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一人では生きていけない二人

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一人では生きていけない二人 


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written by リング&美優


人の数だけ物語はある。神の目からでは分からない二人から見た物語。
Lilil side

Torch side


【1】 

広大なサバンナ。立ち上る砂の嵐、襲い掛かるスコール、照りつける太陽。そこで草を食み、繁栄を謳歌するポケモンたちと、肉を食むため虎視眈々と草陰より獲物を睨むポケモン。
 空も大地も生きているように躍動するその場所で息づくものは、一様に活気に溢れていた。生きるため、死なないために彼らは多くの知恵を身に付ける。例えば群れをつくりターゲットとなる確率を減らそうと努力して、例えば群れをつくり狩りの成功率を上げようとして、また失敗しても仲間のおこぼれにありつけるように。
 中には、体そのものが生きる知恵となる者が居る。捕食者の代表ではウインディ、被食者の代表ではギャロップである。彼らはこのサバンナの天候を味方にし、場合によっては仲間から火を譲り受けることで、自身の炎の力を飛躍的に高めることすら可能である。
 勿論そのギャロップといえど雨季にたびたび襲うスコールの中では普段の力は全く出せず、川を渡る事になれば真っ先に目の敵にされる種族ではあるが、ウインディ以外のポケモンの間、とりわけグラエナ達の間では『昼は絶対にギャロップには手を出してはいけない』ということを真っ先に教えられるほど、ギャロップは恐れられていた。


 そんな中、額に鋭い一角を持ち、頭から尻にかけて炎の(たてがみ)と尻尾を持ち、四肢の先端燃え盛る威風堂々とした見た目のポケモン……一頭のギャロップの青年が草を食む。だが、この辺にある草は、彼の所属するギャロップの群れや、今のところご一緒させてもらっているキリンリキの群にあらかた食い尽くされていて、ちまちまと拾い食いしているだけでは、腹はいつまでたっても満たされないのだ。

「しゃあねぇか」
 そう呟いて、ギャロップは群から少し離れた所で食事をしようと小走りになった。草の種類や密集度合いなどで、何かと選り好みをしているうちにギャロップは少々群から離れすぎてしまったのだが、特に気にする様子もなく草を食み始める。
 まさか自分は襲われることは無いだろうという少し甘い考えの下、悠々自適にのんびりと。千切りとった草を口の中で丹念にすりつぶして胃袋へと運ぶ。
 肉と違って、栄養素に乏しい草は大量に食べなければ大した栄養にはなってくれない。ギャロップはそれに耐えうるだけの大きな胃袋を満たすべく、千切っては食み千切っては食み。
 満腹になる頃にはもう西の空は茜色。東の空は藍色で、自分の燃え盛る体は暗い周囲にひどくはっきりと浮き上がる。

「もうこんな時間かぁ……」


 一方こちらでは、現在ギャロップの群れとご一緒させてもらっている、茶色と黄色のカステラカラーの体躯を基調に白い角や桃色の鬣。そして何よりも個性的なのは、意志をもち自律的に動く黒い尻尾――キリンリキの群れの中、少女が目を瞑っている。
 生まれたときからはじまり、死ぬまで終わりの来ない長旅の途中、少しばかりの睡魔に襲われ立ったままウトウトと微眠ろんで(まどろんで)いた。呑気に眠っていられるのは、尻尾が見張っていてくれる彼女らキリンリキの特権である。
 彼女は、そのうちに群れの中でも比較的外側に位置するところまでじっとしていた。それを狙ったように黒い影が一つ、彼女の背後から迫っていた。
 気がつく者は彼女を含めて捕食者以外誰もいない。襲い掛かるまで、誰しも存在を認識できなかったその影が、地を蹴り襲いかかる。

「バウバウバウッ」
 と、同時にキリンリキの尻尾が、けたたましく吠えて、相手を驚かす。本体もそれで飛び起きたようで、恐怖で背筋が凍るよりも前に、後ろにいるポケモンの種が何であるかを確認するよりも前に駆け出した。
 しばらく経って、尻尾にある目に意識を集中してみると、おぼろげながら捕食者の姿が見える。おぼろげに見えた『灰色と黒』のカラーのポケモンで、この辺のポケモンに当てはまるモノと言えば一つしかいない……グラエナだ。しかもそれが1・2・3・4・5……匹の群れで。

「嘘……最悪……」
 キリンリキは、ギャロップとは対極的に大きな弱みがある。それは、キリンリキは超能力を得意とする種族なのだが、その種族は肉食性のポケモンのすべてが扱えると言っても過言では無い、“悪の力を帯びた牙によって噛みつく攻撃”に弱いという致命的な弱点だ。
 特にそれは、キリンリキの超能力やギャロップの炎と同じく悪の力の威力を十分に発揮できるグラエナにとっては非常に好都合であって、いろんな被食者ポケモンの群れと混ざっていることを見かけられたら、真っ先に狙われる対象なのだ。それだけに、狙われた方の恐怖も並ではない。

 しかし、キリンリキもそれをただ甘んじながら今日まで種を保存していた訳ではなく、ほかのポケモンにはない強みがある。それは、走りながらでも尻尾で攻撃できる――尻尾が攻撃してくれるということ。
 襲われた数瞬の内に追いつかれさえしなければ、彼女が使える草の力――エナジーボールを使えばいい。後ろの敵を倒すことは不可能でも、負傷させて脱落させるくらいならばできなくもない……が。

「もう……無理」
 自身にある草の力が尽きたころでも、いまだに群れは3匹残っていた。グラエナの狩りは一瞬にすべてを掛けるものではなく、並外れた持久力を以って相手が疲れ果てるまで追いまわす狩りである。それだけに、すべてを撃ち尽くしてしまったキリンリキの被害は大きく、そして絶望を呼び込むには十分すぎた。
 彼女は、恐怖で心臓が締めあげられそうになるのだが、それでは万が一の可能性すら消え去ってしまう……と、何事かを唱え始める。

「恐怖なんて尻尾が考えていればいいんだ……恐怖なんて尻尾が考えていればいいんだ……恐怖なんて……」
 そんな独り言に、どれほどの効果があるのかは知らないが、少なくとも彼女には効果があるようで、前をまっすぐ向いて走れるようになる。

と、その前方の地平線から何かが姿を現した。とはいっても体が常に燃え盛っているようなポケモンは、この草原に住んでいるポケモンに限って言えばギャロップしかいない。


 ギャロップがそれに気がついたのは、すでに地平線からの距離から半分以上詰められている時点であった。

「なんだよあれ……こっちに向かってくるなよ」
 恐らくは……というか、あのキリンリキは確実に狩られている真っ最中なのだろう。だが、彼には助太刀する義理もなければ人情もない。巻き込まれてはかなわないと、さっさと逃げ出して行った。

「なんだってんっだよ……俺をそんなに道連れにしたいっていうのか?」
 しかし、道連れにしようとでもしているのか、ギャロップが走った道をたどりながらこちらに迫ってくる。ギャロップの足ならば地平線にたどり着くことは容易でも、地平線の向こうまで逃げることは容易ではなく、キリンリキと自分との間に広がっていく差などわずかである。

「んあぁぁ……もう、面倒くさい」
 そう言ってギャロップは逃げることをやめる。向き直ったその先に見える姿を凝視しながらタイミングを見計らい、そして空に向かって烈光を放つ塊を繰り出した。擬似的な太陽ともいえるその烈光の下では、ギャロップであればサバンナの強い日差しの下で戦う事に匹敵するアドバンテージが得られる。

「あのギャロップやる気だ……引くわよ!! 返り討ちにあうよ」
 グラエナのリーダー……かどうかは不明であるが、少なくともあの中では一番位が高いのであろう女性が残っている二人に命令するが……

「あのキリンリキは私たちの仲間を怪我させたのよ!? 今更引き下がれないわよ」

「このまま手ぶらで帰ったら男と子供にどの面下げて帰れっていうのよ?」
 二人に止まる気はないようだ。確かに、夜であればギャロップの脅威はそれほどでもない……ような気もするし、事実である。ただし、それは不意打ちする場合であって、今回のように万全の準備をして待ち構えられている場合は、ただ真昼の時間帯であるだけの方がまだ可愛いものだ

「ビビってくれりゃあ楽だったのによぉ……しょうがねぇ。退()け、キリンリキ」

「は、はい……」
ビクビクとしながらも、キリンリキは横に大きく逸れた。ギャロップにとって太陽の恩恵がある下では、めったなことでは負けはない。それゆえによるといえど疑似太陽が浮かんでいれば強気で、一撃に力を託すことも出来る。
 ギャロップは全身の鬣から炎を吹き出し、その業火をすべて相手に叩き付ける。それは一頭の毛皮を焼き尽くすにとどまらず、余波で隣にいるグラエナまでをも巻き込んだ。

「この野郎……女の顔に何すんのよ!!」
 とはいえ、さすがに二人が相手では分が悪かったのか、怯むことなく向かってきたもう一頭のグラエナに、ギャロップは前足を噛みつかれた。

「くそ……離れろ、離れろ」

「そうだよ、離れるんだ。殺されるよ」

 振り払おうとするギャロップに肯定するようにリーダーと思しきグラエナが叫んだ。ギャロップが痛そうに呻いているその横で、キリンリキは何事か呟いている。

「痛みなんて……尻尾が感じていれば……」
 それまで恐怖で腰の引けていたキリンリキはその言葉を皮切りにして、噛みついているグラエナの前に躍り出る。その長い首を強かに叩きつけると、グラエナの眼前に一瞬星が舞い、噛みついていた牙は離れる。

