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0.


 “灰色の世界”

 それが僕等の住む、この世界の通称。
 形在る物は全て影に染まり、形無き物は灰色に染まる。
 影と、灰色。二つの色はそれぞれ違いという在り方を示し、世界に陰影を齎している。
 大地は黒く、空は仄暗い。朝と夜の切り替えもこの世界では陰影がやや変わるだけで、肌で感じる気温や空気から世界の変容を見るしかない。そうせずとも体内時計さえ正確であればその違いも些細なものでしか無いのだが。
 極端な例だけ挙げれば季節の節目に差し迫ったくらいしか思いつかない。またこの世界の住民はそれほど朝夕の変化に対して危機感を備えていない。
 危機感の優先順位が著しく低いというよりは、感覚が麻痺していると語るべきなのかもしれぬ。

 先程形在るものは全て影に染まると述べた。僕等もその例外では無い。
 無限に伸びる影の絨毯、天を貫く影の連なり、影から漏れる水脈の音、etc…
 様々な場に蔓延る影の中に、僕等はひっそりと息を殺しながら佇んでいる。
 宛らそれは強者に怯える弱者の如く、この世界にもそうした規則は生きている――が。
 弱者が肉となり強者が喰らう、連鎖的なその規則は、この世界ではやや変則的だった。

 形在る物は全て影に染まる。
 影を(いきもの)と看破できないこの世界では、強者ではなく弱者こそが日々の生存競争が高い傾向にある。
 強大な力を持ち合わせ、誰にも負けぬ屈強な肉体を備えていても。
 それは固体が別の固体と対峙する場合におけるパワーバランスであり、one on oneにおいて尤も効果を発揮する数値である。
 数値でなくともそれを計る物差しは幾らでもある。音然り、臭い然り、見た目然り。
 これ等の中で見た目は特に重要視される。狩りでなくとも日常生活における利便性で考えれば、視覚情報から得る物事の整理は馬鹿にできない。
 それが閉じられている世界ならば。閉ざされている世界ならば。
 この世界で生きる為に必要なのは絶対的な強さではなく、知恵であり、知謀こそが最もたる強さとして君臨する。
 自らの強靭な肉体に驕る強者は群れをなす事を頑なに拒み、一固体としての強さを持たない弱者は群れをなす事で弱さを補強する。
 そして影を陰と看破できないからこそ、それを認知した時、僕等は世界に騙される事になるだろう。
 自分より大きいか否か。たったそれだけの物差しが、僕等の危機感を容易く狂わせる。
 対峙する巨大な影は戦闘能力なぞ皆無に等しく、小さな陰が積み重なってできた虚栄の塊でしかない。種明かしさえしてしまえばこのパワーバランスは呆気無く崩れてしまう。
 それを覆せないからこそ、看破できないからこそ。
 真実に気付かない限り、世界は強者と弱者に各々の立場と関係性をイーブンだと騙る。

 それこそが“灰色の世界”と謳われる所以かもしれない。

 これはそんな有耶無耶な世界に生きる、僕の一つの記憶で。
 もう直ぐ消える風前の灯の、最後の色。
 遡れば遡る程、巡り回れば廻る程。

――この世界は死んでいる――

1.

 最初の記憶によれば、顔も形も判らぬ両親が僕に授けた一の教えはこの世界の通称であり、そして初めて浮かんだ疑問を僕は両親に尋ねた。
「何故、世界は灰色なのか」
 両親の返答は「解らない」だった。その昔、両親も自分達の父母にそう問い掛けたが、同じ反応を返されたという。
 恐らく誰もこの世界の真実を知らない儘、歪められた儘、語られてきたのだろう。
 世界に騙られて、きたのだろう。
 数ある謎の解明において、僕が未だに解けないたった一つの気掛かりだ。
 この謎こそが僕を根底から突き動かす原動力でもあり、生き甲斐であり、生き様だった。
 しかし両親は僕のそんな心根をあまり快く思わず、そんなものは忘れてこの地で生きていく様に勧めた。
 暗黒しか見えないこの大地において僕のそれは無謀でしかない。この周辺には無くとも、未知だけが広がり続けるその先では、獲物が掛かるのを待つ底無しの顎が待ち受けているかもしれないし、音も無く流れ続ける深海の如き流砂が広がっているかもしれない。
 弱者が強者を誑かす事を容易にさせるこの世界こそが、覆し様の無い絶対強者であるのかもしれぬ。
 それに呑まれれば二度と戻ってこれぬ事は、赤子であろうとも理解できよう。
 僕もそれを理解できないからと歯向かう程、愚かではないつもりだったし、何より両親が悲しむという表情を見たくは無かった。影に染まって見えずとも、泣いているか笑っているかの判別は難しくは無い。
 だから僕も気掛かりでこそあれ、その謎を忘れようと努力はした。
 謎を追えば必然的に孤独を強いられる。
 それ程戦闘能力の高くない僕等の一族では、単独行動は死に直結する。
 群れなさねば僕等はあまりにも非力で、この地から消えるか弱い存在。
 そんな弱さを世界は強さに変え、僕等に居場所を与えてくれた。
 だからこそこの世界に、この地に、僕等は留まっていた方が安全だったのだろう。

