理が面倒を押し付けられるんだ!」
「お願いします! もう一度だけチャンスをください!」
 トゲを刺すムクホークの言葉を振り切るように、セルシオは必死にドーブルに哀願する。何が何でも、収入源となる探検隊を辞めさせられるわけにはいかない。
「お願いします……!」
 最後には押し殺す声で乞う。背後でそれを鬱陶しげに見ているムクホークが。
「えぇい黙れ! もういい、私がつまみ出す! 報告ご苦労だった!」
 意地でも処分を受け入れようとしないセルシオに苛立ち、ドアを乱暴に開けた後、鉤爪で彼の頭部を鷲掴みして強引に引き離そうとした。
 ドーブルは細い目でセルシオをじっと見つめ、何かを考えるように低く唸る。そうしている間にムクホークがドアから出て、セルシオを部屋から追い出そうとする。その時に、彼は何かを決めた様に見開いた。
「ちょっと待ってくれんか? ホーム」
「んっ!?」
 ホームと呼ばれたムクホークは、今まさに部屋からセルシオを叩き出そうとしている手前で、動きを止める。セルシオも何事かと、鉤爪に抗いながらも彼のことを見やる。
「この子なんじゃが、今回の一件はワシに預からせてもらえんか?」
 突然の申し出に、ホームは戸惑う。
「どういう事だ? まさかこいつの追放を取り消すつもりじゃあるまいな?」
「そのまさかじゃよ、いや実はなぁ、ある物が作ったから彼にその試作品を評価してもらいたいのじゃが……」
「はぁ……?」
 ホームは溜め息交じりに呆れた声で言う。対するドーブルはふぇっふぇっと笑い声を上げならが、セルシオに向く。
「セルシオ君」
「は、はい!」
 セルシオは鷲掴みする鉤爪の力が弱まった隙をついて、強引にホームの鉤爪から脱出し、ドーブルの傍に急ぎに寄る。
「ワシは今な、ある秘薬の調合に成功して、その成果をみたいのじゃ」
「秘薬……ですか?」
 秘薬と聞いて、セルシオは高級そうなクスリを想像する。クスリと言えば、病気にかかった時に飲ませて直す、そんな一般的な代物だと考えている。
 経済的に厳しいセルシオは、自分以外、リンが重い病気に掛かったりしない限りクスリなど滅多に買わない。それも秘薬となれば、なお更そんな高い物は余程の事で無い限り手を出したくない。
「ようするに、こいつをその如何わしい試作品の実験台にしたいのであろう?」
「そんな物の言い方をするでないわ、まぁ似た様なものじゃがね。ふぇっふぇっふぇ」
 ホームの解説と、怪しく笑うドーブルに内心怖気が走る。わらを掴む気持ちで頼んだ自分だが、正直不安だった。
「僕が、その秘薬を飲んで、その……どうなるかを見たいのですか……?」
「そうじゃよ~ん。もしお願いを受けてくれると言うのなら、ギルドに掛け合って、君のギルドへの追放を白紙にしてやってもよいぞ」
 その言葉を耳にし、セルシオの不安は救いのありがたさによって掻き消される。ドーブルは更に続ける。
「白紙ついでに、君にある仕事を提供しよう。もちろん探検隊の仕事じゃ。報酬もそれなりの額を約束しよう」
「ほ、本当ですか!?」
 追放の件を白紙にするだけでなく、報酬の高い仕事も約束。金に行き詰っている彼にとって、願ったり叶ったりだ。
 セルシオにはこの薄ら笑いする気味悪いドーブルが、一瞬神様に映った。これでリンと路頭に迷うことなく探検隊を続ける事が出来る。なんて素晴らしい方なんだろう。
 思わず満面の笑みを浮かべ、地獄の淵からの救いの糸に、セルシオは何度も心の中で感謝した。望むなら更なる待遇を願いたい所だが、それ以上の物を望むのは罰当たりかと、心の片隅にしまう。
「ありがとうございます!」
 最後にセルシオは、大きな声で礼を言った。
「構わんよぉ。しかし、『その分の仕事はしてもらう』からのぉ。ふぇっふぇっふぇ」
 ドーブルの台詞の中で、一部が強調されて言われた気がしたが、絶頂に舞い上がっている今のセルシオには何一つ疑問に思う事はなかった。

 悪臭漂う部屋で二匹のやりとりを見ていたムクホークのホーム。
 これから、この上納金の未払している不届き者を探検隊から排除し、ギルドから追放する事によって、本来の仕事に戻るはずだったのに……。トレジャーアイテムの研究をしているギルド員のブールの一言によって、予定が大きく狂った。
 彼に限らず、上納金滞納者はまだまだ探検隊の中に存在している。それらに対する回収作業と銘打った「押収」やら、今後の相談などと口先だけの「処分報告」やら、弱小探検隊の嫌悪を買う、所謂憎まれ役を請け負った仕事も後々こなして行かなければならないのに、なんで無意味な時間を食わせるのだろうとブールを憎んだりした。 
 しかし、彼が言う実験と言う言葉に、忘れかけていた何かが記憶の引き出しから出ようとしていた。
「薬品……礼の仕事……?」
 二つの単語を、二匹に聞こえない程度の音量で呟く。
 それと会話の内容に疑問が渦巻くホームは、記憶の引き出しを捜しす。その内に思い当たる節が出てきて、獲物を捕える鋭い目を大きく見開く。セルシオの背後で驚く顔をしている自分に薄ら笑いで見返すブールを見て、疑問が確信へと変わった。
「まさか、このガ……こいつに例の仕事をやらすのか……?」
「仕方ないじゃろぅ? お主もただ追放するより、上納金を納めてくれたほうがギルドも納得がいくじゃろうに」
 そう言われたホームはぐっと堪え、しぶしぶ納得する。
「えっと、念の為に聞くんですけど。仕事って、危険な事をするのですか……?」
 さっきまで新品の玩具を買い与えられた子供の様にはしゃいでいたセルシオが、例の仕事に不安を持ったのか、表情から笑みが消えた。
 このまま、不安に押しつぶされて諦めてくれれば良いのだがと、ホームは心の傍らでそう呟いた。
「その内容じゃが、やるかやらないか決めるまで仕事の内容は言えん」
 甘い言葉の最中、仕事の中身を問われた途端にブールは皴を深めた。セルシオの「えっ」と言う小声が聞こえた。ブールは構わず続ける。 
「無論、きついからと言って途中で止める事は許さない。もし止めたら、報酬も追放の白紙も無しじゃ。最後まできちんとやりこなしてもらう」
「それは、そうですけど……でも……」
「不安か、それでも良いぞ? 自分の体の事じゃから心配するのは当たり前じゃ。無理強いはしない。健康でいる限り、お主なら新しい仕事を探せる。今の話は老いぼれの戯言だと思って忘れてくれて構わん」
 ブールはそうそうと言うと、扉の前まで進んで来て扉を開ける。
「ほら、お帰りはこちらじゃ、この先きついかも知れんが、まぁ頑張ってくれよぉ……」
 見捨ているような言い方でセルシオにお帰り願う。そんな彼の表情に、焦りの色が浮かび上がる。せっかくの救いの糸を断ち切られそうな状況に追い込まれ、目を大きく開き――
「待ってくださいっ!」
 泣きそうな声で叫ぶ。
「嫌なんて言いません! やらせてください、お願いします。お願いします! お願いします……」
 声が枯れそうになるほど彼は何度も頭を地に擦り付けて、見捨てられる事に怯える子供のように、ブールに頼む。そしてブールは、やれやれといった感じで呆れる。しかし、口元を吊り上げて、不気味な笑顔を作る。
「そうかねそうかね、そこまで言うならやってあげんとのぅ? ふぇっふぇっふぇっ……」
 救いの主にしては、なんとも不快になりそうな声。皴だらけの顔を、更に皴を作りながらブールは笑った。
 そんな下種たる声を耳にしていながらも、額を擦った顔を上げたセルシオが、崖っぷちから救われて、少年らしい、無垢な喜ぶ顔を満面に広げた。
 ホームはそんなセルシオを見て、哀れみか同情らしい表情で彼を見やる。
 夢ばかりみている連中に限って探検隊を憧れな目で見ている。彼もまた、生活の為だから仕方ないようにやっているように思えるが、内心、憧れもあって、この家業に入ったのだろ。
 現実という魔物は、憧れという甘い妄想を糸も簡単に壊してしまう。それはホーム自身、ムックルの頃から探検隊をやってきた自分が嫌って言うほど知っている。やるからには結果を出さなければならない。ヒーローになりたければ成功する事、じゃなければただの負け犬。他人を救うなどおこがましい敗者。この家業は辛いのだ。
 今こうやって、額を地べたに擦り付けて乞食の様に乞うセルシオには最初から向かない仕事だ。甘い感覚で探検隊に入るとなれば、後になって清算に行き詰る後悔、体力的にも精神的にも辛い、まさに地獄だ。
 一体誰が探検隊と言うものに憧れを抱かせたのだろう。もっと遠い別の島では、ある雌の三匹がアイドルの様に振る舞って救助活動をしていると聞く。そんな茶番好きな輩が、こんな間抜けを探検隊にするのだろうか。なんとも度し難い。
「ありがとうございます。本当にありがとうございます……!」
 セルシオが鬱陶しいくらい頭を下げて礼を言った。
「あぁ、それじゃぁ。ちょいとそこで座る姿勢になってくれるか」
「あ、はい」
「う~ん、もうちょっと姿勢良くしてくれんか?」
「はい、こうですか?」
 言われたとおり背を伸ばす。
「目がダメじゃ。もっとこう、自然的にと言うか……格好良く出来るかね。それと前肢は揃うように、尻尾は見えるように、あとなぁ……」
 次々と姿勢について指示を飛ばすブールに焦りながらも、言うとおりにする。自分なりに決まるように目元を引き締める。
「ん、まぁそんなもんじゃな。今度は毛並みがちょっとな……」
 一通りセルシオの姿勢を良しとすると、次は余りにひどく乱れた体毛についてブールは目を細めて言う。
「ちょいとこっち来てくれるかの」
 ブールは扉から出てセルシオを手招きし、彼は従う。ホームもこんな悪臭漂う部屋に居たくは無く、二匹の後を着いて行く事にした

 部屋を出て、ギルド内の奥を歩き、階段を上り、ドーブルのブールの部屋がある通路とはまた違う道に出る。そこも同じように扉が並んでいたあった。その中の一つの扉の前に止まった。その扉の表に下げられた看板にはピンクの文字に『入ってるニャン☆』と書かれている。
 少々派手な印象を与える扉のデコレーションに戸惑ったのはセルシオだ。ブールは関係なさそうに、扉を叩いた。
「はぁい」
 甲高い雌の声が扉越しに伝わる。
「だぁれぇ?」
 間延びしそうな声、扉から出てきたのは、表の扉に負けないくらい、これでもかと出張するほどの派手なメイクを施している。額に金色の小判を付けている限られた種族、ニャースだ。
 星でも浮かんできそうなパッチリとした瞳と、少々出すぎているとも思える、クルンと巻いたまつ毛。頬は特殊なパウダーでも使っているのか、光に反射してキラキラと光っている。
 他にも、右片方の耳には気取ったピアスを付け、巻き状になっている尻尾には、ピンク色したスパンコールのリボンを飾っている。
 外見は可愛らしい女の子として見れ、整えられている体毛が上品な雌のイメージを与える。それ以外の行き過ぎたボディの飾り付けが返って自然らしさを殺している。おしゃれ好きと言うには、少々行き過ぎていた。
「シャルル、おぬしに用があってきたんじゃ」
「ふ~ん、おじーさんがあたしに用なんて珍しいわねぇ」
 シャルルと呼ばれたニャースはブールの後ろにいるセルシオを一瞥した後、口を開く。
「この小汚いのは誰?」
「……っ」
 初対面の相手に行き成り小汚い呼ばわりされたセルシオはムッとし、そっちこそバカみたいに派手じゃないか――っと言い返そうと思った。しかしブールの前だからあえて言い返さなかった。
「この子はセルシオって名前じゃ。チーム『ライメイズ』のリーダーじゃ……っと言っても人数は彼一匹じゃがね」
「はぁ~」
 説明を聞くなり、シャルルは無関心そうに肩を落とし、ブールに向き直る。
「それで、用件は何なのぉ? 大した事じゃないなら遠慮願うわぁ。自分の時間を潰されたくないんだからね~」
 やる気の無い言葉を口にしながら、自分の髭を前肢で弄る。
「ちょいとこの子の毛並みを整えて欲しいのじゃが、お主の得意分野じゃろ?」
「この子を?」
 前肢をセルシオに向けて尋ねる。ブールはコクンと頷いた。
「毛繕いが得意なのは確かだけど、でも何でぇ?」
「実はな、ある理由でセルシオ君はワシの仕事を手伝ってもらうのじゃが、何ゆえ接客する事があるから、ちぃと毛並みを整えてほしいのじゃ」
「待ってください、毛繕いなら自分で出来ますよ。僕はそこまで子供じゃないですし」
 セルシオが口を挟む。別にこんな相手に毛繕いしてもらわなくても自分で出来る。なんでわざわざ他のポケモンにやらせようとするのか理解に苦しむ。
「いや、シャルルに頼んだほうが懸命じゃ。彼女こう見えても毛繕いは他の誰よりも上手で、やってもらった相手は綺麗に毛並みが整うのじゃ」
「ですけど、そうするほどじゃ――」
「セルシオ君、君はワシの仕事を請けたいんじゃよな? それだったら半端なやり方で毛並みを整えてもらっても困るのじゃ。ちゃんとした、綺麗な様になってもらわないと困る」
