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デザイナーズマンションはやめとけ

/デザイナーズマンションはやめとけ

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 命を芽吹かせる天祐(てんゆう)(まっと)うしたゼルネアスは大樹となり、人智の及ばぬ森の奥地にて永遠の眠りについた。朽ち果てるもなお地上を見守るように(そび)え立つ千年樹には次第にポケモンたちが集うようになり、径30メートルはあろうかというその幹をくり抜いて住処を作った。
 維管束形成層はドリュウズの手によって螺旋状の階段へと舗装され、基本組織はアイアントの顎によっていくつもの空間へと分け隔てられた。導管には植物の機能そのままに生活用水を通され、自室で(くつろ)ぎながらにして渇きを潤すこともできる。縄張り争いに血汗(けっかん)を流し、その日のきのみを奪い合ってきたポケモンたちの生活環境が開化したのだった。
 モクローの欲求5段階説で知られる通り、最低限のねぐらと身の安寧が担保されると、彼らは社会的充足感の獲得へと向かう。すなわち共同生活を円滑に維持するための協調関係、与えられた役割を遂行することで他者から価値を認められるという報酬体系、それらの構築に彼らは奔走した。ビークインやミルホッグの群集に見られるような社会性、もといその範疇に留まらないほどの『ご近所付き合い』に、住民たちは傾倒していくのである。
 誰が吹聴しはじめたか、プライドと選民意識を込め千年樹は『デザイナーズマンション』と呼ばれるようになった。デザイナーズの意味はおろかマンションの意味するところさえ、森のポケモンは誰ひとりとして理解していなかった。



