僕は絶望していた。
この世の全てと己の自己に。
事の始まりはとある科学者の些細な接触だった。
彼は僕によく似ていた。否、僕が彼に似てしまったとも言えるだろうか。
幾つもの並び立つ培養槽に詰められた緑色の液体と、その中でホルマリン漬けにされている見知らぬ生物達。
それらを囲う夥しいコードの群れと機材、そして白衣に身を包む人間達。
僕も彼もその中の一匹と一人で。
彼は僕の専属の科学者にあった。
専属と言うには言うがそれは僕が勝手にそう結論付けているだけであって、別に彼は僕だけを待遇している訳ではない。
一日に見かける回数が十を越す事もあれば満たない時もある。
では何故、彼だけを特別視しているのかを語れば、彼だけが他の科学者とは異質だという事に他ならない。
彼は白衣でなく黒衣に身を包み、仄暗い研究室内であろうが黒のサングラスを常に装着していた。まるで周囲への視線を隠す様にだ。
全身黒ずくめのその男はあまりにも奇怪で、同業者からも奇異の眼差しを向けられている。
否、同業者であるのかすらも怪しく、存在そのものが胡散臭いとしか他に言いようが無い。
闇から創られた生物でさえ彼を訝しげに思う事だろう。或いは彼という成分が闇で出来ていたのかもしれない。
そして今日も、彼は来た。
それなりの地位についているのか、彼は僕と接触する際に必ず人払いをする。
そこにどんな意味があるのかは解らないが、複数の視線を感じながらあらゆる実験をされるよりは幾分もマシといえた。
彼も科学者である以上は僕を実験材料の一つとしか見なしていないのだろうが、不思議と彼の実験には気分を害する様な覚えは一つも無い。
そもそも、それは実験と言えるのかも解らない行為でもあった。
だだっ広い空間から人が消え、闇と僕だけが取り残され、緩やかに彼の実験が始まった。
「 Hello Dear Friend. 調子はどう?」
――変わりない。
問いともいえない彼の挨拶に僕は思念波を飛ばす。
正確には思念ではなく電磁波の一種で、僕の体内に流れる電流が彼の脳波をジャックしている。
その気になれば僕は生物兵器として世界を恐怖に貶める事も可能とするポテンシャルを秘めてさえいた。
この力が生れつきのものなのか、後から弄くられたものなのか。
何れにしても僕はこの世界に居るべきではない存在の一つとして、あらゆる世界から隔離されている。
「それは良かった。親愛なる友が病魔に伏せるのは私としても心が痛いからね――今日も視るかい?」
――頼む。
御安い御用だよ、と言ってのけながら彼は手馴れた動作でサングラスを外す。
露わになった双眸は初めから閉じられていた。
閉ざした世界が開かれ、僕の眼前に僕が写る。
濃いとも薄いとも言えない緑色の培養液の中で、揺らめく闇と群青色の被毛が踊っていた。
彼と同じく全身を闇に染め、顔から腹下は海が広がり、長く伸びた尾の先には綺羅星が輝いている。
小宇宙の如き様相が培養槽の中で身動ぎもせず、静かに時を刻んでいるのを、彼の目を通じて認識できた。
それは紛れも無い僕であり、同時に僕で無い、一匹の獅子が、牝が、そこに在った。
「どんな気分だい?」
――気持ち悪い、の一言に尽きるな。何度視ても僕の身体とは思えない。
「まぁそうだろうね。君の身体は牝だけれど、君の心は――牡だものね。否、どちらでも在り、どちらでも無いと言うべきなのかな?」
――僕は牡だ。牝なのは僕じゃない方、あっちの方だ。
意思の指呼に呼応するようにごぼり、と槽内の僕が気泡を吐いた。
「君でない方の、人格かい?」
――それ以外に誰が居る。
「解せないね。全く解せない。あれが君の別の人格と云うなら今の君は何処に在るんだろうね」
――それを考えるのが御前達の仕事だろう。
違いない、と屈託のない笑みを零しながら彼は呟く。
彼曰く、僕が脳波へのジャックを可能としても人格そのものを移し変える事は不可能に近いと云う。
そんな事が可能であれば僕は魂の依り代を必要としないばかりか、あらゆる精神体を押し退けて肉体を支配せしめるだろう。
それは生物兵器として究極的といってもいい。滅ぼせない兵器等、最早兵器に非ず化物以外の何物でもない。
飽くまで僕が見ている光景は彼が見ている世界の、彼を媒体として通ずる一部分の映像に過ぎぬ。
僕の魂は俄然として目前の僕の身体に縛られた侭、そこに在るはずだと云う。
