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セカイの虚数

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セカイの虚数 - the world of PARADOX 


 お読みいただくにあたって:
  ちょっと怖いです。 苦手な方が夜中に読まれると、良くない影響を与える恐れがあります。
 ご注意ください。

Writer: 水鏡 @GraceonJ


 ある人に見えないものが、他の人に見えてしまうということは、往々にして存在するようだ。
 火の気のないところで温度が急上昇したり。僅かながら、その炎の存在を認識できたり。
 もしかしたら、ある場所から別のところへと物体が移動してしまうかもしれない。地震や噴火が意図的に起こせるとなれば、かなり問題だ。
 より強い、より多くの意識体が作用すれば、本来そこには居ないはずの者が顕現し、周囲に影響を与えることもあるという。
 まあ俺自身、そんな超常現象なんざ興味はない。理論もへったくれもない結果は世の中には存在しない。
 だがここ最近、どうやら、その摩訶不思議な物事と完全に無縁ではないらしい。
 量子力学、という見えない学問をご存知だろうか。有名どころなら、シュレディンガーの猫、と表現すると伝わると思う。が、一部の人にはよくない思い出として刻まれているかもしれない。もし掘り返してしまったなら、ここに謝罪したい。
 話を戻そう。俺はその学問を専攻している。
 そこで展開される理論の中には、不可思議な部分がいくつもある。むしろ不可思議なことだらけかもしれない。
 ややこしい説明は端折って、ざっくりしたもので言い表そう。
 一つ、量子の世界では、状態を確率でしか表せないこと。
 例えばここに、上り坂と下り坂を持つ小さな峠を模式的に作り、ボールを転がして様子を見るとする。
 もし上り坂を上がりきることができる力で転がされたら、ボールは文句なしに峠を越え、反対側へと下ることができるだろう。逆に力が足りなければ、峠を越える前にこちらへ帰ってくるというわけだ。
 だが、量子の世界は違う。どんなに力が足りなくても、峠を越える可能性があるのだ。越えるか、越えないか、その他、という三通り以上に重ね合った状態を前提とする。
 確率でしか表せないのなら、何が起こってもおかしくない。そんなもの理論もへったくれもあったものではない。理論として確立していることが不思議なくらいだ。
 さて、その重ね合わせの状態だが、未確定なら何でもありだ。本当に何でもありだ。峠を見てみると、転がるボールはどこか一箇所にしか居ないと思われるだろうが、上り坂にぽつんと一つ、下り坂にぽつんと一つ、半分に割れて、両方同時にあるように見える場合もある。もちろん、どこにも見当たらない、行方不明になる場合だってあるのだ。
 難しい用語で表すと、「観測する」ことによって、状態として確定する。どれになるかは、見てみなければわからない。そして、どんな結果になっても、事実として受け止めなければならない。
 神が定めた世界の模範解答を、神自身がサイコロを振って決めているようなものだ。
 眉唾ものだが、有名な学者たちが実証しているし、この世の中には人間の常識を超える能力を持つ生物も居る。だがどうやっても説明がつかない現象なのだ。理論的に考えておかしいから、今日も研究が進められている。
 これが通説であるとは認めたくない。いや、俺は絶対に認めない。人間は、見ようとするものを見る、とよく言われるが、幽霊や魔術なんてこの世ならざるものだ。たとえ意識が現実に作用するとしても、俺たちが証明してどうなるというのだ。そんなものは民俗学や考古学の得意分野のはずだ。

「――主人。主人ったら」

   ∵∴∵

 目が覚めると、そこには澄んだ空色の肢体が居た。
「起き。早く帰るよ」
 なんだか妙に熱く語りかけている俺を見た気がするが、誰に向けていたのかは思い出せない。きっと悪い夢だろう。
「ん……サラ」
「はい私。寝ぼけてないで支度して。もう鍵閉まっちゃうよ」
「そんな時間か? 泊まればいいじゃん」
「今日は日付が変わるまでしか申請してないでしょ!」
「わかったから大きい声はやめてくれ」
 彼女、名前はサラ。
 余分な一言が多い奴だが、こいつは俺に、超常現象という名の一端を見せつけた一匹だ。触れただけで果実を凍らせる……何かの手品かと思った。
「警備員さんに迷惑かけらんないでしょ? ほら早く」
 長い耳が目を引く一方、シアンブルーの垂れる房も特徴的だ。額には菱型の飾りがくっついている。無差別によしよししてやりたい衝動に駆られたのは何年前だったか。
 そんな彼女も、いつの間にか俺と言葉を交わせるようになり、こうして一緒に居てくれるのだ。
「主人。ぼーっとしてないで」
 高すぎない声色が、俺にとっては心地いい。怒りと焦りの混じった表情は、普段の冷静な彼女からは想像できない一面だ。
 ああ、かわいいなあ。
 普段の俺なら滅多に湧き上がらない感情が芽生えたことで、気づかされた。
 ふわふわとした視界。混濁した意識が、俺の思考を妨げている。
 頭が起きた。
「サラ」
「何よ」
「いま何時だ?」
「日付が変わるまで、あと三分」
「帰るぞ」
「こっちの科白」
 俺は大急ぎで荷物をまとめ、研究室から飛び出した。
 出入り口に控えている警備員さんに鍵を返し、一言謝って、帰りのタイムスタンプを打った。
 〇時ちょうどだった。

