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お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね?~下~

/お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね?~下~

上巻より
作者:オレ
官能・流血描写ありにつき、閲覧にはご注意ください。
巻の九
巻の十
巻の十一
巻の十二
巻の十三
巻の十四
巻の十五
巻の十六
巻の末
設定集












「お前を連れてきた日和田教官には、俺も自分であそこまで言えるのかと思ったほどに手酷い言葉をぶつけたものだよ」
「最後には脅しまでかけましたよね? このことを城中の武士に伝えたら斬首は免れないって。父上があそこまで怒ったこと、母も今もあの時しか見てないですね」
 信夫とより近くで目線を合わせるため、父は膝と腰を折って身をかがめる。父も日和田教官同様直立の種族であるため、信夫と比べてかなり目の位置が高いのだ。平助にも言われるほど穏やかな性格の父をよく知っているため、信夫はこの話で語られるその時の父を想像できなかった。だからこそ日頃から痛烈な言い回しを繰り返す自身に、父とは似ても似つかないものを感じていたというのもあるが。
「だが、最後はこうしてお前を育てることを決めたよ。お前はもう覚えていないだろうが、お前が俺たちを選んだからよ」
「俺が?」
 父の言葉もまた、信夫の中の常識をひっくり返すようなものであった。親は子供を選べないし、子供は親どころか生まれることすら選べないはずである。初めて両親のもとに連れてこられた時が、生まれてどの程度経っていたかはわからない。だが、こういうことをするのだから恐らく生まれてからそこまでの日数は経っていない頃だろう。信夫が呆然と丸めた目も意に介さず、母が続きを語る。
「そう。日和田教官をつまみ出そうとつかみかかった父上の手に、信夫はおぼつかない前足を必死に伸ばしたのです」
「あの剣幕になっていた俺に、泣き出すどころか近付こうとしたよ。親は子供を選べないし、子供は生まれることすら選べない……その運命に必死で抗おうとする何かを感じたよ」
 信夫の中に常識としてあったそんな互いを選べないという運命は、逆に本当の親子愛の結び目となる。子供の言う「育ててくれてありがとう」と、親が抱くべき「育ってくれてありがとう」という二つの思いの。よく言われるのは子供が親に対してする孝行だが、信夫は両親の目線を見ているうちにこのように感じることとなっていたのである。
「父上に父になってもらうことを懇願した目に、どうしても城中の有様を塗りたくることはできませんでした。あるいはあの時に既に、信夫には見えていたのかもしれないって思いました」
「災いを知ることのできるとかいうアブソル人種としての力で、俺たちの助けを求めたのだろうよ。それだけの想いで選ばれたって思うと、やっぱり嬉しかったしよ」
 父は膝を突き、信夫の首筋にそっと手を伸ばす。襟巻のように生えそろうアブソル人種の首周りの毛並みは、全てを包み込む柔らかさで多くの者たちを魅了する。この話のときの信夫は、親を選ぶことができないという運命に抗った。それと同じように、この時に両親は選べないはずの子供を選んだのであろう。このつながりはある意味、三春と両親の本当に血のつながる関係よりも強いのかもしれない。
「俺がそんなことを……か」
「そこで信夫が私たちの運命を変えてくれました。あと一歩それぞれの両親に踏み込めないでいた私たちに、信夫が強い力で押してくれた。あるいは信夫がいなければ、私たちの成婚は消えていたかもしれません」
 それでも気恥ずかしさは相当のものらしく、信夫は頬の毛を逆立てて父の手から離れる。このわかりやすさや素直ではない姿は、両親にとってはいつまでも可愛いものではある。一方で、昔はなんだかんだ言いながらも結局喜んでいたと思うと少し寂しくもある。信夫はそんな父の様子を気にせずに、両親が結婚に至るまでの話を思い出す。父は市井の噂では性格的な部分がかなりあり、結婚前から生まれていたと言って信夫を見せた時も「やっぱり」と言われたほどである。そんな父との結婚とあっては、母の両親の猛反対は想像するに難くない。しかしそこでもし結婚の話が潰えれば、これだけの想いを抱かせた信夫の居場所も危うくなる。周りで思われていたことの裏で、両親にはそれだけ必死になれるようなものが生まれたのである。
「お前は俺たちに不貞をそそのかすどころか、全ての力を与えてくれたよ。今度は私たちだけでなく、この里全体に与えて欲しいよ」
「父上……わかりました」
 父のその言葉は、それが信夫の望みでもあると知っているからこそである。思えば父も母も、信夫のこの挑戦には一度もいい顔をしなかった。里の更生が目的であっても、権力に挑むことは実の父への挑戦でもあるのだ。裏の事情を知っていれば、これを笑顔で送り出せるようなことはそうはない。父も信夫の思いを理解し、信じてやろうというのが嫌でも感じ取れる。本当は親としてそのような危険な挑戦などさせたくないのだろうが、ここで止めることがどれだけ残酷なことであるかを考えた末なのだろう。
「わかったであろう、お前に心配する必要など一つも無かったのだ」
「ああ。父上、母上、日和田教官、ありがとうございます」
 信夫の中で氷解していったものに気付き、丸太から腰を上げた日和田教官。信夫も今度だけは日和田教官に、初めて穏やかな表情を見せた。この先に待ち受けるであろう最後の不安を除いたことで、彼女に初めて年長者を感じた。信夫は目を閉じて頭を下げると、両親は一気に顔をほころばせる。日和田教官などそれ以上で、ずっと気にかけていた相手とあってか不釣り合いに浮かれた表情を見せていた。
「礼などいらぬ。息子の成長というものは、寂しさはあったとしても親としてはやはり嬉しいものだからな」
「私たちはそうですけど、日和田教官の息子ではありませんよね? 縁は深いですけど、私たちや忠勝様と違って親と名乗るには無理がありますよね?」
 母の無邪気な声に、信夫もそんな冗句を言うのかと目を開ける。しかしその瞬間、信夫の表情は凍りついた。日和田教官の表情もまた、図星を突かれたとばかりに凍り付いていたからである。そんな表情を見た信夫は、まさか日和田教官までが自分の親を名乗るというのであろうかと驚愕する。まさか信夫の親子というものの定義をさらに破壊しに来たのだろうかと。日和田教官は少し遅れて我に返ると、誤魔化したように首を振りながら立ち上がる。
「どうした?」
「気にするんじゃないよ。いい加減夕食の時間も遅くなりそうだよ、今日はこの辺にしとくよ」
 信夫もどこかばつが悪そうな日和田教官には気付いたが、どうしてもあと一歩理解することができない。彼女までが自分の親になりたいという願望でもあるのか、そんな風に思えてならない。しかし追及しなければならないと踏み込もうとした信夫を、両親は強引に家の中に引きずり込む。日和田教官が何を思っているのかは信夫も未だにわからない。かすかに遠目で見た去り際の日和田教官は、左右の頬の毛を逆立てている。そのことは信夫の脳裏に手がかりとも悪寒とも知れない何かを残すだけであった。



 信夫は日和田教官の呼び声に応え、三春と平助を残して部屋から出た。三春は入口から顔を出してその背中を軽く見ると、すぐに部屋の中に戻る。ここにいても仕方ないだろうとそのまま居間にでも向かおうとした平助は、三春のこの動きに目を丸める。
「三春ちゃん? 居間にでも戻るんじゃないの?」
「平助さんだけ戻ってて。私は調べなきゃならないことがあるの」
 言いながら、まずはと信夫の机に向かう。鋳鉄の輪が取っ手としてぶら下がる引き出しは、四足の種族でも開けやすいものである。三春は遠慮なく開け、中に並んでいる物を順に見ていく。どう見ても泥棒の物色である。
「三春ちゃん! そんな、調べるって何を?」
「お兄ちゃんの好きな人。何か手がかりくらいあるかはわからないけどね」
 基本的な筆記用具類が並んでいるだけで、そこに三春が求める答えになりそうなものは見当たらなかった。三春も何か答えにつながるような物があるとかは考えずにいたのだが、そのいつもにない威圧感で平助をたじろがせる。必死の告白が、信夫自身の思い込みだけで拒否された。その後も兄は何一つ言わないでいたことが、相当三春に苛立ちを抱かせたようである。三春も自分のしていることは良くないと思っていたが、むしろ今はそういうことをしなければ耐えられないくらいの気持ちになっていたのである。
「相当怒っているんだね。困ったな……」
「別に平助さんに怒っているわけじゃないから、気にしないで」
 言いながら、三春は次の引き出しを開く。中から数冊の冊子を取り出し、何か答えになりそうなものが挟まっていないか軽くめくる。三春が知っているかはわからないが、平助の方は割と噂を聞いてきていた。信夫も三春も年齢の割に、浮いた話があまりにも無さすぎる。それを揶揄して誰かが言った「若松の兄妹に色恋沙汰が聞かれないのは、実は二人がただれた肉体関係を持っているからだ」という冗談が、妙に真実味を持って闊歩していたからである。どうも人はそういった猥談を好むらしく、信夫と三春には聞かれないようにしながらもそれでかなり楽しんでいたのである。彼らと仲がいい平助にとっては、どうにも聞くに堪えない部分があったのだ。
「うーん、ならいいけど」
 平助の苦悶になど既に答える気は無いらしく、三春は黙ったまま冊子を元の順に並べなおす。自分が調べたことを気取られないためという、なんとも本格的な盗人である。三春がその噂をどこまで知っているかはわからないが、平助には三春にも兄が自分を好いているとわかっているのではないかと思えてならなかった。三春が探しているのは、兄が自分を好いているという動かぬ物証ではないかと思えてならなかった。この歳の男であれば絵や写真等で性の捌け口を求めるものである。だが、果たして信夫もそうしているのかはわからない。ふと、平助の目線は寝台の向こうの壁に向かう。
「ん? もしかして?」
 寝るときに布団が敷かれるであろう寝台は、今は片隅に布団が畳まれている。その向こう側の壁には、ある位置に集中的に傷がついているのが分かる。平助は寝台に上りその傷の前まで行き、前足をその下の寝台と壁の隙間に突っ込む。突然の平助の行動に気付き、三春は目を丸める。三春がその行動の答えを考え出すより早く、平助は突っ込んだ前脚に小箱を引っかけているのを見せていた。
「平助さん、それ……?」
「多分、お望みの物だろうね」
 目を丸めたまま駆け寄る三春の前に、平助はその小箱を置く。寝台の向こうに隠し、角で何度も壁を傷つけるほど頻繁に出し入れをする物。大方の目星は平助にもついていた。平助の表情から、三春もこの中に何であれ答えにつながる物が入っているのは察した。しかし開けてみろと差し出す平助に、三春はどうにもためらいがちであった。もちろんその中に隠れいている物が、自分の願っている答えと合致している可能性はある。しかし違っていたらと思うと、どうにも開けるために動かす手が震えるものである。一般的な留め金であるため、外して開くまでの時間は短いはずである。しかし三春にはその間の時間がとても長いように感じられてならなかった。
「うえっ!」
「これって?」
 三春が小箱を開いた瞬間、中から強烈なにおいが飛び出す。平助はたまらず咽び(むせび)かえり、寝床から転げ落ちる。この独特の鼻を突く臭いは、平助もよく知っている。しかしいくら親友のものとはいえ、こういった臭いは普通は拒絶するものである。もちろんそれは三春も同じである可能性はあったが、三春の反応はそれどころか真逆であった。この強烈な臭いの中にどこか兄であろう何かを感じ、もっと嗅ぎたいとすら思えたのである。
「信夫君の精液の臭いだよ、それ! きっつ!」
「これが、お兄ちゃんの……?」
 三春は思わず臭いが染みついた雑巾を取り出し、鼻を近付ける。かなり離れたのになおも悲鳴を上げる平助とは逆に、この臭いが三春の中の何かを目覚めさせつつある。本当はもっと嗅ぎたかったが、しかし三春は雑巾を脇によけて再び箱の中に目線を向ける。雑巾の下に詰められていた何枚もの紙切れの存在に気付いたからである。どこかのからくり師が作り上げた、目の前にある物を正確に別の紙に写す機械のことを思い出した。
「私の……写真?」
「やっぱりか、やっぱりか……!」
 なおも臭いから逃げようと離れる平助。アブソルと比べるとヘルガーはさらに鼻が利くらしく、ここは地獄と言わんばかりである。しかしそんな平助を心配するでもなく、三春は写真を順に見ていく。どれも三春の写真であり、下の方には就寝中の無防備な姿を捉えたものまである。同じく精液の臭いがこびりついたものすらある有様だ。兄はいつの間に自分を写したのだろうかと、これには三春も相当の気恥ずかしさに襲われていた。
「間違いなく、信夫君は三春ちゃんで抜いていたんだよ」
「こんな写真まで……酷い!」
 次々と自分の痴態を見せられれば、流石に三春も気持ちが折れる。慌てて全てをしまって箱を閉じ、元通りの位置に戻す。臭いから少し解放された平助とは別の理由で、三春は目元に涙を浮かべている。入れ方など既に滅茶苦茶になっていたような気もするが、既に先程の机の時のような余裕はない。
「噂通り、信夫君が好きなのは三春ちゃんだったみたいだけど……」
「知らない!」
 平助が告げた事実は、先程までであれば三春を喜ばせるものであっただろう。しかし声を荒げて部屋から飛び出す三春が、それを素直に喜べるとはとても思えない。平助もこれは流石に信夫に申し訳ないと思いつつ、このままここにいても仕方ないと部屋を後にする。あの部屋の空気はもう重すぎるらしく、廊下に出ることで少し平助の気持ちも軽くなった。ふと玄関の方で声がしたので見てみると、信夫がなぜか両親に引きずられているのが見えた。こいつも意外と本当にどうにもならないやつだと、平助はますます頭を痛める。



