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だれかの虚像

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だれかの虚像 ― Oneself Surface 


 お読みいただくにあたって:
  作者の不純な妄想が含まれます。直接的な表現はございませんが、この一文に違和感を覚えられた方はお控えください。
 ご注意ください。

 前話の登場人物が登場します。前話を読まれなくとも、こちらのお話も独立したものとしてお楽しみいただけます。

Writer: 水鏡 @GlaceonJ


 面倒ごとというものは、総じて突発的に遭遇することに共通している。
「サラ、これから外に出る気はないか」
 晴れた日の昼下がり、仕事机に向かっている主人は唐突にそんなことを言い始める。
 季節的には過ごしやすくなったけれど、なんだって今日これからの提案なのか。お昼時のまどろみを堪能する絶好なひとときを狙って外出なんて。おうちでごろごろしていたい私は、ソファの上から動きたくなかった。
「もう春も終盤、気温も高い。まして今日は土曜日、つまり休日よ。私は拒否権を行使する」
「まあ、そんなこと言わずに。新しいポケモンを探そうと思ってるんだ」
 ――〝新しいポケモン〟。
 この単語が聞こえた瞬間、私は得も言われぬ心のざわめきを覚えた。はっとして顔を上げ、主人の顔色を窺う。無表情に見えた。
 こいつは何を言っているのだ、この私が居るというのに。
「サラはグレイシア。種族柄、特殊に分類される遠隔攻撃が主体だ。今度は接近戦が得意なやつを見つける」
「え、待ち。新しいポケモンって……じゃあ、私から鞍替えしようって言うわけ?」
 私が居るというのに、新しいポケモンを探そうということ。それはつまり、私はもう用済みだということ。
 この八年間、全く不自由しなかった生活が、がらりと変わってしまうのではないか。私を追い出すつもりなのか。
 主人の意図が全く読めない。眉一つ動かさない冷たさが拍車をかけ、ざわめきは恐怖へと姿を変えようとしていた。
「なんだ、またがってほしかったのか」
 再び強烈なワードを理解してしまった私は、良からぬ妄想を広げてしまう。
 またがるということは、主人と私が、夜の営みとして代表されるあんなことやこんなことを――これ以上考えるのはやめておこう。吐き気を催してしまった。
 〝鞍替え〟なんて言わなければよかった。
「おえ、気持ち悪い」
「言い出したのはお前だろ」
「そういう意味じゃないでしょ! この変態っ」
 セクハラもいいところだ。私は総毛立つような嫌な感覚を無理やり飲み込んで、主人の顔を睨みつけた。
 彼は不思議そうな表情をしていた。
「変なやつ……話を戻すと、サラの他に別のもう一匹を連れてこようと思う」
 私は、恐る恐る、訊ねた。
「それって、私じゃ……私じゃ、不満ってこと?」
「ある意味そうだが、お前も居てくれなきゃ困る」
 話がわからない。主人は結論が先行して、他人の気持ちなど二の次に考えるような人であることを、ようやく思い出した。
 それなら、私が思っていることを素直に伝えれば良かったのだ。
「追い出さない? 捨てたりしない?」
「誰がそんなこと」
「だって主人、私じゃ不満って」
 ここで主人はようやく理解したのか、あぁ、とつぶやいて納得したようだ。主人は椅子から立ち上がった。
「すまんな、そういう意味じゃないんだ」
 そしてごく自然にこちらに近寄って、手を差し伸べようとしてくるから、私は心の底から拒絶反応がにじみ出てしまった。先ほどの悪心がぶり返した。
「うえっ、寄るな、触るな!」
「おっと、なんだよ、冷たいな」
 豆粒ほど小さな氷のつぶてを少量飛ばしながら、私は悪魔の進撃を追い払った。今日一日、主人を生理的に受け付けなくなってしまった気がする。
「紛らわしい言い方をしたあんたのせいよ」
「お前も変わらないだろ」
「知らない! 探すの手伝ってあげないんだから」
「ところでオスとメスならどっちがいい?」
「手伝わないって言ってるでしょうが」
「まあまあ、そんなこと言わずに、さあほら」
 いちいちスキンシップを謀ろうとしてくる主人の追撃をことごとく粉砕しながら、私はしぶしぶ、彼の背中を追いかけた。
 私のことは所詮、便利な護衛役くらいにしか思っていないんだわ。戦闘はあまり得意ではないのに。
「ああもう、あんまり氷を撒き散らすと後片付けが」
「うるさい!」
 主人の言葉を遮りながら、もう一度つぶてを飛ばして、こいつの窮地には助太刀に入らないことに決めた。〝タオルが足りない〟とか知らんがな。

 §

 最近の外気温は高くなってきたほうだ。梅雨のじめじめした、冬とは正反対の陰鬱な季節が始まる、その少し前。春から夏にかけて、唯一過ごしやすい時期がこの頃だ。
 過ごしやすいと言っても、私にとってはとんでもない。アスファルトはぎりぎり踏めるものの、鉄板の上を歩こうものなら火傷を覚悟しなければならないだろう。太陽は高く昇り、雲一つない真っ青な空が私を包み込んでくる。暗くなってからでは駄目なのか。
 文句の山ほどもある私を放ったらかして、主人は先へ先へと歩いていく。気に留める素振りすら見せないとはいかがなものか。
「主人、待って」
 声をかけると、ようやくこちらに振り向いてくれた。乱れた呼吸を整えながら、少し待ってくれと眼差しで訴える。
 いつにも増して、息が上がるのが早すぎやしないか。私自身の体調を不思議に感じたけれど、それもこれも全部、真っ昼間から出かけさせる主人のせいだと割り切った。
「どうした、抱いてほしいのか」
 ああ、呼び止めた私が莫迦だった。一気に体温が下がるような悪寒が走った。
「暑苦しいから却下」
「ほら、もうすぐ駅に着くぞ。もう少しだ」
 電車に乗るとは意外だ。駅舎を見るのも嫌になった、と主人が口に出していたことを覚えている。
「電車は使わないんじゃなかったの?」
「暑い中ずっと歩きたくないって言ったのはお前だろう、サラ?」
 意外と私のことを気にかけてくれているのかもしれない。尻尾を揺らしていることに気が付かなかった。
 あまりころころと他人の評価を変えていては、安い(おんな)だな、と思われてしまうかもしれないが。
「……ありがと」
「ほら歩け。もう少しだ」
 厚意にあやかることは、悪いことではないだろう、と私は思う。

 車内に入れば、太陽光が遮られ、適度な温度が保たれている。風が動くより、日光が当たらないほうが涼しく感じるのは、この季節特有の感覚だ。
「暑かった……」
「よく頑張ったな」
「頑張るとかそれ以前にそもそも、〝新しいポケモン〟さえ求めなければね?」
「それは言わない約束だろ」
 主人は座席に腰掛け、ポケットから光沢のある薄いものを取り出した。スマホ、とか言っていたような気がする。
 あれに話しかけた直後、〝まーた仕事だ〟とか〝荷が重すぎんよー〟とかぼやいて、結局私も駆り出される羽目になるのだから、あまり良い印象は持っていない……ああ、案の定、主人は難しい顔をし始めた。今回の〝新しいポケモン〟とやらも、仕事の関係なのね、きっと。
 昇降扉が閉まり、電車が動き始めたとき、私の耳が動いた。小さな声で囁いている、ポケモンの鳴き声が聞き取れた。
『なんだろう……甘い匂いがしない?』
 こちらから少し離れた、対面の座席に居るようだ。
『お菓子でも食べてるの』
『いや、なんか違う……ミツみたいな』
 たしかにお菓子やミツの匂いはしないし、主人の言うとおり、フードコートでない公共の場で食事をするような利用客は自覚がないのだろう、と私も思う。
『あの子じゃない?』
 いくつかの視線が動いた気がした。
『グレイシアが〝あまいかおり〟を使えるなんて聞いたことないよ』
 心当たりのある種族の名前が出てきて、耳だけでなく目も合わせてしまった。
 グラエナとハーデリア、それに……私でも見たことのない、真っ白でふかふかな体毛に長い垂れ耳、黒い肌を持つ四足のポケモンが、私のことをじっと見つめていた。夏は大変そう。
『おいやめろって、見られてるぞ』
 近くに居たサンドパンが、諭すように言い放った。
 こちらを気にされることが避けられないのなら、安全な場所まで避難することが先決だ。私は主人の足を(みぎ)前肢()で踏み、注意を引く。
「ん、どうしたサラ」
「あと何駅?」
「次ですぐ降りるが、その後は五駅で乗り換え。それからバスでぐんぐん上る。だいたい三時間半だ」
 長い。そんな遠出であることは、あらかじめ私に言っておくべきだ。往復七時間……ということは、ポケモンを探す時間が一時間もかかれば帰りは暗闇。三時間以上探せば現地でも夕暮れが迫る。なぜ明日ではなかったのか。
 周囲の目が光っていることも相まって、私は主人の膝の上に飛び乗った。こいつの所有物になってやろうと思ったことはさらさら無いが、今だけは手を借りるべきだろう。
「おわっ、もう着くぞ、乗り換えだ」
「手で触ったら電車ごと凍らす」
「難しいこと言うな」

