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アブラカダブラ

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作者……リング

A B R A C A D A B R A
A B R A C A D A B R
A B R A C A D A B
A B R A C A D A
A B R A C A D
A B R A C A
A B R A C
A B R A
A B R
A B
A


 アブラカダブラは何処にでもいるように暮らしているつもりで、普通に暮らしてきたつもりだ。平和な学校生活において問題らしい問題はなく、サークル活動から勉強まで順風満帆だ。

 夏の長期休暇を一月後に控えた空は、体毛や羽毛を薄くしてなおその身を焦がすような直射を振りまき、これでもかと気温と体温を上げている。先程まで歩いていた商店街はヒトの往来が多く、また並び立つ建物がそこかしこに影を為しているから地面の熱もましだった。
 アブラカダブラにとって自分と同じ目的で同じ場所へ向かおうとする人が多くなるにつれ、周囲は乾燥した土色の畑に囲まれる開けた景色に移り変わる。
 黒に舗装された道路は、遮る影が人影すら(まば)らで、さながら焼き網の如き熱を帯びている。火傷を恐れる必要のあるタイプの者は歩調を速めて足が焼けるのを防ぐ必要がある。
 アブラカタブラもまたこの季節独特の足運びで足を酷使し、通学鞄につけたストラップや、首にかけた逆三角のお守りも愉快に踊っている。
 早歩きの足は冬に比べれば疲れそうだが、体全体でみれば全身に浴びる太陽光を謳歌している。左右の手に携える赤と青の花弁が鮮やかに咲き誇る最盛期はすでに過ぎてしまったが、頭頂部の白い花弁に太陽光が照り返された光は目も眩むほどに輝いて見えた。

 校門をまたいで敷地へ入ると、同じ目的で同じ場所へ向かう人影がようやく飽和に達した。室内へ入れば光合成が出来なくなるのは残念だけれど、ようやく足の熱から解放されたことに安堵して足を休めるようにゆったりとした歩きへ変化する。通学中に蒸された背中のマント状の膜を翻すようにして空気を入れ替えると、体に幾分か涼しさが戻った。
 廊下を行き交いすれ違う人たちとは顔馴染みか教師であれば挨拶を交わし、そうでなければ肩がぶつからないよう適当に避け合い――それを繰り返して自身のホームルームを目指した。
「おはよう、アブラ」
 彼には呆れるほど仲の良い友達がいる。
「あ、ビートおはよう」
 長い名前をアブラと略された彼の後ろ姿を見つけて、ビートは駆け寄ってアブラの隣の位置を陣取る。何気ない挨拶から始まるのはとりとめのない会話だけれど、これが初めて見るとあら不思議。話す事なんて何もないはずなのに、ビートを見るだけで自然と言葉が漏れてしまう。他の人とは話せないようなくだらな過ぎる話題でさえ、ビートとならば話題の種に出来るおかげなのだろう、気の置けない友人を体現する例だ。

 学期末の定期考査も近付いたこの時期は教室内で勉強にそ染む者もチラホラ見かけられるが、二人はそんなことどこ吹く風で話しに夢中になっている。話しの話題は、定期考査が終われば時を待たずにやってくる長期休暇。その際に計画中の旅行で、誰を誘って何処へ行くかという話題へと自然にシフトしていた。
 受験がまだ先だからという安心感も手伝ってか、非常に呑気な彼らの会話。企画者はとりわけ呑気なビートである。
「で、そうなると誘うメンバーから考えた方が無難だけれどよ……誰誘うの?」
「えと……女子をどうしても入れたいんだよね?」
 汚れ一つない真っ白な出っ歯を光らせながらビートは頷く。
「うむ、女は必要だ。だが、襲うつもりはないと口で言っても一人じゃ色々不安かもだろうし……二人以上は欲しいな。しかし、俺は女友達は少ない。だからお前に誘えと頼むんだ」
 演劇サークルに所属しているアブラは女性とも友達が多いが、水球サークル所属のビートは、同じプールを使用しながらも女子との練習試合の機会は与えられておらず、そういう意味でアブラとは事情が違う。
 アブラはやれやれ――と、茨の棘で頬を掻く。
「あ~……じゃあ、ノーテなんてどうかな? あの子イーブイだし、進化旅行っていうのも良いんじゃない? あ、でも子役やりたがっているんだっけか……」
 アブラへ話を振ったアランは苦笑して頭を掻いた。
「進化旅行ってそりゃお前、暗に海には行かず高原で森を散策しようって言いたいわけか、え? 雪山って季節でもないしな。山で野バラでも探して御嫁さん探しでもしてやろうか? 俺は夏と言えば海なんだがな~……」
「い、いいじゃない。川でイワナ釣りでも何でも楽しもうよ。ほ、ほらぁ……僕塩水嫌いだし、川なら鋼タイプだって岩タイプだって炎タイプだってみんな遊べるよ? 大体、ビートだって元は河のポケモンでしょう?」
 思っていた事を的確に指摘されたアブラは挙動不審なほど目を泳がせ必死に取り繕う。
「へいへい。ま、ユレイドルならともかくとしても、大抵の草タイプにゃ塩水は辛いだろうからな……そっか、鋼かぁ……いや、俺鋼タイプに友達い……無いな」
「あ、はぁ……僕は鋼タイプの友達いるから……どうでもいいか」
 ホッと胸をなでおろす。本当のところは海そのものが苦手なだけなのだが、納得してくれたようだ。

「でも、山ったって一杯あるよなぁ……温泉の湧きあがる所が良いのか、それとも森林浴か……雪山で遭難するか」
「ん~……それについては最後以外ならどっちでもいいんだけれどね。ほら、僕毒タイプだし、硫化水素も多少問題ないよ。一緒に逝こうよ」
「逝くってお前……それはお前が良くても俺はダメだっつの」
 朝に始まる他愛のない会話で決まったことは結局ゼロ。授業の合間の休みや昼食の時間に、誘うメンバーについておぼろげながらに決まり。放課後、二人がサークルに行く前のちょっとした話では結局話はまとまらない。
 そうして、なんとなくで語り合っていた話も現実味を帯びてきたのは定期考査も間近になってきた頃。二人で誘ったメンバーは仲の良い組み合わせなので、その組み合わせでの旅行ともなれば特に反対意見が出ることもなく参加の承諾はスムーズに行われた。むしろ、ビートの人望が原因なのか予定外の人数を連れていく結果になってしまった。
 まぁ、そこは楽天的なビートのこと。『なんとかなるさ』の、一言でなんとかしてしまう。
 自分は名前自体がそういう意味だからか、彼には特別親近感を感じるのかもしれないけれど、それを差し引いてもアブラはビートが好きであった。もちろん、同性愛の気はないが。


 定期考査の結果に一喜一憂する群衆の中、ご多分に漏れず一喜一憂しているアブラだが、今回は喜ぶ回数の方が多めで、就職へも大いに期待の持てる物であった。対して憂鬱になりそうな点数の羅列を記されたビートだが、彼が得意分野としつつ就職に直結する教科には例外なく魅惑の点数を刻まれている。
 必修教科における総合的な点数では圧倒的に僕の勝ちだけに、試合に負けて勝負に勝ったというのはビートの弁。不本意ながら反論も出来ず納得せざるを得ない結果故、アブラは苦笑した。種族柄とはいえ、単純な彼の性格が羨ましく思えた。
 他の友達とも当然のように見せ合い、時に優越感に浸ることもあれば相も変わらず理系なのに文系の教科の点数ばかりが良いことを指摘されたりもした。楽観的に考える者も、真面目に点数を上げようと頑張る者も一緒に笑い合っているうちに、やっぱり話題は旅行の事へと移っていく。

 切っ掛けは『このテスト赤点だったら旅行を許可されなかっただろうなぁ』とのセリフで、一人がそれを言うと『あ、私も』『俺も』と、計三人が口々に同じ告白をした。本格的に話し合うのはテスト返しが全て終わってから――と、いくらかのメンバーから言われた時は大体そんなところだろうなと予想はしていたけれど、いざ告白されると胸をなでおろすばかりだ。八人中三人がいなくなるともなれば大惨事の領域だ。
 その事実を知った皆で全員いけてよかったとの感想は全員一致する。楽しみにしていない人はいるはずもなく定期考査の重圧から解放された今、話が弾まない道理はない。ここに至ってより綿密な計画を立て会う会議は採点だけで終わった授業の後半、余った時間を利用して騒がしく行われた。