「よし来た!!」
 ギャロップは痛みから解放されて、それを好機とみたか重心を低く構えた。

「ダメッ!!」
グラエナがひるんだ拍子にギャロップは(こうべ)を垂れ、その額にそびえる鋭い角に虫の力――悪に対し大きな被害を与える力を加えて貫いた。リーダーと思われるグラエナの悲痛な叫び声が聞こえた。
 だが、普段から被食者として言いなれたその言葉を敵から聞いたとしても、耳を貸してやるほどギャロップは甘くはない。
 脇腹に深々と突き刺さり、一目で致命傷と分かる傷を負ったグラエナを、首を振るようにして角から抜く。ギャロップは広い視野を取るのに適したその眼で残った一頭を睨む。

「まだやるか?」
浴びた返り血を鼻先から滴らせながら、脅しをかけるようにそう言うとグラエナは一瞬牙を剥いてが、悔しそうに目をそらす。

「あんたらの(つら)……覚えたからね」
ありったけの恨みを込めたような口調でグラエナは捨て台詞を吐くと、踵を返して今来た道を戻って行った。

「あの……」
後ろから聞こえたキリンリキの声に、ギャロップは振り返る。

「ああ……なんだってんだよお前。俺を巻き込みやがってぇ……」
ギャロップはものすごい剣幕を纏ってキリンリキに詰め寄った。

「あ、す、すみません…ごめんなさい…」
詰め寄られたキリンリキは迫力あるギャロップの剣幕に思わずたじろぎながら、頭を下げて謝った。

「えっと、その……とりあえず、私の言い訳を聞いてもらえませんか…?」

「言い訳? ふぅん、そんなこと言うからには相当な理由があったんだろうなぁ」
 ギャロップは怒りの姿勢は崩さず、上から睨みつけながらさらにキリンリキに顔を寄せる。

「…えっと……えっと、貴方は、自身のその炎のおかげで、この暗い中でも周りが見えているわけじゃないですか」
 キリンリキはできるだけ冷静を保とうとしながら、ゆっくり確実に言い訳を話し始めた。

「私は貴方のように炎を纏っているわけじゃないですので、どうしても周りがよく見えないんです。…それはわかって頂けますよね…?」
 再びギャロップを怒らせないように、慎重に。――キリンリキは遠慮しながらギャロップに問う。

「なるほど……」
 なんとなく、キリンリキなりの考えがあるんだと納得出来たところで、少しは彼の怒りも棘を抜かれたようだ。その証拠とでも言うようにギャロップは一歩下がり、息が触れそうなほど詰めていた距離を少し広げた。

「で、それと俺を追いかけまわしたことに何の関係があるっていうんだ?」
 とはいえ、まだまだ釈然としない気分は相変わらずのようで、ギャロップは不満を口調の前面に押し出している。

「あの、えっと…追いかけまわすつもりはなかったんです。…ほ、本当ですよ?…本当に追いかけまわすすもりは…」
 ギャロップが信じられないというような疑わしげな表情をしているのを察知したのか、キリンリキは念を押して自分の意見を主張した。

「あいつらから逃げるのに必死だったんです。…木にぶつかったり石に躓いたりして、それであいつらに捕まって死んじゃうのは嫌だったんですよ。……誰だって死ぬのは嫌でしょ…?」

「…貴方達の炎を頼りにして、障害物に当たらないように気をつけながら必死に逃げてきたんです」

「なるほど……道連れにしようなんてのは俺の勘違いだったわけかぁ」
 必死に説明するキリンリキの表情と口調を聞いて納得しかけたギャロップだが、ふとその脳裏にある疑問が浮かぶ。

「いや、でもさぁ……それじゃあグラエナも障害物に邪魔されないんじゃないのか? むしろ、相手が躓く(つまづく)ことを期待してわざと足場の悪いところに逃げ込んだ方がよかった気も……」
 ギャロップは自身の考えが間違っていないことを再確認するように言いながら首をひねる。キリンリキを見る目にはもう怒りはこもっていなかったが、代わりに相手の知能の高さに対する疑いの目が向けられている。

「えっと…それは………………」
 ギャロップの尤もな意見にキリンリキは言葉を詰まらせてしまう。

「…とにかく命が惜しくて。…そこまで考えられなかったんです。……言われてみれば確かにそうですが…」
 キリンリキはそこで再び言葉を詰まらせる。――ギャロップをずっと見つめているのが耐えられなくなったのか、キリンリキはギャロップから目線を逸らすと、暗い表情をして俯いてしまった。

「くっ……ふっ……」
 ギャロップは口からもれだす笑い声を必死に押し殺していたが、もれだす鼻息は抑える術を知らず大きな音を立てている。

「くはは……ふっははっ……くっはははははは……」
 やがて口を押さえつけることも億劫になったように愉快そうに笑い始めた。

「ふ……なんだよそれぇ。ドジな奴だなぁ……」
 ギャロップは先程の怒り口調はどこかへ吹き飛んだように上機嫌だ。

「うん、でもあれだな。命が惜しくて必死だった割には俺のことちゃんと助けてくれたじゃないか。なんつうか……さ、ちょっと気に入ったよ。お前、名前なんて言うんだ?」
 心底愉快そうな顔を見せた後は、そう言って優しげに微笑みかける。その表情と、浴びている返り血は酷くアンバランスだ。

「な、名前ですか…?…えっと、私、リリルっていいます」
 そんなギャロップを見て若干おどおどしながらも、気に入ったと言われて照れているのか恥ずかしいのか――そんなことを初めて言われて顔を赤らめるキリンリキのリリルは、無事自己紹介ができてほっとしたのか、その後ふうと一つ溜息をついた。

「リリル……? なるほど、どちらから読んでも『LILIL』なわけかぁ……キリンリキらしい名前だなぁ。ああ、俺も名乗んなきゃな。俺はトーチって言うんだよろしくな」
 リリルの少しおどおどした表情が、トーチには可愛いという印象となったようだ。ようやく安心し、気分もひと段落したところでトーチもまたリリルがそうしたようにため息をふう、とついた。

「なんにせよ……早く、群れに戻らなきゃな。それまで、よければ一緒に行かないか……リリル……ちゃん」
 最後名前を呼ぶとき、トーチは酷く恥ずかしそうに後頭部の炎を強く燃え上がらせる。

「…?…トーチさん、ですね。…わかりました。…しかし……」
 リリルはそれを見て不思議そうに首を傾げた後、何かを考えながら中途半端なところで一旦言葉を切る。

「また迷惑を掛けてしまいますよ、絶対。…また貴方に怪我をさせるわけにはいかないですし……あっ、そうだ」
 そしてその後、トーチを見据えながら真剣な面持ちをしながら――かつ、何やら悲しげな表情をしながら――最後に何かを思い出したようにそう言うリルル。

「…今更気づいたんですが……お体のほうは大丈夫でしょうか…?……大丈夫じゃないですよね、すみません……えっと、お詫びと言っちゃあ何ですが、私に貴方の傷を治療させて下さい。…お願いします」
 体のほうは大丈夫かと聞いた後、初めてトーチの体全体を見たリリルは何故か顔を少し赤らめながら――ものすごく心配そうな表情をしながら、トーチに問う。

「ああ、そう言えば……前脚の噛みつかれた傷が結構痛いな。治療してくれるって言うと舐めてくれるのか? はは、ありがとう」
 傷を治すと言えば『舐める』ことが常識であるトーチには、リリルの真意が理解できていなかった。

「はい!?…い、いや、その…私にはそんな恥ずかしいことはできないので、えっと……"ねがいごと"という技を覚えていますので、それを使って……意外とすぐに終わりますので」
 トーチの予想外の言葉にさらに顔を赤く染めながら、遠慮がちにそう言うリリル。
 見上げるような上目遣いでトーチを見ているのはそのせいだろう。――決して自分を可愛く見せようと思ってそうしているわけではないのだが。
――トーチは上目遣いで見られるのが嬉しいのか恥ずかしいのか、自分のことを可愛いと思ってくれているのかそうでないのか――はっきりわかるほど顔を赤らめていた。彼の風貌にはそれは正直似合わなかった。

「なるほど」
 リリルの思惑とは裏腹にトーチは『ちゃん』付けでリリルの名前を呼んだことと『舐めてもらえる』とばかり思っていたことに対する気恥ずかしさに顔を赤らめていた。
――とはいえ、舐めてもらえるよりもずっと有効そうな治療ではある。"ねがいごと"と言われると、その光景は少し想像に固いが、不思議な力を使うキリンリキならではなのだろうトーチは納得する。

「ああ、そんな力を持っているんだ……なら、お願いするよ」
 そんな力を見てみたい、体験したい……そう思いながら、彼女の表情を見てお願いするのだが――彼女の上目づかいを見てしまうと、可愛さに興奮して。そして、さらに照れくさくなって顔を赤らめたり、後頭部の炎を激しくしてしまいそうだ。
 だからトーチはそれを防ごうと、『準備はできてます』という合図をする風に目を瞑った。

「わかりました。…それじゃあいきますよぉ」
 リリルはトーチのそんな行動を見て決心したのか、ふう、と大きく一息吐いた後、自身も目を瞑って精神を統一し始めた。
――彼の傷が癒えますように。
 リリルはその言葉を呪文のように心の中で何度も呟く。――心を込めて、何度も。
 尻尾はまるでその言葉を口にしているかのように、もごもごと動いている。――それのせいで集中が途切れてしまわないように気をつけながら、ただひたすら祈って。
――祈るように願って、願って、願い続けた。