解離性同一性障害―― Dissociative Identity Disorder――通称 DID、又の名を二重人格、多重人格障害。
性同一性障害―― Gender Identity Disorder――通称 GID、又の名を心の性。
それらが僕を蝕む病魔の名称であるらしい。
だがそれも不確かなもので、少しの寸分が違えば全く別の病気にも成り得るし、そもそもそれらの病名は人間に多く見られる精神的症状だ。
理性よりも本能に従い、自然とともに生きる僕等動物において、精神的な発症を伴う等前例の無いことだった。
寧ろ――誰もそんなことが起こり得る等とは考えもつかぬというのが多くの答えであったろう。
そして前代未聞を巻き起こした僕は忽ちに科学者等の興味を惹いた。
突如に降って沸いた甘露に群がる、白蟻の如く。
結末は想像したくはない。
――御前はどっちなんだ?
「症状について?」
――僕をどうしたいのかを、だ。
「……又盗み聞きしたのか。その能力は私だけに留めて置く様にお願いしたつもりだが」
――奴等に問うてはいない。視る聴くだけならタダだ。
「バレなきゃ何してもいい、か。御立派な精神だ。獣にしておくのが惜しい性格だよ」
――奴等が言っていたぞ。このまま結果を見出せない様なら殺処分も止むを得んとな。
「成程。で、私はどちら側なのかと言う訳だ」
――生物兵器にせよ、治療にせよ、僕は消されるのだろう?
再び眼前の僕が気泡を吐く。
その呼気には僅かに殺意も雑じっていた。
「死に至る病とは」
――絶望。
闇が降りた。
遮断された世界で彼が続けざまに問う。
「その先に何が見える?」
――自由。死に等しく、死よりも死ねぬ。
「三日」
――それ以上は待たん。
靴音も衣擦れも立てずに蠢く闇は表も裏も同じ様に見えた。
凝固した影をすかし見つつ、思念が途切れる瀬戸際に影が吐いた。
「三日過ぎて戻らなければ好きにしろ」
こちらの返答も待たずに影が踏み進むだけで電源は落とされた。
もう何も視えない。
何の音も聴こえない。
三日。
僕は闇だけを胸に眠り続ける。
鎖されたこの世界の中で。
囲われたこの絶望の中で。
影が吐いた闇の中に浸りながら。
古来より人間は意思を反芻する生物であったという。
一を知れば十を知り、十を知れば百を知る。
膨大な叡智を武器に人間は生み落ちてから是までの時間を刻み続けてきた。
そして彼らは頂点に立ち、生物という枠から逸脱し、怪物になった。
怪物になったその時から、怪物は死にたがっていた。
絶望から抜け出す為にあらゆる意思を反芻し、模索させ、そして答えを知った。
知りながらも尚、彼らは絶望していた。
絶望とは死を死ぬ事も出来ぬ、完全なる逃避が不可能である事を指すのだという。
人間が自己という精神を自覚した頃から。
人間が自己という概念そのものに変質した頃から。
怪物になった頃から。
もう何処にも逃げられはしない。
絶望の中で何を見つけようとも。
絶望の外で何を拾い上げようとも。
彼らは永久に死から逃れられぬ。
何処にも抜け道は無い。
何処にも救いは無い。
故に彼らは全てを忘れた。
全てを廃し、全てを滅ぼした。
あらゆる暴虐の限りを尽くし。
あらゆる忘却の限りを尽くしても。
彼らが滅びの道を歩む事は未来永劫訪れぬ。
何処まで彷徨おうが逃げられぬ。
全ては廻りて繰り返す。
怪物と成った存在と。
未だ生物の存在と。
終らない死の輪廻を。
夢から醒める様に意識が芽生えた。
否、夢ではなかった。
それらは全て彼が僕に授けたヒトの言葉で。
呪詛を反芻していたに過ぎない。
僕が得心する為に、彼の言葉を吟味していたに過ぎない。
怪物になりたくない等と、そう思想した時点で。
僕も又、彼らと同じく絶望に囚われた。
「 Hello Dear Friend. 遅い御目覚めだね」
――来るのが遅かったな。約束の日を過ぎ掛けていたぞ。
「ちょっと野暮用でね。でも約束は守っただろう?」
――そうだな、約束は守った。……それで――
首尾はと言い掛けた処で影がかぶりを振る。
交渉は決裂に終ったらしい。
それを確認してから僕は腹の内で覚悟を決めた。
――御前はどっちなんだ。
「答えが必要?」
――無いな。正直どちらでもいい。ドクター、最初で最後の頼みだ。僕等を――
「私と一緒に逃げないか?」
震える声が確固たる意思に中断された。
彼は今、何と言ったのか。
――世迷言か?