 中止になった会食の代わりは、いつも通りの母の手料理であった。今まで特に何かを思うわけでもなく、そこそこ喜ぶ程度で食べていた。しかし急に特別なものとなったことに、信夫はどこか寂しさを感じる。さらに信夫の心に影を落としたのは、三春の態度であった。食事中はずっと黙りこみ、ついに一度も信夫と目線を合わせてくれなかった。
「何か、したかな?」
「さあよ?」
 いつもは食事が終わった後もこの場で残り、他愛もない話に混ざっていたはずである。しかし今は素早く食事を済ませ、すぐに食卓を後にした。どうにも信夫の胸には寂しさばかりが募る。
「信夫が城に行くなら、その時に三春を連れて行って欲しかったのですけどね」
「んぐっ!」
 まだ少し口の中に残っていたのに、そこを襲った唐突かつ鮮烈な発言。まさか両親も自分と三春を結婚させようという気持ちがあったのだろうかと。飲み込んだ魚の煮物はしばらく信夫ののどで暴れ回り、ようやく胃に下りて行ってくれた頃にはいい加減息が切れていた。
「どうしたよ、信夫? 別に三春も最初から仕官する気だったしよ? 何かおかしかったよ?」
「いえ……そういう意味でしたか」
 呼吸を荒げながらなんとか起き上がる。いつの間にか倒れ込んでいたことをも気付かせない発言は、しかしまったくの信夫の誤解であった。日々妹で自慰を重ねた自分と、先に目を覚ました直後の三春のあの発言。多分主因は前者なのであろうが、誤解自体は防げない二段構えがあったのが残念である。信夫は気恥ずかしさに囚われて、自棄とばかりに自分の皿に残った料理を掻っ込む。行儀の悪さはもう仕方ない。
「信夫、何か誤解でもしたよ?」
「気にしないでください! 今日はもう寝ます!」
 信夫は自分の声が上ずっているのにも気付けないまま、逃げ出すように居間を後にする。ひとまず廊下に出て、その場で呼吸を整えているのが聞こえる。両親は仕方なさそうに苦笑し、食卓で顔を見合わせる。必死に吹き出しそうになっているのを堪えること数秒、父は慌てて信夫が出て行った廊下の入り口に目線を戻す。そこでは食事を終えて出て行ったはずの三春が、兄の後ろ姿に目を輝かせていた。思わず気持ちが乱れてしまい、幻影を逆用して消滅させていた三春の姿が再び現れてしまっていたのだ。父は立ち上がりながら、急いで三春の姿を消しなおす。
「上手くいかせろよ、三春よ」
「はい。父上、ありがとうございます」
 おもむろに部屋に向かい始めた信夫の背後で、父と三春は小声で言葉を交わす。信夫はどこか意地っ張りで素直になれない部分があり、今の兄と妹の間柄が取り払われた後でも三春の気持ちを受け入れられないだろうと予想したのである。そうでなければ、どう思っているかは別にしても恐らく先の告白のことに触れて何か言うはずだ。三春は父に幻影での支援を頼み、兄の寝込みを襲うことにしたのである。
「三春にすっかり嫌われてしまったか……」
 信夫はがっくりと尻尾を垂れている。重い足取りで部屋で向かう、その後ろで三春が聞いているのも知らぬまま。部屋の扉を開けるでっぱりを押して中に入ると、さらに数歩進んで扉の内側に回り込む。四足という身体的特徴から、その位置に軽く回り込まないと扉を閉じられないのだ。その間に生じる一瞬の隙を狙えば、信夫との接触も扉の開閉の音も無く部屋に入ることができる。あとは信夫と接触するまでは、父の幻影の力で姿を隠し続けられる。既に三春が入り込んでいるなどつゆ知らず、信夫は扉の内側に鈴を吊るす。これからすることはまずもって見られたくはないため、誰かが入った時には音で気付くようにという仕掛けである。行為の最中でも音で気付けば、誤魔化しは苦しいだけで済む。もっとも、前提として中にいるのが自分だけである必要はあるが。
「お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね、か」
 信夫は呆然と、三春の告白の時の発言を反芻する。それを言った時の三春の表情は、紛れもなく現実である。本当はあの瞬間に、すぐにでも受け入れたかった。自らを処分することで支配されていた思考を思い出し、改めて呪う。どうにも改めて素直になるのがためらわれるのは、割といつものことではある。しかし今回は三春に酷く嫌われてしまったらしく、それは最悪な結果をもたらすこととなった。ひとまず体の中に鬱積したものをどうにかしなければ、このままただ苦しむだけである。
「やっぱり、どこかでもう一度話を出すべきだったか」
 信夫は声になっているかも微妙な口調でつぶやきながら、布団の端をくわえる。筆などの軽いものであれば四足の種族でも持つだけなら問題は無いが、布団のような重さを持つ場合は前足だけでは上手くはいかない。そのために布団の上端部分には布巾と取り付ける金具が備わっているほどである。信夫の部屋には明かりとなる物が無いため、窓から入る星と月だけが頼りとなる。それでも慣れた部屋なのだ、寝床の完成まではいつも通り問題なく進む。あとは寝台の裏に置いてある小箱を取り出せば、全ての準備が整う。
「それにしても、これもな……」
 小箱の口を開けると、いつもの強烈なにおいが鼻を突く。本能に駆られた時の記憶が引き出され、そのにおいは異様な欲望を呼び覚ます。同時に布団の上に散らばった写真には、信夫はまたしてもとばかりにため息を吐かされる。どこかのからくり師が作り出して以来改良を重ねられ、撮影機は数秒で撮影を完了させられるようになった。目の前で月明かりに映し出される写真は、一緒に堂々と撮ったものから盗撮したものまで。見せられないものは足がつかないように、やや遠くに店を構えるからくり師に現像を頼んだほどである。
「どうしたものか」
 罪悪感に駆られて捨てようとしたものも何枚もある。秘所を晒して寝息を立てる妹の写真など、兄としてはあまりに非道が過ぎる。だが、曲がりなりにも愛しい妹の写真を捨てることとてできるはずもなく。ただ箱の底に眠らせ続けるばかりであった。いつもの自慰の時に見ている写真は、日常のひと時を切り取った無垢な笑顔である。もしこのまま生活の場を城中に移すのであれば、まさかここに残すことなどできない。しかしこのようなものをどうして城中に持って行けようか。かといっても捨てることもできず。
「考えても仕方ないか」
 体に鬱積したものに思考を妨げられては、出る答えも出ない。信夫は雑巾だけを取り出すと、残りの写真は小箱の中に戻す。そういえばいつもは写真を下に入れて、雑巾は一番上に入れていたはず。今は何故か違うような気もしてきた。また浮かんできそうになった「雑念」を、頭を振って吹き飛ばす。寝床の上にうつぶせになり、やや腰を上げて自らの雄を雑巾で包む。あとは雄に前足を添えて、体と寝床で挟んでやればいい。慣れたものである。腰を擦りつけるように前後させ、前足は爪が立ちすぎないように肉球の動きに集中する。二回、三回。いつもはもっと時間がかかるはずなのだが、今日は火が灯るのはいつもよりも圧倒的に早かった。
「みは、る……!」
「何かな?」
 絶頂寸前で思わず上げてしまった、答えが来るはずの無い声。そしてあり得ないはずの答えと同時に自らの背中に重なる柔らかい毛並み。兄との体の接触をもって、三春を隠していた幻影は消滅する。月明かり程度しかない闇でも、白い毛並みはよく目立つ。信夫は自身の脳髄がはじけ飛ぶような感覚に襲われた。慌てて前足を突いて起き上がろうとすると、しかしそれは無かったはずの重みに邪魔される。それでも駆り立てられて無理に立ち上がろうとし……。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 信夫と三春はもつれ合うように寝床から転げ落ちる。鈍く重い音が、家の中に響き渡る。落下自体の衝撃の上に、さらに三春の体の重み。新たに全身にのしかかった衝撃に、信夫は動けなかった。うめき声も上げられない状態では、目先鼻先まで迫った状況に気付くこともままならない。においはまさにとばかりに鼻先に状況を伝えているのに、情けないものである。
「お兄ちゃん、もらうね?」
 三春の声は、のど元よりは明らかに遠い位置から出ていた。それもそのはず、このもつれ合う間に信夫と三春の頭の方向は逆になっていたのである。すぐ近くにある三春の秘所から漂ってくるにおいに、信夫はようやく気付くことができた。しかし時すでに遅し。
「ひゃがっ!」
 雑巾が弾き飛ばされていつの間にか晒されていた信夫の雄は、唐突にあたたかく柔らかい別の何かに包まれた。湿った感覚がとても強く、かすかにとがった固いものの先端も当たる。それが三春の口であるという事実は、しかし信夫の暴走しはじめた頭ではすぐには処理できなくなっていた。
「うぐぁっ! みはっ!」
 日々強烈な快楽をもたらしてきた自慰も、今の感覚には比にならなかった。既に声は言葉を失っており、制止を掛けるために呼ぼうとした妹の名前も形を成していなかった。思考も存在の有無すら把握できないほどで、たどり着いたただ一点も霞んでどうしようもない。
「だっ! まだっ!」
 ここで出すということは、すなわち妹の口の中で出すという一点。その一点だけが見えてしまったことが、皮肉にも信夫の快楽地獄をさらに鮮烈なものにしてしまったのである。まさか妹の中で出すなどできるわけがないと、信夫は必死に腹部に力をかけ始めた。ただでさえ仰向けで四肢が宙に投げ出されているというのに、さらに三春の舌は信夫の雄槍から気力を舐めとっていく。信夫が選んだのは、三春が攻め続ける気をなくすまで耐えることである。一方的に追い詰められていくだけの選択だというのに、なぜかそれでも信夫は必死に抵抗してしまっていた。
「ひゃっ! っは!」
 時に根元まで深くくわえこんだかと思いきや、その直後には先端付近まで外に出して吐息に晒す。様々な方向に激しい緩急をつけて、信夫の気力は確実に蝕まれている。それでもと必死に堪えようとした結果、逆に下腹部の鈍い熱は力を増していったのである。客観的に見れる者であれば、信夫の勝ち目はまず間違いなく無いと確信できる。



