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お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね?

/お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね?

作者:オレ
官能描写ありにつき、閲覧にはご注意ください。
巻の一
巻の二
巻の三
巻の四
巻の五
巻の六
巻の七
巻の八
設定集












「あう……あっ!」
 木材を積んで作った厚い壁で囲まれた部屋。木枠で囲まれ布が敷かれた寝台の上で、アブソル人種の青年が横たわっている。四足としては無理があるようにしか見えない前足の伸ばし方で、器用に自身の股の間を撫でまわしている。
「うぐっ! あうっ!」
 その勢いに激しく揺り動かされる睾丸の隙間から、痛々しいほどに膨張した雄の刃がその付け根を見せている。言葉を失った声を吐いて、相当に狂ったような自慰である。厚い壁と鍵をかけた扉に遮られ、瞼もすべての現実を徹底的に追い払う。彼には頭の中の光景しか無くなっていた。
「お兄ちゃんを、俺を……!」
 紛うことなく血のつながった、可愛らしい妹であった。明るく無垢な表情と声に、周囲の男たちからの人気は高い。厚いたてがみの下には、逆に歳にはあまりにも見合わない無駄の無い体がわかる。それを周りの女たちからよくからかわれるが、本人は気にしている様子を見せない。女たちを追い払った後に嬉しそうに駆け寄る笑顔が、彼をこのような行為に駆り立てている。
「もう……すぐに……!」
 かすかに目を開けると、目の前には同じアブソルが写った写真が置かれている。単色の写真は他の種族であれば物足りなさがあるかもしれないが、元々毛並みは黒と白だけのため問題は無い。頭の中では今も今も淫靡な声を上げ続けているのに、なおも変わらないいつもの明るい笑顔。臨界点が近い彼を、余さず飲み込まんとばかりに。再び目を閉じた瞬間、すべてが瓦解する。
「うぐあっ! ぶぁっ!」
 派手に吹き出す声も入り乱れ、妹の姿は鈍痛の渦の中に消滅する。同じような勢いで吐き出される精液は、彼の刃の先端を包む雑巾に受け止められる。派手に飛び散らせて処理に苦労した過去があったので、このような工夫をするに至った。裏返してそれだけこのようなことを繰り返してきたのだ。
「また……やってしまったか」
 普段であれば落ち着いているであろう低い声が、今は自戒の念に囚われている。血のつながった妹でこのようなことをするなど、とてもではないが人の道にそぐわないとわかっているのに。しかし、こうしなければならない理由も一方ではわかっていた。
「どうして、もっといい女性が現れないんだ?」
 一度後悔に駆られて自慰を禁止したものの、二日目には妹の笑顔に理性が崩れかけた。最悪の事態が明日をも待たないかもしれないという危急に気付き、その日の夕方には解禁してしまった。いい加減浮いた噂が立ってもおかしくない年齢だというのに、未だに彼が初恋だと認められる感情は経験できていない。まさか妹を愛してしまったなど、認められるわけもなく。
「もういい。お休み」
 それでも単純な作りの男の体だから、まだこの場で満足させてくれる。彼は写真の中の妹に声をかけると、そのまま途切れ途切れの意識を後悔の海へと手放す。



 その壁を一枚隔てた隣の部屋でも、同じようにアブソルの少女がうつぶせになっていた。こちらも隣の部屋のアブソルと同じように、派手に息を荒げて陰部をさすっている。
「お兄ちゃん、もっと……壊して!」
 秘所からは達する前から汁があふれている。達する前というよりは、既に何度目とも知れない連戦に挑んでいるようである。寝床はすっかり汁がしみ込んでおり、上の少女が体を揺するたびに跳ね上がる光の粒が見えるほどである。
「私、お兄ちゃんのために!」
 本当は彼女自身も、自らの成長の遅さは気にしている。母親から継いだ血は、似て欲しくないところにまで現れてしまっている。そして何よりも辛いのは、周りの女子仲間にからかわれた後の兄の助けであった。
「お兄ちゃんだけのものにして!」
 厳しい態度で周りの女子集団を追い返す兄の姿を、女としても喜んでしまっている自分がいる。あのまま子供の頃のように抱き着くことができたらどれだけ幸せだろうか、それを想像したことはとうに数えられなくなっていた。一方で現実というものも知ってはいたのだが……。
「ぅあぁんっ!」
 家族に聞かれたら心配して扉を開けられかねないような声と共に、彼女は絶頂の潮を吹く。近親婚は子孫への悪影響が出るため、本能的に忌避する仕組みが備わっているという。その仕組みが機能し続ける限り、兄は自分を女性と見ることは無い。しかも本能に備わっているはずの仕組みが、自分の中では機能していないという恐怖も存在する。
「お兄ちゃん……いつかは誰かのものになっちゃうんだよね?」
 とどめはいつもからかってくる、歳の近い女子仲間の決まり文句だ。彼女たちが言うには、男は自分のように胸が出ていない女性は気にも留めないという。だとすればますます兄が自分を女性と見てくれる可能性は低いし、声を掛けてくる何人かの男性たちの本心も疑問が残る。何よりそんな自分に声を掛けてくる男性が何人もいることを、快く思わない女子仲間にからかわれる。いくら傍に兄がいてくれると言っても、他の人たちとの間には異様な壁の存在を感じるようになってしまっていた。独りでいるときに襲い掛かってくるそんなやるせなさが、彼女に自慰の快楽を強要して涙させ続けている。
「まだ、夜は長い……」
 その快楽でも愛する相手がいない事実は、体が内側から感じており。孕むまで永遠に逃れられないというそれは、まさに無限地獄であった。



 全ては嘘で塗り固められていた。そしてその嘘の張り子が崩れ落ちた時、別な現実が同時に襲い掛かってくる。塗り固められた嘘に知らずに背中を預けていた者は、そこで作り上げていた別のものがあまりにも残酷であったと気付く。
 彼らを救うものは、どこかにあるのだろうか?



 初夏の日差しが暖かい。生け垣の陰で座るアブソルにとっては、厚い毛並みもあっていい加減苦しいくらいであろう。時折吹く風に揺られて縞模様を見せてくれるため、その瞬間であればいくばくかの涼しさも共存してはいるが。
「まったく、遅いな」
 木造の家並みが続く町のはずれから、アブソルは苛立ち気味の表情で道が続く先を時折見ている。凛々しく落ち着いた顔立ちは、まさに男前と呼ぶにふさわしい。その瞬間、男前は目を閉じてため息をつく。
「懲りないやつだ」
 後ろから近づいてくるヘルガー人種の青年の存在を、振り向かずとも感じ取ったからである。禍々しくすら見る者がいる黒い毛並みだが、その顔立ちは癒しを与える夜の闇のごとく美しい。だというのに悪戯を画策する笑みを浮かべ、元の価値を台無しにしている。向こうがわずかな足音などでこちらの位置を感じ取っているとはつゆ知らず、ヘルガーは口の中に軽く炎を含んで一気に踏み込む。
「信夫(しのぶ)君、隙が……」
「ありすぎるのはお前だ!」
 吐き出された炎は熱も量もそこまでではなく、当たったとしても厚い毛並みの表面をわずかに焦がすだけである。しかしその白い毛並みには焦げた色は非常に目立つので、当然受けてやるわけにはいかない。信夫と呼ばれたアブソルは一気に宙に飛び上がると、そのまま体をねじらせて急降下。額から生える鎌のような角を振り下ろす。
「くたばれ!」
「ぶぐぉっ!」
 猛烈な勢いで鎌を叩きつけられ、ヘルガーは視界を明滅させて倒れこむ。アブソルの角は内側だけが刃となっているため、血しぶきが上がるようなことはさすがにない。ヘルガーから返ってくる角からの感触に、地に伏したヘルガーの姿に信夫は得心の意味を浮かべる。
「今日も悪くないな」
 悲鳴を上げて地に伏す無様な美男子ヘルガーの前で、信夫は華麗に着地を成功させる。飛び上がる瞬間の筋肉のばねに、体を叩きつけるための捻り。今日も動きが悪くないことをしっかりと確認する。
「酷いよ信夫君! ちょっとの悪ふざけでここまでするなんて!」
「俺にしてみればお前の悪ふざけは度が過ぎるんだが、平助(へいすけ)?」
 平助と呼ばれたヘルガーは、いまだに衝撃が響く頭を前足でさする。四つ足には骨格的に厳しい動きなのであるが、どうやら平助はこれに慣れてしまっているらしい。
「だからってここまでするなんて本当に酷いよ! 今度こそ死んじゃうよ?」
「大丈夫だ、汚物処理の方法がないうちに死なせはしない」
 言った瞬間、信夫の頭には「流石にまずいか」という不安がよぎる。平助の図太さはよく知っているのだが、それでも汚物呼ばわりまでしていいのかは不安になってしまう。ここまで冷酷辛辣にさせる平助も恐ろしいのだが、家族や親戚には無い部分が飛び出す自分にも黒いものを感じてしまう。思い過ごしであろうが仕方ない。
「顔では俺に負けているのに汚物扱いなんて! あんまりだよ!」
「そういう発言が汚物たるゆえんだ」
 そして即座に信夫の胸中のもの全てをことごとく踏みにじる、平助の並外れた遠慮の無さ。口元では激しく苦悶を演じながらも、目元は狂ったように笑っている。両肩を交互に回転させて身をよじり、地面を転げまわる。あまりにも気持ちが悪い。
「いい処分の方法は私には考え付かないな。ごめんね、お兄ちゃん?」
「三春(みはる)ちゃんまで! 酷すぎる兄妹だよ!」
 そんな暴走する平助を見て、近くまで来ながら出るに出られずにいたアブソル人種の少女がようやく口を開く。兄の半歩後ろに隠れるように並び、露骨に平助に対して警戒しているように見せて遠慮がない。彼女の言葉は平助にとってはよほど大きいのだろうか、平助は目が覚めたように起き上がる。
「まったく、お前のおかげで三春までこんなことを言う状態になってしまったか」
「俺のせいじゃないって! お兄ちゃんが他の家族とは逸脱した汚い言い回しを連発するからだよ!」
 実際、その辺りの危惧は信夫にも無かったわけではない。時に猟奇的ですらある自分の発言と同等に言い立てる者は、家族親戚を探しても存在しない。それでも自分が生まれた状況は家族によく聞かされているのだ、今更何を疑う心配もないはずである。
「そのお兄ちゃんの発言も、完全に平助さんに引っ張り出されたものだと思う」
「ここまで言っちゃうなんて! お兄ちゃんはこんな可愛い三春ちゃんをどこまで調教するの?」
 聞く人が聞けば、誤解も誤解と目を剥く発言である。しかし幸い聞いていた人は存在せず、仮にいてもこの辺ではこれがいつもの平助と語り草なのである。信夫の妹の三春には誰よりも積極的に声を掛ける男であり、三春がいる前では信夫のことを「お兄ちゃん」と呼ぶ始末である。仮に結婚という異常事態が発生すれば、誕生日の前後関係から確かに信夫が兄になる。しかし裏を返して既に結婚したつもりにでもなっているのだろうか? あるいは既成事実でも作ろうとしているのだろうか?
「まったく、折角の日なのにこういう発言を繰り返すなんて。平助さんの知性が心配だよね」
「大体が、話が進まない。夕刻の会食まで時間があるというのに、早めに集まった意味が無い」
 平助の時間へのだらしなさをよく知っていた信夫は、暇もあって待ちぼうけの間に地面に線を描いていた。簡単な日時計である。それを見れば一発で昼下がりだとわかるのに、平助を見ていると気がせいてならない。
「そうだな、兄さんにも早く報告しないといけないよね」
「忘れていなかったようだな、今集まった意味は」
 その瞬間、平助の表情も一気に落ち着きを取り戻す。信夫を揶揄するような先程の「お兄ちゃん」とも違う、尊敬する兄を示す言葉遣い。
「常磐丸(ときわまる)さんが亡くなって、もう何年になった?」
「俺も力をつけたつもりだけど、信夫君を見ていると時々痛々しくなるよ。本当は俺の生家のことなのにな」
 そんな平助の様子を見て、信夫も三春も気持ちを本題に切り替えることにした。過去の痛みを胸中に蘇らせることでもあるが、彼らの目指す先もそこから始まっている。
「白河(しらかわ)の家のみなさんも、まだ許してもらえていない。あの時に俺に力があったら、あいつらに事実を通すことができればって思うと今も堪えられない」
「俺にとっては信夫君がその後にしてくれたことで十二分なんだけどね。今思うと、あの歳であそこまでできる人がいるなんて信じられないよ」
 そしてそれは今はもっと強いものになっている、本当に頼もしいという気持ちを平助は目線で付け加える。しかし信夫は対して何を返すわけでもなく。下ろした瞼の裏には、全てが始まってしまったあの日の光景。あの惨劇が自分の人生の最初の標(しるべ)となったと思うと、まるで自分は災いの申し子のような気がしてならないのだ。