   ◇◆◇

 深夜の帰り道は、ビルの明かりも点々として、寂しい印象を受ける。大きな国道に車は通っているが、さすがに〇時を過ぎると、昼間の喧騒は面影もない。
 狭い路地に入ろうものなら、そこには異様な静けさが漂っていた。
「まったく主人ってば、居眠りするほど疲れてるなら定時で帰ればいいのに」
 高すぎない声と表現したが、それでも彼女の喉はよく通る。周りに響くことは、聞いている俺が大いに感じ取れた。
「俺には譲れないものがある」
「ストレスで壊れる体と生み出す実績、どっちが譲れないのよ」
「それは悩ましい」
「体じゃないのね……末期だわ」
 職場から最寄りの駅までの道には、少なからず住宅も見える。こんな時間に仲睦まじく話し合うことは、近所迷惑も甚だしいだろう。
 俺は目の前を歩く彼女を抱きかかえた。
 ずっしりと腕に重さがかかる。支えられないことはなさそうだ。そんなことは口が裂けても言えないだろうが。
「うぉっ、ちょっ……な、なっ」
「うるさいな。ちょっと静かにしろ」
「だ、だからって、こんなこと」
「周りを見てみろ。明かりを落としてる家ばかりだろう? あんまり大きい声を出すんじゃない」
「そんなの歩いてる私に言ってくれれば!」
「静かに。声を抑えても伝わるからこうしたんだ。お前は一言多い割に、沈黙してるのは似合わないからな」
「……主人のバカ」
 たまにはこうして、彼女とのスキンシップを図るのもいいことかもしれない。
 冷気を司る彼女だが、冷気が吹き出すには相応の衝動が必要だ。例えば、感情の昂りや緊急を要する場合などなど。普段は触ることができる体温をしているのだ。
 もちろん、彼女だけに限ったことではない。この世界では、多くの生物が不思議な能力を持っている。科学の力では証明できないのだ。
 俺はその最前線に身を置いて、パートナー(彼女はこのように言われたくないだろうが)と向き合いながら研究を進めている。
 そんな彼女は、俺の腕の中に収まったまま、口を尖らせている。赤褐色の目は、こちらを見ようとせず泳いでいる。慣れないことには素直なのな。
「ねえ主人。さっきも言ったけど、最近疲れてるんじゃない?」
「そうかもな。お前と触れ合うのは、疲れを取るいい選択肢かもな」
「なんで私有りきなのよ」
「そりゃ悪かった」
「えっ……あ、謝らないで。私も心配してるんだから」
「お前を抱くのもたまにはいいなあ」
「どういう意味よ。主人のバカ、変態」
 ひとつ断っておきたい。普段の俺たちとは、立場は逆転している。
 俺の一言につき、彼女は二言三言も反撃してきて、俺が舌を畳む立場なのだ。放っておけば、くどくどとよく喋る奴だ。
 だがかわいいことに、今の彼女からはそんな勢いは感じられない。いつもこんなに丸く収まっていれば、俺からの評価もさらに高いはずなんだがな。
「なあに恥ずかしがってんだ? いろいろ頼ってきた箱入りムスメのお嬢ちゃんが――」
 俺の言葉は途中で遮られた。彼女が腕に噛み付いてきた。とっさに彼女を抱えていた腕を解いてしまう。
「痛っ! いってえじゃねえかサラ」
「誰が箱入り娘、お嬢ちゃんですって?」
 見ると、額に青筋を浮かべてこちらを憎らしげに睨みつける彼女が居た。
 ポケモンにしても、女のプライドは怖いものだ。
「わ、悪かったって。冗談だよ」
「冗談じゃ済まない。確かに主人に助けられてばかりだったけど、今じゃ立派にひとりでできるんだから。面白半分にそう言うのは許さない」
 食事、水飲み、風呂、開扉。極めつけは、俺たち人間と、言葉によるコミュニケーションを実現することだ。
 彼女自身がいろいろと苦労してきたことを、延々と喋る。そして決まって、〝あーもう思い出させないでよ〟と締めくくるのだ。
 騒がしくなったことを謝罪しよう。上の空だった俺は、近所への迷惑だけ心配していた。

 彼女が満足する頃、俺たちは最寄りの駅にたどり着いた。構内の電光掲示板を見ると、終電まであと三本の電車が残っているようだ。次は四分後、〇時一六分だ。
「いつも通り帰れそうだ」
「また抱きかかえられるなんて御免被りますよーだ」
「悪くなかったろ。昔を思い出せて」
「余計なお世話じゃ」
 こちらを向いてむすっとした表情をして、彼女は改札に向けて歩き始めた。思わず俺の頬も緩んでしまう。
 改札にICカードを通した時、俺はふと疑問に思った。
 彼女の目は、赤褐色だっただろうか。
「……なあサラ」
「何よ」
 目の異変を自覚しているのは本人だろうと思った。だが、呼びかけられた彼女は不機嫌だったため、俺は少しだけ深呼吸をする。
「お前、自分を鏡に映したことあるか?」
「……え? ないけど」
 少し考える様子を見せて、彼女は首を振った。
「そうか」
 俺たち人間は、身だしなみを整えるときに何度も鏡を見るものだ。彼女からしてみれば、俺の意図はわからないだろう。
「どうしたの?」
 こちらを見て、彼女は首を傾げる。
 目の色の違和感は、俺が感じるものだけかもしれないし、もしかしたら元からそんな色だったかもしれない。違和感の原因がわからない。
 話題の方向を変えることにした。
「お前って超能力者か?」
「……は?」
 一瞬だけ間を置いて、呆けたような返事。彼女は俺の意図が理解できていないらしかった。
「いや、すまん。ちょっと気になっただけだ」
「気になるほうがおかしい。私にはグレイシアって名前がついてるだけ。超能力と関係ある?」
 彼女が自身の種族名を知るには、それなりの知性と理解が必要だ。
 俺たちが人間というカテゴリに分類されていることを知るように、ある猫が『吾輩は猫である』ことを知るようなものだ。
 つくづく、ポケモンとは不思議な生き物だと思わされる。
「お前は触れるだけで……いや、触れずとも果物を氷漬けにした」
「まるで罪状ね。だから何なのよ」
「人間っていうのはな、人間が持ってない能力を不思議がるもんなんだよ。人間の能力を超えているから、超能力。たまには自分の体くらい自分で見てみろよ」
「ふぅん。だからこの体を実験台にするわけね。私は興味ないけど」
 一番線に足を運ぶと、このホームには俺たちしか乗客は居ないようだった。
 構内に来車のアナウンスが流れる。一陣の風が吹き抜けたあと、俺たちの目の前に十一両の列車が停まった。
「実験台とは失礼な。お前は良きパートナーだよ」
 開いた扉から車内に飛び乗った彼女は、こちらを向いて、にっこりと微笑んだ。
「へえ、そう。じゃあ帰りましょ」
 笑ってくれたのに、俺の背筋は冷たくなった。目が、赤褐色の眼差しが、笑っていない。
 抜け殻のような、がらんどうの感情を見ているみたいだった。
()()()()()()
 瞳の奥に、淡い炎が宿ったことは、俺の気のせいではなかったのかもしれない。
 背後で扉が閉まり、電車は動き出した。