 けれどそれは僕等の勘違いだと、そんな事は僕等の勝手な幻想だったと、後に僕は世界から裏切られる事になる。
 否、それだって僕の勝手な言い草なのかもしれないのだろうけれど。
 世界は弱者に優しくも強者に厳しくも無い。
 ただそこに在るだけで、僕等はそこに住み着いているだけだ。
 或いは、僕等こそが強者へ成り上がったからこそ、世界に捕食されたのかもしれない。
 唐突な大地震によって引き起こされた地割れに僕の父母は呑みこまれ、そして帰らぬ者となった。
 僕を含めた一族の生き残りは痛ましい歴史と大地の傷跡に嘆き悲しんだ――が。
 皮肉にも、両親の喪失が僕の枷を外す切欠となった。
 この地に留まろうとする一族を離れ、僕は独り、この世界が隠し続ける謎を究明する宛て無き旅に出た。
 この時の僕は、ちょうど成獣へと一歩を踏み出した瞬間であった。

 嗚呼、失礼。名乗りが遅れた。
 然しながら僕の一族では成獣する際に儀式を行い、その課題を通過した者だけが襲名をする仕来りになっている。
 つまり、僕は確かに大人にはなったが、儀式の最中にあの事件が起きた為に正式な終了を経てはいない。
 だから僕に名前は無い。
 今の僕は存在すらしていないし、そこらにある影の一部でしかない。

 それでも呼びにくければ、そうだな。
 君がいの一番に思い浮かんだ、その姿の名前を取るといい。
 それが僕の名前となるだろう。

2.

 群れを離れ、故郷を棄て、己の存在を消し去った日からどれ位経ったか。
 三日だったかもしれないし七日だったかもしれぬ。否、とうに昔と呼べる程には過ぎているのだろうか。
 経過が曖昧なのはろくに休眠を挟んでいないせいだ。この時の僕は恐怖心よりも沸き立つ好奇心に身を支配されていたが、冷静になれば、後から思い返せば、本当はとてつもなく不安だったのだろう。
 未知との遭遇において、対峙したそれへ更なる未知を求めるか。未知を費やしたくないが為に未知を放置するか。
 解明する事を目的とする以上、僕は前へと進むより他に道は無いのだが、多くの者は未知が齎す神秘をそのままに留めておきたがる。
 彼等の探究心が皆無だと考える事もできようが、そうではないかもしれない。
 探求は危機や死と隣り合わせである事は、誰から学ばずとも自然と知り得る一つの事実だ。
 ましてやこの世界なのだから。この世界ならではなのだから。
 誰もが僕の様に気軽に外界へと出て行ける程強くはない。それは僕も又同じで。
 強いからこそ外へ飛び出したのではなく。
 死したからこそ、死の逝き着く先を求めた。
 まだ生きているとしても、僕の中身はもう生きていない。
 目前に果てしなく広がる闇よりも濃い色――深淵が空虚を呑み尽くし、一頻り呑み尽くした上で虚空が開く。同じ色で在りながら決して相容れず、只管に同属を喰らい尽くしていく。暗い、尽くしていく。
 勿論それは僕のみならず、他の皆も、一族の皆も、そうであって。
 そんな状況だからこそ、奮い立って再起していく事が残された者達の義務であるはずだった。
 それを僕は、放棄したのだ。己がこれから始まるであろう一瞬に。
 名を継ぐ事も、名を紡ぐ事も、名が命で在る事も。
 全てが馬鹿馬鹿しく写り、面倒臭くなり、僕はそこから逃げだした。
 安住の地を世界から裏切られ、剥ぎ取られ、削ぎ落とされても。
 誰も、その裏切りに気付かない儘。喪失の痛みに騙られる儘。
 その地に留まって死んでいく事を、誰もが望んでいる様に見えた。
 両親が全てだったと言う訳では無い。仲の良い友だっていたし、一目を掛けている子だっていた。
 にも拘らず、僕は全てから逃げた。卑怯者の如く、敵に背を向ける様に。例えその敵が味方であったとしても、何れにせよ僕はそこに居たくなかった。
 居続ければ居続ける程、僕の心は痛みに喘ぎ、真実というものを見失う気がした。