 平助は信夫と同い年で、今の西郷(にしごう)の家ではなく白河の家に生まれた。その頃から隣近所であった信夫たち若松(わかまつ)家とは家族ぐるみの付き合いであった。子供のいない白河家の老夫婦が平助を跡取りにと迎え入れた後も、その付き合いに老夫婦が加わっただけであった。その日までは。
「まったく、聞き分けのない子供だ」
「間違いなく聞いたんだって! この前の事件、あいつらが裏で手を引いていたってことが!」
 疲れ切った表情のマニューラに対し、それでも幼い日の信夫は詰め寄る。あるいは隙あらば突破しようという意志が、表情からはありありと読み取れる。
「白河常磐丸はかの家に押し入り、当主以下多くの者を殺害した上に家宝を盗み出した。近くの家の者たちも証言している」
「その近くの家ってのは今は権力闘争の政敵じゃないか! その証言の真偽をなんで調べないんだ!」
 信夫の目線の先では、今の平助によく似たヘルガー人種の青年が拘束されている。炎を扱えるがゆえに石を組み合わせて作った鎖に縛られ、鼻から犯人扱いである。信夫は「馬鹿力」を教えてもらったばかりであり、突破する場合そちらで引きちぎることを考えていたのだ。
「仮にお前の言う通りだったとしたら、その家まで潰さなければならなくなろう。内乱が目に見えるし、そうでなくともこの里は多くの人材を失う。子供には難しい話だな」
「お前の言っていることは分かる! でも、このままだとこの里はあいつらに乗っ取られることになるぞ! 大人なのにそれが分からないのか?」
 信夫は子供ながら、城中の権力闘争の噂には辟易しきっていた。既に仕官している常磐丸にそれを話すと、彼を中心とした若い者たちが立ち上がろうとしているという情報が返ってきた。既に権力を成した者たちには、新たな敵となりうる存在である。そんな新たな敵を既存の敵と同時に潰すというやくざ者たちの会話を、信夫は偶然にも聞いたのであった。
「乗っ取られるなどとは、いい加減口のきき方に気を付けるのだな。我々が住んでいるこの里が住めるようになるためには、あの一族の祖先の力が欠かせなかった」
「だからって俺たちはあいつらの私物になるのか? そんなんで何のためにその祖先ってやつはこの里の開拓に協力したんだ?」
 言いながらも、信夫には少しずつ答えが見えはじめていた。このマニューラはその一家から賄賂を受け取り、結果を動かす気が無いというものだ。そういうことであればここでの問答は既に無意味であり、覚えたばかりの「馬鹿力」でこのマニューラも突破するしかないという結論に至りつつあった。その瞬間だった。
「信夫、やめろ! 俺がやったんだ!」
「なっ! 何を言い出すんですか!」
 死をも覚悟して止めに来た信夫の目の前で、常磐丸は濡れ衣を自分のものと認めてしまった。今の信夫の体勢は露骨に「馬鹿力」を放とうとする構えであり、マニューラはその発動と同時に信夫の首をはねる構えをしていたのだ。信夫は全く気付いていなかったが、常磐丸の位置から見ればその爪の構え方で嫌でもわかる。
「お前は気が動転して変な夢でも見たんだ。間違いなく俺がやったんだ」
「常磐丸さん、そんな嘘で誰が……」
 そんな嘘で誰が救われるのかを聞こうとしたその時、既に常磐丸の目が答えていた。信夫自身であると。ここでどんなに押し問答をしても、マニューラがどこかで気疲れを起こせば強引につまみ出される。つまみ出される程度ならいい方で、最悪は今まさに狙われているように殺されかねない。
「訴状、間違いありません。白河常磐丸は、家族の反対を押し切って蛮行に走りました。これ以上の言い逃れはやめ、死を受けることにします」
「神妙であるな。その態度に免じて、その方の家族は罪を減ずる」
 しかし裏を返して、信夫が助けようとあらわれたばかりに常磐丸が自ら死を手繰り寄せる結果となった。愕然と常磐丸だけを見つめる信夫に対し、向こうも目線で声なき声を伝える。たとえどんなに言い逃れようとしても、既にこの状況の突破は無理であると。せめて信夫だけでも生き延び、今の思いを糧に今度こそこの里の更生に努めてほしいと。
「信夫、気持ちは嬉しい。だが、それでどうにかならないことだってあるんだ」
「もはや聞いてはいないな。まあ良い、つまみ出せ! こんな子供に何ができるでもあるまい」
 放心状態の信夫の体が、急に浮かび上がる。配下の者たちが脇腹に腕をまわしこみ、外へと運んでいるのだ。門前の地面に放り出されて、常磐丸を救う道が扉で閉ざされていく光景は理解できた。しかしそれ以上何もできないまま、信夫は愕然としたまま地面に転がっているだけだった。



「あの時の子供が、ここまで立派になるとは思わなかったぞ」
「何!」
 いつの間に現れたのだろうか、信夫たちのすぐわきにはマニューラ人種の女性が立っていた。まっすぐ二本足で直立する人種であり、体つきの細さも相まってとても大きく見える。しかし実際のところ彼女が特別背が高いというわけではない。
「日和田(ひわだ)教官、聞いていらっしゃったわけですか」
「あの時の子供を忘れていたわけではなかったが、結局二心を持ったままでいたわけか」
 この里で城中での仕事をするためには、若いうちに必ず最低十か月の間調練場に通うことを要求される。その調練場をここ数年受け持っているのは、この日和田楢葉(ならは)教官なのである。信夫も平助も彼女から教えを受けたこともあり、その意味でもよく知っていた。皮肉な運命としか言えない。
「別に俺は二心など最初から無い。俺が忠心を誓ったのはこの里で、城中の腐った輩ではない」
「随分な開き直りだな。この場で処刑される覚悟が無ければ、とても言える言葉ではないぞ?」
 言いながらも日和田教官は、まったくたじろぐ様子の無い信夫に関心を隠さない。突然かつ最悪の来訪者に、三春も平助も身を震わせるほかなかったというのに。
「あいにくだが、俺はあの日に既に命を捨てていた。だから『百尺獄門(ひゃくしゃくごくもん)』に乗り込むようなことができたわけだ」
「常磐丸の亡骸を回収して戻ったわけか。子供の頃から凄まじい力があったらしいな」
 思わずうなずいて見せた日和田教官に対し、三春も平助も彼女がなぜ驚かないのかと目を剥いた。実際には少なからず驚きもあったのだろうが、この里の者であればその程度の驚きでいられるはずがない。処刑された者の亡骸は、この里の西に口を開ける「百尺獄門」と呼ばれる谷に放り捨てられる。谷の中はおろか周辺すらも瘴気が噴き出すため、飛行能力を持つ人すらも普段は入り込まないという場所である。まして子供が入り込んで、大の大人の死体を担いで生還するなど信じられない話である。
「その『凄まじい力』ですら今の俺の比ではない。もし俺たちの誰かを処刑しようというなら、それを見てからでも遅くはあるまい」
「武術の訓練でも十分に見せてもらったがな。今年どころかここ数年でも筆頭と言える腕に見合う言葉だろう」
 信夫は元々身体能力はいい方だったが、常磐丸の一件から城中で戦い抜くすべを必死で身に着けた。武術はもとより学問や倫理など、調練場を越えるためには必要とされるものは全て。それは平助や三春も同じであった。年齢の都合で入門前の三春はまだ知られていないが、武術の信夫と学問の平助で二人は年の割に知られていたのである。
「信夫君、今なら謝れば許してもらえるはずだよ! まだ他に誰も聞いてないから!」
「まだ誰も聞いていないんだ。その間に少々思い知らせるまでだ」
 後ろからの平助の声がかなり頼りないのは、ひとえに平助自身は武術を苦手としているからである。平助は元々の身体能力は悪かったため、武術では大差であったのである。それでも今年の者たちの中では信夫に続いていたが、見る者が見れば信夫と平助の間の生まれながらの身体能力の差は大きく見えていたほどである。
「無茶苦茶だよ、お兄ちゃん! 日和田教官も昔から有名だったんだよ?」
「話では腕が立って気骨があったってな。それで、目の前のこいつに気骨があるか?」
 信夫は軽く顎を突き出し、日和田教官を示し方で挑発する。こいつから見られるのは気骨どころか、弱腰媚びへつらいの精神であると。直に言うより痛烈な挑発であろう。しかしその両前脚の構え方から、信夫に油断は感じられない。一応腕の方が嘘でないことは警戒しているらしい。
「どうやら、言葉で分かり合えるものではないようだな」
「それはこっちの台詞だ。あの時に言葉でわからなかったお前が言うな!」
 既に信夫には、手ほどきを受けた教官に対する敬意など消えて無くなっていた。その目は殺しても足りないと言わんばかりに。あの時子供だったために何もできなかったのは事実として、しかしいつまでも子供でいてもらえると思うなと全身毛の一本でまで語っていた。
「仕方ない奴だ、覚悟しろ!」
「言いたいことを次々と先取りしてくれる。三春、平助、巻き込まれないように下がっていろ!」
 言うが早いか、信夫は日和田教官の正面に立つ。後ろにいる三春と平助の位置にも気を配っているのは、向こうが隙をついて人質作戦を始めないかを警戒しているためだ。三春と平助は巻き込まれないためというよりは、この空気のあまりなまでの重さに後ずさりしたくなる気分であった。