   ◇◆◇

 車内を見渡すと、そこにも異様な光景が広がっていた。
「サラ」
「何。どうしたの?」
「どうしたも何も……乗客全員、眠ってるのはおかしいと思わないか」
 俺たちが乗ったのは九両目だ。ぽつりぽつりと対面座席に座っているお客さんは六人ほど。この時間にしては妥当な数字だ。このうち三人には、俺たちみたいに付き添いのパートナーが同伴している様子も見えた。
 だが、人間も、ポケモンも、みんな目を閉じ、うなだれている。彼女のことも気になり始めると、どこか気味が悪い。
「あなたみたいに、みんなお疲れなんでしょ。気にしないことね」
 しかし、彼女は全く気にしていない様子で、八両目に向かう貫通扉の前に立った。
 ここまで彼女が何も感じていないのは、さらに気味が悪すぎる。鈍い奴だとは思わなかった。もしかして、彼女が仕掛けたドッキリなのではないか。
 俺は思い切って、彼女に対しての不信感を、質してみることにした。
「隠してることがあるなら、言ってくれ」
 彼女はゆっくりとこちらに振り返る。スローモーションを見ているようだった。
「隠してること? 何を隠さなきゃいけないのよ」
 ――〝お前の眼差しが、いつもと違う〟。
 そう言おうとして、俺は口をつぐんだ。瞳の奥の炎が消え、柔らかい表情に戻っていたからだ。
「いや……」
 見間違いだろうか。確かに最近、俺は研究に没頭していて、眠る時間が少なくなっている。彼女の言うとおり、疲れているのかもしれない。
「なんでもない」
「そう。落ち着ける場所を探しましょ。少しだけど、眠れば違うと思うから」
 そう言って、彼女は体のバランスを取りながら、前肢を浮かせる。俺の腰ほどの位置にある、貫通扉のボタンを押した。電子音がして、半自動の扉が開いた。
 新幹線みたいに全自動になるのはいつだろう。いや、通勤ラッシュの時間帯に自動で開かれると、騒音が酷いだろうか。
 淀んだ気を紛らわしながら、俺たちは八両目に移った。

 車両を覗いてみると、中には誰も居なかった。
「貸し切りね」
 一言つぶやいた彼女は、向かって左側の座席に飛び乗る。尻尾を動かして、俺に催促してきた。
「座れば? 眠っても私がまた起こしてあげる」
「……そういう大胆なところもあるよな」
「褒め言葉として受け止めるわ。主人も寝そべればいいのに」
「公共の場は自粛させてもらう。土足はさすがに」
 体高の大きなポケモンたち(二メートルに迫ると、立ったままでは首を寝かせておかなければならない)や、体重の重いポケモンたち(さすがに二〇〇キロを超えるような個体は、おいそれと積めないだろう)は、ボールに収めたほうがよいとされている。と言っても規制する法律は存在せず、利用者のマナーに任されているのだ。
 同じように、素足で歩くポケモンも、座席には座らせないほうがよい。常識が問われるし、このことだけで飼い主の底が知れる。程度は違えど、買い物袋を食卓に置くようなものである。
「人前でそんなことするなよ? 恥ずかしいのは俺だから」
「はいはい。まあ座りなって」
「人の話聞いてないだろお前」
「聞いてたわよ。人前でダメなら、主人の前で大胆に振る舞えばいいんでしょ。貸し切り車両を見つけた私に感謝しなさいよね」
「お前なあ……いろいろと間違ってる」
 俺は一つため息をついて、彼女の隣に座った。
 昔からこうだ。俺が放った一言に対して、矢継ぎ早に頭がよく回る奴だ。
 普段なら片方が始めたらなかなか止まらないが、やはり俺は疲れているのだろう、会話をやめてしまった。
 すると、列車が止まり始める。聞き慣れた次の駅名が耳に入った。
 あと七駅、時間にして十六分。本当に少しだけだが、眠ることはできそうだ。何かあれば、彼女が耳元で叫ぶだろう……いや、そんな事態に遭遇しないことを祈りたい。
 列車の進行方向右側の扉が開く音がしたことは覚えている。
 俺はそのまま、意識を手放していた。