 リリルが何事かを唱え始めたことに反応して、トーチは薄眼を開けてリリルを見る。まだ自身の体には何も変化は起こっていないが、彼女の頭上にかすかな光が灯っている。
 自身の鬣で揺れるそれとは違う、真っ白で揺れることのない煌々とした光――はっと息を呑むと、傷のふさがりはないものの、足のズキズキとした痛みが消え失せている。

「すげ……」
 思わず独り言を漏らしたトーチは、次にリリルを見る。必死で祈っているせいか自分には気が付いていないようで、本体の動きに合わせるように口をもごもごと動かしている様は妙に可愛らしい。
 さっきは見られていることを恥ずかしく思ったから目を瞑ったが、今度は見られていないとわかると積極的に眺め始める。

「…彼の傷が癒えますように」
 最後の一回。――彼に…トーチに聞こえない程度の声で、そう呟く。
――無事に"ねがいごと"は終了した。ねがいごとを始めた時と比べて、トーチの傷はだいぶましになった。
 成功した、と自信をもって言える。だが――

「あまり無理はしないで下さいね。――徐々に直ってきているからといって、あまりそんなことはしないで下さいね。また傷が広がってしまいますから」
 リリルはトーチに忠告すると、一安心したのか、大きな溜息を、ふう、と吐いた。

 どれほどそうしていただろうか。気がついたころには傷が塞がり始めている。傷が塞がり始めてから治っていく様を、見とれるように凝視していたトーチがその言葉で我にかえる。

「ああ、ありがとう……今は痛みも全くないけどこれから少し安静にしたほうがいいなら、少し休んでから群れに追いつこうよ」
 トーチは、先ほどリリルが漏らしたため息をしっかり覗いていた――傷を治すという行為は疲れるのだろう……というのは、なんとなくわかる。

「それに、お前も疲れたろ? 俺は起きているし、その尻尾だって起きてくれるんだろうから、ちょっと休もうか……まぁ、正直に言うと俺がこの傷を治したいだけなんだけれどさ」
 恐らくは、だが――疲れているであろう彼女の身を案じたトーチは自分の傷を治すためであることを強調しつつ、休むことを提案して少し遠慮がちな顔をして、彼女の反応を待った。

「…そうですね。…実は私はそこまで疲れてはないんですけど……休んでおきましょうか。――貴方の傷のためにも」
そう言うも、見るからに疲れているために説得力はなく――心配をしてくれているであろうトーチにこれ以上の負担をかけまいと思ったリリルは、トーチの提案に賛成することにしたのだった。

「今日は二人だけですけど、貴方が傍にいますからね。安心して眠れます」

「…ふあぁ……ああ、ごめんなさい。……強がってはみたものの、やはり私も結構疲れているようです。…すみませんが、お先に」
リルルはその後ゆっくり目を閉じ、寝る体勢に入った。――尻尾は当然のように起きていて、何かを警戒するかのように常に辺りをキョロキョロしていた。

「お休み……」
 疲れている彼女がすぐに寝に入ったのを見て、トーチは自分もかなり疲れていることに気が付く。やはり、日本晴れやオーバーヒートが堪えた様だ。
 疲れに休養をしろと誘惑され――いつもは群れの中で騒がしい雰囲気なのに、今のような静かな雰囲気を突き付けられるとその誘惑は助長される。

「あんまり熟睡するのもどうかと思うし……あんまり寝すぎないように注意しなきゃな」
 眼を瞑る前に彼女の可愛らしい表情――寝顔を目に焼き付けて、トーチは立ったまま微睡み始める。互いに今まで生きてきた人生の中で初めての二人きりの夜は、穏やかにすぎて行った。

【2】 

 しばしの眠りの後、夜は開けて東の空に太陽がまぶしく輝く時間帯。昨晩夜通し行われたリリルの『願い事』の力によりトーチの足の怪我は全快したのだが、それに時間を割いてしまったために、二人は群れからかなりの遅れをとってしまっていた。

「さて……すっかり群れから離れちまったなぁ。群れの方もまだ川は渡り切ってはいないと思うけれど……急がないと全員渡り終えちゃって二人で取り残されるぞ」
 この雨季という時期、川は増水している。えさ場を求めてそこを越えて移動する時、足を取る水流とオーダイルの大群という二重の難関が待ち構えている。
 それを破るには『数の力』を利用しなければ到底不可能だ。つまりは数千数万のギャロップやらキリンリキやら、ケンタロスやらの群れで一気に押しかけて、多少の犠牲には目を瞑りつつ駆け抜けるのだ。
 それは大変な仕事であり、オーダイルに殺されるだけではなく……ひとたび転べば後ろから殺到した仲間に踏み殺されることもあるし、将棋倒しになって他も巻き込みかねない。
 特に、ギャロップは普段は有利極まりない炎タイプである事がこの時ばかりは仇となり、毎回他の被食者ポケモンの数倍に当たる仲間を失うことになる。
 トーチには憂鬱なことであり、それ以上の現実問題として一人では絶対に越えられないことに確実性を、増す要因となっている。

「二人で取り残されたら……さすがにやばいわよね。急がなきゃ」
「ああ、出来れば雨が降る前にはな」
 二人は草原を駆け抜ける足を止めずに会話する。二人がやることは、まは最初に群れと合流すること。まず目印を見つけなければならない。
 目印というのは簡単にいえば喰い尽された草の跡だ。群れが通った後は不毛の大地が広がるばかりである。
 昨日は相当長い時間逃げていたから、それを見つけるまでにもかなりの距離を走ることになるだろう。その間、余計な体力の消費を防ぐために無駄口は慎んでいる。急ぎ足で向かっていたが為に、二人はそれなりに疲れてはいるがこれならば追いつくのは十分可能だろう。
 しかし、順調だと思って草原を駆け抜けていた二人には思いもよらない出来事が起こる。

「待ちな!!」
言うが早いか、物陰より放たれた悪の波導でいきなり歩みを止められた二人が後ろからの声に振り返った。その視線の先に見えたのは威勢のいい灰色の女性、グラエナだった。聞き覚えのあるその声と、見覚えのある顔は間違えるはずもない、昨日のリーダー格である。
 その声に続くように多数のグラエナ8~9頭ほどが……中には無理やり駆り出されたのだろうか、雄も混ざっている。

「おいおい……せっかく助かったって言うのに昨日みたいにやられたいのか?」
 トーチは虚勢を張っては見るが……空はまるで狙ったかのように――いや、実際狙ったのであろう。太陽が分厚い雲の前に風前の灯火となっている。
 空はあと数分もたたないうちに曇りから雨へと変わるだろう。
 そうなれば、サバンナで最強を誇るトーチの炎の力など何の役にも立たない時間帯が来る。彼のサブウェポンであるメガホーンも強力といえど、この数の前では無力に等しい。

「どうしよう……?」
 一頭でもその威嚇に攻撃の意欲をそがれる相手がこれだけの数いるのだ。リリルの体が縮こまり硬直していることは誰の目から見ても明らかだった。全身で汗をかける数少ないポケモンでありながらも、炎タイプであるせいか普段は全く汗をかかないトーチだが、これには冷や汗が止まらなかった。

「雨になる前に、俺が道を開く……俺が合図する前に高速移動に耐えうる呼吸*1を十分にして……合図があったらその尻尾で敵を驚かしてくれ」
 二人に対し、じりじりと距離を詰めるグラエナ達に聞こえないくらいの音量で、隣にいるリリルに話しかける。

「わ、わかった……」
 リリルが応えたその声は酷く頼りなく、それがさらなるトーチの不安をかきたてる。

「私たちの仲間を二人も殺った落とし前……きっちりとつけさせてもらうよ」
どうやら、昨日のことで相当な恨みを買ったらしい。トーチにとっては『アレは仕方がなかった』で済む問題だとしても、常に狩る側であった者たちにはそうは映らなかったようだ。

「恐怖なんて……尻尾が考えていればいい……尻尾が感じていればいい……」
  二人とグラエナ達の間で詰められた距離は、さらに狭まって行く。その間にリリルが震える声でそう唱えていると、言った回数を増やすごとに震えが小さくなっていくようだ。どうやら、その自己暗示にはそれなりに有用な効果があるようだ。
 それを見ただけでは、トーチも手放しに安心するわけにはいかないが、状況としてはいい方向へ向いている。そう思うと、僅かばかりに励みとなる。
「掛かれ!!」
    「行くぞ!!」
 グラエナのリーダー格の女が丁度群れに対する合図をいい終えたころに、トーチは叫ぶ。一瞬遅れたことに本気で自分たちの命を心配したが、嬉しい誤算があった。
「バウバウバウッ」
 リリルには、相手の声かトーチの声かを認識する余裕などなく、『掛かれ!!』の合図が聞こえた時点でありったけの力を込めて、尻尾に大声の命令を送りグラエナ達を脅かす。
 その刹那、敵は一瞬の硬直。トーチは体内で練りに練った炎の力を全力で放出しつつ駆け抜け、リリルもそれに続く。この技――フレアドライブは自身にも相応の負荷がかかる技ではあるが、この際より好みはしていられない。
 まだ太陽はかろうじて顔を出しているために、グラエナ達が触れれば一瞬で消し炭にされることは火を見るより明らかで、相手を畏怖させ退けた。
 そうして包囲網を突破した後も油断はできない。いかに高速移動の呼吸法といえど、一度走り出してしまえば徐々にその効力は失われていく。
 それまでに相手をどれだけ引き離せるかが生死を分ける要であった。