 そう言われてセルシオは押し黙る。これも高額の報酬の為、追放を白紙にしてもらう為。しかし、それとこれとどう関係があるのか分からない。そもそも仕事の内容についてまだ何も話してもらっていない。
「それで、あたしがするんでいいの、おじーさん?」
「あぁ、男前になるくらい完璧に綺麗にしてやってくれ」
 ブールが言うと、シャルルはパッチリした瞳を細めてセルシオをジロジロと見る。
「たしかに、これじゃ酷すぎですよねぇ。わかった。そこの坊やちょっとおいでぇ」
「坊やって……」
 体系の差でシャルルの方が小さいのに、坊やと言われてやや納得いかない表情をするも、その言葉に従う。
 シャルルの前まで来ると、彼女は一度、顔をグッと近づけてきた。ドアップで映る雌の顔を前に、硬くなってしまう。パッチリとした瞳が鏡の様に自分を映し出している。ジッと見返していると星でも零れてくるんじゃないかと想像してしまう。
 そして彼女は、見るだけでなく、唐突に前肢を片方あげてセルシオの頬に触れてきた。
 ギョッとした。こんなに近くに寄られ、その上に撫でるような触れ方に、純情な雄ならば誰しも起きる緊張感に襲われる。
「ふ~ん……」
 キラキラした瞳がじーっと自分を見続けてくる。セルシオは次第に頬が赤くなってしまう。いくら相手が自分より小さいと言えど、これだけ近寄られたら堪らない。
 チラッと見えた爪先にも、アートが施されている。ネイルアートと言うやつだろうか? 彼女のする事は今一理解し難い。
「なぁに顔赤くしてるの? もしかして女の子見るの初めてなの?」
「べ、別に……」
 そんなはずはない。リンと言う妹といつも近くにいるから、雌が苦手と言う事はない。しかし相手は全く初めて見る雌。それも無用心にここまで近寄られたら当然そうなってしまう。
「何時まで見てるんですか……?」
 目を反らしたくなる気持ちを抑えて言う。
「ううん、小汚い割には中々なイケメン君かなって思ってね。目がキリッとしてるっていうか、なんかこう……真っ直ぐみたいな」
「はぁ……」
 何が言いたいのか分からず、呆れ半分な返事をした。やがて彼女は身を引くと扉の中に入っていき、尻尾をクイクイと上げて招く。
「ほらぁ、こっちよセルシオ」
「はい……」
 尻尾に誘われるがままに着いて行く。今思うと、何故自分は彼女に対して敬語を使って話しているのか不思議に思った。どうにも彼女の雰囲気に押されてついついそうなってしまうのだろうか。
「それじゃ、ワシらも――」
 ブールとホームが後から続いて入ろうとすると、彼女がやや大声で言う。
「ダーメェ! あなた達は入っちゃ!」
「何でだよ、このガ……奴は良くて私もダメなのか?」
「ここはアタシのりょーいきですぅ。それに無闇に入られたらせっかくの甘い香りが濁っちゃうから、薬品臭いおじいさんとギスギスした鳥さんは特にご遠慮ねがいまぁす」
 そう言ってシャルルは扉をバタンと閉めた。残された二匹は、まるで害虫の追い払うかのように立ち入りを断られた。ブールはやれやれと呆れた表情で派手な表扉を見やる。ホームは額に血管を浮かばせながら溜め息を吐いた。
 扉を抜けた空間は、さっきまでの石作りの通路を通ってきた事を忘れてしまいそうなくらい、すごい光景が広がっていた。
 まるで別世界の扉でも開けたような空間を前にしたかのように、セルシオは今いる部屋に圧倒されていた。
 ピンク、ピンク、ピンク――。思いつく言葉はその単語ばかり。シャルルに招かれて入った部屋は、その単語に尽きる。まるで桃源郷の世界に迷い込んだようだ。
 女の子の部屋としては、五十歩引いてはそれらしく見えない事もない。しかし雄からすれば、あまりにも鬱陶しいはずだ。床から天井に掛けて、隙間無く部屋全体が桃色一色に染まっている。
 派手な模様の寝床と道具入れが沢山とふかふかなハート型のクッション、部屋の中に置いてある物もほとんどがピンク色だ。
 岩壁は削られた様にまっすぐ平らにされ、色塗られている。リボン掛けが無数に並び、様々なリボンが掛けられていて、壁一面を覆い尽くしている。
 彼女のデコレーショングッツと思わしき道具箱からは、中身が散乱していてキラキラ光っていて、いかにもその存在を出張していた。
「うわぁ……」
 シャルルの部屋を見たセルシオの感想が漏れた。どう言ったらいいか分からないが、とにかくピンクと派手。それ以外何を言えばいいか思いつかなかった。
「どう~、あたしの部屋、可愛いでしょ?」
 素直に頷けない。ピンクは可愛いと言うイメージがあるが、この場合可愛いと言うよりよりおぞましいと言ったほうが似合ってるかもしれない。
 セルシオはやや躊躇い気味に「うん……」と頷いた。そんな心境を知るか知らずか、彼女はにっこりと笑う。
「うふっ、あたしの趣味なの。可愛いくデコレーショするのが好きでね。特にピンク色のが好きなのぉ~」
 自慢げに自分の趣味を説明するも、セルシオの耳には入っていないかった。チラつく桃色の風景が鬱陶しいく思えてくる。
「これなんてほら、セルシオにもピッタリじゃない? ねぇねぇ~」
 きゃぴきゃぴした面持ちで、大きいリボンを差し出す。白とピンクと赤の色合いをしたフリルのリボンだった。それを自分に似合うといわれて、セルシオは表情を引き攣らせながらも無理に笑みを返した。
「これさ、この間マダムの店で買ったの。ヒラヒラしててちょっとロリっぽいんだけどさ、そこがまたキュートなのよぉ~。これをあなたの頭に着けたら似合うと思うの。あ、それとこのバッジなんだけど、これを胸に付けたら更に可愛らしく――」
 次から次へと色んな物が目の前に出てくる。どれも女の子用のアクセサリーばかり。こんなのを着て歩いていたらバカみたいに目立つに違いない。押し付けられる前にセルシオが切り出す。
「あ、あのさ、可愛いのはわかりましたから、早く毛並みの手入れをお願いしていいですか?」
 そう言われてシャルルはキョトンとすると、やがて本来の目的を思い出して諦めたのか、取り出したアクセサリーやらリボンやらを片付けていく。片付けると言っても、口に掴んだ物を手当たり次第に寝床にポイっと放り投げているだけだった。部屋は派手に着飾る癖に、整理する事に関しては大雑把な様子だった。
「それじゃぁさ、そこのクッションに腰掛けてよ」
 シャルルが指示する。セルシオは先ほど目にしたハート型のクッションに目を向ける。座りやすいように中央に窪みがあり、言われたとおり腰を掛けると、驚くほどの柔らかさと弾力に少し驚いた。
「これ、何の羽毛を使ってるのです?」
 さっきまで本来の目的に移りたがっていた本人が、その目的を忘れてシャルルに尋ねる。
「うん? プクリンの毛皮よ。ほら、プクリンって毛がふわふわしてて、おまけにピンク色してるじゃない。だからそれも買ったのよ」
「へぇ」
 彼女の部屋にあまり関心を持たないようにしてきたが、初めて触れる柔らかな感触に関心を持った。
 シャルルは念を押すように口を開く。
「汚さないでよ、それ結構高かったんだから」
 笑いながら言うシャルル。高かった――その言葉を耳にしてギクッと体が強張った。仮に破いてしまったりしたら、その時の事を想像するだけで身の毛がよだつ。これだけの質の物が自分の財産で弁償できるわけ無いのだから。
 高級品だと知り、さっきまで心地よかったクッションが急に座りづらくなってしまう。
 汗を流しながら、自分が座っている物を見やる。さっきリンがジッと眺めていた水色のフリルのリボンを思い出す。あれと今座っているこのクッション、どっちが高いんだろうと意味の無い想像をしてしまう。
 部屋を改めてみると、鬱陶しいくらい派手な物ばかりだが、地下繁華街で時々目にする高額なグッズばかりだった。これだけの物を所有している彼女はさぞかしリッチなようだ。趣味は理解できないが、ちょっと羨ましい。
「何緊張してるの?」
「いや、何でもないです……」
 シャルルの気遣う言葉に冷静を装うも、高級なクッションの上で硬くなってしまう。そんな気持ちをお構い無しにシャルルはセルシオに近づいてきた。
「ならいいけどさ。それじゃ始めるから、ちょっと顔を下げて貰って良い?」
 シャルルはセルシオの前に出るとそう言う。言うとおりに身を低くして、シャルルと向き合える位まで姿勢を低くした。
 彼女は頷いて、前肢でそっとセルシオの頭部に触れる。乱れた体毛を爪で、慣れた仕草で優しく撫でる。その感触にちょっと緊張感を覚えつつも、どこか心地よかった。
 乱れた毛を、シャルルは両肢を使って、バサバサだった体毛を滑らかに直していく。今思えば、毛づくろいなんてこれが初めてだ。初めての体験にぎくしゃくするも、甘えたい気持ちになってしまい、自分より体格の小さい相手にそう考えてしまう自分が恥ずかしく思えた。
 少しずつ移動し、乱れた毛一本一本を爪で溶かしていく。セルシオの中で、先ほどの侮辱と馬鹿みたいな派手な彼女の印象が、少しだけ変わっていく。
 余りの心地よさに、出来るだけ長い時間こうしていたいと思ってしまう。しかし、一度彼女の前肢が離れていく。そして、別の感触が乱れた毛皮越しに伝わってくる。
 ――ペロッ
「んっ……?」
 僅かに湿った感触が伝わり、違和感を覚えたセルシオは顔を少しだけ上げて見ようとした。
「んぁ、ちょっとじっとしてないとさぁ、やりづらいじゃない」
 舌をチロッと出したシャルルが言う。彼女は続けざまに可愛らしく出した舌先で、自分の体毛に滑らしていく。
「うん……ごめんなさい……」
 毛繕いならそうするとセルシオも知っているが、それは何時も自分でやってきた。まさか他人にやってもらうなど、ましてやそれが異性ともあれば、分かっていても違和感を持ってしまう。
 彼女の方は気にする様子はなく、坦々と乱れた毛を直していく。
 言われたとおり今度こそ静かにする事にした。
「よっし、次はうつ伏せにになって。体の方をするから」
 体制を変えて、フカフカなクッションに身を預ける。彼女の爪と舌が頭部から背中に移動する。違う箇所からの手入れが始まる。柔らかな舌使いに、やはり赤面してしまう。
「あの……」
「ん……何かしら?」
 シャルルが舌で体毛を整えながら聞き返す。
「シャルル……さんっていくつですか? 何だか年上っぽく感じるので」
「ふぅん、女の子に年を聞くなんて、デリカシーの無い質問よねぇ」
 言い返されたセルシオは「すみません……」と謝り、自分を恥じた。シャルルはそんなセルシオをそれ以上咎めず、クスリと笑う。
「16よ、若いでしょ~?」
「え、16……何ですか」
「そうよ、もっと若く見えたぁ? フフッ」
「いえ、そのなんと言うか……僕よりも年上だなんて、正直以外でした」
 未進化のニャースを前にして、セルシオはてっきりシャルルを自分より年下だと思っていた。きゃぴきゃぴしている性格もそうだが、何よりも自分の趣味全開な部屋とデコレーションを見て、精神的に幼いと思ったのがそう思わせた原因でもある。
「あら失礼ね。あたし坊やに年下の目で見られていた訳ねぇ。ちょっとショックかも~」
 セルシオの返答が気に入らないのか、シャルルは意地悪そうに言い張る。
「そっちこそ、坊やなんて止めてくださいよ。年上って言ってもひとつしか違わないじゃないですか」
「ふふっ、そうよね。それじゃ~、セルシオにしておくわ」
 彼女は呼び名を決めると毛繕いを再開した。セルシオはこれ以上何も言わず、心地よさにその身を預けた。

 安らかとも言える一時を終えた頃。何時の間にか眠りの世界に入ってしまったセルシオはシャルルの言葉に起こされる。
「ねぇ、おーい。何時まで寝てるのよ」
「ふあぁっ、あっ……」
 起きた返事代わりに大きな欠伸を返す。口元に違和感を覚えて、それが自身の涎だと言う事に気づき、慌てて口元を前肢で拭った。
 シャルルは肩で溜め息を吐き、ゆっくりと笑みを作る。
「よほど気持ち良かったのねぇ、あたしの毛繕いの腕も流石と言った所よねぇ~」
 自分で自分を賞賛する。しかし、心地よさの余りに眠りについてしまうほどなだけに、その通りだとセルシオは突っ込もうとは思わなかった。もちろん心の中で。
「終わりましたか?」
 瞼を擦りながら聞く。
「えぇ、ちょっと鏡持ってくるから待ってよぉ~」
「はい」
 眠ってからどのくらい時間がたったのだろう。目覚めたばかりで思考が上手く回らず、虚ろな瞳で自分が座っていたクッションに目を落とす。
 ぼやける視界。瞼を擦ろうとセルシオは右肢を起こした。その時何かが付着した。それが何なのか、はっきりしない瞼でそれの正体を確認する。ねちょっと糸を引く粘着性のある液体。
 相当気持ちよかったのだろうか、それが、だらしなく開きっぱなしの口から垂れている自分の涎だと言う事に気づくのに時間が掛かった。
 ――え、涎?