 ビートと共に旅行のメインの企画者ビートであるアブラは、全員が行けると言う事実に確かな達成感を感じていた。お陰で、今日という日はテストを返されただけで特に何もしていないと言うのに、久々に有意義な一日だったと錯覚して帰路についている。テストの結果の良し悪しを同年代の友達と共に喜びあう事は悪くないことだが、最終日にして最も重要なテストが返ってきた今日、喜ばせる相手はまだ二人いる。
「ただいまぁ」
 意気揚々と帰り、当然のように待ち構える母親は、「おかえり」と声を返す。アブラは高校へ上がったのを切っ掛けに、光の石で進化して純白の花弁を得るとともに背の高さも大きく増したのだが、黄色と黒の警戒色カラーに違わない、危険なほどの高電圧を携える母親とは、まだ身長が伸び切っていない事も手伝ってか倍以上身長に開きがあった。
「声が明るいわよ。どうやらテストの結果を見ても大丈夫なようね」
 勘が良く、聡明な母親はすでに喜んだ顔でアブラを見る。ばれてしまったかと、玄関から居間まで移動する道程で歯を見せて苦笑し、アブラは歩きながら、答案用紙をバッグから探る。
「はい、母さん。模試じゃないから全国は知らないけれど、学校じゃ二番目だよ」
「わぉ!」
 腰をかがめて答案をとった母親はわざとらしく驚いてみた。ほとんど全域にわたって丸印の付いた答案は見ていて心地よいらしく、目で紙面をなぞるうちにも母親の表情は良くなっていく。
「よくやったじゃない」
 純白の花弁の頭を撫でられて、はにかみを押さえきれないアブラはそっと顔を伏せた。頭頂部の白薔薇が熱を帯びて深紅色の花弁を持つ右手のようになってしまいそうな母親の祝福。膝をかがめなければ撫でられないほどある身長差も相まってアブラには小学生の親のような親馬鹿を感じさせる。
「ありがとう、母さん」
 お互いにどうやって触れ合えばいいのかもわからずに不器用な所があるせいだろう。母親の、アブラを愛しているが故の不器用さは、愛されている実感をもらえるので嫌いではなかった。
「よっこらせっと」
 床に付いた膝を起こして、母親が立ち上がる。
「よし、がんばったみたいだし、今日はカニ缶開けちゃいましょうかね。何か食べたいカニ料理ある?」
 母親は、上機嫌でそんな事を言う。そんな事を言っても、こっちはサークル活動の帰りで腹が減っていて仕方がないし、すでに他の料理も完成間近なのだから、必然的にすぐに出来る料理しか注文できない事になる。
 アブラに思い浮かぶとすれば、そのまま食べるか雑炊か、かに玉かチャーハンくらいだ。
「かに玉」
 結局これに落ち着いた。リクエストを受けて嬉々として卵を割り始める母親に、アブラは答案を見せただけで電気エンジンがかかったの?――と、言葉にしてみる。母親は困った顔をして、料理を作る間中顔を綻ばせていた。


「ほう、頑張ったじゃないか」
 すっかり冷めた夕食を温める電子レンジの駆動音に紛れて、父親にも褒められた。中指*1を立ててスプーンを回す時は、父親がご機嫌の時の癖。怒ったり恥ずかしがるとスプーンが曲がり、動揺している時は手の平を開いて回すから、非常に感情が掴み易い。本人も気がついてはいるようで、他人の目がある時はなるべくスプーンいじりは自重するけれど家族の前ではありのまま。
 そんな素直な父親を、母親と同様に嫌いになれるはずもない。
「所で父さん」
「何だ?」
「いや、夏休みの最初の方にさ……友達と旅行行くの計画しているんだけれど、いいかな?」
「何泊だ? 一週間以内なら構わんぞ」
「二泊三日。そんなにかからないよ」
 父親は音がしそうなほどの笑顔をアブラに向ける。
「女子は行くの? 変なことするんじゃないでしょうね?」
 何を心配しているのか、健全に生きてきたつもりの息子に向かって母親は赤面したくなるような事を臆面もなく口にする。
「行くけれど……そういう旅行じゃないから。それに、幸か不幸か、虫とか炎って僕が手を出せないタイプばっかりだし」
 酷い話だ、とばかりに肩をすくめ苦笑するアブラに、追従して父親も苦笑する。調度、料理もご飯とかに玉だけは温まった。
「ま、楽しんで来い」
 立って運ぶのが億劫なのか温め終わった料理を念力で以って手繰り寄せ、温めるのに時間のかかる料理は食べているうちに温めよう――と、もう一つのおかずを入れ替わりで放り込む。
「ん、分かった父さん」


 食後も、家族で何げない会話は続いた。今日はテストの点数以外にも、友達と旅行に行くことが両親にとって朗報のような役割を果たしているらしく、そのメンバーがしばしば話題に上がった。なんというか、言いようもなく温かい家族である。
 テレビを見ながら語り合っているうちに、あっても無いような小さなストレスすらも消えてしまったようで、ベッドに入る時の気分は格別だった。



 小旅行の当日。昨夜降り注いでいた雨が嘘のような晴天で、絶好の旅行日和である。待ち合わせ場所には、男がビーダル・マリルリ・フローゼル・チルタリス・ロズレイド――と、五人中三人が水球サークル所属な事もあって水タイプ過多である。一方女子はイーブイ・ハッサム・キュウコン――と、演劇サークルから選んだおかげでタイプに偏りはない。

 このメンバーで二泊を共にする場所は、温泉が湧き出る場所として有名な火山帯で、そこかしこに腐乱した卵の匂いが満ちる地域である。学校では年上にまで(あね)と呼ばれ親しまれているキュウコンのシマ(ねえ)たっての願いでここに決定した場所で、ここにくるまで乗り物酔いに苦しめられていたと言うのに、匂いを嗅いだ途端一転して元気いっぱいに父親譲りの赤い毛を蓄えた尻尾を揺らしている。
 なんでも、腐乱した卵臭の正体である硫化水素は祖先の匂いなんだとかで、毒タイプでも鋼タイプでもないのにこの毒には強い耐性があるのだと。その際に言われた『毒ガスの濃い所での入浴も三人いればそれなりに盛り上がるわよね』という言葉が暗に意味する、女子二人と入浴という美味しすぎるシチュエーションに、思わずアブラは赤面した。
 おかげでアブラはビートのたくましい前歯で噛みつかれるなど、やっかみを存分に浴びせられ、恨めしい視線でシマ姐を睨むのであった。

 しかし、温泉の湧く場所へ行くのは二日目の日程。初日は、澄んだ河原で持ちよった野菜と肉、その河で狩った魚などを使ってのバーベキューパーティーという予定である。釣った(ヽヽヽ)魚ではなく狩った(ヽヽヽ)魚になっているあたりは、水球サークルの面々が荒っぽいほどに活力が満ちている証拠だろう。計画が釣りから狩りに変わった時は釣りをしようという予定だった全員が(特にアブラ)苦笑をしていた。

 狩りはフローゼルとチルタリスの二人で行う。必然的に残りは、いざ料理となった時に必要な薪集めや、食材の切り分けなど。
 食材の切り分けでは、女子が神通力と辻斬りと鋼の(つばさ)のコンボによる余りに鮮やかな殺陣じみた料理(?)などを披露して、男子連中に『演劇部ってすごいな』と言わしめた。冷静な他の連中は、なんか誤解されている……と苦笑する。
 男子は男子で、チルタリスのオリは狩りが得意な種族でもないのに上空から一気に水中へ突っ込み口の中に魚を閉じ込めたり、フローゼルのタチは大物を口に咥えて清流から躍り出たりなど、男女ともに異性を驚かせる演出を見せ合った。この旅行はそういう勝負ではないのだが。
 青春時代を謳歌する学生特有の騒がしさとでもいうのだろうか。まさしくエネルギッシュで異様な盛り上がりのまま準備は進む。

 と、その時。
「……おや?」
 ビートが何かを感じて上流を見る。
 別口で旅行に来ていたと思われるアブソルや、勘の良いシマ姐も遅れて上流を見つめた。
「全員、荷物持って高い所に逃げろ。水タイプも含めて全員だ、死にたくなかったらな」
 周囲に聞こえる大声であった。死ぬぞ――という物騒な言葉とは裏腹に、酷く落ち着いた口調でむしろ面白がるような声で真っ先に宣言したのはビートだった。木くずなどを利用してダムを作るのが得意なビートは、水の災害を見るのが得意なのか、後何秒後に来るのかもわかっているのだろう。緊張感のない声色だったせいで皆すぐには動こうとしなかったが、同時にアブソルも駆けだして注意をして回ったおかげで信憑性も増したのか、その場にいた全員が避難を始めた。
 手を器用に扱える者や念力を操れる者は早々に荷物を持ち出し、空を飛べるポケモンは避難を呼びかけるためにもで上流や下流へ散って行く。上流に言ったメンバーが泡食って『やばいやばい』と言ながら戻ってきた頃には、すでに避難も終了していた。下流も、特に心配はなさそうだ。
 向こう岸まで五十mほどのあまり広い川ではなかったが、押し寄せた濁流は同名の技が問題にならないほどの勢いを以って河を洗い流していく。圧倒的な勢いの流れは、どうやら水タイプのポケモンまで恐怖するくらいのようで……
「あ~……濁流なんて逆らって泳いでやるなんて考えなくってよかった……」
 フローゼルのタチが呑気にそんな事を言っていた。その横では、ビートが被害を出すことなく避難させた事を得意げな顔でいる。被害らしい被害は何もなかったんだ――と、油断していたが、誰もが呑気でいられるわけでもない。押し流される河を高みの見物と洒落込んでいた一行の中、アブラは尻もちをついて荒い息を吐いている。
 目が泳ぐ、ガタガタと震える。その様子、医者でなくとも一目でまずいと判断出来る。