 しかし……その効力が尽きても、まだグラエナはチラリと振り返るだけで視界にきっちりと収まる距離だ。それだけではなく、(かげ)っていた空はついに雫を垂らし、トーチの体力を徐々に奪っていく。
 普通に走れば最も速く長く走れるはずのトーチの顔にも疲れが見え始めたことを、リリルはしっかり視界の端にとらえていた。

 「こうなったら一か八ね……あの丘を登りましょうよ。私に考えがあるの」
 トーチの走りが遅い。いつまでも突き放すことの出来ないどころか徐々に詰められている距離に焦りを覚えたリリルは、一気に引き離す乾坤一擲(けんこんいってき)の策を思いついた。
 おそらくは崖になっているであろう小高い丘に目線を向け、それを登ろうと持ちかける。

「何をする気だ……? あんなところに登ったら……追い詰められるだけじゃないか?」
 トーチは尋ねる。乗るか反るかを選ぶべき"あの"丘は目前だった。

「高い所からでも私のサイコキネシスがあれば安全に着地できる……信じて!!」
 二人にこれ以上の会話をする暇はなかった。彼女の妙案に、一度は呆れて笑ってしまったトーチがとる選択肢は……

「わかった、信じる」
 今度こそリリルを信じることだった。今のトーチは雨のせいででスタミナの消耗がずっと速い。
 たとえ今から一瞬で空が晴れ上がろうとも、頼りの逃げ足も地平線までもってくれないだろう。そうすれば待っているのは奴らの群れから与えられる確実な死だ。
 昨日話された妙案には重大な欠陥が見つかったとはいえ、こういった状況でも打開策を見つけて生き残る術を見つけるリリルはトーチには無い生きるための力だ。
 それだけにトーチは、リリルの奇策でも何でも付き合う他ない。どうせ失敗したところで死ぬのが遅いか早いかの違いだ。
 坂道を登る際、幾度となく躓き(つまづき)そうになりながら、二人は上っていく。そして、小高い丘の先端……断崖絶壁にたどり着く。トーチにとってはポニータの頃ならば体重が軽いおかげで安全な着地もできたであろうその高さも、現在の体重となっては脅威そのものである。

「躊躇っちゃ駄目」
 リリルのサイコキネシスはグラエナ達は決して持ち得ない力。これが成功すれば、相手に追いつける道理はない。
 崖の高さに怖気づいてはいられない。

「っ……」
「んっ……」
恐怖で息が詰まるが、互いに躊躇はしない。二人は恐怖のせいで目を瞑りたくなる欲求を押さえて、しっかりと目を見開きつつ崖を蹴り、宙を舞う。
 地面に引かれていく二人は、内臓が浮くような違和感を覚えながら落ちていく。同時に、慣れ親しんでいた地面が凶器となって徐々に迫った。
 そこにふわりと雲のように儚い感触がトーチを受け止める。サイコキネシスを使う際は作用を得る物体――今回の場合は地面との距離が近くなければその反作用を十分に受けられないため最初はそんな弱い――儚い感触だ。
 しかし、儚い感触は徐々に徐々に頼もしさを覚える感触へと様変わりし、その間隔を存分に受け止めたころにはダシッ……と、蹄が強く地面を噛み締める音を立てた。
 そのとき、脚に痛みは無かった。今回のサイコキネシスをやってリリルは疲れたかというとそれほど疲れた様子もない。
 二人は一度だけ互いの顔を片目だけで見合うと、勝利を――詰まるところの逃走を確信して、再び走り出した。


 ようやく逃げ延びた二人は、背の高い草の陰で身を潜めつつ話し合いを始める。
「どうする……俺達、群れのいる方向とはま逆に着ちゃったけれど……このままじゃもう、群れには追いつけない……だからと言って、ここにとどまれば……いずれ奴らの餌食だ」
 これではどうしようもない状況であった。群れには追いつけない、ここには居られない。困窮した表情でトーチはリリルを見る。

「どうしよう……」
 こんな状況は生まれて初めてで、リリルも相当困窮しているようだったが、しかし、必死に何かを考えている様子であった。そして――
「…もし川を渡るんなら、とりあえず食べられないようにすればいいんだよね。…うーん……どうにかして、オーダイルと仲良くなれないかなぁ?」
 しばらく考えた末に出した結論。――それは、トーチの想像を遥かに上回る、予想だにしない考えであった。

「いやいや、あのね……」
トーチは脚の力が抜けそうになるのをこらえながら、冷静に突っ込みを始める。
「仲良くなるっていったって……俺達は奴らには獲物としか見られていないんだよ。こんなこと言うのもなんだけれどさ、俺たちを助けるメリットてものがなきゃ……仲良くなるにもきっかけがないと俺達はただの餌なわけだし」
 リリルが妙案を思いついた時、途中まで期待した自分が馬鹿らしく思えてトーチはため息をつく。
「とにかく、その案はダメ。別の案を考えよう」

「ええ、そんなぁ……せっかくいい考えだと思ったのに」
リリルは自分の考えに自身を持っていただけあって、それをあっさりトーチに否定されてしまった所為か、とても不満そうに文句を言う。
「…メリット…メリットねぇ……」
そしてその後、トーチの言った言葉の中の、メリットという部分に着眼しながら、再び何かを考え始める。そして――
「あっ、そうだ。――それならさ、何か私たち以外で、食べれるもの――ほら、丁度いいのがあるじゃない。――食料渡す変わりに、川を渡して欲しいんだって、交渉できないかな?」
 再び新たな考えを、トーチに提案する。――またしても予想外の提案に、トーチは目を丸くして驚いた。

「いやいや、それは……? まてよ、食糧……ちょうどいい……なるほど。まるで奴ら肉食ポケの真似ごとになる……が、それしかないな」
 トーチはリリルに目を合わせて、真剣なまなざしを向ける。
「なぁ、リリル。俺達は今まで専守防衛……手を出されなきゃ手を出すことは無かった……が、いいんだな?
 俺達を探しているだろうあいつら……奴らグラエナの一匹を狩ってそれをオーダイルに差し出すんだ。奴らの真似ごとをすることになるけど、いいな?」
 トーチは、すぐに腹をくくる。しかし、自分にそれが出来たとしてもリリルには能動的に命を奪う覚悟があるかどうかは分からなかった。
 だから彼は、リリルに真剣に問いかける。実行する際に怖気づかれては元も子もないから――と考えて。

「えっ、いや、そんな……」
 リリルはそんなトーチの問いかけに戸惑いを見せる。――やはり、そういう経験がないからだろう。
「…いや、やっぱり抵抗はあるよ?…そんな言い方されちゃうと、正直困っちゃうんだけど、でも――でも、私が言い出した事だし、ここでいつまでも悩んでても仕方ないし。――大丈夫、やれる」
 しかし、リリルはそう固く決心したようで、その目は自信に満ち溢れていた。

「分かった……心配するな。俺だって、襲われているわけでもないのに、誰かの命を奪ったことはない……だから、お互い初めて同士だ」
 眼をそらしたトーチはどこか悲しそうな表情を浮かべ――だが、その表情はすぐに取り繕って、もう一度リリルと目を合わせる。

「奴らはきっと、群れが川を渡り切る前に追いつけないように、わざわざ俺達に後ろを振り向かせて……さらには群れのいる方向とは反対側を手薄にした。
 だからこそ、きっと奴らはまだあきらめちゃいない。どこまでも追い続けて仕留める気でいるはずだろう。
 でも、逆に狙われるなんてことは全く考えていないはずだ――俺たちと違ってな。そこに隙がある……その隙をつけば出来る……だから、生き残れるはずだ」
 トーチは、自分自身にも言い聞かせるようにリリルに話す。自信をつけてもらうためにも、自分を奮い立たせるためにも言わずには居られなかった。

「…失敗なんかしないよね。――いや、疑っているわけじゃないんだよ?――ただ、やっぱり不安でさ」
 リリルは、いくら自信に満ち溢れているからといって、やはり不安なようで。――しかし、そうする決心は確実についていた。

「私たちなら絶対大丈夫。――絶対にね」
 そしてリリルも、トーチがしたように、自分自身にそう言い聞かせるようにそう話す。
 トーチは彼女のそんな言葉にようやく安心したようで、安堵の表情を浮かべる。――リリルもそれにつられて笑顔になった。

「わかった。それじゃあ行こう……」
 トーチは身を隠していた背の高い草の陰から立ち上がり、リリルにも立ちあがるように眼で合図する。

「うん……」
 その合図に応じてリリルも立ちあがり、隣に並んで歩きだした。
「奴らが俺達を探しているなら、多分方々に散らばっていると思う。大きな群れを探すってのとはわけが違うからな……だから、相手が一人でいるところに、仲間を呼ばれる前に襲うことになるけれど、リリルは何か相手の動きを止められる技ってあるかい?」
 標的を探しつつ歩きながら、トーチは尋ねる。