   ◆◆◆

 ふと気づいた。相変わらず電車は揺れている。
 隣を見ると、座席ですやすやと寝息を立てる水色が居た。
 疲れているのは、お互い様だったようだ。俺は、彼女の背中に手を乗せた。
「ん……」
 うっすらと開かれる目は、やはり赤褐色だった。
「主人……?」
「おはよう。ごめんな、お前も疲れてたんだな」
 彼女は大きなあくびを一つついて、前肢で右目をこすっていた。
 起こしてやると言っていた奴が、なんという体たらくだ。
「私……眠ってた」
「見りゃわかるさ」
 俺は腕時計を確認した。〇時一九分。乗車して三分というところか。
 なるほどと思って、視界を対面の窓に移そうとした時、気づいてはいけない事実が頭をよぎる。
「――待て」
 〇時一六分発に乗ったはずだ。確かに、乗車して三分。駅一つあたり、平均して二、三分かかる。
 駅を一つ通過した瞬間は覚えている。
 何かがおかしい。
「どうしたの?」
 振り返った俺は彼女を見つめ、深呼吸をした。
「時間が、進んでない」
「……え?」
「俺、ちゃんと寝た……よな。お前も寝てたもんな」
 眠った気になって、でもそんなに時間が経っていなかった、ということは往々にしてありえる。気持ちの問題だ。
 だが、俺と彼女が同時に寝落ちしたということは考えにくい。彼女も俺を起こすつもりで居てくれたくらいだし、どんな偶然かと責めたくなる。
「眠り始めて、少しも経ってない、てこと?」
「ああ」
 俺は夢を見ているのだろうか。この情景は夢の中で、実は列車はずっと動いている、なんてことはないだろうか。
 呼吸が早くなってきた。
「サラ、殴れ」
「はあ?」
「目を覚まさせてくれ」
「ちょ……主人、ちょっと落ち着きましょ」
「いいから殴ってくれ」
 半ばパニックに似た症状だったと思う。俺はスーツが汚れることも関係なしに、彼女を膝の上に抱き寄せた。
 次の瞬間、右頬に痛みが走った。彼女が頭でぶつかってきた。同時にのけぞった俺は、後頭部を列車の窓ガラスにぶつけた。
 ちゃんと痛みがわかる。夢ではないらしい。
 それなら、起こっている事象を現実として受け止め、打開してやろうではないか。
 意気込みを新たにすると、少しだけ動悸が沈んだ。
「痛いわ」
「殴れって言ったのは主人でしょうに。目が覚めててよかったわね」
「ああ、ありがとう」
 あとから思えば不思議なものだが、気が動転していると本当に何もできなくなってしまうものだ。
 俺は首を振り、正気を保てと暗示をかける。大丈夫、腕時計の時間が過ぎていないだけだ。もう一度見ても、相変わらず〇時一九分をさしていた。
 彼女は俺の膝から飛び降りて、貫通扉まで歩いていた。
「サラ?」
「ちょっと様子見てくる。この電車動かしてる人に会えれば、また違うでしょ」
「なるほど」
 名案だ。隣の車両に乗っていた乗客も居ることだし、状況を訊ねてみてもいいだろう。
 俺は立ち上がり、背伸びをして、彼女の後ろについて行く。

 貫通扉をくぐろうとしたとき、俺の足元に何かがぶつかった。
「うお」
 水色の姿から彼女だとわかったが、固まって動こうとしないことも見て取れた。
「どうしたサラ」
「……主人、これって」
 開けられた貫通扉の向こうを見ると、乗客は居なかった。
 ありのまま今起こったことを表現しただけだが、大切なことなのでもう一度述べよう。
 ()()()()()()()()
「お、降りたんじゃないか? 一駅、停まっただろ」
「そ、そうね。私も不安になってきたわ」
 昇降扉の上にある車内案内表示のディスプレイには、何も映っていなかった。普段なら、路線案内と一緒に次の到着駅が見えるはずなのに。
「……ここ、どこだ?」
 不安を口に出してはいけないのは、自分が不安であることを認識してしまうためだ。心理的な悪影響となって、よくない堂々巡りに陥る。
 とにかく、彼女も言ったように車掌さんに接触しよう。俺は彼女をかわして、列車の最後尾であろう方向に向かった。
「主人。待ってよ」
「ついてこい。離れるんじゃないぞ」

 一両をまたいで、『乗務員室』と書かれた扉の前にたどり着いた。窓には暗幕がかかっており、中の様子は見えない。
 車両を移動する間、人の姿が全く見えなかったことは、もう考えないようにしようと思う。
 彼女と目を合わせ、俺は扉を大きく三回、ノックした。
「すいません」
 だが、人が出てくる様子はない。
「すいません!」
 もう一度扉を叩いたが、変化はなかった。
 取っ手をひねっても、鍵がかかっているのだろう、扉は開きそうにない。
「主人、任せて」
 彼女は体を浮かせた。勢いをつけ、尻尾を振りかぶり、扉の取っ手付近を正確に捉えた。
 走行音に負けないくらい、大きな音が響き渡る。扉の一部が目に見えて歪んだ。
「おい、サラ」
「私もそろそろイライラしてきた……開きなさいよっ」
 もう一度振りかぶり、同じ場所を抉る。
 扉の鍵の役割を果たす部分は凹み、その機能を失ってしまった。
「まったく……器物損壊で訴えられても、俺は知らないぞ」
「言ってる場合? 早く電車止めて降ろしてもらいましょうよ」
「止めるには、まず反対側の運転室まで行かなきゃならんがな」
 俺は取っ手に手をかけ、そろりと引く。走行音が大きくなった。中の様子は、暗くて窺えない。
 思い切って、完全に開放した。
 やはりと言うべきか、乗務員室には人影は見えなかった。ディスプレイで表示される計器はすべて、真っ黒で何も映っていなかった。
「……誰も、居ないんだな」
「無人列車……?」
「サラ、恐怖を煽るような言葉は使わないでくれ」
 すると突然、車両内のアナウンスが響き渡る。
《次は、終点、きさらぎ。終点、きさらぎです》
 心臓が縮み上がった。
 車両のアナウンスは、機械音声ではなく、男性の声だった。普通なら、アナウンスは車掌が行うものであるはずだ。
 いや、慌てるな、逆に考えるんだ。これは、確実に運転手が居るという証拠なのだ。
「降りることはできそうね」
 彼女の言葉に、俺は不信感を抱いた。
 きさらぎ駅とはどこの駅だろう。二月の旧称なら知っているのだが、俺たちが通勤に使う路線に、そのような名前の駅はあっただろうか。
「運転室まで、行ってみよう」
 かすれる声を絞り出して、俺は彼女に訴えた。喉が渇いている。
「またこじ開ける?」
「必要があれば」
 閉まらなくなった扉は放置して、俺たちは先頭車両に向かった。

