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ガネーシャの天秤

/ガネーシャの天秤



※この作品はR-15程度の官能描写を含む可能性があります。どのような展開でもお楽しみください。

次章


ガネーシャの天秤




水のミドリ

もくじ


1 もしかしてエッチな? 


「ハイせんせー、それってもしかしてエッチな!?」

 保健体育の授業中、乱雑に並べられた席の1番後ろから、声変わり前にしては低めな声が上がった。利かん気の強いゾウドウのパオロが、みんなの注意を惹きつけるようにその長い鼻を掲げ上げ、体格に比べて小さすぎる石の机に前脚を掛けている。
 ギャロップの教師が教壇から念力でチョークを飛ばす――それよりも早く、最前列の席、生徒のひとりであるモルペコが立ち上がった。3倍以上はある身長差に物怖じもせず、鋭くパオロを睨みあげる。

「授業中にふしだらなことを叫ばないでいただけますか! 全く男子は品がなくて卑しいこと!」
「なんだよっ、小さいくせにお高くとまりやがってさーあ。じゃーお前は、〝おとなになる〟ってのが、どんなことだか分かるってのかよーう」
「とー然です!」

 彼女のために切り出された小さな石材に乗り上がると、モルペコのキップイは栗色と灰鼠(はいねず)の体側へエヘンと両手を着いて、パオロに噛んで含めるように言う。

「前回までの保健体育の授業をちゃあんと聞いていれば、いくらアナタでも理解できる内容ですわ。おとなになるというのは……、つまり、えぇとですわね……、進化して、体が大きくなることですの」
「へえ? じゃあキップイはもうおとなになれないってーか」
「ななななな――、なんですってえ!?」

 目の色はおろか、体色まで一変させたモルペコが地団駄を踏みつけた。頬袋から微弱ながら電撃をほとばしらせ、硬い机を今にも踏み抜きそうなほど気色ばんでいる。
 睨みあうふたりに割って入ったのは、スクールの最高学年の気忙しいクラスを受け持ったギャロップ、シュヴァルツの念力が操るチョークだった。

「進化することも、おとなになることのひとつに挙げられるわ。もちろん進化しなくとも、体は成長する。キップイ、あなたもちゃんと成長しているから、安心してほしい」

 勝ち誇った気分はすぐに体調へと現れるのだろう、すぐさま満腹模様へと早戻り。シュヴァルツに認められたキップイは、はん、と鼻を鳴らして、挑発的な目つきでパオロを見下した。体格差のせいでどうしても見上げる格好になっているが、高飛車に笑っているらしく口許へ手を当てている。
 全く……、と小さなため息をつき、シュヴァルツ先生は険悪なふたりへ睨みを利かせつつ教室を見渡した。――他にはありますか、おとなになるとは、どんなことか。
 パオロの前の席に座っているヒトモシが、頭の炎をブワっと噴き上げた。先生に当てられて、席を立つ代わりにシャキリと背筋を伸ばす。

「進化して強くなれば、難しいダンジョンにだって挑戦できます。早く走れるようになったり、力持ちになったり、ポケモンによってそれぞれできることが増えます。僕はランプラーになると、もっと強い火力を出せるらしいし……」
「でも校長センセ、おとななのに毎日ぐーたらしてるよー?」

 隣の席から、タタッコの女の子が口を挟んだ。丸い手がヒトモシの男の子の背中を叩こうとして、すり抜ける。距離近いなあ……、とうんざりした声がしたが、タタッコは気にする様子もない。
 スクールの校長はケッキングで、朝礼の挨拶をこなすと大抵は校長室の屋舎から出てこない。たまに顔を出したかと思えばグラウンドに寝そべり、伸びてきた芝をちぎっては食べ、ときどき寝返りを打ちながら、またちぎっては食べをしている。その怠惰ぶりを遠くから生徒たちにからかわれても、ものぐさに背中を掻いて取り合うことすらしないのだ。やんちゃ盛りな低学年の子たちからは、だらしないおとな、との烙印を押されていた。
 シュヴァルツはばつが悪そうに馬鼻をぶるるる……、と鳴らす。

「物事に例外はつきものよ。進化する前はとってもやる気のある先生だったのだけど……あの姿はあの姿で、まあ、頼りがいがあるでしょう? 大事なのは見た目じゃない。進化すれば身体はおとなに近づくけれど、心の方はそうもいかないからね」
「こころー?」
「校長先生をからかったり、悪く言うおとなはいないでしょう? 校長先生自身もそう。進化すれば体はぐっとおとなに近づくけれど、心はそう急に成長しない。……心がおとなになるって、どういうことだと思うかしら」

 教室に穏やかな沈黙が訪れる。街外れの小高い丘の拓けた場所、わんぱくな子供たちの遊び場へ黒板と机を置いただけのような、屋根すらない自然の学窓。ケッキングの指先で刈り揃えられた芝生は、秋めいてきた涼しげな風を受けて小さく音を立てている。
 背中を丸め黙ったままでいたミルタンクが、おずおずと前脚の蹄をあげた。

「……落ちているきのみを拾っても、独り占めしないで、友達と分けて食べる、とか……」
「そうね。できれば拾ったきのみは誰かの落とし物だから、食べないで先生に届けて欲しいところだけれど」
「た、たしかに」
「でもね、自分のことだけじゃなくて、みんなのことも考えられるというのは、確かにおとななこと。ありがとうオーレット」
「いえ……」

 浮かんだチョークが黒板に〝きのみを友達と分けて食べる〟と足形文字を連ねる。ミルタンクに続き、生徒たちはそれぞれに思うおとな像を挙げていった。誰が言い始めたのか、漠然とした憧れを抱いていいるおとなをひとりずつ、付け加えていく。先生や町の(おさ)、両親と、その仕事場で見かけるポケモン。子どもたちの知るおとなはそう多くない。
 1クラス7匹の意見が黒板に連なると、シュヴァルツはボリュームのある(たてがみ)をそよがせて全員を褒めた。振り撒かれるパステルベールは跳ねっ返りの強いパオロの牙まで抜いてしまうらしい。純朴さの残る真鍮(しんちゅう)色をした瞳が少年らしく輝いていた。

「これから君たちは進化したり、いろいろなことを経験して、体も心もだんだんとおとなになっていきます。心が成長すると、思ってもみない気持ちになったりもする。好きな子をついつい意識しちゃったり、気持ちが無性にむしゃくしゃしちゃったりね。それは何も間違ったことじゃない。大事なのは、そうした自分の変化を受け入れること」

 秋風に乗せられた教師の言葉。それは冬を越し、春には卒業を控えた子どもたちの背中を確かに押していて。
 カラナクシの男の子が、遠浅の海のような水色をした頭のふさで隣の席のモルペコをつつく。

「キップイは初めに発言したから、尊敬しているひとを聞けなかったね。教えてよ」

 話を振られた彼女は、自分ひとりだけ発表できずにうずうずしていたらしい。待ってましたと表彰台に上がるようにして机に立った彼女は、十分にクラスの視線を集めてから、得意げに言った。

「わたくしの尊敬するかたはですね、やはり、探検家として大成された先輩でしょうか」

 挙げられたのはおととしまでスクールに在籍していたベロバーの名前だ。卒業と同時にギモーへと進化を果たし、探検家としてみるみる功績を打ち立てると、その噂は小さなこの町へも舞い戻ってきた。数日間スクールではその大先輩の話題で持ちきりだったし、彼がどれほど優秀な生徒であったかを教頭のジジーロンから長々と説法されたものだった。
 1年間だけだが、そんな彼とキップイはお付き合いしていたのである。
 手持ち無沙汰に鼻をぷらぷらさせ、すかさずパオロが口を挟んだ。

「でもよ、フラれてんじゃん」
「……パオロくん、あなたわたくしにケンカを売っていらっしゃるの?」

 この夏に里帰りをした先輩は、隣に温厚そうなポポッコの女の子を連れていて。彼が町を離れるときに割り切っていたことだが、そうとは分かっていてもキップイは塞ぎこんでしまっていた。そのときの話を蒸し返され、頬袋を引きつらせながらパオロを睨みあげる。

「なんだ、おれとバトルしようってかーあ? チップイのくせに」
「あ……あなたねえ!」

 進化もできずに小さいチップイ。おまけに器まで小さいよなあ! ――たまらず電撃の色を変えたキップイの周りに、彼女を支援する女の子たちが自ずと寄り集まる。タタッコはその腕を振り回すように勢いよく、ミルタンクはその大きな体をモルペコに隠すように縮こまりながら。
 対してパオロの足元にはヒトモシにカラナクシ。大きなゾウドウの体に隠れないよう、炎を伸ばし(ひれ)をゆらめかせる。しかしこういうのは得てして男の子の分が悪い。かまびすしく喚き散らす女の子に負けじと、威勢を張っている。



 ヤジロンのシャコは、そんな輪の中に入れず教壇の前でオロオロしていた。



 無性別であるところの彼は――便宜上〝彼〟と代名詞を用いるが――思春期に差しかかった同年代の子どもたちよりも、そうした知識に乏しかった。なぜパオロとキップイが喧嘩するのか。なぜそれに男女で加勢して対立するのか。他の子たちが考えるまでもなくとった行動に理解が及ばない。
 そもそもいがみ合いの発端となったパオロの「もしかしてエッチな」がよくわからない。女子が非難の悲鳴をあげ、男子が囃したてる中、シャコはゆるく回転しながらずっと思考をめぐらせていた。もしかしてエッチ……H? アンノーン文字でHから始まる言葉は……ハンテール(Huntail)ハネッコ(Hoppip)はかいこうせん(Hyper Beam)。フローゼル……はFから始まるんだったっけ。じゃあ例えば破壊光線だとして、「もしかして破壊光線?」ってどういう意味だろ。国語の次はバトル座学の授業を思い出す。使ったら反動が凄まじく、しばらく動けなくなる大技だ。ぼくも、ネンドールに進化を果たせば自ずと覚えるものらしい。……それほどすごいってことなのかな、おとなになる、っていうのは。
 シャコがあてもない想像に脳を回転させているうち、はかいこうせんでも打たれたのか、と目を疑うほど教室は男女でまっぷたつに分断されていたのだ。そのちょうど中間で取り残されていた彼は、180度回転するたびに剣呑なクラスメートの顔つきを見ることになり、慌ててブレーキをかけた。
 なぜこの場面で男の子と女の子で対立するのか、自分はどちらの陣営に付和雷同すればよいのか。咄嗟の判断ができないでいた。頭数は奇しくも3対3だ。――先生を数えれば、パオロの方についた方が公平かな。けれど争っているふたりのことを考えれば、体格差をカバーするためにはキップイに着くほうが公平なのかもしれない。

「シャコはもちろん、おれたちの仲間だよなーあ!」
「そうやっていつもいつも強引に取りこもうとするの、シャコさんもいい迷惑だと思いますわ!」
「うぅ、ううう、ぅギギギ、ひィぃッ引っ張らないでええええッ!!」

 天秤ばかりにも見えるヤジロンの両端を、それぞれゾウドウの鼻とモルペコの両手で掴まれて。シャコはどちらを選ぶべきか決められないでいた。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

    ...................
    =*****************+:
     .......:==:......
            .*=:-:                -**:
                 :=-.  :=+*+=--:. +**=
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                                  +**=          .==-:.    :.
                                 -====:
                                  +++=
                                .-****-
                               :-===+==:.
                              .:-=-:=:==-.

      (パオロに味方する。)                           (キップイに味方する。)
             3.                                           6.





2 HELPFUL 


 どうにか鼻を振り払って、シャコはモルペコの隣へと軸を転がした。パオロの威圧感に()されじと睨む彼女の瞳を真似て、ヤジロンの糸目を吊り上げる。ぼくだってやるぞ! と軸脚1本で歴戦のカポエラーよろしく威嚇した。……あ、『もしかしてHな?』のHはもしかしてカポエラー(Hitmontop)だったり?
 シャコがあらぬ方向へ思案を飛ばしているのをよそに、女子陣営の頭数が増えたことによりパオロの顔色はぐんと悪くなっていた。

「ッ、シャコ、てめ……! 後で覚えてろよ」
「きゃはははっ! シャコさんわかっていらっしゃる! いつもの鬱憤晴らし、存分にしておしまいなさい!」

 この前ダブルバトルの授業でパオロとチームを組んだとき、キップイの電撃を防ぐために避雷針がわりにされたことも記憶に新しい。念力を繰り出そうと集中するまもなく鼻で捕まれ、驚いて開眼(かいげん)しかけたところを雷の衝撃に包まれた。タイプ相性ゆえダメージこそなかったものの、受けたショックは小さくない。加えて続くタタッコのサクの瓦割りをいなすために、鼻を紐のようにして独楽(こま)さながらに回されたのだ。――しかも逆回転! 慣れない視界のぐらつきに、シャコはしばらく目眩が直らなかった。けっきょく試合には勝ったものの、素直に喜べないでいたのだっけ。
 パオロを庇うことくらい、目くばせでも掛け声でも――何かサインをくれれば連携できたのに。避雷針か独楽かのように扱われたことが、ずっともやもやしていた。チームを組んでダンジョンに潜ったときも、先頭に立つパオロがほとんどの敵を食い止め、シャコはもっぱら道具の管理を任される。それが彼のいいところなんだと長い付き合いで分かってはいるけれど、もう少し信頼してくれてもいいんじゃない? パオロの友だちなんだってことを訴えるためには、キップイの言う鬱憤晴らしではないが、たまにはこうやってバトル相手になるのも妙案かもしれない。
 シャコが長々と思案しているうち、勢いづいたキップイの頬袋に電気が充填させる。普段はきのみをローストしているような軽い電撃が、ちょっかいをかけるようにパオロめがけて飛んでいった。

「あだ!?」
「ああら? シャコさんを取られたのがそんなに衝撃的でしたこと? ま、パオロくんとわたくしを天秤にかければ、釣り合いをとるためにわたくしへ味方するのは当然の結果ですわ! あなたならひとりでも十分に重いのですから、威張り散らしてそのまま孤立してしまいなさいな。きゃはははは!」

 正面きっての挨拶さえまともに防げなかったパオロへ、煽る言葉をすかさず送りつけるキップイ。シャコに選ばれたことをまるでスクールの首席に選出されたような大仰さで言う。〝いばる〟と〝おだてる〟技は同時に使用しても効果があるのか定かではないが、その大きな耳で言葉を捉えたパオロの顔はみるみる赤くなっていった。

「ンにゃろ……ッ」

 軽い混乱状態へ陥ったパオロが前脚で地面を掻く。――〝じならし〟の予備動作だ。それはキップイも察知したらしく、隣を向いたシャコの糸目と彼女の瞳とがぶつかった。伸ばした天秤の柄に、すかさず彼女が飛び乗ってくる。勢いのまま1回転し、少し崩したバランスを立て直すのと、パオロが前足から地面へ衝撃波を放つのがほぼ同時だった。浮遊した土偶ポケモンの下を大地のエネルギーが素通りしていく。――タイミングばっちり、息ぴったり。パオロとのダブルバトルでは達成し得なかった感覚だ。テレパシーじみた連携に、シャコは肩へキップイを乗せたまま小さな達成感を噛み締めていた。
 シャコたちの背後で構えていたミルタンクとタタッコは退避していたが、パオロの隣にいた男子チームは反応が遅れていた。弱点技の直撃を受けたヒトモシのルーミーは、青白い炎をか細くさせながら崩れた蝋の体を持ち直していた。

「パオロ、オレがいるときはその技やめろってばぁ!」
「おれがやるから、お前らは下がってろって言っただろーがよ!」
「うわ言ってな! 言ってないでしょ!」

 相手チームが阿鼻叫喚している今がチャンス。シャコは浮遊体で地面技をやり過ごした二面ポケモンを降ろすと、どんな相手であろうと踊るような華麗なキックでダウンさせてしまうカポエラーを想像して、やじろべえの体を逆さまにひっくり返した。そうすれば自分にも歴戦の探検家のように、覚えもしない格闘技さえ使いこなせそうな気がして。

「シャコさん、それ何ですの?」

 不恰好にでんぐり返しをしたシャコを見て、キップイが怪訝そうに首を傾ける。

「ほらこのかっこ、カポ……ええと、エッチなポケモンに見えない?」
「え゛……ッ!? しゃ、シャコさん……? もういちどおっしゃっていただけます……?」
「だから、おとなになるっていうのは、強くなっていろんな技が使えるようになることなんでしょ? だからこうやって、エッチなポケモン(Hitmontop)の真似をすれば!」
「……。ウソですわ。シャコさんまでパオロくんに毒されていますなんて……」
「これでパオロにも、ぼくがちゃんと戦えるんだってこと、しっかり見せて……ッとと、バランスが難し――うわわっ」

 見よう見真似にも満たない、授業で習っただけの知識では、カポエラーがどのようにバランスを保っているかなど分かるはずもない。慣れない体勢に平衡感覚は機能せず、シャコはあえなく崩れ落ちた。制御を失った土偶ポケモンの体が倒れたその先は、パオロへ追撃の電力を再装填していたキップイの顔。
 技を発動させようと集中していたところを仲間に邪魔される苛立ちは、シャコも身にしみて分かっていた。本来の1本脚で立ち直ると、溜めた電気エネルギーを無残に大地へ逃してしまったキップイを抱え起こす。

「ご、ごめん……」
「……。さっきまではいい感じでしたのに……。急に逆立ちしようだなんて、どういう了見ですの? いつもパオロくんと一緒にいるから、その、え、ぇっち……だとか、そんなどうしようもないことばかり吹きこまれるのですわ」
「カポエラーのこと……じゃないんだよね。勘違いしてた。でもパオロは悪くないよ、ぼくがちゃんと理解できていないだけだから」
「いいえ、わたくしがいくら指摘しようと、パオロくんの素行は悪くなるばかり。学年長として悩ましいことですわ、全く」
「それはキップイがいちいち突っかかるからじゃ」
「あ゛?」
「な、なんでもない……」
「ともかく、彼とあまり(つる)まないほうが賢明ですことよ。でなければシャコさんまであんなふうに仲間割れして、友だちを傷つけるポケモンになってしまうかも……!」
「パオロとルーミーはいつもあんな感じだし、それに去年まではみんなで遊んでたじゃない。ほら、冬休みに秘密基地を作ったりしてさ……」
「……そろそろ遊ぶ友だちも選んだ方がいいと思いますの。あんな粗雑で乱暴なパオロくんよりも、わたくしたちと仲良くしましょ。ね?」
「そっそんな、急に言われても……。みんな大切な友だちだし」
「そうやってッ、パオロくんにひっついたままだからシャコさんは主体性がないって言ってるんです! その立派な1本脚はなんですの!? ヤジロンはそれで独り立ちして回転するために――」

「そこまでッ!」

 埒のあかない罵り合いを見かねて入ったのは、教卓で静観していたギャロップのシュヴァルツだった。凛と響く声でかしましい生徒たちを一喝すると、席に戻るよう促して小さく(いなな)いた。

「あえて止めないでいたけど……。みんな、そうやって喧嘩するのは、おとななことだと思いますか」
「でもッ、それは」キップイが慌てて抗議の声をあげる。「パオロくんの生活態度には目に余るものがあって」
「先生は心配なんですよキップイ。あなたは探検家を目指しているでしょう。ダンジョンの中で仲間割れなんかしたら、すぐさま行き倒れておしまいよ」
「う……」

 キリッとしたギャロップのひと声に心を正されたように、生徒たちは沈黙した。ついさっきまで威勢の良かったパオロは鼻先を丸めこんで、まるで銅像のように微動だにしない。ばつが悪かったり答えづらい問題を投げかけられたとき、その体躯に見合わぬほど彼は気配を消すのが上手いのだ。
 虫のいいやり過ごし方に、シュヴァルツが柳眉に皺を寄せる。しかし生徒たちにおとなの反例を実践させた効果はあったようだ。自分たちで掲げた理想像とはかけ離れた己の姿をまざまざと見せつけられて、クラスのみんなはしょげこんで説教を受ける。
 シュヴァルツが授業をまとめようと黒板に向き直ったところで、グラウンドの方から声がした。低学年のクラスがバトル実技の授業で軽い怪我を負ったらしく、ウツボットの教師が彼女を呼びつけにきたのだ。
 すぐに向かいます、とひと言置いて、シュヴァルツは生徒たちに向き直る。

「ええと……、今日の授業はおしまいです。みんなもう仲(たが)いはやめること、いいわね? ……それからキップイ、後でお話があるのだけれど、昼休みちょっといいかしら」

 ギャロップの凛とした目線に、名指しされたキップイはひどく取り乱した。背後から注がれる男子のにたついた視線へ噛みつきそうになって、シュヴァルツの前脚へ縋りつく。

「わ……、わたくしがよろしくないのですか先生。でも、だって、あれはパオロくんが先にいじわるをおっしゃってきたから……」
「いいえ、確かに授業中に大騒ぎしたのはよくないけれど、叱るわけじゃありません。私は心配しているの。キップイ、最近体調が優れないんじゃない?」
「え……」

 心当たりがあるようで、キップイは黒目がちな瞳を見開いた。毎朝(くし)で丁寧に整えられているのであろう、整った毛並みが緊張に逆立ち、まるで静電気を漏らしているように膨らんでいる。爆発の罠を踏んでしまったようなみすぼらしさに、パオロが気づかれないよう小さく鼻を鳴らしている。
 つんと立った耳へ、シュヴァルツの耳打ちが届く。

「そのことについてアドバイスできるかもしれないから。保健室まで後で来てね」
「……はい」

 それでも自分だけ釘を刺されたのがキップイには耐えられなかったらしい。柿の葉の形をした耳を萎れさせ、前歯で下唇を噛んでいる。涙こそ流してはいないが、その悔しさは隣の席で見守っていたシャコにも痛いほど伝わってきた。
 シュヴァルツが教室を小走りで出ていって、パオロとルーミーが堪えきれずに笑い出した。鼻で、もしくは青白い炎の先で指しながら。

「やーい、先生に呼び出されてやんのー!」
「……」
「パオロに楯突くから、こうなるんだぞ!」
「……」
「いつもお嬢様を気取っててさ、親の仕事はタネ農家だろ? こーいうときにボロが出るってもんよ。くくく、笑えるぜ」
「……」
「しかもほとんど自分たちで食べちゃうんだってな。売り物になるのはどうせ、モルペコでも食べないような出来の悪いタネなんだろ」
「…………」
「言えてる。キップイん()のヤナッキーの親父さんとおれの(とー)ちゃん、面識あるみてーだけどよ、いっつも気疲れしてるんだってな。モルペコってのは、家族だろうと他の奴にメーワクばっかかけて、つくづく面倒くせー種族だよな」
「…………。パオロくん、いま何ておっしゃいました?」
「あ?」

 俯いたままのキップイが、オニゴーリ顔負けの顔つきでパオロを睨みあげていた。普段の(うらら)かな顔つきはどこへやら、血走らせた双眸を釣り上げ、腹ペコ模様へと様変わりするのをすんでのところで食い留めているような、そんな形相。頬袋はタネを蓄えているかと見間違えるほど膨らんでいて、あと少しでも電力多寡になればあたり構わず放電してしまいそうな様子だった。尋常ではないことは、誰の目にも明らかだった。


「だ、だからよー……。お前が、面倒くさい性格してやがるなーって言っただけだろ……」パオロも異変に気付いたようで、ぶらぶらさせていた鼻先を引っこめる。「おっおい、こんくらいいつも言ってるだろ? そんな怒んなって――」
「シィっ!!」
「うお!?」

 宙をつんざく電撃。エレキフィールドさえ展開しかねないほどのどす黒い電気エネルギーが、その小さな身体に帯電されていた。
 怒りだった。
 オーラぐるまですらない、キップイの体から漏れ出た静電気さえ変色させてしまうほどの激情が、彼女の中を渦巻いていた。
 怒っている、それもこれ以上ないくらい。でもなんで。口喧嘩ならクラスの誰より弁が立つはずだ、それこそパオロとルーミーを同時に相手取っても引けを取らないくらいには。何か、パオロが逆鱗に触れたのかもしれないが、今さら謝ろうとも許される雰囲気ではなくなっていた。
 クラスのみんなが唖然としながら硬直している中、男女の仲違いにすら鈍感なシャコにその原因が分かるはずもない。隣の席、爆発寸前のマルマインを前にして、彼は軸足を傾けた。

「シャコっ、危ないっ!」

 自ずと体は動いていた。誰かの声が聞こえてから、シャコは自分がキップイへ手を伸ばしていることに気づいた。それは彼が唯一キップイの電撃を受けられる地面タイプだから――なんて、考えるまでもなく。理解できない何かに苦しみ、それを撒き散らそうとしている彼女を、助けなきゃ。痺れを切らせたキップイがパオロへと飛びかかるよりも早く、その土くれの両手で彼女を抱きすくめていた。

「だめだよっ! 先生にもう喧嘩するなって、ダメ押しされたじゃないか!」
「離せッ――離しなさい、シャコさんッ! わたくし、パオロくんが許せません! その横っ面を引っぱたいて差し上げないと、あたしの気が済まねぇンですの!!」
「口調崩れてるよっ」

 絶縁体の腕に抱えられたまま、キップイは暴れに暴れた。腹ペコ模様へと変化を遂げた前脚は鉄の棘を投げつけるようにうなり、拘束を解こうと小さな後脚はシャコの腹をしたたかに蹴る。電撃は緩急をつけながら拡散し、彼女の机周りの芝草に焦げ跡を残していく。――怒りの感情が振り切れて、自分でも制御が利かないのかもしれない。腕からすり抜けられないよう細心の注意を払いながら、シャコはキップイの様子を目に焼き付けていた。

「はあ……はあッ、なんでこんな……うぅ゛ッ」
「……。キップイ?」

 ひと通り暴れてから、キップイの怒号に苦しげなうめきが混じるようになる。間近で彼女の豹変ぶりを目の当たりにしてきたシャコは、その変化にいち早く気づいた。
 呼吸を整えることすらままならない様子で、土偶ポケモンへしだれかかったまま震えを押し殺そうとしているキップイ。シャコの呼びかけさえ耳に届かないのか、蒼白の面差しで目だけは恨めしくパオロを睨んでいる。
 黒板の陰にまで避難していたミルタンクのオーレットが、怯えたように耳を垂れた。

「も、もしかして……。発情期、きたとか……?」
「はつじょーき? ってなーに?」

 あどけなく聞き返したタタッコの声は男子にも届く大きさで、ミルタンクはさっと顔を紅潮させた。言葉を継げなくなった彼女に代わり、パオロの陰で見守っていたカラナクシのカイトが付け加える。

「……聞いたことがある。とりわけ陸上グループに属するいくつかの種の雌は、成熟すると発情期の前に〝生理〟*1というものを迎えるらしい。症状はいろいろあれど、腹の奥をつねられるような鈍い痛みが続くんだとさ。……陸上グループでもない、まして雌でもない俺たちには想像できないけど」
「ぅ……っ、ふ、ぅ゛……!」

 キップイはどうにか深呼吸を繰り返そうと、シャコの腕の中で懸命に震えている。満腹模様と腹ペコ模様が交互に目まぐるしく切り替わり、体を支えるシャコへ軽微な電流を垂れ流したまま。地面タイプゆえ受け止めることのできる彼は、エンニュートの腐食毒を浴びたように痙攣するキップイを抱えながら、訳もわからず固まったままでいた。

「は……ははははッ」だんまりだったパオロが勝ち誇ったように(うそぶ)いた。「あれだけ偉そうなこと言っておきながら、ざまあねえぜ。これからはその、せーり? ってヤツのタイミングで、おれたちに突っかかってこないこった! ただでさえ役立たずの小っさいチップイのくせに、せーり? じゃ何もできないんだからなーあ!」

 パオロの大口に、出方をうかがっていたルーミーがすかさず同調する。

「あはは、ダンジョンを進んでいる途中で、せーり? で倒れられちゃあ、探検家として足手まといになるもんな。そりゃ、ベロバーの先輩からフラれても仕方ないってワケ。でも気をつけろよパオロ、女ってのは面倒くさいんだ。このあと何言われるか……」
「そうなのか? おれ、兄弟しかいないから分かんねーけど」
「オレにはシャンデラのねーちゃ――、姉貴がいるからね。ちょっと気に食わないことがあるとすぐにイライラして、ヒステリックになってあたりに炎を撒き散らすのさ。この前だって――」

「パオロっ!!」

 ルーミーの無駄話を遮ってシャコは叫んだ。胸の中のキップイへ負担をかけないよう、不得意で雑音の混じったぶきっちょなテレパシーに乗せて。

「早く、先生、呼んできて。友だちが苦しんでるんだから、早く」
「お、おう……。なんだよ、大声出すなよー……」

 トリックルームの切れたコータスのようにガス欠になったパオロが、駆け足気味にいそいそと遠ざかっていった。ひとりで残されるのもばつが悪いのだろう、「ま、待ってよ……」とその後ろをルーミーが跳ねていき、飛び散った蝋が冷えて地面に白い跡をつける。
 駆け寄ってきた女の子たちは口々に、ぐったりしたキップイへと声をかける。だいぶ安定したのか呼吸は柔らかなものへ移っていて、あのまま気を失っていたみたいだった。
 すぐに到着したシュヴァルツは生徒たちを問い詰めたりはしなかった。悪タイプゆえ念力の効きにくいキップイを慎重に背中へ乗せる。

「だいたい分かったわ、伝えてくれてありがとう。みんな怪我はないようね。午後の授業までしっかり休みなさい。もうふざけるのもなし。いいわね? ……キップイを保健室に運ぶから、オーレット、手伝ってくれる?」
「え……、ぁ、はいっ」

 遠のいていくギャロップとミルタンクの背中。先生を呼びに戻ってきたパオロとルーミーはお互いに顔を見合わせ、ばつが悪そうにしていた。インファイトの間合いまで詰め寄っていたタタッコのサクに緑青のついた鼻先をポカポカと叩かれ、パオロは水浴びをするような姿勢で急所を空中へ避難させる。

(いで)で……。サク、オマエはいっつも距離が近いンだよっ」
「みんなであんないじわる言って、みんなだって足の数も肌の色も違うのに、なんでプイプイだけがせーり? になるの笑うの! パオパオもルミルミも、おにーちゃんもカッコよくない!」
「ルミルミってそれ、女っぽいからやめろってば……」
「いじわるするルミルミのいうことなんか聞かないもんっ!」
「うわ近……。お前のパンチは利かないんだって、覚えろよ……」

 カラナクシのカイトが間に入って、聞き分けのない駄々っ子をやんわりと引き離す。

「分かったよサク、電気にビビって止めに入れなかったお兄ちゃんもカッコ悪かった。機嫌直してくれ。ほら、俺のおやつ、分けてやるから、な?」
「むー…………。しかたない」

 カイトのお弁当から取り出した完熟オボンで、サクはどうにか拳を収めたようだった。茹で上げられたように真っ赤になりながらも、8本の脚の付け根へとオボンの切り身を滑り入れ、そこにある口で咀嚼する。小気味良い音がしばらく続いて、にぱっと横長の瞳孔が笑う。なんだかひと心地ついた気がして、そのままみんな昼休みへと移っていった。
 ぼうっとしていたシャコの手にも、セルリアンブルーのひれに乗せられたオボンがひと切れ。

「シャコ、身が(すく)んで動けなかった俺なんかより、お前のが何倍もカッコよかった。いくら地面タイプといえど、危険を顧みずに助けようとするのは救助隊の素質あるって。……ま、無茶はするなよ」
「あ……、うん。ありがと……」

 カイトが妹との昼食へ戻ってからも、シャコはしばし呆然と立ち尽くしていた。まだわずかに電気を帯びているように全身が甘く痺れている。――容体を急変させたキップイを前に、するべきことを咄嗟に理解し、迅速に指示を飛ばすことができた、気がする。まるで一流の救助隊員になったような。初めての感情に胸を詰まらせ、シャコはその場でゆるく何度もくるくると回っていた。

 ずっと不思議に思っていたことがある。どうしてネンドールは8つの眼で周囲を見渡しているのに、ヤジロンは2つしか持ち合わせておらず、さらに悪いことに視界がひどく制限されているのか。何気ない日常会話の中でネンドールの父親(とシャコは呼んでいる)に尋ねてみた。返ってきた返答は、考えたこともなかったな……、というなんとも頼りないものだったが、続けられた言葉をシャコは覚えている。

「きっとヤジロンが進化するのは、周囲に気を配り、よく観察して、それでも足りないとき――、初めて眼を開くことになるんだろうよ。シャコ、お前も友だちをよく見て、力になってあげなさい」

 それが今、なんとなくだけれど分かったような気がして。表裏の区別さえつかなくなったキップイを抱きかかえられたのは、シャコがいつも彼女の様子を見てきたからこそ。誰に指示を出されるわけでもなく、クラスメートが硬直している中、咄嗟に適切な判断を下せたのかもしれない。
 ――おとなになるというのは、困っている相手を手助け(Helpful)してあげられるようになる。それがつまりもしかして……エッチなことなのかも。





 昼休みを挟んで4時間目のバトル演習と5時間目のダンジョン座学の授業には、けっきょくキップイは戻らなかった。あれだけいがみ合っていた相手もいざいなくなるといつもの負けん気はどこへやら、パオロの鼻も終始元気がない。シャコも心配になったが、彼女へ慰めてあげるに相応しい言葉も見当たらなかった。なまじ彼女を抱き止めてしまったせいであの事故を起こしてしまったようにも思えて、顔を合わせるのも気まずいし。
 まだ日は傾いていないが、放課後。パオロは仲直りの機会を失って、無い牙をすっかり抜かれてしまっていた。6時間目を担当したジジーロンの教頭先生は無駄話が多いのだが、生徒たちがおとなしいその日はここぞとばかりに饒舌で、終業も延びに延びていた。それにヤジを入れたパオロは居残りをさせられ、解放される頃には付き添ったシャコの他はみんな帰ってしまっていた。女の子たちはキップイの見舞いに行ったらしいが、その影ももはやない。
 パオロは生あくびを噛み殺すようにして、目尻に溜まった涙を鼻先で拭いている。

「なー……、キップイの様子、見てこいよ」
「えぇ、なんでぼくが。謝りに行くべきなのはパオロの方でしょ」
「おれなんかが行ってもまた喧嘩になるだけだろーよう」
「そうなの?」
「そうだろ」

 ゆらり……ゆらり。考えあぐねるようにシャコは左右にゆるく振れる。厄介な役回りを押し付けられているような気がしないでもないが、「お前にしかできないんだからな」とパオロから強く背中を押されると、なんだかそれも悪くない気がしてくる。言いくるめられている感は拭い切れないが、キップイが心配なのも事実だった。

「わかった。ぼくに任せて」
「おう! ……。おれからも悪かったって、言っておいてくれ」
「後でちゃんと改めて、面と向かって謝りなよ」

 家の用事で呼びつけられている(と言ってそそくさと帰っていった)パオロに鼻で見送られ、シャコは保健室の入り口の柱を叩いた。大型のポケモンも難なく収容できる煉瓦造りの四角い小屋で、シュヴァルツが常駐しているせいか厩舎(きゅうしゃ)と呼ばれる建物。どうぞ、と奥から声が帰ってくると、シャコは回転の音を立てないよう浮遊しながら入る。
 詰所にあたる入ってすぐの小部屋は、生徒をこまめにケアする彼女らしく管理が行き届いていた。干し草の暖かなにおいに混じる、リラックスさせるような不思議な香。彼女は机に向かい、サイコキネシスで操った筆で日誌らしきものを書きつけていた。お邪魔します、とシャコが小さな声で入室を知らせれば、スワンナの羽根ペンを置いたシュヴァルツが角の先で馬房のひとつを指した。
 小型ポケモン用の個室は、そこを隔てる間仕切りも小さい。シャコがそっと念力で扉をスライドさせると、小部屋は太陽のにおいをたっぷりと蓄えた干し草が敷き詰められていて、すぐそこに小さな背中があった。

「……何しにいらしたんですの」
「あ、いや……調子はどうかなって。起きてたんだ」

 そっぽを向いたまま横たわるキップイの、さらけ出された左半身は灰鼠(はいねず)色。満腹模様のときも腹ペコ模様のときも変化の乏しい毛皮の箇所だ。格子窓を向く彼女の表情は分からない。卵色のベースカラーが柔らかな干し草に沈んで隠れているせいで、まだ怒っているような印象をシャコに与えた。
 繋げるべき言葉が見つからず、困惑を紛らわせるようにゆっくりと1回転する。

「その……さ。みんなも心配してた。パオロも、悪かった、って」
「……」

 横になったまま、菊の葉の形をしたモルペコの耳が揺れる。穏やかな午後の日差しを吞みこむように、気まずい沈黙が小さな空間を支配していた。シャコはそれだけで、何かまずいことを言ってしまったか、とドギマギする。――パオロとキップイの、いつも通り見慣れた口喧嘩のはずだった。たいていはキップイが徹底的な理論武装のままパオロを論破し、30倍以上もあるウエイト差を跳ね除けてねじ伏せてしまう、ある種の興行的な爽快さまで感じられるほどなのだけれど。それが今日はどうだろう。珍しくパオロの挑発に何も言い返せないでいた。いつもの彼女らしくない、あっさりと体色を豹変させてしまうほどの気の立ちよう。
 それになんだか……、落ち着きがなかった?