 §

 閉じられた空間の電車内。それはもう空気がよく回るみたいで、駅に着くたびに嫌な視線に晒された。匂いにつられている、ということはなんとなくわかってきたけれど、私自身そんなことに心当たりはない。昨日のお風呂も、主人がよく使うヘアリンスで体を洗っただけ。
 そして、車内で言い寄ってきたポケモンも居た。ものすごく下心満載な目をしながらこちらに話しかけてきたルクシオの表情が、頭の裏にこびりついて離れない。顔立ちは整ってかっこいいなと思ったけれど、口元がだらしない。さすがの私も辟易した。
 もちろん私は人間の言葉が話せるから、主人や周りの人間にも言いふらして凌いだ。今から思うと、彼にとっては少し残酷な選択をしてしまったかもしれないと思う。でも、彼には彼の主が居るだろうし、私には私の主が居ることは事実。主人の膝の上から徹底抗戦し、最終的には折れていただいた。
 人間の言葉を操る、という点で驚かれ、口説いてくるやつも躱しながら。思い出すだけで、体が凝り固まりそうだ。電車から降りた私は、待ってましたと叫ぶ代わりに、前肢()を伸ばして体を地面に近づける。ついでに後脚(あし)も思いっきり伸ばした。
 駅舎から外に出れば、澄んだ空気が出迎えてくれた。やっと一息つける。
 歩くほうが良かったのか、嫌な視線に耐えるほうが良かったのか。結果的にはどちらも変わらなかったのではないだろうか。
「疲れた……」
「お疲れ。次はバスに乗り継いだ先でポケモン探しが待ってるぞ」
「えーもうやだ帰りたい」
「なんでお前、そんなモテモテなんだ? 別に可愛くないのに」
 面と向かってピュアな乙牝(おとめ)に失礼な。カチンときた私は、少しばかり言い返してやろうと口を開く。
「彼女が居ない中、電話の中身が常に仕事相手の主人に言われても」
 すると、主人は曇った表情になって、ぽつりと一言漏らした。
「そうか……」
 それだけ言って考え込むようにうつむくから、私はだんだんと不安になってきて、耐えきれず続きを促した。
「え、何」
「お前もそろそろ、俺から卒業する頃合いか」
 ――〝卒業〟。
 主人が突き放すような言葉を使うことは初めてではない。出かける前も、追い出されるかと思って肝を冷やしたのに、またそのような含みのある言い回しで私を翻弄しようとは。
 突然に無表情になるから、なおのこと本気なのか冗談なのかが、この私でもわからない。慌てて言葉を紡いでいた。
「え、そ、卒業って何。出て行くつもりなんて無いわよ? 野生で暮らすなんてそんな――」
「嘘に決まってんだろ。お前があんまりにも毒づくから」
 これからどうしよう、なんて考えていた矢先。私は、私自身の進退に懸かることとなると、とんでもなく敏感なのかもしれない。
 喜んで良いのやら、怒るほうが良いのやら、複雑な感情が絡み合って言葉にならない。
 主人は笑っていた。
「うー」
「そんな拗ねるなって。甘いもんでも食わせてやるから」
 食べ物で釣ろうとは、この人間、私の弱点を知っていやがる。
 主人には、私のことであればすべて筒抜けなのかもしれない。
「もう本気にしないから」
「ここらへんは、栗餡とクルミの入った、まんじゅうがあるらしいからな」
「え、本当っ?」
「買ってやるとは言ってないぞ」
「う……わ、私も欲しいなんて言ってない」
「俺は食べたいなあ」
「やっぱり欲しいっ。買って」
 後々思ったことではあるが、こんな調子では終電コースは免れなかっただろう。早く終わることを願うばかりだ。

 §

 バスで揺られた時間はけっこう長かった。
 私たちが普段住んでいる場所は、建物や人がものすごく多い。しかし、目的地に向かうに従って、そのやかましさが鳴りを潜めていく。バスの車窓から外を見れば、緑や水が目立ちはじめ、見るからに空気が変わった。
 主人の業界では、自らの足で現地調査を行うことをフィールドワークと呼ぶ。そして今回、調査対象に選ばれた場所が、小高い山であった。
「はぁ〜……たまには良いわね、こういうのも」
 バスから降りて、私は早速深呼吸をした。日差しが気にならないほど空気が澄み、清涼感にあふれている。
「んじゃ毎日来ようか」
「〝たまには〟って前置きしたのが聞こえんかったんかい」
 休日であるからか、人はそれなりに多い。主人と私で、やいのやいのと言い合う姿は、周りから見れば珍しいのか、立ち止まってこちらを向く人も居た。
 登り口には鳥居が建ち、自然を神聖視する人間の心が覗える。見覚えのある姿が、像にされていた。
「キュウコン……」
 階段のすぐそばにある銅像は、キュウコンを模したものだった。初めてここに訪れ、初めて見るはずのものなのに、どこか懐かしい感じがする。
「おーい、サラ」
 主人が私を呼んでいる。脚を止めていることに気づいた。
『人間と共に暮らす者よ。私を呼んだのは、そなたか』
 階段を上って主人を追いかけようとした瞬間、突如として響いた声に驚いて、私は周りを見回した。
「えっ?」
 私と主人、それに参拝客が幾人か、目につく人たちは皆、各々の目的地を目指している。階段を上った先のもう一つの鳥居まではもう少しだ。
 主人は怪訝な顔をして、こちらに戻ってきた。
「どうした」
「誰かが、喋った……」
 そもそも人間の言葉ではなく、私たちポケモンの鳴き声だったようにも思う。
 像のキュウコンと目が合った、ような気がした。
「まさか」
 私は像を見つめた。風の音が吸い込まれ、凛、と空間が静止する。
『ご明察』
 音の無くなった世界で、ひときわ大きく、先ほどと同じ声が響いた。
 像の目の前が、まばゆく光る。どこからともなく、金色の体毛が現れた。
「えっ」
「なんだ」
 私と主人は、同時に驚いた声を出していた。
『久しぶりだのう』
 しばらくの間、私は口を半開きにして、唖然としていたと思う。像から出てきたと表現しても差し支えのないキュウコンが、実体を伴って目の前に居るのだ。どんなからくりだ。
 彼女に纏わる雰囲気が、なんというか、独特で不思議な感じだ。それでも、他者を寄せ付けないような、刺すようなものではない。私はおぼつかない足取りで彼女に近寄り、至近距離からまじまじと観察した。
「おい、サラ」
 主人の声は警告するような音を含んでいたけれど、直感に似た何かが私の脚を止めなかった。彼女なら大丈夫だと思った。
 艶があり、金色に輝く体毛は、毛先の一本一本まで整えられている。頭から伸びる飾り毛は、先端がくせのあるカーブを描いていた。首元から胸にかけて伸びる豊かな毛は、見るだけでもふわふわな感じが伝わってくる。九つの尾が風になびいた。
 失礼かもしれないが、触らないことには納得できない。私は恐る恐る、幻かもしれない彼女に向かって、右前肢を伸ばした。
 触れた。と同時に、印象深いのはその柔らかい触り心地ち。力を入れた部分は深く沈み込むけれど、弾力があるみたいにしなやかで、跳ね返ってくる。いつまでも触っていたい、病みつきにさせる魔性のもふもふだ。同性の私でもドキドキする、こんな毛艶に憧れる。
「本物だ……」
『いきなり気安く触れるのはどうかと思うぞ?』
 はっとして右前肢を離す。キュウコンは不機嫌そうなその言葉に似合わず、微笑みを湛えていた。
「ご、ごめんなさい」
『まあ、気にするでない。珍しがられることは慣れておる』
 そう、彼女の言うとおり、全くもって珍しい。不可解なことだらけで混乱しそうだった私は、疑問符を言葉にのせた。
「どこから出てきたの? 久しぶりって……私に、どこかで?」
 要領を得ない私に、彼女は優しく微笑みかけた。
『牝は秘密が多いほうが、魅力的であろう?』
 そういうものだろうか。嘘も方便という言葉もある中、私ははぐらかされた気分が拭えなかった。
 口元を歪めながら、尻尾をゆらゆらと揺らすその姿は、まるでいたずら好きな妖精だ。
『そなたらはこの森を目指してきたのだろう。埋め合わせと言っては虫が良いかもしれぬが、私が案内しよう』
「えっ、ほんまに?」
 キュウコンはこくりと頷いた。朱い眼差しが、さらに光量を増して光っていた。
 この付近を知っている者に案内してもらえる。なんと心強いことだろうか。
 だが、埋め合わせとは何だろう。私たちの目的をすでに知っているような、お見通しの面構え。初対面の相手にそこまで、などと聞いたところで、また誤魔化されるのだろうか。
 あまり考えていても仕方がない。私は主人に振り返った。
「ね、主人」
 対する主人は、首を傾げていた。お前は何を言っているんだ、とでも言いたげな、こちらの会話を関知しない様子だった。
『彼の者にはもう、私の声が届かぬであろうから、そなたから伝えてくれぬか』
 少し寂しそうな面持ちになるキュウコンが、なんだか可愛く思えてきた。
「わかった、任せて」
 主人に一通り説明したものの、彼は〝そんな簡単に信用できるか〟と仰有(おっしゃ)る。
「出会ったばかりのポケモンについていくことはできない。サラ、行くぞ」
「出会ったばかりって、ちょっと、主人」
 眉一つ動かさない頑固な態度で、腰に手を当てている。諦めろとでも言うつもりだろうか。
 仕方がないので、彼女に協力してもらうことにした。
「これでも信用ならないの?」
 彼女に触れ合える距離まで接近し、その横腹を撫でる。もふもふとした感触はやっぱり心地良い。
 しかし、主人は首を横に振る。
「じゃあこれは?」
 今度は背中に頬を擦りつけ、彼女の匂いを堪能した。
 爽やかな草木のものと、彼女自身のぬくもり。炎を操るポケモン独特の熱の動きが、体毛を通して伝わってくる。野性の薫りも強く感じられる中、ほんのり柔らかい、優しい匂いは、彼女が牝性であることの現れだろうか。
「懐かしい」
『……恥ずかしいからほどほどにしてくれぬか』
 完全に拒否するような声ではないから、案外彼女もまんざらではないのかもしれない。
 だが、まだ主人の心は変えられない。呆れた表情で腕組みをしている。
「おい、キュウコン」
 すると、主人はずかずかとこちらへ歩いてくる。その行く先を遮るように、私は彼女の前に躍り出た。
「何する気」
 しかし、答えたのは彼女だった。
『構わぬ、下がっておれ』
 彼女から制されるとは思いもしなかったから、私は慌てて振り返る。灼眼は自信に満ちていた。
「俺たちの何を知っているのか気になるが、サラは渡さない。どんなにサラを手懐けても、俺が居ることを忘れてくれるな」
 ものすごい剣幕で、なんてことを喋ってくれるのだ。
 かなり込み入ったプロポーズだと思った私は、彼女に誤解されたくないため、主人を少しだけからかってやることにした。
「何そのカッコつけた告白」
「うるさいな、俺は本気だ」
 怒りの表情一つ変えずに、主人は吐き捨てる。これはダメだ、私は焼け石に水だと判断した。右前肢が自然と額に伸びる。
『やはりそなたら、仲が良いの』
「そういうのじゃないんだけど」
 私と主人は、雇われと雇用主の関係だ。主人の研究とやらに、私は協力している。その対価として、私は主人と一つ屋根の下に住まわせてもらっている。
 それ以上でもそれ以下でもない、ただのさっぱりした関係だ。いや、主人の人柄に惹かれるものはあるけれど。あと匂いが好き。
『案ずることはない、取って喰おうなどとは考えておらぬ』
 彼女まで含み笑いをするとはいかがなものか。悪い方向にしか進まないから『悪ノリ』というのに、この事態を収集するべきだと思う私が間違っているのだろうか。
「さすがに食べても美味しくないわよ」
『そうかの。私には魅力的な良い牝に見えるがの』
「やめてよ、(がら)じゃない」
 先ほどの電車内でのやり取りが思い出された。嫌悪感を吐き出そうと、私は一つため息をついて、主人へと向き直った。
「で、主人。彼女から敵意は感じられない。それより私は、主人についていくほうが信用ならないんだけど、迷わない自信は?」
「おぉそうだな、自信はない」
「ないんかぃ」
 ストレートすぎて、再びのため息すら待ったなしだ。拍子抜けした私は、抑揚もキレもない平坦な切り返しをしてしまう。
 もう少し鋭ければ、けっこう上品なツッコミができていたかもしれない。
「まあ私は、どうしてもダメって言うなら、主人を放っといて――」
「わかったわかった。キュウコンについていく。ただし……何かあったらキュウコン、お前をただでは逃がさんぞ」
「どの口が言うか」
『人間ごときに何ができる。ふふ、期待しておるぞ』
 妖しい表情で放たれた彼女の一言。その声音に悪意を感じたのは、私の思い過ごしだろうと思いたい。