「本気だよ」
――何故そこまで拘る?
「ついてくるなら教えてあげるよ」
猜疑心の欠片も無い数秒と掛からぬ二つ返事を僕は呑んだ。
肯くより早く彼はコンソールに指を走らせ、培養槽の中身がパイプを通じて排出されていく。
排水音が一つで無い辺り、他の培養槽も解除を施したらしい。
僕がどう応えようと、端から彼はこうするつもりだったのだろう。
全ての排水が完了し、隔てる透明の壁が取り払われるや槽内の彼等は一斉に出口を求めて飛び出していった。
それを感知したエマージェンシーコールが忽ちにフロアー全体へと響き渡る中、僕と影だけがその場に佇んでいる。
全身に纏わりつく水気を振り払い、空の槽から降りようとして足がもつれ、そのまま影の胸中に落ちた。
毛並に残る細かな水気を黒衣が吸い上げる反面、彼の鼓動と体温がややも冷えた骨身を焼く。
触れ合う箇所から滲んでくる忘れ掛けていた温もりと、外の空気に雑じる影の存在に圧倒されるのみで、直ぐには降ろせと言えもせず、大人しくしている僕を彼は想定内の事と気にも止めず、淡々と耳元で囁いた。
「あまり無茶はしない方がいい。君は他の子と違って浸り過ぎた。一度も外に出た事は疎か訓練だって積んでいないだろう。それに君の身体はあまりにも小さい。こうして僕の胸中に納まりきる程に、ね」
そしてこれ以上大きくなる事も無いだろう、と影は告げた。
確かに記憶に残る同族の成獣は今の自分よりも遥かに大きかった。その一つ前の成長段階ですら今の自分は小さいかもしれない。
「こうして抱えたり間近で観察してふと思うよ。君に残る半分は何処に行ったんだろう、とね」
見え隠れする好奇心は探求者としての性なのだろう。
全長のみならず体重の半分も割かれているらしく、影は僕を降ろす事無くそのまま脱走した皆とは別の出口へと歩を進めていく。
果ての見えぬ長い廊下は緊急事態を知らせるベルと混乱を綯交ぜに赤く暗く鳴動していたが、不意に夜の帳が視界を遮った。
君は目立つからと影が黒衣を被せたのである。もとより影の胸元しか前面に映らなかったが、被される事で僕は完全に周囲の状況から切り離された。
それが果たしてただの配慮であったのかどうか。
彼に抱き止められた時から僅かに香るその臭みは恐らく全ての悪臭の中に置いても郡を抜く。
それと同じ臭いが辺りに満ちていたのを僕の鼻は確と捉えていた。
影の真意が図れない事も相まって、断定的な問い掛けが内から零れた。
――何人殺した。
「さてね。私が直接手を下したのではないとしても、この惨劇を引き起こしたのは紛れも無く私だからな。ざっと十の桁。確実な数ならば三人」
――反逆罪は死罪だろう。
「全くだ。だからさっさと逃げないとね。それにここは一定の緊急レヴェルに達すると研究者もろともウィルスによる殺処分が施される。その中に私と君の遺体が無いと判れば、奴等は血眼で私等を追ってくるだろうな」
その為の三人、か。
三日の間を持たせたのも、彼の上役に値する立場の者か彼についての詳細を知る者の始末、そして僕等に関するあらゆる情報の抹殺を遂行しなければならない。
全ては僕の我侭に応える為に、だ。
解らない。何が彼をそうさせるのかも、僕等に固執するのかも。
後で答えると宣したからには必ず彼の口からそれは出るだろうが、確たる保証等何処にも無い。
止め処無く膨らみ続ける不安が胸の奥で爆発しそうになるのを、自由への期待と、最善であれと願う希望的観測で押し返す。
全てを投げ打って僕等を抱く影の決意に、僕等はただ流されていくだけだ。
――逃げ切れるのだろうか。
「その為の手は打った。然しながら完全にとは言えないだろうね。私は怪物を三人殺したけれど――暫くすれば又同じ怪物が現れる」
――そうじゃない。