 不意にキップイが言う。

「パオロくんは、いらしていないのですね」
「あ、うん……。用事があるみたいだったから、代わりに、ぼくが。キップイがいないといつもの元気もなくってさ。耳もへにゃってさせてて、鼻なんかだらーんって垂らしちゃって。で、悪かったって伝えてくれって、ぼくに言うんだ。パオロも素直じゃないよね。それでさ――」
「わたくし先に帰りますわね」
「え」

 唐突に寝藁から体を起こしたキップイは、顔を見られないよう短い腕で覆いながら、立ち尽くすシャコの腕を押す。ヤジロンの不恰好な回転のあいまをすり抜けるようにして、モルペコの体が部屋を飛び出していった。

 ――シャコさんに何が分かりますの。

 すれ違いざまに聞こえたキップイの囁きが、残された土偶の体を鈍く反響して抜けていった。

「ちょ、ちょっと待ってよ――」
「あ、シャコ。少しお話があるのだけれど」

 慌てて追いかけたところを呼び止められ、シャコはその場で回転して振り向いた。厩舎の出入り口から小さくなっていくキップイに「また明日!」なんて明るく声をかけるべきか悩んだが、トゲトゲした模様の背中はそれすら受け取ってくれないような気がして。

 それに、彼女のつぶやいた言葉の真相が、分からない。いま追いかけなければ、真相を知ることはこの先ないだろう。そんな予感がシャコにはあった。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

                                                  ...................
                                                 :+*****************=
                                                   ......:==:.......
                                   :**-                :-:=*.
                                   =**+ .:--=+*+=:  .-=:
                                .::=**+=****=-. .-=+=.
    :+++++++++++++++++++  :-==+****=**+=+-:        .
     .-------=+-------:  ===========**+
             =*-----:...+:         =**+
             .:    .:-==.          =**+
                                  :====-
                                   =+++
                                  -****-.
                                .:==+===-:
                               .-==:=:-=-:.

     (キップイを追いかける。)                        (シュヴァルツの話を聞く。)
             7.                                           3.





3 〝友だち〟だから 


 丘に建てられたスクールの表門から麓までは広大な牧草地となっており、シャコはその幅広な一本道を足早に進む。呼び止めたシュヴァルツ先生に「さようなら!」と半回転して叫んだきり飛び出してきてしまったが、背後から迫ってくる気配もない。ギャロップの脚力ならヤジロンに追いつくなど造作もないはずだが、シャコの意思を優先してくれたようだった。――キップイから話を聞こう。午前の授業から落ち着きがなく様子のおかしかったこと、『シャコさんに何が分かりますの』と囁いた真意、それが知りたい。
 なだらかに続く下り坂からは、たそがれていく町のポケモンたちがまばらに動いて見えた。採石場から切り出した石材を運んでいくボスゴドラやバンギラス、ゴローニャの影。遠くに見えるおとなたちの小さな仕事姿が、さっきまで目の前にあったキップイの背中と重なった。
 ――なんと声をかければよかったんだろう。
 みんな心配しているよ。……は、ふさわしくないと思えた。黙ったままの彼女は尋常ではないオーラを纏っていたし、心配されるような言動をしたことは、キップイ自身分かっているはずだ。そこへ不必要にプレッシャーを乗せるべきじゃあないだろう。
 ぼくがそばにいるからね。……も、おかしい気がする。そばにいたとして、ヤジロンの体で助力することはできるだろうか。それに、以前ダブルバトルの授業でパオロに「今日は一緒がいいな」とペアに誘ったら、「気色悪いこと言うんじゃねえよ!」と、あの長い鼻であしらわれたことがあった。一緒にいたいという表現は「好きだ」と告白していると同義に捉えられかねない――らしい。カラナクシのカイトが「じゃあ俺が貰ってやるよ」と続けて笑いの渦潮を巻き起こしていたけど、シャコはそれがどういう意味なのか、なんでみんなが面白がっているのかよく理解できずに、愛想笑いを浮かべるばかりだった。
 回転軸をいつもより速く転がしていると、そのうち先を進むキップイの姿が見えてきた。急速に明るさを失っていく夕暮れに紛れそうなほど、その背中は(はかな)く見えて。

「キップイ、待ってっ!」
「……。あら、いらしていたんですの」
「置いてかないでよ、もう……っ。キップイはいつも帰るの速いんだから。家の仕事の手伝い、忙しいのは分かるけどさ……ふぅ、ちょっとは待ってくれても、いいんじゃない」
「…………」

 秋風を迎えてもなお青々とした草原の端、低木の雑木林に差し掛かるところでキップイが振り向いた。目を合わせることすらしてくれないかもしれない、と不安に駆られていたシャコだったが、そうでもないようで胸を撫でおろす。ついでに息も整える。土偶の体は代謝が穏やかな分、エネルギーの回復も早くない。空っぽの体に自分の息がこだまするこの感覚が、パオロに体を逆回転で回されたときのものに似ていて、慣れたものではなかった。
 シャコは取りこんだ空気を体腔で反響させながら、夕陽の逆光に翳るキップイへ声を絞り出す。

「ねえ」
「なんですの?」
「もしかしてさあっ、……、怒ってる?」

 モルペコのシルエットが小さく首を傾けた。

「いいえ? そんな器の小さなポケモンだと思われていたなんて、それこそ少し心外ですけれど」
「正直に言ってよ。パオロにひどいこと言われて、そのくせ謝りにも来ないことが許せないんだよね。ぼくだけが保健室に来たから、キップイ、怒って帰るとか言い出したんでしょ。ぼくに何が分かるのって言ってたの、そういう意味なんでしょ。さすがに分かるよそれくらい、性別のないぼくにだって」
「違います」

 ――バチっ!
 頬袋から火花が飛び散って、影の落ちた彼女の表情が一瞬だけ映る。土偶ポケモンを見つめるつぶらな瞳には、憐憫とも軽蔑とも憤慨ともつかない、複雑で薄暗い感情が載せられているように見えて。シャコは言葉を詰まらせるも、圧倒されそうになる自分自身を振り払うようにどうにか1回転する。再度キップイに対面する頃には、彼女の表情は影に覆われて窺い知ることもできない。……気のせい、だよね。キップイがそんな顔をするなんて。

「じゃ、じゃあさ……どういうことなの。遠回しに言われたらぼく、分からないんだってば。何か、悩んでいるんだよね。言いづらいことなんだよね? ひとりでつらい思いを抱えこんでいないでさ、話してよ」
「なぜです」
「なぜ、って……。ぼくじゃ力になれないかもだけど、友だちが苦しんでいるんだもの。ほっとけないよ。ほら、ダブルバトルで息ぴったりだったじゃない。だからうまくいくと思う。だって、友だち、だから!」
「シャコさん。あなた何か、勘違いしていらっしゃらない?」
「っえ」

 キップイの声が背後の雑木林をざわめかせた。
 反論を許さないような重たい響きが最初、こんな小さな体から発せられているなんて、シャコには思いもよらなかった。ばちッ。乾燥しはじめた空気が頬袋から電気エネルギーを逃す。垣間見えた、今にも腹ペコ模様へとフォルムチェンジを遂げそうな、そしてそれを無理して押し留めているようなキップイの面差し。ポケットから取り出したタネでしきりに頬袋を引っ掻き、そこから抑えきれない静電気がタネをローストしていく。
 ……ぼくたち、友だち……、だよね? 喉元まで出かかった言葉を、シャコはそのまま飲みこんだ。

「パオロくんにバカにされて傷つくなんて、わたくしそんなヤワじゃあありません。勘違いしないでいただけますこと? これは、なんと言いましょうか、ええと……。怒っているのではなく、そう……昂っているのです」
「たかぶって……?」
「ええ。ですからともかく、あなたに心配される筋合いでは、ありませんわ」
「す、筋合いって、そんな言い方…………。キップイ?」

 町の反対側、西の山あいに沈んでいく夕陽が、いやに朱くのっぺりと広がっていた。目には見えない小さな粒、たとえば砂埃なんかが大気中に漂っているとこういった真っ赤な夕焼けになる。自然の授業を担当するウツボットの先生が世間話に言っていた。南東にある火山は長年にわたり細々と噴火を続けていて、風向きがこの町へ向くと火山灰が飛来するのだ、と。

「ねえ……ねぇ、どうしちゃったのキップイ。本当におかしいよ今日。その、発情期とか、生理とか、そんなことぼく気にしないからさ、話してほしいんだ。……と、友だち……、なんだから!」

 怒りで我を忘れたギャラドスの肌めいて赫赫(かくかく)と落ちていく夕陽。それを背に佇む彼女は、モンスターハウスを仕切る親玉のような気迫を纏っていて。キップイはひとかじりしたタネを不意に投げ捨てた。



「ああもう、しつけぇなァ!!」

「ひ!?」

 シャコへと詰め寄りながらキップイは両手で頭じゅうの毛を掻きむしり、まとわりつくダンジョンのバチュルどもを払い落とすようにしてかぶりを振った。毛並みを逆立てて上げた顔は、すっかり紫色へと変貌を遂げていて。つぶらだった瞳は吊り上がり充血し、苛立たしげに下三角へ曲げられた口の端から荒い呼気をこぼしている。大振りに薙がれた彼女の小さな手から、掻きむしった黄色い体毛が数本、静電気を飛ばして舞い散った。
 尋常ではないキップイの様子に、シャコは授業で彼女の暴走を制止したときのように手を差し出した。出した手が、ぱしんっ、跳ね除けられる。勢いのまま1回転した彼は理解が及ばず、ひりつく手を丸めキップイの顔を見返すだけ。

「はぁ、何なワケ? 男の子にも女の子にも平等に優しくして、ぼくは博愛主義者ですよー、ってアピールしているつもり? そういうの本ッ当に目障りなんですけど! そうやって無知を盾に触れてほしくないところまでズケズケ入ってくるの、いちばんタチ()りぃーンだよ! いつもパオロにひっついているくせ、たまにあたしの味方をしたかと思ったら邪魔してきてさあ! 電撃は効かない地面タイプだし、そのくせして浮遊してるとか意味わかんない!」
「き……キップイ、どうしちゃったの……?」
「どうしたもこうしたもあるかアッ!」

 叫んで、キップイが土偶ポケモンの横腹へ痛烈な蹴りを叩きこむ。溜まりに溜まった鬱憤を晴らすような、その小さな体から放たれたとは思えない強烈な悪のエネルギー。「ぐぇ!?」とどこから漏らしたか判然としない狭窄音をこぼしたシャコは、蹴られた勢いそのままに反時計回りで軸のぶれた回転を強いられ、1本足を牧草に絡め取られて後ろざまに倒れ伏した。手入れの届いていない長めの芝が乾いた背中を受け止める。
 キップイは大股に距離を詰め、聞こえよがしに舌打ちをひとつ。

「あたり構わず首つっこんで、そのくせ何も分からねえ、みたいなその顔、見てると無ッ性にむしゃくしゃすンだよ! どうせパオロに『性別ない方が気まずくない』とか言われて、何も考えずあたしンとこ来たんだろ。バカみたいにこっちの気持ちを決めつけて、アホ面で呑気に回転して……っ! 何でアンタみてえなヘナチョコが、いつもパオロとあたしの間に割りこんでくるンだっつの!」
「く、口調、崩れてるよ、っていうかこわいよ……! いつものキップイに戻って!」

 パオロに突っかかる彼女でも見せないような剣幕に、シャコはたじろいだ。横に転がって逃げる隙を与える間もなく、キップイが四つ脚をついて芝を踏みつける。電撃が回し車の形をかたどってオーラを纏い、とっさに腕を交差させた彼に正面から突っこんで――

「オラぁ!」
「ん゛ぅあ……っ!?」

 シャコを轢き潰した。
 バトル演習の授業では彼女のオーラぐるまに轢かれてもなんともなかったのに。悪タイプに変質した電気エネルギーが、エスパーの庇護を受けたシャコの体を芯まで貫いて焼き焦がしていた。
 水に浸され柔らかくなった粘土質を捏ねられるような激痛。シャコがいくら呻こうと、車輪は止まることなく回り続ける。小さな前脚が、後脚が、立つこともままならない土器の体を潰して踏みつける。シャコは耐えた。高速スピンで弾くこともできただろうが、そんなことには思い至りもしなかった。交差した腕の土くれが衝撃にひび割れ、顔を庇った腕のその隙間から、いかめしく狂乱したキップイの表情が覗く。見えない呪縛から逃げるように車輪を回す彼女の顔には、どこか憔悴の色が見えて。

「はあ、は……ァ、くそッ、戻らねえ……! なんで、何でなんだよッ!!」

 燃え尽きたファイヤーが火炎の装束を脱ぎ捨てるように、キップイはオーラの回し車を消した。牧草地へ伏した土偶ポケモンを終わり際に蹴りあげると、わずかに宙へ浮いた軸脚が、着地の衝撃で柔らかな地面へとめりこむ。とどめにと、ぐったりした土色の頭をあらん限りの力で踏みつける。
 ヤジロンの下半身が埋もれ、地上絵のシンボラーの翼さながら扁平な腕が力なく広げられているのを見下ろして、キップイは切れ切れの吐息で鼻を鳴らした。

「はあっ、はぁぁァ……っ、ハッ、お似合いだね。土偶なら土偶らしく土ン中で眠ってろよ!」
「お……、おかしいよ、こんなの……。キップイ……っ」
「チッ。――ッああもう、イライラするなあ゛! パオロにゃあ笑われるし、いつまで経っても腹は痛ぇし、女なんか、モルペコなんか……ぅううう゛!!」

 低い呻き声をこぼしながら、彼女は苛立たしげに股のあたりを引っ掻いた。カブルモが脱皮した表皮を忌々しげに破り捨てるように、腕を振るう。小さな小さな爪を立ててしまったらしい、夕暮れの疎林を背景にしてもそうと分かるほど、振り上げられた彼女の指先が鈍くてらついていて。

「な、何やって……!? キップイ、お股から、血が出てる……!」
「だったらなンだよッ!!」

 最高潮に達した苛立ちに身を預け、空いていたもう片方の指を前歯で激しく噛みつける。キップイはすっかり黒紫へと変色した毛を逆立て、首元まで埋まったシャコの頭へと乱雑にまたがった。股下の乱れた毛並みをはだけ、ヤジロンの頭部の突起へとあてがうと、気勢のまま、ひと思いに腰を動かした。
 頭のとんがりに湿った違和感。頭上でどんな蛮行が繰り広げられているか、ただでさえ視野の狭いヤジロンには分かるはずもない。このまま土肌を溶かされては逆立ちして回転することもできなくなる気がして、シャコは泣き喚いた。

「ねえキップイ、うぅ、やめなよッ、なにやってるの。声、痛そうだよ、ねえ!」
「黙れだまれだまれええぇッ!!」

 身を強張らせることしかできないシャコの頭頂へ、生ぬるく粘った感触があった。おずおずと目端から力を抜いた彼の太眉を、赤味を帯びた液体がひと筋流れ、粘土を湿らせる。

「――――ッほんとにもう、アンタが襲われてるってのに、そんな優しいふりして、余裕ぶって、あたしの心配なんかしてさあ!!」
「ぁで――っ」

 地面に埋まったシャコの頭をさらに埋没させるように、キップイは棘の側面めがけて何度も股を押しつける。激しく引っ掻いたせいで柔らかい皮膚を切ってしまったらしいところが、いたわりも気遣いもない上下運動に無理やり順応させられ熾烈な痛みを訴えているはずだ。キップイが苦しげな咆哮を放つたび、ばち、びちっ! と頬袋から電撃が漏れる。電圧を制御することもできないらしい、体毛の焦げたにおい。反撃も、抵抗すらしてこないシャコの代わりに、自らその体を痛めつけているようだった。

「なんでっ、あたしが! こんな惨めな、思い、しないと、いけないンだよッ! くそ、くそッ、パオロ、ふざけンなよ……!」
「……、――――」

 摩擦と余剰電力で熱くなった小さな体にシャコの脳が揺すぶられる。考えこんだネイティオのような薄目を縁取って流れる、血の滲んだ生暖かな粘液。その潰れて泡立つ水音が耳孔から、嗅ぎ慣れない熱を帯びたにおいが鼻孔から、じっと耐えるシャコを蹂躙する。目的も分からず痛めつけられるのは、シャコの経験したことのない恐ろしいことだった。できることといえば、彼女が正気に戻るまで耐え忍ぶことだけ。
 そうこうしているうち、キップイは股を締めるように痙攣しながら、ぅ゛ううう……! と濁った声をあげ、シャコの隣に倒れこんだ。

「あれ……、?」

 満腹模様へと戻ったキップイは息を弾ませたまま、焦げた芝地に実を起こした。つぶらな瞳を2,3度しばたたく。無惨にも汚れ地面に陥没したシャコを発見し、落ちていた不思議球がマッギョの罠だったときのように飛び上がった。

「ふえ……、ぷぇエエエエエエ!? えっシャコさっ、何して――っ! ご、ごめんなさいっ! え!? あれっわたくし、あ、れ……? え、え、え……、なんでこんなひどいこと……!」
「……と、ともかく、うん、正気に戻ったみたいだね……けほ」
「あ、あ、ぁあああああっ、シャコさん、これ、わたくしが……!? ぷ……ぷい、PUIPUIPUI……」
「ああ、うん、大丈夫、うん……。それより助けて、ほしいかも」





 シュヴァルツが錯乱したキップイから助けを求められたのは、宿直の見回りから戻ってきたときだった。下腹部に血を滲ませたキップイがしきりに縋りついてくるものだから、その処女を散らした強姦魔を串刺しにするべくユニコーンの角を尖らせ現場へと急行したが、さらに血みどろになったシャコが牧草地へ埋まっていて、悪漢を諌めるために()められた角は彼の発掘に使われた。
 掘り出され保健室に担ぎこまれたシャコは、取り替えたばかりの干し草の上で浮かび、今にも倒れそうなほど緩慢な振り子運動を続けていた。眠るときは地面に埋まるようにしていて、常時は浮遊している彼にとって、横になる体位は落ち着かない。それはクロバットが立って地上を這いずるくらい不自然なことなのだ。
 あれから1時間、次第に早くなり始めた夕暮れが町を覆っていく。シャコの片親であるところのネンドールは、神職として(かしず)いている御神と問答しているとかで、シュヴァルツのテレパシーの届かないところにいるらしい。学童保育で居残りをしていた年少の子が親に連れられ教頭先生へさよならの挨拶をする声を、シャコはどこか遠くに聞いていた。

「痛た……」
「まだ染みる?」

 寝藁へと長い首を下げるようにして、シュヴァルツが尋ねた。癒しの波動を放つギャロップの角が、メテノの外殻めいてひびの走ったヤジロンの地肌へ添えられている。

「お昼休み、もっとキップイに教えてあげるべきだった。モルペコの発情がここまで熾烈なものだなんて……。私の見立てが甘かったわ。ごめんなさい」
「うぅ……」
「こんなにボロボロになってまで、よく耐えていたわね。バトルの相性なら決して悪くないはずなのに……どうして反撃しなかったのかしら」
「それは……、どうしてだろ」

 浮遊したまま俯くシャコの脳裏を、牙を剥いた二面ポケモンの裏の顔が鮮やかに横切った。念動力の帯びた体を芯まですくませたあの形相。怖くて動けなかった、というのが正直なところかもしれない。単にそうであれば克服すべき弱点だろうが――ただ、暴走したキップイが純粋に心配でもあった。まるでタチの悪いゴーストタイプの山賊に取り憑かれたように癇癪を撒き散らす彼女を、助けてやりたかったのかもしれない。

「泣いていたんだ」
「キップイが?」
「満腹模様に戻ったときには、プイプイ鼻を鳴らすだけだったんだけど。ぼくに乗っかって、地団駄を踏んでいたとき……なんだかキップイ、苦しそうだった」
「……そうなの」

 パオロに手酷くからかわれても涙を見せず、それどころかパルスワンよろしく勝気に食ってかかるキップイが、泣いていた。シャコも初めて見る彼女の顔つきだった。それだけに印象に残っている。
 シュヴァルツは凛とした目を少し丸くさせ、寄り添うように首を傾けた。幼児の身をさいなんだ恐怖を拭ってやる必要はないらしい。自分のことよりもキップイを心配している、強い子だ。どこか釈然としない細目を浮かべるシャコへ物語を読み聞かせるように、優しい声をかける。

「シャコ。3時間目の授業で、おとなになることをお勉強したの、覚えている?」
「うん。知らないことばっかりで、楽しかった。……そういえばあのときからキップイ、落ち着きがなかったけど」
「そのことなんだけどね……。あの子、発情期が来たらしいの」
「はつじょうき……?」

 そういえばオーレットがそんなことを口走っていたような気がする。首を傾げるように、シャコはゆっくりと逆回転。これは秘密にしておいてほしいのだけど、と前置きして、シュヴァルツはもうひとつ声のトーンを落として言う。放課後の保健室で先生とふたりきり。普段キリッとした彼女の上目遣いに、以前バトルで怪我をして同様に介抱されたパオロが顔を赤くしていたのをシャコは思い出していた。異性を好きになる感覚はまだいまいち分からないが、パオロが酔わされた雰囲気は十分に理解できた気がした。それは性別がなくとも何だか特別な余韻に満ちていて、秘密、という言葉の響きに、シャコはどことなくときめきめいたものを感じていた。

「本当は、このあとの授業でみんなにもちゃんと教えることなんだけどね。性別のあるポケモンたちはおとなになると、体がタマゴを作ることのできるように作り替えられていくの。そのサインみたいなものが、発情期。特に女の子は、発情期になると気持ちのコントロールがうまくいかなくなって、キップイのようにすぐにイライラしちゃうこともある。あの子は特に〝重い〟みたいだから」
「重い……?」
「体のつくりが大きく変わろうとしているってこと。食欲も急に減ったりしてね、大変なのよ」
「へぇ」

 シュヴァルツの視線を追うと、キップイが休んでいたベッドのサイドテーブルにはお弁当と思われるタネが手付かずのまま転がっていた。食べる気にもなれなかったらしい。ヤジロンはこまめな摂食を必要としない種族だが、彼女が誰よりもお昼休みを楽しみにしているのは知っていた。
 空腹でどぎついカラーリングに変貌するキップイは――これを指摘すると顔色を急変させるので黙っておくのだが、よく昼休みを待てずにお弁当のタネをこっそり取り出して食べていた。モルペコには必要なことだと説明されたが、初めての発情期を迎えたせいで、平静を保つための食料さえ喉を通らなくなったらしい。思い当たる節はあった。取り出したタネをかじりかけ、ため息とともにポケットへと戻すキップイの姿を、なんとなく横目に見ていたのだ。気にも留めていなかったが、その時から彼女は思い詰めていたのだと考えるとどうにも胸が詰まる。
 それほど焦燥していたところへ、気にしている発情期についてパオロにからかわれた。ささくれ立った神経を翻弄され溜まっていた鬱憤が爆発してしまうのも、無理もないこと。――ぼくも、何も知らずに「話してよ」なんて詰め寄ってしまった。「筋違いですわ」と返してきた彼女の真意は、そういうところだったんだろう、たぶん。
 シャコは閉じたままの瞳を逡巡させて、切れ長なギャロップの横顔を見返した。

「キップイは、おとなになったってこと?」
「おとなになろうと頑張っているの。女の子は大変なのよ? おとなになってからも色々と、自分自身と付き合っていかなきゃいけないから」
「先生も?」
「………………そうね。それと、そういうことを気軽に尋ねたり、大声でからかったりするのはいけないわ。エチケットってやつ」
「ごめんなさい……」
「いいの。シャコ、そうやって相手のことを考えるのは、性別がないうえ体の成長が遅いあなたには特段――、いいえ、これは誰にとっても難しいことだから、ひとつひとつお勉強していきましょう。きっと他の子たちと同じように、分かるようになるはずだから」
「そうかなあ」
「これもバトルの訓練と同じ。何度も考えて、やってみて、間違えて、それでもあきらめないことが、相手の理解へと繋がるのよ」

 傷もほとんど塞がり、冷静さを取り戻したシャコは思い返す。彼を虐げている間、キップイは何度かクラスメイトの銅像ポケモンの名前を口に出していた。それが恨みか怒りかは判別できないが、切ないとも取れるあの激情の裏に、もっと特別な意味があるような気がして。

「キップイは……、パオロのことが、好き、なのかな」
「どうしてそう思ったの?」
「んん……。いつも喧嘩してるけど、なんだかんだ楽しそうにしているから。なんでも言い合えるくらい仲がいいって、好きなんじゃないかな。ほら、お勉強した、タマゴグループ……? も同じだし、お似合いだと思うから。うん……きっとそうだよ。だからあんなに必死だったんだ。だから……」

 キップイは、パオロのことが、好き。普段の彼らを見ている限りでは、決してそうとは導き出せない結論が、シャコ自身の意見として現れたことに、自分でも驚いていた。言葉にしてみれば、そうとしか思えなくなってくる。キップイは、パオロのことが、好きなんだ。違いないと繰り返し考えるうち、脳がズキリと痛んだ気がして、そこへ手を当てた。頭を使うと疼くのは、キップイに襲われて軽い脳震盪(しんとう)を起こしているからかもしれない。痛みをなるべく早く忘れられるよう、シャコはくったりと回転軸を傾けた。
 大丈夫? 心配げに見守っていたシュヴァルツが角の治癒波動を強めに出力する。

「でも、そうかしら? 好きな相手ほど、本心が言えないものじゃない? 下手に相手を傷つけて嫌われたくないもの。顔を合わせるたびに罵り合う間柄なんて、素敵なものだと思える?」
「そうかな。……そうかも。難しいね」
「そうね」

 誰かのこういった気持ちを推し量ることについて、性別のないシャコはその分他の子供たちよりも苦手だった。保健体育で習ったことから憶測するしかないのだが、それを安易に確かめることもできない。「キップイはパオロが好きなんだよね?」なんて尋ねれば、また腹ペコ模様に変化して襲われないとも限らない。学級長を務めるキップイのことだから、そんなことはしないだろうけれど。
 その角で感情の機微を察知し、ひとの顔をのぞいただけで心が読めるとされるギャロップなら、生徒ひとりひとりの気持ちも手に取るように分かるものかもしれない。同じエスパータイプなのにな、とシャコはちょっぴり羨んだ。積んできた経験の厚みに圧倒的な差があることは疑いようもないのだが。
 シュヴァルツは不意に窓の外へと視線をやって、ふ、と息をついた。シャコもつられて空を眺める。ネマシュの根へ朱色が吸い取られたように広がる夜の気配。星が散り始めていた。

「好きになるべきかどうか、あの子自身、悩んでいるんだと思うな。本当に好きだとして、ゾウドウとモルペコじゃあ付き合いも難しそうだから。体の大きさとか、生活サイクルとか、そうじゃなくてもお互いの家のこととか、色々ね」
「性別が違って、同じタマゴグループ? なのに、うまくいかないこともあるの?」
「そうよ」

 惹かれあった雄と雌が偶然にもタマゴを作れる間柄だったのだから、それは祝福されるものだろう。シュヴァルツの担当した物語の授業にて、密林の城に住むアマージョに海暮らしのアシレーヌが一目惚れするお話を扱ったことがあったが、最後のディスカッションでハッピーエンドだと主張するパオロと、これは悲哀なのだと譲らないキップイの間でまたしても火花が散っていたのだった。当時はどうして対立が起こるのかすらシャコは理解できなかったが、あれはまさしく恋愛の難しさを体現していたのだな、と今になって得心がいった。
 せめてタマゴを残せる間柄だったら、ふたりは幸せに結ばれていただろうか。泡になったアシレーヌの王子は、ちゃんと好きだと伝えられたのだろうか。

「……せっかく同じグループなんだから、うまくいけばいいのに」
「本当にね」同じ授業を思い出しているのか、シュヴァルツはどこか懐かしむように流し目を伏せる。「好きかどうか、こればっかりはキップイにしか決められない。算数や物語には正解が用意されているけれど、恋はひとりひとりの決めたことが答えだし、答えを出せるよう支えてあげることしか、私たちにはできないから」
「そういうもの?」
「そういうものよ」
「先生も?」
「……先生もよ。私だってそういうこと、いっぱい経験してきた。結婚して10年経つけど、今でもそうして出した答えが正しかったのかって、悩んでいるもの。探検家を好きになるっていうのがどういうことか、理解していたつもりだけれどね」
「……」
「もう3年も会えていないし、今どこにいるかも分からない。探検隊連盟から連絡は来ていないから生きて冒険を続けているはずだけれど、手紙のひとつもよこさないのよ。そんなひとをずっと待ち続けているのは正しいことなのかって、考えちゃうものなの。こういう日はね」
「…………。もしかしてこれも、エチケット的なやつだった?」
「エチケット的なやつね」
「ごめんなさい……」
「いいのよ。ふふ、つい私も喋りすぎた。あなたは私の大事な生徒なのにね」

 シャコの不安を掬い取ってあげるように、シュヴァルツは声を一段と丸くする。

「相手の気持ちを推し量ることはとても難しいけれど、自分の気持ちに気づくことも、難しいものよ。そしてそれを相手に伝えるっていうのは、もっと難しい。シャコ、あなただって、キップイに言えないことがあったんじゃないかしら。気の置けない友だちにも――ううん、友だちだからこそ、言いづらいことがあると思う」
「……友だち、だから」

 ――あなた何か、勘違いしていらっしゃらない?
 キップイの拒絶が蘇り、空洞になっているヤジロンの体を木霊する。あの言葉を聞かされてから、襲われている間じゅう、シャコは気が気ではなかった。
 ――ずっと、不安に感じていたんだと思う。
 放課後、教室でキップイたちが集まって何やら話しこんでいた。聞き耳を立てていた訳ではなかったが、シャコの聴覚にも黄色い声が届く。内容は、ウツボットの若い教員は(つた)さばきがいやらしいだとか、ケッキングの校長はむかし同僚の女教師と付き合っていた、だとか。男性教師では誰がかっこいいか、サクとオーレットと騒ぎ立てているようだ。それにしてもおとなを貶すようなことを、もし彼らが近くを通りかかったならばバッチリ聞こえるような声量でするものだから、シャコは口を挟まずにはいられなかった。学級長でもあるキップイが先導してそんなことを言うのが、ショックだったからかもしれない。

「ねえ」
「あら、シャコさん」彼が声をかけただけで、ぱたりと会話が止んだ。サクとオーレットの瞳が鬱陶しげに曇る。「どうかいたしましたか」
「その、さ。そんなこと言うのはやめた方がいいよ。校長先生の話だって、根拠なんてないんでしょ。変な噂を流すの、よくないと思うんだけど」
「シャコさん……」キップイの目つきが憐れみの色を濃くした。「これは〝女子会〟ですもの。……行きましょ」
「ちょ、ちょっと……」

 揃って下校していく大小の背中。さしたる説明もなく、シャコは適当にあしらわれた。無性別である彼には、その女子会とやらに参加する権利もなかったのだ。以来、おしゃべりする彼女たちを見かけても、シャコはその輪に入れないでいる。
 パオロに対してだってそうだ。確かに彼とは幼馴染で、同じ鉱物グループだからこそ仲がいいということもあるけれど、いくらそうだとしても独楽のように鼻で逆回転をかけられるのは快くない。物として扱われたような違和感にモヤモヤとしてしまうからだ。そうでなくとも、ふとしたときに壁のようなものを感じることはある。男の子みんなして町で可愛らしいデスマスを見かけたとき。あるいは保健体育の授業で、もしかしてエッチな!? なんて囃し立てるとき。シャコはどうしてもパオロたちの話についていけない。同性の友達であるヒトモシのルーミーやカラナクシのカイトに対しては、言葉には現れない仲間意識みたいなものがあるような気がして。愛想笑いしている自分が寂しかった。性別のない自分はちゃんと友だちだと思われているのか、ずっと不安だった。
 本当の友だちなら『友だちだから』なんて言わないはずだ。言わずとも通じ合うのが本当の友だちなのだ、きっと。そんな安っぽい言葉になんか頼らず、感情を共有しながら、互いの信頼と肯定を重ねるうち培われた深層意識の中で、友だちになっていく。
 キップイにとっては、発情期を笑い飛ばされるよりも、仲良くなったふりをしてズケズケと聞かれる方が嫌だった。ひとりにして欲しいことを察し、そっとしておいてあげる。保健室まで様子を見に行かなかったパオロの方がよっぽど、キップイを友だちとして理解していたに違いない。
 すっかり考えこんでしまったシャコへ、優しい声が振りかかる。

「……とにかく、シャコ。あなたと同じで、キップイも自分の気持ちに向き合おうとしているの。今日の件は、(ゆる)してあげて、くれるかな。それと――」
「それと?」

 シュヴァルツは躊躇うように口ごもり、しかし噛んで含めるように、力強く言った。

「性別がないからこそ、自分の性について困っている子たちの力になれるかもしれない。……先生にもできないことを、シャコはできるかもしれないの。年頃の子は、おとなや異性に対して意識してしまうものだから」
「…………。そうかな」
「できる範囲でいい。キップイの力になってあげて欲しいの。それもきっと……あなたの学びになるはずだから」

 放課後、パオロに似たようなことを言われたばかりだ。先生も言うのなら、きっとそうなのだろう。

「うん」
「傷つけられても赦してあげられるっていうのは、とってもおとななことなのよ。……あ、親御さんと連絡が着いた」

 シュヴァルツは優雅に首をもたげ、癒しの波動を切りやめた角から念波を飛ばす。テレパシーを繋げているらしい、閉じた目からは耽美にまつ毛が流れていて、それは性別のないシャコにも美しいと感じさせるほどだった。
 シャコ自身もエスパーゆえ漏れ聞こえる親と先生との念話をどこか遠くに感じながら、波のように揺り返してきた疲労感にうつらうつらと穏やかなリズムで左右に振れていた。





 次の昼。シュヴァルツの早急な処置のおかげか、日を跨いで残る(ひび)はシャコの体のどこにも見当たらない。ミネラルの多い土に埋もれて日向でじっとしていれば、体調も元通りになりそうだった。
 学校のある日に昼までベッドに潜っているのは、ちょっと特別な、例えば道ばたに食べ残しを捨てるような悪いことをしている気分になる。親であるネンドールのウキドゥは神事のお勤めに急遽休みを入れ、シャコの看病に家へ留まった。彼らの住処は半径10メートル程度のこんもりとした円形の古墳で、手が空いたときウキドゥは3ヶ月後に迫った土偶祭祀(さいし)の前準備のためにせっせと泥人形に祈りを込めている。

「ごめんください」
「はいはい、どちら様ですか……、おお、キップイちゃん」
「ごきげんようウキドゥさん。シャコさんのお見舞いにきました」
「これはこれは、どうぞいらっしゃい。おお! わざわざすまないねえ」

 お見舞いの手みあげという名目で掲げられる、きのみやタネなど収穫物がいっぱいに盛られた籠。キップイの両親が従事する農園で採れたものらしい。それを念力で受け取って古墳の裏手へと引っこんでいったウキドゥを横目に、寝室にあたる周溝(しゅうこう)*2へ植わっているシャコの元へ、彼女はそわそわと身を擦り寄せた。

「改めて、大変ご迷惑をおかけしましたわ。体調はいかがかしら。その……、昨日のことは、ご内密にお願いします」
「誰にも言ったりしないよ」
「特にパオロくんには!」
「言わないって」

 ――あの子自身、悩んでいるんだと思うな。先生との秘密のお勉強を思い出し、迂闊なことは言わないようにしよう、とシャコは心うちで再確認する。これだけ念押ししてくる、ということはやはりパオロのことを気にかけているのかもしれない。
 古墳をぐるりと囲う溝に埋まり普段より目線の低くなった土偶ポケモンへ屈んで、キップイは耳打ちした。

「あのですね、その……。わたくし、昨日の記憶が曖昧で……。覚えているのは、頭から赤い血を流したシャコさんが地面に埋まっているところからなのですわ。わたくしシャコさんに何をしでかしたのですか?」
「ああ……うん、大したことないよ、大丈夫」
「……優しいんですね。シャコさんは優しすぎます」
「そうかな……」

 褒められて照れたふりをして、シャコは目を逸らした。――ぼくにまたがった君が、自分の股を擦りつけたせいで血を流したんだよ。なんて本当のことを教えれば、普段は清く正しくをモットーとしているキップイのことだ、その変貌っぷりにショックを受けて腹ペコ模様に様変わりするかもしれない。嘘をつくことは心苦しいが、ヤジロンには赤い血が流れていないことも黙っておいた方が良い気がした。

「その、ぼくにはよく分からないんだけどさ、キップイがああなったのって、おとなになったサインなんだよね。進化と同じように成長した印なんだから、おめでたいこと、って思うんだけど」
「ええ、その通りですわ。これでパオロくんを見返すこともできるのですから」キップイは胸を張って答え、しかしすぐに項垂(うなだ)れた。「……けれど、有頂天になって感情をコントロールできずにシャコさんを傷つけるなんて、探検隊見習い失格も同然。あなたはわたくしを心配してくださったのに」
「だから、ぼくは大丈夫だって。1回失敗したダンジョン探索でも、なんで失敗したか反省してから挑めばいい、って授業で習ったじゃない」
「確かにそうですけど……」

 しゅんと耳を伏せたキップイは俯いて、ポケットから取り出したタネをひとかじり。がりり、と口へ収めた残りの半分を戻してため息をついた。それが爆烈のタネだったらぼくは吹き飛んでいたな、とシャコは笑いかけ、真剣に悩んでいるキップイの手前、馬鹿らしい妄想をかき消すように頭をゆする。普段は食べ盛りな彼女が、小さなタネすら飲み下せないほど思い詰めているのだ。

「兆候には気づいていたんですの。ただ……、サクちゃんにもオーレットちゃんにも、ましてやパオロくんたちにも相談できませんでした。それが、シャコさん、あなたを傷つける結果を招いてしまった。……お恥ずかしいのです、自分自身を律することさえできないなんて、まるでタマゴから帰ったばかりのトゲピーみたい!」
「うーん……」一緒になって思い悩むシャコは、地表に出た両腕をこまねいて頭を傾けた。岩風呂に浸かりその縁へ腕をかけるヤナップのような仕草。「そんな考えこまずに、自分で制御できるようになればいいんじゃないかな。オーラぐるまだって、キップイがたっくさん練習して完成させたの、ぼく知っているよ。誰よりも真面目なキップイなら、今回も同じようにできると思う」
「そう、それなのです」
「?」