 もし俺が車両を数えていれば、十一両編成ではなくなっていたことがわかっただろう。
 そして、乗っているのは俺たちだけ。他の乗客は、誰一人として見当たらなかった。
 焦る気持ちは喉をも乾かす。運転室の乗務員扉までたどり着いた俺は、飲み込みづらい生唾をかみ締める。
 こちらの窓にも、暗幕がかかっていた。誰か居るはず。湧き上がる恐怖を、俺は必死に振り払った。
 ノックを三回。
「すいません」
 だが、応答はなかった。
 答えてほしかった俺は、さらに扉の取っ手を掴んで動かそうとした。
「すいません! 開けてください」
 どうやら鍵がかかっているらしい。車掌室での出来事が思い出されて、俺の身が縮んだ。
「私の出番ね」
「もう、好きにやってくれ」
「喜んで」
 彼女はまた尻尾を振りかざし、まず一打目。その反動を吸収、すぐさま振り上げた。立て続けに二連撃を与えた。
 身のこなしが鮮やかになっている気がした。
「壊すとすっきりする」
「お前の尻尾、硬いよなあ」
 俺は扉の取っ手に手をかけ、思いっきり開いた。
 果たして、運転室の中には、誰も居なかった。
「どうなってんだ」
「私に言われても」
 すると再び、車両内のアナウンスが響き渡る。
《まもなく、終点、きさらぎ。終点、きさらぎです》
 この時ばかりは、俺は腰を抜かして尻餅をついてしまった。車掌室で聞いた、男性の声だった。
 誰が喋ったのだ。この列車に居るとしたら、俺なのか。それとも、見えない誰かが乗っているのか。
 運転席に見えるレバーのようなものが、ひとりでに奥に動く。すると、電車は減速を始める。
 もう、訳がわからなかった。
 放心状態に陥ってしまった俺は、この時のことをよく覚えていない。

「――主人、主人」
 彼女の声で、視界が戻った。
 開けられた扉は、鍵が壊れており、奥には誰も見えない。やけに静かであるから、電車は止まっていることが予測できた。
「…………」
 彼女の名前を呼ぼうとしたのに、声が完全に呼吸音になった。喉が渇ききっていた。
 彼女と視線を合わせる。赤褐色の目に安心感さえ抱いたほどだ。
 一度、二度と咳込んだ。
「サラ……大丈夫だ」
「どう見たって大丈夫じゃない。真っ青よ? ちょっと休んでて。私が偵察してくる」
 俺は彼女の言葉に、首を振って否定した。
「だめだ。一緒に居よう。俺も、歩く」
「無理しないで」
 彼女が見つめ返す瞳は、わずかながら震えていたような気がする。
「今、二手に分かれるのは、危険だ」
 彼女は反論しようと口を開いたようだが、しかし俯きがちに言葉を飲み込む。
「……わかった」
 一言だけ、そう言ってくれた。
「いい子だ」
 彼女の頭を撫でて、俺は立ち上がった。一瞬ふらついたが、まだ倒れるわけにはいかない。
 出口は左側だった。

   ▼▼▼

 電車から降りると、不気味な闇が迫っていた。
 明かりと言うには物足りない、小さな白熱球が一つだけのホーム。加えて、電車の照明があふれて、辺りを照らしている。しかし、その先の改札口は真っ暗闇だった。
「奇妙な場所ね……誰も居ないんじゃない?」
「無人駅は、よくある光景だ」
「無人列車は?」
「サラ、思い出させるな」
 車内の光景が目に浮かぶと、足がすくんでしまう。どうやら小さなトラウマとして刻まれてしまったようだ。
「痛っ」
 俺は彼女を後ろから小突いて、改札に立つ。なによ、もう、と小言をぼやく小娘は放っておくことにする。
 間近に見て気になったことがあった。駅の設備は、どこか古臭い印象を受けた。
 建物全体が木でできている。改札のきっぷ投入口は見当たらず、現代の電子マネー決済もできそうにない。左手の窓ガラスが張られている空間は、どうやら駅員室だ。
 薄暗くて見えにくかったため、俺はスマホを取り出して、懐中電灯機能をオンにした。
 駅員室の中には黒板が見えた。数字は読めるが、単語とも記号とも似つかない文字の羅列が書かれており、理解はできなかった。
 黒板の上には時計がかけられていた。〇時一九分を指していた。
 この時刻は見覚えがある。俺は自分の腕時計を見た。
 〇時一九分だった。
 念のためにスマホの時刻も見た。
 〇時一九分だった。
 都合よく三つの時計が同じ時刻に壊れた、なんてことは無理がある。スマホは応答するし、腕時計の秒針も動いている。
 これ以上、理解はしないほうが身のためだろう。
 他に目立つものといえば、金庫のようなものが鎮座していることだろうか。おそらく、きっぷを買う時の釣り銭を準備しておくものだろう。
 なるほど、タイムスリップでもしてしまったのだろうか。結論が出たことにして、懐中電灯をオフにする。
 淡白な印象で済ませる俺は、車内の状況がよほど衝撃的だったらしい。
「主人、なにか聞こえる」
 彼女が耳をそばだてているので、俺も同じように耳を澄ませた。
 風の音とも聞き間違えそうな、高い音が聞こえる。音色を持っているらしい。何かの楽器だろうか。
「何に聞こえる?」
「さあ、わからないけど。行ってみましょうよ」
「俺は帰りたい」
「誰か道を知ってる人に会えるかも」
「絶対それ人間じゃないな」