デザイナーズマンションはやめとけ

水のミドリ



 満月の夜半(よわ)
 千年樹の樹皮をくり抜いて格子を()めただけの小さな窓では、部屋全体まで(さや)かな光は届かない。602号室の暗がりで、男は自らの命を絶とうとしていた。
 男はマシェードで、マシェードは明かり屋だった。明かり屋とは夜目の利かない者たちが視界を確保し、日没後のちょっとしたひとときを優雅に嗜むために誕生した生業(なりわい)である。マンションのデザイナー兼施工主兼オーナーはアイアントで、元来地中で暮らしていた彼はそのような設備を(ことごと)く度外視していたから、不便を解消するため昼行性のポケモンたちからマシェードが担ぎ上げられたのだった。夜行性の彼は夕暮れが迫ると毎日、起き抜けに淡い輝きを放つ胞子を各階の住民たちへ配っていた。
 胞子はいたって好評だった。輝度は太陽光と比べるべくもないほど頼りないが、柔らかな光源はデザイナーズマンション特有のスタイリッシュな内装と相まってムーディな空間を演出したし、部屋を緩慢に漂うさまはどこかチョンチーたちの深海パーティへ招待されたような神秘性をも感じさせる。意中のイルミーゼと過ごせばたちまち恋仲になれた、といった好評価もバルビートからいただいていた。不眠症を(こじ)らせていたムシャーナも、明かりを消す際に胞子を吸引すれば、そのまま甘い夢へと誘ってくれるんだよ、と嬉々として報告してくれた。マシェードの胞子は夜間の照明器具として実に合理的だったのである。
 ところが、近ごろ電気屋を自称する者が現れた。電気屋はデザイナー兼施工主兼オーナーのアイアントに取り入り、水道管の隣に電気線なるものを通し、各家庭でそれを使えるようにした。明かり屋には理解しがたい技術で構築された専用の家具が必要だそうだが、なんでもそれを用いれば電気は光にも熱にも変換可能で、つまりマシェードの仕事を瞬く間に奪ってしまった。
 これには明かり屋も難色を強く呈した。私が先に住んでいたのだ、と。このマンションの照明インフラはひとえにこの私へと任されていたのだ、と。常夜を照らし生活に貢献してきた私の胞子が、こうもあっさりと見限られてしまうのはあまりにひどい仕打ちだ、と。
 しかしオーナーはすっかり電気屋に肩入れしており、その耳に明かり屋の告訴が聞き入れられることはなかった。そればかりか電気屋はデザイナーズマンション最上階にありがちなメゾネットタイプの物件を、4割ほどの賃料で借りているらしい。同じ入居者として不平等な待遇に明かり屋は閉口するしかなかったが、電気屋は(あまつさ)えあらぬ噂を流し始めたのだ。
 やれ胞子を吸いこみすぎると菌糸に洗脳されるだとか、やれ明かり屋は夜な夜な眠った者の部屋へ押し入り生気をむしゃぶり尽くすのだとか。果てはマシェードっていつもニタついているし異様に腕細いし気味悪いよね、といった種族に対する悪口まで。実際男の瞳はどこまでも吸いこまれそうな闇色をしているため、彼と顔を合わせて反駁(はんばく)に取り合ってくれる者は次第に減っていった。
 おかげで明かり屋に胞子を分けてもらおうと頼む住民はめっきりいなくなった。みな電気屋から月極(つきぎめ)で割高の使用量を払って電気線を引いている。失意に打ち(ひし)がれていた矢先、手伝いとして可愛がってきた弟子のノノクラゲにも去られてしまった。走り方が愉快なことが取り柄の朴訥(ぼくとつ)とした少年だが、デザイナーズマンションへ住み替える前からの付き合いだったのだ。そんな彼は『森で暮らしていた頃の先生の方がよかったです』とだけ書き置きを残して行方をくらませた。今、男は絶望の只中(ただなか)にいる。
「私の胞子はすごいのだ……。少しばかり暗いが目に入れても痛くないのだ。ふう、と息をかければふわりふわりと遊び舞うさまはいじらしいのだ。吸入すればたちまち深い眠りへと(いざな)われるのだ……」
 そのような譫言(うわごと)をのべつ呟きながら、マシェードは粛々と首吊りの準備を整えていた。電気屋やその肩を持つマンション住民に対する呪詛(じゅそ)というよりは単に、己に言い聞かせるようだった。鼓舞しなければ決意が萎んでしまいそうなのである。前夜はこの602号室から飛び降りを敢行するつもりでいたが、あえなく未遂に終わっていた。窓が小さすぎたせいだ。どうにか体を滑り通せたとして、幅広に出っ張った頭の傘が格子に突っかかってしまう。蟻塚暮らしのアイアントに眺望の概念なんてなかったし、あるにしても彼らのサイズ基準に寸法されたもので、しかも十字の格子は()め殺しになっていた。いざ飛び降りんと発奮したところ出鼻を挫かれ、やけっぱちになったマシェードは格子を突き破る勢いで頭突きをかましたが、飾り包丁を入れられたように頭頂部へ十字の(あざ)が残っただけだった。デザイナーズマンションは死に方も選べない。
 (おの)が正しさを立論するために、己が胞子の有用性を示すために、今宵こそ命を断ち切らねばならない。何度も推敲(すいこう)を重ねた遺書を残し、念には念を重ねて足跡の血判までつけた。かつてこの地でゼルネアスが糾弾(きゅうだん)したとされるイベルタル、その破壊ポケモンが身の潔白を証明するため、(はりつけ)にされながらも石を投げる者どもへ一切の反撃を見せなかったように。
 スタイリッシュな内装の一部である千年樹の(つた)を1本解き、か細い両手で引っ張って強度を確かめる。(フェアリー)の力で操り、天井から生やした何重もの〝くさむすび〟のフックへ通して固定する。
 足場にするための手ごろな家具を探したが、どれも作り付けで動かせない。洗面台や寝具は無論、ひいてはテーブルまで床に膠着(こうちゃく)されている。マシェードは苛立ちを押し留めながら、部屋の隅から薬棚を引きずってきた。胞子を保存するための薬棚は男が入居してからすぐ運びこんだものだ。デザイン性を優先し生活感を排斥した空間にもとより収納などない。どう頭を(ひね)ったって活用方法を思いつけないような、45度の鋭角にとんがった部屋角へ薬棚を配置してしまったため、できた三角形の狭小(きょうしょう)スペースへ小物を落とした際には、直方体の棚をいちいちずらさなければならなかった。
 内装とミスマッチな薬棚へおたおたとよじ登れば、天井からぶら下がった蔦の端がちょうど眼前へ来ている。輪を作り、首へかけようとして、頭の傘が引っかかった。仕方なく結び目を解き、蔦を首に回してから縛り直す。顎の下で繊細に指先を動かさなければならず、ぼふん、とマシェードの傘から胞子が舞った。
「これは名誉の死なのだ……我々ネマシュ族の尊厳を取り戻すためだ……マシェードこそが暗き森を照らして皆を導いたのだ――」
 明かり屋の独白は次第に荒唐無稽な誇大妄想へと膨らんでいったが、そうでもしなければ絶命までの工程が煩雑すぎて、諦める理由がすぐにでも見つかってしまいそうなのである。
 10度は失敗してから、男は蔦の先をようやく結びきった。黒目は吊り上り、初めて子どもを連れ去るフワンテのような(いびつ)な笑みを湛えながら、明かり屋は諸手を挙げて叫んだ。
「私は、私こそがッ、『光あれ』と言ったんだあああーーーーっ」
 勢いそのまま、薬棚をえいやっと蹴倒した。
 ぐらん、と揺れたのは1度きりだった。マシェードの体がだらりとぶら下がる。干物を(こしら)えるために一夜干しにされているようだった。
 腹は決めたはずだったが、苦しいものはやはり苦しい。石突きめいた尻から繋がる短い足がもたもたと宙を蹴った。足は床から50センチも離れていた。塗りつぶしたような闇色の瞳が収縮と弛緩を繰り返した。ばふ、ばふン、と胞子が屁のような音を立てて舞った。天井がぎしぎしと大きく軋んだ。
 マシェードが暴れたせいで、とっかかりのない顎から、とぅるん、と蔦が抜けた。抜けた輪はキノコの傘に引っかかり、マシェードの脳神経を痛烈に締め上げた。天井からびんと張った蔦が傘を傾けて、前髪を掴み上げられたかのように額が(まく)れ出た。大きく開かれた双眸は苦痛に歪み、体のどこからか菌糸の千切れる音がした。足先を伸ばしても、まだ床には届かなかった。
「ぐぎギギギギギギがが」
 圧迫されていた喉が解放され、喘ぐ口端(くちは)にあぶくが立った。痛い。めちゃくちゃに痛い。痛いが、おそらくこのままでは死に切れない、とマシェードは直感した。そもそも草タイプの体が肺からの酸素供給を断たれたところで窒息するのだろうか、と根本的な疑問が浮かんだが、その意識も次第に霞んでいく。かりかりかりかり、と細っちい菌糸の指が蔦の輪を引っ掻くも、何ら効果を得られなかった。
 思えばデザイナーズマンションへ入居して浮かれ気分でいられたのは、初めの数ヶ月だけだった。住んでみれば住みづらいことこの上ない。無駄に凝った内装の溝にはすぐに埃が溜まるし、キッチンとリビングの間には1歩分の小上がりな段差があり慣れるまでは幾度となく(つまず)いた。誤ってきのみのタネを流すだけで水道管は詰まりを起こし、その都度一体型の洗面台とバスとトイレはどれも使えなくなった。唯一の趣味といえば月光浴だったが、ゆったりと傘を広げられるベランダはないし、それ以前に窓が小さすぎて顔を出すことすら叶わない。これほどの忍耐を強いられてなお、月にオレン20個分相当の価値をアイアントまで納めなくてはならなかった。それまで野生暮らしだったマシェードに家賃の概念は難しく、幾度も滞納してはオーナーからしつこく責め寄られていた。601号室に住むユキカブリのせいで隙間風は年中寒く、603号室のズガイトスが寝返りを打つたびに衝撃で飛び起きる羽目になった。――森で暮らしていた頃はこんな苦労をせずともよかったのに!
 そもそも明かり屋なんて役柄を引き受けなければ、こうして死ぬこともなかったか。パラセクトと根方(ねかた)の養分を巡って縄張り争いに明け暮れていた日々が、先走った走馬灯にちらと現れていた。
 そのとき。ばしッ! と乾いた破裂音がして、明かり屋は偏頭痛から速やかに解放された。代わりに一瞬の浮遊感ののち、背中を床へ(したた)かに打ちつける。
 ドっどどどどどどど。
 蔦が切れてくれたか、と思う間もなく、倒れた明かり屋の体の上へ、天井だったものが落ちてきた。イシヘンジンの足の岩ほどの質量が無数に降り注ぎ、次いで何か、粘性の高い液体がその隙間から流れこんでくる。幅広な頭を貧弱な手で覆って(しの)ごうとするマシェードの傘へそれが触れると、心の臓まで(ただ)れるような激痛が彼を襲った。
「い!? っつ()あアアアアア!!」
 草と(フェアリー)の肌を焼きつける、それはヘドロだった。マシェードの上の部屋、702号室に住むのはベトベトンだ。ベトベトンは掃除屋だった。掃除屋とは暗殺者でもなんでもなく文字通りマンション住民のゴミを回収する職役だ。エントランスですれ違う際には挨拶を交わすし、悪臭も気にならない程度に抑えられている。表向きは愛想よく、働き者で好感の持てる女性だとマシェードは思っていた。実情は、溜めこんだヘドロで部屋が浸水するほどずぼらな性格だったのである。毒を受けつけないアイアントの建てたデザイナーズマンションに耐腐食性建材は使われていない。702号室の床、ひいては602号室の天井も腐り落ち、明かり屋が首を吊っただけで崩壊したのだ。
 幸か不幸かマシェードと同じく夜行性のベトベトンは留守にしているらしく、つまり彼を千年樹の瓦礫とヘドロの汚泥から引きずり上げてくれる隣人はいない。のたうち回ることも叶わず、しばし明かり屋は悶絶した。今度こそ、己の運命に対する呪詛を吐き散らした。
「明かり屋、まだいるんスかっ!」
 マシェードが4倍弱点の束縛に気絶する寸前、玄関の方から怒鳴り声がした。聞き覚えのある声だ。家主の返事も待たずに血相を変えて押し入ってきたのは、402号室に住んでいる少女だった。
 少女はリザードで、リザードは火練(ひね)り屋であるシャンデラの弟子だ。火練り屋とは暖房もしくは調理のために低温で類焼しない炎を住人たちへ配る職柄を指す。虫と鋼の複合であるアイアントのデザインしたマンションには当然ガス管にあたる設備はない。セルロース打ちっ放しのデザイナーズマンションは冬の冷えこみがひどく、寒さに耐性のない住民のほとんどが火練り屋に頼っていた。が、明かり屋同様電気屋に事実無根の噂をそば立てられ、立場がない。
「明かり屋、おい明かり屋ッ! あんた何やって――うわ()っさ! えっなに、クソ? クソでも浴びてんスか、キモ……!」
 リザードは再び叫んだ。ほとんど悲鳴に近かった。ヘドロに(まみ)れた傘を天井の残骸に押しつぶされながら、マシェードがガビガビ点滅して悶え苦しんでいる。見知った隣人の特殊な性癖は、年頃の少女にとって知りたいものではない。
 軽蔑の目で見下ろしてくる火練り屋見習いへ、明かり屋は喉にヘドロが逆流してくるのにも構わず叫び返した。
「助けてくれっ、死にたくない!」つい先刻まで自死しようとしていたことはすっかり薬棚に上げていた。「死にたくない……死にたくないっ、こんな死に方ぜったいにいやだ……」
 毒沼から引きずり上げられたマシェードは、窓から射しこむ細々とした月光でちびちびと体力を補填しながら、どうにか息を整えていた。付着したヘドロを削ぎ落とす気力すら残っていなかった。
「何やってるんスか、俺が来なかったらそのままお陀仏でしたっスよ!」
「いや、何って、ええと、あれだよ」マシェードはとっさに誤魔化して、丸っこい首元を何度も(さす)った。締め上げられた痕が脂肪肝のベロリンガの顎のたるみのようだった。なんで誤魔化しているのか、自分でもよく分からなかった。「私も歳だし、いろいろ健康にも気を遣おうと思って、その」ぽっかりと大口を開けた天井を見上げ、菌糸の指でなんとなしに指し示す。「ヘドロで肌を保湿しながら、運動がてら天井にぶら下がっていた」
「うっわ」
 切れ味を増したリザードの視線を(かわ)しながら、マシェードのおろおろ声はどんどん萎んでいった。死のうとして死に切れず、瀕死のまま地べたを這いつくばっている。ヘドロの悪臭をこびり付かせたまま、その経緯を偽証して少女へくどくどと弁明している。哀れで、惨めで、滑稽だ。これを(はずかし)めと言わずしてなんと呼ぶのか。
「そうしたら天井が落ちてきてね、はは、は。ハハハハハハ。まあここも元は樹なのだから、葉が落ちるとか、枝が折れただとか、なんというか、そんな感じだから、はははっ。まあ、気にすることも、ない、と思うんだが……、どうだね?」
「いやダメだろ」リザードは神妙に大穴を見上げたが、すぐに切羽詰まった顔つきへと戻った。「まあでもたぶん問題ないっス。今それどこじゃないんで」へたり込むマシェードの傘を乱雑に掴んで立ち上がらせる。「火事っスから!」
 リザードが言い終わるか終わらないかのうちに、いきなり玄関の方から大きな崩落音がして、天井を舐めるように黒煙が流れこんできた。