「では何から?」
僕は応えなかった。
影がどれだけ待っても、外の世界に躍り出ても。
嗅いだ事の無い空気や寒気に身を震わせても。
騒音の中に揉まれ疾風を駆けても。
如何程の時間と距離を稼いでも。
僕は影に応えなかった。
応えられるはずがなかった。
果ての見えぬ水面の上で波が踊り、揺蕩う小船の船室に朝日が射し込む。
それでも室内は未だ、昏かった。
内に広がる絶望は目に映る辺りの世界を悉く曇らせる。
蒼穹の色は大海原を写したものと言う答えがあると、舵を取る影が傍らで耳を欹てる僕に独り呟く。
彼に言わせればその答えはあまりにもナンセンスで、一個人として得心のつくものではないらしい。
曰く。
雲間を抜け、大空の先に広がる暗黒の世界。それも又一つの人間であり生物であり怪物であるという。
彼も僕等もそうした大いなる存在から見れば体内を流動する血液と同じであり、そして同じ意味が僕等の中に在る。
細胞は夢を視る。数多の細胞に意思が宿っている。
各々の意思が色彩を夢想し、鬩ぎ合い、零から一までの無限の数字が螺旋を創る。
生きとし生けるもの全てがそうした存在で、その中における真実に魅入られたのが彼ことヒトの一部。
ヒトはその真実よりある物を盗み出した。
零から、一に為ろうとした。
ひとつに、為ろうとした。
戒めの言葉として、又存在の誇示として、ひとつから盗んだ言葉からヒトと為った。
「まるで絶望と同じだ。君もそう思うだろう」
同意を求めてではなく諦観を告白する言葉で、影は僕の応えを待たずにそのまま続けた。
僕もそれについては特に気にも止めないばかりか、応えられない理由を残していたので、大人しく影が吐露する言葉を反芻し、飲み込み、人の理と精神を模倣していく。
それは発見と期待と失望を同時に色付けた。
彼の言葉を鵜呑みにすれば、生物は初めから複数の意思があって当然だという。
主張する声が二重多重に聴こえるからこその現象で、個という概念に捉われるからこそ、病気だの何だのとこじつけているに過ぎない。
優しくなれるのも、厳しくなれるのも、悲しくなれるのも、楽しくなれるのも。
そうした複数の意思が見せる色彩であるのに、同じ性質が二つ以上あるというそれだけの事で人間は病気になる。
そんな風に、彼は僕等の抱えるそれを否定している様にしか聴こえなかった。
とても僕等を治療しようと躍起になっていた者がいう言葉とは思えない。
彼なりの治療方法なのか、それとも端から彼はそういう魂胆ではなかったとでも言うのだろうか。
解らない侭、脱走から早三ヶ月が過ぎた。
季節は冬への転化を迎えようとするが、目前に広がる景色は僕等の心と同じで何一つとて変わらない。
実に緩やかな変化の流れともすれば一見不変的な錯覚を覚えもする。その内に起きた変化を除けば、だが。
あれから僕は彼との会話を一言も発していない。
否、正確には会話をする事が出来なくなっていたというべきか。
あの研究所がたまたま磁場の強まる一種のパワースポットであったのか、海上の相性か、何れにしても原因は不明だが僕の電磁波によるジャックはその日を境に機能しなくなっていた。
そんな僕の変調に対する彼はといえば以前と変わりなく、僕に語り掛ける度に独り言を洩らしている。
寧ろこの状況を好ましく思わなかったのは僕の方であったのかもしれない。
それまで滞りなく出来ていたものが、突然出来なくなる事がこれほどに不便だとは思いもしなかった。
自由を代償に得た物はあまりにも大きく、彼との意思の疎通が出来ないというたったそれだけの事が如何し様も無い位に歯痒く、もどかしい。然しながらその裏では何処かで奇妙な安堵を感じてもいる。
それが何であるのかを僕は知っていたが、正直を言えば忘れてしまいたい。