 馴れ合うのは御免だとか、重荷を分かちたくないとか、そういう部分もあったかもしれない。
 考えれば考える程、客観的にそれまでの己の在り方が見えてくる。
 離れれば離れる程、主観的なそれまでの己の生き方が欺瞞めいて見えてもくる。
 別に己の何がしかに対して成否を求めるつもりはない。
 独りきりというものは自分以外に見るものがない為に、考えるつもりがなくとも脳が勝手に物事の在り方を求めてしまう。
 日常に染まれば染まりきる程、非日常に置かれた時、心は栄養を求めるも満足には摂れず、痩せ細っていく。
 無駄という贅肉を削ぐのは別の無駄と呼ばれるもので、削ぎ落とすものが残らなくなった時、次はその無駄が日常へと摩り替わる。
 やがて臨界点まで追い詰められた時、心はようやく己に存在理由を求めて問い掛ける。
 ……成程。こうして整理してみれば死ぬ事も生きる事と同様に理由が必要とされるらしい。
 存外群れを飛び出したのも、死にたくないが為にこその足掻きだったのかもしれない。
 自ら命を絶つ等、そうした自害は容易くとも、自らの手で心を壊す事は誰にもできない。どれだけそうしたいと望んでも、できないものはできない。
 心が生まれるのは己自身ではなく、他者の中に在るものである以上、それを破壊できるのも又他者だけだ。
 その殺害方法は実に惨たらしく、無様に、無自覚な儘に執り行われていく。そして時期も選ばない。
 それをただ待つだけで、僕が望む結末は果たして訪れるのであろうか。
 答えは否なのだろう。
 実際に身を以って僕はこの辺りで、僕以外の陰を探し、挑み、敗れた。
 そもそも敗北するであろう結果は判り切っていたので、この挑戦に意味は無い。無謀を通り越して無駄な行動だった。
 ただ心がどう作用するか、それだけの為に他を利用しただけだ。
 収穫は上々とはいえない。それ以前に敗北する事はイコールで相手の肉となる。
 その辺を理解していなかった訳ではないが、あまりにも軽率かつ短絡的であるのは反省せざるを得ない。
 とはいえ、次が果たしてあるのかどうか。
 日頃の疲れと餓えとで思慮が欠けていた等ではとても言い訳にもならない。
 それならまだ死にたかったから挑んだとでも呟いた方が筋が通る。
 嗚呼、迂闊也。

 生暖かく、血腥い微風が顔に吹きかけられる。
 さてどうしたものか。どうにかこの状況から脱しきれないものか。
 朦朧とする頭は未だ、次の事だけを考えていた。
 肉が裂ける音と痛みが訪れるまでの間、僕の意識は薄い糸が限界まで張り詰めていた。
 一瞬で千切れる音が響き、その日の記憶は闇に紛れて消失した。

3.