 §

「私はサラ。あなたは?」
『好きなように呼ぶと良い。名前なぞいくらでもある』
 キュウコンはご長寿様らしい。そんな彼女が曰く、『名前なんてただの識別子』だそうだ。時間が経てば新しい出会いが即ち、新しい名前になるという。
 ただ単に〝狐様〟と呼ばれることもあったり、〝お社様〟だったり、種族そのまま敬称略の〝キュウコン〟だったり。神社固有の地名を取ったという〝ミツミネ様〟だったり、とにかくいろいろあるらしい。
 もちろん横文字の名前もあるという。だがそもそも、わざわざ名付けてくれる者が珍しく、呼ばれる頻度も圧倒的に少ないため、あまり覚えていないそうだ。
 私にはわからない感覚だ。彼女は同じ地面を踏みながら、どこか遠いところに住んでいるのだろうと思う。
「長生きって大変ねえ」
『違いない。たまにそなたのような懐こい者に出会えることは、楽しみの一つよ』
「お、私は珍しいってことね」
『褒めてないぞ』
 整備された石畳から外れ、森の中へと分け入っていく。彼女は深い森だと言っていたが、日光は届くし、小さいながら道もある。まだまだ序の口、目指している場所はもっと鬱蒼としているのかもしれない。
『して、ポケモンを捕まえるなどと。何が目的だ?』
「私もよくわかんなくて。ねえ主人、捕まえるのは一匹(ひとり)で良いんでしょ?」
 後ろについてきている主人に振り返って、私は説明を求めた。〝ああ、そうだな〟と肯定してくれた。
『一匹なら……まあ、暮らしに害は及ばぬであろう』
 含んだような言い方をする彼女に、私は興味が湧いた。
「そんなたくさん取っていくわけじゃないから、大丈夫?」
『ふむ、人間と共に暮らし、人間の言葉を操り、ポケモンらしからぬポケモンであるそなたを見れば、何が幸せか私には決められぬ』
 なんだかややこしいことを言われたような気がして、私は理解するまで少しの時間が必要だった。
「んー……? ポケモンらしくないって言われても、私はグレイシアだし」
『ふふ、そう言っておろう。ただし……』
「ただし?」
 中途半端に言葉を切るから、私は彼女に向いて、続きを求めた。
 彼女は立ち止まり、険しい表情をしていた。
『……必要以上に捕獲し、増やし、不要になったら捨て、果ては殺害するなどという野蛮な者どもは、やはり許せぬのだ』
 体の奥底で、忘れたはずの記憶が疼いた。
 周りの空気が逆巻いたような気がするのは、ただ風が通り抜けただけだったのだろうか。
『そなたらを見れば、良い関係を築くことができていると見えるの』
 抑揚のない声でつぶやき、彼女は再び、脚を動かす。
「……いろんな世界を、見てきたのね」
 どう表現していいかわからなかったけれど、私はそう付け加えておいた。
『ほほう。世界というものを知っているような口ぶりじゃのう』
「あ、いや、キュウコンには及ばないけど」
 実際に存在する不可思議さと神々しさを目の前に、あまり大きな話をするべきではなかったかもしれない。私は必死に頭を動かして、主人から聞いたことのある、この日本という独特な風土を思い出した。
「えーっと……あぁほら、神話の中には、アマテラスっていう大きな女神が居るんでしょ? あなたもその神様の中のひとり?」
 世界というものを知っていそうな彼女に重ねてみた。
 不可解なことも、物知りであることも、神様だったらなんでもできる、はず。
『そなたも、そう思うか』
「えっ、じゃあ」
 私が期待のこもった眼差しで見つめても、彼女にはそんな勢いはまるで無い、浮かない顔をしていた。
『違うぞ。そもそも私は、神などではない』
「え、そうなんだ」
 彼女の特徴的なたくさんの尻尾が、いくつか力なく垂れ下がったのは、見間違いではなかったかもしれない。
『では逆に聞こう、なぜそう思う?』
「いや、だって、どこからどう見ても物知りだし、銅像から出てくるし」
 彼女は一瞬だけ呆けた顔を見せ、瞬きを数回した後、頬を緩ませて、懇切丁寧に説明してくれた。
『呼ばれた気がしたゆえ、ちょうど直線上にあった銅像を飛び越え、そなたらの目の前に降り立っただけのことよ。普段は境内とこの森とを行き来しておる』
「あら、ただの偶然。でも、銅像があるってことは、それなりに理由があるんじゃ?」
『人間どもが勝手にしたことだ』
「じゃあ、久しぶりって?」
『どこかで会わなかったかの……気のせいか』
 おっちょこちょい、と表現せずして、何と表そう。本当にはぐらかされていたんだと認識した瞬間だった。得体の知れない存在ではないのだ。
 親しみの持てる彼女を前に、私は心が和らぐような気がした。
「そう……」
『ああ、そういうものだ。こんな牝狐に幻滅したか?』
 バツが悪そうにこちらを向く彼女は、なぜか先ほどまでの元気がない。うつむきがちに目を泳がせている。
 なんだろう、すごく、可愛げがある。というか可愛い。
「幻滅とかそれ以前に、普通のポケモンね」
『そうか……そう思ってくれるのか』
 日光があまり届かなくなった森の中に、ひときわ眩しい笑顔が咲いた。
『そなたが話のわかる牝性で嬉しく思うぞ。集落に帰ると、どうしてか気を遣われてのう』
 張り詰めた緊張が解けたような、まるで少女の笑み。声も弾んでいた。おそらく、限りなく彼女の本心に近いのだろうと、私は直感した。
 雰囲気こそ年長者の貫禄を感じさせるが、話してみれば、なんのことはない、ごく普通のポケモン。
『しかしそなた、かなりの博識じゃ。私が出会ってきた者の中で、かような単語を操る者は、そなたしか居らぬぞ』
「私の知識は、主人から聞きかじったものばっかりだから」
『ほうほうほう……知識とはときに、己の身をも滅ぼす諸刃の剣。偽りと真意とを見抜くことができれば、それらはそなたの血肉に、力になろうぞ』
 物知りだなと思った彼女から褒められるとは、かなり珍しい経験ではないだろうか。
『まあ……長生きなぞ、するものではない』
 優しい微笑み、優雅な足取り、麗しい出で立ち。黙っていても絶対に人気者だ。その上、彼女が話す事実は重みがある。何と言っても生きた年数が違うのだ、誰にでもできるものではない。だが、私が神聖視したように、彼女は神様扱いされることを拒んでいる。
 気さくな彼女を見ていると、またその毛皮に顔を埋めてみたくなる。もっちりしているのに、ふわふわな感触。飽きない匂い。
「あ」
 ここにきて、私は今回の目的がポケモンを探していることであると思い出す。その枠に彼女が収まっても、何ら不思議なことではない。
 もし彼女が私の隣に居れば――考えただけでも心が踊る。
『何、どうかしたか』
「ねえ主人、キュウコンじゃダメなの?」
 ふと思い浮かんだ妙案を確認するべく、後ろの主人に振り返って、私は一縷の希望を投げかけた。
「キュウコンを連れて帰っても……キュウコンは確か、グレイシアと同じで特殊が強いはずだ。比べてちょっと素早くて器用だな」
 私の夢は一瞬で砕けた。私と違うポケモンを求めているのに、私が二匹になったところで何も得にはならない。主人の目的には沿っていない。
「はぁ……」
 不意に、ため息がこぼれてしまった。
『私はこの山を離れるわけにはいかんのでな。すまぬが、ついていくことはできない』
「そう……残念」
 二重に壁が重なって、私の目論見は諦めるほかなさそうだ。主にその毛艶を堪能できないという点で、大いに残念だ。
「じゃあ、今のうちに」
 すすーと彼女にくっついて、首の毛に頬を埋めた。歩きながらバランスをとると、今度はさらさらとした肌触りが気持ちいい。
『こっ、こら、必要以上に寄るでない……ん、少し待て』
 先ほどと同じように、嬉しそうな声音をしていることは感じ取れた。
「またまた、恥ずかしがっちゃって――おっとっと」
 不意に、もふもふとした世界が失われてしまった。彼女が体を離したようだ。
『誰ぞ! 誰ぞ、そこに居るのか?』
 力強い声だった。突然に、お腹の底から響くそれに驚いて、私は耳を伏せた。
 彼女は歩いてきた道を振り返り、鋭く警戒していた。主人も〝何事だ〟と目を丸くしていた。
『気のせいか』
「どうしたの?」
 私の言葉に、彼女は首を横に振る。
『勘違いだったようだ。もうすぐだ、目的地は近い』
 私はもう一度、もと来た道を振り返ってみたけれど、特に違和感は感じられなかった。