 シャコの沈む周濠にまで潜りこみ、キップイはそそくさと顔を近づけた。ウキドゥは貰った種を儀礼へどう使おうか悩んでいるらしく、8つある目のどれもこちらを覗いてはいないようだったが、それでも声は潜められる。

「お母様に色々教えていただいたところ、どうやらわたくしの発情期は、およそ半月に1度のペースで襲ってくるそうですわ。お母様も若い頃は相当悩まれたそうで、鎮めるにはとても仲の良い友だちに手伝ってもらっていたとのこと。なので……、私が発情期になったら、シャコさんの、頭のそれを……、貸して、いただけませんか」
「ええ!? ぼくのこれ、取り外せるものじゃないよ!」
「そうではなく!」

 しーっ! と指をきっ立て、キップイがちょっと目を吊り上げる。腹ペコ模様には変化しなかったが、焦ったように耳をピンと立ち上げた。

「半月に1度、わたくしが満足するまで、先日みたいに土に埋もれて我慢していて欲しいんですの」
「……また、あんなことやるの?」
「も、もちろん痛い思いをさせるつもりはございません。なにぶん初めての発情期で、どうすればいいのか分からなくて……。あなたの頭のそれが、確実にわたくしの発作を収めることのできるものなのです。それにこんなこと……、気を悪くしないでほしいのですけれど、シャコさん、あなたにしか頼めないのですわ……」
「う……」

 切実そうにまなじりを下げるキップイに詰め寄られ、シャコは返答に窮していた。
 彼女はそう言っているが、発情を抑える役割は本当に自分が相応しいのだろうか。彼女だって好きな相手に看病されたら1番いいに決まっている。おととしまで付き合っていたという――昨日のパオロの皮肉で初めて知ったことだけれど――ギモー先輩が様子を見に来てくれればなあ。……いや、フラれた相手と顔を合わせるのはそれこそ気まずいのだろうか。それとも昔を思い出して元気になれるのだろうか。
 中の良い同性の友だちなら、タタッコのサクか、ミルタンクのオーレットになるのだけれど。男子は言わずもがな、からきし性に疎そうなサクや、そういった話題を露骨に避けているオーレットには、確かに持ちかけづらい頼み事なのかもしれない。もしくは女の子同士だからこそ相談できないことなのだろう。昨日のシュヴァルツ先生との密話が再三思い起こされた。キップイは我を失うほど思い悩んでいるのだ。救いを求める手を握り返さないで、何が探検家見習いだ。
 ――恋仲にはなれないし、友だちかどうかもまだ、怪しいけれど。性別のないぼくだからこそ担える役どころじゃないか。そう都合よく結論づけて、シャコはしゅんと耳を項垂れる二面ポケモンの手を取った。

「いいよ。自分を見失っちゃうほど困っているんだもの、助けないと」
「ああ、シャコさんっ!」キップイは飛びついて、喜びのままシャコを土から引き抜いた。抱きついた勢いに任せて息のあった1回転。まるで大きな街の劇場で踊るキルリアのよう。「お詫びに、わたくしからも何かしてさしあげられればいいのですけれど……」
「それじゃあ、さ」シャコは熱烈な抱擁を仕掛けてくるキップイを引き剥がす。「女の子のことについて教えて欲しい、かな。ぼくそういうこと、ぜんぜん分からないから……」
「――ええ、ええっ、もちろんですわ。ああっなんて素敵な日!」

 シャコは念力でキップイの体を支えながら、彼女が満足するまで両手を取り合いご機嫌な回転を続けていた。





 それから半月に2日ほどの頻度で、シャコは放課後になると人気のつかない畑の端などに隠れては、キップイの発情発散に付き合った。柔らかい土に口許まで埋まって、頭を上からずんずん揺らされること数分。性欲の溜まった彼女は相変わらず空腹模様で学級長らしからぬ口ぶりだったが、初回のような横暴さは抑えられていた。「今日も、助かりましたわ。ありがとう」の言葉とともに向けられる、事後の晴れ晴れした彼女の満腹顔。それは恋仲の相手に向けられるものではなく、冷静に考えればその一方的すぎる関係性は、そもそも友だちと呼べるのかすら疑わしい――比べるならパオロに独楽として回されるのと何ら変わりない扱いのはず。なのに、壁の中から引っかいてくるヌケニンを追い払ったような晴れやかなキップイの表情は、どうしてかシャコの胸を満たすものがある。それは例えば結成したての探検隊が初めて寄せられた迷子探しの依頼を達成したときの、ひと助けの感動に近いものかもしれなかった。
 ふたりだけの秘密を抱えたことがシャコに特別な感情を巻き起こしたのかもしれないが――ともかく、彼はキップイとの密会を続けていた。
 キップイの発情のタイミングと、学校の裏手のダンジョンを探索する授業が被った日は大変だった。それとなくペアを作って突入し、野生ポケモンの襲ってこない中継地点にさしかかるとすぐ、キップイから話を持ちかけられる。柔らかい土へ穴を掘るやいなや、シャコは上から優しく押さえつけられた。
 町の中で行為に及ぶときは、隠れているとはいえ声は自然と抑えられるもの。ダンジョンとは摩訶不思議に空間が歪んでいて、大抵は入口と最奥しか固定されていないため、中継地点ではスクールの仲間と鉢合わせることもない。キップイは思いきり声を漏らしていた。パオロはもちろん、サクやオーレットも聞いたことのないような甲高い喘ぎ。どうやら気持ちいいらしい。快楽のコントロールにも慣れたようで、オーラぐるまを回すだけでは解消できない鬱憤を存分にシャコへとぶつけていた。どれほど乱れようと彼女は思いやりを忘れなかったが、自分自身の体について発見し、理解し、実践していく彼女が、羨ましかった。未知の快感を貪り頭上で跳ねる姿はシャコの目には映らないが、彼は頭痛を耐えながら想像を巡らせる。
 ――交尾するときって、どんな気分になるんだろ。
 直近の保健体育の授業で、交尾について習ったばかりだった。シャコはまたもや、色めき立つクラスのみんなの笑いの波に揺られるだけ。愛想笑いはやめにしたが、シュヴァルツもクラスの喧騒を鎮めるのに手一杯で、彼への満足な説明もないままだった。
 悶々としたシャコの思案に気づいているのかいないのか、キップイも、彼に玩具以上の役割は求めてこなかった。『女の子のことについて教えてほしい』との約束を守るべく、純粋な興味を見せた彼に触れさせたこともあったが、それはいつも彼女の欲求が満たされてから。恋仲の異性と交わし合うような、シャコの動かす手によって快感を得るようなペッティングは必要としなかった。そもそも誰かから触れられることを快いと思う段階にまでは進展していないらしい。

「なんかよーシャコ……。最近キップイと仲良いよなー」
「え? そ、そうかな」
「首筋からキップイのにおいがするんだよなー……。ふたりでくっついて、お前ら何してんの?」
「え゛。み、みみ、見たの?」
「見てはねーけどよ」

 歩みが遅れたせいか、すぐ後ろをついてくるパオロに鼻でくすぐられ、シャコは身をよじる。キップイとの秘密は絶対に漏らしてはいけない、とレジスチルよりも固く約束したのだ――特にパオロに対しては。ゾウドウは鼻がよく利く種族だ。行為ごとに水で清めてはいたが(毎回けっこう痛いので嫌だ)、何度も回数を重ねるうちに粘土へにおいが染みついてしまったかもしれない。
 すかさず助け舟が飛んできた。後方から、電気エネルギーの形をして。

()っで!? おま、キップイっ、いきなり電気ショックはねーだろーが!」
「あら! レディのにおいを気にするなんて、雷に打たれても文句の言えないほど失礼極まりないことですわ。電気ショックで済んだことに感謝しなさいな」
「レディなんてどこにいるってんだよーお!」
「こーんな魅力的な女子がすぐそばにいるのに見落とすなんて、あなたの目は節穴なのかしらあ?」
「チップイなんて小さすぎて見落としちまってたわー! ……つーか、なに? なんか……、キップイお前、雰囲気変わった? においも違うっつーか……たまにモルペコ違いかなって思うんだけどよー……なんなの?」
「パオロくんもしかして……、おとなになったわたくしの魅力にメロメロなんですの?」
「バッッッッッ! ちげーよ! おれが好きなのはあんなちんちくりんじゃなくて、もっとおとなびたポケモンだからな!」
「だーーーれがちんちくりんですってええええ!?」

 いつものキップイだった。
 小器用な彼女は発情期との折り合いも得意なもので、ピークのときにはパオロを避けるように、そうでないときは心地よくいがみ合う。それが彼との適切な距離感なのだと、言葉にするまでもなく分かっているらしかった。あの事件以来パオロとキップイの間柄が険悪になるなんてこともなく、いつもと変わらない、ケンカばかりしている友だちの関係。シャコはなんだかホッとして、遠くの山々にひっかかる雲を眺めていた。風向きからすると、もしかしたら雨になるかもしれない。
 さらにひとつ後ろからついていくルーミーがのほほんと言う。

「だよねえ。パオロが好きなのは、シュヴァルツ先生だしな」
「はぁーあああぁ〜〜〜??? ンなワケねっし! てっててて適当なこというなし!」
「きゃははッ、先生はあなたみたいなお子様、相手にしませんことよ!」
「はーい、静かにッ。遠足じゃないんだからね」

 先頭から念力チョークが飛んできた。校外学習でも携えられているそれは、手足の器用ではない彼女の指揮棒として活躍している。
 やかましい生徒たちを1列に引率して、シュヴァルツは歩脚を緩めることなく街道を進んでいた。先駆けをギャロップ、殿(しんがり)をウツボットに挟まれて、学び舎を飛び出し遠征先のダンジョンへ向かう生徒が6匹。
 パオロの興味がそれたところを、シャコは前を行くカラナクシのカイトの横に並ぶ。陸地を素早く移動するのに適していない彼は、涼しげな顔をしているが疲労も溜まっているはずだ。腕を伸ばせば、ありがとう、と小さな体がよじ登ってくる。粘土の肌が湿る不快感を我慢して、シャコはシュヴァルツのチョークが飛んでこないよう声を潜めた。

「サクは大丈夫? あれだけ元気そうだったのに、どうしたの」
「心配してくれるのかい、シャコ。でも安心してくれ。サクももう落ち着いている頃だよ。ご両親も、仕事は午前だけにして午後は妹の看病をするから、って」

 カラナクシと同じく、タタッコも元は海の中で生活していた種族だ。自ら粘液で体を保護できるカラナクシとは異なり、とりわけタタッコという種族は乾燥に抵抗する(すべ)がない。そうでなくとも生来体が弱く、ただでさえ体調を崩しやすいサクは、常に表皮を保護する必要があった。スクールには溜池があって昼休みにはそこで水分を賄えるが、門の外に出てしまえばそうもいかない。兄であるカイトが継続的にその体から滲み出る粘液を塗布しなければ、遠方に蛸足を伸ばすことは望めなかった。
 だからこそ誰よりも遠征を楽しみにしていたサクが――、今朝になって急に元気を失くしたという。

「『サクのぶんまで楽しんできてね!』って、可愛い妹からのご命令だ。看病してやるつもりだったけど、命令に逆らうこともできないからね」
「仲良いんだねえ」
「土産話を頼まれたからな。俺も気を引き締めていかないと」
「カイトはダンジョン攻略も上手だもん。きっとうまくいくよ」
「ハハ、ありがとう。シャコはみんなに気遣いができて、いいね。俺の足が鈍くなったのを感じて、拾ってくれたんだろ。助かったよ」
「……ばれてた?」
「嬉しかったさ。俺も助けられてばかりじゃなくて、誰かを助けられるようになりたいものだね」

 数時間かけて到着したのは、町の北西にある湧水の豊かな窪地。隣の港町まで鉱山物資を運ぶキャラバンが休憩に利用していたこともあったが、ダンジョンができてその湧き水に塩分が混じるようになったという。それからはもっぱら探検家が出入りするようになった。探索が進むと攻略もさほど難しくない迷宮だと判明し、スクールの子どもたちの実習地としても解放されている。見張りのオオタチへ会釈を交わし、生徒たちはシュヴァルツに続いてキャンプへ足を踏みいれた。

「まあ、なんですかこれ……。初めて見ました」
「うお、すっげー……。本物の海みたいだ」
「まるで海を見たことあるみたいに言いますわね」
「まあ、おれは(とー)ちゃんの付き添いで港町まで行ったことあるからな。その様子じゃ、キップイは見たことないんだろ? ま、しゃーねぇよな、そんな小さな体じゃー、半年歩き続けても町から出られねーもん」
「バカにしないでいただけます? 知っていますことよ。物語の授業で習いましたわ。ほら、海とは……、アシレーヌの王子が住んでいるところです」
「……海、あんな綺麗なところじゃねーぞ。やっぱり知らねえんじゃん」
「パオロくん……、ちょっとツラをお貸しなさい?」

 絶えず歪みを生み出すダンジョンの影響か、その周辺には神秘的な光景が広がることも多い。整備された街道を逸れて進むこと10分ほど、低木に囲まれた林の中に突如、フリーザーが翼を休めていたのかと思えるほど、純白の砂地が一面に広がっていた。湧き出ている鉱水は透明度が高く、小さな泉の底の砂粒の形まで分かりそうなほど見通すことができる。断続的に噴き上がる湧水の影響で、穏やかな波紋が湖面を滑っていた。ウツボットの話を思い出したシャコは、パオロの自慢話でしか聞いたことのない海の波の音さえ聞こえてくるような気がした。
 シャコが想像に浸っているそばでは、パオロとキップイが砂を掛けあい、オーレットが砂ぼこりを巻き上げながら転がっている。みなすっかり遠足気分だ。「何はしゃいじゃってんのさ……」と呆れ気味なルーミーも、興奮に頭の炎をいっそう大きくしている。
 遅れをとるものかと、シャコも砂風呂めいて埋まっているカイトの隣へ突き刺さった。毎日寝ている古墳のものとは柔らかさも乾き具合も異なった、この町から遠く離れた世界を想像させるような肌触り。――こんな土があったなんて。
 うっとりと沈みこんでいたシャコの体が、念力によって思いっきり引っこ抜かれた。

「ダンジョンに潜る前から遊んでいるようじゃ、救助隊や探検家になんてなれないわね。一刻を争うかもしれないときにあなたたちが遊んでいたら、依頼者はどう思うかしら」
「……。ごめんなさい」

 羽目を外してしょんぼり集まってきた生徒たちに発破をかけるよう、シュヴァルツが高らかに(いなな)いた。

「前もって決めていた、サクが不参加の場合の班分けになります。日頃のお勉強の成果をぶつける時よ。さあ、行ってらっしゃい!」

 ギャロップの角の指す先では、泉へと突き出た砂州の空間が歪んでいる。ダンジョンへの入り口だった。これから、見知らぬ迷宮へ初めて挑もうとしている。武者振るいに似た怖気がシャコの体を駆け抜け、それを制するように力強く1回転を決める。肩にかけた探検鞄をもういちどチェック――よし、必要なものは全て揃っている。あとはやる気だけだ。
 キップイとはよくタッグを組んでいたから、彼女の発情が控えられているときは、目立たないよう別のグループにする約束だった。サクがお休みしたから、1チーム3匹ずつになる。パオロ、カイト、ルーミー、オーレット。……ええと、一緒に探検するのは。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

                                                  ...................
                                                 :+*****************=
                                                   ......:==:.......
                                   :**-                :-:=*.
                                   =**+ .:--=+*+=:  .-=:
                                .::=**+=****=-. .-=+=.
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                               .-==:=:-=-:.

          (パオロ)                                     (カイト)
             7.                                           4.



                                                  ...................
                                                 :+*****************=
                                                   ......:==:.......
                                   :**-                :-:=*.
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                                   =+++
                                  -****-.
                                .:==+===-:
                               .-==:=:-=-:.

         (ルーミー)                                    (オーレット)
             7.                                             6.





4 ワイアット海漂林 


 パオロの曽祖母にあたるダイオウドウは、ストークスシティの山々を(ひら)き石切り産業を発展させた開拓者だった。四方を山に囲まれ、大きな河川もなく、土壌も肥沃ではないこの地を(つい)の住処としたのは、当時探検家だった曽祖母が行き倒れた先で救助されたから、というなんともありがちな理由だった。周辺の山肌に良質な石材が眠っていると判明するやいなや、彼女はかつての探検家仲間を呼び寄せ、茅葺(かやぶき)も数えるほどしかなかった零細集落を瞬く間に町へと変貌させた。パオロの父が3代目を継いだ頃には、ストークスシティのある大地が〝石の大陸〟と喩えられるまでになっていた。
 採掘される石材や、ダンジョンからまれに見つかる進化の石は、年6回、港町へと行商を組んで運ばれる。幼い頃から体格の良いおとなたちの背中を眺めてきたパオロも、今年に入ってからはその一員となって運搬の手伝いにあたっていた。これで4回目になる。
 港町ポアズまでの道のりは急峻な雪山をいくつか迂回して越えるため、ダンジョンを突っ切っても3日はかかる。山賊が出るとも分からない山道を(そり)()いて進むパオロは、背中と腹横にくくりつけたバッグにもキャンプ道具をずしりと備えながら、息のひとつも荒げずにおとなたちへ食らいついていた。緊急時に彼へ命じられた任務はもちろん前線での戦闘などではなく、後方から道具を使った支援と、鉄壁を重ね掛けし要塞となり商品を守ること。ダンジョンから漏れて彷徨(さまよ)う野生や山賊どもと戦わずに済む、最も安全の保障された配置であることは理解していたが、それでも自分の曳く橇には町のおとなたちの何日分もの労働対価が鎮座しているのだ。普段キップイをからかうようなおちゃらけた表情は、このときばかりはパオロも浮かべようがない。
 曽祖母の親友であるハガネールの(なら)したという、まだ紅葉していない蛇腹を描いた山道――パオロはその話を叔父から何度も聞かされて辟易している――を行脚すること2日、カビゴンの寝返り8回分程度の幅をした川へと差し当たる。砂利ばかりの河原へとキャンプを設営し、そこがこの日の野営地だった。

「今年は厳冬じゃなが、ええんだがなあ」
「げんとう?」
「雪がわんさか積もりよるっつこった。なんでぇボウズ、がっこで勉強してるんでぇながったか」
「スクールじゃそんなこと教わらねーから……。それにおれ、もうボウズって歳じゃないってーの!」
「グハハ、厳冬さなったら、がっこの冬休み、長くなるかもしんね。したら雌っこと巣篭もりしてヤり放題。やがったなあ、グハハハっ!」
「……」

 パオロよりもひと回り大型の橇を任されていたマンムーが豪快に笑う。会うたびにハガネールの武勇伝を吹きこんでくる、うんざりするほど話の弾まない叔父だった。デリカシーなんてものは数万年前の氷の中へ置き忘れてきたに違いない。パオロは適当に相槌を返し、鼻でテントの骨組みを支えていた。設営の指揮は父親のクレベースが()っていて、女連中がその背中に並べた農作物から作られる今晩の賄いを、見るでもなしに眺めていた。
 秋も半ばになると山間部の渓流は急速に冷たくなるが、氷点下には及ばない。キャラバンは給水を終えたのちに川面を凍結させ、そこに雪を降らせて橇を渡す算段をつけていた。鉱物資源を積みこんだ重荷を渡すには氷にそれなりの厚みが必要だ。氾濫しないように水の通り道を川底に残しつつ、氷タイプの職人が冷気を振りまいていた。その中には、パオロの従姉妹(いとこ)にあたるユキメノコ――半年前まではまだユキワラシだった――の姿もある。キャラバンがストークスの町を出発する前日、迎えるようにポアズの港から応援に来てくれていたのだ。彼女は進化して得た浮遊能力で優雅な舞いを披露しながら、しんしんと雪雲を呼びつけている。
 休憩していたマンムーの立派な牙が、ぼうっとユキメノコを眺めていたパオロの前足に当てられた。

「おうボウズ、ずうっとミユキちゃんを見てんじゃあねが。あのおてんば娘が、よくもまあ別嬪になったなあ。ぐはは、あの(すそ)ン中、どうなってンだろうな。妄想がでっかく膨らむなア」
「…………。別にそんなの、気にならねーし……」
「どうだ? 毎日アソコの方もデカくしてるんじゃねぇが? ミユキちゃんもええが、そいや、同じがっこのミルタンクの嬢ちゃんはどしたよ。もうキッスまでは行ったでか? キッスだぞキッス、鼻をくっつけるだけじゃアなしに! もしかしてエッチまで行っちまったかあ? ぐはははは!」
「うざっ……」

 旧石器時代のセクハラをしてくるマンムーからさりげなく距離をとり、パオロはそのまま炊事場へと出向いた。春蒔きの作物やら多くのきのみやらが収穫時期を迎え、その実りを感謝する土偶祭祀(さいし)を控えたこの時期、商隊の仕出しはひと足先に少し豪華になる。皿の底にリンドやヤチェの転がっているスープは、鼻の利くゾウドウ用に刺激の強い香辛料は控えられていて食べやすい。まだライ麦の香りが残っている黒パン、川魚と香草の焼き物、豆を潰してハバンで和えたサラダを受け取って、パオロはひとりで腹を満たす。従姉妹のミユキは降雪に忙しそうだし、ひと段落ついた後も町のおとなたちから口々に進化を祝われていたから、2ヶ月前のキャラバンのときのようにふざけあう時間なんてなかった。
 ――へっ。先におとなの仲間入りかよ。
 まだ牙の生える気配のないゾウドウの口へ鼻先を持っていって、すくった汁物を飲み下す。ふん、と鳴らした鼻へスープが逆流してきて、ちょっとむせた。

 次の日の夕刻前には何事もなく港町へと辿り着き、荷下ろしや商人との交渉もそこそこに、一行はそのまま宴会場へとなだれ込んだ。
 ポアズの港町には探窟家ギルドがあり、そこの食堂はどんちゃん騒ぎをするのにもってこいだった。ストークスシティからの支援物資は港町の、ひいては大陸のライフライン。まさしく五穀豊穣を祝う感謝祭に劣らぬ飲めや歌えの大騒ぎで、この喧騒は夜明けまで続くだろう。到着が遅れたせいか、おとなたちの深酒はいつもより進んでいた。
 パオロはさっさと腹を満たすと、おとなたちに絡まれる前に早々に裏手へと引っこんだ。彼の親戚にあたる町長のオニゴーリをはじめ、雪に閉ざされた町の者どもは強い酒で体を引き締める。お酌の相手を続けていれば、その肴として前日のマンムーのようにからかわれるだろうことは、容易に想像できた。
 ――さっさと寝てしまおう。
 探検隊員の宿舎は早々に酔い潰れた者たちへ解放されている。60度のノメル酒をひと口飲んだだけで目を回しかけたパオロは、大型ポケモン用の雑魚寝部屋の丸ドアを鼻で無造作に押し開き、束になった寝藁のひとつへと倒れこんだ。部屋の奥にはキャラバンのマンムーがいびきを立てていて、地鳴りかというほどうるさかったが、蓄積した疲労はそれをものともしなかった。
 下火になった暖炉の火を背に、遠くからまだ騒ぐおとなたちの声を耳に通しながらうつらうつらしてきた頃、パオロの鼻先にヒヤリとした感触があった。
 反射的に薄目を開けた。見えたのは、宴会場でせっせと給仕をこなしていたユキメノコ――ミユキだった。2ヶ月前まではまだユキワラシだったのに、ストークスのダンジョンで採掘されためざめ石を使って進化を果たし、成年の儀式も済ませていたらしい。浮いているせいか、目線の高さも追い抜かれてしまっていた。よく雪遊びをした仲だったが、宴会場でもキャラバンのおとなたちから引っ張りだこにされていて、その日はまともな挨拶さえ交わしていなかった。
 慣れない酒に酔って意識を曖昧にさせているのだろう、無い足をふらつかせながら寝藁へと身を横たえ、パオロの鼻を抱き枕がわりに撫でていたのだ。本来ならもっと狭くて気温の低い氷室(ひむろ)(パオロは暗くて苦手だ)で休むはずだが、もう満室だったのだろうか。
 普段触れられない鼻先への冷感に、パオロの眠気は次第に引いていった。幼い頃は母親の前脚の付け根に自分の鼻を絡ませて歩いていたが、スクールも高学年に上がってからは水浴びも自分でするようになったし、誰かから触れられる機会なんてない。しわを数えられているようなむず痒さと冷たさに耐えながら、寝ぼけている従姉妹の様子をうかがった。
 早くおとなになりたい、と口癖のように繰り返していたミユキは、オニゴーリへの進化をじっくり待つなんて選択肢にも上がらなかったのだろう。目覚め石の内包するエネルギーに恵まれたその体は、パオロの目にもおとなびて映った。複雑に穴のあいた氷の仮面から覗く、妖しげな双眸。暖炉の火に浮かび上がるクレバスの複雑な陰影が、ちちち……、と深紫の肌に揺れている。それでいて仕草にはまだあどけなさを残していて、お気に入りの人形へ触れるように鼻をいじる小さな手の冷たさ。
 パオロは鼻が震えることすら恐れ、小さな口で浅い呼吸を繰り返していた。目の前で膨らんでは萎むを繰り返す頬は、大口を開けて笑っていたユキワラシと同じポケモンは思えないほど強烈な違和感があって、それでいて惹きつけられるようで。――無防備なおとなの顔だ。保健室で一瞬だけ見えたシュヴァルツ先生の流し目に似た、ずっと眺めていたくなるような神秘さがあった。従姉妹の家は土産物のスノードーム製作を生業としているが、冷たさと温もりの共存するそこへ閉じ込められてしまったような気分に陥っていた。
 そのまま10分は経っただろうか。気づく気配もないミユキに、さすがにパオロも好奇心を抑えきれなかった。起こさないよう鼻先を動かしてみる。薄目を開けながら、それ以外は銅像のように動かないまま、パオロは鼻先に神経を張り巡らせる。抱きついたままのミユキの胴体を締める深紅の帯、それをそっとずらすように、丸まった皮膚の柔らかいところだけをくっつけるようにして。

「んん……」

 ミユキの小さな寝息が響いただけで、泥遊びを教頭先生に見つかったときのようにパオロは硬直した。落ち着くまでたっぷりと10分を銅像のふりでやり過ごし、再度鼻をうごめかせる。今度は感覚の鈍そうな、ユキメノコの水色の斑点の散る袖の部分へ触れた。
 同じ鉱物グループであるはずの体が、いやに柔らかかった。チルタリスの綿毛の上に積もった新雪を撫でているような感触。氷でできた着物は霜焼けになりそうなほど冷たく、それでいて不思議な熱を持っていて、ミユキの体が撫でたところから溶けてしまっているような気さえした。

「ん……ぅん……ん」

 雪肌を撫でるたび途切れ途切れの声が聞こえてきて、それはパオロに幼い頃の記憶を蘇らせた。彼が両親の寝室から離れひとりで寝るようになってからすぐ、どうしても寝付けない夜にこっそりと親の枕元へと子守唄をせびりに行ったことがある。そこから聞こえてきたものは、金管楽器のような音を漏らしながら鼻を膨らませる母親の悲鳴と、飢えきったカエンジシのような目つきをした父親の荒っぽい吐息だった。当時はドアの隙間から覗くクレベースのおどろおどろしい形相しか覚えていなかったが――そうだ。あれは、もしかしてエッチなことをしていた……? そうと気づいてすぐ、こめかみあたりに飛び散る炎を投げつけられ、それが全身を焼き焦がしていくような焦燥感。初めて味わう静かな興奮、これこそがエッチな気分なのだと、パオロは子供心ながらに直感する。
 それと似たようじゃ状況が今、まさに自分の身に降りかかっている。ミユキの声をもっと聞いてみたいが、このまま彼女に触ってもいたい。湧き上がる初めての官能にパオロがドギマギしているうち、いつの間にか起きていたミユキが、寝ざまに唇へ指を当てていた。仮面の下から覗いたトパーズ色の瞳が悪戯っぽく笑う。

「なんやパオロはん、おませさんやなぁ」

 荒くなっていた鼻息を止め、パオロは開けていた半目をきゅっと閉じた。びっくりして放熱板の耳が跳ね上がっていたが、ミユキの吐息が耳裏の毛細血管をくすぐって、その冷たさに思わず閉じる。くす、と小さく笑った吐息が聞こえて、怒られやしないか肝を冷やしたが、知覚するのはミユキの細い指が鼻の横面を這うくすぐったい感触だけ。寝たふりが気づかれていない? いや、抑えようとも耳はパタパタと動いている、感じがする。――おれは銅像、どうぞう、ゾウドウのドウゾウ。胸奥でそう何度も念じて、こめかみに力を込めた。筒抜けの嘘寝だと自覚していたが、彼女に金縛りを掛けられたかのように動くこともできなかった。変な汗をかいていることにようやく気づく。暑いのは、暖炉のせいだけじゃないはずだ。
 おませ、の意味はピンとこなかったが、冗談めいた雰囲気で許してくれていることは伝わってきていた。耳を閉じ、今更ながら銅像のように息を殺して、砂を揉むような柔らかさで鼻先だけをもぞつかせる。

「触りたい……? ふっ、もっとほじってみても、ええんやよ……っ」

 初めて聞く、ミユキの甘い声。おとなびた声。
 耳元に吹き付けられた冷気に反して、パオロは全身の鋼を溶かされたのかと思った。魂を燃やすルーミーの炎とは放射熱の性質を異にした、ばっくんばっくん、生命そのものが躍動するような、どっどっどっどっ、そんな心臓の鼓動が鋼鉄の皮膚を内側から破ろうと高鳴っている。鼻息をこれまでになく荒くしていることに気づき、慌てて息を詰める。
 そんなパオロの内心を知ってか知らずか、ユキメノコは笑って冷気を囁いた。

「ウチのココ……、どないなっとるか、知りた、ない……?」

 ここ、と濁され、パオロは操られたかのように(まぶた)を上げる。ユキメノコの頭の横から伸びた手の先が着物の裾をたくし上げ、わずかに開いたその隙間へと、もう片方の手でパオロの鼻を導いた。

 ドッくん!――ひときわ心臓が脈打ち、気づけばパオロは鼻先をそこへ忍ばせていた。

 横になって、同じ高さに目線を合わせたユキメノコが、おとなの顔をして、笑っている。いつもなら眠りこけている夜明け前、十字に嵌められた窓格子から注ぐ月明かりに照らされ、氷のパピヨンがひときわ妖しくきらめいて。……ごくり。自分は銅像なんだと念じるまでもなく、パオロの喉を生唾が下っていく。あれだけうるさかったマンムーのいびきと喧騒が、暖炉の火の弾ける音を残してどこかへ遠のいていく。
 それから、においだ。進化したミユキの体からは、凍らせたミルクのような芳香がほのかにする。以前までは気が付かなかった甘やかな体臭が、くらりとパオロの長い鼻を満たしていった。押し殺して浅い呼吸を繰り返すたび、鼻先から、1センチずつ、内側の鼻粘膜を這い上ってくる。パンを浸しているみたいだ、とパオロは思った。黒パンのかけらをミルク皿へ落とすと、その端から次第に優しい味へと浸っていくように、重ったるいにおいに沈んだ鼻が動かせなくなっていた。
 紅の帯で締められた胴体の、その中。導かれた鼻先を、ほんの少し、折り曲げる。空洞と思えたミユキの体内を調べていく。あってないような厚みの氷の着物の内側をたどりながら、ノズパスの歩みよりもゆっくりとした速度で、緑青のこびりついた鼻先を沈ませる。

「ぅんっ……!」

 鼻先が雪洞の奥へ触れた瞬間、漏れ聞こえる喘ぎ声。耳にしたこともないような肉感的な響きがパオロの耳朶を打った。いつかの夜、母親のこぼしていた尋常ではない喘ぎと再度つながって、これはもしかして――いやもしかしなくてもエッチなことをしている。生々しい直感が彼の情動を沸き立たせた。
 それからは夢中で鼻先を動かした。全ての皮膚感覚がそこへとより集まり、形を覚えこむようにミユキの裾の内側をこね回す。冷たくて熱い、柔らかくそれでいて張りのあるそこはじっとりと汗をかいていて、ひときわくらりとくる甘酸っぱいにおい。耳たぶを丸く広げ、押し殺したミユキの声をひとつも漏らさないように脳へと刻みこむ。

「あ、んぅ……フっ! ぁ、ま、ま……待っとくれやしっ……! っあ、……っ」

 5分と経たないうちに、切羽詰まった制止の声。耳ざとく聞きつけたパオロは素直に鼻から力を抜いた。痛くしたか? 見れば寒さに強いはずのユキメノコが小さく震えている。彼が心配になる前に、野太い鼻へしがみついたミユキはぎゅっと目をつぶり、それから満足げに大きな息をついた。

「あは……は。自分でするより気持ちええんやなぁ……。おまたいじるとな、気持ちよくて、頭ぼぉっとして、下の方がきゅん、ってするんやよ。今度パオロはんも、あんたの鼻でぇ試してみ」

 世界でひとりだけが知っている衝撃の事実を、こっそり打ち明けるような秘めやかさ。
 常に誰かを恨んでいそうな瞳をとろめかせ、口元をよだれで汚しながら、ふらりと浮遊するミユキ。オーロラベールのようにゆらめく裾にいやでも目がいった。慌てて銅像のふりをする。彼女は氷を溶かしそうなほど紅潮した締まりのない顔つきだったが、自分も同じくらいだらしない表情をしているんだろうな、と、パオロはうわの空で思っていた。

「それ、持っていきぃな。ほなまた、ね」

 口許に手を当てて小さく笑い、ミユキは暖炉の外に広がる闇へ溶けるように部屋を出て行ってしまった。遅ばせながら気づいたが、霜焼けした鼻先には何かが握らされている。暖かな光に照らし出されたそれは、氷の石のように透徹した、ユキメノコのツノを思わせる角ばった塊だった。ミユキの体のどこから抜け落ちたのかはいくら考えても分からなかったが、とても大事なもののような気がして、パオロはそれを口にしまった。元からそこに収まるよう設計されたかのように、奥歯の方でカチリと(はま)る感覚があった。
 パオロの大きな耳がマンムーの豪胆ないびきを取り戻してようやく、自分の体の違和に気づく。鼻先を伸ばすと、いつもは股下に隠れて見えないちんこが、伸びだして痛いほど突っ張っていた。
 叔父にからかわれて言い返せなかった通り、近ごろ朝起きたとき、後脚の間から真鍮よりも艶のある肉色がはみ出していることがあるのだ。それを兄に目撃され必要以上にからかわれて以来、パオロはあまり触れないようにしていた。いつもは水場に飛びこめばすぐに収まるものも、この夜に限っては触れずとも微かな痛みをもたらすほど強張っている。――繋がった。叔父や兄たちの言う「エッチなこと」がどういうことなのか、いつも自慢げに振りかざしていた彼らの体験談がいかに胸高鳴るものなのか、その片鱗をまざまざと味わわされ、パオロは感動に近いもので心を震わせていた。
 暖炉の炎で溶かされたかのように、抵抗感はほとんど薄らいでいた。好奇心と張り裂けそうな期待のなか、鼻先を股ぐらへと持っていく。ぬと……、と、先端から滲んでいた粘液をすくい取った途端、下腹のゾクゾクとした感覚が強まった。驚いて離してしまった鼻先で再度、自分の体の中で最も柔らかな肉へ触れる。
 ――気持ち、いい。
 排尿の際に握ってもどうとも感じない器官を撫でるたび、血走った肉の引っ張られる痛痒い感覚に紛れ、それでいて確かな快感がこみ上げてくる。ペルシアンが我が子の首根っこを噛んで運ぶときよりも慎重に、肉を引っ掛けるようにしてそこをこね回した。横になったままひとりでに息が弾み、弾んだ息を押し殺しながら、鼻先で調べていく。寝藁との僅かな擦れや、生暖かな自分の吐息のくすぐりでさえ、目尻がびくつくほどの刺激がくる。慣れてくれば、ミユキの裾を(まさぐ)ったときよりも気勢をあげ、これまでになく凝り固まったちんこを(ほぐ)しにかかった。
 だがいくら試行錯誤しようと、それまでだ。硬くなったちんこは先端の穴から透明な粘液を垂れ流すばかりで、終わり時が分からない。大いびきをかくマンムーがいつ太古の眠りから覚めてしまうか気が気ではないし、もしそうなればまたあの、ミツハニーから蜜を強奪したガーメイルのようなしたり顔で腫れ上がったちんこについて(なじ)られること必至。耳をそばだてながら、慣れない行為に集中できるほどパオロは器用ではなかった。
 さらに悪いことには、鼻に感触の残るミユキの艶やかな姿を思い返すたび、なぜかキップイが頭の隅にちらついた。――においが似ているからだ。ミユキからもキップイからも、まだ青いナナのみを潰してミルクで和えたような、鼻奥にこびりつく甘ったるさがうっすらと漂っている。気づいて、パオロは忌々しげに首を振った。あの口うるさいモルペコの声までもが蘇ってきて、どうにも気が散って仕方ない。――そういや、まだ生理を笑ったこと、謝ってなかったな。3日前に置いてきたスクールの面々について考えを巡らせたことが悪かった。今ごろどうしてるだろ。保健室でふたりきりになった夕暮れのシュヴァルツ先生の流し目や、しまいにはシャコの土偶顔までもが脳裏に浮かんできて、パオロは1度大きく深呼吸した。
 ――やめだ、やめ。腹底から止めどなく湧き上がる欲求をうまく昇華できずに、30分ほどは格闘していたが、(くすぶ)った興奮よりも疲労とそれに伴う眠気の方がとっくに強くなっていた。
 とはいえ寝ようにも寝つけない。もう宴会場は静かになっていた。パオロは下半身を庇いながら、背後の闇から誰かに見られていないか細心の注意を払いつつ、外へ忍び出る。ミユキたちをはじめ氷タイプの職人たちが歓迎の舞を披露してくれたおかげで、探窟家ギルドの周囲はひと足早く冬の様相を呈していた。パオロはおぼつかない足取りで進み、依頼書の貼られた掲示板にぶつかった拍子に転び、その振動で屋根に積もった雪が頭へ落ちてきた。