 翌朝。それとも夜か。日か。月か。
 次の記憶もまた正確な日数は不明な儘、僕の色塗りは始まった。
 記憶が朧げで、今自分は何をしていて、何処にいるのかを整理するのに数瞬を要した。
 身体の感覚は――あるのかもしれない。しかし動かそうと思うとこれが動かない。
 鉛か何かが全身に圧し掛かっている様で、僕の身体は地べたに這い蹲らされる形で突っ伏している。
 ううむ、重い。
 上に何が圧し掛かっているのか、それだけでも判別できないだろうかと首を回して上空を仰ぐが、闇しか見えない。反対側も同様、闇だけが広がっている。
 ふと、じんわりと暖かくも熱い感覚が下半身から伝わってきた。
 意識が鮮明になるにつれて感覚も鋭敏化し、やがて刃物を突き刺された様な痛みが全身を走る。
 堪らず苦鳴が漏れるが、吐き出されるのは重苦しい呼気のみで、腹の中に秘める声だけがぐるぐると回り続ける。
 どうやら未だ、生きてはいるらしい。
 こんな状況下でも冷静さを失わず、事態の状況を整理する事に努めたがるのは性分か。
「……煩いなぁ。さっきから何もぞもぞしてるのさ」
 不意に降りてきた別の声とともに、全身に圧し掛かっていた重みが急に離れた。下半身だけは相変わらず痛覚を訴えているが。
「これは驚いた。どうやら僕はさぞや美味しくなかったとみえる」
「口の利き方に気をつけなよ。小僧。否、負け犬だっけ?」
「ふむ。犬か。確かに負けはしたが、然しながら僕は自分が犬かどうかも解らないので、その件は判断しかねる」
「はぁ……? じゃあ何? 負け猫?」
 そんな言葉は無い。と口を挟めば流石にただでは済まないので、そういう事にしておこうかと適当に合わせておく。どうもこの子はあまり気の長い性質では無いようだし。
「ところで一つ訊ねたい。否、現状のヒエラルキーは勿論君にあるのは重々承知しているさ。だからこそ、勝者の余裕としてここは一つ、耳を貸してはくれまいか」
「……実に口が巧い小僧だね」
「残念ながら小僧では無い」
「黙れよ」
 反論の余地を与える気は無いか。然しこちらの言葉が丸っきり通じないという訳でもないので、辛抱強く待てば余地は来るのかもしれない。
 だがまぁ、黙れと言われたからには黙るしかあるまい。敗者は勝者に従うものだ。弱者は強者に逆らうべきでは無い。
 この世界では度々下克上が起きるが、今の自分には関係の無い出来事だ。
「アンタみたいな面倒臭いガキに質疑応答されるのは正直気が乗らないんだけどね。まぁ話くらいは聞いてやるよ。なかなか面白い見世物も見れたからね。その礼にしといてやる」
「重畳だ。見世物と礼が何の事なのかさっぱりだが、それを訊くと君はもう別の質問に応えてくれそうにないので、それは置いておこう」
「そうしてくれるとこちらとしても面倒が省けて助かるわね」
「僕を逃がす気はないか」
「……はぁ?」
 うむ。予想通りの反応をありがとう。
 むざむざ捕らえた獲物を逃がす等、誰が相手でもするはずがないだろう。僕でさえそんな行為は憚られる。それを強要するのだからおこがましいにも程があろう。
 然し件の相手はそれをあっさり快諾し、逆にこちらが面食らう。
「何その反応。逃がせって言ったのアンタでしょ」
「ふむ。確かにそうなのだがね。僕はてっきり断るだろうと思ってたばかりにあまり期待してはいなかったのが正直な処だ」
「じゃあ今直ぐ私のお腹に入る?」
「勘弁願いたいな」
「冗談。別に大した理由なんて無いわよ。私、今お腹一杯だもの――アンタが闘ってた相手のせいでね」
 成る程。僕は実証を得る為に手近の相手へ無差別に闘いを挑んでいたのだが、その勝者の天下がものの数秒で潰えるとは、何とも酷な話だ。
 まぁ其のおかげで僕は助かったのだから、彼女には感謝してもし切れないか。
「ねぇ、アンタ。質問に応えたんだから今度はこっちからの質問に応えなさいよ」
「ふむ」
「別に私等、勝者でも敗者でも何でもないしね。アンタと闘っても負ける気はしないけど、私はそんな気じゃないし、アンタは手負いだし、貸し借りだってさっきの食事で帳消。あるとすればアンタからの質問だけよ。そんなのフェアじゃないでしょ」
「御尤もな意見だな。相分かった。質問を受けよう」
「そんな身体で何処行く気だったの?」
 道理で下半身の痛みと熱が引かないと思ったら、成る程。
 既に足を喰われていたらしい。
 その足の出所は語るまでもないだろう。
「世界は何故、灰色なんだろうか、と思ってね」
「……ひょっとしてさぁ、怪我してる子供にこんな事言うのも如何かと思うんだけどさ」
「何かな」
「アンタ、馬鹿でしょ」
 極限状態にまで高まった熱と痛みに加えて、相手からの心無い一言により、僕の糸は再び千切れた。
 次に目覚めるのは何時だろうか。

4.