「おい、ちょ、だ……大丈夫かアブラ!? 苦しそうだけれど……そだ、酸素。シマ姐、日本晴れやってくれ」
 ビートは鉄砲水の時とは打って変わって慌てふためく。
「無駄だよ」
 そのざわめきの間を縫って仕方ないな、とばかりに先程のアブソルがアブラへ駆け寄る。アブソルの仲間と思われる若い男女や、ママさん同士の旅行なのか恰幅の良い熟女三人組なども野次馬として集まってきた。
「ちょ、無駄ってどういう? そりゃ死ぬってことかおい?」
「そうじゃなくて……普段からこういう症状は出ないんだろう?」
 険しい表情で、アブソルが尋ねる。
「だ、だからまずいんじゃねぇかよ」
「不安を煽るな。俺は四足だから医者にゃなれないが、医療アドバイザーって立派な職業目指してる医大生だ。言うとおりにすれば治る」
 戸惑うビートを自身の鎌より鋭い視線で制し、医大生という単語を以って有無を言わせず周囲の主導権を握る。
「とりあえず袋、袋をかぶせてやれ。酸素なんぞを補給したらむしろ悪化する」
「こんなに苦しそうなのにそんなことしたら悪化するんじゃ……?」
 何処からかそんな抗議が漏れるが、アブソルはピシャリと否定する。
「酸素が濃すぎると逆に苦しくなって、酸素が足りないって体が誤認しちゃうんだ。だから早く」
「えと、私でいいのかしら?」
 腹にある袋に子供をいれていないガルーラがそう申し出て、アブソルは苦笑した。
「違う違う違う……ビニールとか紙袋の様なもので……」
「えと、これでいいかな……」
 アブソルの仲間らしき女性が酒のつまみを入れていた純白のビニール袋から中身を出し、アブソルに渡す。アブソルの嘘に気付いた人もいるが、当のアブラはそんなことに気がつく余裕もなく、蜃気楼のような意識の中でアブソルの言う事を信用して症状が治まるのを待った。
 野次馬が散って言った頃には、完全ではないが呼吸が落ち着き始める。それを見てアブソルは険しい表情を崩す。
「後はまぁ……ロズレイドだし、放っておいても回復するだろう。だけど、一応誰か見てやれ……」
 そう言って、アブラをビートに任せアブソルは自分たちの輪の中へ戻っていく。
「あ、待ってください……ありがとうございます」
「どういたしまして」
 ビートの声に振り返ったアブソルは、照れ隠しのようにそんな言葉を返した。

「その子、鉄砲水が怖かったんじゃないかな? 俺の姉ちゃんも血が怖いらしくってね、血を見るだけで良く同じ症状になったんだわ」
 最後に見たアブソルの顔は、なんだか申し訳なさそうに笑っていた。



 数分たって、すっかり落ち着いたアブラだが、俯いたまま喋ろうとはしなかった。すでに、さっきまでの騒ぎが嘘のように
「どうしたんだぁ、お前?」
 間のぬけた抑揚をつけてビートが尋ねる。
「あの、アブソルの人が言った通りで、水が怖かったの」
「そりゃ。初耳だな……生まれつきか?」
 『ううん』と。アブラは首を振る。
海で……両親が死んだし、僕も死にかけたから……」
「あ……それで、両親がどう考えてもあり得ない種族だったわけか……」
「うん。親戚でも何でもない人に引き取られたもので……。普通の水は大丈夫なんだけれど、海とか……あぁ言う激しい流れは……怖くて……」
 不意に流れてきた涙をとめようと、アブラは必死にまばたきをするが、涙は止まることなく地面を濡らした。震えて小さくなるアブラの肩を、ビートは軽く叩いて『傍にいるよ』とアピールした。湿り気を帯びた生温かい前足の感触は、涙を流すツボでも突いたようにアブラの涙を加速させる。
「ごめん、せっかくの楽しい気分台無しにしちゃって…………アビャ!!」 
 涙も収まった頃にそんな事を気にしていたアブラの背中に、突如電撃が走る。頭が不意に真っ白になり、なんで泣いているのか、泣いていたことすら一瞬忘れた。
「気にするな。まだ旅行の予定は何も狂っちゃいない。土産話が増えたのと、売店でアブソルのお兄さんにお礼の粗品でも与えりゃいいだけの話だ」
「い、今の技……」
「十万ボルトだ。電流は少なめにしておいたがな……」
 どうやら、電撃は喝を入れるための攻撃だったらしく、得意げな表情でビートはにやけていた。
「そっか……」
 嬉しそうに言って無防備な笑顔をさらした。なんだか、電撃をくらって嬉しそうな顔をしているようにさえ見える。
「おい、お前……電撃喰らって喜ぶなんてお前Mか?」
「いや、ち、ちょ……違うよ。た、ただ……ただね。記憶には無いけれど……僕も母さんに電気で助けられたの……海に投げ出された時、水をたっぷり飲んでいた僕は心臓も心臓も止まっていたらしくって……電気ショックで蘇生させたんだって」
「蘇生……ほぉ、なるほど、Abreq ad habra(アブレクァドァブラ)か」
「へ?」
 アブラは空飛ぶホエルオーでも見たような素っ頓狂な顔でビートの口から出た言葉を疑う。

Abreq ad habra(アブレクァドァブラ)……『汝の死に雷を浴びせよ』だろ? なんだ、バラの品種の名前*2から付けられたのかと思っていたけれど……」
「いや、それで合ってるけれど……ていうか、なんで知ってるの?」
「親友の名前の由来くらいなら調べたってかまわんだろう? ちなみに、俺は特に由来も無しに響きだけでつけられちまった。なんだか、名前がお前の人生を期待されているみたいで羨ましいぜ、お前?」
「う~ん……でも、今の両親に付けられた名前でもないからなぁ……多分、君の言うとおりバラの品種の一つとして本当の両親はつけたんだと思うよ。
 でも……ほら、父さんってば……義理の父さんだけど……フーディンでしょ? ケーシィのアンノーン文字表記がAbra、ユンゲラーがKadabraだってことや、母さんが……そう、雷で死の淵から救ったりとか……何だか、そういうのに運命的なものを感じたからって。見ず知らずの僕を引き取ってくれたわけで……でも、悩みの種でもあってね。親でさえアブラカダブラじゃなくってアブラって略して呼ぶんだから……そこが嬉しくなかったり」
 最後の一言に、軽く自嘲気味な溜め息を一つ、アブラは笑う。
「でも、養ってもらえたのはその名前のおかげじゃないか? 今まで生きてこれたのも……名前自体がお前を生かしてくれたんじゃないのか?、その名前に感謝しなくっちゃ」
「……そりゃ、名前に運命的なものを感じたとは言っていたけれど……それだけじゃないでしょ。うん、でもそうだね。このお守りにだって……病気を避ける力があるっていうし……災害の一つや二つ避けてくれたのかもしれないね」
 塗装が剥げた挙句にずいぶんと色あせたお守りは、持ち主の名前と同じ綴りの呪文が刻み込まれていて、塗料の内側に真鍮が使われているおかげか、キラリと太陽光を反射させた。