「な――――、なんなんだヨオーー…………っ」

 口に雪を含んだまま、抱えきれないわだかまりを逃すように叫んだ。ひとしきり叫んで、体からも心からも粗熱が取れると、適当に雪を払って元いた大部屋の扉をそっと開く。相変わらずいびきをがなり立てているマンムーの隣に丸まると、無理やりに目をつぶった。





 ――という刺激的な夜の一切合切を、シャコはしげしげと聞いていた。港町からの帰路もあまり深くは眠れなかったのだろう、それから5日は経っているはずだが、パオロは眠たいのかどこか上の空だ。彼の鼻にはその時ユキメノコから渡された氷の結晶が、溶けることなく握られている。

 森か、海。スクールの校外学習で訪れたダンジョン『ワイアット海漂林(かいひょうりん)』は、まさしくそう表現するにふさわしい風景だった。キャンプ地に湧き出ていた潮水の源泉を想起させる、広大な群青が揺蕩っている。それでいて波の打ち寄せる砂浜に開放感はない。異常なほど根の発達したマングローブ植物が水際を覆い尽くしているせいだ。さながらカイオーガの侵略から大地を守る巨大なオーロットの群れのように、汽水域に森林が広がっていた。
 階層もいくつか進んできたが、シャコたちは木の根の作りあげる天然の迷路に苦戦を強いられていた。浸水しているダンジョンの通路は炎タイプのルーミーが嫌がり、ルーミーを背中に乗せるなんて熱くてたまらないと鋼タイプのパオロが突っぱねた結果、浮遊して波を回避できるシャコが彼を乗っけることになった。頭の突起にヒトモシを捕まらせた細目のヤジロンは、藁人形と五寸釘で誰かを呪いそうな風貌をしていて、パオロに散々からかわれた。マングローブの柵が打ち寄せる波を緩衝してはいるが、いつ大きなうねりが襲ってくるとも限らず、そうでなくともダンジョンに湧く野生ポケモンどもは水タイプを主としていて、シャコもルーミーもパオロへ言い返す余裕なんてない。ついてこいとばかりに、いい感じの枝を鼻で振り回しながら先頭を進む大きな銅錆びの背中が、この時ばかりはありがたく思えた。
 ダンジョンも後半に差し掛かったところで、鬱蒼とした森林に切れ間が見えた。突入するたび相貌を変容させるダンジョンだが、入り口にあたるキャンプ地と、珍しい道具を回収できる最奥地と、それから長い迷宮にはありがちな中継地点は、構造が安定していて野生ポケモンも襲ってこない。森か海ばかりのダンジョンにぽっかりと空いた砂地へ寝そべりながら、シャコたちは持ちこんだリンゴを齧っていた。

「なんかよー……、うん、なんか、さぁ」
「なにさ」
「なんか……なんか、すげーなって。おとなって感じした。夏前までは一緒になって雪遊びしてたってのに、ミユキ、すっかりおとなのヨユー? みたいなの、あってさあ」
「おとなって余裕あるかなあ。みんな忙しそうにしているけど」
「そういうことじゃねーよう」

 氷の結晶を大切そうに奥歯へとしまい込み、パオロは首を傾けるシャコを小突いた。
 パオロがポアズの港町から帰ってきた日、学校での話題は当然それ一色だった。手伝いの駄賃にと渡された珍しい不思議球やら技マシンやらにみんな食いついて、彼は羽振りよく配りもしていたのだが、氷の結晶だけは特段中の良いシャコとルーミーに見せびらかしたかったらしい。ダンジョンの道中から自慢していた話も、これで3周目に入っていた。武勇伝が大好きなのは、なるほど叔父のマンムーと同じ血筋なんだな、とシャコはあらぬところに感心していた。
 黙って聞いていたヒトモシのルーミーが、どこか申し訳なさそうに口を挟む。

「あのさ、話の腰を折るのもアレかなって最後まで聞いてたんだけど」
「なンだよー……。――あ! べ、別におれはミユキが好きとか、そんなことはねーからな、断じてっ」
「そうじゃなくて」
「じゃー何だってんだよ!」
「ちんこって何?」
「〝ちんこって何〟ってなに!?」

 パオロが声を荒らげた。ルーミーが理解できていないことが、理解できないらしい。両目をひん剥いた彼へ、シャコが追い討ちをかける。

「……パオロ、ぼくもちんこって何だろうなって思いながら聞いてたよ」
「ウッッッソだろオイ!! オマエらちんこ知らねーの!? はぁぁ〜〜〜ッ!」
「そんなため息つかないでよ……。自分の体にないものって、よく分からないんだもの」

 自分の下腹部あたりをまさぐるシャコを眺めながら、パオロはその長い鼻で頭を抱えた。

「おれの話どんな気分で聞いてたんだよーう……。だから、ちんこってのは、陸上グループとかの雄がおしっこするところで」
「おしっこって何?」
「そっからかよッ!」

 パオロは盛大に鼻を跳ね上げ、気疲れしたように砂地へ顎からと突っ伏した。カバルドンよろしく砂をかき集めては鼻から吹き上げている。しばらく口を開きたくないらしい。
 ルーミーが続きを引き継いだ。

「シャコ、それは保健の授業でやってたぞ。食べるもの食べたら、出すものを出すように生き物の体は作られてるんだって」
「そういえばそうだった」
「オレも、古くなった蝋が固まって体から剥がれ落ちるんだけど、それがパオロの言う〝おしっこ〟なんだと思う。オレは老廃物って言ってるけど。シャコもそんなの、あるでしょ」
「ああうん、これだね!」

 言うが早いか、シャコは前屈みになって全身に力をこめた。ピキッ! と歪な音を上げ、赤い飾り模様で縁取られたヤジロンの腹へ(ひび)が走る。勢いをつけて回転すれば、その場に土偶ポケモンの断片が散らばった。代謝の遅い種族とはいえ、5日に1回くらいの周期で腹の辺りが重くなる感覚があって、こうして体を構成する土砂を排出するとスッキリするのだ。砂地に埋もれておけばものの数分で元通りになるから、パオロが砂浴びをする感覚に近いのかもしれない。
 ほらね! とシャコが健気に見下ろしたルーミーの顔は、ヒトモシとはいえ信じられないほど血の気が引いていて。

「きゃあああああっ!?」

 ルーミーが甲高い声をあげ、蝋燭の炎が逆巻いた。ドガースの火炎放射で起きた小さな爆発にも似た炸裂音。寝そべっていたパオロは耳を伏せ、非難の視線をふたりへと向ける。

「うお、うるっせーぞうルーミー」
「きゅ、急に驚かすなっての……。女みたいな声出しちゃったじゃんか……」
「本当に女なんじゃねーの? ちんこついてねーし」
「違うって……。あ、やば、腰抜けたかも……。シャコのそれ、なんだよ怖すぎるでしょ……もう一生やらないでほしい」
「ルーミー、オマエは本ッ当にビビりだなあ。シャコ、聞いたか今の声! 『きゃあああああっ!?』だって。『きゃあああああっ!?』! 女でもそんな悲鳴出せないっつーの!」
「パオロお前、あとで恨んでやるからな……っ」
「おーこわ」

 ゴーストタイプの(さが)なのか、ルーミーはイタズラが好きなくせ驚かされるのにはめっぽう弱い。日向に放置したヤチェのみのように溶けかけ、小さく震えるヒトモシ。パオロはその小さな背中へヤジを飛ばすだけだったが、何を思いついたのかカゴのみの形をした瞳を歪めると、体を起こしてシャコへと擦り寄った。
 耳打ちされたシャコは、未だ憔悴しているルーミーへ背後から抱きついた。無い首を回して不安げな片目がシャコを見返してくる。

「え? え?」
「ぼくだって代謝してみせたんだから、ルーミーも老廃物を出すとこ、見せてよ。パオロだって気になってるみたいだし」
「や、やめてっ、いまビックリしちゃって体が不安定だからっ。そんな無理やり持ち上げられたら……あ、あッ、ひゃあ……!?」

 シャワーズのように半分液体になったルーミーは、唐突にヤジロンから抱き上げられ、凝固させる間もなく下半身を引き伸ばされた。()になったヒトモシの白々とした蝋の中から、()っても弾けなかったモコシのみの粒のような小さな塊がこぼれ落ちてくる。なるほどこれがルーミーの言っていた老廃物とやらなんだな、とシャコは納得した。タマゴグループも違うのに代謝の仕方にはヤジロンと近いものがあるようで、なんだか嬉しかった。
 抱えられたままのルーミーにとってはたまったものではなかったらしい。顔面蒼白から一転、頬を真っ赤にしたまま、突き出た上唇を引き締めていた。パオロの視線から逃れようと、キノガッサの傘のように垂れ落ちた額の蝋でもう片目まで覆い隠している。
 漏れ聞こえる声色が切なげに崩れる。助けを求めるような、恥ずかしさに耐え忍んでいるような半ベソ声。それはパオロが声真似をしていた、従姉妹だというユキメノコの声にどこか似たものがあって。

「……」
「…………」
「ルーミー、オマエ、マジで女なの???」
「ち……違うって、言ってる、じゃんかっ。うっ……く、ふぅぅ……んっ」
「な……、泣くこったねーだろうよー……。わ、悪かったよ」
「もう、いいでしょ。……ッすん、降ろしてよ、シャコ。……ぐす」
「あ、うん。ぼくもなんか、ごめん。……あ」

 シャコがルーミーを砂地へと戻す直前、蕩けた不定形の体に黒い部分がちらりと見えた。体の内側にへばりついた、蝋が不完全燃焼を起こして(すす)になったような細長い(しこ)り。彼が使うスモッグの技はここで毒素を蓄積させているとでも説明できそうな、外から見ただけでは白一色であるヒトモシの内部構造に思えた。
 たぶんこれが、ヒトモシの〝ちんこ〟なんだな。隠すこともないのに。
 技を使うまでもなく小さくなったルーミーを置いて、シャコはしてやったり顔のパオロへと向き直った。

「あとはパオロだね」
「お?」
「お? じゃなくてさ。パオロだけ老廃物を見せてないじゃん。本物の〝おしっこ〟を見せてくれる流れだったでしょ」
「いや、ん? が? 全然そんな流れじゃなかったけど……?」

 冗談めかす様子もなく、シャコは銅像ポケモンを見上げていた。まさか反撃されるとは身構えてもなかったパオロは狼狽え、そっぽに目をやる。

「だいたいおれの話聞いてなかったのかよーっ。おしっこを出すちんこってのは、エッチなことがねーと、見せられないんだっつーの!」
「エッチなこと!」
「な、なんだよ……」
「もしかして……これのことでしょ!」

 待ってましたとばかりにシャコは体軸を上下反転させた。頭の突起でバランスをとりながら、最もエッチだと思われるポケモン――カポエラーの真似をする。(つる)の鞭めいてしなる彼らの脚を思わせるように、土偶の腕をゆらゆら揺らす。(みぎわ)のマングローブの足元から野生のテッポウオが顔を覗かせ、シャコへ照準をロックオンしたが、早くも立ち直っていたルーミーが仕返しの雰囲気を逃すまいと外敵を祟り目で追い払っていた。
 パオロが銅像のように硬直したまま数十秒。遠くに聞こえる波の音が心地よいリゾート感を演出している。砂地でお昼寝したらいかに心地よいだろうか。

「え……? え? 何……え???」
「ほらほら! ぼくのエッチなところ見たら、ちんこ見せられるんじゃないの」
「シャコ止まれ。全然()げーから、見てるこっちが申し訳ねー気分になるから」

 シャコは倒立からおずおずと元に戻り、なんともいえない表情をしたパオロへ言った。

「……カポエラーみたいに逆さになるの、けっこう練習したんだけど」
「もうなんか()えーんだけどシャコ……。エッチなことってのはな……あーもう、オマエ一度ちゃんと親とそういうことについて話しておけよー。……おら、さっさとダンジョン攻略しねーと、キップイの班に先を越されっちまうぞー」
「はぐらかしたな」
「はぐらかしたねえ」
「るっせ!! いーから荷物まとめろ!」
「あ、ぼく砂を集めたいんだけど」
「…………。早くしろよな」

 シャコが砂浜へ埋もれて崩れた腹まわりを回復するのを待って、チームはダンジョンの後半へ。意気揚々と隊列の先頭を率いていたパオロだったが、股の間に集まる視線に耐えかねたのか、シャコを押しやり隊列の最後尾へと収まっていた。





 鬱蒼としたマングローブの障壁を隔てて、複雑に絡みつく根の隙間の向こうに、ダンジョンの先へと進む空間のねじれが見えている。

「やっぱりあっちの道だったんじゃんかっ」
「うだうだ言ってもしゃーねえだろうよ! さっさと引き返すぞ」
「……え、まさか、あの水没してた通路に戻るなんて、言い出さないよな……?」
「それっきゃルートがねーんだから、仕方ねーだろって」
「めちゃくちゃ嫌なんだけど!」

 シャコの頭へ居座るのも様になってきていたルーミーが叫ぶ。ゴースの毒霧のように不安定な不思議のダンジョン攻略に欠かせない、探窟(たんくつ)*3者が通った道筋を自動で更新してくれる地図を開きながら、ヒトモシは今にも揮発してしまいそうなほど蝋燭の体をへにゃりとさせた。部屋と通路でびっしりと描きこまれたマップは、その一部分だけがぽっかりと空白のまま。中継地点を過ぎた一行が序盤に当たった分岐で、パオロが無軌道に選んだ道とは反対の、その先が目的地だったのである。
 どうしても引き返すのを渋るルーミーがボソッとつぶやいた。

「……オレの特性、すり抜けなんだよな」
「知ってるけど……。ッあ、ずりーぞルーミー! オマエだけ壁を通り抜けて先に行ってるってのかよ!」

 ゴーストタイプで不定形で、おまけにすり抜けの特性まで持ち合わせているルーミーなら、複雑に絡まった木の根とはいえ、エレキネットよりもすき間の空いている壁を渡るなど、造作もないことなのだろう。
 パオロは険しい顔をして首を横に振った。

「ダメだ。オマエが待ってる間に何かあっても、おれが助けに入れねーだろが」
「ハッ、強がっちゃってさ。悔しいんだろ。力づくに野生を倒すことしか能がないから、オレみたいに小器用なことはできないもんな」
「なッ……!」

 図星だったのか、パオロの大きな耳が震えた。不機嫌そうに黙りこむ銅像ポケモンに向けて、ここぞとばかりにルーミーは煽りの炎を熾烈なものにする。

「じゃあ……、パオロもここを通れるように、オレが燃やしてやろうか。植物なんだし、オレの炎でゾウドウもすり抜けられるくらいの大穴、開けてあげるよ」
「……それもダメだ」

 厳しい目つきのまま、パオロが首を振る。その仕草にシャコはピンときた。彼が以前ダンジョンについて語っていた内容が思い起こされる。かつてパオロの父親が所有する鉱山の迷宮にて、進化の石を効率よく採掘しようと、岩砕きの技などを濫用して壁を突き壊していた時期があった。市井(しせい)のあまりに身勝手な振る舞いが迷宮を(つかさど)るという神の逆鱗に触れたか、大規模な崩落を起こした迷宮はそのまま消滅、従業員を十数匹失う大事故へと繋がってしまったという。パオロの生まれる前の惨事だったが、彼は教訓として『ダンジョンは冒涜するな』と何度も言い聞かされてきた。それを踏まえての「ダメ」なのだろう。ルーミーの放った炎がコントロールを失い、繋がった根からダンジョン全体へ延焼する可能性もないとは言い切れない。
 ルーミーもダンジョン崩壊の危険性はスクールの授業で学んでいたはずだが、パオロの苦々しい顔つきの裏にある事情までもは読み取れなかったらしい。頭から油を注がれたかのように炎を燃え上がらせる。

「何だよさっきからダメダメダメダメって。そんな自分勝手が通ると思ってるのかよっ。さんざんオレをビビリだって煽ってきたくせに、ちょっと壁を燃やすだけってのにビビりすぎでしょ! それでも鉱山王の息子かよっ。そもそもパオロが最初に道を間違えたから、こんなに迷ってるんじゃないか! 責任取れよ!」
「あれは偶然だろーがよ。そもそもここで炎技なんか使って、消せなくなったらどーすんだ!? 火の海だぞ、それこそ責任どー取るってんだよ!」
「水の海よりはいいじゃん!」
「そもそも海は水だろーがよ!」
「ちょ、ちょっとふたりとも……」

 思わず止めに入ったシャコへ、形相がふたつ振り向いた。

「シャコっ、オマエはどっちに賛成だ!?」
「お前だって地面タイプだし、もう水辺に近づくのは嫌だもんね!?」
「ぅえ!」
「シャコん()親父(おやじ)は神サマの住んでるダンジョンを管理してるんだぞ、そんなバチ当たりなこと、しねーよな!?」
「親の仕事とオレたちの状況、いま全然関係ないじゃん!」
「だったらなんなんだよーお!!」
「ちょちょちょちょちょ、ちょっとぉ……、ケンカしないでよ……」

 板挟みになって目を回すシャコをよそに、またしても何か閃いたパオロがルーミーへ向き直る。

「ルーミー、そもそもオマエ、コイツを焼き落とせるくらいまともな炎技、覚えてるんだったかよーお?」

 挑発的に揺れるパオロの鼻先が巨木の気根(きこん)を叩くと、密に詰まった重たい音が返ってくる。草タイプのポケモンへダメージを与えるならばともかく、天然の樹木はそう簡単に燃え落ちない。特性が貯水のマラカッチの比ではないほど、木質部分にたらふく水分を溜めこんでいるのだ。
 そのうえルーミーは炎タイプの技を扱うのが苦手だった。例えばこの状況に最適とおぼしい、1本の樹木を包みこんで炙るような技――炎の渦ならば習得していてもおかしくないレベルだが、それを彼はしていない。不思議に思ったシャコが尋ねたところ、ゴースト技の方がお気に入りだから、とはぐらかされたけれど、火の粉程度の低威力の技では、相性に有利のつくパオロに対しても決定打とはなっていなかった。バトルの戦績はパオロの勝率の方が高かったはずだ。そのことについて負かされた直後にパオロから煽られても、ルーミーは曖昧に笑って炎を(くゆ)らせるだけだった。

「……いいじゃん。やってやるよ」

 そんなルーミーが、いつになくやる気になっていた。それほど水場へ戻るのが嫌なのか、シャコの頭から砂地へ飛び降りたヒトモシの瞳は、頭へ(いただ)く燐火よりも絢爛(けんらん)と輝いている。憤慨か対抗心か、風もなく藤色の炎が揺らめいて、魂を引き入れるミカルゲのように妖しく膨らんだ。木の根を焼き切るのだって、今のルーミーならできるかもしれない。
 わずかな範囲の壁を崩すくらいなら、ダンジョンの自浄作用により何事もなかったかのようにフロアが再構築されるだろう。が、根伝いに炎が伝播して燃え広がり、パオロの逸話通り迷宮が崩壊する可能性も、ないとも言い切れない。シャコも地面タイプゆえ戻るのは勘弁してもらいたかったが、ダンジョンの消滅に巻きこまれるのも考えたくない未来だ。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

                                                  ...................
                                                 :+*****************=
                                                   ......:==:.......
                                   :**-                :-:=*.
                                   =**+ .:--=+*+=:  .-=:
                                .::=**+=****=-. .-=+=.
    :+++++++++++++++++++  :-==+****=**+=+-:        .
     .-------=+-------:  ===========**+
             =*-----:...+:         =**+
             .:    .:-==.          =**+
                                  :====-
                                   =+++
                                  -****-.
                                .:==+===-:
                               .-==:=:-=-:.

    (迂回して水際に戻る。)                           (燃やして近道を進む。)
             5.                                             4.




5 暗がりにて 


 砂浜の通路を隔てるように蔓延(はびこ)る巨大なマングローブの根っこの先に、ダンジョンの奥地へと進むことのできる空間の歪みが渦巻いている。最短距離を確保するべくフロアの壁を壊そうと炎技の出力を高めるルーミーへ、シャコは声をぶつけた。

「やっぱり燃やすのはダメだよ、ルーミー……」
「な、なんでさ!? シャコまでパオロの味方かよっ、お前もちんこなかったじゃんか!」
「……それ関係ある?」
「泣き虫でちんこもついてねー女みてーな奴が、本当に燃やせんのかー?」
「っ! ……、パオロ、お前マジで恨むからなあ!?」
「おーう、やれるもんならやってみろってーの!」
「パオロは黙ってて! ……ここで大きな火柱を上げたら、野生のポケモンたちに感づかれちゃう。ついさっきもさ、チョンチー1匹に苦戦してたら、チカチカ(またた)いた光につられて、いつの間にかたくさんの野生ポケモンが集まってきてたでしょ。取り囲まれて袋叩きにされて、あえなく探検失敗になるところだったし」
「炎は違う! オレの炎は、もっと力強くて、澄み切っていて、魂までをも燃やす、気高いものなんだ。……オレだって、さんざんパオロにバカにされたまんまで引き下がれないんだよ。こんな根っこくらい燃やしてやれるんだからなっ。ねーちゃんより強い火力で、灰も残さないくらい強くっ……!」
「それに、パオロの言った通りだよ。ダンジョンの地形を壊すようなことは、極力避けるべきだって、授業で習ったじゃないか。相手チームより早く探索を完了させることも大事だけれど、学習内容に反すると認められる行動は、評価の減点対象になります」
「……は? 減点?」
「って、シュヴァルツ先生が言ってるよ」
「――ってああああ! テレパシーで通信したなあシャコ! そりゃ先生はダンジョンを壊すなんてダメって言うに決まってるじゃんか!」
「じゃあダンジョンを壊しちゃダメだね。道を戻ろう?」
「違うんだよシャコ、考えてもみろって。ダンジョンだからこそ、火を放っても元通りになるんじゃんっ。オレの炎技を試す機会なんてそうそうないんだからさあ、いいじゃんねえ、ねえってば!」
「でも先生が言ってるし……」
「お前の特性は石頭かよっ!? それとも土偶だからカラッポなのかあ?」

 シャコとルーミーのやりとりを見物していたパオロが、勝ち誇ったように緩慢と腰を上げた。

「センセーが言ってるんじゃ、しょーがねえよなーあ?」
「く……」

 不完全燃焼したように(くすぶ)った炎をひとつ上げて、ルーミーはしぶしぶシャコの頭の定席へと着いた。先頭を行くパオロへ向けてぶつぶつと何か聞こえるが、それが彼を蝕む恨み言でないことを、シャコは心の底から願う。そもそも〝のろい〟という技が怖かった。自分の体力をごっそり削ってまで相手を霊力で苦しめるなんて、たとえそれが全く叶わない強敵を打ち倒すための手段だとしても、苦しむルーミーを見ていられないから。

 パオロに露払いを任せ、マングローブの気根が作り上げる天然の迷路を戻る。シャコのツノへとしがみついたルーミーが、自動描画でみっちりと黒くなった地図と睨み合いながら、頭の炎で行き先を指し示す。その方向をシャコがパオロへと伝え、足取りをそちらへ向ける。パオロが後ろを歩くか、ルーミーが声に出して教えてあげればいいものを、これでは明らかに二度手間だ。
 二度手間だが、それがどうしてかシャコには心地よかった。
 クラスのみんなで遊ばなくなってからも、パオロとルーミーはいつもつるんでいた。小さなケンカを繰り返して、一緒になってくだらないイタズラを思いついては、シュヴァルツ先生に叱られる。変わらない関係性を見せつけられると、シャコはどことなく落ち着いた気分になる。今でこそ険悪な雰囲気が静かな砂浜を澱ませているが、ダンジョンを抜ければまた仲直りするのだという根拠のない信頼が、羨ましかったのかもしれない。
 左右を水路に囲まれた一直線の道が続いて、誰も口を開かなかった。潮の満ち引きがあるかどうかも定かではないが、満潮になればたちまち水没してしまうだろうと思わせるような心細い通路は、いやでもシャコたちの緊張を強いる。ここでモンスターハウスばりに野生どもに大挙して襲い掛かられたら、なすすべなく海の底まで攫われることになるだろう。
 そして、嫌な予感というものは、往々にして当たるものだ。

「……」
「……」
「……あれ、なんのポケモンだろ」

 通路の先に広がる、やはり海浜植物の繁茂するビーチを守るようにして、小さな浦浜(うらはま)から大入道が顔を覗かせていた。毒々しい水色の傘の下から、何者か窺い知れない顔が覗いている。

 ――ずあ。

 海が、凪いだ。
 木の葉が海面に落ちて生じるさざなみさえ、迫り来る衝撃に息を呑んだようだった。

「なんかやべーの来るぞっ……避けろッ!!」

 それまで(だんま)りだったパオロが叫んだその直後、ビーダルの()き止めていたダムを決壊させたかのような水量が狭い通路を駆け抜けた。

「わぶ!?」
「うわ!」
「きゃあああッ!」

 流線型とは形容しづらいパオロの背中を滑るようにして、ぶつかってなお衰えることのない水勢が後続を押し流そうとする。シャコは身をかがめルーミーはジャンプすることによって、ふたりの間を激流が紙一重に駆け抜けていく。
 モンスターハウスへの歓迎サプライズにしても手厚すぎるハイドロポンプをどうにかやり過ごした。幸い相手は単独らしい。囲まれて窮地に立たされるようなことはない、が。
 10メートルは離れた通路の先をギョッと見据えながら、パオロとルーミーが口早に喋る。

「進化系の野生が出るなんて、聞いてねーぞッ」
「ほらああああ! だから言ったじゃん! だから言ったじゃん!」
「るっせー! このまんまだとおれたち、海のモズクだぞーう!」
「それを言うなら海の藻屑、だろっ。っていうかあんなの食らって体のパーツが残ってたら、まだ良い方でしょ……」
()えーこと言ってんじゃねー、いーから道具投げろなんかっ! オマエの火の粉なんざ、アイツに当たったってよ、熱くも痒くもないんだってーの!」
「そ、そんなのやってみなきゃ分かんないじゃんか! パオロはいっつもそうやって決めつけて、ねーちゃんみたいにオレをみくびるんだ――」
「ふたりとも、またくるよッ!」

 ドジョッチやミブリムなど危機察知能力に長けた者は、対峙した相手が己の弱点をつくような技を所持しているか直感的に判断し、体が勝手に震え上がるという。シャコもエスパーゆえか、地面の肌をまっさらに洗い流しそうなハイドロポンプを目の当たりにして、感覚が犀利(さいり)になっているらしかった。砂地の通路が空間ごと歪んだような予感がして、浮遊しているシャコは隊列を外れて水路へと(のが)れる。3匹が一直線上に並んで一網打尽にされるのは、誰でも即座に考えられる最悪の結末だった。
 直後再び、隘路(あいろ)を猛烈な水流が貫いていく。さすがに波の上に身を置くのは怖かったのか、ヤジロンの頭から飛び降りたルーミーは〝ちいさくなる〟ことで被弾を回避していた。「じょーーーぶつするううう!!」との悲痛な叫び通り、水飛沫がかすりでもすればその頭の炎は一瞬にして掻き消えてしまうのだろう。

「で……でもよお、これ、ジリ貧ってヤツじゃねー……?」

 2発目のハイドロポンプも受け切ったパオロだったが、それもいつまで保つかどうか分からない。〝てっぺき〟の技では特殊攻撃の威力を減衰させることもできないし、ごっそり持っていかれた体力を回復するオレンのみだって無限にストックしているわけでもない。
 水路の上に立ち尽くしたまま、シャコはどうすることもできなかった。
 おとなたちに交じって何度か隣町までのキャラバンを組んだパオロは、緊急時の役割分担のような対応が自ずと身についているのだろう。水タイプの多いこのワイアット海漂林(かいひょうりん)では、ケンカをしながらもシャコとルーミーをさりげなく気遣いながら、死角から不意打ちを受けることも多々あるリーダー役を買って出ていた。
 ルーミーだって、苦手とする水タイプの野生相手に、怪しい光をぶつけたり、探窟(たんくつ)鞄から適当な道具を投げつけたりして応戦している。すり抜けたり根を燃やすことで道筋をこじ開ける方法だって、教科書通りではないにしろ、ダンジョンと相性の良くない彼が彼なりに考えて捻り出した、探索を成功に導くための答えなのだ。
 ――それに比べて、ぼくは。
 ぼくは、何ができるんだろう。念力もどろかけも、水路から遠距離攻撃を仕掛けてくる敵に当たりっこない。ふたりを水流から守ってやれる光の壁だって覚えていない。ネンドールに進化すればテレポートを覚えるようになるらしいけれど、それには経験が圧倒的に足りていない。暴走するキップイを抱きとめられたのは、ぼくが地面タイプで、たまたま役割にぴったり合っただけ。そうでなければ途端に何もできないじゃないか、ぼくは。

「シャコ後ろっ!」

 ルーミーの声に弾かれるようにして、振り向きざまにサイコパワーを展開する。複雑に絡み合った植物の根の陰から飛びかかってきたハリーセンを、念力ではたき落とした。急所に当たったのか、1撃で仕留められたふうせんポケモンは(しぼ)みながら、マングローブの根元まで沈んでいって見えなくなる。
 ――念力をもっと、遠くへ飛ばすことができれば。
 3発目の奔流がパオロを襲う。耳や鼻に水が入らないよう体を丸めつつ、額のこぶで硬い岩盤を割るかのように顔をしかめ、どうにか耐え忍んでいる。小さくなったルーミーがパオロの尻尾へしがみついて、逆巻くつむじ風に消し飛ばされないよう頭の炎をぼやぼやとはためかせている。
 友だちが倒れていくのをただ黙って見ているしかできない無力感。――そんなの、もうたくさんだ。
 水路を伝いながら砂地の通路へ戻り、隊列の先鋒へと立つ。次の激流はぼくが受け止めてやる、とでも宣言するように両腕を広げ、遠くから狙い撃ちを決めこむドククラゲを睨み返した。
 パオロがずぶ濡れの鼻でシャコの肩口を押さえつける。

「シャコっオマエ、危ねーっての、下がってろ!」
「……ぼくを信じて。やってみせるから」

 肌が濡れて崩れる鈍い痛みにも冷たさにも、かえってシャコは高揚した。3発も水流を受けてなお倒れないでいるパオロの誇らしさを分けてもらったみたいで、自信がみなぎってくる。できる――できる! やってみせろぼく! 強く自己暗示して、念力を頭のツノへと充填させる。イメージはテレパシーを繋げる感覚に近い。ふたりきりの保健室でシュヴァルツ先生に教わった、心に指向性を持たせる方法。ギャロップのツノめがけて自分の気持ちをぶつけるように、何度も何度も練習を重ねた。今度は気持ちではなく、ありったけのサイコパワーを! さんざんパオロとルーミーを苦しめたハイドロポンプの意趣返しをしてやろうと、ツノの先へ凝縮させた念力を解き放つ。

 かッ!

 極彩色のプリズムを纏って、細い念動力の柱が通路を駆け抜けた。
 眉間に命中したドククラゲは大きくのけぞって、あたり構わずハイドロポンプをぶっ放している。念力がたまに相手を混乱状態へと陥れるのと同様、サイケ光線も極彩色の幻覚を見せるものらしい。

「い、今のうちに距離詰めろ! 囲んじまえッ」

 身震いして水滴を弾き落としたパオロが、(しもべ)へ攻撃司令を下すビークインのように金属の鼻を高らかに鳴らす。ドククラゲの待ち構える砂浜へ、シャコたちはなだれ込んだ。





 広間へと詰め寄った3匹だが、暴れ回る触手はそれ以上の接近を許さなかった。掴まれればそのまま水中へ引きずりこまれそうな気がして、優位につけるはずの接近戦に物怖(ものお)じしてしまう。
 シャコも再びサイケ光線で応戦しようとしたが、うまくいかない。その場凌ぎのまぐれで繰り出した技は、鍛錬の果てにそれをものにしたのとは訳が違うのだ。いつ届くとも分からない触腕のうねりを回避しながらでは集中力が続くはずもないし、無軌道に放たれたサイケ光線がパオロに当たってしまう方が怖くて、ツノを支える腕がますます震えてしまう。
 ハイドロポンプの脅威こそ格段に低まったものの、それでも強敵であることには変わりない。そもそも下調べの段階では、ワイアット海漂林には進化系の野生は確認されていないはずだった。威力の低い〝どくばり〟でさえパオロに庇ってもらわなければ、致命傷になりかねない。広範囲のヘドロウェーブを繰り出されたときには、シャコとルーミーはパオロの背中によじ登りながらコオリッポばりに顔を青くして、蛍光色のヘリオトロープに海浜植物がなす術なく枯れ果てていくさまを、何も言えずに見届けていた。
 だが、やるっきゃない。手をこまねいていては、野生の増援に囲まれ窮地に立たされるだけだ。ルーミーが探窟鞄からタネを取り出して、力強く齧る。タネに含まれる揮発性の成分が頭の炎に引火して、ドククラゲに爆煙が襲いかかる。
 ギュリぎゃリリぃ! と、超音波の悲鳴が砂浜をつんざいた。

「へへ、オレだって道具を使えば、炎技を増強させられるんだ!」
「ルーミー離れて、なんか、くるよッ!」
「大丈夫だって、小さくなれば当たらない、しッ」

 ルーミーがそう言い切るが早いか、放射相称の傘に隠れたドククラゲの暗がりから、真っ黒な霧が吹き溢れる。まるでジュペッタが自分の胸に五寸釘を突き刺し、そこから闇色をした綿が膨れ上がってくるようで、きゃあああああ!? 間近で霧を浴びたルーミーが、金切り声を残して見えなくなる。
 助けに入ろうとしたシャコの肌を突き刺す、氷の瘴気(しょうき)。――ただの煙幕じゃない。パオロが鉄壁になるまで磨き上げた装甲も無に帰してしまうほどの、獲物を海底へと引きずりこむプルリルの腕のように凍てついた、能力変化を打ち消してしまう恐ろしい技だった。
 シャコはその場で素早く数回転して、黒い霧を追い払う。見えたものは、水際までよろめいたルーミーへと襲いかかる、エレキネットのように広がるドククラゲの無数の触腕。

「え」

 むせ込んだルーミーが見上げて、頭の炎を一瞬途切れさせた。小さくなるを限界まで重ね掛けしていれば当たるはずもない、と油断していたのだろう、体を縮めることもできずその場で硬直した彼めがけて、襲いかかる無数の鞭。

「あ――危ないッ!!」

 考えるまもなく、シャコはルーミーを庇うようにその隙間へと半身を回し入れていた。恐怖で今にも消え入りそうな蝋燭ポケモンを突き飛ばしたところを、一瞬にして触手に包まれる。ひと筋の光さえ侵入を許さない、黒い霧よりも暗い闇。安否を心配するルーミーの声は遮られ、どこか水の中へ沈みこんだような錯覚を味わわされる。もしくはデスカーンの棺に閉じこめられたか。動かせない腕に、胴に、頭にへばりついてくる毒手の刺胞が肌をさらっていく。
 ドククラゲも相当興奮しているのだろう、複雑に絡め取られた触手の檻の中からも、発光する深紅のコアがふたつ、仇敵を睨みつけるハブネークのように冴え冴えしく浮かび上がっていた。蛇にらみを喰らったかのように締めつけは強烈で、念力を集中させることすらままならなかった。