 ゼルネアスの冥加(みょうが)あり、といえど領樹はとうの昔に枯死しており、だから築千年の木造マンションは非常によく燃える。6階の廊下はすでに溢れんばかりの(すす)煙で充満していた。床はところどころ階下からの灼熱に靭皮(じんぴ)繊維を焼き切られ、そこから忍び入ったクイタランの赤い舌が獲物を探すように踊っていた。煙の臭気にも炎の気配にも住民たちの喧騒にも気づかなかったのは、明かり屋が長いこと自室に引きこもり自殺悲願に心血を注いでいたからである。
 マシェードは傘を前へ傾け煙を遮りながら、螺旋階段のある維管束へと続く開口部を目指した。毎日通っている環状の共用廊下がいやに長く感じられる。男にとって炎もまた苦手とする属性だったが、毒よりは幾分ましだ。おまけに浴びたままのヘドロは水を多分に含有していて、なけなしの防護服として役立ちそうだった。焼けるように痛むが。
「死にたくない……ううぅ、こんなところで、死んでたまるかっ。私は首を吊って死ぬつもりだったのだ。毒に侵され、炎で炙られるなんてまっぴらごめんだ!」
 心とはなんとも不思議なもので、あれほど死ぬのだ、死ななければならない、と強く念じていた決意はどこかへ銷却(しょうきゃく)し、マシェードは未だかつてない生への執着に突き動かされていた。あちこちで爆ぜる火の粉に怯え、逆巻く煙に目を(いぶ)されながら、がたつく腰をどうにか奮い立たせては階段へと向かっていく。
 マシェードの隣室、601号室からリザードが飛び出してきた。〝ぼうおん〟の特性で今の今まで眠っていたらしいユキカブリの肩を支えながら、激励の声を張り上げる。
「おい、大丈夫っスかおい! ちゃんと目ぇ覚ましたか? 自分の足で走れるっスよね!?」
「ああ、あああっ、ありがとう、ございますッ! あのまま眠っていたら僕、僕もうどうなっていたか……!」
「4階も5階ももう火の海っスよ! あんたが助かるなら上、屋上で飛行タイプの救助を待つっきゃない! 死にたくなきゃ、死ぬ気で階段を駆け上がるっス!」
「はい、はいっ!」
 ひたすら礼を繰り返し螺旋階段を走っていくユキカブリを眺めながら、明かり屋は圧倒されていた。近隣住民はとうに逃げ延びたなか、彼女は低層階すべての部屋をひとりで点呼して回ったらしい。危険も顧みずに駆けずり回る火練り屋見習いの姿は、明かり屋が自ずと恭敬(きょうけい)の念を抱くほど輝いて見えた。
 ユキカブリを見送って通用口まで戻ってきたリザードが、マシェードの細い腕を引っ張った。
「ほら明かり屋も早く逃げろっ。あんたも燃えやすいっスから」
「き、キミはどうするんだ。火練り屋とはいえまだ見習いだろ、キミこそ早く逃げなければ」
「そうはいかないっス。逃げ遅れた住民は上の階にまだたくさんいるんスから。俺は、それを」
「そんな無茶な!」明かり屋は声を震わせた。いたいけな少女にこれ以上の重責を負わせるわけにはいかない。「見習いに何かあったら、シャンデラの師匠が悲しむと思わんかね。一緒に逃げるのだ」
「何度も言わせんじゃねっ。俺には救わなきゃいけない命が、まだたくさんあるんスよ! 誰ひとり死なせるワケには、いかないんスよっ!!」
「な、なら」少女の熱意に圧倒され、マシェードは思わず口走る。「わ、私も手伝うぞ……!」
「な……なに言ってんスかっ、もうすでにヘドロで瀕死のくせに!」
「ひとりよりもふたりの方が、より多くの命を救えるはずだ。私も、行かせてくれ!」
 リザードは両手でわしゃわしゃと自分の頭を抱えこんだ。ぶつぶつと何事かを呟くと、腹を据えた目つきでマシェードの傘をずいと掴み上げ、痩せこけた相貌を覗きこむ。
「……ひとつ、約束してくれるっスか」
「もちろんだ」
「何があっても、絶対に死なない。これだけは、守ってくださいっスね」
「わかった、火練り屋見習い。……いいや火練り屋。私も、協力させてくれ」
「おっし、そいじゃあ一丁、やったりますかあ! くれぐれも無茶だけは、しないようにお願いするっスからねっ」
 火練り屋見習いから火練り屋へ昇格したことが満更でもないらしい、リザードは照れ隠しに威勢のいい声を張り上げ、マシェードを階段へと押していった。
 7階の通用口では、階下からもうもうと吹き流されてくる煙に住民が立ち往生していた。その煙幕を破って駆けつけたリザードはよく通る声で一喝。取り乱す彼らを(なだ)めすかし、列を成して屋上へ向かうよう指揮する。
「口は塞いで、煙は絶対に吸いこまねえようにするっス。慌てずゆっくり進んで、常に後ろがついてきているかの確認を怠るな。誰かが倒れたら落ち着いてまず意識を確認、失ったまま戻ってこないようなら担いで階段を上りきるっきゃないっスからね。全員生き延びられるから、絶対に誰も見捨てるんじゃない!」
 リザードの指示は手早く的確だった。餅は餅屋、火は火練り屋ということらしい。逃げ遅れたポケモンたちはリザードの誘導に素直に従ってくれたし、いかがわしい噂のあるマシェードの胞子を吸引するまいと呼吸器官を手などで塞いでいるので、一酸化炭素中毒に陥る恐れも少なそうだ。
 年輪に沿った環状の共用廊下をリザードは時計回りに、マシェードは反時計回りに部屋を当たっていく。幸いにも取り残された者はいなかった。704号室前でちょうど鉢合わせたとき、不意に、すぐ頭上から悲鳴が轟いた。ふたりは顔を見合わせ、通用口へと一散に駆けこんでいく。
 デザイナーズマンションの螺旋階段はありきたりなほど吹き抜けに造られていることが多く、大樹もその例に漏れない。明かり屋は踏板(ふみいた)の隙間から、階下で駆けるギャロップの姿を幻視した。熱に浮かされたキノコ頭を震わせながら、毒々しく顔を(しか)める。
「しかし、やけに火の回りが早いと思わんか。……なんと言うかこう、火災を知らせる装置だとか、火の侵行を遅らせる遮蔽物みたいなものはないのだな」
「確かにそっスね。でも文句言ったって火事は待っちゃあくれないっスよ!」
 人智の及ばぬ森の奥では消防法や建築基準法などの条規は施行されていないので、デザイナーズマンション側がそれらを遵守(じゅんしゅ)する謂れはない。遮炎性建材を用いて耐火建築物にする必要もなければ、当然、棟内に火災報知器も消火器も防火扉もスプリンクラーもないのである。
 だが彼らにはマンション側の不備を(つる)し上げている寸暇(すんか)もない。炎は鎧を砕いたマグカルゴの如く階段を舐め上げ、のろっちい明かり屋を追い立てていた。彼らがフロアを点検し螺旋を1周しているうちに、マグカルゴは階段への開口部で〝あくび〟をしながら待っている始末。マシェードは己の全力疾走を笑われているような気がしてきた。あの鈍足で有名なパラセクトと徒競走で縄張りを争った際、日暮れを過ぎても決着がつかなかったことを思い出していた。
「中に子どもがっ! いや、いやああああ!!」
 804号室の前で泣き叫んでいたのはハハコモリで、ハハコモリは裁縫屋だった。裁縫屋の部屋には彼女の糸を主原料とした布製品が保管されていたはずで、邪悪なファイヤーは意地悪くもそこを狙いすましていた。虫ポケモン由来の繊維はよく燃え、よく煤を出す。もうもうと立ちこめる硝煙へ飛びこまんと勢いづく彼女の腕を、夫らしきハッサムが羽交(はが)いじめにしていた。
「いい加減にしろっ! お前が落ち着いてくれないと、おれが助けを呼びに行けないだろっ。……くそっ、隣のミノマダムの婆さん、自分だけ〝きけんよち〟したからってとっとと逃げやがって! いつもきのみを分けてやったりしてるんだぞ、あの恩知らずめっ」
 駆けつけたリザードは状況を把握するなり、轟然(ごうぜん)たる煙幕の渦中へと勇往邁進していった。夫妻が息を呑む間もなく、闇を祓うようにして彼女は帰還する。娘は水の満たされた浴槽で耐え忍んでいたらしい、ずぶ濡れのクルミルを胸に抱えながら、リザードが獅子奮迅の剣幕で踊り出てきた。
 柔らかく鼻を塞がれていた幼女は咳きこんだものの、おくるみが焦げたりガス中毒になっている様子もない。自分を助け出してくれたヒーローの肌に、腹足の指が甘えつく。
「おひめさま抱っこ……はじめて」
「っへへ、()りーな、王子様じゃなくってよ」
「……ちがうの?」
 きょとんとしたクルミルを、リザードは母親の腕に抱かせてやる。泣き崩れるハハコモリは、ありがとう、ありがとう、と繰り返しながら愛娘(まなむすめ)の頬へ涙を注いでいた。
「奥さん、緊急時には落ち着いて行動することが大事っス。娘さんが心配なのは分かるっスけど、俺みたいに火が得意な奴に任せてください。こういうときこそ、助け合いっスから。かと言って旦那さんも、みんな自分の命が最優先なんだ、お隣さんを恨んでくれるなっス」
「そうね、うん、そうね、本当にありがとう。あなたには感謝してもしきれないわ」
「……すまない、おれもどうかしていたよ」
「助かったって安心するにゃあまだ早いっスよ。さあ逃げて! 下の階はダメっスからね、上っス上!」
 ハッサムはハハコモリの肩を抱き、翅の揚力で足取りを支えながら、重ねてリザードへと陳謝する。炎4倍弱点家族は階段へ逃げていった。
 マシェードは感嘆していた。次々と住民を保護する火練り屋が、甚大な山火事に立ち向かう覚悟のケルディオのように見えて仕方ない。彼女なら、ひとりの死者も許さずにこの大禍(たいか)を鎮圧させてしまうような気がしてならなかった。ひとすくいでもその一助になったとあらば、あわよくば明かり屋としての地位の奪回に繋がり、電気屋にひと泡吹かせられるやもしれない。
 この場にそぐわないお気楽な妄想に、螺旋階段を先に行くマシェードの口が軽くなる。
「キミがこんなにも尽力しているというのに、全く、この大事なときにシャンデラの奴は何をやっているのだ」
「電気屋のせいで仕事が減っちまってから、師匠はめっきり近場の温泉に入り浸り。隠居も同然っス。……こんなときこそ、俺がお支えしてやらねえとなのに」
「そうだったか」
 デザイナーズマンションのインフラを支えるエッセンシャルワーカー同士、明かり屋は火練り屋師匠のシャンデラと交流があった。彼は仕事に対して太平楽なきらいはあったが、火の危険性はマンション内の誰よりも理解していたし、かねてより非常時へ対向した際の善後策も講じていたはずだ。〝もらいび〟の特性を持つシャンデラならば初動のうちに小火(ぼや)騒ぎで抑えられていただろうに、どうにも因果に恵まれない。
「お互い大変なのだな。それもこれも、あの忌々しい電気屋とかいうのが来てからだ。電気屋が来なければ、こんなことには」マシェードは無意識に商売仇へ責任を押しつけた。そうでもしなければやっていけないのである。「しかしまた、どうしてこんな大火事などになったのだ」