 §

『さあ、着いたぞ』
 そこは、ポケモンたちが住まう、小さな集落と言える場所だった。
 森の中の開けた場所に、いろいろな寝床が見える。大きな木の洞に枯れ草を敷いているものや、木々の間に蔓を張って寝そべられるようにしているもの、こんもりとした茂みの中から顔を出すクチートも見えた。
『キュウコン様だ』
『おお、キュウコン様』
『おい待て、あれニンゲンじゃ』
 こちらに出てきて様子を窺うのは、ポニータやヘルガー、ワカシャモ――見える限りでは、みんな炎を操ることができるポケモンだ。
『皆、今帰ったぞ。私の友人だ、仲良くしてくれ』
 おそらく私が紹介されたのだろうと思ったから、少しだけ頭を下げた。
『……キュウコン様、さすがにニンゲンは』
 声の低さからして、ワカシャモはきっと牡性(だんせい)だ。怪訝な表情を浮かばせながら、主人のほうをちらちらと見ている。
『何、心配は要らぬ。少なくとも、私たちに危害が及ぶことはない』
『本当に……?』
『本当だ。どうした、この私を信じられぬのか』
『いえ、そういうわけでは』
 ワカシャモは少しだけうつむいて、おずおずと引き下がった。
『すまぬ、皆、慣れぬことには敏感なのだ。だが、根は優しい彼らを嫌わないでやってくれ』
「とんでもない。お邪魔をしてるのは私たちだから」
 ワカシャモの視線が鋭かったことだけはよく覚えている。
『さて、本題だ。皆を集めてくれ』
 その一言で、先ほどのワカシャモが周りに呼びかけて回った。
 静寂が支配していた広場に、ポケモンたちが集まった。
『グレイシア、名をサラと呼ぶ。皆の中から、婿を探しているらしい』
「ちょっ」
 彼女の口から出てきた誇張表現を、もう少しで聞き流してしまうところだった。
『我こそはと思うものは居らぬか?』
「きゅ、キュウコンってば」
『何、間違ってはいないだろう』
 確かに間違ってはいないかもしれない――って認めてはいけない。そういうつもりでここに来たのではない。
「そ、そういうのじゃなくて。牝の子でも大丈夫だからね」
 集まったみんなに向いて、私は笑顔を作ってみせる。引きつっていないだろうか。
『ほほう。そっちの気もあるのか』
 こちらを向いて悪意ある笑みを浮かべる彼女は、やはりいたずら好きな妖精だ。否定すればするほど、私の立場が不利になってしまう。主に貞操観念の印象操作という意味で。
 そんなふしだらな牝に成り下がった覚えはないが、敢えて何も言わないことが良いのだろうか。でも誤解されると気まずいし、撤回しなきゃいけないし。でも必死になったところで私に利益はない、むしろ不利だ。ああもう。
「……あんまり私を困らせないで」
『ふふ』
 直後、彼女は私の耳元で、小さく囁いた。
『そなたらは誘拐しに来ているのだ……ありのまま話せば、反感は免れぬ。この程度は、我慢してくれぬか』
 息が詰まった。集まってきたみんなに視線が移る。
 真っ先にこちらを警戒したワカシャモ、顔を突き合わせて様子をうかがっているポニータとヘルガー。他にもワンリキーやヘラクレスといった面々。
 万が一、彼らから袋叩きにされれば、私たちは無事では帰られないだろう。それを見越しての、キュウコンの口八丁ぶりが発揮されたのだと思い直した。
 私を見つめて尻尾を振っているウインディが、隣に居た嫁さんらしきウインディに睨まれていた。
『居らぬのか?』
 彼女の念押しにも、みんなは黙ったままだった。
『すまぬ……私にはもう打つ手は残っておらぬ』
 彼女に謝らせてしまった私が、なんだか悪者に感じてきて、とっさに声をかけていた。
「いやいや、いきなりお邪魔してきたよそ者にこんな話をされても、私だって困っちゃうよ」
 私こそ押しかけてごめん、と付け加えておいた。
 彼女の口元は緩んだけれど、目尻は下がったままだった。
「主人、ダメみたい」
 私たちの背後で見守っていた主人に振り返って、歩みを進めているとき、突如として声が響く。
『待て』
 キュウコンのものだった。心臓を掴まれるような威嚇に、私の脚が止まる。
『どこに居る』
 四肢を曲げて臨戦態勢を取り、あたりを見回しているようだ。狙いが私ではなくて安心した。
 集まっていたみんなも、次第にざわつき始める。
『なんだなんだ』
『なんか連れてきたんじゃ……?』
『おい、キュウコン様に向かってそんな失礼な』
『いやまあ間違ってないと思うけど……』
 おとなしかった風が突然吹き抜けて、草木が揺れた。
『ほぅ……なるほど。私と速さ比べでもするつもりか』
 私もやっと、彼女が捉えているだろう違和感に気付き始めた。たくさんの方向から、刺すような視線を感じる。
『小難しいことをせずとも、私の前に出てきて物申せばよかろう』
 右側の茂みが音を立てた。
 でも、彼女は見向きもしない。
 湧き上がった恐怖が、口をついて出てきた。
「ね、ねぇキュウコン」
『安心しろ、客人は無事に返すのがここの流儀なのでな……』
 ゆっくりと顔を動かして、見えない相手を探しているようだ。何かに気づいたのか、彼女は口を開く。
『そこだっ』
 揺れた茂みとは真逆の場所にある一つが、音を立てて抉れた。どよめきが広がる。
『嘘!?』
 白い体躯が慌てて駆け出したことを、私は見逃さなかった。
『何……効いていない?』
「任せて」
 長距離の偏差は何度も練習してきた。動き始めた方向と目標の距離に目星をつけて、だいたいの範囲を絞り込む。威力は小さくても、充分に冷たければ足止めくらいはできるだろう。冷気を込めて、一息に、撃つ。
 みんなの驚いた声とともに霜が降りた。私が放った先の木々が、一部だけ凍っている。
「外しちゃったかな」
『いや見事、大当たりぞ』
「おいなんだ、何やってんだサラ」
「何か居たのよ、キュウコンの助太刀してなにか悪いことでもある?」
 主人の苦言を一蹴しながら、私は歩き出したキュウコンについて行った。
『くそっ……氷タイプが居るなんて……』
 それは真っ白い体毛に覆われ、黒い肌を持っていた。特徴的なのは額についている鎌だろうか。こいつはおそらく。
「アブソル……?」
『珍しい客人だのう』
 燃やしては危険、だがこのようなこともあるのか、と、彼女は少し腑に落ちない様子だった。