 ――似ている。

 それは、シャコににある日の出来事を思い出させていた。





 ストークスは石切り産業を土台に発展を遂げた町で、鉱山の周辺にはいくつものズリ山があった。石材を切り出す際、あるいは輸出品として成形する際にどうしても石のくず――捨て石が生じてしまう。資源として価値を持たないそれらは1ヶ所に集められて投棄されるのだが、長年にわたり積み重ねられるうち、逆さに置いたズリのみのような小高い山となったもの。採石を生業(なりわい)とするこの町のポケモンたちは、労働の誇りと大地の恵みへの感謝を込めてそれらを〝ズリ山〟と呼んでいた。
 大雨や地震による崩落の恐れがあり、新たに(ひら)かれた採石場からも遠いそこはもちろん立ち入り禁止にされていたが、やんちゃ盛りの子どもたちにとっては格好の遊び場だった。中学年になったシャコたちも例外ではなく、降雪により都市機能の停頓する長い冬休みを使って、苔の生えてきた山肌を掘って秘密基地を作ったのだ。
 クレベースの父親に連れられ何度か採石場を見学したことのあるパオロは、自力で山を崩すことに興奮を覚えているようだった。大ぶりの岩が互いに支え合うようなところは避け、触れて動かしやすいものから順に取り出していく要領で、ズリ山に横穴を開けていく。ギギギアルから部品をひとつずつ取り外してメンテナンスをするような慎重さで、鋼鉄の鼻が恐ろしいまでのパワーを発揮する。
 そうして深度を増していく横穴へ、サクが叩き折った頑丈な木材を運び入れる。シャコの念力とオーレットの蹄で支えた枠脚(わくあし)の上へ、パオロの鼻が(はり)となる横木を渡していく。仕上げにシャコの練った泥とルーミーの蝋を溶かして固めた漆喰(しっくい)で、天井や壁の隙間を補強する。高さ1.5メートル、幅2メートル、奥行き8メートル。イワークの夫婦が身を抱えて眠るためにあつらえられたかのような、小ぢんまりとした洞窟だった。パオロが家から運んできた上質なシルクのベッドをしつらえ、オーレットの耕した庭にはキップイの家のタネを植え畑とした。質が悪くズリ山へ捨てられた石炭を(ぼた)拾いし、それにルーミーが火をくべるための小ぶりな暖炉まで洞窟内に作りつけた。
 入り口のカモフラージュはサクのセンスに一任。キップイの実家から持ってきたきのみやらでオーレットが炊事し、できたばかりの洞窟の中でみんなで食べるご飯は、何より美味しかった。
 クラスのみんなで作った秘密基地だった。
 冬休みの間じゅう、みんな家の仕事の手伝いを抜け出してはそこで過ごした。つい前日に顔を合わせたばかりだろうに、それさえ忘れて集まった面々で毎日を報告しあった。ルーミーは暖炉の排気の効率化を考え、風を通すようパオロは洞内の拡張と補強を繰り返す。キップイが春先に埋めたタネは、鈴生(すずな)りとまではいかないものの半年で結構な収穫を得た。そうしてできたタネを、サクが自慢のラッシュで製粉する。オーレットが瓶詰めしたミルクと練って暖炉で焼いたきのみのパンケーキを、洞窟の入り口に並べてお店屋さんごっこ。ルーミーがミルクパンを手に取る。「やきたてパン、やきたてならタッタの50ポケ! 50ポケだよー!」「……オレの炎で焼いたやつじゃん」「そーなの! ルミルミの焼いたパンは、あったかあったか、おうちに帰るまであったかいの!」「……。1コ、もらうかな」「まいど!」「え、払うの?」「もちろん! パン屋さんは、パンを売ってるから、パン屋さんなんだよ。売ってるの! ……もしかしてルミルミ、食い逃げってヤツ?」「わ、わかったよ、払うよ……」サクは手伝わせたルーミーに試作品同然のパンケーキを売りつけ、代金にはちゃんと正規価格を受け取っていた。両親をパン屋に持つ娘だからか、金勘定はしっかりというか、ちゃっかりしていた。
 秘密基地はそれぞれがしたいことを、自由にできる場所だった。
 今になってシャコが振り返ればそれは、おのおのが自然と目にしてきたおとなたちの姿を思い描いていたのでは、と思う。おとなの真似事をするのに、子どもたちだけで維持しなければならない秘密基地はうってつけだった。
 カゴのみから削り出して作られたというきのみダイスをキップイが持ってきて、みんなで賭け事をやってみた。オレンが1点、りんごが5点、ピーピーリカバーが10点の代わりに配られる。点数計算はサクが得意だった。勝負はたいていキップイがものにしていたが、高笑いとともにダイスをすり替える方法をひけらかしていて、すぐにみんな彼女のイカサマを見破るのが上手くなった。そういうところでキップイは悪タイプだった。
 ルーミーが母親の焚きタバコをくすねてきて、1度に多くの束に火をつけたものだから、みんなしてむせ返した。洞窟に充満した煙を追い払おうとサクが腕をぶんぶん回し、シャコも同じようにぐるぐる回る。何種類か試したが概ね不評で、ミルクが苦くなりそうだから絶対にやらないで、とオーレットに固く禁じられた。どうしておとなたちは進んで体の中から(いぶ)されようとするのか、しばらくの間その疑問を解き明かすのが彼らのもっぱらの議題になった。
 合言葉を決めて、見張りを立てて、掃除当番を割り振って、たまにはケンカもしたけれど、すぐに仲直りしてテーブルを囲んで。学外の子どもたちに見つかって、ちょっとした抗争が起きたこともあった。――あのとき確かにクラスは仲が良かったし、男女の隔たりもなくじゃれあっていたんだ。いつからか、みんなで遊ぶことはなくなっていた。それが一体なぜなのか、シャコはいくら考えても分からない。記憶に黒い霧がかかったかのようにおぼろげだったが、確かにきっかけのひとつとなったであろうイベントは、はっきりと覚えている。

 ストークスの町が記録的なブリザードに見舞われたのは、昨年の冬休みの最後の日だった。

 もともと体が弱く、実家のパン窯の前で身を丸めているべきであったタタッコのサクが、熱を出した。秘密基地の奥、湿った藁とよれ果てたシルクの寝台に横たえられた彼女は、うなされる夢の中で病魔と戦っているのか、エビワラーのようなグローブをはめた腕の2本をしきりに振り回しながら、漏斗から墨も出ないか細い息を繰り返し吐いていた。
 彼女を家まで送り返そうにも、洞窟の外は5メートル先も見えないほど吹雪いている。低木の枝や背の高い芝草で厳重なカモフラージュを施したせいか、それらに雪化粧されては毎日のように通っている山道さえ見当もつかない。当てもなく踏み出せば、深く積もった雪に足を取られ直ちに遭難するだろう。非力な子どもたちだけで、馴染みのない雪山へと閉じ込められていた。
 慢心していたのだろう。スクールの最高学年を控え、ダンジョンの攻略にも自信がついてきた頃あいだった。まさか町中で遭難することになるなんて、シャコたち同級生の誰も予想すらしていなかったはずだ。
 おれたちだけの秘密だかんな! と口を酸っぱくしていたパオロのせいで、シュヴァルツ先生をはじめ学校のおとなたちにもこの場所は知られていない。彼は洞窟の入り口を塞ぐように身を固めたまま、もう3時間は声を出していなかった。可能な限り表面積を小さくしようと丸められた鼻先へ触れれば、霜の蔓延(はびこ)るそこは氷像のように冷たくなっていて、シャコは思わず土くれの腕を離す。各種の感覚器官はすでにシャットアウトしているらしく、血の通った温かみはとうに感じられなくなっていた。
 暖炉の煙を効率よく逃そうというルーミーの提案のせいか、捨て石でできた秘密基地はどうしようもなく隙間風がひどかったし、そもそもパオロと外壁との乖離(かいり)から塊となった雪のつぶてが吹きこんでくる。誰が口にするでもなく寒かった。持ちこんだ食料も、暖炉にくべる石炭も、互いを励ましあう言葉も、とうに底を尽きている。ちりちりちり……ちり、ちりりり、ちり。パオロの肌にぶつかって壊れる氷の音に混じる、サクの悪夢にうなされた息遣い。町じゅうに設置されている防災用の角笛から、役場のドゴームの自宅待機を促すエコーボイスが断片的に響いて聞こえていたが、それも苛烈さを増していく乱気流にかき消されてしまっていた。冬を連れてくるとされる神獣ブリザポスが、怒りに我を忘れて町を駆け回っているようだった。
 ふ。
 不意にあかりが消えた。燃料を切らした暖炉にはとうに火の影もなく、洞窟の天井を照らす青白い証明として気張っていたルーミーも、ついに気力を失ったらしい。もともと技を使わなければ熱を発しないヒトモシの炎だが、そのゆらぎが見えているのとそうでないのでは心理的な暖かさが違う。一気に冷えこんだ印象を与える真っ暗な岩壁をどこか見つめるようにして、シャコは途方に暮れていた。

「……お願い」サクを温めるように寝台へ肌を寄せていたオーレットが、うわ言のように掠れた喉を震わせる。「助けて、たすけて、神様……どうか、お願い……」
「…………」

 どう声をかけていいか、シャコには分からなかった。炎タイプを持つルーミーよりも厚い脂肪を蓄えたオーレットよりも、不思議とシャコは耐寒性があった。性別による生殖を必要とせず、体のつくりが他のポケモンとは根本的に異なっているからかもしれない。けれどこのまま洞窟の奥で縮こまっていれば、じきに動けなくなるだろうことは、直感的に理解していた。
 ふと、シャコは顔を上へと向けた。見えるはずもない月明かりにも似た、ほのかな輝きが差しこんでいるように感じられたから。
 梁に支えられ、大小の捨て石で埋め尽くされた天井にふたつ、煌びやかな宝石が並んで浮かび上がっていた。ズリ山にそんな価値のあるものが捨てられているはずもないのに、いつからそこに張りついていたのか、薄桃色の燐光を放つそれらは、瞬きをするように緩やかな明滅を繰り返している。
 まるで苔の生えたズリ山全体が大きなモジャンボで、蔦に覆われたその顔と顔をつき合わせているような倒錯感に、シャコは思わず回転軸を折りそうになる。

『ごきげんよう』

 シャコの頭にクリアな念波が降りかかる。みんなを叩き起こそうと声を張り上げかけ――かろうじて、テレパシーに切り替えた。聴覚を閉じたことで、ますますの熾烈さを増す猛吹雪のがなりも、氷の破片が砕け散る音も、熱に浮かされたサクのうめきも聞こえなくなる。秘めやかな遭遇に、不思議と心は落ち着き払っていた。

『…………。きみは、誰?』
『ワタクシでございますか。ええ、何と申しましょう……。これはきっと、夢、なのでございます。あなたさまが夢幻(ゆめまぼろし)に聞いている、声のようなものかと』
『そういうもの……なのかな』
『ええ、そうでございますとも』

 寒さと孤独に耐えきれず、ついに幻聴が聞こえるようになったらしい。夢の声はなんだか覚えのある口調で、思わずキップイの方を振り向いたが、彼女は冬眠したように凍ったイアのみに抱きついて動かない。嵐のさなか畑の様子を見に行ったところ、何もできずに雪玉になって逃げ帰ってきてから、サクの隣で丸まったまま目を覚さないでいた。耐えきれない空腹に(さいな)まれているはずなのに、どこか安らかな表情を浮かべて満腹模様を維持している。――夢を、見ているんだろうか。そしてぼくも。
 磨きあげられたダイヤモンドのような天井の瞳は、続けてシャコへ投げかける。

『このような寒いところでお休みになっては、あなたさまは差し支えないかと存じますけれど、お友達は、そうともいかないご様子でございますね』
『うん』

 鉱物グループに属する者によく見られる休眠状態で、例えばコイルなどは、電気エネルギーが底をつくと金属の体を地中に埋め、何百年も後の時代で落雷とともに目覚めることがあるという。シャコも洞窟の奥で温かな土に埋もれていれば助かるかもしれないが、肌身から熱を奪われ続けるみんなはもちろん、同じ鉱物グループとはいえ吹雪に当てられ続けているパオロもどうか。
 いっそ自分も諦めてしまいたかった。非力な自分にできることなんてせいぜい、意識を朦朧とさせるオーレットの話し相手になって、わずかばかり不安を減耗(げんもう)させてあげることくらい。それもいつまで保つかわからない。彼女もついに眠りこけ、どこまでも凍えた暗がりに独り残されてしまったら? 誰も寄り付かないズリ山の奥、何十年も何百年も出土されないまま、忘れ去られていく。そう考えると(そら)恐ろしさに潰されそうになって、シャコはただただ緩慢と左右に振れることしかできなかった。
 ――けれど。

『あなたさまは、いかがなされたいのでございましょう』
『助けたい』

 けれど、シャコはすぐさま答えていた。助けたかった。独りだけ取り残されるのは怖かったが、みんなを助けられないのはもっと怖かった。
 満足のいく返答だったのか、目は、その輝きをいっそう優しくあえかなものにする。

『素晴らしい御心掛けでございます。では、ワタクシとおしゃべりしている場合ではないかと存じます』
『でも――ぼくじゃ、助けられないんだ。ぼくは何もできないんだ。パオロみたいに体を張って吹雪を食い止めることも、ルーミーみたいにみんなをあっためることもできない。血も通っていない体じゃ、オーレットみたいに寄り添ってあげることも、難しいよ。吹雪が止みますようにって、一緒に神様に祈ることくらいしか、できなくて』
『まあっ』

 夢は少し慌てたようにうわずって、しかしすぐに声色を取り繕った。

『よくお考えください。あなたさまにしかできないことがございます。……そしてもう、その方法をあなたさまは実践しているではありませんか』
『実践? ……テレパシーのこと?』
『もちろん、その通りでございます』

 シャコは淡い輝きを浴びながら、力なく左右に揺れる。

『でも、ぼくからテレパシーを繋げるの、苦手だし。それに、パオロにダメって言われてるんだ』
『何を、でございましょう』
『秘密基地のこと、おとなに知らせるの。絶対に怒られるからって』

 返すと、目はちょっと怒ったふうに輝きを鋭いものにする。

『そのような些細なこと、天秤にかけるまでもございませんでしょう』
『てんびん?』
『お友達のお命が、あなたさまの両腕にかかっているのでございます。どちらに傾くか、試してみるまでもございません。みなさまで助かってから、みなさまで怒られればよいではありませんか』
『…………』
『どうせできないだなんて、諦めてはなりません。今の自分にできることを必死に探して、最良と思われることをする。これも、おとなになるためには大事な訓練であるかと存じます』

 夢の声に後押しされまま、シャコはテレパシーのアンテナを切り替えようと瞑目(めいもく)する。
 前も後ろも右も左も見えないホワイトアウトの中、1本の手綱が白い闇の向こうへ伸びている。その先で誰かが待ってくれていると信じて掴んだかと思えば、一瞬にして振り解かれる。再度、土偶の腕を伸ばして握る。顔へとぶつかってくる雪の塊を払い、猛吹雪に吹き飛ばされそうになる体を支え、少しずつ手繰り寄せていく。しんしんと体力を奪われながら、疲労からくる睡魔にあらがい、微かな頼りを手がかりにロープの先を探す。霜将軍とも恐れられる神獣の背中から振り解かれないよう、実体もない暴れ馬にしがみついていく。
 どこにいるとも分からないシュヴァルツ先生へテレパシーを繋げるのは、心もとない手綱を頼りに吹雪の原野を切り抜ける感覚とそう変わらない。気持ちへ指向性を持たせるやり方は教わったばかりで、自信なんてあるはずもなかったけれど、感覚を思い出しながら心を同調させていく。あのギャロップのツノへ念波が届くことを祈りながら、シャコは叫んだ。助けて――助けてっ! 雪に閉ざされて凍えているんだ! 必死になって叫び続けた。叫び続け、サイコパワーが枯れ果てようとも、叫んだ。悔しいかな、それが彼にできる最善で、唯一のことだった。

「――コ、シャコっ! いるなら返事をしなさい!」

 それからどれだけの時間が経ったか、シャコには判然としない。テレパシーではなく、しばれた聴覚器官が久しぶりの音声を拾って、のろのろと顔をあげる。先生、と返事しようとして、閉じきった発音帯が乾燥して切れたような痛みを訴えた。
 洞窟の入り口、凍りついたパオロを両腕でどかすヒヒダルマの温かな熱に包まれ、シャコは浮遊する。町の自警団のポケモンたちが総出で10匹ほど、後ろに控えていた。ナナシのみをはじめ温かな食料を背中に担いだシュヴァルツの姿も見える。飛び付こうとしてよろめいて、シャコは安堵に気を失った。

 入り口からチラリと見えた小さな空は、いつの間にか晴れ上がっていた。





 あのとき洞窟の奥の暗がりで見つめあったダイヤモンドの瞳。夢かうつつか、その判断はついに着かないままだったが、ダグトリオの足の構造のようにぼやけ切った状況に、シャコは再び囚われていた。
 80本もあるとされる触手で全身を絡め取られ、360度の視界を奪われたまま、天井に浮かぶ顔と顔を突き合わせている。――ただし、あの日の秘密基地と決定的に違うのは、その毒々しく輝くコアが打ち倒すべき野生のドククラゲのものだということ。
 ――今の自分にできることを、やれ!
 さっきだって、念力を遠くへ飛ばしたいと強く願ったから、サイケ光線なんて技を習得できたんじゃないか。だけど現状、地面タイプの技を発動させようにも地面さえおぼつかないし、サイコパワーを集中させることも難しい。今この状況でできることといえば、なんだ。偶然でもいい、付け焼き刃でもいい。全身を拘束された現状を打破できる、例えば体当たりのような、身ひとつでできるノーマルタイプの技ならば――
 じばく。
 己の内包する原初的なエネルギーを周囲へと爆裂させる、術者も怪我どころではすまない禁断の技。代償に自分の体力もごっそりと持っていかれるが、全身をドククラゲに巻きつかれた今じばくを発動できれば、拡散する衝撃波を全て相手へとぶつけられるはず。目算して通常の8倍ほどの威力が出せれば、いくらレベルの高い野生といえど決着をつけることも難しくないはず。
 ――サイケ光線だって使えたんだ、まだ覚えるには未熟だったとして、なんだ。休憩中ルーミーに見せた、土偶の空洞に溜まった老廃物を排出するようなイメージで、体の中心から弾け飛ぶほど荒々しいエネルギーを凝縮する。ちょっとでも火花が起きればすぐにでも炸裂する高密度のパワー、溢れ返るそれを押さえきれずにぼくの体も膨れ上がっていく! じばく、自爆、じばくじばくじばくじばくじばく
じばく
じばく
じばく――





「シャコおおおおッ!!」

 闇の外から、真鍮でできた管楽器を破裂させたような叫びが届く。妄執(もうしゅう)に囚われたシャコの思考をすくい上げたのは、聴きなれた幼馴染の声だった。

「おれがいる! から! 早くそっから、出てこいよォっ!!」

 洞窟の捨て石の隙間から、光が差しこんだ思いだった。
 ――そっか。
 キップイを〝じならし〟から避難させたときのように、それ以上の掛け声は必要としなかった。檻の外からパオロが踏みつけてくる気配に合わせ、シャコは思いっきり回転をかける。軸足で砂浜をグリップし、触手、闇、迷い。まとわりつくもの全てを弾き飛ばすような高速スピンで、思いきり身をよじった。

 ずあぁ――ぁぁぁああ! 目の前から霧が晴れていく。

 〝しめつける〟の拘束を解かれたドククラゲは大きくのけぞって、触手のこんがらかったところをパオロの前脚の下敷きにされる。にゅぐ! と手応えのないような音がして、それに続いて声にならない怪物の悲鳴が再度轟いた。

「お、オレだってっ、やればできる、ってのッ!」

 サイケ光線を偶発させたシャコに感化されたのか、はたまた爆裂のタネからヒントを得たのか。普通のサイズに戻ったルーミーが、解けた金属のように飴色に艶めく炎の塊を(ほとばし)らせる。ドククラゲのクリアボディへ着弾したそれは、小さな爆発を起こし火花を散らして舞い踊る。
 効果はいまひとつでダメージこそ期待できなかったが、怯ませるには十分のようだった。触手を一斉に炙られたドククラゲが水際へと後退する。砂で全身を汚しながらのたうち回る敵は、全てを押し流して呑みこんでしまいそうな闇の気配など、もう感じられなかった。

「とどめッ!!」

 シャコが叫んで、ツノの先に集中させたサイコパワーを解放する。ついさっき思いつきのまま撃ち出した技なのに、パオロとルーミーにお膳立てされるがまま、あっけなく2度目を成功させていた。早くも肌身に馴染んだような感覚がして、シャコは両腕をツノに添えながら陶然とする。
 サイケ光線は力強く直線を描き、毒々しげな輝きを放つコアを貫いて煌めく。ギュピィィ――!! 今いちど奇怪な悲鳴をあげ、ついにドククラゲが吹き飛んだ。

 ざぱぱ――ァあああっ!!

 くらげポケモンの着水とともに盛大な水柱が立ち昇り――沈む。物語の授業で習った、ポケモンが巨大化して戦争をしたという神話に出てきたダイストリームという技は、そのあまりの水量に天候さえ変えてしまうという。その幕引きを彷彿とさせるほど盛大な水飛沫が降り注ぎ、シャコはとっさにパオロの陰へ隠れた。にわか雨をやり過ごしているうち、水面に幾重にも波紋を残して、ダンジョンはもとの静けさを取り戻していた。
 ――やった。……やった! やったやったやった!
 辛勝を成し遂げた土偶の肌は汗みどろ、というか泥みどろで、乾燥肌のグレッグルの好みそうなふやけ具合だ。一刻も早く火に炙られて乾かしたかったが、そうするとひび割れる恐れもあって、ひび割れを治すにはミネラルを補給しなくちゃいけなくて、つまり砂浜に埋もれてひと眠りしたかった。それくらい疲れていた。
 木の枝に穴を開けられたフワンテのようにへなへなと不時着して、シャコは浜辺へ両腕を投げ出した。鼻先で水中の気配を探っていたパオロが、放漫に水を切ってどっかりと砂浜へ尻をおろす。険しい目つきをしていたが、その仕草からは安堵が見て取れた。

「シャコ、オマエのダメなとこは、後先考えなしに飛びこんで解決しよーとすっとこだ」

 パオロの鼻先が伸びてきて、肩のあたりを、ぴし、と弾かれる。扱いは相変わらず独楽(こま)のそれだったけれど、回転方向は正しく時計回りに。

「自分ひとりでなんとかしよーとすっのもいーけどよ、まず、おれたちを信じてくれよ。()っちぇーオマエが触手にがんじがらめにされてよ、そのまま溶かされるかと思ってヒヤヒヤしたぜ」
「パオロだって、ぼくたちの前に立って、ハイドロポンプを受け止めようとしたでしょ。……努力もむなしく貫通してきたけど」
「ばッッッ、オマエらが水タイプの技にからっきし()えーからだろーがよう。それに、オレの限界くらい、オレがいちばん分かってるっつーの!」
「じゃあ、ぼくだって、それと同じ気持ちだよ!」
「同じじゃねーよ。じばくなんて技使ったら、オレまで巻きこまれちまうじゃねーか」
「あ。……声、出ちゃってた?」
「ダダ漏れだったぞーう」

 気づいてなかったのかー? と呆れた鼻息が吹き付けられた。埋もれた下半身から養分が巡ってきたようで、浮遊する気力もようやく戻ってくる。

「それともよー、シャコ。オマエが木っ端微塵に吹き飛んじまうのを、目の前で見てろってのか? そんなんで助かったって、あーよかったって笑えるワケねーだろうがよーう」
「…………」
「おれたちで連携を取り合えば、今回みてーにどんなに強えー敵だってやっつけられるんだってーの! だから、ぜってーに、じばくなんてすんじゃねーぞう」

 秘密基地でのあの事件を思い出す。みんなを温めるように入り口の風除けとなって立ちはだかったパオロ。刻々と冷たくなってゆく彼を見守るしかできなくて、それがただただ怖かった。吹雪が晴れて太陽の熱を浴びればまた動けるようになるんだから心配するなよー、と後々鼻で笑われたが、目の前で友だちが取り返しのつかない姿へ変貌していくのを見ているしかできない無力感は、どうしようもなく(こた)えるものがある。

「でも、助けられたモンは、助けられちまったなーあ。大したモンだぜー、シャコ!」
「へ……、へへへ、へへ」

 そんな昔のことなんて笑い飛ばすかのように、パオロは砂を拾って噴き上げていた。鋼タイプのゾウドウはそうして体を乾かし、余分な錆がつかないようにするらしい。そのなんとものどかな光景に、シャコもつられて笑う。

「でもよ、もーちったあ冷静になってもよかっただろーよう。そもそも、〝しめつける〟の技だったらルーミーならすり抜けられただろー。な、ルーミー。……ルーミー?」

 パオロと勝利の余韻を分かち合っていたせいで、気配を消していたのかルーミーのことは意識の外に置いたままだった。見渡せば背の低い海浜植物のそばに口を開いた探窟鞄が転がっていて、その側で隠れるようにして縮こまっている白い影があった。
 通常の半分ほどに身を丸めたルーミーが、天体軌道を計算するイオルブのように何やらぶつくさ言っている。背後から覗きこむパオロとシャコにも気づかない様子で、流動性を増した不定形の体を胡乱(うろん)げにくねらせていた。

「……どうした。頭でもぶつけたかー?」

 パオロの鼻にされるがまま、芯を抜かれた蝋燭が振り返った。つぶらな黄色い片目がなんだかぐるぐるしていて、それがシャコを視界に捉えた途端、ぼッ! と頭の炎を吹き上げる。ヒトモシの炎が唐紅に呈色するのは、パニックを起こしている印だ。不定形の体を限界まで膨らませたり萎ませたり、それに合わせて頭の炎もオレンジから深紫にまで変容させながら、焚き火にくべられた唐竹のように喚き散らした。

「お前もっ、オレの火力が低いって、バカにするんだろ!!」
「ぅひ!? 」
「シャコだって、強い技を覚えたからって、オレのこと、見下すんだ……! ねーちゃんみたいに、あんな熱量を操れないからって、オレには何もやらせてくれないでさあッ!!」
「そっ、そんなことないよっ。ぼくだって必死で、がむしゃらにやったらできただけで……。ルーミーだって、なんかすごい技、使ってたじゃないか! 確かにダメージにはならなかったけど、もし相手が氷タイプの敵だったら――」

「うるさいッ!!」

「わあ!?」

 燃え上がった炎から飴色の弾丸が射出される。至近距離で避けられずに胸へ直撃を受けたシャコは、衝撃を受け流すようにその場で逆回転を強いられた。土偶の肌へ焦げ跡がまざまざと染みついて、ひび割れた一部が土くれとなって崩れ落ちていく。えぐれた胸にくっきりと捺印(なついん)された焦げ跡は、シャコの気づきもしなかった、ルーミーの抱えていた心の(おり)のようなもの。そんな気がして、シャコは胸に手を当てる。燃え上がったルーミーの気持ちは分からない。
 跳弾した火の粉は背後に控えていたパオロに降りかかり、「()っづ!!」と悲鳴を上げさせた。シャコがパオロの陰でスコールをやり過ごすのとは道理が違う。粘膜の薄い耳の裏側にまで火の粉に潜られたようで、たまらず砂浜へと頭から突っこんでいた。

「だ、大丈夫っパオロ……」
「オマエこそダイジョーブかよマトモに喰らいやがって! ッつーかこっち来んじゃねーよッ。オマエが()けーと、炎が弾けてますますオレんとこまで飛んでくるじゃねーか!」
「ご、ごめん……」
「いーから、今どーすべっきゃ考えろ!」

 砂地を転げ回って鎮火したパオロを助け起こし、シャコはルーミーへと向き直る。どこか苦しげに気焔(きえん)を吐く蝋燭ポケモンは、恨めしげにシャコを睨みつけていて。

「……ぼくのせいだ」
「あ?」
「ぼくが最後に撃ったサイケ光線、ルーミーに当たっちゃったのかな。それで混乱しているのかも。そうじゃなくても、ぼく、ぼく……、ぜんぜんルーミーのこと、気を配ってあげられなかった。ヤジロンなのに、みんなを観察することがぼくの役割なのに、なのに……」

 思い詰めたようにおぼつかないぐらつきを続けるシャコの軸を、しっかりとした回転を始められるようパオロの鼻がしゃんと吊り上げる。

「たぶん()げー。もしそうだとしても、オマエが気にするこった、ひとつもねーよ。おおかたドククラゲが最後っ屁に〝ちょうおんぱ〟でも撒き散らしたんだろーけど……この状況、やべーんじゃねーか」
「……やべーと思う、ぼくも」

 ドククラゲとの戦いで消耗していたのはみな同じだったが、いざ3匹の間での相性となればヒトモシのルーミーの旗色が俄然いい。そのうえ威力の高い炎技まで習得したとなれば、苦戦を強いられることは火を見るより明らかだ。
 説得しようにも、ルーミーがそれほどの激情を募らせていることに、シャコは思い当たりもしなかったのだ。下手に刺激してしまえば、彼の嫉妬の炎を全身で浴びることになるかもしれない。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

    ...................
    =*****************+:
     .......:==:......
            .*=:-:                -**:
                 :=-.  :=+*+=--:. +**=
                   .=+=-. .-=****=+**=::.
                     .        :-+=+**=****+==-:  +++++++++++++++++++:
                                  +**===========  :-------+=-------.
                                  +**=         :+...:-----*=
                                  +**=          .==-:.    :.
                                 -====:
                                  +++=
                                .-****-
                               :-===+==:.
                              .:-=-:=:==-.

    (ルーミーの説得を試みる。)                        (バトルで落ち着かせる。)
              2.                                           7.





6 不完全燃焼なんだろ 


 自分の名前が嫌いだった。
 〝後方を照らす明かり〟――父親であるマグカルゴの故郷の言葉でそのような願いを託され『ルミナリア』と名付けられた。霧の大陸に特徴的な言語体系では、単語ごとに概念的な性別が割り振られていて、『ルミナリア』とは響きに違わず女性系なのだそう。タマゴの殻を割って初めて上げた産声が、歳の離れた姉ふたりのものよりも高かったから。そんな安直さで、性別を確かめるまでもなく名を与えられたのだと知ってから、彼は自分をルーミーと呼ぶように周囲へ働きかけるようになった。長いし、噛みそうだし、なんかヘンじゃない? スクールに上がってからパオロに自己紹介したときも、そうやって曖昧にはぐらかしては頭の炎を(くゆ)らせていた。
 両親は葬儀屋を営んでいた。
 マグカルゴが体内で練り上げたマグマの灼熱をシャンデラが貰い火し、火床(ほど)へ炭を並べた炉の中で踊ることによって死者を焼却して、遺体に囚われた魂を霊界まで葬送する。火葬するポケモンの体格や性質によってその適正温度は変わってくるが、骨さえ残らないほどの高温で一気に焼き上げることで霊魂の未練を断ち切ってやる。『どうせ燃えるなら、燃え尽きるまで』を、母親は葬儀のモットーとしているらしい。
 火葬炉を中心とした石造りの家の、ジュラルドンのように天へと伸びた煙突から、死者の魂を乗せて昇っていく紫煙を見上げるのが、ルーミーは何より好きだった。煙には表情がある。送られる遺体がロズレイドなら満開の花束のように艶やかに、ニョロボンならいかにも目を回しそうな渦巻きの形をして、天へ召されてゆく。荼毘に伏された彼らの魂が霊界へと届けられるのをしかと見届けて、いつか自分の炎でもそんなことができるのかな、と頭の火をぼやぼやさせては、姉たちから微笑ましく見守られていた。
 ルーミーが火を吹けるようになって間もなくの頃。次女であるルミエリナに子守りをされながら、いつものように庭から煙突を見上げていた。両親は火葬炉につきっきりだし、長女のルミニーナはしばらく前から炉の前に陣取り、扱う炎についての本格的なノウハウの勉強をさせられている。その日亡くなったのは身寄りのないダーテングの老夫で、火葬場の隣に設られた簡素な斎場はいつにも増して静かだった。
 煙突の口から吐き出される煙は、天狗風に吹かれたようにまっすぐな線を引いて青空へすっと消えている。ルーミーはなんとなしに眺めながら、隣で炎技の鍛錬に励むヒトモシへつぶやいた。

「ねーちゃん。ボクも、いつかはあんな大きな炎を、出せるのかな」

 親の仕事の手伝いを任されたルミニーナ(ねえ)に対抗意識を燃やしているのか、ルミエリナ姉も舞踏の模倣に余念がなかった。浮けもしないヒトモシの体で見よう見まね、魂を(いざな)うシャンデラの踊りをクネクネと再現しようとしている。

「やってみる?」
「できるの!?」
「ニーナ姉には、秘密だから」

 つい最近ようやく消し炭程度の火を飛ばせるようになったルーミーは目を輝かせた。ルミエリナ姉いわく、マグカルゴとシャンデラの組み合わせでなくとも、ヒトモシ同士なら相手から火を貰って自分の火力を底上げすることができるらしい。それこそが我が家に伝わる職人技術で、ストークスの町で唯一の火葬屋の誇りなんだそう。大地や鉱物を信仰の対象とする土地では土葬が一般的で、ニドキングの夫妻が商売(がたき)ではあるが、シャンデラの腕の確かさから、葬式の需要も半々を競っているのだ。

「まずはやってみせるから。思いっきり、あたしめがけて火の粉をぶつけて」
「いいの……?」
「遠慮しないで。こういうのはビビらない方がいいヤツだから。パパみたいなバカ火力じゃなくても、あたしがどうにかしたげる」
「う、うん」

 毎日火を扱う練習は重ねてきたが、それを誰かに向かって、まして実の姉へ吹きかけるのには抵抗がある。ルーミーは意を決しあぐねていたが、目の前のヒトモシは泰然とした態度を崩さない。「できる」と宣言したことは何でも存外にそつなくこなしてしまう次姉のルミエリナは頼もしく、つい先日も長女の見よう見まねで〝はじけるほのお〟を習得したところだった。花火のように打ち上げられる何発もの炎の弾丸が、黄色く弾けて庭の石畳を跳ね踊るさまは、まさに彼女の喜びを表しているようで、なんだかルーミーまで誇らしくなった。
 ――パパみたいな火力じゃなくてもいいって、言ってたし。ボクのは、種火(たねび)だ。暖をとった後も消し炭の中にちょっと残しておく、初めから(おこ)さなくても霊界のエネルギーを注げばいつでも輝かせられる小さな火。ボクのちっぽけな炎も、ねーちゃんの燭台にかかればあっという間、ママにも負けない大きな炎の渦にできる!
 ルーミーの気概に呼応するようにして、淡藤色の灯りもブワッと膨れ上がった。思いきり息を吸いこんで、体の中で火を練り上げる。――ええと、いつもはどのくらいだったっけ。意気込んだはいいものの、ルーミーはプレッシャーに弱かった。姉から熱心に見守られていては、まともに火を調整することさえ難しい。
 集中しすぎたせいか、喉の奥で炎が絡まる感覚がした。煙たさが口の中を埋め尽くし、思わずむせこんでしまう。
 開いた口から、(かす)れた(もや)が出た。酸素の足りない蝋燭が吐き出す煤によく似た、それでいて性状の異なる墨色の霞を、肺の底からこぼしていた。炎タイプに有り()べからざる、触れた全てのものの肌から浸透して熱を奪ってしまいそうな、氷の瘴気(しょうき)
 黒い霧を真正面から浴びたルミエリナは、きゃあああっ!? と甲高い悲鳴をあげて跳ね逃げた。弟の手前すぐに情けない悲鳴は抑えたが、頭に灯る炎は暴風にでも煽られたかのように縦に細長く伸びている。
 引きつった目つきで、絶叫をごまかすように声を振るわせるルミエリナ姉。

「る、ルミナリアってば……変なの」

 こめかみあたりの蝋が固まってしまったときのような嫌悪感を乗せた姉の渋面と、変なの、というなんの気ない言葉が子供心ながらに怖かったのだろう。ルーミーは小さな口を短い腕でとっさに隠した。黒いもやは煙突の煙のようにすうっと掻き消えていったが、口まわりにはまだ冷たさが残っている。
 火の粉を吹こうとして、別の何かが自分の中から吐き出された。――こんなの、知らない。パパもママも、ねーちゃんたちも使ったことのない、炎タイプのヒトモシとは違う、氷タイプみたいな技。初めてだったからねーちゃんもびっくりしただけだけど、何度も使って嫌われちゃったら、どうしよう。そう思うと途端に口を開くのが怖くなった。もし将来新しく覚えた技を自慢しようとして、喉奥から〝はじけるほのお〟ではなく、〝こなゆき〟が吹雪いてしまったら? 家族で囲んだ食卓を凍りつかせ、パパも、ママも、ねーちゃんも、それ以上に冷たい視線を向けている。そんな悪夢が、ルーミーの掲げる燎火(りょうか)の浮かび上がらせる影のように、蝋燭の体の後ろへ長く尾を引いている。炎技に苦手意識を持つようになったのは、明確にこのときからだった。
 訳もわからず小さく怯える弟。どことなく漂うばつの悪さを退けるように、ルミエリナ姉は炎の火勢を上げる。

「仕方ない。じゃ、今度はあたしがあんたに火を分けたげる」
「う、うん……」
「あたしの炎を、自分のものと混ぜるような感覚で。それがひとつになって、成長していくヤツをイメージして」
「わかったよ……」
「しゃんとして。やってみたいって言ったの、ルミナリアでしょ。遊びじゃないんだから」
「ちょ、ちょっと待って、ボクなんだか怖いよぅ……」
「待たない! こういうのは体で覚えるヤツだから」

 ルミエリナ姉は一喝し、まごつくルーミーへ照準を合わせ、頭の炎を激しく揺らめかせる。
 ルーミーはその輝きに嫌な予感を抱いていた。いつもより大きく、彼女の口の中でクラボのみのように膨らんだ〝はじけるほのお〟は、火の粉すらまともに扱えない自分へ、業を煮やしている姉の苛立ちが載せられているように思えてならない。ルーミーの抱いた炎に対する萎縮や怖気(おぞけ)ごと、蝋燭の体を焼き切ってしまいそうで。
 今になってみれば、ルミエリナ姉の気持ちもなんとなく推察できる。いつまでもうじうじしている弟を元気づけるため、当初の要望通り頭に火柱を立ててやろうと焦っていたに違いない。彼女の思惑では、炎を受け取ったルーミーの頭は、梅雨を喜ぶニョロトノの歌声のように噴き上がる――はずだったのだろう。
 次女の口から射出された、飴色の火球。それが縮こまったルーミーの蝋燭の芯を(えぐ)り、不定形の体を半分、弾き飛ばした。