「火の不始末っスよ」リザードは遣る瀬なさげに吐き捨てた。「師匠がお留守にしている間に、こんなことになっちまうとは……。師匠、言ってたっス。お前になら安心して任せられる、これで俺はいつでも冥土に還れるな、って」
 あの口達者なシャンデラが褒めそやしたとあらば、愚直なリザードが躍起になるのも仕方ない。責任感の強い彼女のことだから、火災を未然に防げなかった虚脱感の代償行動として、住民の避難誘導に精勤(せいきん)しているのだろうか。
 電気屋にやり込められた被害者どうし、マシェードは励ますように言った。
「調理中は目を離してはいけないやら、寝る間際に暖房は消せやら、火の取り扱いはキミも指導したのだろ。それを聞き流し、火の不始末を働いた奴がいる。こうなってしまったとて、火練り屋の責任はそう重くないだろう。……まったく一体全体誰の部屋から」
「俺です!」リザードは屈託なく答えた。「俺の、寝しっぽっス!」
「え?」
 釣果(ちょうか)を自慢するヤドンよろしく胸を張る火練り屋に、明かり屋は足を止めて振り返った。走って! とすぐさま叱咤(しった)が飛んできて、たたらを踏みながら首だけで振り返る。
「な、何と言ったんだ、キミ? 寝、ねしっぽ……なんだね、それは」
「尻尾の炎の温度が高いまま寝ちゃったんス。そのまま寝ちまうと燃え移る危険があるんで、俺たち炎タイプはまず忘れないんスけどね、起きたら部屋に燃え広がってて」
「えっ、は? え?」
「師匠の隠してた酒、見つけたから飲んでみたら気持ち良くなって。んで、窓辺で夜風に当たってたらついうっかり寝ちまって。へへっ……。ほら走るっスよ!」
「え、え、えええ〜〜〜……」
 すっかり狼狽したマシェードの腕を、追い越したリザードが掴んで引く。
「あ、ほら! もう9階っス。この階のポケモンも全員、俺たちで助け出すっスよ! ……明かり屋? 何ぼーっとしてるんスか。俺たちが動かないと、みんなの命が危険に晒されるんスよ! みんなの命が、俺たちに託されているんスよ!!」
「あっうん、うん、えー……っ、と、そう、だな……」
 マルノームも飲みこみきれない違和感に翻弄されながら、明かり屋は少女の背中を追随する。906号室前、リザードは廊下に倒れていたコレクレーを助け起こしているところだった。逃げる際に大きく転覆したらしい、彼(?)の周囲には巨億のコインが散逸している。
 意識を取り戻したコレクレーが、周囲を見渡すなり悲鳴を上げた。
「わ……わたしのコインがっ! あ、あああ、あそこにも、あっちにも、あわああああ」
 小さな体が(せわ)しくコインをかき集める。腕っ節はないらしい、一度に背負える硬貨はせいぜい5枚程度だった。それらを収めるべき容器を探してコレクレーが振り返ると、廊下の隅で小さな宝箱が、無惨にも火だるまとなって転がっていた。
「っイヤああああ!!」
 コインを(なげう)って(くずお)れた小さな肩口へ、ぽん、とマシェードは菌糸の指を乗せてやる。
「今は逃げることが最優先だ。コインならまた集め直せばいい。命あっての物種と言うだろう」
「あ……あ、あふぁあああ!」コレクレーは涙ながらに菌糸へ縋りついた。「あわ、わ、わたしにとって、コインは命と同じくらい大切なものなのですっ、あなたもぼーっと突っ立ってないで集めるの手伝ってくださいよ! そ、そうだ、そのパンツみたいなとこに何枚か詰められるでしょ」
「どの種族にだって、命に代えても守り通すべき矜持がある、か」明かり屋は胞子を軽んじられた件もあり、コレクレーに対して同情を禁じ得ない。だがその胞子も首を吊る前に窓から打ち捨てていた。それほどの覚悟で死に臨んでいたのである。「そうは言ってもキミねえ……。未練がましく数枚だけ持ち出すより、全財産捨て置いた方がいっそ諦めがつくと思うのだが」
「宝箱が燃えたとなるとわたし持ち運べないし、そう、そうですよ、あなたが運び出すべきだ。運べ、運ぶのです……」
「話聞いてるのかねキミ」
 コレクレーが怪しげな(まじな)いを唱えると、マシェードの短足が操られたように踊る。火の海に沈みつつある階下はトロッゴンの籠よりも熱せられ、9階の床は一部、集中的に炎へ晒され続けた植物繊維が軟泥化し、原始回帰したグラードンの喉奥めいて赤熱していた。その上へ落ちていたコインへと、マシェードの指先が伸びていく。
「やめ、やめ、この、やめないか!」さながら脳を乗っ取られたパラセクトのようだった。叛骨(はんこつ)の意志を(あざ)笑うかのように、菌糸が硬貨を摘み上げる。「っ()ッつ、コイン熱っつ!! っあ゛づっあ゛づあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!」
「コインが融けてる!? いやぁああああああああ゛!!」
「熱ゔぁあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!!」
 持ち上げられた途端ぐにゃりと自重で湾曲したコイン、それを石突きの膨らみへ入れさせられたマシェードの絶叫が轟く。肌を焼く灼熱を(はた)き落とさんと振り上げた腕はしかし動かず、どうにか身を(よじ)ろうとするも脊髄反射さえ封じられ、明かり屋は狂惑した。ヘドロとは異なる灼熱感、それがパンツの中で局部にくっついて離れない。ちんちんが、ちんちんになっていた。
 顔から上だけは自由が利いた。重たげな傘を振りしだき、悶絶に交えあたり構わず胞子を散布した。焼き切られた生殖機能が最後の悪あがきをしているようだった。
 片腕で鼻を摘み顔を顰めていたリザードが、呪文を唱えるコレクレーの背中を爪先で弾き飛ばした。洗脳から解放されたマシェードはもんどり打ってコインを摘出する。
「ふたりして何を遊んでんスかっ! おい銀行屋、コインはもう諦めろ!」
「そうはいきませんっ! 宝箱も見つけて、コインも99枚まで集めたのに……。うう、うぅぅ、あと、あと1枚で1UPだったのに……! いったいどうして火事なんかに!?」
「俺のせいっス!」リザードが鼻声で答えた。「俺の、寝しっぽっス!」
「ねし……なんです?」
「尻尾の炎が温度高いまま、寝ちゃったんス。起きたら部屋でラウドボーンが〝フレアソング〟を大熱唱したみたいになってて。へへへへっ。……そんなことはどうでもいいでしょ、早く逃げるっスよ!」
「どうでもい、っえ? どうでもいいって、えええ?」
 コレクレーはシガロコの背中の紋様よりも複雑な顔をした。廊下で卒倒した彼を救ったリザードは紛れもなく救世主なのだが、その彼女の尻尾こそが火元、彼が破産した元凶なのである。〝おどろかす〟の1発でもお見舞いせねば気が収まらないだろうに、宝箱を失った彼はあまりに無力だった。
 ようやくパンツを鎮火させたマシェードは、震える小柄な背中を菌糸の指先で押してやる。ちんちんは致命傷で済んだ。
「うむ……、うむ、大丈夫、私は分かるぞその感覚。私もおんなじ気持ち。すっごい違和感あるのだよね。なんでキミが救助しているのか、って。なんでキミがケルディオのスタンスでいられるのか、って。だけど火練り屋のやってることは正しい。行動は間違ってないのだから、ほら、行って! 行きなさい!」
「あ、はい……。明かり屋さん、わたしも先ほどは取り乱してすみません」
 面目なさげに逃げゆくコレクレーを尻目に、ふたりは残りの部屋を(あらた)めた。幸いにもコイン蒐集(しゅうしゅう)家の他に逃げ遅れている住民はいなかった。
 マシェードは螺旋階段の先を行く背中を(たしな)める。
「あの、キミの尻尾が火元だってこと、自分から言わない方が賢明だと思うのだが」
「どうしてっスか? 師匠は言ってたっス。嘘()いたら冥府のギラティナ様がちゃあんとお聞きになってて、悪いことをした分の罰は来世に課せられるからな、って」
「いやその、嘘を吐けとは言わないのだが、はぐらかせばいいと思わないか」
「……師匠はこうも言ってたっス。火は()ったけえしきのみも焼けるしで確かに便利だがな、耐性のねえ奴は(かす)っただけでも大火傷になりかねねえ。まぁそれで済みゃあいいが、火ってえのはちぃと目ぇ離しただけで、山火事になって森のポケモン全員が焼け出されちまう懸念だってあるンだ。そういうことが決して起こらねえ、ってんでウチの火ィ信頼して使ってもらってる。だからこそ何があってもお客さんの生活だけは脅かしちゃならねえ。お客さんの命だけは燃やしちゃあならねえ。もし万が一そんなことがあれば申し訳が立つめえ、冥府に出向いてお前の罪をギラティナ様へ告げ口してやらあ! ……って」
 火練り屋の師匠はシャンデラで、シャンデラは葬儀屋でもあった。告げ口うんぬんはおおかた冗談だろうが、魂を燃やしてギラティナの元へ送り届けている彼の説得力は凄まじい。マシェードには真面目腐ったシャンデラの口調までもがありありと想像できた。いかにも最もらしい口ぶりに冗談を混ぜるあたり、根っからの馬鹿正直なリザードは真に受けているに違いない。この見習いにあの師匠が務まっているという事実が、マシェードにはどだい信じがたいものだった。
 不意にリザードが振り返って、マシェードの胸ぐらに掴みかかった。
「いいっスか、俺たちは全員の命を救わないといけないんスよ。誰ひとり死なせちゃあいけないんスよ! ひとりでも焼き殺そうものなら……罪の重さが変わってくるんスよおお!!」
「罪の重さ……。え、罪の重さ??? 何だねそれ」
「火事を起こして誰か死ぬのと死なないのとじゃあ、ギラティナ様に課せられる罰の重さが雲泥の差なんスよ!! 万が一誰が死のうもんなら、次に生まれ変わる際はコイキングかヒマナッツか……。いやポケモンですらない、風に吹かれたら落っこちちまうくらいの虫ケラだ。それも翅をもがれて飛べないような! そんな来世は、俺、絶対に、嫌だああああ!」
 激しく取り乱すリザードに首筋を揺さぶられながら、マシェードは半ば唖然として呟いた。
「……つまりキミ、ギラティナ様とやらの罰を受けるのが怖いから、率先して住民を助けてた……のだな!?」
「そっス!」リザードはまたしても首肯した。「俺、いつか、空を飛ぶのが夢なんスよね……。父ちゃんがコモルーだったんで、その影響スかね! っへへへへへへ……。だから絶対にッ!! 全員!! 助け出すんだよ!! 虫ケラの来世だけは、絶対にっ!! 避けねえといけねンだよ!!」
「うわ怖ッ、こわい……っ! いきなり興奮するんじゃないっ!」
 身の(すく)んだマシェードが遅ればせながら10階へ到達すると、リザードは1007号室前で倒れているエーフィを介抱していた。エーフィは鏡屋で、身だしなみを気にかける者たちの毛並みを整える仕事をしている。