 その光を運悪く直視してしまったビートは顔を顰めることでささやかな抗議をし、それに気が付いたアブラは舌を出してバツが悪そうに笑う。
「何にせよ、元気になったみたいでよかったよ。もう大丈夫だろう? さっき言ったみたいに、旅行の予定はまだ何も狂っちゃいないんだ。もうさっきみたいな濁流は来ないだろうし……来たら来たで俺が守ってやる」
「あ、うん」
 上流を見つめて笑い、ビタンッと尻尾で地面を叩いてアピールするビートに気圧されて、アブラは意味を全部理解する前に反射的に頷いた。
「早い所皆の準備を手伝おうぜ。じゃないと、片付け押し付けられちまうぞ」
「え、それは困る」
「じゃあ、早く行く!!」
 背中を叩かれ急かされるままに走りだして、アブラは同じ学校の仲間に合流した。
 バーベーキューパーティは、漫画に出てくるような骨付き塊の肉を焼こうとして四苦八苦する男子や、『それを切って焼かない?』と諭す女子。言われて男子は『ロマンが足りない』と切り返すが、『ロマンじゃ愛は燃え上がっても肉は焼けないの』、と女子が言う。結局その肉は初っ端から焼いていたにもかかわらず、全く火が通っていないのでなくなく女子の言うとおり切り分けて焼いたというオチだった。
 食材が足りなくなって売店へ買いに走る役はアブラが積極的に立候補し、先程ビートに言われたようにアブソルのお兄さんたちへ、お礼の気持ちの分もポケットマネーで購入した。
 お礼の言葉と一緒に頭を下げた後判明したのだが、アブソル曰く『そうそう、俺はホントは医大生でも何でもね―から。そういう時は安心させてやるのが一番なもんでね……医療アドバイザーなんて職業もないし酸素云々も大分嘘が入っているからな。あとで間違った知識を教えてすまないってみんなに謝っといてくれ』とのことで、どうやら自分がずいぶん気を使われていたらしい事を知る。
 もちろん文句をつけるつもりもないというのに、アブソルの申し訳なさそうな表情がおかしくて、改めて仲間の元へ帰る間アブラの口元は緩んでいた。

 二日目もおおむね予定通りだったが、予定通りにいかなかったのが約二名程。温泉が湧き出る場所で、皆荷物を濡れない場所に置いて水の中に入るのだが、口をそろえて『ぬるい!!』の一言。もちろん炎タイプのシマ姐がそんな温度で満足するはずもなく、否が応無しアブラと、ハッサムのジュリアが付き合わされる。抜け駆けは許さないと、新鮮な空気を詰めた風船を作りだして毒ガス対策をしたマリルリのアズサも何故かついてきた。
 結局両手に花という事態はなくなって、アブラは安心したような残念なような、複雑な気分を味わう事に。結局、シマ姐は沸騰するお湯(と言っても高所なので九十五℃程度)に一人でつかるなど、姐御肌とはまた違うマイペースな一面を見せたりもした。
 遠くから見守っていた仲間は、余程温泉が好きなんだなぁと呆れて笑う。
 二日目は大した事故もなく、予定通りに過ぎていった。下流へ帰ってきた時は、また熱いお湯に入りたいなどという身も蓋もない文句が漏れたりもしたけれど、その戯言を肴に皆で作った料理を楽しみ合った。



「それじゃ、皆お疲れ」
 二泊三日の旅行を終えて、演劇サークルと水球サークルの仲間は解散した。仲間には元気に振る舞えたけれど、鉄砲水での一件はアブラの心に影を落としていて、肩こりの様な鈍痛としてアブラの心を苛んでいた。ふぅ、と大きめの溜め息をついた内心は穏やかさとは程遠く木枯らしに揺れる芦の如くざわついていた。
 まだ、乗り越えられていないのかぁ――昨日の夕食さえ忘れてしまう事が往々にしてあるのに、母親と父親の名を、喉が張り裂けんばかりに叫んだ記憶は残っている。塩水が口を容赦なく侵し、蹂躙された様子は覚えている。
 忘れようとしても、余計にありありと蘇る事を思えば、乗り越えられていない事など疑いようもなく、本来ならば晴れやかな気分で帰りたい道を思うように進まない足取りで進む。
「ただいまぁ」
 それでも、両親に心配だけはかけさせまいと、せめて表情と声色だけでも明るく務めた。今日は両親が揃っていて、食事の時間はむしろ土産話を延々と聞かせる時間になり果てた。無難に、料理で苦労した塊肉の事や温泉でのマイペースなシマ姐の事などを話していたが、『楽しかったけれど同時に悩みも出来た』と、言って鉄砲水の出来事も話した。
 親切なアブソルが世話をしてくれたことや、ビートが介抱してくれた事を話したけれど、それを話す時は嬉しいというよりは浮かない顔である。気がつけば、半ば自分をないがしろにしたような自嘲的な態度で自身を卑下する言葉が漏れた。
「ほんと、情けないよね……ふぅ」

 話し終えて肩を落としたアブラの体は、突如としてサイコキネシスで握りつぶされる。タイプ的にエスパーに弱いアブラは、抵抗一つ出来ずに体を丸められていた。
「いや、ちょっと……苦し……」
 悲しむような、憐れむような、慈しむような。サイコキネシスを使用して妖しく光る父親の眼光の中には、確かな悲しみが湛えられていた。
「情けなくてもお前はお前だ。あとでちゃんと抱きしめてやる」
 家族じゃなかったら歯の浮くような――否、家族でも歯の浮くようなセリフを堂々といって父親は食事に戻る。
「ま、そういう事よ。良いじゃない、仲の良い友達や運に恵まれていたってことで。激しい水の流れが苦手だからって、私は可愛い息子って認識を崩したりしないわ」
「は、はぁ……」
 母親に返せたのは気のない返事。アブラは父親について抱きしめることまで物臭なのかとも思ったけれど、握りつぶされるようにきつい抱擁は、痛と一緒にやり場のない想いを蹴り飛ばしてくれた。
 会話は中断されてしまったけれど、泣きそうな気分のさっきよりかは幾分かましになった。

 『ありがとう』という簡単な言葉が出ずに厭に歯痒い気分での食事が終わり、ひと足早く食べ終えてソファに腰かけていた父親の隣に座る。父親が何を言って来るのかと、複雑な気分で待っていると、不意に父親はテレビの電源を消した。
 シュルンと、中指とスプーンの柄に磁石でも付いているかのように、スプーンを振り回す。非常に軽い動作なのか、そもそもアブラが軽い上に相性的にサイコパワーを受け入れやすいからなのか、いつの間にかソファの上で父親が組んでいた胡坐の上に抵抗も出来ずに座らされる。親の膝の上に座らせるというまるっきり子供扱いの姿勢。ロズレイドの平均身長がフーディンのそれよりはるかに低い事を利用した、意地悪な体勢だ。
 明らかに恥ずかしそうなアブラは、ブスッとした表情で口をとがらせるが、本気で嫌がれば父親も強要はしないだろう。それがわかっていて抵抗しない以上、負い目とある種の喜びが綯い交ぜになって抵抗する気を押さえているのだ。

「何だよ……」
 普通にしていれば、父親と同じ方向を向く座らせ方のため、アブラは体を大きく前かがみにして捻りを加えて振り向き、ぶっきら棒な口を利かせる。夏場であるせいか体臭が少しきつかったが、それは口にしなかった。
「いや、何……甘えられる相手がいて良かったなって」
 心底嬉しそうな声だった。今日話した旅行のエピソードは迷惑をかけたという悪い方向への解釈しか出来ないアブラとは対照的に父親は何だか嬉しそうだ。
「いや、父さん。さっきの話……そういう解釈する?」
「気にするな。それよりも、迷惑かけた事を申し訳なく思う心が成長していたんだよな。小学校に上がってからは泣かなくなって、品行方正にしていたから……全然、迷惑かけなくってなぁ。全然甘えてももらえないから実感できなかったよ」
「は、はぁ……」
 白い花弁を愛撫するようにいじられて、アブラは父親が何を言わんとしているのか考える余裕が失われた。
「お前は、子供の頃は訳もなく『父さん母さん』って叫びながら泣いていたじゃないか? 俺たちに迷惑をかけているって自覚があったのか、なかったのか。あの時から、きちんとお前の事を愛していたけれど、それを差し引いても十分迷惑だったんだぞ?」
「ごめん……イタッ」
 俯き気味に返事をするアブラに、回された腕からデコピンが飛んだ。