「えっと……草結びって技が使えるんだけど、どうかな?」
 リリルも標的を探しつつ歩きながら、使えそうな自分の技を上げて提案してみる。

「…相手の動きを止めるにはそれが一番使えると思うんだ」
焦ったりしない限りは、成功すれば確実にそうできると自信を持って言えた。――だから、出来るだけ、その技に自身があるんだ、と言いはしなかったものの、目や口調でそれを訴えた。――これで、トーチも余計な心配をしなくて済むだろう、と考えてのことだった。

「そんな技がまで使えるのか……。そうだな、足を引っかけたりする技だとすれば……確かに使えるはずだ。奴ら肉食の奴らには使えない、全く経験したことのない技だろうし……な」
 トーチは勝算が出たような気がして、これから仮の真似ごとをするというのに心が落ち着いていくのを感じた。

「よし、もし獲物を見つけたら俺の合図と一緒に飛び出して射程圏内に入ったら速攻でそれをやってくれ。相手が何もできないうちに俺が……汚れ役は俺が引き受けるから」
 なんとなくだが命を奪う事に慣れてしまった自分を後ろめたく感じながら、彼女にはそうあって欲しくないという願望も含めてトーチは最後のセリフを言う。

「頼んじゃって……いいのかな…?」
 彼のそんな気遣いを察してるのかいないのか、少し遠慮しながら彼に質問するリリル。

「…ただ、精一杯援護するから。……それで充分かな?」
 そして心配そうな表情で、そんなこともトーチに問いかける。――自分には本当にそれだけしかできないけれど、本当に一生懸命やるから。――そんな想いを込めて、今までで一番強い眼差しで、リリルはトーチを見据えた。

「大丈夫」
 トーチは一言だけ言って、小さく頷く。まだ二回しか窮地を乗り越えていないが、どちらかと言えば窮地を乗り越えるために強力な火力を必要とする時はどちらもトーチで、サポートはリリルだった。
 二度あることは三度ある――と言えるような確信がトーチの胸にはあって、それはリリルの眼差しでより強くなった気さえする。

「精一杯やってくれれば……きっと俺が成功させる。だから……な、頑張ろう」
 リリルに負けないくらいの眼差しでトーチは見つめ返すと、リリルもまた小さく頷いた。


 そして二人は、堂々と姿をさらしながら歩いているグラエナを発見する。まさか自分が襲われる立場にあるとは夢にも思っていないのだろう。
 その油断をつけば脆いものだと、そういうものだと自己暗示するように、二人は草影の中から息を潜め燃える鬣の火力を抑えつつ相手がこちらへ向かってくるのをひたすら待ちかまえている。

「相手が近付いてきた……もっと距離が近くなったら、『今だ!!』で飛び出すからな……練習はできないぶっつけ本番だが……心の準備はできているな?」
 
「ええ、もちろんよ」
 彼女にしては珍しく、ためらった様子も見せずに即答する。――きっと心の中で、呪文のように何かある言葉を唱えていたのだろう。

「きっと大丈夫。――そうでしょ?」
 リリルはトーチに問いかける。――心からそう信じていないと、やってられないような、そんな気がして――トーチに同意を求める。――答えは解りきっていたが、そうすることで少しでも自信が付くように、と思ってのことだった。

「ああ、大丈夫だ。俺達……以外といいコンビかもしれないからな」
 声をひそめてトーチは言う。深呼吸して心を落ち着けながら、トーチは時が来るのを待ち続けた。そして、数秒とも数分とも思える沈黙の後、攻め時――と言えなくもない距離まで相手が迫る。

「リリル……3・2・1で飛び出すからな?」
 小声で話しかけると、リリルはトーチの方を見向きもせずに小さく頷いた。その視線はグラエナを、その耳はトーチの言葉だけをとらえるように研ぎ澄まされている。

「……3……2……1……今だ!」

「よぉしっ!」
 そして彼の合図と共に、自分に気合を入れるかのようにリリルはそう言って、素晴らしい反応でそこから飛び出した。
 びゅうびゅうと風を切りながら、精神を集中させて突き進む。――心の中では、落ち着いて、落ち着いて、と何度も唱えて、絶対に焦ってしまわないように心がける。

 大声は出さない。それで一瞬でも早く相手に気がつかれては困るからだ。ただ、それでも駆け抜ける足音は非常にうるさく感じられてしまい、すぐに気が付かれそうな気がして不安になる。
 だが走り出した今、もう後戻りする暇はないのだ。加速を10歩うちに済ませるいトーチは、リリルに先行するように頭一つ、半馬身と差を広げる。差を広げながらも、まるで隣にいるようなその頼もしさを信じて、振り返ることも歩調をリリルに合わせることもなく突き進んだ。
 メガホーンを行うために顔を伏せる直前、最後に見たグラエナの顔は明らかに自分たちに気が付いていた。躊躇うな、と言い聞かせて、最後に気配を感じた方向へ、リリルの草結びが成功したことを信じて、その角をまっすぐと走らせる。

 トーチが狙いを定めたグラエナに、草結びを繰り出したその瞬間、そいつはそれに見事に引っ掛かってくれた。
 そして足止めを喰らって動けなくなったグラエナを、トーチはそのままの勢いで、その鋭い角でそいつを一突きする。――生々しい音と、何ともいえないグラエナの声に、殺してしまったということを嫌でも実感する事になる。
 しかし、そんなことは考えれていられないので、必死でそれを頭から振り払う。

「ハァ……ハァ……」
 大して長い距離を走ったわけでもないのにトーチは息切れをしていた。初めて能動的に命を奪ったことに対する罪悪感のようなものがそうさせるのだろうか、叫び声をあげる前に仕留めたというのに、最後に聞かされた断末魔が耳に張りついて離れない。
 だがそれは今は考えている場合では無いと、トーチは大きなため息とともにすべてを意識の外に追いやる。死体を角から取りはずし、滴る(したたる)血を乾かす様に頭の火力をあげてリリルの方を向く。

「仲間が来る前に川まで行こう。この死体は俺が背負っていくから、背中に乗せてくれるか?」
 それまで張りつめていた緊張の糸が半ば切れかけているのか、トーチは力なくリリルに頼む。

「大丈夫?…乗せるよ…?」
 そんなトーチを心配そうに気遣いながらも、言われた通りにするために、優しい口調でそう聞く。
 自分には何も出来なくて、ただ、彼を心配するとかできるだけ優しくするくらいしか思いつかなくて――そんな無力さに嘆いている暇などないため、ああ、と静かにトーチがそう言ったのを確認してから、それを彼の背中に乗せる。
 まだ血の匂いや開いた傷口なんかに抵抗があって、危うく吐きそうになるが、なんとか抑えて……

――すまないな

と言われて、

――気にしないで、さあ、行きましょう

 と彼の背中を――今は塞がっているが――そこを押すように、出発を促す。
 間もなく、川への道のりを二人で走り始めた。

【3】 

 二人は生臭い血の匂いを漂わせながら、川へと向かっていた。

「リリル……悪いが、ちょっとだけ黙っていてくれ。お前が喋るとボロが出そうだから……すまんな」

「そ、そんなぁ……」
 リリルは少しバツが悪そうに不満そうな顔をしたが、自分の言動が2回ほど彼を呆れさせてしまったのは事実なのだ。

「あ~……そう言われてもなぁ」

「わかったわよぉ……その代わり絶対成功させてよぉ」
トーチが困ったような表情をすると、それを察したのかリリルも素直に言う事に従おうとしたのだろう。

「わかってる……ふぅ」
 トーチは深呼吸で心を落ちつけ、一歩また一歩と歩みを進める。自分たちが目指す川にオーダイルがいなければどんなにいいことか。
 そんな自分の脳内の夢想だけが右往左往しながら、たどり着いた川には案の定いた。大きさから考えればオーダイルではなくワニノコだが、発見されて仲間を呼ばれればそんなことは関係ない。
 逃げる気はないからゆっくり歩いていたこともあるが、あっという間に川は水色で埋め尽くされた。どうせ急いでいてもたどり着く前にはそうなっていただろうから、関係のないことだ。

「大丈夫なの?」
 リリルが心配そうに尋ねると、トーチは自信たっぷりに……

「分からない。相手が俺を信じるかどうか……だな」
 と答えた。本当に分かっていないようなのだがその顔には、

――なるようになるさ、今までもそうだっただろう?


そう言っているようにも見える穏やかで落ち着いたような表情を浮かべている。

――それでダメなら、それまでだ。それが生きるってことだろう?