「おい……おいっ! しっかりしろ! なあ!」
「なあキミ、そんなに揺すぶっちゃあ、体に(さわ)るんじゃないか」
「だから何だって言うんスかっ。まず生きていりゃあ、生きてりゃ何だっていいんスよ! 半身不随でも感覚麻痺でも何でも残りゃあいい、命さえあれば、俺はギラティナ様に裁かれねえで済むっスから!」
「キミとんでもないこと言ってないか」
 リザードの必死の救護も虚しく、エーフィの額の宝玉はその光度をみるみる弱まらせていく。頭を支えた右腕にずっしりと重みが残り、最後には火練り屋もぐったりと肩を落とした。しっぽの炎まで鎮火したような風態になっていた。荼毘(だび)()さんと迫る炎の忍び足が、耳奥へとこびりついて離れなかった。
 だが彼らには鎮痛な無力感に慰めてもらう時間はない。階下を炎で虫食いにされたデザイナーズマンションはいつ倒壊してもおかしくはなく、ひとりの犠牲に涙していては火急の間に合わぬのである。マシェードは纏わりつく火の粉を振り払うと、(せぐく)まるリザードを奮い立たせんと揺り起こす。
「私たちに悲しんでいる暇はない。先を急がねば」
「もう……もうおしまいっスよ」
「火練り屋……?」
「ひとり死んじまえば、あとどれだけ死んでも俺の罪の重さは変わらないっスよ。虫ケラの来世は確定したんスよ」
「さ、さっきキミ自身が言っていただろう。多くの命が俺たちにかかってるんだって。マンションの住民は全員、俺たちの手で救い出すんだって!」
「どうせ上の階でもたくさん死んでるっスよ」
「火練り屋ァ! キミ何てこと言うんだね!?」
 マシェードはリザードの巻き返しを諦め、菌糸を伸ばしエーフィの頬へとくっつけた。助かってくれ、助かってくれ、と心うちで何度も念じながら、毒と火傷の重複状態異常で底を尽きかけた体力の摩滅も省みず、キノコ傘に蓄えてきたなけなしの栄養を彼へと注ぎこむ。
 効果は覿面(てきめん)であった。きつく閉じられていたエーフィの瞼が、引き()れながらもゆっくりと動いたのである。
「あ……あ! 大丈夫だ、まだ生きてる、意識、取り戻したぞっ」
「な――何ィ!?」リザードは飛び起きた。「おまッ、脅かしやがって! 1発殴らせろっ!」飛び起きた勢いのままマシェードを突き飛ばし、エーフィへと馬乗りになる。「オラっ、ビビらせやがって! 1発じゃ足りねえ、もう1発いっとくか。っシィィ!」
「さっさすがにやりすぎだっ。まだ気を失ったらどうするのだ!?」
 朦朧としていたエーフィは両頬に1発ずつ食らって覚醒したらしい、身を(ひね)るようにしてリザードの重圧から逃げ(おお)せると、全身の体毛を逆立てながらマシェードを()めつけた。明かり屋は慌てて隣を指差した。
 エーフィは警戒を解かずに言った。
「お前が助けて……くれたようだな。ありがとう」助けたのは私です、とマシェードは言い出せなかった。「うっ、オレは……。そうだ、空気の流れが乱れて、意識が読めなくなって……。オレの〝マジックミラー〟も、火事までは退けられなかったか」
「御託はいいからさっさと逃げろ! おし、おしっ、どこも怪我はねえな!? 助かってよかったな、俺も助かった! ッし明かり屋、俺たちも急ぐぞっ。なにボーッと突っ立ってんだ、さっさと他の部屋を当たりやがれッ!! マンション住民の命は、この俺たちにかかってるんスよ!!」
「情緒どうなっているのだキミ……」
 それぞれ両隣の部屋の玄関へ突入していくふたりへ、通用口からエーフィが振り返って鼻をひくつかせる。
「おれの肌感覚では、このフロアの住民はみな避難したようだ。上の階もほとんど気配を感じられない。……その様子では、君たちは念のためチェックしてくれそうだが」
 1008号室の玄関から、リザードが顔だけ出して答える。
「あざざっス! おにーさんも、早く逃げた方がいいっスからね!」
「お言葉に甘えて、そうさせてもらうよ。君たちの無事を願っている。……しかし、なぜ火事なんかに」
「俺のせいっス!」火練り屋は学ばなかった。「俺の、寝しっぽっス!」
「ねしっぽ……なんだい、それは」
「尻尾の温度が高いまま――」
「だからどうして言っちゃうのだねえ!?」
 マシェードは1006号室から叫んだ。叫んだが、家探しする手は止めなかった。エーフィの直感通り、11階以降は逃げ遅れた者が極端に減った。おそらく先発の避難民が呼びかけてくれたのだろう。それでも取りこぼしのないよう、ふたりは個室を(しらみ)潰しにしていく。
 とはいえ火の回りもますます勢いづき、彼らが12階――最上階を搜索する頃にはすでに煉獄めいた焦熱(しょうねつ)が廊下を席巻していた。デザイナーズマンションの壁を彩る豪奢な装飾――蔦で(あし)らわれたモールディング(づた)いに火が這いのぼり、天井の一部はいつ焼け落ちないとも限らない。元より(ひさし)で視界の上半分を遮られている明かり屋は、迫り来る危機に微塵も気づけなかった。
「危ねえっ!!」
 乾いた植物片の爆ぜる音にただならぬ気配を直感したリザードは、前を行く細い背中を突き飛ばした。途端、それまでマシェードのいた地点に天井が崩落し、熱風が火の粉を逆巻かせる。疲弊した明かり屋が万が一その下敷きになっていれば、怪我では済まなかっただろう。
「あ、ああああ、ありがろ、ありがとっ、火練り屋、たすかたたっ……っ」
 派手に転がされたマシェードは、腰砕けになったまま少女へ呂律の回らない陳謝を並べた。つかつかと歩み寄ってきたリザードの差し出した腕、助け起こしてくれるはずの少女の手へ伸ばした菌糸が、ばしっ! と弾かれる。呆然と見上げたマシェードの横っ面へ、横薙ぎにされたリザードの拳が喰いこんだ。
「何やってンだお前えぇっ!!」
「はブェ!? ヒいぃっ!!」
 華奢なマシェードの腰あたりへ馬乗りになった少女の瞳は、火事とはまた別の色をした炎で燃え盛っていた。振り上げられた拳が再度、マシェードの頬へと落とされる。
「死ぬとこだっただろ……死ぬとこだっただろ! あんた初めに、絶対に死なねえって約束したよな……! 絶対に死なねえって、約束したよなあ!? あんたが死んでも、ダメなんだぞ。あんたが死んでもっ、俺はギラティナ様にシバかれるンだぞっ!!」
「いた、あ痛っ痛て痛ぶへッ! 何して、やめっ、ア、助けて死んじゃうッ」
「死ぬンじゃねえ! オラっ! このマンション全員! スあッ! 誰ひとりとして! ウラあッ! 死なせるもんかッ!」
「べあッ! じゃあ殴るのやめギャ! さっきから言動が、ふゲ! 支離滅裂だぞっ――びぁべ!! ねえ、キミ、ねえ!」
 マシェードが彼女に幻視していたケルディオ的正義感は今や見る影もなく、あるのは純然たる暴力を差し向けてくる直情径行な少女の形相。憤怒のコノヨザルと化した彼女は、いかにギラティナの課す罪状から逃れるか、その一点のみで暴虐の限りを尽くしているらしかった。
 次第に、マシェードは己の置かれた理不尽に対してむかっ腹が立ってきた。自ら救命活動へ志願したとはいえ、偽りの正義感に乗せられてリザードの減刑を幇助(ほうじょ)する羽目になっている。毒に浸されるわ炎に炙られるわ、パンツに融解したコインを入れられるわで(しいた)げられ、しまいには獲物を群れで〝ふくろだたき〟するマニューラでも引くほどボコボコに殴られる始末。そもそも年端もいかない見習い風情が、何を一丁前に師匠の同僚へ手を挙げているのだ! まず言葉遣いがなっとらん、雌なのに俺とはなんだ、目上の者には敬語を使わんか敬語を!
 血の気が引いて青くなり、血が昇って赤くなった。両頬を殴打され紫色に変色したマシェードは毒キノコと呼ぶにふさわしい。リザードの虚をついて体勢を入れ替えると、今度はマシェードが馬乗りになって少女の胸ぐらに掴みかかる。
「そ――そもそもキミの寝しっぽとやらでっ、この有様なんだろうがね! 誰よりも救助に貢献しているとはいえ、皆を危険に晒したという自覚が薄すぎるだろう! キミの軽はずみな行動のおかげで、私は死にかけたんだぞっ。燃えかけるし毒に溺れるし、その前は首を吊って――いや、いや、いやっ! そうではない、そうではなかった、私はまた死に損なってしまったんだっ!? ……そうだ死ぬんだ、私は死ぬんだった。死ななければ、今日こそ死ななければっ、いつ死ねると言うのだね!? 私の潔白は、いつ誰がどこで証明してくれる!? キミかね、キミがマシェードの全てを讃える歌でも作ってくれると言うのかね!? ふふ、ははは……はははハッハハハ!」
「はあ!?」
 組み敷かれたものの、純然たる膂力(りょりょく)ならばリザードに分がある。ひょろっちい(かび)茸を跳ね飛ばし、火練り屋は再度明かり屋をねじ伏せた。赤熱した廊下へ傘が押しつけられ、じゅう! とひと筋の煙が上がったが、錯乱したマシェードが動じる様子もない。
「はあ、なんスかッ。あんた部屋で死のうとしてたワケ? 助けてーっ、て俺にみっともなく命乞いしてたじゃないっスか!」
「みっとも……! ッそうだよそうさ、本当は死にたくなんかないに決まっているだろう!」取っ組み合って転がり、再びマシェードが上になる。「どこの誰が好き好んで死のうとする臨死体験中毒者だって言うのかね。そんなバカがいたら私の代わりに死んでもらうに決まってるのだ! そもそも遺書も燃えてしまった、私が炎で焼け死んだところで、単に火事から逃げ遅れた間抜けでうすのろなマシェードだって笑われるだけだ! ……なんだと? おい今なんと言ったのだ、マシェードは間抜けでうすのろな種族などでは断じてなあい!! あのっ、あのパラセクトの野郎よりも足が速いのだぞ!! そうだ……そうなのだ、マシェードのために、ネマシュ族のために、私、こんなに頑張ってきたのに……ぐすっ、マシェードはっ、気味悪い種族ではないのだ! うわあああああん!」
「あんたこそ情緒ヤベーじゃねえかっ。黙って聞いていりゃあ興味ねえ身の上話ばっかベラベラベラベラと! マシェードは不気味だろうが鏡見たことあんのかクソジジイ! はあっはあっ……そんなら言わせてもらうっスけどねえ、あんたを庇いながら救助すんの、めちゃくちゃ大変なんスからね!? 階段上るのはトロいしさっきだって不用意に歩いて死にかけるし、いっそ俺の爪で先に楽にしてやろうか!?」
「ああっ殺せ! 殺すがいい! 痛いのは嫌だが殺してくれるってんなら死んでやらんこともないぞっ! どうせならその足でギラティナ様とやらに直談判して、マシェードの素晴らしさを直々に訴えてやるっ。っふふ、フフフ、見ているがいい電気屋よ、私の胞子はすごいんだからな! そら火練り屋、死なせてくれよ! ここで! 今すぐ! キミの爪で!」