「過ぎたことだ、気にするな。それに、迷惑すぎるのは勘弁だが、ちょっと迷惑をかけるくらいの子供の方が可愛いんだ。それは、友達や夫婦って関係でも同じだ……頼られる事が嬉しいって感じる心は、お前くらいの年齢ならあるんじゃないのか?」
 アブラは父親から見えない位置で不服そうな顔をしているが、それでも父親は対照的に上機嫌な顔をしている。
「て言うかさ……本当は、子供の時はむしろ困らせたかった。そうすれば甘えられるし……でも、やっぱり父さんと母さんには負い目が……」
「負い目なんて無い無い。お前を預かるのが嫌だったら、わざわざ養子縁組もしないし、お前の身元が分かった時点で親戚に預けたさ。甘えてもよかったのに」
「ん……まぁ……そうだね。甘えたくないってわけじゃなかったけれど、それで困らせる事が嫌になったから……」
 ガシッと、今度は本物の腕で抱きしめられた。
「お前を育てるのは趣味みたいなものだ。俺はてっきり、泣かなくなったのは悲しみを乗り越えたからだって思ってたんだ。それはそれで嬉しいんだけれどな、反面甘えてもらえない子供って言うのは親にとっちゃ寂しい物だ。お前の親戚に無理言って引き取った甲斐が無かったからな。
 お前は、もう少しプラス思考に考えろよ。迷惑をかけても笑って許してくれる友達がいるし、見ず知らずの他人が助けてくれるこの世間はまだ捨てたもんじゃない……とかさ。
 貸し借りとか、そういう打算を抜きにして付き合えるのが友達ってもんだ。まだ、あの時の事が忘れられないなら、たまには恥ずかしがらずに甘えてみるといい。出来れば親に甘えて欲しいが、それが嫌だったら、彼女でも何でも……な?」
「生憎、彼女はまだいない……」
 アブラは自分の体を抱く腕に自分の腕を頼りない力で絡める。
「……本当は今でも水って言うか抱濁流や時化(しけ)が怖くって……ときどき泣き叫びたいし怖いけれど、心配掛けたくないし恥ずかしいし、ずっと押し込めてた。確かに、ビートの前では素直になれたね……今思えば」
 父親は、うんうんと頷く。
「そ~れを親にやって欲しかったんだがなぁ。寂しいって泣いてくれれば抱きしめてやったし、怖い夢を見たって言ってくれれば一緒に寝てあげたのに。気づけばもうそういう年齢じゃなくなっちまった」
 父親は、アブラの後頭部に生温かい息を吹きかける。気味の悪い感触に肩をすくめる仕草を無視して、父親はぬけぬけと言った。
「愛されている自覚の薄い奴だ。親にも、友達にも」
 自分の体が抱かれて、父親の胸に押し付けられるのを拒みはしなかった。
「いいじゃん、甘えるのは恥ずかしいんだよ……」
「ふん、子供のウチは恥ずかしがる事の方が贅沢だ」
 アブラの言葉に、父親は鼻を鳴らす。

 父親がアブラを抱いたまま、双方無言であったが父親が不意に口を開く。
「そういえば、ビートの前でなくなったご両親の事を思い出して泣いたそうだな?」
「そ、それ恥ずかしいから……もう、あまり触れないでくれる?」
「さっきまで、俺の前でも泣いていたくせに……」
 うっ、と気まずそうにアブラは黙る。
「さっきは、甘えられる相手がいるんだからプラスに考えておけって話だったが……やっぱり、怖くないに越したことは無いわなぁ」
「ま、まぁ……」
「ビート君にお前の名前の意味を指摘されたんだってな? Abreq ad habra(アブレクァドァブラ)……『汝の死に雷を浴びせよ』って」
 うん、とアブラが頷くのを確認して父親は続ける。
「アブラは……アブラカダブラってどんな語源がささやかれているか、どんな意味があるか、どれだけ知っている?」
 何とも唐突な話題に、アブラは記憶の糸を手繰る仕草をする。中途半端に開けた口へ、空気が入る乾いた音を立て、やがて喋り出した。
「まず、バラの品種。生憎僕は色も模様もごく普通のロズレイドだけれど……稀に遺伝子の異常かなんかで、模様がついたり色が変わるポケモンもいるみたいね。生みの親は、そんな美しい見た目になって欲しかったんだって……今は思っている。本音を言えばもう少し短い名前の品種が良かったけれどね。
 あと、父さんの種族名も……フーディンになっちゃうと関係ないけれど、ケーシィがAbra、ユンゲラーがKadabraだから、確かに運命的な出会いだったよね」
「あぁ、お前の親戚に無理を言えたのはそれのおかげもあるからな。『運命的な出会いなんだから引き取らせろ』って」
 なるほど、その運命的な出会いを引き取るためのネタにしたのか――なんて、アブラはようやくそんな事を知る。

「もう一つはビートも言ったAbreq ad habra……『汝の死に雷を浴びせよ』が……僕の命を救ったんだよね。むしろ、母さんが僕の死に雷を浴びせた感じだけれど……それにこれは、父と子と聖霊。つまり唯一神*3を意味するから、あんまり気軽に口にしちゃならないって聞いたことがある。そういえば、電気を流す場所とかを指示したのって父さんだっけ?」
「あぁ、適当に電気を流すのは危なっかしかったからな。妻にはきちんと教科書通りにやらせたさ」
 言われてみて母親の姿を探したが、すでにどこかに言っているようでこの部屋にはいなかった。父と子で水を入れずに話せ――という事だろうか。
「……それで他にはabhadda kedhabhra……『この言葉のようにいなくなれ』これは病気に対して唱えることでそれを払いのける事が出来る言葉。
 え~と……Avra kedabra。これはたしか、『私の言う通りになる』だったっけ?」
「あぁ、それが一番大事だ」
「はぁ……」
「いいか? 言葉って言うのはな、万物よりも先に登場したんだ。何せ、世界に光が存在する前から言葉はあったんだ……神が、『光あれ』と言ったから光が生まれたんだ。言葉の『(こと)』と言うのは『(こと)』……事件の『事』とほぼ同じ意味を持っていてな、言葉にしたものが現実の『事』になるっていう……本来、言葉って言うのはそれほど強い力を持っていたんだ。今は、それがアンノーンってポケモンの形をしてこの世界にあると言われているが……お前は、その言葉を操る呪文がそのまま名前になっているんだ。
 それだけ大仰な名前なんだぞ、言葉の力を少しくらい信じてみると良い」
「と、言うと?」
「平たく言えば自己暗示だな。だが、怖い時に『怖くない』て言うと大体逆効果だ。『出来る』、『やれる』みたいな抽象的な言い方も逆効果だ……そうだな、自分の名前と合わせて『信じる』って言ってみろ」
「『信じる』……かぁ」
 よく分からない。
Avra kedabra(私の言う通りになる)……だな。お前は、希有な名前を持って世に送り出された子だ。だからと言ってお前の恐怖が消えるために何らかの神秘的な力を発揮してくれるわけでもないだろう。
 お前の恐怖はきっと、一生消えない……けれど、それでいい。全ての生物に共通する感情は愛ではなく恐怖なんだ。その恐怖を、嫌と言うほど知っているお前は、何よりも『生物』している。だから、怖い事は忘れる必要はないし忘れちゃいけない」
「はぁ……怖い事は忘れる必要はない……ねぇ」
 何とも分かりにくい事を、父親はなおも続ける。アブラは理解できるか怪しくなってきているが、父親はそんな事を気にしなかった。

「あぁ。怖いってことは、心が健康な証拠だ。俺達もね、水の事故が危険だって良くわかってる。でも、心の何処かで自分には関係ないって思ってしまうものなんだ……そりゃ、恐怖がない事は、普段の生活ではプラスに働くさ、心配事が一つないだけでその分ストレスがないからね。でも、そのうち心が運動不足になってしまう……お前は、その点自分はダメかもしれないって意識が常にあるから、その点で俺たちよりも優れている。
 でも、怖くて足が竦んだら……その時は分かるな? お前は、お前の名前に恥じないように行動すればいい」
Avra kedabra(私の言う通りになる)って唱えて自分を信じろってこと?」
「ま、そういうこった。ずいぶん抽象的なアドバイスだが……自己暗示やイメージトレーニングって言うのは結構大事なことだ。怖い事は忘れる必要はないけれど、覚えているだけでは意味がないんだからな……怖いなら、怖い事を逆に利用するのが賢いやり方だ。
 で、お前は賢くって聡い子だ……きっと出来る」
 言うなり、背後から抱き締められる力が増した。首から上をかがめての頬ずり攻撃まで加わると、横に伸びた髭が鼻をくすぐってくしゃみが出そう。
「あの、父さん……子供扱いやめて……」
「子供だろ?」
「いや、身長の小ささ利用して年齢以上に子供扱いしているような気がして……」
「まだ子離れが出来ていないんだ、諦めろ」
 理不尽かつ恥知らずなセリフを吐いた父親は、包み込んだアブラの体を慈しんで笑っている。仕方がないので、アブラは『愛されているのだから仕方がない』と、諦めた。