そう聞こえたような気がした。自信ではなく、死に対する恐怖は捨て去りすべてを運命に任せたからこそ見せられる表情なのだろう。いつ死ぬかも分からないことにはいつも怯えていたが、目の前に死があることでなぜだかそれを受け入れられるような、そんな気がした。

「そう、わからないんだぁ……じゃあ、信じてほしいね。私も信じるから……」
 リリルもそれを理解したのだろうか。自棄糞(やけくそ)になって強行突破すれば二人とも死ぬけれど、今回は生き残るのも死ぬのも二人一緒だ。
 思えば、この短い期間に3回の失敗が許されない場面を乗り越えてきた二人は、互いがどうしようもなく必要な存在に思えて、最早一人では生きていけない気がして、どんな形であれ一緒であるというフレーズが、二人をこうまで不思議な気分にさせている。

「お前が信じたって意味がないだろう? まあ、いいか……おそらくは、これが最後の試練だ。乗り越えてやろうぜ」

「うん。じゃあ私……もう喋らない。トーチ……頑張って」
 死を覚悟しているからだろうか、おどおどした表情では怪しまれるかもしれない……という意味では間違いなくプラスに働いたことだろう。二人の自信に満ちた顔は演技では無い。
 おそらく最後になるであろう失敗を許されない死地に、二人は飛び込んだ。

「オーダイル達……この川に住むみんな……聞いてほしい事がある」
 餌が一頭で何をしに来たのかとざわめいているオーダイル達はどよめいた。この川を渡るなら死ぬ覚悟をしておけとか、そっちの姉ちゃん旨そうだとか、聞くに堪えない声が飛び交う。
 さっきまでなりをひそめていた恐怖が、少しづつ浮かび上がりそうになるのは、リリルもトーチも同じだった。

「聞け!!」
 一喝するように大きな炎と大声を上げるとオーダイル達は黙り、代表するように屈強そうな個体が話しかける。

「聞いてほしいことってななんだ? 言っておくが、どちらか一人が犠牲になるから、もう一人を生かしてくれなんて寝言は聞かないぞ? 二人ならお前らをまとめて仕留めることも容易いのだからな」

「そうか……それは残念だ。見ての通り、グラエナの死体を用意している……今持っているのは一頭だがとある場所に大量に……大人4匹子供8匹、群れの半分以上の死体を隠している。
 お前らには絶対に見つからない場所だ。その隠し場所と交換で、俺達の命を助けちゃくれないか?」
 これは本当のことなんだ、そう言い聞かせるようにしてトーチは大ウソを語る。

「どっちが得かは、考えてくれ……俺を喰うか、渡り切った後で……その隠し場所を教えてもらうのとどっちが得か……考えてくれ」
 ここから先は、二人の運任せだった。長い沈黙は耐えがたく、心臓が高鳴り足が震えそうになる。それを救ったのは先ほどのオーダイルだった

「通せ。全員それで文句はないな?」
 威厳にあふれた声でそう言った。二人はほっと息をつき……ゆっくりと川を渡り始める。
 トーチは泥と水という苦手な感覚に顔をしかめながら。リリルはただひたすら、黙っておこうと歯を食いしばりながら。
 二人が川の中ほどまで到達すると先程のオーダイルがリリルの後を付いてくる。他の者に手を出させないように威嚇するようなその威厳は、恐ろしくも頼もしい。

 やがて、川から上がった二人にオーダイルは小さな声で二人に話しかける

「どうしてこんなことをする必要があった? どうしてウソをついたり、グラエナを殺す必要があった?」
 すべてを見透かすようなオーダイルのセリフに二人は背筋を凍らせる。

「嘘だって分かっていたなら何で……」
「身構えるな。この時期エサなら向こうからいくらでもやってくる……まだ、喰い尽されてなくて残っているからお前らの言うことが嘘でも問題はない。
 だからな……聞かせてくれないか?」
 
「私たち……」
 喋らないと約束したはずなのに、リリルが先んじて話し出す。このオーダイルにならば、ボロを出しても構わないだろうと感じ取ったのだろう。トーチも同じ気分だったから止めなかった。
 例え襲われるにしても、陸上に上がった今ならば逃げきれる自信があったことも大きい。

「グラエナに恨みを買って追い回された揚句に群れからはぐれて、こうでもしなければ……川を越えられなかったから。だから、生まれて初めて……自分から攻撃したの。私が動きを止めて、彼が角で刺し貫いた……あとはここを越えて群れに追いつくだけ」

「そう言うことだ……」
 トーチは命を奪ったことに対する罪悪感と嫌悪感を思い出してしまったのか、塞ぎこんだような表情をする。

「ふぅん」
 オーダイルが納得したように、微笑んだ。

「そうか、大変だったな……普段やらないことをやってまで、生き延びようと頑張って、そんでお前らそんなに仲よさそうなのか?」
 仲がよさそうという言葉で、二人は初めてそう言う目で意識して見合わせる。

「気が付いて無かったって顔だな? まぁ、いいか……お前らの嘘に乗ってやった対価はその話で十分だ。後のことは任せろよ、さっき言った理由で群れは今穏やかだ。 ちょっとくらい批難されるようなことはあっても制裁受けるなんてことはないだろうから……心配すんな。たまには敵に助けてもらうのもいいものだろ?」

「あんまり……大きな声で言えないのが心苦しいけれど……ありがとう。」

「私からも……ありがとう」
 二人の顔には涙が浮かんでいた。川の中ほどで、『実は通すつもりはありませんでした』と言えば最後の最後で失敗が確定していたというのにそれをあえて嘘に付き合ってくれたオーダイルに、感謝してもしきれなかった。

「それとだ……グラエナを殺したことに関しては気にするな? そんなもの気にするなんて親切すぎるぜ……だから、大丈夫。気にせず群れまで突っ走れよ。
 さぁいけ!! あまり長く話していると怪しまれる」

「本当にありがとう」

「ありがとう」
 二人はオーダイルの言葉に大きく頷くと、身をひるがえして草がまばらに食べられている草原を駆け抜けて行った。その先に自分たちの帰るべき群れがあると信じて。


「俺達……これで群れに追いつけるかもな」
 トーチはようやく何もかもから解放されたことに喜びながら、今までで一番輝くような笑顔でリリルに振り返る。その時のリリルの嬉しそうな表情を見て、先ほどオーダイルから言われたこと、『仲がよさそう』という言葉を思い出す。
 それを意識してみると、今まで以上にリリルが可愛く見えて、顔がニヤついてしまいそうなのが恥ずかしくて、思わずトーチは前へ向きなおって顔を伏せる。

「…これも全部トーチのおかげだよ。……今まで本当に色々とありがとう」
リリルはトーチのそんな行動を不思議そうな表情で見ながらも、あまり気にしようとせず、再び笑顔になりながらそんなことを言う。
当然トーチはその言葉でさらに恥ずかしくなったのか、あの熱気が立ち込めてくる。

「なぁ……俺達さぁ。オーダイルに仲がいいって言われたよな。俺達ってそんなに仲いいのかな?」
 何度も感じたこの熱気――今の言葉でさらに勢いを増した、自分の鬣が強く燃え盛る感覚。群れにいれば、年ごろを迎えた男女を見ていれば何度でも見ることが出来る現象だ。それが昨日自分にも表れてから、なんだか落ち着くたびにずっとこの調子な気がする。
 自分の中でくすぶっている感情がなんであるか分からず――ただ一つ分かるのは一緒にいたいという気持ちだけだ。それで、リリルも同じ気持ちなのかと気になってトーチはリリルに尋ねる。

「さあ、どうなんだろう…?…やっぱり、気が合うしさ、そう見られてもおかしくないんじゃないかな。――私は、仲がいいんだと思ってるよ?」
 リリルもトーチと同じように、彼と一緒にいたいという気持ちがあるのは自覚しているが、それ以上の想いにはまだ気付けず――ただ、彼の言葉にそう答える。

「そっか……仲がいいのは確かなんだろうな」
 そう言って、トーチは同じ気持ちなのかな……と安心しつつ、何気なしに空を見る。見ておれば、分厚く重たい雲頭上に迫っていて、夕暮の空を覆い尽くそうとしていた。

「もうすぐ……雨が降るな」
 トーチは雨が来ることを憂鬱に思いながらリリルを見る。何を思ったのか、トーチはそのまま体をぴったりとくっつけるようにリリルと並ぶ。びっくりした様子でトーチを見つめるリリルに、トーチは一目で分かるくらい照れながら言う。

「昼間ならともかく雨で体が冷えるといけないから……な」

「え、えっと、その……う、うん」
 リリルは戸惑いながらも、嫌そうにはせずむしろ嬉しそうにして、恥ずかしそうにトーチに寄り添う。

「…あったかぁい…」
 そして、甘えるような、感動したような声でそう言う。――トーチは、危うくあの熱気を立ち込めそうになるのだが、何とか押し留める事ができて、ほっと一息ついた。

「じゃあ、行こう」
自分より体温が低いはずの彼女と触れ合うことで与えられる温かみ。おそらくは熱が籠ることでそうなるのであろうが、それだけじゃなく、確かな熱が自分の中に。
 降り注ぐ雨は冷たくて確かに不快だったが、それもリリルをこうして隣において歩いているとどうでもよいような不思議な気分を感じて、リリルはどうなんだろうと横目でちらりと彼女の表情を見る。

 リリルは、ただ彼に身を任せるように寄り添っているだけで――少し慣れてきたようだが、それでもやはりまだ恥ずかしいようで、顔を赤らめていた。
 トーチに見られていることには気付いていないようで、何だか心地よさそうにしていた。――それを見て、トーチのほうも若干の心地良さを覚える。
 癒されるようで、ずっと見ていたいという思いが込み上げてくるが――そんなこともできないので、それを抑えて、再び前を向きなおすのだった。

 それぞれの思惑を胸に、しばらく寄り添ったまま進んでいた二人の前に。大きな穴が姿を見せた。

「こりゃ運がいい……ディグダ達が掘った穴じゃないか。中には……あんまり何かいる気配みたいなものは感じないし、少しお邪魔させてもらおう」
 暗い穴。リリルも一人なら戸惑ったであろうが、トーチの炎が灯りとなって仲が明るく見渡せることに安心してトーチの後ろへと付いていく。例え雨季といえど乾燥地であるサバンナは温度の変化が激しい。
 いつの間にか日は落ちて(とばり)をおろした夜ともなれば、徐々に気温は下がっていく。だから、雨がしのげてそれでいて熱が籠ってくれる洞窟という環境がリリルには嬉しかった。