「ウルセーーーっこの死に損ない! バーカバーカ! ヒョロもやし! お前の足カビ臭えんだよっ! ……よォし分かったそんなに言うんなら()ってやる、殺ってやるからな! ギラティナ様見ててくださいっスよ、俺は今からこいつをそちらへ送ります。送りますが、決して炎で燃やすワケじゃあねえ。爪で、殺るんスから! 来世は虫ケラなんかじゃないっスからね!? そこんとこ間違えずに目ぇかっぽじって見届けてくれっスからあ!!」
「おーい、何やってんロ」
 焼けつく廊下で七転八倒し、お互いの顔に掴みかかっていたふたりは同時に上体を起こした。彼らを見下ろすロトムを認めると、やはり同時に飛び上がった。
「電気屋ぁ! 」
 ふたりの声が重なった。こんがらかっていた怒髪天の矛先が、全ての元凶と思いこんでいる共通の敵へと向いた瞬間である。
 今にも襲いかからんとするマシェードとリザードに、ロトムは電磁パルスでできた両腕をすくめた。ちょうどコレクレーの宝箱めいたサイズの立方体の、摩訶不思議な装置へ繋がったノズルから、〝ハイドロポンプ〟の激流が(ほとばし)る。それは絡み(もつ)れたマシェードとリザードを一緒くたに貫き、廊下のへりへと()しつけ、それから続く10秒間の放水は彼らの怒りを壁ともども鎮火させたのである。
「…………」
「………………」
「これで目、覚めただロ」
「はい……」
 ずぶ濡れになったマシェードを見下ろし、ロトムが口を尖らせた。
「ロトム族の名誉のために言っておくト、明かり屋とか火練り屋の悪い噂はオーナーが言ってんロ。うちらはもっと楽しいイタズラしかしないかんね。むしろ燃えかけてたとこ助けてやったんだから、ちょっとは感謝してほしいくらいだし」
「は……はい、はい、さようですね、ありがとうございます」
「ふ〜〜〜ン。ま、ウチは優しいかんね。いきなり飛びかかってきたことは、水に流してやロ。洗濯機だけに」
「はは、これは面白い。はははは……さすが電気屋、あっぱれですな。ははは、は…………」
「あんたらもさっさと逃げロ。……もー、せーっかく人間世界の家電とやらをかき集めてひと儲けさせてもらおうかと思ったのに、マンション自体が無くなっちゃうトは。つまーんなーいのっ!」
 焼け落ちた植物壁の隙間から、電気屋は俊敏にも飛び出していった。あっ、とマシェードは悲鳴を掠れ上げたが、〝ふゆう〟持ちのロトムは何階から飛び降りても重力に従うことはないのである。
 廊下の壁にへたり込んだままのリザードが、今度こそ尻尾の炎を鎮火させながらぼやく。
「そういやアイツ、なんであれで火事消してくれないんスかね……」
「……」
「……」
「私やっぱり電気屋のこと許せそうにないのだが」
「俺もっス」
 しつこいヘドロ汚れまで綺麗に拭い落とされた明かり屋は、重い体を引き上げるようにして再び立ち上がった。細々とした腕を伸ばせば、それを火練り屋ががっちりと掴んでくれる。落ち着きを取り戻したふたりは、並んでお互いに支え合いながら最上階を目指す。
「先ほどは取り乱してしまい、誠に申し訳ない。炎から住民を助けるキミの行動は、決して間違ったものではないのに」
「いや、俺こそバカみてえに(わめ)いちまって……ごめんなさいっス。お前はたまにそうなるから気をつけろって、師匠にも言い含められてンのに……」
「いやなに、そう卑下することもないのだよ。起きてしまったことは変えられんのだから、それでも皆を助け出そうとするキミは立派な英雄なのだ」
「……しっかしまあ、考えれば考えるだけ不甲斐ないっスよ。火練り屋の仕事を任せられたからってハメ外しすぎちまって、俺。師匠の酒を舐めて気分よくなっていたからってよう、窓から顔突き出して夜風に当たってたら、ふわふわ〜って、光る小さな妖精さんみたいなのが落ちてきてよう。吸いこんじまったと思ったら急に眠気が襲ってきて……」
「……え?」
 明かり屋には心当たりしかなかった。火事になる数時間前、明かり屋が窓から投げ捨てた薬紙には、夕暮れに配る予定だった新鮮な胞子が包まれていた。火練り屋の部屋は明かり屋の部屋のちょうど2つ下、402号室だった。
 火練り屋の尻尾が火元ではあるが、そのさらに元を辿れば明かり屋の胞子が火種となっていたのである。
 腫れ始めた頬から血の気が引き、顔面蒼白となったマシェードへ、リザードが問う。
「明かり屋……どうしたっスか。クソでもしたいんスか」
「いや、いや、何でも、そうだな……」マシェードは無理矢理腹に力を込めて言う。「マンションの全員を避難誘導したからといって、まだ安心するには早いのだぞ!! 屋上に集めた者どもを安全に地上へ降ろすまで、我々に安息は訪れないのだからな!!」
「お、おう」
 ふたりは螺旋階段の最後の1段を上りきると、崩れ落ちるようにして屋上へへたり込んだ。びゅう、と吹きつける夜風は満身創痍の体に涼しく、やつれた笑みが自然と溢れる。
 枝分かれする梢に囲まれ開放感のない屋上の端、避難民たちが1ヶ所に集まっていた。火の手に追い立てられるポケモンたちの間にはいつしか、被害者によくある一体感のようなものが生まれていたのである。この窮地へと(おとし)めてくれた憎むべき相手――デザイナー兼施工主兼オーナーのアイアントへひと言文句をぶつけてやらねば気が済まない。屋上の端にはポケモンたちの黒山ができていて、マシェードとリザードはその隙間を縫うようにして近寄っていく。
 屋上際に追い詰められ、アイアントがエーフィに詰め寄られていた。
「みなはんお揃いで。こんな日は特に夜風が気持ちええなあ」
「オーナー……。オレがテレパシーで呼んだネイティオが、待機していたはずだが?」
「ネイティオ? ンな不気味な鳥モドキには帰ってもろてます。〝ストーンエッジ〟チラつかせたらそそくさ翼を畳んでな。……っククク、あんな情っさけない背中、ワシ初めて拝みましたわ。おおかた火事でみーんな燃えとる未来でも見えて、諦めたんとちゃいます?」
「お前……」
 デザイナーという職業はえてしてアクの強い者が多く、オーナーが法人ではなく個人の場合、価値観の違いからこうしたトラブルも避けられない場合がある。デザイナーズマンションを賃貸契約する場合、皆様においては不動産仲介業者でしっかりと確認されたい。
「何やってくれたんだ! オレたちが屋上から降りるための、頼みの綱だったのに!」
 と鏡屋のエーフィが叫んで、避難民はそれに続く。
「この際だから言わせてもらいますけどね、オーナーさん、いつも自分勝手で困ってるんですよ。自分だけ利子を薄くしろだなんて、そんな無茶な!」と銀行屋のコレクレー。
「そもそも、家賃で月20オレンはぼったくりだろ!」と冷房屋のユキカブリ。
「湯船へ入るたびにすぐ水道管が詰まっちゃうのよね……」と掃除屋のベトベトン。
「娘が段差で転ぶたびに、寿命が縮まりますの」と裁縫屋のハハコモリ。
「おじさん、きらい」と腕の中のクルミル。
「12階まで螺旋階段を昇り降りするので毎日へとへト……。なんつーの? ボタンひとつでポケモンを運搬する設備とか、ないロ?」と電気屋のロトム。
「てやんでぇ、棟梁(とうりょう)がンなあたじけねぇなら、後生までちゃんちゃんよぉ」と火練り屋のシャンデラ。
 後退(ずさ)りし逃げ場のなくなったアイアントは、住民たちを睨み回しては顎をカチカチとかち鳴らした。
「――はッ、どいつもこいつも言いたいこと言いよってからに! ワシかて可愛い可愛いマンション燃やされとるんですわ、もう何もかもお終いでっせ! わは、わは、わははははは! どーせみなはんここから逃げられんのやろ、好きに騒いだらええやないですの! ……ワシだけでも生き残っちゃる。アイアントはどんなに高いとっから落ちても死なへん、って雑学、あんたら知りませんの?」
「あっキミ、早まるなっ!」
「ほなサイナラ!」マシェードの制止も聞かず、オーナーは6本肢をワシャッと広げ屋上から飛び降りた。手すりのあるべき屋上際へ駆け寄り住民たちは下を覗きこむ。変ちきりんな高笑いを続ける小さな背中が、どんどん小さくなっていった。
 刹那、びゅう! と吹いた横風に煽られ、軽いアイアントの体が大きく流された。運悪くデザイナーズマンションの小さな窓へと吸いこまれていったデザイナーは「あ……アリぃいいいいい!?」と長ったらしい断末魔を残して消えた。
 みなが顔を見合わせる中、リザードの体が(まばゆ)い光に包まれる。ひと回りもふた回りも肥大したシルエットから、強靭な翼が伸びて陣風を巻き起こす。閃光が解けるとそこには凛々しいリザードンの姿があった。
 アイアントが呑みこまれたこの大火の泉源となったのは彼女の尻尾である。つまり、そういうことであった。
「……ああ、あ、ああああああ」
 火練り屋は慟哭(どうこく)した。こんなに悲しい悲願成就もあるまい。空を翔ける翼と引き換えに、ギラティナに裁かれる来世が確定してしまったのである。師匠の冗談を真に受け堅持してきた彼女にとって、それは何とも痛ましいことだった。
 星月夜を見上げて静かに涙を流すリザードン。マシェードは首を下げさせると、少女へ向かって言った。
「まだ諦めるんじゃあない、火練り屋。絶体絶命の今、マンション全員の命はキミの翼にかかっているんだ。みんなを抱えて運べば本物のヒーローになれる。……やってくれ」
「……っ、でも」
「これまでの勢いはどこへうっちゃったのだ。嘆くのは火が鎮まった後でいくらでもできる。可愛い弟子が死に物狂いで住民を助けたと知れば、師匠のシャンデラも不問にしてくれるだろうよ」
「おう、よぉくみじんまくしぃやった」
「……ほら、シャンデラもそう言っているのだから、気に病むことはないのだよ。そもそも私が窓から胞子を捨てたせいで、キミが眠ってしまったのだ。そんなにくよくよせずとも――」
「今なんて?」
 住民たちの冷たい視線が一斉に、口を滑らせたマシェードへと注がれた。
 火元になったとはいえ責任感から人命救助に奔走した火練り屋と、根本たる原因を作っておきながらさしたる活躍も見せなかった明かり屋。どちらが非難されるかは、それこそ火を見るより明らかである。
 無言の形相で詰め寄る住民たちに気圧され、マシェードは後退(ずさ)りした。焼けて(もろ)くなった屋上の一角を踏み抜いたものの、どうにか踏ん張った。煤となった植物片が風に流され消えていった。
「あ……あー……、ハハハ……。私、順番、最後でいいですので、ほら、どうぞどうぞ皆さん、火練り屋さんに運んでもらって、先に助かっちゃってくださいね。ネ?」
「あ……俺、すんげーいいこと思いついたかもしれねーっス」
 リザードンは住民たちを飛び越えマシェードの傘をむんずと掴んで掲げ上げると、翼を広げて火の粉の海を滑空した。