「ぃあぁぁぁっ!」
 見るまでもなかった。三春が内股を前足でさすった瞬間、信夫は悲鳴と共に達する。夕食の最中に脳裏によみがえった、昼間の三春の告白。ずっと悶々とし続けていた信夫には、その時点で結果が約束されていたのだ。背中を激しくのけぞらせ、本能は出すものをより奥に流し込もうと反応してしまう。下っ腹の奥は、重荷が下りたような快感に支配されている。その瞬間に見開いた瞳はまぶたに閉ざされ、信夫は闇の中の快楽地獄に身を落とす。
「っ! っはぁ……!」
 いつ逝ってもおかしくないようなほどの、信夫の荒い吐息。出し終えたのを確認するかのように数度、三春が雄の先端を吸い上げたのを感じる。その間も結局雄は勢いを保ったままだったのだが、信夫は痛ように近い快感に飲まれて気付けなかった。胸から後ろにのしかかっていた重みから解放され、雄を包む柔らかい熱から解放され。それにわずかに息を漏らすのがせいぜいであった。
「お……あ……」
 三春が何かを言ったのは聞こえたが、何を言っているのかはわからなかった。あらゆる感覚が狂いきっているのだろうか、ひとまず一声上げてだけおこうと信夫は考える。そう思ってうっすらと開けた目のすぐ前にあったのは、しかし再びの黒。夜の闇の色ではなく、自分たちアブソル人種の顔を覆う毛並みの色である。三春が妖しく笑みを浮かべてそれを待っていたのに、信夫はそれを理解することができず。
「……みは、る?」
「ふー? んー?」
 理解よりも先に思わず呼んだ時に返ってきた返事は、口も開かずに鼻先で出しているだけの返事であった。信夫はその瞬間は辛うじて意識を取り戻し、顔を上げて様子を伺おうとする。しかしそれもつかの間、すぐに三春の顔が信夫の顔に密着していた。
「ぐっ!」
「んうー?」
 信夫の唇は舌先でこじ開けられ、歯牙が並び成した壁が三春の舌に撫でられる。同時に歯の隙間から流れ込んでくる液体にも、結局信夫の理解は追いつかなかった。自虐を誘いたくなるような好奇心に負けて、雑巾に付着していた精液を少しだけ舐めてみたことがあった。三春の唾液の味は知らなかったが、今は明らかに自身の精液の方が多いことは分かった。
「いいよ? 嫌なら出しても。私のも混ざっているけど、嫌ならね?」
「うっ!」
 目と鼻の先から声に交じって流れてくる吐息のにおいも、やはり精のにおいがかき消していた。いつもの無垢な声と口調は、しかし逆に淫乱さを余計に鮮明にしている。流石に自分の精液を飲み下すのは嫌がるかもしれないが、それでも簡単に捨てられないこともわかっていた。あらゆる意味で愛している、妹の唾液が混ざっているからである。信夫は闇の中に輝く三春の目をしばし見つめ、観念した様子で目を閉じて飲み下す。
「よくできました。じゃあ、ご褒美」
 その二つの目の輝きの、野生的な禍々しさは一瞬だが強烈になった。信夫の嚥下の音は異様な重さと硬さを持っていたというのに、相当に待ち望んでいた様子である。その変化に信夫は恐怖すら覚えたが、それでも何をできるわけではない。四肢が宙に浮いており、両の脇腹は三春の前脚でしっかりと抑えつけられているからである。無防備な体を放すものかという三春に、兄としても情としても爪を向けるわけにもいかず。そもそもが胸を密着させられているのだ、爪も入り込ませることは難しい。思っていた以上に厚さと柔らかさを持つ毛並みがあるにもかかわらず、無駄な肉の無い胸は遠慮することなく三春の鼓動を伝えてくる。信夫の心身は、その深くまで三春の体に熱せられていた。
「ひぃあっ!」
「ぅっ……! お兄ちゃん、可愛い声を出すね?」
 信夫の雄の先端が、とても熱く柔らかいものに覆われた。先の三春の唾液がまだ乾いていないにしても、ここまで濡れているはずはないというのに。しかしそこまでわかっていて、どうして何が起ころうとしているのかが理解できなかったのであろうか? 一度出させられた後だというのに、そこはむしろ敏感になっているくらいである。一方の三春はというと、こちらもすっかり息を上げていた。先程兄の雄をさんざんに苛め抜いたことで、その欲望が完全に目覚めきってたのである。骨まで引きちぎるような音が聞こえてきそうなほど、信夫の雄は三春の秘所へと食い込んでいく。しかし三春も負けじとばかりに、その凶刃を自らの欲望でもって締め上げる。
「くっ……こんな……!」
「なに? この期に及んで……まだ恥ずかしいの?」
 三春は兄の顔を覗くため、胸を離して頭を上げる。その動きで兄の凶刃は、さらに深く三春によって飲み込まれた。兄にとってはまさに「締め上げられる」という表現がふさわしいだろう。兄は一度達してさらに余裕はないのだが、しかし全身を震わせている三春とて同じ様相である。兄に負けず劣らず相当の自慰を重ねてきたのだが、やはり妄想との壁が無い場所にいる本物は感じさせるものが違う。三春の言葉に信夫はなんの動きも見せないが、否定する様子が無いことを見ると間違いはなさそうである。歯をくいしばって目を閉じて耐える兄の呻き声に、三春はさらに目を輝かせる。
「私はあんな写真を撮られたのに、お兄ちゃんは今更嫌なの?」
 刹那、耐えるために閉ざされていた信夫の目が見開かれる。三春は快楽に押されて顔を歪めながらも、自慢げに見下す部分は確実に感じ取れた。その時になってようやく、先の小箱の中の写真の入り方がおかしかったのを思い出す。間違いなく、見られた。信夫の四肢からは完全に力が抜け、緩んだ目元からも雫が落ちる。
「やっとおとなしく……なってくれたね? それじゃあ、お兄ちゃんは私の……物だからね」
 言いながらゆっくりと腰を下げていくと、欲望に反して三春の体は軋むような悲鳴を上げる。今この瞬間までどのようなものの侵入も無かった、そこは言うなれば聖域のような場所である。それを強引にこじ開けていくのだから、三春の痛みは想像を絶する。しかしこれはどうしても必要なこと。ただでさえ素直になれない兄が、そうでなくとも破壊は非常に難儀となる心身両方に立ちはだかる壁。今破壊しなければ、信夫が独り城中に戻った後はどうしようもなくなるからである。
「お兄ちゃん、痛いよ……」
 三春は体を落とし込むのを一度止め、涙を浮かべた瞳で兄の顔を見やる。可愛い妹に邪な情を抱き、写真や今の痛みという苦痛を幾重にも重ねさせている今この瞬間。侵入に関してはむしろ進めているのは妹の方であるくらいなのだが、それをも全て兄に押し付けて逃げられなくしてやろうと。信夫はそんな三春の声に、わずかだが顔を強張らせる。その変化はわずかであったが、三春は状況の進行に得心の笑みを浮かべる。だが、ここまで来て最後の一押しに踏み込めなかった。自慰には全くない痛みは想像を絶しており、欲望と見えない中で格闘したまま前に進めないでいたのである。
「あと、少しなのに……」
 板挟みになって動けないでいる三春にとっては、そのあと少しが大きすぎたのである。一方の信夫はというと、終わったと言わんばかりの表情で全てを投げ出したまま動かない。そんな何一つ動かないまま進まない状況がいつまで続くのかと、三春は一瞬思った。しかし中途半端な位置で四肢を張っている状況は、そんなに長く続けられないことに気が付く。三春の足は少しずつ攣りはじめ、踏ん張っている足の肉球周りの力が一気に緩んだ。
「んぶっ!」
「ひあああっ!」
 ゆっくり下りてくるだろうと思っていた信夫は、胸に直撃した重量に肺の空気もろとも声を吹き出す。一方の三春は、体の奥底を引き裂かれた痛みに悲鳴を上げる。そんな二つのこだまが霧散するまで両者に動きは無く、信夫の刃は三春の中で虜囚となったままであった。苦しいなどという程度のものではない。それは柔らかい熱による締め上げが続く、生も死も許されない獄中のような場所であった。そんな兄の苦悶もつゆ知らず、三春は信夫の胸を覆う自分と同じ厚い毛並みに顔をうずめたままである。すぐに痛みは引き始め、代わりにそこに染みついた兄のにおいに囚われてしまったのだ。こうして兄と体を密着させるなど何年ぶりであろうか。幼少の頃との違いは、三春自身が一人前の女性としての本能を持つようになったことである。
「やっと、やっと……!」
 ようやく顔を上げた三春は、潤んだ瞳を兄に向ける。長年の切望が叶う時が来たと、その深いところまでは知らずともそんな思いは理解できた。三春にとっては切望どころではない。何年も毎晩自慰を重ね、しかし快楽はあっても体の内側を満たされることは無かった。体の内側の満足で言えば、男性と違って相手が無ければどうしようもない。だというのにその求める相手というのが実の兄であったため、進めずにいた日々。いよいよその飢えた奥底を満たす時である。三春はゆっくりと腰を引き上げる。
「ぁっ……! かぁっ!」
「お兄ちゃぁんっ!」
 先程と違い通り道が完成したとあって、この前後の動きも比べ物にならないほど円滑になった。最大級の快楽に、信夫の喉からは咳のような嬌声が漏れる。二度、三度。信夫はまぶたを震わせると、次の瞬間には三春の突き出しに合わせるように自らの腰もねじ込む。それは三春の奥底にまで自らの子種を届かせる、本能に命じられた反応であり。
「あぅあっ!」
「ひゃあぁああんっ!」
 三春が長年にわたり飢えさせてきた場所を、一気に満たす結果になった。吹き上がる熱が奥底まで浸透していき。兄が力なく腰を床に落とした後も、数秒は四肢を震わせながら余韻に浸る。立ち続ける力はすぐに失われ、三春は信夫の隣に倒れ込む。倒れ際に脚を絡ませて信夫を引っ張り、自分と向かい合う格好にするのも忘れなかった。荒い吐息が漏れる兄の口に、軽く自らの唇を重ね。
「どこに行くことがあっても、連れてってもらうからね……。お兄ちゃんは私の物だからね……?」
 三春は気の抜けた顔の兄に、その契りの意味を告げる。自らの体の奥深くに捺印され、契約書は既に信夫の手の届かぬところとなった。ようやく満たされた達成感に、三春はゆっくりと意識を手放そうとする。一方の信夫は、そんな三春の声に混じるにおいに何かを目覚めさせつつある。先程の自らが吐き出した残渣もまだまだ残っているが、だいぶ飲み下したらしく妹の気配もかなり混ざるようになっていた。
「何が……何が、お前の物だ?」
 からませていた三春の前脚は不意にほどかれ、そこから兄のぬくもりが離れる。いつもの自慰の時は目の前に三春がいることは無かった。だから一度出してしまえばそれで体は満足してくれる。だが今は目の前に自らを駆り立てる存在があり、一度や二度では許してくれそうにない。信夫は左の前足後ろ足で三春の体を引っ張り、全てを晒した仰向けの姿勢にする。
「お前が俺の物なんだ!」
「え? ひあっ!」
 いつの間にか復活したのか、今出した後もそのまま力が落ちなかったのか。張り上がった自らのもので信夫は妹の秘所を突き込む。先の行為で緩んではいたが、それでも熱や締め具合は十二分である。信夫は悲鳴とも嬌声ともつかない声を上げる三春の中を、狂ったようにかき回す。そこから飛び散る光る雫は、どちらが放ったものなのだろうか。先の二度の放出で、信夫の奥からせり上がってくる動きはだいぶ遅い。だが、生意気なことを言った妹への制裁だと思えば十分である。
「喰らえぇっ!」
「やはあぁあああん!」
 信夫の踏込と同時に、三春も股の開きを大きくして兄を迎える。先程と上下は逆転しているが、やることは結局同じらしい。声では嫌がっているようにも感じるが、体の反応はあんまりなまでに正直だ。攻め込んできた兄のものを、反撃で再び締め上げ搾り取る。信夫の方も三度目だと出尽くしたようで、その刃から力は抜けて締め上げの中から転げ落ちる。三春の目元と自分の先端、どちらからも跳ね返る光が異様にまぶしい。
「そこまで言うなら望み通り連れて行ってやろう。今更嫌とは言わせない」
「お兄ちゃん、ありがとう」
 これから城中でどのようなことが起こるかわからないため、信夫としては連れて行くのに少なからずためらいがあった。しかし最初から三春も仕官するつもりでいたわけで、そうなれば結局行先は同じである。それに何となくではあるが、三春がそばにいるのといないのとでは違う気がした。自分の胸中の越えられない壁のようなものが、三春がいれば越えられるような気がした。月明かりから外れた位置でも明るく浮かび上がる、それはあられもない痴態である。しかし踏み込めずに苦しんだ自分の中の壁を越えた、その先の約束の場所にも見ることができた。
「それにしても、なんでこんなに明るい?」
 雫が光り、痴態が浮かぶ。しかし月明かりは自分たちから外れた位置を照らしている。もし扉が開いていれば、この位置であれば明かりは入ってくるであろうが。三春には入り込まれたにしても、しっかり閉めたのは確認した。今も現に閉まっている。と、そこまで考え至ったところで廊下から声が聞こえてきた。それはいつもの扉が閉まっているときの感じとはまったく違う。三春もそれに気付いたのか、重いまぶたをゆっくりと上げる。
「お兄ちゃん?」
「どうやら、害獣が入り込んだらしいな」
 聞こえてくる声は三つ。どれも聞き慣れたものである。うち二つはまあ許容範囲とできたが、もう一つは間違いなく信夫には耐えがたいものであった。すぐにどのような処断を下すかを考え始める。ここで流血沙汰にしては汚物が大切な家の中に飛び散ることになる。三春も昼間「汚物」との表現に納得したが、そのようなものはどこに処分すればいいか。信夫は一つの答えに行き着く。
「神の家の一族になってもらうか」
「どういうこと?」
 起き上がるも首をかしげる三春に、信夫は軽く不敵な笑みだけを返す。おもむろに扉の前に向かい、前足で触れてみる。そこをふさいでいた扉は霧散し、代わりに全く違う光景が現れた。既に大きく開かれた扉と、今なお状況を知らずに続くその場の乱れた光景。信夫は甲高い男の声をしばし聞いた後、それに上手く合わせた言葉を放つ。刹那凍りついた場の空気は、三春にも修羅場を感じさせた。



 塗り固められた土の床の上で、平助は寝転がって丸まっている。両の後ろ脚は左右に大きく開かれ、その間に自らの顔を突っ込んでいる。口元からは壮絶に腫れ上がった雄が見え隠れし、自らの口で吸い上げようとしているのが分かる。本来胴長の四足の種族であれば、男女問わず自らの口で事に及ぶのが一般的ではある。
「考えてみると、やっぱり少し刺激が弱いような……」
 肉槍から口を離すと、平助は至れそうででもなかなか至れず。焦らされ溜まった感情に声を漏らす。これが自分ではない異性のものであれば、舌から受け取る刺激は相当のものであろう。現に先程、親友は妹の舌で痴態を晒したほどなのだから。しかし今の平助は到底そうは言えない状況である。目も鼻も舌も突きつけられる自分の物を理解しており、自慰であるという現実から解放してはくれない。信夫は前足をあてがい寝床と体重で圧迫していたのだが、それができれば刺激の強さだけでなく自慰を自らが認識する方法も大幅に制限され。
「できるんならやってみたいよな」
 信夫の場合は何度もそれを繰り返してきていたようである。そんな兄のやり方に驚かなかった様子を見ると、三春も同じようなやり方をしていたのではないか。どちらかが先でそれを見たもう片方が真似をしたのかはわからないが、この兄妹は相当慣れている様子である。しかしこんな発想などまったく無かった平助には、急に真似をしようとしてもできない。結局いつもの刺激で我慢するしか方法は無かったようである。それでも今は目の前で、悲惨なまでに乱れた光景が繰り広げられており。自らを目覚めさせるのにはこの場は十二分である。しかもそれだけではない。
「まあ、俺も俺で写真でも当分は楽しめるからね」
 兄妹相乱れる脇を幻影をまとったまま通り過ぎ、留め具もかかっていない小箱を盗み出して抜け出した。手口としては非常に鮮やかである。しかもそうして盗み出したものは、平助にとってはやはり秘宝と呼べるものである。においを上手く落とす方法は考える必要があるとしても、そしてそれを「秘宝」と呼ぶ自らに壮絶な情けなさを感じたとしてもである。先程の信夫のどうにもならない姿は、平助に何とかしてやりたいと感じさせるものであった。この作戦を考え出すと信夫の目線の隙を突き、若松の父にこっそりと伝えた。そして計画通り信夫は望んでやまないものを手に入れる結果となったので、濡れ場の光景とこの写真を報酬とすることにしたのである。当分は自らの処理の引き金には困りそうにないので、平助としても御満悦の結果となったのだ。ただし……。
「お互いまだ三十半ばよ? 十分現役だってよ」
「って、おじさんずるい!」
 自らの身の寂しさをますます思い知らされる結果ともなったが。平助は濡れ場を覗くために父親に幻影の力を借りたのだが、この両親も一緒になって見ていたから恐ろしい。嬌声を上げて乱れる二人は、結婚にはまだ少し早いような年頃で三春を誕生させるに至った。子供たちはもう十分な年齢になったのだが、それでもどちらもまだ衰え切る歳ではない。ただし自分たちが育て上げた子供たちの乱れる姿を覗き悦ぶことは、とても年甲斐があるとは言えないが。
「平助君も、早くいい子を……ああっ!」
「一番いい子を目の前で取られたばっかりなのに! もう今はおばさんにしてもらうしかないよ!」
 流石に平助もある程度は冗談のつもりでいる。父親に睨まれたりしたわけでもないのだが、母親からはある程度距離をとっている。それでもこの場を乗り切らせてくれるのが三春の母親であれば、平助にとっては十分な妥協点だ。厚みと柔らかさを持つ襟巻のようなアブソルの毛並みは、しかし夏冬の換毛で伸び過ぎることは無い。そのため娘同様無駄な肉の無い胸は、隠れるどころかむしろ切れ目で強調されているくらいである。話し口調は少々違う感もあるが、母親の血を色濃く引く三春を思わせるには十二分である。平助は合意を得る最後の望みとばかりに、母親に向けて自分の後ろ脚を大きく開いて見せる。ヘルガーの腹から股にかけては毛並みが赤く、周りの黒い毛皮と対照的でよく目立つ。それはまるで普段は隠すべき場所に連なる道であるかのように。
「平助よ、今は諦め……ろよっ! もうずっと言ってたよ、三春はお前に脈なし……ふぐぁああっ!」
「本当にこの家族は揃って! 俺のは信夫君のよりも大きいんだから、本当なら絶対三春ちゃんを満足させられるんだからね!」
 その連なる道の先にそそりたつ逸物は、平助が言うだけあって太く猛々しい。しかも信夫のものははち切れんばかりの極大に達しても、先程見た限りではそこまでではなかった。もちろん三春を喘がせるには十分な大きさを持っているらしいのだが、平助や父親の物と比べると明らかに頼りない。三春があれで満足するのなら自分はもっと悦ばせられると、平助は起き上がりながら抗議する。あまりにも間が悪すぎた。父親の腹が白く染まった声も相まって、三人は忍び寄っていた影に全く気付かなかったのだ。
「そこまで見ていたわけか」
「まったくだよ! でもまあ、安心できたけ、ど……ね?」
 両親は慌てて起き上がる。平助はというと真後ろからの声に縛られて微動だにできなくなった。この瞬間は平助のものはその姿を誇示しており、信夫の位置からだと両脚の間からとてもよく見える。この瞬間から恐怖により萎縮に転じ始めたが、それでも信夫の極大より小さくなるにはもう数秒ほど必要としそうである。薄々信夫自身もその大きさには不安を感じていたので、ここまではっきりと言われるといっそ清々しい。
「信夫よ! どうして気付いたよ?」
「なんだか部屋が妙に明るすぎたので。父上母上にはこれも親孝行だと思うことにしますが……平助?」
 信夫からの指名で、平助の体はひとしきり震え上がる。信夫の語調口調は全く変わっていないようで、刻一刻平助の体に突き刺さっている。先程の抗議から表情の微細な変化すらも無く、恐怖に震えることすらできない。
「信夫君、もう少し話し合うことはできない?」
「なら、お前が何に安心したかを一応聞いておこうか」
 この瞬間、平助は既に助からないことを覚悟した。最後の「聞いておこうか」よりも、その前の「一応」の方に信夫の意思が感じられる。平助はもともと動きが鈍い方であったため、信夫が本気で襲い掛かってくれば受け切ることはできない。しかし訊かれたことはその答えを踏まえれば、ひょっとしたら信夫も差し引いてくれるかもしれないという淡い期待もあり。期待というよりは完全に妄想であろうが。
「いや、信夫君に性欲が無いんじゃないかって心配だったから。兄さんの一件でそうなっちゃったんなら、俺としても辛いことだからね」
「そうか、平助は友達思いだな」
 信夫からの返答に、平助も一瞬安心した。抗議の時の表情がようやく緩み、息を吐こうとした。その瞬間を狙ったように、信夫は前足で床を擦り鳴らす。獲物を仕留めるために迫る、さながら捕食者のように。平助の表情は一瞬緩みかけた、中途半端な情けない表情で再び固まる。
「それで信夫君、今俺に何かしようとしているのかな?」
「ああ。お前の友達思いを称えて、神の一族にしてやろうと思ってな」
 神というのは人の届かないところにいるものであり、例えば死者の魂が集まる世界で裁きを下している。そしてその神の一族にするということは、すなわち死刑に処すという意図を持っているのであろう。途端に涙を漏らし始める平助の表情は、先程の中途半端な情けない表情のままである。その顔を正面で見ていた両親にとっては、それは見ていて非常に気持ちが悪いものである。哀れな奴だとか自業自得だとか、そんな苦笑を誘うばかりであった。
「あは……は。信夫君、友達なんだからそんな神にするとかどうとかって必要ないよね?」
「大丈夫だ。お前は俺を友達だと思っているみたいだが、俺は何とも思っていないからな」
 最悪だった。いや、平助は最悪の音も出せなかった。単に情事を覗かれたくらいで処刑を決定するなど、横暴をも超える非道でしかないと言いたかった。ここまで無駄に終わった説得を平助は知らない。信夫の更に後ろから駆け寄ってくる軽い足音に、平助は最後の救いを求めることにした。
「三春ちゃん、お兄ちゃんを止めてくれないかな?」
「私も平助さんなんかが神になれるんなら、一度見てみたいかな?」
 この時になってようやく、平助の表情が一気に引き締まる。命の危機に晒されている友人を前に「なんか」と言い捨て、助けるどころかさらなる追い討ちまで来るとは思わなかった。三春にしてみれば自分の情事を覗かれたことは十分な恥であるため、そうした平助の処刑は当然とすら言えるのだが。信夫はもう一歩にじり寄って床を擦り鳴らす。救いがあるわけでも戦って勝てる相手でもない以上、平助が助かる方法はただ一つ。ようやく平助の全身に力が入り始めた。
「うおぉおおおー!」
「逃がすか!」
 平助は涙と悲鳴を豪快に吹き出しながら、一気に駆け出した。信夫も即座にその後ろを追いかける。二つの情事の臭いが絡み合う異様な空間。三春も両親もまずは苦笑を合わせるところから入った。
「父上も母上も、今のはなかったんじゃないですか?」
「ごめんなさいね、三春。信夫も三春もいなくなっちゃったら、その後は私たちだけだと寂しいので」
 三春の口調はどこか憮然としており、左右の頬の毛は激しく逆立っている。あろうことか両親が息子と娘の交わる姿を覗き、果ては自分たちの行為にまで発展させるとは。ここまで激しく欲求に荒ぶる血を引いていると思うと、自分がここに落ち着いたのが奇跡と思えてならない。父の噂も相当すごかったらしいのだが、母とて十二分にその域に達していると思えてならない。それぞれが重々しく一呼吸置く中、平助の悲鳴と激しく門扉を開く音が上がる。
「ところで三春よ、信夫は『黒いまなざし』を使えるはずだろうよ?」
「……はい。でも、たぶん今はあえて使わないんだと思います」
 父のこのごまかしに対して、三春も母もそこに触れようとはしなかった。これ以上この話題を続けたところで、ただ場の空気が重くなることは分かっていたからだ。件の「黒いまなざし」という技は、相手をその場に縛り付けるというものである。自分たちも先程の話題に縛り付けられるのは御勘弁願いたかったのだが、必死に逃げている平助にはそれ以上であろう。ただしこちらでは一度誤魔化しきったらすぐに逃げられるようになるが、平助の場合は信夫を振り切らない限りまだ縛られる可能性がある。
「なんでよ? ああして追いかけるだけで十分なのかよ?」
「違うと思います。多分……」
 平助の声は徐々に遠くなっている。日はとっくに暮れているが、外は一応天下の往来。精液の臭いをこびりつかせた信夫との追いかけっこは、どう考えても道行く人に恐怖や誤解を植え付けかねない。しかしそれが気にならなくなるほど、どちらも怒りないし恐怖で必死なのだろう。一応この時間帯だと外を歩く人は少なくなりつつあるという点はあるだろうが、彼らが考えているとは思えない。
「丁度いい場所を狙っているんだと思います。平助さんに最大級の制裁を下す場所を」
「そうですか。でも、平助君なら問題はなさそうな気がします」
 三春は喜ぶでも苛立つでもなく、平助の末路を無慈悲に言ってのけた。その具体的な手法までは想像もつかないが、少なくとも死ぬ程度でも済まないことは確実であろう。そして母親も納得とばかりに、軽くうなずくのみで終わらせる。よそ様の家であるというのに、平助がこれほどまでに救われなくなる原因はなんであろうか。
「間違いないですね。死んじゃうかもしれないけど、平助さんだから関係ないよね?」
「信夫が言ってたあれを揶揄かよ? あれ、まさかお前の告白だったのかよ?」
 呆れた口調の父親の言葉に、三春は左右の頬の毛並みを逆立てながら笑う。告白の言葉としてというのもそうだが、そもそも血縁の無い兄に告白するという状況が幾重にも斬新である。色好きの血を争えないことはどうやら間違いなさそうだが。