「大丈夫か、暑かったら言えよ?」
 すっかり安心したのか座り込んでしまったリリルにトーチは話しかける。

「うん、ありがとう。…ちょうどいいくらいだから、心配しないで」
リリルは遠慮なしに、正直に――トーチに感謝の念を込めながらそう言う。

「…………」
そ、そうか、というトーチの言葉――その後、何を話せばいいのかわからず、お互い沈黙の状態が続く。――無性にどきどきしてきて、顔が赤らんできて――長い沈黙を破ったのは、トーチだった。

「なぁ、リリル……これから俺達群れに追いついたらさ……俺達ギャロップの群れとは移動の速さが違うから……お別れになっちゃうな」
 言い終えて、トーチは気まずそうに口をつぐむ――だが、沈黙に戻してはいけないと、数秒経って再び口を開いた。

「そうしたらさ……俺達、今回の出来事をどういう風に話したらいいと思う? こう、ものすごい冒険談になるのかなぁ?」
 あまり心のこもっていない口調でトーチは言う。心は別の場所――雨が降りしきる外を見て、この短い雨が止んだら――と、その先の事を考えている。

「人気者になるのか、それとも誰も信じないのか……本当にどうなるだろうな。ちょっと楽しみじゃないか?」

「ああ、言われてみれば……うん、ちょっと楽しみかも」
トーチの言葉に目を輝かせながらそう応えるリリル。――トーチが考えているように、雨が止んだ後の事は考えていなくて、今この時を精一杯楽しんでいるようで――

「…信じてもらえるといいね」
そうして、心からそう言う。――ああ、と笑顔でそれに答えるトーチに釣られてリリルも笑顔になった。

「一人じゃ……」
 リリルの言葉から、トーチは思案を巡らしてぼそりと呟く。なんだろうと、疑問符を浮かべたような顔をするリリルをよそに、トーチは続ける。

「一人で言っても……信憑性はないよな……だったら二人で一緒に語ったら……て、俺は何馬鹿なことを言っているんだ。それじゃお前を群れから離して連れまわしちゃうってことじゃないか」

 自然と意識していない願望が口に出てしまって、トーチはその思考を馬鹿なことと一蹴する。トーチは自分の本当の気持ちにはもう殆どたどり着いている。
 だからこそ、トーチはリリルに聞く。

「……リリルは嫌だろ。群れから離れるなんて?」

「…そりゃあ群れから離れるのはやっぱり、ね……でもさ…えっと…」
 リリルは申し訳なさそうに、しかし最後に言葉を濁しながら――最終的には中途半端なところで言葉を切る。

「……そ、それもいいかもしれないなぁ」
 そして、顔を赤らめながら、彼から視線を逸らして何処かを向きながら、意味深な発言をする。
――リリルもトーチと同じく、自分の本当の気持ちに気付き始めていた。

「それってどういう……」
 トーチは、その先の言葉が出ずにはっと息を呑む。

「一緒に……居たいのかな……俺達?」
 思っていることが言葉に出すのが恥ずかしくて、酷く不明瞭で小さな声だったかもしれない。

「出会ってから。今までみたいに二人で……さ」
 それでも、リリルには聞こえていたのだろう。リリルは聞こえなかった部分を相手の表情を見て補うように、トーチの事を見つめていた。

「そう……なのかな、この気持ち。……うん、きっとそうだよ」
 そして少し悩みながらも、最後にはそれは消えて真剣な表情で、自信を持って――
 リリルはそこまで恥ずかしそうにはしていなかったが、トーチの方は、そんなことをはっきり言われるとは思っていなかったため、とても恥ずかしそうにしていた。

「…よければずっと一緒にいてくれないかな、トーチ」
そんなことお構いなしで、さらにトーチを恥ずかしがらせるような一言を――最初はトーチを見据えていたが、恥ずかしくなって目線を逸らしながら、リリルが言う。

「……今までのお前の考えには何回か呆れたことがあるけれどさ」
 また呆れられちゃうのかなぁ……と、リリルは心配そうな表情をする。トーチはそんなリリルに笑いかけた。

「嬉しく思ったのは……始めてだな」
 そう言って、トーチは恥ずかしさのあまり顔を伏せた。どちらも照れが最高潮に達していて、お互いの顔を直視できない。このままどれほどの沈黙が流れるのだろうとお互い思っていた。
 ただ、沈黙の長さを心配する以外にも、互いに雑念のようなものはあったのだろう。

「ひゃわぁっ!!」
 太ももの近くに不意に走った感覚にトーチは飛び上がる。それが舌が這う感覚であるとわかり、感覚を与えたのがリリルの尻尾である事は、彼女の尻尾が口をもごもごとさせていることで分かった。

「な、なんだよ……何か美味しい草を食べる想像でもしていたのか?」
 ビックリして取り乱している内心をひたすら隠す様に、トーチは尋ねた。

「え、えっと、ごめん…その……こんな雰囲気だからさ。…キスするとこ、想像してたんだ」

 言った後、リリルは熱気が伝わってきそうなほど顔を真っ赤に染めて俯いた。

「最低だよね。――ごめん」
 そしてそういう声は震えていて――目には涙が浮かんできていて、体も微かに震え始めていた。
 それで、幻滅されたのではないか、と不安で仕方がなくて、俯いていたので無意識に上目遣いで、様子を窺うために彼を見る。

「いや……」
 彼女の魅力的な上目遣いにトーチは口ごもった。

「その……少し嬉しかったし……俺もちょっとだけ似たようなこと考えてた。それがさ、無意識に出ちゃったんだろ……尻尾が動くってことはさ?
 だったら、その……それだけ俺の事を思ってくれてるって証拠じゃないのかな? いや、俺はいいと思うよ……リリルとならさ。なんだか、両想いみたいだし」
 言っていて、ものすごく恥ずかしかったのかトーチは思わず鬣の火力を上げた。
 熱いと感じさせるほどではなくとも、明らかにリリルは暑いであろうから、なるべくリリルにピントを合わせないようにして、深呼吸した。

「えっと、えっと…と、トーチも私のこと、そこまで思っててくれたんだね……す、すっごい嬉しいよ」
 トーチのおかげで熱いのは確かだったが、それ以上に自分が熱くて――トーチが発する熱は、あまり気にならならなかった。
 ただ、自分が何を言っているのかもはっきりわからなくて、とにかく恥ずかしくて――

「こんな私で、本当にいいの…?」
――必死に心を落ち着かせて、念のためにそう聞く。――自分は彼に相応しくないんじゃないか、と不安だったのだ。

「今まで……二人で一緒に乗り越えてきてくれた……リリルだから。そう、リリルだから」
 不安そうにする彼女のすべてを受け入れようと、トーチはしっかり目を合わせて言う。

「だからそんなに不安そうにしないでくれ。もしリリルでダメだったら、今頃グラエナかオーダイルの胃袋の中さ。ここまで生きてこれたのはリリルのおかげだろ?
 俺達は一人じゃ生きていられなかった。二人で一つなら……少しの間くらい本当に一つになったっていいんじゃないかな?」
 そういって、トーチはそれっきり黙って、そっと顔を近寄らせる。準備は出来ている――そう言いたげに。

「いい、のかな…?……いいんだよね。…うん、一つになろう?」
 リリルは少し迷いを見せたが、最後には顔を赤らめながらも真剣な面持ちで――少しの間トーチを見据えた後、目を瞑ってゆっくり顔を近づけていく。
 彼の熱い息が何度も頬に拭きかかってきて、くすぐったい。――笑ってしまわないように気をつけながら、本当にゆっくり顔を近づける。そして――
 トーチとリリルの唇が重なった。――しばらくその状態が続き、それ以上は何も発展せず、お互い口を離した後、少し見つめ合ってから恥ずかしくなって目を逸らす。
  その後、何か言おうにも言えなくて、お互い無言の状態が続いた。

 トーチは口づけの余韻に浸りながら考えていた。これで終わりなのかな……と。あまりにその思いが強くなったのか、それは自然と口に出てしまい

「これで終わりなのかな……」
 憂いを秘めたさびしげな口調で、ぽつりと。
 リリルが首をかしげたのを見て、ようやくトーチは自分の失言に気が付き、そして照れから顔を伏せる。

「いや、その……キスだけがってわけじゃないけれどさ、これだけしかいい思い出って感じな物がないような気がしてさ……さっきは『これからも一緒に居たい』みたいなこと言っていたけれどさ……それでも、な?
 だから、これが最後の思い出になるのかと思うと少し寂しくって……それだけ。ああ、気にしないでくれよ……これ以上望むことなんて、贅沢だし」
 言っているうちに、その結論がとどのつまり性的なことになるのを感じて、トーチは言葉を濁す。そして、濁し切れていないと思い、そのまま恥ずかしそうに顔をうつ向かせてしまった。

「…これが本当に最後に思い出になるんなら、やっぱり最高の思い出を作りたいよ。…でも、その……ごめん、よくわかんないや…」
 そんなトーチを見つつも、やけに冷静に――どうやらリリルは、トーチの言いたい事がよく理解できていないようで、申し訳なさそうにそう言った。
 トーチは恥ずかしさも忘れて目を丸くして驚いたが――若干呆れたような表情も見せた。そして、再び顔を赤に染めながら、どう説明しようか必死に考え始めた。