 駅を出ると、すぐそばに鳥居があった。提灯が二つ、鳥居の両端にくっつき、まるでこの駅で降りる人を出迎えているようだ。
 ここまで歩くと、音の正体が推測できた。
「笛か。太鼓の音っぽいものも聞こえる」
 鳥居の先の道には、同じような提灯が連なっており、森のなかへと続いている。
 祭りか何かを囃しているのだろう。このまま進む勇気は湧かなかった。
「サラ、帰るぞ」
「え、どこに」
「電車に」
 俺の言葉に、彼女は一つため息をついた。
「電車に帰ってどうするの?」
 彼女にしては、珍しく突っ込んだ追求だった。
「それは……待てばわかるだろ」
「待つだけ待って後悔しても、遅いと思う」
 普段なら俺の意思に反論することのない彼女が、俺の心を変えようとしてくるのは、今回が初めてではないかと思う。
「……どういう意味だ?」
「行動して、選んで、ほんとに手詰まりなら、その時に考えるの。後悔はそれからでも遅くない。何もしないのに、後悔だけするのは、私は嫌い」
 彼女には悪いが、高説を垂れる傲慢な奴だと思った。しかし、言っていることも尤もだと思った。
 光量が少なくて、彼女の表情は窺えなかった。見えるのは赤褐色の目だけだった。
「お前にしては珍しいな」
「そう」
「そんなに言うなら、ついて行ってやるぞ」
 気が済んだのか、彼女は鳥居をくぐり、足を進める。遅れないように、俺も後ろに続いた。
「主人、本音だけ言う」
 彼女はこちらに振り返らず、歩きながらつぶやいた。
「なんだ?」
「呼ばれてる気がするのよね」
 祭り囃子に呼ばれるのは、誰か約束した相手が居るのだろうか。
 この状況でそんな場面は無理があるよな、と思いながら、俺は彼女について行く。
 特に思い当たる部分もなかったから、気にしないことに決めた。
 この予想が当たるとは、夢にも思っていなかった。