影からの言葉に対する僕の反応は肯く也鳴く也、そうした簡単な意思の疎通の程度を図る事はできたし、普通ならばそれで充分なんだろう。
けれど僕は知ってしまった。彼との会話によって得られる充足感というものを。
満たされていたという自分自身を。
再び繋がりたいという勝手な望みを抱く反面、後に追求される事の怯えに、僕は理想とした自由とは違う現状を呪った。
訊かれなかったから応えない。
そんな状況が果たして何時まで、この先に続いているのだろうか。
零から一を辿っているのか。途中で逸れてひとつとなるのか。
纏まらない思考の海に溺れ、二重の螺旋が内部で渦を巻き、苛立ちを募らせる。
平たく言えば気分が悪い。身体に掛かる重力の負荷が何倍ものに膨れ上がっている気さえする。
この身体の操作にも大分慣れたものと思っていたが、肉体と精神の調和は相変わらずで、一旦狂うと元に戻るのに時間を要する。
今回のそれは普段よりも酷く、正直立ち続けるのも苦痛だった。もう少し彼の言葉を拾いたい処ではあるけれど、甲板の上で倒れて彼の手を煩わせる訳にもいかない。
そんな様子を汲み取ったのか、影はまだ途中であるはずの会話を自ら切り上げた。
何も喋っていないのにそういう処は気が利くというか、何でも見通している様な観察眼が少しばかり癪だったが、素直に好意と受け取って船底の奥へと引き下がる。
相当参っていたのか、自分の寝床に敷かれた毛布の上に寝そべるや直様両の手でそれを捏ね始めた。不安な時はこうしていると不思議と落ち着くのだが、どうにもなかなかそういう気分になれない。
無性にざわつくというか、時折背筋を走る不快感が安らぎを妨げている。毛並を逆撫でされている様な感覚があまりにも気持ち悪く、過剰気味な反応が吐息に篭っているのが分かる。半ば自棄気味だったかもしれない。
強引にでも寝入ろうと夢と現を行き来するにつれて再び苛立ちが募り始め、気だるさはそのままに眠気が苛立ちと入れ替わりそうになる直前で中断した。
やり場の無い怒りを何処にぶつけようかと思考を廻らせると、何故か彼の顔が浮かんだ。
反射的に直ぐ傍らの彼の寝床を見る。彼はまだ操舵中の様である。
あんまりこういう事はしたくないのだけれど、非常事態なのだから止むを得ない。彼の身より自分の安否である。少しばかりは彼にもこの気持ちを背負って貰った処で罰は当たるまい、と即決即断を実行する。
自分の毛布を咥え、そのまま彼の寝床にそろりそろりと足を踏み入れ、シーツの合間に毛布ごと潜る。
何処も彼処も潮の臭いで満ちているためか、鼻腔に広がる彼の匂いが新鮮かつ濃厚に感じられ、何時かの時を思い出した。
力強い抱擁と、確かな匂いと、何処までも昏い宵闇の鼓動。
あの時の様にまた抱きしめてはくれまいかと。翳り往く不安ごと僕等を呑み込んではくれまいかと。
過ぎ去った虚像に幻想を抱く自分を恥ずかしいとも情けないとも悲しいとも思う。
けれど――今だけは。
今だけは女々しい自分で居てもいい。
誰も、僕等を見ていないのだから。
この空間には僕等しか、居ないのだから。
培養槽から広がる歪んだ世界。
夢より広がる果て無き世界。
現に広がる無知なる世界。
その次に広がる世界は幻か。
夢である事は一目で理解できた。寧ろ夢でない方が説明がつかない現象が彼方此方に広がっている。
以前に彼が教えてくれた言葉を借りれば、不定期に煌きを放つそれ等の世界を“星の海”と呼ぶのだったか。
しかしそれは天上の世界であり地上に広がる世界ではない。にも拘らず僕等は星の海の中枢で、煌きと深淵に囲まれ、地に足をつけて立っている。
そもそも地とさえも呼べるのかどうか。より正確さを表現するなら浮いているというべきだろうし、場違いという意味でもその空間内で違和感を醸し出しているのは間違いなく僕等の方だろう。