 どれほどの時間逃げ続けたのかは既に分からなくなり、平助の肺は張り裂けんばかりである。足は何度ももつれ、それでも迫ってくる足音。何度も袋小路に追い詰められて、しかしそのたびに踏み込めば辛うじて突破できた。あの信夫相手に自分もここまで頑張れるのかと。それでも逃げ切れなければ意味が無いと走るうちに、畑の間を通る道を走っていることに気が付いた。目の前は三叉路になっており、どちらに行こうかと回らない頭で決めようとしたその時であった。
「うわ! 足が!」
「手こずらせやがって!」
 平助の足は、何かに打ち抜かれたように動かなくなった。悲鳴を上げる平助は、信夫の声にようやく「黒いまなざし」の技を思い出す。まさか今までにない自分の快進撃は、この場所に来ることを誘われたものだったのか。平助がどこにどう逃げるかを予想するなど不可能だが、しかし逃げ続けさせればいずれ到着したであろう。しかしなぜこの場所なのか。
「死ね!」
「いやあぁ!」
 疑問の前に信夫の声が全てを支配した。信夫は頭を右に傾け、頭の鎌を振り上げる体勢になる。朝の挨拶の時の悪戯の制裁には、いつも「くたばれ!」と吠えながら鎌を叩き込んでいた。言葉の違いから信夫の勢いの違いも確実で。振り上げられた信夫の鎌の峰は、まっすぐ平助の両脚の間に入っていき。
「ぉっ!」
 左右に二つ並ぶ膨らみの片方を打ち据える。平助の悲鳴は声にもならないものが短く掠れただけで、即座に白目を剥いて全身を引きつらせる。男性にとって最大の急所を、しかも後ろ半身が浮かび上がるほどの威力で打たれる。そうして上向きになり上から打ち据えやすくなったそこを、信夫はもう一度鋭く狙い澄ます。
「ーーーぁっ!」
 もう一つの膨らみと長さを持つものを狙い、鎌の峰を一気に振り下ろす。平助の関節は押されるがままに曲がり、わずかに支えていたつま先の力も失う。二度にわたって打ち込んだそこの感触には、流石の信夫も顔をしかめずにはいられない。しかしまっすぐ飛んでいき狙いの場所に沈んだ平助の姿で、それは得心の笑みに変わる。
「ここなら汚物にはちょうどいいな」
 三叉路の分かれ目には、異様な臭いと存在感を放つ「それ」がある。平助は肥溜めの中に前半身を埋め、後ろ半身を晒す。まるで墓標のように後ろ半身だけが晒されるその姿も、信夫の狙い通りであった。
「あの演目も見事なものだな」
 それはとある家の一族とかいう題名を掲げた演劇で、その一族の者の一人はまさにそのような死に様を晒した。その者は直立の人種であるため「後ろ半身」ではなく「下半身」というにしても、それだけを晒して残り半身を埋める点では同じである。しかしその場所は沼の真ん中であるが、間違っても肥溜めではない。睾丸を打たれて落ちた肥溜めという意味では、平助はあまりにも哀れである。周囲に浮遊する臭いはより禍々しさを増したので、信夫はそれを鼻先で払い踵を返す。華麗な出来に自分でも思わず得心してしまう、さながら仕事人の表情であった。



 わずか二日という短い時間だったにもかかわらず、里中は一気に騒然となった。去年の大洪水でもこれほどの騒ぎにはならなかったであろう。断絶すら心配されつつあった領主小名家の、行方不明になっていた若君が見つかったというのだから当然だ。それが信夫であるということまでは発表されなかったため、城中から武士たちが迎えに来るこの日まで信夫はさほど変わらない生活をできた。
「いよいよだね、お兄ちゃん」
 ただ一点を除いて。相も変わらず三春は兄と呼ぶが、それでも間柄には間違いなく変化がある。城中から「供は二人まで」という通達があったので、まず三春が両親に願い出た。三春が行くことについては両親も快諾してくれたが、父母のどちらももう一人になることは拒んだ。城中に媚を売るために信夫を育てたと思われたくないこと、今更城中に入るなど気が重いとのことであるらしい。結局もう一人の供は決まらず、家の門の前で迎えの武士たちを待っているわけだが。
「父上母上にも、見送ってほしかったんだがな」
「お兄ちゃんが城中の生まれだって現実を見たくないって、気持ちはわかるからね。やっぱりお兄ちゃんの帰る場所はここなんだよね」
 一緒にいるのは三春だけである。信夫は何度か声を掛けたのだが、両親はそう言って聞かなかった。両親の気持ちは分からなくはないが、それでもこれはどこか寂しい。遠くから近づき始めた太鼓や尺八の音も、どこか現実味が無くなっている。
「忠勝様はお前が帰ってくる日を楽しみにしていたんだ。そんな顔はするな」
「日和田教官!」
 いつの間に入ったのか、門の内側から招く声。信夫と三春は周りに気を配りながら、日和田教官にこっそりと駆け寄る。町の人たちは城中の迎えの列を見物に行くため、城の方へと出払っている。しかしいつも通りの生活を続けなければならない人もいるわけで、そういった人たちにこの状況を見られるわけにはいかないのだ。
「ご自宅に謹慎と聞きましたが、出てこれたんですか」
「ああ。一つだけ伝えておこうとな」
 見物人たちの喧騒は、まだ少し遠い。この辺の人たちは今頃向かっている方向に驚きつつあることだろう。日和田教官は実際にはもう教官ではない。連れ出しの罪のため役を解かれ、洪水後に住んでいる仮の自宅に軟禁状態なのである。死刑という声も根強かったのだが、忠勝が「帰ってくる息子を迎える前に城中を血で汚すとは何事か」と言って軟禁という仮の処分としたのである。
「城中の連中は、忠勝様が私にお前の連れ出しを命じたことを知らない。私が勝手に連れ出したことにしている」
「そうですか。確かに奴らがこの後どう動くかを思うと、その方がいいかもしれませんね」
 先の話から忠勝が喜んでいるのは間違いなさそうだが、配下の権力者たちはどう思っているだろうか。断絶を考えて手を打ってたという噂もある上、若君が信夫であるから余計に危険視されている。逃げも隠れもせずに反権力の本心をさらけ出していた信夫は、随分と早い段階から目をつけられていた。もちろん家は違えど常磐丸の実弟として平助も最初は同じだったが、すぐに信夫一人になっていた。信夫をなだめようとしてそのたびに打ちのめされて、そんな反省の無い姿にいつの間にか平助は警戒されなくなっていたのである。
「最悪は命も狙われるかもしれない。覚悟はできているな?」
「戦うことになるなら、やられてやる気などありません。ただ、戦う必要があるのかはわからないですがね」
 日和田教官が覗き込んできた目線に、信夫は全ての信念を乗せて返す。自らの目的の所在地もしっかり把握し、重苦しい感情も含めて全てが将来に向かっている。信夫の「戦う必要があるのかはわからない」という言葉には、そういったものが含まれている。日和田教官はその言葉に得心の笑みを浮かべると、次の笑みには皮肉を含ませた。心の底から師弟らしい会話をしたのは、間違いなくこれが初めてだ。自分は解任されて教官ではない、既にただの「日和田楢葉」でしかないというのに。本当に皮肉なものである。
「それにしても、平助はどうしたのだ? 供として連れて行くと思ったのだが」
「え? あいつが供として行きたいと?」
 藪から棒の楢葉の言葉に、信夫は目を丸める。それはこの前の汚物として叩き込んだ一件を思っているわけではないが、ずっと見ていた平助の様子から無いだろうと思っていたのである。里の更生を願うのは平助とて同じなのだが、平助の場合最初から権力者を打破しようという考えが見受けられなかった。追及に来た権力者を言葉でもって完膚なきまでに叩き潰した信夫に、これからは仲間になるのにやり過ぎだとなだめ続けた平助。もちろん信夫の隣にいることでやり過ぎを止めるという狙いがあるなら別だが、信夫が二心を持つようなやり方に寛大ではない。それは平助もよく知っているはずだが……。
「間に合う! 寝坊はしたけどまだ間に合うはず……ぐがっ!」
「平助さん、相変わらずだね……」
 少々心地良いくらいであった緊張感は、平助の間抜けな声をかき消した爆音の中に霧散する。覗き込めば大量の木箱の下から、またも平助の後ろ半身だけが姿を晒されている。無様さに輪をかけた先程の「寝坊」の一言に、信夫と三春は尻尾を垂れてため息を吐く。反省はしないし動きは鈍い、だからなだめに入った平助が一番痛めつけられる結果に終わる。その繰り返しで、信夫と権力者たちの間でも平助に対しての心象だけは一致してしまっていた。だというのに、一方の楢葉は何かを知っているような含み笑いを見せる。
「どこまでが平助の本心か、あいつは本当に上手く偽っているものだ」
「偽る? あいつがそんな?」
 三春の前でなどもっと悪く、執拗に言い寄ってはやはり信夫に制裁されることの繰り返し。いつまで経っても変わらない態度は、既に呆れることもできない域に達することも多々あった。誰も疑ってはいなかったはずである。しかもそれを信夫たちよりも先に、仇敵であった楢葉に気付かれてしまっていたと言うのだ。とても信じられるものではないだろう。しかしそれを語る楢葉の目には、まったく歪みが無かった。
「敵を欺くにはというだろう。少し優秀なだけの新人が目をつけられるということの危険さは、あいつは自分の兄のことだからよく知っているのだ」
「まさかお兄ちゃん、常磐丸さんのようなことになりかけていたんですか?」
 よく言われることわざは信夫たちも知っていたつもりである。しかしそのような欺きを「里の更生」という目的のために使うだろうかと、そこまで疑うことすらできない話であった。常磐丸の死がどういうものであるかを別の角度から考えたのでなければ。里の更生を図っていた若者が少なくなかった中で、何故その時は常磐丸だけが狙われたのか。場合によってとしながらも権力者たちの追放も視野に入れ、発言にもそのような考えが少なくなかった。そして更生を考える者たちの中でどんどん中心的な役割となっていた。まさに数日前までの信夫と同じだと思うと、三春も含めて背中のうすら寒いものを感じずにはいられない。だが楢葉は、氷属性技を使わない寒さをさらに重ねた。
「忠勝様の実子だとわかったから脱したとでも思ったのか? 手に負えないようであればそれでもやられる。さっきも言っただろう」
「くっ……! 確かに。だが、上等です」
 信夫は一瞬であるが苦い表情を浮かべる。手にかかって命を奪われることへの恐怖はもとよりないのだが、城中のそんな現状には少なからず衝撃があるのだ。自らの欲得を満たすためであれば君臣の間柄すら簡単に捨てられるほど腐りきっている、そんな城中の様。ある意味ここで飛び込んでいくということは、逆に彼らの悪意をより速く呼び起こすことになりかねない。それは信夫だけでなく、いつも隣にいることになるであろう三春にも襲い掛かる。自分であればまだしも、狙われるのが三春であればどうなるか。信夫は楢葉になおも強い目線を返すが、少し頬がこわばったのは分かった。
「私も、お兄ちゃんの傍にいれば大丈夫です」
「お、い……その!」
 そんな強張った頬に、即座に柔らかい感触が合せられる。胸周りもさることながら、頬の肉で柔らかい顔の毛並みも至高である。信夫と三春の今の間柄は、周りに余計な憶測を生まないために隠し続けてきた。外でこのようなことをするのは初めてであるし、楢葉という人目もある。頬を今度は毛並みを逆立て、取り乱す信夫の様には楢葉も笑みをこぼす。
「どうやら、心配する必要はなさそうだな。世継ぎのことも含めて」
「はい! 全部私に任せてください!」
 耐えきれなくなった信夫は、三春にすり寄られたまま頭と尻尾を落とす。今まで見続けてきた強い信夫とは正反対の姿に、ついに楢葉も声を上げて笑ってしまう。年齢よりもとても大人びた姿を見続けていたために、それは余計に可愛らしいものであった。それが信夫の元来の異性に対する性質なのか、それとも成長の偏りが出ている部分なのかはわからないが。
「だが、やはり平助は連れて行け。こうなればいい加減あいつも本心を語るはずだ」
「わかりました。それなら……いいよね?」
 三春はようやく体を離し、しかし今度は目線をねじ込んでくる。今の三春にどこまでそういうつもりがあるのかはわからないが、こうして一歩離れて見つめられるのもなかなか心の臓に刺さるものがある。一瞬の間の後に、ようやく信夫は「今はそんな話をしているのではない」と我に返ることに努め始める。ため息混じりにうなずいて答えを返すまで、異様な間があったのは自分でもわかった。その間には楢葉も呆れながらも、まあ良しとしようとこちらもうなずく。
「もうそろそろだな。気を付けていくのだぞ?」
「ええ。ありがとうございます」
 信夫が礼を言いきる頃には、楢葉の姿はその場に霧散していた。しかし完全に去ったわけではないらしく、明らかにその気配を感じることができる。信夫を陰から守るべく警戒しているようである。権力者の息がかかった暗殺者であれば、敢えてここで信夫を殺すことを狙ってくるかもしれない。今のところ楢葉が何者かと戦ったような気配は感じられないが、状況が状況であるため警戒してもらえるのはありがたいものである。太鼓や尺八の音色は、すぐそこまで近づいていた。