 翌朝。それとも夜だろうか。
 あの後、再び気を失った僕を彼女は見捨ててはいかなかった様で、次に目覚めたのは彼女の住処の中での事だった。
 再び闇が視界を覆った事にデジャヴを感じたが、全身に圧し掛かる重みは――あった。
「重い。このままでは重力に引かれた木の実の如く、地面に落ちた上で腐っていた部分が潰れて弾けるだろうな」
「気持ち悪い表現の仕方をするな。そして乙女に重いとか抜かすな、クソガキ」
「残念ながら僕はガキではない」
「あら、クソは認めるのね」
「これは迂闊」
 まぁ確かに今の自分は糞になるしかとりえがないので、認めてしまった処で強ち間違いでもない。
「して、何故僕の上に君が居るのか、その理由を説いても?」
「非常食にいいかなって思って」
「僕を逃がす気はないのか」
「冗談よ。そもそもさっきもそうだけどアンタその身体でどうやって逃げるのよ。こうして私が傍に居なかったら、即効で骨に転じてるだけじゃない」
「骨になるのは吝かではないが、今はまだそう在りたくはないな。ありがとう」
「いいわよ別に。陰同士、重なってたら誰にも分からないんだし」
 陰同士、か。
「君は、何故世界は灰色なのだと思う?」
「はぁ? 知る訳無いでしょ」
「でも一度は思ったはずだ。子供の頃に、そういう疑問を抱いた事が君にもあるだろう?」
「……木の実食べたら? アンタ面倒臭い上に長々と話を展開していきそうだもの」
 ふむ。そういえば僕はここ数日何も口にしていなかった。
 あまり気にはならなかったが、いざ指摘されると急に腹が減るものだ。
「何から何まで済まないな」
「いいわよ。十分太らせたら食べ頃になるし」
「……冗談ではなかったのか?」
「さぁね」
 何とも真偽が掴めぬ子だ。まぁ嫌いではないし、特に気にもしていない。
 かつて居た群れの一族内にはこんな性格の子は居なかった様に思う。居たら居たで統率が取れなさそうな気もするが。
「この木の実、腐ってるぞ」
「え、そうなの? 私木の実なんて食べた事ないから食べられるかどうかも分からないのよね」
 Oh, It's 肉食。まぁそれだけ彼女は実力があるのだろう。木の実に関しては仕方ない。こういうものは草食系が食べるものだ。僕は雑食だが。
「いいさ、腐ってるといっても一部だけだ。腐ってない部分を食べればいい」
「何だか悪いわね。アンタを放っていくのも心配だからってそこらに茂ってたのを採ってきたんだけどね。よもや腐ってるなんて思わなかったわ」
「ならば君も食してみるといい。意外とこういう質素な味も悪くはないぞ」
「そうね……当分の間アンタは動けないでしょうし、私も長く離れている訳にもいかないしね。知識があるに越した事はないわね」
「ならばこれを頬張れ。こっちは腐ってないからそのまま噛み砕いて丸呑みもできるだろう」
 木の実の外皮から漂う匂いを辿り、それを咥えて彼女の傍に置く。
 先程僕が選別していた動作を覚えようとしているのか、彼女もそれに習って木の実を嗅いでから口に運ぶ。
 外皮はそれ程硬くない為、彼女の咥内でぐじゅぐじゅと肉の潰れる音が隙間から漏れた。ただ、肉食だからなのだろうか。
 咀嚼の度に隙間から果汁やら実が零れ、そのまま彼女の胸元と真下の僕を濡らしていく。
「……ねぇ、これ食べ難い」
「……君と僕とでは身体の構造がやや違うから、その所為かもしれないな」
「おまけに不味い」
「御気に召さなかったか」
 仕方ない、そのまま吐き出せと言いかけた処で、僕の咥内と鼻腔に甘ったるい匂いが広がる。
 木の実の香りか。彼女の体臭か。染み付いた血の、独特な風味か。全てかもしれぬ。
 身体の大きさも負けているので、その気になれば合わせ合う口吻で丸ごと僕の頭をも飲み込みかねない。軽くホラーだ。
 固まっている僕を気にも止めず、彼女は巧みに舌を操って舌先で僕の咥内へ果肉を送り込んでくる。触れ合う口吻から伝わる熱が脳髄を焼くが、舌は更に熱く、舌先が触れる度に逃げる僕を蛇が追ってくる。
 何処へ逃れても執拗に舐り尽くし、僕の咥内から果肉が零れだしているのを、彼女も気付いていない訳でも無いだろうに。敢えて無視して愉しんでいる辺り性格が悪い。