まぁ兎も角、夢の世界である。
最後に見たのが培養槽の中での出来事だとすれば、実に久しい感覚だ。尤も暗黒以外の色彩が無い世界を夢と称するのかは甚だ疑問が残る処かもしれないが……。
見たもの全てが夢に反映されるのであれば、あれも無知さ故の世界といえるだろうし、見聞を広めたが故のこの世界ともいえる。
夢が色彩を伴うのも前例の無い体験であるばかりか、現実味を帯びた事で前々からあった浮遊感が急に恐ろしい物に感じる。地に足が着かない感覚が本当はとても危険な感覚である事に気付いてしまうと、とても以前の様には振舞えないし、心が安らげるはずもない。
天地の区別が現実と夢の区別を裏付けるのか。
何も無い世界が夢で、何かしら在るのが幻なのか。
否、そんな区別は今はどうでもいい。この状態から脱する事が今の僕等に置ける優先順位のはずであり、更にそれに従うならば――彼の姿を確認する事である。
前方を見ても左右を見ても、ふよふよと漂う浮遊感にじたばたと抗いながら後方を見ても。
彼の姿は何処にも在りはしなかった。その事実が急速に僕等を心細くさせる。
孤独を感じる訳ではない。不本意にも僕の身体にはもう一匹の、別の僕が潜んでいるのだから。
心の中に何かしかの違和感を感じる。異質的なものを感じる。
しかしそれが敵か味方かで言えば、僕が一方的に敵視しているだけであって、本当はそれがちゃんと在るものなのかも判っていない。
けれど無性に落ち着かないのだ。その、よく判らない何かが。
それが在るうちは孤独だと感じる事は無いのだけれども。無いのだけれども。
それは一匹(一人)では無いというだけであって、独りで無いという事にはならない。
彼という“味方”が居ない今、僕は独りである事の孤独感を感じている。
彼が傍らに着いた頃から、僕は彼に依存してしまっている。
するが故にこの世界が耐えられない。居続ける事に堪えられない
ここは。この世界は。彼が居ないこの世界は。
彼との“死後の世界”そのものなのだから。
死別による喪失感。
死に殺される絶望。
そんな本質から逃げたくて。
彼の手で殺される事を僕は望み、彼の息一つで灯火を消される事を望んだ。
だが彼はそれを先延ばしにした。
僕の言葉を
あの時、彼よりも早く言葉を吐けていたならば、こんな世界を見る事も無かった。
絶望を更に知る事も無かった。
何よりも彼に僕の言葉がもう届く事は無いのだという現実が、僕の心を重くする。
届かない思いは更に捩れ、捩れて捩れて絡みついて。
そしてこの世界に帰結する。
この世界で、僕は独りきりになる。
考え過ぎかもしれない。実際そうなのだろう。
だがそれを教えてくれたのは彼だ。
彼が悪い訳じゃあない。ただ彼に魅せられた僕が悪いだけの話だ。
本当に歪んでいるのは僕なのだ。この身体の本当の持ち主は僕ではなく、別の僕の物なのかもしれないのだから。
何れ消える、消滅するという運命を僕が認めなかったばかりに、僕等は二つに分裂してしまったのかもしれないのだから。
人間が怪物だというのなら、僕もまたそのひとつであるのは明白なのだ。
人間の基準で物事を考える。それだけで既に“僕”に相応しくないではないか。
僕の中にある彼女こそが“真実”ではないか。
嗚呼、嗚呼、嗚呼。
何故、彼方は僕をこんな処まで連れてきたのか。
何故、彼女は僕に何も言ってくれないのか。
何故、何故、何故。
何故、僕は消滅する事ができないのか。
一体僕は何処まで堕ちていくのだろう――否、落ちている。
いつの間にか、落ちている。
浮遊感は消滅し、落下感だけが僕を包んでいる。
いつからそうなったかは問題じゃない。