 列の先頭のサーナイト人種は、信夫の前に着くなり丁寧にひざまずいた。列についてきた群衆は、それぞれの愕然からその場でどよめき出す。信夫を知る近所の者たちは「まさか信夫が?」と、知らない者たちは「あの青年には確かにどこか気品があるが、その後ろに埋まる半身はなんなのだ」と。武士たちは流石に鍛えられていて顔に出すことは無かったが、大体の者たちの本心は同じであろう。既に信夫だと知らされている者や、平助の性格を知っている者は多少違うであろうが。
「忠信様、お迎えに上がりました」
「ああ。ご苦労……大儀であった」
 すでに半分口から出てしまってはいたが、すぐに信夫は正しい言い方を見つけ出して訂正する。先日までは目上として接していた相手であるため、急きょ逆転したこの構図に信夫はかなり戸惑う。すぐ後ろの籠は八人ものチリーン人種の者たちで吊り上げられている。供の二人も一緒に乗せられる籠であるため、三春も三春で自分まで乗るのかと戸惑いの顔を浮かべた。周りを固めている武士たちの属性から、ある程度安心を見せるように努めてはいたが。
「では……私と三春をしっかり城まで運ぶのだぞ」
「ちょっと待って! なんで俺を言わないの?」
 派手な音を上げて平助は木箱を吹っ飛ばし、ようやく外に復帰する。ここまでされると武士でも平助を知らない者は唖然とした顔を浮かべる。ただし近所の者たちは平助を嫌というほど知っているため、出しても軽く鼻先で笑う程度で済ませた。木箱の音が収まると異様な静けさがあったのは、決して間違いなどではない。
「生きていたわけか」
「酷いことを言わないでよ! せっかく『不死身の両雄』の物語が幕を開けるところなのに!」
 本来今の平助の親しい者への口調は、即座に「若君に馴れ馴れしく話すな!」と手討ちにされても文句が言えない態度である。武士たちの反応がそこまで大きくないのは、信夫と親しい平助だとして手を出せないことが原因ではない。どこからどう言えばいいか困り続けながら、やっとの思いで信夫は口を開く。
「その、不死身とかいう変な呼び名はなんなんだ?」
「よくぞ聞いてくれたよ信夫君! これは昨日一日で俺たちの物語をどう呼べばいいかと必死に考えた、そんな努力の結晶なんだ!」
 平助が物語などを作るような奴であったかは、知る者たちも考えることができなかった。ただ一つだけ、信夫が踏んではいけないものを踏んでしまったということだけは一致していた。一応「武術の若松信夫、学問の西郷平助。今年の新入りは期待が大きい」という形でだけで知っていた者たちなど最悪で、噂と現実の落差に涙目になったほどである。しかしそんなことなどどこ吹く風という表情の平助に、信夫はこれ以上聞かない方がいいと災厄を予知した。
「それはまさに不死身というべき若松信夫と西郷平助の物語だ。信夫は若松家と小名家、平助は西郷家と白河家。二つの家の名前を背負った二人は、後に小町の里を大いに躍進させる。しかしこの時はまだ少し名を知られただけの新入りであった。その年の初夏、二人の物語は急展開を迎える。平助の兄である白河常磐丸を処刑した日和田楢葉は、信夫の動きを不審に思い後をつけた。常磐丸の処遇で火花を散らしたことも一つで、楢葉は信夫の動きを警戒していたのである。しかし信夫もまた楢葉に不信を感じており、結果親友たちを立ち合いに真で刃を合わせることとなる。相手は名を知られた歴戦のつわものだけあり、戦いは熾烈を極めた。楢葉は信夫に敗れ、膝を突いて真実を語った。信夫は領主小名家の血を引き、信夫に里のさらなる躍進を頼みたいと。信夫はしばし悩んだが、自らの志としてその場にいた二人と共に城中に戻ることを決意した。親友でもある平助と、兄と妹として一緒に育ってきた後の妻である若松三春。夕日に向かって去っていく楢葉の後ろで、彼らは決意に手を合わせた」



 まったく聞く必要が無いどころか、時間の無駄と苛立ちだけが重なっていく。どうしてこんなところでアブソル人種特有の災いを知る力が動き出してしまうのだろうか。唖然とする者たちの前で、平助はなおも物語かどうかも分からないような話を喋り続ける。
「お兄ちゃん……じゃなかった、忠信様。平助さん、止まりませんよね?」
「こういう時は一つしか直す方法は無い」
 三春が無理に使う敬語にすら、今はどうこう思うこともできない。壊れた何かのからくりのように無駄に回り続ける平助の口は、信夫が地面の砂を鳴らしても止まりそうにない。それどころか表情まで過去の苦労を自慢げに語る年寄りのようになり、性質が悪くなっていく。二歩、三歩。それどころか右の前足を振って物語に動きまで加え始めたところで、信夫は飛び上がる。
「くたばれ!」
「ぶぐぉっ!」
 いつもの平助である。道端に腹這いになり視界を明滅させるその姿は、とても若君の供であるとは思えない。若君も若君で、鎌を叩きつける動きで「今日も悪くないな」と動きの良さを確認する始末である。最初に「気品がある」と言った人など、既に群衆の中から逃げ出していたこの惨状。
「いつもいつも酷いよ信夫君! これじゃあいつか死んじゃうよ!」
「ぜひ死なせたいところだ。さっき『不死身』って自称したくらいだからな」
 先程語った称号で逆を突かれてしまい、平助は苦悶に呻き転げ回る。全くいつも通りの光景でありながら、しかし信夫と三春の心持ちはいつもとは違っていた。潜在的に胸の中で渦巻いていた存在とは共に生きることを決め、信夫はいつになく穏やかな気持ちになることができた。一方の三春の中の寂しさのようなものは、いつも当たり前にあった楽しい日々がこれで終わりとなると思わなければならないことからである。
「忠信様、そろそろ行きましょう。平助さんも、いい加減ちゃんと『忠信様』って呼ばなきゃ駄目だよ?」
「わかったよ。まあ……それじゃあ今だけは失礼しますね」
 籠に入っていった三春の迷いの無さは、周りにいる武士たちとの面識が全く無かったからというのもある。平助はその辺りの上下関係をしっかり体に備え付けているため、今だけは逆に籠に乗り込むことに戸惑いを持ってしまった。目上年上として頭を下げ続けていた武士たちが運ぶ籠に、小名家の若君でもない自分が乗り込んでいいのかとためらってしまい。しかし武士のサーナイトが細い腕を振って早く乗るように促したので、丁寧に頭を下げながら乗り込む。おかしな立場である。



 信夫たち三人は生まれてこの方籠になど乗ったことは無いため、空間に漂う居心地の悪さに非常に戸惑っていた。流石に若君を乗せるだけあって、籠の運びは安定しているのには感謝したいが。籠を担ぐ武士たちが信夫たちが共通で戦いやすい属性でまとめられていたのはあっても、これではどうしても慣れることができない。だが、それだけではない。
「三春、平助。聞こえているな」
「うん。この人たち、私たちに聞こえているのがわかっていないのかな?」
 籠の外からは、サーナイトをはじめ武士たちの声が聞こえてくる。それは「流石に実の父親相手の親不孝はできまい」を筆頭とした、信夫の目指す「里の更生」に二の足を踏ませるものである。籠には日や風を入れるための開閉式の鎧窓がついているのだが、開け放たれているそこからは遠慮なく武士たちの声が入ってくる。無垢な表情で疑問に目線を上げる三春と苦々しい表情の平助の間で、信夫は不敵に嘲笑を浮かべている。
「わざと聞かせているんだと思う。忠勝様が一声してこの籠を選ぶことを決めたらしいけど、あいつらも逆らわないわけだよ」
「俺が答えを決めていると知らないからな、連中も共存というか利用を狙っているんだろうな。哀れな奴らだ」
 今信夫たちが乗っている籠は数が限られた代物であるため、よくよくの機会にしか使われない。今とて「よくよくの機会」であることは間違いないが、しかし領主自身が乗るわけではないため疑問を持つ者もいるであろう。恐らく忠勝はこの中で信夫たちが密談できることを狙ったのだが、権力者たちも配下に命じてこの状況を利用していたのだ。三人とも籠の中にいるため、信夫たちは聞き一手にならざるを得ないのである。
「俺の父が出てこようと、誰であろうとはっきり言ってやるつもりだ。一応平助が逃げる時間は考えているがな。おいそれと巻き込まれるようなお前ではあるまい」
「いや、俺もいい加減この辺にしておくよ」
 楢葉の言葉はまだ半信半疑だったが、それでも一応確認しておこうと信夫は横目で平助の顔を見る。平助は目を閉じて、軽く息を吐きながら答える。その答えに信夫も三春も平助の顔を覗き込むと、平助もそれに合わせるように目を開く。その顔は穏やかな笑みをたたえながら、しかし同時に強い決意を感じさせた。楢葉の言葉には嘘も間違いも無かったのだ。
「敵味方が誰になるかわからない段階じゃ、いくら強くても無名の信夫君じゃどうにもならない。日和田教官や兄さんと同じ道を辿る。裏の事情を見ていた日和田教官には早い段階で予想されていたけど、俺の演技もなかなかのものだよね?」
「私もお兄ちゃんも完全に騙されていたわけなんだ」
 平助は最悪信夫たちを見捨てなければならないことも覚悟していたが、それは私欲を狙ってのことでは断じてない。信夫も三春も清々しく息を吸うが、それだけは違うと思っている。そうでなければ、平助がこんなまともな表情をできるはずがない。尊敬する実の兄が命を失う結果になったというのに、悲痛を押し殺して平助はこの中で一番冷静に徹していたのである。信夫の内心には多少ながら恥もあった。
「じゃあ平助さんの愚図さも演技だったんだ? 私にまとわりついていたのも……」
「いや、こいつの愚図と変態はあれ以前からだろ?」
 三春の言葉で気持ちを一気に突き落とされた平助は、信夫の言葉でのけ反る結果になる。自分の汚名を全て返上したかったとばかりに、平助は涙目で信夫の顔に迫る。この馬鹿げた態度を見ていると、全てが演技とは言い切れなかったのではないかと思えてくる。平助に言わせれば「変態」はお互い様で、先日見せつけられた信夫の一面は十二分にそれに値する部分はあるとは思った。この状況でその辺を揉めても仕方ないので、余計なことは言わないことにしたが。
「まあ、その……。さっき日和田教官の声も聞こえたから、多分俺のことを話してたんだろうね? 俺の『上の者たちに涙させられる現状』で、多分見抜いていただろうからね」
「やってくれる! 小ざかしさでは勝てる気がしないな!」
 信夫は喉の奥を震わせながら、清々しい様子で息を吐く。信夫に打ち倒された直後の前提であれば、日和田教官には目をつけられても問題が無いと踏んだ平助。まず一連の流れの露見を恐れて、城中で下手に話に出すことなどできない。しかも仮に日和田教官に睨まれたところで、平助の日ごろの行いから誰も同調しない。それゆえ日和田教官は平助に対し、単身でもうかつに手出しができないとそこまで踏んだのである。信夫や三春からは見えない位置だったが、あるいはあの時に目線で事実をほのめかしていたのかもしれない。信夫の方の予想外で状況は一変したが、これはこれで良いのだろう。
「まったく、まだ酷い言葉で言うよね?」
「私にとってはお兄ちゃんがこんな態度をするなんて思わなかったな。平助さんがお兄ちゃんに認められるなんてね……」
 信夫の口から出た「小ざかしさ」という表現とは裏腹に、三春も平助も一緒になって清々しく笑う。全ては三春が言ったとおり、認める日が来るとは誰も思っていなかったからである。信夫の出自の秘密は信夫自身を大きく変えることになったが、それはどうやら平助も巻き込んでいたようである。この瞬間三春の目には、二人の姿がとてつもなく大きく見えていた。わずか一年という差でしかないのに、調練場というのは人をここまで大きくするのだろうか? 考えても仕方ないのかもしれないが、それでも考えずにはいられなかった。