「どうやら、遊びのつもりはないようだな」
 駆け抜けすれ違いざまに、互いの爪をはじき合わせること三度。信夫と日和田教官の位置は元に戻る。ただし信夫の構えだけは変わった。アブソル人種の右側の額には、大きく湾曲する鎌状の角がある。先程は角を正面に向けていたのに対し、今は角の無い側を日和田教官に晒している。
「平助さん、お兄ちゃんの構えって……」
「アブソル人種の『殺刃(さつじん)の構え』だよ。わかっているよね?」
 響き上がった音の合間は、虫の鳴き声すらも聞こえない。三春と平助は飲み込まれそうな錯覚を覚える。信夫の構えは弱点である胴体は晒すことになるが、角の先端や刃の部分は相手に向かうことになる。相手の攻撃をかわして残った角で相手を必ず殺害する、捨て身で攻撃に徹した構えなのだ。
「その構えで与えた手傷は致死性のものにすらなる。単なる遊びや脅しでそんな構えはしないからな」
「よく動く口だ」
 信夫は左に寄り、相手との間合いを一歩詰める。信夫が今の構えを使う姿は、平助も日和田教官も調練場ですらほとんど見ていなかった。角を相手側に向ける防御力のある構えの方が中心で、こちらの構えは一通り修める程度であったはずである。それをこの場で使うということから、信夫がこの構えをものにするためにもう一つ裏で特訓してきたことがうかがえた。
「お兄ちゃんが人を殺すなんて見たくない……。平助さん、止めて?」
「信夫君はもうああなると止められないよ。三春ちゃんが一番知っているくらいじゃないかな?」
 平助の答えに、三春もそれ以上は言えずただうつむく。思えば日和田教官に直訴しに行った時も、百尺獄門に乗り込んでいった時もそうであった。そしてその止められないところもまた、三春にとっては大好きな兄の姿なのである。だというのに今はそれを止めることを望み、にもかかわらず同時にそのための動きが許されないほどの恐怖に支配されていた。
「残念だが既に止められそうにない。お前の兄は既に油断なく勝ちを読み切った目をしている」
「なら、教官がやめればいいじゃないですか」
 氷属性を併せ持つ体に黒い毛並みとあってか、日和田教官は日陰でもどこか暑苦しそうである。しかし日陰であればその黒い体はあまり目立たず、攻撃には一瞬の遅れが生じそうである。信夫は読み切った目をしているというが、三春や平助にとってはいまだに一進一退が続いていそうに見える。
「そういうわけにもいかないのだ。いくぞ!」
 日和田教官が雄叫びを上げたと思うや、刹那の後にその姿が消滅した。三春と平助が何が起きたのかと目を剥くと、少し後に再び日和田教官は姿を現した。
「そんな……!」
 自身の残像をいくつも伴って。本物が一体間違いなくいるのだが、それを見切れなければ残像に紛れた攻撃を防ぐことができない。普通であればどうにかしようと手を打とうとする場面、しかし信夫は平然とその場で構えている。残像に取り囲まれるのを許しても、なおも信夫は動こうとしない。
「こういう時は相手の影を見ればわかるとか聞いたことがあるけど……」
「平助さん、見ての通り全部に影があるんだけど? そういう影の作り方を知っているみたいだよ?」
 しかしこの状況になっても、三春も平助も動けずにいる。それは日和田教官よりも、むしろ信夫の背中から放たれる雰囲気に突き放されているのだ。そうして手をこまねいているうちに、日和田教官の全ての影が攻撃に移った。一つ、二つ。残像は次々と信夫の体を引き裂いて、しかし所詮影とあって傷をつけられないまま通過して消えていく。五つ目の影が通り過ぎようとした、その瞬間だった。
「そこだ!」
「ぐっ!」
 その後に続こうとした六つ目の影に、信夫は軽く顔を向ける。その瞬間日和田教官の残像はすべて消滅し、目を覆った本体だけが残った。
「まさか、角に光を反射させて教官の目を?」
「ええっ? 確かに教官はずっと日陰にいたからきついとは思うけど!」
 角に反射した光で相手にダメージを与えるためには、確実に相手の目の位置に光を反射しなければならない。その角度調節の技術もさることながら、まずは相手の位置を見切っている必要がある。当惑する三春と平助には目もくれず、信夫は左の肩に「馬鹿力」をかけて教官の胸に叩きつける。勝負あり。
「あんな残像をまともに見ていたら、確実にやられる。ああいうときはさりげなく目の焦点を狂わすことだ」
「目を閉じたら、気付いていた……」
 見分けることのできない残像が並んでいるときは、視覚に頼らずに戦うのが基本だということは信夫だけでなく平助も知ってはいた。その上で信夫は、日和田教官も知っていたことだろうと踏んだのである。目を閉じれば確かに残像からは解放されるが、向こうも残像から逃れたことに簡単に気付く。
「逆に敢えて気づかせて、別な手を誘い出しても良かったんだがな」
「無念……」
 言いながら信夫が軽く吐いた息には、まだまだ余裕が感じられた。一方の日和田教官は、満足に言葉を出すこともかなわない状況だというのに。調練の場で見せたのも自分のわずかな分だと言わんばかりに、信夫は地に伏す相手を見下ろす。



 信夫はそれ以上日和田教官に攻撃を加えるでもなく、彼女をその場に転がしたままきびすを返す。それは数日前まで手ほどきを受けていた教官に対しての、恩義というものではまったくなく。
「あれ? 許してあげるの?」
「そんなつもりはないが、こいつに殺す価値なんて無い」
 ただ次なる否定を重ねるだけであった。仮にこのまま生かしておけば、あるいは再び爪牙を交えることになるかもしれない。その時に仮に仲間がいようとも、また同じように圧勝してやるだけだという意味である。もちろんここで下手に教官を殺せば、それはそれで別の問題を誘い出しかねないという点での打算もあったが。
「どうやらあの『殺刃の構え』は、挑発するためだけのものだったんだね」
「反射光を利用するのにもあの方がやりやすいというのもあるが。こんな下っ端を殺したところで、一体この里の何が変わるんだ?」
 言われてみて、ようやく三春も平助もいつも語り合っていた目的を思い出した。常磐丸の死はこの里の権力による腐敗からもたらされたもの。常磐丸の仇討ちいう意味もあるにせよ、腐敗を放置しては次はどこに刃が向かうかわからないという危機意識もある。理想も現実も同じ方を向いているのだ。
「それにしても、日和田教官に手を下さないにしてもこれはまずいよね?」
「大丈夫だ、こいつにこの騒ぎは大きくできない。俺と戦って傷一つ負わせられずに負けたんだ、下手に報告した先は目に見えている」
 言いながら、信夫はあえて日和田教官に一瞥を向ける。今の話は平助に説明することよりも、日和田教官に対してまさかと思いつつ再確認させる意味の方が大きかったのだ。折良く向こうが目線をこちらと合わせてくれたのもあり、信夫にとっての念押しの目的も上手くいった。
「そっか。じゃあ、今のうちに常磐丸さんのところに行かないとね」
「うん。日和田教官が復活して尾行されたら、兄さんに墓標を作らないでいる意味が無くなるからね」
 二人の言葉に、信夫も早くしようとうなずいて見せる。未だに死の原因となった案件の冤罪が晴れていない以上、死罪となった常磐丸の墓をこの里に作ることは本来できないのだ。信夫が回収してきた遺体を埋めた場所には墓標も作れず、そのため日和田教官はじめ城中の者たちにその場所を知られることすら許されない。
「待て、若松……! お前は私一人で、満足する気が無いのか……?」
「訊く余力があったか。なら聞かせてやろう。俺たちの目的は、領主小名(おな)家の追放だ」
 三春も平助もこの説明に一安心しようとした矢先、信夫はさらに堂々と言い放つ。先の説明の続きで、日和田教官が周りにこれを知らせることはできないのは分かっている。この里の領主である一族に追放する宣言をした相手に、何も手を出さないわけにはいかないからだ。しかも相手は期待は高けれど本来は所詮調練場上がりの新入り、名の通った日和田教官が即座に手を出さないわけにはいかないのだ。それで信夫が無傷自由の体でいられるという状況は、すなわち日和田教官が返り討ちにあったということである。もちろん城中でそれを報告すれば、他の武士たちも信夫に刃を構えるようになるだろう。ただし、日和田教官は城中の立場どころか命すらも奪われかねないが。
「そして、お前は……小名家に取って代わる……?」
「別に三春だろうが平助だろうが、場合によってはお前でも構わない。権力を成した輩が跋扈するこの里の状況を変えるのであればな」
 日和田教官の言わんとする意味を、信夫も即座に理解した。城中頭を下げぬ者は無い小名家と立場が入れ替われば、少なくとも町人としての望みであれば思いのままである。そこにあるのは所詮私欲と憎悪だけであろうという、日和田教官の目線。対して信夫が返すのは、お前と一緒にするなという嘲笑。
「私たちも同じ答えです。常磐丸さんの一件は確かに許せませんが、ああいうことをした人たちを許した先がどうなるかも考えた末です」
「信夫君が忘れてなくて良かったよ。兄さんの件も目を見開くと割と大きな一件に過ぎない。多くの人たちが上の者たちに涙させられる現状は、この里の破滅も誘い出すからね」
 三春や平助は信夫のような挑発的な態度をとることはなかったが、意志に共通するものは同じである。常磐丸の一件で信夫の言葉を握り潰したのは日和田教官であるが、その日和田教官の後ろにあるものも考えた。彼女に対してどのような形であれ、権力があの行動をするように圧力をかけた。そう考えれば仮に彼女がいなかったところで、別の権力に屈する輩が同じことをする。
「何と言われようと俺たちの気持ちは変わらない。お前の処遇など、その後でいくらでもできるからな」
「そうか……。意志は変わらぬ、か……。もう、言わなければならぬ時……」
 もしまだ言いたいことがあるのであれば、もうしばらくは聞いてやろうと。信夫は日和田教官の様子を伺う。そんな信夫の目線を見て、日和田教官は深く息をついた。その表情には、どこか今までにない覚悟が浮かび上がってきた。信夫は気付かなかったが、三春と平助ははっきりと気付いていた。
「何か言いたいことでもあるのですか? 時間も無いので手短にお願いしますね」
「その前に確認する……。これから話すことで、お前たちの中のものが大きくひっくり返る……」
 思わず聞こうという言葉を出してしまったが、その瞬間に三春の全身から冷や汗が噴き出した。まるでそれを聞いてはいけないと伝えんばかりに。隣を見ると、平助も同じことを感じたという表情をしていた。
「そもそもこの状況では本当かどうかも分からないがな」
「うん、うん……。言うだけは言ってくださいね。俺たちで真偽は判断しますから」
 だが、どうやら信夫だけはそれを全く感じ取っていなかったらしい。三春や平助よりも一歩前に出ているため、二人の表情は全く見えずにいるのだ。平助の返答に一瞬よどみが出ていたのは気付いたが、別に大したこととは思わずに素通りしてしまっていた。日和田教官にとっては、何であれ向こうが動揺してくれれば騙す好機である。しかし表情には厳しい覚悟が見えるだけで、そのような好機ととらえた様子は無い。それがあったことにもより、信夫は二人の様子に気付くことが無かったのである。日和田教官が口を開くまでに、妙に間が空いたことを感じるのが信夫の限界であった。
「若松三春には、本当は兄などいなかったのだ」
「は?」
 日和田教官の第一声は、しかし彼らにとってはあまりに荒唐無稽であった。それでも消えない三春と平助の中の不気味さは、まるでそれが事実であるということを伝えんばかりに。それが無ければ、恐らく信夫と同じように頓狂な声を上げていただろう。頭の中に響いている声は、三人とも「何を妄想を語っているのか」と共通している。しかし本気でそう思っているのは信夫だけで、三春と平助は必死に自分に言い聞かせる形であった。
「今の領主である小名の忠勝(ただかつ)に生まれた子供を、私が連れ出し若松家に引き取らせた」
「待て? 妄想を語るにも、もう少し上手いことを言ってみろ?」
 言いながら信夫は、三春と平助に目線を送る。お前たちも何か言ってやれと。そしてその時になってようやく、三春と平助の愕然とした表情に気付いた。信夫も自分の中の何かには気付いたのだ、本当にようやく。
「若松の夫婦は好都合であった。人種も母がアブソルで、幼馴染で結婚前からの付き合いも長かった。しかも父は言動から好色との噂が少なからずあった」
「つまり俺は……俺は小名家の者だと言うつもりか?」
 信夫は笑ってやろうと必死に気持ちを作り上げた。しかしそれをあざ笑うかのように、体の中で渦巻くものが破壊していく。この里にはしきたりがあり、成婚前に生まれた子供は「両親に不貞をそそのかす悪しき存在」とされる。その場合は両親は子供をひた隠しにし、婚儀までその身を封じ戒める義務を負わせなければならない。殺すことを良しとするのであればまた話は別だが、恐らくはあってもわずかである。そして信夫の父は実際少なからず噂があったため、信夫を見て「ああやっぱり」と思われたらしい。三春と平助には、信夫の体が徐々に震えだしていくのが分かった。
「あなた様の本当の名は忠信(ただのぶ)です。忠信様、私の言葉の真偽は忠信様が今間違いなく感じていることと思われますが」
「待て! 俺がこのままことを進めてたら、俺は実の父を追い出す……?」
 信夫のそんな身の上があったため、周りに茶化されることも少なくはなかった。父のことでからかわれた時には、もちろん腹立たしさはあった。しかし、他の場面と合わせて父の人情味の方がより強く感じられたものであった。それが全て嘘だったと、日和田教官はそのように語っている。
「左様です、忠信様。あなたはこのままことを進めれば、お父上を追い出すことになるのですよ?」
「だが、俺の……俺の父上は!」
 両親の厳しい態度も優しい言葉も、全て息子のことを思ってのことだと信じて疑わなかった。信じるとか疑うとかいう発想すら生まれなかった。日和田教官はだいぶ呼吸が落ち着いた様子を見せていたが、それでも起き上がろうとはしない。それはここで信夫たちに何かをされたとしても、全てを受け入れようという覚悟の表れにも見える。
「日和田教官、そんな妄想……! 妄想でお兄ちゃんを惑わすにも、もう少し信憑性のあるものをお願いします!」
「お前に兄などいないんだ。そのような上ずった口調であるからには、お前ももう答えには行き着いているのだろうな」
 ようやく口を開くことができた三春も、日和田教官から返ってきた言葉の前には無手であった。確証は無かったというのに、日和田教官の言葉に信憑性を感じていた。信夫は他の身内にはまったくない雰囲気をまとっており、平助をたしなめる時に見せるような厳しい態度も彼独自のものである。それに始まる幾重もの「薄々」が積み重なってみれば、いい加減この「妄想」も厚みを持ち始める。
「それが事実であってもなんだよ? あなたたちがしたことを肉親の情で許せと言うんですか?」
「それは無いが、さて? 肉親としての関係を知って、それでもお前たちは忠信様に戦わせようと言うのか?」
 平助も必死に現実に抗おうと叫ぶが、結果は同じであった。信夫がこのまま自分の目指す戦いを進めれば、目指す先は実の父に凄惨な処遇を下す結果である。その時に信夫の周りの誰が、自分ですら自分を許せるだろうか? 信じるだろうか? 三春と平助の無手は、信夫に逃げられない現実を刻み込んでいく結果となっていた。
「俺は……俺はっ!」
「信夫君!」
 自分が呪っていた一族の血が、自分の体にも流れている。その現実も合わせて、信夫はたまらずに駆け出していた。平助は日和田教官を一度だけ睨むと、すぐに信夫の後を追う。残された三春もすぐに追いかけたかったが、その前に訊かなければならないことに気付いた。
「日和田教官、小名の忠勝様はこのことを知っているのですか?」
「知っておられる。忠勝様もご自身が権力とのやり取りの中で、自らが周囲の権力の身勝手に染まっていく様をなんとなくだが感じ取っておられた」
 信夫の父とされる忠勝の後継は、城中知らぬ者の無い悩みの種である。三春たちが生まれた頃、城中では小名家の子供たちが次々と消えていたと聞いている。ある者は病気で、またある者は事故で。行方不明になった者もおり、しかしそのうちの一人が信夫だとは思わなかった。いつの間にか小名家の家督を継げる者はいなくなっており、権力者たちには火種となりつつある。
「忠勝様も権力に抗えなかった、そういうことなのですか?」
「あの方は城中で育ち、城中のことしか知らずにおられる。周りの権力との相互関係だけのために生きるご自身に疑問を感じながらも、しかし知られないように上手く閉ざされていたように感じて悩んでおられた」
 初代の頃は小名家が里の中で圧倒的な立場であったが、配下に分け与えたりして代が進んでいくうちに全てを握れなくなっていた。もちろん、配下の者たちも足並み揃えて里のために動いているうちは良かった。徐々に城中の者たちが横柄になっていくに従い、小名家は傀儡(かいらい)と化していった。近しい城中の者たちが自分たちの色に染め上げ、自分たちの傍若無人の後ろ盾になるよう操るようになっていった。忠勝も生まれた頃からその中で育ってきたはずであり、そこに疑問を感じるなどある意味奇跡である。
「だから、お兄ちゃんに託したわけなんですか?」
「そうだ。もし忠信様が自分を打ち倒すことを望んでおられるのであれば、それがこの里の現実であると考えられた」
 それは裏を返して信夫が城中や忠勝を好意的に見ていれば、信夫が知るようなことは無かったのかもしれない。小名家が断絶したとしても、配下から次の領主を決めるという手もある。意見は異なっていても里を守るための一枚岩なのであれば、最終的にはうまくいくはずである。しかし現実は小名家を討伐するという答えに行き着いた。そうであれば今度は小名家を継いでもらうため、小名家の者であるということも伝えなければならないのだが……。
「でも、その時はお兄ちゃんが苦しむとは考えなかったのですか?」
「当然、考えた。だが病的になった者が立ち直るためには、最後は自らが考えて覚悟しなければならないのだ」
 そこまで言ったところで、日和田教官はようやく上体を起こす。そのまま呆然と宙を見上げる姿からは、自らの無力を強く感じている節が見えた。何も言わずに数秒、日和田教官は盛大に深いため息を吐く。
「私も忠勝様も、所詮こうすることしかできなかったのだからな」
 あるいは日和田教官も、ずっとどこかで挑みたい思いを抑えていたのかもしれない。いくら当時から気骨や実力を注目されていたとはいっても、その頃は所詮新人であった。日和田教官もまともに取り合われない時期は長く続いたのだろう。立場が上がってきて徐々に話を聞かれるようになってきた頃には、既に結婚して子供も産んでいた。そしていざ夫や子供のために動き出そうとしたところで、逆に家族が弱点になってしまっていたのである。そんな事情は三春もよくは知らないが、間違いなく何かの足かせが存在していることだけは分かった。
「私たちはもう守るものなど無い。だが、忠信様は違う。これから長くこの里で生きていかなければならない、守らなければならない未来がある方なのだ」
「日和田教官も、本当は今も苦しんでいるんですね」
 そうして自分の理想をなげうってまで守った家族は、一年ほど前に洪水の濁流に呑まれて失ってしまった。かつて自分が抱いていた理想は、常磐丸を見捨てた段階で彼方のものになってしまっていたのだろう。理想を彼方に捨ててまで守ってきた家族も失い、日和田教官も本当は生ける屍だったのだろう。本心は彼女もその洪水に飲まれて死ぬことができれば、その方が余程幸せだったかと思っているに違いない。
「私のことも城中のことも、もうどうなっても構わぬ。だが私は忠信様をあのように利用しようとした」
「そんなことは私にはどうでもいいことです。私にはお兄ちゃんが、お兄ちゃんが……」
 三春はまぶたの裏に浮かんでくる、熱いものを堪えられずにいた。頬の毛が逆立つのを抑えきれずにいる、そんな自分が目に見える。妹にとっての大切な兄との間柄を否定された悲しみでも、日和田教官の手段に対する怒りでもなく。まるで絶望の底に一つの希望が届いたかのような、そういう感覚であった。
「わかりやすいやつだ。お前は、忠信様を……」
「若松信夫!」
 日和田教官の口から出た本名を、三春は必死の叫び声で否定する。そんな三春の顔を見て、日和田教官もどこか希望のようなものを感じた。自分の理想のために利用された、生まれが悪かっただけの罪のない若者。もちろん日和田教官も、今信夫を襲い掛かる苦しみから解放する方法を考えてはいた。しかし今目の前に現れたものは、そのどんな方法も勝る方法であると感じたのである。
「この里にとって、その……信夫が最後の希望であるわけだが。信夫にとっての希望はお前というわけだな」
「たとえ妹と兄という関係を失っても、私がお兄ちゃんに家族であってほしいのは変わりません」
 むしろ三春としては、兄と妹という関係があることが苦しみであった。兄と妹という関係が、自分の想いとの間に鎮座して動くことを許してくれなかったのだ。血のつながりを忌避するという本能は、働かないのが当たり前であった状況であるというのに。兄の悲痛な顔を見てしまったにも拘らず、伝えられた事実にはどこか喜んでしまっている自分がいた。
「三春、お前が信夫を救うのだ。お前たちが一緒に生きていけば、あとはこの里はいいようになるはずだ」
「わかっています! 任せてください!」
 先程信夫が駆け出してから、どこに向かっていったのかはわからない。どちらにしてもまずは信夫の傍に並んであげることである。もちろん、信夫がその実父との関係をどう悩むか一抹の不安は消えない。だが自分が出ていかないことには何にもならない、そんな見えないものが三春を突き動かしていた。