 突っ伏した状態から首を上反りに固定されているせいで呼吸が困難である事をどうにか伝えようとするが、今の彼女には僕が獲物にしか映らないのだろう。
 足掻けば足掻く程、抵抗に反抗を重ねてくる。止むを得ず、僕は彼女の舌を噛む事で彼女の正気を呼び戻した。
 固定の為に首に回していた彼女の手が解かれ、ようやく呼吸の自由を得たと安堵していると、首筋から鋭い視線が刺さるのを感じた。
 気まずい空気を打破せんとこちらから一声を掛けようとするも、再び彼女の妨害が入る。
 力強い手が僕の身体を救い上げ、ごろり、と仰向けに転がされた。表情は影に染まって分からない。
「……痛いじゃない」
「こっちは呼吸ができなくて死に掛けた」
「あら、ごめんあそばせ」
「いいさ。でも子供にこういうことするのはどうなのかな」
「子供じゃないって言ったのは何処の誰だったかしら」
「やれやれ……非常食ってそういう意味?」
「別に。ちょっとからかってみただけ。それとも本番を御望み?」
「いや……それは僕としても喜ばしいお誘いだけどね。でも君はそんな安い女じゃないだろう?」
「まぁね。よく見てるじゃない」
「観察が僕のとりえでね。でも君の表情は分からない。それが一番僕にとって赦せない、この世界への反感だな」
 表情だけじゃない。身体も、双眸も、体毛や体色も。
 あらゆる色が何の価値も無い世界。そんな世界を僕は赦せるのだろうか。
「そんなに気になるなら……触れてみる?」
 緩やかに影との距離が狭まり、僕の手が彼女の顔に届く。
「触れただけじゃ分からない。君は気にならないのか? それで得られる情報は造形だけで、どんな色がそこに込められているのか、気にしたりはしないのか?」
「まるで見てきた様な事を言うのね」
「……そうだろうか。ただ疑問に思っただけだ。疑問に……そんな僕はおかしいか?」
「いいえ。つまらないよりはよほど好いわ。おかしいだけなら、私もそう変わらないもの」
「君が? おかしい?」
「訊きたい?」
「……そうだな。その方がフェアだって、君は言うんだろうな」
 分かってるじゃない、と彼女は薄く、笑った様な気がする。
「アンタが世界を赦せない様に――私も自分を赦せないの。果ての無いこの世界の先に何があるか、アンタはご存知?」
「それを見ようと彷徨っていた」
「何も無いわ。何も無かった。あるのは砂と砂と砂と、屍だけ。ねぇアンタも旅をしてきたのなら知ってるんでしょう。いえ、旅でなくとも餓えて飢えてどうしようもなくなる感覚を」
「……最近、身に覚えがあったな」
「私が元居た土地、私の故郷。そこはとても暗く、日の光も空の色も差し込まない、鬱蒼とした森林だった。森が何処まで大きかったのかは分からないけれど、相当な広さだったわ。そこで私や私の同族は育ってきた」
 それも最近身に覚えがある。僕の故郷も森に覆われていたからな。
「獲物が傍を通るまで、私達は茂みに隠れたり、木の上から様子を探ったりした。獲物の大きさはまちまちだったけれど……そうね、ちょうどアンタくらいの、噛み砕きやすそうな大きさ」
「おいおい、話の途中でお腹が空いたからって理由で僕を食べるのは止してくれよ。せめて最後まで語ってからにして欲しいな」
「冗談よ。まぁアンタが想像する様に、私は森とともに育った。けれど――」
「……けれど?」
「他所から流れ着いてきた、んでしょうね。そいつは見た事も無い大きさで、私達より遥かに大きくて、最悪な事に私達とは相性がよくなかった。森に隠れ潜む私達をそいつは関係無く、火を噴いて焼き払った。一吹き。たったの一吹きよ。それだけで森は全てが劫火に包まれ、私達だけでなく森中の陰が外へ外へと飛び出した。どんな世界が広がるかも分からぬ世界へ逃げ出した」
「……それは何とも悲惨な終末だな」
「そうね。けれどそれならまだいいわ。相手が悪かっただけだもの。けれど私が私を赦せなくなるのはここからの話よ」
「砂と、砂と、砂と、屍」
「物分りのいいアンタなら、既に結末は見えているんでしょう?」