「城門まで……始まるか」
 木の枝に腰掛け、楢葉は信夫たちの行列を見守る。枝葉で日差しが遮られ、その黒い体は目立たない。すぐ脇には氷漬けになって幹に縛り付けられた者の姿が並んでいる。彼らが信夫を狙ったのか楢葉を狙ったのかは、少なくとも当面は語れないだろう。それを手ごたえでしっかり理解しているため、楢葉はゆっくりと信夫たちを見ていられるのだ。信夫たちを乗せた籠は、城門の前の堀にかかる橋の前に差し掛かる。その瞬間楢葉は握りしめていた手を開き、その中にある小さな白いかけらに目を落とす。
「それは?」
「処刑前に身を清めるために切った、白河常磐丸の爪の残りです」 後ろから声を掛けてきた影に答えると、楢葉は目を閉じる。常磐丸が処刑された目的の一つは、名を「信夫」と偽る若君「忠信」に里の状況を痛感させるためである。権力者たちは常磐丸を亡き者にするために、最大級の圧力をかけていた。その時すでに「家族」という形の圧力に屈していたため、楢葉が救出に動くことはできなかった。そんな中で取り調べや処刑を引き受けたのには、こうなったからにはせめて自分がしなければならないという思いもあったのだが……。
「あの者が手酷い拷問を受けた様子は無かった。せめてそうならないように手早く処刑を受け入れるように説得したのだな?」
「それもありますが、常磐丸もまた信夫……忠信様に里の将来を託したのです。若君だということを教えましたので」
 影の中の二つの瞳は、楢葉の言葉でより強烈な光を放つ。まさかそのようなことがあったとは思わなかったのだろう。常磐丸は忠信とは懇意にしていると聞いていたし、その行方を話したのであれば自らの目的も併せて話したはず。弟みたいに接してきた友人を無為に危険に晒すとは思えないし、楢葉の目的は常磐丸との悲願とも共通している。通常であればそこで下手な真似をするとは考えづらい。ただし処刑の前というのは通常ではないため、万が一ということも考えられる。処刑前にこのことを叫び散らせば、そのどさくさに処刑を免れることが可能だと考えるやもしれない。楢葉がしたことは間違いなく危険だ。
「お前は……無茶以前に、そんなことをする意味があるのか?」
「あの後ずっと、私もその行動の意味を求めました。あるいは、私のすることの価値を見極めて欲しかったのかもしれません」
 すなわち目的が無かったということだ。楢葉が深く息を吐くと、後ろの影は逆に息を吸いながら背筋を伸ばす。城門の扉はゆっくり閉まり、見物客たちは三三五五にその場を去りはじめる。目を開けた楢葉は常磐丸の爪を握りしめ、地面に飛び降りる。もう一つの影も後に続くべく、腰掛けていた木の枝に手を掛けた。



 それは検分を受けるべく、常磐丸が捕まり牢に入れられた日のことであった。楢葉は暗い石造りの通路を、迷うことなく常磐丸の閉じ込められた牢に足を進める。
「白河、お前の検分は私が行うことになった。いい加減腹を決めるのだな」
「私はやっていないと言いたいが、もはや無駄だろう? 大方があの輩の差し金なのだろう」
 ここは主に炎を操れる者たちが入れられる牢なのだろう、格子まで削った岩石を組み合わせて作られている。楢葉は周りの牢を覗き込み、他に誰もいないことを確認する。牢番たちにも一応警戒はしているが、適当に理由をつけて入ってこないように言い聞かせた。まだ検分は始まっていないため、常磐丸の体に傷を負わされた様子はない。しかし常磐丸の健康体を見られる時間は、既にもう長くない。
「お前は里の更生を公言してはばからなかったが、分をわきまえるべきであったな」
「血筋でしかものを語れない輩ばかりだと思ったが、いつの間にか痴れ者の里になってしまったようだな」
 この頃には既に権力者たちに掌握されていた楢葉を知っていたこともあり、常磐丸は訪問者に顔を向けない。氷属性を持つ楢葉に炎を吐けば痛打を与えられるが、それが何を得られるだけでもない本当に罪を作る結果となることは分かっている。むしろ吐きかけるのは反対にどこまでも冷たい言葉であるべきだと、常磐丸はそう決めていた。
「町民の一に過ぎないお前が権力者を追放すれば、変な妄信をした輩を呼び起こすことだろう。この里が望むべきは、例えば『若松信夫』だ」
「何っ? 日和田殿、何を!」
 よく親しんだ者の名前が出されて、常磐丸も血相を変えて振り返る。暗闇に黒い体で目立つ瞳は、さらに異様な決意を湛えており。常磐丸が悪寒を覚えるほどの輝きに、一件が自分の仕業と噂が立った時以上の恐怖を感じる。何故ここで近所で仲良くしていただけの一介の少年の名が出されるのか、自ら訊くこともできないほどで。
「信夫は母親から人種は受け継いだようで、父にも母にも雰囲気が似通わぬであろう。成婚前に生まれた子供というのは、出生日など多少は誤魔化せるからな」
「まさか行方不明の若君のうち……生まれた直後だったアブソルの若君は!」
 常磐丸は地面に突いた前脚を震わせ、矢じりのような先端を持つ尻尾を震わせ。この里で古くより守られる「成婚前に生まれた子供は、婚儀まで身を封じ戒めるのでなければ殺さなければならない」という掟。それに利用する方法があるなど想像もつかなかった。慣れ親しんだ「信夫」というアブソルの少年は、他家の養子となった実弟の平助と遊ぶ友人であるというのに。このようなことを知る者は相当に数限られ、それを楢葉が語ることから若君を連れ出した者も容易に想像できる。
「あそこまで似通わぬというのに、お前もこの程度も疑えないか。それで『里の更生』など、百年早いぞ」
「馬鹿な! 何故そのようなことを! お前ら権力者にはただ火種を撒くだけだというのに!」
 常磐丸は刹那、自らの言葉に愕然とする。かつての楢葉は権力者たちに真っ向から挑む、気骨のある発言を繰り返していたという噂。権力者の一族と結婚して、その内にいつの間にかその言葉が失われていったという話。楢葉も所詮その程度であると哂いの種にしかなってなかったが、それが実は今も残っているのだというのか。楢葉の今の目を見れば、何を疑う余地も無い。
「ごみのようなつまらぬ者にも、使い道はあるのだ。ぼろの切れ端も雑巾とでもして、汚れを全て背負って捨てられる役割がな」
「お前は、この里の腐敗を一身に背負って死んでいくつもりなのか?」
 一介の町人の出に過ぎない常磐丸と違い、領主の血が流れる信夫には生まれながらの資格を持つ。血筋だけで親に似る保証などまったく無いが、親の立場から受ける教育等々まで考えれば世襲もある程度は理解できる。そこまでの認識がある常磐丸でなくとも、生まれながらの立場に頭を下げる人が多い理由にはそれが一つあるのだ。信夫に親の立場からの教育は無いが、理解していない者たちには血筋だけで十分であろう。何より……。
「閉ざされた場所にいる忠勝様にはな、所詮その程度しかできないのだよ」
「そこまで……!」
 親の立場から受けられる教育が、必ず良いものであるとは言い切れない。資格持つ者を染められる事態を避けるため、しかも楢葉ばかりか忠勝も相応の選択をしていた。自分が「場合によっては追放も仕方ない」と言い続けていた相手が、見えないところでそのような覚悟で動いていた。理解できない感情に支配された常磐丸は、瞳に映る楢葉の姿がはっきりと認識できない。常磐丸を殺すことで信夫たちの怒りの矛先となり、彼女たち自身もろとも里の腐敗を葬り去らせる。普通の人であれば「死」であるだけで恐れるというのに、さらにそれが汚辱にまみれた先のものであるというのに。
「汚れきったこの命、忠勝様が愛する里のためなら惜しくもない。私も忠勝様も、所詮ぼろきれなのだからな。所詮……」
「日和田殿! あなたの思いは……!」
 楢葉は狂気に口元を吊り上げるが、目元から零れ落ちるものには気付いていない。楢葉が堪えてきたものの大きさを思うと、自分の理想があまりに小さく感じられてしまい。次の言葉も出せずにいた常磐丸の前から、狂った笑い声を上げながら去っていく。足元の覚束なさは、牢の中の常磐丸が心配するほどである。これからの検分や処刑の場には、楢葉以外の人たちも並ぶであろう。そしてその場でこの事実を叫べば、楢葉の計画を潰えさせることはできる。だがそれをすることがどういうことか。自分が守りたいのは楢葉の計画なのか信夫の生活なのか、それとも他に何かあるのではないか。常磐丸はどのようなことに至らぬ思考の中で、無為に時間を過ごした。



 いつの間にか楢葉の周りには、三三五五に解散していたはずの町の人たちが集まっていた。城門から少し離れたこの広場に、武士たちの影は無い。危険因子を持つ者は、既に処理してある。
「それにしてもあんた、すさまじいことをするな」
「これが忠勝様の御意志であるとは! 里ももう安泰だな!」
 昨日一日で楢葉は平助と共に奔走し、町の人たちから仲間を募った。まさに黒山と言うべき人だかりで、彼らだけでも十分に心強い気になりそうである。しかし楢葉は最後に確認しなければならないものを忘れていない。もちろんそんなことは無いであろうが、むしろそれを見せなければこの町民集団は簡単に瓦解するからである。
「安泰を語るべきか、忠信様をしっかり見極めてもらいたい! 今まで大切にしていた『若松信夫』の名を捨てる覚悟であるか、その目にとくと焼き付けてからだ」
「いよっ! 厳しいね!」
 楢葉の言葉に対し、誰かが茶化し入れて皆が笑う。信夫を知る者も少なくないため、彼らが信夫の評判を広めてくれたのだろう。また、今の楢葉の顔にかつての決意の再臨を見た者もいるのかもしれない。これから命分かつ戦いに挑むかもしれないというのに、この和やかさにはむしろ楢葉が驚かされるくらいであった。
「常磐丸、しっかり見てやれよ」
 城の方角の空を見上げ、楢葉は独り呟く。言うまでもないが、常磐丸は信夫のことを最期まで話さなかった。どこまでの思いであるかはわからないが、信夫に残したのは間違いない。楢葉は詫びるでもなく、ただ常磐丸に思いを馳せた。


 信夫たちが乗った籠は、無事に城門を潜り抜けたのは感じられた。途中で籠ごと谷底にでも突き落とさないかと不安はあったが、ゆっくりと地面に下ろされた今杞憂に終わった。彼ら悪属性は念属性の力の流れを見ることができ、三春や平助ですら怪しい動きをすれば簡単に気付くことができるほどである。念属性では悪属性にはろくな攻撃を入れられないゆえんであり、だからこそ信夫たちを安心させるためにこの顔ぶれで揃えたのだろう。もっとも、権力者たちも上手く言いくるめて信夫を手駒にできるのが一番だと思っているようだが。
「忠信様、到着でございます」
「ああ。その……大儀であった」
 籠の板戸は丁寧に開かれ、サーナイトはまず信夫に降りるように案内する。信夫は若君としての口調に気を配るが、どうにもぎこちなくて苦しい。この二日間で家の中にいる間、三春や両親に見てもらって何度も立ち振る舞いを練習したというのにである。上の立場の者がいやしい態度では配下が惨めな思いになると必死だったのだが、世襲というものが仕方ないと思えそうでいる一面であるため苦しい。
「忠信様、無事のお帰り嬉しく存じます。我々武士一同、ご家中の安定と忠信様の孝行のために命を尽くす所存です」
「ああ。その、汝は確か……」
 改めて周りを見回すと、ここは信夫には忘れられない場所であることに気付く。常磐丸が楢葉の取り調べを受けた場所で、信夫と常磐丸の今生の別れとなった場所である。その庭の真ん中で生まれながらに刃を持つ両手を地面に並べ、気位の高そうなキリキザンは信夫に挨拶をする。常磐丸の処刑の後に権勢を誇るようになった筆頭家老で、ならず者たちが彼の指示だと声を上げて笑っていたのは未だに忘れられない。今でも思い出して苦痛に呻くことは多く、油断すればその思いが顔から口から出そうである。しかし、心配など必要なかったが。
「それらよりもまず、里全体のために尽くす我に従ってもらいたい」
 一瞬で場の空気が固まったのは、続いて出てきた三春や平助にもわかった。筆頭家老の今の一見変哲もない挨拶は、親孝行の言葉を盾にとる信夫への脅しが明らかだった。それに対する信夫も一見変哲のない言葉で押し返す。今までの苦痛など心配する必要もないほど、信夫の大きな思いがこの場に噴出しているのである。向こうも引きずり込むのが難しいかもしれないとはわかっていただろうが、ここまで迷いの無い態度で突き返されるとは思わなかったようだ。
「忠信様! それは父君を裏切るということですか? 来るなり親不孝を宣言するのですか?」
「それについては父上に……父上にしっかり説明する。早く会わせてもらいたい」
 危険因子として有名な信夫であっても、ずっと実の関係を知らずに生きてきたとしても。むしろ志を持つような若者が、迷いも無く親に刃向うことを宣言するとは思えなかった。信夫が迷ったのはただ一点、遠目でしか顔を見たことが無い相手を父と呼ぶことについてだけである。自分の実の父はゾロアークではない、あれは父の作った幻影などではない。そこにだけは迷いを隠すことができなかった。だがその隠すことができなかった迷いは、逆に筆頭家老たちをさらに愕然とさせていた。人としての思いを大切にする部分は捨てていないため、それで何故人としての道に真っ向から抗うのかと。怪我の功名である。
「さすがにそうはまいりません。最初から親不孝の腹であるのに、父君に会わせるわけにはなりません」
「親が悪道に手を染めているなら、その恥ずべき行いを止めることこそが親孝行であろう。一緒になって非道を働くことこそが親不孝ではないか? 親不孝などしたくないのは我も同じだ」
 鉄面皮の人種であるが、それでもわかるほどに筆頭家老は愕然と目を剥く。武士たちの一人一人まで様子は分からなかったが、表情に差異はあれど皆黙り込んでいる。三春と平助にとっては迷いになっていたことであり、彼らの方は信夫の後ろでようやく一つの安堵を顔に出した。二人が吐いた息以外は静まり返った一瞬、その次に控える嵐の前の静けさと言うべきであろうか。この城に来ると決めた時点で、三春も平助もその真ん中に飛び込むことは覚悟していた。三人とも望むところなのである。
「どうやら日和田楢葉と共謀して、家中の乗っ取りをたくらんでいるようだな。お前は忠信様などではないな?」
「一応俺の命名の札は持ってきたわけだが……無駄だろうな」
 首周りの毛並みの中には、目立たないが帯が巻かれている。その帯に着けられた小物入れには、両親から渡された一枚の札が入っている。信夫を城中から出す際に、証として忠勝が持たせた「忠信」の命名を書いた札である。しかし連れ出した楢葉であれば、後で歳の近いアブソルに渡すことも可能である。そうでないことを証明することは難しいし、彼らの腹の内を思えば聞いてくれるとも思えない。即座に敵意をあらわにし始めた筆頭家老に対し、信夫も待ってましたとばかりに上位の振る舞いという仮面を脱ぎ捨てる。
「者ども、この不逞の輩を討ち捨てろ!」
「不逞はお前だ! これ以上言いなりになって罪を重ねるな!」
 筆頭家老は一歩飛び退くと、その間に素早く他の武士たちが割って入る。迷う様子も無く信夫を討たんと目を輝かせる者から、逆らえない上意に迷いを残している者まで。少なくとも前者との戦いは間違いなく避けられないため、信夫は正面を向いて構える。数日前の戦いでの楢葉の本気は度合いが疑われるが、しかし信夫たちもこれは避けられないだろうと鍛え続けてきた。数字の上での経験だけでは語らせまいと、年上の武士たちにもまったく怯まない。三春と平助は信夫のような自信はないみたいだが、それでも迷わずに構える。
「そこまでにしろ!」
「なっ!」
 いざ、戦いが始まろうとしたその瞬間である。信夫と武士たちの間に、青い影が割って入ってきた。遅れて現れた黒い影、それらに場の誰もが驚きをあらわにする。それは信夫ですら同じであった。調練に入る時に信夫たちに一度声を掛けに現れた、その時とは顔つきが別人だからだ。楢葉の隣で迷う様子無く信夫たちと武士たちを見比べて、ルカリオの忠勝は毅然としている。それを少し見ているうちに、三春には別の驚きが芽生えていた。
「お兄ちゃんだ……!」
「これでもまだ忠信ではないと言い張るか?」
 間近で見れば紛うことは無い。母親から人種を受け継いではいるが、目つき物腰その全てが嫌と言うほど親子を感じさせる。迷わずに信夫に斬りかかろうとした者たちも、へたり込みそうになるほどに驚愕していた。まさに傀儡と言うべきいつもの失念の表情は消え失せており。そもそも忠勝も楢葉も下手に出てこないように監視していたはずであり、それが出てきているということ自体が重大であった。
「忠勝様、やはりこの者は『若松信夫』です。その名と家族を取り上げるなど、やはりすべきではありません」
「そうか。ならば汝は今より『若松小町守(こまちのかみ)信夫』で、この里の領主は『小名家』から『若松家』に変わるわけだな」
 忠勝は信夫に背を向けたまま、というよりは武士たちに正面を向けたまま信夫の方に駆け寄る。同時に首から下げた紐を取ったのが見えた。その先に下がっているのが領主の家に伝わる印綬の箱であると気付いた時には、その首輪は信夫に掛けられていた。本来であれば相応の式を催して渡すべきであるが、状況を考えてのことだろうか。
「汝ら! 今の信夫の言葉に何も感じぬのであれば、汝らは野蛮の者たちよ!」
「くっ! 忠勝も討ち取れ! 今まで傀儡でいた腑抜けに代わって、私が城中をしっかり治めて見せるわ!」
 忠勝の怒号に対し、筆頭家老も負けじと声を上げる。実際のところ人事権はこの者が握り続けていたため、多くの武士たちは忠勝ではなくこの筆頭家老に忠誠を尽くすようになっていたのである。金や権力からの言葉で染め上げ続けていたため、多くの者たちはこの筆頭家老のおかげでこの場にいれると思わされていた。実際、迷うことなくそのまま信夫たちに構えなおした者も多かった。しかしその場で迷いさまよっている者も多く、そして当然……。
「くっ! 裏切るか!」
「もう、いい加減限界だ!」
 信夫たちの方に背を向け筆頭家老たちに構える者たちもいた。常磐丸が生きていればこの年頃であろうという者が中心で、残された思いというものを感じ取らずにはいられない。まだこちらの方が数は少ないようにも見えるが、比べるのは抱えているものまで合わせた大きさである。
「信夫、号令を掛けろ!」
「え?」
 楢葉の言葉に対し、信夫は意味を理解できずに気の抜けた声を上げてしまう。信夫につくことをはっきりと決めた者たちは、既に全員がその意志を示したようである。もう背を向けてこちらに向かってくる者はいない。筆頭家老たちに構えている者たちの中には、時折こちらに目線を向けてくる者もいた。その意味が分からずに当惑する信夫に対し、忠勝が次の言葉を添える。
「お前はたった今からこの里の領主なのだ、彼らに命を下さないでどうする? そうでなくともこの者たちには待ちに待った戦いの始まりなのだぞ!」
「……わかりました」
 信夫は軽く息を吸う。信夫の元に馳せ参じた以上、彼らの上の立場の者は信夫であるということだ。結局今まで通りの振る舞いではいられないらしいと、腹をくくる必要があったのである。先程脱ぎ捨てることができたと思った仮面は、再び付け直そうとするとますます窮屈さを感じられてならない。しかしそれを付け直す理由は重々わかっていたため、拒むわけにはいかない。
「かの者たちはこの里の権力をほしいままにし、白河常磐丸以下多くの命を奪った! その償いを拒む以上、我々もしかるべき処断を下さなければならない! 皆の者、かかれ!」
「おう!」
 三春、平助、忠勝、楢葉、他多くの武士たち。信夫に応える雄叫びにはそれぞれに抑えてきた思いがあり、中には既に涙で掠れんばかりのものもあった。信夫は長い毛足一本一本の先で、それを痛む程に感じ取っていた。向こうの武士たちにも抱える思いがあり、その一方で重ねてきた恥もあり。彼らがこれ以上恥を重ねるのを止めるためにも、信夫はまっすぐに彼らに向かって踏み込んでいた。