 アブラは話を理解出来る間もなく父親に諭されたが、時間がたつにつれ不思議と頭から離れない、不思議な話だった。自己暗示――と言えば、なんとなく妄想の類に思えてならない。それに、自己暗示をしろと言われてもどのようにすればいいのか勝手がわからない。
 幸い演劇サークルをやっている時、ロズレイドのイメージ性なのか主人公的な役割も多いが、そういう事を考えろとでも言うのであろうか? その主役の役割のように格好よく女性を攫っていってしまう王子様のような……それだと、ただの妄想癖になってしまう。
 アブラは、もっと現実的なイメージを掴みたいと思い、後日早起きして部室にある本を読み漁ってみる。ただ、多少演劇家気質なのかぱらぱらと斜め読みを繰り返しているだけではどうにもイメージが湧き難い。
「『喰らえぃカイオーガ!! お前の血肉が俺達の酒となり、港街の明かりとなるのだ!!』」
 気がつけば、白いカイオーガに片足を奪い取られた船長になりきり、アブラは本を抱えながら咆哮する。ただの朗読でありながら、アブラが腹の底から出す怒声は迫力に満ちていて、窓を開け放った部室からはいくらか声が外に漏れただろう。
「『見つけたら必ず殺せ!! 私の左脚の恨みを晴らすのだ!!』」
 叫んで、徐々に空しく恥ずかしくなって分厚い本を本をぱたんと閉じる。
「……無理だなぁ、流石にカイオーガにリーフブレードとか考えたくない……もっといいの無いかな……」
 花弁から出したツルのトゲで本を傷つけないよう、慎重に抱えながら本棚へ戻そうと振り向いたその視線の先。

「練習熱心なのね」
 シマ姐が居た。
「シマ姐……いたの?」
 早朝と言うわけでもないが、本来の開始時間よりも遥かに早く部室にいるからこそこんな一人芝居も出来たのだが、誰かに見られるのはやけに恥ずかしい。
「うん、いるわよ。あんまりに野太い声だから、誰かと思って覗いてみれば貴方だなんて、意外なものね」
「は、はぁ……」
 アブラは妖艶な笑顔で見つめるシマ姐を直視できず、仕方なしに本のタイトルを凝視することにした『白鯨』と書かれたその本の内容は、白いカイオーガを殺すことに執念を燃やす男の話であった。
「あなた、あんな声も出せるのね。もしも貴方が水タイプだったら思わず足が(すく)んじゃうわ」
「それって、草タイプの僕には足が竦まないってことじゃ……」
「あら、本当ね。ふふ、悔しかったらフルコンタクトバトルサークルにでも入りなさい。あそこには草タイプでも戦いを挑みたくないような人も多いし」
「意地悪……」
 アブラは口の端をとがらせて溜め息をつく。シマ姐はクツクツと押し殺したように笑い、木の葉のような身のこなしでアブラの隣へ瞬間移動。
「で、その本は何? 私も一緒に演技してあげよっか?」
「いや、生憎海の海の男のお話だから女性の出番は……本当に数えるくらいしか……男子役やる?」
「そう、残念。男の相手をする遊女の役とかないのかしら?」
「子供でも読める本だから……」
 そう、と耳元で囁いてシマ姐はこれ見よがしに背中を見せて歩く。そして、ファッションショーのモデルの如く、くるりとターン。
「ちょい悪なお父さん譲りで、男子を誘惑するのは好きなのに、もったいないわ」
「それは、お願いだから同じ卵グループにやってくれるかな……っていうか、シマ姐ここまで露骨な誘惑する性格だったっけ?」
「演技よ。それに、キュウコンにとって誘惑はロコン時代からの嗜みの様なもの」
「は、はぁ……演技ね。予想していたけれどきっぱり言うね」
 演劇サークルで鍛えられた、非の打ち所のない笑顔を浮かべて、シマ姐は笑う。
「ところで、シマ姐もシマ姐で物凄く早い登校だけれど、どうかしたのか?」
「ん~~……今ね、貴方とは違うけれど演じてみたい役割があって……例えば、この模造刀」
「殺陣でもするの? 僕もサーベルでなら相手出来るけれど……どう見てもそういう感じじゃないよね?」
 鼻にわずかな吐息を混ぜた含み笑いをして、シマ姐は模造刀の鞘を抜く。模造刀であるため切れ味は皆無なその刀。それを神通力で宙に浮かせると同時に、シマ姐は周囲に纏う雰囲気を変えた。
 口を食い結び、決して目を逸らすまいとする鋭い目つきで、アブラを睨む。演劇サークルの(かがみ)の様な役への入り込みぐあいだ。あぁ、自己暗示ってこういう事か――なんて、アブラは言葉でなく肌で実感できた気がした。
「手前、極道の女として生きる道を選んでから、こうなることは覚悟の上。仏となった亭主が拭けないケツは、カミの私が体ぁ張って落とし前付けさせていただきます」
「えぇ!?」

 なんとなくやらんとしていることは分かった。任侠モノのお話では御馴染の指詰め*4や尻尾詰めの類だろう、シリアスな表情に痛がる症状と演技力が問われるシーンではあるが――なぜ、そういうシーンを選んだのか、アブラには全く理解の範疇を超えている。
「グッ……」
 シマ姐は、アブラが状況を理解する前に模造刀を尻尾に突き刺し、痛そうな顔をする。顎を壊せとばかりに歯を食いしばった表情は見ているだけで、尻がむずむずする。やはり、姐の名を呼ばれるだけあって演技派だ。
「この誠意、受け取ってくださいませ……」

 極めつけに、その尻尾を口に咥えて差し出した。模造刀を突き刺したのはフリかと思っていたけれど、どうやら本当に尻尾を体から切り離して(ヽヽヽヽヽ)いたらしい。
「受け取ってもいいけど、これ……付け尻尾じゃん。普通のキュウコンには無い赤い部分まできちんと再現されているけれど……特注……?」
「うん、専門の工房で採寸しての特注よ。まったく、お父さんってば中途半端に遺伝子が強いんだから困るわ……」
 尻尾の毛先の赤を見て、シマ姐は悪気ない不平を口にする。
「でも、尾力(おぢから)もアップして魅力的だって思わない?」
「校則違反だけれどね……この前、付け棘を取り上げられたノクタスもいるんだから気をつけないと……」
「せっかく教師たちの眼の緩い夏休みなんだもの、これくらいの校則違反ならしたっていいじゃない?」
 校則違反という指摘を気にも留めない盗人猛々しい態度で、シマ姐は再び付け尻尾を取り付ける。そのままゴロリと、大切な所を尻尾で隠しつつも無防備に横になる誘惑のポーズを魅せ付けた。神通力によって他の尻尾と遜色なく動く尻尾は、数えると確かに十本ある。だがm言われなければ気がつかないほど精巧に出来ているし、その動きを神通力で制御するシマ姐もただ者ではない集中力の持ち主だ。
「分かったから……早いとこそのポーズやめて……・確実に誤解される」
「あら、そういう演技だって言えばいいじゃない? それとも、本気にしてもらった方が都合がいいかしら?」
 初心(うぶ)な反応鼻で笑い、シマ姐は立ちあがる。

「そうそう、私が朝早く来た本当の理由は……演劇部の巨大な鏡が必要だったのよ。付け尻尾がきちんと違和感なく動かせているかの確認にね。家での練習じゃ限界もあることだし」
「いや、それだけ出来れば十分だと思うけれど……」
 控室から鏡のある練習場へ向かおうとしていたシマ姐はその言葉で足をとめた。
「技を極めることに、やりすぎってことはないの。ま、パンチを極めるために蹴りを疎かにするのは馬鹿のやることかもしれないけれど……これくらいいいでしょ? 目指すは母さんと同じ十二本よ」
 そう言って、再びシマ姐は十本の尻尾を揺らす。非常にそつのない動きは、このまま十五本でも二十本でも違和感なく振舞うのではないかと言うほど見事だ。
「そうだ、ビデオ撮ってくれる? 鏡じゃどうしても死角が出来るから、後ろ姿をお願いしたいのよね」
 シマ姐は振り返る際にウインクを織り交ぜて、腰や首の角度を絶妙に調節した立ち居振る舞いによってアブラへの誘惑を行う。呆然としている気の無い返事をしたアブラは、その後皆が集まってくるまでの間カメラ係を押し付けられるのであった。



 アブラがシマ姐と鉢合わせした時は、今後早めに来るのをやめようと心に誓うほど人使いが荒かった。別に脅されたわけでもないのに従わざるを得なくなる威光と言うか後光と言うか、暗示をかけるような力が彼女に備わっているようである。
 しかし、収穫が無いわけではなかった。部室には、普通の文学本がたくさんあるが、当然のように演劇において役立つ参考書も多い。発声法や観客によく見え歪みの無い動作、笑顔の作り方やメイクのやり方など、一冊一冊は分厚い冊子ではないが、計三冊に分けられて懇切丁寧にまとめられたそのシリーズは目を見張る内容の濃さと分かりやすさを兼ね備えていた。
 ただ、分厚い冊子ではなくおまけに写真も多めに使われていようとも、文字の細かさは折り紙つきで多くの部員が読むのを敬遠した本でもある。シマ姐曰く、『全部読んだ』とのことで、お勧めの一品として勧めてきたものなのだが、確かに読んでみると分かりやすさが際立ち、中々に面白い。所謂掘り出し物と言う奴であった。
 特に、今のアブラのかゆい所に手が届く演劇の精神面に関する項目は、目を皿のようにして見入った。