「あ……れ?」
 己の口から漏れた唾液の行き着く先を、不安な気持ちで追う。視界の先をゆっくりと、スクロールさせるように移動させる。
 嫌な予感が、浮ついたセルシオの頭を徐々にはっきりとさせていく。出来れば見たくない、思い過ごしであって欲しい――と、スローで動く中、何度も何度もそう願った。
 ウトウト、クッション、腕に付いた涎、それら三つのキーワードが混ざって、導き出す答え、それは想像するのもおぞましいほどの最悪な回答。
 自分でも鈍いと思うほど、ゆっくり動く視界がようやくと、自分がやってしまった過ちを映した。
「うげっ」
 非常にまずいと思える光景が、目の前に移っている。
 しまりの無い口から出た涎が、シャルルのお気に入りであるクッションに付着していた。しかも、かなりの量らしく、ハート型の一部を湖を作り、上質な布の中に染み込んでいる。今更拭いても手遅れだ。おまけといわんばかりに、染み込んだ場所には僅かながら、この部屋に相応しくない匂いがした。
 時の動きが遅く感じ、背後で鏡を取りに行こうとするシャルルの足音が嫌にゆっくりと聞こえてくる。
 どうしよう、あぁどうしよう。
 困惑する思考で思いつく事は、とりあえず湖を作っている液体を舌で舐め取る事しだけだ。
 とりあえず、クッションの上で染み込もうとしている涎を舐める。外側に付いている液体は無事無くなった。しかし、中に染み込んでしまった物は、もはやどうしようもない。
 甘い臭いに混じる微妙な悪臭が、未だ鼻を擽っている。引き攣った表情で、どうするかを考える。
 シャルルはどんな顔をして怒るのだろうか、弁償はいくらぐらいだろうか、そんな事が頭の中をグルグル回っている中、背後から声が掛かった
「おーまたへ、ほりゃ」
 何かを咥えながら喋っているような甲高い雌の声。この空間に二匹のポケモンしかいないとなれば、その声は、当然シャルルしかいない。戻ってきて欲しくない相手が戻り、その声にセルシオの背中が悪寒が走り、大きく震えてしまう。
 彼女は口に加えていた鏡をセルシオの傍に落とす。そして、異変を感じると顔を覗きこんで言う。
「どうかしたぁ? なんだか震えているけど、寒いの?」
「い……いや、何でもないですょ……」
 セルシオは咄嗟にクッションを覆いかぶさるように屈む。何とも無いと言い張るも、最後の言葉が弱くなってしまい、目を反らしてしまう。それが相手に不信感を与えてしまう。
「ほんとぉに? ブルブルしてるし、もしかして風邪引いたのぉ?」
 シャルルは更に近づき、顔同士が触れそうになる。
「な、何でもないですったら……」
「何でもないなら、なぁんで目を反らすかな~?」
 疑わしい目で見てくる内に、自然と目を反らしてしまう。ばれて欲しくないと言う恐怖心がそうしてしまうのだ。
「風邪じゃないのならぁ、もっと別の事があるのかな? たとえば~、今座っているクッションとか……」
 悪戯な口調で聞いてくる。的を付いた指摘はセルシオを更なる恐怖に追い込む。彼女としては例え話で言っているつもりかもしれないが。
 ばれそうだ――焦る気持ちが募り、セルシオは気づかなかった、本能から来る警戒心が、己の身を守る為にある爪を出してしまう事に。
「ち、違うって――」
「とりあえず熱があるかだけでも調べないと……」
 最後まで聞かず、彼女は額をセルシオと重ねてきた。
「あっ――」
 恐怖心と緊張感が同時に彼を襲う。印象深い雌の顔がすぐ目の前に迫っている。小判越しな為に、直接肌が触れている訳ではないが、それでも――
「あれぇ、いたって平熱よねぇ? ってか小判が邪魔でよく分かんないや」
 彼女の付けてある小判が邪魔で、セルシオの体温を測るのが難しいようだ。それでも離そうとはせず、ちゃんと計ろうとグイグイと額を押し付けてくる。
「や……小判が邪魔なら……前肢でやれば……」
 彼女のほのかな鼻息が触れて、緊張感が恐怖に勝る。思った事が上手く言えず、途切れ途切れになる。
「ぃやよ、こうじゃないと計るの難しいんだもん」
 ただでさえ近い顔が、更にその距離が縮まる。彼女は唇でも奪わんかとばかり無用心に迫る。
「あの、だから、近いってばぁ……!」
「いいから大人しくさぁ……」
「いいですってぇ――」
 緊張感で押し潰されそうになり、堪らず身を引くようにして後方に飛びのいた。その時……
 ――ビリッ、ビリリッ
 布類を切り裂くような鈍い音が響く。
「あぁっ――」
 続いて、シャルルの驚く声があがった。
 二つの音を耳に拾って、セルシオは着地した後、二匹はしばらく放心した。
 二匹の視線は、ハート型のクッションに向いている。突き出していた爪が、気づかぬ間に一部を引っ掛けていた。それが飛びのいた瞬間に、大きく裂けてしまった。
 破れた箇所がプクリン体毛を見事に露出している。やぶれた外側は一部が千切れ、その残りがセルシオの爪にひらひらと残っている。
「……」
 その光景に、互いに言葉はなかった。っというより言葉しようがないと言った方が正しいだろう。
 短い間が、長くも感じた。やがて先に意識を取り戻したシャルルが、口をパクパクさせながら言う。
「あ、あぁぁぁっ……」
 渇いたような低い悲鳴。お気に入りの無残な姿を目にし、ショックで瞳孔が開く。
「ご、ごめんなさぃ……決して、あの、わざとじゃ……」
 汚してしまった事はまだばれてはいないが、しかし今更そんな事は問題ではない。状況はセルシオの想像するよりも更に最悪な方向へ進んでしまった。
 震える声で謝罪する。その次に言い訳をするも、相手にそれが伝わっている様子は全く無い。
 シャルルは破られたクッションの前で、激しく震えている。とても謝って許してもらえそうにない。
「本当に、ごめんなさいぃっ!」
 やけくそ半分、頭をこれ以上下がらないくらい、大きな声で謝罪する。それでも彼女からの反応はなく、未だに震えている。
 頭をあげて、苦い表情で彼女を見る。シャルルはクッションを見やるように顔を下げている為に、今どんな顔をしているのか分からない。泣いているのか、それとも怒っているのか。
「シャルル……さん……」
 セルシオは恐る恐る、前肢を震わせながら彼女の肩に触れようとした。
 ゆっくりと伸びる前肢。許しを乞うように向かい、その小さく震える肩に触れそうになる所、突然強い力に捕まり、止められてしまった。
「あっ……!?」
「よくもぉ、あたしのお気に入りを……破ってくれたわねぇぇぇ。がきんちょぉぉぉっ」
 シャルルは地の底から呻くような声を張り上げる。それは、さきほどまできゃぴきゃぴしていた面影は全く無かった。
 彼女に掴まれた前肢に、強烈な痛みが襲う。雌のニャースとはとても思えないほどの馬鹿力だ。
「痛ぃ……!!」
 痛みに耐えかねて前肢を離そうと力いっぱいに振りほどこうとした。しかし、掴まれた前肢はピクリとも動かない。自分より一回り分小さい体に、何処にそんな力があるのかと疑問に思いながらも、前肢に加わる痛みは更に増していく。
「痛いですって……? あたしの精神的な痛みに比べたらさぁ、まだまだぬるいのよぉ……分かってるの? どれだけこれにポケぇ注ぎ込んだかわかってんのぉ……?」
 彼女は言って、ドス黒い怒りのオーラを身に纏い、ゆっくりと表をあげる。その表情からは、さっきまで泣いていたのか、涙の後が覗えた。瞳孔を閉じた瞳が、真っ直ぐとセルシオを睨む。怖い。
 しかし、それ以上に怖いのは、彼女の表情だ。シャルルの目は全く笑っていないのに、口元を吊り上げて、まるで笑っているように見える。涙を若干浮かべて尚、はにかに笑むその仕草は、事情の知らない者には可愛らしいく映るかも知れない。それが返って、激怒されるよりもずっと怖く感じた。
 アーボックに睨まれたニョロトノ(蛇に睨まれた蛙)の如く、怒りの的となっていたセルシオは、恐怖の余りに固まっていた。
「そ、その、本当に……ごめんなさ、あああぁぁぁっ!」
 覚えながら、ようやく口にした言葉の最中、これ以上にない激痛が走る。彼女は掴んだ前肢を握り潰さんばかりに力を加えた。
「絶対にゆるさなあぁいぃ、セェルゥシィオォォ……!」
 シャルルは口元を更に吊り上げて、笑みを作る。無論笑っている訳ではなく、怒りの余りに表情が引き攣っているのだろうが。その証拠に、彼女の背後では尻尾が天を貫きそうなほど逆立っている。
「あっ、あの、毛繕いしてくれたんでしょ。凄く上手ですね。ほら、メチャクチャだった僕の毛、綺麗になってるし、とっても男前ですよ。シャルルさんがとても上手だから……えと、クッションと同じくらいふかふかしてそうで、ビリビリしてそうで、もう僕惚れ惚れしちゃいそうでぇ……」
 落ちている鏡で自分をチラッと見た後、機嫌を取ろうと話を変えて彼女の毛繕いの腕前を評価する。しかし、後半からめちゃくちゃで、自分自身でさえ何を言っているのか分からなくなってきた。
「そんな事言っても許さないんだからあぁぁっ!」
 シャルルは怒鳴り、前肢を力尽くで引っ張ると自分の口元に寄せると、歯を立てぬように気をつけながら一気に咥え込んだ。
 てっきりぶたれるんじゃないかと身構えたセルシオは、何が何だか分からなくなり、考える間もなく咥えられた前肢ごとシャルルに引っ張られていく。すごい力だ。身長も体重も全然違うのに、彼女は自身より何倍も大きい相手を咥えた状態で引っ張っている。
 前のめりに倒れたセルシオは、そのままずるずると引きずられながら移動する。
 やがて彼女と一緒に開けられていない道具箱のところに辿り着く。その箱はピンク色はしているが、よく見ると、木造で出来ている。彼女は咥えた物を決して離さず。乱暴に箱の蓋を弾くように外す。勢いの余りに飛んでいった蓋は、壁にぶち当たり、破片を撒き散らして砕けてしまった。
「わっ……!」
 一部の破片がセルシオの方に飛んできて、自分の顔を守ろうともう片方の前肢で防いだ。
「見なさい!」
 彼女はようやく前肢を解放するのと同時に、セルシオに何かを見せた。
「へっ……何?」
 セルシオの前に出された物、近寄りすぎて巨大化して映る。それを察した彼女はイライラしながらも身を引き、物を認識するには十分な距離を取る。そこで、それが何なのかを把握した。
「あんたも探検家なら知っているはずでしょ! ちゃんと見なさい」
 前に出された物は、モンスターボールの様に丸い形をして、その左右に翼模様を取り付けた小さいバッジだった。
 セルシオにも同じ物を持っている。だが、色が違っていた。彼女のは金色に光っている。
「それって、探検バッジ……ですよね?」
「そうよっ!」
 怒り混じりの返事にビクつきながらも、それだけでは意味が分かず、勇気を出してもう一つ質問をしてみた。
「そ、それを僕に見せてどうしろと……? 探検活動でも再開するのですか?」
 そう言うと彼女は怒り交じりに溜め息を吐きながら、質問の問いに答える。
「意味分かんない? あんた、ブールから仕事を手伝うように言われてるんでしょ。それ、あたしも付いていく事にしたから!」
「はぁ……えっ? 付いていくって、僕と一緒って事ですかぁ!?」
「ったりまえでしょうが! もし仕事の最中に逃げ出されないように、あたしが見張るの! このクッションの弁償は絶対にしてもらいますからね!」
 クッションの弁償を口に出され、セルシオは低く唸る。てっきり怒りの余りに忘れてくれたのではないかと僅かな期待をしていたが、甘かった。
 視界の隅で、遠くからでもビリビリに破れたクッションの無残な姿がはっきりと見える。どのくらいの額になるか、考えるだけでも怖い。いっそうの事逃げ出したい……
「あとさぁ、もし逃げ出そうとしたらぁ、どうなるか分かってるでしょーねぇ?」
 口元を吊り上げて怪しい笑みを浮かべる。もちろん目は笑ってなどいない。脅すようにデコレーションされた爪を長く伸ばして、セルシオに見せ付ける。