 両前脚の刃状の爪を交差させ、信夫は自身の懐に飛び込んできたダーテングを打ち倒す。次はその後ろに控えるワルビアルだ。地ならしで平助を打ち倒すべく振り上げた足の下をめがけ、信夫は意識の無いダーテングの体を叩き込む。信夫の左わきから飛びかかってきていた別のダーテングは平助の炎に包まれ、砂で炎を払い終えたところで三春の爪の一撃に倒れる。
「頃合いのようだな」
「やはりやるわけですか……。平助、話した通りだ……!」
 正面での戦いを信夫に任せ、平助は忠勝と楢葉と共に一歩内側に退く。事前に聞いていた作戦は平助の表情に影を落とすが、楢葉もまた同じであった。そんな中で忠勝だけはどこか清々しい表情を浮かべている。
「日和田教官、やるって何をですか?」
「ならばお前もその場にいろ。力を借りるぞ」
 三春が何を思う間もなく、平助と忠勝と楢葉は三春の顔の前で前足と手を交差させる。何をしようとしているのかわけも分からないうちに、目の前の地面に映っていた三春たちの影がせり上がりはじめた。平助と楢葉はその影をそれぞれの前足と手に宿らせ、仲間の数だけ攻撃を加える「袋叩き」の技の準備を完了させる。平助も楢葉もそれぞれで使えば、三春と忠勝の分を合わせて八度の攻撃ができる。
「忠勝様、御免!」
「え? どうして?」
 その八度の攻撃を全て受けるのが忠勝であるとは、三春も全く思わなかったが。鋭利な爪でもって叩き込まれたこの数の攻撃は、忠勝の体のあちこちに血をにじみ出させていた。直後に忠勝の体が異様に輝いたのを見てもなお、三春は理解のためにさらに数秒を必要とした。
「良キ心地カナ……」
「正義の……心?」
 忠勝から放たれる圧倒的なまでの威風に、三春は恐怖を感じずにはいられない。忠勝が持つ「特性」は、自らの理念を強く鼓舞することで心身を高めるというものである。それは「悪」の属性攻撃に特に強く反応するため、今の八度の攻撃によって忠勝の力は相当に高まったのが伺える。だがその後ろで自責の表情を浮かべる平助と楢葉を見るまでもなく、三春は不安に駆られて仕方が無くなった。
「痴レ者(しれもの)ドモ、覚悟セヨ!」
「忠勝様……?」
 その豹変に誰がたじろぐよりも早く、忠勝は敵の武士たちの中に斬り込む。極限までに高められた力は圧倒的で、敵方の者たちは濁流に飲み込まれる雑魚のごとくなすすべもなく弾き飛ばされる。その一角を突き崩した向こう側の石垣の前まで到達すると、忠勝はその石垣に自らの額を強く叩きつける。
「ちょっと待ってください! 忠勝様の今の頭突き、明らかに不要ですよね?」
「あれは『正義の心』の副作用だよ……」
 一見無為でしかない忠勝の自傷行為には、三春のみならず敵方の武士たちも理解不能に慄く(おののく)。本当は隙だらけであるはずの忠勝に、誰も反撃を入れようとしなかった。ゆっくりと振り返った忠勝は、だくだくと血を流す自らの額を堂々と周りに示す。その目は理想を通り越した狂気に輝いており。その手に宿らせた闘気には、鍛えられた武士たちですら必死に逃げだそうとする恐ろしさがあった。
「自らの正義理想を呼び覚ますことで力を高める特性だ。自らの正義に反したりとかそういうものがあれば、すべて破壊しようとする」
「もし自らを『正義に反するもの』と認識した場合、ああなるんだ」
 忠勝は信夫の前に立ちはだかっていた兵士たちを闘気でもって打ちのめすと、手に残った闘気で自身の胸をも打ちのめす。長く他の権力者たちに屈し続けていたのは、里の真相を知った自分の息子を信じて待ち続けていたからではある。しかしどのような理由を語ったところで、忠勝の全身にしみわたった自責と後悔を止めることはできない。
「忠勝様、こうなることを知っての上で『正義の心』で戦うつもりだったのですか?」
「ああ。ここで生き残ること……死に損なうことを恐れていたからな」
 血の息血の涙で、忠勝は自らの背負い続けたものを言葉無きままに語る。それは自らの不甲斐なさが民たちにもたらしたものであると言わんばかりに。信夫の存在でいくら棒引きしようとも、忠勝に恨みを持つ者は相当多くいるのは間違いない。そもそもまず自分が許せないのだ。ここで生き残った先の自分を想像するよりも、自らを育てた里のために命を使い切りたい。そこまで思いたくなるほど、忠勝の中で鬱積していたものは大きかったのである。



「平助、合図の方を頼む!」
「了解です!」
 戦い狂う忠勝の姿に驚愕する三春をよそに、楢葉はいつの間にか竹筒を手に握っていた。楢葉がそれを平助の足元の地面に投げつけると、斜めに切り込まれた先端が地面に刺さる。平助はその竹筒の上を飛び越え楢葉との間に移動しながら、空に向いた反対の先端に炎を吹きかける。次の瞬間には竹筒の先端からは火球が飛び上がり、空高く上ったところで高らかに音を立てて破裂する。少なからず楢葉の方にも苦手とする火の粉は向かっていたが、全て平助が受け止めた。
「お前たち、数を頼みにしているようだがな……悪いがそれもこれまでだ! 里中の怒りを聞け!」
 楢葉が叫び終わるのを待っていたかのように、城外の四方八方から太鼓や法螺貝が響き上がる。同時に町中から人々の猛り声が上がる。多くの者たちが思わず戦う手を止めてしまった時には、鬨の声の一部は城の方へと向かい始めていた。
「町のみんなにも協力を募った! 数が力みたいだから、俺も力をつけることにしたよ!」
 すぐにその場から下がった楢葉に代わって、今度は平助が怒鳴りかける。武術体術に関しては信夫と三春の協力によって無理やり高めなければならないほどだった平助だが、その代わりの別な術(すべ)もしっかり見つけ出していた。楢葉はと言うと、こちら側についた武士の一人に札を貼り終えていた。同士討ちを防ぐための平助の案であり、それを貼られた武士は楢葉から味方に配る分を受け取る。こちらに寝返った者が全体的には少ない分、配り終えるのも早かった。
「平助、いつの間に?」
「事前に連絡網を築いてくれていたから、わずか一日で十分だった。あいつはお前が思うのとは違う強さを持っているのだ」
 毛並みではなく黒い皮膚で覆われている三日月型の信夫の尻尾に、楢葉は札を巻くように貼り付ける。声の数でも薄々うかがえていたが、信夫との面識が全くない者も多いとこれでもわかる。小名家の世継ぎが発表されたのは昨日の早朝で、町中の人がそれまでの間に形を成すなど城中では思われていなかったらしい。味方側の武士たちも大いに驚いていたが、敵側など愕然とする者が増えていた。気が付いた瞬間、その敵側の武士が信夫の手前まで投げ飛ばされてきた。
「そうだ、父上……父上は?」
 それが忠勝に投げ飛ばされてた者だと思い出し、信夫は敵側へと目線を向ける。忠勝はこの状況にすら何一つ変わることなく、筆頭家老の方へと敵を薙ぎ払い進んでいく。彼の周りの敵だけはそのせいで戦う手を止められず。忠勝も忠勝で当然とばかりに体の傷は増やしていた。流石に筆頭家老の周りには近づかせまいとばかりにより屈強な武士たちが揃えられていたが、忠勝は平然とそれを飛び越えて筆頭家老の背後に回る。
「イザヤ、死出ノ供ヲセヨ!」
「ひっ! 放せ! 放せ!」
 生まれながらに持つキリキザンの鋼の刃に抱きかかり、忠勝の負う傷はさらに一気に増える。筆頭家老はそれでも逃れようと必死に暴れたせいで、忠勝の体からはさらに赤が飛び散る。望むところとお構いなしに、忠勝は周りの武士たちを再び飛び越える。向かったのは信夫たちの方ではない。
「枯れ井戸! まさか、父上!」
 そこまで言い終えるでもなく、信夫はその後を追って敵の中に斬り込もうとする。しかし楢葉がすぐに間に割って入り、信夫を押し戻す。もうすぐ援軍が来るのにわざわざ危険を冒すなとか、そういう意味ではない。
「あの枯れ井戸には、先ののろしと同じ爆薬が大量にある! お前は行くな!」
 いつの間にか楢葉が目線ででも呼んだらしく、入れ替わりに平助が押さえにかかっていた。仲間である武士たちも、信夫の間に割って入っていた。あの枯れ井戸はそこまでの深さが無いのはそこで思い出したが、しかしいずれにせよ最初から死ぬための準備をしていたらしい。そんな馬鹿なことをと必死で振り払おうとする信夫に対し、平助もやっとやっとながらしがみついて押さえる。
「話せば父上のことだってわかってくれる! 放せ! 止めるな、平助!」
「お前は忠勝様から、誰かと過ごせる最期の安らぎをも奪う気か?」
 今回は本気だったらしく、平助からいつになく苦戦を強いられた。それでも何とか振り払い、味方の武士たちの間を抜けて忠勝の方へ向かおうとする。しかしその瞬間の楢葉の言葉には、思わず足を止めてしまう。
「お前たちのこと、地獄から見守っているぞ。さらばだ、若松小町守信夫!」
「日和田教官……!」
 楢葉は一言「御免」とだけ言うと、壁となっている武士たちに道を開けるよう肩を叩く。そこで楢葉の通り道となった隙間から、忠勝が枯れ井戸に飛び込む姿を見せつけられた。
「これにて最期! 供にと望む者は我が前に!」
 驚愕に体が言うことを聞かず、しかしそれでも鞭打ち追おうとする信夫の前で武士たちに道をふさがれる。常磐丸との別れとなったその瞬間と重なり、信夫の古傷が強烈に疼き始めた。一方で頼りの指揮官まで失い、敵方は敵方で大半が戦意を失っていた。楢葉が向かった方から戦う様子は感じられたが、どうやら楢葉の言葉通り供が増えただけのようである。信夫は何とか自分を奮い立たせ、楢葉を追おうとした。その瞬間だった。
「平助さん!」
「小童ども、せめてお前らも道連れとなれ!」
 後ろからの三春の悲鳴に目線を引き付けられる。先程振り払われた衝撃で隙を晒していたらしく、平助が敵のローブシンに打ち飛ばされていた。三春の後ろの閉ざされた城門は、町の人たちに打ち続けられて閂が歪み始めていた。しかしそれを待っていれば平助や、最悪三春も助からない。味方の武士たちは信夫を止めるために動けず。何度か襟首を引かれるような思いで楢葉たちの方に目を向ける。今から行けばひょっとしたら楢葉は助けられるかもしれないが……。
「うああああああ!」
 信夫は狂い叫びながら、ローブシンの背中に思念の刃を叩き込む。既に自身は死んだものとなおも戦おうとしたローブシンに、平助がありったけの力で炎をお見舞いする。なおも信夫や平助を狙って最後の敵が動いていたが、それも動けるようになった武士たちが一気に片づける。最後の敵を確認し終えたところで城門が破れ、町の人たちが雪崩れ込んできた。勝負は決した。だが……。
「父上、日和田教官……」
 目線を戻すと、もう楢葉の姿も失われていた。まだ爆発が起こった音はしていないが、時間の問題であろう。今近付いたら折悪く巻き込まれて死ぬとか、それで自分たちが死ぬことを忠勝や楢葉が望んではいないとか。そういう考えなど無く、信夫も三春も平助もただ愕然と動けずにいた。
「忠勝様にお礼……言えなかった」
 三春は忠勝に会った時に、礼を言うことを決めていたのだ。誰よりも大切な兄を自分が得ることができたのは、どのような理由であれ忠勝のおかげである。しかし戦いが始まる直前で現れてから、その時間はわずかにも無かった。言えないまま心の中で空回りし続ける存在は、自らを痛めつけるものとなっている。思いなおして二人が井戸から出てくることを期待して、三人ともただその場で見つめ続けていた。しかし随分長い時間の後に、忠勝の「最後の安らぎ」も終わったのか井戸の口から爆風と轟音が上がる。