 特性が違うのだ、と町医者のシビルドンは言った。
 姉ふたりは母親から〝もらいび〟の特性を引き継いでいるが、ルーミーはヒトモシ族でも珍しい〝すりぬけ〟の能力に秀でているらしい。ルミエリナから撃ち出された〝はじけるほのお〟を受け止めきれなかったのは、炎技に対する感受性が低いためだった。
 特性の母子不一致、それ自体はよくあることだった。多くは母親由来のものを受け継ぐが、稀にそうでない子も生まれてくる。タマゴから孵ったときに確認しなかったのか、とシャンデラの母親は医者にこっぴどく叱られていたが、性別さえまともに調べられずに名前をつけられたのだ。特性についてだって確かめられていないことは、火を見るより明らかだった。母親は何も言い返さず、ただひたすら、ごめんねえ、守ってやれなくてねえ、と、半分の長さになり今にも融け消えてしまいそうなルーミーへ、金属質の腕の先からろうを分け与えながら泣き言を漏らすばかり。
 家から担ぎこんだ、いつも使っているベッド用の燭台へ横にされて、ルーミーはピクリとも動かない。かざした炎はバチュルの毛先ほどに小さく、生々しい焦げ跡の残る下半身からは、黒く(ただ)れた()り糸のほつれが飛び出していた。
 その小さな体に正面からぶつけられた熱量は、頭の芯に灯る炎を大きくするどころか、その灯芯草(とうしんそう)の対極にあたる、不定形な蝋燭のどこかに隠されたヒトモシ族の急所を焦がし、消えることのない(あざ)をその小さな体に残すことになった。普段なら見えることもないが、驚いて体を蕩かしたところを持ち上げられたりすれば、凄惨な事故の痕跡はたちどころに暴かれてしまうだろう。
 半年ほどの療養とリハビリでルーミーはすっかり元通りになったが、久しぶりに戻った彼の家庭は、決定的に何かがぎこちなかった。もともと仲が良いとは言えなかった両親は寝室を別々にし、母親のシャンデラは催事場のホールの天井にぶら下がるように、父親のマグカルゴは仕事場の火葬炉を寝床としていた。仕事が仕事なだけに言葉を交わすことも少なかったが、夕飯を囲んでも会話らしい会話はほとんど上がらず、その沈黙を正当化するためにいつしか、その日に葬った者の魂を弔うために食事は黙ってする、なんて不文律までできあがっていた。葬儀が終わっても父親は仕事場で殻に閉じこもることが増え、母親はぼうっとしていることが多くなったのか、焦げて元が何だったか分からないようなきのみを食卓へと出すことがあった。ルミエリナ姉は露骨にルーミーを避けるようになっていたし、ルミニーナ姉は火花のように弾けた家族をひとつに取りまとめるよう、ランプラーの中心に灯る炎を無理にでも明るくしているようだった。
 融けて流れたろうを固めても、蝋燭には戻らない。探検家を養成するスクールへの入学を母親に勧められ、ルーミーは負い目から逃れるように承諾した。父親は言葉少なに反対していたようだったが、パオロと仲良くやっていると知るといつしか黙認するようになった。



 授業で〝タマゴわざ〟というものを教わったのは、最高学年に入ってからだったはずだ。
 レベルアップや道具を使ってでも覚えられない技を、先天的に習得していることがある。元来タマゴからは母親と同じ種族が生まれてくるが、陰性ながら父親の形質も受け継いでいて、そのひとつがタマゴわざだった。例えばダイオウドウの母親とクレベースの父親の間にできたパオロは生まれながらに〝すてみタックル〟を覚えていて、それは本来ゾウドウの覚える技ではない。もし仮に父親がカバルドンだったら、兄弟姉妹全員が強力な技〝じわれ〟をものにしていて、家族喧嘩をするたびに鉱山がひとつ潰れてたかもなー、と、パオロは呑気に鼻を鳴らしていた。
 ともかく、父親が異なれば当然、姉と弟でも異なる技を覚えていることになる。水の大陸の調査団の研究によると、全くの同種どうしならばタマゴ技も共有することができるとの発表が近年になってなされたが、それも特殊な条件下でのみ起こりうるとされていた。
 タマゴ技はね、その子にとって大切な個性なの。――シュヴァルツ先生は声を丸くしていたが、ルーミーには強烈に思い当たる節があった。
 炎も満足に吐けないくらい幼いときに口からあふれ出した、凍てついた氷を砕いたかのような黒い霧。あれは、ふたりの姉はもちろん、母親も父親も覚えることのない技だった。
 合点がいった。いきすぎて恐ろしくなった。
 ――マグカルゴのとーちゃんが、とーちゃんじゃなかった。父親が〝くろいきり〟を使ったところを見たことがなかったし、そうでなくともゴボゴボとマグマを(たぎ)らせたようがんポケモンが氷タイプの技なんて覚えそうにもない。ルーミーの覚えているこの技は、マグカルゴが父親でないことをありありと裏付けるものだった。
 そしてそのことを、父親も知っていたはずなのだ。姉たちより産声が女々しいからと言って、安直に女の子の名前をつけはしない。タマゴの殻を破ったばかりのヒトモシの特性を、簡単な検査も受けずに決めつけたりはしない。父親は自分の子どもではないことを知っていて、だからこそルーミーだけにはすげない態度を貫いていた。自分の血を引いた子どもじゃなかったから。母親との仲が悪いのも、姉ふたりを贔屓目に可愛がっていることも、全てそういうことだった。
 ルーミーがスクールへ入学するまでは、風が吹けば消えてしまいそうなほどやつれていた母親は、彼が高学年に上がってからようやくシャンデリアの照度を取り戻したように思う。この歳にもなれば想像はつく。不倫相手との子を身ごもった彼女は、大地を創り上げたとされるグラードンもかくやというほど憤激する父親とどうにか話をつけ、3匹目を孵し育てることになった。自分からしか愛されない未子がある日、姉との火遊びによって蝋燭の半分を欠損させられる重体を負う。町の診療所で意識を取り戻したとき、ルーミーは初めて母親の痛切な金切声を耳にしたが、それも無理のないことだった。『ごめんねえ、守ってやれなくてねえ』。――特性が異なる可能性を、姉にも伝えられなかったのだろう。そこから本当の父親についてルミエリナの興味が飛び火するのは、ごく自然な子どもの好奇心だからだ。母親はひとりでずっと抱えこんで、少なからず負い目を感じていた小さな体に、むざむざと呪わしい焦げ跡をつけてしまう。やりきれなかったのだろう。
 オレの本当のとーちゃんは誰? ――そう母親を問いただす勇気はなかった。ようやく過去を払拭して前方を照らしはじめた母親に、種火にまで鎮火した事故のことを尋ねて無闇な心労をかけたくない。能天気なふりをして気づかなかったことにすれば、いつかは打ち明けてくれる日がくるかもしれない。――けど、今もし尋ねたら、なんと答えてくれるだろう。本当のことを教えてくれるんだろうか。何言ってるの、と笑い飛ばして、またひとりで抱えこむのか。それとも曖昧に笑って、頭の炎を(くゆ)らせるのか。
 本当の父親は誰か。ルーミーの芯に灯った疑念の炎は、〝もらいび〟ではない彼が制御しきれないほどに膨れ上がっていた。同時に、自分なんて消えてしまえばいいのに、と思う。自分さえいなければ両親は仲が良く、ルミエリナ姉はランプラーの腕をすり合わせてヒステリックな金属音を叫ぶようにはならなかったし、ルミニーナ姉は、シャンデラの曇りガラスに囚われた炎へ、どこか諦めめいた優しい輝きを含ませることもなかった。あのときルミエリナ姉の火球で、芯の底まで燃え尽きていれば。どうしようもないやるせなさがルーミーの炎を淀ませる。それが叶わないならせめて、スクールを卒業して探検家になって、蝋燭を吹き消すようにふっとこの町を去ればあるいは、みんな仲直りできるだろうか。ろうが綺麗に燃えなかったせいで生じる煤を削ぎ落とせば、また明るい家庭が戻ってくるだろうか。
 親族総出で港町まで行商へ赴いたというパオロの自慢話を聞きながら、内心穏やかではいられなかった。ずっと、嫉妬の炎を燃やしていた。ユキメノコの従姉妹がどうだとかなんて、贅沢な悩みだ。家族みんなで出かけるなんて、家の仕事柄もありルーミーは考えたこともなかった。近ごろルミエリナ姉は夜な夜な遊び歩いているようで、夕飯のテーブルに揃うことさえ稀なのだ。たまに帰ってきたかと思えば甲高い不協和音をがなり立て、両親を口汚く罵ってから自室へと引っこんでいく。そんな夜ルーミーは決まって、老朽化したシャンデリアの吊り具が悲鳴をあげ、落下の衝撃でばらばらに砕け散る夢を見るのだ。
 すぐ隣にいる友だちの、円満な家族を当然と思うような無垢な先入観も、知りたくなかった。
 心の奥底に巣食う黒い霧は、口を開けば棘ついた言葉として溢れるようにまでなっていた。パオロとシャコと共に突入したダンジョン『ワイアット海漂林』でドククラゲの〝くろいきり〟を見た途端、何かが堪えきれなくなった。ルーミーの家族関係に亀裂を生じさせる元凶となった技。全身を真っ暗闇に包まれ、サイケデリックなコアの輝きに幻惑されながら、ルーミーは強く思う。
 ――あのときオレが、火の粉を吹いてさえいれば!
 腹奥に焦げついた炎に対する恐怖心が、無意識のうちにリミッターをかけている。シャコを解放したドククラゲに覚えたての〝はじけるほのお〟をぶつけて、なんの手応えも得られなかった。
 (たが)を外せるものはないか。小さく握りこんだ短い腕で、探窟鞄をまさぐっていた。確か、ダンジョンを探索しているうちに見つけたタネがあったはずだ。ドククラゲから奇襲をかけられたときにはすっかり忘れていたが、幸か不幸か最後まで残っていてくれたおかげで決心がついた。
 降りしきる水飛沫の中、濡れるもの(いと)わずに握ったタネを眺めていた。パッチールの瞳を思い起こさせるような渦巻きの入った、見るからに食用には向いていなさそうな〝こんらんのタネ〟。ダンジョン探索では後衛を任されるルーミーは、罠を踏んだり奇襲を受けたりなどして混乱状態に陥った経験がない。ひと口かじってしまえばどうなるか、見当もつかなかった。おそるおそる口元へと持っていって、やっぱり怖くなったけれど、目を瞑り、ええいどうにでもなれ! と喉奥へ放りこんだ。
 近くから自分を探す声が聞こえる。母親の隠していた火酒を盗んで味見したときのように、喉元からカッと上ってくるものがあった。いやに体が軽い。火傷跡の(しこり)なんて溶けてしまったかのように、ぬるぬる動けるような感じ。頭の炎が燃え盛り、取り巻いていた闇が一斉に退散していく。
 ――どうせ燃えるなら、燃え尽きるまで。
 全身の強張りを解くように緩めた口から、煉獄の業火が噴き上がった。





 シャコの念力で砂浜へ組み伏せられ、息も絶え絶えになったルーミーは、ずっと伏せていた心うちを途切れ途切れに白状した。
 パオロが砂浜にへばったまま鼻だけを振り上げる。弾ける炎の直撃さえ喰らわなかったものの、炸裂したろうの弾丸によって、脇腹に煤がこびりついたり小さく凹んだりが目立っている。

「……はあ!? てことはよー、オマエ、ドククラゲの怪しい光じゃなしに、〝こんらんのタネ〟をかじって、混乱したってーのか!?」
「…………」
「そんで、おれたちに炎の雨を降らせたってのかよーお!!」
「……………………」
「ふ……ふざっけんじゃねーぞう。道具の使い方も理解してねーとか、今まで授業ちゃんと受けてきたのかっつー話だろーがよ! おい……なんか言えってえよーお!」
「パオロっ、もう、やめてってば。ルーミーも、ようやく落ち着いたんだから」
「じゃーよお! なんか悩みを抱えていりゃあ、友だちを丸コゲにしてもいーってのかよ!? いくら()れー思いをしてよーとよ、危ねー目に合わせてくるヤツなんて、もう友だちなんて呼べねーよ……」

 パオロはハート形の耳で忙しなく扇をあおぎながら、焦げついた尻尾を砂浜へとなすりつけていた。ドククラゲの猛烈な〝ヘドロウェーブ〟をどうにか耐え切った海浜植物は、続くルーミーの〝はじけるほのお〟までは凌げなかったらしい。萎れた黒い塊は炎の群生となって、砂地のあちこちでばちばちと悲鳴を上げている。
 泥だらけになった肌を強火で炙られて、シャコの体表にひびが入る。痛かったけれど、ルーミーはそれ以上に痛ましい思いをしてきたはずだ。混乱状態から解放されてからは、彼は明らかに〝はじけるほのお〟の照準をシャコとパオロから外していたし、何より辛そうだった。タネによる酩酊が薄まると、友だちを苦しめているという罪悪感が優ったのだろう。〝じならし〟の衝撃をもろに受け、〝ねんりき〟で拘束されることを、受けるべき罰だとでも考えているかのように、シャコには思えてならなかった。

「聞いてて、思ったことがあるんだ」
「……」

 返事はない。たっぷりと待って、ルーミーの制止が入らないことを確かめてから、シャコは続けた。

「ルーミーは、お母さんも、お父さんも……恨んでないんだね」
「……」
「もちろん、ルーミーを傷つけたルミエリナお姉さんのことも。……ううん、恨んでない、なんてもんじゃない。慕っているんじゃないの」
「…………」
「だってルーミー、いつもお姉さんのことばっかり、口に出してるから」
「………………」
「お姉さんは高い温度の炎を見事に扱えるんだって、何回も聞いた。保健体育の授業で、ルーミーが尊敬しているおとなに挙げたのも、お姉さんだった。……本当は、仲直りしたいんだって、思ってるんじゃないの。だって、本当に嫌いな相手のことなんて、ぼくたちに話してくれないと、思うから」
「…………やめて
「っえ?」

 掠れた声をひり出して、ルーミーは後退(ずさ)りした。オトスパスがのたくるように蝋燭の体がよじられると、溶けたろうが砂浜にこびりついて化石のような波模様を描く。

「オレがいちばん、オレの気持ちが……分かんないんだよ。どうしたいのか、どうしたらいいのか、どうしたらよかったのか……」
「…………」

 ――キップイとおんなじだ。ルーミーも、闘っていたんだ。
 シュヴァルツ先生の言葉が蘇る。『心が成長すると、思ってもみない気持ちになったりもする。好きな子をついつい意識しちゃったり、気持ちが無性にむしゃくしゃしちゃったりね。それは何も間違ったことじゃない。大事なのは、そうした自分の変化を受け入れること』。――ルーミーは受け入れられないんだ。不慮の事故から生まれた家族の軋轢と、父親だと思っていたマグカルゴが、本当の父親じゃないかもしれないこと。キップイが母親から授けられたモルペコという種族へ反発を示したみたいに、ルーミーだって、それまで当たり前だったもののあり方が揺らいで、戸惑っているんだ。鍛錬を積んで進化を果たしたダイケンキが、慣れない4足歩行で満足にアシガタナを振るえなくなるように。
 シャコにとって家族と呼べるのはウキドゥだけで、そのうえネンドールには性別がないため父親が違うことによるショックも実感が湧かない。ルーミーの気持ちを洞察できたところで、その解決の助けとなるべきことまでシャコは思い至らなかった。
 集中していたせいで、ルーミーへかけていた念力の捕縛が緩んでいた。今にも泣きそうな顔からボトボトとろうをこぼしながら、不意にヒトモシが叫ぶ。

「もう――もうやめてくれよっ、オレだって分かんないンだよッ!!」

 金切り声にシャコは顔を上げる。反応の遅れた彼の目の前まで、絞り出すように放たれた〝はじけるほのお〟が迫っていて。

「あ」

 避けられない。もともと細い目をぎゅっとつむる間もなく――まさに瞬間、真横から割り入った斬撃が、炎の弾を音もなく真っぷたつに断裂した。

 バチっ! チッちっちちちちちっ……ち、ちッ。

 切り離された火球の断片が跳ねて弱々しく火花を散らす。ルーミーのやりきれない想いが砂浜へと吸いこまれていく。
 視線は、自ずと斬撃の放たれた方へ。敵襲かと3匹が硬直したところに、見知ったセルリアンブルーのカラナクシが、ドククラゲの沈んだ海から勢いよく飛び出してきた。

「どうやら……、間に合ったみたい、かな」手早くクラスメートの安否を確認しながら、ぽわわわわ――、とカイトは喉を鳴らす。〝あまごい〟に呼び寄せられた小さな黒雲が流れ、燎原(りょうげん)に雨の幕を下ろしていく。「野生でドククラゲが出たって聞いたから飛んできたけど……まさか火の海になっているとはね。パオロ、大丈夫かい?」
「これが大丈夫に見えるってンのかーあ!? もう()ったあ早く来いってンだよーお!」
「ああごめん、先生を説得するのにちょっとかかったんだ。このダンジョンじゃあ、俺ひとりの方がスムーズに動けるってね」
「……へっ、いい格好しーなだけだろーが」

 埒のあかないパオロとの応酬を切りやめ、カイトは焦げた植物の上で伸びるヒトモシへ視線を向けた。いたずらを先生に怒られる前のような、なんとも情けなくろうをへにゃらせたルーミーを真っ直ぐと見据えたまま、厚めの唇をきゅっと結ぶ。
 鮮やかな身のこなしだった。
 何があったのかシャコが説明を挟む隙もなく、カイトは砂浜を泳ぐようにルーミーへと接近すると、仰け反ってさらに芯を曲げたヒトモシへ顔を突きつけた。

「ルーミー」
「な、なんだよぅ……」
「君がどんな考えでこんなことをしたのか、どんな悩みを抱えているのか、俺は知らないし分からないさ。けど、こうやってパオロやシャコを傷つけることで、悩みが解決するとは……俺には思えないな」
「う…………」
「確かルーミーは以前、炎技が得意でないと言っていただろう? こんな広範囲を焼き尽くすような技を使ったってことかい、これは」カイトは一貫して、ルーミーを責めるような激しい語調は使わない。「自分で変わろうとしたんだ。よく頑張ったね。でも、やりすぎだ」
「く、来るなよッ!!」ルーミーは炎をぎらつかせて喚いたが、それは見るからに空元気だった。「カイトにだって、オレの悩みなんて分からないんだ! ニーナねーちゃんは炎を増幅させて、もうかーちゃんの代わりに仕事を任されてる。エリナねーちゃんだって、火力なら誰にも負けない町1番の炎の使い手なんだ! オレは、オレだけ特性が違うせいで、何もない! オレだけとーちゃんが違うかもしれないって、ずっと心ン中で疑ってるつらさが、お前なんかに分かるワケが――」
「俺にはどっちの親もいねェよ!」

 雨の砂浜に響く、聞いたこともないカイトの怒声。

「3匹目の親がいるかもしれないとか、贅沢な悩みだろ」
「…………」

 続けざまに、こぬか雨のように優しく吐き捨てられた言葉は、途端、ルーミーの大きく揺らいでいた炎を穏やかにさせる。サクの両親に迎えられるまでは孤児だったカイトにとって、血の繋がった家族がいるというのはどれほどありがたいことか。ルーミーの直面している問題とは直接的には関係しないながら、それは例えば、甲殻の枝を1本折ってしまったサニーゴがサンゴ礁の仲間たちから慰められている隣で、(ゴースト)タイプのサニーゴが誰からも気づいてもらえないような、そんな痛切さを孕んでいて。シャコも、パオロも、もちろんルーミーも、言葉を失っていた。
 カイトの呼び出した小さな雨雲が萎んで、濡れた砂浜を陽差しが輝かせていく。
 大声出してごめん、と、カイトが小さく謝った。

「拾ってもらう前の俺にも家族みたいな奴らはいたから、ルーミーの張り裂けそうな気持ちも、なんとなく分かるさ。やり場のない想いが膨らんで、ひとりじゃ抱えきれなくなって、吐き出せる相手も見つけられなくて、どうしようもなく、苦しくてつらい。だから炎を大きくしようとした。けれど、そうしたところで解決しないことも分かりきっている。……そんなものは全部、燃えてしまえばいいのにな」
「…………う、ぅん……」
「不完全燃焼なんだろ? その鬱憤を全部、俺にぶつけてみせろ。受け止めてやるから」
「な、ぅえ? ち、近いよっ、カイト……」

 しどろもどろになるルーミーの意にも介さず、カイトはさらに距離を詰める。へたりこむ蝋燭の体へ、首を伸ばし、無い腕で抱擁するように、触れた。

きゃああンっ!?

 ルーミーの叫んだそれは、パオロの自慢話に聞いたユキメノコの喘ぎ声そのもののようにシャコには聞こえた。まるで、背中へ回されたカイトの口でくすぐられ、そこから魂を吸い出されてしまったような。

「な、なにコレ……、オレの体、溶けて……? るんだけど――ひゃああああっ!?」
「ああ、やっぱり、やっぱり君もそうなのか」
「う、うごか、ないでよっ、カイトぉ……」
「怖がることはないさ。不定形どうしはね、こうして抱擁すると、気持ちが直に伝わるんだ。ほら、ゆっくり吸って……吐いて。リラックスしてごらん。暖かくて、気持ちいいだろ」
「あっ、ああああっ、な、ひゃ、ふぅぅぅ……ぅひゃんッ!?」
「ああ……俺も、久しぶりだ、この感じ……懐かしいな」

 もともと無い全身の骨を抜かれたような蕩け声を漏らし、ルーミーがぐんにゃりと伸びた。伸びて現れた焦げ跡を労るように、カラナクシの青い尾ひれが優しくなぞる。ヤクデの歩脚よりも滑らかにうねる腹足が白いろうへと沈みこみ、波打ち際をさらうようにして戻ってくる。そのたびに弾ける甲高い喘ぎ声はどこか、ルーミーが未知の感覚に溺れかけているようで。

「ほら、そろそろ慣れてきた頃じゃないかい? いつまでも受け身になってないで、どうすべきか、本能でなんとなく分かるはずさ。君の中で(くすぶ)っているもの、ぜんぶ吐き出してしまえよ」
「カイト……カイトっ、ぅあ、ひっぐッ、ああ、オレ、オレはっ、ぐすっ……っ、オレさあ、ずっと寂しくて、不安でさあ――ううううう゛!」

 されるがままだったルーミーも、叫んで、短い腕を突き出してカイトを抱き返した。優しくひれに受け止められると、そのまま引き寄せられる。ひたひたひた……、と、カラナクシの腹足がもたれるようにくっついていく。抱擁を深くして、触れる肌の面積が増えるにつれ、ルーミーは声をとろめかせた。息が続かなくなれば離れ、吸いこんではまた抱きしめる。くんずほぐれつ、パンケーキの生地に蜂蜜を練りこむように、曖昧になった境界線をお互いに侵し合っていく。
 成り行きを見守っていたパオロは湿った砂浜へ半身を埋めながら、崖から飛び降りるタツベイを目撃したかのように呆然と声を震わせた。

「……ねぇ、オマエら、マジで何やってんの???」

 返事はない。カイトとルーミーはもう、パオロたちの様子なんて気にならないようだった。徐々に輪郭を失くしていく体をお互いに支え合いながら、プルリルの夫婦がダンスをするようにくねり、ろうと海水の汗を流し始めている。
 おっかなびっくりの非難ごと置き去りにされたゾウドウの、呆気に取られた表情。砂浜へ投げ出された顔の横へ移動して、シャコも(なら)って体を沈めた。

「あのさパオロ。これってもしかして……、エッチなこと?」
「たぶん……そーだろーよう」
「やっぱり! それじゃあ、カイトもルーミーも、おとなに近づいたんだ。すごいねえ」
「待てまてまて、そーじゃねーだろーがよーう!」
「え、だって、パオロが言ってたことだよね。おとなになるってのは、つまり、もしかしてエッチなことなんだって」
「いやおとながどうとか、それどこの話じゃねーんだぞう。エッチなことって誰もいねーところでやんのがフツーっつーか、友だちがエッチなことをしてんのを見んのはフツーじゃねーっつーか、エッチなことは好き同士になってからすんのがフツーっつーか、そもそも男どうしでエッチなことすんのはフツーじゃねーっつーかっつーか」
「……よく分からないけど、ふたりはすっごいエッチなんだね!」
「や、つーかなんでオマエはそんなに冷静なんだよーお! もっと取り乱すだろフツーはよーお!」
「カイトのお陰でルーミーももう火を吹くつもりはないみたいだし、それで苦しんでいるルーミーが助かるなら、エッチなのはいいことだと思うけど」
「よくねーだろッ! だ、だってよ、男どうしでくっつきあって、女みてーな声出して、キモいじゃねーか!」
「そうなの? ぼくは誰に体を預けられても、なんだか心がポカポカするけど」
「そーじゃね! …………。そーじゃねーんだよ、なんつーか、そうじゃなくて、はぁ……」
「そっか、パオロにはまだ分からないかあ」
「あ??? シャコてめ、なンだとーお!?」

 パオロにも分からないカイトの心の機微を分かった気がして、シャコは得意げだった。――カイトのルーミーに対する献身は、おそらくぼくがキップイの発情を見守るようなものだ。肌に触れて頼られることの嬉しさは、初回を除き何度か味わわせてもらっている。ユキメノコの裾に鼻先を差し入れて〝ちんこ〟を大きくさせているだけのパオロには、まだ早いのかも、なんて。
 キップイも発情に慣れたらしく、ここ1ヶ月はひとりでも対処できるようになったとかで、シャコが付き合うこともなくなっていた。当初は道具のように扱われてざらざらした気持ちになっていたが、それでも信頼してくれたんだという嬉しさは薄まらない。あのとき胸の奥がじんと温かくなった感触を思い出したシャコは、ルーミーの心のささくれを受け止められるカイトを、ちょっぴり羨ましく感じていた。

「ああ、うん……ッ、上手いよルーミー、その調子だ」
「燃え、てるうぅっ! おっオレの中で、炎が、あ、あ、あッ、あつく、熱くたぎって――ひゃあああッ!!」
「俺も、ああッ、ルーミーとひとつになって、心地よくて……ッく、どろどろに溶かされてる気分さ……っ」
「ああ――ああ、キャラっ、キャラあああぁッ! うっうっ、ふくぅ……ぅあ、あああああッ!」
「……ふふ、誰かな? 俺をその子だと思っていいさ、我慢しないで、そのまま最後まで全部、君の心を預けてくれ……ッ! 」
「なんか、オレ、もっ、ダメ――、あッ――――」

 内に流れる体液まで共有していそうなほどないまぜになっていたルーミーが切なげにうめいて、くたっと蝋燭の体を折り曲げた。泣きだす寸前のメッソンのように全身をひくひくと引きつらせている。
 しばらくして離れたカラナクシの鮮やかな水色に、ヒトモシの体から溶け出たろうの玉が、ふよふよと浮き沈みしている。マリルリの腹模様みたいな斑点はしばらくすると、カイトの体へと馴染むように消えてしまった。
 心身ともに疲弊しきって、膨らんだり萎んだりを繰り返しているルーミーへ、カイトがひれを差し伸べる。息も切れ切れに重ねられたろうの短い腕を掴んで、引き上げた。

「落ち着いたかい?」
「…………ぅ、うん。ありが、と」
「またやり場のない気持ちが溜まったら、俺がガス抜きしてやるからさ。ダンジョンに火を放つより、よっぽどいい」
「……」
「壁から延焼して、あわよくばダンジョンが崩壊して、何もかもが燃え尽きてしまえ! ……なんて、ニヒルな終末観は抱えこまない方がいいさ」
「そこまで、思ってたこと、伝わっちゃうのかよ……。うわ、恥っず」
「ふふ、気にしないさ。少し休んだら、戻ろう。女の子たちが心配して待っているよ」

 氷を乗せられた炭火のように火勢を弱めたルーミーは、自分の身に何が起こったか理解が追いついていないようだった。溶け出してしまったような感覚が染みついているらしい、短い腕を縮めたり伸ばしたり、体のどこにも異常がないか確かめているようだった。
 カイトはその小さな背中へ合うように調度された探窟鞄からオレンを取り出した。「ケっ、『女の子たち』って」と吐き捨てたパオロの側へと置き、待つ。熱で融けかけた銅の回復を促すために食べておくべきなのは、パオロが1番分かっているらしい。所在なげに砂つぶを摘んでいた鼻がしぶしぶきのみを受け取ってから、カイトは耳打ちした。

「頼みがあるんだけど、聞いてくれるかな」
「……なんだよーおッ」
「ルーミーの件は、先生にも秘密にしておいてくれないか。……君たちに向かって攻撃したところから先は、全部」
「はーあ!?」パオロが鼻に詰まった泥を噴き出しながら声を張り上げた。「そもそもルーミーがダンジョンの壁を燃やすなんて言い始めたから、おれもシャコも危ねー目にあったんだぞ! 黙ってる理由がねーよ、これはオレたちの問題だかんな!」
「確かに、まだ半年しかスクールに通ってない俺は、パオロの言う『オレたち』には入れてもらえないのかもしれないけど」
「そ、そうは言ってねーだろーがよ……」

 ばつが悪そうに顔を背けるパオロ。言葉の勢いが削がれたところで、いいね? とカイトが念を押す。同級生に意見を通すときも、先生や町のおとなたちに取り入るときも、彼は会話の立ち回り方がうまかった。

「ともかくルーミーのことは俺に任せてくれ。カラナクシってのは、ヒトモシと同じ不定形グループなんだ。不定形のポケモンは体以上に心が不安定だったりする。それは俺が1番わかってやれるはずだからさ」
「おう……」

 ユキメノコとの、鉱物グループどうしの特異なやりとりを自慢していたからかどうかは定かではないが、ともかく危ういところをカイトに助けられたのは事実だ。そのカイトが任せろ、と頑なに言っている手前、パオロもそれ以上は鼻を突っこまなかった。オレンを炙ってかじるルーミーを横目に捉えながら、これからどーすっかなあ、とぼやいている。
 あれほど鬱屈した情緒をぶつけられては、ルーミーと顔を合わせづらくなることは、シャコにも察することができた。〝友だち〟にだって色々ある。パオロとキップイのような割り切った関係ならすぐにひびは元通りになるけれど、ぽっきりと折れた蝋燭の欠片を集めても、そう簡単にはくっつかない。
 オレンの最後のひとつを口に咥え、カイトは砂地へうずくまるシャコへと渡す。安全を確保しました、とテレパシーでシュヴァルツ先生に報告を済ませたところだった。

「シャコ、ドククラゲに出会(でくわ)してからすぐに連絡してくれたんだってね。いい判断だったと思う。おかげで君たちが燃え尽きる前に到着できた」
「……ぼくもパオロも、急に暴れ出したのをバトルで落ち着かせるのに精一杯で、ルーミーの気持ちを考える余裕もなかったんだ。颯爽と現れてあっという間に理解しちゃうんだから、カイトはカッコいいや」
「理解できたつもりなんて、全然ないよ」つぶやいて、カイトは目を細める。「ただ、シャコがキップイに寄り添ってあげたように、俺も、誰かの力になってみたくなったのさ。君が、俺の心を動かしてくれた」
「……。そっか」

 両手に握ったオレンへ目を落とす。――ぼくが気づかないうちに、カイトに影響を与えていたなんて。キップイの暴走を止めるのに精一杯だったし、ましてそのときはカイトのことを意識してもいなかったけれど、それが巡りめぐって、ルーミーの助けになった。間接的だけれどぼくもルーミーの助けになったみたいで、なんだかぼくまで誇らしい。
 オレンのみの栄養素を吸収しながら、シャコはゆるゆると回り続ける。みんなが歩けるようになるまで、カイトが周囲の哨戒(しょうかい)に当たってくれていた。
 さあ、怒られに帰ろうか。キャンプ地でシュヴァルツ先生のチョークが待っている。




7 土偶祭祀と収穫祭 


 ストークスは石材資源が豊富に産出されるが、並んで進化の石の名産地でもあった。鉱山近くのダンジョンにはディアンシー様が住まうとされ、彼女は手のひらから生み出した宝石ひとつひとつへ、成長に必要なエネルギーを丹念に込められるのだそう。そうして精製された進化の石は、恵まれる者に本来以上の力を授けるとされ、ストークスの町は在住するポケモンの実に3割がその恩恵にあやかっているとまで言われている。市井(しせい)の前には滅多においでになさらないのでシャコはまだお会いしたこともないが、「性別のないお父さんがひと目で恋というものを理解したんだよ」とウキドゥから真面目な顔つきで言われて、ぜひお目見えしたいと思ったほど。使い魔とされるメレシーにはダンジョンで何度か挨拶しているから、彼らの話を元に御姿を想像したりして、こっそりと秘密基地の地面に落書きをしたものだった。
 進化の石をはじめとした宝石に限らず、鉱物の神たるディアンシー様は無機物へあまねく祈りを注がれる。彼女に(かしず)く唯一の神職であるウキドゥは毎年の土偶祭祀(さいし)を委ねられていて、それは大地への祝福だった。
 半年をかけてネンドールの練り上げた泥人形たち――ヤジロンを模して作られた、全長10センチ程度の小さなもの――の空洞へ、祭神(さいじん)がまじないを紡がれる。明くる年も多大なる五穀豊穣が(もたら)されんことを。ひとつひとつを胸へ抱くようにしてディアンシー様が天啓をお告げになれば、小さなヤジロンたちは命を吹きこまれたかのようにカタカタと揺れるのだとか。
 収穫を終え、痩せさらばえた畑へとそれを刺す。泥人形の軸足から流れ出たエネルギーは時間をかけて貧寒な大地へと浸透し、秋蒔きの種へと越冬のための養分を施肥してくれる。ディアンシー様は豊穣の神でもあらせられるのだ。
 萌芽のエネルギーを使い果たしても、ヤジロン人形には役割があった。小さいながらも神の依り代として、悪天候や不作をもたらす悪霊から両腕をめいっぱい広げて畑を守ること。そうして農作物の結実を見届けた土偶たちは次年度の秋、刈り入れの時期に自然と崩れて大地へと還っていく。このように恵みをあずけられた民衆の喜びは、よく肥えた初物を捧げることで祭神へと還元される。1年を通じて神の恵みに感謝を表す、それが土偶祭祀なのだ。
 ウキドゥは泥人形の分配のため祭祀の日の午前中は町の農家を巡り、シャコもそれについて回った。キップイの両親が働いているきのみ農園への挨拶は、同級生の顔馴染みということもあって彼へと一任されている。スクールを卒業してからは一帯への頒布をぜんぶシャコに頼もうか、とも言われていた。おとなとして認められたようで、シャコは移動の回転を速めながら、芝の踏み固められた(あぜ)道を浮遊していった。

「はいこれ、来年の分の人形」
「ありがとうございますわ。それにしても、そっくりですわね……」
「そう?」

 採れたばかりのタネやらきのみやらがどっさりと山盛りにされた籠。豊穣の神への供物と交換して、キップイはシャコから泥人形を受け取った。小さなヤジロンをしげしげと眺めながら、彼女は感嘆の息を漏らす。
 本来ならシャコはキップイと倍近く体格差が離れているが、モルペコの腕に抱かれた小ぶりなヤジロンを見ると、まるで自分が幼児の演じるおままごとの相手にされているようで、どこかむず痒い。

「シャコさんのお父様は、手先が器用なのですね」
「そんなことないと思うけど」シャコはネンドールの、逆さ吊りにされたヒドイデのようなシルエットの両手を思い浮かべた。ビームは出るが、器用とは言い難い。「それより、ぼくってこんな顔してるかな……」
「わたくしにはさっぱり、見分けがつきませんことよ。さしずめシャコさんの弟さん、といったところですわ!」
「弟……弟かあ」
「あ……、デリカシーのないことを言ってしまい、大変失礼しましたわ。妹さんでしたのね、この顔立ちは」
「そういうことじゃないんだけど」

 ライ麦の発育を見守っては1年で朽ち果てる、使い捨ての神の依り代。シャコが幼い頃から毎年変わらず配り歩いていたものだから、思いつきもしなかった。確かにサイズ感こそ本来のヤジロンとはかけ離れているが、地面に突き刺して片側を弾けばゆらゆら揺れるし、軸をひねればくるくる回る。土人形が大地を耕しポケモンたちの助けになるのと同じように、シャコも、キップイの性衝動を受け止めて彼女の助けになれたとき、土くれの胸の奥がほぐれるように温かくなる。
 泥人形を弟と看做(みな)されると、兄となるシャコ自身もなんだか道具なのだと言われているようで、〝しびれごな〟で麻痺させられたマッギョのように釈然としない。自分自身との付き合い方に難儀しているキップイは未だ、そういうところのデリカシーを持ち合わせていないようだった。
 ――そもそもぼくは、どうやって生まれたんだろう? 性別のないネンドールなどが子をなすためには、メタモンというポケモンの手を借りなければならない(手はなかったような気がする)ことを授業で習ったけれど、タマゴからヤジロンが孵るなんてどうにも想像がつかない。例年の祭祀の準備のようにウキドゥの泥を()ねている姿が思い浮かぶ。大きさが違うだけで、この泥人形たちもぼくと同じようにお父さんからたくさんの愛情を注がれて作られたもの。ぼくが生まれたのは、お父さんが寸法を間違えた人形に、ディアンシー様が気まぐれに命を吹きこんだから……?
 ぼくは、どう違う?