 あの怪力で、鋭い爪に引っかかれる事を想像し、体の底から震え上がってしまう。小さい相手に怯えてしまう情けなさなど考える事さえ忘れてしまうほど。
「それじゃぁ決まり、着いて来なさい」
「……はい」
 諦めるしかないと判断し、扉のほうに向かう彼女にしぶしぶと着いて行く。
 正直、どん底だ。ギルドに支払わなければいけない上納金だけでなく、破いてしまったクッションの弁償さえしなくちゃいけなくなった。仮に探検隊を続ける事が出来たとしても、この負債をどうするか、今のセルシオには考える事すら面倒になっていた。

 ぐぅぅ~と、間の抜けるような腹の虫を鳴かせたのは、壁に背を預けて座っている、ブールだ。長い時間を待たされ、外の様子は分からないが、多分夜になっているだろうと思われる。
 時折、ギルドの仲間と何匹かすれ違う。一匹のハリテヤマが通り過ぎざまに挨拶をしてきたから、ブールとホームは挨拶を返す。
 ハリテヤマが奥に行って見えなくなってしまうと、今度はホームがイライラ混じりに溜め息を吐いた。
 ホームは頭に血管を二つほど浮かべながら、鋭い鉤爪で床を引っかく。ちょっとでも刺激したら、そのイライラが爆発するのではないかとホームは心配した。
「遅いっ!」
 切り出したのは、鋭い目つきを更に鋭くしたホームだ。この長い時間を待たされ、ついに痺れを切らした。
「シャルルの奴! たかが毛繕いにいくら時間をかけているんだよ! こっちはまだ仕事があんのに!」
 我慢の限界がきた彼は、シャルルとセルシオの入った扉の前に来る。その鬱陶しいブツブツしたデザインが気に食わないのも含め、羽で扉を殴ろうとした所、ブールに止められる。
「ホームよ、少しは落ち着け。あとちょっとの辛抱じゃよ」
「そう言って、どのくらい時間が経ったと思ってる? えぇっ!?」
 二匹とも、細かい時間は計っては無いが、大雑把に言って三時間は待たされていた。
 なだめるブールに、怒りを爆発させて怒鳴るホーム。通路全体に響く声に、通りかけたトゲチックが驚いて彼らを見やる。
 ホームは慌てて「何でもない」と、誤魔化すように言うも、トゲチックは「はぁ……」と苦笑を返し、逃げるように行ってしまった。
 それだけでなく、シャルルの隣にある扉にも響いてしまい、中に居たロゼリアが、迷惑そうな表情でホームを睨んだ。ホームはトゲチックに言った言葉をそのまま繰り返して誤魔化した。
 ロゼリアは「もぅっ!」と吐き捨てた後、扉を強く閉じた。大恥をかいたホームは深い溜め息を吐き、己の愚かな行為を呪った。ブールはそんな様をやれやれと呟いた。
「おまたせっ!」
 待ち遠しかった扉がようやく開いた。中からシャルルが不機嫌そうな面持ちで出てくる。それに続いて、げんなりしたセルシオが後から続いて出た。
 ブールは毛繕いの最中に何かあったのか、やや驚いた顔で二匹を見やる。ホームはそんな事をお構い無しに、怒りのままに近づく。
「どのくらい時間が掛かったと思っている、シャルル! お前はいつも時間にはルーズ過ぎる! こっちは後どれほどの仕事が控えているか分かっているのか!? 何で私が貴様の為なんかに時間を無駄にしなければならない、あぁ!?」
 先ほどの大恥を含め、今まで待たされた怒りを募らせた分をぶつけるように吐く。シャルルはそれに動じる様子も無く、ふんっと返す。
「あのさぁ、こっちだって大変な事があったんだから、いちいち小言ぬかさないでくれる?」
「なんだと貴様ぁ……!」
 反省の欠片も無い言い草に、ホームは沢山の血管を浮かばせた。
「時間時間って何時もうっさいのよホームは! あたしにはあたしのペースがあるのをいい加減覚えて頂戴。だからその仏頂面が直んないのよ!」
「何があたしのペースだ! 我侭で自堕落な貴様に、私の事をどやかく言われる筋合いは無い! 時間厳守もろくに出来ん貴様にペースも糞もあるものか!」
「はぁ? それ自慢のつもりですかぁ? 生憎、規則に縛られて喜ぶようなマゾヒストな性質じゃないのよ、アンタと違ってね!」
「わ、私がマゾヒストだと言うのか!? 何処でそんな言葉を覚えてくるのだ、この破廉恥極まりない雌猫がっ!」
 怒りで顔を真っ赤に、理性をかなぐり捨てて下品な言葉を吐いてしまうホーム。それに負けじと、シャルルも図星を付いた罵声を飛ばす。
「大概にしとかんかブール、シャルル!」
 重い空気が漂う中、シャルルの後ろでセルシオが暗い表情で二匹の様子を不安気に覗っている。そんな緊張感の漂う雰囲気の中、ブールが割って入った
 威圧的な口調を籠めて二匹を制止するも二匹は動じず、イラついた顔でブールを睨む。
 ブールは肩で溜め息を吐くと、左の通路を見ろと顔をクイッと動かして伝える。シャルルとホームは横目で、左の通路を見やる。
 イライラで気づかなかったのか、扉や通路から、五匹ばかりのポケモンが、二匹のやりとりを見ていた。そこで、熱くなりすぎたと二匹は気まずそうに目を反らす。
「ホームならまだしも、シャルルは何イラついているのじゃ。ワシがこの子の毛繕いをお願いして、その最中に何かあったのかの?」
 ブールはシャルルに言いながら、ちらりとセルシオに目を向ける。当の本人は暗い顔のまま、視線を下に落としている。
「ちょっとね、それよりじいさん。お願いがあるの!」
 未だに苛立ちの取れない声で、ブールにお願いをする。首を傾げる相手に構わず、シャルルは続けて言う。
「このガキンチョの仕事、あたしも同伴させてちょうだいな!」
「はぁぁ?」
 理解不可能と言った声をあげたのは、、ブールとホームの二匹。
「シャルル、きまぐれなお主がどういった風の吹き回しじゃ? お主自分の時間を他人に使うなど、珍しい事じゃ」
「別にぃ。 あくまでセルシオが仕事をこなしているか、その監視役になるだけよ。 ほら、接客とか、不備が無いようにとかさ……」
 シャルルが口元を抑えて、クスクスと笑う。
「なるほどな、初めてで、それも一匹で行くのでは何かと不安な要素がある。いいじゃろう」
「サンクスゥ~」
 軽く会釈した後、シャルルは背後のセルシオに向き直る。
「そういうことだからさ。そん時はよろしくぅ~」
「は、はい……」
「待てっ、貴様は調査員としての役目があるはずだろ? ダンジョンの状況調査とか」
 冷静に戻ったホームが黒縁メガネを上げながら、割って入る。
「だぁいじょーぶ。夜限定の活動なら、アタシも空いてるしさ」
「そうじゃな。ホーム、心配は不要じゃ。ワシが責任を持ってセルシオの面倒を見るから、この件に関してお主はもうよい。安心せい」
「むぅ、ブールが言うなら仕方ないな……」
「決まりねぇ」
 話が纏まり、三匹はこれ以上話す事が無くなると、それぞれ挨拶も無く、散らばり始めた。ホームは踵を返すと、羽に挟んだ紙をしっかりと持ち直し、何処かに行ってしまう。ブールは反対方向を歩き出す。シャルルは扉の中に入っていき――
「それじゃ、また今度ねぇ。ぼ・う・や!」
 子猫のような笑みを浮かべたと思ったら、最後に冷笑を浮かべてセルシオを坊や呼ばわりし、扉を強く締めた。その様子にポカンとするセルシオ。
 面倒な事を増やしてしまい。がっくりとうなだれる。ただ毛繕いをしてもらっただけなのに、凄く疲れた。家に帰って、ご飯をさっさと食べて、何も考えずに寝てしまいたい。
「ほれ、お主はこっちじゃ」
 通路を進んでいたブールが呼ぶ。
「は、はい」
 嫌な感じのするムクホークと、きゃぴきゃぴした怖いニャースと別れて、ようやく開放された矢先だった。
 しぶしぶと、セルシオはブールの後を着いて行った。

 着いて行った先は、見覚えのある扉。閉じきった状態から、僅かな隙間から、鼻がもげそうになる匂いを放つ。
「それじゃ、中に入るかの」
「うえぇ……」
 またこの部屋に入るのかと、吐きそうな声が出てしまう。息の良いキャタピーを、口の中で百回ほど噛み潰したような、苦い表情を浮かべる。
 ブールが扉を開くと、ムワッと悪臭が押し寄せてくる。なるべく、鼻で息をしないようにと注意を払って中に入る。それでも完全に悪臭を遮断する事は出来なかった。
 テーブルの上に置かれてある妙な色の液体が入ったビンと、床に散乱する紙切れ、ホームに連れられてきた時は、それ所じゃなかったから気にはしなかったが、改めて見ると本当に汚い。
「すごい臭い……」
 思わず本音が出てしまい、最初に入った時にホームが吐いた台詞と同じ事を言ってしまう。
「ふぇっふぇっふぇ、これも研究の為でね。慣れてくると、キレイハナの蜜の香りと同じ、良い匂いと思えてくるのだがね」
 冗談めかした事を言うも、百歩譲って慣れたとしても、これが良い匂いだとは到底思えない。犯罪的な悪臭だ。キレイハナの蜜の香りと言うより、クサイハナの唾液の方があっている。
「それで、ブールさん。今度はどうするんでふか……?」
 前肢で鼻を抑えながら聞く。そうでもしないと、匂いのきつさにどうにかなってしまいそうだから。
「そうそう、せっかく毛並みを直してより男前になったからの。それじゃセルシオ君」
「はひ……」
「まず、鼻から前肢を離したまえ。そして、その場にちょっと座ってくれんかね?」
 どんな内容かと思えば、単純なお願いだった。望みどおり、堅苦しい面持ちで座る。匂いが入るから離したくはなかったが、仕方なかった。
「だめじゃよそれじゃぁ」
 ブールは首を左右に振ってダメだしする。
「まず表情が硬すぎる。もっとこう……自然にできんかの?」
「こ、こうですか?」
 悪臭が鼻腔をくすぐるのを何とかこらえ、肩の力を抜いて、堅苦しい顔の形をやんわりと崩す。
「う~ん、ちょっと目元があれじゃな。ちょっと睨んでいるっぽいと言うか……そうじゃな、ちょっと笑ってみてくれんかの」
 またもや注文してくるブール。こんな場所で笑顔なんて、難しいが、それでもやってみる。
 ツンとした口元を小さく吊り上げ、仮に初対面の相手に、緊張を解くような、純粋な自然的な会釈をして見せる。
「よし、いい感じじゃ。ちょっとそのままにしておくれな」
「は、はい」
 ちょっと喋りづらかった。この環境下での自然な笑みは何処か疲れる。
 ブールはテーブルの上に散らばっている紙を何枚か手に取る。文字を読んでいる様には見えず、う~んと唸っている。何か気にいらないのか、手に取った紙を見てダメだと首を横に振ると、その紙を捨てるように投げ出す。
 手当たり次第に手をつけては、良い感じの物が見つからない様子で、テーブルの上の紙を空に散らしていく。何枚かの紙が宙をヒラヒラと泳いでいる。やがて、一枚の白紙を手に取るとセルシオの所に戻ってくる。
「待たせたな、それじゃぁ。じっとしててくれよぉ……」
 片目を瞑り、ジロジロと観察するように見てくると思えば、今度は筆のような尻尾で紙に何かを書き始めた。
「あの、何をしているので――」
 ブールの行動が気になったセルシオは気になり、彼の方に近寄ろうと立ち上がろうとした。
「こりゃ、じっとせんかい!」
 ちょっと動いただけで、ブールは年配の張りのある声でセルシオを叱る。その罵声にビクッと体が震えた。仕方なく、彼の言うとおりに従い、座る大勢に戻す。
「さっきの笑顔も忘れんでくれ。それとなぁ……う~ん、笑顔は良いとしてのぉ……うん、そうじゃ。ちょいと目元をやんわりとしてくれぃ」
「目元……?」
 注文の意図が分からず困惑する。セルシオは難そうに考えながら、キリッとした目元を崩す。凛々しかった瞳は雄雄しさが抜けて、優しくも、幼く見える。もちろん笑みを作るのも忘れない。
 自分でも、コリンクの頃に戻った気がして、複雑な気持ちになった。
「良し、中々良い面じゃな。ちょっと幼い子供らしさがあってばっちぐーじゃ」