 背後から、種族名が口々に行き渡っていく会話が聞こえる。私が口に出したのは失敗だったかもしれない。その別名を知っていればなおのこと、〝災いポケモン〟だもの。
『目的を聞こう。後をつけておったろう?』
『なんでそこまで』
『私の目にかかればたやすいものよ』
 少し声が高いけれど、彼はおそらく(おとこ)の子だ。私が放った攻撃は足元を掠めていたようだ、後脚の一部が枝葉とくっついている。
 前肢だけで体を動かそうとすれば、背の低い枝に邪魔をされる。もう動けないことを悟っているようだ。
『……嫌な予感がした』
「嫌な予感?」
 小さくつぶやいた彼の言葉がいまいち理解できなかったから、私はオウム返しのように繰り返した。
「どういうこと……?」
『べつに』
 これ以上話す気はないのか、彼はそっぽを向いてしまった。
『……ふむ、まずは詫びよう。手荒な真似をしてすまなかった』
 キュウコンの言葉にも、彼は顔をそむけたままだ。
『嫌な予感というものは……まあ、私にも心当たりがある。だが、皆を不安にさせることはできぬ。すまぬが、そなたはここには居られぬ』
 彼は鼻を鳴らすだけだった。
 ここにたどり着くということは、この前住んでいた場所があるはず。私だって主人と一緒に住んでいる。思ったことを訊ねてみた。
「どこから来たの?」
『おおそうじゃ。そなた、ナワバリはあるかの?』
 しかし、彼の表情が明らかに曇った。
『べつに……』
 彼の表情を見たキュウコンが、小さく笑った。
『はっは、そういうことか。宛てもなくふらふら歩いておったところに、興味深い我らを見つけ、その後を追ったと』
 彼の口元が歪んだ。しばらくの沈黙が続く。
『否定するなら今のうちぞ』
 キュウコンの催促に、彼は答えた。
『もうそれでいいよ……帰るところがないのは間違ってないから』
 予想が当たってほしくなかったのだろうか、キュウコンは小さくため息をついた。
『そなたのような者は久方ぶりよ……ジャミール、ジャミールは居るか?』
 キュウコンがみんなのほうに向かって呼びかけた。すると、一匹のレパルダスが、みんなを押しのけて出てきた。
『居るよ』
『この者が根無し草だそうな。そなたならどうする?』
 ジャミールと呼ばれたレパルダスは、少し間をおいて、口を開く。
『俺なら……様子を見る、かな』
 キュウコンの顔色を窺っているようにも見えた。
『いや、キュウコン様、それはさすがに』
『ジャミールの境遇を知っての言葉か』
 先ほどのワカシャモの声が飛んできたけれど、キュウコンに諌められた。
『知ってますが、それでも』
『そなた、よく考えるのだ。チョロネコのまま人間に捨てられ、衰弱したジャミールを放っておくなど、私にはできなかった。この者も例外ではないであろう』
 輪の中に入るには、いろいろな事情が挟まることが多いのだろう。当の本人、ジャミールは顔をうつむかせて気まずい様子に見えた。
『もういいよ、出ていくから』
『なっ』
 アブソルの一言に、キュウコンは振り向いて、目を見開いた。こんな表情もできるんだ。
『な……な、何を言う。そなた、帰る場所は無いのであろう』
『今までもふらふらしてきたし、これからもふらふらするよ』
『いや、待て、待つのだ。そなたに倒れられたら私は』
『ここには居られないって聞いた』
『それはそなたの二つ名が』
 彼女の言葉が不自然に途切れた。見ると、右前肢で口を覆っていた。
 彼の紅い眼が、キュウコンを見据える。
『……災いポケモン』
 彼女のたくさんの尻尾が、力なく垂れ下がる。
『嫌な響きだよね』
 もう一度、その言葉が口々に行き渡っていく会話が聞こえた。
 〝災い?〟、〝ここに居たらろくなことにならないんじゃ〟、〝また地面が揺れるの?〟。
『みな……皆、落ち着いてくれ。この者は、災いを呼ぶ能力など、持っていない』
 彼女の声が震えていた。
『じゃあどうして災いポケモンなの?』
 先ほども聞こえた明るい声が、彼女の表情を曇らせる。
『それは……』
 私は知っている。アブソルは〝災いを感知し、周りに知らせるべく、たまに山を降りてくるポケモン〟だ。
 しかし、このことを鵜呑みにするのなら、今度は『どうしてここに来たのか』が問題になる。災いの前兆と受け取られかねない。
 なにか引っかかるものを感じた彼が、キュウコンを追いかけた。当のキュウコンが言葉を詰まらせるということは、彼女にも、なにか引っかかるものがあるのかもしれない。
「ねえ主人」
「どうした」
「アブソルはどう?」
 私は主人に振り向いて、答えを求めた。
「良いんじゃないか。お前と違って物理が得意だろう」
「じゃあ決定ね」
 もう一度、私は彼に向き直る。
 彼は物珍しそうな目で私を見ていた。
『今のって……ニンゲンの、言葉』
「そうよ。珍しい?」
『……べつに』
「またまた」
 興味が無さそうなふりをしてそっぽを向く彼が、可愛く思えてきた。
『……そなた』
「この子は私が預かる。それで良い、キュウコン?」
 彼女の目は潤んでいた。
『ああ……よろしく頼むぞ』
 すまぬ、と声をかけられた。私は微笑みで返して、彼の体の下に背中を潜り込ませる。
『えっ、ちょっ、なっ、何』
「動けんのならじっとしとき」
 四肢に力を入れて、私は立ち上がる。こいつ……意外と重い。そしてでかい。後脚のみならず前肢まで地面について、結果的に彼を引きずる形になってしまう。
 首の豊かな飾り毛が視界を阻んできたから、私は頭を振った。
『は、恥ずかしいって』
「自分で歩く?」
『そ、それは……もぅ』
 後脚にダメージがあるのだ。そもそも私が与えたものだ、これくらいは我慢しなければならないだろう。氷漬けにならないようには調整したから、時間が経てば回復するはずだ。たぶん。
 みんなのほうに振り向いて、私は声を張った。
「お騒がせしました」
 腑に落ちない顔、にこやかな顔、残念がる顔……いろいろ見えたけれど、ひとまずは落ち着いたと見ていいだろうか。キュウコンがこのあと質問責めにされそうだけれど。
「ほら、騒がせたあんたも何か言いなさいよ」
 私は背中を揺らして促した。
『あっ、え、えっと……ご、ごめんなさい』
 ――〝声が小さい〟、という科白は飲み込んだ。
『私が、帰り道を案内しよう』
 しょぼくれた声のキュウコンが、案内役を買って出た。