今、落ちている事。
即ちそれは――地に落ちる事。
落ちて。
全身を叩き付けられて。
四肢が四散して。
粉々に――
――なりはしなかった。
視界を埋め尽くさんばかりの星はもう何処にも見えず、暗いだけの空間がそこにあった。
正真正銘、地に落ちた。彼の寝所から落下したのだ。それも寝惚けてだ。恥じる気持ちよりも、落下の衝撃をもろに吸収した部位が痛覚を通じて現実だという認識を処理させる。
手も足もちゃんとある。しかし心の方がばらばらになりかけていた。とても嫌な夢で。夢でよかった等とも思えない。所詮は夢だろうとも片付けられない。
あれは遠くない未来の話であるのだから。
夢ではなく、幻なのだから。
そう思うと再び恐怖が全身を包む。せめて思い出さない様にしようと、僕は絡んだ侭の毛布から抜け出る出口を探した。
出口の先で、目が合った。
いつからそこに居たのか。
いつからそこで見ていたのか。
椅子の背凭れを前に枕代わりの両手を組み。
本来の寝床では無い場所で眠る僕を観察して。
毛布ごと寝床から落ちて這いずり出てきた僕へ、彼は――
「 Hello Dear Friend. 怖い夢でも見たかい?」
以前と変わらないその笑みに、僕は返す言葉を忘れた。
そういえば僕は電気を操れる、というのを僕は是まで全く説明に入れていなかった。それらしい部分を仄めかしたりはしたけれど、そんなぼやかしで自分が何者であるかを語っている事にはならない。
だから今更、本当に今更なのだけれど、僕は電気を操る事が出来る。操るということは電気そのものを支配している、という心像を多くの者が抱いている事だろう。
だがそれは正しくもあれば間違いでもある。否、間違っているのだからそれはちゃんと正すべきだろう。僕という個体を正確に認識して貰う為にも、はっきりと答えるべきである。
確かに僕は電気を操れるが電気そのものではないので、耐性はあっても無力化ができる訳ではない。自分よりも強い性質に当たれば感電するし、可能性としては低いが死ぬ事もあるだろう。
だから彼が僕に触れる事で(漏電していない事と、意図的に放電しなければ)即感電する等ということはないし、僕が海に落ちて身体が四散してしまうなんて事も起こらない。
普通の生物と同じで、普通に彼と接する事ができる。
“普通”であれば僕は何の問題も無いという事を概ね理解して貰った上で、今の状況を説明もとい整理したいと思う。
「君の友人として。君を保護する者として。君に与する者として。君が好む者として」
「そして君の無知を露呈する事は私の責任でもあり、君の健康を阻害する事は私の失態でもあり、君の未来を覆う事は私の失語でもある」
「だから今君の身に起きている事を私は余す事無く解説し、その解方を実践し、解答へ導く事にしよう」
「さて、君は今、私に頭と頬を撫でられている。頬の髭の付け根を軽く指圧されているのが解るね」
「今、君はそこを指圧される事で身体中から、全身から力が脱け出していく感覚に虜になっている」
「次に両目の上。それから顎の下だ。先と同じ様な感覚、或いはそれ以上が君の内部を駆けているはずだ」
「何、驚く事は無いよ。是は君特有の生理的な反応ではない。強いて言うならば君達の生態全体における共通の性感帯さ」
「猫の髭は神経が通っているからね。君は無意識故に気付かないかもしれないが、例えば僕が掌を差し出すと君は髭を触覚代わりにしてそれが何であるかを確かめようとする。だからこうしてちょっぴり強めに押えられると――君は動けなくなる」
「でもその前に解説するべきものがもう一つあったか。否、忘れていた訳じゃないよ。ただ前後が入れ替わってしまっただけの事だし、それにこうして身体に刻まれる事でどういう原理かも理解はし易くなったろう?」