 尾の筆を、老体とは思えない速度でスラスラと書いていく。セルシオを見ては、白紙に目を向けて、筆を動かす。
 幼い子供は余計だと、セルシオは内心ムッとした。しかし表情の笑みは崩さずにいる。
「う~ん、しかし何か、もう一つ欲しい所じゃなぁ……おぉ、そうじゃった、あれじゃあれ! あれが肝心じゃった」
 ブールは年甲斐も無く興奮し、あれじゃれじゃと一匹で騒ぎだす。セルシオは彼の言動がいかにも怪しく映り、危機感さえ覚えた。
「肢じゃ肢、まっすぐ座らず、ちょっと体制を崩して……まてよ? あれも良いかも知れん。セルシオ君、ちょっと首を斜めに傾けてくれ!」
 言動はエスカレートし、馬鹿みたいなハイテンションで纏まりの無い指示を飛ばしまくるその姿は、はっきり言って怪しすぎる。それでも、筆はスラスラと滑るように動いているのを見て、ある意味すごいと思えた。
 彼の指示に従い、セルシオは行き過ぎず、自然的に首を傾げて見せた。自分でも、ほとんど動いていない様に思えるほどのごく自然な動きだ。
「うむ、それじゃ。最後に、その姿勢を前に倒すようにしてくれ」
「それって、何だか雌の様なポーズに……」
「構わん、やるんじゃ」
 徐々に落ち着きを取り戻してきた口調で言う。
 斜めに延びた姿勢を、ゆっくりと前に倒す。前肢を伸ばし、斜めの体制を取る。正直、我ながら卑猥なポーズを取っている気がした。だがセルシオは、もはや羞恥心など気にならなくなり、どうにでもなれ――な気持ちになって、ブールの指示に従う。
「おー、中々様になっとるぞセルシオ君。容姿が良いだけにそのポーズは似合ってるな」
「ハハハ……」
 嬉しくもないのに笑ってしまう。もはや自分が変態に思えて仕方なかった。
 やがて、半分誘惑的な体制と呼べる状態になると、ブールはそれ以上何も言わなくなり、ひたすら白紙に尾の筆を滑らしていく。
 同じ体制を、長時間維持し続けるのは正直骨が折れる。ブールの許可が出るまで、眉毛一本と動かす事も許されない。座っている大勢でいるにも関わらず、体は疲労が蓄積し、時折体の一部が震えた。ブールが気づくと「動くでない!」と叱咤する声が飛ぶ。
 悪臭漂う部屋で恥ずかしいポーズ。こんな様子を、もし妹のリンに見られたりしたら、しばらく口を利いてくれるか心配になる。仮に自分が雌だとしたら、まだ良かったかも知れない。あぁ、恥ずかしい。
「よーし、完成じゃ! もう良いぞ」
 ブールの筆が止まり、完成に喜びを上げ、セルシオをようやく自由にした。
 時間的にそれほど経ってもないのに、全身から疲労がドッと出た。セルシオは前肢から力が抜け、だらしの無い表情で地面へと崩れ落ちる。
「ようやく終わりですか……疲れたぁ……」
「うむ、我ながら良い出来じゃな。やっぱモデルが綺麗だと筆の調子も良くなるわい」
 満足そうに、自分が描いた物を見て笑いを飛ばす。
 どう描いているのか気になったセルシオは、クタクタな自分を鞭打つように体を起こし、ブールの元に寄る。
「お、これどうじゃ? ワシの自信の一品じゃが」
「これが僕ですか」
 指示された通りにポーズを取っていたから、自分がどんな表情でいたのか気になっていた。恥ずかしい体制を取っていた所だけは覚えていたから、あまり想像はしたくなかったが。それでも気になり、見る。
 白紙の中には、少し背伸びをした自分が無邪気な様子で、自然に出したようなやんわりとした子供の笑顔をしている。そう見て取れる。
 しかし、瞳はどこか甘美的で、何かを誘っている様にも思わせる。何時もキリッとしている自分の目ではない。
 自分で思うのも難だが、熟しきっていない青い果実であるにも関わらず、甘い汁を滲み出している雰囲気がある。あえて言うなら、『熟して居なくても十分甘いですよ』っと、絵に描かれた自分が見る物にそう伝えている気がした。
 顔の目元から尻尾の体毛まで細かく描かれていて、とても上手で美しい。自分の容姿に関心を持った事は無いが、我ながら、紙に描かれた自分に思わずドキッとしそうになった。変態ナルシストみたいで少し自己嫌悪しそうになる。
「どうじゃ、上手じゃろ? な? な?」
 しつこく自画像の出来の評価を求めてくるブールに、セルシオは素直にコクンと頷いた。しかし、よく見ればちょっと捏造されている部分があった。目の色が若干潤んでいる事が分かる。実際は潤ませてはいないのに。
 それと、毛並みが風に吹かれて、ユラユラと靡いている描写がある。これには疑問に思った。
「どうして、目の所だけが、その……ほんのり潤んでいるのですか? それに、風なんて無いのに、体毛が揺れているって言うか……」
 的を付いた質問に、ブールはにんまりと笑みを作る。
「ほら、君は着飾ったような美少年のイメージとは違う。ナチュラルにそう出来た美しさがある。何にも触れられていない。純粋なイメージがある。だからちょっとだけ手を加えさせてもらったのじゃ」
「はぁ……?」
「題して『風に靡く青いルクシオ』じゃ!」
 ブールは自分の描いた作品の題を力強く告げる。その後、ドヤ顔でセルシオの反応を期待した。絵は上手いが、正直、題も捏造の理由もセルシオにとってはどうでもいい事だ。
「それにしても、改めて見ると本当に良い出来じゃ。これなら、依頼も来るだろうな、まぁワシの画力は他のドーブルに負けないほど素晴らしからな。ふぇっふぇっふぇ」
 依頼という単語を耳にし、セルシオはブールに向き直る。
「依頼って言いましたよね。依頼ってもしかして、探検隊としての事ですか? 僕の絵と、何か関係があるのですか?」
「おぉ、そう言えば言い忘れてたな。君がこれからする仕事の事を」
 今まで忘れていたが、ブールが紹介してくれる仕事の準備の為に今こうしている。言わなかったら、多分忘れていただろう。
「ゴホンッ、それじゃ仕事について話そう」 
 ようやく本題に入る。
 ブールは軽く咳払いすると、薄ら笑みを消して、真面目な顔つきで言い始める。
「セルシオ君にしてもらう仕事は、探検家の君なら知っているはずのものじゃ。それはな……」
 ブールは間を置いて答える。
「救助じゃよ」
「きゅ……救助ですか?」
 高額な報酬の仕事がどんなものかと期待していたが、余りに単純な内容にセルシオは表情が引き攣った。
 救助といえば、探検家の仕事の一つである。主に用事目的でダンジョンに入り、災難に遭遇したポケモンを救出する。
 ピンチの時に助けてくれるヒーローみたいだと、若い者の間ではとても人気のある活動のひとつだ。
「そうじゃ、指定された場所へ行って、依頼主の救助に行ってもらいたい。分かるな?」
「はい、でも――」
「でも……どうした?」
 躊躇うかのように喋りかけた口をごもらせ、ブールが尋ねようとする。
「僕、まだ、その……救助と言うのをやった事がないんです……」
「なんと……それじゃこれが初めてになると言う訳か?」
 絶句するブールにセルシオは恥かしそうに頭を小さく下げた。
 依頼は沢山受けてはいた。他の探検隊に負けないくらい、生活費を稼ごうとして色々やってきた。最後の身内である妹を支える為に。
 今までに救助という活動はやった事はない。自分たちの生活が火の車で、そんな自分達にこそ救助の手が欲しかった。
 苦労ばかりの生活環境で、彼の中では誰かを救助するという気持の余裕が無く、それが今まで救助と言う依頼を自然に避けていたのが理由の一つだった。
「今まで救助を成功させた事の無い探検隊はいくらか知ってはいるが……珍しい探検家もいたもんじゃのぉ……
 それじゃこれを機に経験を積めばよいではないかの? 学べばそれだけ活路が見出せるもんじゃろ?」 
「そうですね、自分もそう思います……」
 やや苦笑しながら言った。今まで言い訳に近い理由で救助の依頼を避けていた事を反省する。
「それでは、依頼主や目的地を記した依頼書を見せてください」
 改まった表情で、ブールに依頼書を要求した。しかし彼は小さく息を吐くだけで何も渡さない。その後に信じれない言葉を口にする。
「まだ無い」
 ブールはきっぱり言った。
「無いって、どういう事ですか……?」 
 セルシオは困惑した。救助の依頼なのに、依頼書がないと言うのはおかしい。探検家は、請け負う依頼をギルドに提出し、承諾を受けなければ依頼をこなす事は禁止されている。
 あくまで救助をするのは勝手だが、それだと報酬も名誉も無い。ただのボランティアになってしまう。報酬を得る救助をするのなら、かならず探検家になり、依頼をギルドに通さなければならない。
 無論それだけではない、依頼書がなければ、目的の場所も、救助の対象者も、もちろん、一番気になる報酬も分からない。何も情報がないと言うのは、依頼者が分からないとなると、たとえ報酬の額が大きくても、払わずして逃げられると言う事がありえる。
 もちろん、情報を鍵に活動する探検家にとって、対策もなしにダンジョンに入るのは、命に関わる事だ。救助は決して綺麗なヒーローごっこではないのだから。
 訳が分からなくなったセルシオはブールに問い詰める。
「依頼者も情報もなくて、誰を何処で救助すると言うのですか? 僕の事をからかっているのですか?」
「落ち着きんさいよぉ。お主の仕事を奪う訳じゃない。ただ、詳しく言うと、お主が高額な報酬の仕事を得るには、相手次第と言う事じゃ……」
 何処か躊躇うように仕草で、自分の髭を引っ張りながら言った。年上相手に感情的になってしまったセルシオは自分を恥じる。
「すみません……で、相手次第って、どういう事なんですか?」
 ブールは言いにくそうに肩で溜め息を吐きながら、口を開く。
「最初に言っておけば良かったな、気にするな。依頼書の事じゃが、送られる方法は、依頼主の指定という形でセルシオ君に送られる」
「ぼ、僕を指定ですか?」
 緊張のあまりに顔が強張る。
 指定、探検家が依頼を受けるには二種類ある。一つは、掲示板に貼られてある依頼を、やる気のある探検家が選び、ギルドに承諾を得る。
 そしてもうひとつは、依頼主が直接、指定の探検家に依頼書を送る方法がある。ペリッパーの空の配達によって、探検家の家に依頼書が送られる。
 探検隊にとって、依頼書を直接送られるという事は、それだけ頼りにしていると言う、信頼がある証拠だ。探検家なら、一度は味わってみたいと思う者も多い。
 ちなみに、指定依頼は強制では無い為に、断る事ができる。その場合、送り主に断りの返事を返すのが手法だが、大体は無視で終わる。依頼側も、無視される事を承知の上で送っているので、問題は無い。
 今セルシオは、自分のような弱小探検家が、指定依頼を受ける事に、内心喜びつつ、緊張する。
「そうじゃね。依頼主が相手を買うか買わないかは、向こう次第という事じゃがね……」
「うっ……」
 現実的な言葉を告げるブールに、甘い世界にいたセルシオを現実に引き戻された。
 弱小な探検家であるライメイズに、指定など来るわけが無いと、愚かな甘い考えをしていた自分を恥じた。
「これでも指名が無いとなれば、当然仕事はこん。そうなれば、ワシのお願いも無駄になり、君の追放も免れん」
 考えたくなかった更なる事態を口にされ、肩に重荷がのしかかる。
「それじゃ救われんな。でも、セルシオ君なら、きっと買い手が見つかるわい。安心せい」
 しかし、以外にも沈んだセルシオの心に、彼は優しく言うも、その言葉セルシオは救われなかった。
「ありがとうございます……でも――」
 テンションの低い声で礼を言う。そんな中、扉からノックをする音が鳴った。
「だれじゃい?」
「失礼しま……うぇ……」
 入るなり、匂いに吐き気を催したのはビーダルだ。
「何様じゃ?」
「い、いえ、ギルドマスターが御呼びでふ。至急、いらして下さいでふ……それじゃ……うぅ、くせぇでふ……」
 鼻をつまみ、失礼な事を吐きながら、用事が済むとささっと出て行ってしまった。