 §

 帰り道の空気は重かった。
 キュウコンを先頭に、アブソルを載せた私が続き、主人が後ろをついてくる。
「ねえあんた、どこから来たん?」
『どこからともなくふらふらと』
「ふぅん」
 話題を見つけようとしたけれど、なかなか会話は弾まなかった。
「私はサラ。あんたは?」
『どうでもいいでしょ』
「そう」
 生きることに執着がないのか、それとも野生の生活がこういうものなのか。私にはわからなかった。
「あんまり素っ気ないと、苦労するわよ」
 載せている彼の首が動いたことがわかった。
『どういう意味だよ』
「うちの主人とうまくやってけない。面と向かって自分の気持ちを出さなきゃ、あの鈍くさいのに伝わらないから」
「おいサラ、言うに事欠いて人のことを鈍くさいとは何事だ」
 鈍くさいのが割って入ってきた。
「本当のことでしょ。私がどれだけ苦労して言葉を覚えたと思ってんの」
 私の気持ちも考えないで何を言う、そう思うことも度々あった。しかし主人は、主人なりに考えた上で、最善な手段をぽんと出す人だ。そこには私の存在こそあれど、気持ちなんて入る余裕がない。
 冷酷な人だと思ったこともある。だが、一歩引いて見てみれば、なるほど理に適っている、そんな考えを持つ人なのだ。こちらの気持ちに応えてもらうには、全身全霊で表現しなければ伝わらない。
 初めて口に出した『ありがとう』。私が人間の言葉を操りたいと心に決めた当時から、六年が経っていた。
「俺の言う事聞いてりゃ、なんとかなるようにしてやるってずっと言ってきただろ」
「それが嫌だったの」
「……本当に注文の多いやつだな」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
 〝面倒くさい〟だの〝聞き捨てならん〟だの、いろいろ言われた。そのたびに言い返してやった。
 キュウコンに『ポケモンらしからぬポケモン』と言われたことも、無理はないのかもしれない。
「ま、どんなワガママでも聞いてくれる主人には頭が上がらないけどね。あんたも困らせていいのよ。主人に無理なら私に言えばいい」
 背中に乗っている彼に、声をかけた。
『なんで僕が一緒に居る前提なんだよ』
 当の彼は反発しているが。
「あら、お気に召さない?」
『世話になるとは言ってないし、これっぽっちも思ってない』
「そう、残念ね」
 キュウコンが立ち止まり、こちらに振り向いていることがわかった。
 急かされているような気がした。
 背中に載せている彼を背負い直して、少しだけ早足になる。
 ちょっと重いな。
「私はあんたに怪我をさせた。だから私が面倒見る」
『そんなのお断りだ』
「じゃ、勝手に私から降りてどっか行っちゃえば?」
『……怪我させといて』
 彼の声音が不機嫌なものに変わった。
「だから面倒見るって言ってるじゃない。いい?」
 キュウコンの場所まで追いついて、歩みを進める。森がだんだんと開けてきて、日差しが届き始めた。
「怪我のことは謝る。私も責任取る。怪我が治るまでは一緒に居なさい。でも、その後どうするかは、あんたが決めていい」
 彼からの返事はない。
「私は、まあ……気づいたときから主人と一緒だけど、無理してあんなのと一緒に居る必要ないでしょ。あんたは一匹でも生きていけるんだから」
『じゃあどうして。僕なんて』
 彼の声が小さくなっていく。
『僕なんて……』
「あんただからよ」
 彼の喉が動いたことがわかった。
「あんたに力を貸してほしい」
 返事はない。私は言葉を続ける。
「あんたは主人の前に偶然現れた。主人はあんたを気に入った。それだけ」
 草をわける三つのあしおとが、静かな風と同化して、揺れた。
『……それだけで、信じられるかよ』
 絞り出すような声だった。歯を食いしばっているのかもしれない。
「ま、ちょっとくらいは私の背中に乗ってなさいよ」
 私の言葉に、彼は何も返してこなかった。しばしの沈黙が漂った。
『やはり、そなた……不思議な奴よのう……』
 隣を歩いていたキュウコンが私を見て、ため息をついた。目尻は優しく見えた。
「お褒めに預かりどうも」
『褒めてないぞ』
 森に入っていく道中と同じやり取りに思えて、私の頬も綻んだ。
『石畳を抜ければ、森の外に出られる。ここでお別れじゃ』
「ありがとう、キュウコン」
『私も礼を言わねば。助かったぞ、グレイシアのサラよ』
 私の名前を口に出されて、体の中がじんわりと温かくなるような気がした。
『名もなきアブソルよ、友は大切にな』
『とっ……友達なんかじゃ』
「そういうときは嘘でもいいから〝はい〟って言っときゃいいのよ」
 彼の表情は窺えないけれど、口を歪めている様子が想像できた。キュウコンは小さく笑っていた。
「それにしても」
 私は言葉を切って、もう一度背中を揺らす。
「あんた、重いわね」
『なんだよ、背中に乗ってろって言ったくせに』
「軽いと言えば嘘になるだけ」
『……嘘ついたりつかなかったり、なんなんだよ』
「本音と建前って聞いたことない?」
『なんだよそれ』
「そのうちわかるわ」
 素直な彼をからかうことも楽しみだ。いや、あまり怒られないような話題を振らなければならないだろうけれど。

 §

 森を抜けた先、まず問題になったのは階段だった。彼を載せたまま下りようとすると、ずり落ちてしまう。
「後脚はどう? 動かせる?」
『まあ、感覚は戻ってきた』
「それは良い」
 私はおなかを石畳につけて、這い出る。やっと解放される。
 彼の四肢はちゃんと地面についているようだ。やはり後脚が気になるのか、曲げたり伸ばしたりしている。
『あの……』
「なに?」
 言いづらそうな彼の表情を、私は二度と忘れないだろう。
『も……もうちょっと、乗ってたかった』
「そんなに気に入ってくれたの」
『そっ、そうじゃなくて』
 意外と可愛げがある。むすっとしているよりは段違いにマシだ。
「階段、無理だから。ちょっとだけ自分で歩いて。お願い」
 私はその途中に像が見える、石造りの階段に目配せをした。
 見下ろしても、誰も居ないな。
『かいだん……?』
「そうよ。段差がいくつもあるでしょ」
『へぇ』
 人間が作ったものに触れる機会が少ないのかもしれない。彼は珍しそうな目を向けていた。直後、また後脚を気にし始めるのは、本調子までもう少しといったところだろうか。
「やれやれ、遅くなった。サラ、それにフウト、待たせてすまん」
 振り返ると、手提げ袋を持った主人が足早に戻ってきていた。聞き慣れない単語が一つあった。
「フウト……?」
「名前くらい付けなきゃな」
 主人は私の隣を見ていた。
「ほーん」
 困っているような表情を浮かべるアブソルに、私も顔を向けた。
「フウト、よろしくね」
『え』
 私と主人を交互に見て、彼は――フウトは、少しだけ身を引く。
『えっ、ちょ、な、なんで』
「ま、いきなり名前なんてもらったら戸惑うわよね。わかるわーその気持ち」
 主人からわけのわからない単語を連呼されて幾日、やっと私が呼ばれていることを認識した瞬間を思い出して、私は目をつむった。
「で、何やってたん?」
 主人に振り返って、手提げ袋を見る。そんなに大きなものは入っていないみたいだ。
「まんじゅう買ってた」
「やったわ」
 思わず顔がにやけてしまった。
「あと血行の流れを良くして、冷えや痺れを一時的に改善……だけど、これは要らないか」
 フウトのほうを見やって、主人はスプレー型の傷薬を鞄にしまい込んだ。
 主人にまで心配させてしまっていたようだ。彼を仕留めると言っても、少しやりすぎてしまったかもしれない。耳を畳んだ。
「あー……私のせいよね」
「仕方ないだろ、怪我する前提で傷薬があるんだから」
「いやそれはちょっと違う気がする」
 主人のトンデモ理論をあしらって、私は彼に向かって一言謝った。
「フウト、ごめんね」
 対する彼は、黒い肌の上からでもわかるくらいに紅潮して、少しうつむいていた。
「……どうしたのよ」
 私のかけた言葉に、彼は跳ねるようにこちらを向く。
『あっ、い、いやっ、べ、べつに』
 しどろもどろになるほど動揺することでもあったのだろうか。慣れないことだらけで、彼には少し難しいのかもしれない。
 だが、先ほどまでの反発心があまり感じられなくなっていることは、私は嬉しかった。
 階段を降りた直後、日の光の眩しさが気になり始めた。