 満月の夜半、大樹が燃えていた。
 べきべきと歪な悲鳴を上げながら燃えていた。
 生命の象徴たる千年樹は今や1本の巨大な火柱となっていた。延焼しないよう周囲の森を(ひら)いて遠ざけることしかできないポケモンたちの消火活動を、天から嘲笑っているかのようだった。
 あるいは、己の幹をくり抜きあろうことか人間まがいの醜い『ご近所トラブル』を繰り広げてきたポケモンたちを、おいおいと嘆いているようにも聞こえるのだった。
 その隣で、明かり屋は根を大地へと深々と張り巡らせ、あらんばかりの力でエネルギーを吸い上げていた。
「――ぎゃああああ!!」
 大きく広げられたキノコの傘めがけ、ばふん! と衝撃があった。燃え盛るデザイナーズマンションの屋上から飛び降りたエーフィが、〝すてみタックル〟をマシェードへと叩きつけたのである。
 肉厚なキノコ傘が13階からの落下を緩衝して大きく(たわ)んだ。フワライドが〝ゆうばく〟するように胞子を拡散させると、傘は一瞬にして膨らみを取り戻し、エーフィを柔らかく弾き返しては地面へと降ろす。重力加速度の計上された技はマシェードの体力を根こそぎ(さら)っていったが、明かり屋はすぐさま月光を浴び、根から栄養を啜り上げることによって体力を回復させる。
「いギャアアアアアア!!」
 ――これはクルミルの〝むしくい〟。お次はユキカブリの〝れいとうパンチ〟。火事場にただひとりの悲鳴が断続的に響き渡る。〝スポットライト〟で注目の的となったマシェードへ技を外すなど、かえって難しいと感じさせるほどに、飛び降りる住民たちの乾坤一擲は正確だった。火災の根源となったマシェードに1発食らわせてやらねば死ぬに死にきれない、との思いが強かったからかもしれない。ともかく、マンション住民はアイアントを除いて無事全員避難できそうなのである。
 毒にも火傷にも劣らない激痛の最中、それが彼にとって懐かしい感覚に繋がっていることに気づいた。
 満月に照らされながら大地の栄養を吸収するのは、マシェードという種族にとってなくてはならないものだった。やはり自分のライフスタイルに合致した住処に根を張ることが肝要なのだ。多少はデザイン性に優れているものの魅力といえばそれくらいで、家賃は相場よりも格段に高く、住み始めてから管理費まで跳ね上がり、最寄り駅まで徒歩15分かかるのが苦痛になり、譲れなかった条件のベランダは1日じゅう陽が当たらず、コンクリート打ちっぱなしのデザインは冬が寒く夏にカビを生やし、メゾネットタイプの物件は何気ない騒音に毎夜悩まされ、収納は乏しく洗濯物がそこかしこに溢れ返り、海外ものの備品を壊すと修理費用を高額請求され、開放的な窓には隣の公園からボールが飛んでくる始末、バス・トイレ・洗面所が一体でガラス張りなのは友人も呼びづらい、おしゃれなアイランドキッチンは思うように活用しきれず、郵便受けには意識高い系のチラシばかり投函されるような生活を望むのは、人間だけで十分だ。焼け落ちてゆくデザイナーズマンションを見上げながら、マシェードは頭頂部へ断続的に与えられる衝撃を、どこかありがたくすら思っていた。
 あたりを駆けずり近隣住民のポケモンに呼びかけ、誰よりも早く消火活動に勤しんだノノクラゲが、マシェードの周囲を滑稽に走り回っていた。