「そうか、そういう事なら仕方が無い。セルシオ君、すまないがちょいと用事が出来てしまった。すぐに行かんとならん」
「え、でも」
「詳細は後日、ベリッパー空便で届く。来るかどうかは、君の需要次第じゃがね、それじゃぁな」
「需要次第って、僕にそんな物……ちょっと待って……」
 ブールはそれだけ告げると、いそいそしく部屋を出て行ってしまう。まだ聞きたいことが沢山あるのに。
 一匹残されたセルシオは、顔をだらんと下げる。最初から、仕事をくれるわけではなかった。必要としてくれなければ、仕事など来ない。
 全うな依頼所か、低レベルな依頼さえこなせない弱小な自分に、高額な報酬が来る訳ないと、厳しい現実がセルシオに突きつけられる。
 淡い期待だった。高額な報酬の依頼など、来るはずがない。それは自分自身が一番よく知っていた。知っていたはずなのに……
 悪臭漂う部屋の中、ポツンと残されたルクシオの少年は、希望を打ち砕かれた気分に陥り、後に残ったのは、ただの脱力感と一番聞きたかった疑問だけが残る。
 気持ちが沈んでいく中、セルシオは部屋を出て行くことにした。

 蒼穹の色をした空が暗闇に包まれ、星々が煌く夜空。夜の時間が来て、空には流れ星が流れる。
 その場にいたポケモン達はゾロゾロと、出入り口の階段を上る。一仕事を終えた労働者達が家路に帰ろうしているのだ。
 地下繁華街は夜になると店じまいする所がほとんどで、明日に備えて休養を取る。そんな中、営業を続けている飯店の列と酒場だけが沈んでいく繁華街の賑やかさを保っている。
 こんな時間まで酒場に残っている輩といえば、大抵朝まで飲み潰れようとする夜帰りの探検家や飲まず嫌いな連中ぐらいだ。
 所々の飯店列の穴から五月蝿いまでに賑やかな声がする。そんな中、一匹のセルシオは下に俯き、暗い表情でポツポツと歩いている。
『オクタンの空騒ぎ』と言うのれんを下げた酒場の看板を横目にする。そこからは騒がしいばかりの客の楽しそうな声を耳にする。 
 二匹のピカチュウが真っ赤な顔をして酔い潰れた様子で談笑しているのを見た。
 ポケばかりを持て余し、酒に酔い潰れる様なポケモンをセルシオは何時も馬鹿にしていた。だが、今度ばかりは羨ましいと思った。
 今まさに、自分も酒に身を任せて潰れてしまいたい気分だった。だが、財布事情でそれが許されない。
 ため息を吐き、セルシオも家に帰ろうと飯店列を過ぎる最中、背後から五月蝿いまでに四匹の談笑する声が耳を打った。気分が滅入り、鬱陶しげに見やる。
「キャハハハ、それでさー。あのエロそうな奴が告ってきたから、言ってやった訳よ。あそこが欲しいなら、ポケ持ってから来なよ欲情野郎ってさぁ~」
「お前それ、ヤりたがりの奴と勘違いしてんじゃねーのか?」
「シャッシャッシャ、その振り方のほうがよほどエロいっつーのぉ~」
「もう一軒いこーよぉ……酒もっとのみだぁい……! ヒック……」
 ミミロップ、カイリキー、シザリガー、グライオンの四匹。足元をフラフラしながら大声で馬鹿騒ぎをしている。特にグライオンはひどく、不安定な飛び方をしているせいで時折壁に激突していて危なっかしい。
 明らかに危険な飛び方をしている。不規則な動きはやがて無自覚にセルシオの方に近づく。
「みてみてぇ~、俺様のひこうっぷりをぉ~」
 グライオンの体勢が突如変わり、仰向けになって飛行すると言う非常識な体勢になった。それが空気抵抗を利用して飛ぶポケモンにとって余りに馬鹿げた行動だった。当たり前のように空気抵抗を失わせ、急速に地面へと引き寄せられる。そこに、運悪くセルシオがいた。 
「あっ……! うわぁっ!?」
 見とれている最中、不規則に落下するグライオンに対応できず、そのまま酔っ払いと激しい衝突を起こした ゴンッと言う鈍い音を響かせ、セルシオはグライオンの体重に押し潰されるように体勢を崩し、倒れた。
「あいたたぁ~……ういっくぅ……」
「うぅっ……」
 背中がすごく重い。セルシオはグライオンに下敷きになる形で倒れていた。
 酔っていた他の三匹が慌てて衝突してしまった二匹に駆け寄る。
「おいおい、マジかよ……」
「きゃはは、バーカバーカ。マジ墜落してやんの~」
「おいにーちゃん大丈夫かぁ?」
 しょうがないと言わんばかりに最初に口を開いたのはシザリガー。その横でグライオンの惨めな姿を爆笑したのはミミロップ、腹を抱えて笑っていた。そして最後にセルシオの身を案じたのはカイリキーだ。
 全員、グライオンと負けないくらいに顔が真っ赤だった。それほど飲んでいた証拠だ。
「……」
 返答する気にもなれず、上に乗っているグライオンを睨みつけた。しかしグライオンは目を回し、ブツブツと呟いていた。
「ばかやろぉぅぉぅ~……ギルドがなんぼのもんだよぉぉ~……」
 などと、意味不明な言葉抜かし、自分から退く様子は無い。カイリキーは顔に手を当てて溜め息を吐くと。四本の手でグライオンを軽々に持ち上げた。
「しょーがねぇなっとぉ、すまねーな。兄ちゃん。怪我は無いかい?」
 グライオンを背負い込み、詫びるカイリキー。セルシオは痛そうに身を起こした。運良く怪我はなかった。
「大丈夫……」
「そーか、そりゃ良かったよぉ。そんじゃーな」
 三本の手でグライオンを持ち、残った手を振って見せた。先人を切って進むカイリキーの後をシザリガーとミミロップが追う。未だに爆笑するミミロップの横でシザリガーも一緒に笑っていた。
 そんなポケモン達を見て、セルシオは呟く。
「気をつけろよ酔っ払い……!」
 不機嫌そうに愚痴り、行こうとする四匹の背後を睨む。今この状況を、酒を飲んで忘れてしまいたいが、今セルシオの手元には1ポケも無い。酒類となれば、普通のジュースよりもポケが張る。
 それをあの四匹は浴びるほど飲んでいて、ポケと時間を消費している。馬鹿みたいだと思った。
 世の中には、ポケに困っている自分のようなのもいると言うのに。理解し難い理不尽さにセルシオはイラついた。
 自分と妹の二匹で、生活していくのが精一杯。自分は頑張っているのに、なんでこうも報われないのだろうと。
 無論、己自身に実力が無い為に今の現状にいるのが理由だと分かっていた。
「くそっ……!」
 ポケがない。実力がない。その為に苦しい思いをしなければならない。もっと、自分に力があれば……そう何度も思った。けど、思っても実力と言う物は身に付かない。
 嫌気が差し。自暴自棄な考えに陥りそうになった。
 そんな事しても何も解決しない。だからこそ、苦しい。辛い。酒場で盛り上がったあの連中を見て、現実逃避してしまいそうになる。それだけは避けようと、酒場を過ぎようとした。その時――
「あははは~、ちょっとおにぃさぁん」
「え?」
 背後から声が掛かる。別のポケモンに言ったのじゃないかと一瞬思ったが、自分の周りには誰もいない。っとなると、声の主は、自分にしか向いていない。
 振り返ると同時に鼻を抑えたくなるほどの酒臭が漂い、思わず嫌な顔をした。またもや酔っ払いだ。
「後ろから見てたよぉ~。危なかったねぇ。それにしても、そぉんな落ちぶれた顔をしてどーかしたのー。ねー?」
 あはははと笑いながら、呂律が回らない口調でセルシオに近寄ってくるのは、ニューラだ。
 落ちぶれたは余計だと言葉を返さず、軽く一睨みする。しかしニューラは微動にせず千鳥足でこちらに向かってくる。
「きょーは満月なんだよー。そぉんな暗いかおなんかしてたらー、もったいないじゃなぁいー。アハハハ~」
 高らかに笑いながらセルシオの前まで来た。余計に酒臭い。声の高さからして、相手は雌だと確信する。酷く酔っているようだ。
 黒い体毛の顔は、赤みがかかって、色違いに思えるほど染まっている。足元は覚束無いほどフラフラしている。鋭い鉤爪をした腕は、だらしがないまでにダラーンと下がっている。
「構わないでくれませんか?」
 それだけ言い放ち、行こうとした。
「こらまてぇ~きみぃ~」
「うわっ!?」
 背後に圧力が掛かる。ニューラが背にもたれ掛かり、セルシオを捕縛する。若干、膨らみのある胸が触れ、かぁっとなった。
「何するんですか! 止めてくださいよ!」
 馴れ馴れしい行為に思わず怒鳴る。しかし、ニューラは笑うだけでまるで堪えている様子は無い。それほど酔っているという証拠だ。
「おこらなーいおこらなーい、ほらぁ、おねーさんが構ってあげるからぁ~、元気をだしなよぉ~」
 余計なお世話だと、鬱陶しそうに振りほどこうとした。しかし、ニューラは中々離れない。
 馬鹿みたいに笑いながら、セルシオの事を離そうとしない。次第に、苛立ちが募る。
 ちょっと反撃でもすれば、離す事が出来るかもしれない。しかし、四足歩行のポケモンにとって、背中はまったくの死角であり、弱点でもある。がっちり掴んで離さない相手に攻撃を加える手段がない。しかし、電気技があれば、話は別だが。
 しかし、危害を加える訳でもない相手を、電撃で甚振るのは気が引ける。相手はただの酔っ払い、しかも雌。背中越しに伝わる柔らかい物が、そう教えてくれている。恥ずかしさに顔がほんのり染まる。
 セルシオは諦め、溜め息を吐いた。このまま、相手が話してくれるのを待とうとした。余り長くは持たないかもしれない。性別的な意味で。
「僕になんの用なんですか?」
「へぁ? なんかくらそーだから、構ってあげてんの~。何か嫌な事でもあったの~? 君みたいなびしょーねんがくらそーにしていちゃだめだぞ~」
「そーですか、別に何でもないから方っておいてくださいよ!」
 色々あって疲れてはいるが、こんな酔っ払いの雌ニューラに言っても仕方が無い。さっさと解いて、家に帰りたいと願う。
「むむぅ? 何でもない事はないでしょぉ~。遠慮しないでほらぁ、おねーさんにいってごらぁん」
 行っても無駄そうだから、無視しよう。セルシオはそう決めた。乗りかかりながらこちらの顔を覗い、ケラケラ笑う相手にそっぽを向く。
 するとニューラは、ムッとした顔になる。そして、だらんと下がった鉤爪を首元に回し、撫でるように触れてくる。その手つきは何処か厭らしい。
「鬱憤が溜まってるなら、一緒にデートでも行かない? びしょーねん君……」
 酔っ払い特有の目ではなく、雄を誘うような、色気を含めた流し目。誘惑するようにセルシオの耳元で甘美に囁く。
 ほっそりとした体だが、余分な肉の付いていない、スラッと伸びている肢に、キュッと引き締まったくびれ、無駄な大きさが無く、それで小さすぎたりもしない、調度良いほどの美乳。
 さっきまで酔っ払ってい表所は消えて、冷笑を浮かべている彼女は、何処か大人の雌と思わせる。しかし、子供の声みたいなトーンの高い声が、何処か少女っぽい印象を与えた。
 見る者を惑わし、騙す悪女のような雰囲気が彼女の魅力を存分に引き出している。
 体毛はとても綺麗で――ちょうど、シャルルに毛繕いをしてもらったセルシオと同じで、サラサラした感じ。酒の匂いに混じって漂う、ほんのりした雌の甘い香り。
 雌好きの雄で解釈をすれば、子供っぽい大人と言った感じだろう。物好きからすれば、たまらない体付きをしていると思える。
 今それがセルシオを誘惑している。酔っているのもあり、色気は十二分に伝わってくる。酔いに任せてからかってるのかもしれないが。顎に触れる鉤爪が、妙に鋭い。
 気が滅入っている状態で、酒の代わりに、こんな美人な雌とデートでもすれば気晴らしにはなるかもしれない。だが……
「結構です」
 あえて断った。とてもそんな気分にはなれない、というよりも、帰りを待っている妹の事が気がかりだ。ニューラの色仕掛けに負けてリンを放ったらかしにしてほいほいその尻に着いて行くほど愚かじゃない。
 冷たく言い放ち、キョトンとしているニューラにセルシオは続ける。