 楢葉は最後の戦いで虫の息にした武士を抱えて、井戸の底に着地する。楢葉は夜目が効くため、すぐに目の前で筆頭家老の体が粉々になっているのを見つける。
「忠勝様……?」
 既に再び動くことは無いであろう体を転がし、楢葉は忠勝の姿を求める。奥の爆薬を詰めた木箱の前に一歩近づくと、ようやく荒い息遣いを聞き取れた。そちらですかと楢葉は一も二も無く駆け寄る。木箱の影で火をつけられるでもなく力尽きて、忠勝はただ仰向けになっていた。
「楢葉か……。貴君にはどれほどにも例を言いたいというのに、すまぬな……」
「私は、ただ忠勝様の望むことをしたかっただけにございます」
 その姿を見てどれほど辛いかという心配があったが、今は驚くほど冷静でいられた。忠勝の肩の脇でひざまずき、力なく投げ出された手を拾って握りしめる。
「忠信たちを頼って、どれほど報いられるか……。我にはもう何一つ報うことはできぬというのにな……」
「いえ、まだ一つだけあります。そしてその最後の一つをいただけるのであれば、私の積年の望みが叶います」
 その言葉の意味をすぐには理解できず、忠勝はゆっくりと目を開ける。自身の手を握りしめ、涙に濡れる瞳を向ける楢葉。わからない。ここにあるのはいくらかの爆薬と筆頭家老の亡骸の他は、知る限りでは既に身一つである。楢葉が抱えてきた者のことは知らないが、知っていても差し出したところで報いられるとは思えない。
「何を望んでいるのかはわからぬが、あるもので良ければ好きにして構わぬ……」
「ありがたくございます。では……」
 力尽きた身一つでできる報いなどわからないが、どのようなものであれ楢葉が満足するのであれば喜んで差し出そう。自身の手でこの命を断ちたいのであれば、今更拒む理由も無い。忠勝が目を閉じた瞬間、その口に柔らかい物が合せられる。
「楢葉……?」
「遠慮なくそのお体、頂戴いたします」
 閉じたばかりの目を、思わず大きく見開く。その瞬間を狙ったように、楢葉は忠勝の口内に一気に入り込む。極限に投げ出していた忠勝の体の感覚が、一気に戻ってくる。何かを言おうかとか口を動かそうとしても、絡み合う舌のせいで上手くいかない。すぐに忠勝が言葉を諦めたところで、またも狙ったように楢葉も口を離す。
「領主とかそういうものを全て除いた上で、それでも幼き日に会った忠勝様を忘れられずにいました」
 子供の悪さで城を抜け出した忠勝は、偶然だがその時に楢葉と会っていたのだ。その時の志に満ちた目は、楢葉の初めての心を一瞬で貫いた。忠勝も覚えていないわずかな時間だというのに、領主の家の若君だとわかってもなお楢葉は諦められなかった。側室でもいいから傍に行きたいと願うようになり、武士として抱えられてから近づく機会を狙おうとしたのである。
「我は……既に立場も領主どころか罪人やもしれぬ。しかも正室側室多くの女の手に汚れた体ぞ?」
「それは私も同じにございます。両親に嫁ぎ先の話を決められ、どれほど嘆いたことか」
 気が付いた時には、楢葉は両親に縁談を完全にまとめられてしまっていた。仕官以来随分名を上げていたため、楢葉の相手は平民としては破格の家であったのである。しかし忠勝への想いが絶大だったため、楢葉にとっては冗談ではない話であるはずだった。思わず忠勝の側室となりたいと口走った。結果、家柄から入っても相手されないばかりか入ることも無理とまず一言。その上で親のまとめた縁談を蹴るなど親不孝でしかないと脅され。その後も嫁ぎ先で同じように脅され、望まぬ相手に体まで許してしまった。
「力ではなく立場での凌辱でした。だというのに両親もあの男も『この貧相な体で男がいるだけでも喜べ』との言いようで……!」
 楢葉は夫であった者を「あの男」と言い捨て、わずかに上がった語調にも屈辱をも超えた痛みが伺える。同時に自身の胸に、握りしめた忠勝の手を当てる。忠勝がこういう体系を好まないという可能性も考えられたが、まずないだろうと楢葉は確信していた。忠勝の正室側室、揃ってそれなりの体つきであった。だというのに子供一人外に出して断絶が心配されるほどの子供の少なさ。そしてその外に出した子供の性癖。判断要素は十二分であった。
「この温かさ……勿体ないことを言う輩だ」
 予想通り望んでいた言葉が返ってきた。巷で喜ばれるような厚みと弾力のある胸は、しかし忠勝には気持ち悪さしかなかった。だから情事の際に気持ちが随分と落ちてしまい、いつの間にか正室側室誰にも寄ることは無くなっていたのである。楢葉の体は「貧相」かと言えばほど遠く、健康的に鍛えられた体は忠勝には新鮮だった。
「どうやら、応じていただけるみたいですね」
 言葉など不要とばかりに、忠勝のそれが暗さの中だというのに答えを示していた。刻めるだけの傷を刻み込んだ体でありながら、どうしてここまでの余力が残っているのだろうか。そんな疑問が出る暇も与えられないまま、その先端から全身を打ち抜かれた。
「いきなり……急ぎ過ぎではないか?」
「いつまでもここで続けることはできません。信夫たちが外にいるのですから」
 まだ十分に出来上がっていない体であるのに、楢葉は強引に自身の中に押し込み始める。満身創痍の忠勝に追い打ちをかけるのだから、持ちこたえてくれるか心配なのも間違いない。また、不必要に時間をかけてしまえば外の者たちが入ってこないとも限らない。最期の時間は水入らずに過ごしたいのだから、誰かが入ってこようとか思う前に終わらせなければならない。
「それはそうと……ああは言ってしまったが、やはりあやつを忠信でないと認めるのは寂しいものだな」
「何を仰せです? その『忠信』というのは、私との間の子につけるべき名前でしょう?」
 信夫を連れ出すべく腕に抱いていたその時、楢葉はこの子は自分と忠勝の子であると思うようになっていた。自分と忠勝の間にアブソルは生まれないというのに、人種以外はまともに父の影響を受けていたこの子を自らの子として望んでいたのである。自宅に連れ帰り自ら育てたいという願いは、しかし夫の「凌辱」を受けた体という現実に阻まれてしまった。あの子は「若松信夫」として生まれ、これからもずっと生きていく。それは「小名忠信」とは全くの別人で、こちらを生むために腹を痛めるべきは自分である。いつの間にか行き着いていた答えである。
「急ぎ……終わらせましょう」
「ああ……。頼む……!」
 出来上がっていない体での無理が祟り、楢葉は思わず顔をしかめる。それは忠勝と触れ合う場所を揺り動かし、忠勝にも反応を共有させる。くたびれた体で自ら進めることができないのはもどかしいが、それよりも早く楢葉がことを進めてくれた。一気にお互いを交える場所の熱が高まり……。
「っあ!」
「ぅくっ!」
 最期にして最高の瞬間を交えることができた。長く長く奪われていた自身を取り戻し、揃って想い高ぶった涙をこぼす。しばらく息を整えて余韻に浸りたいとは思いながら、しかし旅立ちの前の名残尽かなさと楢葉は立ち上がる。
「それでは忠勝様、参りましょう。迎えも来たようです」
「迎え……?」
 楢葉の唐突な言葉に、忠勝は思わず目を向ける。霞んだ視界がゆっくりと落ち着いていくと、楢葉の隣にヘルガーの男性が並んでいるのに気付く。それは話に聞いていた「白河常磐丸」であると、すぐに気が付いた。死出の旅の案内には最高の者を遣わしてくれたと冥土の神に感謝を抱こうとした、その瞬間である。
「まだ黄泉路の案内とはまいりません、日和田殿。信夫のため、三春のため、平助のため……。もうしばし生きていただきたいとは私も黄泉の神も一致しており」
「常磐丸……?」
 楢葉がその言葉の意味を訊こうとした瞬間には、常磐丸の姿は霧散していた。
「忠勝様、波動は辿れますか?」
「ああ。今のは紛れも無く常磐丸の遺志だ。ただ、どうやら別の者もずっと控えていたようだがな」
 忠勝の言葉で、楢葉は誰だろうかと周りを見回す。波動によって目に見えないものでも辿れるルカリオ人種の能力は頼もしい。そう思った瞬間、楢葉の脳に電気的な何かが走る。忠勝の「ずっと控えていた」との言葉は、つまりことの最中からという意味も含んでいよう。あまり毛足は長くない人種のため、逆立てた左右の頬の毛並みは明るければ目立つだろう。
「やはりルカリオの忠勝様は誤魔化せないなよ」
「どちらにしても正体は見せるつもりでしたがね」
 どちらも黒い毛並みを主体としながらも、もう一つ交える色は逆であった。二足の背の高い方は赤を絡ませ、四足の小柄な方は青をない交ぜにしている。特に生まれてこの方一度も見たことの無い種族のため、後者には非常に驚かされた。
「あなたは……若松の?」
「そちらの方は、平助が言っていたエクトート殿ですか」
 先の常磐丸は若松家の父が作った幻影であることが分かった。しかし父が手に握りしめている破片からは、常磐丸の波動が強く発せられている。遺骨であるか遺品であるかまではここからは分からないが、今の幻影の言葉は紛れも無く常磐丸の遺志である。
「俺としてもお願いしますよ。娘は忠勝様に会ったら信夫の礼を言おうと思っていたのに、多分言われてないでしょうよ?」
「爆薬さえ爆発させれば、死体が見つからなくても有耶無耶にできます。お父さんの幻影で外に出るのは難しいでしょうけど、脱出の方法はまだいくらでもあります」
 若松の父は膝を折り、丁寧に両手を地面につく。直立の種族としては最大級の儀礼である。その隣でエクトートは見たことの無い材質の板を取り出し、どういうものなのだろうかそろばんを叩くように動かしている。
「我らは、死に損なうのか?」
「慌てなくてもいいでしょうよ。死ぬなんて、死ぬなんていつでもできますよ」
 若松の父の軽い屈託のない笑顔。城中で育ち続けた忠勝は、権力者たちの上辺だけの笑顔しか見てこなかったため新鮮だった。外に出ることができるのであれば、このような笑顔もたくさん見れるのだろうか。そう思った瞬間、もう少し生きるのも悪くないように思えてきた。
「今はここから出ましょう。目指す場所が急変して慣れない考えを持たなければなりませんが、人生という迷宮を歩く時間は十分です」
 言いながら、エクトートはありがちな自らの言葉に笑みを浮かべる。今用意している脱出口がそのような呼ばれ方をしているので、つい意識してしまった。しかし何とはなしにこの「迷宮」という表現に感じ入り、楢葉はつい訊きたくなってしまった。
「私たちも……いつか迷宮から出られるのですか?」
「いえ、人生とて迷宮のほんの一部に過ぎません。でも折角自ら歩けるようになったんですから、飛び込みましょうよ。この、無限大の迷宮へ」
 エクトートは前足を軽く上げ、最後の一打ちを板に入れる。その瞬間、エクトートの前の地面に円形の光の輪が浮かび上がる。文様で不可思議さを醸し出す円陣は、その中心から新たなる場所へといざなうことを感じさせていた。旅立つ先は黄泉ではなく無限の迷宮になったが、それもまたいいだろう。楢葉はまだ動くのが難儀である忠勝を抱きかかえ、ゆっくりと円陣の中に歩き始めた。



あとがき
 そして結局13日には間に合いませんでした。というか結局9万文字近くにまで至ってしまった「短編中編詐欺」状態でした。短くまとめることの難しさを身に沁みさせてくれた作品です。
 すでに出ていますがこの作品の人物や地名は、大半は自分の出身の県からとりました。そちらについても後日まとめて出したいと思いますが、今はしばし休息をください。
 とあるゲームで登場した主人公の妹がど真ん中過ぎて、暴走する劣情にかなり任せ過ぎていた部分もあった気がしました。しかし結局なんだかんだでいろいろ詰め込んでしまうという、本当に勢いは怖いです。作品というものは作者を映すと言いますが、自分の混沌とした状態はまず間違いなく伝わったと思います。
 最後の方は今日あたりで終わらせたいという思いでどこか焦りすぎた気がしましたが、ひとまず完成までこぎつけられたのは自分の中では割かし大きいです。完成できないままに投げ出したり凍結したりした前科がごろごろですので。

 ここまでお読みになってくださった皆様、その他迷惑や心配をかけてしまった皆様にお礼を申し上げつつ、今回はここで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。



何かありましたらお寄せ下さい。

お名前:
  • ↓2の方
    漢字だらけに関しては、世界観的に仕方なかった部分はあります。ポケナガで「お仕事タイム」「アンビリーバボー!」などとカタカナ言葉が乱立していたのが少々残念だったいい思い出があるので。
    行間の少なさについては考えなければならないですね。読みづらければ内容云々以前ですからね。
    内容についてもよく考えるとこれでも詰め込み過ぎだったかもしれません。というかひと月とかで終わるだろうと踏んでいたらこの結果ですからね。別な作品で盛り込むことも可能でしょうから、分割を利用したシェイプアップを覚えていきたいと思います。

    妄想人間さん
    これもやはり内容の肥大化からきているのかもしれませんね。当分は短編作家でならすことを狙っているので、厳しいスタートになってしまったのは間違いなさそうですね。

    お二方アドバイスありがとうございます。ここで更新はしばらく停止し、次の作品を書き上げることにします。
    キャラの命名の元ネタ等についても少し出してみようと思ってみたりみなかったり。ひとまず作品を優先します。
    ――オレ 2013-02-18 (月) 21:10:19
  • 完結乙です。
    なんか物語の背景が掴みにくかったです。
    感覚として抽象的だったのでこれが具体的になると物凄く個人的に面白くなると思いました。
    次回もたのしみにしています。
    ――妄想人間 ? 2013-02-14 (木) 22:55:24
  • とりあえず…、完結お疲れ様でした。
    しかし、漢字だらけな上文章の行間が無くて読みづらく、途中から読み飛ばしてしまいましたorz
    ごめんなさい…。

    内容も少し難しいと思います。少なくとも気軽に読める小説ではありませんね…。
    ―― 2013-02-14 (木) 08:04:36
  • ↓の方 ありがとうございます。次回でおそらく完成するので、最後まで見てやっていただければと思います。
    ――オレ 2013-02-08 (金) 23:00:55
  • これ好き。
    ―― 2013-01-29 (火) 12:54:04

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Last-modified: 2013-02-13 (水) 00:00:00
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