――彼女が生きる為には、喰らうしか無かった。
 砂に埋もれ逝く屍の肉を。

 陰は影に包まれる。
 散り散りになった仲間の姿も、見分けられなくなる程に。

5.


 “形在るものは全て影に染まる”


 翌年。
 恐らくそれ位の、歳月が過ぎた。
 彼女と連れ添う期間が、それ位に経過していた。

 両脚の怪我が癒えれば、僕は再び世界の真理を求めて彷徨う手筈でいたのだが。
 運が悪かったと語るべきなのだろうか。僕の足は骨ごと喰われ、再起不能なまでに損壊され、破壊されていた。
 それを代償に彼女と巡り逢えた事を、僕は運が良かったと騙るべきなのだろうか。

 彼女は相も変わらず僕を非常食だからと無下に扱う。
 最初の頃はただ飢えを凌ぐ為に、貯蓄できるものは取っておく程度のものだと思っていたが。
 連れ添う期間が長くなる程、それは僕の思い違いだと分かった。
 彼女は飢えていた。孤独である事に堪えられず、常に拠り所となるものを欲していた。
 しかし彼女はそれを決して赦す事はしないのだろう。
 僕が世界を未だに赦す事ができないように。

 蟠りはそう容易く融けない。
 融けない影の雪が深々と、心身と、降り積もる。
 外も、内も、何もかも。
 黒く、黒く、真っ黒に。
 全てが闇へと包まれる。
 灰色の空をも埋め尽くす。


「暗いわね」
「そうだね……寒くない? 僕は君のおかげで和らいではいるけれど、君はそうでもないんだろう」
「そうね。でも心細くは感じないわ」
「そうか。うん、それが一番か」

「雪、止むと思う?」
「止むだろう。季節は永遠じゃない」
「あら。アンタ世界に裏切られた癖に、世界を信じるの?」
「意地悪い事を言うなよ。何も世界の全てを憎んでる訳じゃないさ」

「何か掴めた?」
「さっぱり。そういう君は?」
「非常食が手に入ったわね」
「やれやれ」

「……ねぇ、まだ起きてる?」
「起きてるけど」
「お願いだから、自分を食べて君だけは生きろなんて言わないでね」
「分かってる。僕は君の様に意地悪じゃないしね」

「……こうは考えた事無い?」
「何を?」
「アンタと闘った相手が本当は私だったって事実。アンタの足も私が食べちゃったって事実」
「……笑えない冗談だな」

「うん、冗談。でもそう考えたりはしなかったの?」
「無くは無いだろうが、君を赦せなくなる程じゃない」
「あら、どうして?」
「孤独が怖いのは、お互い様だろう?」

「そういえばさ。私達お互いの名前も知らないまま、こうしてここにいるのよね」
「そういえばそうだね。僕の名前に関しては以前に話した通り、受け継がなかったからね」
「でも襲名ならずっと同じ名前が継がれていたんでしょう?」
「……もう忘れてしまったよ。君こそどんな名前なんだ?」

「忘れたわ」
「そうか」
「死者は名乗らないのよ」
「確かにね」

「…………」
「……眠い?」
「……ちょっとだけね」
「いいさ。そのまま眠るといい。僕も直ぐに眠りにつく」

「……ねぇ最後に一つだけ質問させて」
「……じゃあ、フェアに僕からも質問」
「ご馳走様」
「お粗末様でした」

6.


 “灰色の世界”


 同じ夢を見た。
 繋がる夢を見た。
 景色は相変わらず暗く、黒く、深淵に染められていたが。
 確かに繋がっていると、確かな感触を全身で感じている。

 不意に彼女の名を呼ぼうとした。
 呼べなかった。
 僕は彼女の名を、知らないのだから。
 彼女も僕の名を、知らないのだから。

 それでも。知らなくても。
 口から漏れたその名前を僕は呼んだ。
 その名前に聞き覚えは無い。
 無いはずなのに彼女の名前だという確信だけが心に残る。

 もう一度名前を呼ぼうとする。呼べなかった。
 口吻を何かで遮られていた。
 ぬるり、とそれは舌を絡めて咥内を舐り尽くす。
 舌端に広がる僅かな甘味と熱が意識を焼き付けた。

 全身を弄られる様な感触が背中から広がる。
 不意に咥内を埋め尽くしていた感触が離れ、それは顔を、頬を、首筋を、肩を、脇を、腕を、掌を、指の合間を。
 順から順へと舐られていく感触を、僕は不思議と不快には思わなかった。
 徐々に滾り出す欲望が快楽と混ざり、やがて僕の内側を、心を締め付けた。

 ぎり、ぎり、ぎり、ぎり、と。
 切なく、苦しく、辛く、哀しく、むず痒く。
 如何し様も無い感覚だけが心に満ち溢れていく。
 下腹部に暖かくも熱い感触が触れた。

 絡み付く熱が一所に集まり、内に秘めた欲望が肥大化していく。
 心の中に住み着いた蟠りまでもが蕩けに蕩け、全てが快楽に染まっていく。
 それを手放したくないと、僕は手を伸ばす。
 影しか無い空間の先へ、掌を限界にまで開きながら。