「僕は今、大変な状況にいるんです。構わないで下さいよ」
「ふぇ? こんな美人とデートしたくないのぉ?」
 まだそれを言うかと自信満々な態度に腹をたてる。頭部に血管を浮かべながらも冷静さを失わせない。
 早く離して欲しい。今彼女に求めるのはそれだけ。色事なんてしていられない。
「他の誰かと行けばいいでしょう、酒場にいる誰かと。僕はとにかく家に帰らないといけないんです」
 それだけ言うと、ニューラは残念そうに溜め息を吐いた。
「ふーん、そーなんだぁ。家族が心配するもんね~」
 そう言うと彼女は手の力を抜いて解放する。セルシオはようやく自由になり、安堵の息を吐く。
 酔っ払いの相手は面倒だと、実を持って体験した。もう二度と捕まりたくはない。
「ちょっともったいないけどぉ、仕方がないよねぇ~。あーぁ、振られちゃったなぁ、くやしーからもっとお酒を飲んじゃお~っと……」
 唯でさえ酷く酔っ払っているのに、その上に自棄酒。流石に呆れた。
 このまま放って行こうと思ったが、一方的に絡まれたとはいえ、これ以上の飲酒は彼女の為にはならないと思い、忠告しようとセルシオは振り返る。
「余計なお世話とは思いますけど、あなたこれ以上飲むのは止めた方がいいですよ」
「ん~、心配してくれるの?」
 足元を、まるでマタツボミの様にくねらせている相手を見て、心配するのは当然だ。黒色の顔を真っ赤にしている彼女に続けて言う。
「酷く酔っていますし、あなたにも家族がいるなら、心配かけては……むぐぅ!?」
 話している最中に、言葉が無理やり中断させられる。何が起きたのか一瞬理解ができなかった。
 やがて、口元を塞ぐ原因になった物が何か、すぐ目の前に広がる彼女の顔を見て理解した。彼女の唇が、セルシオの口を塞ぎ、ぷにゅっとした感触が広がる。
 突然の行為に、セルシオは石の様に硬くなって動かない。すぐ傍で鼻をくすぐる酒の匂いがが気にならないほどだ。自分から離れる事が出来ないほど、頭の中が真っ白になっていた。
 一方的な接吻は、彼女の方から離れた。キスの時間は僅か五秒ほどだったが、セルシオには時間の流れが1分ほどに感じた。
 全くの赤の他人に唇を重ねられ、次第に思考が回復すると、声にならない様な叫びを心の中で響かせた。
 そんな心境を知る由もなく、真紅の瞳の彼女は流し目でセルシオを見やり、舌をチロッと出して笑った。悪びれた様子は全く感じさせないくらい、その笑みは厭らしい。
 何か言葉を出そうにも、混乱で呼吸が上手く出来ずにいる。顔が紅色に染まり、ちょうど彼女と同じくらいに火照っている。そして、反応を待っていた彼女の方から口を開いた。
「へへん、振ったお返しっ! そっちこそよけーなお世話だよ~だ」
「あ……ちょっ……と……」
 怒りとも恥ずかしさとも取れないような気持ちが渦巻き、瞬きもせずにニューラを見やる。
「キスごちそ~さま~、あははは~」
 足元をフラフラしながらも、軽やかな後ろに跳躍する。口元に鉤爪を当てふふっと笑うと、踵を返して行ってしまう。
「ま、待てっ!」
 ようやく、己の感情の機能がまともに働きだす。怒りだ。それと同時に恥ずかしさも込み上げる。セルシオは理不尽に自分の唇を重ねたニューラの後を追いかけた。
 名前も知らない相手に憤怒を覚え、感情任せに彼女の後を追う。彼女はそんなセルシオの行動を見て嬉しそうに笑った。紅い木の葉に似た尾を振り、からかうような動きで逃げ続ける。
 逃がしてはいけない。捕まえてどうするかまでは考えてはいないが、一方的に絡んできて、相手の了承も無しに接吻をされた。気持ちが悪かったわけではなかったが、だからと言って許せるはずも無い。酔いに任せての接吻なんていくらなんでも無礼が過ぎる。
 必死で追うもさっきまで酔っていたとは思えないような速さで走るニューラ。歩いているポケモン達が何事かと面白半分に追いかけっこをする二匹を見て笑っていたが、気になどしていられない。
「仲良さそうだな、あれ」
 通り過ぎに酔っ払っていたピジョットがそう言った。
 二匹の姿は、まるで海辺で追いかけっこをする恋人のように見られているのだろう。セルシオの強張った表情が無ければ完璧だった。
 余裕そうに逃げ回るニューラに対し、必死に追いかえるセルシオ。スピードの差は、種族的にニューラの方が分があって本気で走っているのに彼女に追いつかない。
 距離が縮まらないまま追いかけっこを続ける二匹。時折彼女は背後を振り向いてはセルシオを覗う。
 からかわれている気がして更に憤怒した。セルシオは体の疲れなど無視して本気で追う。自分でも驚いてしまうくらい早く走っているのが分かる。
 しかし、差は少し縮まったくらいで。未だに届きそうにない。次第に別の酒場が営業している穴の中にニューラが入り、セルシオも後に続く。
 酒臭が立ちこむ中、一仕事を終えたポケモン達がご機嫌そうに酒を煽っているのが見えた。
 するとニューラは何か悪巧みを思いつき。突然大声で喋りだした。
「し~ちゃったぁ、し~ちゃった。後ろの子~とチュ~しちゃったぁ! キャハハハッ」
「なぁっ!?」
 セルシオは絶句した。よりによって沢山ポケモンが集まっている場所で、接吻をした事を公にされた。恥ずかしさのボルテージが一気に最高潮になる。
 当然のように、ニューラの発言を何事かと酒を煽っている客や忙しそうに酒を振舞っていた店員が、ポカンとした表情で二匹の様子を見やる。
 沢山の視線を浴びまくり、羞恥心の余りに死にそうになる。そんなセルシオに追い討ちを掛けるように、ニューラは更に続けた。
「えっちなちゅ~をし~ちゃったぁ。べちゃべちゃになるほどやっちゃったぁ~。いや~ん」
 歌うような口調で、小躍りしながら叫ぶ。
「な、何を言うんだぁ~!」
 実際そこまではやってはいない。飯店列の酒場にいる連中に誤解だと信じて欲しい……が、余りにも空しい願いだった。
 聞いていたポケモン達が、どっと大笑いする声が響いた。多分、信じてしまっている。テーブルにお酒を置いていた店員さえも噴出していた。
 ワイワイ賑わっていた酒場が、二匹の茶番劇に、更に盛り上げを見せた。生暖かい視線を二匹が占拠する。
「ひゅ~ひゅ~、羨ましいぞがきんちょ~」
「美人さんをゲットかぁ、若いくせにませてやがるぜ!」
 テーブルに座っている顔を真っ赤にしたキノガッサとエビワラーが野次を飛ばしてくる。その後、周りいた他のポケモンが爆笑した。
「ち、違う、違うんだっ!」
 指を刺して笑うキノガッサに、追いかけっこを止めたセルシオは叫んだ。
「彼ったらご~いんに唇を重ねきたのぉ。アタシの唇は彼に取られちゃったぁ~、しくしく」
 ニューラはその場で踊るように、更なる嘘を付いて泣き真似をする。そんな芝居じみた仕草に酔っていた客は見事に信じ、談笑に包まれていた酒場に桃色のどよめきが起こった。
 客たちは、わはははきゃあきゃあと、嘘の衝撃告白を聞いた客がざわめきたてる。
「止めろよお前ぇ!!」
 止めさせようと、その場で嘘泣きを続けるニューラの隙を狙って勢い良く飛び掛った。だが、抑えようとする最中、彼女の体がヒラリと回転した。
 姿が消えたセルシオの先には、誰も座っていないテーブルがあった。その上には客の飲み掛けだった液体の入ったコップが3つほど揃っている。
 絶句する中、時間がスローに感じた。その一瞬を最悪な事態を想像した。テーブルとの距離はほぼ近い。
 どうしてこんな事に――そんな言葉が何度も頭の中を木霊した。
 やがて鼻とテーブルの角が触れ合った瞬間に時間が元に戻った。激しい衝突音を響かせ、セルシオの体はテーブルと共に激しく転倒。上に乗っていたコップがひっくり返り、頭から液体を被ってしまった。
「あらら~……だいじょーぶ?」
 問題の張本人が心配そうに声を掛けた。
 大丈夫……などでは無い。全身が痛み、起き上がるのに時間が掛かる。液体を被ったセルシオは、視線を下に落としながらゆっくりと立ち上がった。
 そんな最中、雌同士で飲んでいる客がひそひそと二匹の只ならぬ関係についた話し始めた。大きな体をした雄はガハハハと良い余興だとご機嫌そうに笑っている。
 笑いは絶える事はなかった。そんな中、騒がしい客達を余所にセルシオは無言だった。頭に被った液体が顔面を伝って地面へと落ちる。
「こんなに汚れちゃってぇ……もぉ~……ひっく……しょうがないな~」
 むふふと笑うニューラが、沈黙を守るセルシオの頭部に爪を置くと……
「ちゅーした責任とって、結婚しろびしょ~ねん~!」
「……がっ!?」
 黄色い声で爆弾発言をするのと同時に、ニューラは両腕を使って首辺りを締め上げてきた。
 きゅぅっと締まる圧迫感に呻き声が漏れ、それを耳にした彼女はキャハハハっと高らかに笑い声をあげる。そして乱暴に頬ずり。
「うほっ! 逆プロポーズきたああああぁ!」
 頭にスカーフを巻いた、酔ったハッサムが叫ぶ。
「キャーッ! 素敵ぃ~」
 同じく酔った蝶のピアスをしたサーナイトが口に両手を当てて歓喜の声をあげる。
「に、日記に更新でゲス! 美女から美少年への衝撃的な告白の瞬間でゲスゥゥゥ!」
 グルグル眼鏡のカモネギが興奮しまくって、羽に挟んでいた紙に目の辺りにしている現状を書いている。
 黄色い歓声を一心に浴び、ヒロインとクライマックスを迎えた舞台の主人公が如く、偽りの婚約を結ばれたニューラとルクシオに惜しみない拍手が送られた。
 客だけでなく、酒を振舞っていた店員さえも感激の拍手が送られた。
 ――やめろ、迷惑だ。
 どれもこれも、酒が入っている為に弁解など通用はしないだろう。すっかりその場の雰囲気に流されてしまったセルシオは、俯いたまま震えた。
「今宵は二匹の祝言を祝って、沢山飲もうではないか! 皆ぁ!」
 泡を溢れんばかりに酒を盛ったどでかいカップを片手にドサイドンが煽る。
 その場にいた皆が賛同し、酒場は一斉におーっと合唱する叫びで埋め尽くされた。
 ――やめろって……
 周りの賞賛の嵐に圧倒され、頭の中は真っ白に染まり、すでに収拾がつかない状態になっていた。
「うふふ、皆良いポケモン達だよね~。これじゃ逃げられないよねぇ。あ、自己紹介してなかったな……サヤって名前なの。そう呼んでちょ~だい。びしょ~ねんくん」
 体から離れ、目の前に来ると彼女は今になって自分の名を口にする。ニューラはサヤと名乗った。拍手に包まれる中、酔った顔でクスクスと笑い続けた。
 セルシオはわなわなと震えた。短い人生でここまで大恥をかかされた事は今まで無かった。その積もりに積もった怒りが、遂に爆発を引き起こす。
「ふふふ、こんな美人にモテて、皆に祝福されて、最高に幸せモノだね。このままどっか夜のデートでも行かな――」
「ふざけるなぁぁぁっ!」
 賞賛の声と拍手の音を打ち破る激が酒場に響いた。酔いの覚めた客たちが目を見開く。視線がセルシオに集まった。
 永遠と鳴り止まなかったざわめきがピタリと止んだ。呆然とする中、肺の奥底から声を出したセルシオは、はぁはぁと息を吐き、一番近くにいる、酔いが吹き飛んで唖然としているサヤの顔をキッと睨んだ。
「幸せモノ、誰が!? こんな最悪な状況だって言うのに、何が幸せだって言うんだよ!? いい加減にしろよ!」
「ふぇ……?」
 訳が分からなそうにするサヤ。セルシオは構わず続けた。
「あなたの名前が何なのか、僕に気があるのか、そんなの知った事じゃない! 一方的におちょくっといて、こんな所で恥じ掻かせて! 悪ふざけも大概にしよろ!」
 目を全開に広げるサヤの前で、興奮の収まらない呼吸で続ける。
「酔って絡んできて、放って置いて欲しいといったら唇を奪って、そしてこれかよ! そっちは楽しいかもしれないけど、こっちは大迷惑なんだよ! 僕は今本気で大変な状況にいて、逃げ道なんてもう無いんだよ!