「羨ましいですわ」
「……んん?」シャコは熟慮して閉じていた瞳をキップイへと向け、慌てて思索を切りやめる。「なんのこと?」
「多くのポケモンのお役に立てることが、です。だって、シャコさんは、作物を育てる栄養がなくとも、地面に刺さっているだけで畑を悪霊から守ることができるのでしょう? わたくしなんて……」

 言いつつ、弱々しく差し出された献呈の籠は、さっき見たときよりも明らかにその嵩が減っていて。キップイは申し訳なさそうに口許を拭っていた。常にお腹を空かせているモルペコにとっては、たとえそれが神に捧げる枝付きの初穂(はつほ)であっても、目の前に熟したきのみを置いておくなど、ネッコアラに眠るなと言うようなものなのだろう。
 初めての発情期の際、(ぎょ)しきれない性衝動に苦しむ彼女は〝オーラぐるま〟で牧草地へ埋没させたシャコに向かって、はち切れんばかりに叫んでいた。『女なんか、モルペコなんか……ぅううう゛!!』――きのみをつまみ食いしてしまうモルペコという種族に生まれ落ちた彼女には、彼女にしか理解できない悩みや苦しみがある。無理に聞き出そうとして、シャコは手痛いしっぺ返しを(こうむ)ったのだった。
 ――種族特有の悩みは、キップイにも、ルーミーにも、もちろんぼくにも、誰だってひとつくらい抱えている。理解できなくてもいい、そっと寄り添うことができれば、ぼくは嬉しい。





 日が暮れて。
 ストークスの町の中央広場に設けられた、木組みの平坦な大型ステージ。ネンドールの壺型の腕から〝やみのいし〟を受け取ったランプラーが、途端、淡い光に包まれる。
 どっと、歓声が沸いた。鉱石の神に愛された、この年最後の寵児(ちょうじ)がおとなへと姿を変貌させる。光の繭を突き破り、左右へぐっと伸びた腕木(うでき)は湾曲し、その両脇に小さな炎が2つずつ灯される。封じられていた妖異な炎はガラスを突き破り、新鮮な酸素を取りこんで天へと燃え上がった。それはシャコに、ルーミーの話に出てきた葬儀屋の煙突を思い起こさせていた。
 凄艶(せいえん)なる変身を遂げたシャンデラは、ハハコモリの装束屋が小枝や蔦を編みこんで作ったブレスレットを腕に通され、きゅらきゅらと金属音の快哉(かいさい)を上げる。磨き上げられた御影石の姿見へ映る自身を眺めながら、1年ぶりの降雨を喜ぶマラカッチのように楽しげに揺れていた。
 特定の道具を用いて進化を遂げる、つまり進化のタイミングを選択できる種族にとって、祭祀は青年期を終える通過儀礼としての意味合いも大きい。親の仕事を本格的に継ぐことになった。配偶者をもらうことになった。一人前の探検家であると認められ、そして町を出ることになった。港町ポアズへ続く唯一の街道が雪で閉ざされる収穫祭の終わりは、別れの季節でもあるのだ。
 舞台奥へ下がったシャンデラは、先に水の石の祝福にあやかった、友だちらしきパルシェンと潜めあった声で談笑している。むず痒そうな、笑いを堪え切れないような、ささやかな熱狂。進化するときの感覚は、本能の中に秘めたる能力が解放され、それが自分と混じり合っていくような一体感を覚えるのだとか。――ぼくも、そんなことを体験する日がいつか来るのかな。道具と扱いの変わらない泥人形の体を練り上げ、ネンドールへと造形し直せば、両手で天秤のようにバランスを取らないでも、真っすぐ進んでいけるんだろうか。シャコは〝やみのいし〟を乗せていた磁器のトレイを両手に持ったまま、和気藹々とした雰囲気のパルシェンとシャンデラへ、どことなく羨望の眼差しを向けていた。
 
「――ええ、ですから、こうして今年も、多くの若者が進化を遂げました。ええ、ええ、大変おめでたいことです。その輝かしい前途に、ディアンシー様の祝福があらんことを。それから、ええ、そうです。すでに立派なおとなへとなられた皆々様ならば充分に理解しているかとは存じますが、だからこそ節度ある行動を心がけましょう。そうですね、ええ、例えば、深酒は控え、賭け事はほどほどにし、仕事に精を出すように」

 鏡代わりの御影石は片付けられ、シャンデラに代わってステージの中央へ進み出たニドキング町長のありきたりな演説が始まる。浮かれきった若者たちはその終わりを待ちきれずに、ケッキング校長かよ、なんてどよめきが沸き起こっていた。シャコとは幾つか年度の離れたスクールの卒業生もいるらしい。これも、毎年のこと。
 新成人の代表としてエネコロロがスピーチを披露し、ストークス特産の鉱石を加工した記念品が配られると、式典はつつがなく閉幕を迎える。
 ステージからの帰りしな、進化したばかりの燐光のきらめきを纏ったシャンデラが、舞台袖で見送っていたシャコへ耳打ちした。

「あなた、シャコくんね」
「え、ええと……」
「あたし、ルミエリナ」

 ……あ。
 聞き覚えのある名前に、シャコはいざないポケモンの顔をまじまじと見返した。ガラス質の顔に浮かび上がった、穏やかな瞳がシャコを見下ろしている。ルーミーがひた隠しにしてきた家族の秘密に出てきた、確か彼に手酷い火傷を負わせた次女そのひとだ。

「は……はじめ、まして」
「そんな固くならないでいいから」
「う、うん」
「あたしの弟のルミナリアは――ルーミーは探検隊スクールに通ってるんだけど、きみ、シャコくんはお友だちだって、聞いてるから」
「友だちだなんて、そんな……」
「違うの?」
「そうです!」

 1週間前にシャコたちの身に起きた、探検隊スクールの校外学習で突入したダンジョン『ワイアット海漂林』での椿事(ちんじ)。ヒトモシのルーミーは(くすぶ)っていた感情を爆発させ、あたり構わず〝はじけるほのお〟を乱れ撃ちしたのだった。
 母親以外の家族とほとんど口も利かなかったというルーミーが、学校での出来事を姉のルミエリナに話している。その後の授業でも特段変わった様子を見せなかった彼だけれど、あの日の一連の成り行きがルーミーの心を、明るい方向へと照らし出したようだった。
 ルミエリナの喋り方はどことなくぶっきらぼうで、確かに軽薄な印象を与えるが、事故とはいえルーミーへ消えることのない焦げ跡をつけたなんてシャコには思い及ばない。彼の話によれば、彼女は半月前まではろくに家にも帰らず、夜な夜な繁華街へ遊びに出歩いていたのだとか。異性を惹きつけるための化粧の良し悪しは全く分からないシャコだが、彼女のガラスの肌は曇りひとつなく、丹念に磨き上げられたかのように照り輝いている。慣れている印象だ。
 それでね、とシャンデラははにかむように目を細めた。

「ルーミーが珍しく、裏庭にあたしを連れ出してね。学校のことを話してくれた。クラスメートの友だちが、混乱してパニックになったオレの助けになってくれたんだよ、って」
「ああっそれは、ぼくじゃなくて――」カイトが。口をついて出かかったところを、シャコはすんでのところで飲みこんだ。「……ルーミーが、自分で克服したんだと、思うけど」
「ふうん……?」

 修羅場へ駆けつけたカイトの大立ち回りが脳裏に蘇ってきて、シャコは複雑な表情になる。その後ルーミーが完全燃焼できたのは間違いなく彼のおかげだし、どう考えたって称賛されるべきことなのに、誰にも自慢できないなんて。カイトは念を押して箝口令(かんこうれい)を敷いていたし、パオロの話によると、〝もしかしてエッチなこと〟はむやみに話題にあげないのがエチケットだそうだから、仕方のないことだとは分かっているけれど。あんな武勇伝、つい誰かに教えてしまいたくなる。
 押し黙ったシャコを怪訝にうかがいながらも、シャンデラは続けた。

「ルーミーも勇気を出してくれたんだと思う。だいぶぎこちなかったけど、ようやく〝はじけるほのお〟を習得できたってこと、あたしに披露して見せてくれたんだ。火花の散らし方も威力もまだまだ修練が足りてなかったし、火球の大きさもヒトモシだった頃のあたしほどじゃないけど、青紫とオレンジを練って混ぜたような、透き通った色のヤツ。それをあたしの〝もらいび〟にぶつけて、『どう?』って」
「どう、だったの?」
「それが、とっても、温かかった」
「……炎タイプの技だから?」

 きゅらきゅらきゅら。ルミエリナはルリリの尻尾のように体を上下に弾ませ、すぐに「悪いね」と断りを入れた。進化に伴い新しく伸び上がった腕木(うでぎ)の蒼炎を踊らせながら、きみ面白いこと言うね、とくすぐったそうに小さく笑う。

「弟が物心つかないくらい小さい頃、酷い怪我をさせてから、あたし、話をするのも怖かった。ルーミーは内心ずっと、あたしのことを恨んでるんじゃないかって、いつか同じ目に遭わせてやろうと密かに復讐心を燃やしてるんじゃないかって決めつけて、ひとりで抱えこんでた。疑心暗鬼ってヤツね。ずっと、弟の気持ちを確かめるのが怖かった。……でも、ぶつけられたルーミーの炎はただただ温かくって、刺々しい感情はちっとも流れこんでこなかった。消えない火傷痕をつけたことも、冷たくあしらってきたあたしの態度も、ルーミーは恨んでなんかない。そのことに、ようやく気づいたんだから」
「ルーミーは学校でもずっと、ルミエリナさんのことを、楽しげに話していたよ。炎の温度を上げるのが町でいちばん上手なんだって、誇らしそうにしてた」
「へえ……。母さんでもニーナ姉でもなく、あたしのことを、ね。知らなかった。自慢しちゃお」シャンデラの瞳がイタズラっぽく笑って、すぐに戻る。「ともかく、あたしは……心が軽くなった。ルーミーが気持ちを打ち明けてくれたことで、あたしが抱えこんできた罪悪感を……(ゆる)してもらえたような気がするの。都合のいい思いこみってヤツかもしれないけど、さ。……打ち明ける勇気をくれたのは、シャコくん、きみのおかげだって、ルーミーは言っていた」
「……そうなんだ」ルーミーの助けになれていたという嬉しさを噛み締めながら、シャコは考える。「姉弟(きょうだい)でもそんな気持ちに、なるんだね。ぼくひとりっ子だからよく分かんないけど……、友だちよりももっと、なんというか……自然に、心が通じ合えるものだと思ってた」
「姉弟だからこそ難しいってヤツ。どれだけお互いを嫌いになっても、あたしの弟はルーミーだし、ルーミーの姉はあたしだから。血が繋がってる家族なんだから仲良くすべきだって分かってる。分かってるからこそ、大切な家族を傷つけた自分が赦せなかった。どう考えてもあたしの落ち度なのに何も言わないで怯えるルーミーにむしゃくしゃしたし、今さら仲直りとか恥ずかしくて言い出せない自分にはもっと腹が立った。ニーナ姉とは顔を合わせるたびに罵り合って、なんとか家族の形を保とうとしてママもやつれていって、でもあたしはどうしたらいいか分かんなくて……。あの時はとにかくいっぱいいっぱいだった。自分の気持ちでさえこんなに不定形なんだ、弟だからって、ルーミーの気持ちなんて察せやしなかった。それで、誰も信じられなくなって、両親に反発するようになって、家から逃げ出した。こう見えてもあたし、ちょっと前までは毎晩のように繁華街へ繰り出して、いろいろ悪さしてたんだから。夜遊びってヤツ」
「家に帰らないってこと? それ、お父さんに怒られるんじゃないの?」
「そりゃあね。でもあたしは、ギスギスした家族と同じ屋根の下で寝るより、同じような境遇の友だちとバカ騒ぎしてる方が楽だったってだけ」
「へえ……」
「家族の在り方って、本当にそれぞれだから。シャコくんはじぶん()か、せいぜい同じクラスの友だちの家庭事情くらいしか知らないだろうけど、街に出ればスクールに通ってこなかったって子の方が断然多い。あたしも(ウチ)を飛び出すまでは、どこの家族にも姉弟がいて、両親は仲が悪くて、言いつけを破るとパパに怒鳴られて(しつけ)の〝いわおとし〟をされて……それが普通のヤツなんだって思ってた。でも街にいる子はあたしの想像の及ばない生活をしてる。親に勘当(かんどう)されて家に帰れないとか、仕事を兄姉に取られてやることがないとか、そもそも家がなくて路地裏でその日暮らしをしてるだとか、そんな子ばっかり。最後のは孤児ってヤツね」

 ひと足先にステージを降りたパルシェンを眺めながら、ルミエリナは言う。中央広場では早速、祭祀の夜の部――お酒を交えたおとなたちの交流会が始まろうとしていた。広くないストークスのあちこちからポケモンたちが一堂に集合しているのだ。その輪の中へ放たれた2まいがいポケモンは、取り囲むウインディやルンパッパなどからおとなの仲間入りを口々に祝われた挙句、喜びのあまり〝つららばり〟を5連続で噴き上げていた。空中で破砕してできた氷の粒が、松明の光を乱反射して眩くきらめいている。

「あの子はずっと前に両親を亡くしてね。毎日泥水を啜りながら今日まで生きてきた。ずっと、この日を迎えることを心待ちにしていた。進化するのが夢だったんだから。……あんな笑顔、初めて見た」
「……」

 いかなる猛攻をも受け付けなさそうな装甲に守られた、漆黒の貝柱に浮かび上がった彼女の表情は、難攻不落のダンジョンを踏破した探検家のような達成感に満たされていて。孤児だという過去を知らないシャコの目にも、幸せそうに映って見えていた。
 ――なんだかこれも、ひとつの家族みたいだ。
 種族は異なり、血も繋がっておらず、年齢だって離れ、あまつさえ友だちですらなく偶然この場に居合わせただけのようなポケモンたちが、まるで娘の成長を見届けるような真摯さをもって彼女の進化を祝っている。その奇妙とまで言える繋がりが、シャコにはかけがえのないものに思えてならなかった。
 シャコにとって家族とは、掴みどころのないコミュニティだ。
 探検隊スクールに入学して間もない頃、パオロから片親なのを揶揄(からか)われたことがあった。初めて同年代の子どもたちと過ごす過程で、彼らは自己と他者において何が同じで何が違うかを無意識的に探り出そうとする。タイプ、肌の色、体の大きさ、器用さ、頭の良さ、バトルの強さ、生活様式、家庭事情……エトセトラ。あらゆる要素を類比するうち、シャコだけがひとり親家庭だという家族構成は子どもたちにとっても分かりやすいバロメーターだった。素封家(そほうか)の御曹司であるパオロから「親が片っぽしかいねーから、愛情も半分しか貰えないんだぞーう!」とか、言われた悪口はそんな内容だった覚えがある。ルーミーが二の矢を継ぐように「片親のヤツって、子どものうちから仕事を手伝うものらしいけど。学校なんかに通ってていいのかよ」と追い討ちをかけた。途端、物珍しそうに聞いていたキップイとオーレットの眼差しが、慌てて取り繕ったような表情を作る。
 ぎゅるり、と、シャコの胸の奥で軟泥をかき混ぜられたような感覚。パオロから直接的に貶されるよりもよっぽど堪えた。同世代の子たちから初めて向けられる、憐れみの目つき。言いようのない不快感が、シャコのポッカリと空いた胸の空洞で巻き上がっていた。
 毎年(でっ)ちられる泥人形たちを除けば、シャコには近親者がウキドゥしかいないうえ、性別のない彼にとって家族というコミュニティは希薄なもの。パオロから揶揄われた当時は片親のどこが家族として劣っているのか、どうして憐憫の眼差しを送られるのか、シャコには理解できなかった。だって、古墳の家に帰ればいつだってウキドゥはにこやかに出迎えてくれるのだ。鉱物グループにとって必要性の薄い食事にも手を抜かず、1日たりとも欠かすことなく凝った献立が食卓に並べられ、雨の日はサイコパワーを展開して古墳を守ってくれた。バトルの練習がしたいとせがめば相応に相手をしてくれるし、その日スクールで受けた授業について、シャコが眠りにつくまで寄り添って聞いていてくれた。性別がないゆえ理解できない疑問をぶつけても、ひとつひとつ丁寧に、一緒になって考えてくれた。それが愛情と呼ばれるものであるならば、親がひとりしかいないなど瑣末なこと。シャコは空っぽの胸が満たされるまで注がれていたと思っているから。
 自分へ向けて確認をするように、ひとつひとつ弁駁(べんばく)していくシャコ。いつになく感情的になる彼にパオロも考えさせられることがあったのか、それきり家庭事情について鼻を突っこんでこなくなった。
 当時胸のうちで渦巻いた不快感の正体を、今ならはっきりと理解できる。自分の気持ちを決めつけられ、身勝手な同情を寄せられる。シャコも、散々してきたことだった。
 一般的な家族なるものは、同級生との日常的な会話の中でシャコもその輪郭を掴み始めていた。それを強く意識したのは前年の冬、みんなと秘密基地で過ごしたときのこと。
 2年前の冬休み、クラスのみんなでズリ山に横穴を掘り抜き、昨年も毎日のように足しげく通っていた。大勢でテーブルを囲んで食事をして、役割分担をしながら洞窟の維持をして、冬休みの宿題で分からないところを教えあったりして。たまにはケンカもしたけれど、それぞれがそれぞれの収まるべきところに収まって、大勢で仲良くやれてきたような気がする。――片親で性別もないぼくにとっては、クラスのみんなが家族のようなものなのかも。サクは妹でルーミーは弟。オーレットがお姉ちゃんかな。小さなケンカは絶えないけれどパオロとキップイが両親だ。子どもたちだけの環境で過ごす中、気の知れた友だち以上に深い関係性を築いていたような気がする。
 ――まさにそのような光景が今、土偶祭祀の広場で展開されている。暖かな思い出を取り出してニヤニヤするシャコの顔つきがツボに入ったのか、ルミエリナは金切り声の朗笑を響かせた。

「なにその顔! そんなだらしない表情じゃあ、誰もダンスのペアに誘ってくれないよ。ぼっちってヤツ。土偶祭祀の夜はね、おとなの出会いの場でもあるんだから」
「おとなの……。もしかしてエッチな?」
「うワオ!」シャンデラは面喰らったように左右へ振れた。ヤジロンとは対照的に、伸び上がった炎の先端を支点として、細長い振り子のように。「見かけによらず大胆なんだ、シャコくんは。そう、今宵はまたとない恋びとを見つけるチャンスってヤツ。とりわけ石で進化したあたしなんかは、今日は誰よりもチヤホヤされる。……ルミナリアだってその炎でまとわりつく影を退けたんだから、あたしもこれからは、自分で将来を照らしていかなくちゃ。恋活ってヤツね!」
「自分で将来を照らす……。ルーミーも、そんなことを言っていたよ」
「そ、だから切り替えないと! 特に(ゴースト)タイプは、秋の終わりのこの時期が勝負なの。〝昂ぶる〟ってヤツ」
「な、なんだかすごいね」
「あたしもワンナイトじゃなくて、収穫祭を一緒に回れるステキな彼ピッピを見つけて、ニーナ姉に取られた遅れを取り返さないと!」
「月の石で進化するピッピなら、この町にたくさんいるもんね」
「――きゅらラララっ、やっぱり面白いこと言うよね、きみ!」
「?」

 憑き物が落ちたような輝度を柄の先から振りまきながら、「ルミナリアを頼むね、面白い子!」と、ルミエリナは舞台中央へ躍り出た。壇上では音楽隊のコロトックが紡ぐ滑らかなワルツに合わせ、キレイハナの踊り子が優艶に腰(みの)を振っては花びらを夜風に舞わせている。ニドキングの市長に代わりステージへ上っていたおとなたちの間ではプロを真似ての社交ダンス大会が始まっていて、シャンデラもその中へと身を躍らせた。フワライドの青年が手のひとつを差し出して、湾曲した腕木がその上へと重ねられる。手を取り合ったふたりはステージの明かりを外れて夜空へと(いざな)われていき、ひときわ目立つようにくるくると回り始めた。まるでランターンが深海からゆっくりと浮上していくよう。
 ルーミーの話では、火葬に際して魂を霊界へ送り届けるためにシャンデラは火葬炉の中で踊り明かすのだそう。魂を導き出されそうなほど幽玄なそのワルツは、舞台上の誰の手にも届かないほど孤高の妖異さを放っていて。――ルミエリナさんも、きっといい職人になるんだろうな。回転軸を斜めにして星空を見上げながら、シャコはぼんやりとそう思った。

「……あ、あれ。このにおい」

 喧騒の合間を縫って、香ばしいにおいが漂ってきている。大小のポケモンたちでひしめき合う中央広場の一角は、さらに大きな黒山の人だかりができていた。
 土偶祭祀を皮切りに3週間、ストークスの町では収穫祭が催される。広場とそこへ通じる大通りには露店が軒を連ね、採れたばかりのきのみや農作物が投げ売られている。寒冷な大地でも根強く成長するカボチャは今年度も豊作で、ゴーゴートの()く荷車には特大サイズの大玉がわんさか積み上げられていた。大麦を発酵させて造られる蒸留酒も解禁日を迎え、盛大に振る舞われている。
 そのお酒のアテにと、出店を構えた町のパン屋は挽きたての新麦で焼き上げた黒パンのバゲットを振る舞っていて、タタッコのサクもその看板娘としてお手伝いに励んでいた。祭祀の責務を全うしたシャコが声をかけると、気づいた彼女はその数倍元気よくグローブの触腕を振り返す。

「はいどーぞ!」

 両手を掴まれたかと思うと、ずい! と温かなものを押し渡される。力加減を間違えたのか、ちょっと形の潰れた焼き菓子がシャコの腕に握らされていた。丸い型にはめられて焼成されたらしい、縁から溢れて盛り上がった部分がマシェードの傘めいて開いたもの。バターの甘いにおいのする生地にはところどころ蕩けた果肉のようなものが埋もれていて、普段ウキドゥの不器用な手で作られる料理ばかりのシャコは見たためしもなかった。

「うわあ、ありがとう! ……でもこれ、パンじゃないね?」
「サクのイチオシはねー、アップルマフィンなの! ひいたライ麦とバターとよくまぜまぜって混ぜて、たたんたたんって生地を叩いて、あんまし高くない温度でじっくり焼いて、リンゴにはお砂糖とオレオレのミルクを混ぜて、これもゆっくりゆっくり、焦げないようにお鍋で煮るの」
「……すごいね。そんな複雑な作業、ぼくは覚えられそうにないや」
「ぜーんぶ、サクひとりでお勉強したんだよ! パパもママも、パンのこと以外は教えてくれないんだもん! けちんぼだよねー」
「うーん」キップイやルーミーに対してやらかしたような余計な詮索は挟まないようにしながら、シャコは彼女の両親の気持ちを考える。「パン屋さんだから、サクにもパンを作ってもらいたいだけだと思うけど」
「そんなのつまんなーーーい!」

 今は見る影もなく溌剌としているが、サクは幼い頃から体調を崩しがちだった。楽しみにしていたスクールの行事を我慢しなければならなくなったことも、1度や2度で済むものではない。したいことはやらせてあげる。高学年に進んでから「サクね、パチシエ〜ルになるの!」と言ってのけた彼女の意志を両親は尊重してくれているのだと、シャコは聞いたことがある。パン屋からしてみれば売り物にならない焼き菓子に高価な小麦を奪われ、パン窯を占領されるのだから、商売に支障をきたしかねない。半年前からはカイトも養っているのだから、忙殺にいっそうの拍車がかかるというもの。
 それでもサクを放免するのは、体の弱い子に産んでしまったことへの贖罪なんだろうか。――それもひとつの家族の形なのかも。出店の裏手で即席の焼き窯と睨み合うブーバーと、来客を捌きながら余った触手でパン種をこねるオトスパスを眺めながら、シャコはマフィンにかぶりついた。果実の甘みが染みこんだバターたっぷりの生地は香ばしく、取りこんだ側からほろほろと崩れていく。味覚に自信のないシャコでも美味しいと判断できる出来栄えだった。
 苦労ばかりの家庭事情なんて笑って吹き飛ばすかのように、サクは朗らかに胸を張る。

「それでそれでね! 神サマにもねー、サクのスイ〜ツ、食べてもらうことになったんだ!」
「お供えものにあったやつだね。それ、ぼくが運んだかも!」
「おおー! あんまし美味しそうだからって、美味しいかなって、つまみぐいしてちゃ、ダメなんだぞ!」
「えっと」キップイは彼女の家の奉納品をつまんでいたけど、と口走りそうになって、シャコは誤魔化すように1回転。「ぼくはしなかったから安心して。メレシーたちも、珍しいお菓子に大喜びだったよ」
「えっへん!」

 泥人形を配り終えてから、シャコは父親のウキドゥに連れられて鉱石の神の住まうダンジョンへと潜っていた。町のポケモンたちから捧げられた供物を満載した籠を、迷宮の最奥にある祠へと献上したのだ。ディアンシー様はお見えになられなかったけれど、それも例年のこと。従者のメレシーと通例の儀式を交わすウキドゥの背中を見守っていた。もっともネンドールは背中側にも目がついているから、シャコも見守られていたことになるが。
 奉納した籠の中に、初穫れのライ麦で焼いた黒パンと並んで、白味の強い焼き菓子が混じっていたのを思い出す。ディアンシー様もシャコと同じくエネルギーの補給に摂食を必要としないと聞いたが、サクの自信作を食べてくれただろうか。
 あち、あち、あち! とサクがマフィンを掴み損ねている。父親のブーバーが温め直したばかりのそれを掴もうと、まだ熱い窯へグローブを突きこんだらしい。8本の触腕で転がすように冷ましながら、その中央にある口でハウハウと平らげた。油にてかる両手を叩き合わせながら、その美味しさを小さな体で遺憾なく表現している。

「ガッコのみんなも来てると、思うんだけど! こーんな美味しいお菓子を食べないでお祭りが終わっちゃうなんて、どう思う? ダメだと思わない? ダメだと思うよね? そうなのダメなの。ぜったいダメーっ!」
「作ってないぼくも自慢したいくらい美味しいお菓子だもん、みんなに食べてほしいなあ。そういえば、儀式の前にルーミーとカイトに会ったよ。今日はふたりで出店を回るみたい」
「そのふたりには試作品を味見させたから、もういーや! にしてもなんだか最近、おにーちゃんとルミルミ、仲いいよねー! 相性バッチシ! なのかな?」
「そうだね。ダンジョンであんなことがあったから」
「あんなことー?」
「えっと、そっか。サクは調子悪くてお休みしていたんだっけ。混乱して暴れるルーミーを、颯爽と駆けつけたカイトが助けたんだ。それはもう救助隊のポケモンみたいで、カッコよかった!」
「えっへん! なんたってサク自慢のおにーちゃんなのだ!」

 ワイアット海漂林でカイトとルーミーが抱き合ってから、ふたりの仲は急速に近まったらしかった。放課後にふたりきりで遊んでいることも増えたようだし、カイトの家に上がらせてもらってパンを焼くのを手伝ったんだ、とルーミーから聞いた。姉のルミエリナほど高温を出せない代わりにルーミーは炎の塩梅に長けているし、秘密基地でサクのお菓子作りを手伝わされていた彼にとって、初めてのパン作りもさほど難題にはならなかったらしい。ちょっとしたお駄賃とありったけの感謝の気持ちをオトスパスから渡されて、自慢していたルーミーは上機嫌だった。1週間前まで火力が出せずに思い悩んでいた面影なんて、どこを探しても見当たらないほど。

「じゃああとはー、さっきオレオレとパオパオにはあげたからー……、プイプイのぶんだ! たくさん焼いたから、たあっくさん食べてほしいなあ!」
「きっと喜ぶよ。お腹を空かせているだろうし」
「プイプイってば、スイ〜ツのはしっこがちょっぴり焦げてたりしてても、おいしいおいしいー! って、おいしそうにたいらげちゃうの! すごいよね。だからサクもね、次は焦げないようにしよー! って頑張れるの。おいしそうに食べてくれると、おいしそうに食べてほしいなって、思えるんだよ! あんなに体ちっちゃいのに、誰よりも食べちゃうんだから、すごいよねえ!」
「そうだねえ。ぼくなんか、これ1個で満腹なのに。……あ、美味しくないとかじゃなくて」
「もっちろんそーだよね! サクの作るスイ〜ツ、おいしいもん!」
「それじゃ、キップイを見かけたら、マフィンが待ってるよって、声をかけておくね」
「よろしー!」

 マフィンの香り高い小麦の味を反芻しながら、サクに手を振る。その倍の勢いでグローブを振り返してくる彼女を置いて、シャコはいつもより高く浮遊した。雑多な群像から頭だけを突き出すようにして、小さなモルペコを捜索する。泥人形を届けたときに彼女も、大事な用があって収穫祭に参加するのだと言っていた。両親が働くきのみ農園も露店を構えているはずだけれど、話ぶりからしてそのお手伝いではないらしかった。
 きのみの隠し場所を忘れてしまったホシガリスよろしくうろついていたのは、せいぜい10分くらいだったろうか。果たして路地裏への曲がり角、出店と出店の間にできた暗がりで、見慣れた二面ポケモンの背中を探り当てた。さしもの彼女も悪酔いするほどの食料に囲まれて、満腹模様を維持できているらしい。秘密基地でギャンブルをした際には声高にイカサマをひけらかしていた彼女が正当な料金を支払っているかは定かではないが、まぁ、学級長であるキップイがそんなことはしないだろう。
 路地裏へ続く石壁へ気だるそうに(もた)れながら、ギモーが指先で前髪をいじっている。どうやら熱心に見上げてくるキップイからの質問に受け答えているらしい。取り巻きのポポッコとバリヤードは女の子だろうか、屋台で買った焼きリンゴを分け合いながら、ふたりのやりとりを監視しているような態度だ。
 声をかけようとして、シャコはただならぬ雰囲気にとっさに浮遊高度を落とした。人混みに紛れ、そっと様子を窺う。

「……んぱい、やくそ…………――」
「……り前じゃん? それよ……――」
「……めてで……きんちょ………………――」

 大通りを行き交う雑踏と景気の良い売り声に紛れて明瞭には聞こえないが、キップイの真剣な表情から憶測するに、ギモーへ何やら頼みこんでいるらしかった。モルペコが悪タイプへ転調する前触れは見られないが、その顔つきは松明の逆光からでも判断できるほど目まぐるしく切り替わっている。……焦っているんだろうか。
 シャコの脳裏にシュヴァルツ先生の注意喚起が蘇る。物心ついた頃から毎年体験しているせいで実感が湧かないが、ストークスの収穫祭は大陸有数の規模らしい。海を渡って訪れるポケモンも少なくなく、それに紛れてひと攫いもやってくることがある、と。自警団も総出で見回りについているが、例年子どもを中心に狙った被害が出続けているらしい。自分自身が警戒するのはもちろんのこと、それらしい不審な影があればおとなに報告するように、探検隊スクールに通う子どもとして適切な判断を下せるように、とシュヴァルツ先生から念を押されていた。
 キップイに限って見知らぬ相手に無策でついていくなど考えられないけれど、体格だけを考えれば誘拐するにはうってつけの対象に思えなくもない。もしかしたらもうすでにバリヤードの〝さいみんじゅつ〟を重ね掛けされていて、助けて! と叫びたくてもできないようにされているのかも。手慣れた超タイプのポケモンは、たとえ相手が効果の薄い悪タイプだとしても、ダイノーズがユニットを操るように思いのままにすることができると聞く。
 だが、キップイの気持ちを勝手に決めつけ、モルペコという種族の持つ複雑な事情へ不用意に踏みこんで手痛いしっぺ返しを受けたばっかりだった。――こんなときカイトならどうするだろう。カラナクシの柔らかな体で抱きしめる代わりに、ぼくは何ができる。考えろ。ダンジョンで窮地に陥ったときも、考えて考えてどうにか〝サイケこうせん〟を編み出して、ドククラゲをやっつけたじゃないか。何かないか何かないか――そうだ、テレパシー。
 お祭りで見かけた友だちに声をかけることくらい、いたって普通の挨拶のはずだ。それもできるだけ気さくに、混み入った話には気づかなかったように装うべきだろう。やあ、偶然だね。収穫祭は楽しんでる? この人波で近づけないから、サクからのメッセージをテレパシーで伝言するよ。――よし、これでいこう。
 喧騒の中、シャコは心を研ぎ澄ます。悪タイプに対して心を繋げるのはまだ慣れたものではなかったが、この距離ならなんとかなるはず。すっかり会得した〝サイケこうせん〟の要領で超エネルギーを前方へと集中させ、指向性の照準をキップイへと合わせて――

 突然、ぐい! と腕を引っ張られた。

「うヒャ!?」
「おいシャコ、こんなとこにいたのかよー。ったく、探したぞーう」

 なにビビってんだあよーお。聞き慣れた半笑いの声に体軸を回転させれば、幼なじみのゾウドウがシャコを見下ろしている。進化前ながら体格の大きなパオロは、その長い鼻で群衆を掻き分けながら練り歩いてきたらしい。鉱山王の息子は道すがら贔屓にしているおとなたちから挨拶されるのだろう、胴の脇に吊られたポーチは山菜やらきのみやらで膨れていた。
 幅広なシルエットの影から、ミルタンクのオーレットが顔をのぞかせた。少食な彼女はサクから貰ったマフィンさえ持て余しているらしい。すっかり冷たくなったバターで蹄をてらつかせていた。拭けるものがないせいか、困惑げな表情を貼り付けたまま口をもぐもぐさせている。
 パオロが鼻を高らかに鳴らし、それがキップイに聞かれてしまわないかシャコは気が気ではない。

「肝試し、やらねーかって。オーレットが珍しく誘ってきやがってよーお。シャコも行くよなーあ?」
「あ、でも、ちょっと今は――」
「ンだよ、神サマの世話はもうとっくに終わってるはずだろー? そしたら後は自由に遊んでいいって言われていること、知ってんだぞーう。いつもみたいに付き合えよーお」
「でもいま大事なとこで――」
「それと、なんだけどよ」パオロが屈んで、オーレットを横目に見ながら耳打ちした。「シャコ。今日はオマエに……その、大切な話があるんだぞーう」
「うぇ?」

 普段の豪胆さらしからぬ神妙な顔つきで、いつになく歯切れの悪いパオロ。浮かれきった収穫祭の風情とは対照的に、心ここに在らずといった調子でどこか楽しめていない様子だった。オーレットも彼の変調には気づいているのか、パオロの半歩後ろに控えながら、薄くてしなやかな耳を心配そうに扇いでいる。
 スクールで毎日顔を突き合わせているのにわざわざ収穫祭の混雑の中から探し出してまでシャコを呼び止めたのだから、タイミングを逃がしたら切り出しにくい内容なのかもしれない。――もしかして、ルーミーやキップイのように何か悩みを抱えていて、それを打ち明けようとしているのかも。ダンジョンの一件から悪友のルーミーとは距離があるみたいだし、幼馴染として信頼してくれるのだとしたら、それほど嬉しいことはない。
 ……あ。シャコは思い出したように背後を振り返る。話がまとまったらしい、キップイはギモーの背中を追いかけて裏路地の暗がりへと消えていくところだった。雑踏に紛れてちらと覗いた彼女の横顔からは、嫌がっているような素振りはうかがえない。――やはり思い過ごしかな。そうだったら良いんだけど。





 ――さて、天秤はどちらへ傾くべきだろう?

    ...................
    =*****************+:
     .......:==:......
            .*=:-:                -**:
                 :=-.  :=+*+=--:. +**=
                   .=+=-. .-=****=+**=::.
                     .        :-+=+**=****+==-:  +++++++++++++++++++:
                                  +**===========  :-------+=-------.
                                  +**=         :+...:-----*=
                                  +**=          .==-:.    :.
                                 -====:
                                  +++=
                                .-****-
                               :-===+==:.
                              .:-=-:=:==-.

    (キップイを追いかける。)                          (パオロの話を聞く。)
             4.                                          5.