「ああ、もう……」
 少し自棄(やけ)になりそうにもなったが、なんとかそれを踏みとどまってトーチは言葉を選び始める。

「ほら、あれだ……キリンリキの場合、男同士で首をぶつけあったりとかするだろ? ああやってその……強さを見せつけて異性を勝ち取ったりするわけだけれど……あの後にする……その……要するに……
 ああ、もう!!」
 トーチの鬣から火柱が立ち上る。

「男の悲しい(さが)だよ。女の子を見ちゃうと、そう言う風にしか考えられないんだ……」
 言い終えて、トーチの火はさっきと打って変わって弱々しくなる。

「これで分かったろう……?」
 ものすごく恥ずかしかったのか、少し泣きそうな表情でリリルを見る。

「え?…えっと、つまり、その……」
 リリルは本当に申し訳なさそうにしつつも、最後に言葉を詰まらせて何かを考え始める。そして――

「だから――だから、さっきキスしたじゃ……それで終わりなんじゃないの…?…そういう風に考えちゃうって、他に何か色々あるの…?」
 トーチと同じように泣きそうな表情をしながら言う。――トーチはとうとう呆れて、お前はどれだけ鈍感なんだよぉっ、くそっ、と顔を赤らめながら言う。そして――

「ああ、もう!! せっく、……せいこ……こ、こ、こ……交尾だよぉ」
 トーチは言葉を選んで、それでも言葉を選ぶ意味なんて元からなかったかのように、結局ものすごく恥ずかしかった。

「ああ、もう……普通気づくだろうよぉ」
 などといいつつ、本当のところはトーチに経験はない。けれど、なんどか行為を目撃してはああうらやましい、いつかは俺も……と思っていたものだ。

「で、どうなの? もう、ここまで言っちゃったんだから聞くことにするよ……」
 トーチは力なく聞く。

「結局のところ、俺とそう言うことするのはいいのか? ダメなら正直に言ってくれても構わないけれどさ……」
 ただ、最初こそかなり恥ずかしそうであったが、言葉にするうちに吹っ切れたのであろう、最後の方は恥を捨てているような口調だった。

【4】 

「…それじゃあ、言葉に甘えて…その……断って、おこうかな」
 リリルは遠慮しながらも、はっきりとした口調で言う。――その瞬間、トーチは再び呆れたような表情を見せるが、今度はやるせないような表情に――
 せっかく意を決して言った恥ずかしい言葉も無駄に――と思うと、悲しくなってきて――暗い表情で俯いたまま、何も言わなくなってしまった。

「あの、その…冗談のつもりだったんだけど……ごめん、ほんとにごめん。……私、トーチとそういうこと、したい…」
 そんなトーチを見てリリルは申し訳なさそうに謝ると、だんだん顔を赤らめながら、それでも真剣な表情をしつつトーチにそんな事を言う。
 トーチはリリルの予想外の行動に驚かされるばかりで、しばらく状況を掴めなかったが――徐々に明るい表情になって行く。そして――

「いいんだな……?」
 確認するように言った。そして、もう一度唇を寄せキスをするように無言で促した。今度はリリルの方にもほとんど抵抗が無いようで――むしろ積極的で、木の葉を絡め取る為の長い舌をトーチの口の中へ遠慮なしに絡める。
 トーチは自分のそれとは違う長い舌の感覚に驚いて目を丸くしながら。それでいて感触を楽しみながら小さな水音を立て合っている。

 そうして、長いこと口づけあった二人は、程なくしてディグダの穴で体を重ね合わせた。たった数日間だが、共同で視線を乗り越えて築き上げられた絆を確かめ合うように。

「トーチの体……すごく熱かったね」
 ことが終わると、リリルは思わずフレアドライブしてしまいそうなセリフをトーチへと告げる。

「それは炎タイプだからだよ……きっと」
 トーチは火力を上げつつも、照れ隠しにそう言って見せる。それに合わせてリリルが『炎タイプでよかった』などと言うものだから、余計に恥ずかしくなって火力が上がってしまう。

「なんにせよ……さ。さっきの言葉が嘘じゃないなら……どちらかが、違う群れの中で暮らさなきゃならないんだよな?」

「うん…そういうことになるね」
 リリルはまだ顔を赤らめていたが、落ち着いた様子で話す。

「――私がトーチの群れに入るよ。……今まで迷惑掛けてばっかりだったからさ」
  自分がトーチに迷惑を掛け続けていたことは承知の上だったので、せめてもの償いと、自分がトーチの群れに入ることを決意して、それを彼に打ち明ける。

「ありがとう……俺に付き合ってくれるって言ってくれて」
 ただ単純に肯定されたことで、リリルはもう少し気遣ってくれてもいいじゃないかと、少なからず落胆を覚える。

「けれどこれだけは言っておくよ。さっきも言ったように茨の道になると思うけれどさ……たとえばリリルの群れに俺一人で入ったら……もしくはリリル一人で俺の群れに入ったら多分乗り越えられないけど……
 どちらも一人では生きていけないけれど、二人なら俺が茨を焼き払っていける。リリルが茨をサイコキネシスで避けられる……だから一緒に、乗り越えような。俺達、一人じゃないんだから。
 俺が何としても守るから、これからも宜しくな、リリル」
 自身の炎よりも明るく微笑んでトーチは言う。いままで恥ずかしいセリフを吐くたびに吹きあげた火柱も、今度ばかりは上がらなかった。

「う、うんっ!」
 リリルはトーチの言葉を涙を浮かべて聞いていた。――最後に満面の笑みで大きく頷いたとき、涙は何処かに飛ばされていった。

「約束だよ、トーチ」
 そしてリリルはそう言った後、トーチに軽い口付けを交わした。トーチはその口付けの味を噛みしめるようにして舌舐めずりしてほほ笑んだ。

「ああ、約束だ」
 再び寄り添うようにして、トーチはリリルの隣につく。
 ついさっきまでは雨が降り止むことがお別れの合図のような気がして、生涯で初めて雨が止んで欲しくないと思っていた。 リリルに至っては、雨が好きとさえ思っていた。
 寄り添う二人は、雨がやむのをただ黙って見つめていた。隣にいる、もう一人の『一人では生きていけない存在』を感じながら。


 翌日、晴れ渡る空を頭上に、並んで歩く二つの影が草原を走っている。

「キリンリキの群れを過ぎてから結構時間もたったし……草の喰われ方や糞の様子からそろそろギャロップの群れに追いつくはずだ」

「私……受け入れてもらえるかなぁ?」
 心配そうに顔を曇らせるリリルにトーチは笑いかける。

――大丈夫、ギャロップの群れはグラエナよりかは怖くないから
――そっか、それなら私のアイデアとトーチの力で何とかなるよね?

 二人には困難をはねのける力がある。二人には、生き延びる力がある。そして、きっと二人にはあるのだろう。どんな状況でも幸福を手に入れる力が。
 だからこそ、数秒後の間もおかずに、トーチが自信を持ってリリルに気の利いた言葉で答えることが出来るはずだ。

あとがき 


 本来なら、これは美優様と二人で書き記す予定でしたが、その前に彼女が去られてしまったので私一人での後書きとなりました。
 さて、このお話は彼女から『合作でも出来たらなぁ』なんて言葉を聞いて、なんの気なしに流れだけ考えた物を、二人で話し合って肉付けして言ったものです。実は冬の名無しなんかも実は1枚噛んでおります。
 最初は共倒れや一方が生き残るバッドエンドや、結局互いの群れに戻って2度と会う事もなく暮らすエンディングも考えたのですが、結局はこの形に。

 エロシーンは、本当はボリュームたっぷりに描かれていたのですが、【3】のアップをしたところでリリル視点を担当する美優様がここを去ってしまわれたため、私の力量ではリリル視点のエロシーンは無理と判断させていただきカットすることになりました。
 そこら辺は非常に残念でなりません。

 上記のとおり【4】から先は美優様ではなく私がリリルを描いているためかなり違和感があるかもしれません。努力はしたつもりですが、私とミュウ様の作風の違いを埋めきるのは難しいところです。
 それでも、そんなリリルを。そんなトーチを愛していただければと思います。

 それでは、避難所の避難所『小説wikiのキャラにイメージソングをつけるスレ』でなんだか名無し様から推薦された下川みくにの『それが愛でしょう』でも聞きながら、この小説を締めたいと思います。
 美優様、冬の名無し様、そして読者の皆様。お付き合いいただきありがとうございました。


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • グラエナ達を追い払った後の二人の会話の間に
    おまたせしました。
    ってあったりします。 -- ? 2009-03-13 (金) 00:53:14
  • はうぅ……誤字の指摘ありがとうございます。修正しました -- リング 2009-03-13 (金) 01:01:08
  • いえ、こちらこそ読ませていただき、ありがとうございました
    そして二人ともお疲れさまです。
    特性の描写や、それぞれの視点によっての見方の違いなどが良かったです。
    特にトーチ視点のねがいごとを使ったリリルが・・・
    (趣味の問題ですかね?) -- ? 2009-03-13 (金) 03:34:36
  • それは趣味の問題と言うよりかは……同じ性別なので共感できるところがあるんじゃないかと思います。
    女性はリリルに、男性はトーチに共感していただけるとこんな風に型破りな方式をとった甲斐があると思います。そんなわけで、男性視点はこれからも頑張らせていただきますね -- リング 2009-03-15 (日) 12:30:24
お名前:

*1 高速移動のこと。このお話ではヨガの呼吸のようなもので行う

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Last-modified: 2009-12-01 (火) 00:00:00
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