 明日さえあるか分からないんだ、お酒を飲んでヘラヘラと笑ってなんかいられないんだよぉ!」
 怒鳴り終えると、最後に「どうして僕達だけ……」と、震える声で呟いた。
 満足に美味しい食事をする事の出来ない、不憫なリンと自分が思い浮かぶ。いっつも味気の薄い、一般的な木の実を噛り付いては、夜はする事も無く寝て、ポケの掛かる娯楽と呼べる物は一切禁じ、節約する毎日。自分だけならまだいい、だけど、そんな生活を強いられている妹。
 ラグラージのお洒落な店でフリルのリボンを、悲しげに、羨ましそうに見ているだけの姿が痛ましい。
 成功の少ないおかげで妹に苦しい思いをさせている自分が、余りにも情けない。
 それだけでなく、上納金の未払い、ギルドからの追放、破ってしまったシャルルのクッションの弁償、望みが無いに等しいブールの仕事……
「僕達がどんなに苦しいか、何も知らないくせに……ぅぅ……!」
 頭の中で渦巻く、苦労の毎日が思い浮かぶ。酒場で浴びるほど飲み、嫌な事を忘れて高らかに笑っていられる、サヤを含めたこの場にいる全員が、全て羨ましい。妬ましい。そう思ってしまう自分が情けなくなってきて、悔しく思い、薄っすらと涙が滲んできた。
 賑やかだった空気が重くなり、呆然としていた客達がやがてひそひそと話し始めた。冷たい視線を一身に浴びせられ、さらに惨めな気分に追いやられる。
「そんな、サヤはただ……」
 困惑し、涙を浮かべるセルシオの頬に鉤爪を伸ばそうとする。
「触れるなよ!」
 拒絶する怒鳴り声が、サヤの身をビクつかせた。言葉を失った口は開けたまま、伸ばした鉤爪をだらんと下げた。
 それを耳にし、気分を害した酒場の客達がセルシオを睨み、「何あの子……」「ひでぇ……」「最悪……」などと軽蔑を含んだ言葉を投げてくる。セルシオはグッと堪え、最後に一言だけ言う。
「もう二度と絡まないで下さい……」
 懸命に堪えていた涙が、ついに頬を伝ってつぅっと流れた。わずかに肩を震わせながら、自分を見る客とサヤに踵を返し、弱々しい足取りで一匹寂しく歩き出す。
 興醒めした客達の冷めた視線と、サヤの悲しげな視線が背中に突き刺さる。
 惨め過ぎる自分に嫌気が差し、生きるのがとても辛いと思わせられた、今日この頃だった。
 
「お兄ちゃん、遅いなぁ~……」
 丸い単純な木造作りのテーブルの上で、リン一匹寂しそうに顎を乗せては、身内の遅い帰りをひたすら待っている。
 テーブルの上では、これと言って何も手を加えられていないオレンの実を盛った皿が、二皿あった。粗末な木の実が、今日の晩御飯だ。
 腹の虫がなり小さく息を吐く。これで何回目だろう、十回かそれ以上か、数えるのも馬鹿らしくなっている。だが兄が帰ってくるまで食べるつもりはない。
 何時も一緒にご飯を食べるのが、リンの中では決まっている。もし兄がこの現状を見ていたら「僕の事は気にしないで、先に食べていろよ」とでも言いそうだが、リンはあくまでセルシオが帰ってくるまでご飯に手をつける気は無い。
 食べるなら、兄と一緒だ。心の中でそう誓う。それまで、例え何時間掛かろうが待ち続けるのみだ。食欲に押し潰されて負けそうになっても、この一戦は退かない。
 可愛らしい小耳ピクピクと動く。玄関の方から何かが近づいてくる僅かな音を拾った。その音が何なのか、すぐに理解した。 
 扉が開く。姿を現したポケモンにリンの表情がぱぁっと明るくなった。出てきたポケモンは予想通りの相手、セルシオだった。
「お兄ちゃん、お帰り~!」
 お腹が空いて落ち込んでいた気分が晴れやかになって、兄の帰りを喜ぶ。すぐさまに駆け出して傍による。
「遅かったよぉ、私もぅお腹ペコペコだよ?」
「そうか、僕の事は気にしないで先に食べても良かったんだぞ?」
 ある程度予想通りの言葉が来て、リンは思わず吹きそうになったが、仕事帰りの相手にそんな失礼な顔は出来まいと堪える。
 改めて顔を覗きこむ、その様子に違和感を覚える。
「お兄ちゃん、どうかしたの?」
「どうって、別にどうもしないよ」
 落ち着いた口調で返してくれた。しかし、リンは兄の様子のおかしさを間違いなく感じた。目元が若干赤く腫れていて、笑い返す表情にも陰りが出来ている。
 それはまるで泣いて帰ってきたと見て取れた。厳しい状況下に置かれても、決して挫ける事無く前向きで頑張っている。そんな力強い表情が無い。
 苦しい生活状態でも、優しい顔で励まされ続けた。まだ友達と遊んでいてもおかしくない年齢で、食料集めと言う労働を一日も欠かさず続けている。
 辛く思う事は沢山あった。しかし、めげない兄の強さと、妹の自分を思ってくれる優しさに何時も励まされていた。だから今日まで兄を慕い、今を頑張っている。
 そんな尊敬する兄に、何があったのだろうかとリンは堪らず聞く。
「どうもしなく無いよ、泣いてたの……?」
 躊躇い気味にそう尋ねると兄はビクッと震え、右の前肢で目を当てて隠した。
 いそいそと、心配するリンを振り切って「本当に何でも無いよ」と懸命に誤魔化し、自分の夕食が置かれているテーブルに着く。本当に何でもないのなら、目を赤くしたりしないのに。
「ほら、早く食べてしまおう。明日も依頼を探してこなくちゃいけないからな」
 セルシオは言い終えると、すぐさまオレンの実にかぶり付いた。
 何事も無いように振舞ってはいるが、相当疲れている様子がリンには分かる。
 突然声を掛けてきたムクホークと一緒なって、その後はどんな苦労があったかはしらないが、余程の事があったと想像できた。
「今日はほんっと大変だったよ。あの後ムクホークがさ、道に迷って『この紙に書いてある場所を案内してくれないか?』って尋ねてきたんだよ。
 偉そうに何か重要な事でも書いてあるんじゃないかって思ってて、もう馬鹿らしくて笑ってしまいそうだったよ。他人に道を聞くならもっと普通に聞けばいいのになぁ。インテリっぽく黒縁メガネなんか掛けてて、何処かぬけてるよ全く。
 後になって、『よく教えてくれた、礼を言うから感謝しろよ!』なぁんて、偉そうに言ってくるんだよ。もうおかしくって、思い出しただけでも吹きそうだったよ。ハハハ」
 ムクホークの顔つきを真似しながら、坦々と喋ってはおかしそう笑う。根拠は無いが、兄の言っている事は嘘であると考えた。
 兄がムクホークに見せられた一枚の紙切れをみて、顔色を悪くしているのをリンは見ていた。
「その後さ、酔っ払いに絡まれちゃって、あーだこーだ大変だったよ。まったく節操の無い連中で疲れちゃうったらありゃしなくてさ。ムグムグ」
 何時も食べているつまらない食事を、何時に無く上手そうに食している。分かりやすいほどの演技だった。腫れた目元がそれを教えてくれる。
「リン、んぐ……どうしたんだ、席に着かないで? 食べないならお兄ちゃんがもらっちゃうぞぉ?」
 そっと、手をつけられていないリンの分に前肢をのばしてからかってみせる。そうしたら、慌てて自分が戻って盗られないように遠ざける、と思っているのだろう。
 しかしリンは芝居染みた、茶目っ気な兄にゆっくりと向き直る。
「大丈夫だよ、お兄ちゃん」
 泣いている子供をあやすやんわりな声で自分より背の高い頭を、そっと撫でた。
 予想もしなかった反応を見たセルシオが、ピクッと伸ばした前肢を止めた。視線は何処か一点を見つめ、やがてリンに向いた。
 その表情が、震えているのが分かる。しかし、すぐに変わらぬ笑顔に戻した。
「な、何だよ大丈夫だよって? 別にどうもしないさ、ちょっと疲れているだけだから、安心してご飯食べて――」
「辛そうだよ……何があったか分からない。けど、無理だけはしないで……」
 セルシオは微弱に震える。何を言っているんだ、と苦笑いを返した。
「私、生活が苦しくても我侭は言わない。美味しい物も滅多に食べられなくてもいい。欲しい物も我慢する。だから、気に病まないで……
 私にはセルシオお兄ちゃんが居てくれれば、それでいいの! だから、元気を出して……」
 リンなりの懸命な慰めだ。兄妹二匹の生活を支える兄に対して、頭を撫でて優しい言葉を掛けるぐらいの励まししか出来ない。それでも、少しでも心労が癒えるのならいくらでもそうしたい。愛する兄の為に……
「別に僕は、って何を言い出すんだよ。別にお兄ちゃんは気に病んでなんか……」
「知ってるの。私が水色のフリルリボンをジッとみていた時お兄ちゃんは、私にそれを買ってあげられなくて、すごく悲しい顔をしていたのを……」
 気づいていないと思っていたかも知れないが、リンには分かっていた。何時も苦労を掛けている自分に対し、何の見返りもしてあげられない事を気に病んでいるって。
 生活が苦しいから、そんな贅沢なんて言ってられないのは、それは私にだって分かっているの。お兄ちゃんだって、欲しい物ややりたい事だってあるに違いないって……だから迷惑を掛けちゃいけない……」
「リン……」
 妹を呼ぶ声に涙が掛かる。堪えて笑顔を作ろうとして、逆に失敗してしまっている。愛情に飢えた子犬みたいな眼差しを向けられ、リンは自分に出来る限り兄の体をギュッと抱いた。
 食べかけの木の実がテーブルの上から転がり落ちる。食欲を失った兄は、妹の優しさに嗚咽を漏らす。
「どんなに辛くても、私の為に頑張っているお兄ちゃん。だから、少しは分けてよ、お兄ちゃんの辛さも……」
 頼る他人の居ない、明日があるかさえ分からない兄妹。一番辛いのは何時も兄。守られてばかりの自分だからこそ、泣きそうな時は胸を貸してやりたい。
 小さな体の抱擁が、次第に堪えていた兄の心を溶かしだす。一滴の雫が落ちる。
「ぐっ……うぅっ……ぐうぅぅっ……うぁぁぁっ……ぁぁぁっ……」
 肩を震わせがっくりと項垂れると、その凛とした頼りがいのある表情を大きく崩す。小さな胸を借りるように、思いっきり泣いた。
 胸の中で湿り気を感じ取る。リンは震える頭部を抱き抱える様に、小さな幼い身で包んであげた。
「気が済むまで泣いて。そしたらまた元気になってね、大好きなお兄ちゃん……」
「ぅぁぁ……あぁぁぁっ……ぅあぁぁっ……」
 お言葉に甘えるように、兄は泣き続けた。それだけ兄は苦しんでいた。今まで捌け口が無かった苦しみと辛いだけの毎日。
 いくらでも溢れてくる兄の涙が枯れるまでリンは、その震える大きな体を抱きしめた。

初めての救助 (下)に続きます。
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Last-modified: 2011-07-17 (日) 00:00:00
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