8 ガネーシャの偶像 


 石造りで瀟洒(しょうしゃ)な佇まいの洋館は、そのモダンさなど見る影もなくごてごてしい装飾で覆われていた。町じゅうの(ゴースト)ポケモンたちによって占拠されたのだろうか、と思わせるようなおどろおどろしいペイントで外壁は覆われ、あちこちに収穫祭のオーナメントが吊り下げられている。〝もりののろい〟を存分に振り撒かれた壮観な庭園には、あちこちに〝おにび〟の(とも)されたお化けカボチャのランタンが配置されていて、目のあったシャコへ青白い視線を送っていた。門扉のアーチには真紅のガラス玉を目に嵌められたヤミカラスの彫像が並び、シャコはしげしげと眺め回しながら軸足を踏み入れる。
 敷石と灯籠の淡い灯りに従いラウンド型の噴水まで辿り着いた3匹は、そこで順路が途切れていることに気づく。誰からともなく自然と背中合わせになったところで、ゾウドウの鼻にさりげなく押されて先頭に進みでたシャコは、おっかなびっくり声を上げた。暗がりへ向けてテレパシーを飛ばして捜索しようかとツノに両手を添えたが、そうして繋がってしまった方がよっぽど怖い。

「あ、あのー……」
「よォ〜こそ肝試しへ!」
「うワあああっ!?」

 すぐそこから声がして、シャコはひっくり返った。言葉通りひっくり返り上下逆さまになった視界では、つい数秒前まではそこに植えられていなかったはずの樹へ、彼の驚きぶりに満足したような表情が張りついている。オーロットの青年がシャコを見上げて(・・・・)いた。……実際は上下があべこべになっているのだから、石畳の隙間へ頭から突き刺さったシャコは見下ろされていることになる。
 ビビりすぎだぞーう、とパオロの鼻に助け起こされて、シャコは天地を元通りにされた。禍々しいまでに爛々と輝くオーロットの紅い隻眼(せきがん)は、なんだか血の色に染められた月を見上げているようで気がおかしくなりそうだ。――そういえば土偶祭祀でシャンデラへ進化を遂げたルミエリナは『(ゴースト)タイプは秋の終わりの時期が〝昂ぶる〟』のだと言っていたっけ。汗を掻かないはずのシャコの背筋を、冷たい何かが流れていくような感覚があって、ブルリ、と軸を震わせる。
 赤い月を歪めて、ろうぼくポケモンが胴間声(どうまごえ)を唸らせた。

「……お。ゾウドウにヤジロンということは君たち、ルーミーくんのお友だちだろう」
「……あ。あっはい! そうです!」

 同じようなことをルミエリナから尋ねられたときは気後れしてしまったが、シャコは今度こそ胸を張って言う。ひたひたと忍び寄ってくる恐怖に気づかないふりをするためにも、スナップを利かせて一回転。
 はりぼての気勢に勘づいたどうかは定かではないが、肝試しの受付らしきオーロットは気取ったように節くれの指を蠢かせる。

「元気がいいのはいいことだ。さっきのひっくり返りっぷりといい、実に驚かしがいがある子たちじゃあないかア」
「そ、それほどでも……」
「シャコ、それ別に褒められてねーぞう」
「そうなの?」
「フッふふふ……褒めてるさア。世間擦れしたおとななんかより子どもたちの方が純粋に驚いてくれて、それだけ俺たちの吸い取れる生命エネルギーも質がいいからな」
「こ、怖いこと言わないでよ……」
「フフっふふ……。遠慮はするもんじゃあない、怖がりに来たんだろうに」

 ヤジロンにゾウドウ、ミルタンク。誰から先に食べてやろうかと舌なめずりをするようなオーロットの視線に、シャコはサッとパオロの背中へ身を転がした。そうこうしているうち、パオロは脇に下げた鞄からポケを取り出し、全員分の参加費を渡している。ぼくやっぱり帰ろうかな……とは、とてもではないが言い出せなかった。
 ちゃり、ちゃり、ちゃり。奇術を披露する〝マジシャン〟のマフォクシーよろしく勿体ぶった手つきで勘定すると、オーロットは思い出したかのようにゾウドウへ向けて改まった。

「そうそう、ヒトモシのルミナリアくんから注文が入ってるぜ。『もしパオロたちが来たら、この前のお礼にとびっきり怖がらせてやって』だってさア。……なに、もしかして喧嘩でもしたのか」
「や……、そんなこったねーけどよ……」
「心当たりは……あるみたいだなァ。フッふふ、(ゴースト)タイプがとことん驚かせたい相手ってのは、相当恨んでいるか相当感謝しているか、そのどちらかに限るものだからねエ」
「ど、どっちにしろ嬉しかねーよ! ……ッつーかそんな話、ルーミーがするワケねーだろーが。おれ何もやってねーんだしよーう……」
「おやおや、訳アリかい?」

 『ワイアット海漂林』でルーミーの〝はじけるほのお〟の標的にされたパオロは、言葉尻を濁して地面の敷石を鼻で掻く。なるべく掘り返されたくない思い出になっているらしかった。ルーミーの言う『お礼に』とは嫌味でもなんでもなく、面と向かって謝る勇気の出ない彼なりの心配(こころくば)りなのかもしれないな、とシャコは思う。(ゴースト)タイプにとって、肝試しは怖ければ怖いほど素晴らしいものなのだと、秘密基地での怪談会でルーミーから聞いたことがあった。辛い味の好きな性格のポケモンが、最終的に激辛極まりないマトマのスープへ辿り着くようなことなのかもしれない。
 次第に精彩を欠いていくパオロの声に、オーロットの単眼が妖しく(すが)められた。しわがれた手の中で(もてあそ)ばれていた銅貨が1枚、パオロへ見せつけられるように指の間を踊ったかと思うと、次の瞬間、眩い輝きを放つ銀貨へとランクアップしている。目を見張るパオロの前でそれは再び銅貨へと戻され、老樹の(うろ)へと収められた。

「いくらニーナちゃんの弟の頼みだからって普通はこんなことはしてあげられないんだけど、探検隊スクールに通っている君たちなら特別だ。とびきり怖い〝おとな用コース〟に案内してあげないこともないけど……どうする?」
「……おとな用コースぅ?」
「そうさア。子どもが〝ふっとびだま〟ひとつでワーキャーはしゃいでいるその裏で、実はおとなだけが刺激的な体験をしているのさ! なんせ、〝おとな用コース〟の一部はダンジョンになっているんだからな。君たちの年じゃあまだ早いんだけど、迷宮に心得があるなら問題を起こすような真似はしないだろう? 特別に、ビジレクさんの秘蔵ダンジョンへ案内してやらないこともない。……とはいえ、ビビりのパオロくんには、まだすこーし早いかナ?」

 ストークスは荒蕪な大地といえど南西部には畑作地帯が展開されていて、そこに点在する農家を束ねるのがオーロンゲのビジレク(おう)だった。鉱山王と比肩するほどの大地主とも囁かれる彼は、ダンジョンにまつわる道具を収集する好事家(こうずか)としても有名だ。珍しい不思議玉やら不思議枝やら、すぐに砕ける宝石やらを海の向こうからも取り寄せているのだとか。難攻不落のダンジョンでしか発掘されない、現代の技術力では到達できないような機能を有している迷宮遺物――機械(カラクリ)と呼ばれるもの――を屋敷内にいくつも隠し持っているのだと、オーレットのしていた噂話に聞いたことがある。
 そんなダンジョンアイテム偏執狂のビジレク翁は、敷地内に自然発生してしまった迷宮を潰すことなく、あろうことかその周囲に屋敷を建造してしまったのだ。ダンジョンから溢れ出る野生ポケモンの対処など莫大な維持費用をものともせず、収穫祭の季節には市民へ開放して肝試しのステージを提供している。
 迷宮の増えてきたこの町に住む者でも、探窟に関わる仕事に就いているポケモンはそう多くない。ダンジョンは未開で、粗野で、危険だというイメージがつきまとう。慣れた者が近くからサポートできる体制が整っていれば、肝試しには(あつら)え向きの場所なのだ。

「で、どうするヨ」
「へッ、もちろんやるに決まってんだぞーう! なあシャコ、オーレット。おれたちが子ども用なんかでビビるわけねーもんなーあ!」
「だ……、大丈夫、かなあ。〝おとな用コース〟って言うくらいだから、ただのダンジョンじゃあないんだよ、きっと。暗くて狭い部屋に閉じこめられたりしたら、ぼく……。……。やっぱりほら、背伸びはしないでおこうよ、ね?」

 シャコが助け舟を求めてちらとオーレットを見ると、彼女は静かに、しかし豪気に胸を張り右の蹄でとんとんと叩いた。『私は行く』の意思表示。――そうだった、普段はゴニョニョばりに声の小さいオーレットだけれど、肝試しの言い出しっぺというだけあって肝は据わっている。こういうことに関しては子どもだてらに果敢だった。(ゴースト)タイプの技に弱点を突かれるシャコと比べ、効果のない(ノーマル)タイプだからこそかもしれない。
 オーレットが1歩進み出て、力強く「……やります」と言う。予想通りの反応だったのだろう、受付係は意味ありげに「フッふふふ……」と、くぐもった笑いを樹洞(じゅどう)に響かせた。

「いいねえ、勇敢なお嬢ちゃんだ。はなから〝おとな用コース〟に参加するために来ました、みたいな顔つき、それが恐怖に歪むのが待ち遠しいねエ! ……ま、そういうことだから。ヤジロンのきみは、おとな用じゃなくてもいいんじゃないか?」
「え、なんで?」ヤジロンの、という言い様に虚をつかれて、シャコは口を尖らせた。「確かにちょっと自信ないけど、ぼくだけ仲間外れはあんまりだよ」
「なんでって、そりゃ……」オーロットはゾウドウとミルタンクを横目でちらと見て、困惑げなひとつ目をシャコへと戻す。ダンジョンの護衛を任命したくせ、すぐにはぐれる依頼人を介護しなければならない探検家のような顔つきだ。「まあ……、そっちのふたりがいいなら、いいけどさ」
「ぼくだって普段からダンジョンを探窟してるんだ。ふたりに比べれば体つきはちっちゃいけど、ぼくも立派な最高学年なんだからね。それに、チームの編成はお互いをフォローしあえるから3匹が最適なんだって、授業で習ったもの!」
「あー……、そういうことを言っているんじゃないんだがなア」
「お屋敷の雰囲気にちょっと気圧されてただけで、ぼくちっとも怖くなんかないんだから! ルーミーに背後から〝おどろかす〟をされても逆回転しなくなったし、モンスターハウスに入っちゃっても冷静に対処できるし、それにそれにっ、夜はお父さんの隣に埋もれてなくても、もう自分の溝でひとりで寝れるんだよっ!」

 あまりの必死さに根負けしたのか、そもそも取り合うつもりもなかったのか、今にも〝じばく〟しそうなヤジロンを、オーロットは「分かった分かった、ごめんごめん」と曖昧に宥めすかす。破れてしまった弟のおくるみを繕ってやるクルマユのような態度だった。
 差し出されたゲストカードを、シャコは回転をかけてひったくる。睨み返すと、受付係はやれやれといった調子で無い肩をすくめてみせた。

「……それじゃ、探窟家のタマゴ3名、〝おとな用コース〟にごあんなァ〜い」

 ろうぼくポケモンがおもむろに手をかざすと、鬱蒼とした生垣が不気味な足音を立てて左右へ分かれていく。屋敷の別館へと続く石畳は青白い〝おにび〟で照らされ、想像もし得ない恐怖のダンジョンへシャコたちを(いざな)っているようだった。



 来賓として通されたバンケットルームも広かった。黒を基調として象牙色の縞の入った大理石の床を、染色したウールーの換毛だけで編まれた複雑な意匠の絨毯が覆っている。砂の大陸からの舶来品らしい。オーレットはそのまま乗るのは(はばか)られたのか、玄関マットで四肢を乱雑に拭っただけのパオロの後ろで、どこからか貰ってきた清潔なタオルで入念に蹄を磨いている。シャコも体から泥を落とすまいと、回転軸をビシッと伸ばした。
 シャコたちが宴会場へ踏み入れたときにはすでに、十数組のポケモンたちがそれぞれのサイズに見合った丸テーブルのそばで談笑していた。夏の長雨や気温の落ちこみによって不作が見込まれる年は、ビジレク翁の経営する農園で働く者とその家族を招いて、この部屋で盛大な激励集会を開くのだそう。キップイも同席したことがあり、それはもう豪勢なフルコースを振る舞われたのだと、そのときの彼女は特に自慢げだった。
 宴会場の突き当たりには小上がりの高座が(しつら)えられていて、その奥のマーブル模様をした壁に、何やら異質なものが掲げられていた。真実を映し出すドーミラーほど磨き上げられた、板状の黒い石。それもシャコたちの教室を陣取っている黒板くらい大きい。

「……なんだろ、あれ」
「さーなあ」パオロは手近な丸テーブルに乗せてあったバスケットから、固焼きのプレッツェルを鼻でつまんで食べていた。「(とー)ちゃんが新しく拓いた南東の鉱山から、こないだスッゲー良質な御影石が採れたって話聞いたんだけどよー、そいつかも知れねーなあ」
「パオロそれ、勝手に食べちゃっていいの……?」
「お? こーいうのは、そのために配られてるようなもんなんだぞーう。ほら、シャコも()いてーなら取ってやるよーう」
「ぼくはいいかな。サクのマフィンが美味しかったし」
「オーレットは……オマエもいらねーか」
「……うん」

 しばらく談笑していると、不意にシャンデリアの灯影(ほかげ)がゆら、と揺れて暗くなる。いかにもアンニュイな雰囲気にざわつきだした参加者たちの前で、御影石がほのかに光を帯び始めた。横長の鏡面へぼんやりと浮かび上がったのは、(かしこ)まったオーロンゲの顔。この館の主にして荘園の経営者、老年を迎えようとも毛艶の衰えを見せないビジレク翁そのひとだ。
 (ゴースト)タイプでもないポケモンが何かの事故でダンジョンの壁に押しこめられると、そのまま理性を失って迷宮に呑みこまれてしまう。ルーミーに吹きこまれた眉唾物の怪談話を思い出して、シャコは青ざめた。

「石の中に……、閉じこめられちゃってる!? 助けなきゃ……!」

 すっ飛んでいこうとするシャコの片腕を、パオロの鼻がひっ掴んだ。そのまま絡めとるように引き戻し、騒がしい口を押さえつける。

「待てまてまてシャコ、()げーよ。ありゃ、鏡みてーにツルツルな石に、ビジレクの格好が映ってるだけだ」
「――っぷは! っはあッ、はっ、はぁああああああぁ、ふうぅ……!」
「大げさだなー。オマエ、普段から口で息してねーだろーよう」
「そうだった、つい。……それで、写ってるって、どういうこと?」

 土偶祭祀のステージで、進化したシャンデラが自分の姿を確かめていた姿見と印象は似ている。シャコは半回転して背後を振り返るも、今しがた自分たちが入ってきた扉の先には誰もいない。鏡写しになっているなら実像がすぐそこにあるはずだが、オーロンゲの抜け毛1本すら見つけられないほど手入れの行き届いた廊下が続いているばかり。そもそもビジレク翁の背後には整頓された本棚が並んでいて、彼は書斎の椅子に座っているらしい。
 いっそう頭をぐるぐるさせるシャコへ、パオロが声を抑えて言葉を続けた。

「霧の大陸の特産品でよー、フリズム*4ってヤツを見たことがあるんだけどよーお」
「フリズム?」
「解けない氷の塊みてーな丸っこい形しててよー、なんでも声を凍らせて封じこめておける機械(カラクリ)らしーぞう」
「そんなこと……できるんだ」
(とー)ちゃんのを借りたんだけど、息をハーってして(あった)めるとよーう、そっから知らねーヤツの声が(ひび)ーてくんの。いつ吹きこんだのか、どこで保存されたのか分かんねー声が、時間も場所も離れたおれの前で再現されたンだぜーえ。この御影石もおおかたそれに似たよーな仕組みで、どっか離れた場所で保存した絵を取り出して、岩に浮かび上がらせてるんだろーよ。……スゲーよな。外の大陸には、おれらの知らねーモンで溢れてるってーこった」
「……フリズムって、なんだかそれ、手紙みたい」オーレットが呟いて、パオロの隣に身を寄せる。「声を届ける、手紙」
「あー……そうかもしんねーな。フリズムなら、字を書けねー読めねーヤツでも、離れた相手とやりとりができるってーことだしよーお」
「素敵だね」
「かもな。……だけどよ、外見まで伝えっちまうってーのは……なんつーか、感覚的に、気味が()りーぜ」

 言葉とは裏腹に、パオロはつぶらな瞳に憧れの色を強く乗せてオーロンゲの写像を睨みつけていた。彼に倣い、シャコも黒く艶を放つ御影石の盤面に目を凝らす。おそらく屋敷の本館にいるであろうビジレク翁に、これからどう驚かせてやろうかと品定めされているような感覚に、シャコは体の奥の粘土が硬くなっていくのを感じた。
 石の大陸にはない装置の物珍しさと、これから何が始まるのか分からない(そら)恐ろしさ。浮き足立ったざわめきがバンケットルームを覆っていた。みなの視線をほしいままにした御影石は、しかし20秒ほど変化がない。不安げなおしゃべりが収まってからようやく、正面を見据えていたビジレク翁のかしこまった目つきが崩れ、怪訝そうに眉根を寄せる。視線を外し、ここにはいない誰かへと話しかけたようだった。

『……ん? わしの姿、もうあっちに映っとんのかこれ』
()っトーロ! やけんボクが3、2、1、よか! のキューを出したら送信を始めるっちゃて、なんべんも段取りば確認したトよね!?』
『そうしん……とは、なんだったかな……? 最近は物覚えが悪くていかん』
『やぁけんこっちのカメラで撮っトー映像を、ダイニングのモニターに表示ばすっことで……。ビジレクしゃん、あんたちぃと黙っトー? 声も届くってボク何度も説明してちかっぱきつくなってきたっちゃん。こげん()こーとこで大声出しゃんでよ、ほんにしぇからしかー……! ボクに相談すっときはこしょこしょ話のボリュームったい!』

 やたら訛りの強い誰かが、ビジレク翁を補佐する形で御影石に映像を浮かび上がらせているらしい。密談の声は潜められていたが、耳の奥まで障る特徴的な響きは宴会場にまでばっちり届いてしまっている。

『こちら側から確認できんというのは……どうにかならんものかね。これでわしの姿が別館から見られているとは、やはり信じられんものよな』
『何度も言っトロっちゃけど、ボクの機械(カラクリ)は電気式やけんね。〝でんじは〟よか微弱な電気は、目には見えんけん、ちゃんと繋がっトロばい。ラプラスに乗ったつもりで、このボクに任せんしゃい!』
『そうは言うが……ふうむ』

 怪訝そうなオーロンゲの伸ばす指先の緑が御影石に大映しにされ、ついでカツカツと硬い響きがしてビルドアップポケモンの顔が大きく乱れた。初めて扱う道具の挙動を確かめるために機械(カラクリ)を軽く叩いたらしい。すぐさま、中身をこぼしたタマタマのような痛ましい悲鳴が続く。

『ギャーーーっ、なにやっトーロ!? 風の大陸で出土したばっかりん最新の機械(カラクリ)やけん、ボクがばり徹夜してやっとこ使(つこ)えるよーなっトったんに、うっ叩くのはやめロって言っトローが!!』
『……わしよかあんたの声のが届いとるんじゃないか、ロトムさんよ』
『そげんことよか、ばり大事なボクの友だちをちゃちゃくちゃらにこっぱげられっ方が、よっぽど最悪っちゃけど!』
『チャチャ……何と言ったんだ、今のは』
『もーボクばり腹かいたけん、〝でんじは〟ばりバリバリの刑ったい!』
『わ、ちょ、こら、悪戯は客に向けてやらんか!』

 映像が乱れ、忙しない物音と悲鳴が響く。石造りの屋敷が軋むほどの喧騒は、物語の授業で習った、世界の裏側に収容されたギラティナが暴れているようで、これはこれで肝試しの幕開けとして相応しいのかもしれないな、とシャコはなんとなく思った。「も……もうやめてくれッ! わ、分かった。機械(カラクリ)の代金にいくらか上乗せするから!」と焦ったような声がしてようやく、映像の向こうは落ち着きを見せる。蔵書の散乱した書斎を背景に、画面の下端からオーロンゲがよろよろと這いあがった。静電気で全身の髪を逆立てたビジレク翁が、何事もなかったかのように両腕を大きく広げて、言った。

『では改めて……。クックックっ、ようこそ諸君! 吾輩が作り上げた恐怖の機械(カラクリ)屋敷へ、臆することなくよくぞ踏み入った。諸君らがこれから挑んでもらうダンジョンは、一流の探検家でも悲鳴をあげるほど恐ろしい場所だ……。命からがら逃げ帰ったウソッキーはこう言った。――『おれが〝びびり〟じゃなかったら今ごろ、恐怖のダンジョンを永遠に彷徨うことになっていたぜ』と。……クククっ、諸君らが生きて帰れることを、心から願っているぞ。このような最新式の機械(カラクリ)を導入して昨年よりも進化した我輩の肝試しを、存分に楽しむがよい……!』

 続けて、ダンジョンの恐ろしさが潤色を交えて説明される。特徴的な笑い方やわざとらしい抑揚をつけて、参加者たちから悲鳴をさらっていった。同じような構造の続く迷宮ではすぐに方向感覚を失ってしまうだとか、ダンジョンの地面には罠が隠されていて、不用意に踏み抜くと全身を泥まみれにされてしまうだとか。
 シャコたちにとっては退屈な、スクールの授業も2年目の初めに教わる基本的な注意事項ばかり。映像を見せる御影石の不思議にも慣れてきたところで、シャコは口を尖らせる。

「パオロ……。これ本当に〝おとな用コース〟なのかな。あんなの見せられてからじゃ、ぜんぜん怖くないよ」
「……ま、黙って待ってよーぜ」

 スクールのケッキング校長も顔負けに長い話の終わり際。ビジレク翁が『吾輩自慢の機械(カラクリ)をひとつ、お披露目しよう……!』と合図を出すと、それに合わせてシャンデリアの照明が一段と落とされた。フリズムのようにポケモンの技を保管しておける機械(カラクリ)だろうか、御影石の左右へ取り付けられた装置から、〝くろいきり〟が吐き出される。
 うねり狂うドククラゲの触腕に囚われたトラウマが蘇ってきて、シャコはぶるりと体軸を震わせる。ビジレク翁による締めの挨拶が終了し、シャンデリアが輝きを取り戻すまで、情けない逆回転をしてしまわないよう息を止めていたような気さえした。

『受付で貴君らに渡したカード、そこに書かれた番号順にスタッフが案内する。しばしその場で恐怖に打ち震えながら待たれるがいい。なお、お手洗いに行きたい方や体調に異変を感じた方は、入ってきた扉を出て屋敷の使用人に声をかければ、然るべき部屋へと誘導されよう。また、諸君の口に合うかは怪しいが、我輩が華麗なる軽食を用意した。恐怖のダンジョンに(いざな)われるまで、自由に取って食べるがよい。……それが、最後の晩餐とならなければいいがな。クックックっ、グァハハハハハハァァアッ……!! ……。ええと、ロトムとやらよ。そうしんを終わるには、どうするんだったか』
『ボクの顔が描かれトロ、ばりキュートなボタンがあったロ? そこ触りー』
『ここ……か?』

 こちらを覗きこむオーロンゲの鼻の穴がどアップになり、甲高い金属質の『はいカットローーートむっ!』という声とともに御影石のきらめきが途絶える。ひと悶着あったが、世にも珍しい機械(カラクリ)蒐集(しゅうしゅう)家たるビジレク翁は実に満足げだった。舞台裏の耳打ちまで筒抜けであることを知らない彼は、これから上機嫌で機械(カラクリ)の勘定を済ませるのだろう。誰か教えてあげた方がいい。
 シャコは大きく息を吐き出し、〝くろいきり〟にビビり散らしていた内心を悟られないようにゆったりとパオロを振り向いた。

「ぜ、全然怖くなかったし……、ね? 〝おとな用コース〟とか言っちゃってさ、こんな仕掛けでぼくたちを驚かせるなんて、ちゃんちゃらおかしいよね! ね!?」
「チャチャ……何つったんだ今?」パオロは呆れたように額のこぶに皺を寄せた。「ったく、こんなグダグダな進行なのに、マジでビビるヤツがいるかってンだよーう。こーいうのは雰囲気を楽しむおれらのスタンス? ってーのが大事なんだぞーう。……ほら」

 パオロはプレッツェルのおかわりを鼻で手繰り寄せながら、若い番号のグループを指した。屋敷の奥へと続く扉の前で、スタッフらしき大小のパンプジンに挟まれ〝ハロウィン〟の技をかけられている。(ゴースト)ポケモンの悪戯に対して敏感になれる(まじな)いらしい。効果のほどは疑わしいものだが、技を受けたキテルグマは黄色い悲鳴をあげ、同行者のワルビアルを鯖折りにしていた。細長いマズルから泡を吹きかけていたが、楽しそうな様子はうかがえる。――そうだ、ぼくは肝試しを楽しみに来たんじゃないか。学校の授業は最近ますます実践形式が増え、難攻不落のダンジョンでは驚いている余裕さえない。そういう息抜きができるのも、肝試しの醍醐味なのだから。シャコは気持ちを改める。
 呼び出されるのを待っている間、パオロが「お、そうだ。自慢し忘れるとこだったぜーえ」とシャコへ話を振った。食べさしのマフィンをちまちましていたオーレットも、横から顔を覗かせる。

「ま、おれはもうオマエらと違って、〝おとな用コース〟を楽しむに相応しいおとなになったんだぞーう!」
「どういうこと?」
「これ、見てみろよーう!」

 パオロは得意げに鼻で自分の右前足の付け根あたりを指し示す。もともと入っていたゾウドウの模様と馴染むように、(さび)色の地肌へ仰々しい曼荼羅(まんだら)が描かれていた。――あれ、いつの間にタトゥーなんか入れたんだろ、気づかなかったな。シャコはしげしげと目を細める。
 ダイオウドウらしきポケモンの顔が、しかつめらしい表情で長い鼻を垂らしている。まばゆい宝石で装飾の施された王冠を載せ、ふくよかな腹にも同じく(きら)びやかな装束を纏っていた。器用そうな前脚が4本もあって、それぞれは壺やら料理やらを持っている。どこぞの神様を(かたど)ったものらしい。なかなか贅沢な神様だ。
 土偶祭祀で祝福されるポケモンが進化の石を通過儀礼とするように、そうでない者たちはおとなになった証として、あるいはそうなりたいという決意を固め、体に刃物を入れることも多い。過去との決別、自分のあるべき姿を見据える、超自然的な加護を身に纏う、など意味するところはそれぞれだが、ストークスでは一般的な風習だ。鉱物グループの体に刻まれる(のみ)は相当痛いらしいが、パオロはそれを勲章のように見せびらかしていた。

「これでおれも、おとなの仲間入りってーわけだ!」
「わあっこれ、すごいかっこ……! かっこ…………。かっこ、いい、のかなあ」
「カッケーに決まってるだろーがよーう!? おれの家系はおとなになると、全員この紋様を体のどこかに入れるンだと。ホントは進化してねーとダメらしーんだけどよ、おれってば探検家スクールに通ってっから、特別にだぜーえ? 町1番の彫り師に入れてもらったんだってーの!」
「そもそもポケモン……なの、この神様は」
「ガネーシャさま、っつーらしーぞう」

 ガネーシャさま。ガネーシャさま。シャコは心の中で復唱する。父親のウキドゥが(はべ)るディアンシー様とは異なり、お(うかが)いしたことのないお名前だ。物語の授業で習った、最後は泡になって消えたアシレーヌと同様、ひとびとが作り上げた架空のポケモン像なのかもしれない。
 パオロが得意げに続ける。

「砂の大陸じゃーぶっちぎりで人気な神サマなんだってよーう。商売繁盛とか、障害を退けるとか、力と知恵で切り拓く……とか。この土地に流れ着いて開山したおれの鼻祖(びそ)にピッタリなご利益なんだぞーう!」
「パオロは力持ちだからそれは分かるけど、知恵、かあ……イメージ湧かないなあ」
「えっ何シャコ、おれのことバカにしてんの?」
「そ、そうじゃないけど」

 言葉のあやに絡め取られたシャコを、少し呆れた調子でパオロが鼻で弾く。気持ちいい強さで時計回りに、だ。

「砂の大陸の神話じゃあよーお、いっちばん()れー神サマが自分の子どもを作ろーとして、いろんなポケモンから集めた垢で人形を()ねあげて、ソイツに命を与えたんだと。で、そーして生まれたガネーシャさまの首が取れっちまったもんだから、そばにいたダイオウドウの首を斬り落として、人形の頭とすげ替えた……って言われてんだぞーう。ひでー話だよなーあ!」
「人形……なんだ」
「いろんなポケモンがより集まってできている。ガネーシャ、って、向こうの言葉で『群衆の主』って意味らしーぞう。たっくさんのポケモンが知恵や意見を出し合って、よりよい未来を選んでいく。そんな意味も込められてるんだってよーう」
「ふうん……」

 海を隔てて遠くの大陸にあらせられる、人形の神さま。その4つの手に置かれた賜物(たまもの)を比べて、庶民の言葉に耳をお貸しになさり、どれをご施行(せぎょう)なさるのかお決めになるのだろうか。――なんだか、ぼくみたい。進化したって腕は4つに増えないし、まして自分にできることなんて限られているけれど。思いを巡らせ選択肢を並べ、どちらが相応しいか比較して、天秤の傾いた方へと心を動かす。ヤジロンの生き方こそ、多くの者から意見を募り、よりよい未来を選ばれるガネーシャ様に近いものがある気がして。
 途端に親近感が湧く。ダイオウドウの首に繋がっているふくよかな胴体が、ネンドールのそれのようにも見えてきた。互いに進化を遂げた自分とパオロがひとつになっているようで、どことなくむず痒くもある。
 パオロも同じことを思っていたのか、へへ、と鼻先を丸めて口許を掻いた。

「だからよ、このタトゥーは、おれとシャコの友情の印みてーなもんだ。シャコ、オマエも入れてみろよ!」
「う? うーん、そうだね。……でもどうだろ」シャコはヤジロンの腹に穿(うが)たれた模様を想像して、力無く体を振る。「ぼくの体、雨に濡れるとすぐに崩れちゃったりするからなあ。濡れただけで溶けてなくなっちゃう友情の印は、いやかも。それに進化したら胴体が太くなるから、横に引き伸ばされてダイオウドウの顔が変な感じになりそうだし」
「……」
「……」
「…………」
「……パオロ?」
「やっべ……。進化した後のこと、ぜんぜん考えてなかったんだぞーう……。だからキリキザンの彫り師、最終進化系じゃねーとやりたくねー、って頑なに言ってたのか……」
「えと、まあ……、大丈夫なんじゃないかな。町1番の腕利きなんでしょ」
「ソイツがそー自称してただけだしよーう……。うわ、急に進化したくなくなってきやがったぜーえ……」
「……やっぱり知恵、ってイメージ湧かないなあ」
「る、るっせ! これでもおれなりに考えて決めたことだっつーの!」

 鼻で弾いて回転させられた応酬に、シャコは冗談で返す。ばつが悪そうにプレッツェルを口へ押しこむパオロ。彼がキップイ相手に繰り広げる罵り合いにはないくすぐったさ、幼馴染だからこその心地よいやりとりだ。
 それまで顔を引きつらせて見守っていたオーレットが「あの……さ」と小さな声で割って入った。彼女はパオロと陸上グループを共有しているが、その界隈ではタトゥーの文化は浸透していない。もっぱら人型か鉱物グループの習わしだ。己の体へむざむざと痕を残す自傷行為に、オーレットの理解は及ばないようだった。

「……なんでいきなり、刺青(いれずみ)なんて、しようと、思ったの」
「あーっと、そいつはなーあ……」パオロはオーレットをためらいがちに見やり、どーせみんなに伝えるしまーいっか、とシャコへ向き直った。「シャコ、オマエに言いかけた大事な話ってーヤツなんだけどよーう……。おれ、収穫祭が終わったら、ストークスを出よーと思ってるんだぞーう」
「え……それは急だね。次の春でスクールも卒業なのに」
「まーな。でもよ、善は急げって言うだろー?」

 幼馴染の急な躍進に、どう言葉を継げばいいか分からないシャコ。オーレットも俯いて口を結んだままだ。沈黙したふたりを励ますように、もうスクールの卒業認定はもらってンだぞーう! とパオロは揚々と鼻を鳴らす。

「雪で街道が閉ざされる前に出よーと思ってる。次の冬は一昨年(おととし)よりも激しー厳冬になるかもで、春になっても雪が溶けきらねーかも知れねーんだと。ポアズまでの一本道が凍結してっと、歩くっきゃねーおれにはけっこう厳しい道のりだからよーう。それに、おれが乗れるようなでっけー船は、港が凍っちまってると出せねーらしーからな」
「……え。海を、渡るってこと? でもそっか、パオロずっと大陸を出てみたいって、言ってたもんね」
「おーう! ガネーシャって神サマのいる砂の大陸にゃあ、(ばー)ちゃんの遠い親戚がいるらしくってよーお。実家は(にー)ちゃん(ねー)ちゃんに任せて、外の世界ってのを見て回るんだぞーう。しばらく戻るつもりもねーからな。だから、オマエらとの思い出を忘れねーように、タトゥーを入れたってーワケよ。もしあっちでフリズムみてーな機械(カラクリ)を見つけったらよーう、シャコ、オマエ宛に声を吹きこんでやるから、聞き漏らすんじゃあねーぞう!」
「すごいや……海の向こうに行っても、頑張ってね!」

 シャコは諸手を挙げてパオロを祝福する。探窟家を養成する教育機関に通っているとはいえ、卒業してすぐ専門の探窟家になる生徒はそう多くない。幼馴染が世界中のダンジョンを踏破するさまを夢見て、シャコまでも鼻が高くなった気分だ。
 オーレットは変わらず黙ったままだったけれど、硬く引き結んだ口許には彼女なりの心配が表されているようだった。言葉には出さないが、ミルタンクの柔らかそうな耳が小刻みに揺れている。
 世間話にのぼせていたせいか、3匹は肝試しの呼び出しに気づかなかった。小さいサイズのパンプジンが飛んできて、髪の腕でシャコたちを扉の前まで手招きする。浮かびながら、歌うように先導する彼女は、その口調と体格が相まってなんとも子どもっぽい。

「やぁやぁおチビさんたち、こっちだこっち、おいでやおいで。大声でお話ししてるところ邪魔しちゃうんだけど、お待ちかね、次はようやく君たちの番だ。……ようこそビジレクさんの肝試しへ! ダンジョンの亡霊に(いざな)われておとな用コースへ足を踏み入れたおチビさんたちには、これからこわ〜いこわい迷宮へと挑んでもらうよ。映像でも説明があったけど、これだけはゼッタイ守ってね。ダンジョン内での飲酒や喫煙、それからカクレオン商店での窃盗は――」

 再三始まった注意事項に、オーレットが「子ども扱い……されてるよね」とパオロの鼻を引っ張った。どうやら付き合う他ないらしい。

「無謀にもダンジョンに挑むっていうおチビさんたちに、おねえさんからアドバイスだ。迷宮は危険がいーっぱい! 油断していると全部が怖く見えてきて、何に驚いていいかわかんなくなっちゃうぞ。そうならないように、おねえさんと一緒に、ダンジョンで気をつけるべきところをチェックしてみよう! そうだね、たとえば……、↑上から↑、急にイトマルが目の前にぶら下がってくるかもしれない! はい、どうかなどうかな、いないかな〜?」
「……↑だーあ?」パオロは心底面倒くさそうに天井へ目をやる。「ヘっ、イトマルなんかがシャンデリアのそばに隠れてったらよーう、今ごろ丸コゲだろーなあ!」
「はーいOK〜! じゃあ、↓下から↓マッギョが飛び出てきて、踏んづけたおチビさんたちをビリビリってさせちゃうかも……! さっき映像でもあったけど、電気でビリビリさせられるの、怖いよねえ。ちゃあんと確かめて、注意しないとねえ」
「↓はなーあ」若干イライラしながら高級な絨毯を踏みならすパオロ。「一流の探窟家なら、ワナがねーか常に注意してるってーの! マッギョなんかと道具、間違(まちげ)ーるワケねーだろーがよーう」
「おおっすごいねえ。おチビさん、優秀な探窟家さんなんだ。おねえさんがビックリしちゃったよ! それじゃあ最後、←は大丈夫←? ダンジョンは危険がいっぱいだからねえ。ボク怖くなんかないやい! なーんて鼻をぷらぷらさせていると、すぐ隣の壁からムウマが飛び出してきちゃうかも……!」
「だーかーら、しっつけーなあ! おれはこれから世界を股にかける探検家になるゾウドウだぞーう? ↑も↓も←も、ちゃーんと注意してるってーの! だいたいさっきっからおチビおチビって、オマエよりでっけーおれの、どこをどー見たら子どもっぽく映るってンだよーう! ここよォーく見てみろ、おとなになった証の、タトゥーだってバッチシ入れてもらってんだぞーう! さっきっからガキみてーに()っちゃくてワーワーうるっせーのは」












 喚き立てるパオロのすぐ右隣から、特大サイズのパンプジンが〝ゴーストダイブ〟で現れた。油断しきっていたどうぞうポケモンを、獲物にかぶりつくゴルバットさながらアマランサスの髪束が包みこむ。呪文をその身に刻みつけるような特大の〝ハロウィン〟の儀式の中から、パオおおおーんっ! と、管楽器のような悲鳴がホールに木霊(こだま)した。
 胴震いする彼の声につられて、心細くなっていたシャコも思わず飛び上がった。洋館に住み憑く1000匹目の(ゴースト)ポケモンとして仲間入りを強いられた友だちへ助けを差し伸べることもできずに、口許を押さえたまま動けない。だから、オーレットの顔が殊更に強張っていたのは、パンプジンたちの余興に驚いたせいではなかったのだと、このときシャコは気づきもしなかった。




続く


なかがき

連載がとりあえず続いたので章を分けました。ここまで12万字程度、お付き合いいただきありがとうございます。まさか2章ができるとは。まあ3章までいってエタった前科あるのでなんともなんですけど、完結……させてやりたいですね。


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 3話まで読みました!
    連載もので、しかも各話ごとの展開を読者に委ねるというのはなかなか挑戦的……天秤傾けるこちらもそれに応えないといけないですね!
    しかしながら、ミドリさんの小説を読んでいると「うまいなあ」というか、「ポケモン小説」を読んでるという実感があります。登場するポケモンのセレクトはもちろんながら、彼ら彼女ら一匹一匹に対する愛情が事細かな描写に表れているし、とりわけヤジロンのシャコの動作一つ一つがチャーミングなんですよねえ……うっかりキップイの地雷を踏んでボコボコにされてしまうシャコくん可哀想で可愛いし、それからなんやかや彼女の秘密を共有することになるシャコくん……応援したくなる子!
    いろいろ溢れるものがあるんですが、それは更新が進んだ後でまた書こうかなと思いつつ、天秤を傾けさせていただきます。 -- 群々
  • >>群々さん
    無性別だからこその悩み、みたいなことはいつか書きたいな、と思っていました。wikiの歴史も長しといえど私それを題材とした作品を知りませんので、書きながらヤジロンを好きになって先の展開を決めていこう……と思っていたのですがまさかそれがこんな茨の道になっていようとは。みなさんと一緒に物語を作るスリル、みたいな安価小説の醍醐味をこの身でひしひしと感じている次第です。怖っっっわ!!!
    無性別の中からヤジロンを採用したのはですね、ヤジロベエ、土偶、天秤(奇跡的に公式グッズで天秤座の何かしらがあった)、というモチーフを掛け合わせて生まれた珠玉のデザインがなんたって可愛いのだ……誰がどう言おうと……キャンプでずっと見ていられる……本音を言うと手があるので描写に困らないからです。
    どうぞこれからも天秤の評定をよろしくお願いします。シャコの応援もどうぞ! -- 水のミドリ
お名前:

*1 生理はヒト、類人猿、コウモリの数種とトガリネズミの1種にのみ見られる現象。ミルタンクのオーレットには縁のない生理現象だが、いとこがナゲツケザルなので知っていた。フィクションなので諸々ご容赦ください。
*2 周溝とは、古墳の縁をかたどるように作られた浅い溝のこと。埴輪はたいていここへ埋められる。
*3 探窟者とは、ダンジョン探索を生業とする者を総称する造語。メイドインアビスから拝借した。
*4 ポケダンマグナゲートに出てきた公式アイテム。物語上重要な役割を果たしたが認知度は低い。そもそもマグナがあんまり覚えられていない。

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Last-modified: 2022-04-27 (水) 00:03:04
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