 まだ日は高いが、それでも三春には心なしか少し傾いたような気がしてならない。途中で見かけた町の人たちに兄と平助の姿を求めたが、まっすぐ西に向かっていることしかわからなかった。だが、三春はその向かっている方角に嫌な予感を感じている。
「はぁっ! ここは……!」
 その嫌な予感が具現化したかのように、目の前では百尺獄門に続く谷間の道が口を開けていた。獄門までの途中の道ですら、左右の断崖から瘴気が噴き出す場所である。常磐丸のように処刑された罪人の死体は、そんな危険な道を越えた先の深い峡谷に放り捨てられる。処分に向かう者は決まって瘴気に強い体を持つ人種で、しかもそれが弱まる時間帯にしか入らない。
「扉……開いてる?」
 そんな場所だから、普段は鉄格子の扉で閉ざされている。子供が間違って迷い込んだ結果、瘴気に触れて命を落としたことすらある場所だから当然である。しかし今は、鉄格子は強引にねじ切られて脇に転がされていた。
「お兄ちゃん……? 平助さん……?」
 一度行ったことがあるという信夫と違い、三春にとっては初めての場所である。どこから瘴気が出ているかわからない以上、三春は入る足を震わせずにはいられない。三春の脳裏にふと、ここから帰ってきたときの信夫の姿が蘇る。誰もが口を揃えて奇跡と言うであろうその出来事だが、その時の兄の姿を奇跡と言うことは三春には到底できない。血まみれ泥まみれになって惨殺された死体を背負って、それのどこが奇跡だと言うのだろうか。
「いるわけない……よね?」
 その言葉のほぼ全てが、三春自身の願望であった。その願望は、すぐに絶望へと変わった。岩陰で信夫と平助は、まるでもつれ合うように倒れていた。三春は言葉を失い、ただ愕然と震えるだけであった。すぐに駆け寄りたいと切望しているのに、体が言うことを聞かない。そんな三春に気付いたのか、平助はやっとやっと目を開ける。
「三春ちゃん、信夫君が思いっきり……。俺も少し……」
「お兄ちゃんっ! 平助さんっ!」
 日和田教官に言われたように、まずは信夫の傍に行くことが第一であるはずだった。だというのに、三春はただ叫ぶだけであった。狂うように涙を流したまま、何一つ手を打てなかった。
「どうしたら……どうしたらっ!」
 吸った量が「少し」である平助ですら、刻一刻呼吸が荒くなっているのが目に見えるのだ。信夫など既に呼吸をしておらず、あるいは既に手遅れなのかもしれないほどである。早く何か手を打たなければどうしようもなくなるのに、こういう時にいつも動いてくれていた兄は今はこの状態である。狭い谷間では、三春の甲高い悲鳴はとても響く。
「やかましいぞ、娘!」
 その甲高い声を厳しい怒号がかき消し、重い足音で声の主が自らへと目線を呼び込む。その声が相当に力強いものだったらしく、三春は激しく身震いしてしまう。平助も思わず重くなったまぶたを開いてそちらを見たのだが、その瞬間呆然とするに至った。
「君ら……何?」
「失礼な言い回し……とは言えませんよね、僕たちの場合」
 いくら自分たちと同じ言語を操っていても、目の前にいるのは見たことの無い人種である。そもそもが人であるのかすらわからない状態である。片方は直立歩行で衣類をまとっており、顔や手などの露出部分は毛皮が無い。もう片方は四足で黒と青を基調とする毛皮に覆われ、尻尾の先には星形の飾りのようなものがついている。
「そうであったな。お前と同じレントラーは南蛮と呼ばれる地域にはいるが、私たちニンゲンは『この世界にはいない』からな」
「……聞いたら余計にわからなくなったよ」
 平助は再びがっくりと頭を寝せる。南蛮とかこの世界にはいないとか、聞きなれない人種の名称以前に理解できない状態である。瘴気にむしばまれつつある体には、この手の情報は厳しすぎるだろう。そんな平助とは対照的に、三春はようやく無手でいる自分に気付く。
「ファグド様、エクトート様! 今はお兄ちゃんと平助さんを助けてください! ここの瘴気を吸ってしまって……!」
「この里の者がここで瘴気を吸うようなことがあるわけか。まあいい、薬草の用意ならあるぞ」
 ニンゲンという人種名を語った方は、おもむろに信夫と平助に歩み寄る。レントラーと呼ばれた人種の方もそのすぐ後に従い、目鼻を動かし周りの安全を探る。瘴気の噴出孔がどこにあるかよくわからない以上、慎重になるのは当然だ。しかし特に問題は無かったようで、すぐにニンゲンは信夫と平助を背負って戻ってくる。
「えっと……あなたたちは三春ちゃんと、知り合い?」
「時々会っていただけですね。それよりも急ぎましょう。こちらのアブソルの方はかなり重篤です」
 平助はなおも平然とした様子で、唐突に表れた見知らぬ存在を分析しようとする。南蛮とかこの世界とかのわけの分からないものは除くとしても、見た目やこうして触れている箇所の感覚からの情報もある。ニンゲンの肩の上で無言のまま揺られながらも、平助はぼんやりと頭を巡らせていた。