 



あとがき
愉快! 愉悦! ノノクラゲ!!! なんで後ろついてくるだけでキミはあんなに面白おかしいの??? と、彼を走らせているだけでジムとかそっちのけで爆笑してました。わたし生まれ変わったらノノクラゲのヒラヒラになるんだ……。スカバイでシャリタツと並んで激刺さりデザインだったので、絶対に誰よりも先に小説に仕立ててあげたかったんです……とか言いつつ本編ほとんど出てこないんですけど。彼インパクト抜群だからオチのラスト1文が書けただけで満足なんだよな。消火を消化に誤字してたのはダサすぎますけど?
ストーリー(といえるものがあるのか?)はさらば青春の光のコント『ヒーロー』が元ネタです。というか後半の会話劇ほとんどそう。彼らの漫才もコントも間の使い方が絶妙なのでぜひ見てみてくださいね。


以下は大会時にいただいたコメントへの返信です。


・ポケモンの特性を活かしたコメディが素晴らしい。こういう毒味のすこしだけあるドタバタ展開はすきです。作者さんデザイナーズマンションにどれほどの恨みが…(2023/01/13(金) 22:46)

コメディとして今までシュールなのとシリアスなのは書いてきたので、スラップスティック的なものもひとつあってもいいのかなって思ったので、チャップリン時代のドタバタ感を意識して書きました。キャラみんな真剣で痛い思いしてるんだけど、それ全体が喜劇なんだよ……って雰囲気で。人間でも毒に侵されるのは痛そうだけど、それが4倍ダメージ入るマシェードだったらなおさらたまったモンじゃないですよね。ポケモン特有の痛み表現を考えるの楽しかったです。4倍弱点持ちの子ってそういう観点からも愛おしいんだよな……。


・楽しく読ませていただきました
確かにこんな物件には住みたくないですね
幽霊の類でなく物理的な事故物件でした (2023/01/14(土) 11:42)

エントリー時のキャプションは適当に書きすぎた感はあります。全然関係ないし……。でも住環境はこだわりたいですよね……引越ししたことない自分が言えたことじゃないんですけど、まあ防火設備のない物件には住みたくないですわあ……。
いろんな生活環境のポケモンたちを一緒くたに住まわせるなんて、できたものじゃないのだ。今作はストーリー的に火に弱いタイプの子たちを集めましたが、これが水中の話だったら電気屋なんて受け入れてもらえなかったんだろうなって。ポケモン間での迫害とか考えるの最高に楽しいんですよね……。


・キャラが自殺しようとしている描写で笑える小説を読んだのは生まれて初めてかもしれません。このまま誰も死なずにハッピーエンドかな? と思いきや最後にオーナーがノルマクリアしてるし、全体的に不謹慎で良かった。非官能部門一押し小説です。 (2023/01/14(土) 12:15)

誰も傷つかないような小説を書くのもテクニックですけど、刃物を構えたまま「私はこれが面白いと思って書いたんだけど、読者様はどう?」ってにじり寄るような作品もあっていいと思うんですよ。ただひとたび手を滑らせると刃が自分に刺さってこうなるんですけど……。ギャグ作品出すたびに自分のセンスを評価されているみたいでほんと恥ずかしいので毎回やめようと思うんですけど、他に切り売りできるものもねえんですよね……業。
こんな作品に一押し、ありがとうございます!


・前半のポケモンたちの仕事の姿から教養と着想を感じさせられたところから一転、後半の火災救助のテンションには抱腹絶倒でしたwww (2023/01/14(土) 20:17)

キングオブコントで空気階段が披露した、SMクラブが火事になるコントも優勝さもありなんってくらい面白かったですからね……建物は燃やし得です。職業とか住民の関係性とか、自らコツコツ積み上げてきた設定に火を放って台無しにする快感、たまんねぇなコレ……。


・テンポ良く読めて面白かったです! (2023/01/14(土) 20:37)

ギャグ小説ってテンポが命みたいなとこあるんで、そう言っていただけるとありがたいです! ホントはツッコミとかひとつも入れずに、ふたりがお互いに罵り合っているだけで面白いのが1番面白いと思うんですけど(思想)、参考にしたのがコントってこともあってこういう形に落ち着きました。


・自虐と他虐のレパートリーが豊富すぎていっぱいちゅきです (2023/01/14(土) 21:30)

シリアスなシーンでかつ登場人物も一生懸命なのに、それをはたから見ているとなぜだか笑えてくる。そんな状況作りの先に行き着いたのが火事でした。長年書いていて私まだエルフの村に火を放ったことなかったんですけど、この作品で代えさせていただきます。
このボケだけテイストが違うので最後まで悩んだんですけど、『ちんちんが、ちんちんになっていた。』の1文はどうしても書きたかったよね……。冷静になって読み返すと別に面白くはないんですけど、これ冷静に読んじゃいけない作品なのでなんとか誤魔化せるかなって。『そう! 誰も! 消防車を呼んでいないのである!』のネタもねじ込みたかったんですけどギャグの毛色が違いすぎるので諦めました。英断。


・各ポケモンの特徴をパズルのように巧みに組み合わせて、出来上がったのがとんでもなく悲惨な喜劇。展開が進む度に笑わせて貰いました。面白かったです! (2023/01/14(土) 21:51)

パラセクトをはじめこれまでキノコポケモンたちは軒並み可愛がってきたので、そりゃあマシェードにも愛着を持っていました。マシェードはなんて言ったって顔がコワい……そこがいいんですけど! イラストとかだとけっこう不気味に描かれることの多いマシェードの新たな魅力として、顔面往復ビンタされるキャラもアリなんじゃないかなって。できればあちこち走り回るノノクラゲくんもガッツリ登場させたかったんですけど、頭に火をつけるか尻に火をつけるか最後まで決められずに断念。いつかちゃんとメインに据えてあげたいですね。
アラブルタケ……? ふぅん……そういうのもあるんだ……。(孤独のグルメ風)


・デザイナーズマンションはやめとけ、それは本当にそう。人もポケモンも地に足付けて生きるべきですね。
さておき、コミカルというべきかシュールというべきか、マシェードを筆頭とするいい性格の登場人物たちが織り成す軽快な掛け合いと、滅びゆくデザイナーズマンションを舞台にとにかく小気味よく進行する物語が非常に読み応えあって面白かったです。個人的に、最終行近くの怒涛なデザイナーズマンション悪口が気に入っています。親でも殺された? (2023/01/14(土) 21:58)

無理してデザイナーズマンションに引っ越した友達のとこへ遊びに行ったんですけど、お酒飲みながら3時間くらい愚痴を聞かされたのが今作を書いたキッカケです。遊びに行くぶんにはめっちゃオシャレで素敵空間なんですけど、住むってなると問題は少なくないらしく。ベランダに全然陽が当たらないことを1番に悔やんでいましたね。あとなんか洗濯機を設置するとこの床が抜けたりしたりして。もういっそ火事になって全て燃えてしまえ! と彼が口を滑らせたので、私がその通りにさせていただきました。感謝されこそすれ恨まれることはないよなあ?



読んでくださった方、感想ともども投票してくださった人、主催者様、ありがとうございました!


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Last-modified: 2023-01-15 (日) 22:18:49
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