 その日からアブラは毎日十分でもいいから鏡の前に立ち続けて、逆三角のお守りを持って自分の名前を呟くなどして自己暗示に勤しむ。姿勢や身だしなみと合わせて精神改革に励んだ結果、演技を行う時のキレが上がったのはもちろんのこと、日常生活でも姿勢もよくなり美しさが増した。
 生憎その変化を女子からそれを指摘されることはなく、最初に指摘してくれたのはビート。長期休暇中でなかなか合うチャンスがなく二週間ぶりにあったせいか『今更モテようと頑張っているのか?』などと、あること無い事を言われたりもして、遊ぶ前から体力を消耗させた一日もあった。
 良い姿勢を維持するのは疲れることだけれど、しばらく続けていく内にシマ姐や顧問の先生からも伸びた背筋(せすじ)を指摘されるなど変化は増えた。
 父親が意図した所の、恐怖に立ち向かえる精神改革とは方向性が違っていたが、父親は『いい結果になったなら悪くない。それに、そうやって意識を無意識にする経験を多く積むことがいざという時に役に立つんだ』と笑い飛ばされた。



 父親からのアドバイスを胸にして生きて、一年が過ぎた。三年次の夏休み、ボランティア活動を行う事で卒業に必要な単位を得るサークルたっての願いで、老人ホームでの公演を行ってからは、もう残されたイベントが文化祭だけ。そう思うと、少し寂しかった。
 周りはすでに大体の人が進路を決めていて、就活モードに入っている。アブラもまたその大体の人の一員なのだが、シマ姐は『水商売なんてどうかしら? いや、火遊びかしらね』と、不穏な就職先を示唆するセリフを吐いている。
 付け尻尾を加えた尻尾の合計はきっちり十二本に増えていて、休日――演劇に使うお洒落の一環と言い張って着飾る彼女を見ると尾力の差で、平日と印象が大きく変わってしまう。多分、いかがわしい職業につけば尻尾一つで男性を魅了していくことだろう。
 ビートは家の手伝いのために、簿記やビジネス論の単位修得に余念がない。
 自分は二年の後半まで決めあぐねていたが、営業主体の会社を選択することにした。希望について相談した周りの人は、口をそろえて『向いている』――とのことで自信もあった。
 よもや人生を踏みちがえることはないだろうと思いつつも、心のどこかで就職への不安はあった。その不安を吹き飛ばし自信に満ちていられるように、今でも鏡の前での自己暗示は欠かしていない。継続しているおかげで、鏡を見て自己暗示する時間も大分短くなった。

 そんな三年夏のある日。部活帰りに偶然豪雨に出くわした。家に帰る時は排水路に架かる橋を横切らなければならないのだが、その日は見事なまでに増水している。酷い時は排水路が水を抱えきれず、あふれ出すことさえあったというから、それも手伝ってアブラの恐怖を倍増させた。
 と、言うのも増水した状態のこの川を見たことは何度もあったが、最近頻発する記録的な豪雨の一つで、この水路があふれたという。今日もまた、今すぐではないにしてもあふれるのは時間の問題のように思えた。
 その思い込みが始まると、足が竦み始めた。まるで水の中にいるように頼りない二本の足が、がくがくと震えた。否が応無しに鼓動も呼吸もリズムを速め、死にそうに苦しい。ひと通りは少なくないから、死ぬ前には助けてもらえるだろうけれど、こんなところで倒れたくはなかった。
「アブラカダブラ……この水路を設計した人を信じるんだ……」
 そこで気分を落ち着かせるためにアブラがしたのは、父親に言われたとおり信じること。名前も顔も知らない設計士を信じるのは少々無理があったけれど、机の上に大量の資料や観測記録を並べて、水路に必要な容量を試算する光景を思い浮かべているうちに、なんとか落ちつけた気がした。
 そんな事をやっているうちに、とっくに渡りきっているのだが。
「何だ……大したことない……」
 アブラはそうやって(うそぶ)いてみたけれど鉄砲水に比べれば大したことのない水流に肝をつぶした事を、内心では情けないと肩を落とした。
「早く帰らなきゃ」
 教科書やノートまで濡れるちゃうのは嫌だし――と、帰り道を急いでいたアブラだが、逃げるように川から離れているうちに、悔しい思いが強くなった。やっぱり、あれだけ自己暗示を繰り返しておきながら何も変わっていない自分が許せなかった。

「アブラカダブラ……」
 なんて言葉を今だに信じる自分は乙女趣味なのかもしれない。そんな思いが脳裏をかすめたが、無視して唱えてみた。
「アブラカダブラ」
 隣に人がいれば会話が成立する程度の声で口にした。アブラは何を思ったのか今来た道を引き返し、水路のすぐ近くの雑居ビルの非常階段に陣取り、増水した水路を見る。
 アブラが陣取った場所は高所にある。建物が壊れない限りは洪水が起ころうが、間違っても流されやしないだろう。
 それは鉄砲水の時だってそうだったはずなのに。高い所にいて絶対に安全だと頭ではわかっていても、激しく動揺した自分が情けなかった。
 だから、アブラはイメージする。『もし、あの水路を流されている子供がいれば自分は絶対に助ける』。そんなビジョンを口に出して、助ける姿をイメージする。『橋の手すりにツルを巻きつけて、子供にもツルを巻きつける』。
 何とも非現実的なイメージだった。雨が小ぶりになって、次第に冷静さを取り戻して来ると、自分が如何に馬鹿馬鹿しい事をしているのかと軽く恥ずかしくなる。
「……アブラカダブラ(私の言う通りになる)なんて言うんじゃなかった」
 金属の板と骨組に臙脂色のペンキを塗った非常階段。カツカツと、小気味良い足音を立てながら降りて行く途中、見てしまった。上流からノコッチの子供が流されながらもがいている。
 鞄はその場においた。ダダダダッと、これ以上ない急ぎ足で階段を下り車道を横切り、水路に架かる橋から飛び出さんばかりの勢いで水路を覗いた。



 あんまりにずぶぬれで帰ってきたため、アブラは両親に何事かと問いただされる。アブラは、余りにも馬鹿らしいオチだった帰宅途中の出来事を、あるがままに話した。

「で、それが……動くおもちゃだったわけ」
 増水した水路を流されていた物は、子供が興味本位で増水した川に流した物なのか、電源を入れた状態で蠢いていたお風呂用玩具であった。妙に小さいのは子供が流されているからではなく、玩具であったからだと言う。

「まぁ、こうなると視力のいい鳥ポケモンが羨ましいなぁって感じたのとね……なんで、あの時自分が足もすくませずに動けたのか? 躊躇いもなく走れたんだろうなって……疑問が残ったな」
 馬鹿馬鹿しい笑い話に他ならないはずなのに、アブラは自分の事を卑下しようともせず、ふっきれた気持ちのいい表情を見せている。
「これで、本当に溺れている子供がいて、その子を助けたなら格好良かったのに」
 わざとらしく肩をすくめて、アブラは笑う。演技じみた大袈裟な動作は、照れ隠しの意味もあった。

「……良かったじゃないか。もう、激しい水の流れを見ても怖く……いや、大丈夫なんだろう?」
 父親もその変化を肌で感じているようで、自覚できないうちにさらに一回り成長した息子を称賛した。
「うん、相変わらず怖いけれど……流されていた子供はもっと怖いだろうから、助けなきゃって思った。結局それは……そういうオチだったけれどね。う~……本当に恥ずかしい」
 激しく身を縮めて、同じ言葉を繰り返す。話さなければよかった――とは、何故か考えなかった。
「ふぅ……本当の両親のことで泣かなくなった日がなんだか懐かしいわね」
 しみじみと、どこかさびしげな声色の母親は少し笑っていた。
「子供は親の手がなくっても成長するもんさ」
 父親は、アブラの成長を自分の力で為したものだと言った。
「そうじゃないよ……」
 アブラがそれを否定するのは照れ臭いはずだけれど、今日は何故だか息を吐くように自然に言葉が出た。
「父さんからも母さんからも、そして生みの親からも……僕をアブラカダブラ(ぼく)足らしめてくれる物をもらったんだ。だから、なんて言うのかな?
 ドジな所もあるけれど、これからもよろしく……それとありがとう」
 自分の名前を自分で口にすることが呪文というのはなんとなく恥ずかしいけれど、呪文とセットで自己暗示を続けていたら、それが現実になった。僕の名前は生みの親からもらったモノだから、恐怖と向き合えたのは生みの親のおかげ――で、あることは間違いない。
 けれど、その意味を教えてくれたのは父さんだったり、名前通りに僕の命を救ってくれたのは母さんだったり。それを、羨ましいと言ってくれる友達もいる。
 僕をアブラカダブラたらしめてくれる人は、たくさんいるんだ。だから、アブラカダブラという名前を中心に、僕はようやく恵まれているって自覚できる。明らかにDQN*5な名前だったけれど、この名前に生まれてよかったなんて今更ながらに思った。
 だって、この名前のおかげで今の僕があるわけだし。