 体が宙に浮かぶような感覚の中で、信夫は目を覚ました。さながら夢の中のような心地で、なにかしっくりこない感じもある。
「どこだ……ここは?」
 そんな感覚を振り払うように、信夫は辺りを見回す。見慣れた自宅周辺の町並みで、三春が懇意の菓子屋の前に立っているのが分かった。開店前なのか、店の扉は重々しく閉まったまま動かない。
「なんか変な気がするが……帰るか」
 信夫は菓子屋の前を通過し、すぐに突き当たる三差路で右を向く。いつもはそこに自宅があった。両親や三春と穏やかな日々を過ごした自宅が、あったはずだった。
「なっ……! なんだこれは!」
 そこはがれきの山と化し、あちこちにはまだくすぶった煙が上がっていた。その周りでは人々が激しくぶつかり合っている。見慣れた町の人たちと、城中の武士たち。まるで町の人たちが武士たちに憎しみをぶつけるように、目まぐるしく動き回っている。
「なんなんだ、これは? 俺は夢でも……?」
 その瞬間、確かにこれは夢であるという安堵感が広がった。最初の体の覚束なさもそうだが、今こうして騒いでいる人々からもうるささは無い。現実であればこんなことは無いだろう、信夫はそんな風に落ち着こうとしたその瞬間であった。
「夢かもしれないが、現実だ」
 いつの間にかそこに、もう一人アブソルの姿があった。三春でも母でもない。紛れもなくいつも鏡に映っている自分自身だった。野卑に歪んだその表情が、自らの体の内の感覚を思い起こさせる。
「お前は嫌がる三春をさんざんに犯して、挙句の果てに殺した。止めようとした父上母上や平助も、その場で殺した」
「ば、馬鹿な! 俺が……俺が!」
 その瞬間、視界の全てが崩壊し始めた。まるで自分にはこの中に居場所など無いと伝えるかのように。目の前の「信夫」が今言ったことは、自分の頭の中には全く存在しない。だが、容赦のない現実が頭の中に蘇ってくる。
「お前は城中でも最高の家の者だ、この里のものなど全て思いのままなのだろう? お前はそう言って、これだけのことをした」
「俺は……そんな! 三春……!」
 違うと言いたかった。違うと叫びたかった。だが体の中に巡る感覚は、自らに流れる血の汚れを自ら訴えている。自分は家族として兄として、純粋に愛していたはずだった。純粋に愛したかったはずだった。だが妹の姿に自慰を繰り返した現実は、何一つ許してくれない。
「もっとも……城中から離れて育ったお前がいていい場所など、この世のどこにも無いがな!」
「この世の……!」
 いつの間にか信夫の体は、丸太に縛り付けられていた。胴体から胸の先まで縛り付けられ、頭部は浮かされている格好だ。常磐丸もこのように縛られ、一瞬で首を切り落とされたのを思い出す。自分が処刑されると気が付いたときに視界にいたのは、全て城中の武士たちであることに気が付いた。城中に憎しみを燃やして生きてきた自分を、城中の者たちが許すはずも無く。
「そうだ、この世のどこにもな」
「俺は、俺は……!」
 信夫はこの状況に対して、何一つの抵抗もできなかった。夢だとわかっていたから抵抗しなかったのではない。目の前で自分をあざ笑う自身の姿に、何一つ返すことができなかったのだ。空切る音に少し遅れて、全てが黒と赤に染まり薄れてゆく。その夢への最後の抵抗が、首を斬られた自分が絶叫を上げるというものであった。



「うわぁっ!」
 信夫は両足を突いて起き上がる。胸板の中で激しく脈打つ存在に、周りの状況も把握できずにいた。
「お兄ちゃん!」
「信夫君!」
 一斉に自分を呼んだ声でもなお、何一つ現実は姿を現さない。未だに夢を現実として引きずり、どうして三春と平助が目の前にいるのかが分からないくらいである。
「お兄ちゃんの馬鹿! どうしてあんなところに行ったの!」
「お前……死んだはずじゃ?」
 体が軽く突き飛ばされた感覚で、ようやく夢が吹き飛ぶ。既に言い終わった後でその言葉は消えず、脇で気の抜けた表情で座っている平助の姿で少々情けない思いになった。三春が四足の前脚を回り込ませて抱き着き、心身ともに苦しい。
「死んじゃうところだったのはお兄ちゃんの方だよ? どうして百尺獄門に入ろうとしたの?」
「百尺獄門?」
 ようやく前脚を放してくれた三春の目からは、なおも止め処も無く涙が流れている。全身汗だくになり、見知らぬ部屋の寝床にいる自分自身に気付いた。そして自分の中に流れる、黒くおぞましい存在にも。
「平助さんから聞いたよ。お兄ちゃんは百尺獄門の入り口の格子を破って、平助さんを突き飛ばして中に入っていったんだよ」
「やめろよ、三春。俺は本当は、お前とは兄と妹の間柄じゃなかったんだ」
 なおも自分のことを兄と呼んでいる三春に、信夫はその過ちをたしなめようとする。三春の中には今感じている黒いものなど無いというのに、それでもなお兄と呼んで欲しくはない。自分の中で渦巻く黒いものが、三春まで染め上げていきそうな気がして。しかし三春は気にする様子も無く、むしろ別のものを見ている様子で首を左右に振る。
「いいじゃない。お兄ちゃんが兄じゃないんだから、結婚したって問題ないんだよ?」
「結婚?」
 首を振って自分に向きなおした三春は、左右の頬の毛を激しく逆立てていた。毛足がかなり短い部分であるためか、その顔を火照らせた表情は非常にわかりやすい。隣で「ついに言ってしまったか」と呆れながらも微笑む平助に、信夫も三春も気づくはずもなく。
「私、ずっとお兄ちゃんのことが好きだったんだ。お兄ちゃんにこんな思いになることがおかしいって思って、ずっと苦しかった」
「三春、ちょっと待て!」
 信夫が先の三春の言葉を理解できなかったのは、一瞬と言えるほどの短い時間ではなかった。一気に顔が火照りはじめ、三春と同じように頬の毛並みが逆立ち始める。にやけただらしない表情の平助に信夫はようやく気付いたが、睨む間も与えずに三春はさらににじり寄る。
「でも、お兄ちゃんだけど……お兄ちゃんだけど血縁さえなければ関係ないよね?」
「ちょっと待てー!」
 卒倒せんばかりの信夫の絶叫。胸板の中の脈動が再び止まらなくなる。これもあるいは夢なのではないかと、必死に現実を求める。いつも寝床の上での妄想では、こんな妹の姿を求めていたというのに。三春は首を少し右に傾け、そこに抱き着くことを兄に促す。鎌が少しでも邪魔にならないようにという、アブソル人種の告白時の一般的な心づかいである。絶叫で肺が圧迫される苦しさに、少しずつ現実を知る。
「お兄ちゃん、早く……」
 三春は必死に目を輝かせ、兄を誘う。しかしその肉の薄い胸の下では、恐怖が尋常ないまでに暴れまわっていた。いくら血のつながりが無いとは言っても、ものの本に書かれた「傾向」がなくなるだけのこと。自分の無駄な肉の無い胸は、男を魅了するものではないとも聞いているからだ。もちろんどちらも所詮「傾向」に過ぎないため、身内に情を抱く者も胸の薄い女性を好む男性も可能性はあるだろうが。
「俺は……駄目だ」
 少しずつ現実を取り戻し、信夫の判断は徐々に正常を取り戻す。一歩下がって首を振るそれが、信夫の答えである。三春もそれ以上は言わず、やや表情を落としただけに終わらせる。
「うん、やっぱりおかしかったよね……」
「俺はいずれ地獄に落ちる身だ。お前を道連れにするわけにはいかない」
 信夫がそんな三春の表情を読み取ったのかはわからない。平助は恐らく読み取っていないだろうと思いつつ。怪訝を浮かべて何も言えない三春に対し、信夫はさらに言葉を重ねる。
「領主の家に生まれながら外から城中の者たちを恨んで育ち、俺にはこの世のどこにも居場所は無いんだ」
 言いながら、信夫は部屋全体を見回す。呆然としている三春には目もくれず、というよりは意図的に見ないようにしている様子である。すぐに外への出入り口を見つけ、そちらへと一歩飛び出す。
「信夫君、どこに行くんだ?」
「この体の中の穢れた血を、この身もろとも処分しにいく。常磐丸さんにせめて一度謝ることができればいいんだがな」
 平助に呼び止められ、最期にただ一度とだけ答える。信夫の答えは、瘴気を吸って倒れる前と変わらなかったのだろう。あの世というのがどういう場所かはわからない、さまざまな話を聞く。ただしどのような話でも、生前にその者がしてきたことで処遇が変わるとは聞いていた。信夫はあの世で常磐丸に会えればいいが、処遇の違いが予想されるためまず会えないだろうと思っている。
「ちょっと待ってよ、お兄ちゃん!」
「俺のことは忘れろ。そうでなければ、お前まで苦しむことになるだけだ」
 自らの最期の場所に百尺獄門を選んだのには、そうした思いがあるからなのだろう。あるいはあの段階でどの程度の思考が働いていたのかは、今となってはもう知るよしも無いが。三春の金切声も、既に信夫を止める力は無かった。信夫は部屋から出ると、外への扉につながる廊下であることを確認する。
「まったく、またしても騒がしい者たちだ」
「目は覚ましたようですけど、どうやらこれで良しとはいかないようですね」
 そしてそこに出てきたはじめて見る生き物も確認する。一瞬目を剥いた後に、立ちふさがるように立つ二人に通すことを促す。次から次に信じられないようなことが起こる、なんという日であろうか。どうせすぐに今日どころか全てを終わらせるつもりであるが、これも一つの天罰であろうか。
「ファグド様、エクトート様! お兄ちゃんがまた!」
「三春さんから大方の話は聞きました。あなたはやはり死ぬことを選んでいるのですね」
 四足の生き物は落ち着いた様子で、廊下を通すことを目線で訴える信夫に話しかける。意識を失っていた信夫は、この四足の者のレントラーという人種名を知らない。三春が今読み上げた二つの名前の、どちらの持ち主であるかも知らない。知る必要が無いとか考えるまでもなかったほどである。
「三春よ、お前の兄は死を選んだのだ。その選択が考え抜いた末のものであれば、それを止めるのは酷であろう」
「そんな……! ファグド様、どうしてそんな……!」
 二足の者の人種名がニンゲンであるとか、この世には存在しない人種であるとか語ったことを知らない。ファグドという名前には、確かにこの里では聞かない発音である。三春を突き放して愕然とさせる発言と、それでもなお両腕を組んだ姿勢で道を開けようとしない姿。それだけが信夫に必要な情報だった。
「ならば、早いところ通してもらおうか」
「まあ待て。憎悪に駆られた程度の口先だけの青二才が、どれだけ考えられたのか聞かせてもらいたいのだ」
 最初は通させるために軽く睨むだけで抑えていた信夫も、続いて出てきた言葉に少々顔を引きつらせた。直立の種族は日和田教官等いくらも見てきたが、ファグドはそれよりもさらに背が高い。それだけににらみ下ろす態度にどこか横柄で尊大な印象が見受けられる。恐らくは明らかな挑発と考え、ここで怒り出しては思うつぼだということで抑えることにした。
「誰が口先だけだと? 三春や平助がどの程度話したのかは知らないが、それだけの言葉に打って出る理由をこちらこそ聞かせてもらおう」
「里を立て直したいとか民のための治世とか、口では確かにうなずけることを言う。そして言うだけ言っておいて挙句の果てが、全てを投げ出す選択だ」
 それは先程、地に伏した日和田教官に対して居丈高に叩きつけた言葉だ。目線の位置が先程とは逆であるという状況が、どこか立場の入れ替わりのようなものを感じてしまう。脇でエクトートが何やら意味深な様子で首をかしげるが、信夫はそれに気付いてはいない。ただし何となくだが確実に、自分に刺さる「極めつけ」が来るということは感じていた。
「所詮お前の言葉は、自らの憎悪からの逃げ口上なのであろう? 憎悪に駆られた汚い自分を隠したいから、美辞麗句でそんな自分を隠そうとしていたのだろう?」
「ファグド様……?」
 その極めつけは、信夫に何かの途切れるような感覚と一瞬の沈黙をもたらす。このファグドの言い回しに三春は再び息をのむが、信夫は即座に行動に出ることは無かった。ただし胸の内に宿った存在に関しては、確実に止められないものになっていたが。
「所詮薄汚い感情だけなのだ、ならば徹底的に汚さを見せてみろ! 私たちを八つ裂きにして、自らの汚らしい性根を見せつけてみろ!」
「ふざけるな! 俺の……ふざけるな! ふざけるな!」
 ファグドのここで変わった厳しい口調は、信夫の怒りを炎上させるものとなった。違う。確かに信夫は自分が権力者たちを憎んでいたのはわかっている。だが、気持ちでは本気でこの里のことを考えているつもりだった。本気でこの里を思うからこその憎しみだと思っていた。それをただの現実逃避と否定された今、信夫は落ち着きを保つことがまったくできなくなっていた。先程自らを汚れ物と語った記憶は吹き飛び、信夫の全身の毛は怒りに逆立つ。
「今のお前の無様さ、しっかり刻み込んでやろう! かかってこい!」
「抜かしていろ!」
 言われる頃には、信夫は飛びかかるために両の前脚を構えていた。対するファグドの方は特に構えた様子は無く、両手で拳を握っただけである。三春も平助も、爪に長さも鋭利さもないその手に目を剥く。日和田教官も子供に見えるほどの巨体は、それに見合う隆々とした筋骨に覆われている。しかしその筋骨を覆う肌は体毛が薄く、どうにも頼りない装甲である。そのためか布製の衣をまとっているのだが、とても差が埋まるとは思えない。真っ向から飛びかかればその腕力にねじ伏せられるかもしれないが、足元はしゃがまない限り腕の射程外。蹴りをかわしながらその足に角や爪で傷を入れ続けられれば、信夫の力量も考えるとファグドに勝ち目は薄い。
「平助さん、このままじゃ……」
「ファグド様も俺よりは強いかもしれないけど、信夫君にはそうはいかない」
 ファグドの強烈も過ぎる怒号もそうだが、それよりもその前にかけられた言葉。どうしても信夫を止めたいと思いながら、三春も平助もすくみ上って動けない。ただでさえも人種による地力の差があるというのに、信夫自身の力まで考えると火を見るよりも明らかな勝負である。気圧されてしまって動けない二人にとっては、ファグドにまっすぐと向かっていく信夫の刻一刻の動きは、恐怖以外の何物でもなかった。