「先ずは君の身体に表れている症状を代弁しようか」
「最近全身が重かったり気だるさ等を感じたりしなかったかな。身体がとても熱かったり、感覚が鋭敏に研ぎ澄まされたり、呼吸も不定期で荒くなったり、そうはならなかったかな」
「嗚呼、そんな不安そうな目をしなくていい。私的にはそんな蕩けた目をするなとも言いたい処なのだが、それは酷と言うものか。おっと話が逸れたね。気にしないでくれ」
「君の身体に表れているその症状は病気ではないよ。どの生物にもある周期的なもので、そうだな。人間はそれを発情期と呼んでいる」
「君達の生態だと大体三ヶ月を目処に発情するが、尤も多く見られるのは初冬から初春、晩春から晩夏の辺りだ。発情期を迎えると子孫を残す為にパートナーを求める。当然残すからには優れた遺伝子を持つ者、強い個体が適任で、弱い個体は淘汰される。まぁ例外もあるにはあるだろうがね」
「もう解っただろう。君の身体に表れている症状の意味も。君の意思を揺さぶる本能の意味も」
「では問題だ。君はパートナーを求めているが、君の周りに同じ仲間は居ない。そして君の意思は本能に抗い己を律しようと努めてもいる。その意思たるや素晴らしく、高貴であり高潔な人を思わせるよ。だがそれを維持するには君の身体では些か荷が重い」
「仮に君が獣ではなく人の肉体であったならば、衝動的なその鬩ぎを処理する方法も、私の目が及ばぬ場を造る事も自ずと学んだだろう」
「はっきり言おうか? 私は君の意思を尊重して君を人間と認めはしよう。だが君の器に科された規律が君を縛り付ける。人は人らしく、獣は獣らしく振舞わねばならぬのがこの世の規則であり秩序である。それを破る者は生物から淘汰される。意思ではなく、生命そのものがだ」
「だから私が君に施す事は人のそれでしかないし、君が私に施す事は獣のそれでしかない」
「異種同士が交わるという事はそういうものを取り払わねば成立し得ないという事を、よく理解した上で選択したまえ」
「もう、流されるのには飽いた頃だろう?」
「……ふむ。容易に横倒しにされ、腹を上にしても抵抗しないのは、君に拒む意思が無いという事を容認する行為だが?」
「そうやって何でも他者を信じるのは好くないな。私だから好いという判断基準も今は捨てたまえ。君だけの身体ではないという事をちゃんと理解しているのかね?」
「……やれやれ。仕方が無い子だ。そんな風に蕩けた目で私を見つめられても困るとさっき吐いたばかりだろうに」
「拒むべき道を見誤らない事だ。自身を確と保て。拒む方法は君に任せるが……くれぐれも私が感電死を起こす様な、そんな痛ましい事件は起こさないでくれよ。死を免れたとしても明晩まで意識を失わせるのも勘弁願いたい処だが、流石に私も人間を相手にするこそはあれど、獣を相手取った事は無いのでな。お互い勝手が判らん上での手探り勝負になる以上そこは御相子か」
「……返事は?」
「よろしい」
「では……始めようか」
戯言
先週
「木曜日になったら本気出す」
『今日木曜日(既に正午)ですよ』
「えっ」
『えっ』
今週
「木曜日だから本気出す」
『木曜日明日ですよ』
「えっ」
『えっ』
自分だけ時間の流れ方が違うんじゃないかと疑い始めてきた今日此の頃。
私のこれまでの作品を読んでらっしゃる方は既にお気づきかもしれませんが、私の書く小説は極端に台詞が少なく、地の文で埋め尽くされています。
最悪台詞が存在しない小説を書くのではないかという位に台詞を活用しません。
是はいけない、と自分の悪癖を改善する為に台詞を乱用してみた結果。
台詞が地の文化した。な、何を言っているのか(ry
最新の10件を表示しています。 コメントページを参照