「帰れそうだ」
「は?」
 スマホとにらめっこしていた主人の一言に、私は疑問を投げつけた。
「え、まさか、今日、帰れん可能性もあったってこと?」
「ああ。往復七時間を昼から押し付けられちゃ、俺としても堪ったもんじゃないのよな」
 バスを待つ時間に、これほど脱力した瞬間はない。巻き込まれるこちらの気持ちも考えてほしい。
「……お人好し」
「ありがとう」
「褒めてないわっ」
「あんまり大きい声出すなって。泊まれるところも確保できるっちゃできるんだから」
「そういう問題じゃないでしょうが」
 主人も主人で、なかなかどうして他人を優先するところがある。大きなため息が漏れた。
『ねえ、あのさ』
 地面に四肢をつけていたフウトが、私に耳打ちしてきた。
「どしたん」
『ばすってなに?』
 私はこの先、彼に向かって人間の世界を翻訳することになるのだろうな、と思うと、疲れも相まってやる気が出なくなりそうだ。
「人がいっぱい乗ってる」
 素っ気ないけれど、これで我慢してもらおう。
『へえ。いろんなヒトに会えるのかな』
 しかし彼は、私の不親切な説明にも興味を示してくれた。
「フウトは、人がいっぱい居るの、嫌いじゃない?」
 野生暮らしだった彼のことだ、いきなり人間の世界に溶け込むことは少々難があるに違いない。私には経験がないから、想像するしかないけれど。
『嫌いじゃない、けど……』
 ところが彼は、私の疑念を否定した。真向かいに見える、もう一つの待合席に視線を向けた。つられて私も目を移す。
『ひそひそされるのは、好きじゃない』
 こちらを見ている三人の人間が見えた。二匹のポケモンも連れている。
「うん、たしかに」
 私と目が合った直後、彼らは明後日のほうに向いた。
「悪いことしてなきゃ、堂々としてれば良いのよ」
 隣に座る彼の表情を窺う。細められた紅い眼差しは、ずっと遠いところを見ているような気にさせられた。
「ま、それができてたんだから今日までやってこれたんでしょうけど」
 私もそれだけ口に出して、コンクリートの地面を眺める。
 日陰のこいつは冷たくて気持ちが良い。
『……ねえ』
 彼がもう一度、私に問いかけてきた。
『災いポケモン、って……どう思う?』
 すごく言いにくそうな声音だった。
「嫌な名前よね」
 彼も言った言葉を繰り返すようだけれど、私だってこう思う。
『……え、それだけ?』
「ええ」
『他には?』
「無いわよ。ただ、名付けた奴にもうちょっとマシなネーミングセンスはなかったのかしらね。例えば……」
 人災、天災を問わず、災いを事前に察知する能力。これをあえて言葉にするなら。
「そう、予兆ポケモン、とか」
 私の提案に、彼はこちらを向いて口を半開きにしていた。
「なによその顔」
『ぁえ? あ、いゃ』
「第六感がとりわけ鋭くて、特に大規模な危険があるときに心がざわつくんでしょ。エスパータイプにも引けを取らないって、そんなことを聞いたことあるわ」
 何度もまばたきをする彼が可愛らしかった。
「フウトはどう?」
 少しだけ考える様子を見せて、彼は口を開く。
『……よく、わからなくて』
「そう」
 私も、主人から〝自分の体くらい自分で見てみろよ〟と言われたことを思い出した。
 自分の中に秘められている能力を見つけ出すには、周りが気付かせてあげることも、時には必要なのかもしれない。
 自分が知らない自分。だから主人は、なるべく客観的な立ち位置を心がけていると。
 私にはあまりわからないが。
「ふふっ……まあだからといって、あのお人好しのおかげだとも思わんけど」
 笑いと同時に気持ちがこぼれてしまった。
「珍しいな、独り言か、サラ?」
「べつにー」
 思わず尻尾を揺らしていることに、私自身でも気付かなかった。

 §

 車内では静かにすること、という主人の言葉を、フウトはちゃんと守っていた。窓際から見える外の景色は、フウトにとって新鮮だったようだ。体が動かないまま次から次へと姿を変える様子に、彼は目を輝かせていた。
 電車内でまた嫌な奴に絡まれないか私も心配していたが、フウトと私を交互に見るだけで、そいつらが近寄って来ることはなかった。

 おうちに帰る道中は、そろそろ陽が傾いて影が伸びる頃だった。
「ねえ、主人」
 私は気になっていることを訊ねてみようと思った。
「ん? まんじゅうは帰ってからな」
「わかってる」
 小言が多い主人と話していると、ときどき目的を忘れそうになる。
「あのさ、どうしてフウトって牡の子っぽい名前にしたん?」
 主人は立ち止まって、私を見下ろした。
「ありゃ、メスだった?」
「いや牡の子だけど」
「焦らすなよ……まあお前と良い雰囲気を見せつけられちゃ、あぁこいつは、と思っただけさ」
 〝良い雰囲気〟を〝見せつける〟。この言葉たちが、何度も頭の中で反響した。フウトの声が次々と湧き出てきて、自然と脚が止まってしまう。
 力にはあまり自信がない私が、どうしてけっこう重い彼を運びきることができたのだろうか。そして、彼とのやり取りはキュウコンから『友達』とまで言われてしまった。あまりよろしくない出会い方をした直後にこの評価は、少し大げさだ。しかも彼は『もう少し乗っていたかった』と……いや、これ以上は考えないようにしよう。私がずっと乗られていたとか、そういうのは思考の外に追い出すべきだ。
「どうしたよ」
 主人とその隣に歩いていたフウトが私に振り向いたけれど、恥ずかしさで目を合わせられなくなった。
「……なんでもない」
「そうか」
 仲良しが過ぎる。彼が赤面した理由が、今ならわかる気がする。私は軽率な行動を後悔した。
「ね、ねぇフウト」
『なに?』
 一方の彼は、そんなことはもう気にも留めていないような声音だった。これ以上確かめることはしないでおこう。
「……や、まあ、ついてきてくれるんだな、って思って」
『楽しそうだから』
「そう……」
 私は彼らから少し離れることに決めた。
 彼との出会い、そして一連のやり取り。彼を仕留めるなんて考えていた私がとても恥ずかしい。〝責任を取る〟とまで言ってしまった。穴を掘って隠れてしまいたい。
 いろいろな思考が邪魔をして、私は目の前に迫る電柱を察知できなかった。
「ごっ」
 けっこうな頭突きをかましてしまった。めちゃくちゃ痛かったけれど、少しだけ目が覚めた。右前肢で頭を押さえる。
「大丈夫か?」
「……だいじょぶ」
 ふたりは物珍しそうな眼差しを向けてきた。全然大丈夫じゃないから、あんまり見ないで。

 §

 おうちにたどり着いて、私はまっさきに風呂を占領した。
 濡れタオルで前肢後脚を拭けば良いとは言われているけれど、少し頭を冷やす必要があると思った。大きめの洗面器に水を少し入れ、主人が使っているヘアリンスを流し込む。蛇口は押さえると水が出てくるように主人が改良してくれた。
 前肢でぱしゃぱしゃとかき混ぜると、小さな泡が立つ。脚を滑らせないように気をつけながら、その中に潜り込む。
 まさか主人の気まぐれでこんなことになるとは思いもしなかった。キュウコンに出会うたびに、誰かとのつながりが深まっているようにも感じる。
 そう――キュウコンに出会うたび。
 彼女の名前を思い浮かべることに何の抵抗もなかった私自身が、奇妙に思えた。洗面器の縁に顎を乗せ、今日のできごとを思い出す。
 初めて出会ったはずの彼女に、懐かしささえ感じた。彼女の意志に触れ、私の感情も少なからず動いた。
 何より、タイミングが良すぎる。まるで私たちが、あの場所に来ることを知っていたかのような立ち振る舞い。フウトもフウトだ、どうしてあの場所に来たのだろうか。
 なにかがおかしい。
 全て仕組まれていたこと……これがいわゆる、『狐につままれた』のだろうか。だが、夢ではないことは確かだ。彼女の声も匂いも思い出せる。フウトが一緒に居ることも事実だ。
 違和感の正体がわからない。
 ――お風呂から上がったら、誰も居なかったりして。
 そんなことはないよな、と思いながら、私は洗面器から体を出した。洗剤と一緒に毛が浮いていた。
 傾けて一度流したあと、流水で滑りを落とす。頭から水をかぶった。
 体についたリンスを洗い、勢いよく振って水気を飛ばす。引き戸の取っ手を咥えてスライドさせた。
 考え過ぎだ、きっと。

 リビングに顔を出してさっそく驚いたのは、フウトがけっこう馴染んでいることだった。
「お、早めのお風呂どうだった?」
 主人の問いかけに、フウトもこちらに振り向く。私がよく使っているソファの上から。
「いつもどおり。それよりフウト」
『ん?』
 なにか問題でもあるのか、と言いそうな顔が印象深い。
「あんた……人間と一緒に暮らしたことある?」
『いや、ないけど』
「ないんか」
 それにしては態度が落ち着いているというか、自分がどう振る舞えば良いのかわかっているというか。堂々とした雰囲気を感じさせる。
『この、まんじゅう? っていうの、美味しいね。ニンゲンって面白いもの食べてるんだね』
 ――〝馴染みすぎでしょ〟。喉元まで出かかったが、なんとか飲み込んだ。
 彼は屈託のない満面の笑みを向けてきた。
「……あんたは野生っていうより、どっちかというと野良ね」
 私の表情はきっと呆れている笑顔に違いない。
『えっと……どう違うの?』
「人間の手を全く借りないのが野生で、ときどきご飯もらったりできるのが野良。でしょ、主人?」
 主人から教えてもらった定義を、もう一度私の頭の中で整理し直した。
「よく覚えてたな。で、サラは完璧な箱入りムスメ」
 奴の一言にブチッときた。
「それもう絶対言うなって言わんかったっけ」
 フィールドワークに同行して、外の世界を何度も見てきた。〝野生の世界は甘くない〟、いろんな子に出会うたび、そんな言葉をかけられ続けてきた。
「あっ」
『えっ』
 でも言われっぱなしは悔しい。野生(サバイバル)の経験がないのなら、私は人間の知恵を借りる。主人と一緒ならなんでも手に入る。精神の強さによる影響、属性(タイプ)による相性、生き物本来の弱点。心技体、それぞれが互いに影響し合って、現象を成す。私を温室育ちのもやしっ子だと侮った奴には鉄槌を下す。
「サラ、ストップ、ストップ!」
「たとえ主人でも許さんでよ」
 西日が差し込むリビングが、氷点下まで冷え切った。