 二人にとってその瞬間の信夫の動きが理解できなかった。身を低くして脚を狙うだろうという予想を裏切り、信夫はまっすぐファグドの胸元めがけて飛びかかる。信夫は自分たちに思いもつかないような手をまた使おうとしているのかなどと、もう少し時間があれば三春と平助はそう思ったかもしれない。答えはそれよりも早く突きつけられた。
「ぐっ!」
「お兄ちゃん!」
 飛びかかってきた信夫に対し、ファグドは真正面から拳を振り下ろして迎え撃つ。拳を頬に叩きつけられた信夫は、無防備に宙を空転して壁に叩きつけられる。三春も平助も簡単にこなせた先の分析を、戦闘能力では圧倒的に上をいっているはずの信夫ができなかった。この時点で彼らが信夫の平常心の喪失に気付けない方がおかしい。
「ま……まだだ!」
「信夫君、やめてくれよ!」
 慌てて止めようと平助が伸ばした前脚は、あっさりと風だけを切る。その前でファグドに再び爪をふるいかかる、信夫の尻尾を見送るだけに終わる。強烈な痛ように意識を吹き飛ばされかけたのだが、何とかつなぎ止めた体で再びファグドに斬り込む。怒りと執念だけで動く爪の切っ先は、しかし先の衝撃で明らかに鈍っていた。
「ぐぁっ!」
「やめてよ! やめて、お兄ちゃん!」
 万が一ここでファグドが突破されようものなら、今度こそ信夫は止められないまま百尺獄門に身を投げるであろう。仮に突破できなかったとしても、こうして反撃で体を痛めていくわけで。耐えきれなくなった三春は、信夫に覆いかぶさりさらなる愚行を止めようとする。
「どけ! 邪魔をするなっ!」
「きゃっ!」
 それよりも早く信夫は起き上がり、猛然と飛び出して三春の制止を突き返す。信夫の目に映る立ちふさがる怪物の姿は、霞んでいて上手く捉えられない。だがそれでもと食って掛かり、またしても壁に叩きつけられてゆっくりと床にずり落ちる。
「信夫君、もう……!」
「止めるな!」
 信夫を止めるために飛びかかろうとした平助の前に、今度はエクトートが割って入った。エクトートは三春にも目線を向け、信夫を止めに入らないように警戒する。今度はいい加減厳しくなってきた様子で、信夫は起き上がろうとしながらもその動きが鈍かった。
「エクトート様、どうして!」
「止めても無駄ですし、どうしても続けさせなければなりません」
 エクトートは右前脚の甲を鼻先に当て、小声で信夫には聞こえないようにと警告する。三春は涙を浮かべて懇願するが、まずは首を振るというエクトートの答えである。一瞬エクトートを突破しようとまで思いかけたが、恐らく無駄であろうということに気付いた。信夫を子供のようにあしらうファグドもそうだが、エクトートも恐らく似たようなものである。顔立ちは明らかに幼子のものであるというのに、構えは堂に入っている。そもそもが一瞬であれ三春の脳裏にそういう考えがよぎることを読んだのだ、簡単な相手ではあるまい。
「なんでですか? 信夫君、もう続ける力は無いでしょう?」
「気絶しても、目を覚ませばまた繰り返すでしょう。彼が自身の喪失に気付くまでは、続けてもらわなければなりません」
 二度、三度。信夫は何度も立ち上がれずに倒れながら、なおも立ち上がることを切望していた。ようやく立ち上がって振り向いた信夫は、頬から唇から血を流す有様である。それでも失わないどころか、なお一層強くなるおぞましさ。間違いなくその瞬間は、三春も信夫の中から兄を感じることができなかった。
「くっ……何度だって!」
「愚か者! 来るなら来い!」
 既に四肢全てを激しく震わせ、動くのも苦しそうである。しかし完全に死んだ爪筋でありながら、それでも信夫はファグドに向かっていくことを忘れなかった。口から漏れてくる声にすらならない雄叫びは、まるで信夫の中の何かに引き出されているかのよう。
「今の信夫さんは、その感情をすべて吐き出してもらわなければなりません。黒く汚い、彼には絶対に受け入れられないようなものを」
「馬鹿なことを言わないでください。お兄ちゃんにはそんなもの、そんなもの……」
 持っているわけがないと言いたかったのに、三春は言えなかった。信夫が本当は城中の生まれでなどということを否定しようとしたわけだが、今の目の前の兄の姿は火を見るよりも明らかである。震えた前脚で突き出した爪を蹴り返され、仰向けに転げる信夫。それを見た三春もまた、床に突いた前脚を震わせるようになっていた。
「三春さんも平助さんも、僕やファグド様だってあるものです。生まれながらに持っている汚い感情は、時に姿を変えて人が憧れる力や美しい愛情になるものなのです」
 起き上がっては飛びかかり、そのたびに打ちのめされ。首がわずかに動くだけになっていた信夫は、しかしそれでもなお執念だけは見せた。体は動かさずとも、涙を滝のごとく流す目でファグドを睨み付ける。再び動けるようになったときにもう一度挑む、それが面倒であるならこの場で殺せと。
「今のお前の顔、鏡で見せてやりたいものだ」
 ファグドはそんな信夫の状態を見て、片膝を突いて顔を近づける。顔に怪訝を浮かべた信夫に対し、ファグドは三春と平助の方を顎で示す。その瞬間になって、ようやく自分の今の今までの狂気に気付く。三春と平助の顔を見ていたわけではなかったが、先程のエクトートと交わしていた話が聞こえていたわけではなかったが。ファグドが片膝を突いた今の状態で二人が駆け寄ってこないことが、その足音がしないことが何よりの証明であった。
「必死に考え抜いた末に選んだ死であれば、認めてやらないでもない。だが、そんな顔を見せるような者が考え抜けるとでも思うか?」
 返す言葉も無いとは、まさにこのことであろう。仮に考え抜いたとしても、それは突拍子の無い無数の矛盾をはらんだ考えであろう。信夫は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。胸や腹を何度も打ち据えられ、吐く息は痛みで大きく震えている。自らの血の色は変えられるものではなかったのかと、ただ力なくうなだれる。
「誰にでも汚い感情はあるが、多くの者は知らず知らずのうちに折り合いをつけている。それができない者は大抵は口では高潔なことを繰り返し語り、そして多くの者たちに災いをもたらす」
 言いながらファグドは、エクトートに目線を送る。三春と平助は何のことか一瞬わからなかったが、エクトートは黙って頷いた。その瞬間のファグドの目線を見て、三春はエクトートの顔を覗き込む。両者の過去に何があったのかは知らないが、エクトートもまたファグドと同じ、寂しさや悲しさを同居させた表情を見せていた。
「誰にでも汚さはある。それで正当化されるのも困りものではあるが、受け入れられなければお前も元凶となろう」
 信夫はもう一度息を吐く。ろくに体を動かせない状態では、それが最大限の返事なのだろう。ファグドは打って変わって穏やかな笑みを浮かべ、信夫の肩を撫でる。信夫が何かに気付いたのが分かったのか、あるいは自らが与えた手傷がどの程度かを確認しているのか。骨までは至っていないみたいだが、ここまで打ち据えて手当てを考える流れはどこか救われない。
「それにしても回復させたとはいえ先の瘴気で弱った体には、これだけの殴打は厳しかったな。次の回復にも少々時間がかかりそうだ」
「半分はここまで殴ったファグド様のせいでしょう。珍しく熱くなっていましたね」
 言いながらファグドは、ゆっくり信夫の体を抱き上げる。自分でも少々面目なさがあるのだろうか、エクトートの皮肉には鼻先で笑う。先程の荒い態度は特別な時のためのものだったのだろう、本当は穏やかな人柄であるということを信夫も感じていた。そんな信夫の様子の変化から、平助は得心したように一歩前に出る。
「それじゃあ三春ちゃん、おじさんたちには俺が連絡してくるよ」
「ありがとう、平助さん。最悪は今日の会食も中止かもね」
 三春は笑いながら、そういえばとこの後の予定に急に不安な気持ちを抱き始める。もし兄がこのまま家を出ることになれば、自分と一緒に食事ができる機会はもう無いのかもしれない。信夫と平助の仕官の祝賀と調練場に入る三春の壮行会という二つの意味があったのだ、中止になるのではと考えるとどうにも残念でならない。