 何かが触れた。
 柔らな感触が掌から伝わる。
 滑らかに、それは掌を包み、指の合間へと絡みつく。
 引き寄せるが、引き寄せられた。

 鼻腔に嗅ぎ慣れた匂いが広がる。
 顔面から下腹部に忘れようの無い体温を感じる。
 感じる熱に浮かされ、思考が融解していく。
 蕩ける思考から本能が剥き出しにされ、腰が緩やかに動き出した。

 肌を突き刺す様な寒さを感じない。
 心を刺し抜く様な鋭利さも感じない。
 耳奥に残る懐かしい言葉と音色だけが。
 全身を包み込む熱が愛に染まりゆくのを感じた。

 確認するまでもない事だと理解していても。
 僕は訊かずにはいられなくなり。
 昔の様に問うた。
 答えとともに質問が返ってきた。

 それを受け入れて。
 それを呑みこんで。
 僕は。僕等は。
 緩やかに眠りにつく。


 影だけが広がるこの世界に。
 形在るものは全て()に染まるこの世界に。
 形無きものは全て灰色に染まるこの世界に。
 やがて、灰色が影を染める。



 後書

 どうも。某氏から「仮面大会にサランラップくっつけて出てる感じ」と大会終了後に突きつけられました、仮面の意味を呈してない人こと私です。
 今回も無投票狙い失敗しました。オ・ノーレ。票入れて下さった方ありがとうございます。コアなのがお好きですか? 私もです。

 さて解説に入る前に一つ、皆様が恐らく気にしているであろう事に触れておきます。
「これ非官能でよくね?」
 うん。そうなんだ。ちょっとこの作品のエントリー時刻を見てきて欲しい。
 何でこんなぎりっぎりなのかと言うと、最近絵を描く事がマイブームになっておりまして、一日一枚以上の絵を描くというノルマを一ヶ月前辺りからやってたんです。
 その際に一緒に絵の練習に付き合ってくれた人との協力もあり、交流が楽しかったので、うっかりエントリーの事を忘れてたんですね。
 うぉぉぉぉぉやべぇぇぇぇぇエントリーまで1分切ってるぅぅぅぅぅ! 滑り込みセーフじゃあぁぁぁぁ!
 ズサー!(AA略

 エントリー先間違えました。ちゃんちゃん。
 以下解説コーナー。


灰色の世界(gray zone)について
 はじめにこの物語を読み解くヒント、キーワードは「心像」です。
 皆様イメージする際、その景色に色はつきますか? 私はつきません。想像力が乏しいので。
 イメージが世界を形成する、と語ると某ゲームそのものになってしまいますが、まぁ原理は一緒です。
 灰色が黒と白が綯い交ぜになった色である様に、レシラム()ゼクロム()も元は一つの存在で在る事がゲーム内でも語られています。
 つまりこの世界はそのレシゼクがまだ一つだった頃の、神々の胎内とも心とも言える世界での語物の一つです。
 作中に真実や理想論を匂わせてあるのも、そういった葛藤を神々に傍観されているのですが、世界観の解説が本作に含まれていないのは、後書でやる予定以上にエントリー先を間違えたのが大きい。皆様はエントリーや執筆期間は計画的にね。

 時間がある方は、造られた世界という情報をインプットした上で又読み返して見てください。きっと新しく、違った価値観が生まれ、別の味わいや解釈を見出せると思います。タブンネ?

 最後に。
 大会主催者様、数々の作者様、読者様へ。
 お疲れ様でした。ありがとうございます。次も又愉しみましょう。

 あ、票入れて下さった方へ。
 怒らないから名乗り出てください。
 名乗り出てくれたらもれなくネコパンチネコキックネコラッシュの制裁を感謝の言葉とともにぶつけます。

 それでは又次回。


最新の10件を表示しています。 コメントページを参照

  • 怒らないとの事なので名乗り出てみます←
    三つ目のコメントをしたのですが、予想が外れてなくて一安心しました (^^;
    ――多比ネ才氏 2012-04-14 (土) 02:28:26
  • おおゆうしゃよよくぞもどってきた!
    個性を打ち消すには又別の個性が要るというのが辛い処。
    感想と投票ありがとうございました。げしげしぺちぺち。
    ――Lem 2012-07-01 (日) 11:55:14
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Last-modified: 2012-04-10 (火) 00:00:00
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