   ◇◆◇

 木々が頭上を覆い、点々と灯る提灯がゆく道を照らす。両脇に広がる闇に包まれた森は、見ているだけで心細くなるような、飲み込まれそうな印象を与えてきた。
 一歩一歩進むごとに、笛の音と太鼓の音も大きくなる。どこかの時点で、弦楽器の音色も耳に届いた。
 一本だけ変わった木を見つけた。立ち止まって観察すると、覆うように葡萄の木が生えているらしい。
 喉が渇いていた俺は、誘われるようにその木に近寄る。果実を取ろうと手を伸ばした時、目の前に白い閃光が走った。果実は氷漬けになった。
「主人、何やってんの」
 彼女の声は明らかに不機嫌だった。俺ははっとして振り向くと、足を止めていた彼女もまた、こちらを向いていた。
「美味しそうだったから、つい」
「食べちゃダメ」
 帰れなくなるわよ、とつぶやく彼女。それだけ言って歩みを進めるから、俺はどういう意味か考えなかった。
 開けた場所に出ると、どうやら登りきったらしく、そこにも鳥居が建っていた。ひときわ大きく、太鼓の振動が体の中に響いてくる。
 周りを見渡すと、一般的に見る祭りを代表するような、いろいろな屋台が出ている。
 しかし奇妙なことに、楽しむお客さんが、俺たちを除いて誰一人も居ないのだ。俺は得も言われぬ寒気を覚えた。
「まるでゴーストタウン……違うな、ゴーストフェスティバルだな」
 彼女に向けた言葉だったが、おそらく楽器の音にかき消されたのだろう、反応は見られなかった。
 こちらを無視して、彼女は奥へ奥へと進んでいく。その先には神社が見えた。
「サラ」
 大きな声で呼んでみたが、彼女は聞く耳を持っていないようだ。
「どこに行くんだ、サラ!」
 俺は慌てて彼女の体に手を伸ばす。指先が冷たさによる痺れを訴えてきたが、構っていられない。
 彼女の背中に手を触れた。
 手首を伝って、腕、肩までじんと凍える。恐怖を感じる前に、反射的に手を離してしまった。
 俺の行動に気づいたのか、彼女はこちらへと振り返る。しかし、その瞳の奥に、あの炎が揺らめいていた。
「お前は誰だ」
 祭り囃子が、その音調をぴたりと止める。彼女の冷気が、この空間を支配しているように感じられた。
 俺の言葉に、彼女は無言で後ろへと離れていく。
『まずは礼を言おう』
 研ぎ澄まされた声音の刃は、しかし彼女が発したものではない。周囲を取り巻く言霊は、彼女の口を動かさずとも、俺の耳に、脳内に直接響いた。
 その切っ先は、確かにこちらに向けられていることがわかる。
『無念を晴らすには、申し分ない器ぞ』
 彼女は目をつむり、身を縮める。頭上に炎が集まり始め、丸みを帯びていく。
 紅い球体は、鈍い煌めきを放つ。拳ほどの大きさがどんどん膨らみ、彼女の体と同じくらいの直径になった。
 何が起こるかわからない。俺の身一つでできることも限られている。俺は見守ることしかできなかった。
 すると、球は爆音とともに弾け飛ぶ。熱風に煽られた俺は、立っていることができなかった。
 周囲は黒く焦げ、俺のスーツにもすすがついた。
 爆心地に、彼女が倒れている。その隣に、赤褐色の双眸を持つ、金色の毛をした生き物が居た。たくさんの尻尾があった。
「サラ……!」
『近寄るでない』
 奴が発した言葉であると、俺は直感で悟った。サラの容体を確認しようとしたが、奴の一言が俺の行動を阻害してくる。剣を向けられていると錯覚するくらい、鋭利な声音だ。
『私にも復讐の機会が訪れた。愚かな人間どもに、粛清を見せつけてやるのだ』
 奴がこちらを一瞥すると、彼女の体が起き上がる。見るに耐えないその体は、すすだらけで深い傷を負っている。しかも、赤褐色の目に生気が宿っていなかった。
「サラ!」
 彼女を取り巻く冷気が強まっていく。ぶつかってしまったら、ひとたまりもないだろうことが予測できた。
「サラ! 俺だ!」
 俺の呼びかけには応えず、彼女は一歩、また一歩とこちらに近寄ってくる。
「目を覚ませ、俺の声を聞け!」
 俺は立ち上がって叫ぶ。彼女が言った〝呼ばれている気がする〟のは、奴からの呼び声で、今それに応えているからだと思った。
「いつまで眠ってる、早く目を開けろ!」
 周囲の温度が一段と冷える。俺はそれでも、叫び続ける。
「俺の言葉がわからないのか、サラお嬢!」
 一瞬だけ、彼女の表情が動いた気がした。
「だからいつまで経っても箱入りムスメなんだ!」
 この言葉が引き金だった。
 冷気の塊が、俺の傍を吹き抜ける。急激な温度差に、あたりに靄がかかった。
 俺は確信した。ここは彼女のテリトリーになった。
「誰が――」
 あからさまに怒気のこもった、彼女自身の声だった。地の底から湧き上がってくる、活き活きとした活力だった。
「――お嬢、ですって?」
 彼女は金色の体毛へと振り返る。表情なんてかけらも見せなかった奴が、明らかに嫌悪感を示していた。
『くっ……慌てるでない、私の目論見に従えば、そなたは生きて帰れるのだ』
「ええ、聞いてたし、感じてたわよ、人間を打ちのめすって。でも私だけ生きてるんじゃ意味がない」
 俺の位置から、彼女の表情は見えない。だが、大きな意思があることはわかった。
『そなたの都合はどうでもよい。だが、なぜだ。なぜ、私の声が届かぬのだ』
「なぜか。人間を憎むあなたならわからないでしょうね」
 彼女は俺を一瞥し、言葉をつなげる。
 笑っていたように見えた。
「思い出があって、感情を抱く。笑ったり、喧嘩したり、泣いたり。それぞれが良い影響を与えて、心を豊かにしてくれる」
 珍しく、彼女にしては筋の通った話をする。俺はひたむきに耳を傾けていた。
「思い出に浸ったまま、恨み、妬み、憎しみ、疲労し合っては何も生まれない。心は荒んで、痩せていくばかり。他を排除する前に、まず自分を高めてみるのよ」
『心など……そのような、概念だけの空論に』
 奴は火を吹いた。彼女の周りの地面も割れて、火柱まで立ち上る。地上と空中の挟み撃ちを受けたように見えた。
 俺の声が喉まで出かかったが、彼女を呼ぶ気にはならなかった。
『なんだと』
 ちゃんと四つの足で、立っていた。
「改めなさい。一握りの心ない人間だけを見て、主人のような多くの頑張り屋を悪く言うのは、許さない」
 彼女の周囲に、太く尖った氷柱が現れた。それを咥え、彼女は首を大きく振る。神社の御扉に突き刺さり、その中まで深々と貫いた。
 あの傷でこの馬鹿力。火事場であることも影響しているのだろうか。
 あまり彼女を怒らせないようにしようと、改めて俺は心に決めた。
『ぐぅっ、よくも……!』
 奴は苦悶の声を上げる。前足が体を支えられず、凛とした姿勢が崩れた。
『今宵はお開きに……なに、何をする』
 彼女は奴に近寄って、触れた。同時に耳打ちをしているようだった。
 すると、俺の視界が歪む。
 おかしいと思って目をこすってみても、彼女の姿も、奴の金色の姿も歪み、焦点が合わない。
『そなたは――』
 奴がそう言った直後、目眩に似た感覚が俺を襲った。