 信夫の体はうつ伏せに寝台に寝せられ、背中には見たことも無い素材の紐が吸盤によってつけられている。信夫が瘴気で意識を失っている間に、三春にはエクトートから「別な世界の治療装置」であると説明されていた。ファグドの人種名である「ニンゲン」についても「この世界にはいない」と言ったように、ファグドやエクトートがとんでもないところから来ているということだけは薄々感じ取れた。
「ファグドさん、エクトートさん。あなた方はどちらの出身でしょうか?」
「どうした? 気になるのか?」
 信夫はまだどちらの説明も聞いていないが、それでも何となく三春と似たようなことを感じていたらしい。ニンゲンもレントラーも一度も見たことが無い人種であるため、説明されずともよほどの遠くから来ていることくらいは想像する。
「はい。それともう一つ、先ほどの『お前も元凶になろう』という言葉の『お前も』が気になりました」
「よく聞いていたな。自らの汚さを受け入れられず、大きな災いを巻き起こした者たちは確かにいた」
 ファグドはエクトートと顔を見合わせる。たった一文字でも口は滑るものだと、どこか観念した様子である。この様子から、信夫が訊いたことは言いづらいことであることは伺える。その理由がどこにあるのかはわからないが、聞くだけ聞けばその内にわかるような気もする。それでもそういう気持ちで日和田教官から聞いた結果があの現実であるのだから、どこかためらわれる気持ちが生まれるのは仕方がない。
「その者たちは僕たちの世界の人……人たちをいいように作り変えるため、多くの人たちを殺してきました。しかもそれだけしてもなお足りなかったらしく、他の世界からもいいように奪っていたんです」
「この国の歴史にも伝わっていよう。大地が痩せて海が腐り、誰もが病むわけでもなくただ無気力に朽ちていく時代。彼らがこの世界の全てから力を奪い、己のために利用しようとしていたためだ」
 言いながら、ファグドは本棚の方を目線で示す。そこに収められている本には、見たことの無い文字のものも多かった。そもそも本ですらない見たことが無い材質のものも入っていた。逆にもちろんと言わんばかりに、信夫たち若松の家にもあるこの国の歴史や伝承がつづられた本も並んでいた。信夫も三春も幼き日に両親からその内容を読み聞かされており、思い出した内容に思わず目を剥く。
「二百年以上も前の話じゃないですか。ファグド様もエクトート様もそれより前から生きていたのですか?」
「ええ。その者たちとの最後の戦いのときは、僕はまだ八歳だったので戦力外でしたが。ファグド様は本当に戦いの真っただ中でした」
 平然と答えたエクトートに対し、信夫と三春は驚愕とばかりに相手の顔を見やる。まだ回復の途中らしく、信夫の体はその動きに反発して悲鳴を上げる。一瞬閉ざされた視界をゆっくりと開き、再びエクトートの顔を確認する。どう見ても幼子の顔立ちで、むしろその頃の八歳というのがそのまま残ったという印象である。
「それでもエクトートは最後の戦いで本隊に入り込んでいたがな。こやつの生まれながらの鋭さ、逆に困ったものなのだ」
「あれは本当に無茶でしたね。でもその時に強引に入り込んだからこそ、僕は今こうしてファグド様たちを支えていられるわけですし」
 ファグドの皮肉を交えた笑顔に対し、エクトートは罰の悪そうなごまかし笑いで返す。既に遠い過去のものではあるが、忘れられない大切な思い出でもあるらしい。信夫や三春の頭には疑問符が並ぶが、見ていて楽しくもどこか切ない雰囲気は伝わってきた。
「あの最後の戦いには、本隊にはエクトートの両親や私の娘が名を連ねていた。私は本隊に続く後衛部隊で、向こうの反撃を引き付けていたのだ」
「本当は僕は戦いからほど遠い場所で、皆さんの帰還を待つべき立場だったのですが……。どうしても胸騒ぎが止まらなくて父の荷物に紛れ込んだのです」
 この瞬間、先のファグドが語った生まれながらの鋭さを思い出した。エクトートの両親のどちらかあるいは両方に死相が出ていた……信夫にも三春にも思いたくない続きが浮かんでどうしようもない。それを読み取ったエクトートがついていき、幼い瞳に親の死を焼き付けられたのだと考えればあまりにも切ない。
「その戦いの本隊に名を連ねた八人は、激戦の末に辛うじて全員生き残りました。でも、結局それでは終わりませんでした」
「ここや他の世界に与えた傷を埋め、同じ世界の者たちがしたことを償わなければならない。八人と戦いの後に入った私たち、それにエクトートはそのための契約をすることになった」
 そんな信夫たちの悲しすぎる予想は外れてくれた。しかしファグドからもエクトートからも、先の皮肉で笑い合っていた様子は消え去っていた。それは「思い出」という明るいものを話すのではなく、言うなれば「過去」という重い鎖のようなものとしか感じられなかった。
「八人は各世界で生きる者としての目線を持つため、無限の転生に耐えうるために精神を作り替えました」
「私たちの方は肉体を不朽のものとし、外から来たものとして彼らを支えることとなった。私たちの世界を作った、言うならば神のような存在の者とだからできた契約だ」
 つまりはファグドもエクトートも、神のような存在によって不老不死の体に作り替えられたということだろう。そして彼らとは別に、何度も死んではまた新しい命として生まれ変わる者たちもいるということらしい。信夫はそのように理解した。外から来た者は外から来た者としての助言しかできないため、この世界で生きていた者としてそれを受け止める方法も欲しいのだろう。少々珍妙な方法である印象も受けるが、信夫は大体そんなところだろうと納得できた。同時に、ファグドやエクトートの不老不死の体を少し羨ましく思う。
「僕たちはこんな体では死ぬことなど許されず、逆に多くの死を見続けています。死を奪われることがどれだけ残酷であるかをよく知っています」
「だからこそ、さっきのお兄ちゃんを止めた時の私へのあの言葉だったんですね」
 選んだ末の死を止めるのが酷だと、それは死ぬことができない立場でなければ言うことができないのだろう。多くの死を見つめて嘆き悲しみ、自らが届かなかったことに絶望する。信夫たちがこの何年間も抱えてきた苦しみを、彼らはもう数えきれないほど経験してきているに違いない。先程の信夫の羨ましさは、その一瞬だけで霧散していた。
「あなたたちはその戦いの中で、ある意味一番大切なものを奪われたんですね。だからさっきの俺のように、自らの汚さを受け入れられない者が許せないんですね」
「許せないのもそうだが、それ以上に繰り返したくないのだ。あの者たちも非道を繰り返していたが、結局は根っこのところは誰かに認められたかっただけなのだ。私たちとなんら変わらなかったのだ」
 その言葉は、さらに信夫と三春の常識を侵略してきた。流石に憎悪に駆られて応酬で非道を重ねるのがまずいのはわかっているが、自分たちと同じと認めることには驚きを隠せない。生き物として人としては同じでも、信夫も三春もどこかで城中の者たちと自分たちとを分けている帰来があったらしいことに気付いた。
「本当は救いたかった。救って自らの行為を償わせ、そして我々の世界で受け入れてやりたかった。滅ぼされた敵とは永久に和解などできない」
「それでも残った者たちに滅びの恐怖を与え、教訓とさせることは可能ですが……。あの戦いの終焉を理解した時の両親たちの顔は、今も忘れられません」
 エクトートが挙げた「教訓」というのは、恐らく死刑も含んでいるのだと信夫は思った。非道を働いた者に与えられる死を見せつけることで、それを見せつけられた者たちにはそのようなことはしないようにと戒めを与える目的は間違いなく存在する。常磐丸の時は悪用されたが、信夫も三春もそれが本来の目的であることは重々承知している。死ぬことそのもので償える罪など、何一つ存在しない。
「信夫、お前は今度は領主の家の血を受け入れて生きることを選んだ。だがこの里を正したいと言っていたのだ、今まで目指した戦いに身を投じるのだろうな」
「敵を滅ぼすのが時に仕方ないことなのは間違いありません。しかしそうして滅ぼしたという自らの汚さを受け入れることと、その方法が目的と合致するのかということは常に忘れてはいけません」
 ここまでの話の着地点として、信夫も三春も理解した。城中の者たちもそれぞれに願うものはあるのだろうが、それはどれであれ自分たちとそう変わらないものが根底にあるのだということは理解できた。生きたいとか楽しみたいとか褒められたいとか、たとえ規模や行動が歪んでいてもそこで同じであるのだろうと。領主である小名家だけでなく、各権力に生まれ育った者たちも同じ色に染め上げられているのではないか? 自らが歪んでいるという現実が見えないのだとしたら、それはある意味あまりにも哀れである。
「長くなったな。お前たちがこの話を信じるのかは、我々には何も言えん。だが、お前たちに思って欲しいものがあるのは間違いない」
「もういい加減日暮れも近いですし、この辺にしておきましょう。ご家族や平助さんももう心配している頃だと思いますよ」
 ファグドは腰を上げると、信夫の体に吸い付いていた吸盤をはがす。どうやら回復が終わったらしく、体自体は先程とは打って変わってとても楽である。ただし今ファグドが吸盤を外すためにその指で毛並みをかき分けられるのは、どうにも好きになれない。三春以外でも最近は両親にですらほとんど触らせないできた信夫にとっては、そのように他人に毛並みを扱われるのはとてもではないが慣れないのである。ろくに見たことも無い吸盤というものが吸いつけられていることもあって、体とは裏腹に気分は今一つだ。
「確かにそうですね。お世話様です」
「ありがとうございました。じゃあお兄ちゃん、もう帰ろう?」
 本当のところは、他にも気になることは沢山ある。特にファグドやエクトートには他にも仲間がいるのかとか、その転生を繰り返している八人は今はどのように生きているのかとか。信夫も三春も内心ではとても身近にいる、あるいは自分たち自身かもしれないくらいだと思った。しかし時間のことを引き合いに出されたのもあり、ここであまり粘っても仕方がないと思い至る。どうせすぐにまた来れるのだから、次の時にでも訊けばいいと。信夫と三春はエクトートに案内されるがままにその建物を出て、挨拶をもう一つ重ねて家路についた。



 信夫と三春が家の前まで到着した時、既に日はその半分を山の端に埋めていた。流石に遅くなってしまったと、三春は罰が悪そうに自宅の門をくぐる。それでも少々罰が悪いくらいのことはたまにあるので、そこまで躊躇は無かった。しかし一方の信夫の方は、簡単にはそうはいかない。途中の菓子屋の前を通る辺りから、一気に足取りが重くなっていた。確かにファグドとのやり取りの後に心を決めることはできたが、それでもどこかあの夢を引っ張っていた。お前にはいる場所は無いと。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
「いや……別にどうということは無い!」
 自宅は変わりなくそこにあり、近所の住民たちとあいさつを交わすいつも通りの姿。当たり前とすら意識したことが無かったというのに、今は酷く特別な気がしてしまう。どのような形であれ恐らく自分はじきに城中に戻されるのだろうから、ここにこのようにしている時間自体が既に少なくなっているのだ。
「三春ちゃん、信夫君、おかえり」
「あれ? 平助さん、どうしたの?」
 平助が玄関の前で腹這いに寝そべり、とても意欲的とは思えない門番をしていた。それでも三春の姿を確認すると、目の色を変えて起き上がった。悲しいさがである。ゆっくり躊躇いがちながら現れた信夫は、まるで害獣でも見たかのような目線を平助に浴びせる。その目線をどういうものだと曲解したのだろうかはわからないが、平助は自慢げに胸を張って見せる。
「日和田教官からの話とかをしたら、おじさんもおばさんも何を思ったのかな? 少し出かけてくるから留守を頼むって行っちゃった」
「まあ、元々は会食の日だったからな。中止の連絡のためにあちこち回っているのか、それとも……」
 言いながら、どうにもならない残念さが信夫の脳裏をもたげる。集まるのは予定では割といつもの見知った人たちだったのだが、そういう人たちとだからこそこういうことも楽しみだったのだろうか。別の可能性を考えたのは、会食の中止を否定したかったことが理由にありそうな気がしてならない。
「話しててもここじゃ仕方ないから、とりあえず入ろうよ?」
「そうだな。そうだな」
 言いながらも、信夫の胸中にはどことなく不安のようなものが渦巻いてしまう。今まで何気なく暮らしていたこの場所が、どこか嘘くさく見えてきてしまっていたからだ。えも言えぬ疎外感は、玄関にかかる暖簾を重厚な壁に変えてしまう。とはいえそんなことを頭で巡らせている間に、三春も平助も玄関に入って信夫を促していた。いつまでもぼんやりとはしていられない。
「ただいま」
 言う信夫の声にどこか張りが無いのは、自身だけでなく三春や平助も気づいていた。もちろん二人が信夫の頭をもたげている夢のことなど知ることはないのだが、あれだけのことがあればどうしてもいつも通りということはできないだろうと理解はしていた。気持ちとしては本当に今日明日が最後くらいに思わなければならない実家なのだが、それでも仕方ないものは仕方ない。土を塗り固めた廊下を進むうちに到着した、信夫の部屋の前で足を止める。
「本当に父上母上は大事にしてきてもらったのに、こんなことがあるわけか……」
 部屋には扉が付いており、下の方には小さな出っ張りがある。信夫がそれを押してへこませて横にずらすと、ゆっくり扉が開く。扉の縁の爪が内側に引っ込み開くようになる、四足の人種の者が考えたこの里では一般的なものである。扉が場所を譲ると、入れ替わりで部屋の中の物品の姿が整然と隊列を成す。机や寝台、本棚等々。信夫の性格がよく表れているように見える。
「城中の連中と戦って、この里の問題を正して。連鎖的に父上母上にも恩恵は届くだろうが、それで返しきれる恩ではないだろうな」
「お兄ちゃん……」
 机から筆一本に至るまで、この部屋のものは両親の稼ぎから信夫に分け与えたものだ。本来生んだわけでもないのだから、義理も何もあったものではない。信夫を連れてきた日和田教官の話を他の権力者に伝えれば、褒章すら出るくらいである。ここまで義理立てする理由はあるのだろうか。自分が選んで挑んだことに対し、どう言われようとどうされようと構わないという覚悟はできていたはずである。しかし今までのこの場所が自分の本来の居場所ではなかったと思うと、どうしてもやりきれない。否定する言葉が見つからず、三春もろくな答えが見つからなかった。
「若松、いるか?」
「あ、ああ! すぐ行くぞ!」
 そんな折に飛び込んできた、突然の来客の声。この女性的な印象とは裏腹な野太い声、紛うことなく日和田教官である。信夫も帰りの道中三春から日和田教官のことは聞いていたが、その前の言葉づかいでの扱いがすっかり地になってしまっていた。三春と平助のそんな苦笑に、信夫はこちらには全く気付かなかった。信夫は二人を残して、そのまま駆け足で玄関の日和田教官への応対に走る。