『いやさすがにやりすぎでしょ』
「私は涼しくていいけど」
『僕はちょっと……』
 彼は苦笑いをしながら、少し凍りかけた首の飾り毛を触っている。しゃりしゃりと音が聞こえた。
 お風呂上がりの私の毛も凍った。乾かす時間が減ったから、これはこれで良しとしよう。
「あのなあサラ、室内ごと瞬間冷凍されたら霜が降りるんだよ。電子機器の寿命が」
「私を怒らせてももう遅い」
「……はい」
 主人も何かと小言が多い。その一言で相手がどう思うかなんて、だいたい考えてない。
 その瞬間を数えるとキリがないけれど。主人を直接狙うことはせず、その空間に怒りをぶちまけてやるのだ。
 主人は西側と南側の窓を全て開け放った。
『……これ、毎日やってるの?』
「あいさつ程度よ」
『おそろしい……』
「フウト、よく見ただろうけど、こいつ怒らせないほうが身のためだぞ」
 主人の言葉に、フウトは何度もうなずいていた。
「面白半分で言うから余計にタチ悪いわ」
 私の頬は膨らんでいた。
「……ああそうだ、フウト、帰ったらまずお前さんを風呂に入れようと思ってたんだ。ほらこっち」
 主人が手招きをして、彼を浴室に連れ込んでいった。
「……はぁ」
 ため息が一つ漏れた。だんだんと後悔の念に取り囲まれる。
 心地良いはずの床が、やけに冷たく感じた。
 昔からこうだ。『なんにもできやしないんだから俺に任せろ』と。今の私を見て同じことが言えるなら大したものだが。
 だとすれば、私はどうしてほしいのだろうか。『よくできたな』と褒めてもらいたいのだろうか。
「いや、柄じゃない」
 乾いた笑い声と一緒に、気持ちがまたこぼれてしまった。
 ――〝謝らないと〟。
 でも、謝ったところで、主人は〝俺も悪かった、俺のせいだ〟と言ってくるのだ。そして私が〝わかっているなら言わなければいいのに〟と返すまでがお約束。
 いつも通りといえばそうなのだけれど、今日ばかりは罪悪感のほうが大きい。フウトに見られたからだろうか。
 開放された窓から新しい空気が入り込んで、室内の温度が均されていく。
 まんじゅうの大きな入れ物から小袋がいくつか出ているのが見えた。さっきの巻き沿えになって、冷たくて美味しいだろうことは容易に想像がつくけれど、食べる気にはなれなかった。
 ふと、差し込んでくる陽の光に目が移る。私は再びの違和感を覚えた。
 お昼ごはんを終えるのは、いつもどおり正午を回る。往復七時間の道のりに、フウトと起こしたあれだけの騒ぎ。時間にすれば太陽は見えなくなって、暗くなり始めていてもおかしくないはずだ。
 主人も、泊まるところを見つけようか迷っていたと口に出していた。
 違和感の正体が掴めてきた気がした。

 §

 浴室からふたりが出てくるまでが、すごく長く感じた。時間は追いかけるとすぐ過ぎ去ってしまうけれど、待つとなるととても遅い。
 扉が開く音がする。主人とフウトが、室温の戻ったリビングにやってきた。
「ねえ主人」
 私はさっそく問いかける。
「はいよ」
「今日の段取り教えて」
「なんだ急に」
「いいから」
「フウトの毛を乾かしながらでいいか?」
 構わないからとにかく時間の目星を教えてくれ、と私は詰め寄った。主人は面倒臭そうな顔をしながら、スマホを取り出す。
「一二時一九分発。乗り継いで現地到着が一五時四五分だ」
 だいたい三時間半。間違ってはいない。
「今何時よ」
「そろそろ一九時」
 明らかにおかしい。十二に七を足すと十九になることくらい、この私でもわかる。
「なるほどね」
 片道の時間を考えれば、私たちは少なくとも一五時三〇分より前の、帰りのバスに乗ったことになる。私もフウトもお風呂に入れる時間はもう経っている。となると、一五時になる前あたりが妥当だろう。
 もし一五時四五分をまたいでしまった時、もうひとりの私たちに出会えたのだろうか。もしかして、すれ違ったバスに乗っていたのだろうか。
 あまり深くは考えないでおこう。どっちが本物か、なんて答えの出ない問題を考えても無駄だ。
 だが……いつ、どの瞬間に時間を飛び越えたのか、周りに居る人は気付いたのか。それは気になるところだ。
 違和感が突き止められたことにして、私はソファに飛び乗った。
「なんだ、どうしたサラ」
「なんでもない」
「急に切り出しておいてそれはないだろ……不自然だぞお前」
 ソファの上から首を出して、主人に向く。
 フウトをバスタオルでわしゃわしゃしていた。あれ気持ちが良いのよね。
「帰りのバス、いつ乗ったのよ」
 主人の手が、だんだんと遅くなっていく。
「帰りは……」
 主人の手が完全に止まった。今度は表情が固くなっていく。もう一度スマホを取り出した。
「……サラ。お前……いつ、気付いた?」
「お風呂入ってる途中からヘンだなと思ってた」
「お前……冷静だな」
 逆に主人が『帰れそうだ』と判断したときの時刻を聞きたいのだが、これ以上踏み込むことはやめにしよう。主人はそういったことの耐性があまり無い。今にも取り乱しそうに顔が青ざめている。
『どういうこと?』
 怪訝な顔をしたフウトが首を傾げていた。
「まあ、狐につままれたんでしょ」
『よけいにわかんない』
「わかろうとするだけ無駄なのよ、こういうのは」
 頭の上に疑問符が出てきそうな表情になった。
「……前にも、似たようなこと、あったな」
 主人の絞り出すような声に、記憶の縁が共鳴する。確かに、前にもこんなことがあったような気がする。
 何だったかな。
 よく思い出せない。
 でもこういうときは、ほとんどの場合、笑い飛ばせば問題はないのだ。
「考えても仕方がないでしょ? ほら主人、フウト乾かさなきゃ風邪引いちゃうでしょ」
「いや、でも」
「でもじゃない」
「……わかった」
 苦虫を噛み潰したような顔をしたまま、主人はもう一度バスタオルに手を伸ばす。
 キュウコン……いったい何者なんだ。そして、フウトがどこから来たかも気になるところだ。
 だが、彼の素性を知ろうとすると、彼は表情を曇らせる。もう少し時間を置かなければ、聞くことはできないだろう。
 彼も言った『嫌な予感』。何を指していたかは定かではないけれど、あながち間違いではなかったのかもしれない。
「おいフウト、じっとして……あー」
 主人が残念そうな声を出したから、私はもう一度彼らを見る。
 フウトが体を振ると、拭いていた主人に水しぶきが直撃した。もちろんリビングの床や壁にも。
 毛が長い彼も、少しずつ慣れてもらうしかない。
「ドライヤー使わんの?」
「サラだって嫌がったんだ、初日からおいそれと使えるようなもんじゃないだろ」
「そう」
 耳元で唸るあいつを初めてやられたときは驚いたが、それ以上に体がどんどんすっきりしていく感覚が心地良かったことを覚えている。私の体が小さかった頃の思い出が蘇った。
 もちろん今となっては、水分なんて凍らせて飛ばしてしまえばそれまでだが。
『何の話?』
 頭の毛を拭かれながら、じれったそうにフウトが聞いてきた。
「気持ちいい話」
『え……な、何それ』
 彼の声があからさまに動揺した。
「興味ある?」
『……無い、ことは、ない』
「だってさ、主人。ドライヤー使ってあげれば?」
「お前それ言いくるめって言うんだぞ」
 主人の流れるような返答に驚いた。
「フウトの言ってることわかったの?」
「気持ちいいことに反応しない生き物は居ないからな」
「何よそれ」
 主人とフウトが仲良くなれる日も、そう遠くないのかもしれない。染みにならないうちに壁を拭かなきゃ、と主人は焦っていた。
 太陽が隠れて、夕暮れの茜色が空を覆っていた。
 と、そのとき。
 ガチャリ、と、玄関が開く重い金属音が、私の耳に入ってきた。


あとがき 


 ただ単純にストレートにもふもふの恩恵と大変さを書きたかっただけなのにこの長さはどういうことだ。
 炎タイプってかなり長毛でふわふわしてる種が多いと感じるのは、私の偏見でしょうか。ウインディもキュウコンもいろいろと柔らかいと思うのです。いろいろと。

 絶対に間に合わないタイムテーブルを見直して、(なんで自分ここに居ることができるんや……)と思ったことありませんか? 私はあります。
 そういうときはおおよそ、キュウコン様のご加護を受けたか、ただ夢を見ていただけ、もしくは単純な時刻と日付の見間違え聞き間違えです。「モルダー、あなた憑かれてるのよ」。


いつものアレ
 登場する団体や施設は、実在のものとは関係ございません。また、作者は物理学や民俗学などとは程遠い存在です。
 もし物語に矛盾がみられた場合、それは作者の未熟さ、筆の拙さによるものです。


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Last-modified: 2020-06-24 (水) 23:01:08
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