 バラの花言葉はまず最初に『愛』。そして、アブラカダブラの色は一つ目がピンクからダークピンクで前者は『気品』、後者は『感謝』。二つ目が黄色から白で、前者が『友情』、後者は『尊敬』。それぞれの色に対して、別の意味は数多くあるけれど、僕はそう言う風に解釈したいな。
 訳の分からない切っ掛けで両親へ感謝の言葉を述べるあいだ、アブラはそんな事を考えていた。

 思わず肩をすくませながら言った言葉は、背筋に蛭が這う感触を覚えるほど後味がこそばゆかった。
「まだ、内定も決まっていな癖に、生意気な事を言うんじゃない」
 呆れたような口調と共に、すかさず父親からデコピンが飛んできて、思わず顔をしかめる前に抱きしめられた。
「まぁ、『これからもよろしく』だけは受け取っておく。ありがとうを言うのは、親に酒をおごれるようになるまで取っておけ」
「それ、後二年待たなきゃ……おごるだけおごって自分が飲めないって居心地が悪いし」
 不満そうなアブラを両親はたしなめる。
「それでかまわんだろ」
「うん、そうね」
 まるで、夫婦でしか分からないテレパシーを使っているような、つうかあのやり取りであった。
「まだ子供でいて欲しいのね……僕もう十八だってのに」
 肩を落として、アブラはぼやく。愛されているからだ――と思わずにはやっていられない。
「ま、悔しかったら彼女の一つでも連れて来いってことだ」
「……ふぅん。明日連れてきても良い?」
「え゛っ……」
 ぎょっとした顔で両親はアブラを見る。
 空を飛ぶカバルドンかホエルオーか、如何にも信じられない物を見た、聞いたという態度に少しむっとして、むきになったような口調でアブラは言い放った。
「息子は、いつまでたっても子供じゃないんだよ、父さん」
 しかし、『子供じゃない』と言うセリフが悪かったのか、その後両親の口から飛び出した飛躍しすぎの質問には思わず顔を赤らめた。そう聞いてくれるのは両親に愛されている証拠だという解釈をすることで、アブラは襲いかかる恥ずかしさから身を守った。
 アブラカダブラと書かれた真鍮製のお守りは、恥ずかしさからは身を守ってくれないらしい。

後書き 


アブラカダブラは、魔法の言葉。それを刻んだ逆三角形のお守りは魔除けの効果があります。
今回は、その語源となる言葉及びバラの品種を含めてたくさんの意味で使わせてもらいました。

汝の死に雷を当てろ⇒これは、今巷で話題のAEDを始めとする電気ショックによる心臓機能の再生という解釈をしています。また、『父と子と聖霊』、『唯一神』などを意味するともされ、実は軽々しく使ってはいけない言葉だったり。この物語で言う唯一神はエンテイではなくアルセウスを想定しています。

私の言う通りになる⇒これは、言霊の力を表しています。お父さんが説明したとおり、言葉は神の次もしくは神よりも前に生まれた可能性がある概念とされています。SSHGでも、アルフの遺跡にアンノーンとアルセウスが関係していることから、ポケモンプレイヤーにもなじみ深い設定かと。

この言葉のようにいなくなれ⇒これは、病気を払いのける言葉。アロマセラピーや自然回復が使えるロズレイドにはぴったりの言葉ですね。

ついでに言うとケーシィとユンゲラーの英語名もこの呪文に由来した名前です。

そして、最後にバラの品種としてのアブラカダブラ。それについては、終盤のシーンで主人公が心の中で思った通り。

最近、日本では名前に対して自由奔放になっていますが、名前というものは本当に重要だったりします、ゲド戦記なんかはそれを如実に表した物語で、本当の名前を知られると魔法によっていいように操られてしまうために、本当の名前は教えない事が原則であると。
この物語には、名前をそこまで重要なものとして考えるには至りませんが、名前の重要さを考えてもらうために書いた物語であります。
物語の登場人物に名前を付ける時、登場人物の親になったつもりで名前を付けてみてから、自分の名前込められた意味を考えるようになりました。今回の主人公であるアブラカダブラ君は非常に変わった名前でしたが、愛がこもった名前というのはいいものだと思います。

大会を終えて 

 今回は4位。しかし、3位からは越えられない壁が立ちはだかっているような印象ですね。……う~む。
 このお話しは、ロズレイドではなくフーディン愛で書き上げました。嫁的な意味での愛とはまた違って、冒険をするならば一緒にいたいポケモン(伝説除く)No.1なんですよね、フーディンは。ゲームでは、秘伝技の関係でそこまで入れたいとは思いませんが、まぁ能力は高いですので入れていても損はありませんし。
 今回のお話しの着想を得たのも、ケーシィとユンゲラーの英語名がアブラカダブラから来ていたという事。その意味を調べているうちに、バラの品種の名前である事も分かりまして、名前と不思議な縁を描きつつ、家族愛を書いてみたくなりました。
 フーディン愛も良いけれど、最近ダークライを愛していないなぁ……すごく愛したいと思う今日この頃なのでした。

感想・コメント 

大会投票フォームのコメント 


単純明快なものから何度も読み返してしまう不思議な魅力の物まで。色々ありましたね。
今回は短い中に、私の好きな要素が書けた作品を選びました。 (2010/03/22(月) 09:14)
数ある名作の中で私の作品を選んでくれて感謝します。


何気ない出来事からの成長っていうのが良かったです。 (2010/03/27(土) 17:09)
事件を起こそうと思うとどうしてもご都合主義になりがちだったためにあんなオチになってしまいましたが……私と同じ感性の肩がいてくれるのは嬉しい事です。感想ありがとうございました。


アブラカタブラっていろんな意味がつまってるんですねえ (2010/03/30(火) 17:20)
詰まっています。だからこそ、親の愛も詰まっているってことなんでしょうね。


親子愛っていいなぁと感じました。 (2010/04/03(土) 22:37)
ですよね。書いていて嫉妬するくらいに愛された子にしてしまいましたが、好評なようでホッとしました。


シマ姐の妖艶さとアブラカダブラのかわいらしさに、メロメロにされました。 (2010/04/04(日) 15:38)
シマ姐は私も大好きですw やはりキュウコンはお色気たっぷりでなければ。そして、ロズレイドもエロ可愛いですよね。
コメント&投票ありがとうございました


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 少々遅れてしまいましたが、お疲れ様でした。4位、おめでとうございます。

    初めて得る知識ばかりです。お詳しいのですね。
    期間中に読んだときは知らないことばかりであまり理解できなかった(お恥ずかしい……)のですが、家族愛は良く伝わってきました。
    普通の学生生活でありながら、少し独特な雰囲気だったのも印象的でした。

    名前の大切さを、最近の人たちには分かってほしいものですよね。

    これからも頑張ってください。では。
    ――コミカル 2010-04-11 (日) 17:31:35
  • ちょっとばかし、魔術の本を読みかじっただけなので詳しいというには少し無茶があると思います。
    あまり理解できなかったというのは大きなマイナスですね……皆さんに理解できるような表現が見つからなかったのは、私の書き手としての実力不足。その言葉を心にとめて精進させていただきます。

    家族愛や名前については……『アブラカダブラ』は十分DQNネームだと思うのは私だけでいいと思いますw しかし、個人的に愛は伝わってくると思います。
    その愛が貴方にも伝わってくれたようで嬉しく思いますね。

    感想ありがとうございました。
    ――リング 2010-04-12 (月) 22:13:08
お名前:

*1 三本あるうちの真ん中の指。具体的には親指、中指、小指の三本である
*2 主に赤紫と白の美しい模様を形成するバラなど
*3 某、フレアドライブを覚えないせいで使えないと揶揄される炎タイプのポケモンではない
*4 小指などを切って反省の意を示したり落とし前をつける事
*5 ドキュン

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Last-modified: 2010-04-05 (月) 00:00:00
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