   ◇◇◇

 ふと気づいた。相変わらず電車は揺れている。
 景色が突然変わった印象はなかったが、違う場所に居るだろうことは感じ取れた。そもそも、俺は電車で眠っていて、彼女を起こして、車内から外に出て……。はて、『外』とはどこだったろうか。
 どうやら、記憶が曖昧になっているらしい。
 隣を見ると、座席ですやすやと寝息を立てる水色が居た。
 彼女が居ることにめっきり安心した俺は、一つ大きくため息をついて、彼女の背中に手を乗せた。
「ん……」
 すると、うっすらと開かれた目は、青よりも濃い、瑠璃色だった。
「主人……?」
「サラ」
 彼女は大きなあくびを一つついて、前肢で右目をこすっていた。
 抱き寄せてなでなでしたい衝動をなんとか抑えて、背中を優しくなでてやった。
 傷は癒えていた。
「私……眠ってた」
「見りゃわかるさ」
 電車は減速を始める。機会音声のアナウンスから、俺たちが降りる駅に着いたことがわかった。
「あっ、神社はどこ行ったの? 彼女は?」
 俺はサラの純粋な疑問に、優しく微笑みかけた。
「さあな」
 立ち上がって、筋肉を伸ばす。今から思うと、長い間眠っていたような気もする。
「悪い夢だろ」
 降りるぞ、と彼女に一声かけて、開いた昇降扉の外に出る。
 周りには他のお客さんも見えた。現代の改札に戻っていた。

 駅を出てから借家へと帰る途中、俺は彼女に気になることを問いかけた。
「サラ、よくあんなに考えが回ったな」
「え、何」
 夢の中で言われたであろう言葉は、目が覚めると途端に忘れてしまうものだ。忘れないうちに、俺は彼女に伝えようと思っていた。
「言っておくが、俺は頑張り屋じゃないぞ? おだてても何も出ないからな」
 すると、俺の目の前を歩く彼女は立ち止まって、こちらへと振り向く。
「確かにそうね」
「否定しろよ」
「おだてても何も出ないのは納得」
「あー、なるほどな」
 無理やり納得させられたという気持ちが湧き上がるが、彼女が再び歩き始めたため、更に何か言おうとは思わなかった。
「パートナー、でしょ」
 歩きながら、彼女はつぶやいた。
「あんたが倒れたら私の立つ瀬がない。少しは自分の体を労りなさい。頑張り屋さん」
 彼女が自ら、俺の存在意義を認めるとは珍しい。明日は雨が降るかもしれない。
「でも……なんだか、体が重い感じがするのよね。主人、だっこしてよ」
 そして、まるで夢を見ているような彼女の甘え。長らく忘れていたから、昔に戻ったような錯覚がした。
「甘えん坊だな。もっと甘えていいんだぞ」
 お嬢ちゃん、の一言が喉まで出かかって、俺は飲み込んだ。
 今度こそ本当に氷漬けにされるかもしれない。神社の彼女は本気だったに違いない。
「ねえ主人」
 俺が(そこそこ重たい)彼女を抱き上げる時、控えめに呼ばれた。
「私、暗い自分を見ていた気がする」
「どういうことだ?」
「だって主人、構ってくれないじゃない」
 口調の鋭い一言に、俺は彼女を見つめて立ち止まってしまった。
 彼女の目は潤んでいた。
「……ううん、主人は悪くない。悪いのは私。今まで〝忙しいから〟って相手にされなかったから、もし主人から離れたら、って思ってしまった私が悪いの」
 俺は強く後悔した。彼女が寂しい思いをしていたことを、今まで微塵も感じ取れなかったからだ。
「油断した。主人をもっと大切にすれば――」
「違うだろ」
 聞いていられなかった。俺は彼女の口に手を当てて、遮った。
「それ、お前が悪いと思うのは筋違いだ。俺のせいだ」
 すると、彼女の顔が一気に明るくなったように感じた。
「本当? じゃあ、昔みたいに、もっと遊んでよ」
 彼女はやたらと冷静沈着だという印象は、俺の勘違いだろう。俺が与えた無言の環境に、彼女が有無を言わず順応して、それが当たり前になっていたに違いない。
「主人、お疲れさま」
 すると彼女は、ためらいもせずに俺をねぎらってきたのだった。
「大好き」
 さらに思いもよらない言葉が聞こえてきたため、彼女を直視できなくなった。
「――痛っ」
 突然右腕に痛みを感じた俺は、とっさに彼女を離してしまう。
「ほら油断した! うちまで競争よ」
「このっ……はは」
 どうやら俺は、また噛みつかれたらしい。
 街灯の間を走り抜けていく彼女を見て、俺は不意に笑みがこぼれてしまった。
 彼女との時間を、もっと大切にしようと思う。俺の衝動を抑えずに、頬ずりからなでなでから全部やってやろうと思う。
 疲れていても、靴が走ることに苦手でも、俺の足取りは軽かった。

   ◇◆◇

 次の日。ローカルニュースで、俺たちが通勤に使う在来線の電車に、両方の乗務員室の扉が壊れている列車があったことが報じられた。
 また国際報道では、ここから遠くにあるイッシュ地方という地域がトップを飾っていた。名のあるお社に被害が出ており、槍のようなもので貫通させられた痕跡があるとのことだ。
 これがどういう因果があるのか、俺には想像もつかない。
 だがやはり、人智の知りえない領域というものは、往々にして存在するようだ。
 彼女と一緒に迷い込んだ先は、信頼の亀裂という水際に現れた、一つのあぜ道だったのかもしれない。


免責事項
 登場する団体や施設は、実在のものとは関係ございません。また、作者は物理学や心理学などとは程遠い存在です。
 もし物語に矛盾がみられた場合、それは作者の未熟さ、筆の拙さによるものです。


ウラ話
 第八回仮面小説大会出場までまだまだあるじゃん → いつの間にかエントリー締め切られてるじゃんorz
 アホンな作者の一つの思ひ出


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Last-modified: 2016-06-04 (土) 22:01:10
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