「わざわざ来たわけか。まあいい。俺もお前には言ってやりたいことがあったからな」
 信夫の憮然とした態度に、日和田教官は困惑の色は隠さない。自分がしてきたことの一連の流れを考えれば、恩師である立場の相手でもこの態度には文句を言えない。むしろ本心では、この場で八つ裂きにされても構わないという気持ちである。そうであっても信夫を頼りにできるのであれば、自分の心残りを託す相手と見極めに来たのである。
「言いたいことか。それなら何でも言ってくれ」
「お前は俺の人生をさんざんに翻弄してくれた。しかもお前が権力者どもを打ち倒していれば、どれも起こらなかったことだ」
 もちろん、信夫も日和田教官一人で権力者の全てを倒せるとは思っていない。それでも日和田教官自身が権力者への挑戦を進めていれば、自分は彼女に協力するだけで済んだ。常磐丸も死なずに済んだかもしれないし、今こうして両親の間に思い悩む必要も無かった。それは忠勝に対しても同じ思いだったのだが、今この場にいない相手のことを考えても仕方がない。それに加えて、日和田教官の頭には失った自分の家族のこともよぎる。去年とは言っても、あの大洪水が起きたのはまだ少し先の時期である。里中で知らぬ者のない事件であったし、何より信夫や平助にとっては調練所の教官の家族の死である。知らないわけがない。
「確かに、私の家族は結果的に失う運命にあった。それを捨てて挑まなかったから、お前と両親の間を引き裂く結果となった」
「結果論じゃない。お前が挑まなかったからこそ、お前は家族を失うことになったんだ。お前の家族はなんで死ぬことになった?」
 日和田教官がずっと自分の理想に挑めなかったのは、その家族を守るためであった。三春がそれを察したのは日和田教官も気付いていたし、そうなれば信夫までその話が伝わっていても不自然は無い。日和田教官にとっては、こうなると知っていれば最初から家族を捨てて挑んでいればよかったという無念である。しかし信夫は、それに対して首を振る。どんなに可能性が高かったとしても、所詮災害は災害である。そんな結果論でものを語れということは、あまりにも過ぎた横暴である。無念に囚われてこの辺りの冷静さをなくしていたことに、日和田教官もようやく気付く。
「いつもの年にはありえない豪雨が、丸刈りになった山を襲ったからだ」
「その山を丸刈りにしたのは誰だ? 周辺の連中は、その前から繰り返し明らかに濁った川を見て『一部の権力者が行った伐採が危険なのはわかっていたが、木を売った金や集まった樵たちでこの辺が潤っているので何も言えなかった』と繰り返していたそうだな」
 言葉紡ぐ信夫の息は、抑えていても確実に荒くなっていた。日和田教官の当時の自宅があった付近は、丸刈りとなった山から流れた濁流に飲まれたという。しかしその山が丸刈りになったのは、わずか数年の間でのこと。それまでは生い茂った緑のおかげで、洪水など心配することも無かった地域なのにである。洪水に遭い家や家族を失った他の人たちには、信夫がこれから言おうとしているのは非情も過ぎる言葉であろう。だが、危険だということをわかっていながら何も言わなかったという現実を偽ることなど既にできない。
「金の力に屈して何も言えなくなった結果、それ以上のものを失う結果になった。親に捨てられた放蕩息子しかり、こういうのを自業自得というのではないのか?」
「……返す言葉も無い」
 相手が家族を失った身であることはよくわかっている。それをさらに事実を論って「放蕩息子」など、逆上されて殺しにかかられても仕方ないほどである。しかしそれでも言わなければならないという思い、現実をなし崩しにしたくないという信念。自力で稼ぐことができなければ、放蕩息子であればいつかは親の資産を食いつぶす。他に守らなければならないものがある時は親も勘当することもあるし、そうでなくても末路が確実に歩み寄っているのを気付けない者などいない。信夫の言う「自業自得」に偏見を感じるとすれば、それは「自業自得」の対象から外れている権力者たちがいるからである。信夫自身も今のこの言葉の裏には、いくつもの覚悟を重ねていた。幸い日和田教官は落ち着いて頭を垂れただけで済ませたので、それ以上は進まずに信夫に息を吐くことを許した。
「それで日和田教官、お前は何の用だ?」
「平助にお前が気持ちを固めなおしたと聞いたのだが、見たところどうもまた悩んでいるようだな?」
 そんな信夫の息を吐いた瞬間の表情に、日和田教官は信夫の本心を見て取った。日和田教官も気持ちとして非常に刺さった様子は見せていたが、それでも落ち着いて自分の本題に入り始めた。信夫は一瞬「こいつは本当に家族の死が堪えているのか?」という疑問も感じたが、いくらなんでもそれは無いだろうとその疑問は忘れる。それよりも日和田教官が自分の本心に入り込もうとしていることに気付き、再びそれ相応の態度でその侵略を拒む。
「自分では覚悟を決めたが、周りの誰かの傍に居場所があるんだろうか? 若松家と城中、どちらにいるべき立場なのかとな」
「放っておけよ」
 日和田教官の言葉に対し、信夫は鼻で笑って返す。今もまだ気を失っている間に見た夢を引きずる部分があり、図星を突かれたのは間違いない。だが、それを日和田教官に話してどうなるものでもないだろうという内心。いくら三春に言われたところで、信用できないという思いを完全に拭うことはできない。どうしたものかと、日和田教官は必死に言葉を探る。
「私が今まで何年怯えながら生きていたと思っている? いい加減怯えた顔くらいわかるものだぞ?」
「それを誇るのか? お前……」
 まず、唖然。堂々とした態度で言ってのけた次の瞬間には、日和田教官も自分の冗句には呆れを隠せないほどであった。あるいは冗談でも言えば気持ちを多少開くだろうかと。それに対して信夫は当然とばかりに、こき下ろす言葉を並べようと必死に頭を巡らせた。しかし出てくるものは何一つ無く、それどころか思考回路が途切れ始めているのがはっきり感じられるほどであった。
「くっ……くっ! 情けない」
「お前の感性はよくわからないものだ。まあ、笑えることが分かっただけまだいいか」
 信夫の頭の中から吹き上げてきた笑いは、既に堪えられるものではなくなっていた。信夫は過去のいきさつがあったため、日和田教官の話で笑うことなどまったくなかった。調練の場での話はしっかりと聞いていたが、平助や他の者たちとする私的な話に心を開くことはなかったのである。その様子から日和田教官も、感情を失っていたのではないかと本気で心配していたほどである。信夫に釣られるように、日和田教官も仕方なさそうに笑い始める。
「まったく、生まれて以来最悪の不覚だったぞ。それで、お前は俺にこの屈辱を与えに来たのか?」
「いや、お前の様子を見に来たのだが……。お前の怯えるものは、本当に怯えるべきものなのか?」
 ひとしきり笑い終えた後の、その状況には似合わないひどく疲れ切った表情。信夫にとっては相当な屈辱らしいが、それでも心の扉は少しだけ開いたようである。信夫のそんな様子に得心したようにうなづくと、日和田教官は元の落ち着いた表情で口を開く。
「自分で言っただろう? 俺の居場所が町中か城中か……。俺が守りたいものは決めているが、その先への俺の怯えとは別物だ」
「だがお前の周りの者たちが、お前の怯えるようなことをするのか? お前にはそのように見えるのか?」
 自分でいくら否定しても、結局その恐怖を拭うことはできないでいる。城中で生まれ、本来城中で育つべきだった自分。そして町の人たちは、誰もが城中の者たちを良く思っていない現実。自分が城中の生まれだったと知った時に、町の人たちは自分に憎悪を向けはしないだろうか。城中の者たちは里全体を傾けつつあるのを考えずにいるため、それを止めるために全てを賭けたいのは間違いなく信夫の本心である。しかしその後に、同じく城中の者として信夫をも排除しにかからないかはわからないままである。日和田教官はそれに対して、信夫の心の底の怯えを厳格な目線で取り押さえていた。
「そんな風に見たことは一度も無い。だが、俺はもう何も信じられない」
「自分の目で見たものですらか。仕方ない奴だ。両親に訊いてみろ」
 疑うという発想すら出ないようなことをひっくり返された後なのだ、そのように思うのは仕方ないだろう。しかしそんな破れかぶれな態度で、果たして上手くいくだろうか。間違いなく上手くいくことなど無いだろうと、日和田教官は苦笑する。仕方なさそうに、一歩脇に退きながら後ろに目線を送る。まるで誰かに位置を譲るような態度にも見えるが、しかしそこには誰もいない。そもそも日和田教官の背後にいるのであれば、この段階で自分が気付かないはずがないだろう。わけがわからなくなり、信夫は目を剥いて周りを見回した始めた。その瞬間だった。
「信夫、お帰りよ!」
「……父上、驚かさないでください」
 そんな風に言う信夫の態度は、しかしとても驚いているようには見えない。むしろげんなりと呆れたような態度だ。今の今まで誰もいなかった場所に、降ってわいたように出てきたゾロアークの男性とアブソルの女性。ゾロアークである父の幻影には既に慣れていたため、信夫が激しく驚くようなことはなくなっていた。それよりも悪戯をした後の子供のように笑う両親にとっては、信夫の今の目線がとても刺さる。まるで大人なのはどちらであるのかがわからなくなりそうな、そんな両者の態度である。
「お前の両親はお前を騙すような輩か、今一度しっかり確認してみろ」
「たった今幻影で騙したばかりだというのに、説得力の無い台詞ですよ?」
 日和田教官はその場から数歩退くと、日陰に置かれた輪切りにされた丸太に腰掛ける。だいぶ日が落ちた時間帯だというのに、人種柄この季節の日差しはそれでも厳しいらしい。その脇でさらに冗句を重ねて笑う母に若干のしつこさは感じたが、あまり態度を悪くしていても仕方がない。信夫はおもむろに玄関から出て、両親とまっすぐに向かいなおす。

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 流石に長くなったのでページを替えます。この期に及んでも「中編」と言い張りますが「短編詐欺」は間違いなかったようです。



何かありましたらお寄せ下さい。

お名前:
  • ↓2の方
    漢字だらけに関しては、世界観的に仕方なかった部分はあります。ポケナガで「お仕事タイム」「アンビリーバボー!」などとカタカナ言葉が乱立していたのが少々残念だったいい思い出があるので。
    行間の少なさについては考えなければならないですね。読みづらければ内容云々以前ですからね。
    内容についてもよく考えるとこれでも詰め込み過ぎだったかもしれません。というかひと月とかで終わるだろうと踏んでいたらこの結果ですからね。別な作品で盛り込むことも可能でしょうから、分割を利用したシェイプアップを覚えていきたいと思います。

    妄想人間さん
    これもやはり内容の肥大化からきているのかもしれませんね。当分は短編作家でならすことを狙っているので、厳しいスタートになってしまったのは間違いなさそうですね。

    お二方アドバイスありがとうございます。ここで更新はしばらく停止し、次の作品を書き上げることにします。
    キャラの命名の元ネタ等についても少し出してみようと思ってみたりみなかったり。ひとまず作品を優先します。
    ――オレ 2013-02-18 (月) 21:10:19
  • 完結乙です。
    なんか物語の背景が掴みにくかったです。
    感覚として抽象的だったのでこれが具体的になると物凄く個人的に面白くなると思いました。
    次回もたのしみにしています。
    ――妄想人間 ? 2013-02-14 (木) 22:55:24
  • とりあえず…、完結お疲れ様でした。
    しかし、漢字だらけな上文章の行間が無くて読みづらく、途中から読み飛ばしてしまいましたorz
    ごめんなさい…。

    内容も少し難しいと思います。少なくとも気軽に読める小説ではありませんね…。
    ―― 2013-02-14 (木) 08:04:36
  • ↓の方 ありがとうございます。次回でおそらく完成するので、最後まで見てやっていただければと思います。
    ――オレ 2013-02-08 (金) 23:00:55
  • これ好き。
    ―― 2013-01-29 (火) 12:54:04

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Last-modified: 2012-12-18 (火) 00:00:00
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